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2016年9月3日土曜日

477 マリアの栄光 9/3

エレイソン・コメンツ 第477回 (2016年9月3日) 

マリアがお求めになる栄光は,
 すべてがご自身の(真の神と人なる)御独り子のためです.
彼女はご自身のための栄光など一切お求めになりません.
All glory Mary seeks is for her Son.
For her own self she seeks no glory, none. 

(地上における真の神の民である私たちの(カトリック教=公教)国家(以下,「カトリック国家」のように記す.「"天地の普遍の摂理・真理たる公教" に基づく国家」の意味合いである.)(訳注後記・2・1)私たち真の神の民のカトリック教徒全国民の御母・天地の元后(=后〈きさき〉・女王)( "Our Lady" )なる聖マリア(訳注後記・2・2 )の被昇天祭(8月15日)( "Catholic Feasts of Our Lady's Assumption into Heaven (August 15) " )と生誕祭(9月8日)というカトリック教の二つの祝祭日の間の期間は,カトリック教徒たちの天の元后(てんの げんこう)(聖マリア)( "Our Lady" )に対する献身(=深い愛情・忠誠・信心・帰依)をめぐりプロテスタント(新教徒)が唱える大きな異議について考えてみる良い機会かもしれません.新教徒は聖マリアに向けられる注目,敬意,祈祷のあまりにも多くが私たちの主キリストから奪い去られている - 主のみが私たちの救世主( "our Redeemer" )であり,したがって私たちの献身,崇拝 "worship"(訳注・正確には「崇拝」ではなく「崇敬」"adoration", "veneration" の心を聖マリアに向ける.この用語は,神キリストに対してのみ用いられる「崇拝」"worship" と同義語ではない),祈祷のすべては私たちの主キリストだけに向けられるべきだ,との考えからカトリック教徒たちに異議を向けます.だが,以下の引用を読めば,それが私たちの主キリスト御自身の言葉だけに,そうした異議の多くを異なる視点から見ることができるでしょう。
Between the Catholic Feasts of Our Lady's Assumption into Heaven (August 15) and Our Lady's Birthday (September 8), it may be a good moment to reflect upon a major Protestant objection to the devotion of Catholics to Our Lady, namely, all attention, honour and prayer directed towards Our Lady is so much taken away from Our Lord – he alone is our Redeemer, so to him alone should all our devotion, worship and prayer be directed. The following quotation, coming as from Our Lord himself, puts many such objections in a different perspective :–

(以下引用)

人間の眼は太陽を直視できないが,月を見つめるのは少しも難しいことではない.人間の心眼は神の完全さを直視できないが,マリアの完全さを見ることができる.マリアは太陽との関係では月のようなものである.マリアは太陽の光によって輝き,彼女はその光をあなたたちにそそぐ.だが,マリアはその光を一種の霊的な霧で和らげ,それによって,あなたたちが自らの限られた性質を直視することに耐えられるようにする.何世紀もの間,私が兄弟,正確には私と同じくマリアの子供たちのようになりたいと願うあなたたちすべてのために,マリアをモデルとして際立たせたのは,その理由による.
The human eye cannot stare at the sun, whereas it has no difficulty in gazing upon the moon. The spiritual eye of the human soul cannot behold the perfection of God as it is in itself, but it can look upon the perfection of Mary. Mary is like the moon with regard to the sun. By its light she is lit up, and that light is what she reflects upon yourselves, but she softens that light in a kind of spiritual mist by which it becomes bearable to behold for your limited nature. That is why for centuries it is her that I have been putting forward as a model for all of you that I wish to have as brothers, precisely as children of Mary, like myself. 

マリアは万物の救世主の御母(=神の御母)the Motherである(訳注・古今東西の真の母の根源).子供たちが母を見つめるのはなんと素晴らしいことか! 私があなたたちに彼女を与えたのはそのためである.あなたたちが眺める対象としての優しい威厳者を持ち,その者があなたたちの注視を引き寄せるほど素晴らしく素敵でありながら,あなたたちの目を眩ますほど輝かないようにするためだ.あなたたちが反対できない特別の理由に基づき私が選び出した人々のためにだけ,私は神また人なり(God-Man),絶対知能,完全なる者の輝きの中に私自身を顕示した.だが,その光景に浴するという贈り物には,生身の人々がそれに打ちひしがれることなく,そのような私への知識を持ち続けることができるようにするための別の贈り物を添えなければならなかった. 
She is the Mother. How sweet it is for children to look upon their mother ! I gave her to you for that reason, so that you would have a gentle Majesty to behold, splendid enough to seize and to hold your gaze but not so brilliant as to dazzle your sight. Only to souls chosen out by me for special reasons which you cannot contest have I shown myself in all the brilliance of the God-Man, absolute Intelligence and Perfection. However, the gift of that vision had to be accompanied by another gift to make living souls capable of enduring such knowledge of me without being annihilated by it.

あなたたちは皆,マリアを見つめることができる.それは,マリアがあなたたちと同じような存在だからではない.彼女は決してそのようなものではない! 彼女の純粋無垢さが彼女を高めているからこそ,彼女の御独り子で彼女の神である私は彼女を尊敬の念をもって処遇するのである.マリアの完成はあまりにも偉大であるため,あらゆる楽園は変わらぬ不変の微笑(ほほえみ)と私たちの三位一体の永遠(=とこしえ)の輝きに浴する彼女の王座の前に跪(ひざまず)く.だが,マリアを神の創造された他のいかなる被造物よりも広め,染み込ませるこの輝きは,彼女がそれを通して星のように光り,神のすべての光を集め,それをあらゆる被造物の上にゆきわたる優しい照明のように広める穢(汚・けが)れのないみ身体を包むきわめて純粋なベールによって和らげられる. Whereas all of you can look upon Mary. Not because she is like you, far from it ! Her purity raises her so high that I, her Son and her God, treat her with veneration. Her perfection is so great that all Paradise bows before her throne which bathes in the unchanging smile and everlasting brilliance of Our Threeness. But this brilliance which permeates and imbues her more than it does any other creature of God is tempered by the purest veils of her stainless flesh through which she shines like a star, gathering together all of God's light and spreading it around like a gentle illumination upon all his creatures.

そして,マリアは永遠にあなたがたの真の御母 "Mother" となられる.そして,彼女は神の御母(訳注後記・6・1) の持つあらゆる形の優しさをそなえ,あなたたちのために弁解 "excuses" をし,取りなし "interceding",あなたたちを辛抱強く導き続ける.マリアの喜びは彼女が自分を愛する者に「私の御独り子を愛しなさい」と言えるとき高まる.私の喜びは,私を愛する者に「私の御母を愛しなさい」と言えるときに高まる.そして,私たち二人の最大の喜びは,私の足元にいる者が私を離れて私の御母へ向かうのと,私の御母の腕に抱かれたあなたたちの一人が私の御母を離れ私に向かうのを見るという二重の喜びを私たちが得たときである.なぜなら,御母は自分に夢中になった者たちを一人でも多く御独り子に与えることができるときに喜びに満ちるからだ.そして,御独り子は一人でも多くの者が御母を愛するのを見るときに嬉しいからだ.私たち二人の喜びについていえば,私たちのいずれも相手に打ち勝つことは求めない.互いの喜びが相手の喜びの中で完全だから. 
And then she is for ever your Mother. And she has all forms of the Mother's kindness, making excuses and interceding for you and patiently leading you on. Great is Mary's joy when she can say to a soul that loves her, “Love my Son.” Great is my own joy when I can say to a soul that loves me, “Love my Mother.” And greatest of all is our double joy when we see either a soul at my feet leaving me to go to my Mother, or one of you held in my Mother's arms leaving her to come to me. Because the Mother is jubilant when she can give to her Son more souls enamoured of her, and the Son is jubilant when he sees more souls loving his Mother. For when it comes to our glory neither of us seeks to overcome, the glory of each of us being complete in the glory of the other.

だから,私はあなたたちに「私の子供よ,マリアを愛しなさい.私はマリアをあなたたちに与える.彼女はあなたたちを愛し,優しい微笑そのもので,あなたたちの存在を照らし出すだろう」と伝える. That is why I say to you, “My child, love Mary. I give her to you. She loves you, and with nothing but the gentleness of her smile she will light up your existence.” 

 (引用終わり)  

もしカトリック信徒たちが,神の御母聖マリアの光が自分たちを通して光るようにするすべを知ったなら,真に敬虔な新教徒が望むように,無数の人々を彼女の御独り子と真の神へ引き寄せることになるでしょう.
If Catholics knew how to let her light shine through them, they would draw numberless souls towards her Son and towards God, as truly devout Protestants can only wish.       Kyrie eleison.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注・2・1 「カトリック」とは:

・「天地において普遍の,公〈おおやけ〉の,という意味である.天地の永遠不変の摂理=真理を意味し, ・人間の始めた「宗教」とは全く異なる.


訳注・2・2 「聖マリアの被昇天」について:

☆聖マリアは,真の神によって天に上げられ,天と地の女王(=后)の称号を与えられた( "Holy Queen" ,Reine,Reina,Rainha,…などの尊称).

・「人類史上,最初にして唯一の」という意味で「天の元后・全地の后の中の后」と呼ばれる.

・カトリック国において,聖マリアは,国民の母,また国民の女王であられる(上述のように,Our Lady, Notre Dame, … 等と尊称で呼ばれる). その他諸々のカトリック国における言語で,同様の尊称で呼ばれる.

・「聖霊なる真の神」と「神の被造物である人間マリア」の「御独り子なるイエズス・キリスト(=唯一の救世主 Christ・メシアー Messiah)」,すなわち『神の子であり人(=聖マリア)の子でもあられる救世主(・キリスト・メシアー)たるイエズス』と共に,

・聖マリアは,贖いの犠牲(生け贄〈あがないの いけにえ〉)となられた.(福音書やロザリオ・苦しみの玄義「主の奉献→シメオンの預言」参照)

☆「聖マリアの初子(イエズス)は多くの逆らいの印となり(イエズス(=キリスト・救世主)の至聖なる聖心〈みこころ〉),マリア自身も心を剣で貫かれるだろう(至聖なるマリアの汚〈けが〉れなき御心.」との預言を受けた.

☆救世主(キリスト)イエズスの受難・(十字架上の)死・復活は,唯一度限りの真の神の救世の御業である.

・救世主(キリスト)は天に昇られ,天の御父なる真の神の右に座し,天地の王となって君臨され,終りの日に世を裁かれる.

・信仰によってこの事実を受け入れる者は誰でも救霊の恩寵を得る. 全知全能の神は,誰が救われ誰が救われないかあらかじめ御存じである. 神は,「救おうと思う者を救い,頑(かたく)なにしようと思う者を頑なにし(救霊から遠ざけられる)…(聖書より)=創造主たる真の神の権威により,神は何事も為す自由をお持ちである.」

↑したがって,人間は,常日頃から,真の創造主たる唯一の神を畏れ畏み(おそれ かしこみ),へりくだって(=謙遜に),全知全能の神の御目の御前で,自分の人生を全(まっとう)しなければ),最期には塵(ちり)(=土・地上)に帰って永遠に「原罪による死」のうちに滅亡する.

神の御母聖マリアの敬称: …
日本語: (天主〈=聖父と聖子と聖霊との真の三位一体の神〉の御独り子の御母・天地の元后(〈げんこう=女王〉),(私たちの天の御母・御母の御母・地の諸々の女王の女王)

英語: Our Lady(私たちの〈天と地の元后=后の后・元(はじめ)の女王・地上の諸々の母の母),

(仏〈蘭西〉語〈フランス語〉):Notre Dame,(上に同じ),「王たる救世主(キリスト)の御母なるお后(きさき)さまで,私たち一人ひとりの人間の御母」

(西班牙〈スペイン〉語)Nuestra Señora,(上に同じ)

(葡萄牙〈ポルトガル〉語)Nossa Senhora,(上に同じ)

(伊太利〈イタリア〉語)Nostra Signora-Madonna,(上に同じ)

Lady, Dame, Signora などは,お后(きさき)に対する敬称.「我々の」の語(複数形)が先につく.

・「元后」の意味…

①「元」最初の・元(はじめ)の.「后」(きさき).②諸々の女王の女王.

・最初の女エワと最初の男アダムは原罪を犯し,以来,全ての子孫 (=全人類)及び全被造物は「原罪」に伏す運命に定められた.

・聖マリアは,母の胎内に宿った時から,神の聖霊に満たされ(聖霊の恩寵に充ち満ちた所に罪の入り込む余地は全く無い),聖霊によって神の御独り子を懐胎されたので「無原罪の御宿りImmaculate Conception」と呼ばれる(この事は真の神がその預言者を通じて,旧約時代から数千年にもわたって御計画されて来たことの成就で ,カトリック教会の信仰箇条である.),古くからの真の神の預言通り,救世主(キリスト)をお生みになり,神の御母となられた.

・「真の信仰」無しには,人類は「真の永遠に生きる命」を失う.

・また,全被造物は創造主なる神により人類が原罪の呪いから救われ,「原罪の呪い」の支払う報酬たる「死」から解放され,「永遠に生きる命」を授かる時の到来を,忍耐強く待望している.

②信仰により,聖ヨアキム(父)と聖アンナ(母)より生れ,神の恩寵に充ち満ち溢れた聖マリアは,神に遣わされた「大天使ガブリエル」のお告げを信じ「仰せの如く我に成(為)れかし」とお答えになり,神の御意志を全くその身に受け入れた.

・聖マリアは,聖霊に満たされ,聖霊により神の御子を胎内に宿され,神の御母となられた.

・聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊の三位一体の唯一の神の,御独り子なる神の御母・唯一の救世主の御母となられた聖マリアは,神に天に上げられ,天地の元后(〈=女王〉諸々のうちの至高の后)の地位を受けられた.

・御子は救世主(キリスト・Messiah )であられ,イエズス・キリストと呼ばれ,真の神の救世の御業(受難・死・復活)を果たされ,天地の王となられた(=諸王の王).

・昔,あらゆる信仰による諸国とその元首は,真の神の御意志によって建てられ,各々の元首は信仰により真の神に服従した.(たとえば,ハンガリー建国当初の憲法・第一箇条には現実に,「この国の元首は聖母マリアである」と規定された.

・全地の唯一の真の支配者たる神の権威によって建てられた国々の最高権威者は,唯一の真の神の恩寵に満たされて神の御母となられた,唯一人の人間(諸々の人間の中の人間=古今東西の諸々の人間の中の人間で救世主をお生みになった),「天地の元后(=天地の女王)」なる「聖マリア」であった.

・真の信仰を持つ全ての人間にとって,唯一の真の神の御母なる聖マリアは,天地の女王であられ(=人類の中で唯一,御独り子なる神をお生みになったことで,三位一体の真の神の唯一の肉親となられた方).

・聖マリアが「無原罪の御宿り」であるのは,罪深い原罪のうちに滅ぶばかりの全世界の永遠の救世を望まれた全知全能の真の神が,超自然の奇蹟によって世に下された恩寵による.

・そして,この世(=地上・現世)で受難と十字上の死に至るまで,唯一の真の神の救世の御業に服従された御子イエズスは,真の命なる神の御力により御復活されて天に御昇天された.

・そして,キリスト(=救世主)イエズスは,天地の諸王の王となられ,御父なる真の神の右の座につき,天地を裁かれる.

・信仰の父祖「アブラハム」も,真の神の御母となられた「聖マリア」も,その保護者「聖 ヨゼフ」も,私達人類の「主」となられた神なる聖霊と人なる聖マリアの子であられる「イエズス」も,自分の目で見ることなく,心で信じた「信仰」によって霊魂の救済を真の神により獲得し,永遠の命に入った.

・私たち人間は,信仰の先祖となられた,諸々の「真の人間」たちの跡を辿って,彼らに倣い,人生を全うして永遠の命に入るように、と、天地の真の創造主なる唯一の神は,思召されている.

・救世主への信仰を持たず,元の人間「アダムとエワ」の「原罪」に伏したままの人間は,「アダムとエワの原罪」の果実である「死」への服従に甘んじる.現世での「生命」は肉体の滅亡と共に終わる. 「真の信仰」無しには,人間は肉体の生命しか持たないからである.

真の信仰によって「真の命」に対する畏敬の念を持たない,「アダムの原罪」に伏するすべての人間は,現世で命の母に定められている「女」を蔑視する. 「男」は生命を継ぐ「母」にはなれず,一代限りで終わる.

・真の神の御独り子・救世主なるイエズスに対する真の信仰を持つ「男」は,真の信仰に生きる「女」と一心同体となって現世を生きることで,命を次世代に引き継ぐ.

・原罪はエワからアダムに至り,アダムから全人類に至った.「アダム」に留まるすべての女はアダムの原罪に留まるすべての男の原罪による支配に伏することになる.

・原罪の下ある女が,悲惨な暴力の犠牲になるのは,原罪の下にある男の支配下にあるからである.

・たとえ原罪に留まる人間に支配されても,心の中で「信仰」「希望」「慈愛」に生きる人間は,真の神の御憐れみを受ける. 肉体の犠牲にもかかわらず,霊魂は救いを得て天の永遠の命に至る.

・このような真の神による天地の摂理に疎い国家や国家元首は,真実からほど遠く無知で未熟な存在である.どんなに額に汗して働いても,労働の実は実らず,天の永遠の命を得ることも無く,現世で身体が滅びればその霊魂も滅亡する.

・このような無知な国家元首に服する民も,その属する国家の元首と運命を共にすることになり,全地の支配者なる真の命なる神に祝福されず,その御加護も受けられない.

世界の実例をよく観察し,真実を悟る知恵を真の神に願い求め,現在の生き方を追求する事が救い・助かりの道である. 『わたしは道であり命である』唯一の救世主(Messiah)イエズス・キリストの御言葉.


訳注6・1 ・「真の御母」"Mother" について:

・=「地上のあらゆる母の中で最高位の母」という意味合い.

・元(はじめ)の女「エワ」は原罪を犯したが,

・聖マリアは信仰の恩寵により,真の神の御使いガブリエルの祝詞に謙遜(けんそん)に従い,真の神=救世主の母となられ,全ての真の信仰者の母となられた.

・マリアの御独り子なる主キリストと全ての真の信仰者とは,真の神の御母マリアにおいて,主キリストの兄弟姉妹であり,聖マリアは全ての真の信仰者の真の御母である.(聖ヨハネ福音参照)




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訳注の追補・修正等の作業を続けます

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本投稿記事・第477回エレイソン・コメンツ「マリアの栄光」(2016年9月03日付)/ELEISON COMMENTS CDLXXVII (September 03, 2016) : "MARY'S GLORY" は2016年9月13日午前06時00分に掲載されました.
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2016年7月9日土曜日

469 本気か? 英国離脱 BREXIT - REALLY ? 7/9

エレイソン・コメンツ 第469回 (2016年7月9日)

イギリスのEU離脱投票結果は私たちに再度思い起こさせてくれます.
神なしにものを築くのは無駄だということを.
Brexit reminds us once again –
To build without God is to build in vain.

イギリス国民は最近の国民投票で,たとえ僅差だったとしても共産主義的欧州連合(EU)から離脱することを選択しました.「エレイソン・コメンツ」の読者の多くは、新世界秩序(New World Order=NWO)など決して好きになれないイギリス人の一人である私が,この結果にさぞ快哉を叫んだのではないかと想像したに違いありません.だが,残念ながら,これまで数十年間NWOについて学んできたことから判断して,私はEU離脱が最終的にイギリスのこれまで最良だったことを本当に再確認することになるかどうか疑問だと認めざるを得ません.大西洋対岸のアメリカに目を向ければ、私は(ドナルド)トランプが好きで,ヒラリー(クリントン)が嫌いなのかもしれません.だが,二人は共に私たちのために「パンチとジュディの人形劇」を演じているようなものです.
Many readers of these “Comments” must be supposing that as an Englishman who does not at all like the New World Order, I must be rejoicing over the recent vote by the British people, albeit by a relatively narrow margin, to leave the communistic European Union. Alas, I have to admit that all I have ever learnt over the last tens of years about that NWO makes me doubt that the apparent exit of Britain will amount finally to any real re-affirmation of what was once best in Great Britain. Across the Atlantic likewise, I may love Trump and hate Hilary, but surely the two have been put together to make up for us one Punch and Judy show. 

イギリスのEU離脱については,真実を語るアメリカ人評論家として著名なポール・クレイグ・ロバーツ( paulcraigroberts.org 参照)の6月24日付け評論を一例としてお読みください.彼は,「国民投票の結果にもかかわらず,イギリスがEUを離脱する可能性は低い」とし,その理由として「イギリス人は投票で万事決着したなどとナイーブに考えないことです.戦いは始まったばかりです.」と書いています.彼はイギリス国民に対し,次のようなことが起きることを覚悟しておくよう警告しています.(1)政府は国民のもとへ戻ってきて,EUは私たちに好条件を出すので,加盟国にとどまることにしましょうと告げる(2)米国連邦準備銀行,欧州中央銀行,日本銀行やニューヨークのヘッジファンドは離脱投票がイギリス経済を停滞させることになるとしてポンドを売りたたく(これは既に起きている),(3)離脱投票結果は「ロシアによる侵略」(これは不快なNWOの作り話)に直面するヨーロッパ経済を弱体化する要因になると提起される,(4)離脱を説いた指導者たちはEUとの妥協点を見出すよう圧力を受ける,等々.そして,ロバーツは読者に対し,同様な可能性がほかにも多数あることを自分たちで想像するよう勧め,アイルランドが数年前にEU不参加の国民投票をしながら,のちに加盟投票したことを思い起こすよう促しています.
Take for instance, concerning Brexit, the June 24 article of a high-grade American truth-teller, Paul Craig Roberts (see paulcraigroberts.org) on why “Despite the vote, the Odds are Against Britain leaving the EU.” He writes: “The British people should not be so naïve as to think that the vote settles the matter. The fight has only begun.” He warns the British people to expect: their government to come back to them and say, the EU is giving us a better deal so let’s stay in; the Fed, ECB, BOJ and NY hedge funds to hammer the pound sterling as proof that the Brexit vote is sinking Britain’s economy (that hammering has already happened); the Brexit vote to be presented as having weakened Europe in front of “Russian aggression” (which is a diabolical NWO fabrication); leading Brexiters to come under pressure to reach a compromise with the EU; etc., etc.. And Roberts says readers can imagine for themselves many more such probabilities, reminding them how Ireland voted against Europe years ago until it was pressured to vote for. 

だが,henrymakow.com/2016/brexit-what-is-the-globalist-dame で見られる別の評論は,私の考えでは,話をもっと深く掘り下げています.なぜなら,筆者のヘンリー・マコウは「パンチとジュディの人形劇」のさらに先を読む人物であり,グローバリストたちから「反ユダヤ主義者」もしくは「ユダヤ嫌い」と呼ばれている強みがあり,彼自身がユダヤ人だからです.多少なりとも救世主,すなわちキリストとの関わりを持つ者でなければ,キリストの敵を見定めることなどできないというのが本当のところでしょう.
However, at henrymakow.com/2016/06/brexit-what-is-the-globalist-game, in my opinion another article goes deeper still, because Henry Makow goes further behind the Punch and Judy show, because he has the advantage of being what the globalists no doubt call an “anti-semite” or rather a “Jew-hater”, because Makow is himself a Jew. Truly, only those with some handle on the Messiah, or the Christ, can take the measure of the Antichrist. 

評論のテーマは「離脱派の人たちはエスタブリッシュメントがいかに自分たちに背を向けているかと嘆くが,本当はその逆が実態だ」という点です.これを証明するため,評論は程度の差こそあれ熱烈なグローバリストで,国民投票で離脱運動をした保守党,労働党双方のイギリス人政治家を多数名指ししています(お望みなら名前をチェックするのは簡単でしょう).同じように,評論はイギリスのメディアに目を向け,普段グローバリズムを持ち上げ,国民投票で離脱推進のキャンペーンをした新聞,ジャーナリストを多数名指ししています.では,離脱の目的はなんだったのでしょうか?評論はヨーロッパがイギリスにより良い条件を与えるよう「脅迫」するのが目的だったと示唆したプーチン(ロシア大統領)の受け止め方が実態に迫っていると評価しています.評論はさらに進んで,離脱はヨーロッパを脅かして「英米ユダヤ主義の戦争挑発者(war-mongers)や私略船的企業(corporate privateers)に完全に降伏させる」のが目的だったと述べ,離脱が「グローバリズムに対する勝利でなかったのはほぼ間違いない」と結んでいます.さらに,マコウは「権力者たちがイングランドは EU 内にとどまるより離脱する方がフリーメーソン的中央銀行による世界圧政にとってより効果的な道具になりうると決めたのは明白だ」と付け加えています.
The article’s thesis is that “Brexiters lamented how the Establishment was ranged against them, but in truth the reverse was the reality.” To prove this thesis the article names by name numerous British politicians, both Tory and Labour, who are more or less fervent globalists and who campaigned for Brexit (it should be easy enough to check the names for anyone who wishes). Similarly in the British media, the article names numerous journals and journalists, normally presstituted for globalism, who campaigned for Brexit. Then what was Brexit for ? The article credits Putin with getting much closer to the truth when he suggested that it was to “blackmail” Europe into making better terms with Britain. The article goes further: Brexit was designed to force Europe to “surrender completely to Anglo-American Zionist war-mongers and corporate privateers”, and the article concludes that Brexit was “most certainly no triumph against globalism.” And Makow himself adds: “Evidently the powers-that-be have decided that England outside Europe rather than inside can be a more effective instrument of Masonic central bank world tyranny.” 

おそらく,そのような憶測(その水準を言っているのではありません)は的外れでしょう.だが,確かなことは,ヨーロッパにせよイギリスにせよ,神を持たなければどれほど価値があるだろうか,ということです.神なしにものを築くのは無駄なことだ,と詩篇作者は言っています(訳注・「詩篇」=旧約聖書に記される古代イスラエル国王かつ預言者ダビドによる作品).だが,離脱討論中に神の名に触れた者が一人でもいたでしょうか?もし,離脱が本当になんらかのプラスをもたらすようになるとすれば,ビジョンを備えたリーダーの出現が必要でしょう.神なしに,そのようなリーダーが現れるでしょうか?
Maybe such speculations (but not their level) are off the mark, but for sure and certain, what are either Europe or Britain worth without God ? To build without him is to build in vain, says the Psalmist. Yet who in all the Brexit debate ever even mentions his name ? If Brexit is to amount to anything truly positive, it will need a leader with vision. Without God, where will he come from ?

キリエ・エレイソン.
(主よ,憐れみ給え〈しゅよ,あわれみたまえ〉)


リチャード・ウィリアムソン司教



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本投稿記事・第469回エレイソン・コメンツ「本気か? 英国離脱」(2016年7月9日付)/ELEISON COMMENTS CDLXIX(July. 9, 2016) : "BREXIT - REALLY ?" (解説無し)は2016年7月25日午後23時26分に掲載されました.
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2015年12月19日土曜日

440 救世主到来 12/19

エレイソン・コメンツ 第440回 (2015年12月19日)

世界の救世主は冷たい藁(わら)の上に横たわっておられます.
偉大な神よ,私たちが彼を再び苦しめるようにさせないでください!
The Saviour of the World lies on cold straw –
Great God, grant us to hurt him never more !

かつてキリスト教がゆきわたっていた国々で今日見られるクリスマスの様相と旧約聖書の随所に記されている救世主到来の預言とはなんと対照的なことでしょうか!これは,その国々の始まりと終わりの対照です.ユダヤ人が2千年以上かけて準備したキリスト(=救世主)の到来は,異邦人国諸国が彼の教会を通じて神に仕えることを受け入れるようにしましたが,その時ユダヤ人は不思議なことにそうすることを放棄しました.今はそれら諸国の終わりの時です.今度は異邦人国諸国が神を見捨てようとしているからです.私たちは旧約聖書に含まれる何百もの救世主にかかわる言葉の中からいくつかを選んで読み返すことにより,救世主の使命の栄誉と無限の偉大さ,そして彼に背を向けることの重大さを思い起こしてみましょう.(訳注・「キリスト(基督)」=「救世主」=「メシア/メサイア」
What a contrast there is between today's Christmas scene in the once Christian nations, and the prophecies of the Messiah to come, which are scattered throughout the Old Testament ! It is the contrast between the beginning and the end of those nations. It was the coming of Christ, prepared by the Jews over two thousand years, which through his Church forged those nations (Gentiles) to take up the service of God when the Jews mysteriously chose to abandon it. Today is the end of the time of those nations because they are now abandoning God in their turn. Let us remind ourselves of the glory and infinite greatness of the Messiah's mission, and of the seriousness of turning our backs on him, by a random selection from the hundreds of messianic quotes in the Old Testament:--

1.ダビド(紀元前1000年)- 救世主はユダヤ人たちによって絶縁されるだろう(詩篇・第22〈21〉篇7-8節).彼は異邦人たちを改宗させるだろう(詩篇・第22〈21〉篇28節).彼は苦悩の中で笑いものにされるだろう(詩篇・第22〈21〉篇7-9節).彼の敵たちは彼の手足を突き通し,その衣服を得るためくじ引きをするだろう(詩篇・第22〈21〉篇17,19節).彼らは救世主に酢を与え飲ませるだろう(詩篇・第68篇22節).
1. David (1000 B.C.) - the messiah would be disowned by the Jews (Ps. XXI, 7-8). He would convert the Gentiles (Ps. XXI, 28). He would be betrayed by a disciple (Ps. XL, 10). He would be mocked in His agony (Ps. XXI, 7-9). His enemies would pierce His hands and His feet, and cast lots for his garments (Ps. XXI, 17, 19). They would give Him vinegar to drink (Ps.LXVIII, 22).

2.イザヤ(紀元前720年) - 救世主は諸国を改宗させるだろう(第2章2-3節).彼はおとめ(処女)から生まれるだろう(第7章14節).彼は王たちから王の子として敬愛されるだろう(第9章6-7節).彼は先駆者をともない,その先駆者は人々が彼を迎える用意をするだろう(第15章3-4節).彼は温厚そのものだろう(第17章1-3節).彼は苦しみの人だろう(第53章3節).彼は私たちの罪を償うため自らの命を差し出すだろう(第53章5節).彼はけっして不平を漏らさないだろう(第53章7節).彼は悪人の数に入れられるだろう(第53章12節).彼は世界に君臨するだろう(第55章5節).彼の教会は,彼の配偶者であり,彼に数多くの子供たちを与えるだろう(第66章18-23節).
2.  Isaias (720 B.C.) - The Messiah would convert the nations(II, 2-3).He would be born of a virgin (VII, 14). He would be adored by kings as a child (IX, 6-7). He would have a precursor; the precursor would prepare the people for Him (XL, 3-4). He would be mildness itself (XLII, 1-3). He would be a man of sorrows (LIII, 3). He would give His life to expiate for our sins (LIII, 5). He would never complain (LIII, 7). He would seem to be a criminal (LIII, 12). He would reign over the world LV, 5). His Church, His spouse, would give Him a multitude of children (LXVI, 18-23). 

3.ホゼア(紀元前600年) - 救世主は彼の御父の命令を受けエジプトから帰るだろう(第11章1節).彼は諸国を改宗させるだろう(第2章19-24節).ユダヤ人たちは彼を拒むことにより世界中に散り散りになるだろう(第9章17節).
3. Osee (600 B.C.) - The Messiah would return from Egypt by order of His Father (XI, 1). He would convert the nations (II, 19-24). The Jews would be scattered throughout the world for denying Him (IX, 17).

4.ミカヤ(紀元前600年)- 救世主はベトレヘムで生まれ,神および人間として存在するだろう(第5章2節).彼は諸国を改宗させるだろう(第4章2-3節).彼は私たちのゆる(赦)しの秘蹟となるだろう(第7章18-20節).
4. Micheas (600 B.C.) - The Messiah would be born in Bethlehem and he would be both God and Man (V, 2). He would convert the nations (IV, 2-3). He would be our reconciliation (VII, 18-20).

5.ヨエル 紀元前600年)- 救世主は彼の教会に聖霊を遣わし,神の民は預言を行うだろう(第2章28-29節).救世主は権威をもって世界に審判を下すため訪れるだろう(第3章2節).
5. Joel (600 B.C.) - The Messiah would send the Holy Ghost upon His Church and the faithful would prophesy (II, 28-29). The Messiah would come to judge the world in Power (III, 2).

6.エレミア(紀元前600年)- 救世主の誕生は無実の子供たちの殺害により知らされ,母たちは嘆くだろう(第31章15節).彼は諸国を改宗させ,人々との間に最初の契約(旧約)より完全な新しい契約(新約)を確立するだろう(第31章31-34節).
6. Jeremias (600 B.C.) - The Messiah's birth would be known by the slaughter of innocent children for whom their mothers would weep (XXXI, 18). He would convert the nations and establish a new covenant with the people, more perfect than the first (XXXI, 31-34).

7.エゼキエル(紀元前500年)- 救世主はダビド王の家系から誕生するだろう(第17章22節) .彼はダビド家の王冠を受けるだろう(第21章27節).
7. Ezechiel (580 B.C.) - The Messiah would be of the race of David (XVII, 22). He would receive the crown of the royal house of David (XXI, 27).

8.ダニエル(紀元前500年)- 救世主はバビロン捕囚後のエルサレム再建布告から数えて490年後に到来するだろう.彼は美徳による統治を再興するだろう.しかし彼はユダヤ人たちに拒まれ処刑されるだろう.またエルサレムの神殿と市街は破壊されるだろう.そしてユダヤ人たちは永遠に孤立状態に置かれるだろう(第9章24-27節).
8. Daniel (500 B.C.) - The Messiah would come in 490 years from the decree to rebuild Jerusalem after. the Babylonian captivity He would re-establish the reign of virtue; He would be denied by the Jews and put to death; the temple and the city of Jerusalem would be destroyed; the Jews would be in a state of desolation until the end of time (IX, 24-27).

こうした引用を読み直すと救世主が彼の民ユダヤ人といかに離(はな)れがたい存在だったか,それにもかかわらずユダヤ人がいかにして彼から離れたかが分かります.救世主によって神は民族でなく信仰に基づいて選ばれた新しい人々を育まれました.そして今,その人たちも物質主義に溺(おぼ)れようとしています.主よ,一年のこの時期に,神がいかに世界を変えられたか,そして神なしでは,世界がいかに壊滅(かいめつ)的に変わってしまうかを私たちに思い出させてください.
To read these quotes again is to be reminded how inseparable the Messiah was from his people, the Jews, and yet how they have separated themselves from him ever since. By him God raised a new people, chosen by faith instead of race, and now that people also is wallowing in materialism. Lord, grant us at this time of year to remember how he changed the world, and how, without him, it is changing catastrophically back.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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解説付き邦訳文を,追って掲載いたします.
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本投稿記事・第440回エレイソン・コメンツ「救世主到来」(2015年12月19日付)"ELEISON COMMENTS CDXL (Dec. 19, 2015) : "COMING MESSIAH" は2015年12月24日20時25分に掲載されました.
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2015年9月5日土曜日

425 愛徳の順序 9/5


解説付き版

エレイソン・コメンツ 第425回 (2015年9月5日)

私たちの嘘の世界は
往々にして 「黒は白だ」と言います.
(わたくし たちの うその せかいは
おうおう にして 「くろは しろだ」と いいます.)
( "Often our world of lies says, “Black is white.” " )

神を尺度とするなら,
公教徒達(=カトリック教徒達」)は 正しく測ります.
(かみを しゃくど と する なら,
こう きょうと たち〈=かとりっく きょうと たち〉は ただしく はかり ます.)
( "With God for measure, Catholics measure right." )

公教会(=カトリック教会)( "the Catholic Church" )は「人種差別」“racism” に就いて如何考えるでしょうか?(こうきょうかい〈かとりっくきょうかい〉は「じんしゅ さべつ」に ついて どう かんがえる でしょうか?) 「反ユダヤ主義」 “anti-semitism” (訳注後記0・1 )に就いては?(「はん ゆだや しゅぎ」に ついては?) 「(女)性差別」 “sexism” に 就いては?(「(じょ)せい さべつ」に ついては?) 或(い)は「同性愛嫌悪」 “homophobia” に就いては?(あるい は 「どうせい あい けんお」に ついて は?)( "What does the Catholic Church think of “racism”? Or of “anti-semitism”? Or of “sexism”? Or of “homophobia”? " ) 他にも多々在ります(ほか にも たた あり ます.)( "And so on and so on." ).誰もが他の誰に対しても親切だと想定されて居るリベラルな世界で(だれ もが ほか の だれ に たいし ても しんせつ だ と そうてい されて いる りべらる な せかい で)( "In a liberal world where everybody is supposed to be nice to everybody, …" ),私達全てが憎むべき様な新しい階級の人々に就いて「差別語禁止」が定期的に出て来るのは驚くべき事では無いでしょうか?(わたくし たち すべて が にくむ べき ような あたらしい かいきゅう の ひとびと に ついて「さべつ ご きんし」が ていき てき に でて くる のは おどろく べき こと では ない でしょうか?)( "… is it not surprising how “political correctness” seems to come up regularly with a new class of people for all of us to hate? " ) 公教会(カトリック教会)は,(其の創立者で在られる)神授の(=神聖な)真の教師(=神の御独り子主イエズス・キリスト)( "its divine Master" )の聖教(みおしえ)に従い私達は隣人を愛し,誰も憎むべきで無いと説いて居ます(こう きょうかい〈かとりっく きょうかい〉は,〈その そうりつしゃ で あられる〉しんじゅ の〈=しんせい な〉まこと の きょうし〈=かみ の おん ひとりご しゅ いえずす・きりすと〉の みおしえ に したがい わたくし たち は りんじん を あいし,だれ も にくむ べき で ない と といて います)(訳注後記0・2 ).だが教会は,私達に仲間の全てを無差別に愛せとは説いて居ません(だが きょうかい は,わたくし たち に なかま の すべて を むさべつ に あいせ と は といて いません)( "… but it does not say we should love all our fellow-men indiscriminately." ).偉大な公教会(カトリック教会)の神学者( "a great Catholic theologian" )が私達の神や人に対する愛に何の様な順序を付けたか振り返って見ましょう(いだいな こうきょうかい の しんがくしゃ が わたくし たち の かみ や ひと に たいする あい に どのような じゅんじょ を つけたか ふりかえって みましょう)( "Let us see how a great Catholic theologian puts order into our love of God and man." ).以下に紹介為るのは聖トマス・アクィナス( "St Thomas Aquinas" )の「神学大全」( "Summa Theologiae" )に含まれる十三か条の骨子,第二部第二巻,第二十六問(題)(=問26) ( "2a 2ae, Question 26" )です(いかに しょうかい する のは せい とます・あくぃなす の「しんがく たいぜん」に ふくまれる じゅうさん かじょう の こっし,だい に ぶ だい に かん,だい にじゅう ろく もん〈だい〉〈=とい にじゅう ろく〉 です):-- ( "Here are the bare bones of the 13 Articles of St Thomas Aquinas’ Summa Theologiae, 2a 2ae, Question 26:— " )
(訳注後記0・1) 「反ユダヤ主義」“anti-semitism” )
(訳注後記0・2 ) ① (i) 「公教会(カトリック教会)」の創立者すなわち「神授の真の教師」=「キリスト」「メシア(=メサイア)」.(ii) 「キリスト・メシア」の意味=「救世主」.「イエズス・キリスト」とは,即ち「救世主イエズス」の事である.「イエズス」の御名については,後述の「訳注の続き」をご参照下さい.②「公教会の教え」=「神(天主)の十戒」

1 愛徳 "Charity" には一つの真正の順序が在る(あいとく には ひとつの しんせい の じゅんじょ が ある)(訳注後記 1・1「神の十戒」を参照).何故なら,其れは超自然的至福に於ける友情であり(なぜなら,それは ちょう しぜん てき しふく に おける ゆうじょう で あり),其の至福は神を出発点とする物(為る物)だからです(その しふく は かみを しゅっぱつ てん と する もの だから です)( "1 Charity does have an order, because it is a friendship in supernatural bliss, and that bliss has its starting-point in God, …" ).貴方が出発点から物事を辿る場合(あなたが しゅっぱつ てん から ものごと を たどる ばあい),何時でも順番を付けるでしょう(いつでも じゅんばん を つける でしょう)( "… and wherever you have things following from a starting-point, you have an order." ).(公教徒〈=カトリック教徒〉が重要な問題となる(為る)と如何に直ちに神に委ねるかに注目して下さい.リベラル派(=自由主義派)は自分達の「親切さ」“niceness” の出発点に就いて,先ず何に委ねるのでしょうか? ナチスに対する憎悪でしょうか? 真面目な問いです…)〈こうきょうと〈=かとりっく きょうと〉が じゅうよう な もんだい と なると いかに ただちに かみに ゆだねるか に ちゅうもく して ください.りべらるは〈じゆう しゅぎ は〉 は じぶん たちの「しんせつさ」の しゅっぱつ てん に ついて,まず なに に ゆだねる ので しょうか? なちす に たいする ぞうお でしょうか? まじめな とい です…〉( "… (Notice how the Catholic immediately refers a major question to God. What might liberals immediately refer to as the starting-point of their “niceness”? Hatred of Nazis? Seriously… ) " )

2 愛徳に於いては隣人 "neighbour" よりも勝って神を愛さなければ為らない(あいとく に おいては りんじん よりも まさって かみを あいさなければ ならない)( "2 Charity must love God above neighbour, …" )(訳注後記 2・1「隣人とは誰か?」).何故なら,愛徳は至福に於ける友情( "charity is a friendship in bliss" )で有り(なぜなら,あいとく は しふくに おける ゆうじょう であり),私自身や私の隣人の為のあらゆる至福は神を源泉として居るからです(わたくし じしん や わたくし の りんじん の ため の あらゆる しふく は かみ を げんせん と している から です)( "… because charity is a friendship in bliss, and all bliss for myself or my neighbour has its source in God. " )(訳注後記2・2「神の十戒・第一項」を参照).(リベラル派は自らの幸福の源泉を何処に置いて居るのでしょうか? 自己達成感でしょうか? 其れとも自分達の仲間でしょうか? 此れ等は,幸福の形態としては相対的に貧弱な物です.)〈りべらるは は みずから の こうふく の げんせん を どこ に おいて いる ので しょう か? じこ たっせい かん でしょうか? それとも じぶん たち の なかま でしょうか? これら は,こうふく の けいたい と しては そうたい てき に ひんじゃく な もの です.〉( " (Where do liberals place the source of their happiness? In self-fulfilment? In their fellow-men? These are relatively poor forms of happiness.) " )
(訳注後記 2・1 )「隣人とは誰か?」→福音書のキリストによる「善きサマリア人」のたとえ話を参照.

3 神は自己以上に愛されなければ為らない(かみ は じこ いじょう に あいされ なければ ならない)( "3 God must be loved above self, …" ).何故なら,あらゆる(無傷の)生き物は其其(其々)の遣り方で(なぜなら,あらゆる〈む きず の〉いきもの は それぞれ の やりかた で),自分達自身の善より共通の善を自然に愛すからです(じぶん たち じしん の ぜん より きょうつう の ぜんを しぜん に あいす から です)( "… because all (unspoiled) creatures, each in their way, naturally love the common good above their particular good, …" ).神はあらゆる物の中で(かみ は あらゆる もの の なか で),自然的且つ超自然的な共通の善です(しぜん てき かつ ちょう しぜん てき な きょうつう の ぜん です)( "… and God is the natural and supernatural common good of all." ).

4 霊的自己(=自己の霊魂)( "Spiritual self" )は霊的隣人(=隣人の霊魂《=隣人の心・気持ち》)( "spiritual neighbour" )より愛されなければならない(れいてき じこ〈=じこ の れいこん《=じこ の こころ・きもち》〉は れいてき りんじん 〈=りんじん の れいこん《=りんじん の こころ・きもち》〉より あいされ なければ ならない)( "4 Spiritual self must be loved above spiritual neighbour, …" )(訳注後記4・1 , 4・2).何故なら,私は隣人より私自身に近い存在だからです(なぜなら,わたくしは りんじん より わたくし じしん に ちかい そんざい だから です)( "… because I am closer to me than I am to my neighbour …" ).従って,若し私が「霊的に」私自身を愛さないなら(=私自身の霊魂《=私自身の心・気持ち》に対して愛徳を持てないなら),私は隣人を愛せそうもありません〈=私は隣人の霊魂《=隣人の心・気持ち》に対して愛徳を持てそうもありません〉〈したがって,もし わたくしが「れい てきに」わたくし じしんを あいさない なら〈=わたくし じしん の れいこん《=わたくし じしん の りょうしん・きもち》 に たいして あいとく を もてない なら〉,わたくし は りんじん を あいせそう も ありません〈=わたくし は りんじん の れいこん《=りんじん の りょうしん・きもち》に たいして あいとく を もてそう も ありません〉( "… so that if I do not love me (spiritually), I am unlikely to love my neighbour." ).然しながら――(しかしながら――)( "But –" )
(訳注4・1)「霊的自己・霊的隣人(=自己や隣人の霊魂を指す)」=自己や隣人の真の人格的価値や良心(善良な気持ち)を意味する.)〈「れいてき じこ・れいてき りんじん=《じこ や りんじん の れいこん を さす》」=じこ や りんじん の まこと の じんかく てき かち や りょうしん《ぜんりょう な きもち》を いみ する.〉
(訳注後記4・2 )「自己の真の人格的価値」について.

5 霊的な隣人は肉体的な自己(=自己の身体的欲求)より愛されなければ為らない(れい てき な りんじん は にくたいてき な じこ より あいされ なければ ならない)( "5 Spiritual neighbour must be loved above corporal self, …" ).肉体的自己とは即ち(乃ち)私自身の肉体です(にくたい てき じこ とは すなわち わたくし じしんの にくたい です)( "… i.e., my own body, …" ).何故なら霊は肉体以前に来る物で在り(なぜなら れいは にくたい いぜん に くる もの であり)( "… because spirit comes before body, …" ),其の訳は神は至福に直接加わるのに対し(その わけ は かみは しふく に ちょくせつ くわわる のに たいし ),肉体は(霊魂を通して)間接的にだけ加わるものだからです(にくたいは〈れいこんを とおして〉かんせつ てき に だけ くわわる もの だから です)( "… because spirit partakes directly in bliss, while body partakes only indirectly (through spirit)." ).(訳注後記 5・1 ) 
(訳注後記 5・1)「肉の欲・目の欲・生活のおごり」〈新約聖書:使徒ヨハネによる第一の書簡・第2章16節〈12-17節を掲載〉を参照.

6 或る隣人達は,他の隣人達より愛されなければならない(ある りんじん たち は,ほか の りんじん たち より あいされ なければ ならない)( "6 Some neighbours must be loved more than others, …" ).何故なら,全ての隣人達は神に対する客観的な物と私に対する主観的な物という愛徳の両極への近さで,其其(其々)異なる存在だからです(なぜなら,すべて の りんじん たち は かみ に たいする きゃっかん てき な もの と わたくし に たいする しゅかん てき な もの と いう あいとく の りょうきょく への ちかさで,それぞれ ことなる そんざい だからです)( "… because they all vary in their closeness to one of the two poles of charity, objective to God, or subjective to me." ).諸諸の聖人達は神により近く,諸諸の隣人達は私により近い存在です(もろもろの せいじん たち は かみ に より ちかく,もろもろの りんじん たち は わたくし に より ちかい そんざい です)( "Saints are closer to God, neighbours to me." ).

7 客観的に言えば,諸聖人は諸親族(=親戚)より愛されなければならない(きゃっかん てき に いえば,しょ せいじん は しょ しんぞく〈=しんせき〉 より あいされ なければ ならない)( "7 Objectively, Saints will be loved more than relatives, …" ).だが,主観的には諸隣人の方が諸聖人より強く愛されるでしょう(だが,しゅかん てき には しょ りんじん の ほう が しょ せいじん より つよく あいされる でしょう)( "… but subjectively neighbours will be loved more intensely than Saints, …" ).何故なら,諸隣人の方が色々な形で諸聖人より近い存在だからです――「愛徳は家庭から始まる」です(なぜ なら,しょ りんじん の ほう が いろいろ な かたち で しょ せいじん より ちかい そんざい だから です――「あいとく は かてい から はじまる」です)( "… because in a variety of ways they are closer – “Charity begins at home.” " ).

8 基本的には,諸諸の血縁の親族(親戚)達は親族(親戚)で無い者より愛されなければならない(きほん てき には,もろもろ の けつえん の しんぞく〈しんせき〉たち は しんぞく〈しんせき〉 でない もの より あいされ なければ ならない)( "8 Essentially, blood-relatives will be loved above non-relatives, …" ).何故なら,血縁は自然な物で,固定的且つ実体的な物だからです(なぜなら,けつえん は しぜん な もの で,こてい てき かつ じったい てき な もの だから です)( "… because blood-ties are natural, fixed and substantial." ).但し,偶然的に血縁関係で結ばれた親族(親戚)以外の友情の絆の方がより強い事が有ります(ただし,ぐうぜん てき に けつえん かんけい で むすばれた しんぞく〈=しんせき〉いがい の ゆうじょう の きずな の ほう が より つよい こと が あります)( "Accidentally however, other ties of friendship can be more powerful." ).

9 客観的には,両親は子供達より愛されなければならない(きゃっかん てき には,りょうしん は こども たち より あいされ なければ ならない)( "9 Objectively, parents are to be loved more than children, …" ).何故なら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近い存在だからです(なぜなら,せいめい や おおく の りとく の げんせん として,りょうしん は かみ に より ちかい そんざい だから です)( "… because as sources of life and of many benefits, parents are closer to God, …" ).だが,主観的には,幾つかの理由で,子供達の方が私達により近い存在です(だが,しゅかん てき には,いくつか の りゆう で,こども たち の ほう が わたくし たち に より ちかい そんざい です)( "… but subjectively children can be closer to us for several reasons." ).

10 父親は母親より愛されなければならない.此れは字義通りです(ちちおや は ははおや より あいされ なければ ならない.これ は じぎ どおり です)( "10 Father should be loved more than mother, as such, …" ).何故なら,私達に生命を与える時に其其(其々)が果たす役割を見れば(なぜなら,わたくし たち に せいめい を あたえる とき に それぞれ が はたす やくわり を みれば)( "… because by the part each plays in giving us life,ten …" ),父親は形式的で能動的で在るのに対し(ちちおや は けいしき てき で のうどう てき である のに たいし)( "… the father is formal and active whereas …" ),母親は物質的(母系的)( "… the mother is material ( maternal ) " )で受動的だからです(ははおや は ぶっしつ てき〈ぼけい てき〉で じゅどう てき だから です)( "… the mother is material ( maternal ) and passive …" )(聖トマスは,今日見られる様な変性した人間で無く,正常な状態の人間に就いて書きました)(せい とます は ,こんにち みられる ような へんせい した にんげん でなく,せいじょう な じょうたい の にんげん に ついて かきました)( " (St Thomas was writing about human beings who are normal and not de-natured as they are today). " ).

11 客観的には,両親は妻より愛される事に為る(きゃっかん てき には,りょうしんは つま より あいされる こと に なる)( "11 Objectively, parents are to be loved more than wife, …" ).何故なら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近いからです(なぜなら,せいめい や おおく の りとく の げんせん として,りょうしん は かみ に より ちかい から です)( "… because as sources of life and of many benefits they are closer to God, …" ).然し,主観的には,妻は夫と合って「(二人は)一体」である為,両親以上に愛される物です(しかし,しゅかん てき には,つま は おっと と あって「〈ふたり は〉いったい」で ある ため,りょうしん いじょう に あいされる もの です)( "… but subjectively she who is “one flesh” with her husband is to be loved the more." )(訳注後記11・1 )
(訳注後記11・1)エフェゾ人への書簡:第5章31節.〈全章《第1-6章》を掲載〉.

12 客観的には,私達に善行を行う者は私達が善行を与える者より愛される事に為る(きゃっかん てき には,わたくし たち に ぜんこう を おこなう もの は わたくし たち が ぜんこう を あたえる もの より あいされる こと に なる)( "12 Objectively, somebody doing good to us is to be loved more than somebody we do good to, …" ).何故なら,彼等は私達に取って善の源泉だからです(なぜ なら,かれら は わたくし たち に とって ぜん の げんせん だから です)( "… because they are a source of good to us, …" ).然し,主観的な身近かさの為,私達は私達が善行を与える者をより愛する事が有ります(しかし,しゅかん てき な みぢか さ の ため,わたくし たちは わたくし たち が ぜんこう を あたえる もの を より あいする こと が あります)( "… but by subjective closeness we love the more somebody that we do good to, …" ).詰まり(詰り),「受け取るより与える方が恵まれている」と言う訳です(つまり,「うけとる より あたえる ほう が めぐまれて いる」と いう わけ です)( "… for various reasons, e.g . “It is more blessed to give than to receive.” " )(訳注後記12・1).
(訳注後記12・1)「受け取るより与える方が恵まれている」 新約聖書からの引用→使徒行録:第20章35節『…そうして働いて弱い人々を支え,主イエズス自ら言われた*³⁵〈受けるよりも与えることに幸せがある〉ということばを思い出さねばならぬことを,常にあなたたちに示しました」.』(使徒聖パウロのことば(〈注釈〉 *³⁵ このことばは福音書にはない.)

13 天国でも依然として愛徳の順序がある(てんごく でも いぜん として あいとく のじゅんじょ が ある).何にもまして神に対する愛が一番です(なに にも まして かみに たいする あい が いちばん です).また,神への近さに就いての隣人の客観的評価は,此の(地上の)世より天国での方が重視されます(また,かみ へ の ちかさ に ついて の りんじん の きゃっかん てき ひょうか は,この 〈ちじょう の〉よ より てんごく で の ほう が じゅうし されます).
13 There will still be an order of charity in Heaven, especially the loving of God above all. Also the objective grading of neighbour for his closeness to God will count more there than it does here on earth.

「人種差別」に就いては如何でしょうか?(「じんしゅ さべつ」に ついて は どう で しょうか?)何の人種が神若しくは私により近いでしょうか?(どの じんしゅ が かみ もしく は わたくし に より ちかい で しょうか?) 何の人種も同じとは限りません(どの じんしゅ も おなじ とは かぎり ません).「反ユダヤ主義」は? セム人は神の友人でしょうか,其れとも敵でしょうか?(「はん ゆだや しゅぎ」は?せむ じん は かみ の ゆうじん で しょうか,それとも てき〈=かたき〉で しょうか?)(訳注2・1 ) 「(女)性差別」 は?(「〈じょ〉せいさべつ」は?) 今日の女性達は私が神へ向かう時手助けに為るでしょうか,其れとも邪魔を為るでしょうか? (こんにち の じょせい たち は わたくし が かみ へ むかう とき てだすけ に なる でしょうか,それとも じゃま を する でしょうか?),「同性愛嫌悪」は如何でしょう? (「どうせい あい けんお」は どうでしょう?)「ホモ達」は神と如何両立するでしょうか?(「ほも たち」は かみ と どう りょうりつ する でしょうか?)
“Racism”? – which races are closer to God, or to me? They are not all the same. “Anti-semitism”? – are “Semites” friends or enemies of God? “Sexism”? – do today’s women help or hinder me on my way to God? “Homophobia”? – how do “homos” stand with God?

キリエ・エレイソン(主よ憐れみ給え). Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教



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解説無し


私たちの嘘の世界は往々にして「黒は白だ」と言います. 
神を尺度とするなら,カトリック教徒たちは正しく測ります. 
Often our world of lies says, “Black is white.” 
With God for measure, Catholics measure right. 

カトリック教会( "the Catholic Church" )は「人種差別」 “racism” についてどう考えるでしょうか? 「反ユダヤ主義」 “anti-semitism” については? 「性差別」 “sexism” については? あるいは「同性愛嫌悪」 “homophobia” については? ほかにも多々あります.誰もがほかの誰に対しても親切だと想定されているリベラルな世界で,私たちすべてが憎むべきような新しい階級の人々について「差別語禁止」が定期的に出てくるのは驚くべきことではないでしょうか? カトリック教会は,(その創立者であられる)神授の真の教師(=神の御独り子主イエズス・キリスト)( "its divine Master" )の聖教に従い私たちは隣人を愛し,誰も憎むべきでないと説いています(訳注2・2 ).だが教会は,私たちに仲間のすべてを無差別に愛せとは説いていません.偉大なカトリック教の神学者が私たちの神や人に対する愛にどのような順序をつけたか振り返ってみましょう.以下に紹介するのは聖トマス・アクィナス( "St Thomas Aquinas" )の「神学大全」( "Summa Theologiae" )に含まれる13か条の骨子,第2部第2巻,問26です.
What does the Catholic Church think of “racism”? Or of “anti-semitism”? Or of “sexism”? Or of “homophobia”? And so on and so on. In a liberal world where everybody is supposed to be nice to everybody, is it not surprising how “political correctness” seems to come up regularly with a new class of people for all of us to hate? The Catholic Church, following its divine Master, says we are to love our neighbour and to hate nobody, but it does not say we should love all our fellow-men indiscriminately. Let us see how a great Catholic theologian puts order into our love of God and man. Here are the bare bones of the 13 Articles of St Thomas Aquinas’ Summa Theologiae, 2a 2ae, Question 26:— 

1 愛徳 "Charity" には一つの真正の順序がある.なぜなら,それは超自然的至福における友情であり,その至福は神を出発点とするものだからです.あなたが出発点から物事をたどる場合,いつでも順番をつけるでしょう.(公教徒〈=カトリック教徒〉が重要な問題となるといかにただちに神に委ねるかに注目してください.リベラル派は自分たちの「親切さ」 “niceness”  の出発点について,まず何に委ねるのでしょうか?ナチスに対する憎悪でしょうか? 真面目な問いです…)
1 Charity does have an order, because it is a friendship in supernatural bliss, and that bliss has its starting-point in God, and wherever you have things following from a starting-point, you have an order. (Notice how the Catholic immediately refers a major question to God. What might liberals immediately refer to as the starting-point of their “niceness”? Hatred of Nazis? Seriously . . . ) 

2 愛徳においては隣人 "neighbour" より神を愛さなければならない.なぜなら,愛徳は至福における友情であり,私自身や私の隣人のためのあらゆる至福は神を源泉としているからです.(リベラル派は自らの幸福の源泉をどこに置いているのでしょうか? 自己達成感でしょうか? それとも自分たちの仲間でしょうか? これらは,幸福の形態としては相対的に貧弱なものです.)
2 Charity must love God above neighbour, because charity is a friendship in bliss, and all bliss for myself or my neighbour has its source in God. (Where do liberals place the source of their happiness? In self-fulfilment? In their fellow-men? These are relatively poor forms of happiness.) 

3 神は自己以上に愛されなければならない.なぜなら,あらゆる(無傷の)生き物はそれぞれのやり方で,自分たち自身の善より共通の善を自然に愛すからです.神はあらゆるものの中で,自然的かつ超自然的な共通の善です.
3 God must be loved above self, because all (unspoiled) creatures, each in their way, naturally love the common good above their particular good, and God is the natural and supernatural common good of all. 

4 霊的自己 "Spiritual self" は霊的隣人 "spiritual neighbour "より愛されなければならない.なぜなら,私は隣人より私自身に近い存在だからです.したがって,もし私が「霊的に」私自身を愛さないなら,私は隣人を愛せそうもありません.しかしながら――
4 Spiritual self must be loved above spiritual neighbour, because I am closer to me than I am to my neighbour so that if I do not love me (spiritually), I am unlikely to love my neighbour. But – 

5 霊的な隣人は肉体的な "corporal" 自己より愛されなければならない.肉体的自己とはすなわち私自身の肉体です.霊(霊魂)は肉体以前に来るものであり,霊は至福に直接加わるのに対し,肉体は(霊魂を通して)間接的にだけ加わるものです.
5 Spiritual neighbour must be loved above corporal self, i.e., my own body, because spirit comes before body, because spirit partakes directly in bliss, while body partakes only indirectly (through spirit).

6 ある隣人たちは,ほかの隣人たちより愛されなければならない.なぜなら,すべての隣人たちは神に対する客観的なものと私に対する主観的なものという愛徳の両極への近さで,それぞれ異なる存在だからです.聖人は神により近く,隣人は私により近い存在です.
6 Some neighbours must be loved more than others, because they all vary in their closeness to one of the two poles of charity, objective to God, or subjective to me. Saints are closer to God, neighbours to me. 

7 客観的に言えば,聖人は親戚より愛されなければならない.だが,主観的には隣人の方が聖人より強く愛されるでしょう.なぜなら,隣人の方が色々な形で聖人より近い存在だからです.「愛徳は家庭から始まる」です.
7 Objectively, Saints will be loved more than relatives, but subjectively neighbours will be loved more intensely than Saints, because in a variety of ways they are closer – “Charity begins at home.” 

8 基本的には,血縁の親戚は親戚でない者より愛されなければならない.なぜなら,血縁は自然なもので,固定的かつ実体的なものだからです.ただし,偶然的に血縁親戚以外の友情の絆の方がより強いことがあります.
8 Essentially, blood-relatives will be loved above non-relatives, because blood-ties are natural, fixed and substantial. Accidentally however, other ties of friendship can be more powerful. 

9 客観的には,両親は子供たちより愛されなければならない.なぜなら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近い存在だからです.だが,主観的には,いくつかの理由で,子供たちの方が私たちにより近い存在です.
9 Objectively, parents are to be loved more than children, because as sources of life and of many benefits, parents are closer to God, but subjectively children can be closer to us for several reasons. 

10 父親は母親より愛されなければならない.これは字義通りです.なぜなら,私たちに生命をあたえるときにそれぞれが果たす役割を見れば,父親は形式的で能動的であるのに対し,母親は物質的(母系的)で受動的だからです(聖トマスは、今日見られるような変性した人間でなく,正常な状態の人間について書きました).
10 Father should be loved more than mother, as such, because by the part each plays in giving us life, the father is formal and active whereas the mother is material ( maternal ) and passive (St Thomas was writing about human beings who are normal and not de-natured as they are today). 

11 客観的には,両親は妻より愛されることになる.なぜなら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近いからです.しかし,主観的には,妻は夫と「一心同体」であるため,両親以上に愛されるものです.
11 Objectively, parents are to be loved more than wife, because as sources of life and of many benefits they are closer to God, but subjectively she who is “one flesh” with her husband is to be loved the more. 

12 客観的には,私たちに善行を行う者は私たちが善行を与える者より愛されることになる.なぜなら,彼らは私たちにとって善の源泉だからです.しかし,主観的な身近かさのため,私たちは私たちが善行を与える者をより愛することがあります.つまり,「受け取るより与える方が恵まれている」というわけです.
12 Objectively, somebody doing good to us is to be loved more than somebody we do good to, because they are a source of good to us, but by subjective closeness we love the more somebody that we do good to, for various reasons, e.g . “It is more blessed to give than to receive.” 

13 天国でも依然として愛徳の順序がある.何にもまして神に対する愛が一番です.また,神への近さについての隣人の客観的評価は,この世より天国でのほうが重視されます.
13 There will still be an order of charity in Heaven, especially the loving of God above all. Also the objective grading of neighbour for his closeness to God will count more there than it does here on earth.

 「人種差別」についてはどうでしょうか? どの人種が神もしくは私により近いでしょうか? どの人種も同じとは限りません.「反ユダヤ主義」は? セム人は神の友人でしょうか,それとも敵でしょうか? 「性差別 は?」 今日の女性たちは私が神へ向かうとき手助けになるでしょうか,それとも邪魔をするでしょうか? 「同性愛嫌悪」はどうでしょう? 「ホモたち」は神とどう両立するでしょうか?
“Racism”? – which races are closer to God, or to me? They are not all the same. “Anti-semitism”? – are “Semites” friends or enemies of God? “Sexism”? – do today’s women help or hinder me on my way to God? “Homophobia”? – how do “homos” stand with God? 

キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教



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(訳注の続き)

(訳注後記 0・2 ) ① (i) 「イエズス」の御名の意義について→新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第1章18-25節を参照. 
(訳注後記 1・1)「神の十戒」を参照→「神の十戒」=「天主の十戒」 

『…イエズス・キリストの誕生は次のようであった.*¹⁸母のマリアはヨゼフのいいなずけであったが,同居する前に,聖霊によって身ごもっているのがわかった.*¹⁹夫のヨゼフは正しい人だったので,彼女を公に辱めようとせず,ひそかに離別しようと決心した.彼がこうしたことを思い煩っていたとき,突然夢の中に主の天使が現れて言った,「ダビドの子ヨゼフよ,ためらわずにマリアを妻として迎えよ.マリアは聖霊によって身ごもっている.彼女は子を生むからその子を*²¹イエズスと名づけよ.何故なら彼は罪から民を救う方だからである」.これらのことは預言者によって主が言われたみことばの実現であった,

「処女(おとめ)が身ごもって子を生む.その名はエンマヌエルと呼ばれる」.
その名は「神はわれわれとともにまします」という意味である.

目覚めたヨゼフは主の天使から命ぜられたとおりに妻を迎え入れた.*²⁵そしてマリアは*子を生んだ.だがヨゼフは彼女を知らなかった.彼はその子をイエズスと名づけた.』

(注釈)

イエズスの誕生(1・18-25)

*¹⁸ 嫁はある期間夫の家に入らなかった.それでヨゼフとマリアも,すでに夫婦であったにもかかわらず一緒に住んでいなかった.二人の結婚は正当なものだった.福音史家もすぐあとでヨゼフを夫と呼んでいる.

*¹⁹ ヨゼフは律法を完全に守る「正しい人」であった.彼はマリアを訴える権利があった.しかしまた一方では彼女の貞潔を疑えなかったので,訴えて辱めるに忍びなかった.

*²¹ イエズスとは「ヤベ(神)が救う」という意味の名前である.

*²⁵ イエズスの超自然的誕生を強調する.それゆえマリアの処女性が守られたことを証する.マリアがイエズス誕生前も誕生後も処女であったことは,カトリック教会の信仰箇条である.

*²⁵ ブルガタ訳には「初子」とあるが,これはたぶんルカ(2・7)による後世の書き入れであって,批判テキストにこのことばはない.ただ「子」とある.


(マテオ聖福音書内の該当箇所を追って掲載いたします.)


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訳注の掲載を続けます.
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本投稿記事・第425回エレイソン・コメンツ「愛徳の順序」 "CHARITY'S ORDER"( 2015年9月5日付)は2015年10月30日18時05分に掲載されました.
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2015年1月24日土曜日

393 エブドマニア 1/24

解説付

エレイソン・コメンツ 第393回 (2015年1月24日)

今日,
物事は決して外見通りでは有りません.
(こんにち,ものごとは
けっして がいけん どおり では ありません)

( "Today things never are what they appear." )

神を信じない人々に取って,
巧みな嘘は優しく響くでしょう.
(かみを しんじない ひとびとに とって,
たくみな うそは やさしく ひびく でしょう).

( "To godless people skilful liars are dear. " )

1月7日に起きたシャルリー・エブド 社 襲撃事件で二人のイスラム教徒青年が此のフランス(仏蘭西)の風刺週刊誌パリ(巴里)本社で働く(…に勤務する)12名の漫画家,ジャーナリスト(新聞記者・雑誌記者)を殺害しました(いちがつ なのか に おきた しゃるりー・えぶど しゃ しゅうげき じけんで ふたりの いすらむ きょうと せいねんが この ふらんすの ふうし しゅうかんし ぱり ほんしゃで はたらく(…に きんむする)じゅうに めい の まんがか,じゃーなりすと〈しんぶん きしゃ・ざっし きしゃ〉を さつがい しました)( "The Charlie Hebdo  attack of January 7 in which two muslim gunmen killed a dozen cartoonists and journalists in the Paris office of a satirical French weekly, …" ).1月11日に開かれた大規模な市民抗議集会では,参加した欧州数か国の指導者達が写真でプレーアップされました(いちがつ じゅういち にちに ひらかれた だいきぼ な しみん こうぎ しゅうかい では さんか した おうしゅう すうかこくの しどうしゃ たちが しゃしんで ぷれーあっぷ されました).此の二つの出来事は神の敵達が僅かに残るキリスト(基督)教文明に対して仕掛けた戦いのもう一つのエピソードとして捉えるのが最も分かり易いでしょう(この ふたつの できごとは かみの てき たちが わずかに のこる きりすと きょう ぶんめいに たいして しかけた たたかいの もう ひとつの えぴそーど として とらえる のが もっとも わかりやすい でしょう)( "… and the enormous public protest of Jan. 11 against the attack in which leaders of several European nations were photo-opped as taking part, are best understood as one more episode in the war being waged by the enemies of God upon what little remains of Christian civilisation." ).此の事件を漫画家達,襲撃者,イスラム教に迎合するかいらい(傀儡)政治家や一部の国の人々,其の全ての背後に居る黒幕の順で考えて見ましょう(この じけんを まんがか たち,しゅうげき しゃ,いすらむ きょうに げいごう する かいらい せいじか や いちぶの くにの ひとびと,その すべての はいごに いる くろまく の じゅんで かんがえて みましょう)( "Let us consider in order the cartoonists, the gunmen, the puppet politicians and peoples pandering to Islam and the puppet-masters behind them all." ).

同社の漫画家達はイスラム教やイスラム教徒達だけで無く,世界唯一の真の宗教で有るキリスト(基督)教の三位一体,救世主,聖母迄も風刺の対象にしました(どうしゃの まんがか たちは いすらむ きょうや いすらむ きょうと たち だけで なく,せかい ゆいいつの まことの しゅうきょう である きりすと きょうの さんみ いったい,きゅうせい しゅ,せいぼ までも ふうしの たいしょうに しました)( "The cartoonists lampooned not only Islam and muslims but also, from the world’s one true religion, the Holy Trinity, our divine Saviour and the Blessed Virgin Mary." ).唯一の真の神は極めて忍耐強いのですが,嘲笑の対象にされるのは御許しになりません(使徒聖パウロのガラテア人への書簡:第6章7節)(ゆいいつの まことの かみは きわめて にんたい づよい のですが,ちょうしょうの たいしょうに される のは おゆるしに なりません)( "Now the one true God is extremely patient, but he is not mocked (Gal. VI, 7)" )(訳注・3・1 ).人間がテロ行為に苦しめられない権利を持つように,真の神は猥らで冒涜的な風刺画の対象として公衆の面前で繰り返し扱われるのを許さない権利を持っています(にんげんが てろ こういに くるしめられ ない けんりを もつ ように,まことの かみは みだらで ぼうとく てきな ふうしが の たいしょう として こうしゅうの めんぜんで くりかえし あつかわれる のを ゆるさない けんりを もって います)( "As men have a right not to suffer from terrorism, so the true God has a right not to endure the public repetition of obscene and blasphemous cartoons." ).テロを正当化出来る者は誰も居ません(てろを せいとうか できる ものは だれも いません)( "Then nobody justifies terrorism as such, …" ).だがフランス(仏蘭西)の教会や国家当局者達が節度を欠いた神に対する冒涜の検閲を拒み続けるとしたら(だが,ふらんすの きょうかいや こっか とうきょく しゃ たちが せつどを かいた かみに たいする ぼうとくの けんえつを こばみ つづける と したら)( "… but given that the French Church and State authorities refuse to censor obscene blasphemy, …" ),神がイスラム教徒達に名誉回復の為の報復を御許しになっても,果たして驚くべき事でしょうか?(かみが いすらむ きょうと たちに めいよ かいふく の ための ほうふくを おゆるしに なっても,はたして おどろく べき こと でしょう か?)( "… is it surprising if God allowed muslims to avenge his honour? " )

(シャルリー・エブド 社 を襲った)二人のイスラム教青年は宗教的な理由から行動したに違いありません(〈しゃるりー・えぶど しゃ を おそった〉ふたりの いすらむ せいねんは しゅうきょう てきな りゆう から こうどう したに ちがい ありません)( "The gunmen, two young muslims, must have been acting religiously, …" ).何故なら,若し政治的な動機からだとしたら,其の行動がイスラム教に敵対する世論を巻き起こすだろうと十分予見出来た筈だからです(なぜなら,もし せいじ てきな どうき から だ としたら,その こうどうが いすらむ きょうに てきたい する せろん〈よろん〉を まきおこす だろうと じゅうぶん よけん できた はず だから です)( "… because politically it was entirely foreseeable that their action would rouse opinion against Islam." ).だが,其れにしても,彼等が敢えて(敢て)襲撃事件を起こしたのは如何してでしょうか?(だが,それに しても,かれらが あえて しゅうげき じけんを おこした のは どうして でしょうか?)( "Still, how could they dare to attack? " )其の理由は,欧州全土でイスラム教徒達が高い出生率と移民により(に因り・に依り)数の上で益々強大に成って来ており(その りゆうは,おうしゅう ぜんどで いすらむ きょうと たちが たかい しゅっせい りつと いみんに より かずの うえで ますます きょうだいに なって きて おり)( "Because across Europe muslims are by their birthrate and immigration getting stronger in numbers all the time, …" ),十分力を付け次第,必要と有れば大量殺人により(に因り・に依り)欧州のキリスト(基督)教諸国をイスラム化すると公言しているからです(じゅうぶん ちから を つけ しだい,ひつよう とあれば たいりょう さつじんに より おうしゅうの きりすと きょう しょこくを いすらむ か すると こうげん している から です)( "… and they make no secret of the fact that, as soon as they are strong enough, by a bloodbath if necessary, they will islamize the once Christian nations of Europe." ).

では,此れ等諸国がほぼ(略・粗)無制限の移民受け入れ,信じ難い程の福祉を同化しない移民達に認める等の自殺的政策を採る様仕向けたのは一体誰でしょうか?(では,これら しょこくが ほぼ むせいげんの いみん うけいれ,しんじがたい ほどの ふくしを どうか しない いみん たちに みとめる などの じさつ てき せいさくを とる よう しむけた のは いったい だれ でしょうか?)( "So who persuaded these nations to adopt the suicidal policy of almost unrestricted immigration and unbelievable welfare benefits for the in fact unassimilable immigrants, and so on? " )賄賂を受け取ったり,酷く虐め(苛め)られたかいらい(傀儡)政治家以外の誰でしょうか?(わいろを うけ とったり,ひどく いじめ られた かいらい せいじか いがいの だれ でしょう か?)( "Who but our bribed or bullied puppet politicians? " )一年程前,ドイツ(独逸)のメルケル首相は相反する文化を調和させる「多層文化」( "multi-culti" )は上手く行かないと認め本音を吐露しました(いちねん ほど まえ,どいつの めるける しゅしょうは あいはん する ぶんかを ちょうわ させる「たそう ぶんか」は うまく いかないと みとめ ほんねを とろ し ました)( "In a moment of truth a year or so ago, the Chancellor of Germany, Angela Merkel, admitted that “multi-culti,” the mixing of contrary cultures, does not work. " ).だが,彼女は1週間程前,エブド 社 襲撃事件に触れ「イスラム教はドイツに属する」と公言したでは無いですか?(だが,かのじょは いっしゅうかん ほど まえ,えぶど しゃ しゅうげき じけんに ふれ「いすらむ きょうは どいつに ぞくする」と こうげん した では ない ですか?)( "But a week or so ago in connection with the Hebdo attack, did she not proclaim that “Islam belongs to Germany”? " ).彼女は屈服させられたのです(かのじょは くっぷく させられた のです)( "She had been brought to heel. " ).彼女は常にドイツの真の国益に反した行動をするので操り人形です(かのじょは つねに どいつの しんの こくえきに はんした こうどうを する ので あやつり にんぎょう です)( "She is a puppet because she is constantly acting against Germany’s true interests. " ).例えば,若しフランス(仏蘭西)に今程多くのイスラム教徒が居なかったなら,シャルリー・エブド 社 がわざわざ(態態・態々)イスラム教を嘲笑したでしょうか?(たとえば,もし ふらんすに いま ほど おおくの いすらむ きょうとが いなかった なら,しゃるりー・えぶど しゃ が わざわざ いすらむ きょうを ちょうしょう した でしょうか?)( "For instance, were there not so many muslims in France, would Charlie Hebdo ever have bothered to ridicule Islam? " )そして其の様な傀儡政治家達に票を投ずるのは誰でしょうか?(そして そのような かいらい せいじか たちに ひょうを とうずる のは だれ でしょうか?)( "And who votes for these puppet politicians? " ) 其れは考えを下品なメディア(新聞・テレビ・ラジオ等の情報媒体)に毒された操り人形の様な有権者達です(それは かんがえを げひんな めでぃあ〈しんぶん・てれび・らじお とうの じょうほう ばいたい〉に どく された あやつり にんぎょうの ような ゆうけんしゃ たち です)( "Puppet peoples, who allow their thinking to be enslaved by their vile media. " ).

では,彼等の黒幕は誰でしょうか?(では,かれらの くろまくは だれ でしょう か?)( "Then who are the puppet-masters? " )其れは神の敵達で(それは かみの てき たちで)( "They are enemies of God, …" ),神の存在しない自分達自身の新世界秩序,生きる人々が誰一人として地獄へ陥るのを免れない警察国家を打ち立てようと躍起になっている連中です(かみの そんざい しない じぶん たち じしんの しん せかい ちつじょ,いきる ひとびとが だれ ひとり として じごくへ おちいる のを まぬがれ ない けいさつ こっかを うちたて ようと やっきに なって いる れんちゅう です)( "… intent upon establishing their own godless New World Order, a police State designed to ensure that not one living soul escapes eternal Hell." ).私達は彼等をグローバリスト( "Globalists" )と呼びましょう(わたくし たちは かれらを ぐろーばりすと と よびましょう)( "Let us call them “Globalists.” " ).エブド 社 襲撃は,アメリカ(米国)での 9.11 同時多発テロ,英国での 7.7 爆弾事件と同じ様に彼等の仕業で(えぶど しゃ しゅうげき は,あめりか〈べいこく〉で の きゅう てん いち いち どうじ たはつ てろ,えいこく で の なな てん なな ばくだん じけんと おなじ ように かれらの しわざ で)( "Then was the Hebdo attack their work, one of their events like 9/11 in the USA and 7/7 in the UK, …" ),世論を冒涜者に取っての自由,内戦へ誘導する目的で仕組まれたのでは無いでしょうか?(よろん〈せろん〉を ぼうとく しゃ に とって の じゆう,ないせん へ ゆうどう する もくてき で しくまれた のでは ないでしょうか?)( "… engineered to move public opinion, this time towards freedom for blasphemers and civil war? " )其の可能性は大いに有ります(その かのう せいは おおいに あります)( "Most likely." ).今回の襲撃事件の実態は外見とは異なった物でした(こんかいの しゅうげき じけんの じったいは がいけん とは ことなった もの でした)( "The event was certainly not what it was made to seem." ).有名になった例が有ります(ゆうめいに なった れいが あります)( "Famous example: …" ).一人の殺し屋が地面に横たわった「一人のイスラム教徒警官」の頭を狙い撃ちするが,流血は無く,銃の反動も無く,「犠牲者」はほとんど(殆ど・殆んど)動かないという場面を示す3分間の動画です(ひとりの ころしや が じめんに よこたわった「ひとりの いすらむ きょうと けいかん」の あたまを ねらい うち するが,りゅうけつは なく,じゅうの はんどうも なく,「ぎせいしゃ」は ほとんど うごかない という ばめんを しめす さんぷんかんの どうが です)( "… the three-minute film clip showing a gunman shooting in the head point-blank a “muslim policeman” lying on the ground, with no blood, no recoil of the gun, and little movement of the “victim.” " ).この動画はhttp://youtu.be/gobYWXgzWgYに未だ残っているかも知れません(この どうがは http://youtu.be/gobYWXgzWgYに まだ のこって いる かも しれ ません)( "The clip may still be found, starting from here – http://youtu.be/gobYWXgzWgY. " ).

神はこうした気ちがい沙汰を御認めになるでしょうか?(かみは こうした きちがい ざたを おみとめに なる でしょうか?)( "And the Good Lord amidst all this madness? " )「神は滅ぼそうとする者を,先ず気を狂わせる」という古い諺があります(「かみは ほろぼそうと する ものを,まず きを くるわせる」という ふるい ことわざが あります)( " “Those whom he wishes to destroy, he first makes mad,” is the old saying." ).神が神の御母(聖母)のみを通してもたら(齎)そうとされる勝利の為に一日15玄義のロザリオの祈(15 Mysteries)を祈りましょう!(かみが かみの おんはは〈せいぼ〉のみを とおして もたらそうと される しょうりの ために いちにち じゅうご げんぎ の ろざりおの いのりを いのりましょう!)( "Pray 15 Mysteries a day for the triumph that he will engineer, through his Mother alone." )(訳注・7・1)哀れなグローバリスト達は不意を突かれるでしょう!(あわれな ぐろーばりすと たちは ふいを つかれる でしょう!)( "Are the poor Globalists ever going to be taken by surprise! " )

キリエ・エレイソン (主よ憐れみ給え).
(きりえ・えれいそん)〈しゅよ あわれみ たまえ〉
Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教


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清書版

エレイソン・コメンツ 第393回 (2015年1月24日)

今日,物事は決して外見通りではありません.
神を信じない人々にとって,巧みな嘘は優しく響くでしょう.
Today things never are what they appear.
To godless people skilful liars are dear.

1月7日に起きたシャルリー・エブド社 襲撃事件で二人のイスラム教徒青年がこのフランスの風刺週刊誌パリ本社で働く12名の漫画家,ジャーナリストを殺害しました.1月11日に開かれた大規模な市民抗議集会では,参加した欧州数か国の指導者たちが写真でプレーアップされました.この二つの出来事は神の敵たちがわずかに残るキリスト教文明に対して仕掛けた戦いのもうひとつのエピソードとしてとらえるのが最も分かり易いでしょう.この事件を漫画家たち,襲撃者,イスラム教に迎合するかいらい政治家や一部の国の人々,そのすべての背後にいる黒幕の順で考えてみましょう.
The Charlie Hebdo attack of January 7 in which two muslim gunmen killed a dozen cartoonists and journalists in the Paris office of a satirical French weekly, and the enormous public protest of Jan. 11 against the attack in which leaders of several European nations were photo-opped as taking part, are best understood as one more episode in the war being waged by the enemies of God upon what little remains of Christian civilisation. Let us consider in order the cartoonists, the gunmen, the puppet politicians and peoples pandering to Islam and the puppet-masters behind them all.

同社の漫画家たちはイスラム教やイスラム教徒たちだけでなく,世界唯一の真の宗教であるキリスト教の三位一体,救世主,聖母までも風刺の対象にしました.唯一の真の神はきわめて忍耐強いのですが,嘲笑の対象にされるのはお許しになりません(使徒聖パウロによるガラテア人への書簡:第6章7節参照)(訳注・3・1).人間がテロ行為に苦しめられない権利を持つように,真の神はみだらで冒涜的な風刺画の対象として公衆の面前で繰り返し扱われるのを許さない権利を持っています.テロを正当化できる者は誰もいません.だが,フランスの教会や国家当局者たちが節度を欠いた神に対する冒涜の検閲を拒み続けるとしたら,神がイスラム教徒たちに名誉回復のための報復をお許しになっても,はたして驚くべきことでしょうか?
The cartoonists lampooned not only Islam and muslims but also, from the world’s one true religion, the Holy Trinity, our divine Saviour and the Blessed Virgin Mary. Now the one true God is extremely patient, but he is not mocked (Gal. VI, 7). As men have a right not to suffer from terrorism, so the true God has a right not to endure the public repetition of obscene and blasphemous cartoons. Then nobody justifies terrorism as such, but given that the French Church and State authorities refuse to censor obscene blasphemy, is it surprising if God allowed muslims to avenge his honour?

シャルリー・エブド社 を襲った二人のイスラム教青年は宗教的な理由から行動したに違いありません.なぜなら,もし政治的な動機からだとしたら,その行動がイスラム教に敵対する世論を巻き起こすだろうと十分予見できたはずだからです.だが,それにしても,彼らがあえて襲撃事件を起こしたのはどうしてでしょうか? その理由は,欧州全土でイスラム教徒たちが高い出生率と移民により数の上で益々強大になってきており,十分力をつけ次第,必要とあれば大量殺人により欧州のキリスト教諸国をイスラム化すると公言しているからです.
The gunmen, two young muslims, must have been acting religiously, because politically it was entirely foreseeable that their action would rouse opinion against Islam. Still, how could they dare to attack? Because across Europe muslims are by their birthrate and immigration getting stronger in numbers all the time, and they make no secret of the fact that, as soon as they are strong enough, by a bloodbath if necessary, they will islamize the once Christian nations of Europe.

では,これら諸国がほぼ無制限の移民受け入れ,信じがたいほどの福祉を同化しない移民たちに認めるなどの自殺的政策を取るよう仕向けたのは一体誰でしょうか? わいろを受け取ったり,ひどくいじめられたかいらい政治家以外の誰でしょうか? 一年ほど前,ドイツのメルケル首相は相反する文化を調和させる「多層文化」("multi-culti")はうまく行かないと認め本音を吐露しました.だが,彼女は1週間ほど前,エブド社 襲撃事件に触れ「イスラム教はドイツに属する」と公言したではないですか.彼女は屈服させられたのです.彼女は常にドイツの真の国益に反した行動をするので操り人形です.例えば,もしフランスにいまほど多くのイスラム教徒がいなかったなら,シャルリー・エブド社 がわざわざイスラム教を嘲笑したでしょうか? そのようなかいらい政治家たちに票を投ずるのは誰でしょうか? それは考えを下品なメディアに毒された操り人形のような有権者たちです.
So who persuaded these nations to adopt the suicidal policy of almost unrestricted immigration and unbelievable welfare benefits for the in fact unassimilable immigrants, and so on? Who but our bribed or bullied puppet politicians? In a moment of truth a year or so ag o, the Chancellor of Germany, Angela Merkel, admitted that “multi-culti,” the mixing of contrary cultures, does not work. But a week or so ago in connection with the Hebdo attack, did she not proclaim that “Islam belongs to Germany”? She had been brought to heel. She is a puppet because she is constantly acting against Germany’s true interests. For instance, were there not so many muslims in France, would Charlie Hebdo ever have bothered to ridicule Islam? And who votes for these puppet politicians? Puppet peoples, who allow their thinking to be enslaved by their vile media.

では,彼らの黒幕は誰でしょうか? それは神の敵たちで,神の存在しない自分たち自身の新世界秩序,生きる人々が誰一人として地獄へ陥るのを免れない警察国家を打ち立てようと躍起になっている連中です.私たちは彼らをグローバリスト( "Globalists" )と呼びましょう.エブド社 襲撃は,アメリカでの 9.11 同時多発テロ,英国での 7.7 爆弾事件と同じように彼らの仕業で,世論を冒涜者にとっての自由,内戦へ誘導する目的で仕組まれたのではないでしょうか? その可能性は大いにあります.今回の襲撃事件の実態は外見とは異なったものでした.有名になった例があります.一人の殺し屋が地面に横たわった「一人のイスラム教徒警官」の頭を狙い撃ちするが,流血はなく,銃の反動もなく,「犠牲者」はほとんど動かないという場面を示す3分間の動画です.この動画はhttp://youtu.be/gobYWXgzWgYにまだ残っているかもしれません.
Then who are the puppet-masters? They are enemies of God, intent upon establishing their own godless New World Order, a police State designed to ensure that not one living soul escapes eternal Hell. Let us call them “Globalists.” Then was the Hebdo attack their work, one of their events like 9/11 in the USA and 7/7 in the UK, engineered to move public opinion, this time t owards freedom for blasphemers and civil war? Most likely. The event was certainly not what it was made to seem. Famous example: the three-minute film clip showing a gunman shooting in the head point-blank a “muslim policeman” lying on the ground, with no blood, no recoil of the gun, and little movement of the “victim.” The clip may still be found, starting from here – http://youtu.be/gobYWXgzWgY.

神はこうした気ちがい沙汰をお認めになるでしょうか?「神は滅ぼそうとする者を,先ず気を狂わせる」という古いことわざがあります.神が神の御母(聖母)のみを通してもたらそうとされる勝利のために一日15玄義のロザリオの祈( "15 Mysteries" )を祈りましょう!(訳注・7・1)哀れなグローバリストたちは不意をつかれるでしょう!
And the Good Lord amidst all this madness? Those whom he wishes to destroy, he first makes mad,” is the old saying. Pray 15 Mysteries a day for the triumph that he will engineer, through his Mother alone. Are the poor Globalists ever going to be taken by surprise!

キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教


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訳注
「エブド」"hebdo" はフランス語 "hebdomadaire" の略で,
英語で "weekly"(=毎週・週単位・週刊誌)の意.
原語はラテン語 "hebdomadalis".






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本投稿記事・第393回エレイソン・コメンツ「エブドマニア」 "HEBDOMANIA" ( 2015年1月24日付)は2015年8月23日15時23分に掲載されました.
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2014年8月9日土曜日

369 古代イスラエル人,現代イスラエル人? 8/9

エレイソン・コメンツ 第369回 (2014年8月9日)

     (神と古代イスラエル人〈=古代ユダヤ人〉との間で交わされた)旧約(〈かみと こだい いすらえるじん〈=こだい ゆだやじん〉との あいだで かわされた〉 きゅうやく)にあるように( "in the Old Testament" )全能の神(ぜんのうの かみ)がある特定の人々(とくていの ひとびと)を根絶やし(ねだやし)にするべく下された諸々の命令(くだされた もろもろの めいれい)は(例えば,旧約聖書・サミュエル前書:第15章を参照〈たとえば,きゅうやく せいしょ・さみゅえる ぜんしょ:だい じゅうご しょうを さんしょう〉)(訳注後記1),それら異教徒たち自身に向けられた正義と慈悲による行為(いきょうと たちに むけられた せいぎと じひに よる こうい)であり,人の姿をとられた(=人間と同じ肉体を身にまとわれた)神(ひとのすがたをとられた〈=にんげんと おなじ にくたいを みに まとわれた〉かみ( "the Incarnate God" )すなわち私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)( "Our Lord Jesus Christ" )が数世紀(すう せいき)のちに(天より)御降誕されるのに備え(てんより ごこうたん されるのに そなえ)古代イスラエル人に揺りかごを用意させるための行為(こだい いすらえるじんに ゆりかごを ようい させる ための こうい)だったと認(みと)めましょう(エレイソン・コメンツ第368回を参照)( "Let us then grant (EC 368) that the orders of Almighty God to exterminate certain peoples in the Old Testament (e.g. I Sam. XV) were an act of justice and mercy towards the pagans themselves, and an act also designed to help the Israelites forward towards cradling the Incarnate God, Our Lord Jesus Christ, when he would come many centuries later." ).古代イスラエル人たちは,とりわけ祝福された童貞聖マリア(しゅくふく された どうてい まりあ)( “the Blessed Virgin Mary” )を通(つう)じて,この揺りかごを確(たし)かに用意しました( "This cradle the Israelites did provide, especially through the Blessed Virgin Mary, …" ).全人類はこの神の御母(=聖母)となられた聖マリアに限りない感謝の気持ちを持たねば(ぜんじんるいは この かみの おんはは〈=せいぼ〉と なられた せい まりあに かぎりない かんしゃの きもちを もたねば)なりません( "… to whom the entire human race owes a boundless debt of gratitude." ).私たちの誰もが確実に天国へたどり着ける(わたくしたちの だれもが かくじつに てんごくへ たどりつける)としたら( "If any of us does get to Heaven, …" ),それはただ偏に彼女聖母マリアのお取り成しを通して(ひとえに かのじょ せいぼ まりあの おとりなしを とおして)だけなのですから( "… it will be only through her intercession." ).

     では,そのようにして救いをもたらす諸々の古代ユダヤ人(すくいを もたらす もろもろの こだい ゆだや じん)(新約聖書・聖ヨハネによる聖福音書:第4章22節を参照)(訳注後記2)とパレスチナ人(ぱれすちな じん)を虐殺(ぱれすちなじんを ぎゃくさつ)もしくは道徳的,金銭的に虐殺を支えて(どうとくてき,きんせんてきに ぎゃくさつを ささえて)いる今日のユダヤ人多数(こんにちの ゆだやじん たすう)との間(あいだ)にどのような関連性(かんれんせい)があるのでしょうか?( "Then what connection can there be between those Jews through whom salvation comes (Jn. IV, 22) and the mass of Jews today, who are either massacring Palestine or supporting the massacre, morally or financially ? " ) 今日のユダヤ人の大多数(こんにちの ゆだやじんの だいたすう)はアシュケナージ・ユダヤ人(あしゅけなーじ・ゆだやじん)( “Ashkenazy Jews” )ですから,アブラハムの血を受け継いだ末裔(あぶらはむの ちを うけついだ まつえい)ではないのでしょう( "The majority of today's Jews being Ashkenazy Jews, they may well be no blood-descendants of Abraham, …" ).だが,それはさておき( "… but be that as it may, …" ),彼らがキリスト教以降のユダヤ教の聖典タルムード(きりすときょう いこうの ゆだやきょうの せいてん たるむーど)( “the Talmud” )を通(とお)して私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)が仰せられる(おおせられる)「ファリザイ人とサドカイ人のパン種」(ふぁりざいじんと さどかいじんの ぱんだね)(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第16章11節を参照)(訳注後記3)( “ “the leaven of the Pharisees and Sadducees” (Mt. XVI, 11) ” )を受け入れたのは確か(うけいれた のは たしか)です( "… they have certainly absorbed through the Talmud, the holy book of post-Christian Judaism, what Our Lord called “the leaven of the Pharisees and Sadducees” (Mt. XVI, 11), …" )このパン種とは私たちの主イエズス・キリストを十字架にかけ(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすとを じゅうじかに かけ),それ以来彼キリストの教会と戦って(いらい きょうかいと たたかって)きた不倶戴天の敵の精神を意味(ふぐたいてんの てきの せいしんを いみ)します( "… meaning the spirit of his bitter enemies who crucified him and have fought his Church ever since." ).神の「選民」(かみの せんみん)がどうして神の一貫した最悪の敵(かみの いっかん した さいあくの てき)になったのでしょうか?( "How can his Chosen People have turned into some of his consistently worst enemies ? " )(もし,この疑問を投げ〈ぎもんを なげ〉かけるだけで「反ユダヤ的」〈はん ゆだや てき〉だというなら( " (If the mere question seems “anti-semitic”, …" ),真実は良い〈しんじつはよい〉が「反ユダヤ主義」は悪い〈はん ゆだや しゅぎは わるい〉,したがって,いかなる真実も「反ユダヤ的」でありえないし,いかなる「反ユダヤ的」なものも真実でありえない,という言い方を思い起こす〈いいかたを おもいおこす〉といいでしょう( "… let it be recalled that truth is good while “anti-semitism” is bad, so nothing true can be “anti-semitic” and nothing “anti-semitic” can be true." ).私が以下に述べるのは真実〈いかに のべるのは しんじつ〉であり,いわゆる「反ユダヤ主義」とは全く関係ありません〈いわゆる「はん ゆだや しゅぎ」とは まったく かんけい ありません〉( "What follows is the truth, and has nothing whatsoever to do with so-called “anti-semitism”)." ).)

     まず第一(だいいち)に,もし選民が自らの神に背を向け(せんみんが みずからの かみに せを むけ)たとしたら( "Firstly, if the Chosen People turned against their God, …" ),問題は年代を経て起きたことのように思われる(もんだいは ねんだいを へて おきた ことの ように おもわれる)かもしれませんが( "… the problem may seem chronological …" ),実際(じっさい)はそうではありません( "… but it is not." ).旧約の期間を通し(きゅうやくの きかんを とおし)て神に敵対した古代ユダヤ人(かみに てきたい した こだい ゆだやじん)たちがいました( "Throughout the Old Testament there were Israelites who turned against God, …" ).たとえば,金の子牛( “the Golden Calf” )の崇拝者(きんの こうしの すうはいしゃ)たち( "… for instance the worshippers of the Golden Calf …" ),すなわちバビロンに追放されたユダヤ人(ばびろんに ついほう された ゆだやじん)たちです( "… or the Jews exiled to Babylon." ).神はしばしば「頑な(かたくな)」で( “stiff-necked” )反抗的な人々を罰し(はんこうてきな ひとびとを ばっし)なければなりませんでした( "God frequently had to punish his own “stiff-necked” and rebellious people." ).同(おな)じように,新約の時期から私たちの時代にいたるまで,生粋のユダヤ人である聖パウロ(きっすいの ゆだやじん である せい ぱうろ)のようにキリスト教に改宗した著名なユダヤ人はつねに存在(きりすと きょうに かいしゅう した ちょめいな ゆだやじんは つねに そんざい)しました(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第9章1-5節; コリント後書〈使徒聖パウロのコリント人への第二の書簡〉:第11章21-22節; 使徒聖パウロのフィリピ人への書簡:第3章4-6節を参照)( "Likewise from the beginning of the New Testament down to our own day there have always been outstanding Jewish converts, like St Paul, who was as Jewish as could be (cf. Rom. IX, 1-5; II Cor. XI, 21-22; Phil. III, 4-6)." ).古代イスラエル人と現代イスラエル人の違い(こだい いすらえるじんと げんだい いすらえるじんの ちがい)は,いつの時代(じだい),どの人種(じんしゅ)にも神を愛する者(かみを あいする もの)と神に反旗を翻す者(かみに はんきを ひるがえす もの)がいた違いと同じ(ちがいと おなじ)ことです.真の「ユダヤ‐キリスト教徒」の 系列( “Judeo-Christian” )(まことの 「ゆだや‐きりすと きょうと」の けいれつ)はアベル “Abel” に始まり,たとえば,アブラハム “Abraham”,モーゼ “Moses”,ダビド “David”,神の御母(=聖母マリア) “the Mother of God” を経て(あべるに はじまり,たとえば,あぶらはむ,もーぜ,だびど,かみのおんはは〈=せいぼ まりあ〉を へて)カトリック教会に( “to the Catholic Church” )繋がって(かとりっく きょうかいに つながって)います( "The true “Judeo-Christian” line stretches from Abel through, for instance, Abraham, Moses, David and the Mother of God to the Catholic Church." ).偽り(いつわり)の「ユダヤ‐キリスト教徒」で真の「ユダヤ‐メーソン会員」の系列(いつわりの ゆだや‐きりすと きょうとで まことの「ゆだや‐めーそん かいいん」の けいれつ)( “Judeo-Masonic” )は咎められたカインに始まり,たとえば,神の預言者の殺害者アンナ “Anas”,カヤファ “Caiphas” を経て(とがめられた かいん に はじまり,たとえば,かみの よげんしゃの さつがいしゃ あんな,かやふぁを へて)近代のフリーメーソン組織( “to modern Freemasonry” )に繋がって(きんだいの ふりーめーそん そしきに つながって)います( "The false “Judeo-Christian” but true “Judeo-Masonic” line stretches from the accursed Cain through, for instance, the killers of God's prophets to Anas and Caiphas to modern Freemasonry, …" ).この組織(そしき)はユダヤ人が創り出した(ゆだやじんが つくり だした)もので,多くの会員は知らない(おおくの かいいんは しらない)でしょうが,いまだにカトリック教と戦う目的(かとりっくきょうと たたかう もくてき)でユダヤ人によって支配され(ゆだやじんに よって しはい され)ています( "… which was created by Jews and is still controlled by them for purposes of fighting the Catholic Church, even if many Masons are ignorant of the fact." ).

     ここまでは良い(よい)として,古代イスラエル人と現代イスラエル人の落差はとくに際立って(こだい いすらえるじんと げんだい いすらえるじんの らくさは とくに きわだって)いるのではないでしょうか?( "Well and good, but is not the contrast between Israelites and Israelis especially sharp ? " ) 確かにその通り(たしかに そのとおり)です.それはなぜかと言(い)えば,古い(ふるい)ことわざの通(とお)り「高ければ高いほど,ひどく落ちる(たかければ たかいほど, ひどく おちる)」( “The higher they are, the harder they fall” )ということでしょう( "Yes, because as the old saying goes, “The higher they are, the harder they fall.” " ).選民(せんみん)は神の特別の僕となることを拒み(かみの とくべつの しもべと なることを こばみ)( "Once the Chosen People refused to be the special servants of God, …" ),(神の御独り子〈かみのおんひとりご〉の)御託身(ごたくしん) “the Incarnation” いらいおおむねそうし続(つづ)けてきました( "… as they have largely done from the Incarnation onwards, …" ).それにより彼(かれ)らは悪魔の特別の僕となる運命(あくまの とくべつの しもべとなる うんめい)となったのです( "… they were bound to become the special servants of the Devil." ).彼らにとって,その中間の選択(ちゅうかんの せんたく)などありえませんでした( "For them there could be nothing in between." ).彼(かれ)らが神の僕となるのを拒んだ背景(かみの しもべと なるのを こばんだ はいけい)に何(なに)があったのでしょうか?( "And what was behind that refusal ? " )一言で言えば,自尊心(ひとことで いえば,じそんしん)( “pride” )です( "In one word, pride." ).彼らは神の特別の贈り物(かみの とくべつの おくりもの)を神の御光栄のために使わず(かみの ごこうえいの ために つかわず),その代わり(かわり)に( "Instead of using God's special gifts to them for his glory, …" )自分たちの光栄(じぶんたちの こうえい)のために(=自分たち自身の光栄となるよう〈じぶんたちじしんの こうえいと なるよう〉)転用(てんよう)しました( "… they bent them to their own glory." ).救世主がこの世に来られる前(きゅうせいしゅが このよに こられる まえ),彼らはやがて現(あらわ)れるのは精神的でなく物質的な救世主(せいしんてき でなく ぶっしつてきな きゅうせいしゅ)だと思い違い(おもいちがい)(=誤解・見当違い〈ごかい・けんとうちがい〉)をしました( "Before their Messiah came, they misconceived him as their material instead of spiritual saviour, …" ).そのため,彼らは救世主が現れると,その受け入れを拒み(うけいれを こばみ)ました( "… so that when he came they refused to recognize him, …" ).それ以来(いらい),彼らは神(かみ)が民族固有のモーゼの宗教(みんぞく こゆうの もーぜの しゅうきょう)をあらゆる民族に開かれた包括的なカトリック教に置き換えた(あらゆる みんぞくに ひらかれた ほうかつ てきな かとりっく きょうに おきかえた)として神と戦って(かみと たたかって)きました( "… and from then on they fought him for having replaced their racially exclusive Mosaic religion with the racially all-inclusive Catholic religion, open to all races." ).

     では,諸々のカトリック信徒たち(もろもろの かとりっく しんと たち)は,私たちの周り(わたくしたちの まわり)にいるかつての選民(せんみん)たちの圧倒的な物質的優性(=優位性)に対抗(あっとうてきな ぶつりてき ゆうせい〈ゆうい せい〉に たいこう)するには何ができるでしょうか?( "And what can Catholics do to resist the overwhelming material dominance of the once Chosen Ones all around us ? " ) 物質的にできることは皆無(かいむ)に等(ひと)しいでしょう( "Materially, next to nothing, …" ).だが,一人ひとりの霊魂(ひとり ひとりの れいこん)が心の中で誠意を込めて(こころの なかで せいいを こめて)神の王国の来るよう神の御心(=御旨)の為されるよう祈る(かみの おうこくの きたる よう かみの みこころ〈=みむね〉の なされるよう いのる)ならば( "… but a single soul praying spiritually and sincerely for God's kingdom to come and for his will to be done,…" ),物理的な山を動かしていただけるよう神を説得(ぶつりてきな やまを うごかして いただけるよう かみを せっとく)できるでしょう( "… can prevail on God to move material mountains, …" ).これは神にとって簡単(かみに とって かんたん)なこと( “child’s play” )です( "… child's play for God." ).神が彼らの物質的優性を許して(かみが かれらの ぶっしつてき ゆうせいを ゆるして)おられるのは,私たちを神のもとに戻す目的(わたくしたちを かみの もとに もどす もくてき)のためだけです( "He only allows that dominance in order to drive us back to him." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注を追補いたします.









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(注:本投稿記事〈第369回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月07日23:30に公開されました.)

2014年8月2日土曜日

368 神のお仕置き? 8/2

エレイソン・コメンツ 第368回 (2014年8月2日)

     ガザに住む(がざに すむ)ほとんど無防備のパレスチナ人(むぼうびの ぱれすちな じん)に向(む)けられた新たな恐るべき攻撃(あらたな おそるべき こうげき)は,真の神への真の崇拝(まことの かみへの まことの すうはい)にとっての一つの障害(ひとつの しょうがい)を多くの人々の心の中(おおくの ひとびとの こころの なか)にもたらしています( "The latest horrible onslaught let loose against the virtually defenceless Palestinians in Gaza raises in many people's minds an obstacle to the true worship of the true God, …" ).なぜなら,現代イスラエル人の多数(げんだい いすらえる じんの たすう)が旧約(きゅうやく)いらい,パレスチナ人の占拠する土地(せんきょする とち)すべてを必要(ひつよう)なら武力を用いてでも奪い取る権利(ぶりょくをもちいてでもうばいとるけんり)を神から与えられていると主張(かみから あたえられていると しゅちょう)しているのは広く知られ(ひろく しられ)ていることだからです( "… because it is well known that many of today's Israelis claim that they have from the Old Testament a God-given right to take all the land occupied by the Palestinians, by force if necessary." )(訳注後記1).道理(どうり)をわきまえた人(ひと)なら次の二つの疑問(つぎの ふたつの ぎもん)を投(な)げかけるでしょう( "A reasonable person might ask two questions: …" ):そのような蛮行(ばんこう)と,その残酷さを非難する国際世論(その ざんこくさを ひなんする こくさい よろん〈せろん〉)を歯牙にも掛けない態度(しが にも かけない たいど)を「正当化(せいとうか)」するのに一体(いったい)どのような神(かみ)を引っ張り出せる(ひっぱり だせる)のだろうか?" )( "… what kind of a God can even remotely be pulled in to 'justify' such barbarous cruelty, together with such utter contempt for any world opinion condemning that barbarity ? " )イスラエル人はいかなる種類(しゅるい)の「選民(せんみん)」なのだろうか?( "And what kind of a 'Chosen People' are these ? " ) この二つの疑問に対する答え(たいする こたえ)は,あらゆる人類の歴史(じんるいの れきし)にかかわっている私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)にかかわりがあります( "The answer to both questions turns around Our Lord Jesus Christ, around whom of course all human history turns." ).(訳注1・「旧約」=真の神と古代イスラエル人〈まことの かみと こだい いすらえる じん〉〈始祖アブラハム・預言者モーセ〉〈しそ あぶらはむ・よげんしゃ もーせ〉が交わした旧い契約〈かわした ふるい けいやく〉)

     旧約聖書はキリスト以前の人類(きりすと いぜんの じんるい)( "The Old Testament tells the story of mankind before Christ, …" ),とりわけ古代イスラエル人についての物語を語って(こだい いすらえる じんに ついての ものがたりを かたって)います( "… especially the story of the Israelites, …" ).彼らは人の姿をお取りになった神(ひとの すがたを おとりに なった かみ),イエズス・キリストの天からの御降誕(いえずす・きりすとの てん からの ごこうたん)に備え(そなえ)その揺りかごとしての役割を果たす(ゆりかごと しての やくわりを はたす)べく( "to act as the cradle" )神が人類の中から選び出した人々(かみが じんるいの なか から えらび だした ひとびと)です( "… the people that God chose out from the rest of the human race to act as the cradle for the coming down from Heaven of the Incarnate God, Jesus Christ." ).アダムの時代からおよそ千年後(あだむの じだい から およそ せんねんご),人類はひどく堕落(だらく)してしまったため神はすべてを押し流し(おし ながし)ノアの方舟(のあ の はこぶね)( "Noah's Ark" )で救われた8人(すくわれた はちにん)だけで再出発(さい しゅっぱつ)せざるをえませんでした( "About a thousand years after Adam, mankind had grown so corrupt that God had to wash it out and start again with the eight souls saved on Noah's Ark." ).それから更に千年後(さらに せんねんご),人類は再びひどく堕落(じんるいは ふたたび ひどく だらく)してしまい( "About another thousand years later, mankind is again so corrupt …" ),神は堕落した都市ウル(だらくした とし うる)( "the degenerate city of Ur" )からアブラハムを選び出し(あぶらはむを えらびだし)( "… that God has to pull Abraham out of the degenerate city Ur that God has to pull Abraham out of the degenerate city Ur …" ),その揺りかごの役を果たす(ゆりかごのやくをはたす)のにふさわしいほど清廉潔白(せいれん けっぱく)になるため,あらゆる周囲の人類の汚れを遠ざけ(しゅういの じんるいの けがれを とおざけ)て清廉潔白なままに留まり続けなければならない(せいれん けっぱくな ままに とどまり つづけなければ ならない)( "must stay clear" )人種の創設者(じんしゅの そうせつしゃ)とします( "… to be the founder of a race that must stay clear of all surrounding human contamination in order to be clean enough to act as that cradle." ).これが以来ユダヤ人の中に見て取れる(いらい ゆだや じんの なかに みて とれる)ようになった人種的排他性(じんしゅてき はいたせい)( "racial exclusivity" )の始(はじ)まりです( "Here is the origin of that racial exclusivity observable in Jews ever since." ).それは神で始(かみで はじ)まったものですが,人間で終わって(にんげんで おわって)しまいました( "It began with God, but it has finished with men." ).

     確(たし)かにユダヤ人(ゆだや じん)はかつてイエズス・キリストのための選民(いえずす・きりすとの ための せんみん)でした( "The Jews were indeed once, for the sake of Jesus Christ, the Chosen People." ).それゆえ聖トマス・アキナス(せい とます・あきなす)( "St Thomas Aquinas" )は自著「神学大全」( "Summa Theologiae" )の中(じちょ「しんがく たいぜん」のなか)に見事な記事を書き残し(みごとな きじを かきのこし),古代イスラエル人(こだい いすらえる じん)たちがエルサレムに築いた聖堂の調度品(えるされむに きずいた せいどうの ちょうどひん)のいかに細部(さいぶ)までもがイエズス・キリストに向け(いえずす・きりすとに むけ)られていたかを示(しめ)しています(Ia IIae, 102, 4)( "Thus St Thomas Aquinas has a tremendous article in his Summa Theologiae where he shows how every single detail in the furnishing of the Israelites' exclusive Temple in Jerusalem pointed forward to Jesus Christ (Ia IIae, 102, 4)." ).だが,全能の神(ぜんのうの かみ)が一度(いちど)ならず古代イスラエル人たちに対し(こだい いすらえるじん たちに たいし)彼らに約束された土地(かれらに やくそく された とち)( "the Promised Land" )を奪取(だっしゅ)するため,そこを占拠する異教徒(せんきょ する いきょうと)たちを完全に根絶(かんぜんに こんぜつ)させる命令を与えた(めいれいを あたえた)ことに疑問の余地(ぎもんの よち)はありません( "However, to clear the Promised Land for the Israelites to take over, there is no question that Almighty God gave them more than once the command to exterminate utterly the pagans occupying the land, …" ).そして神はその命令を字義通り守(かみは その めいれいを じぎ どおり まも)らなかったとしてサウル王を厳しく罰し(さうる おうを きびしく ばっし)ました(I Sam XV)( "… and He punished King Saul severely for not observing this command to the letter (I Sam XV). " ).そのような命令を正当化した根拠(せいとうか した こんきょ)はなんだったのでしょうか?( "What could justify such a command ? " )

     それはノアの時代(のあの じだい)に神が(8人を除く〈はちにんを のぞく〉)全人類を根絶(ぜんじんるいを こんぜつ)させたのを正当化した根拠と同じ(せいとうか した こんきょと おなじ)です( "It is the same as what justified God for exterminating all mankind (except eight souls) in Noah's time." ).第一の根拠は諸々の人間の犯した罪(だいいちの こんきょは もろもろの にんげんの おかした つみ)です( "Firstly men's sins." ).神はあらゆる人間を天へ向かうよう創造(にんげんを てんへ むかうよう そうぞう)されるのに諸人間(しょ にんげん)は地獄にふさわしい罪を選び(じごくに ふさわしい つみを えらび)ます( "God creates men for Heaven, they choose sin that deserves Hell." ).罪は何にも増して神に背く(逆らう,反する,=神を怒らせる)(つみは なに にも まして かみに そむく〈さからう,はんする,=かみを おこらせる〉)ものです( "For indeed sin offends God first of all. " ).神の意識と罪の意識(かみの いしきと つみの いしき)は,今日(こんにち)私たちの周り(わたくしたちの まわり)にある全て(すべて)のものと同(おな)じように,一体となって失われ(いったいと なって うしなわれ)ます( "The sense of God and the sense of sin get lost together, as all around us today." ).私たちの時代と同じ(わたくしたちの じだいと おなじ)ような神を信じない世代(かみを しんじない せだい)は神の正義(かみの せいぎ)などおそらく理解(りかい)できないでしょう( "A godless generation like ours cannot possibly understand the justice of God. " ).第二の根拠は神の御慈悲(だいにの こんきょは かみの ごじひ)です( "Secondly, God's mercy, …" ).神の御慈悲(かみの ごじひ)は神の御正義(かみの ごせいぎ)と切り離(きり はな)せません( "… which goes hand in hand with His justice, …" ).現代(げんだい)では神の御慈悲は御正義と同じように誤解(おなじ ように ごかい)されています( "… and is today equally misunderstood." ).だが,地獄の現実を考え(じごくの げんじつを かんがえ)るなら( "But given the reality of Hell, …" ),神が人間を突き離し(かみが にんげんを つき はなし),人間が死ぬ前(にんげんが しぬまえ)に悔い改め(くい あらため)るか,さもなくば少(すく)なくともさらに深く地獄に落ち(ふかく じごくに おち)なくてすむよう罪を犯(つみを おか)さないようにさせるのは神の御慈悲(かみの ごじひ)ではないでしょうか?( "… is it not a mercy of God if he cuts men off so that they can repent before they die, or at least be stopped from sinning so as not to deserve to go any deeper in Hell? " )

     古代イスラエル人の異教徒の敵(いきょうとの てき)について,神がアブラハムとイエズス・キリストの関係(あぶらはむと いえずす・きりすとの かんけい)をもたらされたのは御慈悲(ごじひ)からでしょう( "That is how it will have been with the pagan enemies of the Israelites between Abraham and Jesus Christ. " ).旧約聖書を読む(きゅうやくせいしょを よむ)と,古代イスラエル人がいかに頻繁(ひんぱん)に真の神を見捨て(まことの かみを みすて)て自分(じぶん)たちの周(まわ)りの異教徒(いきょうと)たちの悪魔を崇拝(あくまを すうはい)する気持ち(きもち)になったかが分(わ)かります( "To read the Old Testament is to see how often the Israelites were tempted to abandon the true God and to worship devils by the pagans all around them." ).アルスの教区司祭(=アルスの主任司祭)(あるすの きょうく しさい・しゅにん しさい)( "the Curé of Ars" )がかつて述(の)べたように「司祭(しさい)をいなくすると25年(にじゅう ごねん)もすれば人間は諸々の獣を崇拝(にんげんは もろもろの けだものを すうはい)するようになります」( "As the Curé of Ars once said, 'Get rid of the priest, and within 25 years men will be worshipping beasts'." ).救世主(きゅうせいしゅ)のために( "for the Messiah" )揺(ゆ)りかごを提供(ていきょう)するのに確かに成功(たしかに せいこう)したのは古代イスラエル人の永遠の功績(こだい いすらえるじんの えいえんの こうせき)です( "It is to the eternal credit of the Israelites that they did succeed in providing the cradle for the Messiah, …" ).たとえば,聖ヨアキムと聖アンナ(せい よあきむと せい あんな)( "St Joachim and St Anne" ),とりわけ彼らの子(かれらの こ)すなわち神の御祝福を受けた童貞マリア(かみの おんしゅくふくを うけた どうてい まりあ),(キリストの)十二(12)使徒(きりすとの じゅうに しと)と救世主のカトリック教会( "their Messiah's Catholic Church" )(きゅうせいしゅの かとりっく きょうかい)を打ち立てる助け(うちたてる たすけ)をした他の善良なイスラエル人(たの ぜんりょうな いすらえる じん)たちです( "… for instance St Joachim and St Anne, especially their child, the Blessed Virgin Mary, the twelve Apostles and all other good Israelites who helped to launch their Messiah's Catholic Church." ).現代のイスラエル人(げんだいの いすらえる じん)については来週(らいしゅう)のエレイソン・コメンツ(えれいそん・こめんつ)をお読(よ)みください( "For today's Israelis see next week." ).

     リチャード・ウィリアムソン司教



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(注:本投稿記事〈第368回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月02日23:58に公開されました.)


(追加の注記〈2014年9月30日付〉:)

第368回エレイソン・コメンツ「神のお仕置き?」には,
通常付している,コメンツ本文末尾の
祈願「キリエ・エレイソン」は付してありません.