2013年11月26日火曜日

332 信仰が第一 11/23

エイソン・コメンツ 第332回 (2013年11月23日)

     ルフェーブル大司教(だいしきょう)(1905-1991年)が聴く耳(きく みみ)を持(も)つカトリック教徒に教(おし)えた最大の教訓(さいだいの きょうくん)は,信仰(しんこう)は従順(じゅうじゅん)より高位(こうい)だということです( "The great lesson taught by Archbishop Lefebvre (1905-1991) to Catholics who had ears to hear was that the Faith is higher than obedience." ).その後,私たちが学(まな)んだ悲しい教訓(かなしい きょうくん)は従順が信仰より高位だと評価(ひょうか)され続(つづ)けていることです( "The sad lesson we have learned since is that obedience keeps on being rated higher than the Faith." ). (私は)これまで今日(こんにち)の教会,世界,聖ピオ十世会( "the Soceity of St Pius X" = SSPX )に見られる混乱状況(こんらん じょうきょう)が基本(きほん)に立ち戻(たちもど)って欲(ほ)しいとの願(ねが)いに駆(か)られて,このエレイソン・コメンツを書いてきましたが( "These “Comments”, driven continually by today’s confusion in Church, world and Society of St Pius X to get back to basics, …" ),その中(なか)で,信仰が第一(しんこうが だいいち)である理由(りゆう)を説明(せつめい)しようと何度(なんど)も試(こころ)みてきました( "… have often attempted to explain why the Faith must come first." ).

     ここでは,ある高名(こうめい)な SSPX の司祭が最近私宛(あ)てに送ってくださったEメールを例(れい)として取り上(とりあ)げます( "Take for instance the arguments of an honourable SSPX priest who recently sent me an e-mail, …" ).彼は私が SSPX の現状(げんじょう)を間違(まちが)って評価(ひょうか)していると非難(ひなん)しています( "… accusing me of wrongly assessing the present state of the SSPX. " ).彼によると,私が新協会(しんきょうかい)( "the Newsociety" )と呼(よ)ぶものに対して抵抗(ていこう)しているのは( "My resistance to the – as I call it – Newsociety is, he says, …" )(1)あまりにも個人的(こじんてき)な動機(どうき)に根差(ねざ)している( " 1) too personally motivated, …" ),(2)教会の利益優先(りえき ゆうせん)を忘(わす)れている( " 2) forgetting the good of the Church, …" ),(3)私が以前(いぜん)に取(と)っていた立場(たちば)と矛盾(むじゅん)している( " 3) inconsistent with positions I have taken before, …" ),(4)カトリック教の現実味(げんじつみ)を欠(か)いている( " 4) lacking Catholic realism, …,(5)教会の無謬性(むびゅうせい)に反(はん)している( " 5) against Church indefectibility, …" )(訳注後記1),(6)人(ひと)それぞれが教皇のあるべき姿(すがた)を抱(いだ)くよう勧(すす)めている( " 6) for each man being his own Pope, …" ),(7)教会の現代主義的(げんだいしゅぎてき)ビジョンを擁護(ようご)している( " 7) for a modernist vision of the Church, …" )(訳注後記2),(8)プロテスタント的である( " 8) Protestant, …" ),(9)ローマ教皇庁との結束(けっそく)に反対(はんたい)している,そして最後(さいご)に( " 9) against union with Rome, and finally …" )(10)人々の霊魂(れいこん)を教会から引き離(ひきはな)している,というのです( " 10) pushing souls away from the Church. " ).

     さて,私はルフェーブル大司教ではありませんし,大司教のふりをするつもりもありません( "Now, I am no Archbishop Lefebvre, and I do not pretend to be, …" ).だが,私の( SSPX の)同僚(どうりょう)は,この批判(ひはん)すべて(3番目を除〈のぞ〉き)を30年前ローマの公式教会当局者に抵抗したルフェーブル大司教に対して向けていることになるのをお気づきなのでしょうか?( "… but does my colleague realize that all of these arguments (except the third) he could have applied thirty years ago to the Archbishop’s resistance to the official Church authorities in Rome ? " ) 当時ルフェーブル大司教が抵抗したのは( "Yet the Archbishop’s resistance was …" )(1)信仰を擁護(ようご)する緊急(きんきゅう)の必要性(ひつようせい)に駆(か)られたため( "1) motivated only by the urgent need to defend the Faith, …" ),(2)普遍的教会(ふへんてき きょうかい)( "the Universal Church" )のために行(おこな)った( " 2) for the good of the Universal Church, …" ),(4)完全に現実的(かんぜんに げんじつてき)な方法(ほうほう)だった(大司教が設立した SSPX でのカトリック教の成果(せいか)がそれを実証〈じっしょう〉している)( "4) in a completely realistic way (as the Catholic fruits of his Society proved), …" ),(5)大司教の抵抗こそが,教会の無謬性〈むびゅうせい〉に対し,その反証(はんしょう)ではなく,それを立証(りっしょう)するものとなっている,( "… 5) not disproving but proving, by his very resistance, the Church’s indefectibility, …" )(訳注後記3) (6)あらゆる時代(じだい)の教会(きょうかい)( "the Church of all time" )( "6) for the Church of all time being the measure of the Popes, …" )が歴代教皇(れきだい きょうこう)のあるべき姿(すがた)の基準(きじゅん)である(訳注後記4),(7)新近代主義(しん きんだいしゅぎ)のあらゆる狂気(きょうき)に反対している( "7) against all craziness of neo-modernism, …" ),(8)近代主義(きんだい しゅぎ)によるプロテスタント主義(しゅぎ)の再生(さいせい)に反対している( "8) against modernism’s renewal of Protestantism, …" ),(9)ローマ教皇庁との結束(けっそく)につねに賛成してきた,そして最後に( "9) for union with the Catholic Rome of all time, and finally …" )(10)多くの真(まこと・しん)のカトリック教徒の霊魂(れいこん)が信仰を失(うしな)わず守り続(まもりつづ)けるよう手助(てだす)けしてきた - というのが事実(じじつ)です( "10) helping many truly Catholic souls to keep the Faith instead of losing it." ).

     当時(とうじ),なにがルフェーブル大司教の抵抗(ていこう)を正当化(せいとうか)したのでしょうか?( "And what justified the Archbishop’s resistance back then ? " ) 当時,大司教が外見ではそう見えたかもしれないルーター "Luther" のような反逆者(はんぎゃくしゃ)ではなく,真のカトリック教徒,教会の偉大(いだい)な僕(しもべ)だったことを証明したのは何だったのでしょうか?( "What proved then that he was not, despite the appearances, a rebel like Luther, but truly Catholic, and a great servant of the Church? " )それは,彼の教理(きょうり),教理,教理です!( "His doctrine, his doctrine, his doctrine ! " ) ルーターはカトリック教の多くの教えを否定(ひてい)しましたが,ルフェーブル大司教はそのすべてを肯定(こうてい)しました( "Whereas Luther denied a mass of Catholic teachings, the Archbishop affirmed every one of them." ).大司教が,恐(おそ)るべき近代主義(きんだいしゅぎ)の諸々(もろもろ)の誤(あやま)りを繰り返し(くりかえし)取り入れることで教理を徹底的(てっていてき)に台無し(だいなし)にした歴代(れきだい)の公会議派教皇や教会当局者たちに反対し抵抗の姿勢(しせい)を取ったのは(カトリック)信仰の教理(しんこう の きょうり)の名の下(な の もと)に行(おこな)ったことです( "It was in the name of the doctrine of the Faith that the Archbishop took his stand against the Conciliar Popes and Church authorities who were radically undermining that doctrine by renewing and adopting the dreadful errors of modernism." ) .

     では現在(げんざい),なにが SSPX 指導部に対する抵抗を正当化しているのでしょうか?( "So what justifies now a certain resistance to the leadership of the SSPX ? " )抵抗者たちこそが SSPX の忠実な僕(ちゅうじつな しもべ)だと言えるのはどうしてでしょうか?( "How can those who resist claim to be the truest servants of the SSPX ? " ) それは,教理(きょうり),教理,教理です!( "Doctrine, doctrine, doctrine ! " ) 2012年4月中旬に SSPX が発表した宣言(せんげん)は,同会の上層部(じょうそうぶ)が持つ恐(おそ)るべき教理上の欠陥(きょうりじょうの けっかん)を証明(しょうめい)しています( "The mid-April Declaration of 2012 was proof of an appalling doctrinal deficiency at the top of the SSPX, …" ).宣言自体(じたい)は撤回(てっかい)されましたが( "… and while the Declaration was withdrawn, …" ),その中身は例(たと)えば「きわめて微妙(びみょう)」との理由(りゆう)で撤回されるどころか,むしろ擁護(ようご)さえされています!( "… its contents have not been retracted but even defended, as being for instance “too subtle” ! " ) それに,2012年7月14日,2013年6月27日に発表された SSPX の公式文書(こうしき ぶんしょ)は,同宣言がもたらした損害(そんがい)をきちんと清算(せいさん)していません( "Nor have the official SSPX documents of July 14, 2012 or June 27, 2013 properly undone the damage. " ).このことは, SSPX 本部の運営方針(うんえい ほうしん)がなにも変(か)わっていないことを証明しています( "The proof is that the governing policy of SSPX HQ has not changed. " ).親愛なる同僚(しんあいなる どうりょう)にお伝(つた)えします( "Dear colleague" ).あなたの SSPX は見かけの従順(じゅうじゅん)より信仰を大事にする考えに基(もと)づいて設立されました( "Dear colleague, your own Society was founded on putting Faith before apparent obedience, …" ).それなのに今,あなたは信仰より見かけの従順を大事にすることで SSPX を擁護しようとお望みなのでしょうか?( "… and now you want to defend that Society by putting apparent obedience to the Society before the Faith ? " ) SSPXの諸文書を検討(けんとう)し,その行動(こうどう)を観察(かんさつ)してください!( "Study the documents, and watch the actions ! " )

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教

     追記:エレイソン・コメンツ( EC )第100回直後からだったとおもいますが,どなたか EC のスペイン語,フランス語訳全編(ぜんぺん)をお持ちの方がいらっしゃるでしょうか? もしおられたらご連絡(れんらく)ください. ( "P.S. Meanwhile does anybody have a complete set of Spanish or French translations of this “Commentary” from when they began to appear, in the early EC 100’s ? Please let us know." )



* * *


第2パラグラフの訳注1

・「無謬性(むびゅうせい)」=あやまり〈=謬り=誤り〉のないこと.
・「謬り〈=誤り〉」の意味は,「正〈ただ〉しくないこと」・「失敗〈しっぱい〉・「正しくない行為〈こうい〉」


第2パラグラフの訳注2

・「擁護(ようご)」=危害〈きがい〉・破壊〈はかい〉を加えようとするものから,かばいまもる〈庇い護る〉こと.


第3パラグラフの訳注3

「教会の無謬性(きょうかいのむびゅうせい)」につき,証拠しょうこ)を挙(あ)げてそれを否定〈ひてい〉した〈=反証〈はんしょう〉〉のではなくて,〈「教会の無謬性」〈すなわち,「教会に誤(あやま)りがないこと」につき〉,証拠〈しょうこ〉を挙〈あ〉げてその正〈ただ〉しさを明〈あき〉らかにした〈=立証〈りっしょう〉〉.


第3パラグラフの訳注4

神がそうであられるように,永遠に変わることのない真実(しんじつ)・唯一(ゆいいつ)・永遠不変(えいえん)の教会が,歴代教皇のあるべき姿の基準(きじゅん)である, 「わたしは道であり,真理であり,命である.わたしによらなければ誰も父のみもとに行くことはできない.」

* * *

(説明)

・良心は個人的に問われるもの.「良心の声に従わなかった」ことを他人のせいにはできない.神の裁(さば)きの時には,人間は誰でも,自分一人で責任を取らされることになる.たとえ真の神を心で信仰していないとしても,不正義を行った人は,正しくお裁きになる神から罰を被(こうむ)ることになる.

・人間は肉体と霊魂を有するが,同じく肉体をとられ地上で人間としての生涯(しょうがい)を過ごされた霊たる神(=三位一体〈さんみいったい〉の神の第二の位格〈ペルソナ Persona 〉=イエズス・キリスト)を通(つう)じなければ,霊であられる永遠の神(私たちの天の御父)の御国に入(はい)ることはできない.

・人間は,地上では肉体上の事しかわからないが,この地上に生きている間に,「人間は,目に見えない正しい神の霊から創造され,この世に生まれてきた」ということを知って,それを信じなければならない.

・もしそれを信じることができなければ,その人の霊魂は,創造主たる神の正義も愛も命も信じられない,ということになり,地上で肉体が死ねば,その霊魂は天の御父たる永遠の神の御国に入る祝福を得ることができない.万物の創造主たる神の正義(せいぎ)に従(したが)うことを拒否(きょひ)したのだから当然の成り行き(とうぜんのなりゆき)である.

・不完全で無知(ふかんぜんで むち)な人間の限界(げんかい)ある価値観(かちかん)で,「なにも知らなくても,なにもわからなくても,なるようになる」と簡単(かんたん)に思って済(す)ませるのは間違(まちが)いで, ①「神の正義(かみの せいぎ)」と「人間の正義(にんげんの せいぎ)」とでは全(まった)く異(こと)なるということを,人生(じんせい)の様々(さまざま)な出来事(できごと)・体験(たいけん)を通(つう)じて知り,学ぶ(しり・まなぶ)必要(ひつよう)がある.

②そのために,霊魂は肉体をとって生まれ,不完全(ふかんぜん)で不足(ふそく)だらけのこの地上で,喜び・悲しみ(よろこび・かなしみ)・希望・失望(きぼう・しつぼう)を体験し,そうして神の正義・慈愛(かみの せいぎ・じあい)を実感(じっかん)する.

③人間以外の神の被造物(=神に創造された大宇宙・自然界の諸存在〈鉱物・動植物〉)は,全て神の摂理(かみの せつり)のもと,神の御心のままに存在している.
・人間だけが神に与えられた自由意志によって,その自由意志を神の御心に沿(そ)って使用せずに,神に逆(さか)らい自(みずか)らの我欲(がよく)を満(み)たすために暴走(ぼうそう)している.

・神の摂理(=真理・正義)に従った宇宙・自然界の法則が乱(みだ)されれば,その反作用(はんさよう)(=反発)を招(まね)いて,宇宙・自然界で大災害(だいさいがい)が起こるのは自明の理(じめいの り)である.

・人間の生命(にんげんの せいめい)は神が完全に管理(かんり)しておられ,人間がそれを支配(しはい)したり管理することはできない.人間が人間の生命を支配し管理すれば,必ず自(みずか)らの身に全能者たる神の呪(のろ)いを招(まね)く. ・真の神に逆(さか)らってこの世を支配しようとする者は,神の摂理に逆らうことで必然的に自(みずか)らの心身に神の呪(のろ)いと災(わざわ)いを招(まね)くことになる.

・神が人間を罰(ばっ)するというより,人間の罪深い行い(つみふかい おこない)が神のお定(さだ)めになった宇宙や自然界の摂理の法則に反するので,わが身に跳ね返(はねかえ)って自分を害(がい)する結果(けっか)に終(お)わる.

・そして,癒(いや)されることのない罪の意識(つみの いしき)が烙印(らくいん)のように押(お)され,身も心も,真の幸福(まことの こうふく)とは永遠に無縁(えいえんに むえん)となる.

④「神の正義」は「神の慈愛(じあい)」と一体(いったい)であり,弱者(じゃくしゃ)に対する慈悲の心(じひの こころ)よりも我欲(がよく)を優先(ゆうせん)する人は,この地上を去ってから天の慈悲深い(じひ ふかい)神の御国には決して入れない.

⑤この世で,自分に不都合(ふつごう)な人間を殺しても,神には絶対に勝てない.この世は「霊魂の試験場」であり,この世で他者を負かして我欲を果たす者は,弱者を庇(かば)われる憐れみ深い神の怒りを買い,必ず神から報復(復讐)(ほうふく・ふくしゅう)されることになる.

・復讐は,人間がするものではなく,神が完全に正しく一寸の手抜かり(いっすんの てぬかり)もなく果(は)たされる.

・真の神の遣(つか)いと預言(神の御子イエズス・キリスト・教会の聖なる伝承〈聖伝〉・聖書)を通じて神の報復(かみの ほうふく)の完全さ,その恐ろしさを知るので,カトリック教会では「罪びとの悔悛(かいしゅん)のため神の憐(あわ)れみを請(こ)う」.

・人間の中で見栄(みば)えの良い人が天国に入るのではない

(ヨハネ聖福音書:第1章を参照)

第1章12節

『みことば(=神の御子イエズス・キリスト)は世にあり,世はみことばによって創(つく)られたが,世はそれを認めなかった.

みことばはご自分の家(ごじぶんの いえ)に来(こ)られたが,その人々は受け入れなかった.

しかし,その方を受け入れた人々にはみな神の子となれる力(ちから)を授(さず)けた.

そのみ名を信じるすべての人たち,彼らは,血統(ちすじ)ではなく,肉体の意志(いし)ではなく,人の意志ではなく,ただ神によって生まれた人々である.』


* * *