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2011年6月2日木曜日

男性の権威

エレイソン・コメンツ 第202回 (2011年5月28日)

結婚するかどうか確信が持てないある二人の男性が,先日どうしたら男性が男性たり得るかについてのマニュアルを書いてほしいと私に懇願(こんがん)してきました.それは二人の切実な苦悩の叫びでした:「いつ女性たちに優しくすべきで,いつ断固たる態度をとるべきなのか? どうにもわからないんです! 」 かつては,多くの男性たちにとってその疑問に対する答えは常識でした.だが,今日では権威が自由主義を煽(あお)る宣伝戦略によりひどく弱められてしまっているため,結婚生活で権威を行使することについての問題が,結婚より単なる同棲(どうせい)を選ぶ若者たちが多いことの一つの理由となっているのかもしれません.以下に述べることはマニュアルではありませんが,少なくとも二人のマスケット銃兵を正しい方向へ導くのに役立つかもしれません.

聖パウロは「さて私は(主イエズス・キリストの)父のみ前にひざまずこう ―― 父から天と地のすべての家族が起こったからである ――.」(エフェゾ3・14,15)と述べています(訳注後記).言い換えれば,神の創造物のあらゆる父権もしくは権威は神御自身の父権と権威を手本としておりそこから派生しています.ドストエフスキーは作品中の登場人物の一人に「もし神が存在しないとすれば,私に陸軍将校たるべき権利はない」と言わせています.したがって,もし人間が今日の世界全体で起きているように,神を自分たちの社会から追い出すなら,あらゆる権威が徹底的に弱体化されるというのは当然なことでしょう.個人においては,理性が感情を支配できないでしょうし,家庭では父親は家族を管理できず,国家においては民主主義が唯一の正当な政治形態に思えるようになるでしょう.

現在,家庭内部で日常生活を観察していて,男性は理性の行使において女性よりも優(まさ)り,女性は直観や感情において男性より優ることを否定できる者がはたしているでしょうか? これを疑うなら連続ホーム・コメディー番組(訳注後記)をどれでもいいから観(み)てみて下さい.現在は感情が生活の中で正当な位置を占めており,まるで奥さんのように,反撃されるのを覚悟の上で私たちはそれを蔑視(べっし)しています.だが,感情は行ったり来たりするもので不安定であり,行動の指針になりますが,あまり頼りにはなりません.これに対し,理性は何が客観的に真実で公正か(=正義に適(かな)うか)を見分けるなら,その客観的な真実や公正がどんな個人や個人の抱く諸々の感情をもすべて超越(ちょうえつ)するものだという事実により安定したものとなります.したがって,理性は感情に耳を傾けても構(かま)いませんが,それを支配しなくてはなりません.そういうわけで男性は,他の様々な資質を持つ女性がごく例外的にしか持ち合わせない男性としての自然な(=生来の)権威を持っているのです.男性が生来家族や家庭の長であり,女性が生まれながらに家族や家庭の心であるのはこのためです.

だが現代世界を支配するリベラリズム(自由主義)は客観的真実や公正・正義についての感覚をことごとく消滅させてしまいます.それにより,リベラリズムは理性からその対象を断ち切り,推論(すいろん)の対象を超えた独自の現実においてはその客観的な支えを奪(うば)ってしまいます.理性は男性の特権として存在しているので,リベラリズムは理性に左右されない本能( “feminine instincts” = 女性特有の本能 )を持つ女性に打撃を与える前に(理性を持つ)男性に打撃を与えます.同じように,リベラリズムは男性が自分より上位の存在,すなわち究極的には神聖な神の真理と神の正義 “divine Truth and Justice” に従うことで得る権威を低下させ,権威のあらゆる行使を恣意(しい)的なものにしてしまうのです.

そういうわけですから,若い男性諸君は,男女を問わず誰と交際するに当たっても,常に自ら真実で公正な人間たることを追求し常にそうあろうと心がけ,いま私たちの周りで公然とまかり通っている不誠実,不正義,また権威の恣意的な乱用の横行する今日の世の中で,いったい何が真実であり正義に適うことなのかを見分けるのに必要な助けを神に向かって願い求めることです.そうして自分の見極(みきわ)めたところに従って行動することです.そうすれば,あなたは権威を下から低下させるこの世の中で,上(天)からの男らしい権威を建て直すようになるでしょう.手短に言えば,「まず神の国と神の正義を求めよ.そうすれば,それらのもの(訳注・生活に必要なもの)も加えて与えられる.」(マテオ6・33)のです.(原文〈新約聖書・英語〉: “Seek ye first the kingdom of God, and His justice, and all these things shall be added unto you” (Mt. VI, 33).(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

(訳注)

① 第2パラグラフはじめの聖書の引用箇所について:

新約聖書・使徒聖パウロのエフェゾ人への手紙:第3章14,15節

・原文(英語) “St. Paul says : “I bow my knees to the Father of our Lord Jesus Christ of whom all paternity in heaven and earth is named” (Eph. III, 14,15) ”

・『さて私は(主イエズス・キリストの)父のみ前にひざまずこう ―― 父から天と地のすべての*¹家族が起こったからである ――.』

(注釈)
*¹ギリシア語の「パトリア」は,父性のことであるが,ここでは,父の権威下にある家族のことである.地上の人間の家族は,天の天使たちの階級に相対する.これらはみな神の子らである.
(「パトリア」 “πατριά (patria)” )

* * *

② 第3パラグラフの「連続ホーム・コメディー番組」について:

原語 “sitcom” = “situation comedy” 「シットコム」

・ラジオやテレビでおよそ30分間程度放送される連続(シリーズもの)コメディ番組(コメディ・シリーズ)のこと.スタジオに集めた観衆の前で(実際の観衆の笑い声などの反応が入る),またはあらかじめ準備された拍手喝采などの録音を使用して,上演・録音(録画)され放送される.登場人物同士の口論や,もめ事がすぐに決着して収まるのが特徴(Britannica Concise Encyclopedia 参照).

・登場人物と場面設定とのからみのおもしろさで笑わせる(リーダーズ英和辞典より).
・同じ登場人物で毎回違った場面やエピソードを扱う(ジーニアス英和大辞典より).

* * *

③ 第5パラグラフ最後の聖書の引用箇所について:

マテオによる聖福音書:第6章33節

・原文(英語): “Seek ye first the kingdom of God, and His justice, and all these things shall be added unto you” (Mt. VI, 33).

・新約聖書・マテオによる聖福音書:第6章19-34節を記載(該当箇所-太字部分).

『自分のためにこの世に宝を積むな.ここではしみと*¹虫が食い,盗人が穴をあけて盗み出す.
むしろ自分のために天に宝を積め.そこではしみも虫もつかず,盗人が穴をあけて盗み出すこともない.
あなたの宝のあるところには,あなたの心もある.

*²体の明かりは目である.目がよければ全身が明るい.目が悪ければ全身がやみの中にいる.
あなたの内の光がやみ(闇)ならそのやみはどんなに暗かろう.

*³人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ.一人を憎んでもう一人を愛するか,一人に従ってもう一人をうとんずるかである.神と*⁴マンモンとにともに仕えることはできぬ.

だから私は言う,命のために何を食べようか,*⁵何を飲もうか,また体のために何を着ようかなどと心配するな.命は食べ物にまさり,体は衣服にまさるものである.

空の鳥を見よ.まきも,刈りも,倉に納めもせぬに,天の父はそれを養われる.あなたたちは鳥よりもはるかに優れたものではないか.
あなたたちがどんなに心配しても,*⁶寿命をただの一尺さえ長くはできぬ.
なぜ衣服のために心を煩わすのか.野のゆりがどうして育つかを見よ.苦労もせず紡(つむ)ぎもせぬ.
私は言う,ソロモンの栄華の極(きわ)みにおいてさえ,このゆりの一つほどの装(よそお)いもなかった.
*⁷今日は野にあり明日はかまどに投げ入れられる草をさえ,神はこのように装わせられる.ましてあなたたちによくしてくださらぬわけがあろうか.

信仰うすい人々よ.何を食べ,何を飲み,何を着ようかと心配するな.
それらはみな異邦人が切に望むことである.
天の父はあなたたちにそれらがみな必要なことを知っておられる.
だから,まず神の国とその正義を求めよ.そうすれば,それらのものも加えて与えられる
明日のために心配するな.明日は明日が自分で心配する.一日の苦労は一日で足りる.』

(注釈)

天の宝(6・19-21)
*¹ 〈虫〉はどんな虫か不明であるが,確かに「虫」であって,普通に訳される,「さび」ではない.

清い目と心(6・22-23)
*² 22-23節 明かりが全身を照らすのと同じく,内なる目は人間のすべての行為を照らす.内なる目が欲望に暗(くら)まされているならば,人間の道徳生活は闇(やみ)である.

二人の主人,思い煩い,摂理(せつり)(6・24-34)
*³ 富を有して神に仕えることもできるが,富の奴隷になれば神に仕ええない.

*⁴ マンモンとはカルダイ語で富のこと.

*⁵ このことばは権威ある写本の中でものっているのもいないのもある.

*⁶ 「身のたけ」という訳もある.

*⁷ 30-34節 イエズスは将来への予備と働きを禁ずるのではない.ただ摂理への信頼を裏切らせるほどの思い煩いを禁ずる

* * *

2010年3月25日木曜日

男性の苦悩

エレイソン・コメンツ 第140回 (2010年3月20日)

私たちは今,深刻な無秩序状態に陥ってしまったため悲惨な時代を生きています.この無秩序について重ねて警鐘を打ち鳴らすため私が再登場することを弁解するつもりはありません.深刻な無秩序というのは,公の場で女性が男性を支配すること(あるいはそうなってきたこと)です.つまり女性 - 母たるもの - は家庭で家事を扱う女王たるべきで,それが何にもまして正常です.しかし,いったん女性が公の場で女王として振舞いだすと,男性連中の人生に深刻な支障が生じてしまいます.つまり,男性は女性をリードしたり神の方向に導いたりしなくなり,その結果,女性は生来の気質から本能的に男性に反発するようになります.

この問題を私に思い起こさせたのは,遠方の国に住む一人の賢明な若い男性です.ある日彼は,自分の周りでは,男性より女性向けの出版物が多いこと,大学に至るまでのあらゆる男女共学の学校で,素直で勤勉な女生徒の方が概して乱雑で集中力に欠ける男子生徒より成績が良いことに気づいたそうです.この若き友人は,男女共学とは果たして良策なのだろうか?と疑問を呈しています.

彼の観察だと,男女共学の結果,学校ではよりよい成績を収める女生徒が新たな「より強い性」として頂点に立ち,今や美貌の虜となって「より弱い性」に転じた男子を意のままに操っているというのです.新興の「女性文明」のあらゆる分野で,女性は男性に取って代わり主導者の地位を占めるようになっています.子どもを持つことでさえ,いまや女性は実験室で男性なしにそれが可能です.もはや男性は何の意味もない存在です.男性は落伍者なのです.我が若き友人は悩み苦しんだ挙げ句,次のような疑問で私への話を締めくくっています.真の男性になるための法則とは何なのだろうか?男らしさの意味は何なのか?男性の力強さと女性の力強さはどう異なるべきなのか?真の「強い女性」とは何か?また「強い男性」とは?

私の親愛なる若き友人よ,君が産まれてきたのは神の教えに背(そむ)こうとしている革命的な世の中であり,神が創造された自然や自然の秩序を転覆しようとしているところなのです.神の基本的な御計画は次に述べる通りです.すなわち,神は男性と女性を天国に住まわせるため,両性に極めて相互補完的な本性を与えて互いに結婚させ,そうして地上に住まい子孫を増やして繁栄していくように人類を創造されたのです.(詳しい解説・後記…1.) 神は女性に対し,子どもを産み育てることで(注釈・たとえ子を産まなくても女性はみな天賦の母性を持つ点で男性にない性質を有する.)家庭の心臓( “heart” )となるための秀でた感情をお与えになりました.男性に対しては,家庭の長(頭(かしら))( “head” )となり家族一家全員を天国に導いて行けるよう,そのための優れた理性をお与えになったのです.女性は家族の中で家庭生活を送るように,男性は社会の中で公的生活を送るようにとの神の御計画のもとに両性は設計されているのです.

したがって,女性,母親はできる限り家族の話に耳を傾け家庭のことによく注意を払うべきで,それはそうするための天賦の才を女性,母親が持つからです(旧約聖書・格言の書:第31章に記される,神の御言葉自らが描写した真に「強い女性」をご覧ください)(注釈・後記…2.).それに対し,女性,母親が元来向いていない(家庭の外での)公共の事柄に携わったり口をはさむのは通常はなるべく控えるべきです.女性,母親は生来そうあるべく神に創造されていないからです.今日の問題は,神を信じないために意気地無しとなった男性が指導力の空白を放置し,女性がそこへ入りこまなければならないということです.しかも,善良な女性は不本意ながらそうしているのです.私の親愛なる若き友人よ,真の男性をお作りになる神の御母の聖なるロザリオの祈りを毎日15連(喜び,悲しみ,栄光の各神秘をそれぞれ5連ずつ)祈りなさい.(注釈・後記…3.)あなた自身を神で,神で,神で,一杯に満たしなさい.そうすれば,あなたは女性が絶対に必要とする三つの l ( “the three l’s” (アルファベットの “ l (エル) ” ))を彼女たちに与えることができるでしょう.それは,耳を傾けること( “to be listened to” ),愛されること( “to be loved” ),リードされること( “to be led” )です.神(への信頼)なしでは,あなたは女性からいいようにあしらわれることになるでしょう.

私は真剣に毎日ロザリオ15連を祈るよう勧めます.それ以下ではだめです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


1.(神の基本的な御計画についての詳しい解説)

神は,最終(究極)的に全人類を天国に住まわせるため,
(1)人を初めから男性と女性とに創造され,その際,両性に極めて相互補完的な性質を生来的にお与えになり,
(2)かかる男女が結婚するようにし,そうして一組の男女が一緒になったときに,男女で異なるそれぞれの特有の性質(男性性と女性性)で互いの弱点を補い合い,相互に助け合うことで完全な存在となるようにし(男性と男性,女性と女性同士でではない),
(3)その関係を通じて子どもを産み育て,もって子孫を増やし(繁殖し)地上に人口を形成するように創造された.
旧約聖書・創世の書:第1~5章,特に第1章26節~31節,第2章18節~24節を参照.(用語集に記載を予定)

(注釈)
神の御計画は,人が唯一の真の神と神が遣わされた神の御子キリストを知ることにより永遠の命を得ること(聖ヨハネ福音17章).
キリストが建てられたカトリック教会において,結婚(婚姻)は秘跡(超自然的な神の恩恵の印)の一つである.カトリック教会では以下の通り教える.
結婚の目的は,(1)子どもを産み育て,(2)男女の夫婦が互いに助け合い完成し合う(互いに愛,堅忍,犠牲を捧げる)ことを通して家庭生活を神に奉献し,家族みなが霊魂の救いに至ること.
独身者は,霊魂の救い(永遠の命)を得るため,同じ奉献生活を個人で神に捧げること.
天国ではみな天使のようになるので,めとったり嫁いだりすることはなくなる.結婚は身体のある地上生活(現世)だけでのことである.
(具体的な「奉献生活」については後日,用語集に記載を予定.)


2.(旧約聖書・格言の書:第31章…用語集に記載.)


3.(「ロザリオの祈り」について)

「ロザリオの祈り」
神の御母(聖母)の御生涯と共に御子キリストの御生涯を辿(たど)る祈り.
救世主たる神の御子キリスト(=人となられた「神の御言葉」=三位一体であられる唯一の神の第二の位格)により唯一の神が顕現されたが,そのキリストの御生涯(生誕の喜び・受難の苦しみ・復活の栄光)の神秘を通じて顕(あら)われた神の救世の御計画(=人の霊魂に永遠の命をお与えになること)を思い起こし,信仰・希望・愛・神への委託・堅忍などの恵みを,聖母の御取り次ぎを通して神に願う祈り.
この祈りは個人で捧げられるほか,教会,修道会等の共同体,家族で共同で(一緒に)唱えて捧げられる.
自分のためのみならず他者のためにも永福と神の御加護を願うために捧げられる.
(1)世の罪の贖いのため,キリストに倣って神に「償いと犠牲」を捧げるために祈る.
(2)罪人の回心のため,改心の恵みを神に願う(罪人のための執り成しの祈り).

(ロザリオの祈りの詳しい構成については,用語集に記載予定.)

(注釈)

人の命は現世で終わって消滅するのではなく,死後に身体(肉体)が腐敗し滅びてもその霊魂は不滅である.しかし,原罪を持つためどの霊魂も神から永遠の命を与えられなければ来世で天国に住まうことはできない.
短く儚(はかな)い現世における真の幸福は,労苦を避け欲を満たし楽を求めて過ごすことではなく,人生の長短に係わらず,神の掟に従って真面目に生活し,来世において神から祝福され永遠の命の報いを受けることにつながる生き方にある.
従って,現世において男女のどちらにとっても真に幸福な人生とは,神が創造された自然の摂理に従い神に祝福されて生活することのうちにある.すなわち,創造主である神を堅く信じ神に深く信頼して生きることが,真の強い男らしさ・真の強い女性らしさを作る.

2010年1月19日火曜日

望まない独身

エレイソン・コメンツ 第131回 (2010年1月16日)

明日は「聖家族」の祝日(訳注・今年は1月10日)なので,三週間前に私が「エレイソン・コメンツ」で,普通に言えば独身男性は「ゼロ」で独身女性は「ゼロ以下」だと書いたことについて一読者が持った疑問を引用するのにちょうどタイミングが適しているのではないでしょうか.その読者の疑問は,結婚願望を持ちながらも何らかの理由で結婚できなかったりしなかったりした男性や女性はどうなのか?というものでした.未婚者すべてが必ずしも宗教的な天職を得ているわけではない,と読者は付言しています.

私はこの読者への答えの冒頭に,今日では不自然な孤独があまりにも当たり前になってしまっている点を指摘しました.とりわけ大都会における現代人のライフスタイルは,結婚をその本来あるべき姿をとどめないものとしてしまうだけでなく,多くの結婚生活を破綻へと追いやる原因ともなっています.この現象は,自由主義がもたらした多くの罰の一つです.自由主義は個人主義を賛美するあまりに人々に結婚した状態での生活に自分は不向きだという気持ちを抱かせるようになっています.自由主義はまたあらゆる絆(きずな)からの解放を美化します.だが婚姻関係はそれを繋(つな)ぎとめる絆が存在しなければ無に等しいのです.「だからこそ西欧諸国では出生率が低下し続け,かつてカトリック信仰が存在した欧州で自殺が増加しているのです.これはいずれも極めて悲しむべきことであり極めて深刻な問題です.」

私は答えを続けました.「すべての男性を「ゼロ」と呼ぶのは言うまでもなく,第一に,私たちはすべて神の前では小さな存在にしか過ぎないということ,第二に,男性は自分で思うほど立派な存在ではないということを脚色して表現したものです.(ロシアには,女性抜きの男性は(周りを囲う)垣根のない庭園のようだとか,(ロシアでの)一月に毛皮の帽子をかぶらずに外出するにひとしい,という二つのことわざがあります!)続けて女性を「ゼロ以下」だと呼んだのは,第一に,今日,いたるところに存在する神の敵どもによる女性の相補性へのひどい侮辱とは違う意味で,女性は男性と同様ではないということ,第二に,女性は男性が女性に依存するよりずっと深く男性に依存しているということを同様に挑発的に表現したものです.旧約聖書の「創世の書」 ((注釈・邦訳では「創世」となっているけれども,ヘブライ人は聖書の各巻の最初のことばをとって題としていた.「創世の書」の場合はヘブライ語で「ベレシット(始めに)」といい,ギリシア語訳では「ゲネジス(始まり)」“Genesis” (英語は同綴りで「ジェネシス」)となり,そこから今の呼び名が残された.実をいえば「ゲネジス」ということばには必ずしも「創造」の意味はない.聖書の第一巻は神によるすべての事物の始まり,宇宙の始まりをも物語るが,主として人類の始まり,選民ヘブライ人の始まり,イスラエル国の始まり,神の約束による人類救済の歴史の始まりが物語られる.)) 第3章16節「おまえは夫に情を燃やすが,夫はおまえを支配する.」(訳注・英語原文の直訳は,「おまえは夫の権力の下に置かれ,夫はおまえを支配する.」“Thou shalt be under thy husband’s power, and he shall have dominion over thee”.)におけるエバ(訳注・英語の「イブ」“Eve”.初めの人アダムの妻.)への罰を参照してください.ただし,私が「ゼロ」とか「ゼロ以下」といったのは挑発が主たる目的ではなく,両者を合わせると8になること,つまり結婚の結びつきから生まれる自然の力を図で示すために使った表現なのです.

悲しいかな,今日では多くの司祭が,結婚したくても夫にふさわしいと心を打たれるような若い男性に巡り合えないと嘆く若い女性によく出会うと言っています.若い男性は大抵,女性をリード(先導)するよう神が授けた気性を自由主義のために消失してしまった(自由主義により洗い落とされてくたびれた)布巾(ふきん)同然に見えます.自由主義は神が女性に与えた自然な本能や感情をそう簡単に破壊はしません.だが,もし自由主義がそういうものを破壊するなら,その結果はさらに悲惨なものとなりかねません.

結論として,私は「十字架の道行き」の祈り ((注釈・英語で“The Way of the Cross”,ラテン語で“Via Crucis”.神の御子イエズス・キリストは人類を霊魂の永遠の死から救済するために「(聖霊によりて宿り,おとめマリアより生まれ,)…苦しみを受け,十字架につけられ,死して葬られ(受難と十字架上の死),三日目に死者のうちよりよみがえり(復活)…」(「使徒信経(しんきょう)」ラテン語で“Symbolum apostolorum. “Credo…””より抜粋.)という,旧約時代から神により預言されていた通りの使命を果たされた.それは人類を創造された神の人類に対する永遠の愛のゆえに成し遂げられた.この祈りは,キリストを信じる者が,キリストが死刑の宣告を受けられたユダヤ総督ピラトの官邸からご自身が架けられる十字架を背負って処刑場のゴルゴタ(ヘブライ語.ラテン語では “Calvariae”. 「されこうべ」の意.)の丘までの道を歩いて行く「苦しみの道」(ラテン語で “Via Dolorosa” )を経て,十字架に架けられて十字架上で亡くなり墓に葬られるまでのそれぞれの場面において,キリストの受けられた受難を偲(しの)び,私たち人類の天の御父なる神の愛と人類のために身を捧げられた神の御子イエズス・キリストに対する感謝と信仰,かような神の犠牲的な愛と同じ愛に自らも献身して生きることを心に思い起こす祈りである.聖地エルサレム巡礼ではキリストが実際に歩かれたとされるこの道を辿りキリストが受けた苦しみの主な14の場面に該当するそれぞれの場所(「留」= “Station” )で「十字架の道行き」の祈りが捧げられる.カトリック教会聖堂内の壁にはこの祈りの第1留から第14留までの各留が設置され,各留に十字架が,それぞれ該当する聖画と共に掛けられており,各留の前に立って聖地におけると同様にこの祈りを捧げることができる.カトリック教会では,復活祭前46日目の灰の水曜日(「四旬節」(ラテン語で“Quadragesima”.英語で“Lent”)の初めの日.この日から復活祭前日までの日曜を除いた40日間をさす.)から毎週金曜日にこの祈りを共同で捧げる習慣が古くからある.)) の第8留で私たちの主が,泣いているエルサレムの女たちを慰めている場面について触れました(聖書・聖ルカ福音書第23章27-31節). ((注釈・該当箇所の福音:「大群の人々と,*¹イエズスのために嘆き悲しむ婦人たちが後についていた.イエズスは婦人たちの方をふり向いて言われた,『エルサレムの娘たちよ,私のために泣くことはない.むしろあなたたちと,あなたたちの子らのために泣け.〈うまずめ,子を生まなかった胎,飲ませなかった乳房は幸いだ〉と言う日が来る.その時,人々は山に向かい〈われわれの上に倒れよ〉,また丘に向かい〈われわれを覆え〉と言うだろう.*²生木さえもそうされるなら,枯木はどうなることか』.」注釈・*¹イエズスの知人か,または,エルサレムで死刑を受ける人々のために世話をやく婦人たちのこと.*²生木(イエズス)は薪(まき)ではない.ふつう薪にするのは枯木である.この枯木は罰を受けるべきユダヤ人である.)) 主はここで,夫や家族を持ったことのない女たちを羨(うらや)むような天罰がエルサレムに下されるだろうと警告されました.私たち自身の時代では,このことが結婚しない理由にはなっていませんが,結婚を望んでいてもまだ神によって結婚に導かれていない者にとっての慰めとなっているかもしれません.というのは,神の不変の摂理にかつてないほど信頼を置き始めるべき途方もない事態が・・・そう遠くない将来に私たちの上に降りかかることになると思えるからです・・・

* * *

(訳文のみ)

明日は「聖家族」の祝日なので,三週間前に私が「エレイソン・コメンツ」で,普通に言えば独身男性は「ゼロ」で独身女性は「ゼロ以下」だと書いたことについて一読者が持った疑問を引用するのにちょうどタイミングが適しているのではないでしょうか.その読者の疑問は,結婚願望を持ちながらも何らかの理由で結婚できなかったりしなかったりした男性や女性はどうなのか?というものでした.未婚者すべてが必ずしも宗教的な天職を得ているわけではない,と読者は付言しています.

私はこの読者への答えの冒頭に,今日では不自然な孤独があまりにも当たり前になってしまっている点を指摘しました.とりわけ大都会における現代人のライフスタイルは,結婚をその本来あるべき姿をとどめないものとしてしまうだけでなく,多くの結婚生活を破綻へと追いやる原因ともなっています.この現象は,自由主義がもたらした多くの罰の一つです.自由主義は個人主義を賛美するあまりに人々に結婚した状態での生活に自分は不向きだという気持ちを抱かせるようになっています.自由主義はまたあらゆる絆からの解放を美化します.だが婚姻関係はそれを繋ぎとめる絆が存在しなければ無に等しいのです.「だからこそ西欧諸国では出生率が低下し続け,かつてカトリック信仰が存在した欧州で自殺が増加しているのです.これはいずれも極めて悲しむべきことであり極めて深刻な問題です.」

私は答えを続けました.「すべての男性を「ゼロ」と呼ぶのは言うまでもなく,第一に,私たちはすべて神の前では小さな存在にしか過ぎないということ,第二に,男性は自分で思うほど立派な存在ではないということを脚色して表現したものです.(ロシアには,女性抜きの男性は(周りを囲う)垣根のない庭園のようだとか,(ロシアでの)一月に毛皮の帽子をかぶらずに外出するにひとしい,という二つのことわざがあります!)続けて女性を「ゼロ以下」だと呼んだのは,第一に,今日,いたるところに存在する神の敵どもによる女性の相補性へのひどい侮辱とは違う意味で,女性は男性と同様ではないということ,第二に,女性は男性が女性に依存するよりずっと深く男性に依存しているということを同様に挑発的に表現したものです.旧約聖書の「創世の書」第3章16節「おまえは夫に情を燃やすが,夫はおまえを支配する.」におけるエバへの罰を参照してください.ただし,私が「ゼロ」とか「ゼロ以下」といったのは挑発が主たる目的ではなく,両者を合わせると8になること,つまり結婚の結びつきから生まれる自然の力を図で示すために使った表現なのです.

悲しいかな,今日では多くの司祭が,結婚したくても夫にふさわしいと心を打たれるような若い男性に巡り合えないと嘆く若い女性によく出会うと言っています.若い男性は大抵,女性をリードするよう神が授けた気性を自由主義のために消失してしまった(自由主義により洗い落とされてくたびれた)布巾同然に見えます.自由主義は神が女性に与えた自然な本能や感情をそう簡単に破壊はしません.だが,もし自由主義がそういうものを破壊するなら,その結果はさらに悲惨なものとなりかねません.

結論として,私は「十字架の道行き」の祈りの第8留で私たちの主が,泣いているエルサレムの女たちを慰めている場面について触れました(聖書・聖ルカ福音書第23章27-31節).主はここで,夫や家族を持ったことのない女たちを羨むような天罰がエルサレムに下されるだろうと警告されました.私たち自身の時代では,このことが結婚しない理由にはなっていませんが,結婚を望んでいてもまだ神によって結婚に導かれていない者にとっての慰めとなっているかもしれません.というのは,神の不変の摂理にかつてないほど信頼を置き始めるべき途方もない事態が・・・そう遠くない将来に私たちの上に降りかかることになると思えるからです・・・

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教