エレイソン・コメンツ 第236回 (2012年1月21日)
私の長年の文通相手から最近,たとえ2009~2011年に開催された教理上の論議でローマ教皇庁と聖ピオ十世会の教理上の相違が決定的なことが判明したとしても,なぜ両者がなんらかの合意に達すべきかの理由についてさまざまな主張を述べた手紙を受け取りました.ここでは,彼の論点の一つについて詳論したいと思います.というのは彼の論点が聖ピオ十世会の現在直面している問題の全容解明につながるからです.
彼は手紙で,もし聖ピオ十世会がすぐにローマ教皇庁との関係を「正常化」しなければ,結果として同会はカトリック教会に所属することの意義を失う危険を冒すことになる,と書いています.なぜなら聖ピオ十世会に所属する一般信徒たちや司祭たちでさえ自分たちの現在置かれている異常な状況に満足し,それに順応しており,それは聖ピオ十世会が「必要とするすべて,とりわけ司教たちを所有している」からだ,というのです.このような順応は分離主義の考え方,理論的でないにせよ実質的に教皇空位主義の方向につながるものだと,知人は書いています.彼に対し私は,自分の意見では分離主義的な精神構造を身につける危険よりはるかに大きなリスクはむしろ「今日のローマ教皇庁の人々に近づきすぎることによる彼らの霊的および精神的な病気」にかかる危険だ,と答えました.あきれた答えでしょうか? ここで説明させてください.
「精神病」 “Mental Sickness” とは最近もう一人別の友人が長時間語り合ったローマの聖職者たち “Roman churchmen” に当てはめた表現です.その友人によれば,ローマの聖職者たちは知的かつ誠実な人たちで,カトリック伝統に関する議論をぶつければそれを理解する能力は十分に持ち備えています.だが友人は「彼らは精神的に病んでいます.ただ,彼らは権威(けんい)を持っているだけです.」と結論を下しています.友人は「精神的に病んでいる」という表現を使うことで決(けっ)してローマの聖職者たちを個人的に侮辱(ぶじょく)するつもりはなかったのです.友人が言ったことは単なる個人的な侮辱よりはるかに深刻でした.彼は,聖職者たちとの長い会話で確信したところに従(したが)って,彼らの心の客観的な状態についてコメントしたのです.彼らの心はもはや真理に則(のっと)って動いていないのです.
ローマの聖職者たちと接触した3人目の友人も同じこと違う言葉で言い表しました.私は彼に,「事の本質に触れ,心と真実の根本的な問題について彼らと心を開いて話し合うことはできなかったのですか? 」と尋(たず)ねました.彼の返事は,「いいえ,できませんでした.彼らがおそらく言いたかったことは彼らが権威だということ,彼らがカトリック教会だということ,そしてもし私達がカトリック信徒になりたいなら,その方法を教えるのは彼らだということです」と,いうものでした.そのような心は真実ではなく権威に則って動いているのです.ところで,ミルクは素晴(すば)らしいものですが,ある自動車の持ち主が自分の車の燃料(ねんりょう)タンクをミルクで満(み)たすといとも穏(おだ)やかに言い張っている姿を想像してみてください! 大きな問題は現代世界のほぼ全体が真実についてのあらゆる感覚と愛を失(うしな)っていることです.ずいぶん長い間カトリック教会はこの真実の喪失(そうしつ)に抵抗したのですが,第二バチカン公会議でその最後の抵抗さえも崩(くず)れ去ったのです.
なぜなら実に現代世界は魅力的で影響力が大きく,ローマもまた然(しか)りだからです! あるイタリア人の友人がバチカンの執務室(しつむしつ)の魅力についてどう感じたかをご紹介します.「ローマの豪華(ごうか)な建造物(けんぞうぶつ)に足を踏み入れることは大胆な冒険のようなものです.なぜなら,そこであなたが呼吸する空気がたまらないほど魅力に溢(あふ)れたものだからです.バチカン内の神聖な大会堂の魅力は,魅力的な当局者たち(全員が魅力的なわけではありません)からではなく,むしろ2000年もの期間に及ぶカトリック教会史からにじみ出た諸会堂の発(はっ)する雰囲気(ふんいき)から生み出されているものです.その魅力は天からのものでしょうか? それとも地獄からのものでしょうか? いずれにしても,バチカンの雰囲気だけで訪問者は心をわくわくさせられ(=魅惑・魅了させされ)意志を従順にさせられてしまうのです.」
それでもバチカンの魅力は,人の心に入り込みそれを無力にし、そしてその流れに従うようにさせてしまう現代世界の圧力全体のほんの一部にすぎません.親愛なる我が友人よ,私はローマの背教者 “a Roman apostate” となるよりはむしろ分離主義者たる教皇空位主義者 “a schismatic sedevacantist” となる方を選ぶでしょう.だが神の恩寵(おんちょう)により,そのいずれにもなりません!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
2012年1月23日月曜日
2012年1月14日土曜日
235 国教たるべきか?-3- (1/14)
エレイソン・コメンツ 第235回 (2012年1月14日)
国家はカトリック教を信奉もしくは保護する必要がないと主張するのはリベラル主義(自由主義)者が犯す典型的な間違いであり,第二バチカン公会議の重大な誤りの一つです.リベラル主義者の言い分は,いわば,次のようなものです.「カトリック教を真っ向から攻撃するのはやめ分割支配するようにしましょう.人間は社会的な動物でないと装うことで個々人を社会から切り離しましょう.そうすれば宗教は単なる個人的な関心事にすぎないと装うことができます.これで私達は社会に対する支配権を得ることができます.いったん社会をリベラルなものにしてしまえば,それを個人解放の強力な武器として個人に戻すことができます.というのは,当然ながら人間は社会的動物だからです! それでもリベラルになることを望まない個人は,私たちが解放した社会に抵抗するのがとても難しくなるでしょう.」 そういうことではないしょうか? 周りを見て下さい! では,霊魂の救済のためあらゆる国家はカトリック教国家であるべきとする教義に対し唱えられたるさらなる三つの異議に答えることにしましょう.
司教閣下,私たちの主イエズス・キリスト御自身は「チェザル(訳注・=シーザー,ローマ皇帝)のものはチェザルに,神のものは神に返せ」(マテオ聖福音書・第22章21節)(訳注後記)と仰(おお)せられました.私たちの主はこのみことばによりはっきりと教会を国家から切り離しています.それ故,国家はカトリック教を含めいかなる宗教にも関わるべきではありません.
答え: それは違います.私たちの主はここで教会を国家から切り離しているのではありません! 主は個々人が国に対して負うもの(税金など)と神に対して負うもの(崇拝)を常識的に区別しているのです.私たちの主は決して現世の国家が永遠の神に対して何も負わないと仰(おっしゃ)っているのではありません.むしろ国家は,人間の集まりからなる現世の総体的権威(そうたいてきけんい)として存在するものであり,その権威に基づく諸行為において,人間が社会的な存在として神に負う義務,すなわち神の自然法の社会的遵守(じゅんしゅ)という義務を神に対して負うています.また,国家は自然の道理が真実のまま存在しうる教会について,霊魂の救済の妨(さまた)げとならない範囲内でその社会的認知を高め振興(しんこう)を図(はか)る義務を負うています.
しかし,真の宗教がどれかを見きわめるのは個々人のする行為です.だとすれば,どうして国家は国家として原則的にカトリック国たるべきと義務づけることができるのでしょうか?
答え: 国家は数の大小は別にして肉体的な(すなわち物質的な)人間が集まってできた政治団体における一つの道徳上の(すなわち非物質的な)組織にすぎません.だが,人間は誰でも生来の理性を正しく行使することで,カトリック信仰から生まれる超自然的な徳の持ち主であるとないとにかかわらず,神が存在され,イエズス・キリストが神であられ,カトリック教会がイエズス・キリストの設立された唯一の教会であることを見定めることができます.したがって,ある特定の国家がどれが真の宗教であるかを識別しないとすれば,それはその国の構成員たる国民がそれを識別できないからではなく,彼らが様々な理由で,神から与えられた理性を正しく使うことによって,そう(=識別)しようとしないか,そうしたくないからなのです.実際には彼らは識別することができるのであり,神の御前で全員が識別を怠(おこた)った責任を負うことになるでしょう.その責任の大小は各人の状況に応じ神が完璧にお決めになるでしょう.
お言葉ですが,司教閣下,もし地上のあらゆる国家がカトリック国になる義務があると主張されるのでしたら,あなたは単に悪のために大量の殉教者を生み出そうとしているにすぎないことになります.
答え: あらゆる国家がカトリック国になるべき理由は,(訳注・万物の創造主たる)神の御光栄と霊魂の永遠なる救済のためです.それ故,あまりにも無知で堕落した人間がいて,この真実にできることが彼らを遠ざけることしかないような場合には,その原理を最小限に縮小することなしに,彼らにそれを明示するのを躊躇(ちゅうちょ)せざるを得ないかもしれません.だからといって,その真実は少しも失われるものではありません.真理の諸原則は,それを実際に説くに当たって一定の慎重さが求められることがあるでしょうが,それによってその真実性が少しも失われることはありません.この「コメンタリー(論評)」の読者の皆さんになら必ずすべての真実を伝えることができるでしょう!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第2パラグラフの訳注を後から追加いたします.
(新約聖書・マテオによる聖福音書から)
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国家はカトリック教を信奉もしくは保護する必要がないと主張するのはリベラル主義(自由主義)者が犯す典型的な間違いであり,第二バチカン公会議の重大な誤りの一つです.リベラル主義者の言い分は,いわば,次のようなものです.「カトリック教を真っ向から攻撃するのはやめ分割支配するようにしましょう.人間は社会的な動物でないと装うことで個々人を社会から切り離しましょう.そうすれば宗教は単なる個人的な関心事にすぎないと装うことができます.これで私達は社会に対する支配権を得ることができます.いったん社会をリベラルなものにしてしまえば,それを個人解放の強力な武器として個人に戻すことができます.というのは,当然ながら人間は社会的動物だからです! それでもリベラルになることを望まない個人は,私たちが解放した社会に抵抗するのがとても難しくなるでしょう.」 そういうことではないしょうか? 周りを見て下さい! では,霊魂の救済のためあらゆる国家はカトリック教国家であるべきとする教義に対し唱えられたるさらなる三つの異議に答えることにしましょう.
司教閣下,私たちの主イエズス・キリスト御自身は「チェザル(訳注・=シーザー,ローマ皇帝)のものはチェザルに,神のものは神に返せ」(マテオ聖福音書・第22章21節)(訳注後記)と仰(おお)せられました.私たちの主はこのみことばによりはっきりと教会を国家から切り離しています.それ故,国家はカトリック教を含めいかなる宗教にも関わるべきではありません.
答え: それは違います.私たちの主はここで教会を国家から切り離しているのではありません! 主は個々人が国に対して負うもの(税金など)と神に対して負うもの(崇拝)を常識的に区別しているのです.私たちの主は決して現世の国家が永遠の神に対して何も負わないと仰(おっしゃ)っているのではありません.むしろ国家は,人間の集まりからなる現世の総体的権威(そうたいてきけんい)として存在するものであり,その権威に基づく諸行為において,人間が社会的な存在として神に負う義務,すなわち神の自然法の社会的遵守(じゅんしゅ)という義務を神に対して負うています.また,国家は自然の道理が真実のまま存在しうる教会について,霊魂の救済の妨(さまた)げとならない範囲内でその社会的認知を高め振興(しんこう)を図(はか)る義務を負うています.
しかし,真の宗教がどれかを見きわめるのは個々人のする行為です.だとすれば,どうして国家は国家として原則的にカトリック国たるべきと義務づけることができるのでしょうか?
答え: 国家は数の大小は別にして肉体的な(すなわち物質的な)人間が集まってできた政治団体における一つの道徳上の(すなわち非物質的な)組織にすぎません.だが,人間は誰でも生来の理性を正しく行使することで,カトリック信仰から生まれる超自然的な徳の持ち主であるとないとにかかわらず,神が存在され,イエズス・キリストが神であられ,カトリック教会がイエズス・キリストの設立された唯一の教会であることを見定めることができます.したがって,ある特定の国家がどれが真の宗教であるかを識別しないとすれば,それはその国の構成員たる国民がそれを識別できないからではなく,彼らが様々な理由で,神から与えられた理性を正しく使うことによって,そう(=識別)しようとしないか,そうしたくないからなのです.実際には彼らは識別することができるのであり,神の御前で全員が識別を怠(おこた)った責任を負うことになるでしょう.その責任の大小は各人の状況に応じ神が完璧にお決めになるでしょう.
お言葉ですが,司教閣下,もし地上のあらゆる国家がカトリック国になる義務があると主張されるのでしたら,あなたは単に悪のために大量の殉教者を生み出そうとしているにすぎないことになります.
答え: あらゆる国家がカトリック国になるべき理由は,(訳注・万物の創造主たる)神の御光栄と霊魂の永遠なる救済のためです.それ故,あまりにも無知で堕落した人間がいて,この真実にできることが彼らを遠ざけることしかないような場合には,その原理を最小限に縮小することなしに,彼らにそれを明示するのを躊躇(ちゅうちょ)せざるを得ないかもしれません.だからといって,その真実は少しも失われるものではありません.真理の諸原則は,それを実際に説くに当たって一定の慎重さが求められることがあるでしょうが,それによってその真実性が少しも失われることはありません.この「コメンタリー(論評)」の読者の皆さんになら必ずすべての真実を伝えることができるでしょう!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第2パラグラフの訳注を後から追加いたします.
(新約聖書・マテオによる聖福音書から)
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2012年1月8日日曜日
234 目前の破壊 (1/7)
エレイソン・コメンツ 第234回 (2012年1月7日)
もし読者の中に先週の「エレイソン・コメンツ」が新年の始まりには少し暗い話題だと思われた方がおられましたら,お詫び(おわび)し,今週はもっと希望に満ちたことばで終わることをお約束いたします.だが,私の聞くところでは,多くの人々が差し迫った世界経済の災難がいかに深刻かに気づかず呑気(のんき)に過ごしているというのが実態です.悪いことに,彼らはカトリック教会の危機が破滅寸前の酷(ひど)さだ “the pre-apocalyptic gravity of the crisis in the Church” ということも理解していません.後者の問題について少し考えてみましょう.
聖ピオ十世会 “the Society of St Pius X” 所属の何人かの司祭たちでさえ,SSPX (訳注・=聖ピオ十世会の略号)は正常な信徒団 “a normal religious Congregation” だが今日のローマ教皇庁も過度に異常でもないとの考え方です.ルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” が第二バチカン公会議とバチカン内の「反キリスト者たち」 “the “antichrists” in the Vatican” について非常に手厳しい言い方をしておられたのは事実ですが,大司教の逝去(せいきょ)から20年が経ち事情は好転したというのです.今日私たちは,トレント(=トリエント)・ミサ(訳注・トレント公会議によって定められた様式のミサ聖祭)執行の解禁 “liberation of the Tridentine Mass” ,1988年の聖ピオ十世会所属の4人の司教たちの「破門」の「赦免」 ““remission” of the 1988 “excommunication” of the four SSPX bishops” が証明するように内心では伝統的なカトリック信仰を持つ教皇を戴(いただ)いている,と SSPX の一部司祭たちは考えています.ですから,教皇庁と SSPX がそれぞれもう少し柔軟(じゅうなん)性を持てば,両者は確実に何らかの取り決めにこぎつけることが可能で,それにより教皇庁は SSPX が決して失うことがなかったはずの社会的地位を同会に還元(かんげん)し, SSPX は教皇庁に戻り双方がともにキリストのために世界を再び征服する勝利の行進ができるというのです.2009年から2011年に両者間で行われた一連の教理上の論議 “The Doctrinal Discussions of 2009-2011” は疑問の余地がないほどの教理上の相違(そうい) “an absolute doctrinal divergence” を際立(きわだ)たせたかもしれませんが,そのことは単にその取り決めが純粋に実務的である必要があることを証明しているにすぎない (!) というのが彼らの考えです.
悲しいかな,そのような夢を抱いて安心しているような司祭たちはパッシェンディ “Pascendi” を読んでいないか,読んでだとしてもその内容を理解していないのです.教皇聖ピオ10世 “St Pius X” は1907年に発した偉大な回勅(かいちょく) “his great Encyclical Letter of 1907” の中でモダニズム( “Modernism” ,近代主義)がカトリック教会の存続を脅(おびや)かす大きな脅威(きょうい)だと警告しています.その理由として,モダニズムは自然であれ超自然であれ現実から霊魂を切り離してしまう道の終着点だからだと断じています.モダニズムは神のない夢の国 “its God-less dreamland” の中に心を閉じ込める究極的なセルフシーリング( “self-sealing” =自己封印)です.間違いはそれより先へ進むことはできません.セルフシーリングの一例を挙げます:--
パッシェンディはモダニスト神学者に触れた一項の終わりの部分で,モダニストがカトリック教会の権威により非難されることをいかに喜ぶかを説明しています.ちょうど庭園の散水ホースが水を出すためには水道の蛇口(じゃぐち)から離されてはならないように,カトリック教会はその教理の伝統の源(=カトリック教義)から切り離されてはならないのです.そこでカトリック教会はモダニズムと伝統との間の相互交錯(そうごこうさく,=作用) “an inter-play between Modernism and Tradition” によって前進する必要があります.それゆえモダニストたちは教会権威が伝統主義に立つ存在たることを必要とし,またその(伝統主義に立つ)教会権威が彼らをモダニストだと非難することで伝統主義に則(のっと)った行為を遂行する存在たることを必要とするのです.ですから,もし教皇がモダニストを非難しなければ彼らはどんどん自分たちの主義主張を推し進めるでしょうし,逆に教皇が彼らを非難するとしても彼らはいずれにせよ近代主義を推し進めます.なぜなら教皇はまさに彼らを非難することでカトリック教会の前進に貢献していることになるからです! 表(おもて)が出れば教皇の負け,裏(うら)が出ればモダニストたちの勝ちです “Heads he loses, tails they win.” .それがセルフシーリングの誤りです.これでは神は勝てません.
さて,偉大で善良な神はそのように考える人たちのためにひとつの驚くべきことを用意されます.かつて神は数名の霊魂を救うためノアの時代に人間の惨(みじ)めな社会システム全体を大洪水で洗い流してしまわれましたが,再び何名かの霊魂を救うため今度は現在の社会システムをきれいさっぱり吹き飛ばすかもしれません.その破壊は2012年に始まるかもしれませんし始まらないかもしれません.そして初めにお約束した慰(なぐさ)めとなることばですね ? --
「こういうことが起こりはじめたら,身を立てて頭をあげよ.あなたたちの救いは近づいたのだから….」(ルカ聖福音書・21章28節) “When these things begin to come to pass, look up, and lift your heads, because your redemption is at hand.” (Lk.XXI, 28). (訳注後記) 夜明け前が最も暗いということです “The hour is darkest, they say, just before dawn.” .
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第6パラグラフの訳注:
新約聖書・ルカによる聖福音書:第21章28節(太字部分)(第21章全体を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE XXI, 28 (CHAPTER XXI)
第21章(1-38節)
やもめの寄付
『イエズスは目をあげて,金持ちが献金箱に寄付を入れるのを見ておられたが,ある貧しいやもめが,*¹二レプタを入れるのを見て,「まことに私は言う.あの貧しいやもめはだれよりも多くのものを入れた.他の者はみな,あり余っているものの中から入れたが,あの女は乏しい中から,暮らしの費用を入れたからである」と言われた.』
エルサレムの滅亡、来臨の預言
『*²ある人々がみごとな石とささげ物で飾られた神殿について話したとき,イエズスは,「あなたたちのながめているこれらは,石の上に一つの石さえ残さずくずれ去る日が来るだろう」と言われた.
そこで彼らは,「先生,それはいつのことですか,それの起こる時どんなしるしがありますか」と尋ねた.イエズスは答えられた,「惑わされないように気をつけよ.多くの人が私の名を名のって来るだろう.そして,〈私だ〉また,〈時は来た〉と言うだろうが,それに従うな.戦争と争乱のうわさを聞いても恐れてはならぬ.それらのことはまず起こるにちがいないが,終わりはすぐではない」と言い,それからまた言われた,「民は民に,国は国に逆らって立ち,大地震が起こり,所々に疫病,ききん,恐ろしい現象があり,天に偉大なしるしが見られるだろう.だが,これらすべての起こる前に,あなたたちは人々に捕らえられ,迫害され,会堂と牢獄に引かれ,私の名のために,王と総督の前に訴えられる.
それは,あなたたちが証(あかし)を立てる機会となろう.だがあなたたちは答弁の準備をする必要はない.そのことをよく心に入れておけ.私自身がどんな敵も抵抗できず,反対もできないことばと知恵を授けるからである.またあなたたちは両親,兄弟,親族,友人たちからさえも裏切られ,何人かは殺されるだろう.あなたたちは私の名のためにすべての人から憎まれるが,しかし,あなたたちの髪の毛一本さえ失われはしない.自から耐え忍ぶことによって,自分の霊魂を救わねばならぬ.
*³エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たら,そのとき滅びの日の近づいたことを悟れ.そのときユダヤにいる人は山に逃げ,市中にいる人は市中を出,田舎にいる人は市中に入ってはならぬ.それは,書き記されているすべてのことの実現する報復の日だからである.その日不幸なのは、身ごもった女と乳を飲ます女である.地上に大苦難があり,お怒りがこの民に下るからである.
彼らは剣の刃のもとに倒れ,あるいは捕虜として諸国に引かれ,エルサレムは,*⁴異邦人の時が満たされるまで,異邦人に踏みにじられる.そして,日,月,星にしるしが現れ,地上では国々の民が悩み,海と大波のとどろきに恐怖する.人々はこの世に起こることを思い,恐怖と不安のうちに死ぬだろう,天の力が震い動くからである.そのとき人々は,*⁵人の子が勢力と大いなる栄光をおびて雲に乗り下るのを見るだろう.*⁶こういうことが起こりはじめたら,身を立てて頭をあげよ,あなたたちの救いは近づいたのだから…」.
そして,たとえを話された,「いちじくの木やその他の木をごらん.木々が芽を出しはじめると,それを見てもう夏は近いと気づく.それと同じで,こういうことが起こるのを見たら神の国は近いのだと知れ.*⁷まことに私は言う.それらがみな実現するまで,今の代は過ぎ去らぬ.天地は過ぎ去るが,しかし私のことばは過ぎ去らぬ」.』
警戒と祈り
『「暴飲暴食や飲み物の酔い,生活の煩いに心の鈍らぬように,そして,その日が突然網(あみ)のようにあなたたちの上にかぶさらぬように気をつけよ.それは地上に住むすべての人の上を襲うであろう.来るべきすべてのことから逃れる力を保ち,人の子の前に安心して現れることのできるように,*⁸いつも警戒し,そして祈れ」.
イエズスは昼の間は神殿で教え,夜は出ていってオリーブ山で過ごされた.人々はみな教えを聞こうとして,朝早くから神殿のイエズスのもとに集まった.』
(注釈)
やもめの寄付(21・1-4)
*¹ レプタはアサリオンの四分の一にあたる.マテオ聖福音書18・24の注参照.
エルサレムの滅亡、来臨の預言(21・5-33)
*² 以下マテオ(24・1以下)を参照.世の終わりについて,ルカ(17・22-37)〈(注)末尾〈注釈 *⁸ の後〉に掲載.〉は先にも記したので,ここでは長く書かない.
彼は特にエルサレム滅亡のことをはっきりと話している.将来についての神の思召しは,マルコやマテオよりもはっきりと出ている.
*³ ティトゥス将軍の率いるローマ軍が,エルサレムを囲んだのは,七〇年であった.六七年から,エルサレムの信者はこの町を逃れて,ガラアドの山にあるペラの町に集まっていた.
*⁴「異邦人の時」とは,異邦人が不忠実なユダヤ人の代わりに立つ時のことである.パウロ(ローマ11・11-32)は,イスラエル国の大改心によって終わるまでのことだと言っている.エルサレムの滅亡と世の終わりとの問には,長い不明の期間がある.
*⁵〈旧約〉ダニエルの書7・13-14参照.
*⁶ この節には多くの解釈がある.キリストの来臨(らいりん)後,エルサレム滅亡後などいろいろ解釈する人がある.
*⁷ この節は6節以下のエルサレム滅亡の預言にあてはめてよいであろう.
警戒と祈り(21・34-38)
*⁸ 主の日は突如(とつじょ)として来るから,警戒していなければならないが,人間の警戒だけでは足りないから,祈りをもって,神の恩寵(おんちょう)を請(こ)わねばならない.
(注)ルカ聖福音書・第21章の注釈( *² )で引用されている新約聖書:
ルカによる聖福音書:第17章20-37節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE XVII, 20-37
神の国が来ること
『神の国はいつ来るのか,とファリサイ人から問いかけられたイエズスは,「神の国は目に立つように来るものではなく,*¹ここにある,あそこにある,と言えるものではない.神の国は実にあなたたちの中にある」と答えられた.
それから弟子たちに向かって言われた,「*²あなたたちは,人の子の日々のただ一日でも見たいと思う時が来るだろう.だが見られまい.そのとき人々は,〈人の子はここに.そら,あそこに〉と言うだろうが,そこに行ってはならぬ.追い求めてはならぬ.稲妻が天のこなたにひらめき出て,かなたの天まで光るように,その日その時,人の子もそのようであろう.ともあれ,彼はまず多くの苦しみを受け,この世から見捨てられねばならぬ.
ノアの日々に起こったように,人の子の日々にも同じことが起こるだろう.*³ノアが箱舟に入る日まで,人々は飲み食いし,男は女をめとり,女は男に嫁ぎしていたが,洪水が来てことごとく滅ぼしてしまった.
また,ロトの日々に起こったように,人々は食べ,飲み,買い,売り,植え,建てていたが,*⁴ロトがソドマから出た日に,天から火と硫黄が降ってみな滅ぼされてしまった.
人の子が現れる日もそれと同じである.その日,屋根の上にいる人は家の中に持ち物があっても取りに下りてはならぬ.同じように,畑にいる人も帰ってはならぬ.
*⁵ロトの妻を思い出せ.自分の命を救おうと思う者はそれを失い,命を失う者は生きて保つだろう.私は言う.その夜には,一つの寝床にいる二人があれば,一人は取られ一人は残される.ともに臼(うす)をひく二人の女があれば,一人は取られ一人は残される.(*⁶畑にいる二人の男のうち一人は取られ,一人は残される)」.
弟子たちが,「主よ,それはどこですか」と聞くと,イエズスは,「*⁷はげたかは,体のある所に集まる」と答えられた.』
(注釈)
神の国が来ること(17・20-37)
*¹ 神の国は,ファリサイ人が期待していたような政治的地上の国ではなく,イエズスに立てられて世の終わりまで滅びぬ教会である.
*² 弟子たちは,迫害の激しさのために,イエズスの審判をこいねがう日が来るであろう.しかしその望みは聞き入れられない.
教会が正義のために苦しみ迫害されるのは,神の思召しだからである.
*³ 創世6-8章参照.
*⁴創世19・1-9参照.
*⁵ ロトの妻は,ソドマから逃げ出したとき,家財の損失を惜しんで後ろをふり向いたので,塩の像にされた.
キリストに従う者は,いつか失われるものに執着してはならない.後ろをふり向くことは救いを危うくする(9・2).
*⁶ マテオ(24・40)による書き入れである.
*⁷ はげたかは体(死骸〈しがい〉)のある所に集まるが,審判の日,選ばれた者たちは,人の子(=神の御子イエズス・キリスト)のまわりに集まるであろう.
* * *
もし読者の中に先週の「エレイソン・コメンツ」が新年の始まりには少し暗い話題だと思われた方がおられましたら,お詫び(おわび)し,今週はもっと希望に満ちたことばで終わることをお約束いたします.だが,私の聞くところでは,多くの人々が差し迫った世界経済の災難がいかに深刻かに気づかず呑気(のんき)に過ごしているというのが実態です.悪いことに,彼らはカトリック教会の危機が破滅寸前の酷(ひど)さだ “the pre-apocalyptic gravity of the crisis in the Church” ということも理解していません.後者の問題について少し考えてみましょう.
聖ピオ十世会 “the Society of St Pius X” 所属の何人かの司祭たちでさえ,SSPX (訳注・=聖ピオ十世会の略号)は正常な信徒団 “a normal religious Congregation” だが今日のローマ教皇庁も過度に異常でもないとの考え方です.ルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” が第二バチカン公会議とバチカン内の「反キリスト者たち」 “the “antichrists” in the Vatican” について非常に手厳しい言い方をしておられたのは事実ですが,大司教の逝去(せいきょ)から20年が経ち事情は好転したというのです.今日私たちは,トレント(=トリエント)・ミサ(訳注・トレント公会議によって定められた様式のミサ聖祭)執行の解禁 “liberation of the Tridentine Mass” ,1988年の聖ピオ十世会所属の4人の司教たちの「破門」の「赦免」 ““remission” of the 1988 “excommunication” of the four SSPX bishops” が証明するように内心では伝統的なカトリック信仰を持つ教皇を戴(いただ)いている,と SSPX の一部司祭たちは考えています.ですから,教皇庁と SSPX がそれぞれもう少し柔軟(じゅうなん)性を持てば,両者は確実に何らかの取り決めにこぎつけることが可能で,それにより教皇庁は SSPX が決して失うことがなかったはずの社会的地位を同会に還元(かんげん)し, SSPX は教皇庁に戻り双方がともにキリストのために世界を再び征服する勝利の行進ができるというのです.2009年から2011年に両者間で行われた一連の教理上の論議 “The Doctrinal Discussions of 2009-2011” は疑問の余地がないほどの教理上の相違(そうい) “an absolute doctrinal divergence” を際立(きわだ)たせたかもしれませんが,そのことは単にその取り決めが純粋に実務的である必要があることを証明しているにすぎない (!) というのが彼らの考えです.
悲しいかな,そのような夢を抱いて安心しているような司祭たちはパッシェンディ “Pascendi” を読んでいないか,読んでだとしてもその内容を理解していないのです.教皇聖ピオ10世 “St Pius X” は1907年に発した偉大な回勅(かいちょく) “his great Encyclical Letter of 1907” の中でモダニズム( “Modernism” ,近代主義)がカトリック教会の存続を脅(おびや)かす大きな脅威(きょうい)だと警告しています.その理由として,モダニズムは自然であれ超自然であれ現実から霊魂を切り離してしまう道の終着点だからだと断じています.モダニズムは神のない夢の国 “its God-less dreamland” の中に心を閉じ込める究極的なセルフシーリング( “self-sealing” =自己封印)です.間違いはそれより先へ進むことはできません.セルフシーリングの一例を挙げます:--
パッシェンディはモダニスト神学者に触れた一項の終わりの部分で,モダニストがカトリック教会の権威により非難されることをいかに喜ぶかを説明しています.ちょうど庭園の散水ホースが水を出すためには水道の蛇口(じゃぐち)から離されてはならないように,カトリック教会はその教理の伝統の源(=カトリック教義)から切り離されてはならないのです.そこでカトリック教会はモダニズムと伝統との間の相互交錯(そうごこうさく,=作用) “an inter-play between Modernism and Tradition” によって前進する必要があります.それゆえモダニストたちは教会権威が伝統主義に立つ存在たることを必要とし,またその(伝統主義に立つ)教会権威が彼らをモダニストだと非難することで伝統主義に則(のっと)った行為を遂行する存在たることを必要とするのです.ですから,もし教皇がモダニストを非難しなければ彼らはどんどん自分たちの主義主張を推し進めるでしょうし,逆に教皇が彼らを非難するとしても彼らはいずれにせよ近代主義を推し進めます.なぜなら教皇はまさに彼らを非難することでカトリック教会の前進に貢献していることになるからです! 表(おもて)が出れば教皇の負け,裏(うら)が出ればモダニストたちの勝ちです “Heads he loses, tails they win.” .それがセルフシーリングの誤りです.これでは神は勝てません.
さて,偉大で善良な神はそのように考える人たちのためにひとつの驚くべきことを用意されます.かつて神は数名の霊魂を救うためノアの時代に人間の惨(みじ)めな社会システム全体を大洪水で洗い流してしまわれましたが,再び何名かの霊魂を救うため今度は現在の社会システムをきれいさっぱり吹き飛ばすかもしれません.その破壊は2012年に始まるかもしれませんし始まらないかもしれません.そして初めにお約束した慰(なぐさ)めとなることばですね ? --
「こういうことが起こりはじめたら,身を立てて頭をあげよ.あなたたちの救いは近づいたのだから….」(ルカ聖福音書・21章28節) “When these things begin to come to pass, look up, and lift your heads, because your redemption is at hand.” (Lk.XXI, 28). (訳注後記) 夜明け前が最も暗いということです “The hour is darkest, they say, just before dawn.” .
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第6パラグラフの訳注:
新約聖書・ルカによる聖福音書:第21章28節(太字部分)(第21章全体を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE XXI, 28 (CHAPTER XXI)
第21章(1-38節)
やもめの寄付
『イエズスは目をあげて,金持ちが献金箱に寄付を入れるのを見ておられたが,ある貧しいやもめが,*¹二レプタを入れるのを見て,「まことに私は言う.あの貧しいやもめはだれよりも多くのものを入れた.他の者はみな,あり余っているものの中から入れたが,あの女は乏しい中から,暮らしの費用を入れたからである」と言われた.』
エルサレムの滅亡、来臨の預言
『*²ある人々がみごとな石とささげ物で飾られた神殿について話したとき,イエズスは,「あなたたちのながめているこれらは,石の上に一つの石さえ残さずくずれ去る日が来るだろう」と言われた.
そこで彼らは,「先生,それはいつのことですか,それの起こる時どんなしるしがありますか」と尋ねた.イエズスは答えられた,「惑わされないように気をつけよ.多くの人が私の名を名のって来るだろう.そして,〈私だ〉また,〈時は来た〉と言うだろうが,それに従うな.戦争と争乱のうわさを聞いても恐れてはならぬ.それらのことはまず起こるにちがいないが,終わりはすぐではない」と言い,それからまた言われた,「民は民に,国は国に逆らって立ち,大地震が起こり,所々に疫病,ききん,恐ろしい現象があり,天に偉大なしるしが見られるだろう.だが,これらすべての起こる前に,あなたたちは人々に捕らえられ,迫害され,会堂と牢獄に引かれ,私の名のために,王と総督の前に訴えられる.
それは,あなたたちが証(あかし)を立てる機会となろう.だがあなたたちは答弁の準備をする必要はない.そのことをよく心に入れておけ.私自身がどんな敵も抵抗できず,反対もできないことばと知恵を授けるからである.またあなたたちは両親,兄弟,親族,友人たちからさえも裏切られ,何人かは殺されるだろう.あなたたちは私の名のためにすべての人から憎まれるが,しかし,あなたたちの髪の毛一本さえ失われはしない.自から耐え忍ぶことによって,自分の霊魂を救わねばならぬ.
*³エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たら,そのとき滅びの日の近づいたことを悟れ.そのときユダヤにいる人は山に逃げ,市中にいる人は市中を出,田舎にいる人は市中に入ってはならぬ.それは,書き記されているすべてのことの実現する報復の日だからである.その日不幸なのは、身ごもった女と乳を飲ます女である.地上に大苦難があり,お怒りがこの民に下るからである.
彼らは剣の刃のもとに倒れ,あるいは捕虜として諸国に引かれ,エルサレムは,*⁴異邦人の時が満たされるまで,異邦人に踏みにじられる.そして,日,月,星にしるしが現れ,地上では国々の民が悩み,海と大波のとどろきに恐怖する.人々はこの世に起こることを思い,恐怖と不安のうちに死ぬだろう,天の力が震い動くからである.そのとき人々は,*⁵人の子が勢力と大いなる栄光をおびて雲に乗り下るのを見るだろう.*⁶こういうことが起こりはじめたら,身を立てて頭をあげよ,あなたたちの救いは近づいたのだから…」.
そして,たとえを話された,「いちじくの木やその他の木をごらん.木々が芽を出しはじめると,それを見てもう夏は近いと気づく.それと同じで,こういうことが起こるのを見たら神の国は近いのだと知れ.*⁷まことに私は言う.それらがみな実現するまで,今の代は過ぎ去らぬ.天地は過ぎ去るが,しかし私のことばは過ぎ去らぬ」.』
警戒と祈り
『「暴飲暴食や飲み物の酔い,生活の煩いに心の鈍らぬように,そして,その日が突然網(あみ)のようにあなたたちの上にかぶさらぬように気をつけよ.それは地上に住むすべての人の上を襲うであろう.来るべきすべてのことから逃れる力を保ち,人の子の前に安心して現れることのできるように,*⁸いつも警戒し,そして祈れ」.
イエズスは昼の間は神殿で教え,夜は出ていってオリーブ山で過ごされた.人々はみな教えを聞こうとして,朝早くから神殿のイエズスのもとに集まった.』
(注釈)
やもめの寄付(21・1-4)
*¹ レプタはアサリオンの四分の一にあたる.マテオ聖福音書18・24の注参照.
エルサレムの滅亡、来臨の預言(21・5-33)
*² 以下マテオ(24・1以下)を参照.世の終わりについて,ルカ(17・22-37)〈(注)末尾〈注釈 *⁸ の後〉に掲載.〉は先にも記したので,ここでは長く書かない.
彼は特にエルサレム滅亡のことをはっきりと話している.将来についての神の思召しは,マルコやマテオよりもはっきりと出ている.
*³ ティトゥス将軍の率いるローマ軍が,エルサレムを囲んだのは,七〇年であった.六七年から,エルサレムの信者はこの町を逃れて,ガラアドの山にあるペラの町に集まっていた.
*⁴「異邦人の時」とは,異邦人が不忠実なユダヤ人の代わりに立つ時のことである.パウロ(ローマ11・11-32)は,イスラエル国の大改心によって終わるまでのことだと言っている.エルサレムの滅亡と世の終わりとの問には,長い不明の期間がある.
*⁵〈旧約〉ダニエルの書7・13-14参照.
*⁶ この節には多くの解釈がある.キリストの来臨(らいりん)後,エルサレム滅亡後などいろいろ解釈する人がある.
*⁷ この節は6節以下のエルサレム滅亡の預言にあてはめてよいであろう.
警戒と祈り(21・34-38)
*⁸ 主の日は突如(とつじょ)として来るから,警戒していなければならないが,人間の警戒だけでは足りないから,祈りをもって,神の恩寵(おんちょう)を請(こ)わねばならない.
(注)ルカ聖福音書・第21章の注釈( *² )で引用されている新約聖書:
ルカによる聖福音書:第17章20-37節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE XVII, 20-37
神の国が来ること
『神の国はいつ来るのか,とファリサイ人から問いかけられたイエズスは,「神の国は目に立つように来るものではなく,*¹ここにある,あそこにある,と言えるものではない.神の国は実にあなたたちの中にある」と答えられた.
それから弟子たちに向かって言われた,「*²あなたたちは,人の子の日々のただ一日でも見たいと思う時が来るだろう.だが見られまい.そのとき人々は,〈人の子はここに.そら,あそこに〉と言うだろうが,そこに行ってはならぬ.追い求めてはならぬ.稲妻が天のこなたにひらめき出て,かなたの天まで光るように,その日その時,人の子もそのようであろう.ともあれ,彼はまず多くの苦しみを受け,この世から見捨てられねばならぬ.
ノアの日々に起こったように,人の子の日々にも同じことが起こるだろう.*³ノアが箱舟に入る日まで,人々は飲み食いし,男は女をめとり,女は男に嫁ぎしていたが,洪水が来てことごとく滅ぼしてしまった.
また,ロトの日々に起こったように,人々は食べ,飲み,買い,売り,植え,建てていたが,*⁴ロトがソドマから出た日に,天から火と硫黄が降ってみな滅ぼされてしまった.
人の子が現れる日もそれと同じである.その日,屋根の上にいる人は家の中に持ち物があっても取りに下りてはならぬ.同じように,畑にいる人も帰ってはならぬ.
*⁵ロトの妻を思い出せ.自分の命を救おうと思う者はそれを失い,命を失う者は生きて保つだろう.私は言う.その夜には,一つの寝床にいる二人があれば,一人は取られ一人は残される.ともに臼(うす)をひく二人の女があれば,一人は取られ一人は残される.(*⁶畑にいる二人の男のうち一人は取られ,一人は残される)」.
弟子たちが,「主よ,それはどこですか」と聞くと,イエズスは,「*⁷はげたかは,体のある所に集まる」と答えられた.』
(注釈)
神の国が来ること(17・20-37)
*¹ 神の国は,ファリサイ人が期待していたような政治的地上の国ではなく,イエズスに立てられて世の終わりまで滅びぬ教会である.
*² 弟子たちは,迫害の激しさのために,イエズスの審判をこいねがう日が来るであろう.しかしその望みは聞き入れられない.
教会が正義のために苦しみ迫害されるのは,神の思召しだからである.
*³ 創世6-8章参照.
*⁴創世19・1-9参照.
*⁵ ロトの妻は,ソドマから逃げ出したとき,家財の損失を惜しんで後ろをふり向いたので,塩の像にされた.
キリストに従う者は,いつか失われるものに執着してはならない.後ろをふり向くことは救いを危うくする(9・2).
*⁶ マテオ(24・40)による書き入れである.
*⁷ はげたかは体(死骸〈しがい〉)のある所に集まるが,審判の日,選ばれた者たちは,人の子(=神の御子イエズス・キリスト)のまわりに集まるであろう.
* * *
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