エレイソン・コメンツ 第235回 (2012年1月14日)
国家はカトリック教を信奉もしくは保護する必要がないと主張するのはリベラル主義(自由主義)者が犯す典型的な間違いであり,第二バチカン公会議の重大な誤りの一つです.リベラル主義者の言い分は,いわば,次のようなものです.「カトリック教を真っ向から攻撃するのはやめ分割支配するようにしましょう.人間は社会的な動物でないと装うことで個々人を社会から切り離しましょう.そうすれば宗教は単なる個人的な関心事にすぎないと装うことができます.これで私達は社会に対する支配権を得ることができます.いったん社会をリベラルなものにしてしまえば,それを個人解放の強力な武器として個人に戻すことができます.というのは,当然ながら人間は社会的動物だからです! それでもリベラルになることを望まない個人は,私たちが解放した社会に抵抗するのがとても難しくなるでしょう.」 そういうことではないしょうか? 周りを見て下さい! では,霊魂の救済のためあらゆる国家はカトリック教国家であるべきとする教義に対し唱えられたるさらなる三つの異議に答えることにしましょう.
司教閣下,私たちの主イエズス・キリスト御自身は「チェザル(訳注・=シーザー,ローマ皇帝)のものはチェザルに,神のものは神に返せ」(マテオ聖福音書・第22章21節)(訳注後記)と仰(おお)せられました.私たちの主はこのみことばによりはっきりと教会を国家から切り離しています.それ故,国家はカトリック教を含めいかなる宗教にも関わるべきではありません.
答え: それは違います.私たちの主はここで教会を国家から切り離しているのではありません! 主は個々人が国に対して負うもの(税金など)と神に対して負うもの(崇拝)を常識的に区別しているのです.私たちの主は決して現世の国家が永遠の神に対して何も負わないと仰(おっしゃ)っているのではありません.むしろ国家は,人間の集まりからなる現世の総体的権威(そうたいてきけんい)として存在するものであり,その権威に基づく諸行為において,人間が社会的な存在として神に負う義務,すなわち神の自然法の社会的遵守(じゅんしゅ)という義務を神に対して負うています.また,国家は自然の道理が真実のまま存在しうる教会について,霊魂の救済の妨(さまた)げとならない範囲内でその社会的認知を高め振興(しんこう)を図(はか)る義務を負うています.
しかし,真の宗教がどれかを見きわめるのは個々人のする行為です.だとすれば,どうして国家は国家として原則的にカトリック国たるべきと義務づけることができるのでしょうか?
答え: 国家は数の大小は別にして肉体的な(すなわち物質的な)人間が集まってできた政治団体における一つの道徳上の(すなわち非物質的な)組織にすぎません.だが,人間は誰でも生来の理性を正しく行使することで,カトリック信仰から生まれる超自然的な徳の持ち主であるとないとにかかわらず,神が存在され,イエズス・キリストが神であられ,カトリック教会がイエズス・キリストの設立された唯一の教会であることを見定めることができます.したがって,ある特定の国家がどれが真の宗教であるかを識別しないとすれば,それはその国の構成員たる国民がそれを識別できないからではなく,彼らが様々な理由で,神から与えられた理性を正しく使うことによって,そう(=識別)しようとしないか,そうしたくないからなのです.実際には彼らは識別することができるのであり,神の御前で全員が識別を怠(おこた)った責任を負うことになるでしょう.その責任の大小は各人の状況に応じ神が完璧にお決めになるでしょう.
お言葉ですが,司教閣下,もし地上のあらゆる国家がカトリック国になる義務があると主張されるのでしたら,あなたは単に悪のために大量の殉教者を生み出そうとしているにすぎないことになります.
答え: あらゆる国家がカトリック国になるべき理由は,(訳注・万物の創造主たる)神の御光栄と霊魂の永遠なる救済のためです.それ故,あまりにも無知で堕落した人間がいて,この真実にできることが彼らを遠ざけることしかないような場合には,その原理を最小限に縮小することなしに,彼らにそれを明示するのを躊躇(ちゅうちょ)せざるを得ないかもしれません.だからといって,その真実は少しも失われるものではありません.真理の諸原則は,それを実際に説くに当たって一定の慎重さが求められることがあるでしょうが,それによってその真実性が少しも失われることはありません.この「コメンタリー(論評)」の読者の皆さんになら必ずすべての真実を伝えることができるでしょう!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第2パラグラフの訳注を後から追加いたします.
(新約聖書・マテオによる聖福音書から)
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