エレイソン・コメンツ 第281回 (2012年12月1日)
地上における私たちの主イエズス・キリストの真の教会の正体とは本来いかなるものなのでしょうか.そして,今日その呼び名がいかに多岐(たき)にわたっていることでしょうか.これまでにこの状態をめぐって多くの混乱があまねく行き渡っています( "Much confusion reigns today over the identity of Our Lord’s true Church here on earth, and the variety of names by which it can be called. " ).簡単に言えば,この混乱の多くは教会がいま直面する最大の問題,すなわち不愉快(ふゆかい)きわまりない第二バチカン公会議(1962-1965)から生(しょう)じています( "Easily most of the present confusion comes from the Church’s biggest problem of today, which is the diabolical Second Vatican Council (1962-1965). " ).ここでは,この混乱の一部について解明してみたいとおもいます( "Let us attempt to disentangle some of the confusion. " ).
教会( "Church" )は古英語の "cirice" から生まれた言葉です.その "cirice" は「主のもの」( "of the Lord" )を意味するギリシア語 "kuriakon" から派生したものです.したがって, "Doma kuriakon" は「主の家」( "house of the Lord" )を意味しました( "“Church” derives from the Old English “cirice”, deriving in turn from the Greek word “kuriakon”, meaning “of the Lord”. " ).その建物に "church" をあてたことから転じて,それ(訳注・その建物=主の家= "church" )は建物そのものだけでなく,そこにいつも見られる人々をも意味するようになったのです( "Thus “Doma kuriakon” meant “house of the Lord”, and from naming the building, “church” came to mean also the people that were regularly to be found in the building. " ).
「カトリック」 "Catholic" 教会は数々の建物それぞれの名称ですが,その名称は主としてひとつの世界的なグループ,すなわち,人間の姿をとって地上に(生まれて)来られた神,すなわち私たちの主イエズス・キリストが二千年前この世に生きておられる間に設立したひとつの信仰,ひと組の諸秘跡,ひとつの聖職者秩序を共有する人たちの世界的なグループを意味します(ギリシア語の "katholos" は普遍(ふへん) "universal" を意味します.)( "“Catholic” Church names many a building, but principally the worldwide group of people (“katholos” in Greek means “universal”) who share one Faith, one set of Sacraments and one Hierarchy, all three having been established by the Incarnate God, Our Lord Jesus Christ, in his life on earth two thousand years ago. " ).だが,私たちの主が設立されたこの最初のグループからほかのグループが絶えず分派し( "But from this original group of believers as instituted by Our Lord, other groups have regularly broken away,…" )しかもそれぞれのグループがキリストの真の教会だと主張しました( "…while still claiming to be Christ’s true Church. " ).これでは,どれがキリストの真の教会か知るすべがありません( "How then am I to know which is his true Church ? " ).
「キリストの教会」 ( "Christ's Church" ) はいわゆる4つの特徴 ( "Marks" ) を持っています ( "“Christ’s Church” has four Marks, as they are called." ) .それは, 〔1〕.唯一 ( "One" ) であること - すなわち,私たちの主イエズス・キリストはまず第一にひとつの信仰によって自らの教会を統一しようとされたのであり,多くの教会を設立することが彼の意図ではありませんでした (新約聖書・ヨハネ聖福音書:第17章21-23節 「教会はひとつたるべし」 を参照) ( " 1 One - above all by oneness of Faith Our Lord meant to unite his Church and not to found many churches (cf. Jn. XVII, 21-23: “That they may be one”)." ). 〔2〕.聖 (=神聖) ( "Holy" ) であること (訳注後記) - 私たちの主イエズス・キリストは人々を神聖な神,神聖な天国へ導くために教会を設立されました(マテオ聖福音書・第5章:48節:「汝は完全無欠たれ」を参照)( "… 2 Holy - Our Lord founded his Church to bring men to the All-Holy God and his holy Heaven (cf. Mt. V, 48: “Be you perfect”). " ).(訳注後記) 〔3〕.公 (おおやけ=普遍・カトリック) ( "Catholic" ) であること - 私たちの主イエズス・キリストはその教会をあらゆる場所,あらゆる時代の人々のために設立されました ( マテオ聖福音書・第28章19節: 「行け,そしてあらゆる人々に教えよ」 を参照) ( "…3 Catholic - Our Lord founded his Church for all men of all lands and all ages (cf. Mt. XXVIII, 19: “Going, teach ye all nations”)." ). 〔4〕.使徒継承 ( "Apostolic" ) であること - 私たちの主イエズス・キリストは自(みずか)らの教会を使徒ペトロおよびその後継者たちによって治(おさ)められる王国として設立されました (マテオ聖福音書・第16章18節: 「汝 (なんじ) はペトロ (訳注・ "Peter" =岩) なり.私は私の教会をこの岩 (ギリシア語で "petran" ) の上に建てる」 を参照.) ( "…4 Apostolic - Our Lord founded his Church as a monarchy, to be ruled by the Apostle Peter and his successors (cf. Mt. XVI, 18: “Thou art Peter and upon this rock (in Greek “petran”) I will found my Church”). " ).この4つの特徴を持つ教会はキリスト (訳注・すなわち救世主=メシア) の真の教会です.そのどれが欠けても,それはキリストの真の教会ではありません ( "Wherever these four Marks are, there is Christ’s true Church. Where they are lacking, there is not Christ’s Church." ).
公会議派の教会( "Conciliar Church" )は人間中心の第二バチカン公会議の支配のもとで堕落(だらく)し,いまだに堕落し続けている神中心のカトリック教会を意味します( " “Conciliar Church” means the God-centred Catholic Church as fallen and still falling under the sway of the man-centred Second Vatican Council." ).公会議主義(第二バチカン公会議が蒸留(じょうりゅう)して残した誤(あやま)り= "(the distilled error of Vatican II)" )とキリストの真の教会との関係は,腐(くさ)った林檎(りんご)の腐敗(ふはい)源泉(げんせん)(“the rot of a rotten apple”)とそれが腐敗させようとしているほかの林檎との関係と同じ様です( "Conciliarism (the distilled error of Vatican II) bears the same relation to the true Church of Christ as the rot of a rotten apple bears to the apple which it is rotting." ).腐敗の源泉は林檎自体を占拠(せんきょ)し,林檎に依存(いぞん)し,林檎なしでは生存できません.だが,それは林檎そのものとはまったく異(こと)なる存在です.(それは「食べられない "uneatable" 」と「食べられる "eatable" 」の違いほどです.)( "Just as rot occupies the apple, depends on the apple, cannot exist without the apple, yet is quite different from the apple (as uneatable is different from eatable), …" ). かくして,人間中心の公会議主義がキリストの教会を占拠し,その教会は程度の差こそあれ腐っていきます.だが,公会議主義とカトリック信仰はまったく異なるものであるため,公会議派教会はカトリック教会ではないと断言できます( "… so man-centred Conciliarism so occupies Christ’s Church that little of the Church is not more or less rotten, yet Conciliarism is so different from Catholicism that one can truly say that the Conciliar Church is not the Catholic Church. " ).そうは言っても,カトリック教会は目に見えるものであり,公会議派教会も同じく目に見えるものではないかといった疑問が残るでしょう( "But the Catholic Church is visible. Isn’t the Conciliar Church also visible ? " ).
「目に見える教会( "Visible Church" )とは私たちが目で見ることができる教会の諸々の建物,諸聖職者,諸信者のすべてを意味します( "“Visible Church” means all the buildings, officials and people of the Church that we can see with our eyes." ).だが,カトリック教会は目に見えるものであるから,目に見える教会はカトリック教会であると言うのは,ちょうどライオンは動物であるから,あらゆる動物はライオンだと言うくらい馬鹿げたことです( "But to say that the Catholic Church is visible, therefore the visible Church is the Catholic Church, is as foolish as to say that all lions are animals so all animals are lions." ).目に見える教会がカトリック的であるのは,それが唯一であり,神聖かつ公(=普遍的)で,使徒継承であるときだけです.それ以外の教会は雑多な腐敗にすぎません( "That part alone of the visible Church is Catholic which is one, holy, universal and apostolic. The rest is various sorts of rot." ).
「公的教会」( "Official Church" )とはそこにいる目に見える聖職者たちによって導かれ,それに従って行動する教会を意味します( "“Official Church” means the Church as led by, and following, its visible officials." ).今日の多くの聖職者たちは公会議派ですから,上に述べた4つの特徴に従えば,公的教会はカトリック教会ではありません( "Since these today are largely Conciliar, so the “official Church” is largely Conciliar and not Catholic, according to the four Marks." ).同じように,「主流派教会」( "Mainstream Church" )は残った「伝統派」( "the “Traditionalist" renmant" )に対峙(たいじ)する今日(こんにち)の公的教会を意味します( "Similarly “Mainstream Church” means today’s official Church as opposed to the “Traditionalist” remnant." ).だが,主流派教会のなかに唯一,聖,公(普遍),使徒継承の4つの特徴を持つものはまったくないとか,残った伝統派はすべて4つの特徴を堅持しているとか述べるのはやめましょう ( "However, let nobody say there is nothing one, holy, universal or apostolic left in the mainstream Church, any more than everything in the “Traditionalist” remnant shows forth the four Marks." ).キリストの教会の中では麦(むぎ)ともみ殻(がら)は常に入り混じっているものです (マテオ聖福音書:第13章24-30節を参照) ( "Wheat and chaff are always mixed in Christ’s Church (cf. Mt. XIII, 24-30)." ).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第4パラグラフの訳注:
「4つの特徴」の第2「聖(=神聖)( "Holy" )であること」 "2 Holy" について.
「聖である」とは,「至聖なる神に聖別されたものである」という意味.
「聖別」とは,救世主・神の御子イエズス・キリストの「受難・十字架刑(=呪〈のろ〉いのしるし)による死・復活」に対する信仰によって神に受け入れられ,悪魔の支配下にあるこの世(地上)から別に分けられて神の国に所属(しょぞく)するもの,永遠の神の祝福に与(あずか)るものとされることを意味する.
この世(地上)に所属するものは神に呪われたもの.
* * *
訳注(引用されている聖福音書の引用箇所とその他の参照箇所)を追記いたします.
* * *
2012年12月6日木曜日
2012年2月3日金曜日
237 元気がでる話 (1/28)
エレイソン・コメンツ 第237回 (2012年1月28日)
司教閣下,なにかもっと元気の出るようなお話をお聞かせください!
神は存在します.神は全知,全能であり,つねに正しくその慈悲(じひ)は無限です( “God exists. He is all-powerful, all-knowing, all-just, but his mercy is also boundless.” ).神は世界で起きていること全てを完全に掌握(しょうあく)されています( “He is in perfect control of all that is happening in the world.” ).悪魔や世界を動かしている犯罪者を含む悪魔に仕える人間どもは神のお許し( “his permission” )がなければ何一つできません.神は彼らの邪(よこしま)な企(たくら)みについてなにからなにまでご存知で,そのひとつひとつを使って神業(かみわざ)を成し遂げられます( “He knows every detail of their diabolical plans and is using every single one of them to fulfil his own Providential design.” ).
そうだとすれば,神はどうして私たちの世界にこれほど多く悪がはびこるのをお許しになられるのでしょうか?
それは,神が決して悪そのものをお望みになることはなくても,悪を許そう(訳注・=悪の所為(しょい)をそのままさせておこう)と望まれるからです.神は悪の中からより大きな善を導(みちび)き出そうとされます “…while he never wants evil, he wants to allow it, so as to bring out of it a greater good.” (訳注後記).(訳注・神からの預言者たちによって告げられた)多くの預言が今日の世界的な堕落(だらく)のなかから明日はカトリック教会の大勝利が訪(おとず)れると示唆(しさ)しています.たとえばファティマの聖母(マリア) “Our Lady of Fatima” が言われた「最後は私の汚(けが)れなき心が勝つでしょう」とのおことばに示されているようにです.ちょうどいま世の中で起きていることは,私たちの主(訳注・=神またはイエズス・キリスト)が敵を用いて御自分の教会( “his Church” =カトリック教会.以下同じ.)を浄化しようとしているのです.(訳注後記)
私たちは今日,信じられないほどの堕落を目にしているわけですが,神は御自分の教会を浄化するのにこれほど不快でない方法を選べないのでしょうか?
その選択を神だけに委(ゆだ)ねうるとすれば,神は御自分の教会を浄化するため間違いなく別の方法を選ばれるでしょう.だが,もしあなたや私が神のお知りになっていることを全て知っているとしたら —これは愚(おろ)かな考えですが!— そしてとりわけあなたや私が,神がお望みのように,神があらゆる人間に与えた自由意思 “free-will” を尊重しようと望むとすれば,神がお選びになっている方法があらゆる事を為(な)すにあたり最良の方法だと分かるのではないかと思います.
そのことに人間の自由意思はどうかかわってくるのでしょうか?
神はロボットや道理の分からない動物と自らの至福(しふく=天上の〈無上の〉喜び)を分かち合おうとお望みではありません.そうである以上はたとえ神と言えどもそれ相応(そうおう)のことを何もしない諸被造物(訳注・ “his creatures” =神が創造された万物.特に神の似姿に創造された人間をここでは指す)に幸福を与えることはできないのです.なぜなら,そうすることは矛盾(むじゅん)するからで,神の御力(みちから)が及ぶのは存在するものだけに対してであり,矛盾のように非存在なものに対してではないからです.だが,少しでも神の至福を受けるに値(あたい)する人間に対しては神は自由意思をお与えになるに違いありません.そして,それが本当に自由意思なら,神がお望みのことと正反対のことを選ぶことがあるに違いありません.そしてもしその自由意思が実際に悪を選び得るなら,その時には悪が起きるでしょう.しばしばあることです.
しかし,司教閣下は,真の教会(訳注・ “true Church” =カトリック教会〈公教会〉を指す)は私たちの主の教えに従って,天国への道は狭(せま)く,それを見出すものはごくわずかである(マテオ聖福音書・第7章14節)と教えると,おっしゃいます.神は少数しか天国へたどり着けないのに,たとえば今日のように,多数の人間をお造りなる価値をお認めになっているのでしょうか? 多数が地獄の恐怖に落ち込むのは少数が天国へたどり着くための代償としてはあまりにも高すぎるということにならないのはどうしてなのでしょうか?
なぜなら神の御業(みわざ)は数の多さではなく質の良し悪(あ)しだからです(訳注・神は数量ではなく質において働(はたら)かれる.原文= “Because God works in quality, not in quantity.” ).わずか10人の人々が神のお怒りからソドマ( “Sodom” )の街全体を救い得たという事実は(創世の書・第18章32節),神の愛に応(こた)えるただ一人の人間の霊魂が,自らの自由選択で( “by their own free choice“ )神の愛を望まない多数の人間よりも,神にとってはどれほど貴重なものかを示す証(あかし)です(訳注・補足説明:神を愛するただ一人の霊魂は,神が滅ぼそうとする大多数の悪人たちに対する神の怒りの懲罰感情をはるかに超えて,神にとって尊〈とうと〉く貴重な存在である.そのただ一人の善良な霊魂ゆえに,神はその一人以外の悪全体を滅ぼし尽すことを思いとどまられる.)(訳注後記).私たちの主イエズス・キリストはかつて「あなた一人だけのためにも私は受難の犠牲全体をいとわずに最後まで欠けるところなく完全に果たしたでしょう( “I would have gone through the whole Passion just for you,” )」と一人の霊魂に告げました.主は同じことをどの人間の霊魂に対しても言われるでしょう.
司教閣下は,世界が私に不安と苦しみをもたらすときでも,もし私がただ神から離れることなくますます神にピッタリと(=密接に)寄り添うならば,私と私の周(まわ)りの人々のために,神はそのことをすべてご覧になり分かってくださる(=配慮してくださる)とおっしゃるのでしょうか? 世界がもっと悪くなるよう願いたい気持ちです!
そうです.私の考えが分かってきたようですね!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの最初の訳注:
旧約聖書・格言の書:第16章1-9節 .4節参照(太字部分).
THE BOOK OF PROVERBS XVI, 1-9, for reference.
『心ではかるのは人間で,
決定するのは神である.
It is the part of man to prepare the soul:
and of the Lord to govern the tongue.
人の目には,自分の道がみな清く見えるが,
心の値打(ねうち)をはかるのは神である.
All the ways of a man are open to his eyes:
the Lord is the weigher of spirits.
自分の仕事を神にゆだねれば,
あなたの計画は成功するだろう.
Lay open thy works to the Lord:
and thy thoughts shall be directed.
*¹神はあらゆるものに目的をもたせる,
悪人さえも,災(わざわ)いの日のためにつくられた.
The Lord hath made all things for himself:
the wicked also for the evil day.
神はおごる心を憎み,
いずれ,罰を下されるだろう.
Every proud man is an abomination to the Lord:
though hand should be joined to hand, he is not innocent.
The beginning of a good way is to do justice;
and this is more acceptable with God, than to offer sacrifices.
慈悲(じひ)と善意によって罪を償(つぐな)い,
神を恐れることによって悪を避ける.
By mercy and truth iniquity is redeemed:
and by the fear of the Lord men depart from evil.
神がある人の行いを喜ばれるとき,
その人の敵とも和解させられる.
When the ways of man shall please the Lord,
he will convert even his enemies to peace.
正しい方法で得たわずかなものは,
不正な方法で得た多くのものにまさる.
Better is a little with justice,
than great revenues with iniquity.
自分の道を選ぶのは人の心で,
その足を指導するのは神である.
The heart of man disposeth his way:
but the Lord must direct his steps. 』
(注釈)
神のはからい(16・1-9)
*¹ 悪人も,いつか神のはからいを表すことだろう.「災いの日」とは,悪人が罰を受ける日.
* * *
第2パラグラフの2つ目の訳注:
「神の教会」・「真の教会」・ “the true Church” とは:
・「カトリック教会〈公教会〉」 “the Catholic Church” を指す.
・→ “The Four Marks of the Church” … one, holy, catholic and apostolic
(唯一の,聖なる,普遍(公)の,使徒継承の)
* * *
第5パラグラフの訳注:
旧約聖書・創世の書・第18章32節(太字部分)(18章を掲載)
THE BOOK OF GENESIS XVIII, 32. (CHAPTER 18)
創世の書・第18章は後から追加いたします.
* * *
司教閣下,なにかもっと元気の出るようなお話をお聞かせください!
神は存在します.神は全知,全能であり,つねに正しくその慈悲(じひ)は無限です( “God exists. He is all-powerful, all-knowing, all-just, but his mercy is also boundless.” ).神は世界で起きていること全てを完全に掌握(しょうあく)されています( “He is in perfect control of all that is happening in the world.” ).悪魔や世界を動かしている犯罪者を含む悪魔に仕える人間どもは神のお許し( “his permission” )がなければ何一つできません.神は彼らの邪(よこしま)な企(たくら)みについてなにからなにまでご存知で,そのひとつひとつを使って神業(かみわざ)を成し遂げられます( “He knows every detail of their diabolical plans and is using every single one of them to fulfil his own Providential design.” ).
そうだとすれば,神はどうして私たちの世界にこれほど多く悪がはびこるのをお許しになられるのでしょうか?
それは,神が決して悪そのものをお望みになることはなくても,悪を許そう(訳注・=悪の所為(しょい)をそのままさせておこう)と望まれるからです.神は悪の中からより大きな善を導(みちび)き出そうとされます “…while he never wants evil, he wants to allow it, so as to bring out of it a greater good.” (訳注後記).(訳注・神からの預言者たちによって告げられた)多くの預言が今日の世界的な堕落(だらく)のなかから明日はカトリック教会の大勝利が訪(おとず)れると示唆(しさ)しています.たとえばファティマの聖母(マリア) “Our Lady of Fatima” が言われた「最後は私の汚(けが)れなき心が勝つでしょう」とのおことばに示されているようにです.ちょうどいま世の中で起きていることは,私たちの主(訳注・=神またはイエズス・キリスト)が敵を用いて御自分の教会( “his Church” =カトリック教会.以下同じ.)を浄化しようとしているのです.(訳注後記)
私たちは今日,信じられないほどの堕落を目にしているわけですが,神は御自分の教会を浄化するのにこれほど不快でない方法を選べないのでしょうか?
その選択を神だけに委(ゆだ)ねうるとすれば,神は御自分の教会を浄化するため間違いなく別の方法を選ばれるでしょう.だが,もしあなたや私が神のお知りになっていることを全て知っているとしたら —これは愚(おろ)かな考えですが!— そしてとりわけあなたや私が,神がお望みのように,神があらゆる人間に与えた自由意思 “free-will” を尊重しようと望むとすれば,神がお選びになっている方法があらゆる事を為(な)すにあたり最良の方法だと分かるのではないかと思います.
そのことに人間の自由意思はどうかかわってくるのでしょうか?
神はロボットや道理の分からない動物と自らの至福(しふく=天上の〈無上の〉喜び)を分かち合おうとお望みではありません.そうである以上はたとえ神と言えどもそれ相応(そうおう)のことを何もしない諸被造物(訳注・ “his creatures” =神が創造された万物.特に神の似姿に創造された人間をここでは指す)に幸福を与えることはできないのです.なぜなら,そうすることは矛盾(むじゅん)するからで,神の御力(みちから)が及ぶのは存在するものだけに対してであり,矛盾のように非存在なものに対してではないからです.だが,少しでも神の至福を受けるに値(あたい)する人間に対しては神は自由意思をお与えになるに違いありません.そして,それが本当に自由意思なら,神がお望みのことと正反対のことを選ぶことがあるに違いありません.そしてもしその自由意思が実際に悪を選び得るなら,その時には悪が起きるでしょう.しばしばあることです.
しかし,司教閣下は,真の教会(訳注・ “true Church” =カトリック教会〈公教会〉を指す)は私たちの主の教えに従って,天国への道は狭(せま)く,それを見出すものはごくわずかである(マテオ聖福音書・第7章14節)と教えると,おっしゃいます.神は少数しか天国へたどり着けないのに,たとえば今日のように,多数の人間をお造りなる価値をお認めになっているのでしょうか? 多数が地獄の恐怖に落ち込むのは少数が天国へたどり着くための代償としてはあまりにも高すぎるということにならないのはどうしてなのでしょうか?
なぜなら神の御業(みわざ)は数の多さではなく質の良し悪(あ)しだからです(訳注・神は数量ではなく質において働(はたら)かれる.原文= “Because God works in quality, not in quantity.” ).わずか10人の人々が神のお怒りからソドマ( “Sodom” )の街全体を救い得たという事実は(創世の書・第18章32節),神の愛に応(こた)えるただ一人の人間の霊魂が,自らの自由選択で( “by their own free choice“ )神の愛を望まない多数の人間よりも,神にとってはどれほど貴重なものかを示す証(あかし)です(訳注・補足説明:神を愛するただ一人の霊魂は,神が滅ぼそうとする大多数の悪人たちに対する神の怒りの懲罰感情をはるかに超えて,神にとって尊〈とうと〉く貴重な存在である.そのただ一人の善良な霊魂ゆえに,神はその一人以外の悪全体を滅ぼし尽すことを思いとどまられる.)(訳注後記).私たちの主イエズス・キリストはかつて「あなた一人だけのためにも私は受難の犠牲全体をいとわずに最後まで欠けるところなく完全に果たしたでしょう( “I would have gone through the whole Passion just for you,” )」と一人の霊魂に告げました.主は同じことをどの人間の霊魂に対しても言われるでしょう.
司教閣下は,世界が私に不安と苦しみをもたらすときでも,もし私がただ神から離れることなくますます神にピッタリと(=密接に)寄り添うならば,私と私の周(まわ)りの人々のために,神はそのことをすべてご覧になり分かってくださる(=配慮してくださる)とおっしゃるのでしょうか? 世界がもっと悪くなるよう願いたい気持ちです!
そうです.私の考えが分かってきたようですね!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの最初の訳注:
旧約聖書・格言の書:第16章1-9節 .4節参照(太字部分).
THE BOOK OF PROVERBS XVI, 1-9, for reference.
『心ではかるのは人間で,
決定するのは神である.
It is the part of man to prepare the soul:
and of the Lord to govern the tongue.
人の目には,自分の道がみな清く見えるが,
心の値打(ねうち)をはかるのは神である.
All the ways of a man are open to his eyes:
the Lord is the weigher of spirits.
自分の仕事を神にゆだねれば,
あなたの計画は成功するだろう.
Lay open thy works to the Lord:
and thy thoughts shall be directed.
*¹神はあらゆるものに目的をもたせる,
悪人さえも,災(わざわ)いの日のためにつくられた.
The Lord hath made all things for himself:
the wicked also for the evil day.
神はおごる心を憎み,
いずれ,罰を下されるだろう.
Every proud man is an abomination to the Lord:
though hand should be joined to hand, he is not innocent.
The beginning of a good way is to do justice;
and this is more acceptable with God, than to offer sacrifices.
慈悲(じひ)と善意によって罪を償(つぐな)い,
神を恐れることによって悪を避ける.
By mercy and truth iniquity is redeemed:
and by the fear of the Lord men depart from evil.
神がある人の行いを喜ばれるとき,
その人の敵とも和解させられる.
When the ways of man shall please the Lord,
he will convert even his enemies to peace.
正しい方法で得たわずかなものは,
不正な方法で得た多くのものにまさる.
Better is a little with justice,
than great revenues with iniquity.
自分の道を選ぶのは人の心で,
その足を指導するのは神である.
The heart of man disposeth his way:
but the Lord must direct his steps. 』
(注釈)
神のはからい(16・1-9)
*¹ 悪人も,いつか神のはからいを表すことだろう.「災いの日」とは,悪人が罰を受ける日.
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第2パラグラフの2つ目の訳注:
「神の教会」・「真の教会」・ “the true Church” とは:
・「カトリック教会〈公教会〉」 “the Catholic Church” を指す.
・→ “The Four Marks of the Church” … one, holy, catholic and apostolic
(唯一の,聖なる,普遍(公)の,使徒継承の)
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第5パラグラフの訳注:
旧約聖書・創世の書・第18章32節(太字部分)(18章を掲載)
THE BOOK OF GENESIS XVIII, 32. (CHAPTER 18)
創世の書・第18章は後から追加いたします.
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2009年11月2日月曜日
正当な司教?
エレイソン・コメンツ 第121回(2009年10月31日)
新しい教会がもたらす秘跡(英語でsacrament. 訳注…神がカトリック教会の司教・司祭を通してカトリック信徒に授ける, 目に見えない神の恩寵 (神秘=secret,mystery)の目に見えるしるしをいう. 洗礼, 堅振(堅信), 聖体, 罪の赦し(罪の痛悔, 告白, 償いを含む. いわゆる告解), 病者の塗油, 叙階, 婚姻の7つ. ) の正当性に関する聖ピオ十世会のバランスのとれた立場を顕著に立証する記事が, 先週, ある闘うフランス人の会報誌 「クリエ・ドゥ・ティシィック “Courrier de Tychique” 」( “Tychique” は聖ティキコのフランス語訳. )に掲載されました. 「信頼筋」によれば, カトリック教会の古くからの敵であるフリーメーソンの組織が, カトリック教会の秘跡を無効にする目的で公会議革命を企てたようです. そのやり方は, 秘跡の形態を改変することでそれを自動的に無効にするのではなく, むしろカトリック教の典礼の意義を総じて曖昧にぼかしてしまうことによって, 司式司祭にとって欠かすことのできないサクラメンタル・インテンション( “Sacramental Intention”. 「秘跡授与に際しての意向」. 訳注…秘跡が有効に成立するためにはその秘跡を授ける司教・司祭の側と受ける側の双方が授受の正当な意向を有しかつその意向通りの行為を双方が正当に実行する必要がある. )を結局は骨抜きにしてしまおうというものです.
その「信頼筋」とは, リエナール枢機卿( Achille Liénart (1884-1973). フランス人枢機卿 )が死の床である老司祭に告白した話の一部をその司祭から直接聞いたフランス人の男性です. 枢機卿は疑いなく地獄に堕ちることを恐れて, 自分の告白を世間に明らかにし, そうすることで自分を告解の封印から解いてほしいとその司祭に請いました. 以来その老司祭は公の場からは距離を置くようにしていましたが, 非公式には枢機卿が自分に明かしたフリーメーソン組織のカトリック教会破壊にむけた三点からなる計画について率直に包み隠さず公表しました. その枢機卿は, 十七歳の若さでフリーメーソンに入会した後, 会によく仕え, 第二バチカン公会議が開幕したわずか二日後, カトリック伝統派が周到に用意した文書はすべて否決すべきと要求して, 公会議を完全に脱線させてしまったのです.
枢機卿によれば, 公会議におけるフリーメーソンの第一の目的は, 司式司祭の「教会のなすべきことを執り行う」ためのインテンション( “Intention”. 上述のサクラメンタル・インテンションの注釈に同旨)を終局的に弱体化させる程度に典礼を変えることでミサ聖祭を壊すことでした. 形の変わった典礼により, 司祭も信徒も, ミサ聖祭を神の怒りを和らげるためのなだめの犠牲としてよりはむしろ「追悼」あるいは「聖餐」として受け止めるように誘導されるというわけです. フリーメーソンの第二の目的は, 最終的に司教の叙階権を弱体化させることにつながる, 司教叙階式のための新しい典礼によって, カトリック教会の使徒継承 (注釈…神なるイエズス・キリストから使徒聖ペトロ(初代ローマ教皇)およびその後継者(カトリックの司教を指す. ローマ教皇はローマの司教である. )へと正統に継承されていること. カトリック教会は唯一かつ普遍(=公, カトリック)の使徒継承教会(公教会)である. ) を壊すことです. それも, 自動的にそれを壊すよほど新たな形態によってではなく, 疑いの種をまく程度に曖昧に変えられた典礼によって, 前述のように, その新しい典礼が総じて, 叙階する司教のサクラメンタル・インテンションを弱体化させるようにしようというわけです. このやり方は, 誰も気づかないほどひっそりと使徒継承を壊す利点を持つでしょう. これこそまさに, 現在の全ての敬虔なカトリック教徒が恐れる事態ではないでしょうか?
「信頼筋」による話ではありますが,いずれにせよ, 今日の新しい教会のミサ典礼および司教聖別(訳注…聖別とは, 神への永久の奉仕のために、人または物を世俗から引き離して区別し神に奉献する行為)の典礼は, まさに件の枢機卿が告白したフリーメーソンの計画に一致しています. 1960年代後半から1970年代初めにかけてこの新しい典礼が導入されて以来, 多くの真面目なカトリック教徒はそれが正しく活用され得ると信じるのを拒んできました. 嘆かわしいことに, 新しい形態の典礼は, かならずしも自動的に正当なものでないと分かるわけではありません(もしそうなら事はどんなに簡単でしょうか!). 実態はそれよりもなお悪いのです!新しい秘跡の形態は, 正当なものだと多くの司式司祭に信じ込ませるほど十分にカトリック的でありながら, 総じて曖昧かつ非カトリック的な解釈を暗示するように設計されているため, 「従順」すぎるか十分に気をつけずに祈る(訳注…つまり, 常に霊的に目を覚まして祈っていることをしない)ようなあらゆる司式司祭のインテンションを堕落させることによって, カトリック教の秘跡をやがて台無しにしていくのです.
新しい典礼はこうして, 短期的にはほぼ全員のカトリック教徒に受け入れられるほど有効であっても, 長期的にはあらゆる秘跡を無効にしてしまうほど曖昧であり, 悪魔的に巧妙な罠となっています. これを避けるためには, カトリック教徒はこうした新しい形態の典礼との関わりを一切避ける一方, 正しいカトリック教理から逸脱した大げさな神学上の告発を聞いても, カトリック信徒としての自身の健全な直感を疑うようなことがあってはなりません. 両者の均衡を保つのは必ずしも容易ではありません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
新しい教会がもたらす秘跡(英語でsacrament. 訳注…神がカトリック教会の司教・司祭を通してカトリック信徒に授ける, 目に見えない神の恩寵 (神秘=secret,mystery)の目に見えるしるしをいう. 洗礼, 堅振(堅信), 聖体, 罪の赦し(罪の痛悔, 告白, 償いを含む. いわゆる告解), 病者の塗油, 叙階, 婚姻の7つ. ) の正当性に関する聖ピオ十世会のバランスのとれた立場を顕著に立証する記事が, 先週, ある闘うフランス人の会報誌 「クリエ・ドゥ・ティシィック “Courrier de Tychique” 」( “Tychique” は聖ティキコのフランス語訳. )に掲載されました. 「信頼筋」によれば, カトリック教会の古くからの敵であるフリーメーソンの組織が, カトリック教会の秘跡を無効にする目的で公会議革命を企てたようです. そのやり方は, 秘跡の形態を改変することでそれを自動的に無効にするのではなく, むしろカトリック教の典礼の意義を総じて曖昧にぼかしてしまうことによって, 司式司祭にとって欠かすことのできないサクラメンタル・インテンション( “Sacramental Intention”. 「秘跡授与に際しての意向」. 訳注…秘跡が有効に成立するためにはその秘跡を授ける司教・司祭の側と受ける側の双方が授受の正当な意向を有しかつその意向通りの行為を双方が正当に実行する必要がある. )を結局は骨抜きにしてしまおうというものです.
その「信頼筋」とは, リエナール枢機卿( Achille Liénart (1884-1973). フランス人枢機卿 )が死の床である老司祭に告白した話の一部をその司祭から直接聞いたフランス人の男性です. 枢機卿は疑いなく地獄に堕ちることを恐れて, 自分の告白を世間に明らかにし, そうすることで自分を告解の封印から解いてほしいとその司祭に請いました. 以来その老司祭は公の場からは距離を置くようにしていましたが, 非公式には枢機卿が自分に明かしたフリーメーソン組織のカトリック教会破壊にむけた三点からなる計画について率直に包み隠さず公表しました. その枢機卿は, 十七歳の若さでフリーメーソンに入会した後, 会によく仕え, 第二バチカン公会議が開幕したわずか二日後, カトリック伝統派が周到に用意した文書はすべて否決すべきと要求して, 公会議を完全に脱線させてしまったのです.
枢機卿によれば, 公会議におけるフリーメーソンの第一の目的は, 司式司祭の「教会のなすべきことを執り行う」ためのインテンション( “Intention”. 上述のサクラメンタル・インテンションの注釈に同旨)を終局的に弱体化させる程度に典礼を変えることでミサ聖祭を壊すことでした. 形の変わった典礼により, 司祭も信徒も, ミサ聖祭を神の怒りを和らげるためのなだめの犠牲としてよりはむしろ「追悼」あるいは「聖餐」として受け止めるように誘導されるというわけです. フリーメーソンの第二の目的は, 最終的に司教の叙階権を弱体化させることにつながる, 司教叙階式のための新しい典礼によって, カトリック教会の使徒継承 (注釈…神なるイエズス・キリストから使徒聖ペトロ(初代ローマ教皇)およびその後継者(カトリックの司教を指す. ローマ教皇はローマの司教である. )へと正統に継承されていること. カトリック教会は唯一かつ普遍(=公, カトリック)の使徒継承教会(公教会)である. ) を壊すことです. それも, 自動的にそれを壊すよほど新たな形態によってではなく, 疑いの種をまく程度に曖昧に変えられた典礼によって, 前述のように, その新しい典礼が総じて, 叙階する司教のサクラメンタル・インテンションを弱体化させるようにしようというわけです. このやり方は, 誰も気づかないほどひっそりと使徒継承を壊す利点を持つでしょう. これこそまさに, 現在の全ての敬虔なカトリック教徒が恐れる事態ではないでしょうか?
「信頼筋」による話ではありますが,いずれにせよ, 今日の新しい教会のミサ典礼および司教聖別(訳注…聖別とは, 神への永久の奉仕のために、人または物を世俗から引き離して区別し神に奉献する行為)の典礼は, まさに件の枢機卿が告白したフリーメーソンの計画に一致しています. 1960年代後半から1970年代初めにかけてこの新しい典礼が導入されて以来, 多くの真面目なカトリック教徒はそれが正しく活用され得ると信じるのを拒んできました. 嘆かわしいことに, 新しい形態の典礼は, かならずしも自動的に正当なものでないと分かるわけではありません(もしそうなら事はどんなに簡単でしょうか!). 実態はそれよりもなお悪いのです!新しい秘跡の形態は, 正当なものだと多くの司式司祭に信じ込ませるほど十分にカトリック的でありながら, 総じて曖昧かつ非カトリック的な解釈を暗示するように設計されているため, 「従順」すぎるか十分に気をつけずに祈る(訳注…つまり, 常に霊的に目を覚まして祈っていることをしない)ようなあらゆる司式司祭のインテンションを堕落させることによって, カトリック教の秘跡をやがて台無しにしていくのです.
新しい典礼はこうして, 短期的にはほぼ全員のカトリック教徒に受け入れられるほど有効であっても, 長期的にはあらゆる秘跡を無効にしてしまうほど曖昧であり, 悪魔的に巧妙な罠となっています. これを避けるためには, カトリック教徒はこうした新しい形態の典礼との関わりを一切避ける一方, 正しいカトリック教理から逸脱した大げさな神学上の告発を聞いても, カトリック信徒としての自身の健全な直感を疑うようなことがあってはなりません. 両者の均衡を保つのは必ずしも容易ではありません.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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