2012年3月27日火曜日

245 転機-2- 3/24

エレイソン・コメンツ 第245回 (2012年3月24日)

聖ピオ十世会の司祭たちの中には,(訳注・カトリック)教会権威当局( “the Church authorities” )と教義上の合意なしでも( “without a doctrinal agreement” )なんらかの実務的な合意をまとめるべきだ( “…seek a practical agreement” )という誘惑に再びかられている方がいるようです.ここ数年間,聖ピオ十世会総長であるフェレイ司教( “Bishop Fellay as the Society’s Superior General” )はそうした考えを拒(こば)んできました.ところが,同司教は2月2日に米国のウィノナで( “in Winona” )説教された際,ローマ教皇庁(以下,「ローマ」)は聖ピオ十世会をありのまま受け容れる考えであり,「同会のあらゆる要求を…実務的なレベルで」満たす用意があると述べられました.これはローマも同じ考えに傾いているのではないかということです( “…it does look as though Rome is holding out the same temptation once more.” ).

しかし,ローマから届いた最新のニュースは次のようなものです.バチカンが聖ピオ十世会に思わせぶりな態度をとっているのでないとすれば( “…unless the Vatican is playing games with the SSPX,…” ),同当局は3月16日,昨年9月14日付けでバチカンが出した教理前文( “Doctrinal Preamble” )に対するフェレイ司教のことし1月の回答は「教皇庁と聖ピオ十世会との対立の根底に横たわる教理上の問題を乗り越えるには不十分である」と公表しました.その上で,バチカンは聖ピオ十世会に対し一カ月以内に「苦痛を伴う測り知れない結果」を避けるためその方針を修正するよう求めました( “…to correct itself and avoid “a rupture of painful and incalculable consequences.”” ).

だが,もしローマが突然方針を変更して聖ピオ十世会に公会議と新しいミサを受け入れるよう求めなくなったとしたらどうでしょうか? ローマが唐突に「よろしい.私たちは十分考えてみました.あなたたちが望むようにローマに戻ってきなさい.あなたたちが公会議を好きなだけ批判し,独自にトレントミサを祝う自由は与えます.とにかく戻りなさい! 」 と言ったらどうなるでしょうか?( “What if Rome were suddenly to say, “Alright. We have thought about it. Come back into the Church as you ask. We will give you freedom to criticize the Council as much as you like, and freedom to celebrate the Tridentine Mass exclusively. But do come in !”” ) それはローマによるきわめて狡猾(こうかつ)な企(たくら)みということでしょう.というのは,聖ピオ十世会が一貫性を捨ててありがた迷惑だという態度をとらないかぎり,そのようなローマの申し出を拒めるわけがないからです.(訳注・直訳=それはローマ側の非常に狡猾な企みかもしれません.なぜならどうして聖ピオ十世会がいかにも矛盾した全く恩知らずな団体であるかのように人目に映ることなくして,ローマのそのような申し出を拒絶することができるものでしょうか?) ( “It might be a very cunning move on the part of Rome, because how could the Society refuse such an offer without seeming inconsistent and downright ungrateful ?” ) だが,聖ピオ十世会としては自らの存続にかかわる苦痛を考えれば申し出を拒まざるをえないでしょう.( “Yet on pain of survival it would have to refuse.” )存続にかかわる苦痛とはずいぶんきつい言葉です( “On pain of survival ? Strong words.” ).だが,この問題についてルフェーブル大司教は次のように述べておられます.

1988年5月5日,ルフェーブル大司教は当時のラッツィンガー枢機卿( “then Cardinal Ratzinger” )との間でローマと聖ピオ十世会の実務的合意に関する議定書(草案)( “the protocol (provisional draft) of a practical Rome-Society agreement” )に署名しました.翌5月6日,同大司教は(仮)署名を取り消しました.そして6月13日つぎのように言われました.「5月5日の議定書を認めれば私たち(聖ピオ十世会)は間もなく死に絶えることになったでしょう.私たちは1年と続かなかったでしょう.いま現在,聖ピオ十世会は結束しています.だがその議定書を認めれば,私たちは彼ら(ローマ)と接触を持たざるをえなくなり,聖ピオ十世会で内部分裂が起きたでしょう.あらゆることが分裂の原因になったでしょう(強調は筆者が加えたもの).( “As of now the Society is united, but with that Protocol we would have had to make contacts with them, there would have been division within the Society, everything would have been a cause of division” (emphasis added).” ). (議定書を認めれば)私たちはローマと結びつくわけですから,新たな志願者たち( “new vocations” )が続々と遣(つか)わされ私たちの修道会に流れ込んだでしょう.だがそのような志願者たちはみな私たちがローマと対立することなど認めないでしょう――これも私たちの分裂につながるでしょう( ““New vocations might have flowed our way because we were united with Rome, but such vocations would have tolerated no disagreement with Rome – which means division.” ). 実際には,志願者たちは私たちのもとへ赴任(ふにん)するかどうか自ら選んで決めています.」(これは世界各地の聖ピオ十世会の神学校でいまだに行われている実態です.( “As it is, vocations sift themselves before they reach us” (which is still true in Society seminaries).” ))(訳注後記)

そのような分裂が起きるのは何故でしょうか? (相いれない志願者たち “Warring vocations” の存在は無数にある原因のひとつに過ぎないでしょう.) 明白な理由は,5月5日の議定書によると,実務的合意は神の宗教と人間の宗教との間に存在する際立った教義上の不一致の上に成り立っているのがはっきりしているからです( “Clearly, because the May 5 Protocol would have meant a practical agreement resting upon a radical doctrinal disagreement between the religion of God and the religion of man.” ).ルフェーブル大司教は「彼ら(ローマ)は私たちを公会議の方へ引き込もうとしています.ところが私たちは彼らとの間に注意深く距離を置き,聖ピオ十世会と(カトリック教の)伝統を守ろうとしています.」( “They are pulling us over to the Council...whereas on our side we are saving the Society and Tradition by carefully keeping our distance from them” )(強調は筆者)と述べています.ではルフェーブル大司教がそもそもローマとの実務的合意を求めたのは何故でしょうか? 大司教は次のように説明されています.「私たちは公式の教会( “the official Church” )内で伝統が保たれるよう誠実に努めました.だが,それは不可能だと分かりました.彼らは悪い方向以外には何ら変わっていません.」( “We made an honest effort to keep Tradition going within the official Church. It turned out to be impossible. They have not changed, except for the worse.” )

彼らは果たして1988年当時に比べ変わったでしょうか? 多くの人々は彼らがもっと悪い方向へ変わっただけだと考えるでしょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


第4パラグラフ最後の訳注:
「実際には,志願者たちは私たちのもとへ赴任(ふにん)するかどうか自ら選んで決めています.」
( “As it is, vocations sift themselves before they reach us….” )について.

・「新たな志願者たち」 “new vocations” … 本来は「神の召命,神から呼ばれた人たち,神より召し出されてきた人たち」の意味があった.今でもあるべきはずである.
神がお選びになり神の僕(しもべ,=召使い)として召し出された人たちのこと.
(実例・旧約時代のイスラエルの父祖アブラハムや預言者モーゼ,新約時代の聖ペトロや聖パウロなど.)

・「神の御意思に無条件に従う」というよりも,その時々の社会や人間関係の状況次第で「人の恣意(しい)で」いくらでも変更され得るものとなれば,当然人間相互の争いも絶えなくなる.
目前の出来事を神への信仰〈信頼)の目で見ることにより,神の御旨に全て委ねるという信仰を実践する礎(いしずえ)となるべき「神の真理」がそこになくなってしまうからである.

・しかし,神の真理を犠牲にするなら,必ず最終的な崩壊を人間自身の身に招くことになる.

・神はただ一人キリストの御受難(十字架上の死)によって世界を救われた.
キリストは人間的には弱者だったが,神の御力により悪に打ち勝たれた.
また,神の恩寵は,人の弱さのうちに完全に現れる.

人の目に無力に映る「弱さ」を通して力強く働かれる神の恩寵を,たとえ人間的な知恵で理解することができなくても,信仰によって信じ,神の救いを待ち望み,神があえてお許しになっておられる現在の苦境を耐え忍ぶところに,真理が目に見える形をとって現れる.
それを示すのが「キリストの御受難(十字架上の死)と御復活」である.

誰でも真面目に生きていれば,初めのうちは見せかけのごまかし・偽りがきいても,最後には真理だけしか残らないということが分かる.
敵の数や規模がいかに無数で巨大に見えても,そこに真理がなければいつか必ず滅亡する.

どんな時も決して恐れることなく,ただ唯一のキリストによる真理のうちに堅くとどまり,地上最大級の悪や災害さえも用いて真理・善の最終的な勝利にまで導かれる全能の神を信頼し,その神から来る救いを待ち望み続けることが,人間が救われるただ一つの道である.

・神にすべてを委ねられたキリストにならい,このような「信仰による勝利の道」を最も完全に果たされた人が,神(=キリスト)の御母・聖マリアである.

・聖母マリアは,御子イエズス・キリストの十字架上の死に,十字架のふもとで最後まで立ち会われ,キリストによる贖(あがな)いの御業に共にあずかる者となった.
またこの時,聖母マリアはキリストにより「全キリスト信者の母」とされた.

・聖母マリアは,今日に至るまで,全人類のために神にとりなしておられる.
聖母マリアは,キリスト信者が最も模範とすべき鑑(かがみ)である.

・以下の聖書のみことばを,後から追加掲載いたします.
新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第14章,第19章25-27節.
(聖書は,次回「246回」の訳注に掲載いたしました.)

* * *