(解説付き)
エレイソン・コメンツ 第435回 (2015年11月14日)
欧州(ヨーロッパ)が信仰を持って居た時には
イスラム教徒の大群を打ち負かせました.
(おうしゅう〈よーろっぱ〉が しんこう を もって いた とき には
いすらむ きょうと の たいぐん を うち まかせ ました.)
( "When Europe had the faith, it could defeat" )
だが,今は如何でしょうか? ― 延延と退却です.
(だが,いまはどうでしょうか?― えんえんとたいきゃくです.)
( "The Muslim hordes, but now ? – one long retreat." )
衰退する全基督(キリスト)教諸国世界の遺物は今,千年に及ぶ神の敵に拠(因)って組織され(すいたい する ぜん きりすと きょうこく せかいの いぶつ は いま,せんねん に およぶ かみ の てき に よって そしき され),西側諸国のだらしない(訳注後記・2・1)政治家達や堕落したメディア(=新聞・テレビ・ラジオ等の情報媒体)に支えられたイスラム教徒(訳注後記・2・2)達の侵略に直面して居ます(にしがわ しょこく の だらしない せいじか たち や だらく した めでぃあ〈=しんぶん・テレビ・ラジオ とう の じょうほう ばいたい〉に ささえ られた いすらむ きょうと たち の しんりゃく に ちょくめん して います)( "As the faltering remains of Christendom face today a Muslim invasion organized by the millennial enemies of God, and made possible by the Western nations' wretched politicians and vile media, …" ).此の様な事態を前に,過去如何に屡(しばしば)基督教(キリスト教)王国がイスラム(訳注後記・2・2)の侵略に脅かされたか(このような じたい を まえ に,かこ いか に しばしば きりすと きょう おうこく が いすらむ の しんりゃく に おびやか された か)そして(然うして)基督教王国が其の都度神に目を向ける事に由(依・拠・因)り如何に自らを守って来たかを振り返るのは有意義な事でしょう(そして,きりすと きょう おうこく が その つど かみ に め を むける こと に より いか に みずから を まもって きた か を ふり かえる の は ゆういぎ な こと で しょう)( "…it is well to remember how often in times past Christendom was threatened by Muslim invasions, and how Christendom then defended itself, by turning to God." ).1683年の夏,15万(十五万)から30万(三十万)人というイスラム軍団兵士達がウィーン(維納)を包囲為,南東柄(から)欧州(ヨーロッパ)全土を飲み込もうと為ました(せん ろっぴゃく はち じゅう さん ねん の なつ,じゅうご まん から さんじゅう まん にん と いう いすらむ ぐんだん へいし たち が うぃーん を ほうい し,なんとう から おうしゅう〈よーろっぱ〉ぜんど を のみこもう と しました)( "In the summer of 1683, a huge Muslim army of anything from 150 to 300 thousand soldiers besieged Vienna and threatened to engulf Europe from the south-east." ).イスラム教徒達はイスラム教の誇りを懸けて(賭けて)ローマ(羅馬)を奪回(奪還)為ようとさえ(添え)為ました(いすらむ きょうと たち は いすらむ きょう の ほこり を かけて ろーま を だっかい しよう と さえ しました)( "The Muslims even envisaged capturing Rome, for the glory of Islam." ).此の時,高徳な(聖人の様な)カプチン修道会士マルコ・ダ・アビアノ神父( "Fr. Marco da Aviano" )の助けを受け(この とき,こうとく な〈せいじん の よう な〉かぷちん しゅうどう かい し まるこ・だ・あびあの しんぷ の たすけ を うけ),教皇インノケンティウス11世( "Pope Innocent XI" )は欧州(ヨーロッパ)数か国柄(から)成る基督教徒軍団を組織してウィーン(維納)を救いました(きょうこう いんのけんてぃうす じゅういっ せい は おうしゅう〈よーろっぱ〉すう か こく から なる きりすと ぐんだん を そしき して うぃーん を すくい ました)( "With the help of a saintly Capucin, Fr. Marco da Aviano, Pope Innocent XI succeeded in putting together a Christian army from several European nations to relieve Vienna." ).以下は修道士マルコが戦いの直前に神に奉献した祈祷(祈り)の内容です(いか は しゅうどう し まるこ が たたかい の ちょくぜん に かみに ほうけん した きとう〈いのり〉の ないよう です):-- ( "Here is the prayer of the Capucin just before the battle:-- " )
「おお万軍の神なる主よ,私達が此れ(之・是・惟)迄(まで)に犯した数々の罪の御赦しを乞う為,私達が貴方の足元に跪く姿を御照覧下さい(おお ばんぐん の かみ なる しゅ よ,わたくし たち が これ まで に おかした かずかず の つみ の おゆるし を こう ため,わたくし たち が あなた の あし もと に ひざまずく すがた を ご しょうらん ください)( " “O Lord God of Hosts, Behold us prostrate at the feet of your Majesty, to obtain forgiveness for our sins." ).異教徒達が武器を手に為て私達を弾圧為る事に成ったのは私達が受ける当然の報いだと私達には十分に分かって居ります(いきょうと たち が ぶき を て に して わたくし たち を だんあつ する こと に なった のは わたくし たち が うける とうぜん の むくい だ と わたくし たち に は じゅうぶん に わかって おり ます)( "Well do we know how we have deserved that the infidels take up arms to oppress us, …" ).何故なら,貴方の親切心を前に私達が日々行った非行の数々が正しく貴方の御怒りを招いた柄です(なぜなら,あなた の しんせつ しん を まえ に わたくし たち が ひび おこなった ひこう の かずかず が まさしく あなた の おいかり を まねいた から です)( "… because the iniquities committed by us every day against your goodness have justly provoked your wrath." ).おお偉大な神よ,私達は心の奥底柄貴方の御赦しを乞います.私達は貴方が憎み嫌う罪を憎み嫌います(憎悪します,嫌悪します)(おお いだい な かみ よ.わたくし たち は こころ の おくそこ から あなた の お ゆるし を こい ます.わたくし たち は あなた が にくみ きらう つみ を にくみ きらい ます)〈ぞうお します,けんお します〉( "O great God, from the depth of our hearts we ask you to forgive us; we execrate sin because you abhor it; …" ).私達は貴方の至高なる善意を何度となく無にした為(為た為)悩み苦しんで居ります(わたくし たち は あなた の しこう なる ぜんい を なんど と なく む に した ため なやみ くるしんで おり ます)( "… we are afflicted because we have often angered your supreme goodness." ).貴方の愛を得る為なら,私達は小さな行いで貴方を不快にさせるより,寧ろ千回も死んだ方がまし(増し)だと考えます(あなた の あい を える ため なら,わたくし たち は ちいさな おこない で あなた を ふかい に させる より,むしろ せん かい も しんだ ほう が まし だ と かんがえ ます)( "For love of you we would rather die a thousand times than commit the least act to displease you." ).私達の主よ,恩寵に因り(依り)私達を御助け下さい(わたくし たち の しゅ よ,おんちょう に より わたくし たち を お たすけ ください)( "Come to our aid, O Lord, with your grace, …" ).そして(然うして),貴方の僕(しもべ)達が貴方だけ(丈)(訳注後記・3・1 )と結んだ約束(訳注後記・3・2 )を破らない様に導いて下さい(そして,あなた の しもべ たち が あなた だけ と むすんだ やくそく を やぶらない よう に みちびいて ください)( "… and let not your servants break the pact which we have made with you alone." ).異教徒達の怒りと力が制圧為ようと為て居る私達や貴方の教会にどうぞ御慈悲を御与え下さい(いきょうと たち の いかり と ちから が せいあつ しよう として いる わたくし たち や あなた の きょうかい に どうぞ ご じひ を お あたえ ください)( "Have pity upon us, have pity on your Church, which the fury and strength of the infidels are even now preparing to oppress." ).異教徒達が基督(キリスト)教諸国の平穏を破ろうと為て居るのがたとえ私達自身の過ちに因る(依る)物だと為ても(いきょうと たち が きりすと きょう しょ こく の へいおん を やぶろう と して いる の が たとえ わたくし たち じしん の あやまち に よる もの だ と しても)( "Even if it is by our own fault that they have broken in on the serenity of these Christian countries, …" ),私達に降り掛(か)る(降り懸〈か〉る)あらゆる難事が私達自身の邪悪の結果柄来る物だと為ても(わたくし たち に ふりかかる あらゆる なんじ が わたくし たち じしん の じゃあく の けっか から くる もの だ と しても)( "… and even if all the ills coming upon us are none other than the consequence of our own wickedness, …" ),どうぞ私達に御慈悲を懸け続けて下さい(どうぞ わたくし たち に ご じひ を かけ つづけて ください)( "… still be propitious towards us,.善意に溢れる神よ…(ぜんい に あふれる かみ よ…)( "O God of all goodness, …" ),…どうぞ貴方の僕(しもべ)の為した行いを蔑まないで下さい(…どうぞ あなた の しもべ の なした おこない をさげすま ない で ください)( "… and despise not the work of your own hands." ).悪魔への隷属柄私達を救う為,貴方が貴重な御血の全てを流された事を思い起こして下さい(あくま へ の れいぞく から わたくし たち を すくう ため,あなた が きちょう な おんち の すべて を ながされた こと を おもい おこして ください)( "Remember how to save us from the slavery of Satan, you shed all of your Precious Blood." ).」
「貴方は基督教諸国が彼等犬共に踏み躙られるのを御許しに為るでしょうか?(あなた は きりすと きょう しょ こく が かれら いぬ ども に ふみ にじられる の を お ゆるし に なる で しょう か?)( " “Will you allow it to be trodden underfoot by these dogs ? " )貴方が情熱を以て散散苦労して救われた信仰と言う貴重な真珠を豚共に投げ与え踏み踏み潰される儘(侭)に為事等有り得るのでしょうか?(あなた がじょうねつ を もって さんざん くろう して すくわれた しんこう と いう きちょうな しんじゅ を ぶた ども に なげ つけ あたえ ふみ つぶされる まま に する こと など あり うる の で しょう か?)( "Can it be that you will permit the precious pearl of the faith, which you sought out with such zeal and rescued with so much suffering, to be thrown to these swine to be trampled on ? " )主よ,若し異教徒達が私達を圧倒為のを貴方が御許しに為れば,彼等は貴方の聖なる御名を貶め(しゅ よ,もし いきょうと たち が わたくし たち を あっとう する の を あなた が お ゆるし に なれば,かれら は あなた の せい なる おん な を おとしめ)( "Forget not, O Lord, that if you allow the infidels to prevail over us, they will blaspheme your holy Name …" ),貴方の権威を嘲笑い,『彼等の神,我等の手柄彼等を救えなかった力の無い神は何処に居るのだ?』と一千回も叫ぶ事に為るのを御忘れに為らないで下さい(あなた の けんい を あざ わらい,『かれら の かみ,われら の て から かれら を すくえなかった ちから の ない かみ は どこ に いる のだ?』と いっせんかいも さけぶ こと に なる の を お わすれ に ならないで ください)( "Forget not, O Lord, that if you allow the infidels to prevail over us, they will blaspheme your holy Name and mock your power, crying out a thousand times, “Where is their God, the God who was powerless to save them from our hands ?” " ).主よ,私達が悲しみと苦しみの余(り)貴方に御助けを求めて居る時に(しゅ よ,わたくし たち が かなしみ と くるしみ の あまり あなた に おん たすけ を もとめて いる とき に),オオカミ(狼)共の怒りに道を譲った等と非難を受けない様に為て下さい(おおかみ ども の いかり に みち を ゆずった など と ひなん を うけ ない よう に して ください)( "Let it not be held against you, O Lord, that you gave way to the fury of the wolves, just when we were calling upon you in our misery and anguish." ).諸諸の戦いの偉大な神よ,私達を助けに来て下さい!(もろもろ の たたかい の いだい な かみ よ,わたくし たち を たすけ に きて ください!)( "Great God of battles, come to our aid! " )貴方が私達の大義を支えて下されば,異教徒軍団は私達に害を及ぼす事は出来ないでしょう(あなた が わたくし たち の たいぎ を ささえて くだされば,いきょうと ぐんだん は わたくし たち に がい を およぼす こと は できない で しょう)( "If you favour our cause, the armies of the infidels cannot harm us." ).戦いを望んだ彼等を,どうぞ散り散りバラバラに為て下さい!(たたかい を のぞんだ かれら を,どうぞ ちりぢり ばらばら に して ください!)( "Scatter these people that have wanted war ! " )私達は,貴方及び私達自身,そして(然うして)隣人と平和な関係に留まる事以上の何も望みません…(わたくし たち は,あなた および わたくし たち じしん,そして りんじん と へいわ な かんけい に とどまる こと いじょう の なに も のぞみ ません…)( "For our part, we ask no more than to be at peace with you, with ourselves and with our neighbour...” " )」
(以上,祈りの内容)〈いじょう,いのり の ないよう〉
マルコの祈祷は続き(まるこ の きとう は つづき),基督(キリスト)教徒軍団の指揮官と兵士達が神の恩寵と旧約( "of the Old Testament" )の英雄達の精神(=霊)と勇気から力を得て(きりすと きょうと ぐんだん の しきかん と へいし たち が かみ の おんちょう と きゅうやく の えいゆう たち の せいしん〈=れい〉と ゆうき から ちから を えて)( "The prayer continues with the request for the Christian army's leaders and soldiers to be strengthened with God's grace, with the spirit and courage of the heroes of the Old Testament, " ),基督の御名に対する敵の野望を打ち砕き,虚(空)しい物と為(し)(きりすと の おん な に たいする てき の やぼう を うち くだいて むなしい もの と し),神の御力を御示しになる様祈願為ます(かみ の おん ちから を しめ される よう きがん します)( "so that they may reduce to nought the enemies of the Christian name, and show forth God's power. " ).神が基督教徒軍団の兵士達の信仰の徳 "faith",希望の徳(望徳)"hope",慈愛の徳(愛徳)"charity" を上(天)から見守られる様祈願します(かみ が きりすと きょうと ぐんだん の へいし たち の しんこう の とく,きぼう の とく〈ぼう とく〉,じあい の とく〈あい とく〉を うえ〈てん〉から み まもられる よう きがん します)( "Let God look down on the Christian soldiers' faith, hope and charity." ).マルコは神に代わって,戦いに赴く兵士達に神の御祝福を与えます(まるこ は かみ に かわって,たたかい に おもむく へいし たち に かみ の おん しゅくふく を あたえ ます)( "On His behalf Marco will bless them on their way to battle." ).(預言者)モーゼ "Moses" の様に,マルコは両腕を挙げ基督(キリスト)教徒軍団の兵士達に神の御祝福を与え,彼等の上に神の御加護を祈願します(〈よげん しゃ〉モーゼ の よう に,まるこ は りょう うで を あげ きりすと きょうと ぐんだん の へいし たち に かみ の おん しゅくふく を あたえ,かれら の うえ に かみ の ご かご を きがん します)( "Like Moses, Marco will lift his arms to bless the Christian soldiers." ).神が彼等に勝利を御与えに為り,神と兵士達の敵が滅びます様に.アメン(かみ が かれら に しょうり を お あたえ に なり,かみ と へいし たち の てき が ほろび ます よう に.あめん)( "May God grant them victory, and the ruin of His and their enemies, Amen." ).
此の祈願は「犬共」とか「豚共」等の表現を含んで居り,政治的に見れば何とも不適格です!何と人種差別的でしょうか!耐え難い物です!(この きがん は「いぬ ども」とか「ぶた ども」とう の〈など の〉ひょうげん を ふくんで おり,せいじ てき に みれば なん とも ふ てきかく です!なんと じんしゅ さべつ てき で しょう か!たえ がたい もの です!)( "How politically incorrect ! “Dogs” and “swine” – How racist ! Intolerable ! " )だが,神が基督教徒達に(世間をあっと驚かせるような)勝利を御与えに為り,イスラム教徒達を300年もの間撃退為たと言うのが事実です(だが,かみ が きりすと きょうと たち に せけん を あっ と おどろか せる よう な しょうり を お あたえ に なり,いすらむ きょうと たち を さんびゃくねん もの あいだ げきたい した と いう のが じじつ です.)( "But the fact is that God granted to the Christians a sensational victory which threw back the Muslims for 300 years." ).今イスラム教徒達は戻って来て居ます(いま いすらむ きょうと たち は もどって きて います)( "Now they are back." ).そして(然うして),今回も全能の神に御助けを求める事に良心の呵責等殆ど(殆んど)何も無いでしょう…(そして,こんかい も ぜんのう の かみ に おん たすけ を もとめる こと に りょうしん の かしゃく など ほとんど なに も ない で しょう…)( "And this time there is virtually no repentance left to call upon Almighty God..." )
キリエ・エレイソン. (「主よ,憐れみ給え」→ミサ聖祭中の「求憐誦」)
(きりえ・えれいそん〈→ギリシア語で「主よ,憐れみ給え」〉)
Kyrie eleison.
リチャード・ウィリアムソン司教
(りちゃーど・うぃりあむそん しきょう)
* * *
訳注・参考資料
カプチン修道会士マルコ・ダ・アヴィアノ神父( "Fr. Marco da Aviano" )の祈祷の
イタリア語原文
(各国語翻訳者宛に,ウィリアムソン司教より提供)
O grande Dio degli eserciti, guardaci prostrati qui ai piedi della tua maestà, per impetrarti il perdono delle nostre colpe.
Sappiamo bene di aver meritato che gl’infedeli impugnino le armi per opprimerci, perché le iniquità, che ogni giorno commettiamo contro la tua bontà, hanno giustamente provocato la tua ira. O gran Dio, ti chiediamo il perdono dall’intimo dei nostri cuori; esecriamo il peccato, perché Tu lo aborrisci; siamo afflitti perché spesso abbiamo eccitato all’ira la tua somma bontà. Per amore di Te stesso, preferiamo mille volte morire piuttosto che commettere la minima azione che ti dispiaccia. Soccorrici con la tua grazia, o Signore, e non permettere che noi tuoi servi rompiamo il patto che soltanto con te abbiamo stipulato. Abbi dunque pietà di noi, abbi pietà della tua Chiesa, per opprimere la quale già si preparano il furore e la forza degl’infedeli. Sebbene sia per nostra colpa ch’essi hanno invaso queste belle e cristiane regioni, e sebbene tutti questi mali che ci avvengono non siano altro che la conseguenza della nostra malizia, siici tuttavia propizio, o buon Dio, e non disprezzare l’opera delle tue mani. Ricordati che, per strapparci dalla servitú di Satana, Tu hai donato tutto il tuo prezioso Sangue.
Permetterai forse ch’esso venga calpestato dai piedi di questi cani? Permetterai forse che la fede, questa bella perla che cercasti con tanto zelo e che riscattasti con tanto dolore, venga gettata ai piedi di questi porci? Non dimenticare, o Signore, che, se tu permetterai che gl’infedeli prevalgano su di noi, essi bestemmieranno il tuo santo Nome e derideranno la tua potenza, ripetendo mille volte: “Dov’è il loro Dio, quel Dio che non ha potuto liberarli dalle nostre mani?” Non permettere, o Signore, che ti si rinfacci di aver permesso la furia dei lupi, proprio quando t’invocavamo nella nostra miserevole angoscia. Vieni a soccorrerci, o gran Dio delle battaglie! Se Tu sei a nostro favore, gli eserciti degl’infedeli non potranno nuocerci.Disperdi questa gente che ha voluto la guerra! Per quanto ci riguarda, noi non amiamo altro che essere in pace con Te, con noi stessi e col nostro prossimo.
Rafforza con la tua grazia il tuo servo e nostro imperatore Leopoldo; rafforza l’animo del re di Polonia, del duca di Lotaringia dei duchi di Baviera e di Sassonia, e anche di questo bell’esercito cristiano, che sta per combattere per l’onore del tuo Nome, per la difesa e la propagazione della tua santa Fede. Concedi ai príncipi e ai capi dell’esercito la fierezza di Giosué, la mira di Davide, la fortuna di Jefte, la costanza di Joab e la potenza di Salomone, tuoi soldati, affinché essi, incoraggiati dal tuo favore, rafforzati dal tuo Spirito e resi invincibili dalla potenza del tuo braccio, distruggano e annientino i nemici comuni del nome cristiano, manifestando a tutto il mondo che hanno ricevuto da Te quella potenza che un tempo mostrasti in quei grandi condottieri.
Fa’ dunque in modo, o Signore, che tutto cospiri per la tua gloria e onore, e anche per la salvezza delle anime nostre. Te lo chiedo, o Signore, in nome dei tuoi soldati. Considera la loro fede: essi credono in Te, sperano tutto da Te, amano sinceramente Te con tutto il cuore. Te lo chiedo anche con quella santa benedizione, che io conferirò a loro da parte tua, sperando, per i meriti del tuo prezioso Sangue, nel quale ho posto tutta la mia fiducia, che Tu esaudirai la mia preghiera.
Se la mia morte potesse essere utile o salutare, per ottenere il tuo favore per loro, ebbene te la offro fin d’ora, o mio Dio, in gradita offerta; se quindi dovrò morire, ne sarò contento. Libera dunque l’esercito cristiano dai mali che incombono; trattieni il braccio della tua ira sospeso su di noi, e fa’ capire ai nostri nemici che non c’è altro Dio all’infuori di Te, e che Tu solo hai il potere di concedere o negare la vittoria e il trionfo, quando ti piace. Come Mosé, stendo dunque le mie braccia per benedire i tuoi soldati; sostienili e appoggiali con la tua potenza, per la rovina dei nemici tuoi e nostri, e per la gloria del tuo Nome. Amen.
* * *
(訳注2・1)
「だらしない」「だらしがない」「だらしのない」の意味に就いて:下線部〈下記②の意味〉が今回の意味に該当する
・「だらしない」…「しだらない」の転.〔近世以降の語〕(「大辞林」より)
・「しだらない」の意味…しまりがない.だらしない.〔近世以降の語〕
・→「だらしない」…
①(外面的に)きちんとしていない.整っていない.
②(内面的に)節度がない.毅然としていない. しっかりしていない.
(用例)
①「だらしない服装」「だらしなく口を開けて寝ている」
②「金銭にだらしない」「政府の顔色を伺うマスコミのだらしない姿勢が問題だ」
(訳注2・2)
・「イスラム教」(「伊斯蘭教」,「回教」,「回回(フィフィ)教」)
・「イスラム教徒」(「伊斯蘭教徒」,「回教徒」・「回回〈フィフィ〉教徒」)
(訳注3・1)
「貴方だけ」…「たけ(丈)」からの転.〔江戸前期からの語〕
(訳注・3・2 )
the pact =旧約(きゅうやく)〈=預言者モーゼを介して真の神が神の被造物たる人間との間で結んだ「旧い契約』を参照.(「旧訳」ではなく,「旧約」.)
☆「新しい契約」(=「新約」→『新約聖書』を参照)
=神が人類と交わされた「新しい契約」という意味.
⇒救世主(=Christ, キリスト)となられた神の御独り子イエズスが,
救世の御業(きゅうせいのみわざ)を成し遂げられて,もたらされた.
(説明)
「神の御独り子の神」とは?…「真の神は三位一体」・「三位一体の神の第二の位格は,人類の主となられた「人となられた神イエズス・キリスト」
元始の人アダムとエワの犯した罪(=「真の神の命の原理(いのち の げんり)」に反逆すること)により,古今東西の全人類が,「原罪」(…「原罪」は死滅に値する)を持つ運命となった.
↓
新約聖書・使徒聖パウロによるローマ人への書簡:第5章12-21節を参照.
→真の神は全人類を創造された唯一の創造主であられ,
(まことの かみ は ぜん じんるい を そうぞう された ゆいいつ の そうぞうしゅ で あられ,)
・従って,古今東西の全人類は,生きて存在し続ける為,
(したがって,ここん とうざい の ぜん じんるい は,いきて そんざい し つづける ため,)
・真の神が全人類に命じておられる神の御命令→預言者モーゼによる「神の十戒」を,遵守する責務がある.
(まこと の かみ が ぜん じんるい に めいじて おられる かみ の おん めいれい→よげんしゃ もーぜ に よる「かみ の じっかい」を,じゅんしゅ する せきむ が ある.)
・上述の「責務」の意味する処は,即ち,「神の命令(モーゼの十戒)」は,原罪を背負った人類に対する,真の神からの罰ではなく,
(じょう じゅつ の「せきむ」のいみするところは,すなわち,「かみ の めいれい〈モーゼ の じっかい〉」は,げんざい を せおった じんるい に たいする,まこと の かみ から のばつ では なく,)
・原罪の瑕を生涯背負うことになってしまった人類に対する,真の神の愛と憐れみまた恩寵である,という現実である.
(げんざい の きず を しょうがい せおう こと に なって しまった じんるい に たいする,まこと の かみ の あい と あわれみ また おんちょう で ある,と いう げんじつ で ある.)
→「愛と命の起源で在られる全能の真の神」からの,瑕を負った人類に対する憐れみから発せられた恩寵である「神の御命令」に,もし人類が反逆するならば,万物の創造主たる唯一の真の神の慈愛と真理に逆らった廉(かど)で,
・全能の唯一の真の神により天を追放(てん を ついほう)され,地上に落とされた(ちじょう に おとされた)悪魔と同様(あくま と どうよう)
・現世での生命を終えて(げんせ で の せいめい を おえて)肉体が滅びると同時に(にくたい が ほろびる と どうじ に),
・人間は霊的にも滅亡(にんげん は れいてき に も めつぼう)し,その霊魂は永遠に地獄に堕ち(その れいこん は えいえん に じごく に おち),
・救霊の望みも断たれて永遠に滅亡の道を辿る(きゅうれい の のぞみ も たたれ て えいえん に めつぼう の みち を たどる)
→真の神に反逆(まことの かみに はんぎゃく)したままで,
・現世での生命を終えた霊魂の堕ちる地獄では,燃え盛る炎が(げんせ で の せいめい を おえた れいこん の おちる じごく では, もえさかる ほのお が),
・永遠に消えることがなく(えいえん に きえる こと が なく),そこに永遠に残存し苦しみ続けることになる(そこ に えいえん に ざんぞん し くるしみ つづける こと に なる).
・悪魔・諸諸の悪霊と同じ運命(あくま・もろもろの あくれいと おなじ うんめい)である.
→唯一の全能の真の神は
・「真の命の存在(まことの いのちの そんざい)」そのもので在られるから,
・その「真の命」の摂理(原理)・法則に逆らった者が命を失う(「まこと の いのち」の せつり〈げんり〉・ほうそく に さからった もの が いのち を うしなう)のは,自明の理(じめい の り)である.
✙神が「(モーゼの)十戒」と呼ばれる「神の掟(おきて)」を人間に守る様(にんげんに まもる よう)教えて(おしえて)おられるのは,
・人間が,滅(ほろ)びることなく,神より与えられた真の命(まことの いのち)を永遠に保ち,永遠に生き続ける(えいえんに たもち,えいえんに いきつづける)様になる為であり,
・人間を処罰(しょばつ)して永遠に滅ぼし去る為(えいえんに ほろぼし さる ため)ではない.
***
・人間には,真の神を冒涜して亡き者にする能力は無い.
(にんげん には,まこと の かみ を ぼうとく して なきもの に する のうりょく は ない.)
・また,真の神は全能の御方で在られ,御出来に為らない事は一つも無い.
(また,まこと の かみ は ぜんのう の おん かた で あられ,お でき に ならない こと は ひとつ も ない.)
・従って,全能唯一の真の神は,御自分が存在される為に,不完全な弱い人間に護ってもらう必要もない.
(したがって,ぜんのう ゆいいつ の まこと の かみ は,ごじぶん が そんざい される ため に,ふかんぜん な よわい にんげん に まもって もらう ひつよう も ない.)
・また,悪魔は,人間同様,神の被造物(=神に創造された物)に過ぎず,当然,万物の創造主であられる唯一の真の神よりも弱小の存在である.
(また,あくまは,にんげんどうよう,かみ の ひ ぞう ぶつ〈=かみ に そうぞう された もの〉に すぎ ず,とうぜん,ばんぶつ の そうぞう しゅ で あられる ゆいいつ の まこと の かみ より も じゃくしょう の そんざい で ある.)
・悪魔・悪霊は,永遠に真の神の摂理に反逆し,慈愛・善良なる神の創造された,世に在る全ての善良なる万物を破壊して真の神に反逆し続ける
(あくま・あくれいは,えいえん に まこと の かみ の せつり に はんぎゃく し,じあい・ぜんりょう なる かみ の そうぞう された,よ に ある すべて の ぜんりょう なる ばんぶつ を はかい して まこと の かみ に はんぎゃく し つづける).
・また真の神は,御自身の御独り子の神が,真の神の真実を全うする為に御自身の命を犠牲に差し出すという犠牲行為までも,御許しになった(御独り子の神イエズス・キリストの受難と十字架上の死).
・それ程に,始めの人アダムとエワの原罪の汚(けが)れを引き継いだままの,「原罪」の支払う「死の報酬」を運命に背負ったままの人間を,真の神は憐れまれた.
・人間は所詮,塵に過ぎない存在である.地上に生を受け,短期間,どんなに栄華を極めたとしても,どんなに深く人を敬愛しても,真心を注ぎ出しても,どれほど大宇宙の天体や大自然の美しさに心を打たれ,また美しい音楽や絵画等の芸術作品に心酔しても,生まれ出でて現世の美しさを知って後あっという間に時は過ぎ去り,虚しく死去して行く.
(にんげん は しょせん,ちり に すぎない そんざい で ある.ちじょう に せい を うけ,たんきかん,どんな に えいが を きわめた と しても,どんな に ふかく ひと を けいあい して も,こころ を そそぎ だして も,どれほど だい うちゅう の てんたい や だい しぜん の うつくしさ に こころ を うたれ,また うつくしい おんがく や かいが とう の げいじゅつ さくひん に しんすい して も,うまれ いでて げんせ の うつくしさ を しって のち あっ と いう ま に とき は すぎ さり,むなしく しきょ して ゆく.)
・真の光で在られる,真の神の御独り子なる神が,聖霊によって,現世において人の子(=童貞聖マリアの御子)として御宿りになり,御母(=聖母)マリアよりお生まれになり,現世において御受難・十字架上の死・御復活を通して,闇の権力(現世における悪魔の力.宇宙・地上〈=空中〉の支配者)を打ち破り,死滅をもたらす罪の鎖を解いたことで,救世(=この世が永遠の命を回復する事)の御業を成し遂げられた.
・こうして,この神の御独り子による救世の御業を信じる信仰によって,現世は救済され得る存在と変えられた.
✙「まだ見なくても,望みを抱いて信じる人」,「存在しないところから存在を生み出せる真の神は,死者をも復活させることがお出来になると信じる人」は,
・「(行いではなく)信仰による義人」「信仰の父」と真の神に認められ,
・また「あなたとあなたの子孫が,この世の世継ぎとなる」と,真の神に約束された,真の信仰の父祖アブラハムと同じ民族とみなされる.アブラハムは古今東西のすべて信仰を守る人の父である.
→新約聖書・使徒・福音史家の聖ヨハネによる聖福音書の冒頭(第1章)によれば,神の御目から見た「真の人間」とは,「ただ神によって生まれた人々」を指す.
『1 *はじめにみことばがあった.みことばは神とともにあった.みことばは神であった.
2 みことばははじめに神とともにあり,
3 *万物はみことばによって創られた.創られた物のうちに,一つとしてみことばによらずに創られたものはない.
4 みことばに生命があり,生命は人の光であった.
5*光はやみ(闇)に輝いたがやみはそれを悟らなかった.
6 さて,神から遣わされた人がいて,その名をヨハネと言った.
7 この人は,光を証明するために,またすべての人が彼によって信じるために,証人として来た.
8 この人は光ではなく,光を証明するために来た.
9 *すべての人を照らすまことの光は,まさにこの世に来るところであった.
10 みことばは世にあり,世はみことばによって創られたが,世はそれを認めなかった.
11 *みことばはご自分の家に来られたが,その人々は受け入れなかった.
12 しかし,その方を受け入れた人々にはみな神の子となれる力を授けた.そのみ名を信じるすべての人たち,
13 *彼らは,血筋ではなく,肉体の意志ではなく,人の意志ではなく,ただ神によって生まれた人々である.
14 みことばは肉体となって,私たちのうちに住まわれた.私たちはその栄光を見た.それは,御独り子として御父から受けられた栄光であって,恩寵と真理に満ちておられた.
15 ヨハネは彼を証明し,「〈私のあとに来るお方は,私よりすぐれた方で,私より前に存在しておられた〉と言ったのはこの方のことだ」と宣言した.
16 そうだ,私たちはその満ちあふれるところから恩寵に次ぐ恩寵を受けた.
17 なぜなら,律法はモーゼを通じて与えられたが,恩寵と真理はイエズス・キリストによって私たちの上に来たからである.
18 神を見た人は一人もいない.御父のふところにまします御独り子の神がこれを示された.』
…ヨハネによる福音書:第1章1-18節
(注釈)
*後日,追補いたします.
* * *
新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第4章13-
→
『13 *実に,この世の世継ぎとなるという約束がアブラハムとその子孫に与えられたのは,律法(による行い)によるのではなく信仰の義によってである.
14 …
15 律法は神の怒りを招く.律法のないところには違反もないからである.
16 つまり,義とされるのは信仰による.それだから無償の賜である.こうして約束はすべての子孫に,すなわち律法を持つ人だけでなく,アブラハムの信仰をもつ人にも保証される.彼アブラハムは私たちみなの父である.
17 「私はあなたを多くの民の父と定めた」と書き記されているとおりである.死者を生かし,存在しないものを存在させられるところの,彼が信じた神のみ前に,アブラハムは私たちみなの父である.
18 *望みなきときにもなお望みを捨てず信じた彼は,多くの民の父となった.「あなたの子孫はこうであろう」と言われたとおりである.
19 そして,もう百歳ほどになって死んだような自分の体と死んだようなサラ(=アブラハムの妻)の胎(たい)を思ったけれども,その信仰は弱らなかった.
20 不信仰によって神の約束を疑うことをせず,信仰に強められて神に光栄を帰し,
21 その約束されたことを成し遂げる力があるとまったく信じた.
22 それがために,彼の信仰は義とされた.
23 「義とされた」と記されたのはアブラハムのためだけでない,
24 私たちのためでもある.*主イエズスを死者からよみがえらせたお方を信じる私たちのためでもある.
25 主は私たちの罪のためにわたされ,私たちを義とするためによみがえられた.』
(注釈)
*13 新約聖書・使徒聖パウロのガラツィア人への書簡:第3章16節参照.
*17 創世の書・第17章5節を参照.神の全能をよく表す創造の力をほのめかし,24節のキリスト復活のことをここから準備している.
*18 アブラハムは老齢で,子をもうける希望がなかったのに,なお神の約束を信じていた.
*24 アブラハムの信仰の土台は,死者を生かす神であった.キリスト信者の信仰の土台は,イエズスをよみがえらせた神である.
第5章1-11節「義とされるのは信仰による」
『信仰によって義とされた私たちは,主イエズス・キリスト(=救世主)によって神と和解している.
私たちは主によって,(*信仰によって),今保っている恩寵にあずかり,また神の光栄に希望をかけて誇る.
そればかりでなく患難を誇る.患難は根気を生み,
根気は鍛錬された徳を生み,鍛錬された徳は希望を生むことを知っているからである.
希望はあざむかない.私たちに与えられた聖霊によって,この心に神の愛が注がれたからである.
私たちがまだ病んでいたその時,キリスト(=救世主)は定めの時に,不敬な人々のために亡くなられた.
実に義人のために死ぬ人は少ない.そうだ,善人のために死をいとわない人はあるかもしれぬ.
だが私たちがまだ罪人であった時,キリストが私たちのために死去されたことによって,神は私たちへの愛を示された.
いま,その御血によって義とされた私たちは,なおさら主によって神の怒りから救われるのである.
私たちが敵であったのに,み子の死によって神と和睦を取り戻したのなら,和睦したのちキリストの命によって救われるのはなお確かである.
そればかりか私たちは,いま和睦を得た主イエズス・キリストによって,神において誇る.』
(この後,「イエズスはアダムの罪をあがなった」〈第5章12-21節〉の件〈行.くだり〉へ,続く)
* * *
✾地上で「肉体の死」を迎えると
→(「四旬節」が始まる「灰の水曜日」に唱えられる「人よ,あなたは塵(ちり)であって,塵に帰る」との預言の御言葉通り),
・地上にて新たな生命を産み出す事を繰り返しながらも死んで滅びて行くしかない,
→そのような人生を代々に繰り返しつつ,
・永久に現世の続く限り,その死滅すべき運命を背負いつつ,出生・存在また死滅を繰り返し,し続けて行かなければならなくなってしまった人間を,
→真の神は深く憐れまれた.
・始めの人アダムとエワによって,真の神の真実につけられた原罪の瑕(げんざい の きず)は,
・神御自身の真実(すなわち,御独り子の神が悪〈罪〉の犠牲となって苦しまれお流しになった真の聖い御身体と御血.)
→この尊い御身体と御血すなわち「原罪」の汚れ〈けがれ〉の無い,世に唯一,至聖なる神の御独り子兼救世主の御身体と御血)によって,報われ,回復される他になかった.
・「御独り子の神」とは「人となられた神」すなわち三位一体の第二位格の神「イエズス・キリスト」を指す.
・唯一の,万物の創造主で在られる全能永遠の唯一の真の神は,永遠の愛で在られ,永遠の光で在られ,永遠の命で在られ,また,永遠の善なる御方で在られる.
(ゆいいつ の, ばんぶつ の そうぞうしゅ で あられる ぜんのう えいえん の かみ は,えいえん のあい で あられ,えいえん の ひかり で あられ,えいえん の いのち で あられ,また,えいえん のぜん なる おんかた で あられる.)
・唯一の真の神は(ゆいいつ の まこと の かみは),永遠かつ完全なる慈愛・命・光・善をもって,その摂理のもとに(えいえん かつ かんぜん なる じあい・いのち・ひかり・ぜん を もって,その せつり の もと に),万物を創造された(ばんぶつ を そうぞう された)
・現世における人生で,人はみな,この愛と命そのもので在られる真の神から創造されて,生まれて来ているのであるから,
・罪を犯して,神から自分に与えられた貴重な命を落とすようなことを選び取ってはならない
・真の神が犠牲に差し出された御独り子の神(人となられた神,救世主となられた神)で,私達人類の主(しゅ)イエズス・キリストが,十字架上で流された聖なる(=罪の汚れの無い)御血のみが,私達人間を原罪の呪縛から解放し救済することが出来た,という事実を,今信じる人の命は,回復される.
・なぜ十字架かといえば,救世主の御受難当時,ユダヤ地方を支配していたローマ帝国の極刑が十字架刑であったからである.
・真の神なる救世主は,一つも罪を犯さなかったが,最も残酷な刑罰と言われていた十字架刑に処された.
・当時,自ら刑罰を科すことをローマ皇帝より禁じられていた,ユダヤ教当局者達が,救世主(=キリスト)イエズスに対する自らの妬みの為,
・当時ユダヤ地方を治めていたローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに,イエズスを十字架刑に処すよう願い出た.
・ピラトはイエズス尋問の結果,何の罪も見出さなかったが,イエズスがユダヤ教当局者達に引き渡されたのは,妬みの為だと読み取っていたので,何とかイエズスを救おうとしたが,ユダヤ教当局者達は,群衆を扇動してピラトに圧力をかけさせ,イエズスの十字架刑を執行させた.
・ピラトは,ヘブライ語・ラテン語・ギリシア語で「ユダヤ人の王ナザレトのイエズス(I.N.R.I.)」と
はり札を書いて,十字架上にかかげさせた.
・救世主は,ユダヤ人から出たが,それは,真の神が,アブラハムを「信仰の父」としてユダヤ人の父祖と認められたからである.
✙新約聖書・「使徒聖パウロのローマ人への書簡:第4章16-18節」より
・「(アブラハムは)「望みなきときにもなお望みを捨てず信じた.」「その信仰により,アブラハムは(真の神に)義人と認められた.」
・「(真の神に)…義とされるのは信仰による.それだから無償の賜(たまもの)である.」
・そして,『…この世の世継ぎとなる,と神がアブラハムとその子孫に御約束された,その同じ御約束が,アブラハムの信仰を持つ人にも保証される.』(13-16節)
・「死者を生かし,存在しないものを存在させられるところの,彼が信じた神のみ前に,アブラハムは私たちみなの父である.」
***
✙参考文献…
・新約聖書・旧約聖書
・神の御独り子また救世主であられる主イエズス・キリストの
使徒および福音史家聖ヨハネによる
「聖ヨハネの黙示録」を参照.
(訳注の掲載を続けます)
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本投稿記事・第435回エレイソン・コメンツ「頑固な異教徒」( 2015年11月14日付)(解説付き版) "ELEISON COMMENTS CDXXXV (Nov. 14, 2015) : DOGGED INFIDELS" は2015年12月8日20時50分に掲載されました.
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(解説無し)
エレイソン・コメンツ 第435回 (2015年11月14日)
欧州(ヨーロッパ)が信仰を持っていた時には
イスラム教徒の大群を打ち負かせました.
だが,今はどうでしょうか? ― 延延と退却です.
When Europe had the faith, it could defeat
The Muslim hordes, but now ? – one long retreat.
衰退するキリスト教世界の遺物はいま,千年に及ぶ神の敵によって組織され,西側諸国のだらしない政治家たちや堕落したメディアに支えられたイスラム教徒たちの侵略に直面しています.このような事態を前に,過去いかにしばしばキリスト王国(救世主の王国)がイスラムの侵略に脅かされたか,そしてキリストの王国(=真の救世主の王国)がその都度神に目を向けることによりいかに自らを守ってきたかを振り返るのは有意義なことでしょう.1683年の夏,15万から30万人というイスラム軍団兵士たちがウイーンを包囲し,南東からヨーロッパ全土を飲み込もうとしました.イスラム教徒たちはイスラム教の誇りをかけてローマを奪回しようとさえしました。この時,高徳な(=聖人のように気高い) "saintly" カプチン修道会士マルコ・ダ・アビアノ神父( "Fr. Marco da Aviano" )の助けを受け,教皇インノケンティウス10世はヨーロッパ数か国から成るキリスト軍団を組織してウイーンを救いました.以下は修道士マルコが戦いの直前に捧げた祈りの内容です:--
As the faltering remains of Christendom face today a Muslim invasion organized by the millennial enemies of God, and made possible by the Western nations' wretched politicians and vile media, it is well to remember how often in times past Christendom was threatened by Muslim invasions, and how Christendom then defended itself, by turning to God. In the summer of 1683, a huge Muslim army of anything from 150 to 300 thousand soldiers besieged Vienna and threatened to engulf Europe from the south-east. The Muslims even envisaged capturing Rome, for the glory of Islam.
With the help of a saintly Capucin, Fr. Marco da Aviano, Pope Innocent XI succeeded in putting together a Christian army from several European nations to relieve Vienna. Here is the prayer of the Capucin just before the battle:--
「おお万軍の神なる主よ,私たちの諸諸の罪のお赦しを乞うため,私たちがあなたの足元にひざまずく姿をご照覧ください.異教徒たちが武器を手にして私たちを弾圧することになったのは私たちが受ける当然の報いだと私たちには十分に分かっています.なぜなら,あなたの親切心を前に私たちが日々行った非行の数々がまさしくあなたのお怒りを招いたからです.おお偉大な神よ,私たちは心の奥底からあなたのお赦しを乞います.私たちはあなたが嫌う罪を嫌います.私たちはあなたの至高なる善意を何度となく無にしたため悩み苦しんでいます.あなたの愛を得るためなら,私たちは小さな行いであなたを不快にさせるより,むしろ千回も死んだ方がましだと考えます.私たちの主よ,恩寵により私たちをお助けください.そして,あなたの僕(しもべ)たちがあなただけと結んだ約束を破らないように導いてください.異教徒たちの怒りと力が制圧しようとしている私たちやあなたの教会にどうぞご慈悲をお与えください.異教徒たちがキリスト教に従う諸国の平穏を破ろうとしているのがたとえ私たち自身の過ちによるものだとしても,私たちに降りかかるあらゆる難事が私たち自身の邪悪の結果から来るものだとしても,どうぞ私たちにご慈悲をかけ続けてください.善意にあふれる神よ,どうぞあなたの僕(しもべ)のなした行いをさげすまないでください.悪魔への隷属から私たちを救うため,あなたが貴重な御血のすべてを流されたことを思い起こしてください.」
“O Lord God of Hosts, Behold us prostrate at the feet of your Majesty, to obtain forgiveness for our sins. Well do we know how we have deservedthat the infidels take up arms to oppress us, because the iniquities committed by us every day against your goodness have justly provoked your wrath. O great God, from the depth of our hearts we ask you to forgive us; we execrate sin because you abhor it; we are afflicted because we have often angered your supreme goodness.For love of you we would rather die a thousand times than commit the least act to displease you. Come to our aid, O Lord, with your grace, and let not your servants break the pact which we have made with you alone. Have pity upon us, have pity on your Church, which the fury and strength of the infidels are even now preparing to oppress. Even if it is by our own faultthat they have broken in on the serenity of these Christian countries, and even if all the ills coming upon us are none other than the consequence of our own wickedness, still be propitious towards us, O God of all goodness, and despise not the work of your own hands. Remember how to save us from the slavery of Satan, you shed all of your Precious Blood.
「あなたはキリストの王国が彼ら犬どもに踏みにじられるのをお許しになるでしょうか?あなたが情熱をもってさんざん苦労して救われた信仰という貴重な真珠を豚どもに投げ与え踏みつぶされるままにすることなどありうるのでしょうか?主よ,もし異教徒たちが私たちを圧倒するのをあなたがお許しになれば,彼らはあなたの聖なる御名をおとしめ,あなたの権威を嘲笑い,『彼らの神,われらの手から彼らを救えなかった力のない神はどこにいるのだ?』と叫ぶことになるのをお忘れにならないでください.主よ,私たちが悲しみと苦しみのあまりあなたに助けを求めているときに,オオカミどもの怒りに道を譲ったなどと非難を受けないようにしてください.諸諸の戦いの偉大な神よ,私たちを助けにきてください!あなたが私たちの大義を支えてくだされば,異教徒軍団は私たちに害を及ぼすことはできないでしょう.戦いを望んだ彼らを,どうぞ散り散りバラバラにしてください!私たちは,あなたおよび私たち自身,そして隣人と平和な関係にとどまること以上の何も望みません.」
“Will you allow it to be trodden underfoot by these dogs ? Can it be that you will permit the precious pearl of the faith, which you sought out with such zeal and rescued with so much suffering, to be thrown to these swine to be trampled on ? Forget not, O Lord, that if you allow the infidels to prevail over us, they will blaspheme your holy Name and mock your power, crying out a thousand times, “Where is their God, the God who was powerless to save them from our hands ?” Let it not be held against you, O Lord, that you gave way to the fury of the wolves, just when we were calling upon you in our misery and anguish. Great God of battles, come to our aid! If you favour our cause, the armies of the infidels cannot harm us. Scatter these people that have wanted war ! For our part, we ask no more than to be at peace with you, with ourselves and with our neighbour...”
(以上,祈りの内容)
マルコの祈りは続き,キリスト教徒軍団の指揮官と兵士たちが神の恩寵と旧約の( "of the Old Testament" )英雄たちの精神(=霊)と勇気から力を得て,キリストの名に対する敵の野望を打ち負かして虚(空)しいものとし,神の力を示すよう願います.神がキリスト教徒軍団の兵士たちの信仰の徳,希望の徳,慈愛の徳を上(天)から見守るよう祈ります.マルコは神に代わって,戦いに赴く兵士たちを祝福します.神が兵士たちに向けて振り上げた激しい怒りの手を引込め,神の敵たちが彼以外に神がいないことを知るようにしてくださいと祈ります.モーゼのように,マルコは両腕を挙げキリスト教軍団の兵士たちへの神のご加護を祈ります(祝福を与えます).神が彼らに勝利をお与えになり,神とその兵士たちの敵が滅びますように.アーメン.
The prayer continues with the request for the Christian army's leaders and soldiers to be strengthened with God's grace, with the spirit and courage of the heroes of the Old Testament, so that they may reduce to nought the enemies of the Christian name, and show forth God's power. Let God look down on the Christian soldiers' faith, hope and charity. On His behalf Marco will bless them on their way to battle. Let God hold back the arm of his wrath raised over them, and let His enemies know that there is no other God beside Him. Like Moses, Marco will lift his arms to bless the Christian soldiers. May God grant them victory, and the ruin of His and their enemies, Amen.
この祈りは――「犬ども」とか「豚ども」などの表現を含んでおり――政治的に見ればなんとも不適格です! なんと人種差別的でしょうか! 耐えがたいものです! だが,神がキリスト教徒たちに世間をあっと驚かせるような勝利( "a sensational victory" )をお与えになり,イスラム教徒たちを300年ものあいだ撃退したというのが事実です.今イスラム教徒たちは戻ってきています.そして,今回も全能の神に助けを求めることに良心の呵責などほとんどなにもないでしょう…
How politically incorrect ! “Dogs” and “swine” – How racist ! Intolerable ! But the fact is that God granted to the Christians a sensational victory which threw back the Muslims for 300 years. Now they are back. And this time there is virtually no repentance left to call upon Almighty God...
キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.
リチャード・ウィリアムソン司教
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本投稿記事・第4回エレイソン・コメンツ「頑固な異教徒」(「 2015年11月14日付)"ELEISON COMMENTS CDXXXV (Nov. 14, 2015) : DOGGED INFIDELS" は2015年12月1日20時55分に掲載されました.
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