エレイソン・コメンツ 第188回 (2011年2月19日)
運命の予言者は自分の評判を取ろうとはしませんが,もし彼らが神の使者だとしたら,真実を告げなければなりません.現在,そのような使者は政治や経済に関わりを持つべきではないと考える人々もいます.だがもし,政治が宗教にとって代わり,人間を神の場に置くことで必然的に誤った宗教と化してしまっていると仮定すればどうでしょうか?そして経済(あるいは金融)がまさに多くの人々を飢えさせようとしているのだと仮定したならどうでしょうか?神の使者たちが,アリストテレスとともに,もし人々が基本的な生活必需品に事欠く状態でどうやって道徳に適(かな)った人生を送れるのか,と尋(たず)ねることは許されないことでしょうか?有徳な人生など彼ら神の使者と無関係なことでしょうか?
そういうわけで,ここで権威ある米ウォール・ストリート・ジャーナル紙の一記者の書いた注目すべき一節を引用したとしても私は間違っていないと思います.その記者は,ホワイト・ハウスの前主席報道官に批判的な記事を書いたことで,2006年夏,時のブッシュ大統領の上級顧問役から厳しく非難されたことについて語っています.記者は当時,その上級顧問役が自分に何を言おうとしているのか良く理解できなかったが,後になって,それがブッシュ大統領体制の核心に触れることだと分かった,と述べています.記者が引用した顧問役自身の言葉をここにご紹介します:--
その顧問は記者にこう言ったそうです.新聞記者のような人々は,「私たちが言う現実に基づいた社会の中にいるのです.その社会とは,つまりあなたのように,いかなる解決策も目に見える現実についての思慮分別ある学習から現れてくると信じる人たちのことですよ.」 顧問は,記者は昨日まで通じた現実の尊重という原則を忘れるべきだと言い,次のように付言したそうです.「世界はもはやそのような考え方では動いていないのです.私たちは今や一つの帝国であり,私たちが行動することで私たち固有の現実を創り出しているのです- あなたのなさるように思慮深く - そして私たちは再び行動し,別の新しい現実を創り出すのです.それをあなたたちも学習できるし,そうやって物事が解決していくのです.私たちは歴史の役者を演じているのです…そしてあなたは,あなた方はみな,私たちが演じる役をただ学習するだけにすぎないのですよ.」(キャサリン・フィッツの「2月2日付『私たちは金融クーデターの犠牲者』www. 321 gold をご覧ください.)(訳注・原文 “See www.321 gold, Feb 2, "We are Victims of a Financial Coup d'Etat", by Catherine Fitts”.)
現代世界がいかに幻想の上に動かされているかを道徳的に説いているこの話をしているのは私ではありません.話しているのは,ワシントンのインサイダー中のインサイダーです.彼はいかに現代世界が幻想の上に運営されているかを肯定的に誇っているのです.彼の言葉は,当時の政府のでっち上げ,例えば,9・11事件やサダム・フセインの「大量破壊兵器」などとまさに一致するのではないでしょうか.(それらのでっち上げは)政策を正当化するために「創り出した」ものであり,そうしなければ正当化は不可能だったのではないでしょうか?現実や現実を重んじる人々をこれほどまで軽んじるその傲慢(ごうまん)さは息を飲むばかりです.
古典ギリシャ人たちは顕現(けんげん)された神についての知識が何もない異教徒でしたが,神の世界の道徳的な骨組みたる現実が,彼らが見た通り,神々により統治されているとを明確に理解していました.どんな人間でも,たとえ英雄であろうと,そのような神の骨組みをこのブッシュの顧問のように否定する者はみな「傲慢」の罪を犯し,人間相応の身分を超えて頭を高くもたげていることになり,神々によりその罪に応じて粉々(こなごな)に粉砕(ふんさい)されるでしょう.
カトリック信徒のみなさん,もし神の恩寵が人間性を見捨てているとお考えなら,今日ますます必要とされている自然の様々な教訓について古代の異教徒たちから学び直すのが最良です.アイスキュロス作悲劇「ペルシャ人」に登場するクセルクセス( “Xerxes in Aeschylus' Persae” ),ソフォクレス作悲劇「アンティゴネ」に登場するクレオン( “Creon in Sophocles' Antigone” ),エウリピデス作悲劇「バッカスの信女」に登場するペンテウス( “Pentheus in Euripides' Bacchae” )に学びなさい(訳注後記).聖なるロザリオの祈りを確実に唱えるだけでなく,ほら,古典名作も読み,芋(いも)も植えて(=畑を耕〈たがや〉して),負債も支払うんですよ!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(最後のパラグラフの訳注・「ギリシャ悲劇」について)
「クセルクセス」
・=クセルクセス一世.アケメネス朝ペルシア帝国の王(在位前486年-前465年).ダレイオス一世の子.前480年父の遺志を継いでギリシア遠征(ペルシア戦争)を行ったが,サラミスの海戦に敗れた.治世後半から側近の権力闘争が激化.謀殺された.
* * *
「クレオン」
・テーバイの王ライオスの妃イオカステの兄弟.オイディプスが追放された後、テーバイ王となる.
・(テーバイ)
〈=テーベ,“Thebae”.〉古代ギリシャの重要都市.現シベ.テーベ伝説上のオイディプス王の首都で,古代ギリシャ悲劇の舞台として知られる.
・(解説)
悲劇「アンティゴネ」の作者ソフォクレスは,神の法(自然法)と人間の法ではどちらがより重要かを,多神教を信仰するアテネ市民(=ギリシャ人)に問うた.ソフォクレスは神の法を選んだ.彼はギリシャ国中にまん延しつつあった道徳の破壊が国家没落の原因となり得ることを認識していたことからギリシャ国民の傲慢(=ギリシャ語でhubris )さを警告した.「アンティゴネ」では最終的にテーベ王となったクレオンの傲慢が露呈(ろてい)している.この悲劇の前編「オイディプス王」(前430年頃)では,オイディプス王の傲慢が詳述されている.
* * *
「ペンテウス」
・ギリシャ神話の人物.カドモスの娘アガウェがスパルトイの一人エキオンと結婚して生んだ子で,老齢のカドモスから譲位され,二代目のテーベ王になったが,ディオニュソス(=バッカス.ギリシャ神話の酒神,豊穣神)の信仰がテーベに広がるのを妨げようとして,従兄弟にあたるこの神を怒らせ,神罰によって八つ裂きにされて死んだ.このとき,彼の母や伯母たちが,信女たちの先頭に立って彼を害したという.
(ブリタニカ国際大百科事典,百科事典マイペディア他参照)
2011年2月20日日曜日
2011年2月14日月曜日
注目に値する映画
エレイソン・コメンツ 第187回 (2011年2月12日)
最近封切られたフランス映画「神々と人間」(訳注・公式邦題は「神々と男たち」.英題名 “Of Gods and Men” / 原題 “Des hommes et des dieux.” )は昨年,権威あるフランスのカンヌ国際映画祭で最高賞を獲得しました.この映画は1996年に実際に起きた事件を再現したもので,植民地から独立後のアルジェリアにあるシトー修道会修道院( “a Cistercian monastery” )における生活の最後の数か月間を描いたものです.最終的に8名の修道士たちが正体不明の暗殺者たちによりそこから拉致され殺されました(訳注後記).監督,俳優,カメラともこの映画を美しい作品に仕上げています.カトリック伝統に精通しているカトリック信徒たちにとり特に興味深いのはこの映画の宗教と - 宗教的な観点からの - 政治の取り上げ方でしょう.
この映画の描いているのが公会議派の宗教であることから考えると,おそらく最も注目に値するのはこの映画のもつ真の宗教感覚でしょう.教義的には,例えばコーランに対し必要以上の敬意を払うことを普遍的に重要視する( “ecumenical moments” )といった面があります.典礼の上からいえば,簡素かつ高潔な修道院の教会で詠唱される言葉や音楽はみな現代人が産み出したもので,主観的かつ感傷的なものです.それでも,修道士たちの祈る姿を規則通りに描写している場面のどれもがみな純粋で非常に宗教的であり,非宗教的な現代においては全く驚くばかりです.この映像を見て誰もが内心思うでしょう,これが修道院のあるべき姿なのだ,と!
どう言えばよいでしょうか?映画の監督と演技について言えば,ちょうど現代の英国人が大英帝国の歴史が依然として身近にあり自分たちの血の中に流れているため今でもビクトリア時代を納得のゆくように表現できるのと同じように,この映画のフランス人俳優たちは,カトリックの修道院生活が自分たちの遺産の中できわめて重要な部分を占めてきたため,素晴らしい修道士像をスクリーン上に描き得たにちがいありません.だがとりわけ,私たちの主イエズス・キリストが言われる通り(マテオ・15:18,19)(訳注後記),大切なことは,人が心の中で何を考えているかです.何より最良なのは心のこもったカトリック伝統ですが,この映画は,心ある公会議主義のほうが心を失ったカトリック伝統主義よりはるかに神を喜ばせるのではないかということを私たち伝統派のカトリック信徒たちに思い起こさせてくれます.
この映画で描かれている政治はアラブ諸国で現在起きているイスラム教徒蜂起の観点からとりわけ興味深いものです.映画の中の修道士たちは,確かに実生活で起きた通り,政治的に進退きわまった状況におかれます.一方で,彼らの非イスラム的生活は,イスラム教がアルジェリアを政治的に支配するのに邪魔となるものは誰であっても殺すというイスラム反乱軍によって明らかに脅威にさらされます.他方,独立後のアルジェリア政府は,修道士たちがイスラム反乱分子たちを援助したり,負傷者に対し例えばカトリック教会の精神に則った様々な慈悲の行為を施しているのではないかと強く疑い,修道士たちにアルジェリア国外へ立ち去るよう勧めます.今日でも,修道士たちはアルジェリア政府によって処刑されたと考える人たちがいます.真相は神のみぞ知るです.
どう言えばよいでしょうか? 確かに心あるカトリック教は,反キリスト教的であまりに単純かつ残忍な分派である心あるイスラム教よりはるかに優れています.だが,第二バチカン公会議がしたように,もしカトリシズムから心が失われてしまい,世界各地の実生活で,カトリックの修道士や聖職者たちが医療のみならず精神的な支援まで反カトリック革命主義者に対して与えることになったとします.その結果,正当な政府が公会議派の聖職者によって自国の法と秩序が損なわれたと異議を唱えたとしても驚くにあたるでしょうか?実のところ,ルフェーブル大司教がよく言われていた通り,カトリック聖職者たちが最も恐るべき革命主義者になるのです!イスラム教が台頭するのはひとえに真のカトリック教会が堕落し続けるからです.
カトリック伝統を固守している少数のカトリック信徒たちの信仰心にいかに多くがかかっていることでしょうか!
キリエ・エレイソン
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(第1パラグラフの訳注)
・ “The Atlas Martyrs” (アトラスの殉教者)と呼ばれる.
・「厳律シトー修道会」 “O.C.S.O Order of Cistercians of the Strict Observance”
・「シトー修道会」 “Cîteaux”, “ordre cistercien” について:
11世紀聖ロベルトゥスによってフランスに創立された観想修道会.この会から聖ベルナルドゥスが出た.17世紀ド・ランセによる刷新に参加した諸修道院を「厳律シトー会(Ordre de Cîteaux)といい,参加しなかった諸修道院を「寛律シトー会」という.別名トラピスト修道会(Trappist).(現代キリスト教用語辞典〈大修館書店〉参照)
* * *
(第3パラグラフの訳注)
新約聖書・マテオ聖福音書:第15章18,19節
『だが口から出るものは,心から出たもので,これが人を汚す.つまり,悪意,殺人,姦淫,淫行,窃盗,偽証,讒言(ざんげん)などは心から出る.』
最近封切られたフランス映画「神々と人間」(訳注・公式邦題は「神々と男たち」.英題名 “Of Gods and Men” / 原題 “Des hommes et des dieux.” )は昨年,権威あるフランスのカンヌ国際映画祭で最高賞を獲得しました.この映画は1996年に実際に起きた事件を再現したもので,植民地から独立後のアルジェリアにあるシトー修道会修道院( “a Cistercian monastery” )における生活の最後の数か月間を描いたものです.最終的に8名の修道士たちが正体不明の暗殺者たちによりそこから拉致され殺されました(訳注後記).監督,俳優,カメラともこの映画を美しい作品に仕上げています.カトリック伝統に精通しているカトリック信徒たちにとり特に興味深いのはこの映画の宗教と - 宗教的な観点からの - 政治の取り上げ方でしょう.
この映画の描いているのが公会議派の宗教であることから考えると,おそらく最も注目に値するのはこの映画のもつ真の宗教感覚でしょう.教義的には,例えばコーランに対し必要以上の敬意を払うことを普遍的に重要視する( “ecumenical moments” )といった面があります.典礼の上からいえば,簡素かつ高潔な修道院の教会で詠唱される言葉や音楽はみな現代人が産み出したもので,主観的かつ感傷的なものです.それでも,修道士たちの祈る姿を規則通りに描写している場面のどれもがみな純粋で非常に宗教的であり,非宗教的な現代においては全く驚くばかりです.この映像を見て誰もが内心思うでしょう,これが修道院のあるべき姿なのだ,と!
どう言えばよいでしょうか?映画の監督と演技について言えば,ちょうど現代の英国人が大英帝国の歴史が依然として身近にあり自分たちの血の中に流れているため今でもビクトリア時代を納得のゆくように表現できるのと同じように,この映画のフランス人俳優たちは,カトリックの修道院生活が自分たちの遺産の中できわめて重要な部分を占めてきたため,素晴らしい修道士像をスクリーン上に描き得たにちがいありません.だがとりわけ,私たちの主イエズス・キリストが言われる通り(マテオ・15:18,19)(訳注後記),大切なことは,人が心の中で何を考えているかです.何より最良なのは心のこもったカトリック伝統ですが,この映画は,心ある公会議主義のほうが心を失ったカトリック伝統主義よりはるかに神を喜ばせるのではないかということを私たち伝統派のカトリック信徒たちに思い起こさせてくれます.
この映画で描かれている政治はアラブ諸国で現在起きているイスラム教徒蜂起の観点からとりわけ興味深いものです.映画の中の修道士たちは,確かに実生活で起きた通り,政治的に進退きわまった状況におかれます.一方で,彼らの非イスラム的生活は,イスラム教がアルジェリアを政治的に支配するのに邪魔となるものは誰であっても殺すというイスラム反乱軍によって明らかに脅威にさらされます.他方,独立後のアルジェリア政府は,修道士たちがイスラム反乱分子たちを援助したり,負傷者に対し例えばカトリック教会の精神に則った様々な慈悲の行為を施しているのではないかと強く疑い,修道士たちにアルジェリア国外へ立ち去るよう勧めます.今日でも,修道士たちはアルジェリア政府によって処刑されたと考える人たちがいます.真相は神のみぞ知るです.
どう言えばよいでしょうか? 確かに心あるカトリック教は,反キリスト教的であまりに単純かつ残忍な分派である心あるイスラム教よりはるかに優れています.だが,第二バチカン公会議がしたように,もしカトリシズムから心が失われてしまい,世界各地の実生活で,カトリックの修道士や聖職者たちが医療のみならず精神的な支援まで反カトリック革命主義者に対して与えることになったとします.その結果,正当な政府が公会議派の聖職者によって自国の法と秩序が損なわれたと異議を唱えたとしても驚くにあたるでしょうか?実のところ,ルフェーブル大司教がよく言われていた通り,カトリック聖職者たちが最も恐るべき革命主義者になるのです!イスラム教が台頭するのはひとえに真のカトリック教会が堕落し続けるからです.
カトリック伝統を固守している少数のカトリック信徒たちの信仰心にいかに多くがかかっていることでしょうか!
キリエ・エレイソン
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(第1パラグラフの訳注)
・ “The Atlas Martyrs” (アトラスの殉教者)と呼ばれる.
・「厳律シトー修道会」 “O.C.S.O Order of Cistercians of the Strict Observance”
・「シトー修道会」 “Cîteaux”, “ordre cistercien” について:
11世紀聖ロベルトゥスによってフランスに創立された観想修道会.この会から聖ベルナルドゥスが出た.17世紀ド・ランセによる刷新に参加した諸修道院を「厳律シトー会(Ordre de Cîteaux)といい,参加しなかった諸修道院を「寛律シトー会」という.別名トラピスト修道会(Trappist).(現代キリスト教用語辞典〈大修館書店〉参照)
* * *
(第3パラグラフの訳注)
新約聖書・マテオ聖福音書:第15章18,19節
『だが口から出るものは,心から出たもので,これが人を汚す.つまり,悪意,殺人,姦淫,淫行,窃盗,偽証,讒言(ざんげん)などは心から出る.』
2011年2月7日月曜日
汚染
エレイソン・コメンツ 第186回 (2011年2月5日)
もしリベラリズム(自由主義)を広い意味で人間を神から解放することだと定義するなら(先週の「エレイソン・コメンツ」をご覧ください),フランス革命(1789年)から始まった19世紀のリベラル(自由主義的)・カトリシズムは概(おおむ)ね政治を神から解放することに成功したということになります.一方,20世紀初期のリベラル・モダニズム(自由主義的・現代主義)はカトリック教会を神から解放しようと試みましたが,それは聖ピオ十世会により抑え込まれたため不成功に終わりました.だが,その同じ試みは半世紀後,第二バチカン公会議で,リベラル主義者の多くが描き得る限りの夢すらはるかに超え成功したのです.以下にご紹介するのは,私が最近イタリアから受け取ったもう一つの証言で,リベラル(自由主義的)伝統主義が現在いかにしてカトリック教の伝統を神から解放しようとしているかを観察したものです(せめて私たちが悪魔の持つ忍耐力の半分だけでも持ち合わせていたらいいのだがと思うばかりです!):--
「教皇ベネディクト16世による2007年の自発教令(訳注・モトゥ・プロプリオ,
“Motu Proprio of 2007” )でトリエント(トレント)・ミサ “the Tridentine Mass” が解禁されてから,大勢のカトリック教徒たちがカトリック伝統に近づきましたが,彼らの質は大きく変わりました.これは避けられなかったことですが,伝統の重要さを確信していなかったカトリック信徒や伝統についての考え方が主観的,すなわち,それが任意であって義務ではないと考えるカトリック教徒たちがカトリック伝統に向かったため数の上での増加をもたらしたのです.この点において,教皇ベネディクト16世の2005年12月22日のスピーチは,たとえ有益な事柄がいくつか述べられていたとしても,その及ぼす影響力は破滅的なものでした.(訳注・スピーチの邦題「教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭のあいさつ」〈「カトリック中央協議会」(日本)ウェブサイトより〉)
当時の教皇への信任は近代の典礼,要理あるいは教義に関するいかなる批判的な考えをも二次的な(より重要でない)ものにしてしまいました.(近代的なものと伝統的なものとの)相違点を指摘したり,混同を明瞭にしたりする者はひどく不人気になりました.だが,第三回目のアッシジ合同祈祷集会の開催の発表(原文 “the announcement of Assisi III” )は,幅広く極めてふわふわしていた伝統派層に鋭い一撃を加え,その結果カトリック信徒たちは決心しなければならなくなったのです.互いの違いが明るみに出て,最初の分裂が現れました.
教皇ベネディクト16世は,伝統に結びついているかそれに近い立場の若いカトリック信徒たちの有望な潜在力を汚染し,分裂を創り出すことに成功してきました.この潜在力の多くは,たとえ他の若者たちが進み出てカトリック教に相応(ふさわ)しい振る舞いをするよう神に望みをかけて祈るとしても,今では台無しにされています.こうした状況で,はたしてどれだけ多くのカトリック信徒たちが心からカトリック教会の大義名分を受け入れることになるでしょうか? 私たちは,騒ぎが落ち着き,善意と新しい活力を備えた人たちが出現するのを待たなければならないでしょう.
カトリック伝統の証人となることは,これまで以上に,明瞭かつ確固たる発言を要します.躊躇(ちゅうちょ)や迷いは被害をもたらすだけです.その間,私たちは戦い続けましょう.どこであろうとも求められたら大きな声をあげましょう.そして公然と,教皇ベネディクト16世の公会議主義下の新教会(原文 “Benedict XVI’s Conciliar Newchurch” )によるあらゆる弊害を指摘しましょう.イタリアの世論はカトリック教会の本当の(真実な)諸問題について関心を持つには程遠い状態です.この国のカトリック信徒たちは何世紀ものあいだローマ教皇が仰せになることがキリストの福音であると信じるよう学んできているからです.彼らは現代の子供たちなのです.」(引用終わり)
間違いなく,ここで引用した証言は,主流派教会(原文 "the mainstream Church" )が1975年にエコン(訳注・原語“Econe.” ルフェーブル大司教の聖ピオ十世会の当初の拠点となった神学校のあるスイスの地名.)を排斥(はいせき)したこと,1988年に「破門」によって聖ピオ十世会をあからさまに糾弾(きゅうだん)したことが,いずれもカトリック伝統を汚染から救う手助けになったことを示唆(しさ)しています.主なる神は同じことが起こるよう,再度の分裂と排斥をお許しになる必要があるのでしょうか? 私たちはそうでないことを心から望んでいます!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
もしリベラリズム(自由主義)を広い意味で人間を神から解放することだと定義するなら(先週の「エレイソン・コメンツ」をご覧ください),フランス革命(1789年)から始まった19世紀のリベラル(自由主義的)・カトリシズムは概(おおむ)ね政治を神から解放することに成功したということになります.一方,20世紀初期のリベラル・モダニズム(自由主義的・現代主義)はカトリック教会を神から解放しようと試みましたが,それは聖ピオ十世会により抑え込まれたため不成功に終わりました.だが,その同じ試みは半世紀後,第二バチカン公会議で,リベラル主義者の多くが描き得る限りの夢すらはるかに超え成功したのです.以下にご紹介するのは,私が最近イタリアから受け取ったもう一つの証言で,リベラル(自由主義的)伝統主義が現在いかにしてカトリック教の伝統を神から解放しようとしているかを観察したものです(せめて私たちが悪魔の持つ忍耐力の半分だけでも持ち合わせていたらいいのだがと思うばかりです!):--
「教皇ベネディクト16世による2007年の自発教令(訳注・モトゥ・プロプリオ,
“Motu Proprio of 2007” )でトリエント(トレント)・ミサ “the Tridentine Mass” が解禁されてから,大勢のカトリック教徒たちがカトリック伝統に近づきましたが,彼らの質は大きく変わりました.これは避けられなかったことですが,伝統の重要さを確信していなかったカトリック信徒や伝統についての考え方が主観的,すなわち,それが任意であって義務ではないと考えるカトリック教徒たちがカトリック伝統に向かったため数の上での増加をもたらしたのです.この点において,教皇ベネディクト16世の2005年12月22日のスピーチは,たとえ有益な事柄がいくつか述べられていたとしても,その及ぼす影響力は破滅的なものでした.(訳注・スピーチの邦題「教皇ベネディクト十六世の教皇庁に対する降誕祭のあいさつ」〈「カトリック中央協議会」(日本)ウェブサイトより〉)
当時の教皇への信任は近代の典礼,要理あるいは教義に関するいかなる批判的な考えをも二次的な(より重要でない)ものにしてしまいました.(近代的なものと伝統的なものとの)相違点を指摘したり,混同を明瞭にしたりする者はひどく不人気になりました.だが,第三回目のアッシジ合同祈祷集会の開催の発表(原文 “the announcement of Assisi III” )は,幅広く極めてふわふわしていた伝統派層に鋭い一撃を加え,その結果カトリック信徒たちは決心しなければならなくなったのです.互いの違いが明るみに出て,最初の分裂が現れました.
教皇ベネディクト16世は,伝統に結びついているかそれに近い立場の若いカトリック信徒たちの有望な潜在力を汚染し,分裂を創り出すことに成功してきました.この潜在力の多くは,たとえ他の若者たちが進み出てカトリック教に相応(ふさわ)しい振る舞いをするよう神に望みをかけて祈るとしても,今では台無しにされています.こうした状況で,はたしてどれだけ多くのカトリック信徒たちが心からカトリック教会の大義名分を受け入れることになるでしょうか? 私たちは,騒ぎが落ち着き,善意と新しい活力を備えた人たちが出現するのを待たなければならないでしょう.
カトリック伝統の証人となることは,これまで以上に,明瞭かつ確固たる発言を要します.躊躇(ちゅうちょ)や迷いは被害をもたらすだけです.その間,私たちは戦い続けましょう.どこであろうとも求められたら大きな声をあげましょう.そして公然と,教皇ベネディクト16世の公会議主義下の新教会(原文 “Benedict XVI’s Conciliar Newchurch” )によるあらゆる弊害を指摘しましょう.イタリアの世論はカトリック教会の本当の(真実な)諸問題について関心を持つには程遠い状態です.この国のカトリック信徒たちは何世紀ものあいだローマ教皇が仰せになることがキリストの福音であると信じるよう学んできているからです.彼らは現代の子供たちなのです.」(引用終わり)
間違いなく,ここで引用した証言は,主流派教会(原文 "the mainstream Church" )が1975年にエコン(訳注・原語“Econe.” ルフェーブル大司教の聖ピオ十世会の当初の拠点となった神学校のあるスイスの地名.)を排斥(はいせき)したこと,1988年に「破門」によって聖ピオ十世会をあからさまに糾弾(きゅうだん)したことが,いずれもカトリック伝統を汚染から救う手助けになったことを示唆(しさ)しています.主なる神は同じことが起こるよう,再度の分裂と排斥をお許しになる必要があるのでしょうか? 私たちはそうでないことを心から望んでいます!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
ラベル:
1988年破門,
2007年自発教令,
カトリック真理,
カトリック伝統,
モダニズム,
リベラリズム,
教皇ベネディクト16世,
第二バチカン公会議
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