エレイソン・コメンツ 第222回 (2011年10月15日)
数か月前に出版されたイエズス(キリスト)の生涯に関する二作目の著書の中で教皇ベネディクト16世は,ユダヤ人たちはもうこれ以上,神殺し,すなわち神の殺害 (原文・ “deicide, i.e. the killing of God” )の責めを負わされるべきでないとジャーナリストたちに早合点させるような所見を述べられました.もっと悪いことに,5月17日には米国司教会議の世界教会(又は〈世界〉普遍教会・キリスト教会一致運動)および異宗教関係問題事務局の事務局長 (原文・ “the executive director of the US Bishops’ Conference’s Secretariat for Ecumenical and Interreligious Affairs” ) が,歴史上のいつの時代においてもユダヤ人たちを神殺しの罪で告発すれば必ずカトリック教会との交わりが断たれることになると述べました.今日,多くの人々が信じたいと思っていることに反して,いかに手短な形であろうと,イエズスの司法殺人について真実のカトリック教会が常に何を教えてきたかを今こそ思い起こす時です.
まず第一に,イエズスの殺害は本当に「神殺し “deicide” 」,すなわち神の殺害だったのです.なぜならイエズスは神の三つの位格のひとつを備えておられたのであり,神性に加えて人性をもお取りになった方だったからです(原文・ “…Jesus was the one of the three divine Persons who in addition to his divine nature had taken a human nature”. )十字架の上で殺されたのは何だったのでしょうか? それはただイエズスの人性(訳注:=人としてのイエズスの身体)だけです.だが十字架の上でイエズスの人性において殺された方はどなた(誰)だったのでしょうか? それは神の第二の位格,すなわち神に他なりません(原文・ “…the second divine Person, i.e. God”. ).つまり神が殺されたのであり,神殺しの罪が犯されたのです.(訳注後記)
第二に,イエズスは私たち罪深い人間をすべてその罪から救うために十字架の上で死なれました.その意味で,あらゆる人間がイエズスの死の目的でしたし今でもそうです.だが,ただユダヤ人(指導者と民衆)だけがその神殺しの第一の主要な仲介者だったのです.なぜなら,複数の福音書から明らかなように,もっとも関わりが強かった異邦人ポンツィオ・ピラト(訳注・原文・ “Pontius Pilate”.当時ユダヤを支配していたローマの総督)は,ユダヤ人指導者たちがユダヤ人民衆をたきつけてイエズスを十字架につけよと強く求めるよう仕向けなければ,決してイエズスに十字架刑を宣告することはなかったからです(マテオ聖福音書・27章20節参照)(訳注後記).確かに聖トマス・アクィナスは学識を持った指導者たちは無学な民衆よりも罪深い,と言っていますが(神学大全・第3章47,5)(原文・ “…says St Thomas Aquinas (Summa III, 47, 5)” ),彼らはみな一斉(いっせい)に叫びイエズスの血が彼ら自身とその子孫の上にしたたるよう求めたのです(マテオ27章25節)(原文・ “…they all cried together for Jesus’ blood to come down upon them and their children (Mt. XXVII, 25)”. )(訳注後記).
第三に,少なくとも教皇レオ13世 “Pope Leo XIII” はイエズスを殺せと強く求めた当時のユダヤ人たちと現代のユダヤ人集合体との間に実際の連帯が存在すると考えました.彼はイエズスの聖心(みこころ)に人類を奉献する行為 “Act of Consecration of the Human Race to the Sacred Heart of Jesus” において,19世紀末以降ずっと,神が「かつて神の選民だったその民族の子孫に対し慈悲の御目を向けて下さるよう,すなわち,昔は救世主の御血が自分たちにかかるようにと叫んだユダヤ人に,今は贖罪(しょくざい)と生命の洗盤(すなわち洗浄)(原文・ “a laver (i.e. washing)” ) が彼らに下りてくるよう」カトリック教会全体に祈るべく仕向けてこなかったでしょうか? (訳注後記)
だが,数世紀にわたりユダヤ人の間に存在するそのような連続性を感知したのは決して教皇レオ13世だけではありません.今日,彼らユダヤ人自身は旧約聖書の神により与えられた権利を根拠にパレスチナの土地に対する自らの所有権を主張しているのではないでしょうか? 今までに地球上に彼ら以上に誇らしげに自らを昔から全く同一のものとして識別している(原文・ “…proudly self-identifying as identical down the ages” )民族国家(原文・ “a race-people-nation” )が他にあるでしょうか? そもそも神により救世主を抱くよう育てられながら,悲しいかな,その救世主が現れたとき彼らユダヤ人は,集団的に,彼を認めることを拒否したのです.また集団的に,そこには常にいくつかの高貴な例外があるという意味で,彼らユダヤ人はその拒否に忠節を守ってきたのであり,それによって彼らはアブラハム,モーゼ,旧約聖書 “Abraham and Moses and the Old Testament” の宗教からアンナ,カイファ,タルムード “Annas, Caiphas and the Talmud” の宗教へと自らの宗教を変えたのです(訳注後記).悲劇的なことに,まさに神から受けたメシア信仰の(救世主的な)教えそのものが彼らユダヤ人が偽の救世主だと固執する一人の人(訳注・=イエズス・キリスト)を拒否するよう追い立てているのです.カトリック教会は常に彼らユダヤ人がこの世の終りに改心するだろうと教えてきましたが(ローマ人への手紙・11章26-27節参照)(訳注後記),彼らは実際にそうするときまで,集団的に真の救世主の敵として行動し続けることを選択する運命にあるようです.教皇がそのような古代から続く諸真理を排除することができるものでしょうか?
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの訳注:
神の三つの位格のひとつ “the one of the three divine Persons” について.
“聖三位”,"The Holy Trinity" (英),"Trinitas Sanctus" (ラテン語)
神の三つの位格を表わす聖書からの引用例:
・(新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第1章1-18節)
『はじめにみことばがあった.みことばは神とともにあった.みことばは神であった.
みことばははじめに神とともにあり,万物はみことばによって創られた.創られた物のうちに,一つとしてみことばによらずに創られたものはない.
みことばに生命があり,生命は人の光であった.光はやみに輝いたがやみはそれを悟らなかった(それに勝てなかった).
…みことばは肉体となって,私たちのうちに住まわれた.私たちはその栄光を見た.それは,御独り子として御父から受けられた栄光であって,恩寵と真理に満ちておられた.
…そうだ,私たちはそのみちあふれるところから恩寵に次ぐ恩寵を受けた.なぜなら,律法はモーゼを通じて与えられたが,恩寵と真理はイエズス・キリストによって私たちの上に来たからである.
神を見た人は一人もいない.御父のふところにまします御独り子の神がこれを示された.』
(注)「みことば」とは「父なる神の御独り子イエズス・キリスト」を指している.
(注釈)
福音史家ヨハネは,みことばの永続性を主張し,時が始まる先に,みことばは,父なる神と同じ神性を有しながら異なる位格をもつものとして,存在していたという.
みことばは三位一体の第二の位格である.「みことば」といわれる理由は,父なる神の内的,本質的みことばだからである(創世の書〈旧約〉1章1-5節参照).
* * *
・(新約聖書・マテオによる聖福音書:第28章16-20節)
『(イエズスの御復活後)ガリラヤに行った十一人の弟子は,イエズスが命令された山に登り,イエズスに会ってひれ伏した.けれども中には疑う者もあった.
イエズスは彼らに近づいて言われた,
「私には天と地のいっさいの権威が与えられている.行け,諸国の民に教え,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)の名によって洗礼を授け,*私が命じたことをすべて守るように教えよ.私は世の終りまで常におまえたちとともにいる」.』
(注釈)
*キリスト紀元以後の歴史家が,すでに実現したと認めている尊い約束である.キリストの教会において生き,行い,勝利を得るのは,キリスト・イエズスである.
* * *
・(新約聖書・使徒パウロのコリント人への第二の手紙:第13章13節)
『…主イエズス・キリストの恩寵,神の愛,聖霊の交わりが一同とともにあるように.』
* * *
第3パラグラフの最初の訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第27章20節(太字部分)(15-26節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 27:20 (27:15-26)
第3パラグラフの2つ目の訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第27章25節(太字部分)(上記掲載部分に含まれる)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 27:25
『祝日のたびに総督は民の望む囚人を一人赦免するのを例年のしきたりとしていた.そのころバラバという有名な囚人が獄(ごく)に入っていた.
民が集まったときピラトは聞いた,「おまえたちはだれの赦免を望むのか,バラバなのか,キリストと称するイエズスなのか」.ピラトはイエズスが訴えられたのはねたみのためだと知っていた.
ピラトがまだ法廷にいるときその妻から使者が来て伝言を伝えた,「あの義人(=イエズス)にかかわりをもたないでください.私は今日夢の中であの人を見,たいそう苦しい思いをしました」と.
司祭長と長老は,バラバをゆるしイエズスを殺すよう民をそそのかした.だから総督が「二人のうちだれをゆるしてほしいのか」と聞いたとき,彼らは「バラバを」と答えた.
ピラトは「ではキリストと称するイエズスをどうしたいのか」と聞いた.民は「十字架につけよ」と叫びたてるばかりであった.
自分の努力も実らず,むしろ騒動の起こらんとする気配を察したピラトは,水を取って民の前で手を洗い,「この男の血について私には責任がない.おまえたちで責任を取れ」と言った.
民は「その血はわれわれとわれわれの子孫の上にかかってよい」と答えた.
ピラトはバラバをゆるし,イエズスをむち打たせ,十字架につけるために引きわたした.』
* * *
第4パラグラフの訳注:
洗盤 “a laver (i.e. washing)” について.
または水盤とも言う.
ユダヤ教の祭司が祭式に供せられる物の洗浄や手足を洗い清める(沐浴・洗手・洗足)ために用いた青銅(又は真鍮〈しんちゅう〉)の大きなたらいのこと.
* * *
第5パラグラフのはじめの訳注:
・アブラハム “Abraham” …イスラエル民族(ユダヤ人・ヘブライ人)の始祖.名はヘブライ語で,「私はおまえを多くの民(諸国民)の父とする」と,神がアブラムの名をアブラハムと改称したときに仰せられたことに由来する.(旧約聖書・創世の書:15,17,21,22章参照)
・モーゼ “Moses” …紀元前13世紀のイスラエル(ヘブライ)の預言者.エジプトの奴隷状態だったイスラエル民族を解放し,彼らを率いてエジプト脱出からカナンの地へと導いた.途中シナイ山において神から「十戒」を含む律法を授けられた.
・旧約聖書 “the Old Testament” …本来ユダヤ教の正典で,正式の名は「律法・預言書と諸書」.
「旧約」とは神が預言者モーゼを通して人類に与えた契約を意味する.
キリスト教の立場からの名称であり,「新約」と区別して使われる.
①律法〈モーゼ五書〉…歴史書(創世書・脱出〈出エジプト〉書・レビ書・荒野〈民数〉書,第二法〈申命〉書など)
②預言書…(イザヤ書・エレミア書など)
③諸書…教訓書(詩篇・格言書・ヨブ書など)
・アンナ “Annas” …イエズス・キリストの公生活当時(ユダヤ教の大司祭経験者として)非常な権力を有し,ユダヤ教のかしらとして考えられていた.キリストの受難当時に大司祭だったカヤファの義父.イエズスの殺害をカヤファらと策謀した.
・カイファ(カヤファ) “Caiphas” …アンナの継子.
(新約聖書・ルカ聖福音書3:2,ヨハネ聖福音書11:49-53,18:13,14節参照)
・タルムード “the Talmud” …ヘブライ語で教訓,教義の意.前2世紀から5世紀までのユダヤ教ラビたちがおもにモーゼの律法を中心に行なった口伝,解説を集成したもので,ユダヤ教においては旧約聖書に続く聖典とされる.
…歴史的にもユダヤ精神,ユダヤ文化の精華であり,その生活の模範となり創造力の根源となっている.
(以上,フェデリコ・バルバロ神父訳聖書(講談社),ブリタニカ国際大百科事典,大辞泉,リーダーズ英和辞典,ジーニアス英和大辞典,ランダムハウス英和大辞典他を参照.)
* * *
第5パラグラフの2つ目の訳注:
使徒聖パウロによるローマ人への手紙:第11章26-27節(太字部分)(25-36節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS – 11:26-27 (11:25-36)
『兄弟たちよ,私はあなたたちが自分の知識に自負しないように,この奥義を知ってもらいたい.その奥義とはイスラエル(ユダヤ人)の幾分かがかたくなになったのは,異邦人が入ってその数が満ちるまでである.
こうして全イスラエルは救われるであろう.「シオンから解放者が出てヤコブから不敬を取り除く.それは私(=神)が彼ら(イスラエル)の罪を除くとき,彼らと交わす私の契約である」と書かれている.
福音についてはあなたたち(=異邦人)のためにイスラエルが敵にされ,選びについては先祖のためにイスラエルは愛されている(注・神の選民として).神の賜と召し出しは後悔のもとになるものではない.
あなたたちは前には神に不従順であり,今は彼ら(イスラエル)の不従順のために(神の)あわれみを受けたのであるが,彼ら(イスラエル)もあなたたち(異邦人)の受けたあわれみによって今は不従順な者となった.それは彼らもいつかあわれみを受けるためである.
こうして神は,すべての人にあわれみを現すために,すべての人を不従順に閉じ込められた.
ああ,神の富と上知と知識の深さよ,そのさばきは計り知れず,その道はきわめがたい.
「主の思いを知った者がいるか.だれがそのはかりごとの相談役であったか.先に神に与えて,のちにその報いを受けた者があったか」.
すべては神からであり,神によってであり,神のためである.神に代々に光栄あれ.アメン.』
(注)前後の部分(ローマ人への手紙第11章9-11章)(+〈注釈〉)参照.
* * *
2011年10月30日日曜日
2011年10月15日土曜日
無神論者の有神論?
エレイソン・コメンツ 第221回 (2011年10月8日)
ドイツの有名な作曲家ヨハネス・ブラームス “Johannes Brahms” (1833-1899) が遺(のこ)した興味をそそる言葉があります.それは宗教心などまったく持たない人間がそれでも客観的秩序の存在を認めていることを示すものです.そうした認識は現実観察に役立つものであり,ブラームスが彼の音楽に表現されている美しさを探り出すのを可能にしました.現代に生きる多くの人々にとっての危機は彼らが世の中には客観的なことなど全く存在しないと信じ切っていることです.彼らは自らの主観に閉じこもっており,そのことがまるで殺風景な牢屋(ろうや),自殺的(=自滅的・自暴自棄)な音楽を生み出しています.
ブラームスは1978年,当時著名なバイオリン演奏家で彼の友人だったヨーゼフ・ヨアヒム “Joseph Joachim” (1931-1907) のために「バイオリン協奏曲ニ長調」を作曲しました.彼の作品のなかでも最も素晴らしく広く愛されている曲のひとつです.ブラームスはヨアヒムがこの曲を演奏するのを聴き「なるほど,こういう演奏もあるのだ」と言いました.言い換えれば,ブラームスは協奏曲を作曲する間中,具体的にここはこういう風に演奏すべきだと心の耳で聴いていたのですが,他人がそれとは多少違った演奏をしたとしても理にかなったものだと認識したのです.
ブラームスが受け入れられない演奏スタイルが何通りかあったのは疑いのないところですが,演奏者が彼が作曲する際に目指した目標に違う方法で近づこうとしている限り,ブラームスは自分自身の演奏方法を主張する必要はないと感じていました.彼の考えでは,肝心なことは客観的な目標であり,そこへ向う主観的なアプローチではありませんでした.したがって,彼は自分の作曲でその目標に向う道筋をあらゆるタイプの演奏者に提供したのだから - 一定の許容範囲内であれば - 演奏者が好きなように演奏すればいいと考えていました.つまり,客観は主観に優(まさ)るということです.
突き詰めれば,このことは神が人間の上に存在することを意味します.だが,ブラームスはこのことを信じていませんでした.彼の友人で称賛者でもあるカトリック信者のチェコ人作曲家アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904) “The Catholic Czech composer, Antonin Dvorak” はかつてブラームスについてつぎのように述べています.「何と偉大な人間だろう! とてつもなく偉大な魂だ! それなのに彼は何も信じていない! 何一つ信じていないのだ! 」 (訳注・原文: “What a great man ! Such a great soul ! And he believes in nothing ! He believes in nothing !” ) ブラームスは全くキリスト信者ではありませんでした - 彼は意図的に自作のドイツ・レクイエム “German Requiem” の中でイエズス・キリストに触れることを避けました.彼は自分が何かの信奉者であるとも認めませんでした - 彼は自分がそのレクイエムの中で聖書の文章を用いたのは宗教の告白などでなく感じを表現したかったからだと言っています.これは主観が客観より優位ということです.ブラームスが公言する不信心は彼の音楽の多くにおおらかさや喜びが欠けることにつながっていると言えるかもしれません.
だがブラームスの作品には秋を思わせる美しさと周到に作り出された秩序とがなんとあふれていることでしょうか! 例えば「バイオリン協奏曲」に見る職人技と自然美に触れると (訳注・原文: “This craftsmanship and reflection of the beauties of Nature…” ),どうすれば私を口先で否定しながら行動で称賛する人が出てくるだろうかと仰せられている私たちの主イエズス・キリストに思い当たります(マテオ聖福音:21・28-29).ほとんどの人々が彼キリストを口先で否定する今日,何らかの方法たとえば音楽や大自然を通じて,私たちの主が自ら創造した世界に植え付けた秩序を最低限でも重んじようとする人が何人いるでしょうか.そのような誠実さとは決してカトリック信仰だけが救いということからでなく,くすぶり続ける灯心(灯芯)を消してはならないということから生まれるでしょう(マテオ聖福音:12・20).
十分なカトリックの信仰心に恵まれたカトリック信徒の皆さん,自分たちの身の周りにいるそのような人たちを見分ける力を持ちましょう.そして,音楽であれほかのあらゆる分野であれ,神のもとから神の様々な敵たちにより引き離される群衆に対して思いやり (=深い同情,哀れみ,慈悲 )を持つようにしましょう(マルコ聖福音:8・2).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
引用された聖書の箇所を追記いたします.
* * *
ドイツの有名な作曲家ヨハネス・ブラームス “Johannes Brahms” (1833-1899) が遺(のこ)した興味をそそる言葉があります.それは宗教心などまったく持たない人間がそれでも客観的秩序の存在を認めていることを示すものです.そうした認識は現実観察に役立つものであり,ブラームスが彼の音楽に表現されている美しさを探り出すのを可能にしました.現代に生きる多くの人々にとっての危機は彼らが世の中には客観的なことなど全く存在しないと信じ切っていることです.彼らは自らの主観に閉じこもっており,そのことがまるで殺風景な牢屋(ろうや),自殺的(=自滅的・自暴自棄)な音楽を生み出しています.
ブラームスは1978年,当時著名なバイオリン演奏家で彼の友人だったヨーゼフ・ヨアヒム “Joseph Joachim” (1931-1907) のために「バイオリン協奏曲ニ長調」を作曲しました.彼の作品のなかでも最も素晴らしく広く愛されている曲のひとつです.ブラームスはヨアヒムがこの曲を演奏するのを聴き「なるほど,こういう演奏もあるのだ」と言いました.言い換えれば,ブラームスは協奏曲を作曲する間中,具体的にここはこういう風に演奏すべきだと心の耳で聴いていたのですが,他人がそれとは多少違った演奏をしたとしても理にかなったものだと認識したのです.
ブラームスが受け入れられない演奏スタイルが何通りかあったのは疑いのないところですが,演奏者が彼が作曲する際に目指した目標に違う方法で近づこうとしている限り,ブラームスは自分自身の演奏方法を主張する必要はないと感じていました.彼の考えでは,肝心なことは客観的な目標であり,そこへ向う主観的なアプローチではありませんでした.したがって,彼は自分の作曲でその目標に向う道筋をあらゆるタイプの演奏者に提供したのだから - 一定の許容範囲内であれば - 演奏者が好きなように演奏すればいいと考えていました.つまり,客観は主観に優(まさ)るということです.
突き詰めれば,このことは神が人間の上に存在することを意味します.だが,ブラームスはこのことを信じていませんでした.彼の友人で称賛者でもあるカトリック信者のチェコ人作曲家アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904) “The Catholic Czech composer, Antonin Dvorak” はかつてブラームスについてつぎのように述べています.「何と偉大な人間だろう! とてつもなく偉大な魂だ! それなのに彼は何も信じていない! 何一つ信じていないのだ! 」 (訳注・原文: “What a great man ! Such a great soul ! And he believes in nothing ! He believes in nothing !” ) ブラームスは全くキリスト信者ではありませんでした - 彼は意図的に自作のドイツ・レクイエム “German Requiem” の中でイエズス・キリストに触れることを避けました.彼は自分が何かの信奉者であるとも認めませんでした - 彼は自分がそのレクイエムの中で聖書の文章を用いたのは宗教の告白などでなく感じを表現したかったからだと言っています.これは主観が客観より優位ということです.ブラームスが公言する不信心は彼の音楽の多くにおおらかさや喜びが欠けることにつながっていると言えるかもしれません.
だがブラームスの作品には秋を思わせる美しさと周到に作り出された秩序とがなんとあふれていることでしょうか! 例えば「バイオリン協奏曲」に見る職人技と自然美に触れると (訳注・原文: “This craftsmanship and reflection of the beauties of Nature…” ),どうすれば私を口先で否定しながら行動で称賛する人が出てくるだろうかと仰せられている私たちの主イエズス・キリストに思い当たります(マテオ聖福音:21・28-29).ほとんどの人々が彼キリストを口先で否定する今日,何らかの方法たとえば音楽や大自然を通じて,私たちの主が自ら創造した世界に植え付けた秩序を最低限でも重んじようとする人が何人いるでしょうか.そのような誠実さとは決してカトリック信仰だけが救いということからでなく,くすぶり続ける灯心(灯芯)を消してはならないということから生まれるでしょう(マテオ聖福音:12・20).
十分なカトリックの信仰心に恵まれたカトリック信徒の皆さん,自分たちの身の周りにいるそのような人たちを見分ける力を持ちましょう.そして,音楽であれほかのあらゆる分野であれ,神のもとから神の様々な敵たちにより引き離される群衆に対して思いやり (=深い同情,哀れみ,慈悲 )を持つようにしましょう(マルコ聖福音:8・2).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
引用された聖書の箇所を追記いたします.
* * *
2011年10月11日火曜日
10周年
エレイソン・コメンツ 第220回 (2011年10月1日)
三週間前の9月11日に9・11事件(訳注・=英原語: “9/11”.米同時多発テロ事件)の十周年が来て過ぎていきました.この報道をめぐりアメリカのメディアでは感傷の嵐が巻き起こり,そのため最近東部沿岸地域を襲った集中豪雨がただの軽い夕立に見えてしまったほどだったようです.だが同事件について問題提起するだけで「反ユダヤ主義」 “Anti-semitic” と見られる前に,私たちは紛れもない知性と品格の持ち主であるあるアメリカ人評論家とともにいったい何が事件の真相だったかを問うてみることにしましょう.
その評論家とは数か月前に執筆活動から引退すると発表したポール・クレイグ・ロバーツ博士 “Dr Paul Craig Roberts” のことです.博士は真実に関心のある読者の欠如に落胆してしまったのです.幸い彼の引退は長くは続きませんでした.彼は真実の語り部 “a truth-teller” であり,周囲に彼のような人物はほとんどいません.「アメリカでは真実の尊重は死んだ」 “In America Respect for Truth is Dead” というのが彼がインターネット上の infowars.com で発表した9月12日付記事のタイトルです.博士が暗に示している通り,この真実の喪失 “the loss of truth” こそが単にアメリカ合衆国だけでなく実際には世界中における9・11事件とその後の10年間の本当のドラマなのです.
ロバーツ博士自身は科学的経歴 “a scientific background” の持ち主で,それだけに彼は9月8日から11日までカナダ・トロントのライアソン大学 “Ryerson University, Toronto, Canada” で開催された9・11事件に関する会合に提出された科学的証拠に完全に納得したと述べています.4日間の会合で著名な科学者,研究者,建築家,技術者が9・11事件関連の出来事についての研究成果を発表しました(この調査結果はインターネット上 http://www.ustream.tv/channel/thetorontohearings でまだアクセス可能かもしれません).ロバーツ博士は彼ら専門家たちの調査により「ワールド・トレード・センター7・ビル」 “WTC7 building” が標準制御解体 (原文: “a standard controlled demolition” ) だったこと,複数の発火装置と爆薬がツイン・タワー “Twin Towers” の倒壊をもたらしたことが証明されました.これについては全く疑いの余地はありません.これに異を唱える者は誰一人として拠(よ)って立つ科学的根拠を持ち合わせていません.公式の話(当局の表向きの話)を信じる人たちは物理学の法則を否定するような奇跡を信じているのです」と記しています.
ロバーツ博士はカナダの会合に提出された多数の科学的証拠から何点かを引用しています.ツイン・タワーの崩壊で生じた粉塵の中から最近発見されたナノ酸化鉄(注:ナノは10億分の1)がその一例です.だが彼は「悪意の暴露があまりにも強烈なため(そうした証拠に接する)読者のほとんどはそれが自分たちの感情的,精神的な力に対する挑戦だと受けとめる」(訳注・原文= “the revelation of malevolence is so powerful that most readers will find it a challenge to their emotional and mental strength.” と書いています.博士によると,政府の宣伝や「メディア権力」(原語: “Presstitute media” )が人心を強くつかんでいるため,ほとんどの人々は政府の発表に異を唱えるのは「陰謀をめぐらすような変人」 “conspiracy kooks” だけだと真面目に信じているというのです.(訳注・原文=“Government propaganda and the “Prestitute media” have such a grip on minds that most people seriously believe that only “conspiracy kooks” challenge the government’s story”.事実,科学,証拠といったものはもはや何の役にも立たなくなっています(私の知り合いの誰かさんはまさにそのような状態に陥っています!).ロバーツ博士によると,シカゴ大学とハーバード大学で法学部教授をしているある学者は政府の宣伝に対し事実に基づいて疑いを差しはさむような人物はすべて黙らせるべきだとさえ主張しているそうです!
G.K.チェスタートン(訳注・原文 “G. K. Chesterton” 〈1874-1936年〉英国の作家)がかつて述べた有名な言葉ですが,神を信じなくなる人たちはなにも信じなくなるか,なんでも信じるようになります “…when people stop believing in God, they do not believe in nothing, they will believe in anything”. 9・11事件についての真相を見失った “9/11 truth-losers” 数百万の人たちのなかで最も深刻なのは,事件が内部の仕業 “an inside job” であることを理解しない,あるいは理解しようとしないカトリック信徒たち,9・11事件が象徴するようなショッキングな嘘が世界中で勝ち誇り(=世界中を征服し)まかり通ること “the worldwide triumph of such a mind-bending lie” の真に宗教的な側面 “the truly religious dimensions” を理解しない,あるいは理解したがらないカトリック信徒たちです.そのようなカトリック信徒の皆さんどうかご注目ください.カトリック信仰を失う恐れがあるなどと言えばひどい誇張と映るかもしれませんが,あのゾッとするような第二バチカン公会議が実例としてちょうど期を合わせて私たちの身に起きたではありませんか? 1960年代には,多くのカトリック信徒が現代世界の風潮に同調する見方を取り,カトリック教会もそれに順応すべきだと考えたのではないでしょうか? 第二バチカン公会議はその結果起きたのではないでしょうか? それが彼らのカトリック信仰に何をもたらしたというのでしょうか?
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
三週間前の9月11日に9・11事件(訳注・=英原語: “9/11”.米同時多発テロ事件)の十周年が来て過ぎていきました.この報道をめぐりアメリカのメディアでは感傷の嵐が巻き起こり,そのため最近東部沿岸地域を襲った集中豪雨がただの軽い夕立に見えてしまったほどだったようです.だが同事件について問題提起するだけで「反ユダヤ主義」 “Anti-semitic” と見られる前に,私たちは紛れもない知性と品格の持ち主であるあるアメリカ人評論家とともにいったい何が事件の真相だったかを問うてみることにしましょう.
その評論家とは数か月前に執筆活動から引退すると発表したポール・クレイグ・ロバーツ博士 “Dr Paul Craig Roberts” のことです.博士は真実に関心のある読者の欠如に落胆してしまったのです.幸い彼の引退は長くは続きませんでした.彼は真実の語り部 “a truth-teller” であり,周囲に彼のような人物はほとんどいません.「アメリカでは真実の尊重は死んだ」 “In America Respect for Truth is Dead” というのが彼がインターネット上の infowars.com で発表した9月12日付記事のタイトルです.博士が暗に示している通り,この真実の喪失 “the loss of truth” こそが単にアメリカ合衆国だけでなく実際には世界中における9・11事件とその後の10年間の本当のドラマなのです.
ロバーツ博士自身は科学的経歴 “a scientific background” の持ち主で,それだけに彼は9月8日から11日までカナダ・トロントのライアソン大学 “Ryerson University, Toronto, Canada” で開催された9・11事件に関する会合に提出された科学的証拠に完全に納得したと述べています.4日間の会合で著名な科学者,研究者,建築家,技術者が9・11事件関連の出来事についての研究成果を発表しました(この調査結果はインターネット上 http://www.ustream.tv/channel/thetorontohearings でまだアクセス可能かもしれません).ロバーツ博士は彼ら専門家たちの調査により「ワールド・トレード・センター7・ビル」 “WTC7 building” が標準制御解体 (原文: “a standard controlled demolition” ) だったこと,複数の発火装置と爆薬がツイン・タワー “Twin Towers” の倒壊をもたらしたことが証明されました.これについては全く疑いの余地はありません.これに異を唱える者は誰一人として拠(よ)って立つ科学的根拠を持ち合わせていません.公式の話(当局の表向きの話)を信じる人たちは物理学の法則を否定するような奇跡を信じているのです」と記しています.
ロバーツ博士はカナダの会合に提出された多数の科学的証拠から何点かを引用しています.ツイン・タワーの崩壊で生じた粉塵の中から最近発見されたナノ酸化鉄(注:ナノは10億分の1)がその一例です.だが彼は「悪意の暴露があまりにも強烈なため(そうした証拠に接する)読者のほとんどはそれが自分たちの感情的,精神的な力に対する挑戦だと受けとめる」(訳注・原文= “the revelation of malevolence is so powerful that most readers will find it a challenge to their emotional and mental strength.” と書いています.博士によると,政府の宣伝や「メディア権力」(原語: “Presstitute media” )が人心を強くつかんでいるため,ほとんどの人々は政府の発表に異を唱えるのは「陰謀をめぐらすような変人」 “conspiracy kooks” だけだと真面目に信じているというのです.(訳注・原文=“Government propaganda and the “Prestitute media” have such a grip on minds that most people seriously believe that only “conspiracy kooks” challenge the government’s story”.事実,科学,証拠といったものはもはや何の役にも立たなくなっています(私の知り合いの誰かさんはまさにそのような状態に陥っています!).ロバーツ博士によると,シカゴ大学とハーバード大学で法学部教授をしているある学者は政府の宣伝に対し事実に基づいて疑いを差しはさむような人物はすべて黙らせるべきだとさえ主張しているそうです!
G.K.チェスタートン(訳注・原文 “G. K. Chesterton” 〈1874-1936年〉英国の作家)がかつて述べた有名な言葉ですが,神を信じなくなる人たちはなにも信じなくなるか,なんでも信じるようになります “…when people stop believing in God, they do not believe in nothing, they will believe in anything”. 9・11事件についての真相を見失った “9/11 truth-losers” 数百万の人たちのなかで最も深刻なのは,事件が内部の仕業 “an inside job” であることを理解しない,あるいは理解しようとしないカトリック信徒たち,9・11事件が象徴するようなショッキングな嘘が世界中で勝ち誇り(=世界中を征服し)まかり通ること “the worldwide triumph of such a mind-bending lie” の真に宗教的な側面 “the truly religious dimensions” を理解しない,あるいは理解したがらないカトリック信徒たちです.そのようなカトリック信徒の皆さんどうかご注目ください.カトリック信仰を失う恐れがあるなどと言えばひどい誇張と映るかもしれませんが,あのゾッとするような第二バチカン公会議が実例としてちょうど期を合わせて私たちの身に起きたではありませんか? 1960年代には,多くのカトリック信徒が現代世界の風潮に同調する見方を取り,カトリック教会もそれに順応すべきだと考えたのではないでしょうか? 第二バチカン公会議はその結果起きたのではないでしょうか? それが彼らのカトリック信仰に何をもたらしたというのでしょうか?
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
2011年10月3日月曜日
2本の危機映画
エレイソン・コメンツ 第219回 (2011年9月24日)
2008年以来,アメリカ合衆国に出現した金融経済危機は西洋式生活様式全体の土台を揺るがしかねない状況ですが,この危機を描いた興味深い2本の映画がこれまでに登場しています.どちらもよくできた説得力のある作品です.2作品のうち一本は登場する銀行家たちをヒーローとして扱い,もう一本の方は彼らを悪役に仕立てています.もし西洋社会にいくらかでも未来があるとすれば,この扱いの違いは一考に値します.
ドキュメンタリー映画「インサイド・ジョブ・世界不況の知られざる真実(邦題)」(原題: “Inside Job” )は複数の銀行家,政治家,経済専門家,実業家,ジャーナリスト,学者,金融顧問などとの一連のインタビューで構成されています.そこに現れるのはこれらすべての領域でアメリカ社会の最上部が繰り広げる拝金主義と詐欺の共謀の驚くべき姿です.自由企業体制が1980年代,1990年代に行われた金融規制撤廃を正当化する理由でしたが,それは投資管理者たちにより大きな権力を着実に与えたため,彼らはそれによってあらゆる有力政治家,ジャーナリスト,学者たちを自分たちの支配下に置くことが可能になりました.こうして中産階級や労働者階級に対する情け容赦のない略奪行為が今もなお進行中です.犠牲となった人たちの怒りは爆発寸前ですが,少なくとも当面の間,投資管理者たちは自分たちのために巧みに作り出した景気の底でがつがつと貪(むさぼ)り食い続けるしかないでしょう.映画の中で「貪欲は良いことだ.それが世の中を動かすのだから」と銀行の幹部連中は言います.
二つ目の映画, “Too Big to Fail” (仮訳:「破綻するには大きすぎる」)では,主要なニューヨークの投資銀行リーマン・ブラザーズ “Lehman Brothers” の破綻を中心とした2008年秋の劇的な数々の出来事が再現されています.当時の合衆国財務長官ハンク・ポールソン “Hank Paulson” は,リーマン・ブラザーズの破産を狙(ねら)って政府の救済策を拒否するという古典的な自由企業の決定を下す役として描かれています.だがその結果は世界中の銀行,商業のメルトダウン(崩壊)をもたらしかねないようなショックを国際金融界にもたらし,ポールソンは政府内の同僚とニューヨークのすべての主要銀行家たちの支援をかりて,破綻させるわけにはいかない大手銀行を対象に税金投入に基づく救済案を合衆国議会が承認するよう説得しなければならなくなります.映画では,彼はまさしく成功し金融システムは救われます.政府と銀行家たちは時代のヒーローとなります.またしても資本主義は私たちが思っていた通りの驚異であることが証明されます - 社会主義の介入のおかげで!
では,ここに出てくる銀行家たちはヒーローでしょうか? それとも悪役でしょうか?その答えは,せいぜい短期的にはヒーローあっても,長期的には間違いなく悪党です.なぜなら,無私無欲を要求する社会や身勝手さを意味する貪欲の上に建てることのできる社会などないことを悟(さと)るにはほんのわずかな一般常識があれば十分だからです.どんな社会でも持てる者と持たざる者とが常に存在します(ヨハネ聖福音書12章8節をご参照ください)(訳注後記).金と権力を持つ社会の管理者たちはそのどちらも持たない大衆に何としても気配りすべきです.さもないと革命や大混乱が起きるでしょう.むろん世界主義者たちは大混乱を明日起こして,その翌日には自分たちが世界の権力を手中にできるよう画策します.だが,彼らが事を計っても,決着をつけるのは神なのです( “…while they may propose, it is God who disposes” ).
カトリック教徒や将来を案じる人たちは誰でもこの2本の映画を観に行き資本主義と自由企業について真剣に自問すべきです.いったい資本主義が今回のように社会主義によってのみ救済されたのはどうしてでしょうか? 時の政府が本当にそれほど悪かったのでしょうか? 資本主義が本当にそれほど良かったのでしょうか? ひとつの社会が生き残るためにはどうすれば強欲な人間たちを当てにすることができるのでしょうか? どうすればそのような依存にのめり込むことができたのでしょうか? そして今現在,このような疑問を投げかけている人がいるという兆候(ちょうこう)が何かあるでしょうか? あるいはあらゆる人々のマンモン崇拝(拝金主義) - 私たちは物事をその本当の名で呼ぶことにしましょう - が野放(のばな)しに蔓延(はびこ)っているのでしょうか?
イエズス・キリストが彼の司祭たちを通して罪人たちの罪を免除してくださらない限り,究極的に機能し得る御託身後 (訳注・原語 “post-Incarnation”,キリスト御降誕後の時代.) の社会システムなどありません.資本主義はこれまでの数世紀の間カトリシズム( “Catholicism”,カトリック教) のすねをかじっていただけにすぎません.資本主義の死をもたらしているのは今日のカトリシズムの疲弊(ひへい)なのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第4パラグラフの訳注:
新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第12章8節(太字部分)(11章38節-12章19節までを掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. JOHN – 12:8 (11:38-12:19)
第11章(38-57節)
ラザロがよみがえる(11・1-46)(注・ここでは38-46節)
『(イエズスは)…それから墓に行かれた.イエズスは,「石を取りのけなさい」と言われた.死人の姉妹マルタは,「主よ、四如日も経っていますから臭くなっています」と言ったが,イエズスは,「もしあなたが信じるなら,神の光栄を見るだろうと言ったではないか」と言われた.石は取りのけられた.
イエズスは目を上げて話された,「父よ,私の願いを聞き入れてくださったことを感謝いたします.私はあなたが常に私の願いを聞き入れてくださることをよく知っています.私がこう言いますのは,この回りにいる人々のためで,あなたが私を遣わされたことをこの人たちに信じさせるためであります」.そう言ってのち,声高く「ラザロ外に出なさい」と呼ばれた.すると死者は,手と足を布でまかれ顔を汗ふきで包まれたまま出てきた.イエズスは人々に,「それを解いて,行かせよ」と言われた.
マリアのところに来ていて,イエズスのされたことを見た多くのユダヤ人は彼を信じた.しかし,その中のある人はファリサイ人のところに行き,イエズスのされたことを告げたので,…』
イエズスの死を謀る(11・47-57)
『…司祭長たちとファリサイ人たちは,議会を開き,「どうしたらよかろう.彼は多くの奇跡を行っているから,もしこのまま捨てておいたら,人はみな彼を信じるようになるだろう.そしてローマ人が来て,われわれの聖なる地と民を滅ぼすだろう」と言った.
その中の一人で,その年の大司祭だったカヤファは,「あなたたちには何一つわかっていない.一人の人が民のために死ぬことによって全国の民の滅びぬほうが,あなたたちにとってためになることだとは考えないのか」と言った.*彼は自分からこう言ったのではない.この年の大司祭だった彼は,イエズスがこの民のために,また,ただこの民のためだけではなく,散っている神の子らを一つに集めるために死ぬはずだったことを預言したのである.
イエズスを殺そうと決めたのはこの日からであった.そこでイエズスは,もう公にユダヤ人の中を巡らず,ここを去って荒野に近いエフライムという町に行き,弟子たちとともにそこにとまられた.
ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが近づき,多くの人々は清めをするために,過ぎ越しの祭りの前に,地方からエルサレムに上ってきた.彼らはイエズスを捜し求め,神殿に立って,「どう思う.イエズスは祭りに来ないだろうか」と言い合った.司祭長たちとファリサイ人たちがイエズスを捕らえようとして,彼の居所を知っている者は届け出よと命じていたからである.』
(注釈)
イエズスの死を謀る
*(51節)カヤファは,ユダヤが滅びるよりも,イエズス一人を犠牲にするほうが正しいと考えた.しかし,神の御計画として,イエズスは全人類のために死ぬのである.
***
第12章(1-19節)
ベタニアの食事(12・1-11)
『*¹過ぎ越しの祭りの六日前に,イエズスはベタニアに行かれた.それは,イエズスが死者の中からよみがえらせたラザロのいる所だった.さて,イエズスのために,食事の席が設けられると,マルタが給仕し,ラザロ(マルタの兄弟)はイエズスとともに食卓についた人々の中にいた.
そのときマリア(マルタの姉妹)は高価な純粋のナルドの香油一斤を持ってきてイエズスの御足に塗り,自分の髪の毛でそれをふいたので,香油の香りは家中に漂(ただよ)った.
弟子の一人で,のちにイエズスをわたすイスカリオトのユダが,「なぜ,この香油を三百デナリオに売って,貧しい人に施さないのか」と言った.そう言ったのは,貧しい人のことを思いやったからではなくて,彼は盗人であり,預かっている財布の中身を盗んでいたからである.
イエズスは,「この婦人のするようにさせておけ.この人は私の*²葬(ほうむ)りの日のためにこの香料をとっておいたのだ.貧しい人はいつもあなたたちとともにいるが,私はいつもあなたたちとともにいるわけではない」と言われた.
大ぜいのユダヤ人は,イエズスがここにおられると知って,イエズスを見るためばかりでなく,イエズスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためにも,そこに来た.そこで司祭長たちは,ラザロをも殺してしまおうと決めた.この人のために多くのユダヤ人が彼らを去り,イエズスを信じるようになったからである.
エルサレムに入る(12・12-19)
翌日,祭りに来ていた大群衆は,イエズスがエルサレムに行かれる時,しゅろの枝をとって出迎え,「*³ホザンナ,賛美されよ,主のみ名によって来られる御者,*⁴イスラエルの王」と叫んだ.イエズスは子ろばを見つけてそれに乗られた.「*⁵シオンの娘よ,恐れるな.見よ,あなたの王は雌ろばの子に乗ってこられる」と記されているとおりだった.
弟子たちはその時はこれらのことがわからなかった.しかし,イエズスが光栄を受けられたのちに,弟子らは,それらのことがイエズスについて記されていたことであり,人々はそういうふうにイエズスに対して行ったのだと思い出した.
イエズスがラザロを墓から呼び出して,死者の中からよみがえらせたとき,イエズスとともにいた群衆がそれを証言した.人々がイエズスを迎えたのは,そのしるしを行われたと聞いたからであった.
ファリサイ人たちは,「あなたたちは何もできなかった.どうだ,みなあの人について行ったではないか」と言い合った.…』
(注釈)
ベタニアでの食事(12・1-11)
*¹ ヨハネは過ぎ越しの祭りとイエズスの死との関係を重視している(11・55,13・1,18・28,19・14,42).
イエズスの公生活の最後の週である.最初の週(2・1以下)(注・イエズスがその光栄を現される最初の奇跡<ガリラヤのカナの婚礼で水をぶどう酒に変えられた>)を詳しく述べたヨハネは,最後の週のことも詳しく伝えている.「神の子が光栄を受ける時が来た」(12・23,13・31,17・1,5).これらはイエズスの光栄の現れによって幕を閉じる.
*² イエズスは,マリアのこの行為を,自分の死骸をあらかじめ尊(たっと,とうと)んだことと見られた.
エルサレムに入る(12・12-19)
*³ 詩篇118・26参照.
→「主のみ名によってくるもの,祝されよ.
われらは主の家から,あなたを祝そう」
*⁴イスラエルの王とはメシアなる王のこと.
*⁵ 〈旧約〉ザカリアの書9・9参照.
→「*シオンの娘よ,喜びいさめ,
エルサレムの娘よ,喜びおどれ.
見よ,王がこられる,
正しいもの,勝利のものが.
彼は,謙虚なもので,
ろばに乗ってこられる.
子ろば,雌ろばの子に乗って.」
(注釈)*メシアは,謙虚なものであり,不正な,おごり高ぶる暴君とは,完全に別のものである.
彼は,昔の王の乗り物に乗っておられる(〈旧約〉創世の書49・11→「ユダは子ろばをぶどうの木につなぎ,雌ろばの子をよきぶどうの木につなぐ.彼はぶどう酒で服を洗い,ぶどうの液で衣を洗う.」)
(注・ユダはヤコブ〈=イスラエル〉の12人の息子のうち上から4番目(ユダ族の祖)で,メシアたるキリストはこのユダ族から出ている.).
この預言は,イエズス・キリストの枝の日,エルサレム入城の日に,実現された(〈新約〉マテオ21・5,6,11・29).
* * *
2008年以来,アメリカ合衆国に出現した金融経済危機は西洋式生活様式全体の土台を揺るがしかねない状況ですが,この危機を描いた興味深い2本の映画がこれまでに登場しています.どちらもよくできた説得力のある作品です.2作品のうち一本は登場する銀行家たちをヒーローとして扱い,もう一本の方は彼らを悪役に仕立てています.もし西洋社会にいくらかでも未来があるとすれば,この扱いの違いは一考に値します.
ドキュメンタリー映画「インサイド・ジョブ・世界不況の知られざる真実(邦題)」(原題: “Inside Job” )は複数の銀行家,政治家,経済専門家,実業家,ジャーナリスト,学者,金融顧問などとの一連のインタビューで構成されています.そこに現れるのはこれらすべての領域でアメリカ社会の最上部が繰り広げる拝金主義と詐欺の共謀の驚くべき姿です.自由企業体制が1980年代,1990年代に行われた金融規制撤廃を正当化する理由でしたが,それは投資管理者たちにより大きな権力を着実に与えたため,彼らはそれによってあらゆる有力政治家,ジャーナリスト,学者たちを自分たちの支配下に置くことが可能になりました.こうして中産階級や労働者階級に対する情け容赦のない略奪行為が今もなお進行中です.犠牲となった人たちの怒りは爆発寸前ですが,少なくとも当面の間,投資管理者たちは自分たちのために巧みに作り出した景気の底でがつがつと貪(むさぼ)り食い続けるしかないでしょう.映画の中で「貪欲は良いことだ.それが世の中を動かすのだから」と銀行の幹部連中は言います.
二つ目の映画, “Too Big to Fail” (仮訳:「破綻するには大きすぎる」)では,主要なニューヨークの投資銀行リーマン・ブラザーズ “Lehman Brothers” の破綻を中心とした2008年秋の劇的な数々の出来事が再現されています.当時の合衆国財務長官ハンク・ポールソン “Hank Paulson” は,リーマン・ブラザーズの破産を狙(ねら)って政府の救済策を拒否するという古典的な自由企業の決定を下す役として描かれています.だがその結果は世界中の銀行,商業のメルトダウン(崩壊)をもたらしかねないようなショックを国際金融界にもたらし,ポールソンは政府内の同僚とニューヨークのすべての主要銀行家たちの支援をかりて,破綻させるわけにはいかない大手銀行を対象に税金投入に基づく救済案を合衆国議会が承認するよう説得しなければならなくなります.映画では,彼はまさしく成功し金融システムは救われます.政府と銀行家たちは時代のヒーローとなります.またしても資本主義は私たちが思っていた通りの驚異であることが証明されます - 社会主義の介入のおかげで!
では,ここに出てくる銀行家たちはヒーローでしょうか? それとも悪役でしょうか?その答えは,せいぜい短期的にはヒーローあっても,長期的には間違いなく悪党です.なぜなら,無私無欲を要求する社会や身勝手さを意味する貪欲の上に建てることのできる社会などないことを悟(さと)るにはほんのわずかな一般常識があれば十分だからです.どんな社会でも持てる者と持たざる者とが常に存在します(ヨハネ聖福音書12章8節をご参照ください)(訳注後記).金と権力を持つ社会の管理者たちはそのどちらも持たない大衆に何としても気配りすべきです.さもないと革命や大混乱が起きるでしょう.むろん世界主義者たちは大混乱を明日起こして,その翌日には自分たちが世界の権力を手中にできるよう画策します.だが,彼らが事を計っても,決着をつけるのは神なのです( “…while they may propose, it is God who disposes” ).
カトリック教徒や将来を案じる人たちは誰でもこの2本の映画を観に行き資本主義と自由企業について真剣に自問すべきです.いったい資本主義が今回のように社会主義によってのみ救済されたのはどうしてでしょうか? 時の政府が本当にそれほど悪かったのでしょうか? 資本主義が本当にそれほど良かったのでしょうか? ひとつの社会が生き残るためにはどうすれば強欲な人間たちを当てにすることができるのでしょうか? どうすればそのような依存にのめり込むことができたのでしょうか? そして今現在,このような疑問を投げかけている人がいるという兆候(ちょうこう)が何かあるでしょうか? あるいはあらゆる人々のマンモン崇拝(拝金主義) - 私たちは物事をその本当の名で呼ぶことにしましょう - が野放(のばな)しに蔓延(はびこ)っているのでしょうか?
イエズス・キリストが彼の司祭たちを通して罪人たちの罪を免除してくださらない限り,究極的に機能し得る御託身後 (訳注・原語 “post-Incarnation”,キリスト御降誕後の時代.) の社会システムなどありません.資本主義はこれまでの数世紀の間カトリシズム( “Catholicism”,カトリック教) のすねをかじっていただけにすぎません.資本主義の死をもたらしているのは今日のカトリシズムの疲弊(ひへい)なのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第4パラグラフの訳注:
新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第12章8節(太字部分)(11章38節-12章19節までを掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. JOHN – 12:8 (11:38-12:19)
第11章(38-57節)
ラザロがよみがえる(11・1-46)(注・ここでは38-46節)
『(イエズスは)…それから墓に行かれた.イエズスは,「石を取りのけなさい」と言われた.死人の姉妹マルタは,「主よ、四如日も経っていますから臭くなっています」と言ったが,イエズスは,「もしあなたが信じるなら,神の光栄を見るだろうと言ったではないか」と言われた.石は取りのけられた.
イエズスは目を上げて話された,「父よ,私の願いを聞き入れてくださったことを感謝いたします.私はあなたが常に私の願いを聞き入れてくださることをよく知っています.私がこう言いますのは,この回りにいる人々のためで,あなたが私を遣わされたことをこの人たちに信じさせるためであります」.そう言ってのち,声高く「ラザロ外に出なさい」と呼ばれた.すると死者は,手と足を布でまかれ顔を汗ふきで包まれたまま出てきた.イエズスは人々に,「それを解いて,行かせよ」と言われた.
マリアのところに来ていて,イエズスのされたことを見た多くのユダヤ人は彼を信じた.しかし,その中のある人はファリサイ人のところに行き,イエズスのされたことを告げたので,…』
イエズスの死を謀る(11・47-57)
『…司祭長たちとファリサイ人たちは,議会を開き,「どうしたらよかろう.彼は多くの奇跡を行っているから,もしこのまま捨てておいたら,人はみな彼を信じるようになるだろう.そしてローマ人が来て,われわれの聖なる地と民を滅ぼすだろう」と言った.
その中の一人で,その年の大司祭だったカヤファは,「あなたたちには何一つわかっていない.一人の人が民のために死ぬことによって全国の民の滅びぬほうが,あなたたちにとってためになることだとは考えないのか」と言った.*彼は自分からこう言ったのではない.この年の大司祭だった彼は,イエズスがこの民のために,また,ただこの民のためだけではなく,散っている神の子らを一つに集めるために死ぬはずだったことを預言したのである.
イエズスを殺そうと決めたのはこの日からであった.そこでイエズスは,もう公にユダヤ人の中を巡らず,ここを去って荒野に近いエフライムという町に行き,弟子たちとともにそこにとまられた.
ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが近づき,多くの人々は清めをするために,過ぎ越しの祭りの前に,地方からエルサレムに上ってきた.彼らはイエズスを捜し求め,神殿に立って,「どう思う.イエズスは祭りに来ないだろうか」と言い合った.司祭長たちとファリサイ人たちがイエズスを捕らえようとして,彼の居所を知っている者は届け出よと命じていたからである.』
(注釈)
イエズスの死を謀る
*(51節)カヤファは,ユダヤが滅びるよりも,イエズス一人を犠牲にするほうが正しいと考えた.しかし,神の御計画として,イエズスは全人類のために死ぬのである.
***
第12章(1-19節)
ベタニアの食事(12・1-11)
『*¹過ぎ越しの祭りの六日前に,イエズスはベタニアに行かれた.それは,イエズスが死者の中からよみがえらせたラザロのいる所だった.さて,イエズスのために,食事の席が設けられると,マルタが給仕し,ラザロ(マルタの兄弟)はイエズスとともに食卓についた人々の中にいた.
そのときマリア(マルタの姉妹)は高価な純粋のナルドの香油一斤を持ってきてイエズスの御足に塗り,自分の髪の毛でそれをふいたので,香油の香りは家中に漂(ただよ)った.
弟子の一人で,のちにイエズスをわたすイスカリオトのユダが,「なぜ,この香油を三百デナリオに売って,貧しい人に施さないのか」と言った.そう言ったのは,貧しい人のことを思いやったからではなくて,彼は盗人であり,預かっている財布の中身を盗んでいたからである.
イエズスは,「この婦人のするようにさせておけ.この人は私の*²葬(ほうむ)りの日のためにこの香料をとっておいたのだ.貧しい人はいつもあなたたちとともにいるが,私はいつもあなたたちとともにいるわけではない」と言われた.
大ぜいのユダヤ人は,イエズスがここにおられると知って,イエズスを見るためばかりでなく,イエズスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためにも,そこに来た.そこで司祭長たちは,ラザロをも殺してしまおうと決めた.この人のために多くのユダヤ人が彼らを去り,イエズスを信じるようになったからである.
エルサレムに入る(12・12-19)
翌日,祭りに来ていた大群衆は,イエズスがエルサレムに行かれる時,しゅろの枝をとって出迎え,「*³ホザンナ,賛美されよ,主のみ名によって来られる御者,*⁴イスラエルの王」と叫んだ.イエズスは子ろばを見つけてそれに乗られた.「*⁵シオンの娘よ,恐れるな.見よ,あなたの王は雌ろばの子に乗ってこられる」と記されているとおりだった.
弟子たちはその時はこれらのことがわからなかった.しかし,イエズスが光栄を受けられたのちに,弟子らは,それらのことがイエズスについて記されていたことであり,人々はそういうふうにイエズスに対して行ったのだと思い出した.
イエズスがラザロを墓から呼び出して,死者の中からよみがえらせたとき,イエズスとともにいた群衆がそれを証言した.人々がイエズスを迎えたのは,そのしるしを行われたと聞いたからであった.
ファリサイ人たちは,「あなたたちは何もできなかった.どうだ,みなあの人について行ったではないか」と言い合った.…』
(注釈)
ベタニアでの食事(12・1-11)
*¹ ヨハネは過ぎ越しの祭りとイエズスの死との関係を重視している(11・55,13・1,18・28,19・14,42).
イエズスの公生活の最後の週である.最初の週(2・1以下)(注・イエズスがその光栄を現される最初の奇跡<ガリラヤのカナの婚礼で水をぶどう酒に変えられた>)を詳しく述べたヨハネは,最後の週のことも詳しく伝えている.「神の子が光栄を受ける時が来た」(12・23,13・31,17・1,5).これらはイエズスの光栄の現れによって幕を閉じる.
*² イエズスは,マリアのこの行為を,自分の死骸をあらかじめ尊(たっと,とうと)んだことと見られた.
エルサレムに入る(12・12-19)
*³ 詩篇118・26参照.
→「主のみ名によってくるもの,祝されよ.
われらは主の家から,あなたを祝そう」
*⁴イスラエルの王とはメシアなる王のこと.
*⁵ 〈旧約〉ザカリアの書9・9参照.
→「*シオンの娘よ,喜びいさめ,
エルサレムの娘よ,喜びおどれ.
見よ,王がこられる,
正しいもの,勝利のものが.
彼は,謙虚なもので,
ろばに乗ってこられる.
子ろば,雌ろばの子に乗って.」
(注釈)*メシアは,謙虚なものであり,不正な,おごり高ぶる暴君とは,完全に別のものである.
彼は,昔の王の乗り物に乗っておられる(〈旧約〉創世の書49・11→「ユダは子ろばをぶどうの木につなぎ,雌ろばの子をよきぶどうの木につなぐ.彼はぶどう酒で服を洗い,ぶどうの液で衣を洗う.」)
(注・ユダはヤコブ〈=イスラエル〉の12人の息子のうち上から4番目(ユダ族の祖)で,メシアたるキリストはこのユダ族から出ている.).
この預言は,イエズス・キリストの枝の日,エルサレム入城の日に,実現された(〈新約〉マテオ21・5,6,11・29).
* * *
2011年10月1日土曜日
永遠の危険
エレイソン・コメンツ 第218回 (2011年9月17日)
「私たち人間はなぜこの地球上にいるのでしょう? 」 つい最近,古い友人が私にそう問いかけました.それはもちろん「神を賛美し,愛しかつ神に仕えるため,そしてそれにより救いを…」と答えると,彼は私をさえぎって,「そうじゃないんです.私が知りたいのはそういう答えではないのです.」と言いました.「つまり私が言いたいのはこういうことです.私が(地球に)生まれてくる前は,私は地上に存在していなかった.だから私はいかなる危険にもさらされていなかったのです.それが今こうしてここに存在しているために私は自分の霊魂を失う危険にひどくさらされている状態です.なぜ私は,自分で承諾(しょうだく)もしていないのに,いったん与えられてしまった以上は拒(こば)めないこの危険な存在(=生命)を与えられたのでしょうか? 」
こう言われてみると,友人の疑問は深刻なものです.なぜならそれは神の善良性に疑問を投げかけるものだからです.確かに私たち一人ひとりに生命をお与えになるのは神であり,その結果私たちの目の前には誰も逃れられない選択肢が置かれています.それは天国に通じる険しく切り立った狭い細道と地獄に至る広くたやすい道路のどちらを選ぶかというものです(マテオ聖福音・書7章13-14節参照)(訳注後記).たしかに私たちの霊魂の救済にとっての諸々の敵たち,すなわちこの世 “the world” (=現世,俗世界,世俗),肉欲 “the flesh” ,悪魔 “the Devil” はいずれも危険な存在です.なぜなら大多数の霊魂が地上での人生の最期に地獄に陥(おちい)るというのが悲しい事実だからです(マテオ聖福音書・20章16節参照)(訳注後記).では,自分が選択の余地なしにそのような危険の中に置かれた身であることをどうやって公明正大なことと受け止めうるでしょうか?
確かな答えとしては,もしその危険が全く私自身のあやまり(誤り)から生じたものでないとすれば,生命はまさしく毒入りの贈り物(=賜)だということになるかもしれないということです.だがよくあることですが,もしその危険の大半が私自身のあやまりから生じたものであり,かつもし誤って使われれば私を地獄に落とすことができるその同じ自由意志が,正しく使われたときには人の想像も及ばぬほどの無上の喜びに満ちた永遠の世界へと私が入ることもまた可能にしてくれるものであるとすれば(原文・ “… if the very same free-will that when used wrongly enables me to fall into Hell, also enables me when used rightly to enter upon an eternity of unimaginable bliss, …” ),生命は毒入りの贈り物なのではないというばかりでなく,(それどころか生命とは)私が地上で危険を避け自分の自由意志を正しく使うためにするわずかな努力をはるかに上回るほどの大きな素晴らしいご褒美(ほうび,輝かしい報〈むく〉い)を受けさせようと私を招(まね)いている最高の申し出(勧め,オファー)そのものなのだということになります(原文・ “… then not only is life not a poisoned gift, but it is a magnificent offer of a glorious reward out of all proportion to the relatively slight effort which it will have cost me on earth to avoid the danger and make the right use of my free-will.” )(イザヤ書64章4節参照)(訳注後記).
だが質問者(=友人)は彼の霊魂の救済にとっての三つの敵のうちどれ一つとして自分の責任ではないと次のように反論するかもしれません:-- 「私たちを俗事と目の欲に駆(か)り立てるこの世はゆりかごから墓場まで(=一生)ついて回り,私は死によってのみそこから逃れうるばかりです.肉体(肉欲)の弱さは原罪に付きもので,アダムとイブに遡(さかのぼ)ります.その頃私はまだ地上に存在していませんでした! 悪魔も私が生れるずっと前から存在していて,現代もいたるところにはびこっています! 」
これに対する答えは,その三つの敵はどれも私たち自身の過(あやま)ちのせいにするにはあまりにも頻発(ひんぱつ)しすぎるということです.この世について言えば,私たちはその中に身を置かざるをえませんが,それに同化しなければならないわけではありません(ヨハネ聖福音書・17章14-16節参照)(訳注後記).この世の物事を愛するか,それより天上の事を選ぶかは私たち次第で決まることです.ミサ典書の中に天上の事の方を選び取れるよう恩寵を神に願い求める祈りがどれほど沢山含まれていることでしょうか! 肉欲については,私たちは内なる情欲から逃れれば逃れるほど,その刺(とげ)を失わせることができます.だが,私たちのうちの誰が,欲望とそれがもたらす危険を弱める代わりにむしろ増強させたのは決して自分自身の誤(あやま)りのせいではないと言いきれるでしょうか? そして悪魔について言えば,その誘惑の力は全能の神によって厳しく制御(せいぎょ)されており,神御自身のみことば(原文・ “God’s own Scripture” =聖書)は神がお許しになった誘惑を(人が)乗り越えるのに必要な恩寵を神自らが私たちにお与え下さると約束しています.(コリント人への手紙〈第一〉・10章13節参照)(訳注後記).手短に言えば,悪魔について聖アウグスティヌスが言っていることはこの世と肉欲についても当てはまります - いずれも鎖(くさり)につながれた犬のようなもので,人間の側から近寄りすぎることを選択しない限りは,吠えることはできても噛(か)みつけないということです.
そういうわけで,人生には避けて通れないほどの霊的な危険があるのは確かですが,神の恩寵とともにその危険を制御するかどうかは私たち次第です.報いはこの世での(訳注・私自身がした善悪・正邪の選択から出る)行いからくるのです.(コリント人への手紙〈第一〉・2章9節参照)(訳注後記).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
○第2パラグラフの先の訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13-14節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. MATTHEW – 7:13-14
『狭(せま)い門から入れ,滅びに行く*道は広く大きく,そこを通る人は多い.しかし,命に至る門は狭く,その道は細く,それを見つける人も少ない.』
(注釈)*ブルガタ(ラテン語)訳も,その他のいくつかの写本も,「門は大きく,道は広い…」とある.
○第2パラグラフの後の訳注:
マテオ聖福音書:第20章16節(太字部分)(20章1-16節を掲載)
THE HOLY GOSPEL ACCORDING TO ST. MATTHEW - 20:16 (20:1-16)
(神の御子・救世主・贖い主イエズス・キリストのみことば)
ぶどう畑の雇い人(20・1-16)
『*¹天の国は,ぶどう畑で働く人を雇おうと朝早く出かける主人のようである.
主人は一日一デナリオの約束で働く人をぶどう畑に送った.
また九時ごろ出てみると,仕事がなくて市場に立っている人たちを見たので,〈あなたたちも私のぶどう畑に行け,正当な賃金をやるから〉と言うと,その人たちも行った.
十二時ごろと三時ごろに出ていって,また同じようにした.
五時ごろまた出てみると,ほかにも立っている者がいたので,〈どうして一日じゅう仕事もせずにここに立っているのか〉と聞くと,彼らは〈だれも雇ってくれぬからです〉と答えた.主人は〈おまえたちも私のぶどう畑に行け〉と言った.
日暮れになったので,ぶどう畑の主人は会計係に言った,〈働く人を呼んで,後の人から始めて最初の人まで賃金を払え〉.
五時ごろ雇われた人たちが来て,一人一デナリオずつもらった.
最初の人たちが来て,自分はもっと多いだろうと思っていたが,やはり一人一デナリオずつもらった.もらったとき主人に向かい,〈あの人たちは一時間働いただけなのに,一日じゅう労苦と暑さを忍んだ私たちと同じように待遇なさった〉と不平を言った.
すると主人はその人に,〈友よ,私は不当なことをしたのではない.あなたは私と一デナリオで契約したではないか.自分の分け前をもらって行け.私はこの後の人にもそれと同じ賃金を与えようと思っている.
自分のものを思うままにすることがなぜ悪いのか.それとも私がよいからねたましく思うのか〉と答えた.
このように後の人が先になり,先の人が後になるであろう*²」.』
(注釈)
*¹ (1-15節)
主人はイエズス,働く人は神に奉仕するために呼ばれる人である.
最初の働く人はファリサイ人,最後のは罪人である.
ぶどう畑の仕事は天国に入るための善業,賃金は天国に入る恵みである.しかし神に召されるのはただ神自身の無償の恩寵による.この恩寵に応ずることが救いの条件である.
しかし善業を行うことができるのも恩寵によるものであり,改心の恵みを受けた罪人に対する神の寛大さについて不平を言うことはできぬ.
*² 16節「なぜなら,呼ばれる者は多いが,選ばれる者は少ない」ということばを入れた写本がある.これは22章14節(「実に招かれる人は多いが,選ばれる人は少ない」〈キリストによる「王の子の婚宴」のたとえ話の結び〉)による書き入れらしい.
* * *
○第3パラグラフの訳注:
旧約聖書・イザヤの書:第64章4節(太字部分)(64章全文(1-11節)を掲載)
THE PROPHECY OF ISAIAS - 64:4 (64:1-11)
『水が,火でつきはてるように,
火は敵を滅ぼし尽くすがよい.
そして,敵の間にみ名は知られ,
もろもろの民はみ前でおののくのだ.
私たちの思いもよらぬ恐ろしいことを
主は果たされた.
そのことについては,昔から話を聞いたこともない.
あなた以外の神が,
自分によりたのむ者のために,
これほどのことをされたと,
耳に聞いたこともなく,
目で見たこともない.
主は正義を行い,
道を思い出す人を迎えられる.
見よ,主は怒られたが,私たちは罪を犯し,
ずっと以前から主に逆らい,
みな,汚れた者となり,
正義の行いも,汚れた布のようだった.
みな,木の葉のようにしぼみ,
風のように悪に運び去られた.
だれも,み名をこいねがわず,
めざめて,よりすがろうとしなかった.
それは,主がみ顔を隠し,
罪におちる私たちを見すごされたからだ.
それでも,主は私たちの父,
粘土(ねんど)である私たちを
形づくられたのは主だった.
私たちはみな,御手によってつくられた.
主よ,ふたたび怒りたもうことなく,
いつまでも罪を思い出さず,
私たちを見て下りたまえ.
私たちはあなたの民である.
主の町々は荒れ,
シオンは荒れ地となり,
エルサレムはみじめになった.
先祖が主をたたえた,
あの高貴壮麗な神殿は
火のえじきとなり,
貴重なものはみな壊された.
主よ,これらのことに
冷淡であられるのですか.
私たちをかぎりなく辱(はずかし)めるために
黙したもうのですか.』
* * *
○第4パラグラフの先の訳注:
新約聖書・ヨハネ聖福音書:第17章14-16節(太字部分)(17章全文〈1-26節〉を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. JOHN – 17:14-16 (17:1-26)
(最後の晩餐〈聖木曜日〉の後,人の罪の贖いとして犠牲のいけにえとなるため受難・十字架刑に向かわれる直前の神の御子,主イエズス・キリストの祈り)
第17章
イエズスの祈り(17・1-26)
『イエズスはこう話し終えてからへ天を仰いで言われた,
「父よ,時が来ました.あなたの子に光栄を与えたまえ,子があなたに光栄を帰するように.そして,*¹あなたが子に授けられた万民を治める力によって,子に与えられたすべての人に永遠の命を与えたもうように.
永遠の命とは,唯一のまことの神であるあなたと,*²あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります.
私はあなたがさせようと思召した業を成し遂げ,この世にあなたの光栄を現しました.父よ,この世が存在するより先に,私があなたのみもとで有していたその光栄をもって,いま私に光栄を現してください.
私に賜うために,あなたがこの世から取り去られた人々に,私は*³み名を現しました.その人たちはあなたのものであったのに,あなたは私に賜い,そして彼らはあなたのみことばを守りました.
いまや彼らは,あなたが私に与えたもうたものがみな,あなたから出ていることを知っています.なぜなら,私があなたから賜ったみことばを彼らに与えたからです.
彼らはそれを受け入れ,私があなたから出たものであることをほんとうに認め,あなたが私を遣わされたことも信じました.*⁴その彼らのために私は祈ります.
この祈りはこの世のためではなく,あなたが与えたもうた人々のためであります.彼らはあなたのものだからです.私のものはみなあなたのもの,あなたのものはみな私のものです.そして私は彼らにおいて光栄を受けています.
これから,私はもうこの世にはいませんが,彼らはこの世にいます.私はあなたのみもとに行きます.*⁵聖なる父よ,私に与えられたあなたのみ名において,私たちが一つであるがごとく,彼らもそうなるようにお守りください.私は彼らとともにいた間,私に与えられたあなたのみ名において彼らを守りました.彼らを見守りましたから,そのうちの一人も滅びることなく,ただ*⁶聖書を実現するために滅びの子だけが滅びました.
今こそ,私はあなたのもとに行きます.この世にあって私がこう語るのは,彼ら自身に,私のもつ完全な喜びをもたせるためであります.
私は彼らにあなたのみことばを与え,そしてこの世は彼らを憎みました.私がこの世のものでないのと同様に,彼らもこの世のものではないからです.私は彼らをこの世から取り去ってくださいと言うのではなく,悪から守ってくださいと願います.私がこの世のものでないのと同様に,彼らもこの世のものではありません.
彼らを真理において*⁷聖別してください.あなたのみことばは真理であります.あなたが私をこの世に送られたように,私も彼らを世に送ります.そして私は彼らを真理によって聖別するために,*⁸彼らのために自らいけにえにのぼります.
*⁹また,彼らのためだけではなく,彼らのことばによって私を信じる人々のためにも祈ります.父よ,あなたが私の中にましまし,私があなたの中にあるように,みなが一つになりますように.彼らも私たちにおいて一つになりますように.それは,あなたが私を遣わされたことを世に信じさせるためであります.
私はあなたの与えたもうた光栄を彼らに与えました,私たちが一つであるように彼らも一つでありますように.私は彼らの中にあり,あなたは私の中においでになります,彼らが完全に一つになりますように.
あなたが私を遣わし,私を愛されるように,彼らをも愛しておいでになることを,この世に知らせるためであります.父よ,あなたの与えたもうた人々が,私のいる所に,私とともにいることを望みます.それは,あなたが私に与えたもうた光栄を,彼らに見せるためであります.
あなたは,世の始まるよりも前に,私を愛したまいました.正しい父よ,この世はあなたを知りませんが,私はあなたを知り,この人たちもあなたが私を遣わされたことを知るに至りました.あなたが私を愛されたその愛が,彼らにもありますように.また,私が彼らの中にいるように,私はみ名を知らせ,また知らせましょう」.』
(注釈)
イエズスの祈り
*¹ 新約の大司祭として最高のいけにえを行うにあたり,イエズスは,ご自分のため,弟子らのため,教会のために祈られた.
*² 旧約ではモーゼの律法によって神の啓示があったが,今はキリストによって啓示が行われる.
*³ キリストがこの世に遣わされたのは,父のみ名すなわちその位格を示すためであった(17・3-6,26,12・28以下,14・7-11,3・11).
しかし,父の本性は「愛」である(ヨハネの手紙〈第一〉4・8,16).
父はその愛を,ひとり子を私たちにわたすことによって証明された(3・16-18,ヨハネの手紙〈第一〉4・9,10,14,16,ローマ人への手紙8・32).
ゆえに,イエズスが神のひとり子であると信じることは,この偉大な愛を認めるための条件である(20・21,ヨハネの手紙〈第一〉2・23).
*⁴使徒らのための祈りである.
イエズスは十字架上において敵のためにも祈ったのであるから,いつも世のために祈っておられる.全教会のための祈り.
*⁵ 他の写本には,「聖なる父よ,あなたが与えたもうた人々を,あなたのみ名において守り」とある.12節も同じである.
*⁶ 詩篇41・10参照.→「私の信頼していた親友,私のパンを食べた者さえ,私に向かってかかとを上げた.」(注・現在のアラビア人も人への軽蔑のしるしとしてかかとをあげる.この一句はヨハネ聖福音書13・18に引用されている.)
*⁷ 文字どおりの意味は「神のために別にとっておく」で,一般に「聖別する」,「聖とする」という意味に用いられる.
羊などを「いけにえにするため,神のためにとっておく」,あるいは単に「いけにえに定める」,「いけにえにする」,人を「神の奉仕や信心のために,神にささげる」,あるいは「聖別する」(ヨハネ聖福音書10・36),その聖務にふさわしいように「聖とする」,一般に「清める,清くする」(ヨハネの手紙〈第一〉3・3,ヘブライ人への手紙9・13).
*⁸ 元来の意味で(17節の注(*⁷)参照),「彼らのために自らを聖別します」と訳してもよい.
イエズスはその使徒たちを使徒職のために聖別し,聖とするために,神の小羊として自らをいけにえにされた.
*⁹ 将来の信仰者のためにするイエズスの祈りである.世はさまざまに分裂しているが,弟子たちは真理と愛によって一致しなければならない.信者間の分裂を戒(いまし)めるパウロのことばをここに思い出すがよい(エフェゾ人への手紙4・2,コロサイ人への手紙3・12-15).
* * *
○第4パラグラフの後の訳注:
新約聖書・使徒パウロによるコリント人への第一の手紙:第10章13節(太字部分)(10章全文〈1-33節〉を掲載)
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO THE CORINTHIANS – 10:13 (10:1-33)
イスラエルの罰(10・1-13)
『兄弟たちよ,次のことをあなたたちに知ってもらいたい.
私たちの先祖はみな*¹雲の下にいて,みな*²海を通り,みな雲と海の中で*³モーゼにおいて洗われた.みな同じ*⁴霊的な食べ物を食べ,みな同じ霊的な飲み物を飲んだ.すなわち*⁵彼らについてきた霊的な岩から飲んだが,その岩はキリストであった.けれども彼らの多くは神のみ心を喜ばせなかったので,*⁶荒野で倒された.
これらのことは私たちへの*⁷戒(いまし)めとして起こったのであって,彼らが貧(むさぼ)ったように悪を貧ることを禁じるためである.
あなたたちは彼らのうちの何人かのように偶像崇拝者になるな.「*⁸民は座って飲食し,立って戯(たわむ)れた」と書き記されている.
彼らのうちの何人かが淫行したように淫行にふけるな.彼らは一日で*⁹二万三千人死んだ.
彼らのうちの何人かが試みたように主を試みるな.彼らは*¹⁰へびに滅ぼされた.
あなたたちは彼らのうちの何人かが言ったように不平を言うな.彼らは*¹¹滅ぼす者によって滅ぼされた.
彼らに起こったこれらのことは前兆であって,書き記されたのは,*¹²世の末にある私たちへの戒(いまし)めのためであった.
立っていると自ら思う人は倒れぬように注意せよ.あなたたちは人の力を超える試みには会わなかった.*¹³神は忠実であるから力以上の試みには会わせたまわない.あなたたちが試みに耐えそれに打ち克つ方法をも,ともに備えたもうであろう.』
(注釈)
イスラエルの罰
*¹ 〈旧約〉脱出の書13・21参照.
*² 脱出の書14・22参照.
*³ かしらとしてのモーゼに従ったこと.「洗われる」はキリスト教の洗礼を暗示する.この「洗い」によって,ヘブライ人がモーゼにゆだねられたことを意味する.
*⁴マンナのこと(脱出の書16・4-35).
(注・エジプトを脱出し荒野に出たイスラエルの民のために神が天から降らせた食べ物(パン).)
→脱出の書16・31「イスラエルの民は,それをマンナと呼んだ.マンナは,こえんどろの実のように白くて,蜜の入った堅(かた)パンのような味であった.」
(注釈・「マンナ」はヘブライ語の「マンフ」「これは何か」という意味.今でもアラブの人は,マンナのことを「マンヌ」と呼ぶが,それはヘブライ語からきているのだろう.「こえんどろ」の木は,セリ科の植物,今もシナイ地方と,ヨルダン川の谷によく生えている.)
*⁵ 脱出の書17・5-6.モーゼの泉の岩は,イスラエル人が荒野を通っていく間,ずっとついてきていたという(ラビたちの伝説による).
*⁶ 荒野の書14・16参照.
*⁷ 原文には「前兆」とある.歴史的な意味もさることながら,旧約のある事件は,未来の出来事のかたどりだからである.
*⁸ 荒野の書32・6参照.
*⁹ 荒野の書25・1-9.ヘブライ語原典,七十人訳ギリシア語聖書にも「二万四千人」とある.二万三千人としたのは,書き写した人のまちがいらしい.
*¹⁰ 荒野の書21・5-6参照.
*¹¹ 荒野の書17・6-15.神の罰を下す天使のこと.
*¹² メシアの時代.
*¹³ 〈旧約〉シラの書15・11-20参照.
実際上の解決とつまずきを避ける(10・14-11・34)
『愛する人々よ,偶像崇拝を避けよ.私は道理をわきまえる人に話すようにあなたたちに話すのであるから,私の言おうとすることを判断せよ.
私たちが祝する祝聖の杯は,キリストの御血にあずかることではないか.私たちが裂くパンはキリストのお体にあずかることではないか.パンは一つであるから私たちは多数であっても一体である.みな一つのパンにあずかるからである.
*¹肉のイスラエルを見よ.供え物を食べる人々は祭壇(さいだん)にあずかるではないか.私は何を言おうとしているのか.供え物の肉が何物かであると言うのか.あるいは偶像が何物かであると言うのか.いや,*²異邦人が供える物は神にではなく悪魔に供えるのだと私は言う.あなたたちが悪魔と交わるのを私は望まない.あなたたちは主の杯と悪魔の杯を同時に飲むことはできぬ.また主の食卓と悪魔の食卓にともにつくことはできぬ.それとも私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのか.私たちは主よりも強いのだろうか.
〈*³私なら何でもしてよい〉と言う人があろう.だがすべてが利益になるのではない.〈私なら〉何でもしてよいという人でもすべてが徳を立てる役にたつものではない.
みな自分の益を求めず,他人の益を求めよ.良心のためにあれこれ聞かずに,市場で売っている物は何でも食べよ.なぜなら地上と*⁴地上を満たす物は主のものだからである.
信者でない人に招かれていくなら,良心にあれこれ尋(たず)ねることをせずに,あなたの前に出された物を食べよ.
だがもしある人が,これは偶像に供えた肉だと言うなら,そう知らせた人のために,また良心のために,それを食べてはならぬ.良心というのは,あなたの良心ではなく,その人の良心のことである.どうして,*⁵私の自由が他人の良心によって判断されようか.感謝して食卓につくなら,その感謝した物についてどうして非難されることがあろう.
食べるにつけ飲むにつけ,何事をするにもすべて神の光栄のために行え.ユダヤ人にもギリシア人にも,また神の教会にもつまずきとなるな.私はどんなことでもみなを喜ばせるように努めている.人々が救われるように,私は自分の利益ではなく多くの人の利益を求めている.
(注釈)
実際上の解決とつまずきを避ける
*¹ キリスト教に改宗しなかったイスラエル人のこと(〈新約〉ローマ人への手紙7・5).
キリスト信者は「神のイスラエル」(ガラツィア人への手紙6・16節),すなわち,まことのイスラエルである.
*² 偶像への供え物は,悪魔に供えるものである.それで供え物にもその後の宴会にもキリスト信者は参加できない.
*³ 偶像の宴会でないかぎり,偶像の供え物の肉を食べてよい(8・4,8-9).しかし弱い者をかえりみて,愛をもって(27-28節)時にはそれも食べないほうがよい場合がある.
*⁴ 詩篇24・1参照.→「地とそこにあるもの,世とそこに住む者,すべて主のもの.」
*⁵ 自分の良心の自由のこと.良心の判断は,他人の考え方に左右されるものではない.ゆえに,この場合,供え物となった肉について,自分の判断を変えねばならないとは言わない.
しかし,弱い人のつまずきにならぬように,時として遠慮しなければならない.
* * *
○第5パラグラフの訳注:
コリント人への第一の手紙:第2章9節
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO THE CORINTHIANS – 2:9
『書き記されているとおり,「*目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮かばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである.』
(注釈)* 旧約聖書・イザヤの書64・3参照.
* * *
「私たち人間はなぜこの地球上にいるのでしょう? 」 つい最近,古い友人が私にそう問いかけました.それはもちろん「神を賛美し,愛しかつ神に仕えるため,そしてそれにより救いを…」と答えると,彼は私をさえぎって,「そうじゃないんです.私が知りたいのはそういう答えではないのです.」と言いました.「つまり私が言いたいのはこういうことです.私が(地球に)生まれてくる前は,私は地上に存在していなかった.だから私はいかなる危険にもさらされていなかったのです.それが今こうしてここに存在しているために私は自分の霊魂を失う危険にひどくさらされている状態です.なぜ私は,自分で承諾(しょうだく)もしていないのに,いったん与えられてしまった以上は拒(こば)めないこの危険な存在(=生命)を与えられたのでしょうか? 」
こう言われてみると,友人の疑問は深刻なものです.なぜならそれは神の善良性に疑問を投げかけるものだからです.確かに私たち一人ひとりに生命をお与えになるのは神であり,その結果私たちの目の前には誰も逃れられない選択肢が置かれています.それは天国に通じる険しく切り立った狭い細道と地獄に至る広くたやすい道路のどちらを選ぶかというものです(マテオ聖福音・書7章13-14節参照)(訳注後記).たしかに私たちの霊魂の救済にとっての諸々の敵たち,すなわちこの世 “the world” (=現世,俗世界,世俗),肉欲 “the flesh” ,悪魔 “the Devil” はいずれも危険な存在です.なぜなら大多数の霊魂が地上での人生の最期に地獄に陥(おちい)るというのが悲しい事実だからです(マテオ聖福音書・20章16節参照)(訳注後記).では,自分が選択の余地なしにそのような危険の中に置かれた身であることをどうやって公明正大なことと受け止めうるでしょうか?
確かな答えとしては,もしその危険が全く私自身のあやまり(誤り)から生じたものでないとすれば,生命はまさしく毒入りの贈り物(=賜)だということになるかもしれないということです.だがよくあることですが,もしその危険の大半が私自身のあやまりから生じたものであり,かつもし誤って使われれば私を地獄に落とすことができるその同じ自由意志が,正しく使われたときには人の想像も及ばぬほどの無上の喜びに満ちた永遠の世界へと私が入ることもまた可能にしてくれるものであるとすれば(原文・ “… if the very same free-will that when used wrongly enables me to fall into Hell, also enables me when used rightly to enter upon an eternity of unimaginable bliss, …” ),生命は毒入りの贈り物なのではないというばかりでなく,(それどころか生命とは)私が地上で危険を避け自分の自由意志を正しく使うためにするわずかな努力をはるかに上回るほどの大きな素晴らしいご褒美(ほうび,輝かしい報〈むく〉い)を受けさせようと私を招(まね)いている最高の申し出(勧め,オファー)そのものなのだということになります(原文・ “… then not only is life not a poisoned gift, but it is a magnificent offer of a glorious reward out of all proportion to the relatively slight effort which it will have cost me on earth to avoid the danger and make the right use of my free-will.” )(イザヤ書64章4節参照)(訳注後記).
だが質問者(=友人)は彼の霊魂の救済にとっての三つの敵のうちどれ一つとして自分の責任ではないと次のように反論するかもしれません:-- 「私たちを俗事と目の欲に駆(か)り立てるこの世はゆりかごから墓場まで(=一生)ついて回り,私は死によってのみそこから逃れうるばかりです.肉体(肉欲)の弱さは原罪に付きもので,アダムとイブに遡(さかのぼ)ります.その頃私はまだ地上に存在していませんでした! 悪魔も私が生れるずっと前から存在していて,現代もいたるところにはびこっています! 」
これに対する答えは,その三つの敵はどれも私たち自身の過(あやま)ちのせいにするにはあまりにも頻発(ひんぱつ)しすぎるということです.この世について言えば,私たちはその中に身を置かざるをえませんが,それに同化しなければならないわけではありません(ヨハネ聖福音書・17章14-16節参照)(訳注後記).この世の物事を愛するか,それより天上の事を選ぶかは私たち次第で決まることです.ミサ典書の中に天上の事の方を選び取れるよう恩寵を神に願い求める祈りがどれほど沢山含まれていることでしょうか! 肉欲については,私たちは内なる情欲から逃れれば逃れるほど,その刺(とげ)を失わせることができます.だが,私たちのうちの誰が,欲望とそれがもたらす危険を弱める代わりにむしろ増強させたのは決して自分自身の誤(あやま)りのせいではないと言いきれるでしょうか? そして悪魔について言えば,その誘惑の力は全能の神によって厳しく制御(せいぎょ)されており,神御自身のみことば(原文・ “God’s own Scripture” =聖書)は神がお許しになった誘惑を(人が)乗り越えるのに必要な恩寵を神自らが私たちにお与え下さると約束しています.(コリント人への手紙〈第一〉・10章13節参照)(訳注後記).手短に言えば,悪魔について聖アウグスティヌスが言っていることはこの世と肉欲についても当てはまります - いずれも鎖(くさり)につながれた犬のようなもので,人間の側から近寄りすぎることを選択しない限りは,吠えることはできても噛(か)みつけないということです.
そういうわけで,人生には避けて通れないほどの霊的な危険があるのは確かですが,神の恩寵とともにその危険を制御するかどうかは私たち次第です.報いはこの世での(訳注・私自身がした善悪・正邪の選択から出る)行いからくるのです.(コリント人への手紙〈第一〉・2章9節参照)(訳注後記).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
○第2パラグラフの先の訳注:
新約聖書・マテオ聖福音書:第7章13-14節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. MATTHEW – 7:13-14
『狭(せま)い門から入れ,滅びに行く*道は広く大きく,そこを通る人は多い.しかし,命に至る門は狭く,その道は細く,それを見つける人も少ない.』
(注釈)*ブルガタ(ラテン語)訳も,その他のいくつかの写本も,「門は大きく,道は広い…」とある.
○第2パラグラフの後の訳注:
マテオ聖福音書:第20章16節(太字部分)(20章1-16節を掲載)
THE HOLY GOSPEL ACCORDING TO ST. MATTHEW - 20:16 (20:1-16)
(神の御子・救世主・贖い主イエズス・キリストのみことば)
ぶどう畑の雇い人(20・1-16)
『*¹天の国は,ぶどう畑で働く人を雇おうと朝早く出かける主人のようである.
主人は一日一デナリオの約束で働く人をぶどう畑に送った.
また九時ごろ出てみると,仕事がなくて市場に立っている人たちを見たので,〈あなたたちも私のぶどう畑に行け,正当な賃金をやるから〉と言うと,その人たちも行った.
十二時ごろと三時ごろに出ていって,また同じようにした.
五時ごろまた出てみると,ほかにも立っている者がいたので,〈どうして一日じゅう仕事もせずにここに立っているのか〉と聞くと,彼らは〈だれも雇ってくれぬからです〉と答えた.主人は〈おまえたちも私のぶどう畑に行け〉と言った.
日暮れになったので,ぶどう畑の主人は会計係に言った,〈働く人を呼んで,後の人から始めて最初の人まで賃金を払え〉.
五時ごろ雇われた人たちが来て,一人一デナリオずつもらった.
最初の人たちが来て,自分はもっと多いだろうと思っていたが,やはり一人一デナリオずつもらった.もらったとき主人に向かい,〈あの人たちは一時間働いただけなのに,一日じゅう労苦と暑さを忍んだ私たちと同じように待遇なさった〉と不平を言った.
すると主人はその人に,〈友よ,私は不当なことをしたのではない.あなたは私と一デナリオで契約したではないか.自分の分け前をもらって行け.私はこの後の人にもそれと同じ賃金を与えようと思っている.
自分のものを思うままにすることがなぜ悪いのか.それとも私がよいからねたましく思うのか〉と答えた.
このように後の人が先になり,先の人が後になるであろう*²」.』
(注釈)
*¹ (1-15節)
主人はイエズス,働く人は神に奉仕するために呼ばれる人である.
最初の働く人はファリサイ人,最後のは罪人である.
ぶどう畑の仕事は天国に入るための善業,賃金は天国に入る恵みである.しかし神に召されるのはただ神自身の無償の恩寵による.この恩寵に応ずることが救いの条件である.
しかし善業を行うことができるのも恩寵によるものであり,改心の恵みを受けた罪人に対する神の寛大さについて不平を言うことはできぬ.
*² 16節「なぜなら,呼ばれる者は多いが,選ばれる者は少ない」ということばを入れた写本がある.これは22章14節(「実に招かれる人は多いが,選ばれる人は少ない」〈キリストによる「王の子の婚宴」のたとえ話の結び〉)による書き入れらしい.
* * *
○第3パラグラフの訳注:
旧約聖書・イザヤの書:第64章4節(太字部分)(64章全文(1-11節)を掲載)
THE PROPHECY OF ISAIAS - 64:4 (64:1-11)
『水が,火でつきはてるように,
火は敵を滅ぼし尽くすがよい.
そして,敵の間にみ名は知られ,
もろもろの民はみ前でおののくのだ.
私たちの思いもよらぬ恐ろしいことを
主は果たされた.
そのことについては,昔から話を聞いたこともない.
あなた以外の神が,
自分によりたのむ者のために,
これほどのことをされたと,
耳に聞いたこともなく,
目で見たこともない.
主は正義を行い,
道を思い出す人を迎えられる.
見よ,主は怒られたが,私たちは罪を犯し,
ずっと以前から主に逆らい,
みな,汚れた者となり,
正義の行いも,汚れた布のようだった.
みな,木の葉のようにしぼみ,
風のように悪に運び去られた.
だれも,み名をこいねがわず,
めざめて,よりすがろうとしなかった.
それは,主がみ顔を隠し,
罪におちる私たちを見すごされたからだ.
それでも,主は私たちの父,
粘土(ねんど)である私たちを
形づくられたのは主だった.
私たちはみな,御手によってつくられた.
主よ,ふたたび怒りたもうことなく,
いつまでも罪を思い出さず,
私たちを見て下りたまえ.
私たちはあなたの民である.
主の町々は荒れ,
シオンは荒れ地となり,
エルサレムはみじめになった.
先祖が主をたたえた,
あの高貴壮麗な神殿は
火のえじきとなり,
貴重なものはみな壊された.
主よ,これらのことに
冷淡であられるのですか.
私たちをかぎりなく辱(はずかし)めるために
黙したもうのですか.』
* * *
○第4パラグラフの先の訳注:
新約聖書・ヨハネ聖福音書:第17章14-16節(太字部分)(17章全文〈1-26節〉を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST ACCORDING TO ST. JOHN – 17:14-16 (17:1-26)
(最後の晩餐〈聖木曜日〉の後,人の罪の贖いとして犠牲のいけにえとなるため受難・十字架刑に向かわれる直前の神の御子,主イエズス・キリストの祈り)
第17章
イエズスの祈り(17・1-26)
『イエズスはこう話し終えてからへ天を仰いで言われた,
「父よ,時が来ました.あなたの子に光栄を与えたまえ,子があなたに光栄を帰するように.そして,*¹あなたが子に授けられた万民を治める力によって,子に与えられたすべての人に永遠の命を与えたもうように.
永遠の命とは,唯一のまことの神であるあなたと,*²あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります.
私はあなたがさせようと思召した業を成し遂げ,この世にあなたの光栄を現しました.父よ,この世が存在するより先に,私があなたのみもとで有していたその光栄をもって,いま私に光栄を現してください.
私に賜うために,あなたがこの世から取り去られた人々に,私は*³み名を現しました.その人たちはあなたのものであったのに,あなたは私に賜い,そして彼らはあなたのみことばを守りました.
いまや彼らは,あなたが私に与えたもうたものがみな,あなたから出ていることを知っています.なぜなら,私があなたから賜ったみことばを彼らに与えたからです.
彼らはそれを受け入れ,私があなたから出たものであることをほんとうに認め,あなたが私を遣わされたことも信じました.*⁴その彼らのために私は祈ります.
この祈りはこの世のためではなく,あなたが与えたもうた人々のためであります.彼らはあなたのものだからです.私のものはみなあなたのもの,あなたのものはみな私のものです.そして私は彼らにおいて光栄を受けています.
これから,私はもうこの世にはいませんが,彼らはこの世にいます.私はあなたのみもとに行きます.*⁵聖なる父よ,私に与えられたあなたのみ名において,私たちが一つであるがごとく,彼らもそうなるようにお守りください.私は彼らとともにいた間,私に与えられたあなたのみ名において彼らを守りました.彼らを見守りましたから,そのうちの一人も滅びることなく,ただ*⁶聖書を実現するために滅びの子だけが滅びました.
今こそ,私はあなたのもとに行きます.この世にあって私がこう語るのは,彼ら自身に,私のもつ完全な喜びをもたせるためであります.
私は彼らにあなたのみことばを与え,そしてこの世は彼らを憎みました.私がこの世のものでないのと同様に,彼らもこの世のものではないからです.私は彼らをこの世から取り去ってくださいと言うのではなく,悪から守ってくださいと願います.私がこの世のものでないのと同様に,彼らもこの世のものではありません.
彼らを真理において*⁷聖別してください.あなたのみことばは真理であります.あなたが私をこの世に送られたように,私も彼らを世に送ります.そして私は彼らを真理によって聖別するために,*⁸彼らのために自らいけにえにのぼります.
*⁹また,彼らのためだけではなく,彼らのことばによって私を信じる人々のためにも祈ります.父よ,あなたが私の中にましまし,私があなたの中にあるように,みなが一つになりますように.彼らも私たちにおいて一つになりますように.それは,あなたが私を遣わされたことを世に信じさせるためであります.
私はあなたの与えたもうた光栄を彼らに与えました,私たちが一つであるように彼らも一つでありますように.私は彼らの中にあり,あなたは私の中においでになります,彼らが完全に一つになりますように.
あなたが私を遣わし,私を愛されるように,彼らをも愛しておいでになることを,この世に知らせるためであります.父よ,あなたの与えたもうた人々が,私のいる所に,私とともにいることを望みます.それは,あなたが私に与えたもうた光栄を,彼らに見せるためであります.
あなたは,世の始まるよりも前に,私を愛したまいました.正しい父よ,この世はあなたを知りませんが,私はあなたを知り,この人たちもあなたが私を遣わされたことを知るに至りました.あなたが私を愛されたその愛が,彼らにもありますように.また,私が彼らの中にいるように,私はみ名を知らせ,また知らせましょう」.』
(注釈)
イエズスの祈り
*¹ 新約の大司祭として最高のいけにえを行うにあたり,イエズスは,ご自分のため,弟子らのため,教会のために祈られた.
*² 旧約ではモーゼの律法によって神の啓示があったが,今はキリストによって啓示が行われる.
*³ キリストがこの世に遣わされたのは,父のみ名すなわちその位格を示すためであった(17・3-6,26,12・28以下,14・7-11,3・11).
しかし,父の本性は「愛」である(ヨハネの手紙〈第一〉4・8,16).
父はその愛を,ひとり子を私たちにわたすことによって証明された(3・16-18,ヨハネの手紙〈第一〉4・9,10,14,16,ローマ人への手紙8・32).
ゆえに,イエズスが神のひとり子であると信じることは,この偉大な愛を認めるための条件である(20・21,ヨハネの手紙〈第一〉2・23).
*⁴使徒らのための祈りである.
イエズスは十字架上において敵のためにも祈ったのであるから,いつも世のために祈っておられる.全教会のための祈り.
*⁵ 他の写本には,「聖なる父よ,あなたが与えたもうた人々を,あなたのみ名において守り」とある.12節も同じである.
*⁶ 詩篇41・10参照.→「私の信頼していた親友,私のパンを食べた者さえ,私に向かってかかとを上げた.」(注・現在のアラビア人も人への軽蔑のしるしとしてかかとをあげる.この一句はヨハネ聖福音書13・18に引用されている.)
*⁷ 文字どおりの意味は「神のために別にとっておく」で,一般に「聖別する」,「聖とする」という意味に用いられる.
羊などを「いけにえにするため,神のためにとっておく」,あるいは単に「いけにえに定める」,「いけにえにする」,人を「神の奉仕や信心のために,神にささげる」,あるいは「聖別する」(ヨハネ聖福音書10・36),その聖務にふさわしいように「聖とする」,一般に「清める,清くする」(ヨハネの手紙〈第一〉3・3,ヘブライ人への手紙9・13).
*⁸ 元来の意味で(17節の注(*⁷)参照),「彼らのために自らを聖別します」と訳してもよい.
イエズスはその使徒たちを使徒職のために聖別し,聖とするために,神の小羊として自らをいけにえにされた.
*⁹ 将来の信仰者のためにするイエズスの祈りである.世はさまざまに分裂しているが,弟子たちは真理と愛によって一致しなければならない.信者間の分裂を戒(いまし)めるパウロのことばをここに思い出すがよい(エフェゾ人への手紙4・2,コロサイ人への手紙3・12-15).
* * *
○第4パラグラフの後の訳注:
新約聖書・使徒パウロによるコリント人への第一の手紙:第10章13節(太字部分)(10章全文〈1-33節〉を掲載)
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO THE CORINTHIANS – 10:13 (10:1-33)
イスラエルの罰(10・1-13)
『兄弟たちよ,次のことをあなたたちに知ってもらいたい.
私たちの先祖はみな*¹雲の下にいて,みな*²海を通り,みな雲と海の中で*³モーゼにおいて洗われた.みな同じ*⁴霊的な食べ物を食べ,みな同じ霊的な飲み物を飲んだ.すなわち*⁵彼らについてきた霊的な岩から飲んだが,その岩はキリストであった.けれども彼らの多くは神のみ心を喜ばせなかったので,*⁶荒野で倒された.
これらのことは私たちへの*⁷戒(いまし)めとして起こったのであって,彼らが貧(むさぼ)ったように悪を貧ることを禁じるためである.
あなたたちは彼らのうちの何人かのように偶像崇拝者になるな.「*⁸民は座って飲食し,立って戯(たわむ)れた」と書き記されている.
彼らのうちの何人かが淫行したように淫行にふけるな.彼らは一日で*⁹二万三千人死んだ.
彼らのうちの何人かが試みたように主を試みるな.彼らは*¹⁰へびに滅ぼされた.
あなたたちは彼らのうちの何人かが言ったように不平を言うな.彼らは*¹¹滅ぼす者によって滅ぼされた.
彼らに起こったこれらのことは前兆であって,書き記されたのは,*¹²世の末にある私たちへの戒(いまし)めのためであった.
立っていると自ら思う人は倒れぬように注意せよ.あなたたちは人の力を超える試みには会わなかった.*¹³神は忠実であるから力以上の試みには会わせたまわない.あなたたちが試みに耐えそれに打ち克つ方法をも,ともに備えたもうであろう.』
(注釈)
イスラエルの罰
*¹ 〈旧約〉脱出の書13・21参照.
*² 脱出の書14・22参照.
*³ かしらとしてのモーゼに従ったこと.「洗われる」はキリスト教の洗礼を暗示する.この「洗い」によって,ヘブライ人がモーゼにゆだねられたことを意味する.
*⁴マンナのこと(脱出の書16・4-35).
(注・エジプトを脱出し荒野に出たイスラエルの民のために神が天から降らせた食べ物(パン).)
→脱出の書16・31「イスラエルの民は,それをマンナと呼んだ.マンナは,こえんどろの実のように白くて,蜜の入った堅(かた)パンのような味であった.」
(注釈・「マンナ」はヘブライ語の「マンフ」「これは何か」という意味.今でもアラブの人は,マンナのことを「マンヌ」と呼ぶが,それはヘブライ語からきているのだろう.「こえんどろ」の木は,セリ科の植物,今もシナイ地方と,ヨルダン川の谷によく生えている.)
*⁵ 脱出の書17・5-6.モーゼの泉の岩は,イスラエル人が荒野を通っていく間,ずっとついてきていたという(ラビたちの伝説による).
*⁶ 荒野の書14・16参照.
*⁷ 原文には「前兆」とある.歴史的な意味もさることながら,旧約のある事件は,未来の出来事のかたどりだからである.
*⁸ 荒野の書32・6参照.
*⁹ 荒野の書25・1-9.ヘブライ語原典,七十人訳ギリシア語聖書にも「二万四千人」とある.二万三千人としたのは,書き写した人のまちがいらしい.
*¹⁰ 荒野の書21・5-6参照.
*¹¹ 荒野の書17・6-15.神の罰を下す天使のこと.
*¹² メシアの時代.
*¹³ 〈旧約〉シラの書15・11-20参照.
実際上の解決とつまずきを避ける(10・14-11・34)
『愛する人々よ,偶像崇拝を避けよ.私は道理をわきまえる人に話すようにあなたたちに話すのであるから,私の言おうとすることを判断せよ.
私たちが祝する祝聖の杯は,キリストの御血にあずかることではないか.私たちが裂くパンはキリストのお体にあずかることではないか.パンは一つであるから私たちは多数であっても一体である.みな一つのパンにあずかるからである.
*¹肉のイスラエルを見よ.供え物を食べる人々は祭壇(さいだん)にあずかるではないか.私は何を言おうとしているのか.供え物の肉が何物かであると言うのか.あるいは偶像が何物かであると言うのか.いや,*²異邦人が供える物は神にではなく悪魔に供えるのだと私は言う.あなたたちが悪魔と交わるのを私は望まない.あなたたちは主の杯と悪魔の杯を同時に飲むことはできぬ.また主の食卓と悪魔の食卓にともにつくことはできぬ.それとも私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのか.私たちは主よりも強いのだろうか.
〈*³私なら何でもしてよい〉と言う人があろう.だがすべてが利益になるのではない.〈私なら〉何でもしてよいという人でもすべてが徳を立てる役にたつものではない.
みな自分の益を求めず,他人の益を求めよ.良心のためにあれこれ聞かずに,市場で売っている物は何でも食べよ.なぜなら地上と*⁴地上を満たす物は主のものだからである.
信者でない人に招かれていくなら,良心にあれこれ尋(たず)ねることをせずに,あなたの前に出された物を食べよ.
だがもしある人が,これは偶像に供えた肉だと言うなら,そう知らせた人のために,また良心のために,それを食べてはならぬ.良心というのは,あなたの良心ではなく,その人の良心のことである.どうして,*⁵私の自由が他人の良心によって判断されようか.感謝して食卓につくなら,その感謝した物についてどうして非難されることがあろう.
食べるにつけ飲むにつけ,何事をするにもすべて神の光栄のために行え.ユダヤ人にもギリシア人にも,また神の教会にもつまずきとなるな.私はどんなことでもみなを喜ばせるように努めている.人々が救われるように,私は自分の利益ではなく多くの人の利益を求めている.
(注釈)
実際上の解決とつまずきを避ける
*¹ キリスト教に改宗しなかったイスラエル人のこと(〈新約〉ローマ人への手紙7・5).
キリスト信者は「神のイスラエル」(ガラツィア人への手紙6・16節),すなわち,まことのイスラエルである.
*² 偶像への供え物は,悪魔に供えるものである.それで供え物にもその後の宴会にもキリスト信者は参加できない.
*³ 偶像の宴会でないかぎり,偶像の供え物の肉を食べてよい(8・4,8-9).しかし弱い者をかえりみて,愛をもって(27-28節)時にはそれも食べないほうがよい場合がある.
*⁴ 詩篇24・1参照.→「地とそこにあるもの,世とそこに住む者,すべて主のもの.」
*⁵ 自分の良心の自由のこと.良心の判断は,他人の考え方に左右されるものではない.ゆえに,この場合,供え物となった肉について,自分の判断を変えねばならないとは言わない.
しかし,弱い人のつまずきにならぬように,時として遠慮しなければならない.
* * *
○第5パラグラフの訳注:
コリント人への第一の手紙:第2章9節
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL TO THE CORINTHIANS – 2:9
『書き記されているとおり,「*目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮かばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである.』
(注釈)* 旧約聖書・イザヤの書64・3参照.
* * *
登録:
投稿 (Atom)