エレイソン・コメンツ 第205回 (2011年6月18日)
2009年秋から今春までローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間で数回にわたり行われた教理上の論議( “the doctrinal Discussions” )が振り出しに戻ったいま,当然のことながら両者の関係が今後どうなるだろうかという疑問が生じます.いずれの側のカトリック信徒も両者のあいだの接触が今後とも続くよう願っています.だが,両者が一致(結束)してほしいという敬虔(けいけん)な願いは往々にして思い違いにつながりかねません.したがって,現代社会全体の神に抗(あらが)って行動するという幻想に引きずり込まれないためには現実を正しく認識し続ける必要があります.
そもそも,論議を望んだのはローマ教皇庁であって聖ピオ十世会ではありませんでした.ローマ教皇庁としては,第ニバチカン公会議の新モダニズム(=現代主義)に対する聖ピオ十世会のひと筋縄ではいかない反対を消し去りたかったわけです.両者間で大きな障害となっていたのはカトリックの教理でした.というのも,聖ピオ十世会は教会の長い年月を経た不可変の教理という要塞に固く守られているからです.ローマ教皇庁は聖ピオ十世会をこの要塞から引き出さなければならないと考えたのです.新モダニズム派にとっては,ちょうど共産主義者と同じで,堅実な立場にある敵対者との接触,対話を進めるのは何もしないよりましなことでしたし,いまでもそう考えています.なぜなら,敵対者は対話をすると損をするだけで,新モダニズム派は得をするだけだからです.ローマ教皇庁が論議の議題に教理まで加えることに同意したのはこのためでした.
ローマ教皇庁にとって気の毒なことに,聖ピオ十世会代表4人の教理への信念は明確かつ確固たるものでした.ローマ教皇庁代表が論議の後で「私たちには彼ら(聖ピオ十世会の代表)が理解できないし,彼らは私たちを理解できない」と,漏(も)らしていたそうです.当然のことでしょう.ローマ教皇庁側がその信奉(しんぽう)する新モダニズムを捨て去るか,聖ピオ十世会側が真実を裏切らない限り,両者の対話はあまり成果のないまま終わらざるをえなかったのです.だが,ローマ教皇庁は自ら真実を裏切っていることを取るに足らない存在の聖ピオ十世会によって暴(あば)かれるのは耐えられないでしょうから,対話をあきらめることはないでしょう.だからこそ,私たちがすでに聞いている通り,エックレジア・デイ( Ecclesia Dei )のスポークスマンがローマ教皇庁は近く聖ピオ十世会に “Apostolic Ordinariat” (アポストリック・オルディナリアート)(以下 “Apostolic Ordinariat” 「使徒座司教区」(仮訳)と記す.)(訳注後記)を付与すると明らかにしたわけです。むろん,これは聖ピオ十世会側の反応を見るための観測球にすぎないかもしれませんが,魅力的なアイデアです.「使徒座司教区」は「属人区」( Personal Prelature )と異なり,地方の司教から独立した存在ですし,ブラジルのカンポス( “Campos in Brazil”. ブラジル・カンポス教区 )のような「使徒座管理区」( Apostolic Administration )とも異なり,その管轄は一司教管区(司教区)に限定されるものではありません。聖ピオ十世会にとってこれ以上なにが望めるでしょうか?
聖ピオ十世会はローマ教皇庁が真実に立ち帰るよう望みます.なぜなら,共産主義者や新モダニズム派と同じように聖ピオ十世会は,教理上の不一致をそのままにした実務的協力関係を進めても,あらゆる人間的な理由から,結局は信仰の敵が持つ誤った教理を吸収するか,別な言い方をすれば,真実を裏切ることになるだけだと知っているからです.聖ピオ十世会の総長( Superior General )がローマ教皇庁との間で教理上の合意なしに教会法上の合意に至ることを公の場で繰り返し拒んできた理由はここにあります.ただし,論議は少なくとも新モダニズム信奉者のローマ教皇庁と聖ピオ十世会の間に存在する教理上の不一致がいかに深いかを示すのに役立ちました.したがって,カトリック信徒の皆さんは,ローマ教皇庁当局者の意図がたとえ善意に基づくものだとしても,聖ピオ十世会が “Apostolic Ordinariat” 「使徒座司教区」の提供さえ断るかもしれないと覚悟していてください.
それにしても,教理がこれほど大切なのはなぜでしょうか? それは,カトリック信仰がひとつの教理だからです.では,カトリック信仰がそれほど大切なのはなぜでしょうか? それなしに私たちは神を喜ばせることができないからです(ヘブライ人への手紙・第11章6節)(訳注後記).では、なぜカトリック教に則(のっと)った信仰でなければならないのでしょうか? 他の神を信じるのでは(=他の信仰(の仕方)を通じて神を信じるのでは)いけないのでしょうか? 答えはノー,(カトリック信仰以外のいかなる信仰もいけません.) なぜなら,神ご自身が(キリストの御姿で)十字架刑の恐怖をその身に受けられ,それにより(訳注・かつてこの地上で実際に起こったその事実を通じ)私たちに唯一の真の信仰(のあり方)を明らかにお示しになられたからです.ほかの諸々の「信仰」はことごとく,程度の違いはあっても,この真の信仰とは相反するものです.
「エレイソン・コメンツ」ではこれから4回にわたり,恐れながら,現教皇が善意の方だとしてもいかに方向感覚を失っておられるかを示していきたいと思います.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第3パラグラフの訳注:
・“Apostolic Ordinariat” 「使徒座司教区」(仮訳)について.
ローマ教皇聖座=教皇庁直轄の特別の司教管区,ローマ教皇(庁)が直轄する特別な行政管理区分〈特区〉の下に置かれる教会教区(司教区))というような意味合い.
・"Apostolic" 「使徒座」 について.
「使徒ペトロの後継者の座(See)」と「ローマ司教の座」の二つの意味を含む.
(ローマ教皇はまたローマの司教でもあるが,それは初代教皇たる使徒ペトロがローマの司教であったため).
すべての司教座 "Episcopal see" は "Apostolic see" とも呼ばれる.
ここでは,ローマ教皇の聖座(教皇庁)を指す( "See of St. Peter", "Holy See","Apostolic See" などは同義語.see = seat. ).
・「属人区」( Personal Prelature ).
地域ごとの区分によらず,一人の特定の司教(属人区長)が全区域の会員を管轄する.
現在ある属人区は「オプス・デイ(Opus Dei)」のみ.
第二バチカン公会議以後1982年に前教皇ヨハネ・パウロ2世によって認可された.
・「使徒座管理区」( Apostolic Administration ).
(例)ブラジルのカンポス( “Campos in Brazil”. ブラジル・カンポス教区 ).
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第5パラグラフの訳注:
新約聖書・ヘブライ人への手紙:第11章6節(太字下線部分)(1節から19節まで記載します)
『信仰は*¹希望するものの保証であり,見えないものの証拠である.
信仰をもっていたから昔の人は賞賛を受けた.
*³信仰によって私たちは,万物が神のみことばによって創(つく)られ,見えるものには見えない原因があることを理解する.
*⁴信仰によってアベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ,それによって義人と証明された.神が彼のささげ物を証明されたからである.そして信仰によって彼は死んでも今なお語っている.
*⁵信仰によってヘノクは死を見ないように移された.「神が彼を移されたので,彼はみつからなかった」.移される前に,彼は神に嘉(よみ)されていると証明された.
*⁶信仰がなければ神に嘉(よみ)されることはできない.神に近づく者は,神が存在されること,神を求める者に報いを賜(たま)うことを信じねばならぬからである.
*⁷信仰によってノアは,まだ見えぬことについてお告げを受け,家族を救うために謹(つつし)んで箱舟を作り,信仰によって*⁷世の罪を定め,信仰による正義の世継ぎとなった.
*⁸信仰によってアブラハムは,召された時,遺産として受けるであろう地に行けという(神の)命令に従い,その行く方角も知らずに出かけた.
*⁹信仰によって彼は,他国にいるかのように約束の地に住まい,同じ約束を継ぐイサクとヤコブとともに幕屋に住んだ.彼は,神が設計し建造される確かな基礎をもっていたからである.
*¹¹信仰によってサラも,年をとっていたにもかかわらず子を宿す力を受けた.約束されたお方が真実だと信じたからである.*¹²それによって,すでに死んでいるような一人の人から,海辺の数え切れぬ砂,空の星ほどのおびただしい子孫が生まれた.
それらの人々はみな信仰を保って死んだ.約束のものを彼らは受けなかったが,はるかにそれを見てあいさつし,この世では他国人であり旅人にすぎぬことを認めた.
そういった人々は自分たちが一つの故国(天の神の御国)を求めていることを表していた.
それがもし*¹⁵彼らが出てきた国のことであったのなら,いつでもそこに帰れたはずである.
事実彼らは,天にあるさらにすぐれた故国を慕(した)った.そのために神は彼らの神と呼ばれるのを恥(はじ)とされなかった.彼らのために一つの町を備えられたからである.
*¹⁷信仰によってアブラハムは,試されたときにイサクをささげた.彼は約束を受け,その独り子で,「*¹⁸イサクの名においておまえに子孫が起こされる」と言われたその子をささげた.
アブラハムがそうしたのは,神には死者もよみがえらせることができると考えたからである.
そのために彼は子を取りもどした.これは*¹⁹前触れにもなる.』
(注釈)
旧約の英雄たちの信仰(11・1-40)
*¹ 信仰は天の国と来世の存在とを証明する(〈新約〉コリント人手紙(第二)1・22,5・5,エフェゾ人への手紙1・14).他の訳「希望の的となる事柄」.
*³ 創世1章.「見えるものは,現れているものから取り出されたものではない」という訳もある.
*⁴ 創世4・4-10参照.アベルはカインの弟.カインはアベルを憎んで殺した.人類最初の殺人の罪.
*⁵ 創世5・24参照.
*⁶ 知恵13・1.救いのためには神の存在と,報いを下す御者を信じなければならない.
*⁷ 創世6・8-22参照.
*⁷ 義人は不義者にとって,寛容な人はけちな人にとってとがめであるが,信仰者ノアは,そのころの不信仰者へのとがめであった.
*⁸ 創世12・1-3参照.
*⁹ 9-10節 創世23・4,26・3参照.
*¹¹ 創世17・19,21・2参照.サラはアブラハムの妻.
*¹² 創世15・5,32・13参照.
*¹⁵ カルデアのウル,アブラハムの出生地(創世11・31).生国を思い出して,そこに帰ろうとするのではない.
*¹⁷ 創世22・1-14参照.
*¹⁸ 創世21・12参照.
*¹⁹ 死からよみがえるキリストの前兆.ギリシア語の「前兆」は「危険にさらす」の意味もあるので,「わが子を死にさらしたにしても」という意味にもとれる.
この後の部分(11章20節以下)を後から追加します.
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