2011年4月24日日曜日

神学院長の書簡集

エレイソン・コメンツ 第197回 (2011年4月23日)

「エレイソン・コメンツ」 の読者の中には,以前ここで取り上げた (3月5日付のエレイソン・コメンツ第190回) 「神学院長からの書簡集」 “Letters from the Rector” のことをご存じない方がおられるかもしれません.書簡は聖ピオ十世会の司祭たちが訓練を受けるアメリカの聖トマス・アクィナス神学院 ( “St. Thomas Aquinas Seminary” ) が発行する月報として1983年から2003年までの間に書かれたものです.4冊のペーパーバックにまとめられ,インターネットの truerestorationpress.com/4volsletters を通じて入手できます.18年前にカトリック教に改宗したあるスコットランド人女性が最近それらの書簡集を読みました.彼女の感想の一部を以下にご紹介します:--

「この書簡集を読んで私はびっくり仰天しました … 私は元ニューエイジ (哲学) 信奉者の 「気が変なヒッピー」 で,ニューエイジ・デビル ( “New Age Devil” ) からカトリック教会に逃れたのですが,そこで教会の聖域にまさにデビル (=悪魔) がいることを発見しただけでした … 公会議主義下の教会 ( “the Conciliar Church” ) の枢機卿,司教,司祭たちはカトリシズム (カトリック教義) を説くにあたって婉曲(えんきょく)で当たり障(さわ)りのないことをいうだけではありません.そこにはカトリック教会のあらゆる伝統や信仰をずたずたに引き裂いてこき下ろすことに積極的かつ悪意ある喜びを感じているように見える人たちが多数います.」 (訳注後記)

それに反して, 「この書簡集はいずれの書簡も驚くほど素晴らしくカトリック的なものばかりです … 書簡集では公会議を批判することなしにカトリック教会の危機を解決しようと試みている保守派とエクレジア・デイ ( “the Conservative and Ecclesia Dei” ) のカトリック信徒たちの愚行について説明しています.そうしたカトリック信徒たちは,例えばカトリック教会の典礼や宗規などについての公会議による改革の外観を熟慮しながらも,その本質すなわち信教の自由とエキュメニズム (世界教会主義) に関する公会議の諸文書が実証しているようなカトリック教理についての考え方の根本的な内部変化を無視しているのではないでしょうか ?

多元主義 “Pluralism” および人間の尊厳についての自由主義的観点に触れた神学院長の書簡集は驚くほど見事にこの変化の特質を説明しています.書簡集が繰り返し例証しているように,私たちは現代ローマ教皇庁 ( “modern Rome” ) の考え方におけるこの急進的な変化を理解しない限り,現代世界やそこに置かれたカトリック教会の状況を理解することはできないでしょう.そして,もしエクレジア・デイの人々が,公会議に対し過激な批判をするのは有効な教皇が存在しないと言うに等しいと反論するのであれば,書簡集は聖ピオ十世会のとる立場が持つ知恵,すなわち左派リベラル(自由主義)派,右派「教皇空位主義者」 “Sedevacantists” のいずれにも針路(しんろ)を取らない知恵を十分に実証する議論を提供しています.(訳注後記)

現代世界への対応についてどうかと言えば,公会議下の教会の人々は役に立つことはほとんど語りません.彼らは自分たちの革命的な夢想にあまりにも深く没頭しているため,それがもたらす悲惨な結果に取り組めずにいます.彼らには神学院長からの書簡集が触れているピンク・フロイド,ユナボマー,オリバー・ストーン,チルドレン・イン・ザ・フォレスト ( “Pink Floyd, the Unabomber, Oliver Stone or the Children in the Forest” ) などの問題について書簡を書くなどできないでしょう.なぜなら主流派教会は今日の物質本位の世界に深い不満を抱く代わりに,常にそれに同調しているように思えるからです.書簡集はもっぱら歴史的記録として読まれるべきでしょうが,その真の価値は後の時代になるまで明らかにならないかもしれません.恐らくそれはマリアの無原罪の御心の勝利 ( “the Triumph of the Immaculate Heart of Mary” ) でカトリック教会の第6の時代 ( “the 6th Age of the Church” ) が始まるときだけでしょう.」(訳注後記)

そして女性にとって決め手となるのが次の彼女の感想です: 「さらに言えば,私がこんなことを言い出すとは思いもしませんでしたが,スラックス(ズボン)について触れた書簡を読んだとき私は自分の 「洋服ダンスの中身」 を考え直さなければと思いました.」 女性がズボンをはくのをやめるとき,カトリック教会は本当に復活するのです!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第2パラグラフの訳注:
「ニューエイジ」について

または「ニューサイエンス」という.西洋的価値観を排し,超自然を信じ,宗教・医学・環境などの分野を全体論的視野に立って見直そうとする1980年代後半の哲学運動.
→ “New Age Therapies” = ニューエイジ志向の(精神)療法.

(ジーニアス大和英インデックス参照)

* * *

第4パラグラフはじめの訳注:
多元主義」の意味と「自由主義」「現代民主主義」との関係について

元来,世界の起源を唯一のものに還元する一元論に対して世界の複数性を認める哲学上の立場を意味していたが,現在では「複合民族社会論」や「政治的多元論」などの基本的な枠組みとして定着している.

とりわけ「政治的多元論」は政治世界を説明するとき「国家対個人」の図式に代えて「国家対集団」の図式を提示した.多元主義は複数の集団による競争によって全体社会の利益の調整をはかることを目的とする.それは国家と個人の間に中間団体を設定することで政府機能の肥大化を防止する自由主義の理念に合致するものであった.アメリカの政治学者ダールは民主化の指標として競争の自由と公開性の原則をあげ,それらの原理に基づく政治体制を「ポリアーキー」と名づけた.その意味で多元主義は現代民主主義の生命線と考えられるのである.

しかし,現代社会では利益集団間の競争が巨大団体の独占によって形骸化し,その巨大利益集団と政府の癒着体制(コーポラティズム)と密室政治が問題化されるようになっているのが実情である.

(ブリタニカ国際大百科事典参照)

* * *

第5パラグラフ最後の訳注:
「カトリック教会の第6の時代」について

聖アウグスティヌスによる時代区分(「六つの時代」 “The Six Ages” - この世のはじめ〈アダムとエバ〉から終わりまでを霊的な六つの節目の時代に分けている)に由来するらしい.

(参考資料: “DE CATECHIZANDIS RUDIBUS, CAP. XXII”, “Catechizing of the Uninstructed”, S. Aurelius AUGUSTINUS )

* * *

2011年4月22日金曜日

目を覚ましていなさい!

エレイソン・コメンツ 第196回 (2011年4月16日)

およそ2万7千人の人々が死亡したと推定される日本での最近の平時大災害が天災ではなく人災だったといううわさが出るほど深刻な世界の状況下で (インターネットで HAARP tsunami を検索してみて下さい),ひとりのカトリック信徒が自分の霊魂を救うために何ができるでしょうか? 実際には信徒にできることはそう多くはないかもしれません.だが,少なくとも警戒し用意をして目を覚まし続けていることはできるでしょう.

祈りを前にしている時でさえ警戒して見守っている,言い換えれば私たちの目を開けたまま眠りに落ちないように保っているのは,ゲッセマニの園における私たちの主イエズス・キリストなのです (マテオ26・41).その理由は明らかです.もし,キリストの弟子ペトロ,ヤコブやヨハネのように,私が目覚めて用心するのを怠(おこた)れば (マテオ26・43),おそらく,彼ら弟子たちがそうだったのと同じように,目覚めて警戒し続けていることを私たちの主が最も必要としている時に,私は祈るのを中断することになってしまうでしょう.1950年代,1960年代にどれほど多くのカトリック信徒たち,とりわけ聖職者たちが,カトリック教会および世界における時代のすう勢に注意を怠(おこた)り,そのため第二バチカン公会議によって完全に不意を突かれてしまったことでしょうか? だからこそ「エレイソン・コメンツ」は,かつて「神学校長からの書簡」がしていたように,絶えず経済や政治の話題を持ち出して,カトリック信徒たちが自らの宗教と,それが与える約束よりはるかに重い要求にたえず目を覚ましているようにしているのです (コリント〈第一〉2・9).(訳注後記)

かくして,ウォール・ストリート (ウォール街) “Wall Street” の専門家 (2011年3月30日付の JSmineset.com をご参照下さい) は,「金融システムは大失敗してめちゃくちゃになりもはや修復不能となりました.加えて,利口な連中は修復が不可能なことを知っているので何も修復できる望みはないのです.それがリーマンの洗浄 ( “the flushing of Lehman” ) が創り出した世界なのです.それは素晴らしい新世界 ( “a brave new world” ) ではありません」と言うでしょう…その専門家ジム・シンクレア氏 “Jim Sinclair” は,人が「おかしな通貨」 ( “funny money” ) と呼ぶようなものをどれだけ多く各国の中央銀行が造出したかはどうでもいいことだ,と言っています…「今となっては後の祭りで,もはや解決策は何もありません…どうぞ現実的に自力本願でやってください ( “please get physically self-reliant” )」と. (下線は私が付しました).

それでもなお,伝統派カトリック信徒たちでさえ,眠り込んでいるとは言わないまでも,うたた寝する気にさせられています.二つの最近の証言をここにご紹介します.最初は伝統的カトリック教の学校の教師によるものです:-- 「私はこの戦いで恐ろしいほどの孤独を感じています.外部の敵との戦いではなく,聖ピオ十世会の内部での戦いです.この戦いは,誰一人そのことに気付かないほど巧妙に行われています.それはまさに1960年代の主流派教会で起きたと同じように,ゆっくりと緩(ゆる)やかに振る舞い方に変化が起きているのです.」

二つ目は今日のアメリカ合衆国における伝統派カトリック教会の現場でのある内部観察者からのものです:-- 「私にはカトリック教的闘争心が衰退しているように見えます.世の中のやり方 ( “the ways of the world” ) を受け入れている大勢の伝統派カトリック信徒たち,とりわけ家族の父親たちを私は目にします.(訳注・伝統派カトリック教徒としてのこの世との)戦いはもはや彼らにとって重要ではないのです.彼らは毎週日曜日に自分たちの美しいミサに与(あずか)れることに満足していますが,月曜日には子供たちを公立学校へ送り出します.毎年11月には彼らは出かけていき,二人の悪魔たちのうちより悪くない方に投票し,(保守派の?)フォックス・ニュース ( “Fox News” )を見て,(保守派の?)共和党 ( “Republican Party” ) こそが世界の諸問題のすべてに対する答えであると宣言します.(訳注・これら二つの取る姿勢や行動が伝統的カトリック教義から見て真の保守派(真に保守的)だと言えるでしょうか?) 私に言わせていただければ,このような闘争心の欠如は今や伝統派カトリック教の世界にどんどんまん延しています.私たち (信徒) は第二バチカン公会議に導かれたときと同じ一連の状況に再び戻りつつあるのでしょうか? 日曜日のミサ聖祭だけという名ばかりのカトリック教( “the Sunday Catholic” )が現在では伝統的カトリック教回帰運動における圧倒的大多数なのでしょうか? 残念ながらこの二つの疑問に対する答えはいずれも,然(しか)り,ということかもしれません.」(訳注後記)

だが今日の時代の流れに逆らって泳ぐのをあきらめる方がずっとたやすいことではないでしょうか? 眠りの腕の中に陥る方がずっと心地よいのではないでしょうか? 私たちにできる極(ごく)わずかなことは目の前のテレビを投げ捨てることです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


第2パラグラフの聖書の引用箇所についての訳注:

①マテオ聖福音書・第26章41,43節(太字+下線部分).36-56節を記載.

『さて,イエズスは弟子たちとともに*¹ゲッセマニというところに行き,弟子たちに,「私があそこへ行って祈る間,あなたたちはここに座っておれ」と言われ,ペトロとゼベデオの二人の子を連れてそこに行き,*²憂い悲しみに捕らわれだし,「私の魂は死なんばかりに悲しむ.あなたたちはここにいて,私とともに目を覚ましていてくれ」と言われ,少し進んでひれ伏し,「*³父よ,できればこの杯(さかずき)を私から取り去りたまえ.けれども私の思うままではなく,み旨のままに」と祈られた.
それから,弟子たちのところに帰ってこられると,彼らが眠っているのを見,「そんなふうにしてあなたたちは,一時間さえ私とともに目を覚ましていられなかったのか.誘惑に陥らぬよう目を覚まして祈れ.心は熱しても肉体は弱いものだ」とペトロに言われ,ふたたび行って,「父よ,この杯を私が飲まずには過ごせぬものなら,なにとぞみ旨のままに」と祈られた.
それからまた帰ってきて,弟子たちが眠っているのを見られた.弟子たちの目は重くなっていた
また彼らを離れ,三度同じことばで祈ってから,弟子たちのところに来て,「もう眠って休むがよい.人の子が罪人の手にわたされる時は近づいた.さあ立って行こう.見よ,私を裏切る男は近づいた」と言われた.

また話しておられると,十二人の弟子の一人のユダが来た.司祭長たちや民の長老たちから送られた多くの人々も,剣と棒を持ってついてきていた.
裏切り者(ユダ)は「私がくちづけするのがその人だから,それを捕らえよ」と合図してあったので,すぐイエズスに近寄り,「ラビ,*⁴あいさつ申し上げます」と言ってくちづけした.イエズスは「友よ,*⁵あなたがしに来たことをせよ」と言われた.
人々は進み出てイエズスに手をかけて捕らえた.すると,*⁶イエズスとともにいた一人が剣(けん)に手をかけて抜き放ち,大司祭の下男に打ちかかり,その耳を斬(き)り落とした.
そのときイエズスは言われた,「剣をもとに納めよ,剣をとる者は剣で滅びる.私が父に頼めば,今すぐ十二軍にもあまる天使たちを送られることを知らないのか.だがそうすれば,こうなるであろうと書かれている聖書がどうして実現しよう」.
それから人々のほうを向き,「あなたたちは強盗に立ち向かうように,剣と棒を持って私を捕らえに来たのか.私は毎日神殿に座って教えていたのに,今まで捕らえようとしなかった.だがこうなるのはすべて預言者の書を実現するためである」と言われた.
そのとき弟子たちはみなイエズスを捨てて逃げ去った.』

(注釈)

*¹「ゲッセマニ」とは油絞りの道具の意味である.オリーブ山の西側の畑であった.

*²人間としてのイエズスは,自分が今からあがなおうとする罪の醜悪さを見,近い受難を考えて悲しんだ.

苦しみからの解放を神に祈るのは,悪いことではない.しかし常に「神のみ旨のままに」と言わねばならぬ

*⁴ギリシア語の「カイレ」.喜べの意味であって,今の日本語の「ごきげんよう」にあたるだろう.

*⁵「なぜここに来たのか」「ここに何しに来たか」という訳もあるが,この訳の方が原文に近いように思われる.

*⁶剣を抜いたのはペトロである(ヨハネ聖福音18章10節参照).

* * *

②使徒聖パウロのコリント人への第一の手紙:第2章9節

書き記されているとおり,「*目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮かばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである.』

(注釈)

*旧約聖書・イザヤの書:第64章3節参照.(太字・下線部分)

第64章全章を記載.

『水が,火でつきはてるように,
火は敵を滅ぼし尽くすがよい.
そして,敵の間に(主の)み名は知られ,
もろもろの民はみ前でおののくのだ.
私たちの思いもよらぬ恐ろしいことを
主は果たされた.
そのことについては,昔から話を聞いたこともない.
あなた以外の神が,
自分によりたのむ者のために,これほどのことをされたと,
耳に聞いたこともなく,目で見たこともない

主は正義を行い,道を思い出す人々を迎えられる.
見よ,主は怒られたが,私たちは罪を犯し,
ずっと以前から主に逆らい,
みな汚れた者となり,
正義の行いも,汚れた布のようだった.
みな,木の葉のようにしぼみ,
風のように悪に運び去られた.
だれも,み名をこいねがわず,
めざめて,よりすがろうとしなかった

それは,主がみ顔を隠(かく)し,
罪におちる私たちを見すごされたからだ.
それでも,主は私たちの父,
粘土(ねんど)である私たちを
形づくられたのは主だった.
私たちはみな,御手によってつくられた.
主よ,ふたたび怒りたもうことなく,
いつまでも罪を思いださず,
私たちを見て下りたまえ.
私たちはあなたの民である

主の町々は荒れ,
シオンは荒れ地となり,
エルサレムはみじめになった.
先祖が主をたたえた,
あの高貴壮麗な神殿は
火のえじきとなり,
貴重なものはみな壊された.
主よ,これらのことに
冷淡であられるのですか.
私たちをかぎりなく辱(はずかし)めるために
黙したもうのですか.
→詩篇(第63篇7節-64篇11節)

* * *

第5パラグラフの訳注:

(伝統派カトリック信徒としての)世の中のやり方との「戦い」についての解説

・神の御子,救世主であるイエズス・キリストの福音(真の神のみ教え)によれば,有限なこの世(=現世.地上の生物はいつか必ず肉体の死を迎える)は悪魔の支配下にあり,その特徴はまず我欲の満足の追求を基本としそこから全ての利己的な生活が始まるところにある

・諸悪の配下にあるこの世のやり方に調子を合わせて生きようとする者はみな,キリストの神の敵となる.
なぜなら,万物の創造主たる神は無限の愛・善であられ,その愛は人の罪の贖(あがな)いのため人となってこの世に来られた神の最愛の御子キリストの自己犠牲的な十字架上の死によって証明されているからである.
すなわち,神の愛・永遠の命は自己を犠牲にして他者を愛することによって証明されるのであり,霊においてかような神の自己犠牲の愛において生きていない人は,肉体が滅びた時にその人の霊魂も滅びる.
利己主義に生きる者は神の敵,神の愛と正義を信じる者の敵となり,この世で儚(はかな)い人生を悪い心がけで生きて終わればその者の霊魂は永遠に滅びることになる.

・真の神を信仰し神に従う生活をしない者はみな,たとえ悪意のないつもりでも無意識にこの世の調子に組み込まれ,この世においても苦悩が伴い,肉体が滅びた後も残る不滅の霊魂の永遠の滅びへと向かいやすくなる.
その誤った道をそのまま先へ行けば行くほど,矯正困難になりやすい(眠っており,無警戒で目覚めていない状態).真に生きるため誘惑に陥らないよう常に警戒して悪を避けることが大事である(目覚めている状態).人間を裁いて滅びに至らせるのはキリスト(神)ではなく人間自身の罪(=神の愛に背くこと)だからである.

・この世のやり方は明白に神のおきて(①神を愛し②隣人を自分同様に愛するという愛徳のおきて)に反する理由で,神の敵である.人間にとり神の敵となることは究極的に自滅することを意味する.

・我欲は神の家たるべき教会の中にもまん延している.個人的に霊魂の救いを得るためカトリック信者は,美しさ(美しい聖堂,ミサ聖祭,聖歌・教会音楽などの心地よさ)や権威・地位・立場の裏に隠れているかもしれない利己主義(我欲)を自分の心の中に見抜き,徹底して謙遜にそれと闘う覚悟が必要である(警戒し目覚めて用意している状態).

キリスト信者が最も警戒すべき悪徳は「妬(ねた)み(=嫉妬心)」の罪である
なぜなら,悪魔(元は神に創造された神の天使だった)はごう慢になり神を妬み,神と同じかそれ以上の存在になろうとしために天から地に落とされ,地上で神の御子キリストを十字架につけたからである.
同じように兄弟たるべき善人の善を憎みまた妬む者は,神に対し最も重い罪を犯していることになる.それはキリストを十字架につけたのも同然の行為だからである(→カインとアベルの例.兄のカインは善良な弟アベルを憎んで殺した).

身につけるべき最も大切な徳は「謙遜(けんそん)の徳」で,まず第一にこの徳を神に願い求めなければならない.

・「神と隣人を愛する」ということは神に愛されている自分自身を犠牲として差し出すこと,「悪と戦う」ということはよく堅忍して自分自身の悪への傾向(罪)と闘うことである.

(神の御母の取り次ぎを願う)
神のみことばを聞きそれをお守りになった聖母マリアに倣(なら)い,聖母の取り次ぎによって神の恩寵に自分のすべての生活を委ねることが大切です.

・ルカによる聖福音書:第11章27,28節
(幸い)

『(イエズスが)これらのことを話しておられると,群衆の中からある女が,「幸せなこと,あなたを宿した母,あなたが吸った乳房は」と叫んだ.
*¹しかしイエズスは,「幸せなのはむしろ,神のみことばを聞いてそれを守る人だ」と言われた.』

(注釈)
*¹(28節)神の国では,イエズスの血縁よりも神の思召しを果たした人の方が尊いとされる.
マリアの偉大さは,神の母としてはもちろんであるが,謙遜なはしためとして神の思召しを果たしたところにある

***

・ルカ聖福音書:第1章26-38節(受胎告知の場面〈38節〉)
(マリアへの告げ)
『その六か月めに,天使ガブリエルは,ガリラヤのナザレトという町の,ダビド家のヨゼフといいなづけである*¹マリアという乙女のもとに,神から遣わされた.
天使はマリアのところに来て,「あなたにあいさつします,*²恩寵に満ちたお方.主はあなたとともにおいでになります.(*³あなたは女の中で祝福された方です)」と言ったので,マリアはこれを聞いて心乱れ,何のあいさつだろうと考えていると,天使は,「恐れるな,マリア.あなたは神のみ前に恩寵を得た.あなたは身ごもって子を生む.その子をイエズスと名づけなさい.それは偉大な方で,いと高きものの子と言われます.また,その子は主なる神によって父ダビドの王座を与えられ,永遠にヤコブの家を治め,その国は終ることがない」と言った.
マリアは「*⁴私は男を知りませんがどうしてそうなるのですか」と聞いた.
天使は答えた,「聖霊があなたにくだり,いと高きものの力の影があなたを覆(おお)うのです.ですから,生まれる子は聖なるお方で,神の子と言われます.あなたの親族のエリザベトも,老人ながら身ごもったではありませんか.うまずめと言われた人なのに,もう六か月めです.神にはできないことはありません」.
マリアは,「私は主のはしためです.あなたのみことばのとおりになりますように」と答えた.そして天使は去った.』

(注釈)
マリアの名は「王妃」あるいは「神に愛せられた者」の意味である

*²「恩寵に満ちた」すなわちギリシア語の「ケカリトメネ」をこの文ではマリアの名の代わりに用いている.
文字通り訳せばマリアは恩寵に満たされ,そうして恩寵を失わない者である
したがってブルガタをはじめ昔からの訳はすべて「恩寵に満ちた者」と訳している.

(恩寵に満たされたところに罪の入り込む余地は全くない→マリアは「無原罪の御宿り」)

*³42節(に出てくる,マリアに対するエリザベトの同じことば)によるあとの書き入れである.

*⁴マリアは天使のことばを疑わないが,いつまでも処女を守るつもりであるから,どうして母になれるのかと尋(たず)ねる.原文には「私は男を知らないのに」とあるが,これは,今のことばで言えば,「私はいつまでも処女を守りたいのに」と訳してよい.

* * *

(第2パラグラフの引用聖書の追加)

新約聖書・使徒パウロによるコリント人への手紙:第1章,第2章を掲載.

第1章 

(あいさつ)
神のみ旨によってイエズス・キリストの使徒となるために召されたパウロと,兄弟*¹ソステネより,コリントにある神の教会に,すなわちイエズス・キリストにおいて聖とされ聖徳に召されたあなたたち,ならびに*²どこにおいても私たちのいや私たちと彼らの主イエズス・キリストのみ名をこいねがう人々に.父なる神と主イエズス・キリストが恩寵と平和とを与えたもうように.

(感謝)
あなたたちがキリスト・イエズスにおいて賜わった神の恩寵のために,私は絶えず神に感謝している.あなたたちはキリストにおいて,すべてのこと,つまり*³すべてのことばと知識に富んだ者となったからである.あなたたちの中に,それほど*⁴キリストの証明は固められた.こうしてあなたたちは*⁵霊的な賜(たまもの)にも欠けることなく,*⁶主イエズス・キリストの現れを待っている.*⁷主イエズス・キリストの日に咎(とが)なき者とするために,主はあなたたちを終りまで固め守られるだろう.み子,主イエズス・キリストにあずからせるために,あなたたちを召された神こそ真実である.

兄弟たちよ,主イエズス・キリストのみ名によって私はあなたたちに切に勧める.
みな同じことを語り,互いに分裂せず,同じ心,同じ考えをもって完全に一致せよ
兄弟たちよ,実は私は,*⁸クロエの人々からあなたたちの間に争いがあると聞いた.あなたたちは,「私はパウロ方(かた)のものだ」「私は*⁹アポロ方の」「私はケファ(ペトロ)方の」「私は*¹⁰キリスト方の」と言っているそうである.
キリストは分けられているのか.あなたたちのために十字架につけられたのはパウロか.あなたたちはパウロの名によって洗礼を受けたのか.
*¹¹クリスポとガイオとのほかに,私はあなたたちのだれにも洗礼を授けなかったことを神に感謝している.私の名で洗礼を受けたと言える者はあるまい.そうそう*¹²ステファナの家の人にも洗礼を授けた.そのほかの人に洗礼を授けた覚えはない.

(注釈)

*¹ソステネは使徒行録(18・17)の人とは違うらしい.

*²コリント人の狭量な党派心に対し,教会の普遍性を暗示する.

*³聖霊の特能.

*⁴パウロの宣教中に起こった奇跡と聖霊のみ業を暗示する.

*⁵ギリシア語の「カリスマ」(特能).ここでは,一般の霊的な賜のこと(2・4,コリント〈第二〉12・12,ローマ15.18-19).

*⁶世の終わりの時の来臨.

*⁷来臨の日(3・13,4・5).

*⁸ここだけに出てくるが,大商人の夫人の一家らしい.商売のために常にエフェゾと連絡していた.

*⁹使徒18・24-28参照.

*¹⁰「キリスト方の」者というのは地上に生きていた時のキリストを見た人々であろう.(使徒1・21,10・41).あるいは人間の介在なしに直接キリストの恵みを受けていると称していた人々かもしれない.

*¹¹使徒18・8,ローマ16・23参照.

*¹²16・15参照.

* * *

(キリスト教の知恵について)
キリストが私を遣わされたのは,洗礼を授けるためではなく福音を告げるためである.
それは,*¹ことばの知恵によるのではなく,キリストの十字架の効果をむなしくしないためである.
実に,十字架のことばは滅びる者には愚かであるが,救われる者私たちにとっては神の力である

「*²私は知恵者の知恵を滅ぼし,賢者の賢さをむなしくする」と書かれている.*³知恵者はどこにいるのか.学者はどこにいるのか.この世の論者はどこにいるのか.神はこの世の知恵がどんなに愚かであるかを示されたではないか.
この世は自分の知恵に頼み,*⁴神の知恵の業において神を認めなかったから,神は宣教の愚かさをもって信じる者を救おうと思召(おぼしめ)した.
*⁵ユダヤ人は奇跡を求め,ギリシア人は知恵を求めている.
ところが私たちは,十字架につけられたキリストを宣べ伝える.
それはユダヤ人にとってつまずきであり,異邦人にとって愚かであるが,*⁶召された人々にとっては,ユダヤ人にもギリシア人にも,神の力であり神の知恵キリストである.
神の愚かさは人間よりも賢く,神の弱さは人間よりも強いものだからである


兄弟たちよ,あなたたちの間で,*⁷召された人たちを考えてみるがよい.
人間的に言えば知恵者は多くはない,有力者も多くはない,身分の高い人も多くはない.
しかし神は知恵者を辱(はずかし)めるために世の愚かな者を選び,強い者を辱しめるために世の弱い者を選ばれた.
神は,あると誇る者を空(むな)しくするために世の卑(いや)しい者,軽んぜられた者,この無(な)きに等しい者を選ばれた.
神の前で*⁸だれにも誇らせないためである

あなたたちは神によってキリスト・イエズスに在(あ)る.
キリストは私たちにとって,神の知恵と正義と聖とあがないになられた.
聖書にあるとおり,「*⁹誇る者は主において誇る」ためである


(注釈)

*¹パウロの宣教は哲学や修辞学によるものではない.

*²〈旧約〉イザヤの書29・14参照.

教会はこの三種の人を必要としない

*⁴神のみ業を見て神を認めなかった(ローマ1・19-20).

*⁵ヨハネ聖福音4・28,6・30参照.

*⁶ユダヤ人は,ナザレトの柔和なイエズスではなく,全世界に君臨する勝利のキリストを待っていた.
異邦人は,十字架上に死んだ「知られざる人」を礼拝することを,狂気の沙汰だと思った.

*⁷いくらか皮肉なことばである.コリントの信者には身分の低い人が多かった.

*⁸原文,「すべての肉」.

*⁹〈旧約〉エレミアの書9・22-24参照.

* * *

第2章 

(まことの知恵は福音にある)(2・1-16)
兄弟たちよ,私はあなたたちのところに行って*¹神の証明を告げたが,それは巧みなことばと知恵によってではなかった.私はあなたたちの中にあって,イエズス・キリスト,十字架につけられたイエズス・キリストのほかには何も知るまいと決心したからである.
*²むしろ私は弱々しく,恐れ震えながら,あなたたちの前に現れた.私のことばと宣教は人を屈服させる知恵の雄弁ではなく,霊と力の表れであった.
それは,あなたたちの信仰を人間の知恵ではなく神の力の上に基づかせるためであった

*³完成した人の間では私たちも知恵を話しているが,それはこの世の知恵ではなく,滅ぶべきこの世の支配者たちの知恵でもない.
私たちの語るのは*⁴神の知恵である.それは神秘な隠された知恵であって,私たちの光栄のために,この世の始まる前から神が予定されていたものである.*⁵この世の支配者はだれもそれを知らなかった.もし知っていたら,光栄の主を十字架につけなかっただろう.
書き記されているとおり,「*⁶目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮ばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである.神はそれを霊によって私たちに示された.霊は神の*⁷深みまですべてを見通すからである

人間の中にある霊のほかだれが*⁸人間のことを知っていようか.同様に神の霊のほかにはだれも神のことを知ることはできぬ.神の下された恵みを知るために,私たちは*⁸世の霊ではなく神から出る霊を受けた.私たちがそれについて語るのは,*⁸人間の知恵が教えたことばによってではなく,霊が教えたことばによる.霊のことは霊のことばで表すものである.
*⁹動物的な人間は神の霊のことを受け入れぬ.その人にとっては愚かなことに思えるので理解することができぬ.なぜなら霊のことは霊によって判断すべきものだからである.
それに反して,*¹⁰霊的な人はすべてを判断し,自身はだれからも是非されることはない.
*¹¹だれが主に教えるほど主の思いを知っているだろうか.しかし,私たちはキリストの思いを有している

(注釈)

*¹神がイエズスの使命に与えられた証明.

*²アテネ(〈新約〉使徒17・16-34)の宣教で効果がなかったから,コリントに着いたときのパウロはいくらか不安であったろう.

*³キリスト教的生活に固められた人々(〈新約〉ヘブライ5・12-14).

*⁴キリストの奥義の知恵(〈新約〉コロサイ1・26-27,ローマ16・25-26).

*⁵衆議会員,ピラトなどを主として暗示する.政界,学界,団体などのかしら,あるいは悪魔のかしら

*⁶〈旧約〉イザヤの書64・3参照.

*⁷完全な人(*³)の知恵の源は聖霊である.

*⁸人間の心の中にあるもの.この霊によって神は,この世(*⁸)や人間の知恵(*⁸)の知り得ないことを現した.

*⁹原文は「プシケ」の人とある.これは「プネウマ」(霊)の人と対立するもので,自然の能力に従って生きる人のことである.

*¹⁰神の霊に照らされた人.

*¹¹〈旧約〉イザヤの書40・13参照.

* * *

2011年4月21日木曜日

新しい教会,新しい福者

エレイソン・コメンツ 第195回 (2011年4月9日)

5月1日,あと2,3週間ほど(訳注・本コメンツ投稿日現在からは1週間ほど)経つと,ローマのサンピエトロ広場で行われる盛大な祝典の中で,前教皇ヨハネ・パウロ2世が現教皇ベネディクト16世により「福者」 “Blessed” と宣言される予定です.だがカトリックの伝統に固執するカトリック信徒たちはヨハネ・パウロ2世教皇が,公会議主義下の教会の偉大な推進者であった一方で,カトリック教会の事実上の破壊者であったことも知っています.カトリック教会の列聖( “Church canonizations” )が無謬(むびゅう) “infallible” であるならば,前教皇がどうして,聖人となる前の最終段階( “the last step before being canonized” )たる「福者」と呼ばれうるのでしょうか? この疑問に即答すれば,前教皇ヨハネ・パウロ2世はカトリック教会におけるカトリックの列福によりカトリックの福者として列福されるのではなく( “will not be beatified as a Catholic Blessed by a Catholic beatification in the Catholic Church” ),新しい教会における新しい列福による新しい福者として( “as a Newblessed by a Newbeatification in the Newchurch” )列福されることになるということです.そして新しい教会の聖職者たち “Newchurchmen” は,彼らのなすことにつきその目新しさ “novelty” を主張する最初の人たちで,その不謬性 “infallibility” を主張する最後の人たちです.(訳注後記)

ここで,この新しい教会の性格を現代生活から得た比較をもとに例証してみましょう.高純度のガソリンはガソリン特有の匂い,味,機能を持っています.それによって自動車は走ることができます.純粋な水は水特有の匂い,味を持ち,その働きをします.自動車は水では走れません.ごく微量の水を混ぜたガソリンは依然としてガソリンの匂いと味がしますが,ガソリンとしては働かず - それによって自動車は走れません.微量の水がガソリンの可燃性を奪い取ってしまったのです.

純度の高いガソリンは例えていえば純粋なカトリシズム “Catholicism” (=カトリック教義)のようなものです - 極めて燃えやすいのです! この例えでは,純粋な水は何らのカトリシズムの形跡もとどめない純粋な世俗的人本主義( “secular humanism” )あるいは世界主義の宗教( “the religion of globalism” )に似ています.カトリシズムと世俗的人本主義は第二バチカン公会議およびそこで出した16の公文書の中で一緒に混ぜ合わされました.そのため公会議主義すなわち新しいカトリック教義( “Conciliarism, or Newcatholicism” )は,「良いカトリック信徒たち」に公会議による列福はそれ以前のカトリック教会の列福と同様に不謬性へ向かって順調に進んでいるのだと期待させるに十分なカトリシズムの匂いや味を依然として残しているように思えるかもしれません.だが実際には,少量の世俗的人本主義という混ぜ物はカトリシズムの健全な機能を止めるのに十分なのです.ちょうどガソリンの燃焼を止めるのに大量の水が必要でないのと同じです.

そういうわけで,新しい列福 “Newbeatifications” (訳注・公会議主義下の新しい教会の様式〈規定〉に則(のっと)った列福という意味)は,不用心で軽率なカトリック信徒の鼻孔(びこう)にはカトリック教の列福と似た味や匂いがするかもしれません.だが,よく見れば新しい列福が現実のものとは全く同じでないことは明らかです.有名な例を挙げます: 以前ではカトリック教会がある人につき列福を認めるためにはその人に関わる二つの否定し難い奇跡が起きた事実が要求されてきましたが,新しい列福が要求するのはただ一つの奇跡だけです.また列福を認めるための諸規則は他の面でも著(いちじる)しく緩(ゆる)められています.従って,カトリック信徒は新しい列福から生まれるのは新しい福者 “Newblesseds” 以外の何者でもないと考えるべきです.前教皇ヨハネ・パウロ2世はまさしく公会議主義の認めた「福者」なのです.

カトリック信徒を惑(まど)わし欺(あざむ)くのは,公会議主義下の教会に依然としてカトリシズムの諸要素が残っているからです.だがちょうど第二バチカン公会議がカトリシズム(純粋なガソリン)を公会議主義(水の混じったガソリン)に置き換えるべく考案したように,公会議主義はさしずめ世界宗教( “the Global Religion” )(純粋な水)に道を譲(ゆず)るべく考案されたものです.そのたどる行程は「神」から「新しい神」さらに「非神」( “from God to Newgod to Nongod” )へと進みます.今のところ依然として「新しいローマ」 “Newrome” は第二バチカン公会議の「新しい神」とそれに見合う「新しい福者」を推し進めていますが,やがて正真正銘の犯罪者が「非神」の「福者」と認められることでしょう.

だが,真の神は欺かれまいとする羊(=信徒)が欺かれるのをお許しになりません.さらに誰であってもまず自ら神を見捨てない霊魂を決して神がお見捨てになることはない,と聖アウグスティヌスは言い残しています.なんと素晴らしい言葉でしょうか!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第1パラグラフ最後の訳注:
無謬(むびゅう) “infallible” ,不謬性(ふびゅうせい) “infallibility” について.

・「無謬」=理論や判断にまちがいがないこと.

・教皇不謬性 “(papal) infallibility”

教皇が全カトリック教会の最高統治権をもつ司教として,信仰および道徳について正式な決定を下す場合,神の特別な保護によって誤ることがありえないとするローマ・カトリック教会の信条.第一バチカン公会議で信徒の信ずべきこととして定められた.教皇無謬性,不可謬権ともいう.

(ブリタニカ国際大百科事典参照)

これから何処へ?

エレイソン・コメンツ 第194回 (2011年4月2日)

ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間で過去一年半にわたり行われた教理上の論議は,ローマを改宗(宗旨替え)させることも聖ピオ十世会を裏切らせることもできなかったように思われますが,もしその通りだとすると,今後私たちはこれから何処(どこ)へ向かうのだろうか? という疑問が生じます.第二バチカン公会議の危機が証明したことがあるとすれば,それは疑いなくカトリック信徒たちがひとつの疑問について単に指導者に盲目的に従うのでなく自分自身で考えてみる必要があるということです - 世界中の数百万人のカトリック信徒たちは相変わらず徐々に背教に導かれ続けているのではないだろうか?と.だからこそ,一人の戦うフランス人信徒( “a fighting Gaul” )が聖ピオ十世会の司教たちに対し三つの質問を投げかけたのです.いずれも深刻な問いかけで,きちんと答えて然(しか)るべきものです.(彼の質問は要約かつ編集されたものです):--

質問: あなたのご意見では,25年前に前教皇ヨハネ・パウロ二世がアッシジで開催した多宗教間の宗派を超えた出会いの行事を厳粛に祝う記念式典としての,第三回アッシジ諸宗教合同祈祷集会(以下,「アッシジ III」)に関する最近の発表は,現教皇ベネディクト十六世により引き継がれている世界宗教一致運動の進路として私たちがすでに知っているものに何か新しいことをつけ加えるものでしょうか?
答え: そのこと(アッシジ III 開催の発表)は,ローマのカトリック教会指導部が,あらゆる種類の誤った宗教にカトリック教会の公式承認を与えるという破滅的な進路に固執していることを示す証拠が新たにまた一つ加わったということです.かつてルフェーブル大司教は,「ローマがカトリックの信仰を喪失していないと私たちが言えるとは思いません」と仰(おっしゃ)いました.

質問: あなたのご意見では,この発表が,聖ピオ十世会とローマ教皇庁との間で行われた教理上の論議が時宜(じぎ)を得たものだったと証明するものでしょうか,それとも反証するものなのでしょうか?
答え: 発表は疑いなく教理上の論議の終結のタイミングが良かったことを証明するものです.デ・ガラレタ司教がいみじくも言われたように,その論議が進行中の間は確かに付随的な利点がありました(7月10日付のエレイソン・コメンツ第156回をご参照ください).だが,論議が行われたこと自体が不利益をもたらしました.すなわち,実際には全く相いれない二つの教義上の立場の間で見せかけの和解が生まれるのではないかとの誤った希望もしくは本当の不安を人々の心に生み出したのです.アッシジ III の発表はそうした希望や不安を少なくとも当分の間終らせるのに役立ちました.ただし,夢想家たちは相変わらず自分の夢に固執しています!

質問: ちょうど第一回アッシジ諸宗教合同祈祷集会(以下「アッシジ I」)が1988年のルフェーブル大司教による四人の司教叙階の主要な誘因となったように,アッシジ III の発表も聖ピオ十世会がさらに多くの司教を叙階するのを後押しすることになるでしょうか?
答え: 聖ピオ十世会の総長が二か月前アメリカ合衆国でその問いに答えています.総長はその際,もしルフェーブル大司教を司教叙階に駆り立てた1988年当時の状況が再現するなら,新たな司教が増えることになるだろうと述べました.ここで問題となるのは,アッシジ III を取り巻く状況がアッシジ I の時の状況の繰り返しだろうか?ということです.この点については意見が様々あるとしか答えようがありません.多くの真面目なカトリック信徒たちは状況がずっと悪化していると考えていますが,これは必ずしも聖ピオ十世会にとってこのように重要な決定事項に関し同会の総長として責任をもつフェレイ司教の意見ではありません.

では私たちの最初の問いに戻ります.聖ピオ十世会は今後何処へ行くべきでしょうか? 答えは明瞭です.聖ピオ十世会は,これまで通り同会の創立者(=ルフェーブル大司教)が定めた道に従って歩み続けていくべきです.すなわち,ローマ教皇庁における(少なくとも客観的に見ての)背教者に断固として抵抗し,それなしには解決できないカトリック教会や世界の様々な問題に対するルフェーブル大司教の診断をできる限り広範囲の人々に知らせることです.ルフェーブル大司教の解決策は単純明快です.すなわち,神のより大いなる栄光のため,そして可能なかぎりの多くの霊魂を救済するため,第二バチカン公会議以前のカトリック教理といつの世にも変わることのない倫理・道徳に則(のっと)ったカトリック教的生活をひたすら守り続けていくことです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2011年4月11日月曜日

揺れている責任

エレイソン・コメンツ 第193回 (2011年3月26日)

今日,多くの人は神について感傷的な考え方をしているか,あるいは神の持つ御力についてわずかばかりの知識しか持ち合わせていません.だから神が罰を下すとか,ましてそのために物質的な宇宙や気候を用いられるなど想像もできないのです.だが,私たちが日本で目にしたような大災害を引き起こす地球のきわめて不安定な地殻変動は,人間の罪がもたらした結果であり,それに対する天罰だとする根強い議論が存在します.ここではその議論をご紹介します(この議論について私は決して学校で習ったことはありません):--

アダムとエバが罪を犯す以前,人間性は神の輝かしい創造物でした.それは強くて安定したものでしたが,壊れることがないというものではありませんでした.神への反抗心がそれを壊し得たのです.したがって,アダムとエバが原罪を犯したとき,彼らのあらゆる子孫(私たちの主キリストと聖母マリアを除いて)が傷ついた性質を受け継ぎました.以来(いらい),私たちはみな苦難を受け,死に,かつ努力,苦労しなければ下劣・俗悪な性質を制御できない定めとなったのです.このことは地球の物理的特質についても同様です.ノアの時代に洪水が起こる前は,地球は楽園のようで,神の輝かしい創造物であり強くて安定した存在だったのですが,決して破壊され得ないものではありませんでした.人類すべてが堕落すれば(創世の書・6章5,11,12節参照)それは壊れ得たのです.(訳注後記)

今日の地質学者たちは聖書に出てくる洪水など信じないかもしれませんが,例えば北アメリカのロッキー山脈のような世界各地にある山脈の標高の高い場所から今日発見される海洋動物の化石の痕跡(こんせき)を説明する手段として,地球の有史以前にある種のとてつもない激変があったことは信じています.地質学者たちの打ちたてた仮説によれば,地球の岩板(がんばん)からなる外周は巨大な地下水層によって地球の中心部から隔(へだ)てられ,岩板層が重力で地下水を押しとどめていました.もしその岩板の球殻(きゅうかく)のどこかにいったん亀裂が生じれば,その下に押し込められていた水は地表に向って爆発的に噴(ふ)き出し地表に氾濫し,岩板は地下水層のあった所へ落下します.これに伴う巨大な緊張は大洪水を引き起こし世界中を崩壊させ得る力を持つのです.(聖書によると,洪水を起こしたのは空から降った雨だけでなく地下から上に噴き出した地下水だったことが明らかな点にご注目ください:創世の書・7章11節,8章2節参照)(訳注後記)

だが次のことは疑う余地もないほど明らかです.すなわち,仮に地球全体を覆う岩板外周が内部に向って崩落し,より小規模の外周を形成したとすれば,あまりにもわずかな場所に対して岩板があまりにも多すぎ,その結果,岩板は壊(こわ)れ互いに衝突しあう地殻変動プレートを作り出しただけでなく,さらにクシャクシャにぶつかり合い今日の私たちの住む惑星(わくせい)で目に見える様々な地質的特徴を形作ったのです.巨大な山脈や,海よりはるか高い場所へ持ち上げられた様々な海洋動物の化石がその例です.エベレスト山は今でも,中国とチベットにあるユーラシア・プレートの下に押し込められているインド・プレートにより毎年数センチメートル持ち上げられています.

こういうわけで,原罪が犯されて以来,それが人間性の中に懲罰的な緊張を生み出したのと同様に,人類の有史以前の堕落が私たちがたった今目にしている歴史的な日本の地震,津波のようなあらゆる大災害の根底をなす地殻内部の緊張を生み出したのです.聖母は1946年フランスのラ・サレット “Our Lady at La Salette in 1846” で次のように仰せになりました.「自然界は人間のせいで報復(ほうふく)を求めており,犯罪にまみれた地球に必ず降り懸かるに違いない大災害の恐怖に震えおののいています.おののきなさい,地球よ.そしてイエズス・キリストに仕えていると公言しながら内心では,ただ自分を崇拝しているだけの者たちよ,恐怖におののきなさい.なぜなら各地の聖なる場所が堕落し腐敗した状態になっているため,神があなたたちをその敵(悪魔)に引き渡されるからです.」(訳注・後日追加します)

私たちはみなおののきましょう! みな神に祈りましょう!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


①第2パラグラフの内容についての訳注:

アダムとエバの犯した原罪について:
(人類の背きの罪)

1・神の人類創造
旧約聖書・創世の書:第1章26-28

『…ここで,神は,こう仰せられた,「*¹われらに似せて,われらにかたどって,*²人間をつくろう.そして海の魚と,天の鳥と,家畜と,野の獣と,地にはうものすべてを,これにつかどらせよう」と.
神はご自分にかたどって,人間をつくりだされた.人間を神のかたどりとし,男と女につくりだされた.
神は人間を祝福して仰せられた,
「生めよ,ふえよ,地に満ちて,地を支配せよ.
海の魚と,空の鳥と,(家畜と,)地をはう生き物をつかさどれ」.』

(注釈)
*¹…アダム(人間)は,主としてその精神と意志において神に似たものである.聖書は,人間について,楽観的な反面,悲観的な考え方をもっている.すなわち,人間の卑小さは,創造されたものであるところからきている.「神に似たもの」であるからして,人間はまったく他の動物と異なり,「ペルソナ」をもつものである.後にキリストの恩寵によって,人間は別な意味で「神の本質」にあずかることとなる

*²「人間」の箇所は,ヘブライ語では「アダム」となっている.アダムについている動詞は複数で,集合名詞としての「人間」を指している.ここから,神が最初から「多くの男女」をつくったと推理するのは思い過ごしである.第2章では,もう一度人間創造のことが語られるが,このときは「アダム」が単数である.

* * *

2・原罪
旧約聖書・創世の書:第3章

(人祖の最初の罪)・1-24)
『さて,主なる神がつくられた野の生き物のなかでいちばん*¹ずるがしこかった*¹へびが,*²女に言った,「〈園のどんな木の実も食べてはいけない〉と,神が言われたそうだが,それはほんとうか」.女はへびに答えた,「園にある木の実は食べてもいいのです.ただ,園の奥にある木の実だけについては,〈それを食べても,それに触れてもいけない,そうすると,死ぬことになる〉と,神は言われました」.
へびは女に言った,「いや,そんなことで死にはしない.おまえたちがその実を食べれば,そのとき目がひらけ,善と悪を知る*³天人のようになると,神は知っているのだ」.女には,その木の実がうまそうで,見ても美しく,*⁴成功をかち取るには望ましいもののように思えた.そこで女は,その木の実を取って食べ,いっしょにいた男にも与え,男もそれを食べた.*⁵そのとき,二人の目はひらけ,自分たちが裸でいるのが分かったので,いちじくの葉を縫い合わせて腰巻にした.』

(注釈)
*¹ギリシア語では知恵に富んだという意味のことばも用いているが,多くは,ずるがしこいの意味の言葉を用いている.

*²女は信じやすく,へつらいに弱いからだというのが通説である.

*³七十人訳とブルガタ訳では,「神」(エロヒム)が「神々」と複数になっていて,神の宮廷にいる天使や天人の意味にとっている.これが正しいであろう.いくらエバでも,神の全知には手が届かないと知っていたであろう.へびは女に向かって,天人の豊かな生命力と超人的な力とを受けよと言ったわけである.(5-6節)

*⁴女は思い上がった考えにそそのかされて,禁断の木の実をながめ,美しくてうまそうで,それを食えば万事うまくいくであろうと認めた.つまり,生物的な,精力的なエネルギーと,神のような超人的な事実の知識を望んで,それを食べた

*⁵だが人間は,生物的にも倫理的にも,虚無であるもの,裸のものだと悟った.

* * *

『さて,日中のそよ風のとき,*¹園を歩かれる主なる神の足音を聞きつけた男は,妻とともに,み前をさけて,園の木々の間に逃げ隠れた.主なる神は,男を呼んで,「*²どこにいるのか」と仰せられた.「園であなたの足音を聞きましたが,私は裸なので,こわくなって,隠れました」と男は言った.「裸であることを,だれが,おまえに言ったのか.さては,私が食べるなと命じたあの木の実を食べたのだな」男は答えた,*³あなたが私のそばにおいてくださった女が,あの木の実をくれたので,私も食べました」.主なる神は,女に向かって仰せられた,「どうして,そんなことをしたのか」.女は答えた,「へびにだまされて食べました」.』

(注釈)
人祖が罪を犯す前は,このように神と親しかったということを,比ゆ的に表現したものである.

*²神が人間のいるところを知らなかったのではない.園の番人として,いつもいるべきところにいないから,神はこうきかれた.

*³彼は自分の責任を避け,エバを仲間にした神に責任を負わせる.

* * *

『そこで,主なる神はへびに向かって仰せられた,
「*¹おまえは,
そのようなことをしたのだから,
すべての家畜と野の獣のなかでのろわれたものとなろう.
おまえは、生あるかぎり,
腹ばい,ちりを食うこととなる.
私は,おまえと女との間に,おまえのすえと女のすえとの問に,
敵意を置く.
女のすえは,おまえの頭を踏みくだき,
おまえのすえは,女のすえのかかとをねらうであろう
」.

それから,女に向かって仰せられた,
「*³私は,おまえの苦しみと身ごもりの数を大いにふやす.
おまえは苦しみつつ子を生むことになる.
おまえは夫に情を燃やすが,夫はおまえを支配する」.

それから,男に向かって仰せられた,
「おまえは妻の言うがままになり,
私が〈食べるな〉と命じた木の実を食べたから,
おまえゆえに,地はのろわれる
生きつづけるかぎり,おまえは苦労して,地から糧を得るであろう.
*⁴地はおまえのために,いばらとあざみを生やし,
おまえは野の草を食うことになろう.
さらに,おまえは,順に汗を流して,*⁵糧を得るだろう.
土から出たおまえなのだから,その土にかえるまで.
ちりであって,ちりにかえるべき者よ
」.』

(注釈)
14-19節 神の罰は,個々のものをこえ,へびそのもの,女そのもの,男そのものに向けられる.へびについては,その裏にいる悪魔的なものを指す.セム族にとって,へびは尊敬すべきものであったが,ここではのろわれたものとして指摘されている.

*²ここは,昔からカトリックの学者が,「メシア」的な意味にとったところである.すなわち,悪魔(へび)と戦う「子孫」がキリストを暗示しているという考え方である.しかし,解釈はさまざまである.七十人訳ギリシア語では「彼」と訳されているが,この男性の代名詞は,スペルマ(種子,子孫)という」中性名詞と一致しない.同時に女性にも用いられないから,むしろ「メシア」を暗示するために「彼」を用いたのではないだろうか.
旧ラテン語訳もヒエロニムス訳も,「彼」と男性になっている.昔の神学者の多くは,女性がマリアを暗示していると考え,キリスト(「彼」)がへびの頭を踏みつぶして人類をあがなう意味にとったが,現代の聖書学者の多くは,「女の子孫」を全人類と見,その全人類のかしらであるキリストが当然第一の者としてそこに含まれていると考える.そこで,15節(*²)の「女」を,昔の神学者がマリアととったのに比較し,今では,それを集合名詞の女性と見,そして女性の代表としてのマリアが当然第一の者としてそこに含まれると考える.

*³人類に対して判決を下した神は,アダムとエバに慈悲を垂れ,へびにしたようにのろいはされなかった.ただ,服従を忘れた高慢な人間が,自然と出会う苦しみを指摘する.原罪がなかったならば,女の陣痛もなかっただろうし,性の面でも,暴行を受けたり,もてあそびの道具のようになることもなかったであろう.

*⁴自然界も,人間の神への反逆を映したように,人間に反抗的である(イザヤ〈旧約〉33・9).「野の草」は穀物類のことらしい.

*⁵「糧(かて)」はパンのことである.

* * *

『それから男は妻を*¹エバと名づけた.彼女は,生きるすべての人人の母となったからである.』

(注釈)
*¹聖書では女の命名を記録することが少ない(〈旧約〉創世30・21,ヨブ42・14).しかも,その名の意味を伝えるのは、この一箇所だけである.エバの語源は,シュメール語のエメ(母の意)であり,ヘブライ語でエムハ・ヘワになったらしく思われる.

* * *

『主なる神は男とその妻に*¹長い皮衣を着せて,仰せられた,「見よ,人間は善悪を知ったので,*²われわれのようなものになった.これから,彼が生命の木にも手をのばすことのないように願う,それを食べれば永遠に生きることになるのだ」.主なる神は,エデンの園から人間を追い出された.それは土から出た人間に,土を耕(たがや)させるためであった.

神は人間を追い出してから,エデンの園の東に,*³ケルビムと,炎を放つじぐざぐ型の剣とを置き,生命の木への入口を見張らせられた.』

(注釈)
*¹「長い皮衣」はヘブライ語のコテノトで,全身をおおうぴったりした服である.ヘブライ人は衣服がその人の階層を表すと考えていた.

*²前出の6節でいった「天人」も含めた神の宮廷に仕える人々のことであって,多神論的な意味はここにない.

*³「ケルビム」は,定冠詞がついているので,周知の「天使」である.その表現から見て,アッシリア,バビロニア的な考え方から出たようである.それは,頭は人間で,翼があり(〈旧約〉脱出25・18-22,列王上6・23-28),牛のような足と動物の体を有していた(エゼキエル〈旧約〉1・5-28,10・1-20,41・18-25).ケルビムとじぐざぐ型の剣は,神の禁令を象徴する.昔のメソポタミアの大邸宅または神殿,さらに神々の座と王座の前に,炎あるいはじぐざぐ型の剣の形であらわす「稲妻」として安置され,一般人の入ることを許さなかった.


* * *

②第2パラグラフの聖書の引用箇所についての訳注:

旧約聖書・創世の書:6章5,11,12節(太字の箇所)

(第6章全章を引用)

『地の面(おもて)に人間がふえはじめ,娘たちがうまれてくると,*¹神の子ら(ごう慢の罪を犯した天使の子ら)は人間の娘たちを見て気に入り,好きなのをみな妻にした.そこで,主は仰せられた,「私の*²霊はいつまでも人間とともにいることはない.人間は肉のものにすぎないからである.人間の日々はあと*³百二十年である」.
神の子らが娘たちに近づいて,娘たちが子を生んでいたそのころにも,地上には巨人がいた.この巨人たちは,昔の名高い英雄たちであった.
地上の人間の罪悪がはなはだしくなり,その心に生まれる計画も,一日じゅう悪だけに向っているのを主はご覧になった.そこで主は,地上に人間をつくったことを後悔し,*⁴心の中で悔まれた(5,6節).そして主は仰せられた,「私は,自分でつくった人間を地の面(おもて)から消すつもりである.人間も,家畜も,はうものも,空の鳥も.私はこれらをつくったことを遺憾に思う」.しかし,ノアだけは,*⁵主のみ前に,寵(ちょう)を受けていた.
これから語るのは,ノアの物語である.ノアは正しい人であり,そのころの人々の間でも申し分のない人とされ,神とともに歩んでいた.
ノアはセム,カム,ヤフェトの三人の子を生んだ.しかし,神の御目にとって,この世は腐敗し,暴力に満ちていた.神が地上をながめてご覧になると,地上は腐敗し,人間はみな正道を踏みはずして生きていた(11,12節).
そこで,神はノアに向って仰せられた,「私は決めた,人間は終わりだ.人間のせいで,地上は暴力に満たされたからである.さて,私は地とともに人間を滅ぼす.おまえは樹脂のある木の箱舟を自分のために造り,その中を区切り,内外にアスファルトを塗れ.…見よ,私は,天が下の生きとし生けるものを滅ぼしつくすために,地上に*⁶大水の大天災を送ろうとする.地上のすべてのものは滅ぼしつくされる.だが,おまえに対して私は*⁷契約をしよう.おまえは息子たちと,妻と,息子たちの妻を連れて,箱舟に入れ.さらに,すべての生き物の中から,そのすべての中から二つずつを箱舟に入れ,おまえとともに生きながらえさせよ.それは雄と雌でなければならぬ.空飛ぶすべてのもの,地をはうすべてのものも,その種類によって,二つずつが,*⁸生きながらえるべくおまえのもとに来るであろう.また食べられるあらゆるものを集めて,おまえと彼らとのための糧とせよ」.ノアは,そのようにした.神に命じられたことを、すべてそのとおりに行った.』

(注釈)
(神の子らと人間の娘たち)
聖書学者は,昔からの「神の子ら」の伝統を,唯一神を信じる人々のために,適当に手を加えて書き残している.それは,大洪水が道徳の腐敗を理由に起こされたことを知らせるためである.
さらに,中近東地方でよくいわれていた「巨人」についての誤った言い伝えを訂正するためでもあった.当時にもそれ以前にも,中近東には半神半人の巨人の言い伝えがあった.

*¹「神の子ら」についてはいろいろな解釈があったが,聖書が言おうとするのは,「天使が罪を犯したこと」(これは肉体の罪ではなくて,ごう慢の罪である)である.
作者が「天使の罪」を言おうとしたのであれば,現代人には問題点があるにしても,一瞬姿を現したこの「天使」(神の子ら)は,ここに一度だけ記されて二度と登場しない.

*²「私の霊」は人間その他の生き物を生かす「神の力」のことだと解釈してよい.

*³百二十年とは人ひとりの年のことか,それとも洪水までの,改心のために人類に与えられた時間のことか不明である.

(人類の堕落)
*⁴擬人法を使っての表現.作者が目的とするのは,神を「位格あるもの」として紹介することである.人間とかかわりあいのない抽象的な神ではない.神は人間の罪を見,人間の祈りも聞くものであり,キリストがそうであったように「罪人を思って泣く」神である.ユダヤ教とキリスト教の神は,明らかに「生きる神」である.

*⁵真に価値あるものは,カイン(正しい弟を殺した悪い兄)の子孫の物質文化(4・17,20-22)でもなく,人の子がふえることでもなく(5章,6・1),偉人や巨人の偉さでもなく,「正義」であって,それだけが他の人間を救えるものであった

(大洪水の準備,箱舟)
*⁶「大水の大天災」はヘブライ語の「マブル」.ここ以外のところでは詩篇(29〈28〉・10)にしか出ていないことばである.語源から見れば,バビロニア語の「アバブ」(あらし),アッシリア語の「ナバル」(破壊)ではないかといわれている.しかし,世界的な大天災,大破滅を示す外国語の術語から出たものともいわれる.中近東の人々の間には,「大天災」が歴史以前にあったという言い伝えが残っている.

バビロニアの言い伝えは「ギルガメシュの詩」に残されているが,ここではギルガメシュの多神論的な迷信的なところは除かれている.この有名な言い伝えを利用して,聖書作者は宗教的な解釈を下している.
神は人類一般の「生命に反する罪」を大天災で罰するが,忠実な者をその天災から守る.

この大洪水は史実に間違いないと思われる(知恵〈旧約〉10・4,シラ〈旧約〉44・17-19,ヘブライ手紙3・20,ペトロ手紙(第一)3・20,ペトロ手紙(第二)2・5,マテオ聖福音24・37-39,ルカ聖福音17・26以下).
しかし,聖書作者は今の歴史のような書き方はせず神の霊感もあったであろうが,当時の伝統に基づいて記している.大洪水という「事実」と,その出来事の「宗教的な教え」と,その表現である「文学」とは区別して考えなければならない.

*⁷神がノアとその子孫に対して結ぶ契約のことが初めてはっきり記される.この契約は神の慈悲だけによって成立する.後にアブラハムとの契約(創世〈旧約〉15・18),民との契約(19・1)がある.

*⁸罰あるいは救いのために,動物も人間と運命をわかち合う.人間の罪は神の創造のみ業(わざ)を傷つけた(6・13,ローマ手紙〈新約〉8・19-22).

* * *

③第3パラグラフの聖書の引用箇所についての訳注:

旧約聖書・創世の書:第7章11節

『…ちょうどその日に,*大深淵のあらゆる水源が破れ,天の水門が開いた.』

(注釈)
*大洪水が地をおおうこの記述は,当時の宇宙論に従っている.
・当時の考え方によると,大地は大柱の上におかれ,下には深淵の水がある(創世49・25,詩篇24(23)・2,75(74)・4,格言8・24,28).
・地下のその深遠の水は,川などによって上に出てくる(格言8・24,28).ここでは川があふれたことになる.そのうえ「天の屋根」の水門が開いて,上にあった水も流れ出てきた.…
・宗教的にいえば,洪水がどのくらいの地域に及んだかはさして重大ではない.ノアによる救いの格言的な意味についても,その広がりについては同じことがいえる.
・ノアが救われたことは「洗礼による救い」の前兆である(ペトロの手紙(第一)3・20-21).

* * *

同・創世の書:第8章2節(太字部分)

(1-3節)

『神はノアと,またともに箱舟にいたすべての獣と家畜のことを思い出され,地上に風を吹かされたので,雨はひき始めた.深淵の水源と天の水門とは閉じられ,*大雨が天から降るのもやみ,大雨が天から降るのもやみ,水はしだいに地の面(おもて)からひいていき,百五十日後に水かさは減った.…』

(注釈)
(水がひく)・1-14)
神のあわれみを示す以下の物語は「神は…思い出され」という一言から始まる.「ザカール」というこの動詞は,空しい思いではなく,何かをつくり上げる強い思いである.こうしてつくり上げられるのは,賞罰いずれにしろ,神の現存の証明である.

*「大雨」は夕立のようなパレスチナの冬の雨である.

* * *

(まとめと解説)

・自然界(大宇宙・大自然・動植物)は人間と同じように神の被造物である.
・現存する生命はみな一つの源(唯一の神)から生まれ出て互いに共存し合っている.
・特に人間は神の似姿として,自然界を支配すべく創造されたが,人祖が神に背いたため自然界もその原罪の下に服従させられた.
・自然界はその管理者たる人間の心の状態を正直に反映する.人間の善良で平和な心は人間も自然界をも共に喜ばせ生き生きと生かし,人間の悪い心(ごう慢,妬(ねた)み,憎しみ,貪欲,利己心)は人間も自然界をも共に動揺させる(家庭内不和・暴力,犯罪や自然災害).
・ある人間,人間社会が慢心し自己中心や貪欲を極めれば,その人自身・その社会自身の破滅を招くだけでなく,他の人・社会や自然界の不幸・犠牲にまで発展する(うつ病患者や自殺者の増加,欲の追求のため人や動植物の生命体を操作・利用することなど).
これは,神のおきて(①神への愛と服従②隣人を自分同様に愛する義務)すなわち自然の摂理に反することである.
・人間は神に服従し,謙遜な慎み深い,節度のある日常生活を心がけることで,傲慢,貪欲,妬み,憎しみの罪による破滅から身を守ることができる.



* * *


揺るがない救いと希望


新約聖書より

使徒聖パウロによるローマ人への手紙:第8章


(肉による生活と霊による生活)・1-17)
『だから今,キリスト・イエズスに在る者は,*¹罪とせられることがない.キリスト・イエズスにおいて命を与える*²霊の法が,あなたを罪と死との法から解放したからである.

肉によって無力になっていて律法ではできなかったことが可能とされた.それは(神が)*³ご自分のみ子を罪のために,罪の肉の形で遣わすことによって,肉において罪を罪と定められたからである.それは、*⁴肉ではなく霊に従う私たちのうちに,律法の定めを成し遂げるためである.
肉に従って生きる人は肉のことを思い,霊に従う人は霊のことを思う.肉の*⁵念(おもい)は死であり,霊の念は命と平和である.肉の念は,そのために神の敵である.神の法に従わずまた従うことができないからである.したがって肉に生きる人は神に喜ばれない

*⁶神の霊があなたたちに住まわれるからには,あなたたちは肉ではなく霊のうちにいる.
キリストの霊をもたないならその人はキリストのものではない.
キリストがあなたたちのうちにましますなら,体は*⁷罪のために死んでいても霊は義によって命にいる.イエズスを死者からよみがえらせたお方の霊があなたたちに住むなら,キリスト・イエズスを死者からよみがえらせたお方は,あなたたちに住む霊によってその*⁸死の体をも生かしてくださる.』

(注釈)
キリストのあがないのおかげで,信仰する者はもう断罪されることはない

*²聖霊のことではない.

*³キリストは肉に生きる人間と同じ形をとられたが,罪をとらなかった.「罪のために」というのは罪を破るためである.

*⁴肉に罪の力があったが,キリストの肉体によって,罪の力は破れた.

*⁵傾向,要求などの意.肉は霊的な死に導く罪の奴隷である

*⁶「神の霊」「キリストの霊」は聖霊のこと(ガラツィア手紙〈新約〉4・6)

*⁷罪のために人間は死ぬものである(5・12).あるいは,洗礼による象徴的な死のことを指すか(6・3-5).

*⁸キリスト信者はキリストの死と復活にあずかる(コリント手紙〈第一〉15・12).

* * *

『*¹そこで,兄弟たちよ,私たちは負債を負っているが,肉に従って生きるための肉に対する負債を負ってはいない.あなたたちが肉に従って生きるなら死に定められており,霊によって体の行いを殺すならあなたたちは生きる.神の霊によって導かれている人はすべて神の子らである.*²あなたたちはふたたび恐れに陥(おちい)るために奴隷の霊を受けたのではなく,養子としての霊を受けた.これによって私たちは「*³アッバ,父よ」と叫ぶ.霊御自ら私たちの霊とともに,私たちが神の子であることを証明してくださる.私たちが子であるのなら世継ぎでもある.
キリストとともに光栄を受けるために,その苦しみをともに受けるなら,私たちは神の世継ぎであって,キリストとともに世継ぎである.』

(注釈)
*¹キリスト信者は,肉ではなく霊に対して負債をもっている.

*²ガラツィア4・5-6.ユダヤ人の宗教生活の基本は,特に神への恐れであった(第二法〈旧約〉6・13,10・21).しかしキリストの降臨の後は恐れが信仰の土台となると思ってはならない

*³アラマイ語の「父」(マルコ聖福音14・36).

* * *

(神の子らとしての希望)・18-25)
今の時の苦しみは,私たちにおいて現れるであろう光栄とは比較にならないと思う.
*¹全被造物は切なる憧(あこが)れをもって,神の子らの現れを待っている.*²全被造物は自分の望みによってではなく,自分を服従させたものによってはかなさに服従させられたが,だが腐敗の奴隷から解放されて,神の子らの光栄の自由にあずかれることを希望している
.*³全被造物が今まで嘆きつつ陣痛の苦しみに会っていることを私たちは知っている.

そればかりではなく,霊の初穂をもつ私たちも,心からのうめきをもって自分が養子とされ,
*⁴自分の体があがなわれることを期待している.まことに私たちが救われたのは,*⁵希望においてである.目に見える希望はもう希望ではない.見えるものをどうして希望することができよう.私たちがもし見えないものを希望しているのなら,忍耐をもってそれを期待しよう.』

(注釈)
キリストの救いの効果は,全世界に及ぶものである(コロサイ手紙(新約)3・3-4,エフェゾ手紙1・10,フィリッピ手紙2・10).

*²パウロはアダムの罪が人間の世界だけでなく,物質の世界にも及んでいることをほのめかしている.

すべての被造物は新秩序の到来を待っている(使徒3・21,ペトロ手紙(第二)3・13).

*⁴まったく養子となること(コリント手紙(第一)15・47-49).

*⁵救いの完成が希望の対象である

* * *

(聖霊の助力)・26-27)
『*¹霊も私たちを弱さから助ける.私たちは何をどういうふうに祈ってよいかを知らぬが,霊は筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたいうめきをもって,私たちのために取り次いでくださる.そして*²心を探るお方は霊の意向を知りたもう.すなわち,霊は神のみ旨に従って聖徒のために取り次がれる.』

(注釈)
*¹神の霊(8・9,11).9節ではキリストの霊についても記されている.神の霊とキリストの霊は,父と子が送る同じ霊,聖霊である.

*²神のこと.

* * *

(救いの予定)・28-30)
神を愛する人々すなわちみ旨によって召し出された人々のためには,神がすべてをその善に役立たせたもうことを私たちは知っている.*¹神はあらかじめ知っている人々を*²み子の姿にかたどらせようと予定された.それはみ子を多くの兄弟の長子とするためである.
また予定された人々を召し出し,召し出した人々を義とし,義とした人々に*³光栄を与えられた.』

(注釈)
*¹コリント手紙〈第一〉(新約)8・3,13・12.神の愛の結果である.

*²コリント手紙〈第二〉3・18参照.

*³光栄を得るのはキリスト来臨の時であるが,パウロは神の永遠の計画をすでに実現されたものとして見ている.

* * *

(救いの確実さ)・31-39)
『このことについて何と言おう.神がもし私たちの味方ならだれが私たちに反対できよう.*¹ご自分のみ子を惜しまずに私たちすべてのためにわたされたお方が,み子とともに他のすべてを下さらないはずがあろうか.だれが神の選ばれた者を訴えられよう.義とするのは神である.だれが彼らを罪と定められよう.死んで,いや,むしろ甦(よみがえ)って神の右に座し,私たちのためにとりなしたもうイエズス・キリストか.*²だれがキリストの愛から私たちを離れさせ得よう.患難か,苦悩か,迫害か,飢えか,裸か,危険か,剣か.すなわち,「*³あなたのために私たちは一日じゅう死にわたされ,屠(ほふ)られる羊のようなものになった」と書き記されているとおりである.だがすべてこれらのことに会っても,*²私たちを愛されたお方によって,私たちは勝ってなお余りがある.死も,命も,天使も,*⁴権勢も,現在も,未来も,*⁴能力も,高いものも深いものも,そのほかのどんな被造物も,主イエズス・キリストにある神の愛から私たちを離せないのだと,私は確信する.』

(注釈)
救いの予定は神の無限の愛に基づき,人間への神の賜はその愛を表す

私たちに対するキリストの愛(8・37).

*³詩篇44・23.キリストは,自分のために苦しむ人々を見捨てない(コリント手紙〈第二〉4・11).

*⁴「権勢」と「能力」はキリストに反する悪霊のこと(コリント手紙〈第一〉15・24).


*   *   *


使徒ペトロによる第一の手紙全章.

第1章

(あいさつ)・1-2)
『イエズス・キリストの使徒ペトロより,ポント,ガラツィア,カパドキア,アジア,ビティニアに離散し,*¹寄留している選ばれた人々,すなわち父なる神の予知によってイエズス・キリストに服従し,*²その御血を注がれるために,聖霊によって聖とされた人々に.あなたたちに豊かな恩寵と平和があるように.』

(注釈)
*¹パレスチナを離れていることだけではなく,キリスト信者であれば故国は天国だと考えねばならぬからである.

*²シナイ山での契約の改めを暗示する(〈旧約〉脱出の書24・8).イエズスは新しい仲立ちであって,その御血は新契約の保証であり,調印である.

* * *

(救いの希望と信仰の試練)・3-9)
『私たちの主イエズス・キリストの父なる神は賛美されますように.神はその大なるあわれみにより,イエズス・キリストの死者からの*¹復活によって,私たちを新たに生まれさせ,生きる希望を抱かせ,*²朽ちることなく,汚(けが)れることなく,しぼむこともない天の蓄(たくわ)えの遺産を継がせられた.あなたたちは末の世に現れようとしている救いを受けるために,信仰によって神の力に守られている.
だからしばしの間いろいろの苦しみに会うにしても,そのために喜び勇むがよい.火で試されるはかない黄金(きん)よりも尊い信仰の試練は,イエズス・キリストの現れの日,誉(ほま)れと光栄と名誉のもととなるであろう.あなたたちはイエズスを見なかったのに彼を愛し,*³見ないのに信じている.それはあなたたちにとって言い尽くせぬ輝かしい喜びのもとである.その信仰の報いとして霊魂の救いを受けると保証されているからである.』

(注釈)
*¹3-4節 使徒2・16,22以下,36,ヨハネ聖福音3・5,ヨハネ手紙(第一)2・29,3・9参照.

*²ローマ1・4,コロサイ1・5,15,マテオ聖福音6・19-20参照.

信仰は見えないものを宣言するから,功徳あるものである

* * *

(救いはイエズス・キリストにある)・10-12)
『その救いは,あなたたちに備えられた恩寵について預言した預言者たちによって探られ,調べられた.彼らは*¹自分たちの中にあるキリストの霊が,あらかじめキリストの苦しみとその後の光栄を宣言した時,その示された時代と情況をしらべようと努力した.
彼らは,その使命が自分たちのためではなく,あなたたちのためであると*²啓示を受けた.それは天から送られた*³聖霊によって,今あなたたちに,天使さえあこがれる福音を伝える人々の宣言を準備する使命であった.』

(注釈)
*¹旧約をも導いたキリストの永存(コリント(第一)10・4,9).

*²預言はペトロの時代に実現した.

*³聖霊は使徒たちに下った.それは預言者たちに下ったのと同じ聖霊である.

* * *

(聖徳への勧め)・13-21)
『だから,あなたたちは心の腰に帯をしめ,身を慎(つつし)み,すべての希望を,イエズス・キリストの現れの日に与えられる*¹恩寵にかけよ.*²従順な子となって,以前無知のころもっていた欲望に従うな.*³むしろあなたたちを召された聖なるお方にならい,自分のすべての行いを聖とせよ.「*⁴私が聖なる者であるから,あなたたちも聖なる者であれ」と書き記されているからである.あなたたちは,人を差別せずに業(わざ)によって各人をさばかれるお方を*⁵父と呼ぶのであるから,地上で過ごす間畏れ(恐れ)をもって生きよ.あなたたちが*⁶祖先から受け継いだむなしい生活からあがなわれたのは,金銀などの朽ちる物によるのではなく,*⁷傷もなく汚点(しみ)もない小羊のような,キリストの尊い御血によることをあなたたちは知っている.キリストは世の創造以前に予定されていたが,あなたたちのためにこの末の日に現れたもうた.キリストを死者からよみがえらせ,光栄を与えられた神に対する信仰を,あなたたちはキリストによってもっている.こうしてあなたたちの信仰と希望は神に基づくのである.』

(注釈)
*¹永遠の救いである(ルカ聖福音12・35-40).

*²ローマ6・19参照.

*³マテオ聖福音5・48,ヨハネ手紙(第一)3・3,使徒9・13参照.

*⁴レビ(旧約)11・44参照.

*⁵マテオ聖福音6・9,コリント(第一)4・4-5,同(第二)5・10-11参照.

*⁶私たちの救いのあまりにも高価なことを考えよ.この祖先は,偶像崇拝や異教の不道徳に従っていた(使徒14・15,エフェゾ4・7).

*⁷レビ(旧約)22・21,ヨハネ聖福音1・29,36参照.

* * *

(愛と神のみことば)・22-2・3)
あなたたちは,真理に服し,霊魂を聖とし,真実な兄弟愛に至ったのであるから,絶えず互いに心から愛し合え.
あなたたちが新たに生まれたのは,朽ちる種によるのではなく,永遠に生きる神のみことばの朽ちぬ種によるからである
.「*¹すべての肉は草のごとく,その光栄は草の花のようである.草は枯れ,花は落ちる.しかし主のみことばは永遠に残る」.あなたたちに伝えられたよい便りはこのみことばである.』

(注釈)
*¹イザヤ(旧約)40・6-8参照.

* * *

第2章

(愛と神のみことば)・22-2・3)
『したがって,*¹すべての悪意,すべての偽(いつわ)り,偽善(ぎぜん),ねたみ,そしりを棄(す)てよ.*²新たに生まれたみどり児(ご)のように,それによって救いに成長するために,混じりのない*³霊的な乳を望め.あなたたちは,もはや主の慈(いつく)しみを味わったからである.』

(注釈)
*¹ローマ1・29参照.

*²信仰と洗礼によってキリスト信者は生まれ,霊的成長をとげる.

*³教えのこと.

* * *

(キリストは親石である)・4-10)
『*¹人間に捨てられ神に選ばれた尊い生きる石である主に近づけ.そして生きる石としてあなたたちもこの霊の建物の材料となれ.こうして,あなたたちは*²聖なる司祭職を務め,イエズス・キリストによって神に嘉(よみ)される霊のいけにえをささげるであろう.そこで聖書には,「*³見よ,私は,選ばれた尊い親石をシオンに置く.これに信頼を置く者は辱(はずか)しめられない」と記されている.それは信じるあなたたちには誉(ほま)れとなったが,信じない人には「*⁴家を建てる者の捨てた石が親石」,邪魔物の石,つまずきの岩となった.彼らがつまずくのは,みことばを信じないからである.彼らはそう定められていたのである.しかしあなたたちは選ばれた民族,*⁵王の司祭職,聖なる民であり,闇(やみ)から輝かしい光にあなたたちを呼ばれたお方の不思議を現すために選ばれた民である.あなたたちは前には神の民ではなかったが今は神の民であり,前にはあわれみを受けなかったが今はあわれみを受けた.』

(注釈)
*¹マルコ12・10参照.

祈り,断食などのいけにえをささげるキリスト信者は,司祭の務めを果たすとも言える

*³イザヤ(旧約)28・16参照.

*⁴イザヤ8・14,詩篇(旧約)118・22参照.

*⁵脱出(旧約)19・5,イザヤ43・20-21,ローマ(新約)3・24,コリント〈第二〉1・12-13.広義の司祭職,すなわち王または司祭であるキリストの肢体だからである

* * *

(模範)・11-12)
『愛する者よ,私はあなたたちに勧めたい.あなたたちは*¹他国人であり旅人であるから,霊に逆らう肉の欲を避けよ.*²異邦人(異教徒や不信心な人)の中にあって申し分のない行いをせよ.それはあなたたちを悪人とそしる中で,あなたたちの善業がよりよく評価されるためであり,訪れの日に神に誉(ほま)れを帰するためである.』

(注釈)
肉の世,福音を受けない世において,キリスト信者は他国人である(詩篇〈旧約〉39・13,ガラツィア〈新約〉5・24).

*²マテオ聖福音5・16,イザヤ〈旧約〉10・3参照.

* * *

(上の者に従え)・13-25)
『*¹あなたたちは主のために人間の立てた制度に従え.主権者として王に,そして悪人を罰し善人を賞するために王から送られた者として上長にも服従せよ.
善を行い,あなたたちを認めぬ愚かな人々の口を閉ざさせることこそ神のみ旨である.*³自由民としてふるまっても,その自由を悪事の覆(おお)いとせず,神のしもべとしてふるまえ.すべての人を敬(うやま)い,*⁴兄弟たちを愛し,神を畏れ(恐れ),*⁵王を尊(とうと)べ
*⁶しもべたちよ.大いに尊敬の念をもって主人に服従せよ.よい寛容な主人にだけではなく,気むずかしい人々にも服従せよ.
*⁷神のために患難と不正な苦しみとを耐え忍ぶことは,神に嘉(よみ)されることである.もし悪を行ってから打たれるのを耐え忍んでも,それが何の功徳になろう.だが善を行ったのに苦しめられて耐え忍ぶのは神に嘉されることである.*⁷

あなたたちは実にそのために召されている.キリストはあなたたちのために苦しみ,その足跡を踏(ふ)ませるために*⁹模範を残されたのである.
キリストは罪を犯さず,口を偽(いつわ)らず,侮辱されても侮辱せず,虐(しいた)げられても脅(おど)さず,*⁸正義をもってさばくお方に自分をゆだね,*¹⁰そのお体に私たちの罪を背負って*¹¹木につけられた.
それは私たちを罪に死なせ,正義に生きさせるためである.あなたたちは,その打ち傷によっていやされた.あなたたちは*¹²羊のように迷っていたが,今は霊魂の牧者と番人とのもとに帰ったのである
.』

(注釈)
*¹ローマ13・1-7,ティト3・1参照.

*²ガラツィア5・13参照.

*³罪から解放された者として(ユダ4節)

*⁴ガラツィア6・10参照.

*⁵マテオ聖福音22・21参照.

*⁶エフェゾ6・5参照.

*⁷19-20節(*⁷から*⁷まで) 服従の価値は,神ご自身に対して義務を負っているという意識にある

*⁸当時不正な主人に踏みにじられていた奴隷にとって,大いなる慰めと力づけであった.

*⁹マルコ14・65参照.

*¹⁰受難の救霊的価値

*¹¹使徒(新約)5・30参照.

*¹²イザヤ(旧約)53・6参照.

* * *

第3章 

(夫婦の義務)・1-7)
『同じように妻たちも夫に従え.たとい*¹教えに従わぬ夫であっても,彼はあなたたちの清い慎み深い生活を見て,ことばではなく妻の行いによって救われる.あなたたちは*²髪を編み,金の輪をつけ,服装を装(よそお)う外面ばかりの飾(かざ)りをつけず,むしろ隠(かく)れた内的な心の飾り,つまり優しく静かな霊の朽ちることのない清さをもて.これが神のみ前に尊(とうと)いものである.自分の夫に従って神に希望をかけていた昔の清い婦人たちの飾りもそうであった.たとえば*³サラはアブラハムに服従して,彼を主と呼んだ.あなたたちは,何にも恐れず善を行って*⁴サラの娘となった者である.
*⁵また夫たちよ,あなたたちは自分より弱い者である妻とともに思いやりをもって生活せよ.なぜなら彼女たちもともに命の恩寵の世嗣ぎ(よつぎ)だからである.だから彼女たちを尊べ.何事もあなたたちの祈りの妨(さまた)げとしないように.』

(注釈)
*¹福音のこと(〈新約〉エフェゾ5・22以下,コロサイ3・18,ティト2・4-5).

*²(新約)ティモテオ〈第一〉2・9-10参照.

*³創世(旧約)18・12参照.

*⁴ガラツィア3・7参照.

*⁵ローマ7・2-4,コリント〈第一〉7・1-16,11・2-16,エフェゾ5・22-23,コロサイ3・18-19参照.

* * *

(愛徳の義務)・8-12)
最後に,あなたたちは*¹みな心を一つにせよ.同情,兄弟愛,あわれみ,謙遜*²をもつように.*³悪に悪を,侮辱に侮辱を返すことなく,むしろ祝福せよ.あなたたちは,祝福の世嗣ぎとなるためにそう召されたからである
「*⁴命を愛して幸せな日を送ろうとする者は,舌を悪から,唇を偽りから守れ.悪を遠ざかって善を行い,平和を求めまた追え.主の目は義人の上に注がれ,その耳は彼らの祈りに傾(かたむ)く.だが主の顔は悪を行う者に向く」.』

(注釈)
*¹ローマ12・16参照.

*²ブルガタ訳には「慎み」という言葉も入っている.

*³ルカ6・28参照.

*⁴10-12節(「 」内)詩篇(旧約)33・13-17.
聖徳をもって生きることは祈りの効果と主の祝福を受けるために最も有効である

* * *

(キリストの模範に従う)・13-22)
『あなたたちがもし善に熱心なら,だれがあなたたちに悪を行えよう.*¹たとい正義のために苦しめられても,あなたたちは幸せである.彼らの脅(おど)しを恐れるな,戸惑(とまど)うな.*²心の中で主キリストを聖なる者として扱い,あなたたちの内にある希望の理由を尋(たず)ねる人には,優しく,敬って常に答える準備をせよ.
正しい良心をもつようにせよ,そうすればあなたたちがキリストにおいて行うよい行いをののしる人々は,自分がののしったことを恥じるであろう.また*³善を行って苦しむことが神のみ旨なら,悪を行って苦しむよりもそのほうよい.なぜならキリストも一度人々の罪のために死なれた.義人であったキリストは不正な者の身代りとなり,私たちを神に近づけるためにそのお体に死を受け,霊において生かされた.*⁴その霊においてキリストは囚(とら)われの魂の所に行って宣言した.*⁵その霊とは,ノアのとき,神が寛容をもって待たれた間,箱舟(はこぶね)が作られつつあったのに,従わなかった人々である.その箱舟に入って水から救われたのはわずかに八人であった.その水は今あなたたちを救う洗礼の前兆であった.洗礼は体の汚(けが)れを除くことではなく,イエズス・キリストの復活により,神に対して*⁶正しい良心を求めることである.キリストは(*⁷私たちに永遠の命を得させるために死を滅ぼし,)天に昇って神の右に座られる.そして天使たちと*⁸能力と勢力はキリストに服従する.』

(注釈)
*¹マテオ聖福音5・10,イザヤ(旧約)8・12-13参照.

*²マテオ10・26-31参照.

神に信頼する義人の苦しみは,神の罰である悪人の苦しみとは比較できないものである

*⁴イエズスの霊は冥府に行って,先祖たちに救いを告げた(ルカ23・43,ローマ10・6,黙示1・18).

*⁵神に背いていた人々も,神の下した罰を見て改心し,古聖所に入れられた

*⁶「契約」という訳もある.

*⁷このことばはギリシア語の古写本にはのっていない.

*⁸「能力と勢力」は能天使と力(りき)天使のこと.

* * *

第4章 

(罪を絶て)・1-6)
『*¹キリストは肉体において苦しまれたのであるから,あなたたちもその心で武装せよ.肉体において苦しんだ者は罪を断ち,もはや人間の欲望に従わず,肉体を残す間,神のみ旨によって生きる.過去のあなたたちは,異邦人の好みのままに,好色,欲望,酩酊,酒宴,暴飲,厭(いと)うべき偶像崇拝におぼれて生活したが,もうそれで十分ではないか.彼らはあなたたちが自分たちと同様に淫乱の極みに走らないのを怪(あや)しみ,あなたたちをそしる.しかし彼らは生者と*²死者を裁こうと待ちかまえられる主に報告せねばならないであろう.よい便りが死者にものべ伝えられたのは,*³肉体においては人間としてさばき,霊においては神に従って生かすためである.』

(注釈)
*¹ローマ6・6-7参照.

イエズスは死者をさばく主でもある.死者とは古聖所の死者(使徒10・42,ティモテオ〈第二〉4・1).

*³死ぬべき人間として死に,キリストの聖霊によって生きる.

* * *

(徳の実行)・7-11)
『*¹万物の終りは近い.だから,よりよく祈るために賢明であれ,慎み深くあれ.何よりもまず絶えず愛し合え.愛は多くの罪を覆(おお)うものである.不平を言わずに客をよくもてなせ.神のさまざまの恩寵のよい分配者として,各自が受けた賜(たまもの)をもって他人に仕えよ.*²語る人は神のみことばにふさわしいように語り,愛の仕事に携(たずさ)わる人は,神に分け与えられた力によって仕事せよ.それはイエズス・キリストによってすべてについて神に光栄を帰するためである.光栄と力は代々にキリストの上にあれ.アメン.』

(注釈)
*¹神の審判が近いことを考えて,聖徳を積まねばならない.

*²語るとは宣教すること.愛の仕事は執事の務め.

* * *

(苦しみの時の慰め)・12-19)
愛する者よ,あなたたちを試すために*¹燃やされた火を見て,思いがけないことが起ったかのように驚かず,むしろ*²キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜べ.そうすれば,あなたたちは光栄の現れのとき喜びに喜ぶ.*³もしあなたたちがキリストのみ名のために侮辱されるなら幸せである.*⁴神の霊である光栄の霊があなたたちの上に休まれるからである.あなたたちの中のだれも,人殺しあるいは盗人(ぬすびと),悪人あるいはみだりに他人に干渉する者として罰を受けてはならぬ.しかし,キリスト信者として苦しむならば,それを恥じず,むしろその名を持つことによって神に光栄を帰せよ.すでに*⁵神の家から裁(さば)きの始まる時が来た.私たちから始まるとしたら,神の福音に従わぬ人々の行く末は,どうであろうか.*⁶義人がかろうじて救われるのなら,不敬虔な人や罪人はどうなるであろうか.だから神のみ旨に従って苦しむ者は,善を行いながら真実のお方である創造主に霊魂をゆだねよ.』

(注釈)
キリストの敵が与える苦しみを見て,ある信者はつまずいたからである

*²マテオ5・11-12参照.

*³イザヤ(旧約)11・2参照.

*⁴マテオ聖福音5・11-12,ルカ聖福音6・22-23参照.

*⁵神の家は義人たちのこと.

*⁶格言(旧約)11・31,ルカ23・31,ローマ11・21,エレミア(旧約)25・29参照.

* * *

第5章 

(聖職者の義務)・1-4)
『私はあなたたちの中の*¹長老たちに勧める.私も彼らと同じ長老であって,キリストの御苦しみの証人であり,やがて現れる光栄にあずかる者である.あなたたちにゆだねられている神の群れを牧せよ.強いられてではなく,(*²神に従って)心から行い,汚らわしい利益のためではなく献身的に行い,(*³ゆだねられた団体に)支配権の重みを感じさせず,*⁴むしろ群れの模範となれ.そうすれば牧者のかしらが現れるとき,あなたたちは不朽の光栄の冠を受けるであろう.』

(注釈)
*¹初代教会の司祭あるいは司教のこと.

*²このことばはある古写本にはない.

*³このことばもある古写本にはない.

*⁴コリント〈第一〉4・16,フィリッピ3・17,ティモテオ〈第一〉4・12参照.

* * *

(信者の義務)・5-7)
若い人々よ,あなたたちは長老に服従し,互いに謙遜をまとえ.「*¹神は高ぶる者に逆らい,へりくだる者に恵みを与えられる」からである.だから,神の力のある御手のもとにへりくだれ.そうすれば,*²その時になって神はあなたたちを高めたまい,*³すべての心配を神にゆだねれば,神はあなたたちをかえりみたもう.』

(注釈)
*¹格言(旧約)3・34参照.

*²審判の時.

*³マテオ6・25-34参照.

* * *

(警戒と信頼)・8-11)
『*¹節制し警戒せよ.敵の悪魔は吠える獅子(しし)のように,食い荒らすものを探して,あなたたちのまわりを回っている.*²あなたたちは世にいる兄弟たちも同じ苦しみに耐えていることを思い,信仰を固めて彼に抵抗せよ.*³すべての慈しみの神,すなわちキリストによって永遠の光栄にあなたたちを召された神は,しばらくの試みの後あなたたちを完成させ,固め,強め,不動にしたもうであろう.神に代々に勢力あれ.アメン.』

(注釈)
*¹ヤコボ4・7,エフェゾ6・16参照.

*²詩篇22・14,エフェゾ6・11参照.

*³ローマ8・18,コリント〈第二〉4・17,テサロニケ〈第一〉2・12,5・24参照.

* * *

(あいさつ)・12-14)
『*¹私の信頼する忠実な兄弟シルワノによって,私は以上簡単に書き記したが,それは,あなたたちに忠告し,あなたたちが立っているのは神のまことの恵みであることを証するためであった
あなたたちとともに選ばれた*²バビロンにある教会と,*³私の子マルコからよろしくと言っている.愛のくちづけをもって互いにあいさつせよ.
キリストにあるあなたたちすべての上に平和あれと祈る.』

(注釈)
*¹「忠実な兄弟シルワノ…私がそれを証明する」という訳もある.シルワノあるいはシラ(使徒18・5,コリント〈第二〉1・19).

*²ローマの教会

*³マルコはペトロの弟子.福音史家.

2011年4月4日月曜日

なぜ苦難があるのか?

エレイソン・コメンツ 第192回 (2011年3月19日)

最近,日本の東海岸沖合でプレート移動による激しい地殻変動が,内陸部で観測史上最大の地震を,沿岸部で壊滅的な津波を引き起こしました.この天災は多くの人の心に古くからある疑問を投げかけたに違いありません.もし神が存在し,その神が全能かつ限りなき善意の持ち主であるなら,人間がこれほどの大きな苦難を被(こうむ)ることをどうしてお許しになるのだろうか? 人々が自ら苦難に直面していない平時なら,この疑問に対し昔からある答えを理解するのは理屈の上ではそう難しいことではありません!--

まず第一に,苦難は往々にして罪に対する罰です.神は確かに存在し,罪は神の怒りを招きます.罪が霊魂を地獄に落とすものである一方で神は霊魂を天国に向けるよう創造されました.もし地上での苦難が罪にブレーキをかけ霊魂が天国を選ぶ助けになるなら,そのために必要とあらば地殻変動プレートを支配される神は不本意ながらもそれを用いて罪を罰することがおできになるのです.では日本の人々が他国の人々に比べ殊(こと)のほか罪深かったのでしょうか? 私たちの主イエズス・キリスト御自身は私たちに対してこう言われます.すなわち,そのような問いかけをするのではなく,むしろ私たちが自らを振り返って犯した数々の罪のことを思い巡(めぐ)らし,その償いを果しなさい,さもなければ「あなたたちもみな同様に滅びるだろう」(ルカ13章4節)と.西洋式(欧米流)物質主義とそれがもたらす快適さが本当の人生といえるかどうか疑問に思っている日本人が現在誰一人いないとしてもさほど驚くことではないのではないでしょうか?(訳注後記)

第二に,人間の苦難は警告(けいこく)となり得るのであり,人々に悪から目を背け自惚(うぬぼ)れを避けるよう仕向けます.たった今,神の存在を認めない罪深き西洋諸国全体が自身の物質主義と繁栄に疑問を投げかけるべきです(訳注後記).過去数年間にわたり世界各地で着実に高まりつつある地震その他の自然災害の発生率により,主なる神は確かに私たち人間すべての注意を喚起(かんき)しておられるのです.おそらく神が,1973年に日本の秋田で神の御母を通し警告されたように世界中で私たち人間に「火の雨」を降らせるという罰を下さずに済むようにと望まれているからです(訳注後記).だが,たった今現実に苦難を受けている日本の人々の方が,遠く隔(へだ)たった西洋諸国の人々に比べ被った災害からより多くの利益を得ている公算が大きい(可能性が高い)と言えるのではないでしょうか? これら諸国のいずれの国にとっても実のところ,差し迫った神の懲罰の前触(まえぶ)れ(予兆)を予(あらかじ)め味わっているというだけで運がいいということなのかもしれません.

第三に,神は人間の苦難を用いて神の僕たちの善徳を浮き彫り(うきぼり)にされるのかもしれません.ちょうどヨブ(訳注・旧約聖書に登場する善人の名)やキリスト教の昔からのあらゆる殉教者たちの場合がその例にあたります.今日の日本において超自然的な神への信仰( “supernatural faith” )を持つ人は少ないかもしれませんが,今回の事態においてもし日本の人々が漠然(ばくぜん)とでも強力な神の御手(の業(わざ),力)を感じさせる何らかの偉大な存在の下に自らを低くし慎(つつし)むなら,(神の支配される)自然の賜物に与(あずか)るようになり,少なくとも自然レベルで自らの身をもって神に栄光をもたらすことになるでしょう(訳注後記).

最後に,旧約聖書のヨブの書第36章に記されてあるとおり,ヨブがなぜ苦難に襲われたかについてヨブ自身や彼の家族や友人たちが思いついた説明にどうしても満足しないヨブに対して,ついに神御自身が答えられます.神の御言葉を分かりやすいように言い換えてみます:「ヨブよ,私(神)が地に基(もとい)をおいた時,あなたはどこにいたのか? あなたが地殻変動プレートを造ったのか? あなたは誰が平時には海の水をその境界内に留(とど)め,乾いた土地に押し寄せぬようにしていると思っているのか? この度,海水が日本の東北地方沿岸に打ち寄せるままにした私自身に然(しか)るべき理由がなかったと,あなたには本気で思えるのか?」ヨブの書の第38章と39章を読んでみて下さい.ヨブはようやく屈服し神に服従したのです.ヨブは神の答えに満足し,神の上智(知恵・叡智)と善意に疑問を差し挟(はさ)んだ自らの過(あやま)ちを認めました(ヨブ42,1-7)(訳注後記).

世界中の私たち一人ひとりが神に対しこれまでに犯した自らの罪の償いをしましょう.一人ひとりが日本で起きたこの大震災を自らへの警告と受け止め自分自身を戒(いまし)めましょう.やがて私たち自身にふりかかる様々な試練のなかで,(神の御前に正しく慎ましく生活することにより)神に栄光をもたらすことができるよう望みをかけましょう.そして,とりわけ,神のみが唯一の神(永遠の全知全能の存在なる方)であることを認めましょう!(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


(訳注)のリスト:

(1)第2パラグラフの訳注:新約聖書・ルカ聖福音書:第13章4節

(2)第3パラグラフの2番目の訳注:「秋田の聖母」について.

(3)第5パラグラフの2番目の訳注:旧約聖書・ヨブの書:第42章1-7節

(4)第5パラグラフの初めの訳注:旧約聖書・ヨブの書:第38,39章→38章-40章を部分的に抜粋して記載します(後から全部を別の場所に記載します).

(5)第2,第3,第4パラグラフについての訳注:聖書の引用
・「西洋式物質主義の快適さが本当の人生と言えるか?」について.
・「罪深き西洋諸国全体の物質主義と繁栄に疑問を投げかけるべき」について.
・「超自然的な神への信仰」( “supernatural faith” )について.

(6)第4,6パラグラフについての訳注:
・「神に栄光をもたらす」…原文 “give Him glory”, “to give glory to God.” の意味について.

(注・引用した聖書の(注釈)の一部については後から追加します)

* * *

(1)第2パラグラフの訳注:
新約聖書・ルカ聖福音書:第13章4節(太字部分)(1-5節を記載)

『そのとき,ピラトがあるガリラヤ人たちの血を彼らのいけにえに混ぜたという知らせを告げに来た人々があった.
イエズスは答えられた,「ガリラヤ人がそんな目に会ったからといって,彼らが他のガリラヤ人以上に大きな罪人だったと思うか.私は言う.そうではない.あなたたちも悔い改めないなら,みな同じように滅びるだろう.
また,*¹シロアムの塔が倒れて押しつぶされた十八人が,エルサレムのほかの人々よりも大きな負い目をもっていたと思うか.私は言う.そうではない.*²悔い改めないなら,あなたたちもみな同じように滅びる」.』

(注釈)

(悔い改め)
*¹ユダヤ人は,災(わざわ)いは罪の罰であると考えていた.しかしそうではない.義人(正しい人)も災いにあうことがある.

²このことばはエルサレム滅亡のとき実現した.

* * *

(2)第3パラグラフの訳注:
「秋田の聖母」 “Our Lady of Akita” について.

日本よりも海外でよく知られており,「日本の聖母マリア」として大変有名である.巡礼者も毎年世界各地から多くの人が訪れている.

(出来事の簡単な説明)
日本の秋田県で1973年から1982年まで続いた聖母マリア御出現の奇跡.
・1973年夏,秋田県秋田市にあるカトリックの女子在俗修道会「聖体奉仕会」所属の修道女シスター・アグネス笹川の左掌に十字架の形の傷が現れ激しく痛み出血した(「聖痕」と呼ばれる奇跡的な現象).
・また修道院の聖堂の木彫りの聖母像の目から涙が流れ出,その右掌からも血が流れた.
・そして聖母御出現当時,神の御旨により全く耳が聞えなくされていたシスターの耳に聖母の非常に美しいみ声が聞えた.
・聖母は3回シスターに出現され,世界人類の罪に対する神の悲しみと怒り,来たるべき神の人類への重い罰,悪魔の誘惑によるカトリック教会の堕落,多くの失われる霊魂に対する聖母の悲しみなどについて警告された.
・また世界を破滅から救うことが出来るのはキリストの残された印(御聖体)と聖母のロザリオの祈りのみであることを訴えられ,人々の改心のため,またカトリック教会の聖職者(司教・司祭)たちのために償いと犠牲の業とロザリオの祈りを熱心にすることの必要性を告げられた.
・他に,香しい芳香が感じられるなどの奇跡も数回起きている.
・シスター笹川の耳は聖母の出現から数年後(1982年)神の奇跡により癒(いや)され完全に聞えるようになった.
・聖母像の目から涙が流れ出た回数は数年間に101回に及び,この間に延べ約500人の人が訪れその涙を目撃している.
・秋田に訪れて聖母に祈りを捧げた多くの人が聖母の取り次ぎにより病気の治癒や改心に導かれるなどの人生の奇跡的な転換を体験している.

(参考文献)
・「秋田の聖母マリア」安田貞治神父・著 聖体奉仕会・発行(1987年)
・「日本の奇跡『 聖母マリア像の涙』- 秋田のメッセージ」安田貞治神父・著 エンデルレ書店・発行(2001年)
・ロザリオの祈りはダイノスコプス・エレイソン・コメンツ用語集に記載されています.

* * *

(3)第5パラグラフの訳注:
旧約聖書・ヨブの書:第42章1-7節

『そのときヨブは主(神)に答えて言った,
「あなたにはすべてができると,私は知っています.あなたは企(くわだ)てたことを実行されます.
思慮のない言葉で,あなたの企てをかき乱したのは私です.
私は自分で分からぬこと,自分の知らぬ不思議について,向こうみずにも語りました.
(聞きたまえ,私に言わせたまえ.私は尋(たず)ねます.教えたまえ).
*私は耳で聞いてあなたを知っていました.だが今,私はこの目であなたを見ました.
そのために私は自分の愚かさにあきれ,ちりと灰の上で悔やみます.」 』

(注釈)

*神の出現のことをいっているのではない.ただ,神の実在について新しい知識を受けた.ヨブは神の神秘を知りその全能を礼拝する.正義についてヨブがした質問に神からの返事はなかった.しかし,神がなさったことを人間に神自身が説明する義務のないこと,神の知恵は苦しみと死という事実にも,人間の考え及ばぬ意味を持たせうることをヨブは悟った.

(注記)

エレイソン・コメンツ第180回の「第2パラグラフの訳注」と「『正しい人の苦しみ』について」をご参照ください.

* * *

(4)第5パラグラフの初めの訳注:

旧約聖書・ヨブの書:第38,39章
→38章-40章を部分的に抜粋して記載します(後から全部を別の場所に記載します).

『そのとき,主は,嵐の中からヨブに話しかけられた,
「思慮のないことばで,私のはかりごとをかきまぜるのはだれか.
おまえは勇士のように腰に帯せよ,私が尋(たず)ねるから教えてくれ.

私が地に基(もとい)をおいたとき,おまえはどこにいたのか.
知っているなら言え.
だれがその尺度を決めたか知っているのか.だれがそこに綱を引いたのか.
その土台は何の上に立ち,だれが隅石をおいたのか.
朝の星がともに歌い,神の子らが喜びおどっていたそのとき.
だれが海に戸を閉ざしたのか.
それが胎からあふれ出たときのことだ.
私がその上に雲をまとわせ,黒雲を産衣(うぶぎ)としたときのことだ.

私はそれに境を定め,扉とかんぬきをおいて,
〈これを越えてはならぬ〉と言った.
〈ここでおまえの波の高ぶりはとどまる〉と.・・・
おまえは海の源にいき,淵の底をまわったことがあるのか.
死の門を示し,影(黄泉)の国の門を見たことがあるのか.
また,地の広さを幾分でも知っているのか.
言え,知っているのなら.
光はどちらの方に住み,やみのところはどこにあるのか.
おまえはそれらを迎えにいき,おのおのの家に連れもどせるのか.・・・

おまえは雪の倉にも入り,
雹(ひょう)の蓄(たくわ)えどころを見たことがあるのか.
それは苦悩のときのために,戦いといくさの日のために蓄えてある.
稲妻はどの方角にひらめき,地に火花を散らすのか.
にわか雨に堀を開き,雷鳴に道を明けるのはだれか.
無人の地にも,人住まぬ荒野にも雨を降らし,
すたれた寂しいところに水を与え,荒れ地に草を生えさせる.・・・

おまえにスバルの鎖が結べるのか.あるいはオリオンの綱が解けるのか.・・・
天の法則を知り,地へのその影響を定めるのはおまえか.
声を雲にあげ,水の集まりを従えることができるのか.
稲妻が〈はい,ここにいます〉とやってきて出かけるのは,
おまえが命令を下すからなのか.・・・

雌じしのためにえさを狩り,子じしの飢えを満たすのはおまえか.
かれらが穴にうずくまり,茂みに待ち伏せしているときに,
からすの子が神に向って鳴き,えさもなくさまようとき,
からすに食べ物を与えるのはだれか.・・・

・・・そのとき,ヨブは主に答えて言った,
「私は軽率なことを申しました.あなたに何の口答えができましょう.
私は口に手をあてます.一度話しましたが,もうくり返しません.
二度話しましたが,もう続けられません」.

だが主は,ヨブに言われた,
「勇士のように腰に帯をせよ,私が問えばおまえが教えよ.
おまえは本当に私の権利を踏みにじりたいのか.
自分を正しいとしたいがために私を非とするのか.
おまえは神のような腕を持ち,神のような声でとどろきわたれるのか.
では,威厳と偉大さをもってみずから語り,華麗と光栄を身につけよ.
怒りといきどおりを吐き出し,
おまえの見る高慢な者どもを卑しめ,高慢な者どもをかがませ,
悪人をそのところで踏みつぶし,
彼らをともに土の中にうずめ,その隠れ家に顔を閉じこめよ.
そうすれば私もおまえをほめよう.その右の手は勝利を得たのだから.・・・ 』

* * *

(5)第2,3,4パラグラフについての訳注:
・「西洋式物質主義の快適さが本当の人生と言えるか?」について.
・「罪深き西洋諸国全体の物質主義と繁栄に疑問を投げかけるべき」について.
・「超自然的な神への信仰」( “supernatural faith” )について.

(理解の手助けのための聖書の引用)

① 旧約聖書・脱出の書:第20章3-6節

(神の十戒)
『*¹私(真の神)以外のどんなものも,神とするな. *²刻んだ像をつくってはならぬ,高く天にあるもの,低く地にあるもの,*³地の下にあるもの,水の中にあるもの,どんな像をもつくってはならぬ.*⁴その像の前にひれ伏してはならぬ.それを礼拝してはならぬ.
おまえの神なる主,私は,私を憎む者に対しては,父の罪を三代,四代の子にまでおよぼして罰する,*⁵ねたみ深い神である.しかし,私を愛して,おきてを守る者には,千代までも,慈しみを示す神である.』

(注釈)

*¹イスラエル(=真の神を信仰する者)の唯神論が,強く主張される.
神と人間との間に,仲介のような神々は存在しない.

*²まことの神の像をつくることも禁止する.

*³ヘブライ人の宇宙論によれば,地は,大洋の上に浮かんでいるように考えていた.

*⁴偶像崇拝の禁じられる理由である.中近東諸国の昔の儀式の本を見ると,神の像を神自身と考え,崇敬の対象としていた(バビロン,アッシリア,ヒッタイトの文明ではそうであった.エジプトもそうである.)

*⁵真理そのものである神は,いつわりのものを耐え忍ぶことができない
「父の罪を三代,四代の子にまでおよぼして」人間を,個人としてより,家族あるいは民族の一員として考える中近東の国々の考え方による.

(解説)

・人間の内心の正しい良心よりも外見の美や強さを優先して称賛したり(目の欲),持ち物の多少や衣食住の贅沢さで人間の価値を量(はか)ろうとすること(肉の欲,生活の奢(おご)り,富の誇り,過度の身なりの洒落,物質欲,美食など)は,神が禁じる「偶像(アイドル)崇拝」と同意義のものである.人を「まことの信仰」と「神への愛」から遠ざけるすべてのものが「偶像崇拝」に当たる.
・節度が必要なのは,欲を追求し過ぎて慢心すると正しい良心を喪失し,そこからあらゆる人間の不幸が始まるからである.
・悪魔は人間の五感に訴えるあらゆる美しさや強さ(権力)を悪用して人間を誘惑するのであり,真の神への信仰を持たない人間は,たやすくそのような神の宿らない虚しい力(しばしば悪徳を宿していることが多い)を称賛するのであって,人間はそれにかまけて「神(正義と愛)への信仰に立つこと」や「正しい良心の声に従うべきこと」を忘れてしまいがちである.欲を張り過ぎる人間は,気づかぬうちに自分で自分の身を滅ぼし永遠の破滅へと追いやることになり,気づいた時には後の祭りとなってしまう.

* * *

② 新約聖書・(使徒)ヨハネの第一の手紙

第1章 

『*¹初めからあったこと,私たちの聞いたこと,目で見たこと,ながめて手で触れたこと,すなわち命のみことば(=キリスト)について - そうだ,*²この命は現れた,私たちはそれを見て証明する.御父のみもとにあって今私たちに現われた永遠の命(=キリスト)をあなたたちに告げる - ,あなたたちを私たちに一致させるために,私たちは見たこと聞いたことを告げる.私たちのこの一致は,御父とみ子イエズス・キリストのものである.*³私たちの喜びを全うするために私はこれらのことを書き送る.』

(注釈)

*¹みことばすなわちキリスト(ヨハネ聖福音書1・14以下,15・27,ヨハネ(第一手紙)5・20).

*²十二使徒の証明の対象は,福音書に書かれている歴史上のキリストである.

*³「あなたたち」と書く写本もある.

(神は光である)
『私たちがキリストから聞いてあなたたちに告げる便りはこうである.
神は光であって,少しの闇(やみ)もない.
*²私たちが闇の中を歩いているのにキリストと一致していると言うなら,それは偽(いつわ)りで,真理を行っていない.
*³主が光のうちにましますように,私たちも光のうちを歩んでいるなら,私たちは互いに一致し,み子イエズスの血は私たちの罪をすべて清める.』

(注釈)

*¹無限の真と善と美と聖を光という.闇(やみ)は無知と罪.

*²ヨハネ聖福音書3・20参照

*³原文は「彼」で神のこと.


(罪を避けよ)
『*¹罪がないというなら,それは自分を偽っているのであって,真理は私たちの中にはない.自分の罪を告白するなら,真実な正しい神は,私たちの罪をゆるし,すべての不義を清めてくださる. *²罪を犯さなかったと言うなら,それは神を偽り者とするのであって,みことば(=命)は私たちの中にはない.』

(注釈)

*¹自分に罪がないと考えるのは,真理に導かれていない証拠である.

*²神は聖書を通じて,人間はすべて悪人だと言われた.

* * *

第2章

(罪を避けよ)
『小さな子らよ,私がこれらのことを書くのは,あなたたちに罪を犯させないためである.だが罪を犯す人があるなら,私たちは*¹御父のみ前に一人の弁護者をもっている.それは義人のイエズス・キリストである.
*²キリストは私たちの罪のためのとりなしをされるいけにえである.いや,ただ私たちの罪のためではなく,全世界の罪のためである.』

(注釈)

*¹ローマ8・34,ヘブライ7・25,ヨハネ14・16,使徒3・14参照. *²使徒4・10,ローマ3・25参照.

(おきてへの忠実)
『私たちが掟(おきて)を守るなら,それによってキリストを知っていることがわかる.
「*¹私は主を知っている」といいながら掟を守らぬ人は偽(いつわ)り者であって,真理は彼の中にはない.みことばを守る者はその人のうちに神の愛が全(まっと)うされ,それによって私たちは主の中にいることがわかる。 *²また主の中にいると言う者は,自分も主が歩まれたように歩まねばならぬ
愛する者よ,私があなたたちに書くのは*³新しい掟ではなく,あなたたちが初めから受けていた古い掟であって,その古い掟はあなたたちが聞いたみことばである.しかし私が書き送るのは*⁴新しい掟である.それは,キリストにとっても,またあなたたちにとってもそうである.闇(やみ)は過ぎ去り,まことの光がすでに輝いているからである.
「私は光にいる」と言いながら,兄弟を憎む者はまだ闇の中にいる. *⁵兄弟を愛する人は光にとどまる者であって,彼はつまずく恐れがない.兄弟を憎む人は闇の中にいて闇を歩み,闇に目を暗(くら)まされて自分がどこに行くかも知らない.』

(注釈)

善業を伴わない信仰は,救霊に役立たない(ティト1・16,コリント(第一)8・1-3,ティモテオ(第二)3・5).

*²ローマ6・11,13-14,ペトロ(第一)2・21参照.

*³イエズスは隣人愛を「新しいおきて」といった(ヨハネ13・34).

*⁴しかし利己的な人間の中にあって,キリスト教の愛のおきては常に新しくふさわしいものである.

*⁵隣人愛の実行は,恩寵の光に生き自分の宗教をよく理解する人々のしるしである

(世の危険)
(「世」とは「地上」すなわち神の正義や善を見下す罪深い人たちの社会を指す)

『小さな子らよ,私があなたたちに書き送るのは,主のみ名によってあなたたちが罪をゆるされたからである.父たちよ,私があなたたちに書き送るのは,あなたたちが初めからましますお方を知ったからである.若者よ,私があなたたちに書き送るのは,あなたたちが悪者に勝ったからである.子らよ,私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが御父を知ったからである.(父たちよ,私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが初めからましますお方を知ったからである.)若者よ,私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが強い者であり,(神の)みことばをその中に保ち,そして悪者(悪魔)に勝ったからである.

世と世にあるものを愛するな.
世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない.
世にあるもの,すなわち肉の欲,目の欲,生活のおごり(富の誇り)などはすべて御父(真の神)から出るのではなく世から出る
世と世の欲は過ぎ去るが,神のみ旨を行う者は永遠にとどまる
.』

(反キリスト)
『小さな子らよ,*¹最後の時である.あなたたちは反キリストが来ると聞いていたが,今や多くの*²反キリストが現れた.これによって私たちは最後の時が来たことを知る.彼らは私たちの間から出たけれども,*³私たちに属する者ではなかった.私たちに属する者であったなら私たちとともに残ったであろう.しかし彼らが出ていったのは,みな私たちに属していない人々であることを示すためであった.

あなたたちは,*⁴聖なるお方の注油を受けて,みな知識をもっている.私(使徒ヨハネ)があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが真理を知らないからではなく,真理を知り,真理からはどんな偽りも出ないことを知っているからである.
*⁵偽り者はだれか.イエズスがキリスト(救世主たる神の子)であることを否定する者ではないか.御父(真の神)とみ子(=主キリスト)を否(いな)む者,それこそ反キリストである.み子を否む者は御父をもたず,*⁶み子を宣言する者は父を持っている.あなたたちは,初めから聞いたことにとどまれ.初めから聞いたことにとどまるなら,あなたたちは御父とみ子の中にとどまる. *⁷そして主(=神のみ子キリスト)自身が私たちに約束されたことは,すなわち永遠の命である.

私はあなたたちを惑わす人々についてこう書いた. *⁸あなたたちには主から受けた注油が残るのであるから,だれにも教えを受ける必要がない.その注油はあなたたちにすべてを教えるもので,偽りのない真実のものである.それが教えるとおりあなたたちは主にとどまれ. *⁹だから小さな子らよ,主にとどまれ.そうすれば,み子の現れの時,信頼を失わず,その来臨の時,主から離れる恥を味わわないであろう.主が正しいと知っているなら,正義を行う者はみな主から生まれるのだと知るであろう.』

(注釈)

*¹イエズスの誕生から審判までの期間(ガラツィア4・4,エフェゾ1・10,ミカヤ(旧約)4・1).

*²異端者と棄教者.

*³公に教会を離れる前に,異端者は信仰と恩寵の上でもはや教会に属していない者である. *⁴洗礼または堅振(信)の秘跡の暗示がある.

*⁵イエズスが神の子であり,救世主であることは,キリスト教の基礎的な信仰告白であって,これを否定するのは御父を否定するのと同じである.

*⁶ヨハネ聖福音書1・18,5・23,10・30参照.

*⁷ヨハネ聖福音書5・24,6・40,17・2参照.

*⁸信仰の教えを受けたからには,異端の教えに従うなと注意する.

*⁹テサロニケ(第二)1・9,マテオ聖福音書24・3,コリント(第一)15・23参照.

* * *

第3章

(神の子ら)
考えよ,神の子と称されるほど,御父から,計りがたい愛を受けたことを.私たちは神の子である
この世が私たちを認めないのは,御父を認めないからである.愛する者たちよ,私たちはいま神の子である.後にどうなるかはまだ示されていないが,それが示されるとき(キリストが現れる時),私たちは神に似た者になることを知っている.私たちは,神をそのまま見るであろうから. 主が清いお方であるように、主にたいするこの希望をもつ者は清くなる.罪を犯す者はそれによって法に背(そむ)く.罪は法に背くこと(神への敵対行為)である.あなたたちの知っているとおり,イエズスが現れたのは,罪を除くためであり,イエズス自身には罪はない.主(=神イエズス)にとどまるものは罪を犯さない.罪を犯す者はまだ主を見ず,主を知らないのである.

小さな子らよ,人に惑(まど)わされるな.主が正義のお方であるように,正義を行う者は,義人である
罪を犯す者は悪魔に属する.悪魔は初めから罪を犯しているからである
神の子が現れたのは,悪魔の業を破るためである.神から生まれた者は罪を犯さない.神の種(成聖の恩寵)がその人のうちにとどまり,その人は神から生まれた者であるから罪を犯すことができないのである. これによって,神の子と悪魔の子を区別することができる正義を行わぬ人は,兄弟を愛さぬ人と同様に神からの者ではない.あなたたちが初めから聞いた便りは,愛し合うことである.
悪魔に属していたから自分の兄弟を殺したカインには倣(なら)うな.なぜ殺したかと言うと,自分の行いが悪くて,兄弟の行いが正しかったからである

兄弟たちよ,世があなたたちを憎んでも驚くな. 私たちが死から命に移ったのは,兄弟を愛するからであって,愛さない人は死の中にとどまっていることを私たちは知っている.
兄弟を憎む者は人殺しであって,人殺しはその中に永遠の命をとどめていないことをあなたたちは知っている.

主が私たちのために命をささげられたことによって,私たちは愛を知った.私たちもまた,兄弟のために命をささげねばならぬ
世の宝を持ちながら兄弟の乏(とぼ)しさを見てあわれみの心を閉じる人の中に,どうして神の愛が住もうか?

子らよ,ことばと口先だけではなく,行いと真実をもって愛そう.それによって私たちは,自分が真理についていることを知り,神のみ前に安んじられる.
自分の心にとがめを感じるにしても,神は私たちの心よりも大きく,すべてのことを知りたもう.愛する者よ,もし心にとがめるところがなければ,私たちは神に信頼をもつことができる.また神の掟を守って,神に嘉(よみ)されることを行っているからこそ,私たちは求めることをすべて神から受ける.
その掟とは,神の子イエズス・キリストのみ名を信じ,神が掟を定められたように互いに愛すること,これである.その掟を守る人は神にとどまり,神も彼にとどまられる.私たちは神主が中にとどまりたもうことを,与えられた霊によって知る.』

第4章

(偽預言者)
『愛する者よ,無差別に霊を信じるな.霊が神から出ているかどうかを試せ.多くの偽預言者が世に出たからである.次のことによって神の霊を認めよ.すなわち,イエズスが肉体をとって下られたキリストであることを宣言する霊はみな神からである.またこのイエズスを宣言しない霊はみな神から出たものではなく,来るだろうと聞いている反キリストの霊である.それはもう世に来ている.

小さな子らよ,あなたたちは神から出たものであって,もはや彼らに打ち勝った.あなたたちにましますのは,この世にいる者より偉大なお方である.
彼らは世の者であるから世について語り,世は彼らの言うことを聞く.
しかし私たちは神からの者である.神を知る者は私たちのことばを聞き,神からでない者は聞かない.これによって真理の霊と誤謬(ごびゅう)の霊とが区別される.

愛する者よ,互いに愛せよ.愛は神よりのものである.愛する者は神から生まれ,神を知るが,愛のない者は神を知らない.神は愛だからである
私たちに対する神の愛はここに現れた.すなわち,神はその御独り子を世に遣(つか)わされた.それは私たちをみ子によって生かすためである.
私たちが神を愛したのではなく,神が(先に)私たちを愛し,み子を私たちの罪のあがないのために遣わされた,ここに愛がある.
愛する者よ,神がこれほどに愛されたのなら,私たちもまた互いに愛さねばならない.だれも神を見た者はいないが,私たちが互いに愛するなら,神は私たちの中に住まわれ,その愛も私たちの中に完成される

私たちが神にとどまり神が私たちにとどまられることは,神がご自分の霊に私たちをあずからせたもうたことによって分かる.私たちは御父がみ子を救世主として送られたことを見て,これを証明する.
イエズスが神のみ子であると宣言する者には,神がその中にとどまられ,彼は神にとどまる.

私たちは神の愛を知り,それを信じた神は愛である
愛をもつ者は神にとどまり,神は彼にとどまられる.愛が私たちの内に完成されるのは,審判の日に私たちに信頼をもたせるためである.私たちは地上において,主と同じものだからである.

愛には恐れがない.完全な愛は恐れを取り除く.恐れは罰を予想する(恐れには罰が含まれている)からである.恐れる者は完全な愛をもつ者ではない.

私たちが愛するのは,神が先に私たちを愛したもうたからである.
「私は神を愛する」と言いながら兄弟を憎む者は,偽り者である.目で見ている兄弟を愛さない者には,見えない神を愛することができない.
神を愛する者は自分の兄弟も愛せよ.これは私たちが神から受けた掟である
.』

第5章

(イエズス・キリストへの信仰) 
『イエズスがキリストであることを信じる者は,神から生まれた者である.生んだお方(神)を愛する人々は,また神から生まれた者(神の子ら)をも愛する.神を愛してその掟を行なえば,それによって私たちが神の子らを愛していることがわかる.
神への愛はその掟を守ることにあるが,その掟はむずかしいものではない.
神から生まれた者は,世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.イエズスが神の子であると信じる者のほかにだれが世に勝てるであろうか.

水と血によって来られたのはイエズス・キリストである.ただ水だけではなく,水と血によってである.それを証明するのは霊である.霊は真理だからである.実に証明するものは三つある.(天においては御父とみことばと聖霊であり,この三つは一致する.地において証明するのは三つ),霊と水と血である.この三つは一致する.

私たちが人間の証明を受け入れるなら,神の証明はそれにまさっている.神の証明とはそのみ子についてのことである.神の子を信じる者は,自分の内に神の証明をもち,神を信じない者は神を偽り者とする.神がそのみ子についてされた証明を信じないからである.その証明とは神が私たちに永遠の命を与えられたこと,その命がみ子にあることである.み子をもつ者は命を有し,み子をもたぬ者は命をもたぬ

私が以上のことを神の子の名を信じるあなたたちに書いたのは,あなたたちに永遠の命があることを知らせるためであった.
私たちは(神の)み旨に従って願うことを神が必ず聞き入れたもうと確信している.そして,神がすべての願いを聞き入れたもうことを知るなら,また願ったことが受け入れられることもわかる.』

(罪の種類)
『自分の兄弟が死に至らぬ罪を犯しているのを見たなら,彼のために祈れ.そうすれば命が帰るだろう.
これは死に至らぬ罪を犯す人々のために言ったことである.死に至る罪がある.私はこれについて祈れとは言わぬ.すべての不義は罪である.しかし死に至らぬ罪がある.』

(悪魔に対して)
『神から生まれた人はすべて罪を犯さないと私たちは知っている.神から生まれたお方(キリスト)がその人を守られるから,悪者はその人に触れることができない.私たちが神から出た者であり,世がすべて悪者の配下にあることも私たちは知っている.また神のみ子がすでに来られ,真実のお方(神)を知るための知恵を私たちに授けられたことも知っている.
私たちはそのみ子イエズス・キリストによって真実のお方のうちにいる.それは真実の神であって,永遠の命である.小さな子らよ,偶像を警戒せよ.』

* * *

(6)第4,6パラグラフについての訳注:
・「神に栄光をもたらす」…原文 “give Him glory”, “to give glory to God.” の意味について.

「神に栄光を帰す」とも言われる.
〈神は万物の創造主であり,人間はその被造物である.〉
人間が神に服従し,神の正義と愛徳に適(かな)う生活をすることによって,天上の神の栄光を地上で示すことになるという意味.

① 神を愛し,
(天地の創造主,全能の父なる神に服従すること)

② 隣人を自分と同じように愛する
(隣人愛の実践)