2015年9月26日土曜日

428 目覚めよ,欧州! 9/26

(解説付き)

欧州よ,貴方達は今
巧みに偽装された
侵略を受けています
(おうしゅう よ,あなた たち は いま
たくみ に ぎそう された
しんりゃく を うけて います.)

( "Europe, you're being invaded with great skill." )

神の下へ戻りなさい.
然も無(亡)ければ,
侵略は更に続くでしょう
(かみのもとへもどりなさい.
さもなければ,

しんりゃくはさらにつづくでしょう.)
( "Return to God, or be invaded still." )

エレイソン・コメンツ 第428回 (2015年9月26日)

若し目覚めて居ない読者が居るなら,目覚ませてあげましょう(もし めざめて いない どくしゃ が いる なら,めざませて あげましょう)( "If any readers have not yet woken up, let them wake up." ).数日前( "A report of a few days ago …" ),ドイツ(独逸)在住の一読者が以下にご紹介するニュースを伝えてくれ(呉れ)ました(すうじつ まえ,どいつ ざいじゅう の いち どくしゃ が いかに ごしょうかい する にゅーすを つたえて くれ ました).嘘が多く,真実を殆ど(殆んど)伝えない堕落したメディアが決して伝えないニュースです(うそが おおく,しんじつを ほとんど つたえない だらく した めでぃあが けっして つたえない にゅーす です).(もっとも(尤も),堕落したメディアは本質的に私達自身の責任では無いでしょうか…?)(もっとも,だらく した めでぃあは ほんしつ てきに わたくし たち じしんの せきにん では ない でしょうか…?)( "… from a reader in Germany tells of news never reported in our vile media, vile precisely because they tell so many lies and so little truth (but is it not we the people who are essentially responsible for our media...?). " )

「ドイツ(独逸),オーストリア(墺太利)と南東の近隣諸国は過去数か月の間(どいつ,おーすとりあ と なんとうの きんりん しょこく は かこ すうかげつ の あいだ),自らを『難民』と偽る外国人の挑戦的な侵略を受けて来ました(みずからを『なんみん』と いつわる がいこくじん の ちょうせん てき な しんりゃく を うけて きました).其の多くは争い事を求めてうずうずしている若者達です(その おおく は あらそい ごと を もとめて うずうず している わかもの たち です)( " “Germany, Austria and neighbouring lands to the south-east have been undergoing for the last few months an aggressive invasion of foreigners disguised as “refugees”, a large majority of whom are young men, spoiling for a fight." ).ドイツ(独逸)・バイエルン州のゼーホファー首相は青ざめた(青褪めた・蒼褪めた)表情で先週の日曜日(どいつ・ばいえるん しゅう の ぜーほふぁー しゅしょう は あお ざめた ひょうじょう で せんしゅう の にちようび),地元のテレビ局に対し同州の法と秩序は崩壊寸前だと語りました(じもと の てれび きょく に たいし どう しゅう の ほう と ちつじょ は ほうかい すんぜん だ と かたり ました)( "Bavaria's Minister-President Seehofer, looking as pale as a sheet, said on local TV last Sunday that law and order were on the brink of collapse." ).だが,神の敵に仕える私達の傀儡(かいらい)政府とマスメディアは(だが,かみ の てき に つかえる わたくし たち の かいらい せいふ と ますめでぃあ は),警察,軍隊と言った州の武力の間違った使用を含むあらゆる手段を用いて此の侵略を支援して居ます(けいさつ,ぐんたい と いった しゅう の ぶりょく の まちがった しよう を ふくむ あらゆる しゅだん を もちいて この しんりゃく を しえん して います)( "Yet our puppet-governments and our mass media, at the service of the enemies of God, support this invasion by all means at their disposal, including misused State force, such as the police and the army." ).彼等もメディア同様,国民から侵略の事実を隠す為嘘を吐いて居り(かれら も めでぃあ どうよう,こくみん から しんりゃく の じじつ を かくす ため うそ を ついて おり),其れに因り多大な被害をもたらして(齎して)居ます(それ に より ただい な ひがい を もたらして います)( "These puppets also lie in print, to hide the invasion from the people and thus cause as much damage as possible." ).

国民の多くは依然として眠った儘です(こくみん の おおく は いぜん として ねむった まま です)( " “The mass of people are still asleep, …" ).だが,現状は内戦状態だと公言する農民達の数は至る所で(処で)増えて居ます(だが,げんじょう は ないせん じょうたい だ と こうげん する のうみん たち の かず は いたる ところ で ふえて います)( "… although more and more peasants around here and elsewhere are speaking openly of civil war." ).バイエルン州郊外では,あらゆる状況が停止状態に近づいて居ます(ばいえるん しゅう こうがい では,あらゆる じょうきょう が ていし じょうたい に ちかづいて います)( "In outlying regions of Bavaria things are coming to a halt." ).住民や物資の移動が不可能か,可能としても大幅に遅れて居る状況です(じゅうみん や ぶっし の いどう が ふかのう か,かのう と しても おおはば に おくれて いる じょうきょう です)( "Residents and goods can no longer move, or only with long delays." ).無数の侵略者達は ――今の処(所)未だ組織化されて居ませんが―― 田園地帯を自由に歩き回り(廻り)盗みを働いて居ます(むすう の しんりゃくしゃ たち は いまの ところ まだ そしき か されて いません が,でんえん ちたい を じゆう に あるき まわり ぬすみ を はたらいて います)( "About the hordes of invaders – not yet grouped together – ranging freely through the countryside and stealing, …" ).此の事に就いてマスメディアは一言も伝えて居ません(このこと に ついて ます めでぃあ は ひとこと も つたえて いません)( "… the mass-media breathe not a word." ).上部の支配下に在る州当局は全ての機能を失って居り(じょうぶの しはい か に ある しゅう とうきょく は すべて の きのう を うしなって おり)( "The local authorities – under orders from above – have lost all control, …" ),警察は犠牲と為って居る住民に対し自分の身は自分で守り,最終的には自警団を組織する様促して居ます(けいさつは ぎせい と なって いる じゅうみん に たいし じぶん の み は じぶん で まもり,さいしゅう てき には じけいだん を そしき する よう うながして います)( "… and the police advise the victimised population to look after themselves and eventually form civil defence groups…" )――数年前,住民に対し完全な武装解除を命じて置きながら(置き乍〈ら〉・措き乍〈ら〉・擱き乍〈ら〉)です(すうねん まえ,じゅうみん に たいし かんぜん な ぶそう かいじょ を めいじて おき ながら です)( "…– after we were completely disarmed a few years ago." ).

クロアチアは軍隊を総動員し(くろあちあ は ぐん を そう どういん し),国内の至る所で軍隊が其其(其々・夫夫・夫々)の遣り方で活動を開始しています(こくない の いたる ところ で ぐんたい が それぞれ の やりかた で かつどう を かいし して います)( " “Croatia has called for mobilisation of its army, which is everywhere getting on its feet." ).私は自分の地域で出来る限りの事を理解しようと努めて居ます(わたくし は じぶん の ちいき で できる かぎり の こと を りかい しよう と つとめて います)( "I want to see what I can do locally, …" ).だが,私の同胞の殆んど(殆・殆ど)は今何が起きて居るのかさっぱり分からない(分らない・解らない・判らない)(侭)で居ます(だが,わたくし の どうほう の ほとんど は いま なにが おきて いる のか さっぱり わからない まま で います)( "… but I am afraid that most of my fellow-countrymen still have no idea what is happening." ).若し,其の中の一定の者達が目覚めたら,ライオンの様に戦うでしょう(もし,その なか の いってい の もの たち が めざめたら,らいおん の よう に たたかう でしょう)( "If just a certain number of them wake up, they will fight like lions, …" ).其れを恐れ,私達の所謂政府と,其れを支配する神の敵達は嘘を吐き(それ を おそれ,わたくし たち の いわゆる せいふ と,それ を しはい する かみ の てき たち は うそ を つき),彼等が目覚める時を遅らせようとあらゆる人々を騙して居ます(かれらが めざめる とき を おくらせ よう と あらゆる ひとびと を だまして います)( "… which is why our so-called government, and the enemies of God who control it, are lying and deceiving at all levels to put off that moment of awakening." ).事態は益益(益々・増々)悪化するでしょう…(じたいは ますます あっか する で しょう…)( "It is going to be bad...” " ).」   (以上,読者からの報告)(いじょう,どくしゃ から の ほうこく)(End of reader's report)

此処で伝えられた緊急事態はドイツ(独逸)でに限られた事では有りません(ここ で つたえられた きんきゅう じたい は どいつ でに かぎられた こと では ありません)( "The emergency described here is not of course confined to Germany." ).同じ様な惨事は他の多くの西側諸国を襲って居ます(おなじ よう な さんじ は ほか の おおく の にしがわ しょこく を おそって います)( "A similar disaster is afflicting many other Western nations as well." ).此れは宗教的な視点から見無い限り信じられ無い事です(これ は しゅうきょう てき な してん から みない かぎり しんじられない こと です)( "It is unbelievable, unless one looks at it from a religious point of view, …" ).宗教的な観点から眺めると,成る程(成程)と頷ける(肯ける)でしょう(しゅうきょう てき な かんてん から ながめる と,なるほど と うなずける でしょう)( "… from a religious point of view, and then it all makes sense." ).詩篇第105篇(新しい編集では106篇)全体を調べて見て下さい(しへん だい ひゃくご へん〈あたらしい へんしゅう では ひゃくろっ ぺん〉ぜんたい を しらべて みて ください)( "Look up the whole of Psalm 105 (106, new numbering). Look up the whole of Psalm 105 (106, new numbering). " )(訳注後記 6・1 ).神は古代イスラエル人に贈り物と其れに見合う責任を与えられましたが,彼等は再三其れに背きました(かみ は こだい いすらえる じん に おくりもの と それに みあう せきにん を あたえられました が,かれ ら は さいさん それ に そむき ました)( "God gave to the Israelites gifts and corresponding responsibilities to which they were repeatedly unfaithful." ).若し神が彼等を愛したなら,彼等に罰を与えずに済ませ無かったでしょう(新約聖書・使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第12章7-8節を参照)(もし かみ が かれら を あいした なら,かれ ら に ばつ を あたえず に すませなかった でしょう〈しんやく せいしょ・しと せい ぱうろ の へぶらい じん への しょかん:だい じゅうに しょう なな せつ から はっ せつ を さんしょう〉)( "If he loved them, he could not leave them unpunished (Heb.XII, 7-8). " )(訳注後記 6・2 ).前述の詩篇第105篇の35節から41節を現代に翻案して以下にご紹介します:-- (どう しへん だい ひゃくご へん の さんじゅう ご せつ から よんじゅう いち せつ を げんだい に ほんあん して いかに ごしょうかい します)( "If he loved them, he could not leave them unpunished (Heb.XII, 7-8). Here are verses 35 to 41 of the Psalm, adapted to our own time:-- " )

「キリスト(基督)教徒達は異教徒達と交わり,彼等の所業 "works" を学び,同じ物質主義の偶像 "idols" に仕えました(きりすと きょうと たち は い きょうと たち と まじわり,かれ ら の しょぎょう を まなび,おなじ ぶっしつ しゅぎ の ぐうぞう に つかえ ました)( " “And the Christians were mingled among the heathens, and learned their works, and served the same idols of materialism, …" ).物質主義は彼等に取って障害物と為りました(ぶっしつ しゅぎ は かれ ら に とって しょうがい ぶつ と なり ました)( "… and it became a stumbling-block to them." ).そして(そうして・然うして),彼等は自らの息子や娘達を避妊や堕胎と言った悪の犠牲に為て無実の血を流させました(そして,かれ ら は みずから の むすこ や むすめ たち を ひにん や だたい と いった あく の ぎせい に して むじつ の ち を ながさせ ました)( "And they sacrificed their sons and their daughters to the devils of contraception and abortion and they shed innocent blood: …" ).息子や娘達の血を自己中心で快楽を求める偶像の為の生贄(いけにえ)に為たのです(むすこ や むすめ たち の ち を じこ ちゅうしん で かいらく を もとめる ぐうぞう の ため の いけにえ に した のです)( "… the blood of their sons and daughters which they sacrificed to the idols of self-centred pleasure-seeking." ).そして(そうして・然うして),此の地は血で塗れ,彼等の所業で汚され,彼等は道を外れてエレクトロニクス(=諸諸の電子機器)を追い求めました(そして,この ち は ち で まみれ,かれら の しょぎょう で けがされ,かれ ら は みち を はずれて えれくとろにくす〈=でんし きき〉を おいもとめ ました)( "And the land was polluted with blood, and was defiled with their works; and they went aside after their own electronics." ).主は人々に痛く腹を立て,取(り)分け自ら贈り物を授けた者達を忌み嫌い遠ざけました(しゅ は ひとびと に いたく はら を たて,とりわけ みずから おくりもの を さずけた もの たち を いみきらい とおざけ ました)( "And the Lord was exceedingly angry with the people: and he abhorred those whom he had specially gifted." ).そして(そうして・然うして)主は彼等を彼等自身の長年の敵の手に委ねましたそして,しゅ は かれ ら じしん の ながねん の てき の て に ゆだね ました:( "And he delivered them into the hands of their age-old enemies: …" )そして(そうして・然うして)キリ スト(基督)教徒達を2000年,1400年もの間憎み続けて来た者達が彼等を支配する様に為りました(そして,きりすと きょうと たち をにせん ねん,せん よんひゃく ねん もの あいだ にくみ つづけて きた もの たち が かれら を しはい する よう に なり ました( "… and those that had hated the Christians for 2000 and 1400 years had dominion over them." ).」

欧州が直面する惨事は神がお許しに為った事です(おうしゅう が ちょくめん する さんじ は かみ が おゆるし に なった こと です)( "Europe's disaster is by God's permission." ).其の解決は言う迄も無く神に救いを求める事です(その かいけつ はいう までも なく かみ に すくい を もとめる こと です):( "The solution is of course to turn to God: …" )詩篇第44篇,46篇,47篇は其其(其れ其れ・其々・夫夫・夫れ夫れ・夫々)「そして(そうして・然うして),神は苦難に置かれた人々を御覧に為り彼等の祈りを聴かれた」,「神は虜(とりこ)と為った全ての者達を御覧に為って,彼等に慈悲を御与えに為った(憐れまれた)」,「主よ,神よ,私達を御救い下さい.そして(そうして・然うして)私達を貴方の敵達から引き離し御手元に引き寄せて下さい」と記して居ます(しへん だい よんじゅう よん ぺん,よんじゅう ろっ ぺん,よんじゅうしち〈なな〉へんは それぞれ「そして,かみ は くなん に おかれた ひとびと を ごらん に なり,かれら の いのり を きかれた」,「かみ は とりこ と なった すべて の もの たち を ごらん に なり,かれら に じひ を おあたえ に なった(あわれまれた)」,「しゅよ,かみよ,わたくし たち を おすくい ください.そして わたくし たち を あなた の てき たち から ひき はなして お て もと に ひき よせて ください」と しるして います)
( "… verse 44, “And he saw when they were in tribulation, and he heard their prayer, (46) and he gave them unto mercies, in the sight of all those that had made them captives. (47) Save us, O Lord, our God, and gather us from among your enemies...” " )(訳注後記 8・1)

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教




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訳注を追補いたします.
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(解説無し)

欧州よ,
あなたたちはいま巧みに偽装された侵略を受けています
神のもとへ戻りなさい.さもなければ,侵略はさらに続くでしょう
Europe, you're being invaded with great skill.
Return to God, or be invaded still.

エレイソン・コメンツ 第428回 (2015年9月26日)

もし目覚めていない読者がいるなら,目覚ませてあげましょう.数日前,ドイツ在住の一読者が以下にご紹介するニュースを伝えてくれました.嘘が多く,真実をほとんど伝えない堕落したメディアが決して伝えないニュースです.(もっとも,堕落したメディアは本質的に私たち自身の責任ではないでしょうか…?)
A report of a few days ago from a reader in Germany tells of news never reported in our vile media, vile precisely because they tell so many lies and so little truth (but is it not we the people who are essentially responsible for our media...?).

「ドイツ,オーストリアと南東の近隣諸国は過去数か月の間,自らを『難民』と偽る外国人の挑戦的な侵略を受けてきました.その多くは争いごとを求めてうずうずしている若者たちです.ドイツ・バイエルン州のゼーホファー首相は青ざめた表情で先週の日曜日,地元のテレビ局に対し同州の法と秩序は崩壊寸前だと語りました.だが,神の敵に仕える私たちの傀儡(かいらい)政府,マスメディアは警察,軍隊といった州の武力の間違った使用を含むあらゆる手段を用いてこの侵略を支援しています.彼らもメディア同様,国民から侵略の事実を隠すため嘘をついており,それにより多大な被害をもたらしています.」
“Germany, Austria and neighbouring lands to the south-east have been undergoing for the last few months an aggressive invasion of foreigners disguised as “refugees”, a large majority of whom are young men, spoiling for a fight. Bavaria's Minister-President Seehofer, looking as pale as a sheet, said on local TV last Sunday that law and order were on the brink of collapse. Yet our puppet-governments and our mass media, at the service of the enemies of God, support this invasion by all means at their disposal, including misused State force, such as the police and the army. These puppets also lie in print, to hide the invasion from the people and thus cause as much damage as possible. 

「国民の多くは依然として眠ったままです.だが,現状は内戦状態だと公言する農民たちの数はいたるところで増えています.バイエルン州郊外では,あらゆる状況が停止状態に近づいています.住民や物資の移動が不可能か,可能としても大幅に遅れている状況です.無数の侵略者たちは今のところまだ組織化されていませんが,田園地帯を自由に歩き回り盗みを働いています.このことについてマスメディアは一言も伝えていません.上部の支配下にある州当局はすべての機能を失っており,警察は犠牲となっている住民に対し自分の身は自分で守り,最終的には自警団を組織するよう促しています.数年前,住民に対し完全な武装解除を命じておきながらです.」
“The mass of people are still asleep, although more and more peasants around here and elsewhere are speaking openly of civil war. In outlying regions of Bavaria things are coming to a halt. Residents and goods can no longer move, or only with long delays. About the hordes of invaders – not yet grouped together – ranging freely through the countryside and stealing, the mass-media breathe not a word. The local authorities – under orders from above – have lost all control, and the police advise the victimised population to look after themselves and eventually form civil defence groups – after we were completely disarmed a few years ago.

「クロアチアは軍隊を総動員し,国内のいたるところで軍隊がそれぞれのやり方で活動を開始しています.私は自分の地域でできる限りのことを理解しようと努めています.だが,私の同胞のほとんどは今なにが起きているのかさっぱりわからないままでいます.もし,その中の一定の者たちが目覚めたら,ライオンのように戦うでしょう.それを恐れ,私たちのいわゆる政府と,それを支配する神の敵たちは嘘をつき,彼らが目覚めるときを遅らせようとあらゆる人々をだましています.事態はますます悪化するでしょう…」 (以上,読者からの報告)
“Croatia has called for mobilisation of its army, which is everywhere getting on its feet. I want to see what I can do locally, but I am afraid that most of my fellow-countrymen still have no idea what is happening. If just a certain number of them wake up, they will fight like lions, which is why our so-called government, and the enemies of God who control it, are lying and deceiving at all levels to put off that moment of awakening. It is going to be bad...” (End of reader's report)

ここで伝えられた緊急事態はドイツでに限られたことではありません.同じような惨事はほかの多くの西側諸国を襲っています.これは宗教的な視点から見ない限り信じられないことです.宗教的な観点から眺めると,なるほどとうなずけるでしょう.詩篇第105篇(新しい編集では106篇)全体を調べてみてください.神は古代イスラエル人に贈り物とそれに見合う責任を与えられましたが,彼らは再三それに背きました.もし神が彼らを愛したなら,彼らに罰を与えずに済ませなかったでしょう(新約聖書・使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第12章7-8節を参照).同じ詩篇第105篇の35節から41節を現代に翻案して以下にご紹介します.
The emergency described here is not of course confined to Germany. A similar disaster is afflicting many other Western nations as well. It is unbelievable, unless one looks at it from a religious point of view, and then it all makes sense. Look up the whole of Psalm 105 (106, new numbering). God gave to the Israelites gifts and corresponding responsibilities to which they were repeatedly unfaithful. If he loved them, he could not leave them unpunished (Heb.XII, 7-8). Here are verses 35 to 41 of the Psalm, adapted to our own time:--

「キリスト教徒たちは異教徒たちと交わり,彼らの所業 "works" を学び,同じ物質主義の偶像 "idols" に仕えました.物質主義は彼らにとって障害物となりました.そして,彼らは自らの息子や娘たちを避妊や堕胎といった悪の犠牲にして無実の血を流させました.息子や娘たちの血を自己中心で快楽を求める偶像のための生贄(いけにえ)にしたのです.そして,この地は血でまみれ,彼らの所業で汚され,彼らは道を外れてエレクトロニクスを追い求めました.主は人々にいたく腹を立て,とりわけ自ら贈り物を授けた者たちを忌み嫌い遠ざけました:そして,主は彼らを彼ら自身の長年の敵の手に委ねました.そして,キリスト教徒たちを2000年,1400年ものあいだ憎み続けてきた者たちが彼らを支配するようになりました.」
“And the Christians were mingled among the heathens, and learned their works, and served the same idols of materialism, and it became a stumbling-block to them. And they sacrificed their sons and their daughters to the devils of contraception and abortion and they shed innocent blood: the blood of their sons and daughters which they sacrificed to the idols of self-centred pleasure-seeking. And the land was polluted with blood, and was defiled with their works; and they went aside after their own electronics. And the Lord was exceedingly angry with the people: and he abhorred those whom he had specially gifted. And he delivered them into the hands of their age-old enemies: and those that had hated the Christians for 2000 and 1400 years had dominion over them.”

欧州が直面する惨事は神がお許しになったことです.その解決はいうまでもなく神に救いを求めることです.詩篇第44篇,46篇,47篇はそれぞれ「そして,神は苦難に置かれた人々を見て,彼らの祈りを聴いた」,「神は虜(とりこ)となったすべての者たちを見て,彼らに慈悲を与えた」,「主よ,神よ,私たちをお救いください.そして私たちをあなたの敵たちから引き離し手元に引き寄せてください」と記しています.
Europe's disaster is by God's permission. The solution is of course to turn to God: verse 44, “And he saw when they were in tribulation, and he heard their prayer, (46) and he gave them unto mercies, in the sight of all those that had made them captives. (47) Save us, O Lord, our God, and gather us from among your enemies...”

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教




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本投稿記事・第428回エレイソン・コメンツ「目覚めよ,欧州!」( 2015年9月26日付)"ELEISON COMMENTS CDXXVIII (Sept. 26, 2015) : EUROPE, AWAKE !" は2015年11月13日20時30分に掲載されました.

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2015年9月5日土曜日

425 愛徳の順序 9/5


解説付き版

エレイソン・コメンツ 第425回 (2015年9月5日)

私たちの嘘の世界は
往々にして 「黒は白だ」と言います.
(わたくし たちの うその せかいは
おうおう にして 「くろは しろだ」と いいます.)
( "Often our world of lies says, “Black is white.” " )

神を尺度とするなら,
公教徒達(=カトリック教徒達」)は 正しく測ります.
(かみを しゃくど と する なら,
こう きょうと たち〈=かとりっく きょうと たち〉は ただしく はかり ます.)
( "With God for measure, Catholics measure right." )

公教会(=カトリック教会)( "the Catholic Church" )は「人種差別」“racism” に就いて如何考えるでしょうか?(こうきょうかい〈かとりっくきょうかい〉は「じんしゅ さべつ」に ついて どう かんがえる でしょうか?) 「反ユダヤ主義」 “anti-semitism” (訳注後記0・1 )に就いては?(「はん ゆだや しゅぎ」に ついては?) 「(女)性差別」 “sexism” に 就いては?(「(じょ)せい さべつ」に ついては?) 或(い)は「同性愛嫌悪」 “homophobia” に就いては?(あるい は 「どうせい あい けんお」に ついて は?)( "What does the Catholic Church think of “racism”? Or of “anti-semitism”? Or of “sexism”? Or of “homophobia”? " ) 他にも多々在ります(ほか にも たた あり ます.)( "And so on and so on." ).誰もが他の誰に対しても親切だと想定されて居るリベラルな世界で(だれ もが ほか の だれ に たいし ても しんせつ だ と そうてい されて いる りべらる な せかい で)( "In a liberal world where everybody is supposed to be nice to everybody, …" ),私達全てが憎むべき様な新しい階級の人々に就いて「差別語禁止」が定期的に出て来るのは驚くべき事では無いでしょうか?(わたくし たち すべて が にくむ べき ような あたらしい かいきゅう の ひとびと に ついて「さべつ ご きんし」が ていき てき に でて くる のは おどろく べき こと では ない でしょうか?)( "… is it not surprising how “political correctness” seems to come up regularly with a new class of people for all of us to hate? " ) 公教会(カトリック教会)は,(其の創立者で在られる)神授の(=神聖な)真の教師(=神の御独り子主イエズス・キリスト)( "its divine Master" )の聖教(みおしえ)に従い私達は隣人を愛し,誰も憎むべきで無いと説いて居ます(こう きょうかい〈かとりっく きょうかい〉は,〈その そうりつしゃ で あられる〉しんじゅ の〈=しんせい な〉まこと の きょうし〈=かみ の おん ひとりご しゅ いえずす・きりすと〉の みおしえ に したがい わたくし たち は りんじん を あいし,だれ も にくむ べき で ない と といて います)(訳注後記0・2 ).だが教会は,私達に仲間の全てを無差別に愛せとは説いて居ません(だが きょうかい は,わたくし たち に なかま の すべて を むさべつ に あいせ と は といて いません)( "… but it does not say we should love all our fellow-men indiscriminately." ).偉大な公教会(カトリック教会)の神学者( "a great Catholic theologian" )が私達の神や人に対する愛に何の様な順序を付けたか振り返って見ましょう(いだいな こうきょうかい の しんがくしゃ が わたくし たち の かみ や ひと に たいする あい に どのような じゅんじょ を つけたか ふりかえって みましょう)( "Let us see how a great Catholic theologian puts order into our love of God and man." ).以下に紹介為るのは聖トマス・アクィナス( "St Thomas Aquinas" )の「神学大全」( "Summa Theologiae" )に含まれる十三か条の骨子,第二部第二巻,第二十六問(題)(=問26) ( "2a 2ae, Question 26" )です(いかに しょうかい する のは せい とます・あくぃなす の「しんがく たいぜん」に ふくまれる じゅうさん かじょう の こっし,だい に ぶ だい に かん,だい にじゅう ろく もん〈だい〉〈=とい にじゅう ろく〉 です):-- ( "Here are the bare bones of the 13 Articles of St Thomas Aquinas’ Summa Theologiae, 2a 2ae, Question 26:— " )
(訳注後記0・1) 「反ユダヤ主義」“anti-semitism” )
(訳注後記0・2 ) ① (i) 「公教会(カトリック教会)」の創立者すなわち「神授の真の教師」=「キリスト」「メシア(=メサイア)」.(ii) 「キリスト・メシア」の意味=「救世主」.「イエズス・キリスト」とは,即ち「救世主イエズス」の事である.「イエズス」の御名については,後述の「訳注の続き」をご参照下さい.②「公教会の教え」=「神(天主)の十戒」

1 愛徳 "Charity" には一つの真正の順序が在る(あいとく には ひとつの しんせい の じゅんじょ が ある)(訳注後記 1・1「神の十戒」を参照).何故なら,其れは超自然的至福に於ける友情であり(なぜなら,それは ちょう しぜん てき しふく に おける ゆうじょう で あり),其の至福は神を出発点とする物(為る物)だからです(その しふく は かみを しゅっぱつ てん と する もの だから です)( "1 Charity does have an order, because it is a friendship in supernatural bliss, and that bliss has its starting-point in God, …" ).貴方が出発点から物事を辿る場合(あなたが しゅっぱつ てん から ものごと を たどる ばあい),何時でも順番を付けるでしょう(いつでも じゅんばん を つける でしょう)( "… and wherever you have things following from a starting-point, you have an order." ).(公教徒〈=カトリック教徒〉が重要な問題となる(為る)と如何に直ちに神に委ねるかに注目して下さい.リベラル派(=自由主義派)は自分達の「親切さ」“niceness” の出発点に就いて,先ず何に委ねるのでしょうか? ナチスに対する憎悪でしょうか? 真面目な問いです…)〈こうきょうと〈=かとりっく きょうと〉が じゅうよう な もんだい と なると いかに ただちに かみに ゆだねるか に ちゅうもく して ください.りべらるは〈じゆう しゅぎ は〉 は じぶん たちの「しんせつさ」の しゅっぱつ てん に ついて,まず なに に ゆだねる ので しょうか? なちす に たいする ぞうお でしょうか? まじめな とい です…〉( "… (Notice how the Catholic immediately refers a major question to God. What might liberals immediately refer to as the starting-point of their “niceness”? Hatred of Nazis? Seriously… ) " )

2 愛徳に於いては隣人 "neighbour" よりも勝って神を愛さなければ為らない(あいとく に おいては りんじん よりも まさって かみを あいさなければ ならない)( "2 Charity must love God above neighbour, …" )(訳注後記 2・1「隣人とは誰か?」).何故なら,愛徳は至福に於ける友情( "charity is a friendship in bliss" )で有り(なぜなら,あいとく は しふくに おける ゆうじょう であり),私自身や私の隣人の為のあらゆる至福は神を源泉として居るからです(わたくし じしん や わたくし の りんじん の ため の あらゆる しふく は かみ を げんせん と している から です)( "… because charity is a friendship in bliss, and all bliss for myself or my neighbour has its source in God. " )(訳注後記2・2「神の十戒・第一項」を参照).(リベラル派は自らの幸福の源泉を何処に置いて居るのでしょうか? 自己達成感でしょうか? 其れとも自分達の仲間でしょうか? 此れ等は,幸福の形態としては相対的に貧弱な物です.)〈りべらるは は みずから の こうふく の げんせん を どこ に おいて いる ので しょう か? じこ たっせい かん でしょうか? それとも じぶん たち の なかま でしょうか? これら は,こうふく の けいたい と しては そうたい てき に ひんじゃく な もの です.〉( " (Where do liberals place the source of their happiness? In self-fulfilment? In their fellow-men? These are relatively poor forms of happiness.) " )
(訳注後記 2・1 )「隣人とは誰か?」→福音書のキリストによる「善きサマリア人」のたとえ話を参照.

3 神は自己以上に愛されなければ為らない(かみ は じこ いじょう に あいされ なければ ならない)( "3 God must be loved above self, …" ).何故なら,あらゆる(無傷の)生き物は其其(其々)の遣り方で(なぜなら,あらゆる〈む きず の〉いきもの は それぞれ の やりかた で),自分達自身の善より共通の善を自然に愛すからです(じぶん たち じしん の ぜん より きょうつう の ぜんを しぜん に あいす から です)( "… because all (unspoiled) creatures, each in their way, naturally love the common good above their particular good, …" ).神はあらゆる物の中で(かみ は あらゆる もの の なか で),自然的且つ超自然的な共通の善です(しぜん てき かつ ちょう しぜん てき な きょうつう の ぜん です)( "… and God is the natural and supernatural common good of all." ).

4 霊的自己(=自己の霊魂)( "Spiritual self" )は霊的隣人(=隣人の霊魂《=隣人の心・気持ち》)( "spiritual neighbour" )より愛されなければならないれいてき じこ〈=じこ の れいこん《=じこ の こころ・きもち》〉は れいてき りんじん 〈=りんじん の れいこん《=りんじん の こころ・きもち》〉より あいされ なければ ならない)( "4 Spiritual self must be loved above spiritual neighbour, …" )(訳注後記4・1 , 4・2).何故なら,私は隣人より私自身に近い存在だからです(なぜなら,わたくしは りんじん より わたくし じしん に ちかい そんざい だから です)( "… because I am closer to me than I am to my neighbour …" ).従って,若し私が「霊的に」私自身を愛さないなら(=私自身の霊魂《=私自身の心・気持ち》に対して愛徳を持てないなら),私は隣人を愛せそうもありません〈=私は隣人の霊魂《=隣人の心・気持ち》に対して愛徳を持てそうもありません〉〈したがって,もし わたくしが「れい てきに」わたくし じしんを あいさない なら〈=わたくし じしん の れいこん《=わたくし じしん の りょうしん・きもち》 に たいして あいとく を もてない なら〉,わたくし は りんじん を あいせそう も ありません〈=わたくし は りんじん の れいこん《=りんじん の りょうしん・きもち》に たいして あいとく を もてそう も ありません〉( "… so that if I do not love me (spiritually), I am unlikely to love my neighbour." ).然しながら――(しかしながら――)( "But –" )
(訳注4・1)「霊的自己・霊的隣人(=自己や隣人の霊魂を指す)」=自己や隣人の真の人格的価値や良心(善良な気持ち)を意味する.)〈「れいてき じこ・れいてき りんじん=《じこ や りんじん の れいこん を さす》」=じこ や りんじん の まこと の じんかく てき かち や りょうしん《ぜんりょう な きもち》を いみ する.〉
(訳注後記4・2 )「自己の真の人格的価値」について.

5 霊的な隣人は肉体的な自己(=自己の身体的欲求)より愛されなければ為らない(れい てき な りんじん は にくたいてき な じこ より あいされ なければ ならない)( "5 Spiritual neighbour must be loved above corporal self, …" ).肉体的自己とは即ち(乃ち)私自身の肉体です(にくたい てき じこ とは すなわち わたくし じしんの にくたい です)( "… i.e., my own body, …" ).何故なら霊は肉体以前に来る物で在り(なぜなら れいは にくたい いぜん に くる もの であり)( "… because spirit comes before body, …" ),其の訳は神は至福に直接加わるのに対し(その わけ は かみは しふく に ちょくせつ くわわる のに たいし ),肉体は(霊魂を通して)間接的にだけ加わるものだからです(にくたいは〈れいこんを とおして〉かんせつ てき に だけ くわわる もの だから です)( "… because spirit partakes directly in bliss, while body partakes only indirectly (through spirit)." ).(訳注後記 5・1 ) 
(訳注後記 5・1)「肉の欲・目の欲・生活のおごり」〈新約聖書:使徒ヨハネによる第一の書簡・第2章16節〈12-17節を掲載〉を参照.

6 或る隣人達は,他の隣人達より愛されなければならない(ある りんじん たち は,ほか の りんじん たち より あいされ なければ ならない)( "6 Some neighbours must be loved more than others, …" ).何故なら,全ての隣人達は神に対する客観的な物と私に対する主観的な物という愛徳の両極への近さで,其其(其々)異なる存在だからです(なぜなら,すべて の りんじん たち は かみ に たいする きゃっかん てき な もの と わたくし に たいする しゅかん てき な もの と いう あいとく の りょうきょく への ちかさで,それぞれ ことなる そんざい だからです)( "… because they all vary in their closeness to one of the two poles of charity, objective to God, or subjective to me." ).諸諸の聖人達は神により近く,諸諸の隣人達は私により近い存在です(もろもろの せいじん たち は かみ に より ちかく,もろもろの りんじん たち は わたくし に より ちかい そんざい です)( "Saints are closer to God, neighbours to me." ).

7 客観的に言えば,諸聖人は諸親族(=親戚)より愛されなければならない(きゃっかん てき に いえば,しょ せいじん は しょ しんぞく〈=しんせき〉 より あいされ なければ ならない)( "7 Objectively, Saints will be loved more than relatives, …" ).だが,主観的には諸隣人の方が諸聖人より強く愛されるでしょう(だが,しゅかん てき には しょ りんじん の ほう が しょ せいじん より つよく あいされる でしょう)( "… but subjectively neighbours will be loved more intensely than Saints, …" ).何故なら,諸隣人の方が色々な形で諸聖人より近い存在だからです――「愛徳は家庭から始まる」です(なぜ なら,しょ りんじん の ほう が いろいろ な かたち で しょ せいじん より ちかい そんざい だから です――「あいとく は かてい から はじまる」です)( "… because in a variety of ways they are closer – “Charity begins at home.” " ).

8 基本的には,諸諸の血縁の親族(親戚)達は親族(親戚)で無い者より愛されなければならない(きほん てき には,もろもろ の けつえん の しんぞく〈しんせき〉たち は しんぞく〈しんせき〉 でない もの より あいされ なければ ならない)( "8 Essentially, blood-relatives will be loved above non-relatives, …" ).何故なら,血縁は自然な物で,固定的且つ実体的な物だからです(なぜなら,けつえん は しぜん な もの で,こてい てき かつ じったい てき な もの だから です)( "… because blood-ties are natural, fixed and substantial." ).但し,偶然的に血縁関係で結ばれた親族(親戚)以外の友情の絆の方がより強い事が有ります(ただし,ぐうぜん てき に けつえん かんけい で むすばれた しんぞく〈=しんせき〉いがい の ゆうじょう の きずな の ほう が より つよい こと が あります)( "Accidentally however, other ties of friendship can be more powerful." ).

9 客観的には,両親は子供達より愛されなければならない(きゃっかん てき には,りょうしん は こども たち より あいされ なければ ならない)( "9 Objectively, parents are to be loved more than children, …" ).何故なら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近い存在だからです(なぜなら,せいめい や おおく の りとく の げんせん として,りょうしん は かみ に より ちかい そんざい だから です)( "… because as sources of life and of many benefits, parents are closer to God, …" ).だが,主観的には,幾つかの理由で,子供達の方が私達により近い存在です(だが,しゅかん てき には,いくつか の りゆう で,こども たち の ほう が わたくし たち に より ちかい そんざい です)( "… but subjectively children can be closer to us for several reasons." ).

10 父親は母親より愛されなければならない.此れは字義通りです(ちちおや は ははおや より あいされ なければ ならない.これ は じぎ どおり です( "10 Father should be loved more than mother, as such, …" ).何故なら,私達に生命を与える時に其其(其々)が果たす役割を見れば(なぜなら,わたくし たち に せいめい を あたえる とき に それぞれ が はたす やくわり を みれば)( "… because by the part each plays in giving us life,ten …" ),父親は形式的で能動的で在るのに対し(ちちおや は けいしき てき で のうどう てき である のに たいし)( "… the father is formal and active whereas …" ),母親は物質的(母系的)( "… the mother is material ( maternal ) " )で受動的だからです(ははおや は ぶっしつ てき〈ぼけい てき〉で じゅどう てき だから です)( "… the mother is material ( maternal ) and passive …" )(聖トマスは,今日見られる様な変性した人間で無く,正常な状態の人間に就いて書きました)(せい とます は ,こんにち みられる ような へんせい した にんげん でなく,せいじょう な じょうたい の にんげん に ついて かきました)( " (St Thomas was writing about human beings who are normal and not de-natured as they are today). " ).

11 客観的には,両親は妻より愛される事に為る(きゃっかん てき には,りょうしんは つま より あいされる こと に なる)( "11 Objectively, parents are to be loved more than wife, …" ).何故なら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近いからです(なぜなら,せいめい や おおく の りとく の げんせん として,りょうしん は かみ に より ちかい から です)( "… because as sources of life and of many benefits they are closer to God, …" ).然し,主観的には,妻は夫と合って「(二人は)一体」である為,両親以上に愛される物です(しかし,しゅかん てき には,つま は おっと と あって「〈ふたり は〉いったい」で ある ため,りょうしん いじょう に あいされる もの です)( "… but subjectively she who is “one flesh” with her husband is to be loved the more." )(訳注後記11・1 )
(訳注後記11・1)エフェゾ人への書簡:第5章31節.〈全章《第1-6章》を掲載〉

12 客観的には,私達に善行を行う者は私達が善行を与える者より愛される事に為る(きゃっかん てき には,わたくし たち に ぜんこう を おこなう もの は わたくし たち が ぜんこう を あたえる もの より あいされる こと に なる)( "12 Objectively, somebody doing good to us is to be loved more than somebody we do good to, …" ).何故なら,彼等は私達に取って善の源泉だからです(なぜ なら,かれら は わたくし たち に とって ぜん の げんせん だから です)( "… because they are a source of good to us, …" ).然し,主観的な身近かさの為,私達は私達が善行を与える者をより愛する事が有ります(しかし,しゅかん てき な みぢか さ の ため,わたくし たちは わたくし たち が ぜんこう を あたえる もの を より あいする こと が あります)( "… but by subjective closeness we love the more somebody that we do good to, …" ).詰まり(詰り),「受け取るより与える方が恵まれている」と言う訳です(つまり,「うけとる より あたえる ほう が めぐまれて いる」と いう わけ です)( "… for various reasons, e.g . “It is more blessed to give than to receive.” " )(訳注後記12・1)
(訳注後記12・1)「受け取るより与える方が恵まれている」 新約聖書からの引用→使徒行録:第20章35節『…そうして働いて弱い人々を支え,主イエズス自ら言われた*³⁵〈受けるよりも与えることに幸せがある〉ということばを思い出さねばならぬことを,常にあなたたちに示しました」.』(使徒聖パウロのことば(〈注釈〉 *³⁵ このことばは福音書にはない.)

13 天国でも依然として愛徳の順序がある(てんごく でも いぜん として あいとく のじゅんじょ が ある).何にもまして神に対する愛が一番です(なに にも まして かみに たいする あい が いちばん です).また,神への近さに就いての隣人の客観的評価は,此の(地上の)世より天国での方が重視されます(また,かみ へ の ちかさ に ついて の りんじん の きゃっかん てき ひょうか は,この 〈ちじょう の〉よ より てんごく で の ほう が じゅうし されます)
13 There will still be an order of charity in Heaven, especially the loving of God above all. Also the objective grading of neighbour for his closeness to God will count more there than it does here on earth.

「人種差別」に就いては如何でしょうか?(「じんしゅ さべつ」に ついて は どう で しょうか?)何の人種が神若しくは私により近いでしょうか?(どの じんしゅ が かみ もしく は わたくし に より ちかい で しょうか?) 何の人種も同じとは限りません(どの じんしゅ も おなじ とは かぎり ません).「反ユダヤ主義」は? セム人は神の友人でしょうか,其れとも敵でしょうか?(「はん ゆだや しゅぎ」は?せむ じん は かみ の ゆうじん で しょうか,それとも てき〈=かたき〉で しょうか?)(訳注2・1 ) 「(女)性差別」 は?(「〈じょ〉せいさべつ」は?) 今日の女性達は私が神へ向かう時手助けに為るでしょうか,其れとも邪魔を為るでしょうか? (こんにち の じょせい たち は わたくし が かみ へ むかう とき てだすけ に なる でしょうか,それとも じゃま を する でしょうか?),「同性愛嫌悪」は如何でしょう? (「どうせい あい けんお」は どうでしょう?)「ホモ達」は神と如何両立するでしょうか?(「ほも たち」は かみ と どう りょうりつ する でしょうか?)
“Racism”? – which races are closer to God, or to me? They are not all the same. “Anti-semitism”? – are “Semites” friends or enemies of God? “Sexism”? – do today’s women help or hinder me on my way to God? “Homophobia”? – how do “homos” stand with God?

キリエ・エレイソン(主よ憐れみ給え). Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教



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解説無し


私たちの嘘の世界は往々にして「黒は白だ」と言います. 
神を尺度とするなら,カトリック教徒たちは正しく測ります. 
Often our world of lies says, “Black is white.” 
With God for measure, Catholics measure right. 

カトリック教会( "the Catholic Church" )は「人種差別」 “racism” についてどう考えるでしょうか? 「反ユダヤ主義」 “anti-semitism” については? 「性差別」 “sexism” については? あるいは「同性愛嫌悪」 “homophobia” については? ほかにも多々あります.誰もがほかの誰に対しても親切だと想定されているリベラルな世界で,私たちすべてが憎むべきような新しい階級の人々について「差別語禁止」が定期的に出てくるのは驚くべきことではないでしょうか? カトリック教会は,(その創立者であられる)神授の真の教師(=神の御独り子主イエズス・キリスト)( "its divine Master" )の聖教に従い私たちは隣人を愛し,誰も憎むべきでないと説いています(訳注2・2 ).だが教会は,私たちに仲間のすべてを無差別に愛せとは説いていません.偉大なカトリック教の神学者が私たちの神や人に対する愛にどのような順序をつけたか振り返ってみましょう.以下に紹介するのは聖トマス・アクィナス( "St Thomas Aquinas" )の「神学大全」( "Summa Theologiae" )に含まれる13か条の骨子,第2部第2巻,問26です.
What does the Catholic Church think of “racism”? Or of “anti-semitism”? Or of “sexism”? Or of “homophobia”? And so on and so on. In a liberal world where everybody is supposed to be nice to everybody, is it not surprising how “political correctness” seems to come up regularly with a new class of people for all of us to hate? The Catholic Church, following its divine Master, says we are to love our neighbour and to hate nobody, but it does not say we should love all our fellow-men indiscriminately. Let us see how a great Catholic theologian puts order into our love of God and man. Here are the bare bones of the 13 Articles of St Thomas Aquinas’ Summa Theologiae, 2a 2ae, Question 26:— 

1 愛徳 "Charity" には一つの真正の順序がある.なぜなら,それは超自然的至福における友情であり,その至福は神を出発点とするものだからです.あなたが出発点から物事をたどる場合,いつでも順番をつけるでしょう.(公教徒〈=カトリック教徒〉が重要な問題となるといかにただちに神に委ねるかに注目してください.リベラル派は自分たちの「親切さ」 “niceness”  の出発点について,まず何に委ねるのでしょうか?ナチスに対する憎悪でしょうか? 真面目な問いです…)
1 Charity does have an order, because it is a friendship in supernatural bliss, and that bliss has its starting-point in God, and wherever you have things following from a starting-point, you have an order. (Notice how the Catholic immediately refers a major question to God. What might liberals immediately refer to as the starting-point of their “niceness”? Hatred of Nazis? Seriously . . . ) 

2 愛徳においては隣人 "neighbour" より神を愛さなければならない.なぜなら,愛徳は至福における友情であり,私自身や私の隣人のためのあらゆる至福は神を源泉としているからです.(リベラル派は自らの幸福の源泉をどこに置いているのでしょうか? 自己達成感でしょうか? それとも自分たちの仲間でしょうか? これらは,幸福の形態としては相対的に貧弱なものです.)
2 Charity must love God above neighbour, because charity is a friendship in bliss, and all bliss for myself or my neighbour has its source in God. (Where do liberals place the source of their happiness? In self-fulfilment? In their fellow-men? These are relatively poor forms of happiness.) 

3 神は自己以上に愛されなければならない.なぜなら,あらゆる(無傷の)生き物はそれぞれのやり方で,自分たち自身の善より共通の善を自然に愛すからです.神はあらゆるものの中で,自然的かつ超自然的な共通の善です.
3 God must be loved above self, because all (unspoiled) creatures, each in their way, naturally love the common good above their particular good, and God is the natural and supernatural common good of all. 

4 霊的自己 "Spiritual self" は霊的隣人 "spiritual neighbour "より愛されなければならない.なぜなら,私は隣人より私自身に近い存在だからです.したがって,もし私が「霊的に」私自身を愛さないなら,私は隣人を愛せそうもありません.しかしながら――
4 Spiritual self must be loved above spiritual neighbour, because I am closer to me than I am to my neighbour so that if I do not love me (spiritually), I am unlikely to love my neighbour. But – 

5 霊的な隣人は肉体的な "corporal" 自己より愛されなければならない.肉体的自己とはすなわち私自身の肉体です.霊(霊魂)は肉体以前に来るものであり,霊は至福に直接加わるのに対し,肉体は(霊魂を通して)間接的にだけ加わるものです.
5 Spiritual neighbour must be loved above corporal self, i.e., my own body, because spirit comes before body, because spirit partakes directly in bliss, while body partakes only indirectly (through spirit).

6 ある隣人たちは,ほかの隣人たちより愛されなければならない.なぜなら,すべての隣人たちは神に対する客観的なものと私に対する主観的なものという愛徳の両極への近さで,それぞれ異なる存在だからです.聖人は神により近く,隣人は私により近い存在です.
6 Some neighbours must be loved more than others, because they all vary in their closeness to one of the two poles of charity, objective to God, or subjective to me. Saints are closer to God, neighbours to me. 

7 客観的に言えば,聖人は親戚より愛されなければならない.だが,主観的には隣人の方が聖人より強く愛されるでしょう.なぜなら,隣人の方が色々な形で聖人より近い存在だからです.「愛徳は家庭から始まる」です.
7 Objectively, Saints will be loved more than relatives, but subjectively neighbours will be loved more intensely than Saints, because in a variety of ways they are closer – “Charity begins at home.” 

8 基本的には,血縁の親戚は親戚でない者より愛されなければならない.なぜなら,血縁は自然なもので,固定的かつ実体的なものだからです.ただし,偶然的に血縁親戚以外の友情の絆の方がより強いことがあります.
8 Essentially, blood-relatives will be loved above non-relatives, because blood-ties are natural, fixed and substantial. Accidentally however, other ties of friendship can be more powerful. 

9 客観的には,両親は子供たちより愛されなければならない.なぜなら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近い存在だからです.だが,主観的には,いくつかの理由で,子供たちの方が私たちにより近い存在です.
9 Objectively, parents are to be loved more than children, because as sources of life and of many benefits, parents are closer to God, but subjectively children can be closer to us for several reasons. 

10 父親は母親より愛されなければならない.これは字義通りです.なぜなら,私たちに生命をあたえるときにそれぞれが果たす役割を見れば,父親は形式的で能動的であるのに対し,母親は物質的(母系的)で受動的だからです(聖トマスは、今日見られるような変性した人間でなく,正常な状態の人間について書きました).
10 Father should be loved more than mother, as such, because by the part each plays in giving us life, the father is formal and active whereas the mother is material ( maternal ) and passive (St Thomas was writing about human beings who are normal and not de-natured as they are today). 

11 客観的には,両親は妻より愛されることになる.なぜなら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近いからです.しかし,主観的には,妻は夫と「一心同体」であるため,両親以上に愛されるものです.
11 Objectively, parents are to be loved more than wife, because as sources of life and of many benefits they are closer to God, but subjectively she who is “one flesh” with her husband is to be loved the more. 

12 客観的には,私たちに善行を行う者は私たちが善行を与える者より愛されることになる.なぜなら,彼らは私たちにとって善の源泉だからです.しかし,主観的な身近かさのため,私たちは私たちが善行を与える者をより愛することがあります.つまり,「受け取るより与える方が恵まれている」というわけです.
12 Objectively, somebody doing good to us is to be loved more than somebody we do good to, because they are a source of good to us, but by subjective closeness we love the more somebody that we do good to, for various reasons, e.g . “It is more blessed to give than to receive.” 

13 天国でも依然として愛徳の順序がある.何にもまして神に対する愛が一番です.また,神への近さについての隣人の客観的評価は,この世より天国でのほうが重視されます.
13 There will still be an order of charity in Heaven, especially the loving of God above all. Also the objective grading of neighbour for his closeness to God will count more there than it does here on earth.

 「人種差別」についてはどうでしょうか? どの人種が神もしくは私により近いでしょうか? どの人種も同じとは限りません.「反ユダヤ主義」は? セム人は神の友人でしょうか,それとも敵でしょうか? 「性差別 は?」 今日の女性たちは私が神へ向かうとき手助けになるでしょうか,それとも邪魔をするでしょうか? 「同性愛嫌悪」はどうでしょう? 「ホモたち」は神とどう両立するでしょうか?
“Racism”? – which races are closer to God, or to me? They are not all the same. “Anti-semitism”? – are “Semites” friends or enemies of God? “Sexism”? – do today’s women help or hinder me on my way to God? “Homophobia”? – how do “homos” stand with God? 

キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教



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(訳注の続き)

(訳注後記 0・2 ) ① (i) 「イエズス」の御名の意義について→新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第1章18-25節を参照. 
(訳注後記 1・1)「神の十戒」を参照→「神の十戒」=「天主の十戒」 

『…イエズス・キリストの誕生は次のようであった.*¹⁸母のマリアはヨゼフのいいなずけであったが,同居する前に,聖霊によって身ごもっているのがわかった.*¹⁹夫のヨゼフは正しい人だったので,彼女を公に辱めようとせず,ひそかに離別しようと決心した.彼がこうしたことを思い煩っていたとき,突然夢の中に主の天使が現れて言った,「ダビドの子ヨゼフよ,ためらわずにマリアを妻として迎えよ.マリアは聖霊によって身ごもっている.彼女は子を生むからその子を*²¹イエズスと名づけよ.何故なら彼は罪から民を救う方だからである」.これらのことは預言者によって主が言われたみことばの実現であった,

「処女(おとめ)が身ごもって子を生む.その名はエンマヌエルと呼ばれる」.
その名は「神はわれわれとともにまします」という意味である.

目覚めたヨゼフは主の天使から命ぜられたとおりに妻を迎え入れた.*²⁵そしてマリアは*子を生んだ.だがヨゼフは彼女を知らなかった.彼はその子をイエズスと名づけた.』

(注釈)

イエズスの誕生1・18-25)

*¹⁸ 嫁はある期間夫の家に入らなかった.それでヨゼフとマリアも,すでに夫婦であったにもかかわらず一緒に住んでいなかった.二人の結婚は正当なものだった.福音史家もすぐあとでヨゼフを夫と呼んでいる.

*¹⁹ ヨゼフは律法を完全に守る「正しい人」であった.彼はマリアを訴える権利があった.しかしまた一方では彼女の貞潔を疑えなかったので,訴えて辱めるに忍びなかった.

*²¹ イエズスとは「ヤベ(神)が救う」という意味の名前である.

*²⁵ イエズスの超自然的誕生を強調する.それゆえマリアの処女性が守られたことを証する.マリアがイエズス誕生前も誕生後も処女であったことは,カトリック教会の信仰箇条である

*²⁵ ブルガタ訳には「初子」とあるが,これはたぶんルカ(2・7)による後世の書き入れであって,批判テキストにこのことばはない.ただ「子」とある.


(マテオ聖福音書内の該当箇所を追って掲載いたします.)


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訳注の掲載を続けます.
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本投稿記事・第425回エレイソン・コメンツ「愛徳の順序」 "CHARITY'S ORDER"( 2015年9月5日付)は2015年10月30日18時05分に掲載されました.
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