エレイソン・コメンツ 第194回 (2011年4月2日)
ローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間で過去一年半にわたり行われた教理上の論議は,ローマを改宗(宗旨替え)させることも聖ピオ十世会を裏切らせることもできなかったように思われますが,もしその通りだとすると,今後私たちはこれから何処(どこ)へ向かうのだろうか? という疑問が生じます.第二バチカン公会議の危機が証明したことがあるとすれば,それは疑いなくカトリック信徒たちがひとつの疑問について単に指導者に盲目的に従うのでなく自分自身で考えてみる必要があるということです - 世界中の数百万人のカトリック信徒たちは相変わらず徐々に背教に導かれ続けているのではないだろうか?と.だからこそ,一人の戦うフランス人信徒( “a fighting Gaul” )が聖ピオ十世会の司教たちに対し三つの質問を投げかけたのです.いずれも深刻な問いかけで,きちんと答えて然(しか)るべきものです.(彼の質問は要約かつ編集されたものです):--
質問: あなたのご意見では,25年前に前教皇ヨハネ・パウロ二世がアッシジで開催した多宗教間の宗派を超えた出会いの行事を厳粛に祝う記念式典としての,第三回アッシジ諸宗教合同祈祷集会(以下,「アッシジ III」)に関する最近の発表は,現教皇ベネディクト十六世により引き継がれている世界宗教一致運動の進路として私たちがすでに知っているものに何か新しいことをつけ加えるものでしょうか?
答え: そのこと(アッシジ III 開催の発表)は,ローマのカトリック教会指導部が,あらゆる種類の誤った宗教にカトリック教会の公式承認を与えるという破滅的な進路に固執していることを示す証拠が新たにまた一つ加わったということです.かつてルフェーブル大司教は,「ローマがカトリックの信仰を喪失していないと私たちが言えるとは思いません」と仰(おっしゃ)いました.
質問: あなたのご意見では,この発表が,聖ピオ十世会とローマ教皇庁との間で行われた教理上の論議が時宜(じぎ)を得たものだったと証明するものでしょうか,それとも反証するものなのでしょうか?
答え: 発表は疑いなく教理上の論議の終結のタイミングが良かったことを証明するものです.デ・ガラレタ司教がいみじくも言われたように,その論議が進行中の間は確かに付随的な利点がありました(7月10日付のエレイソン・コメンツ第156回をご参照ください).だが,論議が行われたこと自体が不利益をもたらしました.すなわち,実際には全く相いれない二つの教義上の立場の間で見せかけの和解が生まれるのではないかとの誤った希望もしくは本当の不安を人々の心に生み出したのです.アッシジ III の発表はそうした希望や不安を少なくとも当分の間終らせるのに役立ちました.ただし,夢想家たちは相変わらず自分の夢に固執しています!
質問: ちょうど第一回アッシジ諸宗教合同祈祷集会(以下「アッシジ I」)が1988年のルフェーブル大司教による四人の司教叙階の主要な誘因となったように,アッシジ III の発表も聖ピオ十世会がさらに多くの司教を叙階するのを後押しすることになるでしょうか?
答え: 聖ピオ十世会の総長が二か月前アメリカ合衆国でその問いに答えています.総長はその際,もしルフェーブル大司教を司教叙階に駆り立てた1988年当時の状況が再現するなら,新たな司教が増えることになるだろうと述べました.ここで問題となるのは,アッシジ III を取り巻く状況がアッシジ I の時の状況の繰り返しだろうか?ということです.この点については意見が様々あるとしか答えようがありません.多くの真面目なカトリック信徒たちは状況がずっと悪化していると考えていますが,これは必ずしも聖ピオ十世会にとってこのように重要な決定事項に関し同会の総長として責任をもつフェレイ司教の意見ではありません.
では私たちの最初の問いに戻ります.聖ピオ十世会は今後何処へ行くべきでしょうか? 答えは明瞭です.聖ピオ十世会は,これまで通り同会の創立者(=ルフェーブル大司教)が定めた道に従って歩み続けていくべきです.すなわち,ローマ教皇庁における(少なくとも客観的に見ての)背教者に断固として抵抗し,それなしには解決できないカトリック教会や世界の様々な問題に対するルフェーブル大司教の診断をできる限り広範囲の人々に知らせることです.ルフェーブル大司教の解決策は単純明快です.すなわち,神のより大いなる栄光のため,そして可能なかぎりの多くの霊魂を救済するため,第二バチカン公会議以前のカトリック教理といつの世にも変わることのない倫理・道徳に則(のっと)ったカトリック教的生活をひたすら守り続けていくことです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2011年4月21日木曜日
2011年1月13日木曜日
アッシジイズムはノー!
エレイソン・コメンツ 第182回 (2011年1月8日)
ルフェーブル大司教の聖ピオ十世会が教皇ベネディクト16世下のローマ教皇庁との間で,よからぬ合意をまとめようとしているのではないかといぶかっている人たちがいぜんいらっしゃるようです.だが,色々ある中でもアッシジイズム(訳注・原文“Assisi-ism”.注釈後記)についていえば,教皇ベネディクト16世ご自身はそのようなことが起きないよう最善を尽くしておられると言えるのではないでしょうか.
六日前,教皇は世界の「偉大な諸宗教」は人類の平和と結束(一致)の「重要な要素」たり得ると論じられました.その翌日,教皇は1986年,前教皇ヨハネ・パウロ2世によりイタリア・アッシジで開催された世界諸宗教合同祈祷集会の25周年を祝うため今年10月に同地へ「巡礼として」赴(おもむ)くと発表しました.しかし,「世界の偉大な諸宗教」が世界平和に貢献するといった論議はルフェーブル大司教が断固受け入れを拒んだことですし,この1986年のアッシジ祈祷会の実践(実行)は(神の十戒の)第一戒(律)に対する公然たる違反だと同大司教が断じたことです(訳注後記).後者のほうは,キリストの代理者たる教皇から発した出来事だけにカトリック教会の全歴史のなかでも前代未聞のスキャンダルでした.ルフェーブル大司教はあまり何度も蒸(む)し返すのは逆効果になりかねないと考え,アッシジイズムに対する激しい非難を差し控えました.
だが,ルフェーブル大司教は当時,このスキャンダルの重大さを理解しているカトリック信者がほんの一握りしかいなかったことを認識していました.というのも,近代世界全体が神を過小評価し,私たちの主イエズス・キリストの神性を一括(ひとくく)りとして扱い,宗教を自由選択の対象物とみなし,カトリックの伝統を単なる感性,感情の問題とすり変えてしまっていたからです.こうした考え方は,教皇たちにまで影響を及(およ)ぼしてしまい,私たちの身の周りではあまりにも正常なこととなってしまっているため,私たち一人一人にとって脅威となっているほどです.基本に立ち戻りましょう.--
万物は第一原因 “a First Cause” を必要とします.その原因が第一たるためには存在自体が不可欠で “must be Being Itself” それは完全無欠の存在 “all-perfect being” でなければなりません.なぜなら第二の神は第一の神とは異なり,完全さにおいてどこかで劣るはずだからです.この唯一真実の神はかつてある時にただ一度だけ私たちの主イエズス・キリストの神の位格 “the divine Person” において人性(=人間性)という形をとられ(人の姿をお取りになり),いらい神の教会すなわちローマ・カトリック教会を除けば,ほかの誰しもがなしえなかった質量とも数多くの信頼に足る優れた奇跡を地上で行なうことによって,その神性を証明されました.この(真の神の)教会の会員(信者)となる資格は信仰に基づくもので,万人に開かれています.信じるならば,その信じるという行為が,誰にとっても永遠の救いに至(いた)るために欠くことのできない出発点です.信じることを拒(こば)めば,人は永遠の破滅(地獄)へ向かう道をたどります(新約聖書・マルコ聖福音書:第16章16節参照)(訳注・該当箇所のキリストの御言葉→「信じて洗礼を受ける者は救われ,信じない者は滅ぼされる.」).
従って,もし過去および将来のアッシジでの行事により,ベネディクト16世,ヨハネ・パウロ2世の両教皇がカトリック教は永遠の至福に至る唯一の道ではなく,(それが最善だとしても)ほかに数多くある人類の「平和,結束」へ通じる道の単なるひとつにすぎないと人々が考えるよう奨励(しょうれい)したのだとすれば,両教皇とも無数の人々が来世で恐ろしい地獄に墜(お)ちる手助けをしたことになります.ルフェーブル大司教はそのような背信に与(くみ)するのを潔(いさぎよ)しとせず,敢(あ)えて冷笑され,排斥(はいせき)され,軽蔑(けいべつ)され,過小評価され(主流からはずされ),口を封じられ,「破門」される道を選びました.ほかにもありとあらゆる冷遇に甘んじました.
真実(原語 “the Truth” )を頑(かたく)なに守ることは代償を伴います.何人のカトリック信者にその代償を払う心づもりができているでしょうか?(訳注・ “the Truth” …真の神〈カトリックの真理〉のこと.)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
最初のパラグラフ「アッシジイズム」 “Assisi-ism” についての訳注:
アッシジ主義.
“the 1986 Prayer Meeting of World Religions in Assisi” 「1986年アッシジ諸宗教合同祈祷集会」(1986年に前教皇ヨハネ・パウロ2世が,世界の諸宗教の指導者たちを呼び集めて開催した世界平和を祈る合同祈祷集会)を指している.
第二パラグラフの訳注「(神の十戒の)第一戒」 “the First Commandment” について:
旧約聖書時代の預言者モーゼによる「神の十戒」(または「主の十戒」)の第一戒…
「われはなんじの主なり.われを唯一の天主として礼拝すべし」(公教会祈祷文)
→「…私以外のどんなものも,神とするな.」(旧約聖書・脱出の書:第20章3節.神と人との関係についての神の命令.神と人間との間に,仲介のような神々は存在しない.(バルバロ神父による注釈より.))
ルフェーブル大司教の聖ピオ十世会が教皇ベネディクト16世下のローマ教皇庁との間で,よからぬ合意をまとめようとしているのではないかといぶかっている人たちがいぜんいらっしゃるようです.だが,色々ある中でもアッシジイズム(訳注・原文“Assisi-ism”.注釈後記)についていえば,教皇ベネディクト16世ご自身はそのようなことが起きないよう最善を尽くしておられると言えるのではないでしょうか.
六日前,教皇は世界の「偉大な諸宗教」は人類の平和と結束(一致)の「重要な要素」たり得ると論じられました.その翌日,教皇は1986年,前教皇ヨハネ・パウロ2世によりイタリア・アッシジで開催された世界諸宗教合同祈祷集会の25周年を祝うため今年10月に同地へ「巡礼として」赴(おもむ)くと発表しました.しかし,「世界の偉大な諸宗教」が世界平和に貢献するといった論議はルフェーブル大司教が断固受け入れを拒んだことですし,この1986年のアッシジ祈祷会の実践(実行)は(神の十戒の)第一戒(律)に対する公然たる違反だと同大司教が断じたことです(訳注後記).後者のほうは,キリストの代理者たる教皇から発した出来事だけにカトリック教会の全歴史のなかでも前代未聞のスキャンダルでした.ルフェーブル大司教はあまり何度も蒸(む)し返すのは逆効果になりかねないと考え,アッシジイズムに対する激しい非難を差し控えました.
だが,ルフェーブル大司教は当時,このスキャンダルの重大さを理解しているカトリック信者がほんの一握りしかいなかったことを認識していました.というのも,近代世界全体が神を過小評価し,私たちの主イエズス・キリストの神性を一括(ひとくく)りとして扱い,宗教を自由選択の対象物とみなし,カトリックの伝統を単なる感性,感情の問題とすり変えてしまっていたからです.こうした考え方は,教皇たちにまで影響を及(およ)ぼしてしまい,私たちの身の周りではあまりにも正常なこととなってしまっているため,私たち一人一人にとって脅威となっているほどです.基本に立ち戻りましょう.--
万物は第一原因 “a First Cause” を必要とします.その原因が第一たるためには存在自体が不可欠で “must be Being Itself” それは完全無欠の存在 “all-perfect being” でなければなりません.なぜなら第二の神は第一の神とは異なり,完全さにおいてどこかで劣るはずだからです.この唯一真実の神はかつてある時にただ一度だけ私たちの主イエズス・キリストの神の位格 “the divine Person” において人性(=人間性)という形をとられ(人の姿をお取りになり),いらい神の教会すなわちローマ・カトリック教会を除けば,ほかの誰しもがなしえなかった質量とも数多くの信頼に足る優れた奇跡を地上で行なうことによって,その神性を証明されました.この(真の神の)教会の会員(信者)となる資格は信仰に基づくもので,万人に開かれています.信じるならば,その信じるという行為が,誰にとっても永遠の救いに至(いた)るために欠くことのできない出発点です.信じることを拒(こば)めば,人は永遠の破滅(地獄)へ向かう道をたどります(新約聖書・マルコ聖福音書:第16章16節参照)(訳注・該当箇所のキリストの御言葉→「信じて洗礼を受ける者は救われ,信じない者は滅ぼされる.」).
従って,もし過去および将来のアッシジでの行事により,ベネディクト16世,ヨハネ・パウロ2世の両教皇がカトリック教は永遠の至福に至る唯一の道ではなく,(それが最善だとしても)ほかに数多くある人類の「平和,結束」へ通じる道の単なるひとつにすぎないと人々が考えるよう奨励(しょうれい)したのだとすれば,両教皇とも無数の人々が来世で恐ろしい地獄に墜(お)ちる手助けをしたことになります.ルフェーブル大司教はそのような背信に与(くみ)するのを潔(いさぎよ)しとせず,敢(あ)えて冷笑され,排斥(はいせき)され,軽蔑(けいべつ)され,過小評価され(主流からはずされ),口を封じられ,「破門」される道を選びました.ほかにもありとあらゆる冷遇に甘んじました.
真実(原語 “the Truth” )を頑(かたく)なに守ることは代償を伴います.何人のカトリック信者にその代償を払う心づもりができているでしょうか?(訳注・ “the Truth” …真の神〈カトリックの真理〉のこと.)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
最初のパラグラフ「アッシジイズム」 “Assisi-ism” についての訳注:
アッシジ主義.
“the 1986 Prayer Meeting of World Religions in Assisi” 「1986年アッシジ諸宗教合同祈祷集会」(1986年に前教皇ヨハネ・パウロ2世が,世界の諸宗教の指導者たちを呼び集めて開催した世界平和を祈る合同祈祷集会)を指している.
第二パラグラフの訳注「(神の十戒の)第一戒」 “the First Commandment” について:
旧約聖書時代の預言者モーゼによる「神の十戒」(または「主の十戒」)の第一戒…
「われはなんじの主なり.われを唯一の天主として礼拝すべし」(公教会祈祷文)
→「…私以外のどんなものも,神とするな.」(旧約聖書・脱出の書:第20章3節.神と人との関係についての神の命令.神と人間との間に,仲介のような神々は存在しない.(バルバロ神父による注釈より.))
2010年10月12日火曜日
教理は不可欠
エレイソン・コメンツ 第169回 (2010年10月9日)
1986年イタリアのアッシジで開催された諸宗教同士のうわべだけの和合(訳注・原英文 “the all-religion love-fest at Assisi”.1986年に前教皇ヨハネ・パウロ二世が,世界の諸宗教の指導者たちを呼び集めて開催した世界平和を祈る合同祈祷集会のこと)が測り知れないほどの悪影響を及ぼしたことを認識しているカトリック伝統派の信徒たちがいかに少ないかについてルフェーブル大司教が驚いていたのを私は覚えています.だが,これが私たちの生きている現代社会の堕落の度合いを示すものです.今日,思想や真実はどうでもよいことになっています.なぜなら,「愛こそがすべて」(訳注・原英文 “All you need is love”.英ロックバンド The Beatles の歌のタイトル) だからです.だが実際には,私たちはみな教理と愛の双方を絶対的に必要としているのです.
教理とは単なる常套句(じょうとうく)の羅列ではありません.私たちのような計り知れないほど貴重な価値のあるカトリックの信仰の賜物を神から与えられたカトリック信者たちは,現世の短い人生の後に来世での想像を絶するような永遠の至福か恐怖が待ち受けていることを知っています.そして,私たちカトリック信者はカトリック信仰の有無にかかわらず,それがあらゆる人間の宿命であることを知っています.洗礼を受けていない罪のない者の霊魂が古聖所(原英語 “Limbo”.キリストの死によるあがないの前に死んだ義人の霊魂がとどまっていたところ)に入るのが唯一の例外です.だとすれば、神が無慈悲でない限り ― 多くの哀れな霊魂が神に対する自らの反抗を正当化しようとするのは理にかなっています! ― (現世での死後に)天国を勝ち取り地獄に墜ちるのを何としても避けたいと願うすべての人々に対し,神はいつでも,そのために(彼らの霊魂にとって)必要な光と力とを与えて下さるのです.だが,カトリック信仰をもたない人の場合,その光や力はどのような形を取りうるでしょうか?
その答えを二人の非カトリック教徒に求めてみましょう.18世紀の英国の良識を代表する偉人サミュエル・ジョンソン博士は「ロンドンが嫌いな者は人生が嫌いなのだ」と言いました.これは言い換えれば,日常生活の細々(こまごま)した日課に埋もれ慌ただしく過ごしながら,人は日々人生に対する一般的な態度を構築していると言うことです.またレオ・トルストイ伯爵は大作「戦争と平和」の中で,ある登場人物に「人生を愛する者は神を愛す」と言わせています.言い換えれば,人間の人生に対する一般的態度は実際にはその人の神に対する態度を示すものだということです.もちろん,現代人の多くは,自分の人生に対する姿勢が「存在もしない」神と関係があることなど強く否定するでしょう.にもかかわらず,神はそういう人を,彼個人のみならず日常的に彼を取り巻くその他の彼の周囲の人たちまでも一緒に含めて,その双方の存在をともに支えておられる方なのです.そしてなおかつ,神は常に彼個人に対して,こうした彼の全人生に内在されかつ彼の全人生において万事を背後から支えておられる神御自身を(個人的に)愛するか嫌うかを彼自ら決める自由意思( “the free-will” )を,お与えになっておられるのです.かくして,共産主義者は無神論者になる宿命にあり,しかもレーニンはかつて「神はわが敵なり」と言っています.(訳注・原英文は “God is my personal enemy”.つまり,レーニンは〈神との一対一の個人的な関係において,自らの生命の源であるはずの〉神御自身を自ら憎み拒否したということになる.) そうした共産主義者たちは人生も神も愛しません.
では,人生や神に対する正しい態度とはどういうものでしょうか?モーゼの十戒の第一戒で神は,あらゆる知性,精神(感情),魂を尽くして神を愛せよ,と命じておられます.(訳注後記・1).だが,まだあまりよく知らない人をどうして愛することができるでしょうか?人生と神に対する正しい態度は,人生と神,あるいはそのいずれかがもつ善良さに多少なりとも信仰もしくは信頼を置けなければ生まれません.そういうわけで,四つの聖福音書において,無学な人々が奇蹟を願って私たちの主イエズス・キリストの下に来ると,主は奇跡をお許しになる際にしばしば彼らの心に「信仰」があるかどうかをお試しになったり,あるいは彼らが持つ信仰をお褒(ほ)めになり,その信仰に対して報いられます.ここでいう信仰とは何に対する信仰でしょうか?それは神への信仰です.だが神とはいったい誰なのでしょうか?
それは学識ある人々が教理の中で明確に説明すべき事柄です.この神の教理は時代の流れとともに洗練されるかもしれませんが,神を変えることができないのと同様,決して変えることのできないものです.その教理は私たちが,永遠に想像を絶するほどに幸福になりたいとか不幸になりたくないと願う限り,私たちの生命・人生に対する姿勢また神への姿勢を継続的に矯正してくれるものです.カトリック教理は真理です.神は(そのカトリック教理が示す)真理です.真理は不可欠なものなのです.(訳注後記・2).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(第4パラグラフの訳注・1)
モーゼの十戒の第一戒について
(バルバロ神父訳聖書から引用)
旧約聖書・第二法の書:第6章4-5節
「イスラエルよ聞け,われらの神なる主こそ唯一の主である.心を尽くし,魂を尽くし,力を尽くして,神なる主を愛せよ.」
(注記・キリストの御復活以降の新約の時代においては,聖書における「イスラエル」という言葉は,ユダヤ民族に限らず,「キリストによって唯一の真の神を信じる世界のすべての人に対してあてはめられる.)
(注釈)
神への愛は(モーゼの)十戒(脱出の書・第20章6節)ですでに語られたけれども,第二法の書は律法五書の中でも特に神への愛を人間の働きの土台として扱っている.愛は神の恵みに対する人間の答えであり,神への畏れ(=恐れ)と敬いとおきての遵守をも含むものである.キリストは4節と5節(上に引用した部分)とレビの書の19章18節を新約の律法の第一のおきてとした.(①新約聖書・マルコ聖福音:第12章28-34節と②聖パウロによるローマ人への手紙:第13章8-10節を以下に引用).
(マルコ聖福音12,28-34)
『…イエズスのみごとな答えを聞いた一人の律法学士はそばに来て,「すべてのおきての中でどれが第一のものですか」とイエズスに尋(たず)ねた.イエズスは答えられた,「*¹第一のおきてはこれである,〈イスラエルよ聞け.われわれの主なる神は唯一の主である.すべての心,すべての霊,すべての知恵,すべての力をあげて,主なる神を愛せよ〉.また第二は,これである,*²〈隣人を自分と同じように愛せよ〉.これより重大なおきてはない」.すると律法学士は,「先生,〈神は唯一のもので他に神はない〉とは実に仰せのとおりです.〈すべての心,すべての知恵,すべての力をあげて神を愛し,また自分と同じように隣人を愛すること〉これはどんな燔祭(はんさい)にも,いけにえにもまさるものです」と言った.その答えを聞かれたイエズスは,「あなたは神の国から遠くない人だ」と言われた.』
(脚注)
*¹ 旧約聖書・第二法の書6:4-5.
*² 旧約聖書・レビの書19:18.
(ローマ人への手紙13,8-14)
『互いに,*¹愛を負う以外にはだれにも負い目をもつな.人を愛する者は律法を果すからである.「*²姦通するな,殺すな,盗むな,偽証(ぎしょう)するな,貪(むさぼ)るな」,その他のすべてのおきては,「隣人を自分と同じように愛せよ」ということばに要約される.愛は隣人を損なわぬ.したがって,愛は律法の完成である.
時を知っているあなたたちは,ますますそうせねばならぬ.今は眠りから目覚める時である.いま私たちの救いは,私たちが信じはじめた時よりも近い.*³夜はふけて日が近づいた.だからやみに行われる業を捨てて,光のよろいをつけよう.昼のように慎んで行動しよう.酒盛り,酔い,淫乱,好色,争い,ねたみを行わず,主イエズス・キリストを着よ.よこしまな肉の欲を満たすために心を傾けることはするな.』
(注釈)
*¹ 隣人への愛の負債は,十分に支払きれない.
*² 旧約聖書・レビの書:19章18節参照.
*³ 「夜」は罪と死の支配下にある世をさす(新約聖書・コリント人への第一の手紙:7章26,29-31節).
*「日」はキリストの来臨のこと(新約聖書・聖パウロのコリント人への第一の手紙:7章29節,聖パウロのテサロニケ人への第一の手紙:4章15節).(注記:キリストはこの世の終わりの際に再びこの世(地上)に来臨される)
* * *
(第5パラグラフ最後の訳注・2)
① 詳解すると,「神とは真理」であり,その「真理」はカトリック教理〈=公教要理〉によって明確に説明される.この「真理」を抜きにして,「神への信仰」を持ち得ることはあり得ない.
② 真に神を信仰するためには,「愛こそがすべて」にいう「愛」のみでは足りない.「愛」が「真の愛(=神の愛)」たりうる所以・根拠としての「真理」を知り,かつその真理を自分の心に受け入れていることもまた前提条件として必要不可欠である.なぜなら,「神は愛」であると同時に「神は真理」だからである.
③したがって,かかる「真理」について説明する「神の(=カトリック)教理」は,人の霊魂が唯一の真の神への信仰により救われて永遠の天国に至るためには絶対になくてはならないものである.
④ 故に「教理は不可欠」であるとの結論に至ると思われる.原英文では “Catholic doctrine is truth. God is Truth. Truth is indispensable”.とある.)
1986年イタリアのアッシジで開催された諸宗教同士のうわべだけの和合(訳注・原英文 “the all-religion love-fest at Assisi”.1986年に前教皇ヨハネ・パウロ二世が,世界の諸宗教の指導者たちを呼び集めて開催した世界平和を祈る合同祈祷集会のこと)が測り知れないほどの悪影響を及ぼしたことを認識しているカトリック伝統派の信徒たちがいかに少ないかについてルフェーブル大司教が驚いていたのを私は覚えています.だが,これが私たちの生きている現代社会の堕落の度合いを示すものです.今日,思想や真実はどうでもよいことになっています.なぜなら,「愛こそがすべて」(訳注・原英文 “All you need is love”.英ロックバンド The Beatles の歌のタイトル) だからです.だが実際には,私たちはみな教理と愛の双方を絶対的に必要としているのです.
教理とは単なる常套句(じょうとうく)の羅列ではありません.私たちのような計り知れないほど貴重な価値のあるカトリックの信仰の賜物を神から与えられたカトリック信者たちは,現世の短い人生の後に来世での想像を絶するような永遠の至福か恐怖が待ち受けていることを知っています.そして,私たちカトリック信者はカトリック信仰の有無にかかわらず,それがあらゆる人間の宿命であることを知っています.洗礼を受けていない罪のない者の霊魂が古聖所(原英語 “Limbo”.キリストの死によるあがないの前に死んだ義人の霊魂がとどまっていたところ)に入るのが唯一の例外です.だとすれば、神が無慈悲でない限り ― 多くの哀れな霊魂が神に対する自らの反抗を正当化しようとするのは理にかなっています! ― (現世での死後に)天国を勝ち取り地獄に墜ちるのを何としても避けたいと願うすべての人々に対し,神はいつでも,そのために(彼らの霊魂にとって)必要な光と力とを与えて下さるのです.だが,カトリック信仰をもたない人の場合,その光や力はどのような形を取りうるでしょうか?
その答えを二人の非カトリック教徒に求めてみましょう.18世紀の英国の良識を代表する偉人サミュエル・ジョンソン博士は「ロンドンが嫌いな者は人生が嫌いなのだ」と言いました.これは言い換えれば,日常生活の細々(こまごま)した日課に埋もれ慌ただしく過ごしながら,人は日々人生に対する一般的な態度を構築していると言うことです.またレオ・トルストイ伯爵は大作「戦争と平和」の中で,ある登場人物に「人生を愛する者は神を愛す」と言わせています.言い換えれば,人間の人生に対する一般的態度は実際にはその人の神に対する態度を示すものだということです.もちろん,現代人の多くは,自分の人生に対する姿勢が「存在もしない」神と関係があることなど強く否定するでしょう.にもかかわらず,神はそういう人を,彼個人のみならず日常的に彼を取り巻くその他の彼の周囲の人たちまでも一緒に含めて,その双方の存在をともに支えておられる方なのです.そしてなおかつ,神は常に彼個人に対して,こうした彼の全人生に内在されかつ彼の全人生において万事を背後から支えておられる神御自身を(個人的に)愛するか嫌うかを彼自ら決める自由意思( “the free-will” )を,お与えになっておられるのです.かくして,共産主義者は無神論者になる宿命にあり,しかもレーニンはかつて「神はわが敵なり」と言っています.(訳注・原英文は “God is my personal enemy”.つまり,レーニンは〈神との一対一の個人的な関係において,自らの生命の源であるはずの〉神御自身を自ら憎み拒否したということになる.) そうした共産主義者たちは人生も神も愛しません.
では,人生や神に対する正しい態度とはどういうものでしょうか?モーゼの十戒の第一戒で神は,あらゆる知性,精神(感情),魂を尽くして神を愛せよ,と命じておられます.(訳注後記・1).だが,まだあまりよく知らない人をどうして愛することができるでしょうか?人生と神に対する正しい態度は,人生と神,あるいはそのいずれかがもつ善良さに多少なりとも信仰もしくは信頼を置けなければ生まれません.そういうわけで,四つの聖福音書において,無学な人々が奇蹟を願って私たちの主イエズス・キリストの下に来ると,主は奇跡をお許しになる際にしばしば彼らの心に「信仰」があるかどうかをお試しになったり,あるいは彼らが持つ信仰をお褒(ほ)めになり,その信仰に対して報いられます.ここでいう信仰とは何に対する信仰でしょうか?それは神への信仰です.だが神とはいったい誰なのでしょうか?
それは学識ある人々が教理の中で明確に説明すべき事柄です.この神の教理は時代の流れとともに洗練されるかもしれませんが,神を変えることができないのと同様,決して変えることのできないものです.その教理は私たちが,永遠に想像を絶するほどに幸福になりたいとか不幸になりたくないと願う限り,私たちの生命・人生に対する姿勢また神への姿勢を継続的に矯正してくれるものです.カトリック教理は真理です.神は(そのカトリック教理が示す)真理です.真理は不可欠なものなのです.(訳注後記・2).
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(第4パラグラフの訳注・1)
モーゼの十戒の第一戒について
(バルバロ神父訳聖書から引用)
旧約聖書・第二法の書:第6章4-5節
「イスラエルよ聞け,われらの神なる主こそ唯一の主である.心を尽くし,魂を尽くし,力を尽くして,神なる主を愛せよ.」
(注記・キリストの御復活以降の新約の時代においては,聖書における「イスラエル」という言葉は,ユダヤ民族に限らず,「キリストによって唯一の真の神を信じる世界のすべての人に対してあてはめられる.)
(注釈)
神への愛は(モーゼの)十戒(脱出の書・第20章6節)ですでに語られたけれども,第二法の書は律法五書の中でも特に神への愛を人間の働きの土台として扱っている.愛は神の恵みに対する人間の答えであり,神への畏れ(=恐れ)と敬いとおきての遵守をも含むものである.キリストは4節と5節(上に引用した部分)とレビの書の19章18節を新約の律法の第一のおきてとした.(①新約聖書・マルコ聖福音:第12章28-34節と②聖パウロによるローマ人への手紙:第13章8-10節を以下に引用).
(マルコ聖福音12,28-34)
『…イエズスのみごとな答えを聞いた一人の律法学士はそばに来て,「すべてのおきての中でどれが第一のものですか」とイエズスに尋(たず)ねた.イエズスは答えられた,「*¹第一のおきてはこれである,〈イスラエルよ聞け.われわれの主なる神は唯一の主である.すべての心,すべての霊,すべての知恵,すべての力をあげて,主なる神を愛せよ〉.また第二は,これである,*²〈隣人を自分と同じように愛せよ〉.これより重大なおきてはない」.すると律法学士は,「先生,〈神は唯一のもので他に神はない〉とは実に仰せのとおりです.〈すべての心,すべての知恵,すべての力をあげて神を愛し,また自分と同じように隣人を愛すること〉これはどんな燔祭(はんさい)にも,いけにえにもまさるものです」と言った.その答えを聞かれたイエズスは,「あなたは神の国から遠くない人だ」と言われた.』
(脚注)
*¹ 旧約聖書・第二法の書6:4-5.
*² 旧約聖書・レビの書19:18.
(ローマ人への手紙13,8-14)
『互いに,*¹愛を負う以外にはだれにも負い目をもつな.人を愛する者は律法を果すからである.「*²姦通するな,殺すな,盗むな,偽証(ぎしょう)するな,貪(むさぼ)るな」,その他のすべてのおきては,「隣人を自分と同じように愛せよ」ということばに要約される.愛は隣人を損なわぬ.したがって,愛は律法の完成である.
時を知っているあなたたちは,ますますそうせねばならぬ.今は眠りから目覚める時である.いま私たちの救いは,私たちが信じはじめた時よりも近い.*³夜はふけて日が近づいた.だからやみに行われる業を捨てて,光のよろいをつけよう.昼のように慎んで行動しよう.酒盛り,酔い,淫乱,好色,争い,ねたみを行わず,主イエズス・キリストを着よ.よこしまな肉の欲を満たすために心を傾けることはするな.』
(注釈)
*¹ 隣人への愛の負債は,十分に支払きれない.
*² 旧約聖書・レビの書:19章18節参照.
*³ 「夜」は罪と死の支配下にある世をさす(新約聖書・コリント人への第一の手紙:7章26,29-31節).
*「日」はキリストの来臨のこと(新約聖書・聖パウロのコリント人への第一の手紙:7章29節,聖パウロのテサロニケ人への第一の手紙:4章15節).(注記:キリストはこの世の終わりの際に再びこの世(地上)に来臨される)
* * *
(第5パラグラフ最後の訳注・2)
① 詳解すると,「神とは真理」であり,その「真理」はカトリック教理〈=公教要理〉によって明確に説明される.この「真理」を抜きにして,「神への信仰」を持ち得ることはあり得ない.
② 真に神を信仰するためには,「愛こそがすべて」にいう「愛」のみでは足りない.「愛」が「真の愛(=神の愛)」たりうる所以・根拠としての「真理」を知り,かつその真理を自分の心に受け入れていることもまた前提条件として必要不可欠である.なぜなら,「神は愛」であると同時に「神は真理」だからである.
③したがって,かかる「真理」について説明する「神の(=カトリック)教理」は,人の霊魂が唯一の真の神への信仰により救われて永遠の天国に至るためには絶対になくてはならないものである.
④ 故に「教理は不可欠」であるとの結論に至ると思われる.原英文では “Catholic doctrine is truth. God is Truth. Truth is indispensable”.とある.)
登録:
投稿 (Atom)