2013年1月19日土曜日

287 1950年代の再来 1/12

エレイソン・コメンツ 第287回 (2013年1月12日)

緊急課題 (=焦眉〈しょうび〉・火急〈かきゅう〉の問題) : ルフェーブル大司教 ( "Archbishop Lefebvre" ) が新教会 ( "the Newchurch" ) に反対するために設立した聖ピオ十世会 ( "Society of St Pius X = SSPX" ) の指導者たちが今なぜそこへ再加入したいと願い出ているのでしょうか? これは私たちにとって差し迫った疑問です ( "Burning question: how could the leaders of the Society of St Pius X, which was founded by Archbishop Lefebvre to resist the Newchurch, now be seeking its favours in order to rejoin it ? " )? 一つの答えは,彼ら指導者たちがルフェーブル大司教の意図を完全には理解していなかったということでしょう ( "One answer is that they never fully understood the Archbishop." ). 1960年代に起きた第二バチカン公会議の惨事(さんじ)のあと,彼らはルフェーブル大司教をそれより前,すなわち1950年代にあったカトリック教会の最良の継承者と受け止めました ( "After the disaster of Vatican II in the 1960's, they saw in him the best continuation of the pre-disaster Church of the 1950's." ). 実際には,彼はそれ以上の存在でした.だが,聖ピオ十世会の指導者たちが彼の死後に望んだことといえば,1950年代の居心地(いごこち)の良いカトリック信仰に戻ることだけでした ( "In reality he was much more than that, but once he died, all they wanted was to go back to the cosy Catholicism of the 1950's." ). 十字架抜(ぬ)きのキリスト ( "Christ without his Cross" ) を選んだのは彼らだけではありませんでした. 現在でも,それはとても人気あるスタイルです ( "And they were not alone in preferring Christ without his Cross. It is a very popular formula." ).  (訳注後記)

1950年代のカトリック教は高い危険な崖(がけ)っぷちに立つ人間のようなものだったのではないでしょうか ( "For was not the Catholicism of the 1950's like a man standing on the edge of a tall and dangerous cliff ? " ). 一方で,カトリック教は当時まだとても高いところに立っていました. そうでなければ,第二バチカン公会議がそれほどひどく堕落(だらく)しなかったはずです ( "On the one hand it was still standing at a great height, otherwise Vatican II would not have been such a fall." ). 他方で,カトリック教は危険なほど崖の端(はし)近くに立っていました. そうでなければ,それは1960年代にそれほど急激に転落しなかったでしょう  ( "On the other hand it was dangerously close to the edge of the cliff, otherwise again it could not have fallen so precipitously in the 1960's. " ). 1950年代の教会がなにもかも悪かったわけではありませんでした.だが,それは惨事直前のような状態でした.なぜでしょう ( "By no means everything was bad in the Church of the 1950's, but it was too close to disaster. Why ? " )?

その理由は1950年代のカトリック信徒たちは全体的にみて外向きには真の宗教の体裁を保っていましたが,その多くが内面では近代世界の神の存在を信じない間違い( "godless errors" )にへつらっていたためで,そのような信徒の数があまりに多かったからです( "Because Catholics in general in the 1950's were outwardly maintaining the appearances of the true religion, but inwardly too many were flirting with the godless errors of the modern world: …" ). その間違いとは,リベラリズム(=自由主義) (人生で一番大事なのは自由・解放です), 主観主義 (したがって人間の心や意志はいかなる客観的な真実や法則によっても縛〈しば〉られることはありません〈=制約・制限・拘束〈こうそく〉〉されません), 無関心主義 "indifferentism" (したがってある人がどの宗教を信じようとかまわない) 等々です ( "… liberalism (what matters most in life is freedom), subjectivism (so man's mind and will are free of any objective truth or law), indifferentism (so it does not matter what religion a man has), and so on." ). それで信仰を持ち,それを失いたくないカトリック信徒は次第にその信仰をそうした間違いに合わせていきました ( "So Catholics having the faith and not wanting to lose it, gradually adapted it to these errors." ). 日曜ごとにミサへ行き,告解(こっかい)を続ける者もいましたが,多くは品のないマスコミを心の糧にし,一般信徒の結婚,聖職者の独身などについての教会の規則に苛立(いらだ)つようになりました ( "They would attend Mass on Sundays, they might still go to confession, but they would be feeding their minds on the vile media, and their hearts would be chafing at certain laws of the Church, on marriage for the laity, on celibacy for the clergy." ). 彼らは信仰を保ちながらも,魅惑(みわく)的で神を敬(うやま)わない周りの世間の強い流れに逆らわなくなっていきました.彼らは1950年代にすでに崖の端にますます近づいていました ( "So they might be keeping the faith, but they wanted less and less to swim against the powerful current of the glamorous and irreligious world all around them. They were getting closer and closer to the edge of the cliff." ).

ところで,ルフェーブル大司教にも不手際(ふてぎわ)がありました.それが現在の聖ピオ十世会の難局に反映されていると考える人もいます ( "Now the Archbishop had his failings, which one may think are reflected in the present difficulties of the Society." ). 私たちは大司教を偶像視すべきではないでしょう ( "Let us not idolize him." ). だが,彼はカトリック教の外見も本質も心の奥深くに兼ね備(かねそな)えていた1950年代の司教でした. このことは,彼が司教としてアフリカでの布教活動の任務 ( "apostolic ministry" ) にあたった任期中に挙げた大きな成果が証明しています  ( "Nevertheless he was in the 1950's a bishop who had both the appearances of Catholicism and, deep inside him, its substance, as proved by the rich fruits of his apostolic ministry in Africa. " ). 第二バチカン公会議が同僚の司教たちのほとんどを活動不能にさせるか麻痺(まひ)させることに成功したとき,ルフェーブル大司教はほぼ独力(どくりょく)でそれ以前からあった神学校や修道会を再建しました ( "Thus when Vatican II succeeded in crippling or paralyzing nearly all of his fellow bishops, he managed to recreate, almost alone, a pre-Vatican II seminary and Congregation." ). 公会議派という砂漠の中に彼が作り出したカトリック教のオアシスは多くの善良な若者の目を奪(うば)いました ( "The appearances of his Catholic oasis amidst the Conciliar desert dazzled many a good young man." ). 聖職志願者たち "Vocations" もルフェーブル大司教の個人的カリスマに魅了(みりょう)されました ( "Vocations were also attracted by the Archbishop's personal charisma." ). 1991年の彼の死から10年,20年経った時点で,彼の遺産の中身は益々(ますます)強まる現代世界の流れに立ち向かうものとして以前にもまして重みを持つようになりました ( "But from ten to 20 years after his death in 1991 the substance of his heritage came to seem heavier and heavier to push against the ever stronger current of the modern world." ).

そこで,聖ピオ十世会指導者たちは十字架を背負い続けることで主流派教会 ( "the mainstream Church" ) や世界から嘲笑(ちょうしょう)されるのが嫌になり,もう一度公式に認知されたいと夢見るようになりました ( "So, disinclined to go on bearing the Cross of being scorned by the mainstream Church and the world, the SSPX leaders began to dream of being once more officially recognized." ). そして,その夢は根を下ろしました.所詮(しょせん),あらゆる夢は現実よりはるかに素晴らしいものだからです ( "And the dream took hold, because after all dreams are so much nicer than reality." ). 私たちは聖ピオ十世会の指導者たちのために祈らなければなりません ( "We must pray for these leaders of the SSPX." ). 1950年代は過ぎ去りました,それは永遠に過ぎ去ってしまったのであって,その再来を望むのは全くの夢にすぎず,それ以外の何物でもありません( "The 1950’s are gone, gone forever, and it is sheer dreaming to wish for their return." ).

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教


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第1パラグラフの訳注:
「十字架抜(ぬ)きのキリスト」 "Christ without his Cross" について.

聖福音書からの引用:

1. 新約聖書・ヨハネ聖福音書:第14章6節
  THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN, XIV, 6

『イエズスは言われた,「わたしは道であり,真理であり,命である.私によらずにはだれ一人父のもとには行けない.」』

2.ヨハネによる聖福音書:第11章25節
  THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN, XI, 25

『「私は復活であり命である.私を信じる者は死んでも生きる.生きて私を信じる者は永久に死なぬ.あなたはこのことを信じるか」』


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〈補足説明〉

・「キリストの十字架」とは,「真実に生きる人は永遠に滅びない」ということの印(しるし).

・ある人が真実に生きるなら,彼の身体(現世での仮住まい)が滅びても彼の霊魂(本当の命・真実と共にある命)は永久に生きる.
現世に残された人は彼の遺体(いたい)を見るが,真実の不滅を信じた彼は,目には見えなくとも,この世を去った後,神によってそのまま永遠の世界に移されて,そこで真理たる神の御旨(みむね)に適(かな)う命を引き続き生き続ける.

・また,生きて真実(=真理=キリスト=神)の不滅を信じる人は,永久に死なない.
真実に信仰している人はすでに「死」(=罪・不信仰の結果)に打ち勝った人である.
彼は地上に生きているときから,既(すで)に永遠の命のうちに入っており,そのままこの世を去った後,引き続き,永遠の世界に移されて生き続ける.
(信仰者は既に永遠の命を持っている)

・「霊魂の不滅」を信じない人は,地上での人生がすべてであり,それに尽きると思っているので,有限の(制約・制限のある)地上で我欲(がよく)(物欲・名誉欲・権力欲・支配欲)を満(み)たす為,  「真実」 を無視し,拒否・否定し,曲げてまでも自分の利得を図(はか)る.

・そして,それを阻(はば)む「真実」や「真実を守る人(=真実に生きる人)」を迫害し抹殺(まっさつ)しようとする(=「十字架」の受難).

・こうして人を「永遠の命」へと導(みちび)く「真理」の道からはずれ,「永久に生き続ける真の道」を失ってしまう.

・迫害にもかかわらず真実に生きる人は,「死」を超越(ちょうえつ)して「死」から「命」へ移った人であり,地上に生存する間も,死んで地上での身体を失った後も,もはや「死の世界」に留(とど)まることはない.その霊魂において彼(の命)は永遠に真実(の道)を生き続ける.

『イエズスは言われた,「わたしは道であり,真理であり,命である.私によらずにはだれ一人父のもとには行けない.」』 ヨハネによる聖福音書14:6

『イエズスが,「私は復活であり命である.私を信じる者は死んでも生きる.生きて私を信じる者は永久に死なぬ.あなたはこのことを信じるか」と言われると,彼女(=聖マルタ)は,「そうです,主よ,あなたがこの世に来(きた)るべきお方,神の子キリストであることを信じます」と言った.』 ヨハネによる聖福音書11:25


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『幸福は地上のものではない』 アウグスティヌス箴言集
(格言,教訓,道徳訓を多く含む集)

2. キリスト教的生活より

202
自分自身の悪をおそれなさい.すなわち,よこしまな欲望をおそれなさい.
神が,あなたになされたことでなく,あなた自身でなしたことを恐れるとよいのです. 神は,あなたをよいしもべにすることを望まれたのに,あなたは,自分を目分で悪い人にしてしまったのです.
ですから,あなたが悪のどれいとなるのは,当然です.あなたをお創(つく)りになられた神に,お仕えしたくなかったのでありますから,あなたの手で作った暴君(ぼうくん)に仕えることは,あなたにふさわしいことなのです.

203
キリストは,あなたに申されました,
「ああ,わたしの子どもよ,わたしは,あなたの悪をにくみ,あなたを愛します.わたしはあなたのした悪をにくみ,わたしのおこなった善を愛します.あなたは果たしていかなるものでありますか? わたしにかたどられて創られたものではないですか? それにもかかわらず,あなたがいかに単抜なものに創られているかも考えずに,あなたは自分のした下等なことを愛します.
あなた自身の外にある自分のおこないを愛し,あなたにおいての自分のわざを怠(おこた)ります. それでは,転落し,落ちぶれ,またあなた自身より「あなた自身」が去るのも当然なことです.わたしの招きを聞きいれなさい.わたしは行って,また戻るものではありません. しかし,わたしはいつまでもとどまって,あなたに忠告をします.そうです.わたしはけっして動かないで,あなたに忠告します.わたしはあなたに背を向けました.なぜならば,あなたがわたしに背を向けたからです.わたしのことばを聞きなさい.わたしに戻れば,わたしは,あなたに戻るのであります.
すなわち,わたしのあなたに対する帰着は,あなたのわたしに対する帰着なのです.
わたしをのがれて,どこへのがれられましょう? ほんとうに,わたしから逃げるとしても、どこへ逃げるつもりでありますか? わたしは,どんな所にも閉じ込められません. わたしは,いずこにも遍在(へんざい)します.わたしに戻るものに自由を与え,去るものを罰します. あなたがわたしを去れば,わたしはあなたの審判者になりますが,わたしに戻るならば, わたしはあなたの父になります.

204
自由を濫用(らんよう)して罪を犯してはなりません.自由を行使して罪をさけなさい.
意志が敬虔(けいけん)であるなら,あなたは自由になります.

205
神は,自分から離れてゆく霊魂に,ただちに盲目(もうもく)という罰(ばつ)を始めとして与えられます.この霊魂は,盲目なのです.真の光である神のもとを去ると,たちまち,盲目になってしまうものなのですから.神を離れてゆく霊魂は,まだ罰を身に感じませんが,もはや,その罰を受けつつあるのです.
この罰を微々(びび)たるものと思うでしょうか?
心がくらみ,知恵が盲目となるのを,小さな罰だと思うでしょうか?
もしも,盗(ぬす)みをしようとしたときに,片眼(かため)を失ったならば,神のおん手がふれたと,だれでもいうでしょう.知恵の眼(め)を失ったのに,神があなたを黙視(もくし)されたと思うのでしょうか?

206
光を見ることができないからといって,光が存在していないと信じてはなりません.
盲(もう)が日の照(て)るところにおり,太陽が盲のそばにあるとしても,盲は日よりひじょうに遠くにいると思うのと同様に,あなたも罪を犯すときは,心が盲になっているのです.
あなたの前に,キリストは立っています.だが,ちょうど盲の前に立っているのでありますから,あなたの眼からは,ひじょうに遠いのです.
神は,あなたより遠いのではなくて,あなたが神より遠いのです.そこで,あなたは何をしなければならないでしょうか?
それは,神を見るために,心を改(あらた)めるより他はないでありましょう.

207
罪を犯す前に,それが何であったかを判(わか)らなかったならば,少なくとも罪を犯してしまってから,それを眺(なが)めてみるとよいでしょう.この世の楽しみは,ある時間には口を甘美(かんび)にさせますが,後には大きな苦味となるものなのです.

208
ああ,わたしの神よ,わたしはあなたのかたどりとして,創造されましたのにもかかわらず,自分から堕落(だらく)してしまいました.
しかし,あなたはわたしの救い主でありまして,よろこびであられます.わたしの目に光を与えてください.わたしのくらやみを照らしてください.
あなたを愛する前に,くらやみであったわたしでありますが,あなたへの信仰を宣言してから,わたしはすっかり神に愛されるものとなりました.

209
「ユダヤ人も,ギリシア人も,どれいも,自由の身の人も,何の区別もなく」(ガラチア21.28)(訳注・正確には,新約聖書・ガラツィア人への手紙:第3章28節.なお,第2章16節-第3章29節を参照),だれでも罪を犯したならば,罪のどれいとなるのです.


(出典)
『幸福は地上のものではない』 聖アウグスティヌス著
ヨハネ・マンテガッツァ神父訳 (世のひかり社)


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ヨハネ聖福音書の第11-14章と『アウグスティヌス箴言集』を追記いたします.
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