エレイソン・コメンツ 第155回 (2010年7月3日)
「司教閣下,私には理解できません! 最初に(エレイソン・コメンツ 第153回(以下,「EC153」),あなたは「教皇空位主義者」を非常によく見せて,聖ピオ十世会がすべて誤っているかのように仕向けました.その後,あなたは聖ピオ十世会のもう一人の反対者であるカスパー枢機卿を,さもバラの香りでもするかのように仕立て上げました.そのうえで,あなたは続けて,同枢機卿が教会の終焉(しゅうえん)を示す証しだと示唆(しさ)されたのです! 締(し)めくくりとして(EC154),あなたは結局のところ聖ピオ十世会が全く正しいと言われるのです! 私の頭は振り回されて混乱しています!」
「分かりました,まあ落ち着いてください! その答えの簡単な部分から始めて,だんだんと興味深い部分に移っていくことにしましょう.先週(EC154)私が述べたのは次のとおりです.すなわち,第二バチカン公会議がカトリック教の真理とカトリック教の権威を分離してしまったということ,そして,「教皇空位主義者」のように行き過ぎた「カトリック真理派」と、カスパー枢機卿のように行き過ぎた「教会権威主義者」の間にあって,聖ピオ十世会はカトリック真理の完全さとその真理と両立する範囲内の教会権威を共に擁護(ようご)する正しい解決策をとっているということです.当然ながら,この聖ピオ十世会のとる中庸(ちゅうよう)の立場は,「真理派」と「権威派」の双方から攻撃されます.だが,相容(あいい)れないそれら二つの誤りのいずれにも耳を傾けることは,両者の間の真の解決策が何なのかを理解する手助けになるでしょうし,またそうあるべきでしょう.」
「分かりました,閣下.でもどうしてあなたは,カスパー枢機卿が微笑んだだけで,カトリック教会は人間的には終焉したと,仰った(おっしゃった)のですか?」
「それは,カトリック教会に自(おの)ずから備わっているカトリックの真理を棄(す)てることは,教会の権威を棄てることよりもはるかに重大で深刻なことだからです.なぜなら,権威は真理に仕えるために存在するに過ぎず,したがって,カトリック真理こそが主たる存在で権威はそこから派生するだけにすぎないのです.「教皇空位主義者」はカトリック信仰を持っており(誤り導かれたキリストの代理者(=歴代教皇)が彼らのことを気にする理由がこれ以外にあるでしょうか?),彼らの良心は今なお正しいままにとどまっています(彼らの議論は非常に論理的で道理にかなっているように思えます).ところがそれに反し,カトリック信者が権威を理由に第二バチカン公会議とそれが提唱する人間の宗教を受け入れれば,その瞬間から彼は唯一の真の神の宗教であるカトリック信仰を失い始めることになり,自分の心にその矛盾を受け入れるよう強要することにより,心そのものを破壊し始めます.なせなら,これら二つの宗教,すなわち神の宗教と人間の宗教とは,その原理においても実践においても,まったく相矛盾するものだからです.あなたの周りを見てごらんなさい!
カスパー枢機卿の微笑はまさしく,最高位の聖職者たちがどれほどカトリック信仰を失ってしまったか(少なくとも人間の前に),そして第二バチカン公会議による「エキュメニカルな(=教会一致運動の)対話」の追求によって彼らの心がいかに破壊されてしまったかを示しました.神の完全性とは唯一の教会であるカトリック教会を創立されたイエズス・キリストのうちにあり,この点については必然的に,他のどの「教会」(訳注・英原語…小文字で始まる “church” - カトリック教会以外の「教会」を指す.カトリック教会は大文字で始まる “Church” で表示される.),宗教,非宗教も多かれ少なかれ異を唱えます.そうであるなら,どうしてカトリック教会の聖職者たちが,非カトリック教徒たちをカトリック信徒へと改宗させるという主目的以外のことで,彼らと話をすることができるのでしょうか? カトリック教に改宗させる以外の目的で「対話」することは,暗にイエズス・キリストが神であることを否定することになるのです.カスパー枢機卿が,聖ピオ十世会は自分のことを異端者と見なしていると考えても不思議ではありません.そこで彼はただ微笑むだけなのです.
というのも,同枢機卿は,カトリック教会の権威のために,一カトリック信徒が信じるすべてのことを自分も信じていると,依然として考えているからです.これは,同枢機卿が矛盾についてのあらゆる概念(がいねん)を失っていること,彼のカトリック信仰および心がなくなっていることを意味するのです.人の最高の能力がなくなってしまったとき,その人を救うものが心をおいて他にあるでしょうか? ただ奇跡が起こるのを待つほかありません.カスパー枢機卿は今日の聖職者たちの典型です.神からの奇跡が起こらない限り,今日の公的なカトリック教会は終焉しているのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2010年7月5日月曜日
2010年6月29日火曜日
カトリックのバランス
エレイソン・コメンツ 第154回 (2010年6月26日)
先週の「エレイソン・コメンツ」で私は,教皇ヨハネ23世以後の教皇はみな全く教皇ではなかったと信じている「教皇空位主義者」に共感しているかのように思われる論評で始め,権威のない聖ピオ十世会を物笑いの種にしてからかったカスパー枢機卿に共感するかのような論評で終わりました.私は,その論評を読んで混乱した女性読者が少なくとも一人はいたと承知しています.おそらく混乱したのは彼女だけではなかったのではないでしょうか.だが,こうしたことはすべて,第二バチカン公会議いらいカトリック教の真理がカトリック教会権威から分離してしまっているという前提に立てば,誰にとってもつじつまの合う話なのです.
今日(こんにち),教会聖職者たちのカトリック教会権威は,私たちの主イエズス・キリストのカトリック真理と一つにまとまるべきです.なぜなら,人間の権威はひとえに神の真理を擁護しかつ指導するためにだけ存在しているからです.だが,あの忌むべき公会議(1962年-1965年)で,何世紀も続いたプロテスタント教の異端とリベラリズム(自由主義)による真理の崩壊が大半の公会議主義の神父たちの心にひっそりと入り込んでしまったため,彼らはカトリック教の真理の純正さを保つことを諦(あきら)めてしまい,この日にいたるまで,公会議の新しくかつ誤った人間の宗教をカトリック教徒たちに押し付けるためカトリック教会の全権威を利用し続けているのです.
その結果,カトリック信徒たちは必然的に,信徒同士のみならず自身の内面でもバラバラに引き裂かれてしまいました.それは,次の二つの場合を見れば明らかです.一部のカトリック信徒はカトリック教の真理に固執し,多かれ少なかれカトリック教会の権威を棄(す)てざるを得ませんでした.これが「教皇空位主義者」の見出(みいだ)した解決策です.カトリック教の真理に主眼を置けば,「教皇空位主義者」に十分共感できます.というのも,第二バチカン公会議が始まっていらい今日までの,最高位の聖職者たちによるカトリック教の真理に対する裏切り行為は,あまりにもひどいものだからです.
もう一方のカトリック信徒はカトリック教会の権威に固執し,多かれ少なかれカトリック教の真理を棄てるという選択をしました.こちらはカスパー枢機卿の解決策です.カトリック教会の権威に主眼を置くなら,同枢機卿が教皇ベネディクト16世に忠誠心を持つことに共感できます.同時に,枢機卿が,まったく権威のない,依然として事実上破門されたままの聖ピオ十世会からカトリック信徒でないと非難されて微笑みを浮かべたのも理解できるのです.
だが,ルフェーブル大司教(訳注・ “Archbishop Marcel Lefebvre” (1905-1991) フランス人.「聖ピオ十世会」の創立者.)は,カトリック教の真理と教会権威の両極の間で,第3の道を選んだのです.聖ピオ十世会は,その第3の道に従っているのですが,それは,カトリック教の真理に固執しながらも,同時にカトリック教会の権威を軽視することはせず,またその当局関係者たちの地位や立場を全体的として懐疑的に見ることもしない,という道です.それは,必ずしも常にたやすく保持できるバランスではありませんが,これまでに世界中でカトリック教の実を結んできており,公会議の砂漠(1970年-2010年)の中で今まで過ごしてきた40年もの間,真実かつ唯一のカトリック教義と真実なカトリック教の諸秘跡の上に立つカトリック信徒の忠実なカトリック信心の名残を維持してきました.
そして,私たちカトリックの羊たちは,ローマの牧者が打たれている間は,その公会議の砂漠に散り散りに置かれたままでいなければならないでしょう(旧約聖書・ザカリアの書:13章7節参照,ゲッセマニの園で私たちの主イエズス・キリストが引用された-新約聖書・マテオによる福音書26章31節参照.)(訳注・引用された聖書の箇所…後記参照).このカトリック教会のゲッセマニにおいて,私たちはともかく仲間の羊たちに深い哀れみをかけなければなりません.私が「教皇空位主義者」たちに,そしてある程度までリベラル派(自由主義者)にすら共感できるのはそのためです.しかし,このことは,決してルフェーブル大司教の第3の道が正道でなくなったことを意味するものではありません.たとえ第3の道が,しばらくのあいだ恐竜に飽きているように見えるとしてもです.たとえそうだとしても,私にはそのことさえも理解できるのです!
偉大なる神の御母がこの小さな修道会(聖ピオ十世会)をいつまでもお守りくださいますように!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第6パラグラフの聖書の引用箇所2か所)
1.- 旧約聖書・ザカリアの書:第13章7節 -
剣よ,立って,私の牧者と,私にくみしているものを攻めよ.
―― 万軍の主のお告げ ――
牧者を殺せ,そうすれば,羊は散る.
そのとき,私は,小さなものに向かって,手をのばす.
(注釈)この「牧者」は,11章4-14節に出る「よい牧者」でもなく,11章15-16節に出る「悪い牧者」でもなく,一般に,主の代理者となっている「民のかしら」を指している.彼は,剣に打たれ,全人民は,試練を受けることとなる.羊は,牧者のない群れとなるのだから.このときになれば,民は,新しい契約のために,準備されるものとなる.マテオ福音(26章31節)は,「牧者を殺せ,そうすれば,羊は散る」の一句を,メシア(救世主イエズス・キリスト)にあてはめている.
(11章4-14,15-16節については,後日,別途に追加します.)
2.- 新約聖書・マテオによる福音書26章31節 -
(「最後の晩餐」にてイエズス・キリストは御聖体の秘跡を制定された後,弟子たちと讃美歌を歌ってからオリーブ山に出ていった)「…そのときイエズスは弟子たちに言われた,「今夜,あなたたちはみな私についてつまずくだろう.〈私(=神)は牧者を打ち,そして羊の群れは散る〉と書かれているからだ.…」
(注釈)「ザカリアの書13章7節」参照.弟子たちは,イエズスをメシア(救世主)と信じて勝利の日を待っていた.そのイエズスが,何の抵抗もせず死んで行くことを見ての宗教的つまずき.
先週の「エレイソン・コメンツ」で私は,教皇ヨハネ23世以後の教皇はみな全く教皇ではなかったと信じている「教皇空位主義者」に共感しているかのように思われる論評で始め,権威のない聖ピオ十世会を物笑いの種にしてからかったカスパー枢機卿に共感するかのような論評で終わりました.私は,その論評を読んで混乱した女性読者が少なくとも一人はいたと承知しています.おそらく混乱したのは彼女だけではなかったのではないでしょうか.だが,こうしたことはすべて,第二バチカン公会議いらいカトリック教の真理がカトリック教会権威から分離してしまっているという前提に立てば,誰にとってもつじつまの合う話なのです.
今日(こんにち),教会聖職者たちのカトリック教会権威は,私たちの主イエズス・キリストのカトリック真理と一つにまとまるべきです.なぜなら,人間の権威はひとえに神の真理を擁護しかつ指導するためにだけ存在しているからです.だが,あの忌むべき公会議(1962年-1965年)で,何世紀も続いたプロテスタント教の異端とリベラリズム(自由主義)による真理の崩壊が大半の公会議主義の神父たちの心にひっそりと入り込んでしまったため,彼らはカトリック教の真理の純正さを保つことを諦(あきら)めてしまい,この日にいたるまで,公会議の新しくかつ誤った人間の宗教をカトリック教徒たちに押し付けるためカトリック教会の全権威を利用し続けているのです.
その結果,カトリック信徒たちは必然的に,信徒同士のみならず自身の内面でもバラバラに引き裂かれてしまいました.それは,次の二つの場合を見れば明らかです.一部のカトリック信徒はカトリック教の真理に固執し,多かれ少なかれカトリック教会の権威を棄(す)てざるを得ませんでした.これが「教皇空位主義者」の見出(みいだ)した解決策です.カトリック教の真理に主眼を置けば,「教皇空位主義者」に十分共感できます.というのも,第二バチカン公会議が始まっていらい今日までの,最高位の聖職者たちによるカトリック教の真理に対する裏切り行為は,あまりにもひどいものだからです.
もう一方のカトリック信徒はカトリック教会の権威に固執し,多かれ少なかれカトリック教の真理を棄てるという選択をしました.こちらはカスパー枢機卿の解決策です.カトリック教会の権威に主眼を置くなら,同枢機卿が教皇ベネディクト16世に忠誠心を持つことに共感できます.同時に,枢機卿が,まったく権威のない,依然として事実上破門されたままの聖ピオ十世会からカトリック信徒でないと非難されて微笑みを浮かべたのも理解できるのです.
だが,ルフェーブル大司教(訳注・ “Archbishop Marcel Lefebvre” (1905-1991) フランス人.「聖ピオ十世会」の創立者.)は,カトリック教の真理と教会権威の両極の間で,第3の道を選んだのです.聖ピオ十世会は,その第3の道に従っているのですが,それは,カトリック教の真理に固執しながらも,同時にカトリック教会の権威を軽視することはせず,またその当局関係者たちの地位や立場を全体的として懐疑的に見ることもしない,という道です.それは,必ずしも常にたやすく保持できるバランスではありませんが,これまでに世界中でカトリック教の実を結んできており,公会議の砂漠(1970年-2010年)の中で今まで過ごしてきた40年もの間,真実かつ唯一のカトリック教義と真実なカトリック教の諸秘跡の上に立つカトリック信徒の忠実なカトリック信心の名残を維持してきました.
そして,私たちカトリックの羊たちは,ローマの牧者が打たれている間は,その公会議の砂漠に散り散りに置かれたままでいなければならないでしょう(旧約聖書・ザカリアの書:13章7節参照,ゲッセマニの園で私たちの主イエズス・キリストが引用された-新約聖書・マテオによる福音書26章31節参照.)(訳注・引用された聖書の箇所…後記参照).このカトリック教会のゲッセマニにおいて,私たちはともかく仲間の羊たちに深い哀れみをかけなければなりません.私が「教皇空位主義者」たちに,そしてある程度までリベラル派(自由主義者)にすら共感できるのはそのためです.しかし,このことは,決してルフェーブル大司教の第3の道が正道でなくなったことを意味するものではありません.たとえ第3の道が,しばらくのあいだ恐竜に飽きているように見えるとしてもです.たとえそうだとしても,私にはそのことさえも理解できるのです!
偉大なる神の御母がこの小さな修道会(聖ピオ十世会)をいつまでもお守りくださいますように!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第6パラグラフの聖書の引用箇所2か所)
1.- 旧約聖書・ザカリアの書:第13章7節 -
剣よ,立って,私の牧者と,私にくみしているものを攻めよ.
―― 万軍の主のお告げ ――
牧者を殺せ,そうすれば,羊は散る.
そのとき,私は,小さなものに向かって,手をのばす.
(注釈)この「牧者」は,11章4-14節に出る「よい牧者」でもなく,11章15-16節に出る「悪い牧者」でもなく,一般に,主の代理者となっている「民のかしら」を指している.彼は,剣に打たれ,全人民は,試練を受けることとなる.羊は,牧者のない群れとなるのだから.このときになれば,民は,新しい契約のために,準備されるものとなる.マテオ福音(26章31節)は,「牧者を殺せ,そうすれば,羊は散る」の一句を,メシア(救世主イエズス・キリスト)にあてはめている.
(11章4-14,15-16節については,後日,別途に追加します.)
2.- 新約聖書・マテオによる福音書26章31節 -
(「最後の晩餐」にてイエズス・キリストは御聖体の秘跡を制定された後,弟子たちと讃美歌を歌ってからオリーブ山に出ていった)「…そのときイエズスは弟子たちに言われた,「今夜,あなたたちはみな私についてつまずくだろう.〈私(=神)は牧者を打ち,そして羊の群れは散る〉と書かれているからだ.…」
(注釈)「ザカリアの書13章7節」参照.弟子たちは,イエズスをメシア(救世主)と信じて勝利の日を待っていた.そのイエズスが,何の抵抗もせず死んで行くことを見ての宗教的つまずき.
2010年6月28日月曜日
枢機卿が微笑む
エレイソン・コメンツ 第153回 (2010年6月19日)
最近のカスパー枢機卿の微笑(ほほえみ,びしょう)は,私の長年にわたる信念を裏付けるものです(訳注・カスパー枢機卿(すうききょう)…“Walter Kasper”(ヴァルター・カスパー),ドイツ人.現在「他のキリスト教会およびユダヤ人との宗教関係」についてのバチカンの関連部門の長(=「キリスト教一致推進評議会」議長兼「ユダヤ人との宗教関係委員会」委員長).).その信念とはすなわち,教皇ヨハネ23世以来,今日までの歴代の公会議主義者の教皇たちが示してきた徹底的なリベラリズム(=自由主義)にもかかわらず,彼らが本当に教皇だったかどうか疑念を抱く必要はないということです.多くの真面目で信心深いカトリック信徒たちは,そのことについて疑問をもっています(解説後記).というのも彼ら信徒には,真のキリストの代理者(訳注・すなわち教皇を指す.)たちがどうして,これらの歴代の教皇たちがこれまでしてきたほどにカトリック信仰とキリストの教会(訳注・カトリック教会のこと.)から遠く逸脱(いつだつ)し得るのかが理解できないからです.実に測り知れないほど深刻で由々しき問題がそこにはあるのです.
こうした人たちは通常「教皇空位主義者」と呼ばれていますが,彼らは,誰でも異端者のように歩き,異端者のように話し,またアメリカ人が言うように,異端者のように騒々しくいんちきを宣伝すれば,それでその者は異端者であると論じます.しかし,異端者とは教会から自身を締め出す人のことです.故にこれら歴代の教皇はカトリック教会から自分たちを締め出してしまったのですから,とうてい教会の長として在位し得るはずがありません.どうして教会の非会員がその長たり得るでしょうか?(解説後記)
私の信念によれば,真実の答えは,唯一の救いの箱を反射的に見捨てるような異端とは極めて深刻なことであり,それを犯す者は,自分がしていることを十分に知り本気でそう行動しなければならない,ということです.その者は神ご自身の権威で神の教会によって定義されたカトリックの真理を否認しているということ,言い換えれば,神に逆らっているのだということを自覚していなければなりません.その自覚がない者は - カトリック教会では「頑固」と呼ばれますが - たとえ数々の神の真理を否認していても,まだ神に逆らっているとか,あるいは教会を見捨てたということにはなりません.
さて,「教皇空位主義者」は,深く教会教育の薫陶(くんとう)を受けた歴代教皇が,多大な影響を与えるような発言をするときに自分が何をしているか分かっていないなどという考え方を,馬鹿げていると一笑に付します.その類(たぐい)の発言の例を多数ある中から唯(ただ)一つ挙げるとすれば,例えば教皇ベネディクト16世が旧約(訳注・神とイスラエル人との間で交わされた旧(ふる)い契約のこと.モーゼの律法.)の正当性についてする発言です.教会が正気だった昔なら,異端者の行動を自覚させるには教皇の異端審問(訳注・原文“the Pope’s Inquisition (or Holy Office)”) に引っ張り出し,自分の犯した間違いに教皇の権威をもって真正面から直面させ,間違いをしないよう促(うなが)したことでしょう.もし,異端者がこれに従うのを拒めば,その時は,その頑固さがだれの目にも明明白白となるわけで,その狼(おおかみ)は羊舎(ようしゃ)から放り出されました.だが,そうした審問には異端者を召喚(しょうかん)することと,犯した間違いを断じることの両方を行える権威が必要です.然(しか)るに,第二バチカン公会議以来,カトリック教会の最高権威とされている同公会議がもはやカトリック教の真実の見極め(みきわめ)ができなくなっているとすれば,一体どうすればよいのでしょうか?(注釈後記)
カスパー枢機卿にご登場いただきましょう.パリで5月4日に行った記者会見で(すでに「エレイソン・コメンツ 第148号」で触れたとおり),彼は自分の担当するカトリック教会と他のキリスト教会との対話に聖ピオ十世会が頑な(かたくな)に反対していると述べたと伝えられます.枢機卿の発言内容は正確です.「彼ら(聖ピオ十世会)は私を異端者だと攻撃しています」と,枢機卿は微笑みながら述べました.
彼が微笑むのはもっともなことです.全キリスト教会間の対話とは,第二バチカン公会議以来の普遍教会(=カトリック教会.“Universal Church”. )の行動指針として実践されてきたことであり,教皇ベネディクト16世がいたるところでその重要性を説き,カスパー枢機卿が教皇の首席代理人を務めてきたわけですが,聖ピオ十世会がいかなる権威によってその対話に異を唱(とな)えているとお考えなのか,差支え(さしつかえ)なければお聞かせください.善良なカスパー枢機卿が記者会見で爆笑するのを慎んだのは,見当違いをしている「伝統主義者」たちへの単なる思いやりだったに違いありません.
人間的な言い方をすれば,教会はもう終焉(しゅうえん)しています.だが,神の見地から言えば,そのようなことはありません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(第1,2パラグラフの解説)
「教皇空位主義者」“Sedevacantist”
…“Sede-”=ローマ教皇座(The Holy See (La Santa Sede) = 聖座).“vacant”=空位の.
カトリック信徒を自称しているが,第二バチカン公会議以降のローマ教皇たちは正統な教皇と認めないと主張する人を指す.彼らによれば,現在のローマ教皇座は「空位」であるという結論になる.
教皇空位主義者は,教皇ヨハネ23世および教皇パウロ6世のもとで推し進められた第二バチカン公会議によるカトリック教会の改革を一切認めない立場に立つ.したがって彼らは,伝統的な典礼(ラテン語のみで執り行われる旧来のトリエント・ミサ典礼= “Tridentine Mass”,聖伝のミサ典礼.)のみを認め,第二バチカン公会議で定められた各国語で行う典礼(新しいミサ典礼=“Novus Ordo”)は認めない.
(第4パラグラフの注釈)
つまり,正当にはカトリック教会の最高権威はローマ教皇であるが,もしそのローマ教皇が異端者ということでもはや教会の長たり得ず,しかも現在教会の最高権威とされている第二バチカン公会議にカトリック教に則った真実の見極めをする能力がない場合,いったい誰がどういう権威で「異端者」を召喚しかつ断罪し得るのだろうか?ということ.)
最近のカスパー枢機卿の微笑(ほほえみ,びしょう)は,私の長年にわたる信念を裏付けるものです(訳注・カスパー枢機卿(すうききょう)…“Walter Kasper”(ヴァルター・カスパー),ドイツ人.現在「他のキリスト教会およびユダヤ人との宗教関係」についてのバチカンの関連部門の長(=「キリスト教一致推進評議会」議長兼「ユダヤ人との宗教関係委員会」委員長).).その信念とはすなわち,教皇ヨハネ23世以来,今日までの歴代の公会議主義者の教皇たちが示してきた徹底的なリベラリズム(=自由主義)にもかかわらず,彼らが本当に教皇だったかどうか疑念を抱く必要はないということです.多くの真面目で信心深いカトリック信徒たちは,そのことについて疑問をもっています(解説後記).というのも彼ら信徒には,真のキリストの代理者(訳注・すなわち教皇を指す.)たちがどうして,これらの歴代の教皇たちがこれまでしてきたほどにカトリック信仰とキリストの教会(訳注・カトリック教会のこと.)から遠く逸脱(いつだつ)し得るのかが理解できないからです.実に測り知れないほど深刻で由々しき問題がそこにはあるのです.
こうした人たちは通常「教皇空位主義者」と呼ばれていますが,彼らは,誰でも異端者のように歩き,異端者のように話し,またアメリカ人が言うように,異端者のように騒々しくいんちきを宣伝すれば,それでその者は異端者であると論じます.しかし,異端者とは教会から自身を締め出す人のことです.故にこれら歴代の教皇はカトリック教会から自分たちを締め出してしまったのですから,とうてい教会の長として在位し得るはずがありません.どうして教会の非会員がその長たり得るでしょうか?(解説後記)
私の信念によれば,真実の答えは,唯一の救いの箱を反射的に見捨てるような異端とは極めて深刻なことであり,それを犯す者は,自分がしていることを十分に知り本気でそう行動しなければならない,ということです.その者は神ご自身の権威で神の教会によって定義されたカトリックの真理を否認しているということ,言い換えれば,神に逆らっているのだということを自覚していなければなりません.その自覚がない者は - カトリック教会では「頑固」と呼ばれますが - たとえ数々の神の真理を否認していても,まだ神に逆らっているとか,あるいは教会を見捨てたということにはなりません.
さて,「教皇空位主義者」は,深く教会教育の薫陶(くんとう)を受けた歴代教皇が,多大な影響を与えるような発言をするときに自分が何をしているか分かっていないなどという考え方を,馬鹿げていると一笑に付します.その類(たぐい)の発言の例を多数ある中から唯(ただ)一つ挙げるとすれば,例えば教皇ベネディクト16世が旧約(訳注・神とイスラエル人との間で交わされた旧(ふる)い契約のこと.モーゼの律法.)の正当性についてする発言です.教会が正気だった昔なら,異端者の行動を自覚させるには教皇の異端審問(訳注・原文“the Pope’s Inquisition (or Holy Office)”) に引っ張り出し,自分の犯した間違いに教皇の権威をもって真正面から直面させ,間違いをしないよう促(うなが)したことでしょう.もし,異端者がこれに従うのを拒めば,その時は,その頑固さがだれの目にも明明白白となるわけで,その狼(おおかみ)は羊舎(ようしゃ)から放り出されました.だが,そうした審問には異端者を召喚(しょうかん)することと,犯した間違いを断じることの両方を行える権威が必要です.然(しか)るに,第二バチカン公会議以来,カトリック教会の最高権威とされている同公会議がもはやカトリック教の真実の見極め(みきわめ)ができなくなっているとすれば,一体どうすればよいのでしょうか?(注釈後記)
カスパー枢機卿にご登場いただきましょう.パリで5月4日に行った記者会見で(すでに「エレイソン・コメンツ 第148号」で触れたとおり),彼は自分の担当するカトリック教会と他のキリスト教会との対話に聖ピオ十世会が頑な(かたくな)に反対していると述べたと伝えられます.枢機卿の発言内容は正確です.「彼ら(聖ピオ十世会)は私を異端者だと攻撃しています」と,枢機卿は微笑みながら述べました.
彼が微笑むのはもっともなことです.全キリスト教会間の対話とは,第二バチカン公会議以来の普遍教会(=カトリック教会.“Universal Church”. )の行動指針として実践されてきたことであり,教皇ベネディクト16世がいたるところでその重要性を説き,カスパー枢機卿が教皇の首席代理人を務めてきたわけですが,聖ピオ十世会がいかなる権威によってその対話に異を唱(とな)えているとお考えなのか,差支え(さしつかえ)なければお聞かせください.善良なカスパー枢機卿が記者会見で爆笑するのを慎んだのは,見当違いをしている「伝統主義者」たちへの単なる思いやりだったに違いありません.
人間的な言い方をすれば,教会はもう終焉(しゅうえん)しています.だが,神の見地から言えば,そのようなことはありません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(第1,2パラグラフの解説)
「教皇空位主義者」“Sedevacantist”
…“Sede-”=ローマ教皇座(The Holy See (La Santa Sede) = 聖座).“vacant”=空位の.
カトリック信徒を自称しているが,第二バチカン公会議以降のローマ教皇たちは正統な教皇と認めないと主張する人を指す.彼らによれば,現在のローマ教皇座は「空位」であるという結論になる.
教皇空位主義者は,教皇ヨハネ23世および教皇パウロ6世のもとで推し進められた第二バチカン公会議によるカトリック教会の改革を一切認めない立場に立つ.したがって彼らは,伝統的な典礼(ラテン語のみで執り行われる旧来のトリエント・ミサ典礼= “Tridentine Mass”,聖伝のミサ典礼.)のみを認め,第二バチカン公会議で定められた各国語で行う典礼(新しいミサ典礼=“Novus Ordo”)は認めない.
(第4パラグラフの注釈)
つまり,正当にはカトリック教会の最高権威はローマ教皇であるが,もしそのローマ教皇が異端者ということでもはや教会の長たり得ず,しかも現在教会の最高権威とされている第二バチカン公会議にカトリック教に則った真実の見極めをする能力がない場合,いったい誰がどういう権威で「異端者」を召喚しかつ断罪し得るのだろうか?ということ.)
2010年5月18日火曜日
眠れない教皇
エレイソン・コメンツ 第148回 (2010年5月15日)
カトリック伝統主義運動とは何かについて公会議主義下のローマがいかにひどく誤解しているかが,先週水曜日にパリで他のキリスト教会およびユダヤ人との宗教関係についてのバチカンの関連部門の長(訳注・「キリスト教一致推進評議会」議長兼「ユダヤ人との宗教関係委員会」委員長)であるカスパー枢機卿(訳注・Walter Kasper(ヴァルター・カスパー).ドイツ人)が記者会見を行った際に再度明らかになりました.ロイター通信社の記事からできるだけ忠実に,5項目に要約された同枢機卿の考えを引用し,その後で所感を述べさせていただきます.
(1)現在ローマ側の神学者四人と聖ピオ十世会の司教一人ならびに司祭三人との間で二カ月ごとに行われている教理上の論議は難航している. 2)主な問題点は伝統についての概念である.「私たちが求めるのは生きた伝統でしょうか,それとも石化した伝統でしょうか?」と,同枢機卿は(記者会見で)疑問を呈した.3)枢機卿は聖ピオ十世会との対話そのものには賛成だが,対話はローマが提示する条件の下で行われるべきであり,聖ピオ十世会の条件下で行われるべきではないと述べた. 4)仮に両者が合意に達するとすれば,聖ピオ十世会が譲歩しなければならず,同会が公会議の行った改革を受け入れなければならない. 5)もし合意に至らなければ,聖ピオ十世会は何ら公的地位を持たないこととなり,同会の司祭はカトリック司祭として認められず,聖職を執行することも許されないこととなる.
(1)2+2=4(カトリック伝統と聖ピオ十世会のよって立つ命題)と2+2=4または5(第二バチカン公会議と公会議主義のローマのよって立つ命題)を調整して一致させるのはむろん容易ではないでしょう.私たちは二つの極めて異なる算術概念に直面しており,それと同じくらいに相異なる二つのカトリック真理についての観念に直面しているのです.
(2)2+2=4は真理であり,その真理は不変かつ変更不可であり,それゆえに「伝統的」なのです.2+2=4または5というのは新しい算術です.人によっては「生きている」ととらえるでしょうが,それは全く実存しないものであり,したがって伝統的とはまるでかけ離れたものです.
(3)真の算術について議論するなら,議論は真の算術の条件に基づいてなされるはずで,議論しているいずれかの当事者による条件に基づいてなされるものではありません.それは,たとえ当事者のいずれかが条件について一定の立場を持っているとしてもです.
(4)誰が2+2=4または5(第二バチカン公会議による命題)という合意に達することを欲し,あるいは必要としているのでしょうか?真の算術など,もはやどうでもお構いなしという空想上の商人だけです!
(5)もし「公的地位」,「司祭としての承認」そして「聖職執行を許可されること」がすべて2+2=4または5の命題を受け入れるかどうかで決まるのであれば,そのような「地位」,「承認」および「許可」は,すべてカトリック真理という代価を払って買い取られたものだということになります.しかし,もし私がそのカトリック真理を売り払うとすれば,私はどうやってその真理を持ち続け人々にそれを語ることができるでしょうか? そして,もしカトリック真理を語ることができなくなってしまったら,私は(訳注・ローマ側の「司祭としての承認」付きで)どのような司祭になり得,(訳注・その結果)どのような聖職を執行することになるのでしょうか?
従って結論としては,彼らローマ側の者たちと聖ピオ十世会が別々の道を歩むのは,ただ「伝統」のみならず真理の本質そのものについて相違が存在するためなのです.真理の定義を変えることで,彼らローマの者たちはカトリック真理を失ってしまっており,少なくとも客観的に言えば,事実上彼らは,マクベスの「殺された眠り」((訳注・英国の戯作家シェイクスピア(William Shakespeare(1564(受洗礼年.正確な生年月日は不明)-1616)作の悲劇「マクベス」“Macbeth”におけるセリフ(“Methought I heard a voice cry “Sleep no more! Macbeth does murder sleep”,…「叫び声が聞こえた気がした,〈もう眠りは無しだ!マクベスは眠りを殺した〉…」― 《マクベス》第二幕第二場より)から引用.)) のように、カトリック真理を殺しているのです.同じロイターの記事によれば,教皇は,聖ピオ十世会の問題が「彼(教皇)から眠りを奪っている」(訳注・=聖ピオ十世会の問題が気がかりで「夜も眠れない」)と言ったと伝えられています.
教皇聖下,カトリック真理は聖ピオ十世会をはるかに上回って人知を超える高みに臨在(りんざい)しており(訳注・臨在=現存=presence.原文…“…the Truth is far above the SSPX,”),聖ピオ十世会はそれを守ろうとする束の間の小さな存在のひとつにすぎないことをどうか信じてください.私たち聖ピオ十世会会員の誰もが,聖下が万事良好で,とくに熟睡されるよう願っております.聖下を夜の安眠から妨げているのは聖ピオ十世会ではなく,抹殺されたカトリック真理なのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
カトリック伝統主義運動とは何かについて公会議主義下のローマがいかにひどく誤解しているかが,先週水曜日にパリで他のキリスト教会およびユダヤ人との宗教関係についてのバチカンの関連部門の長(訳注・「キリスト教一致推進評議会」議長兼「ユダヤ人との宗教関係委員会」委員長)であるカスパー枢機卿(訳注・Walter Kasper(ヴァルター・カスパー).ドイツ人)が記者会見を行った際に再度明らかになりました.ロイター通信社の記事からできるだけ忠実に,5項目に要約された同枢機卿の考えを引用し,その後で所感を述べさせていただきます.
(1)現在ローマ側の神学者四人と聖ピオ十世会の司教一人ならびに司祭三人との間で二カ月ごとに行われている教理上の論議は難航している. 2)主な問題点は伝統についての概念である.「私たちが求めるのは生きた伝統でしょうか,それとも石化した伝統でしょうか?」と,同枢機卿は(記者会見で)疑問を呈した.3)枢機卿は聖ピオ十世会との対話そのものには賛成だが,対話はローマが提示する条件の下で行われるべきであり,聖ピオ十世会の条件下で行われるべきではないと述べた. 4)仮に両者が合意に達するとすれば,聖ピオ十世会が譲歩しなければならず,同会が公会議の行った改革を受け入れなければならない. 5)もし合意に至らなければ,聖ピオ十世会は何ら公的地位を持たないこととなり,同会の司祭はカトリック司祭として認められず,聖職を執行することも許されないこととなる.
(1)2+2=4(カトリック伝統と聖ピオ十世会のよって立つ命題)と2+2=4または5(第二バチカン公会議と公会議主義のローマのよって立つ命題)を調整して一致させるのはむろん容易ではないでしょう.私たちは二つの極めて異なる算術概念に直面しており,それと同じくらいに相異なる二つのカトリック真理についての観念に直面しているのです.
(2)2+2=4は真理であり,その真理は不変かつ変更不可であり,それゆえに「伝統的」なのです.2+2=4または5というのは新しい算術です.人によっては「生きている」ととらえるでしょうが,それは全く実存しないものであり,したがって伝統的とはまるでかけ離れたものです.
(3)真の算術について議論するなら,議論は真の算術の条件に基づいてなされるはずで,議論しているいずれかの当事者による条件に基づいてなされるものではありません.それは,たとえ当事者のいずれかが条件について一定の立場を持っているとしてもです.
(4)誰が2+2=4または5(第二バチカン公会議による命題)という合意に達することを欲し,あるいは必要としているのでしょうか?真の算術など,もはやどうでもお構いなしという空想上の商人だけです!
(5)もし「公的地位」,「司祭としての承認」そして「聖職執行を許可されること」がすべて2+2=4または5の命題を受け入れるかどうかで決まるのであれば,そのような「地位」,「承認」および「許可」は,すべてカトリック真理という代価を払って買い取られたものだということになります.しかし,もし私がそのカトリック真理を売り払うとすれば,私はどうやってその真理を持ち続け人々にそれを語ることができるでしょうか? そして,もしカトリック真理を語ることができなくなってしまったら,私は(訳注・ローマ側の「司祭としての承認」付きで)どのような司祭になり得,(訳注・その結果)どのような聖職を執行することになるのでしょうか?
従って結論としては,彼らローマ側の者たちと聖ピオ十世会が別々の道を歩むのは,ただ「伝統」のみならず真理の本質そのものについて相違が存在するためなのです.真理の定義を変えることで,彼らローマの者たちはカトリック真理を失ってしまっており,少なくとも客観的に言えば,事実上彼らは,マクベスの「殺された眠り」((訳注・英国の戯作家シェイクスピア(William Shakespeare(1564(受洗礼年.正確な生年月日は不明)-1616)作の悲劇「マクベス」“Macbeth”におけるセリフ(“Methought I heard a voice cry “Sleep no more! Macbeth does murder sleep”,…「叫び声が聞こえた気がした,〈もう眠りは無しだ!マクベスは眠りを殺した〉…」― 《マクベス》第二幕第二場より)から引用.)) のように、カトリック真理を殺しているのです.同じロイターの記事によれば,教皇は,聖ピオ十世会の問題が「彼(教皇)から眠りを奪っている」(訳注・=聖ピオ十世会の問題が気がかりで「夜も眠れない」)と言ったと伝えられています.
教皇聖下,カトリック真理は聖ピオ十世会をはるかに上回って人知を超える高みに臨在(りんざい)しており(訳注・臨在=現存=presence.原文…“…the Truth is far above the SSPX,”),聖ピオ十世会はそれを守ろうとする束の間の小さな存在のひとつにすぎないことをどうか信じてください.私たち聖ピオ十世会会員の誰もが,聖下が万事良好で,とくに熟睡されるよう願っております.聖下を夜の安眠から妨げているのは聖ピオ十世会ではなく,抹殺されたカトリック真理なのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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