エレイソン・コメンツ 第354回 (2014年4月26日)
牧者(ぼくしゃ)が倒れたままの状態(たおれた ままの じょうたい)でも信仰を守り続け(しんこうを まもり つづけ)なければなりません(エレイソン・コメンツ348号を参照)( "The Faith must be preserved despite the Shepherd being struck (cf. EC 348)." ).苦難の時期に( "in stricken times" ),私たちがどうやってミサ聖祭の本当の犠牲(みさ せいさいの ほんとうの ぎせい)(訳注後記1)とカトリック教聖職の本分(かとりっく きょう せいしょくの ほんぶん)を保持(ほじ)し( "by preserving the true sacrifice of the Mass and the true Catholic priesthood" ),信仰を守るかを示す(しんこうを まもるかを しめす)ため( "to show us how to keep the Faith" )神が私たちに与えられた人物(わたしたちに あたえられた じんぶつ)がいるとすれば,その人は間違(まちが)いなくルフェーブル大司教(1950-1991年)(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre (1905-1991) " )です( "If there was one man given to us by God to show us how to keep the Faith in stricken times, by preserving the true sacrifice of the Mass and the true Catholic priesthood, that man was certainly Archbishop Lefebvre (1905-1991)." ).そして,第二公会議派の牧者たち(だいに こうかいぎはの ぼくしゃたち)( “the Consiliar Shepherds” )が教会にもたらした災難(きょうかいに もたらした さいなん)( “the disaster” )は大司教が存命中の頃(ぞんめいちゅうの ころ)から本質的(ほんしつ てき)になにも変(か)わっていないため,彼が話され,書き残されたこと(はなされ,かき のこされた こと)は本質的にそのまま現代(げんだい)にも当て(あて)はまります( "And since the disaster wrought upon the Church by the Conciliar Shepherds has not essentially changed since his time, then what he said and wrote applies essentially today, …" ).この災難(さいなん)を初めて体験(はじめて たいけん)される人々(ひとびと)にとっての最良の方法(さいりょうの ほうほう)は,大司教が残された言葉(だいしきょうが のこされた ことば)をよく読み,学ぶ(よく よみ,まなぶ)ことです( "… and any newcomer to the disaster cannot do better than read and study his words." ).(訳注後記1・ミサ聖祭の本当の犠牲について)
だが,災難は変わらない(さいなんは かわらない)どころか,大司教の死後(だいしきょうの しご)もっとひどくなっています( "However, the disaster has also grown much worse since his death, …" ).現在,進行中(げんざい,しんこうちゅう)のいわゆる「抵抗運動」(ていこう うんどう)( “Resistance” )に携(たずさ)わる人々は信仰を守る(しんこうを まもる)ため,大司教の並外れた業績(なみはずれた ぎょうせき)により創設(そうせつ)された聖ピオ10世会( "Society of St Pius X",以下 "SSPX" と記す〈しるす〉. )が,崩(くず)れかかっている教会主流派(きょうかい しゅりゅうは)の中(なか)で,破たん(はたん)しかかっている現実(げんじつ)から教訓を学ぶ(きょうくんを まなぶ)といいでしょう( "… and any so-called movement of “Resistance” today will do well to learn the lessons that are there to be learned from the threatening fall of that Society of St Pius X which it was the Archbishop’s stupendous achievement to found, within the collapsing mainstream Church, for the preservation of the Faith." ). SSPX の指導者(しどう しゃ)はなぜ同会を大司教の示した方向(しめした ほうこう)とまったく違う(ちがう)方向へ導(みちび)こうとしているのでしょうか?( "Why is the leadership of the SSPX now taking it in a direction different from the Archbishop’s, …" ) しかも彼らが目指す(めざす)方向をたどれば, SSPXは教会主流派と同じように崩壊へ向かう(ほうかいへ むかう)というのにです( "… a direction that must lead to the SSPX’s entirely similar collapse ? " ).
私の意見(わたくしのいけん)では,その理由(その りゆう)は,大司教の1991年の死後(しご), SSPX が1994年と2006年の総会(そうかい)( "the General Chapters of 1994 and 2006" )で選出した指導者たち(せんしゅつした しどうしゃたち)が公会議のもたらした災難を正確に受け止め(せいかくに うけとめ)なかったからです( "Because, in my opinion, the leaders which the SSPX chose for itself after the Archbishop’s death in 1991 at the General Chapters of 1994 and 2006, never took the full measure of the Conciliar disaster, …" ).そして,その理由は破壊(はかい)された1950年代や革命的(かくめいてき)1960年代以降(いこう)においてさえ,彼ら指導者たちがまだ子供(こども)だったからです( "… because they were children of the undermined 1950’s or the Revolutionary 1960’s and later still." ).彼らは革命期間中(かくめい きかん ちゅう),言(い)うなれば,母乳を飲んで(ぼにゅうを のんで)いたわけです( "Having drunk in the Revolution with their mothers’ milk, so to speak, …" ).そのため,彼らは革命がいかに外見上(がいけんじょう)カトリック教徒に見える聖職者(かとりっく きょうとに みえる せいしょくしゃ)たちを内部(ないぶ)から蝕む(むしばむ)かまったく理解(りかい)しませんでした( "… they never understood how it wrecks from within churchmen still seeming Catholic without. " ).手短に言えば(てみじかに いえば),彼ら指導者たちは近代主義(モダニズム)(きんだい しゅぎ〈もだにずむ〉)( “modernism” )をまったく学(まな)ばなかったか,学んでもその内容を理解(ないようを りかい)しなかったか( "In brief, these leaders have either never studied modernism, or never understood what they studied, …" ),あるいはあまりにも「敬虔深く(けいけん ふかく)」( “pious” )「超自然的(ちょうしぜんてき)」( “supernatural” )だったため( "… or have been too “pious” or “supernatural” to think that …" ),目の前(めの まえ)にいる主流派聖職者(しゅりゅうは せいしょく しゃ)に近代主義が当(あ)てはまるなどと思(おも)いもしなかったかのいずれかです( "… it could apply to the mainstream churchmen in front of them." ) .
そのようなわけで,ルフェーブル大司教が公会議派教会(こうかいぎは きょうかい)はカトリック教会の四つの特徴( "four marks of the Catholic Church" )(かとりっく きょうかいの よっつの とくちょう)(唯一,神聖,普遍的,使徒的)( "(one, holy, catholic, apostolic)" )(ゆいいつ・しんせい・ふへんてき・しとてき)をすべて失(うしな)っているからカトリック教会(=公教会〈こうきょうかい〉)ではないと明確に判断(めいかくに はんだん)したのに対し( "Thus where Archbishop Lefebvre saw clearly that the Conciliar Church, by losing all four marks of the Catholic Church (one, holy, catholic, apostolic), was not the Catholic Church, …" ),フェレー司教(1994年いらいSSPX総長)( "Bishop Fellay (Superior General since 1994) " )とニコラス・フルーガー神父(2006年いらい第1補佐官〈だいいち ほさかん〉)( "Fr Nicholas Pfluger (First Assistant since 2006) " )は現在でも教会は一つ(げんざいでも きょうかいは ひとつ)しかなく,したがって公会議派教会がカトリック教会であると主張(しゅちょう)しています( "… Bishop Fellay (Superior General since 1994) and Fr Nicholas Pfluger (First Assistant since 2006) insist today that there can only be one Church, and so the Conciliar Church is the Catholic Church." )(訳注後記2). そのため,当然(とうぜん)のことながら,大司教がSSPXと公会議派教会とのあいだに安全な距離(あんぜんな きょり)を保ち続けた(たもち つづけた)のに対し( "Naturally then, where the Archbishop kept the SSPX at a safe distance from the Conciliar Church, …" ),フェレー司教とフルーガー神父はその距離をなくし,SSPXを公会議派教会内に戻そうと望んで(のぞんで)います( "… Bishop Fellay and Fr Pfluger want to abolish that distance and bring the SSPX back within that Church which is Conciliar." ).そして,二人(ふたり)はいずれも,その目的を成し遂げる(もくてきを なしとげる)までは,自(みずか)らがカトリック信徒(かとりっく しんと)だと感じる(かんじる)( “feel Catholic” )わけにはいかないのです( "And neither Bishop Fellay nor Fr Pfluger will feel Catholic until they have achieved that end." ).(訳注後記3)
だが,信仰(しんこう)は先ず初め(まず はじめ)に心の中(こころの なか)にあるものであり,感情の中(かんじょうの なか)にあるものではありません( "But the Faith is firstly in the mind and not in the feelings." ).したがって,いかなる理由(りゆう)にせよ,現SSPX指導部が間違った道を歩んで(まちがった みちを あゆんで)いると気づき始めた人(きづき はじめた ひと)は誰(だれ)でも革命,近代主義,第二バチカン公会議(かくめい・きんだい しゅぎ・だいに ばちかん こうかいぎ)についてのあらゆる問題点(もんだい てん)を学び続け(まなび つづけ)なければならないということになります( "It follows that whoever has, for whatever reason, begun to recognize that the present leadership of the SSPX is on the wrong track, must continue by studying the total problem of the Revolution, of modernism and of Vatican II." ).これは難題(なんだい)でしょう.革命については教科書(きょうかしょ)から得られる程度(えられる ていど)の知識(ちしき)はあっても,身近(みぢか)にはっきりと認識(にんしき)することはできないからです( "That is a tall order, because one can have a text-book knowledge of the Revolution and still not recognize it right under one’s nose. " ).私はほかの人々が気分爽快(きぶん そうかい)だと感(かん)じていると自分自身(じぶん じしん)も気分爽快になり( "I feel so nice when I feel that everybody else is nice …" ),神が私たちのほとんどについて客観的に偽って(きゃっかんてきに いつわって)いると見ている(みている)ことを見失って(みうしなって)しまいます( "… that I lose from view the objective falsity of almost all of us as seen by God." ).神が偽りと見ている(いつわりとみている)ことを私たちが慈悲心を失わずに理解(じひ しんを うしなわずに りかい)するには,神の特別の恩寵(かみの とくべつな おんちょう)がなければ無理(むり)だという人(ひと)がいるかもしれません( "One may say that it requires a special grace from God to see that falsity as he sees it, without losing one’s compassion, …" ).だが,人はとりわけ祈り(いのり)のなかで神を真剣に求め(かみを しんけんに もとめ)れば神の恩寵を得られる(かみの おんちょうを えられる)ものです( "… but a soul can obtain that grace if it seeks God seriously, especially in prayer." ).
神は神を求める者に優しい(かみは かみを もとめる ものに やさしい)と,聖書(せいしょ)はいたるところで述べて(のべて)います( "God is good to those that seek him, says Scripture in many places." ).神が存在(かみが そんざい)するとすれば,神を求める者にとって神ほど優しい存在(そんざい)はほかにあるでしょうか?( "Assuming he exists, what could he be other than supremely good to those that seek him ? " )(訳注後記4)
キリエ・エレイソン.
今日の世界は自らを素晴らしいと感じているが,
(こんにちの せかいは みずからを すばらしいと かんじて いるが,)
( "All of today’s world feels that it is nice, …" )
神の御目には,それは自己欺瞞の悪徳と映る.
(かみの おんめ には,それは じこ ぎまんの あくとくと うつる.)
( "But in God’s eyes that’s self-deceiving vice." )
リチャード・ウィリアムソン司教
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訳注メモ
第1パラグラフの訳注1:
ミサ聖祭の本当の犠牲について
第4パラグラフの訳注2:
カトリック教会の四つの特徴(唯一,神聖,普遍的,使徒的)
について
four marks of the Catholic Church (one, holy, catholic, apostolic)
同パラグラフの訳注後記3:
カトリック教会(=公教会)の意味について
・世界の人間の誰にとっても正しくあてはまる,唯一の真(まこと)の神による人生をどう生きるべきかについての教えは,古今東西において普遍的な真理・真実であり,それを公の教え(おおやけのおしえ)すなわち普遍的な教え(ふへんてきなおしえという.(聖ヨハネ聖福音書:第1章を参照).
・神に創造された人間がその唯一の真の教えに則(のっと)って生きるために,
・公教会すなわち日本では現在「カトリック教会」と呼ばれる場所で学ぶ.
・神の使者・救世主・人類の罪の贖い主たる神の御独り子イエズス・キリストの定められた代理者(=聖ペトロ〈最初のローマ司教〈=ローマ教皇〉〉及び
・その使徒的継承者たる歴代ローマ司教〈=歴代ローマ教皇〉を通じて,唯一の真の神からの権威を授けられている全世界各地の司教を通して,
・諸々の秘蹟(ひせき)(洗礼・堅振〈堅信〉・聖体・悔悛〈かいしゅん〉〈=ゆるし〉・終油〈病者の塗油〉・品級〈叙階〉・婚姻〈結婚〉の諸秘蹟)を受け,
・神の御加護のもとに,地上の天職に与(あずか)り,
・神の慈愛と正義による法(=モーゼの十戒・キリストの教え)に則って,また天の神なる主(自分の生命の源)のもとに召されるまで,
・一生涯を現世(地上)で正しく遂げるよう,
・義務づけられている.
・義務なのは,これは世に存在する万物の創造主たる神の命令だからである.
第6パラグラフの訳注4:
・現世に全く裏切られた不幸な人にとって,
神ほど最高に優しく,善良で,真実な存在は他にない.
・人生が順調に進んでいる時は,自分も死の前に必然的な心の災難・自分の存在の危機・恐怖感に直面するということを,人はなかなか理解できない.
・悪の誘惑は諸々の娯楽・快楽を通して来る.それが人間の心身を不穏にし滅びをもたらす.
・「自分」を慎む習慣が節制・摂生で,こうして我欲を戒めることを忘れると,たやすく悪に流れる.
・神の御加護のもとで正しく(つまり他者を傷つけることなく)楽しみを得ることが,心身の健康に肝心である.
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訳注を追補いたします.
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2014年4月26日土曜日
2014年4月19日土曜日
353 バランスの提案 4/19
エレイソン・コメンツ 第353回 (2014年4月19日)
「主なる神(しゅなる かみ)があなたに命じた(めいじた)ことを成し続け(なしつづけ)なさい.そうすれば,あなたは右(みぎ)へも左(ひだり)へも道を踏み外す(みちを ふみはずす)ことは ないでしょう.」( " “Keep therefore and do the things which the Lord God hath commanded you: you shall not go aside neither to the right hand nor to the left.” " )主たる神(しゅたる かみ)のこの教訓(きょうくん)はモーゼから古代イスラエル人に伝えられた(もーぜから こだい いすらえるじんに つたえられた)もので( "旧約聖書・第二法の書〈申命〉:第5章32節"〈 "Deut.V, 32" 〉)( "This instruction from the Lord God to be passed on by Moses to the Israelites (Deut.V, 32) …" )(訳注後記1),新約聖書の神の選民(しんやく せいしょの かみの せんみん)( "God's Chosen People of the New Testament " )にとっては確かに通用(たしかに つうよう)しますが( "新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第9章25-26節"〈 "Rom. IX, 25-26" 〉)( " … is certainly valid for God’s Chosen People of the New Testament (Rom. IX, 25-26), …" )(訳注後記2),それを新約聖書の牧者(しんやく せいしょの ぼくしゃ)( "the Shepherd" )が倒(たお)れ,私たち羊が散り散り(わたくしたち ひつじが ちりぢり)になっている現代(げんだい)( "ザカリアの書:第13章7節〈 "Zech. XIII, 7" 〉" )に当(あ)てはめるのは容易(ようい)ではありません( "… but it is not so easy to apply in our own time when the Shepherd of the New Testament is struck, and we sheep are scattered (Zech.XIII, 7) " )(訳注後記3).教皇の倒れ方(きょうこうの たおれかた)はさほどひどくないので,カトリック信徒(しんと)は彼にどう従う(かれに どう したがう)かなど気にする必要(きにする ひつよう)がないのでしょうか?( "Is the Pope so lightly struck that Catholics need not take care how they obey him ? " ) それとも,彼の倒れ方(かれの たおれ かた)はあまりにもひどいので,もう教皇たりえないのでしょうか?( "Or is he so seriously struck that he cannot be Pope ? " ) いずれにしても,羊たちは散り散りで,ロシアが(聖母の)汚れなき御心(けがれなき みこころ)に奉献(ほうけん)されるまで,そのままの状態が続く(じょうたいが つづく)でしょう( "In any case the sheep are scattered and will remain so, until Russia is consecrated to the Immaculate Heart." ).(訳注後記4)
米国(べいこく) SSPX (聖ピオ十世会)の公式機関誌(こうしき きかんし)( "the Angelus" )の最新号(さいしんごう)に掲載された書簡(けいさい された しょかん)は道を踏み外して(みちを ふみ はずして)左へ寄り(ひだりへ より)すぎています.私にはそのように見えます( "Meanwhile, as it seems to me, a letter published in the latest issue of the Angelus, official magazine of the Society of St Pius X in the USA, goes astray to the left." ). S 神父(しんぷ)( "Fr. S" )はいくつかの理由を挙げ(りゆうを あげ) SSPX は「なるべく早(はや)く教皇の手中(きょうこうの しゅちゅう)に」身を委ねる(みを ゆだねる)べきだと促し(うながし)ています( "Fr. S. has several reasons for urging the SSPX to put itself “in the hands…of the Pope as soon as possible.” " ).(これを私が左に寄りすぎていると見る理由(みる りゆう)は)第1に,ローマ教皇庁の聖職者(ろーま きょうこうちょうの せいしょくしゃ)たちが教会の意図的破壊者(きょうかいの いとてき はかいしゃ)だと考(かんが)えるのは潜在的(せんざいてき)な教皇空位論(きょうこう くうい ろん)です( "Firstly, to think that the Roman churchmen are intentional destroyers of the Church is implicit sedevacantism." ).だが,彼らの主観的意図(しゅかんてき いと)が教会に与えた(きょうかいに あたえた)客観的損害(きゃっかんてき そんがい),および SSPX が彼らの支配下に入った場合(しはいかに はいった ばあい)に受ける損害(うける そんがい)について思い起こす(おもい おこす)のに,私は潜在的,顕在的(せんざいてき,けんざいてき)な教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)のいずれにもなる必要(ひつよう)などありません( "But I need be no sedevacantist, implicit or explicit, to recall that their subjective intentions no way lessen the objective damage that they have done to the Church, and would do to the SSPX, if it came under their control." ).第2に, SSPX がローマ教皇庁の人々(ひとびと)( "the Rommans" )が完全(かんぜん)に教理を変える(きょうりを かえる)まで彼らの手中(しゅちゅう)に身を委ねる(みを ゆだねる)のを待つ(まつ)というのは非現実的(ひ げんじつ てき)です( "Secondly, for the SSPX to wait until the Romans’ full doctrinal conversion to put itself into their hands, is unrealistic." ).だが,信仰を敵に回す(しんこうを てきに まわす)のに異説(いせつ)( "heresy" )は一つだけで十分(ひとつだけで じゅうぶん)です( "But one heresy is enough to make an enemy of the Faith, …" ).そして,モダニズム(もだにずむ)(近現代主義〈きん げんだい しゅぎ〉)は一つの包括駅な異説(ひとつの ほうかつてきな いせつ)( "an all-embracing heresy" )です(教皇ピオ10世の回勅 "Pascendi" (「(主の羊の群れを)牧せよ」) 参照)(訳注後記5)( "… and modernism is an all-embracing heresy ( Pascendi, Pius X )." ). SSPX の指導者(しどうしゃ)たちはローマ教皇庁の人々とあまりにも多く接触(おおく せっしょく)しすぎたため彼らにたぶらかされています( "Too much contact with the Romans has already seduced the SSPX’s leaders." ).
第3に, SSPX は出来るだけ早期に(できるだけ そうきに)真の信仰の教理と実践(まことの しんこうの きょうりと じっせん)をローマ教皇庁に押し返(おしかえ)さなければなりません( "Thirdly, the SSPX must give back to Rome as soon as possible the doctrine and practice of the true Faith." ).だが,ローマ教皇庁が相変(あい かわ)わらず半分(はんぶん)モダニストのままなら,それを押し戻す(おし もどす)のは豚に真珠(ぶたに しんじゅ)を投げ与える(なげ あたえる)ようなものです( 新約聖書・マテオ聖福音書:第7章6節〈 "Mt. VII, 6" 〉 )( "But if Rome were still only half modernist, such a giving back would be to throw pearls before swine (Mt.VII, 6)." )(訳注後記6).第4に, SSPX はあまりにも長(なが)いあいだ,ローマ教皇庁と距離を置いて(きょりを おいて)きたため,カトリック教の序列,服従,権威の感覚(じょれつ・ふくじゅう・けんいの かんかく)をすべて失(うしな)いかねません( "Fourthly, the SSPX has for so long kept its distance from Rome that it risks losing all Catholic sense of hierarchy, obedience and authority." ).だが,真の信仰は包括的な異説(ほうかつ てきな いせつ)に犯(おか)されないよう安全(あんぜん)なところに置(お)いておかなければなりません( "But the true Faith must be kept at a safe distance from all-embracing heresy." ).もし異説が私自身(わたくし じしん)の犯した過ち(おかした あやまち)でなければ,私が神に忠実な限り(かみに ちゅうじつな かぎり),神は忠実な古代イスラエル人(こだい いすらえる じん)のときと同(おな)じように,私が40年以上(よんじゅう ねん いじょう)ものあいだ砂漠(さばく)にさまよってもカトリック感覚(かとりっく かんかく)( "Catholic senses" )を持ち続(もちつづ)けられるよう面倒(めんどう)をみてくださいます(旧約聖書・脱出の書〈出エジプト〉 - 第二法の書〈申命〉〈 "Exod. - Deut. " 〉)( "If the heresy is not my fault, God can look after my Catholic senses, so long as I am faithful to him, for 40 years or more in the desert, just as he looked after the faithful Israelites (Exod. – Deut.)." )(訳注後記7).そして第5に,いわゆる「抵抗」(ていこう)( "the so-called Resistance" )が公会議派(こうかいぎ は)ローマ教皇庁に対する SSPX の真の抵抗(まことの ていこう)を分断(ぶんだん)し弱(よわ)めます( "And fifthly, the so-called “Resistance” is dividing and weakening the SSPX’s true resistance to Conciliar Rome." ).だが,教理と無縁の了解(きょうりと むえんの りょうかい)に基(もと)づくモダニストたちとの結束(けっそく)は,誤りに基づく結束(あやまりに もとづく けっそく)となり,ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )の SSPX にとっては致命的(ちめいてき)となるでしょう( "But unity around any non-doctrinal understanding with modernists will be unity around error, fatal for Archbishop Lefebvre’s SSPX." ).要約(ようやく)すれば, S 神父はモダニズムの間違い(まちがい)が信仰をいかに惑わし(まどわし),だめにしてしまうか,その怖さ(こわさ)を見失って(みうしなって)います( "In brief, Fr. S. has lost sight of just how seductive and deadly for the Faith is the error of modernism." ).
他方(たほう),ミサ聖祭の典文(みさ せいさいの てんぶん)( "the Canon of the Mass" )で教皇の御名に触れる(きょうこうの みなに ふれる)ことを拒む(こばむ)司祭(しさい)は道を踏み外し(みちを ふみ はずし)右へ偏る危険(みぎへ かたよる きけん)があります.私にはそう見えます( "On the other hand, as it seems to me, a priest now refusing any longer to mention the Pope’s name in the Canon of the Mass is in danger of going astray to the right." ).もし私がモダニズムは信仰に対し(しんこうに たいし)致命的な危険を持つ(ちめいてきな きけんを もつ)と見るなら( "If I see the deadly danger of modernism to the Faith, …" ),私はむろん歴代の公会議派教皇(れきだいの こうかいぎは きょうこう)たちが教会に膨大な客観的被害(きゃっかんてき ひがい)を与えたと見ます(あたえたと みます)( "… certainly I see the enormous objective damage done to the Church by Conciliar Popes." ).だが,私は彼らの中(なか)にカトリック的な要素(かとりっくてきな ようそ)がまったく残って(のこって)いないと本心(ほんしん)から言える(いえる)でしょうか?( "But can I truthfully say that there is nothing at all still Catholic left in them ? " ) たとえば, S 神父が言うように,教皇たちは善良な主観的意図(ぜんりょうな しゅかんてき いと)を最小限(さいしょうげん)は持ち続けて(もちつづけて)いるのではないでしょうか?( "For example, as Fr. S. would say, do they not still have at least good subjective intentions ? " ) 彼らには教会に仕える(きょうかいに つかえる)つもりはまったくないのでしょうか?( "Have they not all at least meant to serve the Church ? " ) そうだとすれば,私は彼らの中に依然として残っているカトリック的なもの(いぜんとして のこっている かとりっく てきな もの)と一体(いったい)となってミサ聖祭を祝う(みさ せいさいを いわう)ことはできないのでしょうか?( "In which case can I not celebrate Mass in union with whatever is still Catholic in them ? " ) 主流派教会(しゅりゅうは きょうかい)は病で死にかけ(やまいで しにかけ)ているかもしれませんが( "The mainstream Church may be sick unto death, …" ),私としては,そこにカトリック的なことはもう何も起きない(なにも おきない)だろうとは言い切れ(いい きれ)ません( "… but I for one could not maintain that there is nothing Catholic whatsoever still happening within it." ).主流派教会はまだ完全に死んで(かんぜんに しんで)いません( "It is not yet completely dead." ).
「物事が確かなら,結束を.物事が疑わしいなら,自由を.あらゆる事には,愛を」 (ものごとが たしか なら,けっそくを.ものごとが うたがわしい なら,じゆうを.あらゆる ことに あいを)(訳注後記8)
( " “In things certain, unity. In things doubtful, liberty. In all things, charity.” " )
キリエ・エレイソン.
真の司祭(まことの しさい)たちは今日のローマ教皇庁(こんにちの ろーま きょうこうちょう)にベタベタすることも,教皇をミサ聖祭から締め出す(しめだす)こともすべきでない,と私は言います(わたしは いいます) ( "True priests should neither flirt with Rome today, Nor cut the Pope out of their Mass, I say." ) .
リチャード・ウィリアムソン司教
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第1パラグラフの訳注:
訳注1:
"旧約聖書・第二法の書(申命):第5章32節"( "Deut.V, 32" )
THE BOOK OF DEUTERONOMY V, 32 (英語)
LE DEUTÉRONOME V, 32 (仏語)
LIBER DEUTERONOMII V, 32 (ラテン語)
(33 節まで掲載)
『32 神なる主が命令されたように行うことを心がけよ.右にも左にもそれるな.
33 主が命令された道を完全に守れ.そうすれば生きながらえ,これから所有する地で幸せな長い生活を送ることができるであろう.』
訳注2:
"新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第9章25-26節"〈 "Rom. IX, 25-26" 〉
EPISTLE OF SAINT PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS IX, 25-26
ÉPÎTRE DE SAINT PAUL IX, 25-26
EPISTOLA BEATI PAULI APOSTOLI AD ROMANOS IX, 25-26
『25 すでにホゼアの書に,「私は自分の民ではない者を私の民と呼び,愛されていない者を愛された者と呼ぶであろう.
26 〈あなたたちは私の民ではない〉と言われたその場所で,彼らは生きる神の子と呼ばれるであろう」とある.』
訳注3:
"ザカリアの書:第13章7節"〈 "Zech. XIII, 7" 〉
THE PROPHECY OF ZACHARIAS XIII, 7
ZACHARIE XIII, 7
PROPHETIA ZACHARIÆ XIII, 7
『*剣よ,立って,私の牧者と,
私にくみしているものを攻めよ.
――万軍の主のお告げ――
牧者を殺せ,
そうすれば,羊は散る.
そのとき,私は,小さなものに向かって,手をのばす.』
訳注4:
・1917年5月13日,ポルトガルのファティマの3人の牧童に
聖母( Nossa Senhora de Fátima )がご出現になった際の預言による.
* * *
第2パラグラフの訳注:
訳注5:
"Pascendi" について:
"THE ENCYCLICAL OF POPE PIUS X ON THE ERRORS OF THE MODERNISTS."
"近現代主義者たちの誤りについての教皇ピオ10世の回勅"
(きんげんだい しゅぎしゃたちの あやまりに ついての きょうこう ぴお じゅっせいの かいちょく)
(フルタイトル)
"Pascendi Domini Gregis and Lamentabili - On the Errors of the Modernists, September 8, 1907"
「* 主の羊の群れを養う - 近現代主義者たちの誤り(あやまり)について」
(しゅの ひつじの むれを やしなう - きんげんだい しゅぎしゃたちの あやまりに ついて)
* "Domini Gregis" 「主の羊の群れ」=カトリック教聖職者(司教・司祭)たちのこと.
(以上,原文・大意・意訳)
* * *
第3パラグラフの訳注:
訳注6:
"新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第7章6節"〈 "Mt. VII, 6" 〉
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO SAINT MATTHEW VII, 6
LE SAINT ÉVANGILE DE JÉSUS-CHRIST SELON SAINT MATTHIEU VII, 6
EVANGELIUM SECUNDUM MATTHÆUM VII, 6
『聖なるものを犬にやってはならぬ.真珠を豚に投げ与えてはならぬ.
そうすれば相手は足で踏みつけ,向き直ってあなたをかみ裂くであろう.』
訳注7:
"旧約聖書・脱出の書(出エジプト) - 第二法の書(申命)"
( "Exod. - Deut." )
THE BOOK OF EXODUS - THE BOOK OF DEUTERONOMY
L’EXODE - LE DEUTÉRONOME
LIBER EXODUS - LIBER DEUTERONOMII
* * *
第5パラグラフの訳注:
訳注8:
「物事が確かなら,結束を.物事が疑わしいなら,自由を.あらゆる事には,愛を」
( " “In things certain, unity. In things doubtful, liberty. In all things, charity.” " )
について:
(意訳)
「物事が真実(=確か)であれば結束した状態が保てるが,
疑わしい部分が残っていると,人々は自由奔放〈勝手気まま〉な解釈に走り各々の迷信に従って振る舞い勝ちになる.」)
(ものごとが しんじつ(=たしか)であれば けっそくした じょうたいが たもてるが,
うたがわしい ぶぶんが のこっていると,ひとびとは じゆうほんぽう〈かってきまま〉な かいしゃくに はしり おのおのの めいしんに したがって ふるまいがちに なる.)
神の御言葉の参照:
旧約聖書・主のしもべの第四の歌(イザヤの書:第52章13節 - 第53章12節)
(第53章6節)
『私たちはみな,羊のようにさまよい,おのおの,自分の道を歩んでいたが,主はみなの罪を,*彼の上に負わせられた.』
*「彼」=救世主・神の御独り子イエズス・キリストを指す.
(預言者イザヤは「世の罪を除き給う(生贄〈いけにえ〉)たる神の子羊」となられた救世主・神の御独り子イエズス・キリストの受難を預言.)
* * *
訳注の追補を続けます.
* * *
「主なる神(しゅなる かみ)があなたに命じた(めいじた)ことを成し続け(なしつづけ)なさい.そうすれば,あなたは右(みぎ)へも左(ひだり)へも道を踏み外す(みちを ふみはずす)ことは ないでしょう.」( " “Keep therefore and do the things which the Lord God hath commanded you: you shall not go aside neither to the right hand nor to the left.” " )主たる神(しゅたる かみ)のこの教訓(きょうくん)はモーゼから古代イスラエル人に伝えられた(もーぜから こだい いすらえるじんに つたえられた)もので( "旧約聖書・第二法の書〈申命〉:第5章32節"〈 "Deut.V, 32" 〉)( "This instruction from the Lord God to be passed on by Moses to the Israelites (Deut.V, 32) …" )(訳注後記1),新約聖書の神の選民(しんやく せいしょの かみの せんみん)( "God's Chosen People of the New Testament " )にとっては確かに通用(たしかに つうよう)しますが( "新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第9章25-26節"〈 "Rom. IX, 25-26" 〉)( " … is certainly valid for God’s Chosen People of the New Testament (Rom. IX, 25-26), …" )(訳注後記2),それを新約聖書の牧者(しんやく せいしょの ぼくしゃ)( "the Shepherd" )が倒(たお)れ,私たち羊が散り散り(わたくしたち ひつじが ちりぢり)になっている現代(げんだい)( "ザカリアの書:第13章7節〈 "Zech. XIII, 7" 〉" )に当(あ)てはめるのは容易(ようい)ではありません( "… but it is not so easy to apply in our own time when the Shepherd of the New Testament is struck, and we sheep are scattered (Zech.XIII, 7) " )(訳注後記3).教皇の倒れ方(きょうこうの たおれかた)はさほどひどくないので,カトリック信徒(しんと)は彼にどう従う(かれに どう したがう)かなど気にする必要(きにする ひつよう)がないのでしょうか?( "Is the Pope so lightly struck that Catholics need not take care how they obey him ? " ) それとも,彼の倒れ方(かれの たおれ かた)はあまりにもひどいので,もう教皇たりえないのでしょうか?( "Or is he so seriously struck that he cannot be Pope ? " ) いずれにしても,羊たちは散り散りで,ロシアが(聖母の)汚れなき御心(けがれなき みこころ)に奉献(ほうけん)されるまで,そのままの状態が続く(じょうたいが つづく)でしょう( "In any case the sheep are scattered and will remain so, until Russia is consecrated to the Immaculate Heart." ).(訳注後記4)
米国(べいこく) SSPX (聖ピオ十世会)の公式機関誌(こうしき きかんし)( "the Angelus" )の最新号(さいしんごう)に掲載された書簡(けいさい された しょかん)は道を踏み外して(みちを ふみ はずして)左へ寄り(ひだりへ より)すぎています.私にはそのように見えます( "Meanwhile, as it seems to me, a letter published in the latest issue of the Angelus, official magazine of the Society of St Pius X in the USA, goes astray to the left." ). S 神父(しんぷ)( "Fr. S" )はいくつかの理由を挙げ(りゆうを あげ) SSPX は「なるべく早(はや)く教皇の手中(きょうこうの しゅちゅう)に」身を委ねる(みを ゆだねる)べきだと促し(うながし)ています( "Fr. S. has several reasons for urging the SSPX to put itself “in the hands…of the Pope as soon as possible.” " ).(これを私が左に寄りすぎていると見る理由(みる りゆう)は)第1に,ローマ教皇庁の聖職者(ろーま きょうこうちょうの せいしょくしゃ)たちが教会の意図的破壊者(きょうかいの いとてき はかいしゃ)だと考(かんが)えるのは潜在的(せんざいてき)な教皇空位論(きょうこう くうい ろん)です( "Firstly, to think that the Roman churchmen are intentional destroyers of the Church is implicit sedevacantism." ).だが,彼らの主観的意図(しゅかんてき いと)が教会に与えた(きょうかいに あたえた)客観的損害(きゃっかんてき そんがい),および SSPX が彼らの支配下に入った場合(しはいかに はいった ばあい)に受ける損害(うける そんがい)について思い起こす(おもい おこす)のに,私は潜在的,顕在的(せんざいてき,けんざいてき)な教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)のいずれにもなる必要(ひつよう)などありません( "But I need be no sedevacantist, implicit or explicit, to recall that their subjective intentions no way lessen the objective damage that they have done to the Church, and would do to the SSPX, if it came under their control." ).第2に, SSPX がローマ教皇庁の人々(ひとびと)( "the Rommans" )が完全(かんぜん)に教理を変える(きょうりを かえる)まで彼らの手中(しゅちゅう)に身を委ねる(みを ゆだねる)のを待つ(まつ)というのは非現実的(ひ げんじつ てき)です( "Secondly, for the SSPX to wait until the Romans’ full doctrinal conversion to put itself into their hands, is unrealistic." ).だが,信仰を敵に回す(しんこうを てきに まわす)のに異説(いせつ)( "heresy" )は一つだけで十分(ひとつだけで じゅうぶん)です( "But one heresy is enough to make an enemy of the Faith, …" ).そして,モダニズム(もだにずむ)(近現代主義〈きん げんだい しゅぎ〉)は一つの包括駅な異説(ひとつの ほうかつてきな いせつ)( "an all-embracing heresy" )です(教皇ピオ10世の回勅 "Pascendi" (「(主の羊の群れを)牧せよ」) 参照)(訳注後記5)( "… and modernism is an all-embracing heresy ( Pascendi, Pius X )." ). SSPX の指導者(しどうしゃ)たちはローマ教皇庁の人々とあまりにも多く接触(おおく せっしょく)しすぎたため彼らにたぶらかされています( "Too much contact with the Romans has already seduced the SSPX’s leaders." ).
第3に, SSPX は出来るだけ早期に(できるだけ そうきに)真の信仰の教理と実践(まことの しんこうの きょうりと じっせん)をローマ教皇庁に押し返(おしかえ)さなければなりません( "Thirdly, the SSPX must give back to Rome as soon as possible the doctrine and practice of the true Faith." ).だが,ローマ教皇庁が相変(あい かわ)わらず半分(はんぶん)モダニストのままなら,それを押し戻す(おし もどす)のは豚に真珠(ぶたに しんじゅ)を投げ与える(なげ あたえる)ようなものです( 新約聖書・マテオ聖福音書:第7章6節〈 "Mt. VII, 6" 〉 )( "But if Rome were still only half modernist, such a giving back would be to throw pearls before swine (Mt.VII, 6)." )(訳注後記6).第4に, SSPX はあまりにも長(なが)いあいだ,ローマ教皇庁と距離を置いて(きょりを おいて)きたため,カトリック教の序列,服従,権威の感覚(じょれつ・ふくじゅう・けんいの かんかく)をすべて失(うしな)いかねません( "Fourthly, the SSPX has for so long kept its distance from Rome that it risks losing all Catholic sense of hierarchy, obedience and authority." ).だが,真の信仰は包括的な異説(ほうかつ てきな いせつ)に犯(おか)されないよう安全(あんぜん)なところに置(お)いておかなければなりません( "But the true Faith must be kept at a safe distance from all-embracing heresy." ).もし異説が私自身(わたくし じしん)の犯した過ち(おかした あやまち)でなければ,私が神に忠実な限り(かみに ちゅうじつな かぎり),神は忠実な古代イスラエル人(こだい いすらえる じん)のときと同(おな)じように,私が40年以上(よんじゅう ねん いじょう)ものあいだ砂漠(さばく)にさまよってもカトリック感覚(かとりっく かんかく)( "Catholic senses" )を持ち続(もちつづ)けられるよう面倒(めんどう)をみてくださいます(旧約聖書・脱出の書〈出エジプト〉 - 第二法の書〈申命〉〈 "Exod. - Deut. " 〉)( "If the heresy is not my fault, God can look after my Catholic senses, so long as I am faithful to him, for 40 years or more in the desert, just as he looked after the faithful Israelites (Exod. – Deut.)." )(訳注後記7).そして第5に,いわゆる「抵抗」(ていこう)( "the so-called Resistance" )が公会議派(こうかいぎ は)ローマ教皇庁に対する SSPX の真の抵抗(まことの ていこう)を分断(ぶんだん)し弱(よわ)めます( "And fifthly, the so-called “Resistance” is dividing and weakening the SSPX’s true resistance to Conciliar Rome." ).だが,教理と無縁の了解(きょうりと むえんの りょうかい)に基(もと)づくモダニストたちとの結束(けっそく)は,誤りに基づく結束(あやまりに もとづく けっそく)となり,ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )の SSPX にとっては致命的(ちめいてき)となるでしょう( "But unity around any non-doctrinal understanding with modernists will be unity around error, fatal for Archbishop Lefebvre’s SSPX." ).要約(ようやく)すれば, S 神父はモダニズムの間違い(まちがい)が信仰をいかに惑わし(まどわし),だめにしてしまうか,その怖さ(こわさ)を見失って(みうしなって)います( "In brief, Fr. S. has lost sight of just how seductive and deadly for the Faith is the error of modernism." ).
他方(たほう),ミサ聖祭の典文(みさ せいさいの てんぶん)( "the Canon of the Mass" )で教皇の御名に触れる(きょうこうの みなに ふれる)ことを拒む(こばむ)司祭(しさい)は道を踏み外し(みちを ふみ はずし)右へ偏る危険(みぎへ かたよる きけん)があります.私にはそう見えます( "On the other hand, as it seems to me, a priest now refusing any longer to mention the Pope’s name in the Canon of the Mass is in danger of going astray to the right." ).もし私がモダニズムは信仰に対し(しんこうに たいし)致命的な危険を持つ(ちめいてきな きけんを もつ)と見るなら( "If I see the deadly danger of modernism to the Faith, …" ),私はむろん歴代の公会議派教皇(れきだいの こうかいぎは きょうこう)たちが教会に膨大な客観的被害(きゃっかんてき ひがい)を与えたと見ます(あたえたと みます)( "… certainly I see the enormous objective damage done to the Church by Conciliar Popes." ).だが,私は彼らの中(なか)にカトリック的な要素(かとりっくてきな ようそ)がまったく残って(のこって)いないと本心(ほんしん)から言える(いえる)でしょうか?( "But can I truthfully say that there is nothing at all still Catholic left in them ? " ) たとえば, S 神父が言うように,教皇たちは善良な主観的意図(ぜんりょうな しゅかんてき いと)を最小限(さいしょうげん)は持ち続けて(もちつづけて)いるのではないでしょうか?( "For example, as Fr. S. would say, do they not still have at least good subjective intentions ? " ) 彼らには教会に仕える(きょうかいに つかえる)つもりはまったくないのでしょうか?( "Have they not all at least meant to serve the Church ? " ) そうだとすれば,私は彼らの中に依然として残っているカトリック的なもの(いぜんとして のこっている かとりっく てきな もの)と一体(いったい)となってミサ聖祭を祝う(みさ せいさいを いわう)ことはできないのでしょうか?( "In which case can I not celebrate Mass in union with whatever is still Catholic in them ? " ) 主流派教会(しゅりゅうは きょうかい)は病で死にかけ(やまいで しにかけ)ているかもしれませんが( "The mainstream Church may be sick unto death, …" ),私としては,そこにカトリック的なことはもう何も起きない(なにも おきない)だろうとは言い切れ(いい きれ)ません( "… but I for one could not maintain that there is nothing Catholic whatsoever still happening within it." ).主流派教会はまだ完全に死んで(かんぜんに しんで)いません( "It is not yet completely dead." ).
「物事が確かなら,結束を.物事が疑わしいなら,自由を.あらゆる事には,愛を」 (ものごとが たしか なら,けっそくを.ものごとが うたがわしい なら,じゆうを.あらゆる ことに あいを)(訳注後記8)
( " “In things certain, unity. In things doubtful, liberty. In all things, charity.” " )
キリエ・エレイソン.
真の司祭(まことの しさい)たちは今日のローマ教皇庁(こんにちの ろーま きょうこうちょう)にベタベタすることも,教皇をミサ聖祭から締め出す(しめだす)こともすべきでない,と私は言います(わたしは いいます) ( "True priests should neither flirt with Rome today, Nor cut the Pope out of their Mass, I say." ) .
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第1パラグラフの訳注:
訳注1:
"旧約聖書・第二法の書(申命):第5章32節"( "Deut.V, 32" )
THE BOOK OF DEUTERONOMY V, 32 (英語)
LE DEUTÉRONOME V, 32 (仏語)
LIBER DEUTERONOMII V, 32 (ラテン語)
(33 節まで掲載)
『32 神なる主が命令されたように行うことを心がけよ.右にも左にもそれるな.
33 主が命令された道を完全に守れ.そうすれば生きながらえ,これから所有する地で幸せな長い生活を送ることができるであろう.』
訳注2:
"新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第9章25-26節"〈 "Rom. IX, 25-26" 〉
EPISTLE OF SAINT PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS IX, 25-26
ÉPÎTRE DE SAINT PAUL IX, 25-26
EPISTOLA BEATI PAULI APOSTOLI AD ROMANOS IX, 25-26
『25 すでにホゼアの書に,「私は自分の民ではない者を私の民と呼び,愛されていない者を愛された者と呼ぶであろう.
26 〈あなたたちは私の民ではない〉と言われたその場所で,彼らは生きる神の子と呼ばれるであろう」とある.』
訳注3:
"ザカリアの書:第13章7節"〈 "Zech. XIII, 7" 〉
THE PROPHECY OF ZACHARIAS XIII, 7
ZACHARIE XIII, 7
PROPHETIA ZACHARIÆ XIII, 7
『*剣よ,立って,私の牧者と,
私にくみしているものを攻めよ.
――万軍の主のお告げ――
牧者を殺せ,
そうすれば,羊は散る.
そのとき,私は,小さなものに向かって,手をのばす.』
訳注4:
・1917年5月13日,ポルトガルのファティマの3人の牧童に
聖母( Nossa Senhora de Fátima )がご出現になった際の預言による.
* * *
第2パラグラフの訳注:
訳注5:
"Pascendi" について:
"THE ENCYCLICAL OF POPE PIUS X ON THE ERRORS OF THE MODERNISTS."
"近現代主義者たちの誤りについての教皇ピオ10世の回勅"
(きんげんだい しゅぎしゃたちの あやまりに ついての きょうこう ぴお じゅっせいの かいちょく)
(フルタイトル)
"Pascendi Domini Gregis and Lamentabili - On the Errors of the Modernists, September 8, 1907"
「* 主の羊の群れを養う - 近現代主義者たちの誤り(あやまり)について」
(しゅの ひつじの むれを やしなう - きんげんだい しゅぎしゃたちの あやまりに ついて)
* "Domini Gregis" 「主の羊の群れ」=カトリック教聖職者(司教・司祭)たちのこと.
(以上,原文・大意・意訳)
* * *
第3パラグラフの訳注:
訳注6:
"新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第7章6節"〈 "Mt. VII, 6" 〉
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO SAINT MATTHEW VII, 6
LE SAINT ÉVANGILE DE JÉSUS-CHRIST SELON SAINT MATTHIEU VII, 6
EVANGELIUM SECUNDUM MATTHÆUM VII, 6
『聖なるものを犬にやってはならぬ.真珠を豚に投げ与えてはならぬ.
そうすれば相手は足で踏みつけ,向き直ってあなたをかみ裂くであろう.』
訳注7:
"旧約聖書・脱出の書(出エジプト) - 第二法の書(申命)"
( "Exod. - Deut." )
THE BOOK OF EXODUS - THE BOOK OF DEUTERONOMY
L’EXODE - LE DEUTÉRONOME
LIBER EXODUS - LIBER DEUTERONOMII
* * *
第5パラグラフの訳注:
訳注8:
「物事が確かなら,結束を.物事が疑わしいなら,自由を.あらゆる事には,愛を」
( " “In things certain, unity. In things doubtful, liberty. In all things, charity.” " )
について:
(意訳)
「物事が真実(=確か)であれば結束した状態が保てるが,
疑わしい部分が残っていると,人々は自由奔放〈勝手気まま〉な解釈に走り各々の迷信に従って振る舞い勝ちになる.」)
(ものごとが しんじつ(=たしか)であれば けっそくした じょうたいが たもてるが,
うたがわしい ぶぶんが のこっていると,ひとびとは じゆうほんぽう〈かってきまま〉な かいしゃくに はしり おのおのの めいしんに したがって ふるまいがちに なる.)
神の御言葉の参照:
旧約聖書・主のしもべの第四の歌(イザヤの書:第52章13節 - 第53章12節)
(第53章6節)
『私たちはみな,羊のようにさまよい,おのおの,自分の道を歩んでいたが,主はみなの罪を,*彼の上に負わせられた.』
*「彼」=救世主・神の御独り子イエズス・キリストを指す.
(預言者イザヤは「世の罪を除き給う(生贄〈いけにえ〉)たる神の子羊」となられた救世主・神の御独り子イエズス・キリストの受難を預言.)
* * *
訳注の追補を続けます.
* * *
ラベル:
S 神父,
モダニスト,
ローマ教皇庁,
回勅 Pascendi,
教皇空位主義者,
真の司祭,
聖ピオ10世,
聖ピオ十世会,
第二バチカン公会議に対する抵抗運動
2014年4月12日土曜日
352 フランス旅行 4/12
エレイソン・コメンツ 第352回 (2014年4月12日)
再び朗報(ふたたび ろうほう)をお届(とど)けします( "Good news again, …" ).今回(こんかい)はフランスからです( "… this time from France, …" ).今度(こんど)も分量(ぶんりょう)こそ少(すく)ないながら質の高い朗報(しつの たかい ろうほう)です( "… once more small in quantity but high in quality. " ).少数の(=一握りの〈ひとにぎりの〉,わずかの)善良な司祭(しょうすうの ぜんりょうな しさい)たちが共に集い(ともに つどい)( "A handful of good priests are gathering together…" ),信仰(しんこう)がルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)の示された方針に沿って守られる(しめされた ほうしんに そって まもられる)よう行動を起こして(こうどうを おこして)います( "… and taking action to make sure that the Faith will continue to be defended along the lines laid down by Archbishop Lefebvre, …" ).つまり,極右からの教皇空位論(きょくう からの きょうこう くういろん)と上からの公会議主義(うえからの こうかいぎ しゅぎ)との(=意訳・教皇空位主義の攻撃を右側から公会議主義の攻撃を ―― 〈左側ではなく〉上側から迎〈むか〉えその)隙間を縫って進む(すきまを ぬって すすむ)ということです( "… steering between sedevacantism on the right and conciliarism -- from above." ).会員を置き去り(かいいんを おきざり)にする聖ピオ十世会(せい ぴお じゅっせい かい)( SSPX )本部(ほんぶ)は好(す)きなようにさせておき( "SSPX HQ will be left to bury its followers, …" ),残(のこ)りの幸運な司祭(こううんな しさい)たちは迫害の迫撃を受ける(はくがいの はくげきを うける)次の段階に備えて(つぎの だんかいに そなえて)真の宗教(まことの しゅうきょう)で自らの立場(みずからの たちば)を強くする努力(つよくする どりょく)を続(つづ)けています( "… while a remainder of happy priests will continue to fortify themselves with the true religion for the next stage in their persecution." ).
これは私(わたくし)が昨年秋(さくねん あき)から4回(よんかい)にわたり説教(せっきょう)のために訪(おとず)れたフランス国内各地(ふらんす こくない かくち)の施設(しせつ)で観察した状況(かんさつした じょうきょう)です( "This is what I observed on a fourth lecture tour since last autumn of centres in France …" ).どの施設(しせつ)でも,一般信徒(いっぱん しんと)たちはピオ6世(1717-1799年)からピオ12世(1876-1958年)までの間(あいだ)の歴代(れきだい)カトリック教教皇(かとりっく きょう きょうこう)が説(と)いた反自由主義教理(はん じゆうしゅぎ きょうり)に関心を示して(かんしんを しめして)います( "… where the laity are interested in the anti-liberal doctrine of the Catholic Popes between Pius VI (1717-1799) and Pius XII (1876-1958)." ).この教理はとくに新(あたら)しいものではなく,この1世紀半の期間(いっせいきはんの きかん)の初めの頃(はじめの ころ)でさえ詳しく説かれて(くわしく とかれて)いたものでした( "That doctrine was not new, even at the beginning of the century and a half over which it was elaborated." ).教会が絶えず教えて(きょうかいが たえず おしえて)きたことの中で,特定の部分(とくていの ぶぶん)に注目を新たに(ちゅうもくを あらたに)する必要が生じた(ひつようが しょうじた)のは( "It was merely that particular part of the Church's timeless teaching which needed to be refreshed from the moment …" ),15世紀に及ぶ(じゅうごせいきに およぶ)キリスト教の社会秩序(きりすと きょうの しゃかい ちつじょ)が1789年のフランス革命(ふらんす かくめい)により破壊(はかい)され奪い去られた瞬間(うばい さられた しゅんかん)からでした( "… when the Christian social order of 15 centuries was undermined and supplanted by the French Revolution of 1789. " ).
フランス革命はフリーメーソン的自由主義(ふりーめーそんてき じゆうしゅぎ)が教会の玉座(きょうかいの ぎょくざ)(訳注1)と祭壇(きょうかいの ぎょくざと さいだん)をその地位から引きずりおろし転覆させようと狙って神に戦いを挑んだ(ちい から ひきずりおろし てんぷく させようと ねらって かみに たたかいを いどんだ)ものでした( "That Revolution was Freemasonic liberalism making war on God by seeking to overthrow throne and altar." ).
それ以来(いらい),神の公教(=カトリック教)の諸々の玉座(かとりっく きょうの もろもろの ぎょくざ)は「民主主義( "democracy" )」(みんしゅ しゅぎ)により事実上覆(じじつじょう くつがえ)され( "Since then the Catholic thrones have been virtually overthrown by "democracy", …" ),諸カトリック教会の諸々の祭壇(しょ かとりっく きょうかいの もろもろの さいだん)は第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)( "Vatican II" )で公会議が人間の宗教(にんげんの しゅうきょう)に転向(てんこう)したことにより事実上壊された(じじつじょう こわされた)ままになってきました( "… while the Catholic altars were virtually overthrown at Vatican II by that Council's conversion to the religion of man. " ).だが,神の宗教に忠実な(かみの しゅうきょうに ちゅうじつな)ルフェーブル大司教は( "Archbishop Lefebvre however, cleaving to the religion of God, …" ),自分(じぶん)の弟子(でし)たちが自由主義世界の中(じゆうしゅぎ せかいの なか)でカトリック教の立場(たちば)をどう守(まも)るかを知(し)るため教会の反革命的教理(きょうかいの はんかくめいてき きょうり)を完全に理解(かんぜんに りかい)するよう望(のぞ)まれました( "… wished that his seminarians would be thoroughly familiar with the Church's anti-Revolutionary doctrine in order to know how to take their Catholic stand in the midst of a liberal world. " ).大司教の設立(せつりつ)した SSPX が巧(たく)みに新社会(しん しゃかい)( "the Newsociety" )に変えられる様子(かえられる ようす)を理解(りかい)する一般信徒(いっぱん しんと)たちが( "It follows that Catholic lay-folk who can see how the Archbishop's Society of St Pius X is being cunningly transformed into the Newsociety, …" ),第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)の150年前(ひゃくごじゅう ねん まえ)に出(だ)された歴代教皇の回勅(れきだい きょうこうの かいちょく)に関心を示す(かんしんを しめす)のはこのためです( "… are interested in the Popes' Encyclical Letters of those 150 years before Vatican II." ).私は4回のフランス旅行の最初の旅行期間中(さいしょの りょこう きかん ちゅう)に5か所を訪れ(ごかしょを おとずれ)ました( "On the first of my four lecture tours there were five stops." ).直近の,3月末から4月初め(ちょっきんの,さんがつ すえ から しがつ はじめ)にかけての今回の旅行(こんかいの りょこう)では9か所を訪れ(きゅうかしょを おとずれ)ました( "On the latest, between end March and early April, there were nine, …" ).これからさらにお呼(よ)びがかかりそうです( "… and there risk being more invitations." ).訪れた先々(おとずれた さきざき)で,SSPX が誤った方向(あやまった ほうこう)へ導(みちび)かれていることに目を覚ま(めを さま)されているフランスの一般信徒たちが増(ふ)えているのを知(し)りました( "There are, all the time, more French lay-folk waking up to how the Society is being misled." ) .
悲(かな)しいかな,あまりにも多くの聖ピオ十世会の司祭はまだ誘惑の達人の魔法(ゆうわくの たつじんの まほう)にかかったまま,俗世界の夢に魅せられて我を見失っている状態(ぞく せかいの ゆめに みせられて われを みうしなっている じょうたい)です( "Alas, all too many SSPX priests are still spellbound by a master of seduction, lost in his worldly dream." ).私は今回の旅行(こんかいの りょこう)で,そのうちの何人(なんにん)かにお会(あ)いしました( "I met a few of them on this latest tour." ).彼(かれ)らは間違(まちが)いなく善良(ぜんりょう)で,司祭として立派(りっぱ)にふるまってきた人たちです( "They are no doubt good men, they have been good priests, …" ).彼らは目を開き(めを ひらき)多(おお)くのことを見(み)ます( "… they have their eyes open and see many things, …" ).だが,一度(ひとたび)その誘惑者に触れる(ゆうわくしゃに ふれる)と,その視覚が曇り(しかくが くもり),気持ち惑わされて(きもち まどわされて)しまうのです( "… but when they are exposed once more to that seducer, their vision clouds over and their will is puzzled." ).ギリシア語の動詞(ぎりしあごの どうし)「 diaballein 」は英語(えいご)の「 diabolical(ひどい)」,「 devil(悪魔〈あくま〉)」の語源(ごげん)ですが( "The Greek verb "diaballein" from which come the English words "diabolical" and "devil", …" ),「ひっくり返(かえ)す」,「混乱に陥れる(こんらんに おとし いれる)」ことを意味(いみ)します( "… means to turn upside down, to throw into confusion." ).
私が上に述べた(うえに のべた)6名の司祭(ろくめいの しさい)たちは,このように混乱させられた司祭(こんらん させられた しさい)たちとはまったく違(ちが)います( "These confused priests contrast with the half dozen mentioned above who have seen clear and are taking action on what they see." ).彼らは長(なが)いあいだ自分(じぶん)たちのひどい指導者(しどうしゃ)たちに忠実(ちゅうじつ)であろうと努(つと)める緊張感を味わって(きんちょうかんを あじわって)きましたが,これはいまや過去(かこ)のことになっています( "The tension by which they were tortured for as long as they tried to remain loyal to diabolical leaders is a thing of the past." ).彼らは心穏やか(こころ おだやか)で,嬉々(きき)としてルフェーブル大司教の作業を続ける(さぎょうを つづける)ための計画作り(けいかく づくり)に携(たずさ)わっています( "They are serene, and happily making plans for the continuation of the Archbishop's work." ).その中(なか)の一人(ひとり)ドゥムロード神父( "Fr. de Merode" )は何年も前(なんねんも まえ)に叙階(じょかい)叙任?を受けた方ですが,自分の意志(じぶんの いし)で SSPX を離(はな)れ,すでにルルド(るるど)( "Lourdes" )に家を一軒購入(いえを いっけん こうにゅう)し,フランス南西部(なん せいぶ)にもう一軒購入(いっけん こうにゅう)しようとしています( "Fr. de Mérode, ordained many years ago, has left the SSPX of his own accord, has bought one house in Lourdes and is buying another in the Southwest of France." ).彼が購入した家(いえ)は,関心を持つ地元の人々(かんしんを もつ じもとの ひとびと)のための使徒会(しとかい)の場(ば)として,また立ち直り(たち なおり)たい場所(ばしょ)を必要(ひつよう)としている司祭たちの避難所(しさいたちの ひなんばしょ)として役立つ(やくだつ)ことでしょう( "These will act both as bases for an apostolate to many interested souls in the region, and as refuges for priests needing somewhere to recover." ).付け加える(つけくわえる)なら,私はリヨン(りよん)( "Lyon" )で自分が市内に持つスタジオ(じぶんが しないに もつ すたじお)を同(おな)じように避難場所(ひなん ばしょ)を求(もと)める司祭たちのために提供(ていきょう)している尊敬すべき女性(そんけい すべき じょせい)にお会(あ)いしました( "I can add that I met a venerable soul in Lyon who is offering a studio of hers in that city to any priest similarly looking for a roof." ).また,イングランド(いんぐらんど)のブロードステアズ(ケント州)(ぶろーどすてあず〈けんとしゅう〉)( "Broadstairs, England" )にある「抵抗( "Resistance" )」の家(「ていこう」の いえ)はすでに開設(かいせつ)され,聖職に携わる訪問者の受け入れ(せいしょくに たずさわる ほうもんしゃの うけいれ)が可能な状態(かのうな じょうたい)です( "Also the "Resistance" House in Broadstairs, England, is now open and can receive priestly visitors. " ).すでに一人(ひとり)がここに入(はい)りましたOne has already come by." ).この家(いえ)では行動の自由が保証(こうどうの じゆうが ほしょう)されています( "Discretion guaranteed. " ).
大司教(だいしきょう)さま,捻じ曲げられた組織(ねじまげられた そしき)( SSPX )の外(そと)では
( "Outside, Archbishop, of its structure bent …" )
あなたが意図(いと)されたように,あなたの壮大な作業(そうだいな さぎょう)が続(つづ)いています
( "… Your noble work continues, as you meant." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第3パラグラフの訳注1
「"throne and altar"」 「教会の玉座と祭壇」
「フランス革命は …… 教会の王座と祭壇の転覆を狙って神に戦いを挑んだもの……」の
"throne and altar" 「教会の玉座と祭壇」の「教会の玉座」"throne" について:
→ "throne" ="Sancta Sedes 〈ラテン語〉/ Holy See 〈英語〉"
***
=イエズス・キリスト(=天地の王君・牧者たる神の御独り子の教会)の王座.
=ローマ教皇(=王君であり牧者である神の御独り子キリストの代理者)の聖座.
(おうくん・ぼくしゃ たる きりすとの だいりしゃ たる ろーま きょうこう の せいざ)
= Sancta Sedes / Holy See
=ローマ司教座( Episcopalis Sedes = Episcopal See of the Bishop of Rome = Holy See )
(ろーま しきょうざ)
= Cathedra (ラテン語)/ καρέκλα (ギリシア語)
***
・一般に,「大聖堂=カテドラル」とは,
=司教( επίσκοπος 〈ギリシア〉/ episcopus〈ラテン〉/ évêque 〈仏〉/ bishop〈英〉)が
①司教区に所属する信徒に対し教導権を行使し,また,
②種々の真の神の公教(カトリック教)の秘跡を授けるミサ聖祭を
司式する際に
着任する座(=席)のある聖堂のこと.
=使徒座= Apostolic See
司教座( cathedra )が置かれている聖堂を,「司教座聖堂」「大聖堂」「バジリカ」と呼ぶ.
=司教座聖堂 / 大聖堂
〈Ecclesia cathedralis〈ラテン〉 / καθεδρικό ναό〈ギリシャ〉 / Cathedral〈英〉
***
・ローマ司教(=ローマ教皇)の司教座聖堂:
→ローマ・バチカンにある.
ローマ司教(ローマ教皇)の司教座( cathedra )はラテラノ大聖堂に置かれている.
→『至聖なる救世主の大聖堂』
=『ラテラノ大聖堂』
=『〈ラテラノの洗者〉聖ヨハネの大聖堂)』 (日本語)
=Archibasilica Sanctissimi Salvatoris et Sanctorum Ioannis Baptistae et Ioannis Evangelistae in Laterano (ラテン語・正式名称)
Papale di San Giovanni in Laterano〈伊〉
La Basilique Saint-Jean-de-Latran 〈仏〉
Papal Archbasilica of St. John Lateran〈英〉
* * *
再び朗報(ふたたび ろうほう)をお届(とど)けします( "Good news again, …" ).今回(こんかい)はフランスからです( "… this time from France, …" ).今度(こんど)も分量(ぶんりょう)こそ少(すく)ないながら質の高い朗報(しつの たかい ろうほう)です( "… once more small in quantity but high in quality. " ).少数の(=一握りの〈ひとにぎりの〉,わずかの)善良な司祭(しょうすうの ぜんりょうな しさい)たちが共に集い(ともに つどい)( "A handful of good priests are gathering together…" ),信仰(しんこう)がルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)の示された方針に沿って守られる(しめされた ほうしんに そって まもられる)よう行動を起こして(こうどうを おこして)います( "… and taking action to make sure that the Faith will continue to be defended along the lines laid down by Archbishop Lefebvre, …" ).つまり,極右からの教皇空位論(きょくう からの きょうこう くういろん)と上からの公会議主義(うえからの こうかいぎ しゅぎ)との(=意訳・教皇空位主義の攻撃を右側から公会議主義の攻撃を ―― 〈左側ではなく〉上側から迎〈むか〉えその)隙間を縫って進む(すきまを ぬって すすむ)ということです( "… steering between sedevacantism on the right and conciliarism -- from above." ).会員を置き去り(かいいんを おきざり)にする聖ピオ十世会(せい ぴお じゅっせい かい)( SSPX )本部(ほんぶ)は好(す)きなようにさせておき( "SSPX HQ will be left to bury its followers, …" ),残(のこ)りの幸運な司祭(こううんな しさい)たちは迫害の迫撃を受ける(はくがいの はくげきを うける)次の段階に備えて(つぎの だんかいに そなえて)真の宗教(まことの しゅうきょう)で自らの立場(みずからの たちば)を強くする努力(つよくする どりょく)を続(つづ)けています( "… while a remainder of happy priests will continue to fortify themselves with the true religion for the next stage in their persecution." ).
これは私(わたくし)が昨年秋(さくねん あき)から4回(よんかい)にわたり説教(せっきょう)のために訪(おとず)れたフランス国内各地(ふらんす こくない かくち)の施設(しせつ)で観察した状況(かんさつした じょうきょう)です( "This is what I observed on a fourth lecture tour since last autumn of centres in France …" ).どの施設(しせつ)でも,一般信徒(いっぱん しんと)たちはピオ6世(1717-1799年)からピオ12世(1876-1958年)までの間(あいだ)の歴代(れきだい)カトリック教教皇(かとりっく きょう きょうこう)が説(と)いた反自由主義教理(はん じゆうしゅぎ きょうり)に関心を示して(かんしんを しめして)います( "… where the laity are interested in the anti-liberal doctrine of the Catholic Popes between Pius VI (1717-1799) and Pius XII (1876-1958)." ).この教理はとくに新(あたら)しいものではなく,この1世紀半の期間(いっせいきはんの きかん)の初めの頃(はじめの ころ)でさえ詳しく説かれて(くわしく とかれて)いたものでした( "That doctrine was not new, even at the beginning of the century and a half over which it was elaborated." ).教会が絶えず教えて(きょうかいが たえず おしえて)きたことの中で,特定の部分(とくていの ぶぶん)に注目を新たに(ちゅうもくを あらたに)する必要が生じた(ひつようが しょうじた)のは( "It was merely that particular part of the Church's timeless teaching which needed to be refreshed from the moment …" ),15世紀に及ぶ(じゅうごせいきに およぶ)キリスト教の社会秩序(きりすと きょうの しゃかい ちつじょ)が1789年のフランス革命(ふらんす かくめい)により破壊(はかい)され奪い去られた瞬間(うばい さられた しゅんかん)からでした( "… when the Christian social order of 15 centuries was undermined and supplanted by the French Revolution of 1789. " ).
フランス革命はフリーメーソン的自由主義(ふりーめーそんてき じゆうしゅぎ)が教会の玉座(きょうかいの ぎょくざ)(訳注1)と祭壇(きょうかいの ぎょくざと さいだん)をその地位から引きずりおろし転覆させようと狙って神に戦いを挑んだ(ちい から ひきずりおろし てんぷく させようと ねらって かみに たたかいを いどんだ)ものでした( "That Revolution was Freemasonic liberalism making war on God by seeking to overthrow throne and altar." ).
それ以来(いらい),神の公教(=カトリック教)の諸々の玉座(かとりっく きょうの もろもろの ぎょくざ)は「民主主義( "democracy" )」(みんしゅ しゅぎ)により事実上覆(じじつじょう くつがえ)され( "Since then the Catholic thrones have been virtually overthrown by "democracy", …" ),諸カトリック教会の諸々の祭壇(しょ かとりっく きょうかいの もろもろの さいだん)は第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)( "Vatican II" )で公会議が人間の宗教(にんげんの しゅうきょう)に転向(てんこう)したことにより事実上壊された(じじつじょう こわされた)ままになってきました( "… while the Catholic altars were virtually overthrown at Vatican II by that Council's conversion to the religion of man. " ).だが,神の宗教に忠実な(かみの しゅうきょうに ちゅうじつな)ルフェーブル大司教は( "Archbishop Lefebvre however, cleaving to the religion of God, …" ),自分(じぶん)の弟子(でし)たちが自由主義世界の中(じゆうしゅぎ せかいの なか)でカトリック教の立場(たちば)をどう守(まも)るかを知(し)るため教会の反革命的教理(きょうかいの はんかくめいてき きょうり)を完全に理解(かんぜんに りかい)するよう望(のぞ)まれました( "… wished that his seminarians would be thoroughly familiar with the Church's anti-Revolutionary doctrine in order to know how to take their Catholic stand in the midst of a liberal world. " ).大司教の設立(せつりつ)した SSPX が巧(たく)みに新社会(しん しゃかい)( "the Newsociety" )に変えられる様子(かえられる ようす)を理解(りかい)する一般信徒(いっぱん しんと)たちが( "It follows that Catholic lay-folk who can see how the Archbishop's Society of St Pius X is being cunningly transformed into the Newsociety, …" ),第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)の150年前(ひゃくごじゅう ねん まえ)に出(だ)された歴代教皇の回勅(れきだい きょうこうの かいちょく)に関心を示す(かんしんを しめす)のはこのためです( "… are interested in the Popes' Encyclical Letters of those 150 years before Vatican II." ).私は4回のフランス旅行の最初の旅行期間中(さいしょの りょこう きかん ちゅう)に5か所を訪れ(ごかしょを おとずれ)ました( "On the first of my four lecture tours there were five stops." ).直近の,3月末から4月初め(ちょっきんの,さんがつ すえ から しがつ はじめ)にかけての今回の旅行(こんかいの りょこう)では9か所を訪れ(きゅうかしょを おとずれ)ました( "On the latest, between end March and early April, there were nine, …" ).これからさらにお呼(よ)びがかかりそうです( "… and there risk being more invitations." ).訪れた先々(おとずれた さきざき)で,SSPX が誤った方向(あやまった ほうこう)へ導(みちび)かれていることに目を覚ま(めを さま)されているフランスの一般信徒たちが増(ふ)えているのを知(し)りました( "There are, all the time, more French lay-folk waking up to how the Society is being misled." ) .
悲(かな)しいかな,あまりにも多くの聖ピオ十世会の司祭はまだ誘惑の達人の魔法(ゆうわくの たつじんの まほう)にかかったまま,俗世界の夢に魅せられて我を見失っている状態(ぞく せかいの ゆめに みせられて われを みうしなっている じょうたい)です( "Alas, all too many SSPX priests are still spellbound by a master of seduction, lost in his worldly dream." ).私は今回の旅行(こんかいの りょこう)で,そのうちの何人(なんにん)かにお会(あ)いしました( "I met a few of them on this latest tour." ).彼(かれ)らは間違(まちが)いなく善良(ぜんりょう)で,司祭として立派(りっぱ)にふるまってきた人たちです( "They are no doubt good men, they have been good priests, …" ).彼らは目を開き(めを ひらき)多(おお)くのことを見(み)ます( "… they have their eyes open and see many things, …" ).だが,一度(ひとたび)その誘惑者に触れる(ゆうわくしゃに ふれる)と,その視覚が曇り(しかくが くもり),気持ち惑わされて(きもち まどわされて)しまうのです( "… but when they are exposed once more to that seducer, their vision clouds over and their will is puzzled." ).ギリシア語の動詞(ぎりしあごの どうし)「 diaballein 」は英語(えいご)の「 diabolical(ひどい)」,「 devil(悪魔〈あくま〉)」の語源(ごげん)ですが( "The Greek verb "diaballein" from which come the English words "diabolical" and "devil", …" ),「ひっくり返(かえ)す」,「混乱に陥れる(こんらんに おとし いれる)」ことを意味(いみ)します( "… means to turn upside down, to throw into confusion." ).
私が上に述べた(うえに のべた)6名の司祭(ろくめいの しさい)たちは,このように混乱させられた司祭(こんらん させられた しさい)たちとはまったく違(ちが)います( "These confused priests contrast with the half dozen mentioned above who have seen clear and are taking action on what they see." ).彼らは長(なが)いあいだ自分(じぶん)たちのひどい指導者(しどうしゃ)たちに忠実(ちゅうじつ)であろうと努(つと)める緊張感を味わって(きんちょうかんを あじわって)きましたが,これはいまや過去(かこ)のことになっています( "The tension by which they were tortured for as long as they tried to remain loyal to diabolical leaders is a thing of the past." ).彼らは心穏やか(こころ おだやか)で,嬉々(きき)としてルフェーブル大司教の作業を続ける(さぎょうを つづける)ための計画作り(けいかく づくり)に携(たずさ)わっています( "They are serene, and happily making plans for the continuation of the Archbishop's work." ).その中(なか)の一人(ひとり)ドゥムロード神父( "Fr. de Merode" )は何年も前(なんねんも まえ)に叙階(じょかい)叙任?を受けた方ですが,自分の意志(じぶんの いし)で SSPX を離(はな)れ,すでにルルド(るるど)( "Lourdes" )に家を一軒購入(いえを いっけん こうにゅう)し,フランス南西部(なん せいぶ)にもう一軒購入(いっけん こうにゅう)しようとしています( "Fr. de Mérode, ordained many years ago, has left the SSPX of his own accord, has bought one house in Lourdes and is buying another in the Southwest of France." ).彼が購入した家(いえ)は,関心を持つ地元の人々(かんしんを もつ じもとの ひとびと)のための使徒会(しとかい)の場(ば)として,また立ち直り(たち なおり)たい場所(ばしょ)を必要(ひつよう)としている司祭たちの避難所(しさいたちの ひなんばしょ)として役立つ(やくだつ)ことでしょう( "These will act both as bases for an apostolate to many interested souls in the region, and as refuges for priests needing somewhere to recover." ).付け加える(つけくわえる)なら,私はリヨン(りよん)( "Lyon" )で自分が市内に持つスタジオ(じぶんが しないに もつ すたじお)を同(おな)じように避難場所(ひなん ばしょ)を求(もと)める司祭たちのために提供(ていきょう)している尊敬すべき女性(そんけい すべき じょせい)にお会(あ)いしました( "I can add that I met a venerable soul in Lyon who is offering a studio of hers in that city to any priest similarly looking for a roof." ).また,イングランド(いんぐらんど)のブロードステアズ(ケント州)(ぶろーどすてあず〈けんとしゅう〉)( "Broadstairs, England" )にある「抵抗( "Resistance" )」の家(「ていこう」の いえ)はすでに開設(かいせつ)され,聖職に携わる訪問者の受け入れ(せいしょくに たずさわる ほうもんしゃの うけいれ)が可能な状態(かのうな じょうたい)です( "Also the "Resistance" House in Broadstairs, England, is now open and can receive priestly visitors. " ).すでに一人(ひとり)がここに入(はい)りましたOne has already come by." ).この家(いえ)では行動の自由が保証(こうどうの じゆうが ほしょう)されています( "Discretion guaranteed. " ).
大司教(だいしきょう)さま,捻じ曲げられた組織(ねじまげられた そしき)( SSPX )の外(そと)では
( "Outside, Archbishop, of its structure bent …" )
あなたが意図(いと)されたように,あなたの壮大な作業(そうだいな さぎょう)が続(つづ)いています
( "… Your noble work continues, as you meant." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第3パラグラフの訳注1
「"throne and altar"」 「教会の玉座と祭壇」
「フランス革命は …… 教会の王座と祭壇の転覆を狙って神に戦いを挑んだもの……」の
"throne and altar" 「教会の玉座と祭壇」の「教会の玉座」"throne" について:
→ "throne" ="Sancta Sedes 〈ラテン語〉/ Holy See 〈英語〉"
***
=イエズス・キリスト(=天地の王君・牧者たる神の御独り子の教会)の王座.
=ローマ教皇(=王君であり牧者である神の御独り子キリストの代理者)の聖座.
(おうくん・ぼくしゃ たる きりすとの だいりしゃ たる ろーま きょうこう の せいざ)
= Sancta Sedes / Holy See
=ローマ司教座( Episcopalis Sedes = Episcopal See of the Bishop of Rome = Holy See )
(ろーま しきょうざ)
= Cathedra (ラテン語)/ καρέκλα (ギリシア語)
***
・一般に,「大聖堂=カテドラル」とは,
=司教( επίσκοπος 〈ギリシア〉/ episcopus〈ラテン〉/ évêque 〈仏〉/ bishop〈英〉)が
①司教区に所属する信徒に対し教導権を行使し,また,
②種々の真の神の公教(カトリック教)の秘跡を授けるミサ聖祭を
司式する際に
着任する座(=席)のある聖堂のこと.
=使徒座= Apostolic See
司教座( cathedra )が置かれている聖堂を,「司教座聖堂」「大聖堂」「バジリカ」と呼ぶ.
=司教座聖堂 / 大聖堂
〈Ecclesia cathedralis〈ラテン〉 / καθεδρικό ναό〈ギリシャ〉 / Cathedral〈英〉
***
・ローマ司教(=ローマ教皇)の司教座聖堂:
→ローマ・バチカンにある.
ローマ司教(ローマ教皇)の司教座( cathedra )はラテラノ大聖堂に置かれている.
→『至聖なる救世主の大聖堂』
=『ラテラノ大聖堂』
=『〈ラテラノの洗者〉聖ヨハネの大聖堂)』 (日本語)
=Archibasilica Sanctissimi Salvatoris et Sanctorum Ioannis Baptistae et Ioannis Evangelistae in Laterano (ラテン語・正式名称)
Papale di San Giovanni in Laterano〈伊〉
La Basilique Saint-Jean-de-Latran 〈仏〉
Papal Archbasilica of St. John Lateran〈英〉
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2014年4月5日土曜日
351 真実性のない列聖 4/5
エレイソン・コメンツ 第351回 (2014年4月5日)
二人の公会議派教皇(ふたりの こうかいぎは きょうこう),ヨハネ23世(よはね にじゅう さんせい)とヨハネ・パウロ2世(よはね ぱうろ にせい)の列聖(れっせい)が( "The “canonisation”of two Conciliar Popes, John XXIII and John-Paul II, …" ),今月最後の日曜日(こんげつ さいごの にちようび)(4月27日)に予定(よてい)されており( "… is scheduled for the last Sunday of this month, …" ),信仰心の篤い(しんこうしんの あつい)カトリック教信者(かとりっくきょう しんじゃ)の多く(おおく)はこのことに恐怖心(きょうふしん)を抱いて(いだいて)います( "…and many believing Catholics are scared stiff." ).信者たちは両教皇(りょう きょうこう)がいずれも教会の(客観的)破壊者(きょうかいのきゃっかんてき はかいしゃ)だったことを知っている(しっている)からです( "They know that the Conciliar Popes have been (objective) destroyers of the Church." ).信者たちは教会が列聖の不可謬性(れっせいの ふかびゅうせい)を保持していることを知っています( "They know that the Church holds canonisations to be infallible." ).彼ら(かれら)はヨハネ23世,ヨハネ・パウロ2世が聖者(せいじゃ)だと信じるよう強いられる(しんじるよう しいられる)のでしょうか?( "Are they going to be forced to believe that John XXIII and John-Paul II are Saints ? " ) そう考えるとびっくり仰天(ぎょうてん)したくなるでしょう.( "It boggles the mind. " ).だがその必要(ひつよう)はありません.
2013年8月に,私(わたし)はエレイソン・コメンツ(えれいそん・こめんつ)の中(なか)で( "In August of last year these “Comments” …" ),新教会(しんきょうかい)( "Newchurch" )の列聖(れっせい)は公会議以前(こうかいぎ いぜん)の列聖とはまったく異なる現実(ことなる げんじつ)だから,カトリック信徒(しんと)は公会議後(こうかいぎ ご)の列聖を完全無欠(かんぜん むけつ)なものと信じる必要(しんじる ひつよう)はないと述(の)べました( "… stated the fact that Newchurch “canonisations” are such a different reality from pre-Conciliar canonisations that no Catholic need believe that the post-conciliar canonisations are infallible." ).私は間違って(まちがって)いなかったのですが,単に事実を指摘(たんに じじつを してき)しただけで,その理由(りゆう)に触れ(ふれ)ませんでした( "I was not wrong, but while I stated the fact that this is so, I did not give the reason why, …" ).理由は物事を知る(りゆうは ものごとを しる)優れた方法(すぐれた ほうほう)です( "… which is a superior way of knowing something." ).私が(理由に)触れなくても,たぶん1989年のことだったとおもいますが,ある修養会(しゅうよう かい)( "a retreat conference" )の席(せき)でルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )はその本当の理由(ほんとうの りゆう)を私たちに与えて(わたしたちに あたえて)くださいました" )( "On the contrary in a retreat conference, perhaps of 1989, Archbishop Lefebvre gave the deep-down reason why. …" ).大司教が言(い)われたその理由とは ―― モダニスト(近現代主義者)たちの精神腐敗 ( "modernist mind-rot" )(もだにすと〈きんだいしゅぎしゃ〉たちのせいしんふはい)( "… This reason – modernist mind-rot -- …" )―― このことが公会議革命(こうかいぎ かくめい)のすべてを正しく理解する(ただしく りかいする)のに極めて重要なこと(きわめてじゅうようなこと)です( "… -- is crucial to understand correctly the whole Conciliar Revolution." ).
ルフェーブル大司教はそのとき,二人の公会議派教皇(ふたりの こうかいぎは きょうこう)は現代の大衆(げんだいの たいしゅう)と同じ(おなじ)ように,いかなる真実(しんじつ)も不変(ふへん)なものだとは信じて(しんじて)いないと言われました( "The Archbishop said that like a mass of modern men, the Conciliar Popes do not believe in any truth being stable." ).たとえば,ヨハネ・パウロ2世の思考形成(しこう けいせい)は真実は時代と共に(しんじつは じだいと ともに)進化(しんか),変化(へんか)し,科学(かがく)などの進歩(しんぽ)につれ発展(はってん)するという考え(かんがえ)に基(もと)づいています( "For instance John-Paul II’s formation was based on truth evolving, moving with the times, progressing with the advance of science, etc.. " ).同教皇は1988年に聖ピオ10世会( "SSPX" )がおこなった一連の聖別(いちれんの せいべつ)を無効(むこう)としましたが,真実は決(けっ)して固定的(こていてき)なものでないから,というのがその理由でした( "Truth never being fixed is the reason why in 1988 John-Paul II condemned the SSPX’s Episcopal Consecrations, …" ).彼は,カトリック教の伝統(でんとう)は生き物(いきもの)で変化(へんか)するのに対(たい)し, SSPX の列聖(れっせい)はそれが固定的だという考え方(かんがえ かた)に基(もと)づいていると指摘(してき)しました( "… because they sprang from a fixed and not living or moving idea of Catholic Tradition." ).確か(たしか)にカトリック信徒は信仰宣言(しんこう せんげん)(=使徒信経〈しとしんきょう〉・クレド)( "the Credo" )のすべての言葉(ことば)は不可変(ふかへん)のものと信(しん)じています( "For indeed Catholics hold, for example, every word in the Credo to be unchangeable, …" ).なぜなら,そこに含(ふく)まれる言葉は信仰の不変の真実(しんこうの ふへんの しんじつ)を可能な限り(かのうな かぎり)完全に表す(かんぜんに あらわす)ため長期間(ちょう きかん)にわたって打ち出された(うち だされた)もので( "… because the words have been hammered out over the ages to express as perfectly as possible the unchanging truths of the Faith, …" ),間違い(まちがい)なく教会の過去(きょうかいの かこ)の歴代教皇(れきだい きょうこう)や公会議(こう かいぎ)によって定(さだ)められてきたものだからです( "… and these words have been infallibly defined by the Church’s Popes and Councils." ).
もう一つ別の例(もうひとつ べつの れい)とした本来の意味の列聖(ほんらいの いみのれっせい)を挙(あ)げます( "True canonisations are another example: …" ).(1)教皇は教皇として宣言します.(すなわち)( " (1) the Pope pronounces as Pope, …" ) (2)信仰と倫理(しんこうと りんり)のモデル(もでる)たりうる然(しか)るべき人物(じんぶつ)を( " (2) such and such a person to be a model of faith and morals, …" ) ,(3)最終的(さいしゅうてき)に( " (3) once and for all (nobody used to get uncanonised), …" ),(列聖は決して取り消されない〈けっして とりけされない〉ものとされてきました),(4)教会全体(きょうかい ぜんたい)がこのようなモデルとして受け入れる(うけいれる)ように(宣言します)( " (4) for all the Church to accept as such a model." ).本来(ほんらい)はそういうものですから( "As such, …" ),これまでの列聖は無謬の教会(むびゅうの きょうかい)の教(おし)えたりうる4条件(よん じょうけん)を満(み)たしてきましたし( "… canonisations used to fulfil the four conditions of infallible Church teaching, …" ),それは完全無欠(かんぜん むけつ)(=無謬〈むびゅう〉=絶対正しい〈ぜったい ただしい〉=絶対正義〈ぜったいせいぎ〉)だと信(しん)じられてきました( "… and they were held to be infallible." ).だが,真実は不変・不可変(しんじつは ふへん・ふかへん)というこのカトリック教の考え(かとりっくきょうの かんがえ)は公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちのような不安定な現代人(ふあんていな げんだいじん)( "…fluid modern minds" )にとっては考(かんが)えられないものなのです( "…But this Catholic idea of an unchangeable truth is inconceivable for fluid modern minds like those of the Conciliar Popes." ).彼ら(かれら)にとって,真実(しんじつ)とは人生であり,ある人生が完成に向かって(かんせいに むかって)発展(はってん),進化(しんか),成長(せいちょう)し続(つづ)けるようなものです( "For them, truth is life, a life developing, evolving, growing towards perfection. " ).だとしたら,公会議派教皇が無謬の列聖(むびゅうの れっせい)をどうして執り行(とりおこな)えるでしょうか( "How then can a Conciliar Pope perform, …" ).それを信徒(しんと)に押し付ける(おし つける)など,とんでもないじゃありませんか?( "… let alone impose, an infallible canonisation ? " )
ルフェーブル大司教は,ある公会議派教皇がそのような列聖を行(おこな)った後,自身の考えかた(じしんの かんがえかた)にどう反応(はんのう)するだろうか想像(そうぞう)したことがあります( "The Archbishop imagines how a Conciliar Pope might react to the idea of his having done any such thing: …" ).その教皇(きょうこう)は「オー・ノー(おー・のー)!もし将来(しょうらい),私が列聖した人物(じんぶつ)が必要な資質(ひつような ししつ)に欠けて(かけて)いるとわかったら( "… “Oh no ! If ever in the future it turns out that the person I canonised did not have all the qualities required, …" ),私は彼の今回一度限りの神聖さ(しんせいさ)( "sanctity" )(に基(もと)づいて)でなく彼の美徳(びとく)( "virtue" )に基(もと)づいて決定(けってい)したと,私の後継者の誰(わたしの こうけいしゃの だれか)かが宣言(せんげん)してもよいではないか」と言うのでしょうか( " … well, some successor of mine may well declare that I made a declaration on that person’s virtue but not a once and for all definition of their sanctity.” " ).教皇の「宣言」( "declaration" )により行(おこな)われた「列聖(れっせい)」( "canonising" )は,出身国の大統領(しゅっしんこくの だいとうりょう)や地元のキリスト教徒(じもとの きりすと きょうと)を喜(よろこ)ばせ( "Meanwhile the “canonising” Pope’s “declaration” has made the President of the local Republic and the local Christians happy, …" ),彼らに祝賀会を開く(しゅくがかいを ひらく)口実を与えた(こうじつを あたえた)ことでしょう( "… and he has given them all an excuse to have a party to celebrate." ).
もし,このことを考えるなら( "If one thinks about it, …" ),ルフェーブル大司教の行った説明(せつめい)は新教会(しんきょうかい)のあらゆることに当て(あて)はまります( "… this explanation of the Archbishop applies to the Newchurch across the board..第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)がしていることは( "What we have in Vatican II is …" ),天国に通じる(てんごくに つうじる)神の不変の真理の美しさ(かみの ふへんの しんりの うつくしさ)という難題(なんだい)を( "… is the demanding beauty of God’s unchangeable Truth, which leads to Heaven, …" ),人間(にんげん)の変わり易い幻想(かわりやすい げんそう)という安易な醜さ(あんいな みにくさ)に置き換える(おきかえる)ことです( "… being replaced by the undemanding ugliness of man’s fluid fantasy, which may lead to Hell but enables man, as he thinks, to take the place of God." ).後者(こうしゃ)は人を地獄に陥れる(ひとを じごくに おとしいれる)かもしれませんが,人が(ひとが)神に取って代わる(かみに とって かわる)ことを可能(かのう)にすると,大司教は考えます.このプロセス(ぷろせす)でカギとなる一歩(かぎとなる いっぽ)は人の心(ひとの こころ)を現実(げんじつ)から外れ(はずれ)させることです( "The key step in this process is the unhooking of the mind from reality." ).このプロセスを近代主義(きんだい しゅぎ)(=モダニズム〈もだにずむ〉)( "modernism" )として今日の教会(こんにちの きょうかい)に当てはめるなら( "When the process is applied today to the Church as modernism, …" ),結果(けっか)は以前に起きた(いぜんに おきた)ことまったく異(こと)なるため( "… the results are so totally unlike what went before …" ),新しい現実(あたらしい げんじつ)には,どうしても新教会(しん きょうかい)( "Newchurch" ),新列聖(しん れっせい)( "Newcanonisations" ),新聖人(しん せいじん)( "Newsaints" )等々(とうとう)といった新しい名前(あたらしい なまえ)が必要(ひつよう)になるでしょう( "… that the new realities absolutely call for new names: Newchurch, Newcanonisations, Newsaints, etc.." ).結局(けっきょく)のところ,公会議派の人々(こうかいぎはの ひとびと)はなにもかも新しく(あたらしく)することに誇り(ほこり)をもっているということではないでしょうか?( "After all, are not the Conciliarists proud of making everything new ? " )
キリエ・エレイソン.
カトリック信徒は間近(まぢか))にせまった公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)の列聖(れっせい)に誤りはないと信じる必要(あやまりは ない と しんじる ひつよう)などありません( "No Catholic need believe that the imminent canonisation of Conciliar Popes will be infallible, …" ).なぜなら,それは精神腐敗(せいしん ふはい)から生(しょう)じた結果(けっか)なのですから( "… because it will proceed from mind-rot. " ).
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(訳注)
「人間の生命(にんげんの せいめい)」について.
・現世(げんせ)で如何なる宗教(いかなるしゅうきょう)に入信(にゅうしん)していようと
していまい(=無宗教)と,
事実(じじつ)として「世の真の理は唯一(よの まことの ことわりは ゆいいつ)」であり,
カトリック教(公教〈こうきょう〉)ではその「世の唯一の真の理」を「神」と呼ぶ.
・また,現世が存在するように,来世(らいせ)も確かに存在(たしかに そんざい)する.
・現世での生き様(いきざま)の正しさ如何(ただしさ いかん)で, 来世での生命(いのち)が決まる(きまる)のは事実(じじつ)である.
・現世(人生〈じんせい〉)で善人(ぜんにん)であった者(もの),人生の最後の一瞬(じんせいの さいごの いっしゅん)でも悔悛(かいしゅん)して善人となった者(もの)には, 来世での永遠の安息(えいえんの あんそく)(=安らかな休息〈やすらかな きゅうそく〉)が約束(やくそく)されている(=永遠の生命〈えいえんのいのち〉)が,
・現世で他者に憐みを持たない悪人(たしゃに あわれみを もたない あくにん)であった者や,
・人生の最後の瞬間まで悔悛(=回心)(じんせいの さいごの しゅんかんまで かいしゅん〈=かいしん〉)しなかった者は,
・天賦の生命に感謝(てんぷの せいめいに かんしゃ)して人生を正しく全う(じんせいを ただしくまっとう)しなかったため, また,他人が天賦の生命を全うすることを悪意をもって妨げた(あくいを もって さまたげた)ため,永劫の罰(えいごうの ばつ)を真の神から受ける(まことの かみから うける).
・この真(まこと)の理(ことわり)に,現世の宗教の名前や正邪の如何(しゅうきょうの なまえや せいじゃの いかん)は関係(かんけい)しない.
・この「真理」を
「遍く(あまねく)古今東西(ここんとうざい)の カトリック(公〈おおやけ〉)の神・公の教え(おおやけの おしえ)」と呼ぶ.
・人間は自分から生まれたのではなく,天の御父なる唯一の真の神から生命(いのち)を授かって(さずかって)父母を通じて(ふぼを つうじて)生まれてくる. 自分の生命(じぶんの せいめい)は,自分ひとりの持ち物(もちもの)ではなく,真の神に対して責任(せきにん)がある.
・神の所有物に関わる事物(かみの しょゆうぶつに かかわる ことぶつ)を,人間が好き勝手に操作する(にんげんが すきかってに そうさする)ことは,万物の創造主たる神(ばんぶつの そうぞうしゅたる かみ)に対する越権行為(えっけん こうい)であり,
・それは神の善に反逆したあらゆる悪の霊(かみの ぜんに はんぎゃくした あらゆる あくの れい)と同様の行為(どうようの こうい)である.
・全能の神(ぜんのうの かみ)は,この世の万物の所業(このよの ばんぶつの しょぎょう)を熟知(じゅくち)される.
・この神の「真理・真実」に手を加える(てを くわえる)者があれば,その者は必然的(ひつぜん てき)に,その「真理」により断罪(だんざい)される.
・この世の万物(このよの ばんぶつ)はすべてこの「真理(=神)」の摂理のうちに存在(「しんり〈=かみ〉」の せつりの うちに そんざい))しており,不滅・不変の普遍的真理(ふめつ・ふへんの ふへんてき しんり)は,決(けっ)して人間の手(にんげんの て)によって移り変わって(うつり かわって)いくようなものにすることはできない.
・唯一の真の神は,御子イエズス・キリストの姿を取られて(おんこ いえずす・きりすとのすがたを とられて),地上に降りて来られ(ちじょうに おりて こられ),聖マリアよりお生まれになり,この「真の理(まことの ことわり)」を証明(しょうめい)された.
・キリストの御母(きりすとの おんはは),聖母(せいぼ)マリア(せいぼ まりあ)は,神の御母(かみの おんはは)であり,キリストを証明される方(しょうめい される かた)であり,私たち人間の信仰(わたしたち にんげんの しんこう)によって人類の御母(じんるいの おんはは)となられ,私たち人類の救霊(きゅうれい)を救世主(きゅうせいしゅ)キリストにとりなされる.
・このカトリックの真理は不変であり,神の被造物にすぎない有限の地上の人間(かみのひぞうぶつに すぎない ゆうげんの ちじょうの にんげん)のように移り変わって(うつり かわって)いくことはない.
・新約聖書・聖ヨハネによる福音書,聖ヨハネによる第一の書簡,聖ヨハネの黙示録,使徒聖パウロの書簡などを参照.
* * *
二人の公会議派教皇(ふたりの こうかいぎは きょうこう),ヨハネ23世(よはね にじゅう さんせい)とヨハネ・パウロ2世(よはね ぱうろ にせい)の列聖(れっせい)が( "The “canonisation”of two Conciliar Popes, John XXIII and John-Paul II, …" ),今月最後の日曜日(こんげつ さいごの にちようび)(4月27日)に予定(よてい)されており( "… is scheduled for the last Sunday of this month, …" ),信仰心の篤い(しんこうしんの あつい)カトリック教信者(かとりっくきょう しんじゃ)の多く(おおく)はこのことに恐怖心(きょうふしん)を抱いて(いだいて)います( "…and many believing Catholics are scared stiff." ).信者たちは両教皇(りょう きょうこう)がいずれも教会の(客観的)破壊者(きょうかいのきゃっかんてき はかいしゃ)だったことを知っている(しっている)からです( "They know that the Conciliar Popes have been (objective) destroyers of the Church." ).信者たちは教会が列聖の不可謬性(れっせいの ふかびゅうせい)を保持していることを知っています( "They know that the Church holds canonisations to be infallible." ).彼ら(かれら)はヨハネ23世,ヨハネ・パウロ2世が聖者(せいじゃ)だと信じるよう強いられる(しんじるよう しいられる)のでしょうか?( "Are they going to be forced to believe that John XXIII and John-Paul II are Saints ? " ) そう考えるとびっくり仰天(ぎょうてん)したくなるでしょう.( "It boggles the mind. " ).だがその必要(ひつよう)はありません.
2013年8月に,私(わたし)はエレイソン・コメンツ(えれいそん・こめんつ)の中(なか)で( "In August of last year these “Comments” …" ),新教会(しんきょうかい)( "Newchurch" )の列聖(れっせい)は公会議以前(こうかいぎ いぜん)の列聖とはまったく異なる現実(ことなる げんじつ)だから,カトリック信徒(しんと)は公会議後(こうかいぎ ご)の列聖を完全無欠(かんぜん むけつ)なものと信じる必要(しんじる ひつよう)はないと述(の)べました( "… stated the fact that Newchurch “canonisations” are such a different reality from pre-Conciliar canonisations that no Catholic need believe that the post-conciliar canonisations are infallible." ).私は間違って(まちがって)いなかったのですが,単に事実を指摘(たんに じじつを してき)しただけで,その理由(りゆう)に触れ(ふれ)ませんでした( "I was not wrong, but while I stated the fact that this is so, I did not give the reason why, …" ).理由は物事を知る(りゆうは ものごとを しる)優れた方法(すぐれた ほうほう)です( "… which is a superior way of knowing something." ).私が(理由に)触れなくても,たぶん1989年のことだったとおもいますが,ある修養会(しゅうよう かい)( "a retreat conference" )の席(せき)でルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )はその本当の理由(ほんとうの りゆう)を私たちに与えて(わたしたちに あたえて)くださいました" )( "On the contrary in a retreat conference, perhaps of 1989, Archbishop Lefebvre gave the deep-down reason why. …" ).大司教が言(い)われたその理由とは ―― モダニスト(近現代主義者)たちの精神腐敗 ( "modernist mind-rot" )(もだにすと〈きんだいしゅぎしゃ〉たちのせいしんふはい)( "… This reason – modernist mind-rot -- …" )―― このことが公会議革命(こうかいぎ かくめい)のすべてを正しく理解する(ただしく りかいする)のに極めて重要なこと(きわめてじゅうようなこと)です( "… -- is crucial to understand correctly the whole Conciliar Revolution." ).
ルフェーブル大司教はそのとき,二人の公会議派教皇(ふたりの こうかいぎは きょうこう)は現代の大衆(げんだいの たいしゅう)と同じ(おなじ)ように,いかなる真実(しんじつ)も不変(ふへん)なものだとは信じて(しんじて)いないと言われました( "The Archbishop said that like a mass of modern men, the Conciliar Popes do not believe in any truth being stable." ).たとえば,ヨハネ・パウロ2世の思考形成(しこう けいせい)は真実は時代と共に(しんじつは じだいと ともに)進化(しんか),変化(へんか)し,科学(かがく)などの進歩(しんぽ)につれ発展(はってん)するという考え(かんがえ)に基(もと)づいています( "For instance John-Paul II’s formation was based on truth evolving, moving with the times, progressing with the advance of science, etc.. " ).同教皇は1988年に聖ピオ10世会( "SSPX" )がおこなった一連の聖別(いちれんの せいべつ)を無効(むこう)としましたが,真実は決(けっ)して固定的(こていてき)なものでないから,というのがその理由でした( "Truth never being fixed is the reason why in 1988 John-Paul II condemned the SSPX’s Episcopal Consecrations, …" ).彼は,カトリック教の伝統(でんとう)は生き物(いきもの)で変化(へんか)するのに対(たい)し, SSPX の列聖(れっせい)はそれが固定的だという考え方(かんがえ かた)に基(もと)づいていると指摘(してき)しました( "… because they sprang from a fixed and not living or moving idea of Catholic Tradition." ).確か(たしか)にカトリック信徒は信仰宣言(しんこう せんげん)(=使徒信経〈しとしんきょう〉・クレド)( "the Credo" )のすべての言葉(ことば)は不可変(ふかへん)のものと信(しん)じています( "For indeed Catholics hold, for example, every word in the Credo to be unchangeable, …" ).なぜなら,そこに含(ふく)まれる言葉は信仰の不変の真実(しんこうの ふへんの しんじつ)を可能な限り(かのうな かぎり)完全に表す(かんぜんに あらわす)ため長期間(ちょう きかん)にわたって打ち出された(うち だされた)もので( "… because the words have been hammered out over the ages to express as perfectly as possible the unchanging truths of the Faith, …" ),間違い(まちがい)なく教会の過去(きょうかいの かこ)の歴代教皇(れきだい きょうこう)や公会議(こう かいぎ)によって定(さだ)められてきたものだからです( "… and these words have been infallibly defined by the Church’s Popes and Councils." ).
もう一つ別の例(もうひとつ べつの れい)とした本来の意味の列聖(ほんらいの いみのれっせい)を挙(あ)げます( "True canonisations are another example: …" ).(1)教皇は教皇として宣言します.(すなわち)( " (1) the Pope pronounces as Pope, …" ) (2)信仰と倫理(しんこうと りんり)のモデル(もでる)たりうる然(しか)るべき人物(じんぶつ)を( " (2) such and such a person to be a model of faith and morals, …" ) ,(3)最終的(さいしゅうてき)に( " (3) once and for all (nobody used to get uncanonised), …" ),(列聖は決して取り消されない〈けっして とりけされない〉ものとされてきました),(4)教会全体(きょうかい ぜんたい)がこのようなモデルとして受け入れる(うけいれる)ように(宣言します)( " (4) for all the Church to accept as such a model." ).本来(ほんらい)はそういうものですから( "As such, …" ),これまでの列聖は無謬の教会(むびゅうの きょうかい)の教(おし)えたりうる4条件(よん じょうけん)を満(み)たしてきましたし( "… canonisations used to fulfil the four conditions of infallible Church teaching, …" ),それは完全無欠(かんぜん むけつ)(=無謬〈むびゅう〉=絶対正しい〈ぜったい ただしい〉=絶対正義〈ぜったいせいぎ〉)だと信(しん)じられてきました( "… and they were held to be infallible." ).だが,真実は不変・不可変(しんじつは ふへん・ふかへん)というこのカトリック教の考え(かとりっくきょうの かんがえ)は公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちのような不安定な現代人(ふあんていな げんだいじん)( "…fluid modern minds" )にとっては考(かんが)えられないものなのです( "…But this Catholic idea of an unchangeable truth is inconceivable for fluid modern minds like those of the Conciliar Popes." ).彼ら(かれら)にとって,真実(しんじつ)とは人生であり,ある人生が完成に向かって(かんせいに むかって)発展(はってん),進化(しんか),成長(せいちょう)し続(つづ)けるようなものです( "For them, truth is life, a life developing, evolving, growing towards perfection. " ).だとしたら,公会議派教皇が無謬の列聖(むびゅうの れっせい)をどうして執り行(とりおこな)えるでしょうか( "How then can a Conciliar Pope perform, …" ).それを信徒(しんと)に押し付ける(おし つける)など,とんでもないじゃありませんか?( "… let alone impose, an infallible canonisation ? " )
ルフェーブル大司教は,ある公会議派教皇がそのような列聖を行(おこな)った後,自身の考えかた(じしんの かんがえかた)にどう反応(はんのう)するだろうか想像(そうぞう)したことがあります( "The Archbishop imagines how a Conciliar Pope might react to the idea of his having done any such thing: …" ).その教皇(きょうこう)は「オー・ノー(おー・のー)!もし将来(しょうらい),私が列聖した人物(じんぶつ)が必要な資質(ひつような ししつ)に欠けて(かけて)いるとわかったら( "… “Oh no ! If ever in the future it turns out that the person I canonised did not have all the qualities required, …" ),私は彼の今回一度限りの神聖さ(しんせいさ)( "sanctity" )(に基(もと)づいて)でなく彼の美徳(びとく)( "virtue" )に基(もと)づいて決定(けってい)したと,私の後継者の誰(わたしの こうけいしゃの だれか)かが宣言(せんげん)してもよいではないか」と言うのでしょうか( " … well, some successor of mine may well declare that I made a declaration on that person’s virtue but not a once and for all definition of their sanctity.” " ).教皇の「宣言」( "declaration" )により行(おこな)われた「列聖(れっせい)」( "canonising" )は,出身国の大統領(しゅっしんこくの だいとうりょう)や地元のキリスト教徒(じもとの きりすと きょうと)を喜(よろこ)ばせ( "Meanwhile the “canonising” Pope’s “declaration” has made the President of the local Republic and the local Christians happy, …" ),彼らに祝賀会を開く(しゅくがかいを ひらく)口実を与えた(こうじつを あたえた)ことでしょう( "… and he has given them all an excuse to have a party to celebrate." ).
もし,このことを考えるなら( "If one thinks about it, …" ),ルフェーブル大司教の行った説明(せつめい)は新教会(しんきょうかい)のあらゆることに当て(あて)はまります( "… this explanation of the Archbishop applies to the Newchurch across the board..第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)がしていることは( "What we have in Vatican II is …" ),天国に通じる(てんごくに つうじる)神の不変の真理の美しさ(かみの ふへんの しんりの うつくしさ)という難題(なんだい)を( "… is the demanding beauty of God’s unchangeable Truth, which leads to Heaven, …" ),人間(にんげん)の変わり易い幻想(かわりやすい げんそう)という安易な醜さ(あんいな みにくさ)に置き換える(おきかえる)ことです( "… being replaced by the undemanding ugliness of man’s fluid fantasy, which may lead to Hell but enables man, as he thinks, to take the place of God." ).後者(こうしゃ)は人を地獄に陥れる(ひとを じごくに おとしいれる)かもしれませんが,人が(ひとが)神に取って代わる(かみに とって かわる)ことを可能(かのう)にすると,大司教は考えます.このプロセス(ぷろせす)でカギとなる一歩(かぎとなる いっぽ)は人の心(ひとの こころ)を現実(げんじつ)から外れ(はずれ)させることです( "The key step in this process is the unhooking of the mind from reality." ).このプロセスを近代主義(きんだい しゅぎ)(=モダニズム〈もだにずむ〉)( "modernism" )として今日の教会(こんにちの きょうかい)に当てはめるなら( "When the process is applied today to the Church as modernism, …" ),結果(けっか)は以前に起きた(いぜんに おきた)ことまったく異(こと)なるため( "… the results are so totally unlike what went before …" ),新しい現実(あたらしい げんじつ)には,どうしても新教会(しん きょうかい)( "Newchurch" ),新列聖(しん れっせい)( "Newcanonisations" ),新聖人(しん せいじん)( "Newsaints" )等々(とうとう)といった新しい名前(あたらしい なまえ)が必要(ひつよう)になるでしょう( "… that the new realities absolutely call for new names: Newchurch, Newcanonisations, Newsaints, etc.." ).結局(けっきょく)のところ,公会議派の人々(こうかいぎはの ひとびと)はなにもかも新しく(あたらしく)することに誇り(ほこり)をもっているということではないでしょうか?( "After all, are not the Conciliarists proud of making everything new ? " )
キリエ・エレイソン.
カトリック信徒は間近(まぢか))にせまった公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)の列聖(れっせい)に誤りはないと信じる必要(あやまりは ない と しんじる ひつよう)などありません( "No Catholic need believe that the imminent canonisation of Conciliar Popes will be infallible, …" ).なぜなら,それは精神腐敗(せいしん ふはい)から生(しょう)じた結果(けっか)なのですから( "… because it will proceed from mind-rot. " ).
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(訳注)
「人間の生命(にんげんの せいめい)」について.
・現世(げんせ)で如何なる宗教(いかなるしゅうきょう)に入信(にゅうしん)していようと
していまい(=無宗教)と,
事実(じじつ)として「世の真の理は唯一(よの まことの ことわりは ゆいいつ)」であり,
カトリック教(公教〈こうきょう〉)ではその「世の唯一の真の理」を「神」と呼ぶ.
・また,現世が存在するように,来世(らいせ)も確かに存在(たしかに そんざい)する.
・現世での生き様(いきざま)の正しさ如何(ただしさ いかん)で, 来世での生命(いのち)が決まる(きまる)のは事実(じじつ)である.
・現世(人生〈じんせい〉)で善人(ぜんにん)であった者(もの),人生の最後の一瞬(じんせいの さいごの いっしゅん)でも悔悛(かいしゅん)して善人となった者(もの)には, 来世での永遠の安息(えいえんの あんそく)(=安らかな休息〈やすらかな きゅうそく〉)が約束(やくそく)されている(=永遠の生命〈えいえんのいのち〉)が,
・現世で他者に憐みを持たない悪人(たしゃに あわれみを もたない あくにん)であった者や,
・人生の最後の瞬間まで悔悛(=回心)(じんせいの さいごの しゅんかんまで かいしゅん〈=かいしん〉)しなかった者は,
・天賦の生命に感謝(てんぷの せいめいに かんしゃ)して人生を正しく全う(じんせいを ただしくまっとう)しなかったため, また,他人が天賦の生命を全うすることを悪意をもって妨げた(あくいを もって さまたげた)ため,永劫の罰(えいごうの ばつ)を真の神から受ける(まことの かみから うける).
・この真(まこと)の理(ことわり)に,現世の宗教の名前や正邪の如何(しゅうきょうの なまえや せいじゃの いかん)は関係(かんけい)しない.
・この「真理」を
「遍く(あまねく)古今東西(ここんとうざい)の カトリック(公〈おおやけ〉)の神・公の教え(おおやけの おしえ)」と呼ぶ.
・人間は自分から生まれたのではなく,天の御父なる唯一の真の神から生命(いのち)を授かって(さずかって)父母を通じて(ふぼを つうじて)生まれてくる. 自分の生命(じぶんの せいめい)は,自分ひとりの持ち物(もちもの)ではなく,真の神に対して責任(せきにん)がある.
・神の所有物に関わる事物(かみの しょゆうぶつに かかわる ことぶつ)を,人間が好き勝手に操作する(にんげんが すきかってに そうさする)ことは,万物の創造主たる神(ばんぶつの そうぞうしゅたる かみ)に対する越権行為(えっけん こうい)であり,
・それは神の善に反逆したあらゆる悪の霊(かみの ぜんに はんぎゃくした あらゆる あくの れい)と同様の行為(どうようの こうい)である.
・全能の神(ぜんのうの かみ)は,この世の万物の所業(このよの ばんぶつの しょぎょう)を熟知(じゅくち)される.
・この神の「真理・真実」に手を加える(てを くわえる)者があれば,その者は必然的(ひつぜん てき)に,その「真理」により断罪(だんざい)される.
・この世の万物(このよの ばんぶつ)はすべてこの「真理(=神)」の摂理のうちに存在(「しんり〈=かみ〉」の せつりの うちに そんざい))しており,不滅・不変の普遍的真理(ふめつ・ふへんの ふへんてき しんり)は,決(けっ)して人間の手(にんげんの て)によって移り変わって(うつり かわって)いくようなものにすることはできない.
・唯一の真の神は,御子イエズス・キリストの姿を取られて(おんこ いえずす・きりすとのすがたを とられて),地上に降りて来られ(ちじょうに おりて こられ),聖マリアよりお生まれになり,この「真の理(まことの ことわり)」を証明(しょうめい)された.
・キリストの御母(きりすとの おんはは),聖母(せいぼ)マリア(せいぼ まりあ)は,神の御母(かみの おんはは)であり,キリストを証明される方(しょうめい される かた)であり,私たち人間の信仰(わたしたち にんげんの しんこう)によって人類の御母(じんるいの おんはは)となられ,私たち人類の救霊(きゅうれい)を救世主(きゅうせいしゅ)キリストにとりなされる.
・このカトリックの真理は不変であり,神の被造物にすぎない有限の地上の人間(かみのひぞうぶつに すぎない ゆうげんの ちじょうの にんげん)のように移り変わって(うつり かわって)いくことはない.
・新約聖書・聖ヨハネによる福音書,聖ヨハネによる第一の書簡,聖ヨハネの黙示録,使徒聖パウロの書簡などを参照.
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