エレイソン・コメンツ 第358回 (2014年5月24日)
1870年の教皇の無謬性に関する定義(せん はっぴゃく ななじゅう ねんの きょうこうの むびゅうせいに かんする ていぎ)について,ニューマン枢機卿(にゅうまん すうききょう)はいみじくも「これは教皇をありのまま認める(みとめる)ものである」と評(ひょう)しておられます( "To Cardinal Newman is attributed a wise comment on the 1870 definition of Papal infallibility: “It left him as it found him." ).まさしく,この定義は教皇の誤りなく教え導く権限(きょうこうの あやまりなく おしえ みちびく けんげん)になんら変更を加える(へんこうを くわえる)ものではありません( "Indeed that definition will have changed nothing in the Pope’s power to teach infallibly, …" ).なぜなら,教皇の教導権(きょうこうの きょうどうけん)は神の真の教会(かみの まことの きょうかい)がその最高教導権(さいこう きょうどうけん)を行使する限り(こうし する かぎり)過ち(あやまち)をしないよう神が守って(かみが まもって)くださるという教会の本質に根差す(きょうかいの ほんしつに ねざす)ものだからです( "… because it belongs to the nature of God’s true Church that God will protect it from error, at least when its supreme teaching authority is engaged." ).そうした教会のあらゆる教導権行使(きょうどうけん こうし)は今(いま)では,教会の「特別教導権(とくべつ きょうどうけん)」( “Extraordinary Magisterium” )と称(しょう)されていますが( "All such engagement is now called the Church’s “Extraordinary Magisterium”, …" ),1870年当時(せん はっぴゃく ななじゅう ねん とうじ),それは「通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)」( “Ordinary Universal Magisterium” )と同(おな)じように,新しい名称(あたらしい めいしょう)でした( "… but only the name can have been new in 1870, just like the name of the “Ordinary Universal Magisterium”." ).もし,第一バチカン公会議(だいいち ばちかん こうかいぎ)が通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)も無謬(むびゅう)であると宣言(せんげん)したとしたら( "If Vatican I declared the latter also to be infallible, …" ),それは教会が始まった(きょうかいが はじまった)ときからそうだったに違い(ちがい)ありません( "… it must also have been so from the beginning of the Church." ).特別教導権や通常普遍教導権の実態(じったい)がどういうものなのかを理解(りかい)するため,教会の始まりの時期(きょうかいの はじまりの じき)に立ち戻って考えて(たちもどって かんがえて)みましょう( "To discern the realities behind the names, let us go back to that beginning." ).
私たちの主(イエズス・キリスト)(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)は天国に昇られる前(てんごくに のぼられる まえ)に,天与の無謬性をもって(てんよの むびゅうせいを もって),使徒たち(しと たち)に世の終わり(よの おわり)まで(新約聖書・マテオ聖福音書:第28章19-20を参照〈さんしょう〉)教会にそのまま遺される(きょうかいに そのまま のこされる)ことになる一連の教理(いちれんの きょうり)を委託(=委任・預託)されました(いたく〈=いにん・よたく〉されました)( "By the time Our Lord ascended to Heaven, he had with his divine infallibility entrusted to his Apostles a body of doctrine which they were to hand down intact to his Church to the end of the world (Mt. XXVIII, 19-20), …" )(訳注後記1・その1).その教理(きょうり)はあらゆる人々(ひとびと)が天罰により(地獄に)堕落する苦痛(てんばつ により じごくに だらくする くつう)(=真の神〈まことのかみ〉により地獄に落とされ霊魂を滅ぼされる〈じごくに おとされ れいこんを ほろぼされる〉)を恐れ信じる(おそれしんじる)というものでした(新約聖書・マルコ聖福音書:第16章15-16節を参照)( "… doctrine which all souls were to believe on pain of damnation (Mk. XVI, 15-16). " )(訳注後記1・その2).神は偽りを信じようとしない人間(いつわりを しんじようと しない にんげん)を永遠(えいえん)に地獄に落ちたまま(じごくに おちたまま)にできないので,この信仰の遺産(しんこうの いさん),すなわち公的啓示(こうてき けいじ)( “Deposit of the Faith, or public Revelation” )を善意の人々(ぜんいの ひとびと)にとって理解(りかい)でき,近(ちか)づきやすいものにしなければならなかったのです( "This Deposit of the Faith, or public Revelation, God was bound to make recognisable and accessible to souls of good will, because obviously the true God could never condemn eternally a soul for refusing to believe in an untruth. " ).この遺産(いさん)は主(イエズス・キリスト)の最後の使徒が亡くなる(しゅ いえずす・きりすとの さいごの しとが なくなる)まで無謬かつ完全無欠(むびゅう かつ かんぜんむけつ)でした( "By the death of the last Apostle this Deposit was not only infallible but also complete." ).
では,使徒(しと)たちがいた頃(ころ)から今日(こんにち)まで,神はあらゆる聖職者(せいしょくしゃ)たちが間違った(まちがった)ことを教(おし)えないよう見守って(みまもって)きたのでしょうか?( "Then from the Apostles onwards would God protect all churchmen from ever teaching error ? " ) 決(けっ)してそうではありません( "By no means." ).主は私たちに「偽(にせ)預言者」(新約聖書・マテオ聖福音書:第7章15節を参照)に気をつけるよう警告(きをつける よう けいこく)されましたし( "Our Lord warned us to beware of “false prophets” (Mt. VII, 15), …" )(訳注後記1・その3),同(おな)じように聖パウロも「飢え狂う狼(うえ くるう おおかみ)」に注意するよう警告(ちゅうい するよう けいこく)されました(新約聖書・使徒行録:第20章29-30節を参照)( "… and St Paul likewise warned against “ravening wolves” (Acts, XX, 29-30)." )(訳注後記1・その4).だが,神は誤りを犯す牧者たち(あやまりを おかす ぼくしゃたち)が羊たち(ひつじたち)にもたらすそのような危険(きけん)をどうしてお認(みと)めになるのでしょうか?( "But how could God permit such a danger to his sheep from erring pastors ? " ) その理由(りゆう)は,神が天国に来てほしいと望む(かみが てんごくに きてほしいと のぞむ)のはロボット牧者たちやロボット羊たち(ろぼっと ぼくしゃ たちや ろぼっと ひつじたち)ではなく( "Because he wants for his Heaven neither robot pastors nor robot sheep, …" ),真実を教え,真実に従う(しんじつを おしえ,しんじつに したがう)ために神から授けられた心や自由意志(かみから さずけられた こころや じゆう いし)を行使する牧者や羊(こうしする ぼくしゃたち や ひつじたち)だからです( "… but pastors and sheep that will both have used the mind and free-will he gave them to teach or follow the Truth." ).もし多くの牧者(おおくの ぼくしゃ)たちが裏切る(うらぎる)なら( "And if a mass of pastors betray, …" ),神はいつでも,例(たと)えば,聖アタナシウス(せい あたなしうす)やルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)のような人物(じんぶつ)を起こし遣わし(おこし つかわし)( "… he can always raise a St Athanasius or an Archbishop Lefebvre, for instance, …" ),人々(ひとびと)がいつでも無謬の真実に近づけるよう(むびゅうの しんじつに ちかづける よう)になさいます( "… to ensure that his infallible Truth remains always accessible to souls." ).(訳注・「牧者(ぼくしゃ)たち "pastors" 」=歴代教皇(れきだい きょうこう)〈および世界各地の歴代司教〈せかいかくちの れきだい しきょう〉,「羊(ひつじ)たち」=世界の司祭〈せかいの しさい〉たち)(訳注後記1・引用聖書の掲載〈いんよう せいしょの けいさい〉)(訳注後記2・「真実(しんじつ)」について)
それでも,主(イエズス・キリスト)が遺された信仰の遺産(しゅ いえずす・きりすと が
のこされた しんこうの いさん)は絶え間(たえま)なく飢え狂う狼の危険(うえ くるう おおかみの きけん)に晒(さら)されており( "Nevertheless that Deposit will be unceasingly exposed to ravening wolves, …" ),それに間違いを付け加えられたり(まちがいを つけくわえられ たり),そこから真実を減らされたり(しんじつを へらされ たり)します( "… adding error to it or subtracting truth from it." ).では,神はどうやってそれを守り続けられるのでしょうか?( "So how will God still protect it ? " ) 教皇がその教導権に属するものと属しないもの(その きょうどうけんに ぞくするものと ぞくさないもの)を明確にする(めいかくに する)ため,教導権の定める4条件(きょうどうけんの さだめる よんじょうけん)すべてに従う(したがう)ことを保証する(ほしょうする)ことにより( "By guaranteeing that whenever a Pope engages all four conditions of his full teaching authority to define what does and does not belong to it, …" ),彼は間違いを犯さないよう神から守られ(かれは まちがいを おかさないよう かみ から まもられ)ます ―( "…he will be divinely protected from error – …" ).これは今日,特別教導権と称される(こんにち とくべつ きょうどうけんと しょうされる)ものです.(この特別教導権〈とくべつきょうどうけん〉は通常普遍教導権を前提〈つうじょう ふへん きょうどうけんを ぜんてい〉とするものであり,それ自体(じたい)が真実や無謬性を増大(しんじつや むびゅうせいを ぞうだい)することはなく,ただ私たち人類により大きな確実性をもたらすだけである点に注目してください.)( "… what we call today the “Extraordinary Magisterium”. (Note how this Extraordinary Magisterium presupposes the infallible Ordinary Magisterium, and can add to it no truth or infallibility, but only a greater certainty for us human beings.) " )しかし,教皇(きょうこう)が4条件(よん じょうけん)のいずれかに従わない(したがわない)としても( "But if the Pope engages any less than all four conditions, …" ),そのときには彼の教え(かれの おしえ)は主(しゅ)(イエズス・キリスト)の遺された遺産(のこされた いさん),すなわち今日(こんにち),通常普遍教導権(つうじょう ふつう きょうどうけん)と称(しょう)されるものに合致する限り無謬(がっち するかぎり むびゅう)でしょう( "… then his teaching will be infallible if it corresponds to the Deposit handed down from Our Lord – today called the “Universal Ordinary Magisterium”, …" ).だが,その教えが遺産(いさん)すなわち伝統の範囲内(でんとうの はんい ない)にない場合(ばあい),それは無謬(むびゅう)でなくなります( "but fallible if it is not within that Deposit handed down, or Tradition. " ).伝統から外れると(でんとうから はずれると),教皇の教え(きょうこうの おしえ)は真実(しんじつ)のときもあるでしょうし誤り(あやまり)のときもあるでしょう( "Outside of Tradition, his teaching may be true or false." ).
したがって,私たちの主(イエズス・キリスト)(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)が伝統を権威づけ(でんとうを けんいづけ),その伝統が教導権を権威づける(でんとうが きょうどうけんを けんい づける)わけですから,悪循環(あくじゅんかん)などありません(先週(せんしゅう)のエレイソン・コメンツ〈エレイソン・コメンツ〉357号〈さんびゃく ごじゅう なな ごう〉をご覧〈ごらん〉ください)( "Thus there is no vicious circle (see EC 357 of last week) because Our Lord authorised Tradition and Tradition authorises the Magisterium." ).確か(たしか)に,なにが伝統に属するか(なにが でんとうに ぞくするか)を毅然と宣言(きぜんと せんげん)するのは教皇の職務(きょうこうの しょくむ)です( "Indeed it is the function of the Pope to declare with authority what belongs to Tradition, …" ).そして職務を果たすに当たり(しょくむを はたすに あたり),その権限に完全に従う場合(その けんげんに かんぜんに したがう ばあい),教皇は誤りを犯さない(きょうこうは あやまりを おかさない)よう神から見守(みまも)られます( "… and he will be divinely protected from error if he engages his full authority to do so, …" ).だが,教皇は伝統から外れた宣言(でんとうから はずれた せんげん)を出す(だす)ことができます( "… but he can make declarations outside of Tradition, …" ).ただし,その場合(ばあい),彼が神に見守られる(かれが かみに みまもられる)ことはありません( "in which case he will have no such protection." ).ところで,宗教の自由(しゅうきょうの じゆう)やエキュメニズム(えきゅめにずむ)といった第二バチカン公会議の目新しさ(だいに ばちかん こうかいぎの まあたらしさ)は教会伝統(きょうかい でんとう)から大きくかけ離れた(おおきく かけはなれた)ものです( "Now the novelties of Vatican II such as religious liberty and ecumenism are way outside of Church Tradition." ).したがって,それは教皇の通常教導権,特別教導権(きょうこうの つうじょう きょうどうけん,とくべつ きょうどうけん)のいずれにも入らない(はいらない)ものです( "So they come under neither the Pope’s Ordinary nor his Extraordinary Magisterium, …" ).そして公会議派教皇たち全員(こうかいぎは きょうこうたち ぜんいん)の言う(いう)ばかげたことのために,カトリック信徒の一人(かとりっく しんとの ひとり)たりともリベラル派や教皇空位論者(りべらるは や きょうこう くうい ろんじゃ)になる必要(ひつよう)などまったくありません(訳注・=公会議派歴代教皇の全員(こうかいぎは れきだい きょうこうの ぜんいん)が,どのカトリック教徒〈かとりっくきょうと〉に対してもリベラル派か教皇空位論者のいずれかになるよう義務付け得ない(ぎむづけえない)(=強制〈きょうせい〉する)ことはできない).なぜなら,神たる主イエズス・キリスト(かみ たる しゅ いえずす・きりすと)からの権威(けんい)によって立っていないから.)( "… all the nonsense of all the Conciliar Popes oblige no Catholic to be either a liberal or a sedevacantist." ).
キリエ・エレイソン.
伝統は教皇たちを推し量る尺度
(でんとうは きょうこうたちを おしはかる しゃくど)
( "Tradition is of Popes the measuring-rod" )
伝統こそが神のみから
初めに授けられたものだから
(でんとう こそが かみ のみ から
はじめに さずけられた もの だから)
( "Because it came at first only from God." )
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
◇訳注1
聖書の引用箇所(いんよう かしょ)の掲載
(注・全訳注の最後に追加掲載いたします)
◇訳注2
「真実」について
I. 通常の人間社会(日本など自由主義国における場合)
"in human community, society":
・「真実(しんじつ)」=「真理(しんり)」→「真の理(まことの ことわり)」
→「事実"fact"」(人の目に見える事実によって判断する.)↓
・「真(まこと)」=
①うそやいつわりでないこと.
②いつわりのない心.人に対してよかれと思う心〈こころ〉.まごころ.
誠意.真情(a いつわりのない心.まごころ.b 真の状態〈じょうたい〉.
実情〈じつじょう〉).
・「理(ことわり)」=もっともな事,道理,条理.
→「もっともな」=道理(どうり)合(あ)っているさま.
当然(とうぜん)で」あるさま.
→「どうり(道理)」
="reason"
①物事(ものごと)がそうあるべきすじみち.ことわり.わけ.
②人の行うべき正しい道(ひとの おこなう べき ただしい みち).
→「じょうり(条理)」
="logic"
①社会における物事の筋道(しゃかいに おける ものごとの すじみち).
道理(どうり).
②《法》法の欠缺(ほうの けんけつ)を補う(おぎなう)解釈上および裁判上の基準(かいしゃく じょう および さいばん じょうの きじゅん).社会通念・公序良俗(しゃかい つうねん・こうじょ りょうぞく).→「情理(じょうり)」
→「じょうり(情理)」(=人間らしい感情と理屈・考え方(かんじょうと
りくつ・かんがえかた)
="emotion and reason, heart and mind"
①人情と道理(にんじょうと どうり).人間らしい感情(にんげん らしい
かんじょう)と,ものごとのあるべき筋道(すじみち).
②物事の筋道(ものごとの すじみち).道理.
〔同音語の「条理」は物事の筋道のことであるが,
それに対して「情理」は人情と道理のことをいう.〕
→「公序良俗」 =
"public order and morals"
→「公序(こうじょ)」=
"public order"
①人々が守るべき社会の秩序(ひとびとが まもるべき しゃかいの
ちつじょ).公の秩序(おおやけの ちつじょ).
→「良俗(りょうぞく)」=
"(public) morals"
よい風俗.よい慣習.(風俗=ならわし・しきたり・身なり・よそおい・
身のこなし)"
→「社会通念(しゃかい つうねん)」=
"social conventions, common sense"
社会一般(しゃかい いっぱん)に
行われている考え方(おこなわれているかんがえかた)"
(国語(日本語)辞典「大辞林」から引用)
II. 神の真理=「至福(しふく)」(=山上の説教・山上の垂訓)(マテオ聖福音書:第5章1-12節,13節-第7章28節)
"Christ's Sermon upon the Mount - The eight beatitudes."
- 神の掟(モーゼの十戒〈「律法〈りっぽう〉」から
救世主・神の御独り子イエズス・キリストによる神の真の掟〈かみの まことの おきて〉)の場合
"St. Matthew, V, 1-12, 13-VII, 28":
『たとえ騙されても,他人を騙さない(だまされても,ひとを だまさない)』
→「他人がどうであろうと,自分は善(ぜん)にとどまる(悪をもって悪に返さない)」
→「全能の創造主たる神は人の全ての業(ひとのすべてのわざ)をご覧(らん)になり
報(むく)いられる(神の摂理〈せつり〉・自然の摂理」
『真の信仰を持つ(まことの しんこうを もつ)ということは,
自分の真の誇り(じぶんの まことの ほこり)を
黙って神に委ねる(だまって かみに ゆだねる)こと.
神は真実である.神が必ず報復(かならず ほうふく)される.』
→時の経過にかかわらず,真実は必ず明らかになる.
①
『〈汝の隣人を愛し,汝の敵を憎め〉
といわれたのをあなたたちは聞いている.
しかし私(イエズス)はあなたたちに言う,
あなたたちの敵を愛し(てきを あいし),
あなたたちを迫害する者(はくがいする もの)
のために祈れ(いのれ),
それは,天(てん)にまします
あなたたちの父の子(ちちのこ)
となるためである,
天の父(てんの ちち)は,
悪人の上(あくにんの うえ)にも
善人の上(ぜんにんのうえ)にも
日を昇らせ(ひを のぼらせ),
義者にも不義者にも(ぎしゃ にも ふぎしゃ にも)
雨を降らせ給う(あめを ふらせ たまう).
…天の父が完全にまします如く(ごとく)に,
あなたたちも完全であれ.』
〔新約聖書・マテオ聖福音書:第5章43-45,48〕
②
『…イエズスはこう話された,
「天地の主なる父よ,あなたに感謝いたします.
あなたはこれらのこと(=真理)を
知恵ある人(ちえ ある ひと),賢い人(かしこい ひと)に
隠し(かくし),
小さな人々に現(あらわ)されました.
父よ,そうです.
あなたはそう望(のぞ)まれました.
すべてのものは, 父から私にまかされました.
子が何者かを知っているのは父のほかにはなく,
父が何者かを知っているのは,
子と子が示しを与えた人のほかにはありません.
労苦する人(ろうくするひと),
重荷を負う人(おもにを おうひと)は,
すべて私のもとに来るがよい.
私はあなたを休(やす)ませよう.
私は心の柔和(こころの にゅうわ)な
へりくだった者であるから,
くびきをとって私に習(なら)え.
そうすれば霊魂は休む(れいこんは やすむ).
私のくびきは快く(こころよく),
私の荷は軽い(には かるい)」.』
(注釈)
・「小さな人々(ちいさな ひとびと)」とは,神を見る(かみを みる)であろうと
約束(やくそく)された素直な清い心(すなおな きよい こころ)の人である.
・神を完全に知る(かみを かんぜんに しる)には,神と同じ(かみと おなじ)
「無限の知恵(むげんの ちえ)」がいる.
すなわち,イエズスは神の真(まこと)の子であると宣言したことになる.
〔マテオ聖福音書:第11章25-30節〕
* * *
訳注1
新約聖書の引用:
その1
マテオ聖福音書:第28章19-20節(28章全章を掲載)
『さて,安息日を終えて,週のはじめの日の夜明けごろ,マグダラのマリアと他のマリアは墓を訪(おとず)れた.
すると大地震(だいじしん)が起こり,主の天使が天から下(くだ)って石をわきに転(ころ)ばし,その上に座(すわ)った.その姿は稲妻(いなずま)のように輝(かがや)き,その服(ふく)は雪(ゆき)のように白(しろ)かった.番兵(ばんぺい)たちは恐(おそ)れおののいて死人(しにん)のようになった,
そのとき天使は婦人たちに向かって言われた,「恐(おそ)れるな.私はあなたたちが,十字架につけられたイエズスをさがしているのを知っている.だがもうここにはましまさぬ.おことばどおり復活された.イエズスが納(おさ)められたその場所を見に来るがよい.それからすぐ弟子たちに知らせに行き,〈イエズスは死者の中からよみがえられた.みなに先立ってガリラヤに行かれるからそこで会える〉と言え.これが私の告げることのすべてだ」.
婦人たちは恐れと同時に非常な喜びを感じ,すぐ墓を去って弟子たちに知らせに走った.
するとイエズスは彼女たちと出会い,「あなたたちにあいさつする」と言われた.女たちは進み出て,足を抱(いだ)いてひれ伏(ふ)した.
イエズスは言われた,「恐れることはない.兄弟たちにガリラヤに行けと知らせに行け.向こうで私に会えるだろう」.
婦人たちが去ると,数人の番兵が町に行って,起こったことをすべて司祭長たちに告げた.
司祭長たちは長老と集まって協議し,兵卒たちに多くの金を与えて言い含めた,「〈あの男の弟子たちが夜中に来て,われわれの眠っている間に屍(しかばね)を盗(ぬす)んでいった〉といえ.これがもし総督(そうとく)の耳(みみ)にはいっても,われわれがなだめておまえたちには迷惑をかけぬ」.
兵卒たちは金をもらって,言い含められたとおりにしたので,この話はユダヤ人の間に言い広められ今日に至っている.
ガリラヤに行った十一人の弟子は,イエズスが命令された山に登(のぼ)り,イエズスに会ってひれ伏した.けれども中には疑う者もあった.
イエズスは彼らに近づいて言われた,「私には天と地のいっさいの権威が与えられている.
行け,諸国の民に教え,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)の名によって洗礼を授(さず)け,(19節)
私が命じたことをすべて守(まも)るように教えよ.私は,世の終わりまで常(つね)におまえたちとともにいる(20節)」.』
* * *
続きを追加いたします.
訳注1
その2・マテオ聖福音書:第28章19-20
その3・マルコ聖福音書:第16章15-16節
その4・新約聖書・マテオ聖福音書:第7章15節
その5・新約聖書・使徒行録:第20章29-30節
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2014年5月29日木曜日
2014年5月25日日曜日
357 教会の無謬性 III 5/17
エレイソン・コメンツ 第357回 (2014年5月17日)
教皇フランシスコ(きょうこう ふらんしすこ)のばかげた言動(げんどう)がいま多く(おおく)のカトリック信者(かとりっくしんじゃ)を教皇空位論(きょうこう くういろん)へ向(む)かわせています.これは危険(きけん)なことです( "The crazy words and deeds of Pope Francis are presently driving many believing Catholics towards sedevacantism, which is dangerous." ).公会議派の歴代教皇(こうかいぎはの れきだい きょうこう)は過去も今も(かこもいまも)教皇でないという考え(きょうこう でないという かんがえ)は,初め(はじめ)は一つの意見に過ぎない(ひとつのいけんにすぎない)でしょうが( "The belief that the Conciliar Popes have not been and are not Popes may begin as an opinion, …" ),それは独断に変わり(どくだんに かわり),やがて精神的な確信(せいしんてきな かくしん)になってしまうことが多いようです( "… but all too often one observes that the opinion turns into a dogma and then into a mental steel trap. " ).教皇空位論者(ろんじゃ)たちの多くは心を閉ざして(こころを とざして)しまうように私には思え(わたしには おもえ)ます( "I think the minds of many sedevacantists shut down …" ).第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)が起こした(おこした)前代未聞の危機(ぜんだいみもんのきき)が彼らのカトリック精神と心(かとりっく せいしんと こころ)( "their Catholic minds and hearts" )に苦痛を与え(くつうをあたえ)( "… because the unprecedented crisis of Vatican II has caused their Catholic minds and hearts an agony …" ),彼らは教皇空位論がその苦痛から抜け出す(ぬけだす)ための単純な解決策(たんじゅんなかいけつさく)だと考え(かんがえ)( "… which found in sedevacantism a simple solution, …" ),それ以降(いこう)その苦痛や疑問(ぎもん)をもう一度(いちど)考え直そう(かんがえ なおそう)としなくなるからだと思い(おもい)ます( "… and they have no wish to re-open the agony by re-opening the question. " ).そのため,彼らはほかの信者(しんじゃ)たちがこの単純(たんじゅん)な解決策に賛同(さんどう)し自分たちに加わる(じぶんたちにくわわる)よう積極的に説得(せっきょくてきに せっとく)し( "So they positively crusade for others to join them in their simple solution, …" ),そうするうちに,彼らすべてではありませんがその多くが結果的(けっか てき)に傲慢さや敵意(ごうまんさ や てきい)を示すようになります( "… and in so doing many of them – not all -- end up displaying an arrogance and a bitterness …" ).傲慢,敵意は真のカトリック信徒(まことの かとりっく しんと)の看板(かんばん)でも産物(さんぶつ)( "signs or fruits" )でもありません( "… which are no signs or fruits of a true Catholic." ).
私はこれまでの「エレイソン・コメンツ」(えれいそん・こめんつ)で,歴代の公会議派教皇が真の教皇(まことの きょうこう)であると確信(かくしん)をもって主張(しゅちょう)するのを差し控えて(さしひかえて)きました( "Now these “Comments” have abstained from proclaiming with certainty that the Conciliar Popes have been true Popes, …" ).だが,私は同時(どうじ)に通常(つうじょう)の教皇空位論者による議論(ぎろん)は彼らの一部(かれらの いちぶ)が私たちに信じ込ませ(しんじ こませ よう)ようとしているほど得心(とくしん)のゆくものでもなければカトリック信徒(しんと)に拘束力を持つ(こうそくりょくを もつ)ものでもないと論(ろん)じてきました( "… but at the same time they have argued that the usual sedevacantist arguments are neither conclusive nor binding upon Catholics, as some sedevacantists would have us believe." ).教皇空位論者たちが最も重視する論点(もっとも じゅうしする ろんてん)にもう一度戻って(もういちど もどって)みましょう.これは教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)から生じる論点(しょうじる ろんてん)です( "Let us return to one of their most important arguments, which is from Papal infallibility: …" ).要点(ようてん)は,教皇は無謬である( "… Popes are infallible." ),だがリベラル派(りべらる は)は無謬でない( "But liberals are fallible, …" ),公会議派の教皇はリベラルである( "… and Conciliar Popes are liberal." ),したがって彼らは教皇でない,というものです( "Therefore they are not Popes. " ).
これに対し,教皇が無謬(きょうこうが むびゅう)なのは彼が教会の特別教導権(きょうかいの とくべつ きょうどうけん)の定める4条件(さだめる よん じょうけん)に従って(したがって)(1) 教皇として,(2) 信仰,道徳(しんこう,どうとく)について,(3) 決定的(けっていてき)に信頼(しんらい)がおけるよう,(4) カトリック信徒すべてをまとめる意向(いこう)をもって話す(はなす)ときだけである,と反論する人(はんろんする ひと)がいるでしょう( "To this one may object that a Pope is certainly infallible only when he engages the four conditions of the Church’s Extraordinary Magisterium by teaching 1 as Pope, 2 on Faith or morals, 3 definitively, 4 so as to bind all Catholics." ).この点(てん)について,教皇空位論者たちもリベラル派の人たちも直ち(ただち)に通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)〈 "the Ordinary Universal Magisterium" 〉も無謬(むびゅう)だというのが教会の教え(きょうかいの おしえ)だから,教皇がたとえ特別教導権の枠外(とくべつ きょうどうけんの わくがい)で厳か(おごそか)に教えを説いた(おしえを といた)としても彼は常に無謬(つねに むびゅう)だと答え(こたえ)ます.すなわち ―― この論法(ろんぽう)の後半(こうはん)が彼らの弱点(かれらの じゃくてん)です―― 彼らのリベラルな公会議の教えは厳粛(げんしゅく)である( "Whereupon sedevacantists and liberals alike reply that it is Church teaching that the Ordinary Universal Magisterium is also infallible, so – and here is the weak point in their argument – whenever the Pope teaches solemnly even outside of his Extraordinary Magisterium, he must also be infallible. Now their liberal Conciliar teaching is solemn." ).だから誰(だれ)が同じ議論(おなじ ぎろん)を振り(ふり)かざすかにもよるが,私たちカトリック信徒はリベラル派か教皇空位論者か(りべらるは か きょうこう くうい ろんじゃ か)のどちらかにならなければならない,というのです( "Therefore we must become either liberals or sedevacantists, depending of course on who is wielding the same argument." ).
だが,教会の通常普遍教導権(きょうかいの つうじょう ふつう きょうどうけん)に属する教え(ぞくする おしえ)の品質証明(ひんしつ しょうめい)となるのは教皇が特別教導権の枠外(とくべつ きょうどうけんの わくがい)で教(おし)えるときの厳粛さ(げんしゅくさ)ではなく( "But the hallmark of teaching which belongs to the Church’s Ordinary Universal Magisterium is not the solemnity with which the Pope teaches outside of the Extraordinary Magisterium, …" ),その教えの内容(おしえの ないよう)が私たちの主(しゅ)(イエズス・キリスト)(いえずす・きりすと),その弟子(でし)たち,そのすべての後継者(こうけい しゃ)たち,すなわち普遍教会(ふへん きょうかい)( “the Universal Chuarch” )の司祭たち(しさいたち)があらゆる時代(じだい),あらゆる場所(ばしょ)で教えて(おしえて)きたことと一致(いっち)するかどうかです( "… but whether what he is teaching corresponds, or not, to what Our Lord, his Apostles and virtually all their successors, the bishops of the Universal Church, have taught in all times and in all places, …" ).言い換えれば(いいかえ れば),その内容(ないよう)が伝統(でんとう)と合致(がっち)するかどうかです( "… in other words whether it corresponds to Tradition." ).だが,公会議派の教え(こうかいぎは の おしえ)(たとえば宗教の自由〈しゅうきょうの じゆう〉やエキュメニズム〈えきゅめにずむ〉)は伝統からかけ離れた(でんとう から かけ はなれた)ものです( "Now Conciliar teaching (e.g. religious liberty and ecumenism) is in rupture with Tradition." ).したがって,カトリック教徒はリベラル派や教皇空位論者になる義務(ぎむ)などありません( "Therefore Catholics today are not in fact bound to become liberals or sedevacantists." ).
しかし,教皇空位論者たちやリベラル派の人たちは教皇の無謬性についての自分たちの勘違い(かんちがい)に固執(こしつ)します( "However, both liberals and sedevacantists cling to their misunderstanding of Papal infallibility …" ).そうする理由(りゆう)には興味(きょうみ)がないわけではありませんが,それはまた別の話(べつの はなし)です( "… for reasons that are not without interest, but that is another story. " ).いずれにせよ,彼らは簡単(かんたん)には引き下がろう(ひきさがろう)としません( "In any case they do not give up easily, …" ).彼らは別の反論(べつの はんろん)を持ち出し(もちだし)話を蒸し返し(はなしを むしかえし)ます( "… so they come back with another objection which deserves to be answered. " ).彼らが共通して言う(きょうつう して いう)のは,伝統が通常普遍教導権の品質証明だと論(ろん)じるのは悪循環(あくじゅんかん)をもたらすということです( "Both of them will say that to argue that Tradition is the hallmark of the Ordinary Magisterium is to set up a vicious circle." ).もし教会の教導権威(きょうかいの きょうどう けんい)( "the Church's teaching authority" ),すなわち教導権が現に行われ(げんに おこなわれ)ているように教会の教理を説く(きょうかいの きょうりを とく)ためにあるというのであれば( "For if the Church’s teaching authority, or Magisterium, exists to tell what is Church doctrine, as it does, …" ),どうして同時(どうじ)に伝統派教理(でんとうは きょうり)が教導権(きょうどうけん)とはなんなのかを説明(せつめい)できるのか?(というのです)( "… then how can the Traditional doctrine at the same time tell what is the Magisterium ? " ).教える者が教える内容を権威づける(おしえる ものが おしえる ないようを けんい づける)か,教える内容が教える者を権威づける(おしえる ないようが おしえる ものを けんい づけるか)かのどちらかであり( "Either the teacher authorises what is taught, or what is taught authorises the teacher, …" ),双方(そうほう)が同時(どうじ)に他方(たほう)を権威づけ(けんい づけ)あうなどできないというのです( "… but they cannot both at the same time authorise each other." ).したがって,教える内容である伝統(おしえる ないよう である でんとう)が教える側の通常普遍教導権(おしえるがわの つうじょう ふつう きょうどうけん)を権威(けんい)づけると論(ろん)ずるのは間違い(まちがい)で( "So to argue that Tradition which is taught authorises the Ordinary Magisterium which is teaching, is wrong, …" ),教皇の特別教導権による教えは無謬(きょうこうの とくべつ きょうどうけんに よる おしえは むびゅう)なのだから( "… and so the Pope is infallible not only in his Extraordinary teaching, …" ),カトリック教徒の私たち(かとりっく きょうとの わたしたち)はリベラル派か教皇空位論者(りべらるは か きょうこう くうい ろんじゃ)のどちらかにならなければならない,と彼らは結論(けつろん)づけます( "… and so we must become either liberals or sedevacantists, they conclude." ).
来週のエレイソン・コメンツでは,そのような悪循環(あくじゅんかん)などないという点(てん)に触れる(ふれる)ことにします( "Why there is no vicious circle must wait until next week." ).リベラル派や教皇空位論者たちが無謬性(むびゅうせい)についてなぜ共通の誤りに陥る(きょうつうの あやまりに おちいる)のかと同(おな)じように興味深い(きょうみ ぶかい)ものとなるでしょう( "It is as interesting as why both sedevacantists and liberals fall into the same error on infallibility." ).
キリエ・エレイソン.
4条件がすべて満たされないなら,
(よん じょうけんが すべて みたされないなら)
( "If four conditions are not all in play." )
教皇たちは教えたり話したりするとき間違いを犯し得えます.
(きょうこうたちは おしえたり はなしたり するとき まちがいを おか し えます)
( "The Popes can err in what they teach or say." )
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
教皇フランシスコ(きょうこう ふらんしすこ)のばかげた言動(げんどう)がいま多く(おおく)のカトリック信者(かとりっくしんじゃ)を教皇空位論(きょうこう くういろん)へ向(む)かわせています.これは危険(きけん)なことです( "The crazy words and deeds of Pope Francis are presently driving many believing Catholics towards sedevacantism, which is dangerous." ).公会議派の歴代教皇(こうかいぎはの れきだい きょうこう)は過去も今も(かこもいまも)教皇でないという考え(きょうこう でないという かんがえ)は,初め(はじめ)は一つの意見に過ぎない(ひとつのいけんにすぎない)でしょうが( "The belief that the Conciliar Popes have not been and are not Popes may begin as an opinion, …" ),それは独断に変わり(どくだんに かわり),やがて精神的な確信(せいしんてきな かくしん)になってしまうことが多いようです( "… but all too often one observes that the opinion turns into a dogma and then into a mental steel trap. " ).教皇空位論者(ろんじゃ)たちの多くは心を閉ざして(こころを とざして)しまうように私には思え(わたしには おもえ)ます( "I think the minds of many sedevacantists shut down …" ).第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)が起こした(おこした)前代未聞の危機(ぜんだいみもんのきき)が彼らのカトリック精神と心(かとりっく せいしんと こころ)( "their Catholic minds and hearts" )に苦痛を与え(くつうをあたえ)( "… because the unprecedented crisis of Vatican II has caused their Catholic minds and hearts an agony …" ),彼らは教皇空位論がその苦痛から抜け出す(ぬけだす)ための単純な解決策(たんじゅんなかいけつさく)だと考え(かんがえ)( "… which found in sedevacantism a simple solution, …" ),それ以降(いこう)その苦痛や疑問(ぎもん)をもう一度(いちど)考え直そう(かんがえ なおそう)としなくなるからだと思い(おもい)ます( "… and they have no wish to re-open the agony by re-opening the question. " ).そのため,彼らはほかの信者(しんじゃ)たちがこの単純(たんじゅん)な解決策に賛同(さんどう)し自分たちに加わる(じぶんたちにくわわる)よう積極的に説得(せっきょくてきに せっとく)し( "So they positively crusade for others to join them in their simple solution, …" ),そうするうちに,彼らすべてではありませんがその多くが結果的(けっか てき)に傲慢さや敵意(ごうまんさ や てきい)を示すようになります( "… and in so doing many of them – not all -- end up displaying an arrogance and a bitterness …" ).傲慢,敵意は真のカトリック信徒(まことの かとりっく しんと)の看板(かんばん)でも産物(さんぶつ)( "signs or fruits" )でもありません( "… which are no signs or fruits of a true Catholic." ).
私はこれまでの「エレイソン・コメンツ」(えれいそん・こめんつ)で,歴代の公会議派教皇が真の教皇(まことの きょうこう)であると確信(かくしん)をもって主張(しゅちょう)するのを差し控えて(さしひかえて)きました( "Now these “Comments” have abstained from proclaiming with certainty that the Conciliar Popes have been true Popes, …" ).だが,私は同時(どうじ)に通常(つうじょう)の教皇空位論者による議論(ぎろん)は彼らの一部(かれらの いちぶ)が私たちに信じ込ませ(しんじ こませ よう)ようとしているほど得心(とくしん)のゆくものでもなければカトリック信徒(しんと)に拘束力を持つ(こうそくりょくを もつ)ものでもないと論(ろん)じてきました( "… but at the same time they have argued that the usual sedevacantist arguments are neither conclusive nor binding upon Catholics, as some sedevacantists would have us believe." ).教皇空位論者たちが最も重視する論点(もっとも じゅうしする ろんてん)にもう一度戻って(もういちど もどって)みましょう.これは教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)から生じる論点(しょうじる ろんてん)です( "Let us return to one of their most important arguments, which is from Papal infallibility: …" ).要点(ようてん)は,教皇は無謬である( "… Popes are infallible." ),だがリベラル派(りべらる は)は無謬でない( "But liberals are fallible, …" ),公会議派の教皇はリベラルである( "… and Conciliar Popes are liberal." ),したがって彼らは教皇でない,というものです( "Therefore they are not Popes. " ).
これに対し,教皇が無謬(きょうこうが むびゅう)なのは彼が教会の特別教導権(きょうかいの とくべつ きょうどうけん)の定める4条件(さだめる よん じょうけん)に従って(したがって)(1) 教皇として,(2) 信仰,道徳(しんこう,どうとく)について,(3) 決定的(けっていてき)に信頼(しんらい)がおけるよう,(4) カトリック信徒すべてをまとめる意向(いこう)をもって話す(はなす)ときだけである,と反論する人(はんろんする ひと)がいるでしょう( "To this one may object that a Pope is certainly infallible only when he engages the four conditions of the Church’s Extraordinary Magisterium by teaching 1 as Pope, 2 on Faith or morals, 3 definitively, 4 so as to bind all Catholics." ).この点(てん)について,教皇空位論者たちもリベラル派の人たちも直ち(ただち)に通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)〈 "the Ordinary Universal Magisterium" 〉も無謬(むびゅう)だというのが教会の教え(きょうかいの おしえ)だから,教皇がたとえ特別教導権の枠外(とくべつ きょうどうけんの わくがい)で厳か(おごそか)に教えを説いた(おしえを といた)としても彼は常に無謬(つねに むびゅう)だと答え(こたえ)ます.すなわち ―― この論法(ろんぽう)の後半(こうはん)が彼らの弱点(かれらの じゃくてん)です―― 彼らのリベラルな公会議の教えは厳粛(げんしゅく)である( "Whereupon sedevacantists and liberals alike reply that it is Church teaching that the Ordinary Universal Magisterium is also infallible, so – and here is the weak point in their argument – whenever the Pope teaches solemnly even outside of his Extraordinary Magisterium, he must also be infallible. Now their liberal Conciliar teaching is solemn." ).だから誰(だれ)が同じ議論(おなじ ぎろん)を振り(ふり)かざすかにもよるが,私たちカトリック信徒はリベラル派か教皇空位論者か(りべらるは か きょうこう くうい ろんじゃ か)のどちらかにならなければならない,というのです( "Therefore we must become either liberals or sedevacantists, depending of course on who is wielding the same argument." ).
だが,教会の通常普遍教導権(きょうかいの つうじょう ふつう きょうどうけん)に属する教え(ぞくする おしえ)の品質証明(ひんしつ しょうめい)となるのは教皇が特別教導権の枠外(とくべつ きょうどうけんの わくがい)で教(おし)えるときの厳粛さ(げんしゅくさ)ではなく( "But the hallmark of teaching which belongs to the Church’s Ordinary Universal Magisterium is not the solemnity with which the Pope teaches outside of the Extraordinary Magisterium, …" ),その教えの内容(おしえの ないよう)が私たちの主(しゅ)(イエズス・キリスト)(いえずす・きりすと),その弟子(でし)たち,そのすべての後継者(こうけい しゃ)たち,すなわち普遍教会(ふへん きょうかい)( “the Universal Chuarch” )の司祭たち(しさいたち)があらゆる時代(じだい),あらゆる場所(ばしょ)で教えて(おしえて)きたことと一致(いっち)するかどうかです( "… but whether what he is teaching corresponds, or not, to what Our Lord, his Apostles and virtually all their successors, the bishops of the Universal Church, have taught in all times and in all places, …" ).言い換えれば(いいかえ れば),その内容(ないよう)が伝統(でんとう)と合致(がっち)するかどうかです( "… in other words whether it corresponds to Tradition." ).だが,公会議派の教え(こうかいぎは の おしえ)(たとえば宗教の自由〈しゅうきょうの じゆう〉やエキュメニズム〈えきゅめにずむ〉)は伝統からかけ離れた(でんとう から かけ はなれた)ものです( "Now Conciliar teaching (e.g. religious liberty and ecumenism) is in rupture with Tradition." ).したがって,カトリック教徒はリベラル派や教皇空位論者になる義務(ぎむ)などありません( "Therefore Catholics today are not in fact bound to become liberals or sedevacantists." ).
しかし,教皇空位論者たちやリベラル派の人たちは教皇の無謬性についての自分たちの勘違い(かんちがい)に固執(こしつ)します( "However, both liberals and sedevacantists cling to their misunderstanding of Papal infallibility …" ).そうする理由(りゆう)には興味(きょうみ)がないわけではありませんが,それはまた別の話(べつの はなし)です( "… for reasons that are not without interest, but that is another story. " ).いずれにせよ,彼らは簡単(かんたん)には引き下がろう(ひきさがろう)としません( "In any case they do not give up easily, …" ).彼らは別の反論(べつの はんろん)を持ち出し(もちだし)話を蒸し返し(はなしを むしかえし)ます( "… so they come back with another objection which deserves to be answered. " ).彼らが共通して言う(きょうつう して いう)のは,伝統が通常普遍教導権の品質証明だと論(ろん)じるのは悪循環(あくじゅんかん)をもたらすということです( "Both of them will say that to argue that Tradition is the hallmark of the Ordinary Magisterium is to set up a vicious circle." ).もし教会の教導権威(きょうかいの きょうどう けんい)( "the Church's teaching authority" ),すなわち教導権が現に行われ(げんに おこなわれ)ているように教会の教理を説く(きょうかいの きょうりを とく)ためにあるというのであれば( "For if the Church’s teaching authority, or Magisterium, exists to tell what is Church doctrine, as it does, …" ),どうして同時(どうじ)に伝統派教理(でんとうは きょうり)が教導権(きょうどうけん)とはなんなのかを説明(せつめい)できるのか?(というのです)( "… then how can the Traditional doctrine at the same time tell what is the Magisterium ? " ).教える者が教える内容を権威づける(おしえる ものが おしえる ないようを けんい づける)か,教える内容が教える者を権威づける(おしえる ないようが おしえる ものを けんい づけるか)かのどちらかであり( "Either the teacher authorises what is taught, or what is taught authorises the teacher, …" ),双方(そうほう)が同時(どうじ)に他方(たほう)を権威づけ(けんい づけ)あうなどできないというのです( "… but they cannot both at the same time authorise each other." ).したがって,教える内容である伝統(おしえる ないよう である でんとう)が教える側の通常普遍教導権(おしえるがわの つうじょう ふつう きょうどうけん)を権威(けんい)づけると論(ろん)ずるのは間違い(まちがい)で( "So to argue that Tradition which is taught authorises the Ordinary Magisterium which is teaching, is wrong, …" ),教皇の特別教導権による教えは無謬(きょうこうの とくべつ きょうどうけんに よる おしえは むびゅう)なのだから( "… and so the Pope is infallible not only in his Extraordinary teaching, …" ),カトリック教徒の私たち(かとりっく きょうとの わたしたち)はリベラル派か教皇空位論者(りべらるは か きょうこう くうい ろんじゃ)のどちらかにならなければならない,と彼らは結論(けつろん)づけます( "… and so we must become either liberals or sedevacantists, they conclude." ).
来週のエレイソン・コメンツでは,そのような悪循環(あくじゅんかん)などないという点(てん)に触れる(ふれる)ことにします( "Why there is no vicious circle must wait until next week." ).リベラル派や教皇空位論者たちが無謬性(むびゅうせい)についてなぜ共通の誤りに陥る(きょうつうの あやまりに おちいる)のかと同(おな)じように興味深い(きょうみ ぶかい)ものとなるでしょう( "It is as interesting as why both sedevacantists and liberals fall into the same error on infallibility." ).
キリエ・エレイソン.
4条件がすべて満たされないなら,
(よん じょうけんが すべて みたされないなら)
( "If four conditions are not all in play." )
教皇たちは教えたり話したりするとき間違いを犯し得えます.
(きょうこうたちは おしえたり はなしたり するとき まちがいを おか し えます)
( "The Popes can err in what they teach or say." )
リチャード・ウィリアムソン司教
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2014年5月10日土曜日
356 新式叙階 - I 5/10
エレイソン・コメンツ 第356回 (2014年5月10日)
1972年に取り入れられた新たな叙階式(とりいれられた あらたな じょかいしき)(以下,「叙階式(新)」または「叙階(新)」と記(しる)す.)( "the new rite of Ordination of 1972" )で叙階(新)された司祭たちは場合によりそれ以前の正当な授品式(じゅひんしき)( "the old and certainly valid rite of Ordination" )でもう一度(いちど)品級(ひんきゅう)( "Ordination" )を受け直す(うけなおす)( "re-ordained" )べきでしょうか?( "Should priests ordained with the new rite of Ordination of 1972 be conditionally re-ordained with the old and certainly valid rite of Ordination ? " )(訳注後記1) 諸(カトリック)秘蹟の正当性(有効性)(せいとうせい〈ゆうこうせい〉)に関するカトリック教の原則(=教理)(げんそく〈=きょうり〉)は明確(めいかく)ですが,新教会(しん きょうかい)( "the Newchurch" )の諸々(もろもろ)のカトリック秘蹟に関わる祭儀(=儀式)( "the sacramental rites of the Newchurch" )は徐々に無効(じょじょに むこう)なものへ向(む)かうよう意図(いと)されているようです(2009年10月31日付のエレイソン・コメンツ第121回を参照)( "Catholic doctrine on the validity of sacraments is clear, but the sacramental rites of the Newchurch seem to have been designed to lead gradually to invalidity (See EC 121 of October 31, 2009.). " ).ここで問題なのは「徐々に」( "gradually" )という点です( "The « gradually » is the problem." ).この徐々にという過程(かてい)は具体的にどの程度の期間(ぐたいてきに どのていどの きかん)なのでしょうか?( "How far along was that gradual process in any given case ? " )おそらく確かなことは神のみぞ知る(かみのみぞ しる)です( "Perhaps God alone knows for sure. " ).それは別(べつ)にして,今回(こんかい)は明確なカトリック教の原則(げんそく)から始(はじ)めることにします( "But let us begin with the clear doctrine. " ).(訳注1・「1972年に取り入れられた新たな叙階式」の Ordination は「叙階(新)」と記し,1972年以前の Ordination は「授品(じゅひん)」,1972年以前の Consecration (=司教叙階 / 聖別)は「叙階(=聖別)(じょかい・せいべつ)〈旧〉」と記(しる)します.〈「叙階(旧)」は1972年以前において,ある司祭を「司教」に叙する際(じょする さい)に使われた用語(つかわれた ようご).〉)
普通カトリック教の秘蹟(ひせき)は5つの要素(いつつの ようそ)を含(ふく)みます( "One can say a Catholic sacrament involves five elements : …" ).このうちの4つ(よっつ),すなわち祭儀(=儀式)を執り行う〈さいぎ〈=ぎしき〉を とりおこなう〉(=執行〈しっこう〉する)カトリック司祭(かとりっくしさい)(=カトリック聖職者・祭主司祭)(かとりっく しさい・さいしゅ しさい)( "Minister" ),意向(いこう)( "Intention" ),内容(ないよう)( "Matter" ),形式(けいしき)( "Form" )は秘蹟を正当(有効)(せいとう・ゆうこう)なものにするためには必要不可欠(ひつよう ふかけつ)です( "… Minister, Intention, Matter and Form are essential for validity, …" ).残りの一つ(のこりの ひとつ),形式にかかわる儀式(祭儀)(けいしきに かかわる ぎしき〈さいぎ〉)( "the Rite surrounding the Form" )は,それが祭主司祭の意向( "Minister's Intention" )に直(ただ)ちに関係(かんけい)するのか徐々に(じょじょに)( "gradual" )関係するのかによって,秘蹟の正当性(有効性)(せいとうせい・ゆうこうせい)に重要な意味(じゅうような いみ)を持ち得ます(もちえます)( "… the Rite surrounding the Form can be important for validity by its sudden or gradual bearing on the Minister's Intention." ).諸々の司祭職(もろもろの しさいしょく)の授品(じゅひん)(=品級を授与(ひんきゅうを じゅよ)すること・品級に叙〈じょ〉すること)に当(あ)たっては( "For priestly Orders," ),その(品級の秘蹟を授与する祭儀(=儀式/ミサ聖祭・ "the Rite" )を執行する祭主司祭( "the Minister" )は正当(有効)に聖別された司教(せいべつされた しきょう)( "validly consecrated bishop" )でなければなりません( "For priestly Orders, the Minister has to be a validly consecrated bishop ; …" ).司祭職の授品(しさいしょくの じゅひん)をするに当たっての祭主司祭の意向( "the Intention" )とは授品式(じゅひんしき)において教会(きょうかい)が為すことを為す(なすことをなす)という(信仰においてキリストの聖体の神秘〈奥義〉にかかわる)(しんこうにおいて きりすとの せいたいの しんぴ〈おくぎ〉に かかわる)秘蹟(ひせき)としての(感情的〈かんじょうてき〉でなく)その司教の意向を意味(いみ)します( "… the Intention is his sacramental (not moral) intention, in ordaining, to do what the Church does ; …" ).品級の秘蹟の授与の内容(ないよう)( "the Matter" )は司教が品級を受ける男性(女性〈じょせい〉はキリストの司祭職として正当に品級を受けられません)の頭上に両手を添える(ずじょうに りょうてを そえる)(=按手する〈あんしゅする〉)ことです( "the Matter is his laying of both hands on the head of the man to be ordained (women cannot be validly ordained to the priesthood of Christ) ; …" ).授品式の形式( "the Form" )は重要な常套句(じょうとうく)すなわち祭儀で司祭職の授与を表明(ひょうめい)する一連の言葉(いちれんの ことば)です( "the Form is the crucial formula or series of words in the rite which express the conferring of the priesthood ; …" ).祭儀はその形式にまつわる他(ほか)のすべての言葉(ことば)であり,授品式典礼書(じゅひんしき てんれいしょ)( "the ceremonial rite of Ordination" )に規定(きてい)されています( "the Rite is all the other words surrounding that Form, and prescribed in the ceremonial rite of Ordination. " ).
新形式(しんけいしき)の叙階式(新)(じょかいしき〈しん〉)( "a new rite Ordination" )について言(い)えば,もし両手が頭上に添えられていれば,内容( "the Matter" )の点(てん)で問題(もんだい)はありません( "In a new rite Ordination, if both hands are laid on the head, the Matter is no problem." ).ラテン語での新形式(らてんご での しんけいしき)( "The new Form in Latin" )は,どちらかと言えばラテン語での旧形式(きゅうけいしき)より正当性(=有効性)に強(つよ)くこだわっています(「ut」の代わりに「et」が使われているため)が( "The new Form in Latin is, if anything, stronger for validity than the old Form in Latin (by the « et » instead of an « ut »), …" ),他の言語(ほかの げんご・たの げんご)による訳語(やくご)を点検(てんけん)し,その司祭職( "the priesthood" )の恩寵(おんちょう)を明確(めいかく)に表(あらわ)しているかどうか確かめる必要(たしかめる ひつよう)があります( "… but vernacular translations need to be checked to make sure that they clearly express the grace of the priesthood to be conferred." ).ほとんどの訳語がそれを明確に表しているのは確かです( "Most of them surely do." ).正当性(=有効性)について実際(じっさい)に問題が持ち上がる(もんだいが もちあがる)のは祭主司祭( "the Minister" )と意向( "the Intention" )についてです( "Where real problems of validity arise is with the Minister and the Intention, …" ).その理由は,カトリック教の意向( "Catholic Intention" )が非カトリック教の新形式儀式によって徐々に浸食(しんしょく)されるからです( "… because of the gradual erosion of Catholic Intention by the uncatholic new Rites." ).
意向( "the Intention" )(いこう)について言(い)えば,今日(こんにち),司祭を叙階(新)する司教(しさいを じょかいする しきょう)は誰しも今日の教会が為すことをよろしく為そう(こんにちの きょうかいが なすことを よろしく なそう)と意向しているのは確か(たしか)でしょうが,問題(もんだい)は彼がそのことを心の中(こころの なか)でどう考(かんが)えているかです( "For, as to the Intention, any bishop today ordaining a priest surely intends to do what today's Church does, well and good, but what is that in his mind ? " ).新教会の司祭(しんきょうかいの しさい)とはどのようなものなのでしょうか?( "What is a priest in the Newchurch ? " ) 聖体の秘蹟の内に真に実在されるキリスト(せいたいの ひせきの うちに まことに じつざいされる きりすと)によってかつてのカルワリオの丘の上(かるわりお の おかの うえ)で十字架刑に処せられた真の神の御独り子イエズス・キリストの死の犠牲(じゅうじかけいに しょせられた まことの かみの おんひとりご いえずす・きりすとの しの ぎせい)( "the Sacrifice of Calvary" )(=新約=神と人との間に結ばれた新しい契約)(かみと ひととの あいだに むすばれた あたらしい けいやく)の往年の更新(おうねんの こうしん)を説いてきた司祭(といてきた しさい)が,ゆっくりながらも着実(ちゃくじつ)に聖体(拝領の)ピクニック(せいたい はいりょうの ぴくにっく)の取りまとめ役(とりまとめ やく)に取って代わられ(とって かわられ)つつあるのではないでしょうか?( "Is not yesteryear's renewer of the Sacrifice of Calvary by the Real Presence being slowly but steadily replaced by today's co-ordinator of eucharistic picnics ? " ) 世界中の司教区(せかいじゅうの しきょうく)でこの変化(へんか)がどの程度進んで(どのていど すすんで)いるのでしょうか?( "How far along is this process in any given diocese of the world ? " ) 司教(しきょう)たちが教会が為す(きょうかいが なす)こととして,犠牲(ぎせい)のいけにえを捧げる者(ささげる もの)とピクニックを楽しむ者(たのしむ もの)のどちらを念頭に置いて(ねんとうに おいて)きたのでしょうか?( "Did this or that bishop have in mind a sacrificer or a picnicker as being what the Church does ? " ) 叙階(じょかい)(新)を与(あた)える司教の上辺の振る舞い(うわべのふるまい)は彼の意向を示す(かれの いこうを しめす)でしょうが,その真意は神のみぞ知る(しんいは かみのみぞ しる)です( "The ordaining bishop's outward behaviour will indicate his Intention, but God alone may know for sure. " ).新式ミサ聖祭祭儀(みさ せいさい さいぎ)( "new Rites of Mass" )の多く(おおく)はピクニックの方(ほう)へ傾(かたむ)いているのは確(たし)かで( "Certainly many new Rites of Mass incline towards the picnicker, …" ),形式(けいしき)にかかわる新式叙階式(しんしき じょかい しき)にはカトリック的な内容( "the Form" )が著しく減って(いちじるしく へって)きているため,叙階を施す司教(じょかいを ほどこす しきょう)のカトリック秘蹟としての意向(かとりっく ひせき としての いこう)( "the sacramental Intention" )を徐々に蝕んで(じょじょに むしばんで)います( "… and the new Rite of Ordination surrounding the Form can only help by its severely diminished catholic content to undermine gradually the sacramental Intention of an ordaining bishop. " ).
そして,祭主司祭(=祭儀を執行する聖職者)( "the Minister" )について言えば( "And as to the Minister, …" ),もし授品(=品級を授ける/叙すること)を施す司教自身が新式叙階式(新)で叙階(新)された司教であるなら( "… if the ordaining bishop was himself consecrated bishop with the new rite of consecration, …" ),新形式の叙階(新)の曖昧さは膨らむ(あいまいさは ふくらむ)でしょうが( "… let us assume that the ambiguity of the new Form of consecration is lifted by the words immediately following, …" ),それでも司教の意向( "the Intention of the bishop" )について上に述べたような疑問が生じる(ぎもんが しょうじる)と言わざるを得ません( "… nevertheless doubts like those above as to the Intention of the bishop consecrating must arise: …" ).つまり,彼は今日の教会がいけにえを捧げる者とピクニックを楽しむ者のどちらを聖別すると考え,それを自らの意向としたのでしょうか?( "… did he consider, and therefore have as his Intention, that today's Church consecrates makers of the Sacrifice, or of picnics ? " )多くの場合この疑問には明確な答えは得られません( "Such questions can often lack clear answers. " ).
手短に言えば,もし私が教皇なら,「新式」( "renewed" )諸儀式( "rites" )で(品級の)授品や聖別を受けたすべての司祭あるいは司教に対し場合によってはもう一度授品(じゅひん)し(=品級を授かる〈ひんきゅうを さずかる〉),聖別を受ける(せいべつを うける)( "re-ordained or re-consecrated" )よう求めるかもしれません( "In brief, were I Pope, I think I might require that all priests or bishops ordained or consecrated with the « renewed » rites should be conditionally re-ordained or re-consecrated, …" ).その理由は彼らが正当な司祭,司教でないと考えるからではなく( "… not because I would believe that none of them were true priests or bishops, …" ),むしろ逆に聖別に関するあらゆる深刻な疑念(しんこくな ぎねん)は取り除く(とりのぞく)べきで( "… on the contrary, but because when it comes to the sacraments all serious doubts must be removed, …" ),そうすることが起こりうる疑念(おこりうる ぎねん)をなくす最も簡潔な方法(もっとも かんけつな ほうほう)だと考(かんが)えるからです( "… and that would be the simplest way of removing all possible doubts." ).このように諸々のカトリック教の秘蹟( "the sacraments" )についての新教会の腐敗( "Newchurch rot" )は放置されたままにしておいてはいけません( "Newchurch rot of the sacraments could not be left hanging around." ).(訳注後記)
キリエ・エレイソン.( "Kyrie eleison." )
新教会の司祭は品級を受け直させるべきか?
( "Should a Newchurch priest be re-ordained, or not ?" )
新教会が徐々に腐敗(じょじょに ふはい)しているため,
答えは定まらない(こたえは さだまらない).
( "Answer unsure, from gradual Newchurch rot." )
リチャード・ウィリアムソン司教
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訳注:
最後のパラグラフの訳注:
『司教聖別』"Consecration" と『司祭授品』"Ordination" の秘跡 "the Sacraments" について
・日本では伝統的には『司教聖別』はまた『司教叙階』ともいわれ,「司祭に叙する『司祭授品』〈=司教が品級を授けること)とは区別された.」
「新式叙階」について,何が問題となるか?についての解説
・現在の「叙階」は,昔の『叙階』と意味が異なる.昔の『叙階』はまた『聖別』と呼ばれ,「司祭」の場合ではなく,『司教』の場合についてのみ使われる用語である.
・現在,日本におけるカトリック教会では,ある男子修道士を『司教』に叙する場合も『司祭』に叙する場合も総じて「叙階〈じょかい〉」と呼ばれている.
・かつては伝統的に,司教に叙せられる儀式が『叙階式』または『聖別式』( = "consecratio" )と呼称され,司祭に叙せられる場合の『授品式』( "ordinatio" )と区別されていた.
・したがって,ここで議論になるのは, 「ローマ司教たる『ローマ教皇』も含めて,『司教』を第二バチカン公会議体制下における新しい形式に則(のっと)って『叙階』するということの問題点」,すなわち, 「『司祭』授品の段階以前に『司教』を人間的創設された(つまり真の神が関わらない)新しい形式に従って〈現〉叙階(=〈旧〉聖別・〈旧〉叙階)(= "consecratio" ))をすることの,カトリック秘蹟の真実性に鑑(かんが)みた問題点」 についてである.
* * *
第二バチカン公会議以前
・司祭の場合:旧『授品』= "ordinatio"(ラテン語), "ordination", "to ordain"(英語)
・司教の場合:旧『聖別』(=旧『叙階』)= "consecratio"(ラテン語), "consecration", "to consecrate"(英語) …両者は別用語だった.
第二バチカン公会議以降現在まで
・現「叙階」とは … 「司祭」の『授品』+「司教」の『聖別(=旧『叙階』)』
…両者とも一緒に同一用語「叙階(新)」に統一・定義されている.
* * *
カトリック教会の正当・有効な秘蹟は,救世・救霊のために必須のものである.
・神は真実(真)であり,真の神の教会(=カトリック教会)の秘跡もまた然り,真実そのものである.
・真実を人為的(じんいてき)に曲(ま)げれば,人間は神から授かった自(みずか)らの生命を曲げて死の滅びに追いやる(せいめいをまげて しのほろびに おいやる)ことになる.
・カトリック教会の秘跡は,神からの授かりもの(さずかりもの)=天為(てんい)のものである.
・地上において奉献される「ミサ聖祭」は,地上で安息(あんそく)を得るために「地上において」まだ地上に生きているうちに「天国の安息」を味わうことではない.
・人類の罪を贖(あがな)う犠牲の生け贄(ぎせいの いけにえ)(=神の羔〈仔羊〉〈かみの こひつじ〉)〈訳注・神の羔は神の御独り子であり,罪の汚れが全くない〉を奉献(ほうけん)し,
・犠牲の生け贄によって贖われる(あがなわれる)ことなしには決してなだめることが出来ない
・人類の重い罪(じんるいの おもい つみ)(神からの諸々の恩寵に逆らう忘恩〈かみからの もろもろの おんちょうに さからう ぼうおん〉)
・に対する神の激しい御怒り(かみの はげしい おんいかり)をなだめ,
・犠牲の生け贄を神に奉献することにより人類の犯した罪(じんるいの おかした つみ)のゆるしを神に請(こ)うための祭儀(儀式)が,カトリック教会のミサ聖祭祭儀である.
・それゆえ,真の神の正義の御怒りをなだめるための「神の羔」として,人類史上でただ一度だけ,
・御自身を犠牲の生け贄として差し出されて世を罪の呪い(=死の罰)から救われた「救世主」たる神の御独り子「イエズス・キリスト」の救霊の御業(きゅうれいの おんわざ)を記念(きねん)して,
・「ミサ聖祭」すなわち「過ぎ越し(すぎこし)(ほふられた神の仔羊の御血(かみの こひつじの おんち)により死すべき運命から命を救われる)」が,
・現世で罪深い人類が生き続ける限り代々行われる(じんるいが いきつづけるかぎり よよ おこなわれる)のである.
・こうして,罪の全くない神の御独り子が成し遂げた(かみの おんひとりごが なしとげた)救世の御業(きゅうせいの おんわざ)を,真のミサ聖祭の祭儀(まことの みさせいさいの さいぎ)を通(とお)して,代々の人類に告げ知らせて(よよの じんるいに つげしらせて)いくのである.
・地上のすべての生命体は,無意味に突然ふってわいてきたものではない.
・「科学」があらゆる存在を証明するのではなく,全知全能の創造主たる神が「あらゆる科学的法則」のもとに万物を創造された.
・そして,人間は肉体だけで存在しているのではなく,霊的な存在として生きている.
・地上で身体が死に,腐敗した後は,全てがなくなり終わるのではなく,霊魂は生き続け,善くも悪くも来世へとつながり,
・現世を善人として過ごした者には,永遠の生命たる神の御祝福(かみの おんしゅくふく),また
・現世を悪人(他者に害を加えた者)として過ごした者には,神の摂理(かみの せつり)によって下される永劫の罰(えいごうの ばつ)による神の呪い(かみの のろい)へと,
・霊魂の生命は続いていく.
・それで,人類は誰しも,生まれながらに神に備えられている霊感によって,「死者を弔う(ししゃを とむらう)」ことを人生で心に覚える.
・「霊」の存在することをわきまえない人間が,現世で(宇宙・地上の)万物を支配・操作しようとするのは,無知の為せる業(むちの なせる わざ)である.
・人間は「肉体だけの存在ですべて終わる」のではないからである.
・他者を私利私欲(しり しよく)のために犠牲にした罪は,必ず償(つぐな)わなければならない.
・慈愛と正義の神の御目(じあいと せいぎの かみの おんめ)は,決して節穴(ふしあな)ではない.
・聖ヨハネによる聖福音書:第1章1-18節を参照.
『みことばの神性とその托身』 みことば=真の光(まことのひかり)=イエズス・キリスト
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(I)
・現在の世界における,人類社会状況の問題点について,
・第二バチカン公会議体制のいかなる点が問題となるのか,
・更なる議論・考察等を追補したいと思います.
(II)
・神の御言葉(聖書)からの引用箇所を追補いたします.
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1972年に取り入れられた新たな叙階式(とりいれられた あらたな じょかいしき)(以下,「叙階式(新)」または「叙階(新)」と記(しる)す.)( "the new rite of Ordination of 1972" )で叙階(新)された司祭たちは場合によりそれ以前の正当な授品式(じゅひんしき)( "the old and certainly valid rite of Ordination" )でもう一度(いちど)品級(ひんきゅう)( "Ordination" )を受け直す(うけなおす)( "re-ordained" )べきでしょうか?( "Should priests ordained with the new rite of Ordination of 1972 be conditionally re-ordained with the old and certainly valid rite of Ordination ? " )(訳注後記1) 諸(カトリック)秘蹟の正当性(有効性)(せいとうせい〈ゆうこうせい〉)に関するカトリック教の原則(=教理)(げんそく〈=きょうり〉)は明確(めいかく)ですが,新教会(しん きょうかい)( "the Newchurch" )の諸々(もろもろ)のカトリック秘蹟に関わる祭儀(=儀式)( "the sacramental rites of the Newchurch" )は徐々に無効(じょじょに むこう)なものへ向(む)かうよう意図(いと)されているようです(2009年10月31日付のエレイソン・コメンツ第121回を参照)( "Catholic doctrine on the validity of sacraments is clear, but the sacramental rites of the Newchurch seem to have been designed to lead gradually to invalidity (See EC 121 of October 31, 2009.). " ).ここで問題なのは「徐々に」( "gradually" )という点です( "The « gradually » is the problem." ).この徐々にという過程(かてい)は具体的にどの程度の期間(ぐたいてきに どのていどの きかん)なのでしょうか?( "How far along was that gradual process in any given case ? " )おそらく確かなことは神のみぞ知る(かみのみぞ しる)です( "Perhaps God alone knows for sure. " ).それは別(べつ)にして,今回(こんかい)は明確なカトリック教の原則(げんそく)から始(はじ)めることにします( "But let us begin with the clear doctrine. " ).(訳注1・「1972年に取り入れられた新たな叙階式」の Ordination は「叙階(新)」と記し,1972年以前の Ordination は「授品(じゅひん)」,1972年以前の Consecration (=司教叙階 / 聖別)は「叙階(=聖別)(じょかい・せいべつ)〈旧〉」と記(しる)します.〈「叙階(旧)」は1972年以前において,ある司祭を「司教」に叙する際(じょする さい)に使われた用語(つかわれた ようご).〉)
普通カトリック教の秘蹟(ひせき)は5つの要素(いつつの ようそ)を含(ふく)みます( "One can say a Catholic sacrament involves five elements : …" ).このうちの4つ(よっつ),すなわち祭儀(=儀式)を執り行う〈さいぎ〈=ぎしき〉を とりおこなう〉(=執行〈しっこう〉する)カトリック司祭(かとりっくしさい)(=カトリック聖職者・祭主司祭)(かとりっく しさい・さいしゅ しさい)( "Minister" ),意向(いこう)( "Intention" ),内容(ないよう)( "Matter" ),形式(けいしき)( "Form" )は秘蹟を正当(有効)(せいとう・ゆうこう)なものにするためには必要不可欠(ひつよう ふかけつ)です( "… Minister, Intention, Matter and Form are essential for validity, …" ).残りの一つ(のこりの ひとつ),形式にかかわる儀式(祭儀)(けいしきに かかわる ぎしき〈さいぎ〉)( "the Rite surrounding the Form" )は,それが祭主司祭の意向( "Minister's Intention" )に直(ただ)ちに関係(かんけい)するのか徐々に(じょじょに)( "gradual" )関係するのかによって,秘蹟の正当性(有効性)(せいとうせい・ゆうこうせい)に重要な意味(じゅうような いみ)を持ち得ます(もちえます)( "… the Rite surrounding the Form can be important for validity by its sudden or gradual bearing on the Minister's Intention." ).諸々の司祭職(もろもろの しさいしょく)の授品(じゅひん)(=品級を授与(ひんきゅうを じゅよ)すること・品級に叙〈じょ〉すること)に当(あ)たっては( "For priestly Orders," ),その(品級の秘蹟を授与する祭儀(=儀式/ミサ聖祭・ "the Rite" )を執行する祭主司祭( "the Minister" )は正当(有効)に聖別された司教(せいべつされた しきょう)( "validly consecrated bishop" )でなければなりません( "For priestly Orders, the Minister has to be a validly consecrated bishop ; …" ).司祭職の授品(しさいしょくの じゅひん)をするに当たっての祭主司祭の意向( "the Intention" )とは授品式(じゅひんしき)において教会(きょうかい)が為すことを為す(なすことをなす)という(信仰においてキリストの聖体の神秘〈奥義〉にかかわる)(しんこうにおいて きりすとの せいたいの しんぴ〈おくぎ〉に かかわる)秘蹟(ひせき)としての(感情的〈かんじょうてき〉でなく)その司教の意向を意味(いみ)します( "… the Intention is his sacramental (not moral) intention, in ordaining, to do what the Church does ; …" ).品級の秘蹟の授与の内容(ないよう)( "the Matter" )は司教が品級を受ける男性(女性〈じょせい〉はキリストの司祭職として正当に品級を受けられません)の頭上に両手を添える(ずじょうに りょうてを そえる)(=按手する〈あんしゅする〉)ことです( "the Matter is his laying of both hands on the head of the man to be ordained (women cannot be validly ordained to the priesthood of Christ) ; …" ).授品式の形式( "the Form" )は重要な常套句(じょうとうく)すなわち祭儀で司祭職の授与を表明(ひょうめい)する一連の言葉(いちれんの ことば)です( "the Form is the crucial formula or series of words in the rite which express the conferring of the priesthood ; …" ).祭儀はその形式にまつわる他(ほか)のすべての言葉(ことば)であり,授品式典礼書(じゅひんしき てんれいしょ)( "the ceremonial rite of Ordination" )に規定(きてい)されています( "the Rite is all the other words surrounding that Form, and prescribed in the ceremonial rite of Ordination. " ).
新形式(しんけいしき)の叙階式(新)(じょかいしき〈しん〉)( "a new rite Ordination" )について言(い)えば,もし両手が頭上に添えられていれば,内容( "the Matter" )の点(てん)で問題(もんだい)はありません( "In a new rite Ordination, if both hands are laid on the head, the Matter is no problem." ).ラテン語での新形式(らてんご での しんけいしき)( "The new Form in Latin" )は,どちらかと言えばラテン語での旧形式(きゅうけいしき)より正当性(=有効性)に強(つよ)くこだわっています(「ut」の代わりに「et」が使われているため)が( "The new Form in Latin is, if anything, stronger for validity than the old Form in Latin (by the « et » instead of an « ut »), …" ),他の言語(ほかの げんご・たの げんご)による訳語(やくご)を点検(てんけん)し,その司祭職( "the priesthood" )の恩寵(おんちょう)を明確(めいかく)に表(あらわ)しているかどうか確かめる必要(たしかめる ひつよう)があります( "… but vernacular translations need to be checked to make sure that they clearly express the grace of the priesthood to be conferred." ).ほとんどの訳語がそれを明確に表しているのは確かです( "Most of them surely do." ).正当性(=有効性)について実際(じっさい)に問題が持ち上がる(もんだいが もちあがる)のは祭主司祭( "the Minister" )と意向( "the Intention" )についてです( "Where real problems of validity arise is with the Minister and the Intention, …" ).その理由は,カトリック教の意向( "Catholic Intention" )が非カトリック教の新形式儀式によって徐々に浸食(しんしょく)されるからです( "… because of the gradual erosion of Catholic Intention by the uncatholic new Rites." ).
意向( "the Intention" )(いこう)について言(い)えば,今日(こんにち),司祭を叙階(新)する司教(しさいを じょかいする しきょう)は誰しも今日の教会が為すことをよろしく為そう(こんにちの きょうかいが なすことを よろしく なそう)と意向しているのは確か(たしか)でしょうが,問題(もんだい)は彼がそのことを心の中(こころの なか)でどう考(かんが)えているかです( "For, as to the Intention, any bishop today ordaining a priest surely intends to do what today's Church does, well and good, but what is that in his mind ? " ).新教会の司祭(しんきょうかいの しさい)とはどのようなものなのでしょうか?( "What is a priest in the Newchurch ? " ) 聖体の秘蹟の内に真に実在されるキリスト(せいたいの ひせきの うちに まことに じつざいされる きりすと)によってかつてのカルワリオの丘の上(かるわりお の おかの うえ)で十字架刑に処せられた真の神の御独り子イエズス・キリストの死の犠牲(じゅうじかけいに しょせられた まことの かみの おんひとりご いえずす・きりすとの しの ぎせい)( "the Sacrifice of Calvary" )(=新約=神と人との間に結ばれた新しい契約)(かみと ひととの あいだに むすばれた あたらしい けいやく)の往年の更新(おうねんの こうしん)を説いてきた司祭(といてきた しさい)が,ゆっくりながらも着実(ちゃくじつ)に聖体(拝領の)ピクニック(せいたい はいりょうの ぴくにっく)の取りまとめ役(とりまとめ やく)に取って代わられ(とって かわられ)つつあるのではないでしょうか?( "Is not yesteryear's renewer of the Sacrifice of Calvary by the Real Presence being slowly but steadily replaced by today's co-ordinator of eucharistic picnics ? " ) 世界中の司教区(せかいじゅうの しきょうく)でこの変化(へんか)がどの程度進んで(どのていど すすんで)いるのでしょうか?( "How far along is this process in any given diocese of the world ? " ) 司教(しきょう)たちが教会が為す(きょうかいが なす)こととして,犠牲(ぎせい)のいけにえを捧げる者(ささげる もの)とピクニックを楽しむ者(たのしむ もの)のどちらを念頭に置いて(ねんとうに おいて)きたのでしょうか?( "Did this or that bishop have in mind a sacrificer or a picnicker as being what the Church does ? " ) 叙階(じょかい)(新)を与(あた)える司教の上辺の振る舞い(うわべのふるまい)は彼の意向を示す(かれの いこうを しめす)でしょうが,その真意は神のみぞ知る(しんいは かみのみぞ しる)です( "The ordaining bishop's outward behaviour will indicate his Intention, but God alone may know for sure. " ).新式ミサ聖祭祭儀(みさ せいさい さいぎ)( "new Rites of Mass" )の多く(おおく)はピクニックの方(ほう)へ傾(かたむ)いているのは確(たし)かで( "Certainly many new Rites of Mass incline towards the picnicker, …" ),形式(けいしき)にかかわる新式叙階式(しんしき じょかい しき)にはカトリック的な内容( "the Form" )が著しく減って(いちじるしく へって)きているため,叙階を施す司教(じょかいを ほどこす しきょう)のカトリック秘蹟としての意向(かとりっく ひせき としての いこう)( "the sacramental Intention" )を徐々に蝕んで(じょじょに むしばんで)います( "… and the new Rite of Ordination surrounding the Form can only help by its severely diminished catholic content to undermine gradually the sacramental Intention of an ordaining bishop. " ).
そして,祭主司祭(=祭儀を執行する聖職者)( "the Minister" )について言えば( "And as to the Minister, …" ),もし授品(=品級を授ける/叙すること)を施す司教自身が新式叙階式(新)で叙階(新)された司教であるなら( "… if the ordaining bishop was himself consecrated bishop with the new rite of consecration, …" ),新形式の叙階(新)の曖昧さは膨らむ(あいまいさは ふくらむ)でしょうが( "… let us assume that the ambiguity of the new Form of consecration is lifted by the words immediately following, …" ),それでも司教の意向( "the Intention of the bishop" )について上に述べたような疑問が生じる(ぎもんが しょうじる)と言わざるを得ません( "… nevertheless doubts like those above as to the Intention of the bishop consecrating must arise: …" ).つまり,彼は今日の教会がいけにえを捧げる者とピクニックを楽しむ者のどちらを聖別すると考え,それを自らの意向としたのでしょうか?( "… did he consider, and therefore have as his Intention, that today's Church consecrates makers of the Sacrifice, or of picnics ? " )多くの場合この疑問には明確な答えは得られません( "Such questions can often lack clear answers. " ).
手短に言えば,もし私が教皇なら,「新式」( "renewed" )諸儀式( "rites" )で(品級の)授品や聖別を受けたすべての司祭あるいは司教に対し場合によってはもう一度授品(じゅひん)し(=品級を授かる〈ひんきゅうを さずかる〉),聖別を受ける(せいべつを うける)( "re-ordained or re-consecrated" )よう求めるかもしれません( "In brief, were I Pope, I think I might require that all priests or bishops ordained or consecrated with the « renewed » rites should be conditionally re-ordained or re-consecrated, …" ).その理由は彼らが正当な司祭,司教でないと考えるからではなく( "… not because I would believe that none of them were true priests or bishops, …" ),むしろ逆に聖別に関するあらゆる深刻な疑念(しんこくな ぎねん)は取り除く(とりのぞく)べきで( "… on the contrary, but because when it comes to the sacraments all serious doubts must be removed, …" ),そうすることが起こりうる疑念(おこりうる ぎねん)をなくす最も簡潔な方法(もっとも かんけつな ほうほう)だと考(かんが)えるからです( "… and that would be the simplest way of removing all possible doubts." ).このように諸々のカトリック教の秘蹟( "the sacraments" )についての新教会の腐敗( "Newchurch rot" )は放置されたままにしておいてはいけません( "Newchurch rot of the sacraments could not be left hanging around." ).(訳注後記)
キリエ・エレイソン.( "Kyrie eleison." )
新教会の司祭は品級を受け直させるべきか?
( "Should a Newchurch priest be re-ordained, or not ?" )
新教会が徐々に腐敗(じょじょに ふはい)しているため,
答えは定まらない(こたえは さだまらない).
( "Answer unsure, from gradual Newchurch rot." )
リチャード・ウィリアムソン司教
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訳注:
最後のパラグラフの訳注:
『司教聖別』"Consecration" と『司祭授品』"Ordination" の秘跡 "the Sacraments" について
・日本では伝統的には『司教聖別』はまた『司教叙階』ともいわれ,「司祭に叙する『司祭授品』〈=司教が品級を授けること)とは区別された.」
「新式叙階」について,何が問題となるか?についての解説
・現在の「叙階」は,昔の『叙階』と意味が異なる.昔の『叙階』はまた『聖別』と呼ばれ,「司祭」の場合ではなく,『司教』の場合についてのみ使われる用語である.
・現在,日本におけるカトリック教会では,ある男子修道士を『司教』に叙する場合も『司祭』に叙する場合も総じて「叙階〈じょかい〉」と呼ばれている.
・かつては伝統的に,司教に叙せられる儀式が『叙階式』または『聖別式』( = "consecratio" )と呼称され,司祭に叙せられる場合の『授品式』( "ordinatio" )と区別されていた.
・したがって,ここで議論になるのは, 「ローマ司教たる『ローマ教皇』も含めて,『司教』を第二バチカン公会議体制下における新しい形式に則(のっと)って『叙階』するということの問題点」,すなわち, 「『司祭』授品の段階以前に『司教』を人間的創設された(つまり真の神が関わらない)新しい形式に従って〈現〉叙階(=〈旧〉聖別・〈旧〉叙階)(= "consecratio" ))をすることの,カトリック秘蹟の真実性に鑑(かんが)みた問題点」 についてである.
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第二バチカン公会議以前
・司祭の場合:旧『授品』= "ordinatio"(ラテン語), "ordination", "to ordain"(英語)
・司教の場合:旧『聖別』(=旧『叙階』)= "consecratio"(ラテン語), "consecration", "to consecrate"(英語) …両者は別用語だった.
第二バチカン公会議以降現在まで
・現「叙階」とは … 「司祭」の『授品』+「司教」の『聖別(=旧『叙階』)』
…両者とも一緒に同一用語「叙階(新)」に統一・定義されている.
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カトリック教会の正当・有効な秘蹟は,救世・救霊のために必須のものである.
・神は真実(真)であり,真の神の教会(=カトリック教会)の秘跡もまた然り,真実そのものである.
・真実を人為的(じんいてき)に曲(ま)げれば,人間は神から授かった自(みずか)らの生命を曲げて死の滅びに追いやる(せいめいをまげて しのほろびに おいやる)ことになる.
・カトリック教会の秘跡は,神からの授かりもの(さずかりもの)=天為(てんい)のものである.
・地上において奉献される「ミサ聖祭」は,地上で安息(あんそく)を得るために「地上において」まだ地上に生きているうちに「天国の安息」を味わうことではない.
・人類の罪を贖(あがな)う犠牲の生け贄(ぎせいの いけにえ)(=神の羔〈仔羊〉〈かみの こひつじ〉)〈訳注・神の羔は神の御独り子であり,罪の汚れが全くない〉を奉献(ほうけん)し,
・犠牲の生け贄によって贖われる(あがなわれる)ことなしには決してなだめることが出来ない
・人類の重い罪(じんるいの おもい つみ)(神からの諸々の恩寵に逆らう忘恩〈かみからの もろもろの おんちょうに さからう ぼうおん〉)
・に対する神の激しい御怒り(かみの はげしい おんいかり)をなだめ,
・犠牲の生け贄を神に奉献することにより人類の犯した罪(じんるいの おかした つみ)のゆるしを神に請(こ)うための祭儀(儀式)が,カトリック教会のミサ聖祭祭儀である.
・それゆえ,真の神の正義の御怒りをなだめるための「神の羔」として,人類史上でただ一度だけ,
・御自身を犠牲の生け贄として差し出されて世を罪の呪い(=死の罰)から救われた「救世主」たる神の御独り子「イエズス・キリスト」の救霊の御業(きゅうれいの おんわざ)を記念(きねん)して,
・「ミサ聖祭」すなわち「過ぎ越し(すぎこし)(ほふられた神の仔羊の御血(かみの こひつじの おんち)により死すべき運命から命を救われる)」が,
・現世で罪深い人類が生き続ける限り代々行われる(じんるいが いきつづけるかぎり よよ おこなわれる)のである.
・こうして,罪の全くない神の御独り子が成し遂げた(かみの おんひとりごが なしとげた)救世の御業(きゅうせいの おんわざ)を,真のミサ聖祭の祭儀(まことの みさせいさいの さいぎ)を通(とお)して,代々の人類に告げ知らせて(よよの じんるいに つげしらせて)いくのである.
・地上のすべての生命体は,無意味に突然ふってわいてきたものではない.
・「科学」があらゆる存在を証明するのではなく,全知全能の創造主たる神が「あらゆる科学的法則」のもとに万物を創造された.
・そして,人間は肉体だけで存在しているのではなく,霊的な存在として生きている.
・地上で身体が死に,腐敗した後は,全てがなくなり終わるのではなく,霊魂は生き続け,善くも悪くも来世へとつながり,
・現世を善人として過ごした者には,永遠の生命たる神の御祝福(かみの おんしゅくふく),また
・現世を悪人(他者に害を加えた者)として過ごした者には,神の摂理(かみの せつり)によって下される永劫の罰(えいごうの ばつ)による神の呪い(かみの のろい)へと,
・霊魂の生命は続いていく.
・それで,人類は誰しも,生まれながらに神に備えられている霊感によって,「死者を弔う(ししゃを とむらう)」ことを人生で心に覚える.
・「霊」の存在することをわきまえない人間が,現世で(宇宙・地上の)万物を支配・操作しようとするのは,無知の為せる業(むちの なせる わざ)である.
・人間は「肉体だけの存在ですべて終わる」のではないからである.
・他者を私利私欲(しり しよく)のために犠牲にした罪は,必ず償(つぐな)わなければならない.
・慈愛と正義の神の御目(じあいと せいぎの かみの おんめ)は,決して節穴(ふしあな)ではない.
・聖ヨハネによる聖福音書:第1章1-18節を参照.
『みことばの神性とその托身』 みことば=真の光(まことのひかり)=イエズス・キリスト
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(I)
・現在の世界における,人類社会状況の問題点について,
・第二バチカン公会議体制のいかなる点が問題となるのか,
・更なる議論・考察等を追補したいと思います.
(II)
・神の御言葉(聖書)からの引用箇所を追補いたします.
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2014年5月3日土曜日
355 さらばSSPX 5/3
エレイソン・コメンツ 第355回 (2014年5月3日)
今回(こんかい)はフランスからの悪いニュース(ふらんす からの わるい にゅーす)です.40年にわたる聖ピオ十世会(よんじゅうねんに わたる せいぴお じゅっせいかい) ( "St Pius X"="SSPX" ) のローマ教皇庁モダニスト(近現代主義者)(ろーま きょうこうちょうもだにすと〈きん げん だい しゅぎ しゃ〉たちとの信仰(しんこう)をめぐる争い(あらそい)が事実上終わり(じじつじょう おわり)ました( "Bad news from France : the 40-year fight for the Faith by the Society of St Pius X against the modernists in Rome is virtually over." ). ああ,諸々(もろもろ)の SSPX の小修道院(しょう しゅうどういん),学校(がっこう),神学校(しん がっこう)および関連(かんれん)女子修道院(じょし しゅうどういん),男子修道院(だんし しゅうどういん)はきちんとした(有効な)秘跡(ゆうこうな ひせき)やまっとうな(=まともな)教理(きょうり)を施(ほどこ)すため少(すく)なくともしばらく機能し続け(きのう しつづけ),(カトリック教会の)伝統(かとりっく きょうかいの でんとう)( "Tradition" )の体裁を保つ(ていさいを たもつ)でしょうが,完ぺきな(完全な)(かんぺきな〈かんぜんな〉)信仰を守るための本質的な争い(必要不可欠な戦い)(しんこうを まもるための たたかい〈ひつよう ふかけつな たたかい〉)( "the essential fight for the complete Faith" )は,やがて外部による検閲もしくは自己検閲(がいぶに よる けんえつ もしくは じこ けんえつ)を通して存在(とおして そんざい)しなくなるでしょう( "Oh, the Society's priories, schools, seminaries and associated convents and monasteries will continue to function, to provide for at least a while valid sacraments and decent doctrine, maintaining all the appearances of Tradition, but the essential fight for the complete Faith will be censored, or self-censored, out of existence." ).今後(こんご)は,ごく限られた司祭(かぎられた しさい)たちだけがルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )のなされたことを理解(りかい)し,勇気(ゆうき)をもって( SSPX の)隊列を離れ(たいれつを はなれ),身を隠す(みを かくす)ことになりそうです( "It looks like being only a limited number of priests more that will have the understanding of Archbishop Lefebvre's work and the necessary courage to break ranks and take to the hills." ).
悪いニュース(わるい にゅーす)とは,ローマのモダニスト(ろーまの もだにすと)たちが SSPX に対し「寛容な承認」(かんような しょうにん)( "a recognition of tolerance" )を与(あた)えようとしていることです( "The news is that the modernists in Rome are offering to the Society a « recognition of tolerance » …" ).この承認には SSPX 内部(ないぶ)で2012年の春と初夏(はると しょか)にローマとの取引き(ろーまとの とりひき)をめぐり大反対が起きた時(だいはんたいが おきたとき)に持ち上がった(もちあがった)正式合意もしくは署名文書(せいしき ごうい もしくは しょめい ぶんしょ)などいっさい必要(ひつよう)ないというのです( "… without the need for any formal agreement or signed document such as raised within the SSPX so much opposition to a deal with Rome in the spring and early summer of 2012." ). SSPX 第2補佐官(だいに ほさかん)( "Second Assistant" )のアラン・ネリー神父(あらん・ねりー しんぷ)( "Fr. Alain Nély" )はこのことを3か月前(さんかげつ まえ),ある男子修道院と女子修道院の院長(だんし しゅうどういんと じょし しゅうどういん)たちに熱意(ねつい)をこめて伝(つた)えています( "Here is the essence of how the Society's Second Assistant, Fr. Alain Nély, expressed it, with enthusiasm, to Superiors of a monastery and convent three months ago : …" ).その核心部分(かくしん ぶぶん)は次(つぎ)のようなものです.「 SSPX にとっての解決案(かいけつ あん)は私(わたし)たちがローマから一方的に承認される(ろーま から いっぽうてきに しょうにん される)ということです …… 私たちはいかなる文書(ぶんしょ)にも署名(しょめい)するよう求(もと)められません …… これから事態がどう展開(じたいが どう てんかい)するか …… 成り行きを見守り(なりゆきを みまもり)ましょう.」( "… « The solution for the SSPX will be its unilateral recognition by Rome...we will not be asked to sign anything...to see how things evolve...we shall see. »" ) ネリー神父の明かした内容(あかした ないよう)が広(ひろ)まるのを避(さ)けるため, SSPX 総長(そうちょう)は二人の修道院長宛て(あて)に,いかなる種類(しゅるい)の「合意」(ごうい)が成立する見通し(せいりつする みとおし)もないのだから,あなたたちはネリー神父の発言を誤解(はつげんを ごかい)している,と伝える手紙を送り(つたえる てがみを おくり)ました( "To prevent such a revelation from spreading, the Society's Superior General wrote to the two Superiors concerned that they had misunderstood Fr. Nély's remarks because there was no kind of « agreement » in view." ).むろん「合意」などないのでしょう.そこにあるのは,署名なしの「承認」提案(ていあん)があったという狡(ずる)さだけです( "Of course not. Therein lies the cunning of the proposed « recognition » without signature." ).提案はSSPXの司祭(しさい)たちに何の変化(なんの へんか)もなかったかのように装い(よそおい),これまでとまったく同(おな)じように職務を続ける(しょくむを つづける)ことを認(みと)めています( "It will allow numbers of SSPX priests to pretend that nothing will have changed so that they can continue their ministry just as before." ).したがって、フェレー司教自身(ふぇれー しきょう じしん)が最近ツァイツコーフェン(つぁいつ こーふぇん)( "Zaitzkofen" )(訳注:ドイツ・バイエルン州の都市〈どいつ・ばいえるん しゅうの とし〉)の神学校生徒(しんがっこう せいと)たちに「合意文書に署名するといった問題(ごうい ぶんしょに しょめいする といった もんだい)などいっさいありません,等等〈とうとう〉」等(など)と述(の)べたと伝(つたえています( "Thus, as reported, Bishop Fellay himself recently told SSPX seminarians in Zaitzkofen : « There is no question of signing any agreement, etc., etc. » " ).しかし,彼は10分後に「だが,もしローマが私たちに寛容な承認を提案するというのであれば話(はなし)はまったく別(べつ)です.それはとても結構(けっこう)なことです」と付け加えた(つけ くわえた)そうです( "However, ten minutes later, « But if Rome proposes a recognition of tolerance for us, that's a different matter, that would be very good. » " ).
そういうことであれば,多数(たすう)の SSPX 司祭(しさい)たちは近(ちか)いうち素直(すなお)に彼らの公式な指導者(こうしきな しどうしゃ)たちに従(したが)ってローマの愛すべきモダニストたちの胸のなかに飛びこむこ(ろーまの あいすべき もだにすとたちの むねの なかに とびこむ)とになる可能性大(かのう せい だい)です( "And so there is every likelihood, sooner rather than later, that the large number of SSPX priests will docilely follow their official leaders into the embrace of the loving modernists in Rome, …" ).彼らは時が経つ(ときが たつ)につれローマに固く抱き(かたく だき)しめられ,その結果(けっか),公的教会を滅ぼし(こうてき きょうかいを ほろぼし)数百万人の霊魂を地獄への道に突き落とした恐ろしいモダニズム(すうひゃく まんにんの れいこんを じごくへの みちに つきおとした おそろしい もだにずむ)と戦い続ける意欲を失う(たたかい つづける いよくを うしなう)ことになるでしょう( "… an embrace that will become over time as tight as necessary to stifle any remaining effort to fight against that deadly modernism which is killing off the official Church and putting millions of souls on the path to Hell." ).人によっては,これまでのことを振り返り(ふりかえり),フェレー司教(ふぇれー しきょう)は少(すく)なくとも過去15年間(かこ じゅうご ねんかん),そういう事態(じたい)をもたらすためローマ教皇庁の人々(ろーま きょうこう ちょうの ひとびと)と組(く)んで巧妙に動いて(こうみょうに うごいて)きたと勘(かん)ぐりたくなるでしょう( "In retrospect one may guess that Bishop Fellay has worked skilfully with the Romans towards this embrace for at least the last 15 years." ).デガラレタ司教(でがられた しきょう)( "Bishop de Galarreta" )は問題の本質を見抜いて(もんだいの ほんしつを みぬいて)きましたが,自らの命運(みずからの めいうん)をフェレー司教に委(ゆだ)ねました( "Bishop de Galarreta has seen what is at stake, but has thrown in his lot with Bishop Fellay." ).ティシエ司教(てぃしえ しきょう)( "Bishop Tissier" )もルフェーブル大司教のなされたことに対(たい)するこの恐ろしい脅威(おそろしい きょうい)をはっきり理解(りかい)していても( "Bishop Tissier also sees clearly the deadly threat to the Archbishop's work, …" ),従順と結束(じゅうじゅんと けっそく)という通常のルール(つうじょうの るーる)より信仰を大切に(しんこうを たいせつに)するという大司教の教え(だいしきょうの おしえ)に従う必要性(したがう ひつようせい)までは理解(りかい)できずにいます( "… but he cannot see the need to follow the Archbishop's example of putting the Faith before all normal rules of obedience and unity." ).
親愛なる友人の皆さん(しんあいなる ゆうじんの みなさん),そういうわけですから,もし私たちが信仰の豊かさ(しんこうの ゆたかさ)を守り続けることを望み(まもり つづける ことを のぞみ),ほかの人々(ひとびと)も同じようにすることを望む(おなじ ように することを のぞむ)のであれば,私たちは身を隠さなければ(みを かくさな ければ)なりません( "And so, dear friends, if we wish to keep the fullness of the Faith and help others to do so, we must take to the hills." ).何も恐れる(なにも おそれる)ことはありません.毅然(きぜん)としてください( "Have no fear. Keep a cool head." ).失望(しつぼう)したり落胆(らくたん)したりする必要(ひつよう)などありません( "There is no need to lose heart, or despair." ).神(かみ)が変(か)わることはありません( "God does not change, …" ).ですから神のための戦い(たたかい)はこれまで以上(いじょう)に輝(かが)かしいものになります( "… and the fight for his cause becomes more glorious than ever." ).司祭の皆さん(しさいの みなさん),注意を怠らず(ちゅういを おこたらず),とりわけ SSPX 内(ない)に何の変化(なんの へんか)もないなどと思い違い(おもい ちがい)をしないようにしてください( "Priests, keep watch, and above all do not deceive yourselves that nothing in the Society is changing." ).一般信徒の皆さん(いっぱんしんとの みなさん),同(おな)じく注意を怠らず,祈(いの)ってください.神はあなた方の祈りに見合う指導者や司祭たち(いのりに みあう しどうしゃや しさいたち)を与(あた)えてくださいます( "Layfolk, keep watch also, and pray, and God will give you the leaders and priests of your prayers." ).神に信頼し,そして祝福された神の御母(=聖母)に信頼しましょう( "In God we trust, and in his Blessed Mother." ).
キリエ・エレイソン.
カトリック教徒(かとりっく きょうと)たちよ,ローマ(教皇庁)が
承認を願う叫びを
果たそうとするのを見届けたら,身を隠しなさい!
(かとりっく きょうとたちよ,ろーま きょうこう ちょうが
しょうにんを ねがう さけびを
はたそうと するのを みとどけたら,みを かくしなさい)
( "Catholics, when you see how Rome fulfils
A cry for recognition, take to the hills ! " )
リチャード・ウィリアムソン司教
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今回(こんかい)はフランスからの悪いニュース(ふらんす からの わるい にゅーす)です.40年にわたる聖ピオ十世会(よんじゅうねんに わたる せいぴお じゅっせいかい) ( "St Pius X"="SSPX" ) のローマ教皇庁モダニスト(近現代主義者)(ろーま きょうこうちょうもだにすと〈きん げん だい しゅぎ しゃ〉たちとの信仰(しんこう)をめぐる争い(あらそい)が事実上終わり(じじつじょう おわり)ました( "Bad news from France : the 40-year fight for the Faith by the Society of St Pius X against the modernists in Rome is virtually over." ). ああ,諸々(もろもろ)の SSPX の小修道院(しょう しゅうどういん),学校(がっこう),神学校(しん がっこう)および関連(かんれん)女子修道院(じょし しゅうどういん),男子修道院(だんし しゅうどういん)はきちんとした(有効な)秘跡(ゆうこうな ひせき)やまっとうな(=まともな)教理(きょうり)を施(ほどこ)すため少(すく)なくともしばらく機能し続け(きのう しつづけ),(カトリック教会の)伝統(かとりっく きょうかいの でんとう)( "Tradition" )の体裁を保つ(ていさいを たもつ)でしょうが,完ぺきな(完全な)(かんぺきな〈かんぜんな〉)信仰を守るための本質的な争い(必要不可欠な戦い)(しんこうを まもるための たたかい〈ひつよう ふかけつな たたかい〉)( "the essential fight for the complete Faith" )は,やがて外部による検閲もしくは自己検閲(がいぶに よる けんえつ もしくは じこ けんえつ)を通して存在(とおして そんざい)しなくなるでしょう( "Oh, the Society's priories, schools, seminaries and associated convents and monasteries will continue to function, to provide for at least a while valid sacraments and decent doctrine, maintaining all the appearances of Tradition, but the essential fight for the complete Faith will be censored, or self-censored, out of existence." ).今後(こんご)は,ごく限られた司祭(かぎられた しさい)たちだけがルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )のなされたことを理解(りかい)し,勇気(ゆうき)をもって( SSPX の)隊列を離れ(たいれつを はなれ),身を隠す(みを かくす)ことになりそうです( "It looks like being only a limited number of priests more that will have the understanding of Archbishop Lefebvre's work and the necessary courage to break ranks and take to the hills." ).
悪いニュース(わるい にゅーす)とは,ローマのモダニスト(ろーまの もだにすと)たちが SSPX に対し「寛容な承認」(かんような しょうにん)( "a recognition of tolerance" )を与(あた)えようとしていることです( "The news is that the modernists in Rome are offering to the Society a « recognition of tolerance » …" ).この承認には SSPX 内部(ないぶ)で2012年の春と初夏(はると しょか)にローマとの取引き(ろーまとの とりひき)をめぐり大反対が起きた時(だいはんたいが おきたとき)に持ち上がった(もちあがった)正式合意もしくは署名文書(せいしき ごうい もしくは しょめい ぶんしょ)などいっさい必要(ひつよう)ないというのです( "… without the need for any formal agreement or signed document such as raised within the SSPX so much opposition to a deal with Rome in the spring and early summer of 2012." ). SSPX 第2補佐官(だいに ほさかん)( "Second Assistant" )のアラン・ネリー神父(あらん・ねりー しんぷ)( "Fr. Alain Nély" )はこのことを3か月前(さんかげつ まえ),ある男子修道院と女子修道院の院長(だんし しゅうどういんと じょし しゅうどういん)たちに熱意(ねつい)をこめて伝(つた)えています( "Here is the essence of how the Society's Second Assistant, Fr. Alain Nély, expressed it, with enthusiasm, to Superiors of a monastery and convent three months ago : …" ).その核心部分(かくしん ぶぶん)は次(つぎ)のようなものです.「 SSPX にとっての解決案(かいけつ あん)は私(わたし)たちがローマから一方的に承認される(ろーま から いっぽうてきに しょうにん される)ということです …… 私たちはいかなる文書(ぶんしょ)にも署名(しょめい)するよう求(もと)められません …… これから事態がどう展開(じたいが どう てんかい)するか …… 成り行きを見守り(なりゆきを みまもり)ましょう.」( "… « The solution for the SSPX will be its unilateral recognition by Rome...we will not be asked to sign anything...to see how things evolve...we shall see. »" ) ネリー神父の明かした内容(あかした ないよう)が広(ひろ)まるのを避(さ)けるため, SSPX 総長(そうちょう)は二人の修道院長宛て(あて)に,いかなる種類(しゅるい)の「合意」(ごうい)が成立する見通し(せいりつする みとおし)もないのだから,あなたたちはネリー神父の発言を誤解(はつげんを ごかい)している,と伝える手紙を送り(つたえる てがみを おくり)ました( "To prevent such a revelation from spreading, the Society's Superior General wrote to the two Superiors concerned that they had misunderstood Fr. Nély's remarks because there was no kind of « agreement » in view." ).むろん「合意」などないのでしょう.そこにあるのは,署名なしの「承認」提案(ていあん)があったという狡(ずる)さだけです( "Of course not. Therein lies the cunning of the proposed « recognition » without signature." ).提案はSSPXの司祭(しさい)たちに何の変化(なんの へんか)もなかったかのように装い(よそおい),これまでとまったく同(おな)じように職務を続ける(しょくむを つづける)ことを認(みと)めています( "It will allow numbers of SSPX priests to pretend that nothing will have changed so that they can continue their ministry just as before." ).したがって、フェレー司教自身(ふぇれー しきょう じしん)が最近ツァイツコーフェン(つぁいつ こーふぇん)( "Zaitzkofen" )(訳注:ドイツ・バイエルン州の都市〈どいつ・ばいえるん しゅうの とし〉)の神学校生徒(しんがっこう せいと)たちに「合意文書に署名するといった問題(ごうい ぶんしょに しょめいする といった もんだい)などいっさいありません,等等〈とうとう〉」等(など)と述(の)べたと伝(つたえています( "Thus, as reported, Bishop Fellay himself recently told SSPX seminarians in Zaitzkofen : « There is no question of signing any agreement, etc., etc. » " ).しかし,彼は10分後に「だが,もしローマが私たちに寛容な承認を提案するというのであれば話(はなし)はまったく別(べつ)です.それはとても結構(けっこう)なことです」と付け加えた(つけ くわえた)そうです( "However, ten minutes later, « But if Rome proposes a recognition of tolerance for us, that's a different matter, that would be very good. » " ).
そういうことであれば,多数(たすう)の SSPX 司祭(しさい)たちは近(ちか)いうち素直(すなお)に彼らの公式な指導者(こうしきな しどうしゃ)たちに従(したが)ってローマの愛すべきモダニストたちの胸のなかに飛びこむこ(ろーまの あいすべき もだにすとたちの むねの なかに とびこむ)とになる可能性大(かのう せい だい)です( "And so there is every likelihood, sooner rather than later, that the large number of SSPX priests will docilely follow their official leaders into the embrace of the loving modernists in Rome, …" ).彼らは時が経つ(ときが たつ)につれローマに固く抱き(かたく だき)しめられ,その結果(けっか),公的教会を滅ぼし(こうてき きょうかいを ほろぼし)数百万人の霊魂を地獄への道に突き落とした恐ろしいモダニズム(すうひゃく まんにんの れいこんを じごくへの みちに つきおとした おそろしい もだにずむ)と戦い続ける意欲を失う(たたかい つづける いよくを うしなう)ことになるでしょう( "… an embrace that will become over time as tight as necessary to stifle any remaining effort to fight against that deadly modernism which is killing off the official Church and putting millions of souls on the path to Hell." ).人によっては,これまでのことを振り返り(ふりかえり),フェレー司教(ふぇれー しきょう)は少(すく)なくとも過去15年間(かこ じゅうご ねんかん),そういう事態(じたい)をもたらすためローマ教皇庁の人々(ろーま きょうこう ちょうの ひとびと)と組(く)んで巧妙に動いて(こうみょうに うごいて)きたと勘(かん)ぐりたくなるでしょう( "In retrospect one may guess that Bishop Fellay has worked skilfully with the Romans towards this embrace for at least the last 15 years." ).デガラレタ司教(でがられた しきょう)( "Bishop de Galarreta" )は問題の本質を見抜いて(もんだいの ほんしつを みぬいて)きましたが,自らの命運(みずからの めいうん)をフェレー司教に委(ゆだ)ねました( "Bishop de Galarreta has seen what is at stake, but has thrown in his lot with Bishop Fellay." ).ティシエ司教(てぃしえ しきょう)( "Bishop Tissier" )もルフェーブル大司教のなされたことに対(たい)するこの恐ろしい脅威(おそろしい きょうい)をはっきり理解(りかい)していても( "Bishop Tissier also sees clearly the deadly threat to the Archbishop's work, …" ),従順と結束(じゅうじゅんと けっそく)という通常のルール(つうじょうの るーる)より信仰を大切に(しんこうを たいせつに)するという大司教の教え(だいしきょうの おしえ)に従う必要性(したがう ひつようせい)までは理解(りかい)できずにいます( "… but he cannot see the need to follow the Archbishop's example of putting the Faith before all normal rules of obedience and unity." ).
親愛なる友人の皆さん(しんあいなる ゆうじんの みなさん),そういうわけですから,もし私たちが信仰の豊かさ(しんこうの ゆたかさ)を守り続けることを望み(まもり つづける ことを のぞみ),ほかの人々(ひとびと)も同じようにすることを望む(おなじ ように することを のぞむ)のであれば,私たちは身を隠さなければ(みを かくさな ければ)なりません( "And so, dear friends, if we wish to keep the fullness of the Faith and help others to do so, we must take to the hills." ).何も恐れる(なにも おそれる)ことはありません.毅然(きぜん)としてください( "Have no fear. Keep a cool head." ).失望(しつぼう)したり落胆(らくたん)したりする必要(ひつよう)などありません( "There is no need to lose heart, or despair." ).神(かみ)が変(か)わることはありません( "God does not change, …" ).ですから神のための戦い(たたかい)はこれまで以上(いじょう)に輝(かが)かしいものになります( "… and the fight for his cause becomes more glorious than ever." ).司祭の皆さん(しさいの みなさん),注意を怠らず(ちゅういを おこたらず),とりわけ SSPX 内(ない)に何の変化(なんの へんか)もないなどと思い違い(おもい ちがい)をしないようにしてください( "Priests, keep watch, and above all do not deceive yourselves that nothing in the Society is changing." ).一般信徒の皆さん(いっぱんしんとの みなさん),同(おな)じく注意を怠らず,祈(いの)ってください.神はあなた方の祈りに見合う指導者や司祭たち(いのりに みあう しどうしゃや しさいたち)を与(あた)えてくださいます( "Layfolk, keep watch also, and pray, and God will give you the leaders and priests of your prayers." ).神に信頼し,そして祝福された神の御母(=聖母)に信頼しましょう( "In God we trust, and in his Blessed Mother." ).
キリエ・エレイソン.
カトリック教徒(かとりっく きょうと)たちよ,ローマ(教皇庁)が
承認を願う叫びを
果たそうとするのを見届けたら,身を隠しなさい!
(かとりっく きょうとたちよ,ろーま きょうこう ちょうが
しょうにんを ねがう さけびを
はたそうと するのを みとどけたら,みを かくしなさい)
( "Catholics, when you see how Rome fulfils
A cry for recognition, take to the hills ! " )
リチャード・ウィリアムソン司教
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