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2016年10月1日土曜日

481 再び,教皇不在(空位)論 - I 10/1

エレイソン・コメンツ 第481回 (2016年10月1日)

カトリック教会の完全な破綻などありえません.
だが,それが部分的にひどい病気になることはありえます.
The Catholic Church can never wholly fail, 
But, partially, it can severely ail. 

エレイソン・コメンツが歴代公会議派教皇は実は教皇ではないというテーマを再度取り上げるなら,読者の多くはうんざりするかもしれません.だが,1991年に書かれた論文の最近のフランス語訳を読むと,教皇空位論は見た目ほど結論の出たテーマではなく,したがって,そのことを示すためには何度も議論を繰り返す必要があることが分かります.リベラル派は教皇空位論の誘惑にかられることなどないのですから,その必要はないでしょう.だが,神の恩寵によりリベラリズム(自由主義)から解放されカトリック教伝統に引き寄せられた優良なカトリック教(=公教)信徒にとって教皇空位論は極めて危険なものとなります.悪魔にしてみれば,私たちがバランスを失いさえすればいいわけで,右へ傾こうと左へ傾こうと,どちらでも構いません.
It may irk a number of readers of these “Comments” if they return once more to the theme of the Conciliar Popes not being Popes at all, but the recent translation into French of an article from 1991 in English shows how the arguments for sedevacantism need repeatedly to be demonstrated as being not so conclusive as they may appear. Liberals need no such demonstration, because for them sedevacantism is no temptation. However there are select Catholic souls drawn by the grace of God out of liberalism towards Catholic Tradition for whom sedevacantism becomes positively dangerous. The Devil does not care whether we we lose our balance to the right or to the left, so long as we lose our balance. 

教皇空位論がもたらす過ちは,理論的にはリベラリズムに共通する精神荒廃がもたらす過ちほど深刻ではありません.だが,実際には,人の心が教皇空位論のために固く閉ざされてしまうこと,受け入れうる意見(教皇フランシスコの言動がカトリック教的だと言えるカトリック教徒がいるでしょうか?)が受け入れがたい教義上の確実性に変わりがちなこと(そのような疑問に確かな判断を下せるカトリック教徒がいるでしょうか?)(what Catholic can judge with certainty of such a question ?) ,そしてそれが諸教義中教義として押しつけられるようになり,まるである人のカトリック教性( "Catholicity" )が私たちが教皇ピオ十二世いらい真の教皇を持ったことがないことを信じるかどうかによって判断されるようになることが何と多いことでしょうか.
For indeed the error of sedevacantism may in theory be an error neither as deep nor as grave as the universal mind-rot of liberalism, but in practice how often one observes that minds snap shut with sedevacantism, and that what started out as an acceptable opinion (what Catholic can say that the words and deeds of Pope Francis are Catholic ?), tends to become an unacceptable dogmatic certainty (what Catholic can judge with certainty of such a question ?), and from there to impose itself as the dogma of dogmas, as though a person’s Catholicity is to be judged by whether or not he believes in our having had no real Pope since, say, Pius XII. 

この往々にして見られる教皇空位論の内面的原動力の一つの理由として私が以前のエレイソン・コメンツで示したのは,教皇空位論は信仰を脅かすような苦渋に満ちた問題,すなわち「こんな教会破壊者がどうして真のカトリック教教皇と言えるだろうか?」という疑問をゴルディオンの結び目(訳注:古代アナトリアにあったフリギアの都ゴルディオンの神話とアレクサンドロス大王にまつわる伝説.手に負えないような難問を誰も思いつかなかった大胆な方法で解決したという故事)のような明快さで解決するかもしれないということです.つまり,答えは「彼らは全く教皇などではない」です.人々は「ああ,ほっとした.もう悩む必要もない」と、胸をなでおろすでしょう.そこで,人々の心は固く閉じてしまい,教皇空位論は聞く耳を持つ者(あるいは持たない者)にとって,あたかも福音書のように共有できるものになるでしょう.そして,最悪の場合,それは枢機卿,司教,司祭たちにまであてはめられるようになり,その結果,信心深かったカトリック教徒は「引きこもり」( "home-aloner" )になり,ミサ聖祭出席をまったく止めてしまうでしょう.彼は信仰を持ち続けることに成功するでしょうか?彼の子供たちはどうでしょう?教皇空位論の危険性はここにあるのです.
One reason offered by previous “Comments” for this often observed internal dynamic of sedevacantism may be the Gordian-knot simplicity with which it slices through an agonizing and faith-threatening problem: “How can these destroyers of the Church be true Catholic Popes ?” Answer, they are not Popes at all. “Oh, what a relief ! I need no longer agonize.” The mind snaps shut, sedevacantism is to be shared as though it were the Gospel with whoever will listen (or not listen), and at worst it can be extended from the Popes to all cardinals, bishops and priests, so that a once believing Catholic turns into a “home-aloner” who gives up attending Mass altogether. Will he succeed in keeping the Faith? And his children? Here is the danger.

それ故,私たちはカトリック教信仰のバランスを保ち,左右に傾ける罠から身を守るため,冒頭に述べた BpS ( S 司教)の15ページの論文の論点に耳を傾けてみましょう.(読者の多くは略称の S 司教が誰かすぐに分かるでしょう.ここで私たちにとって大事なことは,彼自身より彼の議論ですからフルネームを示す必要はないでしょう.)この論文では, S 司教は少なくとも自分はカトリック教の信仰を教皇職の中に持っていると考えており,実際に持っています.そうでなければ,彼にとって公会議派教皇たちは何ら問題とならないでしょう.この理屈と信仰は教皇空位論者たちにとって最善のものです.だが, S 司教,教皇空位論者たちのいずれもカトリック教の全体像を理解していません.つまり,神は教会を見捨てることはありえないが,聖職者たちを見捨てることはありうるということです.
Therefore to keep our Catholic Faith in balance and to avoid the traps laid today to its right as to its left, let us look at the arguments of BpS in the 15-page article mentioned above. (“BpS” is an abbreviation which many readers will identify at once, but it need not be spelled out here because we are more concerned with his arguments than with his person.) In his article at least he does think, and he does have a Catholic’s faith in the Papacy, otherwise the Conciliar Popes would be no problem for him. This logic and faith are what is best in sedevacantists, but neither BpS nor they are working from the whole picture: God cannot let go of his Church, but he can let go of his churchmen. 

S 司教の議論を要約すると次のようになります.大前提:教会に欠陥はない.小前提:第二バチカン公会議の結果,教会はリベラルになった.これは大きな欠陥である.結論:公会議派教会は真の教会でない.ということは,第二バチカン公会議を主導もしくはそれに従った歴代公会議派教皇は真の教皇たりえないということになります.
For here is his argument in a nutshell – Major: the Church is indefectible. Minor: at Vatican II the Church went liberal, which was a major defection. Conclusion: the Conciliar Church is not the real Church, which means that the Conciliar Popes who led or followed Vatican II cannot have been real Popes.

この議論は一見良さそうです.しかし,同じ大前提,小前提からリベラル派的な結論が引き出せます.それは,教会に欠陥はない,教会はリベラルになった,だからカトリック信徒としての私もリベラルにならなければならない,というものです.教皇空位論がかくしてリベラリズムと同じ根を共有するに至ることについて,教皇空位論者たちはもう一度良く考えなければなりません. S 司教はその共通の根に気づき,それを「皮肉( "ironic" )」と称しています.だが,その根はそれ以上のものです.共通の根はリベラル派と教皇空位論者の双方に同じ誤りをさせます.このことが大前提とならなければなりません.実のところ,両者とも教皇の無謬性を取り違えると同じように教会の非欠陥性を誤解します.来週のエレイソン・コメンツでは, S 司教の議論をさらに詳しく分析します.
The argument looks good. However, from the very same Major and Minor can come a liberal Conclusion: the Church is indefectible, the Church went liberal, so I too, as a Catholic, must go liberal. That sedevacantism thus shares its roots with liberalism should make any sedevacantist think twice. BpS notices the common roots, and calls them “ironic”, but they are much more than that. They point to liberals and sedevacantists making the same error, which must be in the Major. Indeed both alike misunderstand the Church’s indefectibility, as they mistake the Popes’ infallibility. See these “Comments” next week for a more detailed analysis of BpS’s argument.
Kyrie eleison.

 キリエ・エレイソン.

 リチャード・ウィリアムソン司教


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本投稿記事・第481回エレイソン・コメンツ「再び,教皇不在論」(2016年10月1日付)/ELEISON COMMENTS CDLXXXI (October 1, 2016) : "AGAIN, SEDEVACANTISM - I" は2016年12月19日23時40分に掲載されました.
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2014年9月13日土曜日

374 教皇も間違う 9/13

エレイソン・コメンツ 第374回 (2014年9月13日)

     リベラル派(カトリック)信徒(りべらるは〈かとりっく〉しんと)たちも教皇空位論を採る信徒(きょうこう くうい ろん〈をとる〉しんと)たちも自分(じぶん)たちがコインの裏表(こいんの ひょうり)のようなものだと言(い)われるのは有難迷惑(ありがた めいわく)でしょうが,事実(じじつ)はその通(とお)りです( "Neither liberals nor sedevacantists appreciate being told that they are like heads and tails of the same coin, but it is true." ).たとえば,どちらの側(がわ)も第3の代替案(だいさんの だいたいあん)を持ち合(もちあ)わせていません( "For instance, neither of them can conceive of a third alternative. " ).そのことは,たとえば2012(にせん じゅうに)年4月14日付け(しがつ じゅうよっか づけ)のフェレイ司教(ふぇれい しきょう)による 3人の司教宛ての書簡 (さんにんの しきょう あての しょかん)を読めば分かり(よめば わかり)ます.同司教(どう しきょう)は教皇空位論以外(きょうこう くういろん いがい)に自ら(みずから)のリベラリズム(りべらりずむ)に対(たい)する代替案(だいたいあん)をなにも示(しめ)していません( "See for instance in his Letter to Three Bishops of April 14, 2012, how Bishop Fellay could see no alternative to his liberalism except sedevacantism." ).逆に言えば(ぎゃくに いえば),多数(たすう)の教皇空位論者の見方(みかた)に従(したが)えば,公会議派の歴代教皇(こうかいぎはの れきだい きょうこう)のなかに本物の教皇が存在したと認める者(ほんものの きょうこうが そんざい したと みとめる もの)がいるなら( "Conversely, for many a sedevacantist if one accepts that any of the Conciliar Popes has really been Pope, …" ),その人(ひと)はリベラル派に過(す)ぎないということになるのでしょうし( "… then one can only be a liberal, …" ),また教皇空位論者を批判する者(ひはん する もの)がいるなら( "… and if one criticises sedevacantism, …" ),その人はリベラリズムを推進(すいしん)しているということになるのでしょう( "… then one is promoting liberalism." ).しかし,本当(ほんとう)はけっしてそうではありません!( "But not at all ! " )

     なぜそうでないのでしょうか?( "Why not ? " ) どちらの側(がわ)も教皇の無謬性(きょうこうの むびゅう せい)を誇張(こちょう)するという同じ間違い(おなじまちがい)をしているからです( "Because both of them are making the same error of exaggerating the Pope's infallibility. " ).どうしてそのような間違い(まちがい)をするのでしょうか?( "Why ? " )両方(りょうほう)とも組織より個人の方(そしき より こじんの ほう)をより強く信じる現代人(つよく しんじる げんだい じん)だからではないでしょうか?( "Might it be because both of them are modern men who believe more in persons than in institutions ? " ) では,そうするのがなぜ現代人の特徴(げんだい じんの とくちょう)なのでしょうか?( "And why should that be a feature of modern men ? " ) それは,程度の差(ていどの さ)こそあれプロテスタント主義の台頭以降(ぷろてすたんと しゅぎの たいとう いこう)( "Because from more or less Protestantism onwards, …" ),公共の善(こうきょうの ぜん)を追及する組織(ついきゅう する そしき)が減り続ける(へり つづける)のに反し(はんし)( "… fewer and fewer institutions have truly sought the common good, …" ),(私があなた方に求めたように〈わたくしが あなたがたに もとめた ように〉)金銭(きんせん)のような何らか(なんらか)の個人的利益(こじんてき りえき)を追求する組織(ついきゅう する そしき)が増え続け(ふえ つづけ)ているためでしょう( "… while more and more seek some private interest such as money (my claim on you), …" ).こうした傾向(けいこう)は当然(とうぜん)のことながら,私たちの組織(わたくし たちの そしき)に対(たい)する尊敬の念(そんけいの ねん)を減らす(へらす)ことになります( "… which of course diminishes our respect for them." ).例を挙げ(れいを あげ)るなら,善意の人々(ぜんいの ひとびと)は現代の銀行(げんだいの ぎんこう)のような腐敗した組織(ふはい した そしき)が直(ただ)ちにその悪い効果を及ぼす(わるい こうかを およぼす)ことがないようしてきましたが( "For instance, good men saved for a while the rotten institution of modern banking from having immediately all its evil effects, …" ),腐敗した銀行屋(ふはい した ぎんこう や)たちは初め(はじめ)から個々(ここ)の準備銀行や中央銀行(じゅんび ぎんこうや ちゅうおう ぎんこう)といった組織(そしき)が実態(じったい)ではどんなものなのかをさらけ出(だ)しています( "… but the rotten banksters are at last showing what the institutions of fractional reserve banking and central banks were, in themselves, from the beginning." ).神や人間(かみや にんげん)の諸々の敵(もろもろの てき)がいるおかげで,悪魔(あくま)が現代の諸機構の中に存在(げんだいの しょきこうの なかに そんざい)しています( "The Devil is in modern structures, thanks to the enemies of God and man." ).

     したがって,現代のカトリック教徒(げんだいの かとりっく きょうと)たちが教皇を強く信じ(きょうこうを つよく しんじ),教会をほとんど信じなくなる傾向(きょうかいを ほとんど しんじなく なる けいこう)にあるのは理解(りかい)できます( "So it is understandable if modern Catholics have tended to put too much faith in the Pope and too little in the Church, …" ).読者の一人(どくしゃの ひとり)から私(わたくし)がなぜ古典的なカトリック教(こてん てきな かとりっく きょう)の神学理論マニュアルと同じやり方(しんがく りろん まにゅあると おなじ やりかた)で無謬性(むびゅう せい)について書(か)かないのかと質問を受け(しつもんを うけ)ました.上に述べた傾向が私の答え(うえに のべた けいこうが わたくしの こたえ)です( "… and here is the answer to that reader who asked me why I do not write about infallibility in the same way that the classic Catholic theology manuals do." ).カトリック教の神学理論マニュアルはそれ自体(じたい)としては素晴(すば)らしいものです( "Those manuals are marvellous in their way, …" ).だが,その中身(なかみ)はすべて第二バチカン公会議以前(だいに ばちかん こうかいぎ いぜん)に書(か)かれたもので( "… but they were all written before Vatican II, …" ),教会に属する無謬性を教皇に付与(きょうかいに ぞくする むびゅうせいを きょうこうに ふよ)しがちでした( "… and they tended to attach to the Pope an infallibility which belongs to the Church." ).たとえば,マニュアルでは無謬性の頂点は教皇(ちょうてんは きょうこう),もしくは公会議支持を得た教皇(こうかいぎ しじを えた きょうこう)の発する厳粛な定義(はっする げんしゅくな ていぎ)( "a solemn definition" )として表(あら)わされることが多(おお)いのですが,これは実際(じっさい)にはいかなる場合(ばあい)も教皇の発する定義(きょうこうの はっする ていぎ)と言(い)うことです( "For instance, the summit of infallibility is liable to be presented in the manuals as a solemn definition by the Pope, or by Pope with Council, but in any case by the Pope." ).リベラル派,教皇空位論者(りべらる は,きょうこう くうい ろん じゃ)が共に直面するジレンマ(ともに ちょくめん する じれんま)はここから出てくる結論の部分(でてくる けつろんの ぶぶん)です( "The liberal-sedevacantist dilemma has been the consequence and, …" ).それは,言うなれば,個人を過大評価し組織を過小評価(こじんを かだい ひょうかし そしきを かしょう ひょうか)する傾向に対する罰(けいこうに たいする ばつ)のようなものです( "… as it were, a punishment of this tendency to overrate the person and underrate the institution, …" ).なぜなら,教会は決して(きょうかいは けっして)単なる人間的組織(たんなる にんげんてき そしき)ではないからです( "… because the Church is no merely human institution." ).

     第一(だいいち)に,普通教導権という山頂(ふつう きょうどう けんと いう さんちょう)に雪に覆われて立つ)(ゆきに おおわれて たつ)教皇の厳粛な教導権(きょうこうの げんしゅくな きょうどう けん)はごく限られた範囲内(かぎられた はんいない)で山の頂上(やまの ちょうじょう)です( "For, firstly, the Solemn Magisterium's snow-cap on the Ordinary Magisterium's mountain is its summit only in a very limited way …" ) - それは雪の下にある岩の頂上(ゆきの したに ある いわの ちょうじょう)に全面的に依存(ぜんめんてきに いぞん)しているにすぎません( "… – it is wholly dependent on the rock summit beneath the snow." ).そして,第二(だいに)に,無謬性に関する(むびゅうせいに かんする)教会の最も権威ある原本(きょうかいの もっとも けんい ある げんぽん),すなわち真のカトリック教公会議(まことの かとりっく きょう こうかいぎ)である第一バチカン公会議(だいいち ばちかん こうかいぎ)(1870年)で発せられた定義(はっせられた ていぎ)により( "And secondly, by the Church's most authoritative text on infallibility, the Definition of the truly Catholic Council of Vatican I (1870), …" ),私たちは教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)は教会から来る(きょうかいから くる)ものであり,その逆(ぎゃく)でないことを知(し)っています( "… we know that the Pope's infallibility comes from the Church, and not the other way round." ).この定義は,教皇がその 権威に基づく 教え(けんいに もとづく おしえ)を行うのに必要な4条件(おこなう のに ひつような よん じょうけん)に従っている場合(したがっている ばあい),教皇は「…真の神より遣わされた救世主イエズス・キリスト(まことの かみ より つかわされた いえずす・きりすと)( "the divine Redeemer" )が,(御自身の教会のため〈ごじしんのきょうかいのため〉)際立って優れた教理を定める(きわだって すぐれた きょうりを さだめる)にあたり,教会がその真の教理由来の恩寵に与れる(きょうかいが その まことの きょうり ゆらいの おんちょうに あずかれる)ようキリスト御自らが教会にお与えになった無謬性を(きりすと おんみずからが きょうかいに おあたえに なった むびゅうせいを)…」保持(ほじ)する…と述(の)べています( "When the Pope engages all four conditions necessary for ex cathedra teaching, then, says the Definition, he possesses. .. “...that infallibility which the divine Redeemer willed his Church to enjoy in defining doctrine...” " ).だが,言(い)うまでもないことですが!( "But of course ! " ) 神以外(かみ いがい)のどこから無謬性が生じ(むびゅうせいが しょうじ)うるでしょうか?( "Where else can infallibility come from, ecept from God ? " ) 教皇は人間の中で最良(きょうこうは にんげんの なかで さいりょう)であり,歴代教皇の中(れきだい きょうこうの なか)には極めて善良な人(きわめて ぜんりょうな ひと)たちがいました( "The best of human beings, and some Popes have been very good human beings, …" ).彼らは間違い(まちがい)をしないと言えるかもしれません( "… may be inerrant, i.e. make no mistakes, …" ).しかし,彼らが原罪を持つ限り(げんざいを もつかぎり),神と同じ(かみと おなじ)ように間違い(まちがい)をしないなどということはありえません( "… but as long as they have original sin they cannot be infallible as God alone can be." ).もし,彼らが間違いをしないとすれば,その無謬性(むびゅうせい)は彼らの人間性から生じる(にんげんせい から しょうじる)ものでなく( "If they are infallible, the infallibility must come through, …" ),それ以外(いがい),すなわちカトリック教会を通して無謬性をお与えになる神から生じる(かとりっく きょうかいを とおして むびゅうせいを おあたえに なる かみ から しょうじる)ものであるはずです( "… but from outside, their humanity, from God, who chooses to bestow it through the Catholic Church, …" ).そして,その無謬性は,上に述べた定義の有効期間中(その むびゅうせいは,うえに のべた ていぎの ゆうこう きかん ちゅう)だけのごく一時的な贈り物である必要(いちじ てきな おくりもので ある ひつよう)があります( "… and that infallibility need only be a momentary gift, for the duration of the Definition." ).

     したがって,一教皇(いちきょうこう)が 権威(=命令権)を持っている 瞬間 ( けんい〈=めいれいけん〉をもっている しゅんかん)( "ex cathedra moments" )を除(のぞ)けば,彼(かれ)が第二バチカン公会議の新宗教(だいに ばちかん こうかいぎの しん しゅうきょう)のようなばかげたことを話(はな)すのを止め(やめ・とめ)させるものは何(なに)もありません( "Therefore outside of a Pope's ex cathedra moments, nothing stops him from talking nonsense such as the new religion of Vatican II." ).それ故(ゆえ),リベラル派も教皇空位論者も(りべらるは も きょうこう くうい ろんじゃ も)そのようなばかげたことを気(き)にかける必要(ひつよう)もありませんし,そうすべきでもありません.( "Therefore neither liberals nor sedevacantists need or should heed that nonsense, …" ),なぜなら,ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)が言(い)われたように( "… because, as Archbishop Lefebvre said, …" ),彼らには2千年(にせん ねん)もの間(あいだ)続いた(つづいた)教会の無謬な教え(きょうかいの むびゅうな おしえ)があり,それに基(もと)づいて教皇の話す内容(きょうこうの はなす ないよう)がばかげたことかどうかを判断(はんだん)できるからです( "… they have 2000 years' worth of Ordinarily infallible Church teaching by which to judge that it is nonsense." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教


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(注:本投稿記事〈第374回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月28日23:30に公開されました.)

2014年4月19日土曜日

353 バランスの提案 4/19

エレイソン・コメンツ 第353回 (2014年4月19日)

     「主なる神(しゅなる かみ)があなたに命じた(めいじた)ことを成し続け(なしつづけ)なさい.そうすれば,あなたは右(みぎ)へも左(ひだり)へも道を踏み外す(みちを ふみはずす)ことは ないでしょう.」( " “Keep therefore and do the things which the Lord God hath commanded you: you shall not go aside neither to the right hand nor to the left.” " )主たる神(しゅたる かみ)のこの教訓(きょうくん)はモーゼから古代イスラエル人に伝えられた(もーぜから こだい いすらえるじんに つたえられた)もので( "旧約聖書・第二法の書〈申命〉:第5章32節"〈 "Deut.V, 32" 〉)( "This instruction from the Lord God to be passed on by Moses to the Israelites (Deut.V, 32) …" )(訳注後記1),新約聖書の神の選民(しんやく せいしょの かみの せんみん)( "God's Chosen People of the New Testament " )にとっては確かに通用(たしかに つうよう)しますが( "新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第9章25-26節"〈 "Rom. IX, 25-26" 〉)( " … is certainly valid for God’s Chosen People of the New Testament (Rom. IX, 25-26), …" )(訳注後記2),それを新約聖書の牧者(しんやく せいしょの ぼくしゃ)( "the Shepherd" )が倒(たお)れ,私たち羊が散り散り(わたくしたち ひつじが ちりぢり)になっている現代(げんだい)( "ザカリアの書:第13章7節〈 "Zech. XIII, 7" 〉" )に当(あ)てはめるのは容易(ようい)ではありません( "… but it is not so easy to apply in our own time when the Shepherd of the New Testament is struck, and we sheep are scattered (Zech.XIII, 7) " )(訳注後記3).教皇の倒れ方(きょうこうの たおれかた)はさほどひどくないので,カトリック信徒(しんと)は彼にどう従う(かれに どう したがう)かなど気にする必要(きにする ひつよう)がないのでしょうか?( "Is the Pope so lightly struck that Catholics need not take care how they obey him ? " ) それとも,彼の倒れ方(かれの たおれ かた)はあまりにもひどいので,もう教皇たりえないのでしょうか?( "Or is he so seriously struck that he cannot be Pope ? " ) いずれにしても,羊たちは散り散りで,ロシアが(聖母の)汚れなき御心(けがれなき みこころ)に奉献(ほうけん)されるまで,そのままの状態が続く(じょうたいが つづく)でしょう( "In any case the sheep are scattered and will remain so, until Russia is consecrated to the Immaculate Heart." ).(訳注後記4)

     米国(べいこく) SSPX (聖ピオ十世会)の公式機関誌(こうしき きかんし)( "the Angelus" )の最新号(さいしんごう)に掲載された書簡(けいさい された しょかん)は道を踏み外して(みちを ふみ はずして)左へ寄り(ひだりへ より)すぎています.私にはそのように見えます( "Meanwhile, as it seems to me, a letter published in the latest issue of the Angelus, official magazine of the Society of St Pius X in the USA, goes astray to the left." ). S 神父(しんぷ)( "Fr. S" )はいくつかの理由を挙げ(りゆうを あげ) SSPX は「なるべく早(はや)く教皇の手中(きょうこうの しゅちゅう)に」身を委ねる(みを ゆだねる)べきだと促し(うながし)ています( "Fr. S. has several reasons for urging the SSPX to put itself “in the hands…of the Pope as soon as possible.” " ).(これを私が左に寄りすぎていると見る理由(みる りゆう)は)第1に,ローマ教皇庁の聖職者(ろーま きょうこうちょうの せいしょくしゃ)たちが教会の意図的破壊者(きょうかいの いとてき はかいしゃ)だと考(かんが)えるのは潜在的(せんざいてき)な教皇空位論(きょうこう くうい ろん)です( "Firstly, to think that the Roman churchmen are intentional destroyers of the Church is implicit sedevacantism." ).だが,彼らの主観的意図(しゅかんてき いと)が教会に与えた(きょうかいに あたえた)客観的損害(きゃっかんてき そんがい),および SSPX が彼らの支配下に入った場合(しはいかに はいった ばあい)に受ける損害(うける そんがい)について思い起こす(おもい おこす)のに,私は潜在的,顕在的(せんざいてき,けんざいてき)な教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)のいずれにもなる必要(ひつよう)などありません( "But I need be no sedevacantist, implicit or explicit, to recall that their subjective intentions no way lessen the objective damage that they have done to the Church, and would do to the SSPX, if it came under their control." ).第2に, SSPX がローマ教皇庁の人々(ひとびと)( "the Rommans" )が完全(かんぜん)に教理を変える(きょうりを かえる)まで彼らの手中(しゅちゅう)に身を委ねる(みを ゆだねる)のを待つ(まつ)というのは非現実的(ひ げんじつ てき)です( "Secondly, for the SSPX to wait until the Romans’ full doctrinal conversion to put itself into their hands, is unrealistic." ).だが,信仰を敵に回す(しんこうを てきに まわす)のに異説(いせつ)( "heresy" )は一つだけで十分(ひとつだけで じゅうぶん)です( "But one heresy is enough to make an enemy of the Faith, …" ).そして,モダニズム(もだにずむ)(近現代主義〈きん げんだい しゅぎ〉)は一つの包括駅な異説(ひとつの ほうかつてきな いせつ)( "an all-embracing heresy" )です(教皇ピオ10世の回勅 "Pascendi" (「(主の羊の群れを)牧せよ」) 参照)(訳注後記5)( "… and modernism is an all-embracing heresy ( Pascendi, Pius X )." ). SSPX の指導者(しどうしゃ)たちはローマ教皇庁の人々とあまりにも多く接触(おおく せっしょく)しすぎたため彼らにたぶらかされています( "Too much contact with the Romans has already seduced the SSPX’s leaders." ).

     第3に, SSPX は出来るだけ早期に(できるだけ そうきに)真の信仰の教理と実践(まことの しんこうの きょうりと じっせん)をローマ教皇庁に押し返(おしかえ)さなければなりません( "Thirdly, the SSPX must give back to Rome as soon as possible the doctrine and practice of the true Faith." ).だが,ローマ教皇庁が相変(あい かわ)わらず半分(はんぶん)モダニストのままなら,それを押し戻す(おし もどす)のは豚に真珠(ぶたに しんじゅ)を投げ与える(なげ あたえる)ようなものです( 新約聖書・マテオ聖福音書:第7章6節〈 "Mt. VII, 6" 〉 )( "But if Rome were still only half modernist, such a giving back would be to throw pearls before swine (Mt.VII, 6)." )(訳注後記6).第4に, SSPX はあまりにも長(なが)いあいだ,ローマ教皇庁と距離を置いて(きょりを おいて)きたため,カトリック教の序列,服従,権威の感覚(じょれつ・ふくじゅう・けんいの かんかく)をすべて失(うしな)いかねません( "Fourthly, the SSPX has for so long kept its distance from Rome that it risks losing all Catholic sense of hierarchy, obedience and authority." ).だが,真の信仰は包括的な異説(ほうかつ てきな いせつ)に犯(おか)されないよう安全(あんぜん)なところに置(お)いておかなければなりません( "But the true Faith must be kept at a safe distance from all-embracing heresy." ).もし異説が私自身(わたくし じしん)の犯した過ち(おかした あやまち)でなければ,私が神に忠実な限り(かみに ちゅうじつな かぎり),神は忠実な古代イスラエル人(こだい いすらえる じん)のときと同(おな)じように,私が40年以上(よんじゅう ねん いじょう)ものあいだ砂漠(さばく)にさまよってもカトリック感覚(かとりっく かんかく)( "Catholic senses" )を持ち続(もちつづ)けられるよう面倒(めんどう)をみてくださいます(旧約聖書・脱出の書〈出エジプト〉 - 第二法の書〈申命〉〈 "Exod. - Deut. " 〉)( "If the heresy is not my fault, God can look after my Catholic senses, so long as I am faithful to him, for 40 years or more in the desert, just as he looked after the faithful Israelites (Exod. – Deut.)." )(訳注後記7).そして第5に,いわゆる「抵抗」(ていこう)( "the so-called Resistance" )が公会議派(こうかいぎ は)ローマ教皇庁に対する SSPX の真の抵抗(まことの ていこう)を分断(ぶんだん)し弱(よわ)めます( "And fifthly, the so-called “Resistance” is dividing and weakening the SSPX’s true resistance to Conciliar Rome." ).だが,教理と無縁の了解(きょうりと むえんの りょうかい)に基(もと)づくモダニストたちとの結束(けっそく)は,誤りに基づく結束(あやまりに もとづく けっそく)となり,ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )の SSPX にとっては致命的(ちめいてき)となるでしょう( "But unity around any non-doctrinal understanding with modernists will be unity around error, fatal for Archbishop Lefebvre’s SSPX." ).要約(ようやく)すれば, S 神父はモダニズムの間違い(まちがい)が信仰をいかに惑わし(まどわし),だめにしてしまうか,その怖さ(こわさ)を見失って(みうしなって)います( "In brief, Fr. S. has lost sight of just how seductive and deadly for the Faith is the error of modernism." ).

     他方(たほう),ミサ聖祭の典文(みさ せいさいの てんぶん)( "the Canon of the Mass" )で教皇の御名に触れる(きょうこうの みなに ふれる)ことを拒む(こばむ)司祭(しさい)は道を踏み外し(みちを ふみ はずし)右へ偏る危険(みぎへ かたよる きけん)があります.私にはそう見えます( "On the other hand, as it seems to me, a priest now refusing any longer to mention the Pope’s name in the Canon of the Mass is in danger of going astray to the right." ).もし私がモダニズムは信仰に対し(しんこうに たいし)致命的な危険を持つ(ちめいてきな きけんを もつ)と見るなら( "If I see the deadly danger of modernism to the Faith, …" ),私はむろん歴代の公会議派教皇(れきだいの こうかいぎは きょうこう)たちが教会に膨大な客観的被害(きゃっかんてき ひがい)を与えたと見ます(あたえたと みます)( "… certainly I see the enormous objective damage done to the Church by Conciliar Popes." ).だが,私は彼らの中(なか)にカトリック的な要素(かとりっくてきな ようそ)がまったく残って(のこって)いないと本心(ほんしん)から言える(いえる)でしょうか?( "But can I truthfully say that there is nothing at all still Catholic left in them ? " ) たとえば, S 神父が言うように,教皇たちは善良な主観的意図(ぜんりょうな しゅかんてき いと)を最小限(さいしょうげん)は持ち続けて(もちつづけて)いるのではないでしょうか?( "For example, as Fr. S. would say, do they not still have at least good subjective intentions ? " ) 彼らには教会に仕える(きょうかいに つかえる)つもりはまったくないのでしょうか?( "Have they not all at least meant to serve the Church ? " ) そうだとすれば,私は彼らの中に依然として残っているカトリック的なもの(いぜんとして のこっている かとりっく てきな もの)と一体(いったい)となってミサ聖祭を祝う(みさ せいさいを いわう)ことはできないのでしょうか?( "In which case can I not celebrate Mass in union with whatever is still Catholic in them ? " ) 主流派教会(しゅりゅうは きょうかい)は病で死にかけ(やまいで しにかけ)ているかもしれませんが( "The mainstream Church may be sick unto death, …" ),私としては,そこにカトリック的なことはもう何も起きない(なにも おきない)だろうとは言い切れ(いい きれ)ません( "… but I for one could not maintain that there is nothing Catholic whatsoever still happening within it." ).主流派教会はまだ完全に死んで(かんぜんに しんで)いません( "It is not yet completely dead." ).

     「物事が確かなら,結束を.物事が疑わしいなら,自由を.あらゆる事には,愛を」  (ものごとが たしか なら,けっそくを.ものごとが うたがわしい なら,じゆうを.あらゆる ことに あいを)(訳注後記8)
( " “In things certain, unity. In things doubtful, liberty. In all things, charity.” " )

     キリエ・エレイソン.

     真の司祭(まことの しさい)たちは今日のローマ教皇庁(こんにちの ろーま きょうこうちょう)にベタベタすることも,教皇をミサ聖祭から締め出す(しめだす)こともすべきでない,と私は言います(わたしは いいます) ( "True priests should neither flirt with Rome today, Nor cut the Pope out of their Mass, I say." ) .

     リチャード・ウィリアムソン司教



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第1パラグラフの訳注

訳注1:

"旧約聖書・第二法の書(申命):第5章32節"( "Deut.V, 32" )

THE BOOK OF DEUTERONOMY V, 32 (英語)
LE DEUTÉRONOME V, 32 (仏語)
LIBER DEUTERONOMII V, 32 (ラテン語)

(33 節まで掲載)

『32 神なる主が命令されたように行うことを心がけよ.右にも左にもそれるな
33 主が命令された道を完全に守れ.そうすれば生きながらえ,れから所有する地で幸せな長い生活を送ることができるであろう.』


訳注2:

"新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第9章25-26節"〈 "Rom. IX, 25-26" 〉

EPISTLE OF SAINT PAUL THE APOSTLE TO THE ROMANS IX, 25-26
ÉPÎTRE DE SAINT PAUL IX, 25-26
EPISTOLA BEATI PAULI APOSTOLI AD ROMANOS IX, 25-26

『25 すでにホゼアの書に,「私は自分の民ではない者を私の民と呼び,愛されていない者を愛された者と呼ぶであろう
26 〈あなたたちは私の民ではない〉と言われたその場所で,彼らは生きる神の子と呼ばれるであろう」とある.』


訳注3:

"ザカリアの書:第13章7節"〈 "Zech. XIII, 7" 〉

THE PROPHECY OF ZACHARIAS XIII, 7
ZACHARIE XIII, 7
PROPHETIA ZACHARIÆ XIII, 7

『*剣よ,立って,私の牧者と,
私にくみしているものを攻めよ.
――万軍の主のお告げ――
牧者を殺せ,
そうすれば,羊は散る.
そのとき,私は,小さなものに向かって,手をのばす.』


訳注4:

・1917年5月13日,ポルトガルのファティマの3人の牧童に
聖母( Nossa Senhora de Fátima )がご出現になった際の預言による.


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第2パラグラフの訳注

訳注5:

"Pascendi" について:

"THE ENCYCLICAL OF POPE PIUS X ON THE ERRORS OF THE MODERNISTS."

"近現代主義者たちの誤りについての教皇ピオ10世の回勅"

(きんげんだい しゅぎしゃたちの あやまりに ついての きょうこう ぴお じゅっせいの かいちょく)

(フルタイトル)
"Pascendi  Domini Gregis and Lamentabili - On the Errors of the Modernists, September 8, 1907"

「* 主の羊の群れを養う - 近現代主義者たちの誤り(あやまり)について」

(しゅの ひつじの むれを やしなう - きんげんだい しゅぎしゃたちの あやまりに ついて)

* "Domini Gregis" 「主の羊の群れ」=カトリック教聖職者(司教・司祭)たちのこと.

(以上,原文・大意・意訳)


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第3パラグラフの訳注

訳注6:

"新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第7章6節"〈 "Mt. VII, 6" 〉
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO SAINT MATTHEW VII, 6
LE SAINT ÉVANGILE DE JÉSUS-CHRIST SELON SAINT MATTHIEU VII, 6
EVANGELIUM SECUNDUM MATTHÆUM VII, 6

聖なるものを犬にやってはならぬ.真珠を豚に投げ与えてはならぬ.
そうすれば相手は足で踏みつけ,向き直ってあなたをかみ裂くであろう.』


訳注7:

"旧約聖書・脱出の書(出エジプト) - 第二法の書(申命)"
( "Exod. - Deut." )

THE BOOK OF EXODUS - THE BOOK OF DEUTERONOMY
L’EXODE - LE DEUTÉRONOME
LIBER EXODUS - LIBER DEUTERONOMII


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第5パラグラフの訳注

訳注8:

「物事が確かなら,結束を.物事が疑わしいなら,自由を.あらゆる事には,愛を」
( " “In things certain, unity. In things doubtful, liberty. In all things, charity.” " )
について:

(意訳)
「物事が真実(=確か)であれば結束した状態が保てるが,
疑わしい部分が残っていると,人々は自由奔放〈勝手気まま〉な解釈に走り各々の迷信に従って振る舞い勝ちになる.」)

(ものごとが しんじつ(=たしか)であれば けっそくした じょうたいが たもてるが,
うたがわしい ぶぶんが のこっていると,ひとびとは じゆうほんぽう〈かってきまま〉な かいしゃくに はしり おのおのの めいしんに したがって ふるまいがちに なる.)


神の御言葉の参照:

旧約聖書・主のしもべの第四の歌(イザヤの書:第52章13節 - 第53章12節)

(第53章6節)

私たちはみな,羊のようにさまよい,おのおの,自分の道を歩んでいたが,主はみなの罪を,*彼の上に負わせられた.』
*「彼」=救世主・神の御独り子イエズス・キリストを指す.
(預言者イザヤは「世の罪を除き給う(生贄〈いけにえ〉)たる神の子羊」となられた救世主・神の御独り子イエズス・キリストの受難を預言.)


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訳注の追補を続けます.


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2014年2月25日火曜日

345 致命的な人間化 2/22

エレイソン・コメンツ 第345回 (2014年2月22日)

     使徒聖座(=教皇職)(しと せいざ〈=きょうこう しょく〉)( "the Apostolic See" )が空位だと考える(くういだと かんがえる)一部のカトリック教徒(いちぶの かとりっく きょうと)たちは( "Some Catholics who hold that the Apostolic See is vacant …" ),リベラリズム(=自由主義)(りべらりずむ=じゆう しゅぎ)という遍在的(へんざい てき)な異端(いたん)と教皇空位論(きょうこう くうい ろん)の特定の見解(とくていの けんかい)を同列に置く(どうれつに おく)ように見(み)える最近(さいきん)のエレイソン・コメンツの内容(ないよう)に強く抗議(つよくこうぎ)しています( "… protest strongly against recent issues of these “Comments” which seem to put the universal heresy of liberalism on an equal footing with the particular opinion of sedevacantism." ).これまでの一連(いちれん)のコメンツで私(わたし)はリベラリズムの災い(わざわい)を一貫して非難(いっかん して ひなん)してきましたが( "But whereas these “Comments” constantly excoriate the plague of liberalism, …" ),最近の数回(さいきんのすうかい)では確(たし)かに誰(だれ)しもが教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)になる義務(ぎむ)はないとだけ論(ろん)じました( "… surely they have recently done no more than argue that nobody is obliged to be a sedevacantist, …" ).教皇空位論が時(とき)にはリベラリズムを抑(おさ)える除菌剤の役割(じょきんざいの やくわり)を果(は)たしていることを考(かんが)えると( "…which, considering what a sterilising trap sedevacantism proves in some cases to be, …" ),そうしたエレイソン・コメンツの立場(たちば)は確(たし)かに穏健(おんけん)すぎるように思(おも)えるでしょう( "… is surely a very moderate position to take." ).

     だが,「コメンツ」は教皇空位論(きょうこう くういろん)について,リベラリズムと戦う(たたかう)その努力(どりょく)は称賛に値する(しょうさんに あたい する)が,そのための手段(しゅだん)としては,贔屓目に見ても(ひいきめ に みても)物足りない(ものたりない)と見(み)ています( "However, the “Comments” do hold that sedevacantism, while admirable as an effort to combat liberalism, is at best an inadequate means of doing so, …" ).その理由(りゆう)は,教皇空位論が教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)を誇張(こちょう)するという根本的な間違い(こんぽん てきな まちがい)のひとつをリベラル派(りべらる は)と共有(きょうゆう)しているからです( "… because it shares with liberals one of their basic errors, namely the exaggeration of papal infallibility." ).この間違いを深く探る(ふかく さぐる)と,私たちは今日(こんにち)教会が直面する未曾有の危機(きょうかいが ちょくめんする みぞう の きき)の核心(かくしん)にたどり着きます.ひどく退屈(たいくつ)し気分を悪く(きぶんをわるく)された読者の皆さん(どくしゃの みなさん)にはお詫び(おわび)するしかありませんが,コメンツがこの問題(もんだい)に拘る(こだわ る)のはそのためです( "In its full depth this error takes us to the heart of today’s unprecedented crisis of the Church, which is why the “Comments” will insist on the question, while begging pardon of any readers unduly bored or offended." ).危機(きき)に瀕(ひん)しているのは教会全体(きょうかいぜんたい)であり,教会メンバー個々人(きょうかいめんばーここじん)の感情(かんじょう)ではないのです( "The whole Church is at stake, and not just the sensibilities of these or those of its members." ).

     間違いの核心(まちがいの かくしん)は,人類(じんるい)が過去700年間(かこ ななひゃく ねんかん)にわたり神,神の御独り子(かみの おんひとりご),そしてその教会に対し(きょうかいに たいし)ゆっくりながら着実(ちゃくじつ)に背(そむ)いてきたことです( "That full depth is mankind’s slow but steady turning away over the last 700 years from God, from his Son and from his Church." ).中世の絶頂期(ちゅうせいの ぜっちょうき)には,カトリック教徒(きょうと)たちは汚れのない(けがれの ない)強い信仰を持ち(つよい しんこうを もち),客観的な神(きゃっかんてきな かみ)とその矛盾のない真実(むじゅんのない しんじつ)(=真理〈しんり〉)が唯一無二(ゆいいつむに)であることを理解(りかい)していました( "At the height of the Middle Ages Catholics had a clear and strong faith, grasping the oneness and exclusivity of the objective God and his non-contradictory Truth." ).ダンテはその著書(ちょしょ) 「神曲(しんきょく)」の地獄編(じごくへん)  で教皇(きょうこう)たちに触(ふ)れることになんら問題(もんだい)を感(かん)じませんでした( "Dante had no problem putting Popes in his Inferno." ).たが.数世紀の時(すうせいきの とき)が経つ(たつ)につれ,人間(にんげん)は次第(しだい)に物事の中心(ものごとの ちゅうしん)に自(みずか)らを置(お)くようになり( "But as down the centuries man put himself more and more at the centre of things, …" ),神(かみ)はあらゆる生き物(いきもの)に対(たい)する絶対的な超越(ぜったいてきな ちょうえつ)を失(うしな)い( "… so God lost his absolute transcendence above all creatures, …" ),真実はますます神の権威(かみの けんい)でなく人間の権威(にんげんの けんい)との対比(たいひ)で理解(りかい)されるようになりました( "… and truth became more and more relative, no longer to God’s authority but instead to man’s. " ).

     教会内部(きょうかい ないぶ)について見(み)るなら,たとえばロヨラの聖イグナチオ(ろよらの せい いぐなちお)( "St Ignatius of Loyola" )の有名な著書(ゆうめいな ちょしょ) 「精神修養(せいしん しゅうよう)」  ( "the Spiritual Exercises " )(訳注・= 「霊操(れいそう)」 )の中(なか)にある17(じゅうなな,じゅうしち)の「教会と共に考えるための法則」(きょうかいと ともに かんがえる ための ほうそく)( "Rules for thinking with the Church" )の3番目の法則(さんばんめの ほうそく)をご覧ください( "Within the Church, take for example the 13th of the 17 “Rules for thinking with the Church” from St Ignatius of Loyola’s famous book of the Spiritual Exercises, …" ).これは著されて以来(あらわされて いらい)ずっと,数(かぞ)えきれないほどの歴代教皇(れきだい きょうこう)が称賛(しょうさん)し( "… praised by countless Popes ever since, …" ),しかも間違(まちが)いなく数百万人の霊魂(すうひゃくまんにん の れいこん)を救済(きゅうさい)するのに役立(やくだ)った法則(ほうそく)です( "… and no doubt responsible for helping to save millions of souls." ).イグナチオは 「すべてのことについて正(ただ)しくあるためには,私たちは 聖職階級制教会(せいしょく かいきゅうせい きょうかい)( "the Hierarchical Church" )がそう決(き)めたなら,自分(じぶん)に白(しろ)と見(み)えるものでも黒(くろ)であると常(つね)に考(かんが)えるべきです」 と書(か)いています( "Ignatius writes: “To be right in everything, we ought always to hold that the white which I see, is black, if the Hierarchical Church so decides it.” " ).このような立場(たちば)は短期的(たんき てき)には聖職者(せいしょくしゃ)たちの権威(けんい)を支(ささ)えたかもしれませんが( "Such a position might support the churchmen’s authority in the short run, …" ),長期的(ちょうき てき)にはその権威(けんい)を真実(しんじつ)から引き離す(ひきはなす)ひどいリスク(りすく)を犯(おか)すことにならなかったでしょうか?( "… but did it not run a serious risk of detaching it from truth in the long run ? " )

     事実(じじつ),19世紀末(じゅうきゅうせいき まつ)までにリベラリズムがあまりにも強(つよ)くなってしまったため,教会(きょうかい)は全力(ぜんりょく)で活動(かつどう)するためには1870年(せん はっぴゃく はちじゅう ねん)に教導権の定義(きょうどうけんの ていぎ)を出(だ)し,自らの権威(みずからの けんい)を支(ささ)えざるを得(え)なくなりました( "Indeed by the late 19th century liberalism had become so strong that the Church had to support its own authority by the Definition in 1870 of its Magisterium when operating at full power, …" ).これは,つまり,教会全体を結束させるため(きょうかい ぜんたいを けっそく させるため)教皇(きょうこう)が信仰もしくは倫理の要点(しんこう もしくは りんりの ようてん)を定める(さだめる)ということです( "… namely whenever 1) a Pope 2) defines 3) a point of Faith or morals 4) so as to bind the whole Church." ).(訳注後記) だが,それ以来(いらい)あまりにも人間中心(にんげん ちゅうしん)に考(かんが)えるようになってきたため,多く(おおく)のカトリック信徒(しんと)たちが( "But thinking too humanly since then, too many Catholics, …" )教皇の特別教導権(きょうこうの とくべつ きょうどうけん)を神にまた教会の通常教導権の変遷することのない真実(=真理)(かみ および きょうかいの つうじょう きょうどうけんのへんせんすることのないしんり〈=しんじつ〉)に関連付ける(かんれん づける)代(か)わりに( "… instead of relating this Extraordinary Magisterium to God and to the unchanging truth of the Church’s Ordinary Magisterium, …" ),神御一人から由来(かみ おひとり から ゆらい)し,神のみに属する(ぞくする)無謬性(むびゅうせい)を教皇の人間性(きょうこうの にんげんせい)に与(あた)えるようになりました( "… have tended to lend to the human person of the Pope an infallibility coming from, and belonging to, God alone." ).この人間化プロセス(にんげんか ぷろせす)( “humanising process” )が徐々(じょじょ)に(教皇の)無謬性(むびゅうせい)を生み出し(うみだし),それが「尊厳(そんげん)なる通常教導権(つうじょう きょうどうけん)」の名(な)のもとに教会の伝統(きょうかいの でんとう)を再生(さいせい)できるとする教皇パウロ6世(きょうこう ぱうろ ろくせい)の非常識な主張(ひじょうしきな しゅちょう)へと半ば必然的(なかば ひつぜんてき)につながりました( "This humanising process generated a creeping infallibility which almost inevitably resulted in the preposterous claim of Paul VI to be able to remould the Church’s Tradition in the name of a “Solemn Ordinary Magisterium”." ).カトリック信徒(しんと)たちの過半数(かはんすう)は教皇(きょうこう)がその報いを受ける(むくいを うける)ことなしに済ます(すます)のを認め(みとめ),今日に至る(こんにちに いたる)まで多くの信徒たち(おおくの しんと たち)は歴代公会議派教皇(れきだい こうかいぎは きょうこう)に従(したが)い日々(ひび)リベラル派(りべらる は)になってきています( "The great majority of Catholics allowed him to get away with it, and to this day a mass of them are becoming day by day liberals as they follow the Conciliar Popes, …" ).一方(いっぽう)で,少数派(しょうすう は)のカトリック信徒(しんと)たちは公会議(こうかいぎ)のばかげた言動(げんどう)( “the Conciliar nonsense” )に責任のある者(せきにんの あるもの)が教皇になるなどあり得ない(ありえない)と反発(はんぱつ)せざるをえない状況(じょうきょう)に置(お)かれています( "… while a small minority of Catholics are driven to denying that those responsible for the Conciliar nonsense can be Popes at all." ). (訳注・直訳〈意訳〉は →「(1)ローマ教皇が( "1) a Pope" )(2)定義〈ていぎ〉するところによる( "2) defines" )(3)信仰〈しんこう〉あるいは諸倫理〈しょ りんり〉の要点〈ようてん〉( "3) a point of Faith or morals" )(4)に従う〈したがう〉ことで教会全体が結束〈きょうかい ぜんたいが けっそく〉するようにする( " 4) so as to bind the whole Church.」 〈 "… namely whenever 1) a Pope 2) defines 3) a point of Faith or morals 4) so as to bind the whole Church." 〉)

     簡潔に言えば(かんけつに いえば)( "In brief, …" ),私(わたし)は個人的(こじんてき)に多くの教皇空位論者(おおくの きょうこう くうい ろんじゃ)に尊敬の念(そんけいの ねん)を抱いて(いだいて)います( "…I personally have respect for many sedevacantists, …" ).ただし,それは彼(かれ)らが教会を信じ(きょうかいを しんじ),教会が直面(ちょくめん)する非常に深刻な問題の解決(ひじょうに しんこくな もんだいの かいけつ)に懸命に取り組む(けんめいに とりくむ)という限(かぎ)りにおいてです( "… insofar as they believe in the Church and are desperate for a solution to an infinitely serious problem of the Church.," ).だが,私の考え(わたしの かんがえ)では,彼らはもっと高く深い(たかく ふかい)ところ ― すなわち神御自身(かみ ごじしん)の無限の高さ,深さ(むげんの たかさ,ふかさ)を見る必要(みる ひつよう)があります( "… but in my opinion they need to look higher and deeper – the infinite height and depth of God himself." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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2014年2月12日水曜日

343 教会の無謬性 - I 2/8

エレイソン・コメンツ 第343回 (2014年2月8日)

     おそらく教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)たちにとっての主要問題(しゅよう もんだい)は教会の無謬性(きょうかい の むびゅう せい)でしょう(公会議派の教皇(きょうこう)たちはひどく誤(あやま)っているのに,どうして彼らが教皇たりうるのだろうか?〈と,疑(うたが)いたくなるでしょう?〉)( "Probably sedevacantists’ main problem is the Church’s infallibility (Conciliar Popes are horribly fallible, so how can they be Popes ?)." ).しかしながら,無謬性は単(たん)に教皇空位論(きょうこう くうい ろん)をどうしたら弱(よわ)めうるかというだけの視点(してん)から見る必要(みる ひつよう)はありません( "However, infallibility needs to be looked at for more than just to alleviate sedevacantism." ).真実(しんり)より権威(けんい)を重視(じゅうし)する現代(げんだい)の問題(もんだい)のほうが大問題(だい もんだい)です( "The modern problem of preferring authority to truth is vast." ). (訳注・「教皇空位」の意味…ローマ教皇の地位(ちい)は存在(そんざい)するが,空席(くうせき)である(= "vacant" ),ということ.)

     「無謬性(むびゅう せい)」とは誤り(あやまり)を犯(おか)さない,誤りに陥(おちい)らないという意味(いみ)です( " “Infallibility” means inability to err, or to fall into error. " ).第一バチカン公会議は1870年,教皇は4つの条件(よっつの じょうけん)を満(み)たす場合,過ちを犯しえないと定義(ていぎ)づけしました: ( "The First Vatican Council defined in 1870 that the pope cannot err when four conditions are present: …" )その条件によれば教皇は以下の通りにすべきです( "… he must …" ).すなわち,(1) 教皇(きょうこう)として,(2) 信仰,道徳(しんこう,どうとく)について,(3) 決定的(けっていてき)に信頼(しんらい)がおけるよう,また(4) 教会全体(きょうかい ぜんたい)をまとめる明確な意図(めいかくな いと)をもって話(はな)さなければならない,の4点です( "… (1) be speaking as Pope, (2) on a question of Faith or morals, (3) in a definitive fashion, and (4) with the clear intention of binding the whole Church." ).そうした教皇の教えはいずれも彼の持つ「特別( "Extraordinary" )教導権と称(しょう)するものに所属(しょぞく)するものです( "Any such teaching belongs to what is called his “Extraordinary” Magisterium, …" ).なぜなら,教皇は一方(いっぽう)で自(みずか)ら4条件に従事(じゅうじ)することはめったにありませんし( "…because on the one hand Popes rarely engage all four conditions, …" ),他方(たほう)で彼は誤りえない,間違(まちが)いたりえない多くの真実(おおくの しんじつ)を教(おし)えるからです( "…and on the other hand he teaches many other truths which cannot err or be wrong …" ).間違いたりえないというのは,彼が教(おし)える多くの真実とは常(つね)に教会(きょうかい)によって教えられてきたことであり( "… because they have always been taught by the Church, …" ),したがって,それは第一バチカン公会議がいう教会の「通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)( "Ordinary Universal Magisterius" )に属(ぞく)するもので( "… and therefore they belong to what Vatican I called the Church’s “Ordinary Universal Magisterium”, …" ),無謬(むびゅう)のものだからです( "…also infallible." ).ここで問題(もんだい)となるのは、教皇の特別教導権(とくべつ きょうどうけん)が教会の通常教導権(つうじょう きょうどうけん)とどう関連(かんれん)するか? です( "The question is, how does the Pope’s Extraordinary Magisterium relate to the Church’s Ordinary Magisterium ? " ).

     母なる教会(ははなる きょうかい)( "Mother Church" )は,最後の使徒(さいごの しと)の死去当時(さいごの しとのしきょ とうじ),つまり紀元(きげん)105年には,信仰預託(しんこう よたく)すなわち公式黙示(こうしき もくし)("the Deposit of Faith, or public Revelation")は完全無欠(かんぜん むけつ)だったと教えています( "Mother Church teaches that the Deposit of Faith, or public Revelation, was complete at the death of the last Apostle alive, say, around 105 AD." ).それ以来(いらい),その預託(よたく)すなわち啓示された諸々の真実の集合体(けいじ された もろもろの しんじつ の しゅうごうたい)( "body of revealed truths" )にさらなる真実(しんじつ)は加(くわ)えられてきませんでした.言い換(いいか)えれば,真実の追加(しんじつ の ついか)など不可能(ふかのう)なことでした( "Since then no further truth has been added, or could be added, to that Deposit, or body of revealed truths." ).そうであるなら,「特別(とくべつ)」定義(ていぎ)が預託に加えうる真実(よたく に くわえうる しんじつ)などひとかけらもありません( "Then no “extraordinary” definition can add one iota of truth to that Deposit, …" ).加(くわ)えるものがあるとすれば,預託(よたく)にすでに含(ふく)まれている真実(しんじつ)の一部(いちぶ)に,信徒(しんと)のために,確実性(かくじつ せい)( "certainty" )を与(あた)えることくらいでしょう( "… it only adds, for the sake of believers, certainty to some truth already belonging to the Deposit, …" ).だが,預託に含まれる真実の中身(よたくに ふくまれる しんじつ の なかみ)は前(まえ)もって十分(じゅうぶん)に明確(めいかく)にされていません( "… but whose belonging had not been clear enough beforehand." ).4つの序列(じょれつ)のうち,最初(さいしょ)にくるのは,人心(じんしん)に頼(たよ)らない,客観的事実(=現実)(きゃっかんてき じじつ 〈=げんじつ〉)( "objective REALTY" )です( "In a fourfold order comes firstly, an objective REALITY, independent of any human mind, …" ).たとえば,聖母(せいぼ)は原罪(げんざい)なくして懐胎(かいたい)された( "having been conceived without original sin" )というような歴史的事実(=現実)(れきしてき じじつ〈=げんじつ〉)です( "…such as the historical fact of the Mother of God’s having been conceived without original sin." ).次に来る(つぎに くる)のは,その事実(=現実)に従う(その じじつ〈=げんじつ〉に したがう)心の中の(こころの なかの)真実(しんじつ)( "TRUTH" )です( "Secondly comes TRUTH in any mind conforming itself to that reality." ).ようやく3番目に来るのが,その真実(しんじつ)を定(さだ)めるために教皇が4条件を満たした時(みたした とき)の無謬(むびゅう)の定義づけ(ていぎ づけ)( "infallible DEFINITION" )です( "Only thirdly comes an infallible DEFINITION when a Pope engages all four conditions to define that truth." ).そして,4番目がその真実について信徒(しんと)のために与(あた)えられる確実性(かくじつ せい)( "CERTAINTY" )です( "And fourthly arises from that definition CERTAINTY for believers as to that truth." ).このように,事実(=現実)が真実を生み出す(じじつ〈=げんじつ〉が しんじつを うみだす)のに対(たい)し( "Thus whereas reality generates the truth, …" ),ある特定の一定義づけ(あるとくていの いち ていぎづけ)は単(たん)にその真実(しんじつ)に確実性(かくじつ せい)を与(あた)えるだけにすぎません( "… a Definition merely creates certainty as to that truth." ).

     しかし,事実(=現実)とそこから生まれる真実(じじつ〈=げんじつ〉と そこから うまれる しんじつ)は通常教導権に所属(つうじょうきょうどうけん に  しょぞく)するものです.( "But the reality and its truth already belonged to the Ordinary Magisterium, …" )なぜなら,教皇(きょうこう)が信仰の預託(しんこう の よたく)の枠外(わくがい)にある真実(しんじつ)を誤(あやま)りないと定義(ていぎ)するなど問題(もんだい)にならないからです( "… because there is no question of any Pope defining infallibly a truth outside of the Deposit of Faith." ).したがって,尻尾は犬に(しっぽは いぬに)ついているのであって,犬が尻尾に(いぬが しっぽに)ついているのではないと同(おな)じように特別教導権は通常教導権に対し従(とくべつきょうどうけんは つうじょうきょうどうけんに たいし じゅう)なのです!( "Therefore the Ordinary Magisterium is to the Extraordinary Magisterium as dog is to tail, and not as tail to dog ! " ) 問題は1870年の定義づけ(ていぎづけ)が特別(とくべつ)教導権に権威を持たせた(けんいを もたせた)ため( "The problem is that the Definitiom of 1870 gave such prestige to the Extraordinary Magisterium that the Ordinary Magisterium began to pale in comparison, …" ),結果(けっか)として,通常(つうじょう)教導権の重要性(じゅうようせい)が下がって(さがって)しまい,カトリック信徒たちが神学者(しんがく しゃ)たちも含(ふく)めて,通常教導権の無謬性(つうじょうきょうどうけん の むびゅうせい)は特別教導権の無謬性(とくべつきょうどうけん の むびゅうせい) と同等だと躍起となってでっち上げた(と どうとうだ と やっきとなって でっちあげた)のです( "… even theologians, scratch around to fabricate for it an infallibility like that of the Extraordinary Magisterium." ).だが,これは愚行(ぐこう)です( "But that is foolishness." ).特別教導権(とくべつ きょうどうけん)は通常教導権を前提(ぜんてい)としたものであり( "The Extraordinary presupposes the Ordinary Magisterium, …" ),(2)の通常教導権によってすでに教えられている真実(おしえられている しんじつ)に(4)の確実性を与える(かくじつせいを あたえる)だけのために存在(そんざい)しているにすぎません( "… existing only to give certainty (4) to a truth (2) already taught by the Ordinary Magisterium." ).

     この点(てん)を雪に覆われた山(ゆきに おおわれた やま)を例(れい)にして説明(せつめい)しましょう( "Let the point be illustrated from a snow-capped mountain." ).山は雪がなくても山(やまは ゆきがなくても やま)であり,せいぜい雪があればない時(とき)より目立(めだ)つといった程度(ていど)です( "The mountain in no way depends on the snow, except for it to be made even more visible than it already is." ).これに対(たい)し,雪(ゆき)は山の上(やまの うえ)にとどまるには山に全面的に依存(ぜんめんてきに いぞん)しなければなりません( "On the contrary the snow depends completely on the mountain to be where it, the snow, is." ).これと同じように,特別教導権(とくべつ きょうどうけん)は通常教導権(つうじょう きょうどうけん)をよりはっきりさせ,確実に見える(かくじつに みえる)ようにすること以上(いじょう)のことをしません( "Similarly the Extraordinary Magisterium does no more for the Ordinary Magisterium than to make it more clearly or certainly visible." ).冬が近(ふゆが ちか)づくにつれ山の雪線(やまの せっせん)は下へ降りて(したへ おりて)きます( "As winter closes in, so the snowline descends." ).現代(げんだい)のように愛( "charity" )が冷める(あいが さめる)につれ( "As charity grows cold in modern times, …" ),特別教導権の定義(とくべつきょうどうけん の ていぎ)を膨(ふく)らませることが必要(ひつよう)になるかもしれません( "… so more definitions of the Extraordinary Magisterium may become necessary, …" ).だが,そのようなことをしても,教会の教導権(きょうかいの きょうどうけん)を完全(かんぜん)なものにすることにはならないでしょう( "… but that does not make them the perfection of the Church’s Magisterium." ).むしろ逆に,定義を増やす(ていぎを ふやす)ことは信徒(しんと)の信仰についての諸々の真実(しんこうに ついての もろもろの しんじつ)に対(たい)する理解の弱さ(りかいの よわさ)を示(しめ)すだけでしょう( "On the contrary, they signal a weakness of believers’ grasp of the truths of their Faith." ).人は健康(けんこう)なほど必要(ひつよう)とする薬(くすり)は少(すく)なくて済(す)みます( "The healthier a man is, the fewer pills he needs." ).来週(らいしゅう)のエレイソン・コメンツでは,今週(こんしゅう)述(の)べたことが教皇空位論(きょうこう くうい ろん)と聖ピオ十世会( "SSPX" )の現在の危機(げんざいの きき)にどう当(あ)てはまるかを考(かんが)えてみます( "Next week, the application both to sedevacantism and to the present crisis of the SSPX." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教


     要約 ―

     教会の無謬(むびゅう)な通常教導権(つうじょう きょうどうけん)は,尻尾は犬に(しっぽは いぬに)ついているのであり,犬が尻尾に(いぬが しっぽに)ついているのではないように,教皇の特別教導権(とくべつ きょうどうけん)に先立(さきだ)つものである.

     ( "Summary –

     The Church’s infallible Ordinary Magisterium is to the Pope’s infallible Extraordinary Magisterium as dog is to tail, and not as tail is to dog." )





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2014年2月3日月曜日

342 教皇空位論の不安 II 2/1

エレイソン・コメンツ 第342回 (2014年2月1日)

     1 信徒(しんと)が6名の公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)をどう見(み)るかについては二通り(ふたとおり)あるでしょう.ひとつは6名全員(ろくめい ぜんいん)を教皇と認める(きょうこうと みとめる)ことです,(リベラル派(は)の信徒たちのように〉- これは神が許(ゆる)しません!).もうひとつは,6名全員を(教皇と認めず〈きょうこうと みとめず〉)拒否する(きょひする)ことです(教皇空位論者〈きょうこうくうい ろんじゃ〉の信徒たちのように) ( " 1 Either one recognizes the Conciliar Popes all the way (like the liberals – God forbid !), or one refuses them all the way (like the sedevacantists). " ).6名のうち一部を認め,一部を認めないのは,かつてルーター( "Luther" )がそうしたように,またあらゆる異教徒(いきょうと)たち( "heretics" )がそうするように (〈異教徒という言葉は〉ギリシア語で「選択者」(せんたくしゃ)( “choosers” )を意味〈いみ〉します),各自(かくじ)が自分(じぶん)の認める教皇を選び出す(えらび だす)ということです ( "To recognize them partly, and partly not, is to pick and choose what one will recognize, as did Luther, as do all heretics (in Greek, “choosers”). " ).      このやりかたは信徒各自(しんと かくじ)が自分の選(えら)んだ教皇を認(みと)めるというなら正確(せいかく)でしょうが,もしルフェーブル大司教がされたように過去(かこ)2千年間(にせん ねんかん)の教会の諸文書(きょうかいの しょぶんしょ)に基(もと)づくカトリック教の伝統(でんとう)を判断基準(はんだん きじゅん)として選(えら)ぶなら当(あ)てはまらなくなります( "That is true if one picks and chooses according to one’s own personal choice, but it is not true if, like Archbishop Lefebvre, one judges in accordance with Catholic Tradition, which can be found in 2000 years’ worth of Church documents." ).後者の場合(こうしゃの ばあい),260名の歴代教皇(れきだい きょうこう)の中(なか)から6名だけについて,その基準(きじゅん)に従い判断(はんだん)するわけですが,それだと6名の教皇の無効性(むこう せい)を証明(しょうめい)することにならないでしょう( "In that case one is judging with 260 Popes against a mere six, but that does not prove the invalidity of these six." ).

     2 だが,公会議派教皇たちはカトリック信仰(しんこう)を毒(どく)し,何百万人(なんびゃく まんにん)もの信徒たちの永遠の救済(えいえんの きゅうさい)を危(あや)うくしてきました ( " 2 But the Conciliar Popes have poisoned the Faith and endangered the eternal salvation of millions upon millions of Catholics. " ).これは教会の無謬性(きょうかいの むびゅうせい)に反(はん)することです( " That is contrary to the Church’s indefectibility. " ).      4世紀(よん せいき)のアリウス主義(しゅぎ)をめぐる危機(きき)にあって,教皇リベリウス( "Pope Liberius" )は聖アタナシウス( "St Athanasius" )を糾弾(きゅうだん)し東方(とうほう)のアリウス主義司祭(しさい)たちを支援(しえん)することでカトリック信仰(しんこう)を危険(きけん)にさらしました( "In the Arian crisis of the 4th century, Pope Liberius endangered the Faith by condemning St Athanasius and by backing Arian bishops in the East. " ).当時(とうじ)しばらくの間(あいだ),教会の無謬性(むびゅうせい)を体験(たいけん)したのは教皇リベリウスでなく,彼にとって敵対者(てきたい しゃ)と見えたアタナシウスでした( "For a few moments the Church’s indefectibility went not through the Pope but through his seeming adversary. " ).だが,このことは時の教皇がリベリウスでなくアタナシウスだったことを意味(いみ)しませんでした( "However that meant neither that Liberius was not Pope nor that Athanasius was Pope. " ).同じように,今日の教会の無謬性(きょうかいの むびゅうせい)を体験しているのはルフェーブル大司教の路線(ろせん)に従(したが)う忠実な信徒(ちゅうじつな しんと)たちですが( "Similarly the indefectibility of the Church today goes through the faithful followers of the line taken by Archbishop Lefebvre, …" ),だからといってパウロ6世が教皇でなかったことを意味するとは限(かぎ)りません( "… but that need not mean that Paul VI was not Pope. " ).

     3 世界中の司祭(せかいじゅうの しさい)たちが教皇と一体(いったい)となって説(と)くのは教会の通常普遍教導権(つうじょう〈Ordinary〉 ふへん〈Universal〉 きょうどうけん〈Magisterium))( “the Church’s Ordinary Universal Magisterium” )に基(もと)づくもので,これは無謬(むびゅう)のものです ( " 3 What the bishops of the world teach, in union with the Pope, is the Church’s Ordinary Universal Magisterium, which is infallible." ).ところが,過去50年間(かこ ごじゅうねん かん),世界中の司祭たちは公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちと一体となって公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)のナンセンスを説(と)いてきました( "Now for the last 50 years the world’s bishops in union with the Conciliar Popes have taught Conciliar nonsense." ).したがって,これら公会議派教皇たちは真(しん)の教皇たちであるはずがありません( "Therefore these Popes cannot have been true Popes." ).      もし,教会の通常教導権(きょうかいの つうじょう きょうどう けん)が伝統(でんとう)から外(はず)れるなら,それは「通常」でなく極(きわ)めて異常(いじょう)なものです( "If the Church’s Ordinary Magisterium were to go outside Tradition, it would no longer be “Ordinary”, but most extraordinary, …" ).なぜなら,教会の教理は目新(まあたら)しいものを一切(いっさい)認(みと)めていませんし,普遍(ふへん)( “Universal” )は時空に及ぶ(じくうに およぶ)( "in time as well as space" )ものだからです( "… because Church doctrine admits of no novelties, the “Universal” being in time as well as space." ).ところで,公会議派の教理(こうかいぎは の きょうり)は伝統(でんとう)から大(おお)きく外(はず)れています(たとえば,宗教の自由〈しゅうきょうの じゆう〉,世界教会主義〈せかい きょうかい しゅぎ〉〈“religious liberty and ecumenism”〉などです)( "Now Conciliar doctrine goes way outside Tradition (e.g. religious liberty and ecumenism). " ).したがって,公会議固有の教理(こうかいぎ こゆうの きょうり)は通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)に入(はい)るものではありませんし( "Therefore doctrine proper to the Council does not come under the Ordinary Universal Magisterium, …" ),公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちは教皇でないと証明(しょうめい)するのに役立(やくだ)つものでもありません( "…and it cannot serve to prove that the Conciliar Popes were not Popes." ).

     4 モダニズム(近現代主義)(きんげんだい しゅぎ)は「あらゆる異端信仰の統合体(いたんしんこうの そうごうたい)(“the synthesis of all heresies”)」(ピオ10世)です.だが,公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちは全員(ぜんいん)「公然かつ明瞭に(こうぜん かつ めいりょうに)」モダニスト(近現代主義者)です.言い換(いいか)えれば、彼らは聖ロベルト・ベラルミーノ( “St Robert Bellarmine” )が断言(だんげん)したように教会のメンバーたり得(え)ない部類(ぶるい)の異教徒(いきょうと)であり,まして教会の長(ちょう)などではありません( " 4 Modernism is “the synthesis of all heresies”(Pius X). But the Conciliar Popes have all been “public and manifest” modernists, i.e. heretics of such a kind as St Robert Bellarmine declared cannot be members of the Church, let alone its head." ).      先週(せんしゅう)のエレイソン・コメンツをお読みください( " See last week’s “Comments” " ).人々の心(こころ)(訳注・心= "minds and hearts".思考・精神状態・感情〈しこう・せいしんじょうたい・かんじょう〉など)が混乱(こんらん)している今日(こんにち)に比(くら)べるとベラルミーノの時代(じだい)には万事(ばんじ)がはるかにすっきりしていて,「公然かつ明瞭(こうぜん かつ めいりょう)」でした( "Things were much more clear, or “public and manifest”, in Bellarmine’s day, than they are amidst today’s confusion of minds and hearts." ).公会議派教皇たちが言う客観的異端(きゃっかんてき いたん)( “the objective heresy” )は公然かつ明瞭ですが,彼らの主観的(しゅかんてき)もしくは公的異端(こうてき いたん)( "formal heresy" )(すなわち不変〈ふへん〉の〈=変わることがない=変えられない〉カトリック教義(きょうぎ)( "unchangeable Catholic dogma" )を否定〈ひてい〉する彼らの意識的〈いしき てき〉かつ断固〈だんこ〉とした意図〈いと〉)はそうではありません( "The objective heresy of the Concilar Popes (i.e. what they say) is public and manifest, but not their subjective or formal heresy (i.e. their conscious and resolute intention to deny what they know to be unchangeable Catholic dogma)." ).彼らの公的異端を証明(しょうめい)するには教会の教理権威者(きょうり けんいしゃ) ( "doctrinal authority" ), すなわち異端審問(いたん しんもん) ( "the Inquisition" ) もしくは聖務聖省(せいむ せいしょう) ( "the Holy Office" ) と対決(たいけつ)するしか方法(ほうほう)がありません.それを何と呼んでも(なんと よんでも)いいでしょう(シェークスピアは「薔薇〈ばら〉はどんな名前〈なまえ〉で呼〈よ〉んでも甘い香り〈あまい かおり〉がする」と言っています.)( "And to prove their formal heresy could only be done by a confrontation with the Church’s doctrinal authority, e.g. the Inquisition or the Holy Office, call it what one will (“A rose by any name would smell as sweet”, says Shakespeare). " )だが,教皇自身(きょうこう じしん)教会の最高の教理権威者(きょうかいの さいこうの きょうり けんいしゃ)であり( "But the Pope is himself the Church’s highest doctrinal authority, …" ),今日の教理省(きょうり しょう)の最上位に立つ(さいじょういに たつもの)ものです( "… above and behind today’s Congregation for the Doctrine of the Faith." ).だとすれば,彼を教会の長(ちょう)たりえない異教徒だといかにして証明できるでしょうか?( "How then can he be proved to be that kind of heretic that is incapable of being head of the Church ? " )

     5 だが,そのような場合,教会は望みのない混乱におかれます! ( "5 But in that case the Church is in a hopeless mess ! " )      もう一度,先週のエレイソン・コメンツをお読みください( "Again, see last week’s “Comments”." ).人々の心(こころ)(訳注・心= "minds".思考・精神状態・理性・想像力・意志力〈しこう・せいしんじょうたい・りせい・そうぞうりょく・いしりょく〉など)はいたるところでめちゃくちゃになっているため,その混乱(こんらん)を正(ただ)すのは神にしかできません( "Men’s minds are today so universally messed up that God alone can straighten out the mess." ).ここに述べた反論(はんろん)は,混乱を起(お)こした教皇たちが教皇でないこと証明するより,むしろ神が介入(かいにゅう)しなければならない(それも早く〈はやく〉!)ことを立証(りっしょう)するかもしれません( "But this objection may prove rather that he must intervene (and soon !) than that the messed up Popes are not Popes." ).辛抱(しんぼう)(=忍耐〈にんたい〉)しましょう( "Patience." ).神は(時空〈じくう〉の)すべて(の物事〈ものごと〉)に及(およ)ぶ自(みずか)らの権限(けんげん)により私たちに試練(しれん)をお与(あた)えになっているのです( "God is putting us to the trial, as he has every right to do." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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2014年1月31日金曜日

341 教皇空位論の不安 I 1/25

エレイソン・コメンツ 第341回 (2014年1月25日)

     教皇フランシスコが昨年3月選出(せんしゅつ)いらい示(しめ)してきた言動(げんどう)はあまりにも非(ひ)カトリック的で常軌(じょうき)を逸(いっ)しているため( "The words and deeds of Pope Francis since his election earlier last year have been so little Catholic and so outrageous, …" ),最近の教皇は実は教皇ではないのではないか(「教皇空位論」 "sedevacantism" )(きょうこう くうい ろん)といった考え方があらためて息を吹き返(いきを ふきかえ)しています( "… that the idea that recent popes have not really been Popes( “sedevacantism” )has been given a new lease of life." ).同教皇が5人の前任者(ぜんにんしゃ)以上に第二バチカン公会議の狂気(きょうき)をあからさまに語(かた)っている点(てん)だけでも注目してください( "Notice that Pope Francis merely expresses more blatantly than his five predecessors the madness of Vatican II." ).6名の公会議派教皇たち(教皇ヨハネ・パウロ1世は例外と見ていいかもしれません)の中で本当にキリストの代理者(だいりしゃ)( "Vicars of Christ" )だったものがはたしていただろうかという疑問(ぎもん)が残(のこ)ります( "The question remains whether any of the six Conciliar Popes (with the possible exception of John-Paul I) can really have been Vicars of Christ." ).

     この疑問はさほど重要(じゅうよう)ではありません( "The question is not of prime importance." ).6名のうち誰も教皇でなかったとしても,私が「恐(おそ)れおののいて自助努力(じじょ どりょく)しなければならない(=自分の救いをまっとうせねばならない)」(新約聖書・使徒聖パウロのフィリッピ人への手紙:2章12節)(訳注後記1)規範(きはん)となるカトリック教の信仰と倫理(しんこうと りんり)はみじんも変(か)わっていません( "If they have not been Popes, still the Catholic Faith and morals by which I must “work out my salvation in fear and trembling” (Phil. II, 12) have not changed one iota." ).逆(ぎゃく)に,6名がすべて教皇だったとしても,彼らがその信仰と倫理から外(はず)れたら私は彼らに従(したが)うわけにはいきません( "And if they have been Popes, still I cannot obey them whenever they have departed from that Faith and those morals, …" ).なぜなら,「私たちは人間(にんげん)でなく神に従うべき」(新約聖書・使徒行録:5章29節)(訳注後記2)だからです( "… because “we ought to obey God rather than men” (Acts, V, 29)." ) .しかし,私は教皇空位論者(きょうこう くうい ろんしゃ)たちの主張(しゅちょう)の一部(いちぶ)に私なりの答えを出してもいいのではないかと考えています( "However I believe in offering answers to some of the sedevacantists’ arguments, …" ).その理由は,教皇空位論者たちの中に,ローマ(教皇庁)の司教(=教皇)聖座 ( "See of Rome" ) における教皇空位をカトリック教徒が信じるべき教義(きょうぎ)( "a dogma" )にしたいと願っているように見える者たちがいるからです( "… because there are sedevacantists who seem to wish to make the vacant See of Rome into a dogma which Catholics must believe." ).私の見解(けんかい)では,教皇空位はそのようなものではありません( "In my opinion it is no such thing." ). 「勝手気まま(かってきまま)がはびこるのは物事(ものごと)が疑(うたが)わしいとき」( "In things doubtful, liberty" )とアウグスティヌス(Augustine)は述(の)べています( " “In things doubtful, liberty” (Augustine)." ).

     教皇空位論のどの部分をとらえて単なる一表現(たんなる いちひょうげん)( "merely one expression" )とみなすか,問題(もんだい)のカギを握(にぎ)るのは,第二バチカン公会議がイエズス・キリストの教会の歴史(きょうかいの れきし)の中で前例(ぜんれい)のない惨事(さんじ)だったこと( "I think that the key to the problem of which sedevacantism is merely one expression is that Vatican II was a disaster without precedent in all the history of the Church of Jesus Christ, …" ),同時(どうじ)にそれは中世末期(ちゅうせい まっき)にさかのぼるカトリック聖職者たちの長期にわたる堕落(だらく)の理論的帰結(りろんてき きけつ)だったことの2点です( "… while at the same time it was the logical conclusion of a long decadence of the Catholic churchmen reaching back to the late Middle Ages." ).一方(いっぽう)で,カトリック教会の神聖(しんせい)な性格と公会議危機(こうかいぎ きき)を含(ふく)む教会の諸々の危機を抑制(よくせい)する諸原則(しょ げんそく)は変(か)えようがありません( "On the one hand the divine nature of the Catholic Church and the principles governing any of its crises, including the Conciliar crisis, cannot change." ).他方(たほう),そうした諸原則の適用(てきよう)に当(あ)たっては,それが運用(うんよう)される人的環境(じんてき かんきょう)に絶えず変化が起きる(たえず へんかが おきる)ことを考慮(こうりょ)に入(い)れなければなりません( "On the other hand the application of those principles must take into account the ever changing human circumstances within which those principles operate." ).今日(こんにち)の人間の腐敗(にんげんの ふはい)は前例のないほどです( "The degree of human corruption today has no precedent." ).

     さて,諸原則のなかに不変(ふへん)のものが二(ふた)つあります( "Now two of the unchanging principles are that …" ).一方で,私たちの主イエズス・キリストが地獄の門(じごくの もん)は教会に打ち勝つ(うちかつ)ことはない(新約聖書・マテオ聖福音書:16章18節)(訳注後記3)と約束(やくそく)されているので,教会は無謬(むびゅう)( "indefectible" )です( "… on the one hand the Church is indefectible because Our Lord promised that the gates of Hell would not prevail against it (Mt.XVI, 18)." ).他方,私たちの主イエズス・キリストは自(みずか)らの再臨(さいりん)(訳注後記4)にあたってこの世に信仰を見出(みいだ)せるだろうかともお尋(たず)ねになられました(新約聖書・ルカ聖福音書18章8節)(訳注後記5)( "On the other hand Our Lord also asked if he would find faith on earth at his Second Coming (Lk. XVIII, 8), …" ).これは重要な引用(じゅうような いんよう)です( "… an important quotation …" ).なぜなら,教会が2014年にほぼ完全(かんぜん)に背信(はいしん)しつつあると見えるように,世の終わり(=世界の終末〈しゅうまつ〉)(訳注後記6)にはほぼ完ぺきに背信するであろうことをはっきり示唆(しさ)しているからです( "… because it clearly suggests that the Church will almost completely have defected at the end of the world, just as it seems to be almost completely defecting in 2014." ).というのも,私たちはいまの時点で世の終わりの時を生きていないとしても( "For indeed if we are not today living through the end of the world, …" ),私たちは確かに世の終末時のドレスリハーサル( "the dress rehearsal" )(訳注・実際や本番と同じドレス〈衣装〉をつけて行う予行演習〈よこう えんしゅう〉)の最中(さなか)に生きています( "… we are surely living through the dress rehearsal for that end of the world, …" ).ラ ・ サレットの聖母( "Our Lady of Salette" ),尊者(そんじゃ)ホルツハウザー( "the Venerable Holzhauser" ),それにビィユー枢機卿(すうききょう)( "Cardinal Billot" )がことごとく示唆(しさ)しているように( "… as Our Lady of Salette, the Venerable Holzhauser and Cardinal Billot all suggest." ).

     したがって,世の終わりと同じように,今日,教会の背信(きょうかいの はいしん)はさらに遠くへ進み得(すすみ え)ます( "Therefore today, as at world’s end, the defection can go very far." ).教会は完全に消滅(かんぜんに しょうめつ)するとか役立(やくだ)たなくなることはないと保証(ほしょう)する全能の神の力(ぜんのうの かみの ちから)を超(こ)えるほど背信が進むことはないでしょうが( "It cannot reach beyond the power of Almighty God to guarantee that his Church will never altogether disappear or fail, …" ),神がお許(ゆる)しになるところまで進み得ます( "… but it can reach as far as God will allow, …" ).言い換(いいか)えれば,神の教会がほぼ完全に背信するのを止(と)めるのに必要(ひつよう)なものはなにもありません( "… in other words nothing need stop his Church from defecting almost completely." ).では,「ほぼ完全に」とはどこまでなのでしょうか? ( "And just how far is that “almost completely”? " ) それは神のみが知(し)るです( "God alone knows, …" ).時(とき)だけがその問(と)いに答(こた)えられるでしょう( "… and so time alone can tell, …" ).なぜなら,私たちは誰(だれ)も神の御心(かみの みこころ)のなかにいるわけではなく,諸々の事実(もろもろの じじつ)だけが事が起きた後(ことが おきた あと)に神の御心の中身(なかみ)がなんであるかを私たちに明(あ)かすことができるからです( "… because none of us men are in the mind of God, and only the facts can reveal to us after the event the contents of the divine mind." ).ただし,神は確かに聖書の中に御心の一部(みこころの いちぶ)を明(あき)らかにされています( "But God does partly reveal his mind in Scripture." ).

     世の終わりについていえば,新約聖書・聖ヨハネの黙示録:13章11-17節(訳注後記7)を解釈(かいしゃく)する人々の多数(たすう)は,キリストの敵(てき)に仕(つか)える羊(ひつじ)に似(に)た第2の野獣(やじゅう)( "the lamb-like Second Beast" )が教会当局者(とうきょくしゃ)であると考(かんがえ)えます( "Now as to the end of the world, many interpreters of Chapter XIII, 11-17 of the Apocalypse think that the lamb-like Second Beast serving the Antichrist is the authorities of the Church, …" ).なぜなら,そのような当局者がキリストの敵と争(あらそ)うとすれば,聖書には敵が勝(か)つとありますが,敵は決(けっ)して勝てないからです( "… because if those authorities resisted the Antichrist he could never prevail, as Scripture says he will." ).では,世の終わりのドレスリハーサルでキリストの代理者たちがキリストの敵のように話(はな)し行動(こうどう)するとしたら,それはきわめて異常(いじょう)なことでしょうか?( "Then is it so extraordinary if in the dress rehearsal for the end of the world the Vicars of Christ talk and behave like enemies of Christ ? " ) このことを必要な背景(はいけい)として,私は来週(らいしゅう)のエレイソン・コメンツで教皇空位論者たちの主要な主張の何点かに答えを提案(ていあん)するつもりです( "Against this necessary background, next week’s “Comments” will propose answers to some of the sedevacantists’ main arguments." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教


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訳注を追加掲載いたします.
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2011年5月11日水曜日

真の教皇か? - その2

エレイソン・コメンツ 第199回 (2011年5月7日)

公会議主義の教皇たちの側に主観的な誠意もしくは善意があれば,彼らが客観的に見てゾッとするような異端の言動をしても教皇の資格を失うことは免(まぬか)れるとした見解を一週間前にエレイソン・コメンツ第198回でご紹介しました (教皇ヨハネ・パウロ2世の世界救済についての教えについてはドルマン教授の “Prof. Doermann for John-Paul II’s teaching of Universal Salvation” ,教皇ベネディクト16世の十字架の空洞化についてはティシエ司教の “Bishop Tissier for Benedict XVI’s emptying out of the Cross” 言葉をそれぞれご参照ください). この見解については必ずしも全ての方が同意なさるわけではないでしょう.反対意見をお持ちの方は教皇たちの異端的言動を身の毛のよだつものと断じ, (#1) とうていキリストの真の代理者(教皇)によって発せられることなどあり得ない,また (#2) 主観的な良い信仰がどれほどあろうと客観的に見た毒性を中和できるものではない,あるいは (#3) 古い神学理論で訓練された公会議主義の教皇たちが主観的な良い信仰を持っているなどというのは論外だ,と反論するでしょう.その反論をひとつずつ冷静に受け止めてみましょう :--

まず第一に,主なる神がどの程度までその代理者たちによる(客観的な)裏切りをお許しになるでしょうか? それはただ神のみがご存知のことです.だが私たちは聖書の記述から (ルカ18,4) キリストが再臨されるとき地上にはもはやカトリック信仰 “the Faith” がほとんど残っていないだろうということを知っています.ただ,2011年の現時点でカトリック信仰はすでにそこまで落ち込んでしまっているでしょうか? そう思わない人もいるかもしれません.だとすれば,神は公会議主義の代理者 (教皇) たち “Conciliar Vicars” がさらにひどいことをしても,代理者の資格を停止することなしにお許しになるかもしれません.聖書はカヤファ “Caiphas” が神に対する罪の中の最たる罪,すなわちキリストに対する司法殺人を策謀していたその瞬間でさえも大司祭であったと断言していないでしょうか (ヨハネ11,55) (訳注後記)?

第二に,世界教会にとって善意の異端者による客観的な異端の方が彼らの主観的な善意よりはるかに重要であることは事実ですし,また多くの客観的な異端者が自分の潔白を主観的に確信していることも事実です.この二つの理由から,母教会が正常であるときには,カトリック教会はそうした実質的な異端者に対しその異端を諦(あきら)めるか本気で異端を続けるかのいずれかの選択を強要するメカニズムを持ちます.そのメカニズムとはカトリック教会の異端審問官 “her Inquisitors” です.彼らはカトリック教理の純正 "the purity of doctrine" を守るため異端を定義したり糾弾(きゅうだん)したりする権限を神から授けられています.だがもし客観的な異端を口にしているのがカトリック教会の最高権威だとするとどうなるでしょうか? 教皇より強い権威をもって教皇の過(あやま)ちを正す者が誰かいるでしょうか? 誰もいません! では神は御自身のカトリック教会をお見捨てになったのでしょうか? そうではありません.ただ神は,熱意に欠けるミサ聖祭で済ませている今日のカトリック信徒たちを当然の報いとして厳しい試練に会わせておられるのです - そして,悲しいかな,カトリック伝統派の信徒たちもこの中に入るのではないでしょうか?

第三に,前教皇ヨハネ・パウロ2世と現教皇ベネディクト16世がともに哲学と神学について公会議以前の訓練を受けたのは事実です.だが彼らが訓練を受けるまでに,すでに一世紀以上にわたりカント派哲学の主観主義とヘーゲル派哲学の進化論の虫が,不変の(=変更不可能な)カトリック教義 “unchangeable Catholic dogma” がよって立つ客観的かつ不変の(=常に変わらない)真理 “unchanging truth” の核心部分を蝕(むしば)んでしまっていたのです.二人の教皇のいずれにも - たとえば人気取りに走ったとか,知的プライドにこだわったとかで - 道義的な落ち度があり,そのために実質的な異端に陥(おちい)ったと論じ得るかもしれません.だが,道義的な落ち度があるということで,二人を実質的な異端者から公式の異端者へと変えるのを目的に権威ある正式の教理上の糾弾 “authoritative doctrinal condemnation” に結び付けることはできないでしょう.

したがって,公式の異端者のみがカトリック教会から排除されること,そして公式の異端者だと立証する唯一かつ確実な方法が二人の教皇の場合には見当たらない以上,公会議主義の教皇問題についての意見は一定の幅を持たせたままにしておくべきです.「教皇空位主義者」 “Sedevacantist” という言葉は「カトリック伝統派」が言うほどの禁句には当たりませんが,一方で教皇空位主義者たちの主張は彼らが願ったり見せかけたりしているほど結論がはっきり出ているわけではありません.結論としては,教皇空位主義者たちは依然としてカトリックでしょうし,カトリック信徒がすべて教皇空位主義者になるよう強制されているわけでもありません.少なくとも私個人としては,公会議主義の教皇はみな有効な教皇だと信じています.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第2パラグラフの訳注:

①(新約聖書・ルカによる聖福音書:第18章4節)(太字部分)(18章1-8節を記載)

『またイエズスはうまずたゆまず祈れと教えて,たとえを話された,
「*¹ある町に神を恐れず人を人とも思わぬ裁判官があった.またその町に一人のやもめがいて,その裁判官に〈私の敵手(あいて)に対して正邪(せいじゃ)をつけてください〉と頼みに来た.
彼は久しい間その願いを聞き入れなかったが,とうとうこう考えた,〈私は神も恐れず人を人とも思わぬが,あのやもめはわずらわしいからさばいてやろう.そうすればもうわずらわしに来ることはあるまい〉」.
主は,「不正な裁判官の言ったことを聞いたか.*²神が夜昼ご自分に向かって叫ぶ選ばれた人々のために,正邪をさばかれぬことがあろうか,その日を遅れさすであろうか.私は言う.神はすみやかに正邪をさばかれる.
とはいえ,人の子の来る時(=キリストの再臨・再来の時),地上に信仰を見い出すだろうか…」と言われた.』

(注釈)

不正な裁判官 (18・1-8)
2-8節 このたとえは,特に世の終りの苦しみにあたって不断に祈れと教える

神は選ばれた人々を忘れておられるようにみえても,けっしてそうではない.ただ待たれる.彼らの正義はやがて証明されるだろう

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①の続きの部分(ルカによる聖福音書・第18章9節-19章27節まで)

第18章9節から

ファリサイ人と税吏
*³自分を義人と信じ,他の人をさげすむ者については,こんなたとえを話された,
「二人の男が祈ろうと神殿に上った.一人はファリザイ人で一人は税吏(ぜいり)だった.
*⁴ファリザイ人のほうは立って心の中でこう祈った,〈神よ,私は他(た)の人のように,食欲な人,不正な人,姦通する者でなく,またこの税吏のような人間でもないことを,あなたに感謝いたします.私は*⁵週に二度断食し,全所得の十分の一をささげています〉と.
税吏は離れて立ち,目を天に向けることさえせず,胸を打ちながら,〈ああ,神よ,罪人の私をおあわれみください〉と祈った.
私は言う.この人は義とされて家に帰ったが,先の人はそうではなかった.高ぶる人は下げられ,へりくだる人は上げられる」.

子どもたち
また,イエズスに触れていただこうとして,人々が子どもを連れてきたので,それを見て弟子たちは彼らをとがめた.
だがイエズスは子どもたちを呼び寄せ,「子どもたちを私のところに来させよ.とめてはならぬ.神の国を受け入れるのはこのような者たちである.まことに私は言う.*⁶子どものように神の国を受け入れぬとそこには入れぬ」と言われた.

若い金持ち
ある重(おも)だった人が,「よい先生,永遠の生命を受けるために私はどうしたらよいのでしょうか?」と尋(たず)ねた.
イエズスは,「*⁷なぜ私を〈よい〉と言うのか?神御一人のほかよい者はない.あなたは,*⁸〈姦淫するな〉〈殺すな〉〈盗むな〉〈偽証するな〉〈父母を敬え〉という掟(おきて)を知っているだろう」と言われた.
その人が,「私は小さい時からそれをみな守ってきました」と言うと,イエズスは,「あなたに足りないのは一つのことだけだ.あなたは持ち物をみな売って、貧しい人に施(ほどこ)すがよい.そうすれば天に宝を積むだろう.それから私についてくるがよい」と言われた.彼はこれを聞いて悲しんだ.大金持ちだったからである.
それを見てイエズスは言われた,「金持ちが神の国に入るのはなんと難しいことだろう.*⁹金持ちが神の国に入るよりは,駱駝(らくだ)が針の穴を通るほうがやさしい」.
これを聞いた人々は,「すると救われるのはどんな人ですか?」と尋ねた.イエズスは,「人間にはできぬことも,神にはおできになる」と答えられた.

弟子の受ける報い
ペトロが,「ごらんのとおり,私たちはあなたに従うために,自分の持ち物を捨てました」と言った.
イエズスは答えられた,「まことに私は言う.神の国のために,家,妻,兄弟,両親,子どもたちを捨てながら,*¹⁰この世でもっと多くのものを受け,後の世で永遠の生命を受けぬ者はない」.

受難の預言
イエズスは十二人の弟子をそばに呼び,「*¹¹私たちはイエルザレムに上る.人の子(イエズス御自身〈キリスト〉)について預言者たちの書き残したことは,みな実現するだろう.人の子は異邦人にわたされ,あざけられ,侮辱され,つばをかけられるだろう.彼らは人の子をむち打ち,そして殺すだろう.それから三日目に彼はよみがえる」と言われたが,弟子たちにはそれが何一つとしてわからなかった.そのことばは彼らにとってわかりにくく,その意味も理解できなかった.

イエリコの盲人
イエズスがイエリコに近づかれると,道ばたに座って施しを乞う盲人がいた.群衆が通り過ぎるのを聞いた盲人は,何事ですかと尋ねた.「あのナザレ人のイエズスが通られるのだ」という返事があった.
すると,*¹²盲人は,「ダヴィドの子イエズス,私をおあわれみください」と叫び出した.先頭の人たちが叱(しか)って黙(だま)らせようとしたけれど,「ダヴィドの子,私をおあわれみください」とますます叫び立てた.
イエズスは足をと止め,その人を連れてくるように命じ,近づいたときに,「あなたは私に何をしてもらいたいのか」と尋ねられた.盲人は,「主よ,見えるようにしてください」と言った.
イエズスが,「見えよ.あなたの信仰があなたを救った」と言われると,盲人はたちまち見えるようになり,神をたたえながらイエズスについていった.これを見た人々はみな神に賛美をささげた.

(注釈)

ファリサイ人と税吏 (18・9-14)
祈りの第一条件は謙遜である

*⁴ ファリサイ人の倣慢(ごうまん)な態度が現れている.「他の人」といっているように,彼は自分だけが義人だと思っているのである.倣慢な人は,他人を軽蔑(けいべつ)するものである.

*⁵ 熱心なユダヤ人はこうしていた.

子どもたち (18・15-17)
*⁶ 小さな子どもは悪を知らず,富を望まず,傲慢も憎悪ももたず,言われることを正しいこととしてそのまま受け入れる.神のみことばに対して,人はこうあらねばならぬ

若い金持ち(18・18-27)
*⁷ イエズスは,ここでは自分の神性には触れない.青年はイエズスを先生の一人とみて,よい先生と言っている.しかしイエズスは,どんなに完全な人間でも神と比べればよいとは言えないと知らせる.

*⁸ 〈旧約〉脱出の書20・12-16参照.

*⁹ 誇張法の一つである.神の国よりも自分の富に執着する者は,永遠の生命を受けられない

弟子の受ける報い (18・28-30)
*¹⁰ 完徳に達するために,自己のすべてを神にささげる者は,この世においても,自分の犠牲の報いを受ける.

受難の預言 (18・31-34)
*¹¹ 31―33節 受難の四回めの預言である(9・22,44,17・25).しかし,前よりもはっきりと言われている.その時が次第に近づいているからである(イザヤ53章).

イエリコの盲人(18・35-43)
*¹² この盲人は,ナザレトのイエズスが多くの奇跡を行ったことを知っている.そしてそこから,イエズスこそ来るべきメシアだと悟り,「ダヴィドの子」と叫んだ.

* * *

第19章 

ザカイ
イエズスはイエリコに入り,その町を通られた.*¹そこに名をザケオという人がいた.彼は税吏のかしらで金持ちだった.彼はイエズスとはどんな人か見ようとしたが,背は低かったし,群衆の波で見ることができなかった.そこで前に走っていって,イエズスを見ようといちじく桑(ぐわ)の木によじ登った.そこを通られるはずだったからである.
イエズスはそこに来られると目をあげ,「*²ザケオ,早く下りよ.私は今日あなたの家に泊まる」と言われた.彼は喜んで飛び下り,イエズスを迎えた
これを見ていた人々はみな,「あの人は罪人の家の客になったのか」と非難したが,*³ザケオは毅然(きぜん)として,「主よ,私は財産の半分を貧しい人々に施します.また,私が他人に何かの損害を与えていたら四倍にして返します」と言った.
イエズスは,「今日この家に救いが来た.この人もアブラハムの子である.人の子(=神の御子イエズス)は見失ったものを尋ねて救うために来た」と言われた.

ムナのたとえ
人々がこの話をきいていると,イエズスはまた次のたとえを語られた.それは,*⁴イエズスがイエルザレムに近づいておられたので,人々は神の国がすぐ来るだろうと思っていたからである.
イエズスは言われた,「*⁵ある貴人が王位を受けるために,遠国に行くことになった.そのとき十人のしもべを呼び集め,*⁶十ムナを渡し,〈私が帰るまでこれをうまく使え〉と言った.その地方の人々はこの人を憎んでいたので,あとから使いを送り〈私たちは彼が王になるのを望まぬ〉と言わせた.
その貴人は王位を受けて帰ると,金を渡しておいたしもべたちがめいめい金をどう使ったかを知ろうとして呼んだ.はじめの人は進み出て,〈主よ,あなたの一ムナで十ムナをもうけました〉と言ったので,彼は,〈よろしい,よいしもべだ.あなたは小さな事に忠実だったから,十の町を支配せよ〉と答えた.次の人が来て,〈主よ,あなたの一ムナで五ムナをもうけました〉と言ったので,また彼は,〈あなたは五つの町のかしらになれ〉と答えた.
ほかの一人も来て,〈主よ,私はあなたの一ムナをふくさに包んでしまっておきました.これです.預けなかったものを取り,まかなかったものを刈り取る厳(きび)しいあなたを,私は恐れました〉と言ったので,彼は言った,〈悪いしもべだ.私はあなたのことばに基づいてさばこう.私が預けなかったものを取り,まかなかったものを刈り取る厳しい人間であることを,あなたは知っていた.それなら,なぜ私の金を貯金として預けなかったのか.そうすれば帰ってきたときに,その金と利子を引き出したであろう〉.
そして,そばにいた人々に,〈この者の一ムナを取り上げ,十ムナを持つ者に与えよ〉と言った.彼らが,〈主よ,あの人はもう十ムナ持っています〉と言ったが,主人は答えた,〈私は言う,持っている者には与えられ,持たぬ者からは持っているものさえ取り上げられる.私が王になるのを望まなかったあの敵どもをここに連れてきて,私の前で絞め殺せ〉」.

(注釈)

ザカイ(19・1-10)
*¹ ルカは普通は名を書かないが,ここでは名が記されている.ザケオはのちにイエズスの弟子となり,ルカはザケオを知っていたほかの信者からこの話を聞いたものらしい.

*² イエズスはザケオの名とその善良な心を早くも見抜いておられた.

ザケオは,恩寵に喜んで服従する改心者の模範である.ある伝説によると,ザケオはペトロの弟子どなり,カイザリアの司教になったと言う.

ムナのたとえ(19・11-27)
*⁴ 多くのユダヤ人は,イエズスの奇跡を見て,イエズスこそメシアであると考えたが,しかし彼らは,いつも,黙示録的な光栄のメシアの国が来ることを待ち望んでいた.過ぎ越しの祭りのために,イエズスはイエルザレムに上り,多くの人々を集めておられたので,今こそその国が始まるだろうと考えた.
これに対してイエズスは,キリストの国の到来までに,多くの試練と長い期間があることを教える

*⁵ 12-27節 王はイエズス,王権を受けに行く遠国は天,しもべらに預けたムナは神の恵み,君臨を望まない悪人どもはユダヤ人,王の帰りは審判を意味する
人間は与えられた恵みに応じて厳しくさばかれるであろう

*⁶ マテオ聖福音18・24の注参照.
→(マテオ18・24の注釈)
神殿ではユダヤの貨幣だけが用いられていたが,その他のときにはギリシアやローマの貨幣も用いられた.ユダが裏切りのときに受けた銀貨はシェケル(一シェケル=四ドラクマ)である.
ギリシアの貨幣は次のとおりである.オポロスドラクマの六分の一,ディドラクマはニドラクマである.スタテルは四ドラクマ(銀シェケルと同値)で,一般にもっとも広く用いられていた.ムナは一〇〇ドラクマ,タレントは六〇〇〇ドラクマである.タレントはまた目方でもあり,四十二・五三三キロに相当する.
ローマの貨幣は,デナリオがギリシアのドラクマにあたり,アサリオンはデナリオの十分の一,コドラントはアサリオンの四分の一,レプタまたはミヌトゥム(ブルガタ訳)はコドラントの四分の一である.

* * *

②(新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第11章55節→49-53節〈太字下線部分〉)(第11章全文を記載)

第11章 

ラザロがよみがえる(11・1-46)
さて,ここに一人の病人があった.*¹ベタニアの人ラザロといった.ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった.この*²マリアは主に香油を塗り,自分の髪の毛で御足をぬぐった女で,病人のラザロはその兄弟だった.姉妹はイエズスに人を送り,「主よ,あなたの愛しておられる人が病気です」と言わせた.
これを聞いてイエズスは,「それは死の病ではない.それは神の光栄のため,神の子がそれによって光栄を受けるためのものである」と言われた.イエズスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられたけれども,ラザロが病気だと聞いてからなお二日,*³元の所にとどまられた.
その後,弟子たちに「ユダヤに帰ろう」と言われたので,弟子たちは,「先生,ユダヤ人たちはこの前もあなたを石殺しにしようとしたのに,またあそこにお帰りになるのですか」と言った.イエズスは答えられた,「*⁴昼間は十二時間あるではないか.昼の間に歩く人は,この世の光を見るからつまずきはしない.夜歩けば,光がその人にないからつまずくのだ」.
またその後,「私たちの友人ラザロは眠っている.私は彼を起こしに行く」と言われた.弟子たちは,「主よ,眠っているのなら治るでしょう」と言った.イエズスは彼が死んだと言われたのだが,弟子たちは眠って休んでいることなのだと思った.そこでイエズスははっきりと,「ラザロは死んだ.私があそこにいなかったことを,私はあなたたちのために喜ぶ.*⁵あなたたちが信じるようになるために.では彼のところに行こう」と言われた.ディディモと呼ばれるトマは,「*⁶私たちも一緒に行こう,ともに死のう」と弟子たちに言った.
イエズスが行かれると,ラザロはもう四日前から墓に入っていた.ベタニアはイエルザレムに近く,ほぼ*⁷十五スタディオンばかりの距離にあった.大勢のユダヤ人が,その兄弟のことについて,マルタとマリアを慰めに来ていた.マリアは家に残って座っていたが,マルタはイエズスが着かれたと知って迎えに行き,「主よ,もしあなたがここにましましたら,私の兄弟は死ななかったでしょう.
*⁸けれども今でも私は,あなたが神にお願いになることは,なんでも神が与えてくださることを知っています」と言った


イエズスは,「あなたの兄弟はよみがえるだろう」と言われた.マルタは,「彼も終わりの日,復活の時によみがえることを知っています」と言った.

イエズスが,「私は復活であり命である.*⁹私を信じる者は死んでも生きる.*¹⁰生きて私を信じる者は永久に死なぬ.あなたはこのことを信じるか」と言われると,
彼女は,「*¹¹そうです,主よ,あなたがこの世に来るべきお方,神の子キリストであることを信じます」と言った


それから彼女はマリアを呼びに行き,「先生がおいでになって,あなたを呼んでいらっしゃる」と小声で言った.マリアはこれを聞くと,すぐ立ち上ってみもとに行った.イエズスはまだ村に入らず,マルタが出迎えた所におられた.マリアとともに家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは,マリアがすぐ立ち上って出たのを見て,墓に泣きに行くのだろうと思ってついて行った.
マリアはイエズスのところに着き,彼を見るやその足もとにひれ伏し,「主よ,もしあなたがここにおいでになったなら,私の兄弟は死ななかったでしょう」と言った.イエズスは,彼女がすすり泣き,ともに来たユダヤ人たちも泣いているのを見て感動し,心を騒がせられ,「彼をどこに納めたのか」と言われた.マリアは,「主よ,来てごらんください」と答えた.イエズスは涙を流された.ユダヤ人たちは,「ほんとに,どんなに彼を愛しておられたことだろう」と言った.その中のある人は,「あの盲人の目をあけた人でも,彼が死なぬようにはできなかったのだろうか」と言った.イエズスはまた感動された.
それから墓に行かれた.墓は洞穴で前に石が置いてあった.イエズスは,「石を取りのけなさい」と言われた.死人の姉妹マルタは「主よ,*¹²四日も経っていますから,臭(くさ)くなっています」と言ったが,イエズスは,「もしあなたが信じるなら,神の光栄を見るだろうと言ったではないか」と言われた.石は取りのけられた.
イエズスは目を上げて話された,「父よ,私の願いを聞き入れてくださったことを感謝いたします.私はあなたが常に私の願いを聞き入れてくださることをよく知っています.私がこう言いますのは,この回りにいる人々のためで,あなたが私を遣わされたことをこの人たちに信じさせるためであります」.
そう言ってのち,*¹³声高く「ラザロ外に出なさい」と呼ばれた.すると死者は,手と足を布でまかれ顔を汗拭(あせふ)きで包まれたまま出てきた.イエズスは人々に,「それを解いて,行かせよ」と言われた.

イエズスの死を謀る(11・47-57)
マリアのところに来ていて,イエズスのされたことを見た多くのユダヤ人は彼を信じた.しかし,その中のある人はファリザイ人のところに行き,イエズスのされたことを告げたので,司祭長たちとファリザイ人たちは,議会を開き,「どうしたらよかろう.彼は多くの奇跡を行っているから,もしこのまま捨てておいたら,人々はみな彼を信じるようになるだろう.そしてローマ人が来て,われわれの*¹⁴聖なる地と民を滅ぼすだろう」と言った.
その中の一人で,その年の大司祭だったカヤファは,「あなたたちは何一つわかっていない.一人の人が民のために死ぬことによって全国の民の滅びぬほうが,あなたたちにとってためになることだとは考えないのか」と言った.*¹⁵彼は自分からこう言ったのではない.この年の大司祭だった彼は,イエズスがこの民のために,また,ただこの民のためだけではなく,散っている神の子らを一つに集めるために死ぬはずだったことを預言したのであるイエズスを殺そうと決めたのはこの日からであった
そこでイエズスは,もう公にユダヤ人の中を巡らず,ここを去って荒れ野に近いエフライムという町に行き,弟子たちとともにそこにとまられた.
ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが近づき,多くの人々は清めをするために,過ぎ越しの祭りの前に,地方からイエルザレムに上ってきた.彼らはイエズスを捜し求め,神殿に立って,「どう思う.イエズスは祭りに来ないだろうか」と言い合った.司祭長たちとファリザイ人たちがイエズスを捕えようとして,彼の居所を知っている者は届け出よと命じていたからである.

(注釈)

ラザロがよみがえる(11・1-46)
*¹ オリーブ山の東側にあり,現在のエル・アザリエにあたる.

*² ルカ(7・38)に登場する罪の女はマリア(マグダラの)と同一人物であると考えてよい.

*³ ヨルダンのかなたのある場所.

*⁴ この世での期間を知っておられたイエズスは,昼歩く人がつまずかないと同様に,人のかけるわなを恐れなかった.

*⁵ ラザロの死は,人々の信仰を強める奇跡の機会となった.

*⁶ トマのことばは,先生と生死をともにしようとする忠実な弟子のことばである.イエズスにとってイエルザレムに行くことは,(ベタニアはイエルザレムに近かったから)非常に危険だと知っていたのである.しかし,行かねばならないなら,死地におもむく師の供をしようと言った
ディディモはヨハネだけの記しているトマのあだ名である.ディディモ(双生児)は,アラマイ語のトマのギリシア語である.

*⁷ 約2800メートル.

*⁸ マルタはイエズスを信じているが,しかし,死者をよみがえらすような大それた願いをしていいかどうかためらっている.

*⁹ 信仰している人は,すでに死に打ち勝った人である.ラザロのよみがえりはその証明である(3・11以下).

*¹⁰ イエズスの考えは,マルタが考えていたよりも,もっと深いものである.
今話していた復活のもとは,ほかならぬイエズス自身である.
イエズスは復活であるが,それはイエズスが命だからである.信仰によって人々に受けさせ,自然の死によっても滅ぼされない永遠の命は,イエズスである


*¹¹ マルタは,ラザロのことがどうなっても,イエズスが確かにメシアで,命の分配者で,神の子だと信じていた
彼女の信仰告白は,ナタナエル(1・48,イエズスの弟子の一人〈バルトロメオ〉のこと)よりも気高いもので,ペトロの信仰告白(6・69)に肩を並べうる

*¹² このとき,マルタはもう復活の可能性を考えなかった.ただ,腐りかけた死人を見なければならないと考えて恐れた.
しかし,イエズスは,先のマルタの信仰告白の報いを,ここで与えられた

*¹³ ヤイロの娘(マルコ5・41),ナイン(ナイム)の未亡人の息子(ルカ7・14)のよみがえりのときのように,声高く,威厳をこめて,イエズスは命令された.

イエズスの死を謀る(11・47-57)
*¹⁴ エルサレムか,ユダヤか,あるいは聖なる所,神殿をこう言ったのである.

*¹⁵ カヤファは,ユダヤが滅びるよりも,イエズス一人を犠牲にするほうが正しいと考えた.しかし,神のご計画として,イエズスは全人類の救いのために死ぬのである

* * *

2011年5月4日水曜日

真の教皇か? - その1

エレイソン・コメンツ 第198回 (2011年4月30日)

3週間前 (4月9日付エレイソン・コメンツ第195回) に私が前教皇ヨハネ・パウロ2世の 「列福」 “beatification” はただ単に前教皇を 「新しい教会」 “the Newchurch” の 「新しい福者」 “a Newblessed” にするにすぎないと述べたことから,私はいわゆる 「教皇空位主義者」 “a sedevacantist” なのではないかというもっともな質問を受けました.結局のところ,もし私が現教皇ベネディクト16世は 「新しい教皇」 “a Newpope” だと事実上宣言するとすれば,どうして私はそれでもなお現教皇が真の教皇 “a true Pope” であると信じることができましょうか? 実際のところは,私は現教皇が公会議主義下の教会の 「新しい教皇」 であると同時にカトリック教会の真の教皇でもあると信じています.なぜならこの二者のいずれも依然として相手を完全に排除していないからです.したがって私はいわゆる教皇空位主義者ではありません.その論拠の最初の部分を以下に述べます:--

一方で,私は現教皇ベネディクト16世を正当な教皇だと認めています.なぜなら現教皇は2005年に行われたコンクラーベ (訳注・ “conclave” = 教皇選挙 〔秘密〕 会議) で,ローマの教区司祭たち,すなわち枢機卿たちによりローマ司教として正当に選任されておられるからです.仮に多少の隠された不備があって選挙そのものが無効なものだったとしても,カトリック教会の教える通り,結果として全世界のカトリック教会により教皇と認められたことで現教皇の地位は追認されているのです.ということであれば,私は現教皇ベネディクト16世に対しキリストの代理者としてのあらゆる尊敬,崇敬,支持を表すつもりです.

他方で,ローマ教皇としての言動から彼が 「公会議主義を是(ぜ)とする」 教皇 ““Conciliar” Pope” であり,その公会議主義下の教会の長であることは明らかです.単にそれを示す最近の明白な証拠を挙げれば,ひとつは明日行われる第二バチカン公会議の偉大な推進者である前教皇ヨハネ・パウロ2世の「新しい列福」 “Newbeatification” であり,もうひとつは来る10月に予定されているヨハネ・パウロ2世提唱の1986年の惨憺(さんたん)たるアッシジ行事 “disastrous Assisi event of 1986” の記念式典です.これらはいずれも,人間の造り出した公会議主導のキリスト教統一運動 “man's Conciliar ecumenism” の名の下に神の十戒の第一戒律を破るものです.この第一戒律がすべての誤った諸宗教を排除するのに対し (第二法の書(申命)5章7-9節) (訳注後記),第二バチカン公会議は事実上それらすべてを受け入れています ( 「エキュメニズム (教会統一〈一致〉) に関する教令」 “Unitatis Redintegratio” , 「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」 “Nostra Aetate” ).したがって,現教皇ベネディクト16世はキリストの代理者として存在しながら,同時に同胞のカトリック信仰を強め固めるという自分自身の神聖な機能を裏切っているのだと私は考えます (ルカ聖福音22章32節) (訳注後記).ですから私は現教皇をペトロとして十分に尊敬しますが,現教皇がペトロのように振舞わない場合には現教皇に従ったり服従することはしないつもりです (使徒行録5章29節) (訳注後記).これはルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” がなされた区別です.

だが - 少なくとも客観的に見て - 現教皇ベネディクト16世は真の宗教を裏切っていながらも同時にそれに固執していることに注目して下さい! 例えば,第三回アッシジ諸宗教合同祈祷集会 (アッシジIII) が第一回アッシジ諸宗教合同祈祷集会 (アッシジI) のように諸宗教を一緒くたに混ぜ合わせていると非難されるのを防ぎたいがため,現教皇は諸宗教の代表者たちを集め彼らと合同で公開のアッシジへの巡礼を沈黙のうちに行うことを予定しています.言い換えれば,ベネディクト16世は誤りを推し進める間でさえ真理を見捨てるつもりはないのです! そして彼は常にこのやり方で,2+2は4にも5にもなり得ると主張する算術家に似た存在となっています! 教皇から発しているだけに,このやりかたはカトリック教会を上から下まで混乱させるレシピとなっています.というのも,教皇のこの4か5の「算術」に従う者は誰でも,頭の中で完全な矛盾と混乱に振り回されてしまうことになるからです!

だが算術家としての教皇ベネディクト16世は,自分は2+2=4だと信じていると断固主張されていることに注目して下さい.そして,現教皇のこの主張が誠実である限り,またそれは確かに誠実に見えますが - 神のみぞお知りになることです - ベネディクト16世はカトリック教の真理と定義されるあらゆる真理を故意に否認しておられるわけではないのです.むしろ教皇は,ティシエ司教 “Bishop Tissier” がお示しの通り,現代的思考法の助けを借りてその真理を「生まれ変わらせようとしている」と自ら確信しておられます! このことが公式な異端だとの非難を教皇にあてはめることを難しくしています.たとえ教皇が2+2=5を好みそれを推し進めていても,私自身がまだ教皇空位主義者になっていないのはそのためです.

神の御母よ,上智の座よ,私たちを混乱から守り給え!
(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第3パラグラフの訳注:

① (旧約聖書・第二法の書(申命):第5章7-9節) (5節後半-10節を記載)
(十戒)
『神はこう仰せられた,
〈*私はおまえたちの神なる主である.エジプトの地,奴隷の家からおまえたちを連れ出したのは私である.
私以外の神々を礼拝してはならぬ.
上は天にあるものから,下は地にあるもの,地の下の水の中にあるものまで,それらのものに似た形の像を刻むな.おまえたちはそれらの前にひれ伏すことも奉仕することもならぬ.
主なる私は,おまえの神だからである.私を憎む者には,父の罪を子に三代四代の世代までもずっと罰するねたみ深い神であるが,私を愛しておきてを守る者には,千代(ちよ)までも下って慈愛を示す.…』

(注釈)
*十戒は神との契約の土台である(旧約・脱出の書20・6-17).第二法では脱出の書以上に「神への義務と隣人への義務」を主張している.
預言者もイエズスもともに十戒を守ることが永遠の生命への道と教え(新約・マテオ聖福音19・16-19),神と隣人との道を分け得ざるものとして説いている(マテオ22・36-40,ルカ聖福音10・25-37).

* * *

② (新約聖書・ルカ聖福音書:第22章32節(太字下線部分) (第22章1-38節を記載)
(策略)
『さて,*過ぎ越しと言われている種なしパンの祭りの日は近づいた.司祭長と律法学士たちは,イエズスを亡き者にする方法を探していた.彼らは民衆を恐れていたからである.
ところが,十二人の一人だったイスカリオトと呼ばれるユダにサタン(悪魔)が入ったので,ユダは司祭長たちと番兵のかしらたちのところへ行って,イエズスを渡す方法について相談した.喜んだ彼らは,ユダに金をやろうと約束した.ユダは承知して,群衆が知らぬ間にイエズスを渡す好いおりをうかがっていた.

(注釈)
*ヘブライ人がエジプトを逃げたとき,パンをふくらす暇さえもなかったので,その記念として過ぎ越しの祭りの八日間,パン種のないパンを食べる習慣となった.

(最後の晩餐と聖体)
*¹過ぎ越しのいけにえを供える種なしパンの日が来た.イエズスはペトロとヨハネを遣わすにあたり,「私たちの食事のために過ぎ越しの準備をしに行け」と言われた.彼らが「どこに準備すればよろしいでしょうか」と聞いたので,イエズスは、「市中に入ると水瓶(がめ)を持っている人に出会うから,その人の入る家について行き,家の主人に,〈先生が"弟子たちとともに過ぎ越しの食事をする部屋はどこか"と申されていました〉と言え.すると,主人は席を整えた二階の大広間を見せてくれるから,そこに準備せよ」と言われた.
彼らが行ってみるとイエズスの言われたとおりだったので,過ぎ越しの準備をした.

時刻が来たので,イエズスは使徒たちとともに食卓につかれた.
そして,「私は苦しみの前に,あなたたちとともにこの過ぎ越しの食事をしたいと切に望んでいた.私は言う.神の国でそれが完成するまで,私はもう*²これを食べない」と言われた.
*³そして杯を取り,感謝して「これを取って互いに分けよ.私は言う.神の国が来るまで,これからのち,私はもうぶどうの実の汁を飲まぬ」と言われた.
またパンを取り,感謝して裂き,弟子たちに与え,「これはあなたたちのために与えられる私の体である.私の記念としてこれを行え」と言われた.
食事ののち,杯(さかずき)も同じようにし,「この杯は,あなたたちのために流される私の血による新しい契約である
.私を裏切る者は,私とともに手を食卓においている.人の子(イエズス)は,定められたとおりに去る.だがそれを裏切る者は災(わざわ)いである」と言われた
そんなことをするのは,われわれの中のだれだろうかと弟子たちは尋(たず)ね合っていた.

(注釈)
*¹種なしパンの第一日は,ニサン月の十五日で,その前夜,ユダヤ人は小羊をほふって食べた.しかし,種のあるパンは,十四日の昼までになくしてしまうはずなので,この日(十四日)を種なしパンの日と呼び慣れてきたのである.

*²イエズスはもうこの世で過ぎ越しの祭りを行うことはない.イエズスの過ぎ越しの祭りは,み国の霊的生活の中心である聖体において行われる.そして完成するのは天の国においてである

*³この聖体制定の記述はパウロ(新約・コリント人への手紙(第一)11・23-25)によく似ている.

(弟子たちへの戒め)
また,彼らの間で,だれがいちばん偉いのだろうかという争いが起こった.
イエズスはこう言われた,「異邦人の国では王がその民を支配し,またその国々で権力を振るう人々は*¹恩人と言われるが,あなたたちはそうであってはならぬ.
あなたたちの中でいちばん偉い者は年下のようになり,支配する者は給仕する者のようにならねばならぬ
.食卓につく者と給仕する者とどちらが上だろうか.食卓につく者ではないか.私はあなたたちの間で給仕する者のようである
私の試みの間あなたたちは絶えず私とともにいたのであるから,父が私のために王国を備えられたように,私もまたあなたたちのために王国を備えよう.あなたたちは私の王国の食卓で飲食し,また王座についてイスラエルの十二族をさばくであろう.

シモン(ペトロ),シモン,サタンはあなたたちを麦のようにふるいにかけることができたが,*²私はあなたのために信仰がなくならぬようにと(父なる神に)祈った.あなたは心を取りもどし,兄弟たちの心を固めよ」.

(注釈)
*¹エジプトのプトレマイオ家の王らは,家臣から「恩人」と呼ばれた.

(32節)カトリック神学は,ペトロの後継者の教導権と不可謬(ふかびゅう)性を証明するために,このところを挙げる

(ペトロの否みを預言された)
シモンは「主よ,私はあなたとともに牢獄にも死にも行く覚悟です」と言ったが,イエズスは,「ペトロよ,私はあなたに言う.今日雄鶏(おんどり)が鳴くまでに,あなたは私を知らぬと三度否むだろう」と言われた.

弟子たちには「財布も袋も履物(はきもの)も持たせずにあなたたちを遣わしたとき,不足のものがあったか」と言われた.かれらは「まったくありませんでした」と答えた.
そこでイエズスは,「*¹しかし今財布を持っている者はそれを持ち,袋を持っている者もそうせよ.また剣(つるぎ)を持たぬ者は,服を売って剣を買え.私は言う.*²〈彼は罪人の中に数えられた〉と記されていることは,私において成し遂げられる.私に関することはまさに実現しようとしている」と言われた.
弟子たちは,「主よ,ごらんください.ここに剣が二振り(ふたふ)りあります」と言ったが,主は,「*³もうよい」と答えられた.

(注釈)
*¹今まで彼らはイエズスの弟子としてもてなされたが,これから(聖週間・聖木曜日から)はちがう.そのイエズスの弟子であるために憎まれ,迫害されるであろう.彼らはすべての手段を尽くして,悪人の暴力を防がねばならない.しかしこのことばをそのままにとってはならない.イエズスは暴力に暴力を返せとは言わない.ただ近い迫害の苦しみをあらかじめ教えようとされた

*²〈旧約〉イザヤの書53・12参照.

*³イエズスは,弟子らが自分の話を理解できなかったのを見て,話を中止し,「もうよい」と言われた.まもなくゲッセマニにおいて,弟子らにもイエズスのことばがわかるであろう.

* * *

③ (使徒行録5章29節(太字部分)(12-42節を記載)

『使徒たちによって,多くの奇跡と不思議が人々の中で行われていた.信者たちはともにソロモンの廊下に集まっていた.*¹ほかの人々はだれ一人として彼らとあえて交わろうとしなかったが,人人は彼らを非常に賞賛していて,*²主を信ずる男女の群衆はますます増えつつあった.人々は病人たちを道に運び出すほどになり,寝台や担架に乗せ,ペトロが通るとき,せめてその影に覆われようとした.*³イェルザレム付近の町々からも群衆が集まり,病人と汚れた霊に悩まされる人々を連れてきた.彼らはみな治された.

すると,大司祭とその一味すなわちサドカイ派の人々は,ねたましさにかられて立ち上がり,使徒たちに手をかけて牢に投じた.
ところが,夜中に主の天使が牢の戸を開き,彼らを外に連れ出して,「行きなさい,神殿に立って*⁴命のことばをすべて人々に語りなさい」と言った.これを聞いた彼らは,夜明けに神殿に入って教え始めた.
さて大司祭とその一味は集まり,衆議員とイスラエルの子らの長老たちを呼び集め,使徒たちを連れてこいと牢に人を送った.番兵たちは行ったが,彼らが牢の中にいないのを知ったので,帰ってきて,「牢が固く閉ざされて,戸の前に番兵が立っているのを見ましたが,開きますと,中にはだれもいませんでした」と知らせた.*⁵これを聞いて神殿守衛長と司祭長たちは何のことだろうと当惑した.
そのときある人が来て,「あなたがたが牢に入れたあの人たちは神殿に立って人々に教えています」と告げた.早速,神殿守衛長は番兵を連れてそこへ行き,暴力を用いずに彼らを連れてきた.*⁶人々に石殺しにされるのを恐れたからである.

彼らを衆議所の中に立たせて,大司祭は尋(たず)ねた,「私たちは*⁷あの名で教えるなと正式に禁じておいた.それなのにあなたたちは,イェルザレム中を自分たちの教えで満たしたではないか.そうして私たちの上にあの人の血を負わせようとするのか」.
ペトロと使徒たちは答えた,「人間よりも神に従わねばなりません.私たちの先祖の神は,あなたたちが木につけて殺したイエズスをよみがえらせたまいました.*⁸神は,痛悔と罪のゆるしをイスラエルに与えるために,右の御手をもって,イエズスをかしらとし救世主として上げられました.私たちはこのことの証人です.そして神がご自分に従う者に与えたもう聖霊もまたその証人です」.彼らはこれを聞いて激しく怒り,殺そうとたくらんだ.

そのとき,一人の人が議場に立ち上がった.それはファリザイ人の律法学士*⁹ガマリエルといい,人々に大いに尊敬されている人であった.
彼は使徒たちをしばらく外に出すように命じ,議員たちに話し始めた,「イスラエルの人々よ,彼らに対してすることについてよく考えてください.前には,傑物と称して*¹⁰テウダスが起(た)ち,四百人くらいの人々を従えましたが,彼は殺され,つき従った人々は散らされて跡形もなくなりました.その後,人口調査のとき,ガリラヤ人のユダがたって人々を誘いましたが,彼も死に,従った人々もみな散らされました.
私は今あなたたちに言いたい.あの人々にかかわりなさるな.そして,するままにさせておきなさい.彼らの企(くわだ)てあるいは仕業が人間からのものなら,おのずから崩れるでしょうし,反対に神からのものなら,あなたたちはそれを崩すことができません.おそらく神に逆らう者になる危険があります」.
彼らはその意見に従い,使徒たちをふたたび呼び入れて鞭(むち)打ち,イエズスの名によって話すなと禁じて去らせた.

*¹¹使徒たちはみ名のために辱(はずかし)められるに足るものとされたことを喜びながら,衆議所を去った.*¹²そして毎日,神殿と家々で教えを説き,イエズスはキリストであるとのべ続けた.

(注釈)

使徒らの宣教の奇跡・12-16)
*¹「ほかの人々」とは高位の人々を指すようである.

*²「ますます多くの信者が主に加わった.男女の大群衆であった」という訳もある.

奇跡を行う力は,新しい教えが神からのものであることを示す

使徒らの二度めの逮捕・17-33)
*⁴ 恩寵の生命を生むイエズスの教えである.宣教の目的は,「救い」(4・12,11・14,15・11),「主のみ名をこいねがう人々」(2・40,47,7,4・12)に約束されている「命」(3・15,11・18,12・7-10,16・25-26)である

*⁵ 超自然的な事件だと知って当惑した.そのために使徒らの裁判をやり直す時には,どうして牢を出たかを尋ねようとしない.

*⁶ 民は彼らから恵みを受けて非常に尊敬していた.

*⁷ 大司祭は,「イエズス」という名を避けて言わない.

*⁸衆議所はイエズスを亡き者にしようとしたが,神は主とし救い主としてイエズスを立てた.ペトロは,みなを代表して,勇敢にイエズスがメシアであると宣言する

使徒らの釈放とガマリエル ・34-42)
*⁹ パウロ(22・3)の師で,有名なラビの一人であった.ある伝えによると,このラビは信者になったといわれる

*¹⁰ テウダスは,ガリラヤのユダと同様に,ユダヤ人の煽動者,熱狂的愛国者として歴史に名を残した.

*¹¹ 使徒たちは,み名のために苦しみ(21・31,ペトロの手紙(第一)4・14,ヨハネの手紙(第三)7節),み名を宣教する(4・12,17・18,5・28,40).そして,キリスト信者は,み名を希う(9・14,21,22・16).

*¹² メシアたるイエズスを全世界に伝えることは,彼らの生活の唯一の使命であった

* * *

最終パラグラフの訳注:

「上智の座」 “Seat of Wisdom” ( “Sedes sapiéntiæ” ) について:
カトリック祈祷文「聖マリアの連禱(れんとう)」 “Litaniæ Lauretanæ Beatæ Mariæ Virginis” の中で唱えられる聖マリアの称号の一つ.

・「上智」…〈ギリシア語 “Σοφία (sophiā)” 〉に由来する.真の知恵=神を恐(畏)れること.

・『知識と知恵のすべての宝はキリストに隠されている.』
(使徒パウロのコロサイ人への手紙・第2章3節)


(旧約聖書・格言の書より)

第1章 イスラエルの王,ダビドの子ソロモンの格言,
これは*¹知恵と教養を学ばせ,
深いことばを理解させ,
賢い教えを受けさせ,
正義と公平と方正と,
世慣れない人に世渡りと,
若い人たちに知識と分別を知らせ,
格言とむずかしい警句と,
知恵ある人の金言となぞを理解させる.
知恵ある人もそれを聞いて知識を深め,
賢い人も指導の道を知るだろう.
神を恐れることが知識のもとなのに,
愚か者は知恵と教養を軽んじる.
わが子よ,あなたは父のいいつけを聞き,
母の教えをあなどるな.
それはあなたの頭の愛らしい冠となり,
首の飾りとなろう.
わが子よ,悪人があなたを誘惑しても,
それに負けるな.
もし彼らが,
「われわれといっしょにくるがよい,
人の血を流すわなをかけ,
罪のない人に理由なく悪だくみをし,
*³黄泉(よみ)のように,彼らを生きたままのみこみ,
墓に下る人のように,丸のままのみ下そう,
われわれはいろいろ宝物を見つけるだろうから,
分捕ったもので家をいっぱいにしよう,
おまえもわれわれとともにくじ引きし,
みなで一つの財布を持とう」
といったとしても,
わが子よ,彼らといっしょに行かず,
その道から足を遠ざけよ,
*⁴(彼らの足は悪に走り,
血を流そうと急いでいるからだ.)
*⁵翼あるものの目の前で,
網を張ってもむだなことだ.
彼らは自分の命にわなをかけ,
自分がたくらみにひっかかる.
略奪で利をむさぼる人の末路は,みなこのように,
その持ち主を滅ぼしてしまう.
知恵は道で叫び,
広場で大声を上げ,
城壁の上から呼びかけ,
町の門の入口で話しかける.
「*⁶幼い者よ,いつまで幼いことを好むのか.
あざける者は,いつまであざけることを楽しみとし,
愚か者は,いつまで知識を憎むのか

私の叱責に耳をかすがよい.
私はあなたたちに心をうち明け,
私の考えを知らせたい.
私は呼んだが拒絶され,
腕をのばしたが,だれもそれに気をとめなかった.
あなたたちは私の勧めをあなどり,
叱責を受け入れなかった.
だからいま,私もあなたたちの滅びを見て喜び,
恐怖が襲いかかるとき笑おう.
嵐のように,あなたたちに恐怖が襲い,
つむじ風のように,滅びがくるとき,
*⁷(試練と悩みとがかぶさるとき),
そのとき,彼らは私を呼ぶが,私は答えず,
さがしても見つかるまい.
知識を憎み,
神への恐れを心にとめず,
私の勧めを受け入れず,
叱責をあなどった彼らは,
迷いの実を味わい,
自分の考えで腹を満たすだろう.
無分別な者の迷いは自分を殺し,
愚か者の冷淡は自分を滅ぼすが,
私のいうことを聞けば,平和に生き,
どんな不幸も恐れず,安らかだろう」.

(注釈)

この書の主題と目的・1-7)
*¹ 知恵とは徳をもとにして,生活を正しく送ることである.

神への信心と同じ意味である.これが正しい生活の基盤である.このことばはこの書の主題である

悪い仲間を避けること ・8-19)
*³ ヘブライ語のシェオル.死後の霊魂の住みか.

*⁴ この節は,アレクサンドリア写本以外のギリシア語にはない.イザヤ (59・7) による書き入れらしい.

*⁵ 人々の口に伝わっていた格言.鳥は狩人が網を置くのを見ると,それにかからないという意味である.若い人たちにも危険を知らせておけば,それを避けることができる.

知恵の呼びかけ ・20-33)
*⁶ 年齢が幼いことではない.教育と徳とのない幼稚(ようち)な人のこと

*⁷ のちの書き入れらしい.


第2章 わが子よ,私のことばを迎え入れ,
戒めを宝のように守り,
*¹知恵に耳を傾け,
真理に心を開き,
また分別を願い,
知識に声をかけ,
銀のようにさがし求め,
宝物のように掘り出せば,
あなたは神を恐れることを理解し,
主を知るようになるだろう.
実に,知恵を与えるのは主であり,
知識と分別は主の御口から出る.
神は正しい人に保護を下し,
誠実に歩む人の盾となられる.
神は正義の道を守り,忠実な人の道を保護される

そうすれば,あなたは正義と厚生と方正と,
つまり幸せに向かう道をすべて理解できるだろう.…

(注釈)

知恵のある人の幸せ・1-9)
*¹ 知恵,真理,分別,知識はそれぞれの見方での「徳」のことである.

*² 徳をもつ人だけに,宗教がわかる.悪は理性と心を汚すものである.


第3章 わが子よ,私の教えを忘れず,私の教訓を心にとめよ.
それはあなたの日を長くし,生命と安楽な年月をもたらす.
温良と誠実を失わず,
それを首にかけ,心の板に書き記せ.
そうすれば,あなたは神と人とに,
好意をもたれ,成功するに至る.
心をあげて神を信頼し,
自分の意見に頼るな.
足どりの一歩ごとに神を考えれば,
神はあなたの道をならしてくださる.
自分を知恵ある者だと思わず,
神を恐れ,悪を避けよ

それは,あなたの体を健康にし,
骨をさわやかにする.
自分の財産や
所得の初物をささげて神を尊べば,
あなたの倉には麦が満ち,
酒だるには新しいぶどう酒があふれる


*³わが子よ,神のこらしめをあなどらず,
神のこらしめを受けて,悪意を抱くな.
なぜなら,神は愛するものをこらしめ,
いちばん愛する子を苦しめたもうからである

知恵を見出した人は,
分別をもつ人は幸いである.
彼がそれを得たことは,
銀を手に入れるよりも値打があり,
その収入は純金よりも高価である.
知恵は真珠よりも尊く,
あなたの望む何ものもそれとは比べられぬ.
その右の手には長寿があり,
その左の手には富と名誉がある.
その道には歓喜があり,
その小道は平和である.
知恵は,そこによりかかる人にとっては生命の木であり,
それを握る人は幸せになれる.
*⁴神は知恵をもって大地を築き,
分別をもって天を固め,
その知識によってふちは掘られ,
雲から露がしたたる


わが子よ,それらのことを見失わず,
慎重と反省を保て.
それはあなたの魂に命を与え,
首の飾りとなる.
そうなれば,あなたは安心して道を歩み,
足はつまずかない.
あなたは休息をとるときに恐れず,
眠るとき,その眠りは安らかだろう.
突如としてくる恐怖を恐れず,
悪人の攻撃も恐れるな.
神があなたの支えとなり,
あなたの足をわなから守って下さるからだ


できることなら,あなたに物を頼む人の願いを,
拒んではならぬ.
できることがあるなら,*⁵隣人に,
「出直してくれ,明日あげよう」というな,
隣人が,あなたと安心してつきあっているとき,
その人に悪いたくらみをしてはならぬ.
あなたに何の悪事もしない人なら,
その人と理由なく争ってはならぬ.
*⁶暴虐な人をうらやまず,
そのやり方をまねるな.
悪人は神に憎まれ,
神は正しい人と親しくされる.
よこしまな人の家には神ののろいがかかり,
正しい人の住まいには神の祝福がある
あざける人は神からあざけられ,
へりくだる人は神の恵みを受ける.
知恵ある人は名誉を受け,
愚かな人は不興をかう.

(注釈)

正しい生活の結実・1-10)
神と人に対するやさしさ,善良さ.決心するとき,約束するときの誠実さ

*² 初物をささげることは,神への崇敬の表現である.もちろん,祈ることもすすめてある.

知恵の尊さ・11-20)
*³ 神は善人をこらしめるが,それは,欠点をなおすためである.苦しみこそは最良の教師である

*⁴ 知恵の路とは神である.宇宙の創造にも,秩序にも,神の知恵が現れている

徳のある人の幸せ・21-26)

隣人についての戒め・27-35)

*⁵ 元来は,友人,仲間,近所の人など親しいつきあいをしている人のことであるが,この書の中では,「他人」を隣人といっている (6,1,3,29,27・17,25・9).敵を愛するまでに至らねばならぬ愛の教えの第一歩である (マテオ聖福音5・44-48,ルカ聖福音10・25-37).

*⁶ 暴虐な人,よこしまな人,あざける人,愚かな人などはいずれも神の敵である.これらの人々の,表面的な立身出世をユダヤ人はいつもうらやんでいた(24・1,19,詩篇73,エレミア書12・1,ヨブ書21・7).


第4章 子どもたちよ,父の教えを聞き,
真理を知ろうと心がけよ.
私は健全な教訓を授ける.
私の教えをあなどるな.
私も,私の父にとっては子であり,
母の目にはやさしいいとし子であった.
父は私によくこう教えてくれた,
「私のことばを心におさめ,
戒めを守れ,そうすれば生命が得られよう.
知恵をもち,分別をもち,
それを忘れることなく,
私の口のことばを遠ざけるな.
知恵を捨てるな,それがあなたを守ってくれる.
知恵をいとおしめ,それがあなたを保護してくれる

知恵のもととして,知恵をもつようにせよ
持ち物をすべてかけても,分別をもつようにせよ.
それを高く評価すれば,それがあなたを高めてくれる.
あなたがそれを抱けば,それはあなたの誇りとなろう.
その知恵はあなたの頭に愛らしい宝冠をおき,
光栄の冠を授けるだろう」.

子よ,私のことばを聞けば,
あなたの生命は長くなる.
私は知恵の道を教え,
まっすぐな小道にあなたを導いた.
*²それを歩けば,足は妨げを受けず,
走ってもつまずかない.
教養をしっかりと身につけ,それを手から離さず,
守れ,それはあなたの生命なのだ

よこしまな人の道に踏みこまず,
悪人の道を歩まず,
その道を避けて,通らず,
その道を遠ざかり,通りすぎよ.
彼らは悪事をしないと寝つかず,他人を陥れないと安眠しない.
*⁴彼らは不正のパンを食べ,
暴力のぶどう酒を飲む.
正しい人の道はあけぼのの光のようであり,
ますます輝きを増して真昼になるが,
悪人の道はやみで,
何につまずくか分からぬ.

わが子よ,私のいうことをよく聞き,
私のことばに耳を傾けよ.
私のことばを見失わず,
心の中にそれを保て.
そのことばは,それを迎え入れる人の生命となり,
その人の体を健やかにする

*⁵何にもまして,あなたの心を警戒せよ.
その心から,生命の泉があふれ出ているからだ

偽りの口をもたず,
ごまかしのくちびるを遠ざけ,

目は正面を見つめ,
視線をまっすぐに向けよ.
*⁶どこに足をおくかを見定め,
一歩一歩正しく歩み,
右にも左にも道を迷わず
足を悪から遠ざけよ.

(注釈)

父の教え・1-9)
知恵の第一歩は知恵をもつことの必要を知り,それを得ようと決心することである

まっすぐな道・10-19)
*² 徳をもつ人は,生活の困難をやすやすと越すことができる.

教養とは,風紀のよいこと,自分に対して厳しい反省を要求する徳の実行のことである

*⁴この人たちはパンやぶどう酒を飲むのと同じように,不正で身を肥やしている.彼らが食べたり飲んだりするものは,不正と暴力によって得たものである.

人間の努力しなければならぬこと ・20-27)
*⁵ 人の心は倫理生活のもとであるから,それを清く保つように努力しなければならぬ (マテオ聖福音5・19).

*⁶ 徳を行うに当たっては,熱狂して右に走ることも,なまけて左に曲がることも許されない


* * *

2011年4月24日日曜日

神学院長の書簡集

エレイソン・コメンツ 第197回 (2011年4月23日)

「エレイソン・コメンツ」 の読者の中には,以前ここで取り上げた (3月5日付のエレイソン・コメンツ第190回) 「神学院長からの書簡集」 “Letters from the Rector” のことをご存じない方がおられるかもしれません.書簡は聖ピオ十世会の司祭たちが訓練を受けるアメリカの聖トマス・アクィナス神学院 ( “St. Thomas Aquinas Seminary” ) が発行する月報として1983年から2003年までの間に書かれたものです.4冊のペーパーバックにまとめられ,インターネットの truerestorationpress.com/4volsletters を通じて入手できます.18年前にカトリック教に改宗したあるスコットランド人女性が最近それらの書簡集を読みました.彼女の感想の一部を以下にご紹介します:--

「この書簡集を読んで私はびっくり仰天しました … 私は元ニューエイジ (哲学) 信奉者の 「気が変なヒッピー」 で,ニューエイジ・デビル ( “New Age Devil” ) からカトリック教会に逃れたのですが,そこで教会の聖域にまさにデビル (=悪魔) がいることを発見しただけでした … 公会議主義下の教会 ( “the Conciliar Church” ) の枢機卿,司教,司祭たちはカトリシズム (カトリック教義) を説くにあたって婉曲(えんきょく)で当たり障(さわ)りのないことをいうだけではありません.そこにはカトリック教会のあらゆる伝統や信仰をずたずたに引き裂いてこき下ろすことに積極的かつ悪意ある喜びを感じているように見える人たちが多数います.」 (訳注後記)

それに反して, 「この書簡集はいずれの書簡も驚くほど素晴らしくカトリック的なものばかりです … 書簡集では公会議を批判することなしにカトリック教会の危機を解決しようと試みている保守派とエクレジア・デイ ( “the Conservative and Ecclesia Dei” ) のカトリック信徒たちの愚行について説明しています.そうしたカトリック信徒たちは,例えばカトリック教会の典礼や宗規などについての公会議による改革の外観を熟慮しながらも,その本質すなわち信教の自由とエキュメニズム (世界教会主義) に関する公会議の諸文書が実証しているようなカトリック教理についての考え方の根本的な内部変化を無視しているのではないでしょうか ?

多元主義 “Pluralism” および人間の尊厳についての自由主義的観点に触れた神学院長の書簡集は驚くほど見事にこの変化の特質を説明しています.書簡集が繰り返し例証しているように,私たちは現代ローマ教皇庁 ( “modern Rome” ) の考え方におけるこの急進的な変化を理解しない限り,現代世界やそこに置かれたカトリック教会の状況を理解することはできないでしょう.そして,もしエクレジア・デイの人々が,公会議に対し過激な批判をするのは有効な教皇が存在しないと言うに等しいと反論するのであれば,書簡集は聖ピオ十世会のとる立場が持つ知恵,すなわち左派リベラル(自由主義)派,右派「教皇空位主義者」 “Sedevacantists” のいずれにも針路(しんろ)を取らない知恵を十分に実証する議論を提供しています.(訳注後記)

現代世界への対応についてどうかと言えば,公会議下の教会の人々は役に立つことはほとんど語りません.彼らは自分たちの革命的な夢想にあまりにも深く没頭しているため,それがもたらす悲惨な結果に取り組めずにいます.彼らには神学院長からの書簡集が触れているピンク・フロイド,ユナボマー,オリバー・ストーン,チルドレン・イン・ザ・フォレスト ( “Pink Floyd, the Unabomber, Oliver Stone or the Children in the Forest” ) などの問題について書簡を書くなどできないでしょう.なぜなら主流派教会は今日の物質本位の世界に深い不満を抱く代わりに,常にそれに同調しているように思えるからです.書簡集はもっぱら歴史的記録として読まれるべきでしょうが,その真の価値は後の時代になるまで明らかにならないかもしれません.恐らくそれはマリアの無原罪の御心の勝利 ( “the Triumph of the Immaculate Heart of Mary” ) でカトリック教会の第6の時代 ( “the 6th Age of the Church” ) が始まるときだけでしょう.」(訳注後記)

そして女性にとって決め手となるのが次の彼女の感想です: 「さらに言えば,私がこんなことを言い出すとは思いもしませんでしたが,スラックス(ズボン)について触れた書簡を読んだとき私は自分の 「洋服ダンスの中身」 を考え直さなければと思いました.」 女性がズボンをはくのをやめるとき,カトリック教会は本当に復活するのです!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第2パラグラフの訳注:
「ニューエイジ」について

または「ニューサイエンス」という.西洋的価値観を排し,超自然を信じ,宗教・医学・環境などの分野を全体論的視野に立って見直そうとする1980年代後半の哲学運動.
→ “New Age Therapies” = ニューエイジ志向の(精神)療法.

(ジーニアス大和英インデックス参照)

* * *

第4パラグラフはじめの訳注:
多元主義」の意味と「自由主義」「現代民主主義」との関係について

元来,世界の起源を唯一のものに還元する一元論に対して世界の複数性を認める哲学上の立場を意味していたが,現在では「複合民族社会論」や「政治的多元論」などの基本的な枠組みとして定着している.

とりわけ「政治的多元論」は政治世界を説明するとき「国家対個人」の図式に代えて「国家対集団」の図式を提示した.多元主義は複数の集団による競争によって全体社会の利益の調整をはかることを目的とする.それは国家と個人の間に中間団体を設定することで政府機能の肥大化を防止する自由主義の理念に合致するものであった.アメリカの政治学者ダールは民主化の指標として競争の自由と公開性の原則をあげ,それらの原理に基づく政治体制を「ポリアーキー」と名づけた.その意味で多元主義は現代民主主義の生命線と考えられるのである.

しかし,現代社会では利益集団間の競争が巨大団体の独占によって形骸化し,その巨大利益集団と政府の癒着体制(コーポラティズム)と密室政治が問題化されるようになっているのが実情である.

(ブリタニカ国際大百科事典参照)

* * *

第5パラグラフ最後の訳注:
「カトリック教会の第6の時代」について

聖アウグスティヌスによる時代区分(「六つの時代」 “The Six Ages” - この世のはじめ〈アダムとエバ〉から終わりまでを霊的な六つの節目の時代に分けている)に由来するらしい.

(参考資料: “DE CATECHIZANDIS RUDIBUS, CAP. XXII”, “Catechizing of the Uninstructed”, S. Aurelius AUGUSTINUS )

* * *

2010年7月5日月曜日

人間的には,終焉した.

エレイソン・コメンツ 第155回 (2010年7月3日)

「司教閣下,私には理解できません! 最初に(エレイソン・コメンツ 第153回(以下,「EC153」),あなたは「教皇空位主義者」を非常によく見せて,聖ピオ十世会がすべて誤っているかのように仕向けました.その後,あなたは聖ピオ十世会のもう一人の反対者であるカスパー枢機卿を,さもバラの香りでもするかのように仕立て上げました.そのうえで,あなたは続けて,同枢機卿が教会の終焉(しゅうえん)を示す証しだと示唆(しさ)されたのです! 締(し)めくくりとして(EC154),あなたは結局のところ聖ピオ十世会が全く正しいと言われるのです! 私の頭は振り回されて混乱しています!」

「分かりました,まあ落ち着いてください! その答えの簡単な部分から始めて,だんだんと興味深い部分に移っていくことにしましょう.先週(EC154)私が述べたのは次のとおりです.すなわち,第二バチカン公会議がカトリック教の真理とカトリック教の権威を分離してしまったということ,そして,「教皇空位主義者」のように行き過ぎた「カトリック真理派」と、カスパー枢機卿のように行き過ぎた「教会権威主義者」の間にあって,聖ピオ十世会はカトリック真理の完全さとその真理と両立する範囲内の教会権威を共に擁護(ようご)する正しい解決策をとっているということです.当然ながら,この聖ピオ十世会のとる中庸(ちゅうよう)の立場は,「真理派」と「権威派」の双方から攻撃されます.だが,相容(あいい)れないそれら二つの誤りのいずれにも耳を傾けることは,両者の間の真の解決策が何なのかを理解する手助けになるでしょうし,またそうあるべきでしょう.」

「分かりました,閣下.でもどうしてあなたは,カスパー枢機卿が微笑んだだけで,カトリック教会は人間的には終焉したと,仰った(おっしゃった)のですか?」

「それは,カトリック教会に自(おの)ずから備わっているカトリックの真理を棄(す)てることは,教会の権威を棄てることよりもはるかに重大で深刻なことだからです.なぜなら,権威は真理に仕えるために存在するに過ぎず,したがって,カトリック真理こそが主たる存在で権威はそこから派生するだけにすぎないのです.「教皇空位主義者」はカトリック信仰を持っており(誤り導かれたキリストの代理者(=歴代教皇)が彼らのことを気にする理由がこれ以外にあるでしょうか?),彼らの良心は今なお正しいままにとどまっています(彼らの議論は非常に論理的で道理にかなっているように思えます).ところがそれに反し,カトリック信者が権威を理由に第二バチカン公会議とそれが提唱する人間の宗教を受け入れれば,その瞬間から彼は唯一の真の神の宗教であるカトリック信仰を失い始めることになり,自分の心にその矛盾を受け入れるよう強要することにより,心そのものを破壊し始めます.なせなら,これら二つの宗教,すなわち神の宗教と人間の宗教とは,その原理においても実践においても,まったく相矛盾するものだからです.あなたの周りを見てごらんなさい!

カスパー枢機卿の微笑はまさしく,最高位の聖職者たちがどれほどカトリック信仰を失ってしまったか(少なくとも人間の前に),そして第二バチカン公会議による「エキュメニカルな(=教会一致運動の)対話」の追求によって彼らの心がいかに破壊されてしまったかを示しました.神の完全性とは唯一の教会であるカトリック教会を創立されたイエズス・キリストのうちにあり,この点については必然的に,他のどの「教会」(訳注・英原語…小文字で始まる “church” - カトリック教会以外の「教会」を指す.カトリック教会は大文字で始まる “Church” で表示される.),宗教,非宗教も多かれ少なかれ異を唱えます.そうであるなら,どうしてカトリック教会の聖職者たちが,非カトリック教徒たちをカトリック信徒へと改宗させるという主目的以外のことで,彼らと話をすることができるのでしょうか? カトリック教に改宗させる以外の目的で「対話」することは,暗にイエズス・キリストが神であることを否定することになるのです.カスパー枢機卿が,聖ピオ十世会は自分のことを異端者と見なしていると考えても不思議ではありません.そこで彼はただ微笑むだけなのです.

というのも,同枢機卿は,カトリック教会の権威のために,一カトリック信徒が信じるすべてのことを自分も信じていると,依然として考えているからです.これは,同枢機卿が矛盾についてのあらゆる概念(がいねん)を失っていること,彼のカトリック信仰および心がなくなっていることを意味するのです.人の最高の能力がなくなってしまったとき,その人を救うものが心をおいて他にあるでしょうか? ただ奇跡が起こるのを待つほかありません.カスパー枢機卿は今日の聖職者たちの典型です.神からの奇跡が起こらない限り,今日の公的なカトリック教会は終焉しているのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年6月29日火曜日

カトリックのバランス

エレイソン・コメンツ 第154回 (2010年6月26日)

先週の「エレイソン・コメンツ」で私は,教皇ヨハネ23世以後の教皇はみな全く教皇ではなかったと信じている「教皇空位主義者」に共感しているかのように思われる論評で始め,権威のない聖ピオ十世会を物笑いの種にしてからかったカスパー枢機卿に共感するかのような論評で終わりました.私は,その論評を読んで混乱した女性読者が少なくとも一人はいたと承知しています.おそらく混乱したのは彼女だけではなかったのではないでしょうか.だが,こうしたことはすべて,第二バチカン公会議いらいカトリック教の真理がカトリック教会権威から分離してしまっているという前提に立てば,誰にとってもつじつまの合う話なのです.

今日(こんにち),教会聖職者たちのカトリック教会権威は,私たちの主イエズス・キリストのカトリック真理と一つにまとまるべきです.なぜなら,人間の権威はひとえに神の真理を擁護しかつ指導するためにだけ存在しているからです.だが,あの忌むべき公会議(1962年-1965年)で,何世紀も続いたプロテスタント教の異端とリベラリズム(自由主義)による真理の崩壊が大半の公会議主義の神父たちの心にひっそりと入り込んでしまったため,彼らはカトリック教の真理の純正さを保つことを諦(あきら)めてしまい,この日にいたるまで,公会議の新しくかつ誤った人間の宗教をカトリック教徒たちに押し付けるためカトリック教会の全権威を利用し続けているのです.

その結果,カトリック信徒たちは必然的に,信徒同士のみならず自身の内面でもバラバラに引き裂かれてしまいました.それは,次の二つの場合を見れば明らかです.一部のカトリック信徒はカトリック教の真理に固執し,多かれ少なかれカトリック教会の権威を棄(す)てざるを得ませんでした.これが「教皇空位主義者」の見出(みいだ)した解決策です.カトリック教の真理に主眼を置けば,「教皇空位主義者」に十分共感できます.というのも,第二バチカン公会議が始まっていらい今日までの,最高位の聖職者たちによるカトリック教の真理に対する裏切り行為は,あまりにもひどいものだからです.

もう一方のカトリック信徒はカトリック教会の権威に固執し,多かれ少なかれカトリック教の真理を棄てるという選択をしました.こちらはカスパー枢機卿の解決策です.カトリック教会の権威に主眼を置くなら,同枢機卿が教皇ベネディクト16世に忠誠心を持つことに共感できます.同時に,枢機卿が,まったく権威のない,依然として事実上破門されたままの聖ピオ十世会からカトリック信徒でないと非難されて微笑みを浮かべたのも理解できるのです.

だが,ルフェーブル大司教(訳注・ “Archbishop Marcel Lefebvre” (1905-1991) フランス人.「聖ピオ十世会」の創立者.)は,カトリック教の真理と教会権威の両極の間で,第3の道を選んだのです.聖ピオ十世会は,その第3の道に従っているのですが,それは,カトリック教の真理に固執しながらも,同時にカトリック教会の権威を軽視することはせず,またその当局関係者たちの地位や立場を全体的として懐疑的に見ることもしない,という道です.それは,必ずしも常にたやすく保持できるバランスではありませんが,これまでに世界中でカトリック教の実を結んできており,公会議の砂漠(1970年-2010年)の中で今まで過ごしてきた40年もの間,真実かつ唯一のカトリック教義と真実なカトリック教の諸秘跡の上に立つカトリック信徒の忠実なカトリック信心の名残を維持してきました.

そして,私たちカトリックの羊たちは,ローマの牧者が打たれている間は,その公会議の砂漠に散り散りに置かれたままでいなければならないでしょう(旧約聖書・ザカリアの書:13章7節参照,ゲッセマニの園で私たちの主イエズス・キリストが引用された-新約聖書・マテオによる福音書26章31節参照.)(訳注・引用された聖書の箇所…後記参照).このカトリック教会のゲッセマニにおいて,私たちはともかく仲間の羊たちに深い哀れみをかけなければなりません.私が「教皇空位主義者」たちに,そしてある程度までリベラル派(自由主義者)にすら共感できるのはそのためです.しかし,このことは,決してルフェーブル大司教の第3の道が正道でなくなったことを意味するものではありません.たとえ第3の道が,しばらくのあいだ恐竜に飽きているように見えるとしてもです.たとえそうだとしても,私にはそのことさえも理解できるのです!

偉大なる神の御母がこの小さな修道会(聖ピオ十世会)をいつまでもお守りくださいますように!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教



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第6パラグラフの聖書の引用箇所2か所)

1.- 旧約聖書・ザカリアの書:第13章7節 -

剣よ,立って,私の牧者と,私にくみしているものを攻めよ.
―― 万軍の主のお告げ ――
牧者を殺せ,そうすれば,羊は散る.
そのとき,私は,小さなものに向かって,手をのばす.

(注釈)この「牧者」は,11章4-14節に出る「よい牧者」でもなく,11章15-16節に出る「悪い牧者」でもなく,一般に,主の代理者となっている「民のかしら」を指している.彼は,剣に打たれ,全人民は,試練を受けることとなる.羊は,牧者のない群れとなるのだから.このときになれば,民は,新しい契約のために,準備されるものとなる.マテオ福音(26章31節)は,「牧者を殺せ,そうすれば,羊は散る」の一句を,メシア(救世主イエズス・キリスト)にあてはめている.
(11章4-14,15-16節については,後日,別途に追加します.)


2.- 新約聖書・マテオによる福音書26章31節 -

(「最後の晩餐」にてイエズス・キリストは御聖体の秘跡を制定された後,弟子たちと讃美歌を歌ってからオリーブ山に出ていった)「…そのときイエズスは弟子たちに言われた,「今夜,あなたたちはみな私についてつまずくだろう.〈私(=神)は牧者を打ち,そして羊の群れは散る〉と書かれているからだ.…」

(注釈)「ザカリアの書13章7節」参照.弟子たちは,イエズスをメシア(救世主)と信じて勝利の日を待っていた.そのイエズスが,何の抵抗もせず死んで行くことを見ての宗教的つまずき.

2010年6月28日月曜日

枢機卿が微笑む

エレイソン・コメンツ 第153回 (2010年6月19日)

最近のカスパー枢機卿の微笑(ほほえみ,びしょう)は,私の長年にわたる信念を裏付けるものです(訳注・カスパー枢機卿(すうききょう)…“Walter Kasper”(ヴァルター・カスパー),ドイツ人.現在「他のキリスト教会およびユダヤ人との宗教関係」についてのバチカンの関連部門の長(=「キリスト教一致推進評議会」議長兼「ユダヤ人との宗教関係委員会」委員長).).その信念とはすなわち,教皇ヨハネ23世以来,今日までの歴代の公会議主義者の教皇たちが示してきた徹底的なリベラリズム(=自由主義)にもかかわらず,彼らが本当に教皇だったかどうか疑念を抱く必要はないということです.多くの真面目で信心深いカトリック信徒たちは,そのことについて疑問をもっています(解説後記).というのも彼ら信徒には,真のキリストの代理者(訳注・すなわち教皇を指す.)たちがどうして,これらの歴代の教皇たちがこれまでしてきたほどにカトリック信仰とキリストの教会(訳注・カトリック教会のこと.)から遠く逸脱(いつだつ)し得るのかが理解できないからです.実に測り知れないほど深刻で由々しき問題がそこにはあるのです.

こうした人たちは通常「教皇空位主義者」と呼ばれていますが,彼らは,誰でも異端者のように歩き,異端者のように話し,またアメリカ人が言うように,異端者のように騒々しくいんちきを宣伝すれば,それでその者は異端者であると論じます.しかし,異端者とは教会から自身を締め出す人のことです.故にこれら歴代の教皇はカトリック教会から自分たちを締め出してしまったのですから,とうてい教会の長として在位し得るはずがありません.どうして教会の非会員がその長たり得るでしょうか?(解説後記)

私の信念によれば,真実の答えは,唯一の救いの箱を反射的に見捨てるような異端とは極めて深刻なことであり,それを犯す者は,自分がしていることを十分に知り本気でそう行動しなければならない,ということです.その者は神ご自身の権威で神の教会によって定義されたカトリックの真理を否認しているということ,言い換えれば,神に逆らっているのだということを自覚していなければなりません.その自覚がない者は - カトリック教会では「頑固」と呼ばれますが - たとえ数々の神の真理を否認していても,まだ神に逆らっているとか,あるいは教会を見捨てたということにはなりません.

さて,「教皇空位主義者」は,深く教会教育の薫陶(くんとう)を受けた歴代教皇が,多大な影響を与えるような発言をするときに自分が何をしているか分かっていないなどという考え方を,馬鹿げていると一笑に付します.その類(たぐい)の発言の例を多数ある中から唯(ただ)一つ挙げるとすれば,例えば教皇ベネディクト16世が旧約(訳注・神とイスラエル人との間で交わされた旧(ふる)い契約のこと.モーゼの律法.)の正当性についてする発言です.教会が正気だった昔なら,異端者の行動を自覚させるには教皇の異端審問(訳注・原文“the Pope’s Inquisition (or Holy Office)”) に引っ張り出し,自分の犯した間違いに教皇の権威をもって真正面から直面させ,間違いをしないよう促(うなが)したことでしょう.もし,異端者がこれに従うのを拒めば,その時は,その頑固さがだれの目にも明明白白となるわけで,その狼(おおかみ)は羊舎(ようしゃ)から放り出されました.だが,そうした審問には異端者を召喚(しょうかん)することと,犯した間違いを断じることの両方を行える権威が必要です.然(しか)るに,第二バチカン公会議以来,カトリック教会の最高権威とされている同公会議がもはやカトリック教の真実の見極め(みきわめ)ができなくなっているとすれば,一体どうすればよいのでしょうか?(注釈後記)

カスパー枢機卿にご登場いただきましょう.パリで5月4日に行った記者会見で(すでに「エレイソン・コメンツ 第148号」で触れたとおり),彼は自分の担当するカトリック教会と他のキリスト教会との対話に聖ピオ十世会が頑な(かたくな)に反対していると述べたと伝えられます.枢機卿の発言内容は正確です.「彼ら(聖ピオ十世会)は私を異端者だと攻撃しています」と,枢機卿は微笑みながら述べました.

彼が微笑むのはもっともなことです.全キリスト教会間の対話とは,第二バチカン公会議以来の普遍教会(=カトリック教会.“Universal Church”. )の行動指針として実践されてきたことであり,教皇ベネディクト16世がいたるところでその重要性を説き,カスパー枢機卿が教皇の首席代理人を務めてきたわけですが,聖ピオ十世会がいかなる権威によってその対話に異を唱(とな)えているとお考えなのか,差支え(さしつかえ)なければお聞かせください.善良なカスパー枢機卿が記者会見で爆笑するのを慎んだのは,見当違いをしている「伝統主義者」たちへの単なる思いやりだったに違いありません.

人間的な言い方をすれば,教会はもう終焉(しゅうえん)しています.だが,神の見地から言えば,そのようなことはありません.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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(第1,2パラグラフの解説)

「教皇空位主義者」“Sedevacantist”
…“Sede-”=ローマ教皇座(The Holy See (La Santa Sede) = 聖座).“vacant”=空位の.

カトリック信徒を自称しているが,第二バチカン公会議以降のローマ教皇たちは正統な教皇と認めないと主張する人を指す.彼らによれば,現在のローマ教皇座は「空位」であるという結論になる.
教皇空位主義者は,教皇ヨハネ23世および教皇パウロ6世のもとで推し進められた第二バチカン公会議によるカトリック教会の改革を一切認めない立場に立つ.したがって彼らは,伝統的な典礼(ラテン語のみで執り行われる旧来のトリエント・ミサ典礼= “Tridentine Mass”,聖伝のミサ典礼.)のみを認め,第二バチカン公会議で定められた各国語で行う典礼(新しいミサ典礼=“Novus Ordo”)は認めない.


(第4パラグラフの注釈)

つまり,正当にはカトリック教会の最高権威はローマ教皇であるが,もしそのローマ教皇が異端者ということでもはや教会の長たり得ず,しかも現在教会の最高権威とされている第二バチカン公会議にカトリック教に則った真実の見極めをする能力がない場合,いったい誰がどういう権威で「異端者」を召喚しかつ断罪し得るのだろうか?ということ.)