2012年8月26日日曜日

267 感染?- するのは誰? 8/25

エレイソン・コメンツ 第267回 (2012年8月25日)

私の好きな諺に 「賢者(けんじゃ)はわが身を責め,愚者(ぐしゃ)は他人を責める」 という中国の諺(ことわざ)があります ( "A favourite proverb of mine comes from China: “The wise man blames himself, the fool blames others.” ).他人にけっして非(ひ)がないという意味でないことは明白です( "Not that others are never to blame, obviously, … " ).だが,私には他人の素行(そこう)を変えさせるなどほとんどというかまったくできませんが,少なくとも理屈(りくつ)の上では自分自身をコントロールできます( "… but that I can usually do little or nothing to change their behaviour, whereas I am at least in theory in command of my own. " ).「キリストにならう」( "Imitation of Christ" ) に書かれているように,私たちは自(みずか)ら犯した罪を考えて得(とく)することはあっても,他人の罪を考えて得することなどまずありません( "As the Imitation of Christ has it, we rarely think with profit on the sins of others, always with profit on our own. " ).(訳注後記)

私がこの古い中国の金言(きんげん)を思いついたのは,「エレイソン・コメンツ」 (第263回) の一読者からいただいた手紙がきっかけです( "This age-old wisdom is called to mind by the letter of a reader of “Eleison Comments” (# 263) …" ).この女性読者は手紙の中で,聖ピオ十世会の司祭たちが一般平(ひら)信徒たちの参列を受けてアメリカ国内各地で執り行い得るトレント(公会議)式ミサ聖祭のやり方がいかに「(第二バチカン)公会議感染症」( "Conciliar infection" )に侵(おか)されているかを指摘し,苦言を呈(てい)しています( "…in which she complains of the “Conciliar infection” that she observes in the way in which Society of St Pius X Tridentine Masses in the USA can be celebrated by the priests and attended by the laity. " ).彼女の悲観的な観察を以下に要約しますが,それは司祭たちや信徒たちをその悲観で困らせるのが目的でなく,私たち一人ひとりがいかに自らの行い(=振る舞い方)を反省すべきかを示唆(しさ)するためです( "If her dark observations are summarized below, it is not in order to overwhelm priests or laity with the darkness, but to suggest how each of us can examine his own behaviour." ).

彼女は手紙全体を通して,「公会議感染症」がここしばらくの間に各地の聖ピオ十世会の教会(=礼拝堂〈聖堂〉,"chapels" )にひそかに忍び込んできたと言っています( "In general she says that the “Conciliar infection” has been creeping into the SSPX chapels for some time." ).状況は悪化の一途(いっと)をたどりもはや絶望的で,すでにその弊害(へいがい)が起きているとさえ極論(きょくろん)しています( "She goes so far as to say that the situation is deteriorating and desperate, and the damage is already done." ).彼女によれば,まるでラテン語が信仰の代わりに最高位を占めるようになっており,ただラテン語でトレント式ミサ聖祭が行われさえすれば,あとはすべてよしといった具合だそうです( "It is as though Latin has taken pride of place over the Faith, as though anything goes if only it is a Tridentine Mass said in Latin." ).一般平信徒は本来のミサ聖祭がどういうものか理解できずに ――ましてそれを心に留(とど)める(=覚え記憶する)こともなく―― ただミサ聖祭に参列するだけで,それが正常だと考えている,と彼女は書いています( "Not having understood – or retained – what the Mass really is, she says, the laity find it normal merely to attend." ).多くの平信徒たちは白昼夢(はくちゅうむ)を見るようにミサに参席し,その後ひどく無礼なやり方( "a very disrespectful way" )で聖体拝領を受けるそうで,それではまるで新教会( "Newchurch" )と同じだというのです( "Many attend Mass daydreaming, and then they receive Holy Communion in a very disrespectful way, just like in the Newchurch. " ).

彼女はカトリック信仰やミサ聖祭についての説明が不十分だと司祭たちを責めています( "She blames the priests for not having sufficiently explained the Faith or the Mass." ).彼らの説教については,自分の話していることを本当に理解しているのか疑わしくなったこともあり,またある司祭の場合には個人的な考えと説教の文脈(ぶんみゃく)が公会議からの受け売りではないかと感じたこともあるそうです( "As for their sermons, she wonders at times whether they understand what they are proclaiming and at times she finds that the personal ideas of the priest and the context of the sermon as a whole come over as Conciliar." ).典礼ルール( "liturgical rules" )は守られず,典礼規定も一貫しておらず,ただミサ典文( "the Canon of the Mass" )だけはてっとり早く読まれる( "Liturgical rules are not respected, rubrics are not consistent, the Canon of the Mass is hurried through." ).手短(てみじか)にいうと彼女は多くの聖ピオ十世会の司祭たちや平(ひら)信徒たち( "layfolk" )が新教会に入るつもりか,あるいはそれどころかむしろ,すでに入ってしまっているとしても驚きではないと言っています( "In brief she is not surprised if a number of SSPX priests and layfolk are ready to join the Newchurch, nay, may even already belong to it." ).

さて,平常心の状態にある者なら,彼女の悲観的な観察が聖ピオ十世会のすべてのミサ聖祭に当てはまるとは言い張らないでしょう.だが,私たちの時代の堕落(だらく)はあまりにもひどいため,彼女が見た事態の劣悪(れつあく)化がごく当たり前に思えるほどです( "Now nobody in his right mind would claim that her dark description fits all SSPX Masses, but such is the corruption of our age that a deterioration of the kind she observes is all too normal." ).堕落は司祭たちや信徒たちに一様(いちよう)に押し寄せています.このことは,同じ堕落が私たちすべてに入り込んでいるのではないかと用心深く観察する必要があることを意味します( "The corruption presses upon priests and laity alike, and it means that all of us need to observe closely how it may be creeping up on ourselves." ).ファティマ(ポルトガル)の修道女,シスター・ルシア(訳注・ "Sister Lucy of Fatima".〈ポルトガル語で "Irmã Lúcia de Fátima"〉 )が1950年代に述べているように,一般信徒は天国へたどり着くのになすべきことすべてを聖職者たち( "the clergy" )に委(ゆだ)ねるなどもはやできなくなっています( "As Sister Lucy of Fatima once said in the 1950’s, the laity can no longer rely on the clergy to do all the work for them of getting them to Heaven." ).実際のところ聖職者たちがそれに応(こた)えられたことはありませんでした( "In fact they never could do so,…" ).だが,怠(なま)けて「従(したが)うこと」( "lazy “obedience” " )は,今日でもいまだにだれもが掻(か)き立てられる共通の衝動(しょうどう)です( "…but a lazy “obedience” is still today a common temptation." ).もし,一般信徒(=平〈ひら〉信徒)の皆さんが自分たちを導(みちび)いてくれる善良な司祭たちを望み,聖ピオ十世会が公会議に走らないよう願うなら,自分たちの家庭がきちんとなるよう ――たとえば,自分自身と自分の家族がどのようなミサ聖祭に参列したらよいかなどについて―― よく観察して決めるようにしてみたらよいのではないでしょうか ( "If layfolk want good priests to lead them, and if they do not want the SSPX to go Conciliar, then let them observe their own household to put it in order – for instance, how do I myself and my family attend Mass ? " )?

私たち司祭について言えば,預言者エゼキエル( "the prohet Ezechiel" )が牧者たち(訳注・"pastors".=(各教会の)主任司祭たち〈=信者たちを司牧する〉.牧者=羊飼い=主任司祭.羊たち=信徒の群れ)に与えた次のような恐ろしい警告(旧約聖書・エゼキエルの書:第3章17-21節)を忘れさせないことです( "As for us priests, let us not forget the dire warning of the prophet Ezechiel (III, 17-21) to pastors: " ).すなわち,牧者たちが人々にいかに彼らが罪を犯しているかを告げても彼らが罪を犯しつづけるなら,主なる神は人々を罰(ばっ)し,牧者たちに責任を負わせないだろう( "…if the pastors tell the people how they are sinning, and the people go on sinning, the Lord God will punish the people but he will not hold the pastors responsible." ).反対に,もし人々が罪を犯しているのに,牧者たちがそれを彼らに告げなければ,主たる神は人々が犯した罪を牧者たちの責任とみるだろう( "Contrariwise, if the people sin and the pastors do not tell them how they are sinning, then the Lord God will hold the pastors guilty for the people’s sins." ).「審判は神の家で始まるべき」(ペトロの第一の手紙:第4章17節)( " “Judgment should begin at the house of God” (I Pet. IV, 17)." ).(訳注後記)

というわけで,聖ピオ十世会が「公会議感染症」にかかるのを防(ふせ)ぐには私たちすべてが力(ちから)の及ぶ限りなにをどうするかにかかっています( "Therefore it depends on all of us to do what is in our power to prevent the SSPX from catching the “Conciliar infection”." ).今日の状況では,これは口で言うほど易(やさ)しいことではありません.だが,聖パウロが説いているように(コリント人への第一の手紙:第4章3-5節),私たち一人ひとりが自らの罪に目を向けることです.審判を下すのは神です( "That is today more easily said than done, but as St Paul says (I Cor. IV, 3-5), let each of us look to his own sins. It is God who judges. " ).(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン


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第1パラグラフの訳注
「キリストにならう」 "Imitation of Christ" について.

キリストにならう
"DE IMITATIONE CHRISTI" (LATINE, ラテン語)
バルバロ神父 訳 (ドンボスコ社)
からの引用(最終章):

***

第四巻 聖体拝領への信心の勧めはここにはじまる

第十八章
人間はこの秘跡をみだりに詮索してはならない.むしろ謙遜にイエズスに従い,自分の理性を聖なる信仰に服従させなければならない

1 主
《もしあなたが疑いの淵(ふち)に陥ることを避けたいのなら,この深い神秘をみだりに探ることをやめなければならない.神の威光を探る者は,その光栄に眩惑(げんわく)される.
神は,人間の理解を超えることをおこなわれる.聖なる教えに服従し,教父たちの健全な教義に従って歩もうとする敬虔(けいけん),かつ謙遜な真理探究だけがゆるされる.

2 信仰の素朴さと確かさ
理論のけわしい道を捨て,神の掟の平坦で安全な道をたどろうとする単純な心の者は幸せである.あまりにも高遠なことを探ろうとして,敬虔の念を失った人は多い.あなたに必要なのは,知恵の聡(さと)さでも,神の玄義の会得でもなく,信仰と善意の生活である.あなたは自分が住んでいるこの世のことさえ理解できないのに,あなたを超越することをどうして悟れよう.神に服従しなさい,理性を信仰の次に置きなさい.そうすれば,あなたに有益かつ必要なだけ,知識の光が与えられるであろう.

3 誘惑の役割
ある人は,信仰と秘跡について重大ないざないを受ける.しかしそれは,彼らの責任ではなく,悪魔の仕業である.そうしたいざないに気をとめてはならない.
自分の思いと議論してはならない.また悪魔がそそぎこむ疑問に答えてはならない.むしろ,神のみことばを信じ,聖人たちと預言者たちを信じなさい.そうすれば,悪霊はあなたから逃げ去るであろう.しばしばそうしたことを耐え忍ぶのは,神のしもべにとってためになることである.悪魔は,自分が完全に征服している不信仰者や罪人を誘惑せず,かえって信仰ある人を悩ませ,わずらわせるものである.

4 神はあざむかない!
単純な,堅い信仰をもって進み,謙遜と尊敬とをもって,この秘跡に近づきなさい.そうしてあなたの理解できないことを,安らかに全能の神にゆだねなさい.
神はあざむくことはない.むしろ理性を過信する者が自分をあざむいてしまう.
神は,単純な人々と共に歩み,謙虚な人々にご自分を示してくださる.「小さな人たちに知らせ」(詩編119・130),清い心を照らし,好奇心の強い者と高慢な者に,恵みを隠される.人間の理性は弱く,誤りやすいが,まことの信仰は,あざむかれることも誤ることもない.

5 愛の神秘
人間の思想や探求は,信仰から先走ったり反したりすることなく,信仰に従うべきものである.信仰と愛とは,このもっとも尊い,すべてにまさる秘跡において特にあらわれ,ひそかに行動する.永遠,偏在,全能の神は,天においても地においても,「偉大なことをおこない,その不思議なみ業は人知ではかり得ない」(ヨブ5・9).神のみ業が,人知で容易に悟り得るものなら,不思議とも言語に絶するとも言えないのである.アーメン.》



聖体拝領への信心の勧めはここに終わる


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"DE IMITATIONE CHRISTI"
キリストにならう

序論

「第二の福音書」,「中世の最高の信心書」と称される “De Imitatione Christi” (『キリストにならう』)は,神秘学派の生んだ美しい花であり,キリスト教的修徳書の逸巻であり,聖書に次いで世界中の人が親しみ読んだ本である.

『キリストにならう』,簡潔で飾り気のない正確な文体が特に賞せられ,中世特有の美しいラテン語で書かれ,神への烈々たるしかも慎み深い愛と敬虔が紙面ににじみ出ている.完徳の道に至るための教訓から書き出したこの本は,人間の究極目的である神に我々を導き,神の恵みに希望を置かせ,欠点の矯正と修徳とを勧め,神の光明のうちに生活を営ませ,観想と神秘の奥地である神との一致に招くのである.

霊魂のこのひそやかな旅は,その内部的変遷に従って全四巻に記されている.そして,完徳への歩みには,浄化の道,照明の道,一致の道,の三段階がある.

『キリストにならう』を深く研究するならば,これが,聖ベネディクトの精神と戒律とに,著しく似通っていることに気づくであろう.中世の神秘書の最高峰であるこの二つの本は,互いに補い合い,ベネディクトの戒律が霊魂を完徳に導けば,『キリストにならう』は,霊的な道の頂(いただき)を指し示すのである.

『キリストにならう』は,元来修道者のために修道者が書いたものであるが,しかし一般の修徳書でもある.この本の作者の深い洞察力と学識は,いかなる人間にも,いかなる身分の者にも応用しうるのである.

教義としてのいささかの不純分子も持たないこの作者は,その当時のさまざまな教えを知っていても,実証神学やスコラ神学の学説に傾かず,あらゆる学派を超えた立場で,常に実際的な教えを述べようとする.作者は観想の高さも神秘的歓喜も知り,それに先立つ苦しい試練も経ているが,それも主として実際的な見地に立って記している.

* * *

『キリストにならう』の作者については,この本が生まれた環境について三世紀位前から盛んに学者たちが議論している.とにかくこの本が作者不詳として出版されたことは確実のようである.その後,色々な作者の名が憶測されたが、(F・M・ブレムによると,挙げられた作者の名前は二百以上もあるという),その内でもパリのゼルソン,オランダ人のトマス・ア・ケンピス,ヴェルチェッリ市のヨハンネス・ジェルセニウスなどが特に多くの支持者を持っている.

これについて論戦は十七世紀にとりわけ盛んになって,その当時,ジェルセニウス党とケンピス党が生まれ,ローマの聖省とフランス議会までが引きこまれたほどであった.
フランスでは学界を代表する人々(デュ・カンズ,レノド,マビヨンなど)の会議が開かれて,ジェルセニウスのほうをとることになり,アルネンシス,ボビエンシス,パルメンシスなどの写本が,ケンピス以前のものであると断定された.同じくド・グレゴリも,一八三〇年にデ・アドゥボカティスという写本を発見して,先と同じく断定した.しかし,ロット・デニフレ,ヘイなどは,ケンピス以前のドイツ人の一人が作者であると言った.前世紀の半ばにフランスでは,この本に計画的な構想がなくて内容も正確な論理的な筋道がなく,くり返しが多く,霊的生活への勧告に緊密性がないという理由を挙げて,この本の作者は一人ではなく,フランドルの神秘学派訓戒集(ラピアリウム)であると唱えて,相当な支持を得た.

ところが,「西暦一四四一年,ズウォッレ付近の聖女アニエスの山にて,トマス・ア・ケンピス修士によって完成す」と最後に記してある写本が,ブリュッセルの王室図書館のケンペジアヌス写本と言われて存在する.また,『キリストにならう』の三百四十九の写本を,科学的に研究したポールの説は,ケンピスのほうに大いに傾いているので,ここから,ケンピスが作者だと断定する者も多い.

しかし,論戦は依然として続いており,先の写本の署名は,トマス・ア・ケンピスが書き写した時の署名であるにすぎないという人もいる.なおまた,その写本は,取り消した個所や,不確実な個所,間違いが多いので,デニフレは,「トマス・ア・ケンピスが作者でないとする証拠は,丁度その署名にある」とさえ言っている.ヴァン・ギンネケンは,トマス・ア・ケンピスの作と言われるものは,『キリストにならう』をはじめその他の小冊もすべて否定し,これらは,ゲルハルト・グローテ(アムステルダム,一四九二年)の作であると言い,I・ユビもその説を支持している.

これを見て,現在も,この論戦に確実な結論は生まれないであろうという学者が相当多い.ところが,ジェルセニウス党に言わせれば,自分たちの説こそ,いつか確定的な勝利を得るであろうと主張してゆずらない.以上挙げた古い写本とヴェルチェッレンシス,ヴィチェンティヌス,パタヴィヌスなどの写本,そして昔の翻訳書については,『キリストにならう』がイタリアで,ジェルセニウスの手によって生まれたもので,またその内容も,ケンピス党には不利であると批判されている.一二二〇年から一二四〇年までの間,ヴェルチェッリ市の聖ステファノ修道院長であったヨハネス・ジェルセニウス作だとする支持者が挙げる根拠は,この本の作者をトマス・ア・ケンピスに断定するために少なからぬ妨げとなるのである.

トマス・ア・ケンピスを作者とする人々は,彼の他の小冊と『キリストにならう』との間に文体上の類似が著しいと言っているが,それも反対者によって,「むしろ対立の方が著しく,両者は両立せず,背反する」と否定されている.

ジェルセニウスをとる人々は以下のように言っている,「ラテン系の神秘神学は,ヨーロッパ北部の神秘学と相当異なる.アシジの聖フランシスコ,聖ボナヴェントゥーラ,シエナの聖女カタリナなどには,北部の神秘家の著書にあまり見うけられない情熱的な愛と礼拝と熱心,脱魂などがある.北部の神秘家には,時として神学的により深遠であるにしても,文体があいまいで,思想が紆余曲折(うよきょくせつ)しており,落ち着いた平静な,しかし抽象的な表現が多い」.これがためにジェルセニウスをとる人々は,素朴な,明確な『キリストにならう』は北部の産ではないと言うのである.

確かにトマス・ア・ケンピスの他の著者は,立派ではあるが,『キリストにならう』に比べれば,不自然で作為的なところがある.『キリストにならう』の用語は,いかにも自然で,単純で,すぐ心に入りこむが,ケンピスの著作には,しばしば修辞的な,演説的な用語がある.『キリストにならう』の作者のほうには,決して講壇のジェスチュアがなく,ただ真理の力をもって人の心をひく,えもいわれぬ謙遜な言葉が,担々と語られている.

当時は,わけても神秘文学の分野において,修道者たちの文体は一般に似通っていた.従って,文体からだけ見た内的批判だけでもって,決定的な結論を出すわけにはいかないのである.しかし,『キリストにならう』の単純素朴な文章は、一種の神感を受けたもののようであり,もっぱら修辞を避けて,ごく自然な調子であり,さながら作者の前でその話を聞いている感がする.この作者は,長い修道生活から教えられたにしても,無限の生命の河から水を汲むべく,主の御心の上に休んだ聖ヨハネのように,神の霊に導かれていたのであろう.

『キリストにならう』は,ミシェレによると,「完全な円熟の境地から生まれたもの」のようであるが,この著作のできたのが西暦一四一五年から一四二七年までの間のことであるから,ケンピス(一三七九 - 一四七一年)はまだ比較的若く,彼の他の小冊のほうが,その円熟時代の作になる.他の小冊が『キリストにならう』と比較されるとき,はるかに劣るものであることは明白であるから,(ケンピスを作者だとすれば)円熟時代の修徳的体験が若年の著作よりも劣るというのは,不審なことだと言わざるを得ない.

『キリストにならう』に,独特のドイツ語的表現があると称する学者もいるが,これに対してジェルセニウス党の人々は,イタリア語独特のいい回しが,それ以上にあると反駁(はんばく)している.

要するに,依然として,いずれかを断定し得ない状態にある.その断定は専門の学者に任せることにするが,この問題は作者の問題から国と国との複雑な問題に移行したのであって,個人の好悪や主観的な要素が非常に深く入りこんできた感がする.

研究と論戦との三世紀も,『キリストにならう』をとりかこむ霧をすっかり散らしていないという悲しむべき結論に至るのであるが,しかしデ・サシは,「神がこの本の作者の名を覆って謙遜を喜び給うた」と語り,ヴォルテールは,《世界に役立つこういう著作を「だれそれのもの」として名指す必要がどこにあろう》と言った.

これほど崇高な本が,一人の名に限られることなく,長きにわたる時代の敬虔の象徴として,人類の観想と修徳の花として,自由に,無名のまま輝きわたっていることについては,きっと何かの理由があることであろう.この本が,一つの国,一つの民に束縛されていないということにも,何かの深い意義があるであろう.

この本こそは,キリストの旗をかかげるすべての国とすべての民の霊的な糧(かて)である.神の父性を礼拝し,観想を重んじた霊魂から生まれたがために,作者は不詳であり,すべての信徒を天へ導く目的であるがために,地上の国をもっていない本だと言うにつきるのである.

この邦訳はおおむね,ポールがブリュッセルの王室の図書館写本にもとついて出版した,批判テキスト(フライブルク,一九四〇年)によった.

一九五三年四月十五日  フェデリコ・バルバロ 神父


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第5パラグラフの訳注
「シスター・ルシア」 "Sister Lucy of Fatima" について.

"Irmã Lúcia de Fátima" (ポルトガル語)
ファティマ(ポルトガル)の修道女.
ファティマはポルトガルの聖地で,中部サンタレン県北西部レイリアの南東約20kmにある村.
1917年5月13日に聖母マリア "Nossa Senhora do Rosário de Fátima" が地元の3人の牧童に出現された.
3人の名前はそれぞれ,ルシア・ドス・サントス (当時,10才)と,その従兄妹(いとこ)フランシスコ・マルト(同,9才)およびジャシンタ・マルト(同,7才)の兄妹("Lúcia de Jesus dos Santos, Francisco Marto e Jacinta Marto).
うちルシアは修道女となり97才まで生きたが(1907年3月22日-2005年2月13日),あとの2人は聖母ご出現から2,3年後に,聖母の預言どおり相次いで病死した.
ファティマはそれから有名になり,1928年に建築が開始された壮麗なバジリカ(大聖堂)と,その側に建てられた複数の黙想のための家や病院に,毎年多数の巡礼者が訪れる.大聖堂の正面には広場があり,これまでに多くの奇跡的な病気の治癒が報告されている.


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第6パラグラフの先の訳注
旧約聖書・エゼキエルの書:第3章17-21節について

A/ 旧約聖書:預言者エゼキエルの書:第3章17-21節(太字)(第3章全章を掲載)
B/ PROPHETIA EZECHIELIS III, 17-21 (16-21)
C/ THE PROPHECY OF EZECHIEL III, 17-21 (16-21)
EZECHIEL, whose name signifies the STRENGTH OF GOD; was of the priestly race; and of the number of the captives that were carried away to Babylon with king JOACHIN. He was contemporary with JEREMIAS, and prophesied to the same effect in Babylon, as JEREMIAS did in Jerusalem; and is said to have ended his days in like manner, by martyrdom.

D/ 「エゼキエルの書解説」(用語集に掲載)


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A/ 日本語
エゼキエルの書・第3章1-27節


巻物の幻(2章1節から)
1 主は私に仰せられた,「人の子よ,与えられるものを食べよ,この巻物を食べ,イスラエル人に話しに行け」と.
2 私が口を開くと,巻物を食べさせ,
3 *そして仰せられた,「人の子よ,私の与えるこの巻物で腹を養い,はらわたを満たせ」.私はそれを食べた.口の中は蜜のように甘くなった.
4 それから,私に仰せられた,「人の子よ,イスラエル人のもとに行き,私のことばで彼らに語れ,
5 *おまえは不明なことばと難解な話をする民におくられるのではなく,イスラエルの民に向けられる.
6 意味のわからぬ不明なことば,難解な話をする異国の民におくられるのではない.もしそういう民におくったら,彼らはおまえの言うことを聞くだろう.
7 だが,イスラエルは耳をかさない.彼らは私の言うことを聞くのを好まない.イスラエルの家はみな,*恥知らずで心の固いものである.
8 だが私は,おまえの顔を彼らの顔のように固くし,その額を彼らのように固くする.
9 私はその額をダイヤモンドのように,岩よりも固くした.彼らを恐れることはなく,がっかりすることはない.彼らは反逆の民なのだ」.
10 また,私に仰せられた,「人の子よ,私の言うすべてのことばを注意をこめて聞き,心に納めよ.
11 そして,*おまえの民の流され人のところに行って話せ.彼らに向かって,彼らが聞く聞かぬにかかわらず,主はこう仰せられると語れ」.
12 それから,霊が私をそこから持ちあげた.私はうしろで大きなとどろきを聞いた.そのとき,主の栄光はそこから立ちのぼった.
13 大きなとどろきは,互いにすれ合う生き物たちの,翼の音と輪の音が重なったものだった.
14 *霊はそこから私を持ちあげ,運び去った.私の心は激しく興奮していた.私は悲しく立ち去ったが,そのとき主の御手は,私の上に強くおかれていた.
15こうして,彼らの住んでいるところ,ケバル川に沿う流され人のところ,*テル・アビブに行って,七日間呆然(ぼうぜん)としてとどまった.

イスラエルを守るもの
16 七日過ぎて,主のみことばは私に下った,
17「*人の子よ,私はおまえをイスラエルの家の*見張り人にした.私の口のことばを聞くとき,私の名で彼らを戒めるためである.
18 私が悪人に,〈おまえはきっと死ぬ〉というとき,おまえが,彼が生き長らえるように戒めず,その悪い道を離れさすように話さなかったら,彼はその罪のために死ぬが、私は彼の血の責任をおまえに負わせる.
19 だが悪人を戒めても,彼がその悪と不正な道を改めないなら,彼はその罪のために死んでも,おまえは自分を救うことになる.
20 正しい人が不正を行おうとして正しい道をそれるなら,私は*さまざまな妨げをおき,そして彼は死ぬ.おまえがもし,彼を戒めなかったら,その罪のために死んだ彼の行った正しい行為は忘れられ,その血の責任はおまえに要求される.
21 だが,もし正しい人が罪を犯さぬように戒めたために罪を犯さないなら,彼は戒めを聞いて生き長らえ,おまえは自分の命を救ったことになる」.


エゼキエルは唖(おし)になる
22 ここでまた,主の御手は私の上に下った,「立って平原に行き,そこで語ろう」.
23 私は立って平原にいった.するとケバル川のほとりで見たように主の栄光が現れ,私は地にひれ伏した。
24 だが、霊が私に入って立ちあがらせた.そのとき主は,私に話しかけられた,「いって,自分の家に閉じこもれ.
25 人の子よ,見よ,おまえに*なわがかかり,縛(しば)られるから,彼らのところには行けない.
26 また,おまえの舌が上あごにつくようにしよう.そうすれば*唖(おし)になり,彼らを戒めることもできない.彼らは反逆の民なのだ.
27 だが,私が話すとき,おまえは口を開けて言え,〈主は仰せられる,望む者は聞き,望まぬ者は聞くな.実に,彼らは反逆の民である〉」.

(注釈)

巻物の幻(2・1-3・15)
3 巻物は,神のみことばのかたどりである.預言者はみことばを心に刻(きざ)み,燃える火のような心で人にも伝えねばならない.セラフィム〈熾(し=燃える)天使〉は,イザヤの口に触れ(〈旧約〉イザヤの書6・5-7),主ご自身は,エレミアの口に触れられ,そこにみことばをおかれた(エレミアの書1・9).エゼキエルは,その考え方をいっそう現実的な表現で書き記している.
5 まことの神の示しをうけたイスラエル人は,神のみことばを聞くについて,もっともよい状態をもっているはずだった.しかし彼らは聞こうとしない.
7 原文は「額の固いもの」.
11 神は,ユダヤ人の不正を思い,「ご自分の民」とは呼ばれない.
14 ハバクク(ダニエルの書14章)の場合のように,奇跡的に運び去られたと考える必要はない.
15「テル・アビブ」は「麦の穂の丘」という意味で,ここはエゼキエルの活躍の中心地となった.

イスラエルを守るもの(3・16-21)
17-21節 33章1-9節で,これと同じテーマがもっとくわしく扱われている.
*イザヤの書52・8,56・10,エレミアの書6・17,エゼキエルの書33・2,6・7参照.
20 災いや病気などを指しているらしい.

エゼキエルは唖(おし)になる(3・22-27)
25 象徴的ななわのことらしく,「人の中に出るな」と預言者に命じられる主の御意志を表している.
26 ある時まで人々に話すなという主の命令である.しかしこれについてほかの解釈がある.

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B/ LATINE
EZECHIEL III, 16-21

16 Cum autem pertransissent septem dies, factum est verbum Domini ad me, dicens:
17 Fili hominis speculatorem dedi te domui Israel: et audies de ore meo verbum, et annunciabis eis ex me.
18 Si dicente me ad impium: Morte morieris: non annunciaveris ei, neque locutus fueris ut avertatur a via sua impia, et vivat: ipse impius in iniquitate sua morietur, sanguinem autem eius de manu tua requiram.
19 Si autem tu annunciaveris impio, et ille non fuerit conversus ab impietate sua, et a via sua impia: ipse quidem in iniquitate sua morietur, tu autem animam tuam liberasti.
20 Sed et si conversus iustus a iustitia sua fuerit, et fecerit iniquitatem: ponam offendiculum coram eo, ipse morietur, quia non annunciasti ei: in peccato suo morietur, et non erunt in memoria iustitiæ eius, quas fecit: sanguinem vero eius de manu tua requiram.
21 Si autem tu annunciaveris iusto ut non peccet iustus, et ille non peccaverit: vivens vivet, quia annunciasti ei, et tu animam tuam liberasti.

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C/ ENGLISH
EZECHIEL, 3:16-21

The prophet eats the book, and receives further instructions: the office of a watchman.

16 And at the end of seven days the word of the Lord came to me, saying:
17 Son of man, I have made thee a watchman to the house of Israel: and thou shalt hear the word out of my mouth, and shalt tell it them from me.
18 If, when I say to the wicked, Thou shalt surely die: thou declare it not to him, nor speak to him, that he may be converted from his wicked way, and live: the same wicked man shall die in his iniquity, but I will require his blood at thy hand.
19 But if thou give warning to the wicked, and he be not converted from his wickedness, and from his evil way: he indeed shall die in his iniquity, but thou hast delivered thy soul.
20 Moreover if the just man shall turn away from his justice, and shall commit iniquity: I will lay a stumblingblock before him, he shall die, because thou hast not given him warning: he shall die in his sin, and his justices which he hath done, shall not be remembered: but I will require his blood at thy hand.
21 But if thou warn the just man, that the just may not sin, and he doth not sin: living he shall live, because thou hast warned him, and thou hast delivered thy soul.


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訳注をさらに追加いたします.

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2012年8月18日土曜日

266 教理を再び考える 8/18

エレイソン・コメンツ 第266回 (2012年8月18日)

「教理」の軽視( " The scorn of “doctrine” " )がいま重大な問題となっています.21世紀における「最良の」 "best" カトリック信徒たち( "The “best” of Catholics in our 21st century" )は「教理」の重要性を口先で説きます( "pay lip-service to the importance of “doctrine" )が,生まれつき近代主義に毒されている彼らは本能的に,たとえカトリック教の教理でも人の心にとってはある種の牢獄であり,心を投獄するようなことはあってはならないと考えています( "…but in their modern bones they feel instinctively that even Catholic doctrine is some kind of prison for their minds, and minds must not be imprisoned. " ).合衆国の首都ワシントン D.C. にあるジェファーソン記念館(訳注:"the Jefferson Memorial". トーマス・ジェファーソンは合衆国第3代大統領)はアメリカの自由の戦士をまつる半宗教的な( "quasi-religious" )殿堂ですが,そのドーム内に彼の半宗教的な言葉が次の通り刻(きざ)まれています.「私は神の祭壇(さいだん)上で人心(じんしん)に対するあらゆる圧政にそれがいかなる形のものであろうとも永遠に敵対することを誓う.」( "I have sworn upon the altar of God eternal hostility against every form of tyranny over the mind of man" ).この言葉を口にしたとき、ジェファーソンは他のなににもまして,カトリック教の教理を心に抱いていたに違いありません.近代人の半宗教心( "modern man's quasi-religion" )の中には確固とした教理を持たないということも含まれます( "Modern man’s quasi-religion includes having no fixed doctrine. " ).

しかし,2週間前のエレイソン・コメンツ(7月28日付け第263回)の一文で私は「教理」の性格および重要性を違う角度から取りあげました( "…gives a different angle on the nature and importance of “doctrine”. " ).(違う角度というのは)すなわち「ローマ(教皇庁)は公会議的教理を信じる限り,あらゆる機会にそのような(反教理的= "non-doctrinal" )実務的合意を用いて聖ピオ十世会を第二バチカン公会議へ引きずり込むはず」ということです( "…It ran: So long as Rome believes in its Conciliar doctrine, it is bound to use any such (“non-doctrinal”) agreement to pull the SSPX in the direction of the (Second Vatican) Council. " ).言い換えれば,ローマ教皇庁が「教理」を軽視して,なんとしても聖ピオ十世会を公会議化 "conciliarize" しようとする原動力は公会議の教理に対する自らの信念に基づいています( "…In other words what drives Rome supposedly to discount “doctrine” and at all costs to conciliarize the SSPX is their own belief in their own Conciliar doctrine. " ).伝統的なカトリック教理が聖ピオ十世会の原動力だ ― と私たちは願っていますが ― それと同じように公会議の教理がローマ教皇庁の原動力です( "As Traditional Catholic doctrine is – one hopes – the driving force of the SSPX, so Conciliar doctrine is the driving force of Rome. " ).これら二つの教理は互いに対立しますが(訳注・「聖伝〈=聖なる伝承〉のカトリック教理」対「公会議的教理」),双方のそれぞれが一つの原動力なのです( "…The two doctrines clash, but each of them is a driving force. " ).

別の言い方をするなら,「教理」は単にある人が頭に抱く一連の考え,もしくは心の牢獄( "a mental prison" )というだけではありません( " “doctrine” is not just a set of ideas in a man’s head, or a mental prison. " ).ある人がどんな考えを頭に抱こうと,その人の本当の教理は彼の生活の原動力となるその一連の考えなのです( "Whatever ideas a man chooses to hold in his head, his real doctrine is that set of ideas that drives his life. " ).人はその考えを変えることはあっても,考えを一つも持たずにすますことはできません( "Now a man may change that set of ideas, but he cannot not have one. " ).アリストテレスはこのことを次にように述べています.「哲学的に思考したければ哲学的に考えなければなりません.哲学的に思考したくなくても,哲学的に考えなくてはなりません.いすれにしても,人間は哲学的に考えなければなりません.」( "Here is how Aristotle put it: “If you want to philosophize, then you have to philosophize. If you don’t want to philosophize, you still have to philosophize. In any case a man has to philosophize." ) 同じように,自由派の人たち("liberals")がいかなる考えも圧政だと考え,それを軽視するのは構いませんが,いかなる一連の考えも圧政だと考えること自体がひとつの重要な考えであり( "Similarly, liberals may scorn any set of ideas as a tyranny, but to hold any set of ideas to be a tyranny is still a major idea, …" ),その考えが現代のおびただしい数の自由主義者たちや多くのカトリック信徒たちにとっての生活の原動力となっています( "…and it is the one idea that drives the lives of zillions of liberals today, and all too many Catholics. " ).彼らはこのことをもっと深く知るべきです.だが私たち現代人すべてにとっては,自由への崇拝が血管に脈々と流れています( "These should know better, but all of us moderns have the worship of liberty in our bloodstream. " ).

このように,本来の意味の教理は考えを束縛(そくばく)するようなものだけでなく( "Thus doctrine in its real sense is not just an imprisoning set of ideas, …" ),あらゆる生きている人間の生命を導く神,人間および生命に関する中心的な観念なのです( "…but that central notion of God, man and life that directs the life of every man alive. " ).ある人が自殺を図(はか)ろうとするのであれば,その人は自分の人生が悲惨で生き続けるに値しないという考えに駆(か)り立てられているのです( "Even if a man is committing suicide, he is being driven by the idea that life is too miserable to be worth continuing. " ).お金中心の人生観は人を金持ちになるよう駆り立てます( "A notion of life centred on money may drive a man to become rich; …" ).快楽中心ならレーキ(訳注:カジノでチップをかき集める道具)になるよう( "on pleasure to become a rake; … " ),認知中心なら有名になるよう駆り立てます( "on recognition to become famous, and so on. " ).まさに人がなに中心で人生を考えようとも,その考えがその人にとっての真の教理となります( "But however a man centrally conceives life, that concept is his real doctrine. " ).

かくして,ローマの公会議派の人たちは,公会議を拒む聖ピオ十世会を元通りにしようとする第二バチカン公会議の中心的な考えに駆り立てられて動きます( "Thus conciliar Romans are driven by Vatican II as being their central notion to undo the SSPX that rejects Vatican II, …" ).彼らはそれに成功するか,その中心的な考えが変わるまでルフェーブル大司教の聖ピオ十世会を解体しようと働き続けるでしょう( "… and until they succeed, or change that central notion, they will continue to be driven to dissolve Archbishop Lefebvre’s SSPX. " ).これに対し,聖ピオ十世会の聖職者や信者たちにとっての中心的な原動力は,天国へ導かれたいという願いであるべきです( "On the contrary the central drive of clergy and laity of the SSPX should be to get to Heaven, … " ).これは天国,地獄が存在し,イエズス・キリストとその真の教会が天国へたどり着く唯一かつ確かな道を与えてくれるという考え方です( "… the idea being that Heaven and Hell exist, and Jesus Christ and his true Church provide the one and only sure way of getting to Heaven. " ).彼らは原動力となるこの教理が自分たちの創造力で生み出したものでないことを知っています( "This driving doctrine they know to be no fanciful invention of their own, … " ).だからこそ,彼らは神,人間および生命に関する誤った考えによって行動する嫌(いや)な新教会 "Newchurch" のネオモダニストたち( "neo-modernists" )によって,自分たちの教理が蝕(むしばま)れ,壊され,堕落(だらく)させられるのを拒むのです( "… and that is why they do not want it to be undermined or subverted or corrupted by the wretched neo-modernists of the Newchurch, driven by their false conciliar notion of God, man and life. " ).ネオモダニスト(新現代主義者)たちと聖ピオ十世会との対立は全面的なものです( "The clash is total. " ).

その対立は自由派の人たちが望んでいるように避けることなどできません( "Nor can it be avoided, as liberals dream it can. " ).仮に偽(にせ)ものが勝てば,道端(みちばた)の石でさえやがて叫ぶでしょう(新約聖書・ルカ聖福音書19:40)(訳注後記).もし真実(Truth)が勝っても,悪魔(Satan)は世界が終わるまで誤りを次々に引き起こすでしょう.( "If falsehoods win, eventually even the stones of the street will cry out (Lk.XIX, 40). If Truth wins, still Satan will go on raising error after error, until the world ends. " )だが,私たちの主イエズス・キリストは「耐え続けるものは救われる」(新約聖書・マテオ聖福音書24:13)と述べておられます( "But “He that perseveres to the end will be saved”, says Our Lord (Mt.XXIV, 13). " ).(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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1. 最後のパラグラフの先の訳注
新約聖書・ルカによる聖福音書:第19章40節(太字部分)(36-40節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE
聖週間-枝の主日(日曜日)・エルサレムに入る

『…彼ら(=イエズスと弟子たち)が通っていくと,人々は道の上に自分たちの服を敷(し)いた.オリーブ山の下り道に近づくと,喜び勇んだ多くの弟子たちは,その見たすべての奇跡について声高く神を賛美しながら言いはじめた,
「賛美されよ,主のみ名によって来られる御者,王よ.
天には平和,いと高き所に栄光」.
群衆の中のあるファリサイ人は,「先生,弟子たちをしかってください」と言ったが,イエズスは,「私は言う.彼らが黙ったとしても石が叫ぶだろう」と答えられた.』

(注)
・エルサレム入城…キリストは雌ろばの子に乗って来られた.
→マテオ聖福音書21・5とその注釈参照(太字部分)(1-5節).
→『彼ら(イエズスと弟子たち)はエルサレムに近づき,オリーブ山のほとり,ベトファゲを望むところに来た.そのときイエズスは弟子二人を使いにやるにあたって言われた,「あなたたちは向こうの村に行け.するとつないである雌(めす)ろばとその子がいるのを見つけるから,それを解いて私のところに連れてくるがよい.もしだれかが何か言えば、〈主に入り用だ.すぐ返すから〉と言え」.こうされたのは次の預言者のことばを実現するためである,
シオンの娘に言え,〈王が来られる.雌ロバと荷を担う獣(けもの)の子の小ろばに乗る,へりくだる人〉」.…』
(注釈)
〈旧約〉ザカリアの書9・9,イザヤの書62・11参照.
王たるメシアのこの地味なやり方は,その王国の平和な質朴さを表現している.イエズスはこう行うことによって預言を実現した.したがってこの場合「柔和な人」ではなく,「謙遜な人」「へりくだる人」「地味な人」の意味が強い.
→マテオ聖福音の続きの部分(6-11節)
『…弟子たちは行って,イエズスが命じられたとおりにし,ろばとその子を連れてきて,その上にがいとうをかけた.イエズスはその上に乗られた.人々の多くは道にがいとうを敷き,ある者は木の枝を切って道に敷いた.またイエズスの先に立ち,後に従う人々は,
「ダビドの子にホサンナ.賛美されよ,主の名によって来る御者(おんもの).天のいと高き所にホサンナ」
と叫んだ.エルサレムに入ると町じゅうこぞって,「あれはだれだ」と騒いだ.人々は「あの人はガリラヤのナザレトから出た預言者イエズスだ」と言った.』

・枝=棕梠(しゅろ),かんらん(オリーブ)の枝.
イスラエルの王たる主イエズス・キリストがエルザレムで歓迎され給うたとき,ユダヤ人がよろこびのしるしとしてかざした枝.

2. 最後のパラグラフの後の訳注
マテオによる聖福音書:第24章13節(太字部分)(1-14節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW
エルサレムの滅亡と世の終わり

『イエズスは神殿を出られた.弟子たちが近寄って神殿の構えについてイエズスの注意をうながしたので,「そのいっさいのものをあなたたちは見ている.まことに私は言う.ここには石の上に一つの石さえ残さず崩れ去る日が来る」とイエズスは答えられた.イエズスがオリーブ山に座っておられると弟子たちがそっと近づいて,「そういうことがいつ起こるか教えてください.また,あなたの来臨と世の終わりには,どんなしるしがあるでしょうか」と尋(たず)ねた.
イエズスは答えられた,「人に惑(まど)わされぬように気をつけよ.多くの人が私の名をかたり,〈私こそキリストだ〉と言って多数の人を迷わすだろう.また,戦争や戦争のうわさを聞くだろう.だが心を騒がすな.そうなってもまだ世の終わりではない.〈民は民に,国は国に逆らって立ち〉,諸方に,ききんと地震がある.だがこれらはみな生みの苦しみの始めでしかない.
そのとき人々はあなたたちをいじめ,殺し,私の名のためにすべての民が,あなたたちを憎むだろう.そのときには多くの人が滅び,互いに裏切(うらぎ)り,憎み合い,多くの偽預言者が起こって人々を惑わし,不義が増すにつれておびただしい人の愛が冷(さ)める.だが終わりまで耐え忍ぶ者は救われる
天のこの福音が,全世界にのべ伝えられ,諸国の人々に向かって証明されるとき,そのとき,終わりは来る.』

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訳注の引用箇所の前後の文と注釈を追補いたします.
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2012年8月13日月曜日

265 自由意思の尊重 8/11

エレイソン・コメンツ 第265回 (2012年8月11日)

霊魂たちが地獄へ落ちるドラマについて(多くの霊魂がその道を選びます - 新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13節,22章14節),読者は以下のように簡潔に言い表しうる古典的な問題を提起するでしょう.神は霊魂が呪われるのをお望み( "wants souls to be damned" ) なのか,それともそうではないのだろうか? もし神が確かにそうお望みなら神は無慈悲 (むじひ, "is cruel" )ということになる.もし神がそうお望みでないとしても,霊魂が地獄に落ちることは起こりうる.それだと神は(全知)全能( "not omnipotent" )でないということになる.それでは神は無慈悲なのか,それとも全能でないのか? そのいずれなのだろうか?(訳注後記)

まず最初に神が霊魂を地獄に落とすことは決してないことをはっきり(確証,立証)させましょう.多くの呪(のろ)われた霊魂たちのいずれもすべてまだ地上(=この世)に生活している間に(あらゆる機会ごとにその都度〈つど〉)自(みずか)らの自由意思で選び取った一連の諸々の選択(せんたく)によって自らを地獄に送り込みそこに落ちたのです( "Every one of the many souls damned sent itself to Hell by the series of choices that it made freely during its time on earth. " ).神は各々(おのおの)の霊魂に生命,時間そして自由意思,さらにそれらとともに各自が天国へ上る道を選び取るよう数多くの自然的な助けと超自然の恩寵(おんちょう)とを,各々の霊魂が必要とする限りいくらでも制限することなく,お与えになりました.だが,ある霊魂がそれを拒(こば)んだときには,神はその霊魂が望んだとおりのものを得るようにしました.そのものとはすなわち,神なしの(=神の存在しない)永遠です( "God gave to it life, time and free-will, and also any number of natural helps and supernatural graces to persuade it to choose to go to Heaven, but if it refused, then God let it have what it wanted, namely an eternity without him. ").そうして得ることとなった神の喪失(そうしつ, "loss of God" )という結果・状態は,どの霊魂もひとつ残らず本来ただ神を持つ(=所有する)という目的のためだけに神によって造(つく)られたものなわけですから,(当然)その霊魂にとって地獄に落ちてもそれは断然圧倒的に最もひどい苦痛となります( "And that loss of God, for a soul made by God only to possess God, is by far its cruellest suffering in Hell. " ).そこで,神はその霊魂が天国を選び取ってくれるようにと願われました. (神はすべての者を救いたまう - 新約聖書・ティモテオへの第1の手紙:第2章4節)( "Thus God wished that the soul might choose Heaven ("He will have all men to be saved" – I Tim. II, 4),…" )(訳注後記).だが,神はその霊魂が地獄という悪を選び取ることもお許しになり,その悪からより大きな善を導き出そうと望まれました("…but he wanted to allow the evil of its choosing Hell in order to bring out of that evil a greater good. ").

ここで( "wish" )と( "want" )という二つの英語を使い分けた点にご注目ください.何かを「(欲しいと)望む」( "want" )ことは単にそれを「願う」( "wish" )よりはるかに強い(=より完全な, "more full-blooded" )意味を持ちます.ですから家庭の父親は自分の息子が人生でつらい経験をしないようにと願う( "wish" )でしょう.だが,父親はあらゆる状況を考え(考慮して),あえて息子がつらい経験をするよう望む(=つらい経験もしてほしいと望む)( "want" )ことがあり得ます.それが息子が人生で学ぶ唯一の方法だと知っているからです( "Thus a family father may well not wish his son to suffer harsh experience in life, but in view of all the circumstances he can want to let him suffer because he knows that that is the only way his son will learn. " ).同じように,放蕩(ほうとう)息子の寓話(ぐうわ)でも,父親は下の息子(次男)が家を出て自分の遺産を食いつぶさないでほしいと願いましたが,その息子がそうすることを望み,実際にはそうしました.それが良い結果を生みました - 次男息子は家に帰り,今や後悔に打ちひしがれ,前より惨(みじ)めながらも賢(かしこ)い若者になりました.("Similarly in the parable of the Prodigal Son, the father did not wish to let his younger son leave home and squander his heritage, but he wanted to let him do so because that is what the father in fact did, and good did come of it – the return home of the son, now repentant, a sadder but wiser young man. ")(訳注後記)

これと同じように,神は一方であらゆる霊魂が救われるよう願って( "wishes" )おられます.神は人々がそうなるようお造りになられたからであり,人々のために十字架上での(処刑による)死を選ばれたからです.十字架上での神の苦痛の大きな部分は,多くの霊魂が救われるために贖罪(しょくざい)による恩恵を受ける道を選ばないだろうと知っていたことでした( "In the same way God wishes on the one hand all souls to be saved, because that is what he created them for, and that is why he died for all of them on the Cross, where one large part of his suffering lay precisely in his knowing how many souls would not choose to profit by their Redemption to be saved. " ).そのような神を無慈悲だなどけっして言えません! ( "Such a God can in no way be considered or called cruel !" ) 他方で神はあらゆる霊魂が望みもしないのに救われることなど望んで( "does not want" )おられません.もし神がそうお望みなら,神が全能だからあらゆる霊魂が救われることになるからです( "On the other hand God does not want all souls to be saved unless they also want it, because if he did, they would all be saved, because he is all-powerful, or omnipotent. ". )だが,あらゆる状況を考えれば,すべての霊魂が救われるというのは,どうぞご勝手にと言われれば,救いを選ばないような人々の自由選択を実質的に否定することを意味しますし,彼らの自由意思を踏みにじることになります( "But, given all the circumstances, that would mean in effect overriding the free choice of those who, left to themselves, would choose not to be saved, and that would mean trampling on their free-will. ". )人々が自由意思をいかに大切と考えているかは他人の命令を嫌い自立するのを好むことを見ればお分かりでしょう.人はみな自由意思こそが自分が動物でもロボットでもないことの証しだと知っています( "Now just see how passionately men themselves value their free-will, when you see how they dislike being given orders or like being independent. They know that their free-will is the proof that they are not just animals or robots. ". )神もまた自らの天国に動物やロボットでなく人間が住むようになるのをお望みです.だから,あらゆる人が望みもしないのに救われるのをお望みではない("do not want")のです( "So God too prefers his Heaven to be populated with men and not just with animals or robots, and that is why he does not want all men to be saved unless they also want it. " ). )

それでも神は霊魂が呪われるのをお望みではありません( "does not want" ).なぜならそれはやはり神にとってみれば(神の側からは)無慈悲なことだと知っておられるからです
( "Yet God does not want souls to be damned, because that again would be cruelty on his part. " ).神が霊魂たちの呪われることをお許しになろうと望まれる( "wants to allow them to be damned" )ときの理由はひとえに,そうすることで霊魂たちが自ら選び取った永遠を持てるようになる状況をお考えになって(=考慮されて)のことなのです( "He only wants to allow them to be damned, in view of the circumstances that souls will thus have the eternity of their own choice, …").そうして神はただ単に(選択の自由意思を持たない)諸々の動物たちやロボットばかりではない,(自ら選び取る自由意思を持つ)人間たちの天国を所有されるおつもりなのです( "… and he will have a Heaven of human beings and not just animals or robots. " ).

このようにあらゆる霊魂を救いたいという神の願いは神がけっして無慈悲ではないことを意味します( "Thus his wish to save all souls means that he is by no means cruel,…" ).多くの霊魂が呪われるのは神が全能でないからではなく,神が自ら創造された人間の自由意思を尊重されるからであり( "…while the damnation of many souls proves on his part not a lack of omnipotence, but a choice to value his creatures’ free-will, …" ),地上(=この世)で神を愛する道を選び取った霊魂たちに,神が天国をもって報いようとされるとき無限の喜びをお感じになるからです( "…and the infinite delight that he takes in rewarding with Heaven souls that have chosen to love him on earth." ).

神の御母(聖母マリア)よ,今も私の臨終(りんじゅう)のとき(=死に際〈ぎわ〉に)も,私があなたの御子(神なるイエズス・キリスト)を愛し天国を選ぶようお助けくださいますよう!( "Mother of God, now and in the hour of my death, help me to love your Son and to choose Heaven ! " )

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

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第1パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW
VII, 13; XXII, 14
(English)
EVANGELIEM SECUNDUM MATTHAEUM
VII, 13; XXII, 14
(Latine)

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第2パラグラフの訳注:
新約聖書・ティモテオへの第1の手紙:第2章4節
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO TIMOTHY II, 4
(English)
EPISTOLA BEATI PAULI APOSTOLI AD TIMOTHEUM PRIMA II, 4 (Latine)

『*すべての人が救われて真理を深く知ることを神は望まれる.』

(注釈)

* 〈新約〉ローマ人への手紙(9:18,21)解釈を助ける神学的に重要なことば.

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"Who will have all men to be saved, and to come to the knowledge of the truth. "

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"qui omnes homines vult salvos fieri, et ad agnitionem veritatis venire."

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第3パラグラフの訳注:
「放蕩息子の寓話」 "the parable of the Prodigal Son" について.

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訳注を追補いたします.
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2012年8月8日水曜日

264 ある総会 8/4

エレイソン・コメンツ 第264回 (2012年8月4日)

皆さんの多くがご存じのとおり,ある司教が先月スイスのエコンで開かれた聖ピオ十世会総会すなわち代表者会議から締め出されました( “As many of you know, a certain bishop was excluded from the General Chapter, or meeting of heads of the Society of St Pius X, held last month in Écône, Switzerland.” ).その決定を確認するにあたり,エレイソン・コメンツ(6月16日付け・第257回)がカトリック信仰を堕落(だらく)させる者たちは「断ち切る(たちきる)」べきという使徒聖パウロの一見殺意あるような願い(新約・ガラツィア人への手紙:第5章12節)を翻案(ほんあん)して用(もち)いたことが利用されたようです.実際には,アムブロジオ,ヒエロニモ,アウグスティノ,クリソストモ( “Ambrose, Jerome, Augustine and Chrysostom” )たちはいずれも使徒聖パウロの願いは,ユダヤ教徒化を説く者たちの命そのものでなく彼らの男性のシンボル( “Judaizers' manhood” )を対象としたというのがガラツィア人への手紙:第5章1-12節の文意だと考えていますし,クリソストモはそれを戯れ(たわむれ,“a jest” )ととらえています.(訳注後記)

しかしながら,聖ピオ十世会総会でその戯れが真面目に利用されたと聞いたとき( “However, when I heard of what serious use was being made of the jest at the Chapter,…” ),つい下品な場面( “a naughty vision” )が私の頭に浮かんでしまったことを認めなければなりません.聖ピオ十世会の高貴な同僚たちが夜,Jack the Ripper(訳注・19世紀〈1888年8月7日-11月10日〉英国ロンドンで起き迷宮入りとなった後伝説化した凶悪殺人事件の犯人の自称)のように変装した痩身(そうしん)の英国人司教が月明かりにキラリと光る長いナイフを手に切り刻む相手を求めて木の茂(しげ)みに潜(ひそ)んでいるのではないかと警戒しながら窓から外を眺めている場面を想像したのです.親愛なる同僚の皆さん,心安らかにお眠りください.私に人殺しの野望などありません.それが本心です!

冗談はさておき,聖ピオ十世会総会は大真面目でした.総会では何が決まったのでしょうか? 先(ま)ず,総会数日後に公表された宣言が一本と( “…a Declaration, made public a few days later,…” )ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間の将来の合意に向けた6項目の前提条件です.この前提条件は総会直後インターネット上にリークされました( “…and six conditions for any future Rome-SSPX agreement, leaked on the Internet soon after that…” ).(多くの人たちが現在,自らの信仰と救いを聖ピオ十世会の指導に委ねていることを考えると,私はリークが不当なことではなかったと思います.)( “(given how many souls are presently entrusting their faith and their salvation to the guidance of the SSPX, I find such a leak not unreasonable)” )どなたに聞いても,総会に出席した善良な人たちが聖ピオ十世会の受け得る損害を限定的にするため最善の努力を払ったようで,私はそのことに敬意を表します( “Now all honour to the good men at the Chapter who by all accounts did their best to limit the damage,…” ).だが,もし宣言と前提条件が聖ピオ十世会の指導者全員の現時点での心構えを示すものであるなら,懸念すべき要因があると言わざるを得ません( “…but if the Declaration and conditions give us the present mind of the Society’s leaders as a whole, then there has to be cause for concern.” ).

2012年に出された宣言( “the Declaration of 2012” )について言えば,聖ピオ十世会に何が起きたかを知るには,同宣言をルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” が1974年に出された宣言(“Archbishop Lefebvre’s Declaration of 1974” )と簡単に比べるだけで十分です.同大司教は第二バチカン公会議がもたらした改革を明瞭かつ繰り返し非難しており(「リベラリズム(自由主義)とモダニズム(現代主義)から生まれたもので,それにより徹底的に毒されており,異説から始まり異説に終わっている」),その言葉ゆえに公会議派の歴代教皇の怒りを買いました( “…the Archbishop explicitly and repeatedly denounces the reformation wrought by Vatican II (“born of Liberalism and Modernism, poisoned through and through, deriving from heresy and ending in heresy”), in words that brought down upon him the wrath of the Conciliar Popes,…” ).これに対し,今回の宣言は第二バチカン公会議について「奇抜さがあり」単に「間違いじみている」組織だと一度だけ言及しているにすぎません( “…on the contrary the Declaration of 2012 refers only once to the Council with its “novelties” merely “stained with errors”,…” ).その言葉づかいは終始教皇ベネディクト16世の同意を得ているのではないかと容易に想像できるものです( “…in terms that one can easily imagine Benedict XVI underwriting from beginning to end.” ).今や聖ピオ十世会は公会議派の歴代教皇には何ら深刻な問題もないと考えているのでしょうか( “Does the SSPX now think that the Conciliar Popes represent no serious problem ?” )?

ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との将来の合意に向けた6項目の前提条件( “…the six conditions for any future Rome-SSPX agreement, …” )について言えば,詳細な検討に値しますが,今すぐここで言えることとして聖ピオ十世会が2006年の総会後に出した両者間の実質合意には教理上の事前合意が必要との要求がまったく消え去っている点を指摘するだけで十分ですしょう( “…they deserve a detailed examination, but suffice it to say here and now that the demand made by the SSPX’s 2006 General Chapter for a doctrinal agreement prior to any practical agreement seems to have gone completely by the board.” ).聖ピオ十世会はローマ教皇庁の教理はもはやさほど重要なことではないと考えているのでしょうか( “Is it now the mind of the SSPX that the doctrine of the Romans to whom they would submit is no longer so important ?” )? 聖ピオ十世会自体がリベラリズムの魔力に屈しようというのでしょうか( “Or is the SSPX itself succumbing to the charms of Liberalism ?” )?

反対意見の観点から,私はあえて読者の皆さんに Jack the Ripper 閣下が1994年から2006年の間に出した「説教集と教理上の会議集」( “a collection of “Sermons and Doctrinal Conferences” ”)をご拝聴いただけるようお勧めします. http://truerestorationpress.com/node/52 から入手できる7枚の CD に収録されており,購入促進の特別オファーが8月末までついています( “For a contrarian point of view, may I venture to recommend a collection of “Sermons and Doctrinal Conferences” of His Excellency Jack the Ripper from between 1994 and 2009, now available on seven CD’s from http://truerestorationpress.com/node/52, with special incentives to purchase expiring at the end of this month ?” ).そこに含まれている言葉がすべて金言(きんげん)というわけではありませんし,中には明らかに突飛(とっぴ)な言葉もあります.だが少なくともそこには,私たちカトリック信仰の友人ではなく敵の腸(はらわた)を抉(えぐ)り出そう “disembowel” という努力が見て取れます( “…Not every word in these 30 hours of recordings may be golden, some words are no doubt too temperamental, but at least the effort is made to disembowel the enemies and not the friends of our Catholic Faith.” ).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第1パラグラフの訳注その1:

“Ambrose, Jerome, Augustine and Chrysostom” について.

日本語表記(ローマ・ミサ典書〈1955年〉邦訳版にある表記より
*司教証聖者,教会博士,聖アムブロジオ,(ミラノ司教)
*証聖者,司祭,教会博士,聖ヒエロニモ,(神学者,歴史家.聖書をラテン〈ウルガタ〉語訳に改訂)
*教会博士,証聖者,司教,聖アウグスティノ,(ヒッポ司教)
*司教証聖者,教会博士,金口(きんこう)聖ヨハネ(クリソストモ)(コンスタンティノポリス大司教)(金口= Golden mouth , 名説教家として雄弁だったことから)

英語表記 (In English)
Ambrose, Jerome, Augustine and Chrysostom

ラテン語表記 (Latine)
*Sanctus Aurelius Ambrosius, episcopus Mediolanensium, Doctor Ecclesiae.
*Sanctus Eusebius Sophronius Hieronymus, Doctor Ecclesiae et religiosus.
*Sanctus Aurelius Augustinus Hipponensis, Episcopus Hipponensis et Doctor Ecclesiae Catholicae.
*Sanctus Ioannes Chrysostomus, Ioannes Antiochen, Pater Ecclesiae, Doctor Ecclesiae, et Patriarcha Constantinopolitanus (ab anno 398).

・「四大ラテン教父
主にラテン語で著述を行った神学者(教父)のうち,アンブロジウス・ヒエロニムス・アウグスティヌス・グレゴリウス1世を指す語.カトリック用語は「教会博士」.


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第1パラグラフの訳注その2:

ガラツィア人への手紙・第5章1-12節 (日本語)
THE EPISTLE OF ST. PAUL TO THE GALATIANS V, 1-12 (English)
EPISTOLA BEATI PAULI APOSTOLI AD GALATAS V, 1-12 (Latine)

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ガラツィア人への手紙・第5章1-12節

キリスト信者の自由
1 *¹この自由のために,キリストは私たちを解放されたのであるから,しっかりと立って,二度と奴隷のくびきをかけられるな(5・1).
2 見よ,私パウロはあなたたちに言う.あなたたちが割礼を受けるなら,キリストは何の役にも立たなくなる.
3 また,割礼を受けようとする人ならその人は律法全体を守る義務があると,私はふたたび宣言する.
4 律法によって義とされることを望む者は,キリストから切り離され,恩寵から落とされる.
5 私たちが希望をもって正義の実現を待っているのは,霊により信仰によってである.
6 なぜなら,キリスト・イエズスにおいては,割礼を受けることも受けないこともいずれも価値がなく,*²愛によって働く信仰だけに価値がある.

7 前はよく走っていたのに,今あなたたちが真理に服従するのをはばんだのは何者か.
8 そういう思いつきは,あなたたちを呼ばれた方からのものではない.
9 少しのパンだねは練り粉全体をふくらませる.
10 あなたたちが他の考えを抱かぬように私は主によって切に望む.ともあれ,あなたたちを乱す者は,*³だれであろうとそのさばきを受けるであろう.
11 兄弟たちよ,*⁴私が今なお割礼を宣教しているなら,なぜ迫害されるのだろうか.それなら十字架のつまずきはやんだわけである.
12 あなたたちを乱す人々は*⁵自分で切ればよい(5・7-12).

(注釈)

キリスト信者の自由(5・1-12)
*¹ 14・21から言い始めた律法のことは,いつかキリストの福音に変わる.キリストは私たちをユダヤの律法から解放し,信仰から来る自由を与えられた.

*² ほんとうの信仰は愛によって人を動かす.

*³ ユダヤ派の信者を指している.

*⁴ 割礼をまだ守らねばならないとパウロが宣教していたら,ユダヤの信者から迫害されるはずはない.

*⁵ かつて異邦人であったガラツィア人の中には,チベレ女神の信心がはやっていた.その信心家の間では,よく去勢をした.そのことの暗示らしい.つまり「あなたたちを乱すような人は,何もかも切ってしまえ」という皮肉であろう.

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THE EPISTLE OF ST. PAUL TO THE GALATIANS CHAPTER V, 1-12

Only faith profits
1 Stand fast, and be not held again under the yoke of bondage.
2 Behold, I Paul tell you, that if you be circumcised, Christ shall profit you nothing. (Acts 15:10)
3 And I testify again to every man circumcising himself, that he is a debtor to the whole law.
4 You are made void of Christ, you who are justified in the law: you are fallen from grace.
5 For we in spirit, by faith, wait for the hope of justice.
6 For in Christ Jesus neither circumcision availeth any thing, nor uncircumcision: but faith that worketh by charity.

7 You did run well, who hath hindered you, that you should not obey the truth?
8 This persuasion is not from him that calleth you.
9 A little leaven corrupteth the whole lump. (1 Cor. 5:6)
10 I have confidence in you in the Lord: that you will not be of another mind: but he that troubleth you, shall bear the judgment, whosoever he be.
11 And I, brethren, if I yet preach circumcision, why do I yet suffer persecution? Then is the scandal of the cross made void.
12 I would they were even cut off, who trouble you.

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EPISTOLA BEATI PAULI APOSTOLI AD GALATAS CAPUT V, 1-12

Fides sola prodest
1 State, et nolite iterum iugo servitutis contineri.
2 Ecce ego Paulus dico vobis: quoniam si circumcidamini, Christus vobis nihil proderit.(Act. 15:10)
3 Testificor autem rursus omni homini circumcidenti se, quoniam debitor est universæ legis faciendæ.
4 Evacuati estis a Christo, qui in lege iustificamini: a gratia excidistis.
5 Nos enim spiritu ex fide, spem iustitiæ expectamus.
6 Nam in Christo Iesu neque circumcisio aliquid valet, neque præputium: sed fides, quæ per charitatem operatur.

7 Currebatis bene: quis vos impedivit veritati non obedire?
8 Persuasio hæc non est ex eo, qui vocat vos.
9 Modicum fermentum totam massam corrumpit. (I Cor. 5:6)
10 Ego confido in vobis in Domino, quod nihil aliud sapietis: qui autem conturbat vos, portabit iudicium, quicumque est ille.
11 Ego autem, fratres, si circumcisionem adhuc prædico: quid adhuc persecutionem patior? Ergo evacuatum est scandalum crucis.
12 Utinam et abscindantur qui vos conturbant.


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