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2016年10月1日土曜日

481 再び,教皇不在(空位)論 - I 10/1

エレイソン・コメンツ 第481回 (2016年10月1日)

カトリック教会の完全な破綻などありえません.
だが,それが部分的にひどい病気になることはありえます.
The Catholic Church can never wholly fail, 
But, partially, it can severely ail. 

エレイソン・コメンツが歴代公会議派教皇は実は教皇ではないというテーマを再度取り上げるなら,読者の多くはうんざりするかもしれません.だが,1991年に書かれた論文の最近のフランス語訳を読むと,教皇空位論は見た目ほど結論の出たテーマではなく,したがって,そのことを示すためには何度も議論を繰り返す必要があることが分かります.リベラル派は教皇空位論の誘惑にかられることなどないのですから,その必要はないでしょう.だが,神の恩寵によりリベラリズム(自由主義)から解放されカトリック教伝統に引き寄せられた優良なカトリック教(=公教)信徒にとって教皇空位論は極めて危険なものとなります.悪魔にしてみれば,私たちがバランスを失いさえすればいいわけで,右へ傾こうと左へ傾こうと,どちらでも構いません.
It may irk a number of readers of these “Comments” if they return once more to the theme of the Conciliar Popes not being Popes at all, but the recent translation into French of an article from 1991 in English shows how the arguments for sedevacantism need repeatedly to be demonstrated as being not so conclusive as they may appear. Liberals need no such demonstration, because for them sedevacantism is no temptation. However there are select Catholic souls drawn by the grace of God out of liberalism towards Catholic Tradition for whom sedevacantism becomes positively dangerous. The Devil does not care whether we we lose our balance to the right or to the left, so long as we lose our balance. 

教皇空位論がもたらす過ちは,理論的にはリベラリズムに共通する精神荒廃がもたらす過ちほど深刻ではありません.だが,実際には,人の心が教皇空位論のために固く閉ざされてしまうこと,受け入れうる意見(教皇フランシスコの言動がカトリック教的だと言えるカトリック教徒がいるでしょうか?)が受け入れがたい教義上の確実性に変わりがちなこと(そのような疑問に確かな判断を下せるカトリック教徒がいるでしょうか?)(what Catholic can judge with certainty of such a question ?) ,そしてそれが諸教義中の教義として押しつけられるようになり,まるである人のカトリック教性( "Catholicity" )が私たちが教皇ピオ十二世いらい真の教皇を持ったことがないことを信じるかどうかによって判断されるようになることが何と多いことでしょうか.
For indeed the error of sedevacantism may in theory be an error neither as deep nor as grave as the universal mind-rot of liberalism, but in practice how often one observes that minds snap shut with sedevacantism, and that what started out as an acceptable opinion (what Catholic can say that the words and deeds of Pope Francis are Catholic ?), tends to become an unacceptable dogmatic certainty (what Catholic can judge with certainty of such a question ?), and from there to impose itself as the dogma of dogmas, as though a person’s Catholicity is to be judged by whether or not he believes in our having had no real Pope since, say, Pius XII. 

この往々にして見られる教皇空位論の内面的原動力の一つの理由として私が以前のエレイソン・コメンツで示したのは,教皇空位論は信仰を脅かすような苦渋に満ちた問題,すなわち「こんな教会破壊者がどうして真のカトリック教教皇と言えるだろうか?」という疑問をゴルディオンの結び目(訳注:古代アナトリアにあったフリギアの都ゴルディオンの神話とアレクサンドロス大王にまつわる伝説.手に負えないような難問を誰も思いつかなかった大胆な方法で解決したという故事)のような明快さで解決するかもしれないということです.つまり,答えは「彼らは全く教皇などではない」です.人々は「ああ,ほっとした.もう悩む必要もない」と、胸をなでおろすでしょう.そこで,人々の心は固く閉じてしまい,教皇空位論は聞く耳を持つ者(あるいは持たない者)にとって,あたかも福音書のように共有できるものになるでしょう.そして,最悪の場合,それは枢機卿,司教,司祭たちにまであてはめられるようになり,その結果,信心深かったカトリック教徒は「引きこもり」( "home-aloner" )になり,ミサ聖祭出席をまったく止めてしまうでしょう.彼は信仰を持ち続けることに成功するでしょうか?彼の子供たちはどうでしょう?教皇空位論の危険性はここにあるのです.
One reason offered by previous “Comments” for this often observed internal dynamic of sedevacantism may be the Gordian-knot simplicity with which it slices through an agonizing and faith-threatening problem: “How can these destroyers of the Church be true Catholic Popes ?” Answer, they are not Popes at all. “Oh, what a relief ! I need no longer agonize.” The mind snaps shut, sedevacantism is to be shared as though it were the Gospel with whoever will listen (or not listen), and at worst it can be extended from the Popes to all cardinals, bishops and priests, so that a once believing Catholic turns into a “home-aloner” who gives up attending Mass altogether. Will he succeed in keeping the Faith? And his children? Here is the danger.

それ故,私たちはカトリック教信仰のバランスを保ち,左右に傾ける罠から身を守るため,冒頭に述べた BpS ( S 司教)の15ページの論文の論点に耳を傾けてみましょう.(読者の多くは略称の S 司教が誰かすぐに分かるでしょう.ここで私たちにとって大事なことは,彼自身より彼の議論ですからフルネームを示す必要はないでしょう.)この論文では, S 司教は少なくとも自分はカトリック教の信仰を教皇職の中に持っていると考えており,実際に持っています.そうでなければ,彼にとって公会議派教皇たちは何ら問題とならないでしょう.この理屈と信仰は教皇空位論者たちにとって最善のものです.だが, S 司教,教皇空位論者たちのいずれもカトリック教の全体像を理解していません.つまり,神は教会を見捨てることはありえないが,聖職者たちを見捨てることはありうるということです.
Therefore to keep our Catholic Faith in balance and to avoid the traps laid today to its right as to its left, let us look at the arguments of BpS in the 15-page article mentioned above. (“BpS” is an abbreviation which many readers will identify at once, but it need not be spelled out here because we are more concerned with his arguments than with his person.) In his article at least he does think, and he does have a Catholic’s faith in the Papacy, otherwise the Conciliar Popes would be no problem for him. This logic and faith are what is best in sedevacantists, but neither BpS nor they are working from the whole picture: God cannot let go of his Church, but he can let go of his churchmen. 

S 司教の議論を要約すると次のようになります.大前提:教会に欠陥はない.小前提:第二バチカン公会議の結果,教会はリベラルになった.これは大きな欠陥である.結論:公会議派教会は真の教会でない.ということは,第二バチカン公会議を主導もしくはそれに従った歴代公会議派教皇は真の教皇たりえないということになります.
For here is his argument in a nutshell – Major: the Church is indefectible. Minor: at Vatican II the Church went liberal, which was a major defection. Conclusion: the Conciliar Church is not the real Church, which means that the Conciliar Popes who led or followed Vatican II cannot have been real Popes.

この議論は一見良さそうです.しかし,同じ大前提,小前提からリベラル派的な結論が引き出せます.それは,教会に欠陥はない,教会はリベラルになった,だからカトリック信徒としての私もリベラルにならなければならない,というものです.教皇空位論がかくしてリベラリズムと同じ根を共有するに至ることについて,教皇空位論者たちはもう一度良く考えなければなりません. S 司教はその共通の根に気づき,それを「皮肉( "ironic" )」と称しています.だが,その根はそれ以上のものです.共通の根はリベラル派と教皇空位論者の双方に同じ誤りをさせます.このことが大前提とならなければなりません.実のところ,両者とも教皇の無謬性を取り違えると同じように教会の非欠陥性を誤解します.来週のエレイソン・コメンツでは, S 司教の議論をさらに詳しく分析します.
The argument looks good. However, from the very same Major and Minor can come a liberal Conclusion: the Church is indefectible, the Church went liberal, so I too, as a Catholic, must go liberal. That sedevacantism thus shares its roots with liberalism should make any sedevacantist think twice. BpS notices the common roots, and calls them “ironic”, but they are much more than that. They point to liberals and sedevacantists making the same error, which must be in the Major. Indeed both alike misunderstand the Church’s indefectibility, as they mistake the Popes’ infallibility. See these “Comments” next week for a more detailed analysis of BpS’s argument.
Kyrie eleison.

 キリエ・エレイソン.

 リチャード・ウィリアムソン司教


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本投稿記事・第481回エレイソン・コメンツ「再び,教皇不在論」(2016年10月1日付)/ELEISON COMMENTS CDLXXXI (October 1, 2016) : "AGAIN, SEDEVACANTISM - I" は2016年12月19日23時40分に掲載されました.
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2014年11月29日土曜日

385 現職教皇 11/29

エレイソン・コメンツ 第385回 (2014年11月29日)

    1949年1月29日,教皇ピオ12世は教皇の重要性について次の様に述べました:(せんきゅうひゃく よんじゅうく ねん いちがつ にじゅうく にち,きょうこう ぴお じゅうにせいは きょうこうの じゅうようせい について つぎの ように のべました:)( "On January 29, 1949, Pope Pius XII made the following remarks about the importance of the Pope: …" )全くの仮説ですが,もし何時の日かローマ(教皇庁)が物理的に崩壊し,勝者カトリック教会の唯一の象徴であるバチカン・バシリカ(バジリカ〈英語読み〉)(聖堂)がその歴史的な宝物や聖なる墓石を廃墟の下に埋めてしまう事になったとしても,教会が解体・分断される事は決してないでしょう(まったくの かせつ ですが,もし いつのひか ろーま〈きょうこう ちょう〉が ぶつりてきに ほうかいし,しょうしゃ かとりっく きょうかいの ゆいいつの しょうちょう である ばちかん・ばしりか(せいどう)が その れきしてきな ほうもつや せいなる ぼせきを はいきょの したに うめて しまう ことに なった としても,きょうかいが かいたい・ぶんだん される ことは けっして ないでしょう)( "If ever one day – speaking purely hypothetically – material Rome were to collapse; if ever this Vatican basilica, symbol of the one and only victorious Catholic Church, were to bury beneath its ruins the historic treasures and sacred tombs which it encloses, even then the Church would be in no way demolished or split. " ).キリストがペトロに与えた約束は真実のまま残り,教皇職は教会と同じ様に,その時生存する(現職の)教皇の上に築かれた,唯一つの壊される事のないものとして,永遠に存続するでしょう.(きりすとが ぺとろに あたえた やくそくは しんじつの まま のこり,きょうこう しょくは きょうかいと おなじ ように,そのとき せいぞん する(げんしょくの)きょうこうの うえに きずかれた,ただひとつの こわされる ことの ないもの として,えいえんに そんぞく するでしょう.)( "Christ's promise to Peter would still hold true, the Papacy would last for ever, like the Church, one and indestructible, being founded on the Pope then living.” " )

    この言葉は古くからの教会教理(原文に加えたのは下線「その時生存する(現職の)」だけ)であり,現存の通り,確かに私たちの主イエズス・キリスト御自身の御言葉に基づくもの(マテオ聖福音書:第16章16-18節)ですから(この ことばは ふるく からの きょうかい きょうり〈げんぶんに くわえた のは かせん「そのとき せいぞん する〈げんしょくの〉」だけ〉であり,げんぞんの とおり,たしかに わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと ごじしんの みことばに もとづく もの〈まてお せい ふくいんしょ:だい じゅうろく しょう じゅうろく-じゅうはち せつ〉ですから)( "Since these words are classic Church doctrine (only the underlining has been added), resting as they do on Our Lord's own words (Mt. XVI, 16-18), …" ),現職の歴代教皇が公会議派になってしまった1962年以来,数億人のカトリック信徒が同じ様に公会議派,リベラル派になってきたのはさほど驚く事もないでしょう(げんしょくの れきだい きょうこうが こうかいぎはに なって しまった せん きゅうひゃく ろくじゅうに ねん いらい,すうおくにんの かとりっく しんとが おなじように こうかいぎは,りべらるはに なってきたのは さほど おどろく ことも ないでしょう)( "… then it is small wonder if, ever since 1962 when the living Popes became Conciliar, millions upon millions of Catholics have been driven to becoming likewise Conciliar and liberal." ).教皇空位論者が見る唯一つの問題解決は歴代の公会議派教皇が教皇だった事を否定することでしょう.これは常識に思えるかも知れませんが(きょうこう くうい ろんじゃが みる ただ ひとつの もんだい かいけつは れきだいの こうかいぎは きょうこうが きょうこう だった ことを ひてい する ことでしょう.これは じょうしきに おもえる かも しれませんが)( "The only way out of the problem that sedevacantists can see is to deny that the Conciliar Popes have been Popes at all, which can seem to be common sense, …" ),多くのカトリック信徒にとっては,神により現職の教皇の上に築かれるよう意図された教会は教皇が一人もいなかったら過去半世紀(1962-2014年)の間存在出来なかったはずだと考える方が,より常識的だと言えるでしょう(おおくの かとりっく しんとに とっては,かみにより げんしょくの きょうこうの うえに きずかれる よう いと された きょうかいは きょうこうが ひとりも いなかったら かこ はんせいき〈せん きゅうひゃく ろくじゅう に - にせん じゅうよねん〉の あいだ そんぞく できなかった はずだ と かんがえる ほうが,より じょうしき てき だと いえる でしょう)( "… but to most Catholics it seems even more to be common sense that the Church designed by God to rest upon the living Pope cannot have existed for the last half century (1962-2014) without one." ).

    中世時代に絶頂を極めたキリスト文明の退潮が歴代の現職教皇たちによってどのようにして現在の堕落へ導かれたかを振り返るのは簡単です(ちゅうせい じだいに ぜっちょうを きわめた きりすと ぶんめいの たいちょうが れきだいの げんしょく きょうこう たちに よって どのように して げんだいの だらくへ みちびかれたかを ふりかえるのは かんたん です)( "It is easy to see how the decline of Christian civilisation since the height of the Middle Ages has led to the present corruption of the living Popes. " ).神がその退潮を罰する為,その驚くべき堕落をお許しになったのであろうと見るのも容易な事です(かみが そのたいちょうを ばっするため,その おどろくべき だらくを おゆるしに なった ので あろうと みる のも よういな こと です)( "It is easy to see how God can have permitted this appalling corruption to punish that appalling decline. " ).だが,容易に理解できないのは,教会の礎である歴代教皇が神への挑戦であるリベラリズム(自由主義)こそがカトリック的だと信じているのに教会が如何に存続できるのか,という点でしょう(だが,よういに りかい できない のは,きょうかいの いしずえ である れきだい きょうこうが かみ への ちょうせん である りべらりずむ こそが かとりっく てき だと しんじて いる のに きょうかいが いかに そんぞく できるのか,という てん でしょう)( "What is less easy to see is how the Church can still live when the living Popes on whom it is founded are convinced that liberalism, war on God, is Catholic. " ).私たちの主の御言葉には 良い木は悪い実を結ばないし悪い木は良い実を結ばない (新約聖書・マテオ聖福音書:第7章18節)とあります(わたくし たちの しゅ いえずす・きりすとの みことば には よい き は わるい み を むすばない し わるい き は よい み を むすばない 〈しんやく せいしょ・まてお せい ふくいん しょ:だい ななしょう じゅうはっせつ〉とあります)( "In Our Lord's own words, A good tree cannot bring forth evil fruit and an evil tree cannot bring forth good fruit (Mt. VII, 18). " ).

    だが,半分良い木,半分悪い木はそれぞれ半分良い実,半分悪い実を結びます(だが,はんぶん よい き,はんぶん わるい き は それぞれ はんぶん よい み,はんぶん わるい み を むすびます)( "But a tree half good, half bad, can produce fruits half good, half bad. " ).全体として見れば,善と悪の混合体は悪ですが(ぜんたい として みれば,ぜん と あく の こんごう たい は あく ですが)( "Now taken as a whole, a mixture of good and bad is bad, " ),個々に見れば,その混合体の良い部分が悪い分と同じように悪いということではありません(ここに みれば,その こんごう たいの よい ぶぶんが わるい ぶぶんと おなじように わるい という ことでは ありません)( "but that does not mean that taken part by part, the mixture's good parts are as bad as its bad parts. " ).肝臓癌は私を殺すでしょうが,それは私が両肺に癌を持っている事を意味しません(かんぞう がん は わたくしを ころす でしょうが,それは わたくしが りょうはいに がんを もっている ことを いみ しません)( "Cancer in the liver will kill me, but that does not mean that I have cancer in the lungs. " ).現職の聖職者たちは,生身の人々と同じ様に,全てが善人あるいは悪人という訳ではありません(げんしょくの せいしょくしゃ たちは,なまみの ひとびとと おなじ ように,すべてが ぜんにん あるいは あくにん という わけ では ありません)( "Now no living churchman, any more than any man alive, is entirely good or entirely bad. " ).私たちは全て死を迎えるまで変わり続ける混合体です(わたくし たちは すべて しを むかえる まで かわり つづける こんごうたい です)( "We are all a fluctuating mixture until the day we die. " ).従って,歴代の教皇の中で,在位期間中に産み出した果実が全く悪だったという教皇が果たしていたでしょうか?(したがって,れきだい きょうこうの なかで,ざいい きかん ちゅうに うみだした かじつが まったく あく だった という きょうこうが はたして いた でしょうか?)( "So can there ever have been a living Pope whose fruits were entirely evil ? " )答えは「ノー」以外 ありません(こたえは「のー」いがいありません).( "The answer can only be, no. " ).その場合,カトリック教会は過去50年の間,公会議派教皇たちが作り出した半分良い果実によって半分だけ存続し(その ばあい,かとりっく きょうかいは かこ ごじゅうねんの あいだ,こうかいぎは きょうこう たちが つくりだした はんぶん よい かじつに よって はんぶん だけ そんぞくし)( "In which case the Catholic Church can have half-lived for the last 50 years on the half-good fruits of the Conciliar Popes, " ),残り半分は教会を浄化すべく神から許されて存続してきた訳です(のこり はんぶんは きょうかいを じょうか すべく かみ から ゆるされて そんぞく してきた わけです)( "with a half-life permitted by God to purify his Church, " ).神は残り半分が教会を潰すことはお許しにならないでしょう(かみは のこり はんぶんが きょうかいを つぶす ことは おゆるしに ならない でしょう)( "but which he would never permit to go so far as to kill his Church. " ).

    これまで,例えば,パウロ6世は聖職者の欠乏( "the lack of vocations" )(訳注5・1 )を嘆きました(これまで,たとえば,ぱうろ ろくせいは せいしょくしゃの けつぼう〈やくちゅう5・1〉を なげき ました)( "Thus for example Paul VI wept for the lack of vocations." ).ベネディクト16世は伝統を切望しました(べねでぃくと じゅうろくせいは でんとうを せつぼう しました)( "Benedict XVI hankered after Tradition." ).教皇フランシスコでさえ神を人間に引き寄せようとしながらも本気で人間を神に導こうとしています(きょうこう ふらんしすこ でさえ かみを にんげんに ひきよせようと しながらも ほんきで にんげんを かみに みちびこうと しています)( "Even Pope Francis surely means to bring men to God when he drags God down to men." ).歴代公会議派教皇たちの考えは酷く間違っています(れきだいこうかいぎは きょうこう たちの かんがえは ひどく まちがって います)( "So, Conciliar Popes are dreadfully mistaken in their ideas, …" ).彼らは決して曖昧であってはならない信仰について致命的に曖昧です(かれらは けっして あいまいで あっては ならない しんこうに ついて ちめいてきに あいまいです)( "… fatally ambiguous in the Faith where they need to be absolutely unambiguous." ).教会は彼らの下で過去も現在も死にかかっています(きょうかいは かれらの もとで〈したで〉かこも げんざいも しにかかって います)( "The Church has been and is dying beneath them, …" ).だが,彼らの中に依然として残っている良い部分が教会を存続させてきました(だが,かれらの なかに いぜんとして のこっている よい ぶぶんが きょうかいを そんぞく させて きました)( "… but whatever parts in them have still been good have enabled the Church to continue, …" ).ピオ12世が述べたように,彼らは現職の長として現存する教会の本体を存続させる為必要とされてきています(ぴお じゅうにせいが のべたように,かれらは げんしょくの おさとして〈=ちょうとして〉げんぞん する きょうかいの ほんたいを そんぞく させる ため ひつようと されて きています)( "… and they have been needed as living heads to continue the body of the living Church, as Pius XII said." ).そうだとすれば,私たちは彼らが教会を全滅させてしまう等と心配せずに(そうだとすれば,わたくしたちは かれらが きょうかいを ぜんめつ させて しまう などと しんぱい せずに)( "Then let us not fear that they will be allowed to kill off the Church, …" ),彼らのリベラリズムと徹底的に戦い,彼らがカトリックの正道に立ち戻るよう祈願しましょう(かれらの りべらりずむと てってい てきに たたかい,かれらが かとりっくの せいどうに たちもどる よう きがん しましょう)( "… but let us for our part fight their liberalism tooth and nail and pray for their return to Catholic sanity, …" ).何故なら,私たちは教会の命を保つ為彼らを必要としているからです(なぜなら,わたくしたちは きょうかいの いのちを たもつ ため かれらを ひつようと している から です),( "… because we do need them for the life of our Church." ).

    キリエ・エレイソン.


    教会は,如何に悪くても
    現職の教皇たちが必要です.
    (きょうかいは,
    いかに わるく ても
    げんしょくの きょうこうたちが
    ひつよう です.)

    ( "The Church needs living Popes,
     however bad." )


    彼らは,如何に気が狂っても
    教会を全滅させる事は
    ないでしょう.
    (かれらは,
    いかに きが くるっても
    きょうかいを
    ぜんめつ させる
    ことは ないでしょう.)

    ( "Kill off the Church they won't,
     however mad." )


    リチャード・ウィリアムソン司教




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第5パラグラフの訳注5・1
聖職者の欠乏( "the lack of vocations" )について:

・vocations
=(教会においては,聖職を)天職(=「職業」・「自分の生涯の使命」)に選ぶことを指す.
「神〈キリスト〉に呼ばれる・召し出される」,「召命を受ける」,等と表現する.

→マテオ聖福音書:第4章18-22節(聖福音の御言葉を追って掲載)

(イエズスは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたガリラヤ北部,異邦人の多いヨルダンのかなたペレアのガリラヤ湖畔で,弟子として漁師ペトロ・アンドレア・ヤコブ・ヨハネを呼ばれた.彼らはすぐ父・舟・網をおいてイエズスに従った.)

・この由来で,公教会では一般にいずれの「職業」" vocations" も「神に呼ばれて従事する天職」を意味し,それぞれの職業に特定の保護の聖人(守護聖人)が置かれている.

・霊魂を持たない動物と異なり,霊魂を持つ人間には,地上に生まれ出でて「単に生計を営み,そして死去する」以上の意義が,人生に課せられている.

・人間は本来,自分がこの世に生まれて来た真の意義・目的を正しく認識し確信して生きるべく,真の創造主・真の神に創造されて存在している.

・あらゆる人間は,真の神の普遍の慈愛・正義・憐み・赦し・信仰・希望に立ち,
この世で自分の存在の真の意義についての正しい確信を保ち,
真の神の御心に適った真実の職業に邁進して生涯を生きて終わることが,
真の幸福の秘訣である.

・公教会の主祷文・天使祝詞・栄唱は,真の神の御独り子がお教えになった人間の真の幸福を約束する祈りである.(祈祷文を追記いたします)


・公教要理(カトリック要理)
「1.人は何のために,この世に生れて来ましたか.
人がこの世に生れて来たのは,天主(=神)を知り,天主を愛し,天主に仕えて,遂に天国の幸福を得るためであります.」

・人間となり,人間を救うために(天より)下られた真の神の御独り子(=唯一の救世主=キリスト)イエズスの聖福音の御言葉:

新約聖書・マテオ聖福音書:第4章4節,第二法の書:第8章3節
人はパンだけで生きるのではない. 神の口から出るすべてのことばによって生きる.』

・「地上のあらゆる生き物の中で人間のみが霊魂を持つ」
=「神の似姿に創造された地上で唯一の生き物」
→人間は,肉体の他に,霊である神に似せて「霊魂をも併(あわ)せ持った唯一の生き物」として,全能の真の神により地上に創造された.

・霊と真理は世に普遍的な存在である.人種や身分・宗教等の別によらない.

→ヨハネ聖福音書:第4章24節(第1-5章…).

『…イエズスは,「婦人(サマリア人のある女)よ,私の言うことを信じなさい.
*この山でもなくエルサレムでもなく,あなたたちが御父を礼拝する時が来る.
あなたたちは知らないものを拝み,私たちは知っているものを拝んでいる.
救いはユダヤ人から来る.
まことの礼拝者が霊と真理をもって御父を拝む時が来る,いやもう来ている.
御父はそういう礼拝者を望まれる.
神は霊であるから,礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ」と言われた.…』
*シケムに近いガリジムの山

・人間の生命の起源たる神は,人生の真の意味そのものである.

・「神」とは,「大宇宙・自然の摂理」と同意義である.世のあらゆる存在は神のお許しのもとに存在している.

・神はあらゆる事を「慈愛・正義・善」の故に行われるのであり,限界ある人間には,全能の神の存在に対する信仰(見ずして信じる事〈=つまり見えなくても神は唯一の全能者・真実

・善良・正義・慈愛・慈悲・謙遜を愛し,悪を憎まれる方であると信じる事〉)なくして神の御意志(=真理)を理解する事は決して出来ない.


* * *

キリストの代理者たる教皇の天職の意義は永遠に変わらない.

→キリストの御言葉:マテオ聖福音書:第24章35節

『天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ.』









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(注:本投稿記事〈第385回エレイソン・コメンツ「現職教皇」 "LIVING POPES" 〉は2015年2月9日22:50時に掲載されました.)

2014年9月20日土曜日

375 事情は変化する 9/20

エレイソン・コメンツ 第375回 (2014年9月20日) 

     私のイタリア人の友人(わたくしの いたりあじんの ゆうじん)(C. C.)は完全に異常な状況下(かんぜんに いじょうな じょうきょうか)での教皇空位論(きょうこう くうい ろん)( "sedevacantism" )は近視眼的な間違い(きんしがん てきな まちがい)に つながりやすいので勧(すす)められないとした上(うえ)で,そうした状況を長期的な視点(ちょうき てきな してん)から考察(こうさつ)しています( "Starting out from arguments against sedevacantism as being a short-sighted error in a wholly abnormal situation, an Italian friend (C.C.) takes a longer view of that situation." ).司祭(しさい)でも神学者(しんがく しゃ)でもない彼(かれ)は,あえて教皇空位論(きょうこう くうい ろん)とは現在の危機(げんざいの きき)を過去の危機(かこの きき)に当(あ)てはめて考(かんが)えようとする教会内の試み(きょうかいの こころみ)のひとつにすぎないと論破(ろんぱ)しています( "Without being a priest or theologian, he ventures the opinion that sedevacantism is merely one of several attempts in the Church to fit the crisis of today into the categories of yesterday." ).カトリック教の神学理論が変わった(かとりっく きょうの しんがく りろんが かわった)ということでなく,その理論を適用(りろんをてきよう)すべき現実の状況(げんじつの じょうきょう)が第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)いらい大きく変わって(おおきく かわって)しまったと言(い)うのです( "There is no question of Catholic theology changing, but the real situation to which that theology has to be applied underwent a sea-change with Vatican II." ).以下は,その変わってしまった現実(げんじつ)について彼が述べた発言(かれが のべた はつげん)の主要な部分(しゅような ぶぶん)です:-- ( "Here is a key paragraph of his on that changed reality:-- " )

     「今日の世界(こんにちの せかい)は神が存在(かみが そんざい)するという客観的現実(きゃっかんてき げんじつ),神の法(かみの ほう)(=モーゼの十戒=律法)に従う必要(したがう ひつよう)があることをいずれも拒(こば)んでいるので正常(せいじょう)ではありません( " “By its refusal of the objective reality of God's existence and of the need to submit to his Law, today's world is not normal, …" ).そして現在(げんざい)見(み)られるカトリック教の結束(けっそく)も神の代わりに人間(かみの かわりに にんげん)を物事の中心に据えて(ものごとの ちゅうしんに すえて)いるので正常(せいじょう)ではありません( "… and the present Catholic unity is not normal either which has put man instead of God at the centre of things." ).教会(きょうかい)( "the Church" )がこのような異常な状況(いじょうな じょうきょう)に辿り着いた(たどり ついた)のはなにも突然起きた(とつぜん おきた)ことではありません( "Nor is it by a sudden swerve that the Church has arrived at this abnormal state of things, …" ).それは,長く複雑なプロセスを経て(ながく ふくざつな ぷろせすを へて)人間が神から離れていった結果(にんげんが かみから はなれて いった けっか)によるもので( "… but following on a long and complex process of moving away from God, …" ),それによる破滅的な効果(はめつてきな こうか)がはっきり表面化(ひょうめんか)したのが第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)です( "… the disruptive effects of which showed up at Vatican II." ).過去数百年(かこ すうひゃく ねん)にわたり崩壊の病原菌(ほうかいの びょうげんきん)が教会内部で育まれて(きょうかい ないぶで はぐくまれて)きたのであり( "For hundreds of years the germs of dissolution have been fostered within the Church, …" ),人間はその病原菌をかくまい続(つづ)け( "… as have the men harbouring these germs, …" ),上(うえ)は聖ペトロ(せい ぺとろ)の座(ざ)(=ローマ教皇聖座=ローマ司教座)( "the See of Peter" )(= Sancta  Sedes〈ラテン語〉)を含(ふく)め教会内支配層(きょうかいない しはいそう)のあらゆる地位を占め(ちいを しめ)るようになってきました.」( "… and they have been allowed to occupy all ranks of the hierarchy, up to and including the See of Peter.” " )

     私の友人(ゆうじん)はさらに続(つづ)けて,もし私たちが現在の教会全体の異常さ(げんざいの きょうかい ぜんたいの いじょうさ)が,かつてないほどひどくなっていることを認識(にんしき)できないとなると,私たちはもはや存在(そんざい)しなくなった現実(げんじつ)を,当(あ)てはまらなくなったことを参考(さんこう)にして解決を図ろう(かいけつを はかろう)とするリスクを冒す(りすくを おかす)ことになるだろうと述(の)べています( "My friend goes on that if one fails to take into consideration this overall abnormality of the present state of the Church, which is unbelievably, yet truly, worse than ever, one runs the risk of dealing with a reality that no longer exists, in terms of reference that no longer apply." ).例(たと)えば教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)たちは今日の聖職者(こんにちの せいしょくしゃ)たちは賢明(けんめい)にして教育を受けた人(きょういくを うけた ひと)たちなのだから,自分(じぶん)たちが何(なに)をしているのか分(わ)かっている筈(はず)だと思(おも)うでしょうが( "Thus for example the sedevacantists will say that today's churchmen must know what they are doing, because they are intelligent and educated men." ),実(じつ)はそうではないと,C. C.は言(い)います( "Not so, says C.C., …" ).彼らの説教や仕事(せっきょうや しごと)ぶりはもはやカトリック的(かとりっく てき)でなくなっているのに,彼らは自分たちがまったく正統(せいとう)だと確信(かくしん)している( "… their preaching and practice may well no longer be Catholic, but they are convinced that they are wholly orthodox." ).世界全体が狂って(せかい ぜんたいが くるって)しまい,彼らはそれと共に狂った(ともに くるった)だけです( "The whole world has gone mad. They have merely gone mad with it, …" ).理性を失った(りせいを うしなった)ためでなく,理性の活用(りせいの かつよう)を諦めた(あきらめた)ため狂って(くるって)しまったのです( "… not by a loss of reason but by having given up the use of it, …" ).彼らのカトリック教信仰が弱まる(かとりっく きょう しんこう)につれ( "… and as their Catholic faith grows weaker, …" ),信仰の完全な喪失を食い止める(しんこうの かんぜんな しょうしつを くいとめる)べきものがますますなくなってきている( "… so there is less and less to stop them from losing it altogether." ),というのが友人の見方(ゆうじんの みかた)です.

     だが,神が御自らの教会をお見捨てに(かみが おん みずからの きょうかいを おみすてに)なってしまったからに違い(ちがい)ないと反論する人(はんろん する ひと)もいるでしょう( "But then, one might object, God must have abandoned his Church..C. C.は聖書から(せいしょ から)3点の引用を用いてこれに答え(さんてんの いんようを もちいて これに こたえ)ます( "To reply, CC resorts to three quotations from Scripture." ).最初の引用(さいしょの いんよう)は,新約聖書・ルカ聖福音書:第18章8節(しんやくせいしょ・るか せいふくいんしょ:だい じゅうはっしょう はっせつ)です.ここで私たちの主(わたくしたちの しゅ)イエズス・キリスト(いえずす・きりすと)は,(再び地上に〈ふたたび ちじょうに〉)自分が戻る頃(じぶんが もどる ころ)に果たして信仰(はたして しんこう)がこの世に残って(このよに のこって)いるかどうかと疑問(ぎもん)を投げ(なげ)かけています( "Firstly, Lk.XVIII, 8, where Our Lord wonders if he will even find the Faith on earth when he comes back." ).この世の終わり(よの おわり)まで教会の不朽性(きょうかいの ふきゅうせい)を保つ(たもつ)には,わずか少数(しょうすう)の司祭(しさい)たちや一般平信徒(いっぱん ひらしんと)(それに数名の司教〈すうめいの しきょう〉)が残(のこ)っていれば十分(じゅうぶん)でしょう(ここで「抵抗運動(ていこう うんどう)」が具体化(ぐたいか)にむけて直面(ちょくめん)している諸々の困難(もろもろの こんなん)のことを考(かんが)えたくなります)( "Obviously a small remainder of priests and laity (with perhaps some bishops) will be enough to ensure the indefectibility of the Church until the end of the world (one thinks of the present difficulties of the “Resistance” in taking shape)." ).同様(どうよう))に,2番目の引用(にばんめの いんよう)は,マテオ聖福音書:第24章11-14節(まてお せいふくいんしょ:だい にじゅうよん しょう じゅういち-じゅう よん せつ)で,この中(なか)で私たちの主イエズス・キリストは,多くの偽預言者が起こって人々を欺き,(不義が増すにつれて)おびただしい人の愛が冷める,と予見しています( "Likewise, secondly, Mt.XXIV, 11-14, where it is foreseen that many false prophets will deceive many souls, and charity will grow cold." ).そして3番目の引用は,ルカによる聖福音書:第22章31-32節で,この中で私たちの主イエズス・キリストはペトロに対し(ぺとろに たいし)自ら改心した後で(みずから かいしん したあとで)兄弟(きょうだい)たちの信仰を堅める(しんこうを かためる)(=堅振〈堅信〉〈けんしん〉する)よう指示(しじ)しています.主(しゅ)はペトロ自身の信仰心(ぺとろ じしんの しんこうしん)が先ず崩れる(まず くずれる)のではないかと強く示唆(つよく しさ)しているわけです( "And thirdly, Lk.XXII, 31-32, where Our Lord instructs Peter to confirm his brethren in the faith after he has converted, strongly suggesting that his faith will first have failed." ).したがって,教会の不朽性(きょうかいの ふきゅうせい)が崩れ(くずれ)なくても,使徒(しと)たちすべてがゲッセマニの園で逃れ去った(げっせまにの そので のがれ さった)ときのように,ペトロをはじめ支配層(しはいそう)のほとんどすべての者(もの)たちの信仰が崩れ得る(しんこうが くずれ うる)のです(マテオ聖福音書:第26章56節)( "So almost the whole hierarchy can fail, including Peter, without the Church ceasing to be indefectible, like when the Apostles all ran away in the Garden of Gethsemane (Mt.XXVI, 56)." ).

     結論(けつろん)として,C. C.が描く明日,明後日の教会(えがく みょうにち,みょうごにちの きょうかい)はカルメル神父(かるめる しんぷ)のそれと次(つぎ)のように著しく似て(いちじるしく にて)います: ( "In conclusion, CC's vision for the Church of tomorrow or the day after strongly resembles that of Fr Calmel: …" )すなわち,私たちはそれぞれの生活状態に応じ(せいかつ じょうたいに おうじ)て各々の義務を果たし(おのおの の ぎむを はたし)( "… let each of us do his duty according to his state of life, …" ),信仰を守る(しんこうを まもる)ための諸々の小さな砦(もろもろの ちいさな とりで)のネットワーク構築に参加(ねっとわーく こうちくに さんか)しましょう( "… let each of us do his duty according to his state of life, and take part in building a network of little forts of the Faith, …" )and take part in building a network of little forts of the Faith, …" ).その砦には諸々の秘跡(ひせき)を確(たし)かなものにしてくれる司祭が一人(しさいが ひとり)いれば( "… each with a priest to ensure the sacraments, …" ),これからは役に立たない(やくに たたない)ような教会の神学理論(きょうかいの しんがく りろん)( "… but with no henceforth inapplicable theology of the Church, …" ),簡単に得られ(かんたんに えられ)ない権威(けんい)ある承認(しょうにん)( "… nor unobtainable canonical approval, …" ),信仰が流れ入って(ながれ はいって)くるかもしれない時代遅れの隔壁(じだいおくれの しょうへき)などなくてもよろしいでしょう( "… nor with any out-dated dividing-walls over the top of which the Faith will have flowed. " ).その砦は真実(しんじつ)により互いに結び(たがいに むすび)つき,慈善(じぜん)(=慈悲・兄弟愛・隣人愛〈=じひ・きょうだい あい・りんじん あい〉) "charity" という相互接触を持つ(そうご せっしょくを もつ)でしょう( "The forts will be united by the Truth and will have mutual contacts of charity." ).それ以上(いじょう)は神の手中(かみの しゅちゅう)にあります ( "The rest is in God's hands.").

     キリエ・エレイソン.

     変化する時代にあっては,
     落ちこぼれにならないよう,  
     (へんかするじだいにあっては  
     おちこぼれにならないよう…)
     ( "In changing times unchanging truths must find
     …" )

     …不変の真実を
     新しい形で活用するように
     しなければなりません.
     (…ふへんのしんじつを
     あたらしいかたちで
     かつようするように
     しなければなりません)
     ( "… New applications, not to be left behind." )


     リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注を追補いたします.
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(注:本投稿記事〈第375回エレイソン・コメンツ〉は2014年9月29日22:30に公開されました.)

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2014年6月6日金曜日

359 教会の無謬性 V 5/31

エレイソン・コメンツ 第359回 (2014年5月31日) 

     リベラリズム(りべらりずむ)は神に戦いを挑み(かみに たたかいを いどみ)( "Liberalism is war on God, …" ),真実を崩壊(しんじつを ほうかい)させるものです( "… and it is the dissolution of truth." ).リベラリズムが駄目(だめ)にしてしまった今日の教会内(こんにちの きょうかい ない)で( "Within today’s Church crippled by liberalism, …" ),教皇空位論(きょうこう くうい ろん)は一つの反作用(ひとつの はんさよう)として理解(りかい)できます( "… sedevacantism is an understandable reaction, …" ).だが,この理論(りろん)は真実に比(くら)べ権威を重視(けんいを じゅうし)しすぎています( "… but it still credits authority with too much power over truth." ).現代の世界(げんだいの せかい)では自然的真実が見失われ(しぜんてき しんじつが みうしなわれ)ています( "The modern world has lost natural truth, …" ).まして超自然的真実(ちょうしぜん てき しんじつ)はいうに及び(および)ません( "… let alone supernatural truth, …" ).そこに問題の核心(もんだいの かくしん)があります( "… and here is the heart of the problem." ).

     話を進める便宜上(はなしを すすめる べんぎ じょう),教皇(きょうこう)のあらゆる教え(おしえ)を三つに分類して考えて(みっつに ぶんるいして かんがえて)みましょう( "For our purposes we might divide all papal teaching into three parts." ).第1(だいいち)に,教皇が教皇として,全カトリック教徒(ぜん かとりっく きょうと)を固く結びつける(かたく むすび つける)ため信仰や道徳(しんこうや どうとく)について教える場合(おしえる ばあい)( "Firstly, if the Pope teaches as Pope, on Faith or morals, definitively and so as to bind all Catholics, …" ),彼の特別教導権(とくべつ きょうどうけん)( "Extraordinary Magisterium" =以下EMと省略〈しょうりゃく〉)は必然的に無謬(ひつぜんてきに むびゅう)です( "… then we have his Extraordinary Magisterium (EM for short), necessarily infallible." ).第2(だいに)に,もし教皇が必ず(かならず)しも4条件(よん じょうけん)すべてに従(したが)わなくても,教会がいついかなる場合(ばあい)でも信徒に信じるよう教えて(しんとに しんじるよう おしえて)きたやりかたに従(したが)って教えるなら( "Secondly, if he does not engage all four conditions but teaches in line with what the Church has always and everywhere taught and imposed on Catholics to believe, …" ),いわゆる教会の通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)( “Ordinary Universal Magisterium” =以下OUMと省略)に則(のっと)っていることになり,彼はやはり無謬(むびゅう)です( "… then he is partaking in what is called the Church’s “Ordinary Universal Magisterium” (OUM for short), also infallible." ).第3(だいさん)に教皇のこれ以外(いがい)の教えについて考(かんが)えてみます( "Thirdly we have the rest of his teaching, …" ).もし彼が伝統に外れて(でんとうに はずれて)教えるのであれば( "…which, if it is out of line with Tradition, …" ),その教えは誤りから免れ(あやまりから まぬがれ)ないだけでなく偽物(にせもの)です( "… is not only fallible but also false." ).

     これで明確(めいかく)なのは( "By now it should be clear that …" ),EMとOUMは山を覆う雪と山の関係と同じだということです( "… the EM is to the OUM as snow-cap is to mountain." ).雪は山頂を形作っている(ゆきは さんちょうを かたちづくって いる)のではなく( "The snow-cap does not make the summit of the mountain, …" ),ただ単に山頂をより目立たせている(ただ たんに さんちょうを より めだたせて いる)だけです( "… it merely makes it more visible." ).EMとOUMは召使と主人(めしつかいと しゅじん)のようなものです( "EM is to OUM as servant to master." ).EMはOUMに属(ぞく)するものと属さないものをはっきりさせるためOUMに仕えるべく存在(つかえる べく そんざい)しています( "It exists to serve the OUM by making clear once and for all what does or does not belong to the OUM." ).だが山の残りの部分を目立たせる(やまの のこりの ぶぶんを めだたせる)のは何(なに)なのか( "But what makes the rest of the mountain visible, …" ),言って(いって)みれば,それが私たちの主イエズス・キリストとその使徒たち(しゅ いえずす・きりすとと その しとたち),すなわち,伝統(でんとう)にまで遡る(さかのぼる)ものだからです( "… is its being traceable back to Our Lord and his Apostles, in other words, Tradition." ).EMをどのように定義(ていぎ)するにしても,結局(けっきょく)はそれが伝統の一部(でんとうの いちぶ)だと四苦八苦して示す(しくはっく して しめす)ことになるのはそのためです( "That is why every EM definition is at pains to show that what is being defined was always previously part of Tradition." ).伝統は雪で覆われる以前の山(ゆきで おおわれる いぜんの やま)なのです( "It was mountain before it was covered in snow. " ). もうひとつ明確なのは( "By now it should also be clear that …" ),教皇がなにを教えるべきかを指示(しじ)するのは伝統(でんとう)であり( "… Tradition tells the Popes what to teach, …" ),その逆(ぎゃく)ではないということです( "… and not the other way round." ).ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)はこの前提に基づいて(ぜんていに もとづいて)伝統運動(うんどう)( "the Traditional movement" )を創設(そうせつ)されました( "This is the basis on which Archbishop Lefebvre founded the Traditional movement, …" ).だが,失礼(しつれい)ながら,リベラル派(りべらる は)も教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)もこの前提を理解(りかい)していません( "… yet it is this same basis which, with all due respect, liberals and sedevacantists fail to grasp." ).聖ヨハネの福音書( "the Gospel of St John" )で,私たちの主イエズス・キリスト(しゅ いえずす・きりすと)が,人間(にんげん)として,自分の教え(じぶんの おしえ)は自分自身(じしん)でなく自分の父(ちち)に根差して(ねざして)いると何度も明言(なんども めいげん)されていることに注目(ちゅうもく)してください( "Just see in the Gospel of St John how often Our Lord himself, as man, declares that what he is teaching comes not from himself but from his Father, …" ).たとえば,主は「私の教理(わたしの きょうり)は私のものでなく,私を遣(つか)わされたお方(かた)のものである」(第7章16節)( "… for instance: “My doctrine is not mine but his that sent me” (VII, 16), …" )とか,私は自ら話す(みずから はなす)のではない.父が私を遣わされ,私に命令(めいれい)をくださり,私がなにを言(い)い,なにを話(はな)すか指示(しじ)される」(第12章49節)と述(の)べておられます( "… or, “I have not spoken from out of myself; but the Father who sent me, he gave me commandment, what I should say, and what I should speak” (XII, 49)." ).もちろん,伝統がなんであるかを教会や世界に向けて話す(きょうかいや せかいに むけて はなす)のに,現世(げんせ)で教皇ほど権限を持つ者(きょうこうほど けんげん をもつもの)はほかにいません( "Of course nobody on earth is more authorized than the Pope to tell Church and world what is in Tradition, …" ).しかし,教皇は伝統に含(ふく)まれないものが伝統の中(なか)にあると教会や世界に向かって述べることはできません( "… but he cannot tell Church or world that there is in Tradition what is not in it." ).伝統の中にあるものは客観的(きゃっかん てき)で( "What is in it is objective, …" ),今(いま)では2千年の歴史(に せんねんの れきし)をもっており( "… now 2,000 years old, …" ),教皇より上の存在(うえの そんざい)です( "… it is above the Pope …" ).それは,まさしく父の命令が,キリストが人間として教えることに制限を設けた(せいげんを もうけた)ように,教皇が教皇として教えうる(きょうこうが きょうこうとして おしえうる)ことに制限を設けています( "… and it sets limits to what a Pope can teach, just as the Father’s commandment set limits to what Christ as man would teach." ).

     それなのに,リベラル派や教皇空位論者たちは教皇がEMやOUMを外れて教え(はずれて おしえ)ても無謬(むびゅう)であると,どうして言い張れる(いい はれる)のでしょうか?( "Then how can liberals and sedevacantists alike claim, in effect, that the Pope is infallible even outside of both EM and OUM ? " ) それは,両者(りょうしゃ)がともに真実より権威を過大評価(しんじつより けんいを かだい ひょうか)し,教会の権威(きょうかいの けんい)は真実の召使でなく主人(しんじつの めしつかい でなく しゅじん)だと見(み)るからです( "Because both overrate authority in relation to truth, and so they see Church authority no longer as the servant but as the master of truth." ).どうしてなのでしょうか?( "And why is that ? " ) その理由(りゆう)は彼らがいずれも,プロテスタント主義(ぷろてすたんと しゅぎ)が真実を拒み(しんじつを こばみ),フランス革命以降(ふらんす かくめい いこう)のリベラリズムが客観的真実(きゃっかんてき しんじつ)を壊(こわ)してきた近代世界の子供(きんだい せかいの こども)たちだからです( "… Because they are both children of the modern world where Protestantism defied the Truth and liberalism ever since the French Revolution has been dissolving objective truth." ).もし,客観的真実などもう存在(そんざい)しないのであれば( "And if there is no longer any objective truth, …" ),むろん権力者(けんりょくしゃ)たちはなにをしても意(い)のままでしょう( "… then of course authority can say whatever it can get away with, …" ).それは今私(いま わたくし)たちが身の回り(みの まわり)に眺めている状態(ながめて いる じょうたい)です( "… which is what we observe all around us, …" ).そして,教皇パウロ6世やフェレー司教(きょうこう ぱうろ ろくせいや ふぇれー しきょう)のような人たち( "a Paul VI or a Bishop Fellay" )がますます気まぐれで暴君的(きまぐれで ぼうくんてき)になるのを止(と)めさせるものは何一つ残って(なに ひとつ のこって)いません( "… and there is nothing left to stop a Paul VI or a Bishop Fellay from becoming more and more arbitrary and tyrannical in the process." ).

     神の御母(聖母マリア)よ,あなたの御子イエズス・キリスト(おんこ いえずす・きりすと)が人間(にんげん)として「死ぬまで,しかも十字架上の死に至るまで(しぬまで,しかも じゅうじかじょうの しに いたるまで)」従(したが)われた御父の与えし(おんちちの あたえし)超自然,自然の双方における,普遍の(ふへんの)(=カトリックの)真実と命令(ちょうしぜん,しぜんの そうほうにおける ふへんの〈=かとりっくの〉しんじつと めいれい)を,どうぞ私が愛し(あいし),理解し(りかいし),守れ(まもれ)ますよう,(神の恩寵を願い求める私の祈願〈かみの おんちょうを ねがい もとめる わたくしの きがん〉を)神にとりなし私のため必要な恩寵を神より獲得して下さい(かみに とりなし ひつような おんちょうを わたくしの ため かみより かくとくして ください)(訳注後記).( "Mother of God, obtain for me to love, discern and defend that Truth and order coming from the Father, both supernatural and natural, to which your own Son was as man subject, “unto death, even to the death of the Cross”." ).

     キリエ・エレイソン.

     客観的真実の大きな喪失
     (きゃかんてき しんじつの おおきな そうしつ)
     ( "The loss of objective truth in depth explains" )

     それが教会の教皇空位論者やリベラル派の苦悩の根源
     (それが きょうかいの きょうこう くうい ろんじゃや       
      りべらるはの くのうの こんげん)
     ( "The Church’s sedevac and liberal pains. " )


     リチャード・ウィリアムソン司教






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第6パラグラフの訳注:
「十字架の死にいたるまで」について

・当時(とうじ),「十字架に架けられた者は呪われる(じゅうじかに かけられた ものは のろわれる)」と言われていた.

・人類の罪を贖うための犠性〈じんるいの つみを あがなう ための いけにえ〉として,真の神の御独り子イエズス・キリストは十字架刑を受けられた.

・人類の罪を贖う(じんるいの つみを あがなう)ことができるのは唯一(ゆいいつ),
神の御独り子(かみの おん ひとりご)のみだからである.




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訳注を続けます.

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2014年5月25日日曜日

357 教会の無謬性 III 5/17

エレイソン・コメンツ 第357回 (2014年5月17日)


     教皇フランシスコ(きょうこう ふらんしすこ)のばかげた言動(げんどう)がいま多く(おおく)のカトリック信者(かとりっくしんじゃ)を教皇空位論(きょうこう くういろん)へ向(む)かわせています.これは危険(きけん)なことです( "The crazy words and deeds of Pope Francis are presently driving many believing Catholics towards sedevacantism, which is dangerous." ).公会議派の歴代教皇(こうかいぎはの れきだい きょうこう)は過去も今も(かこもいまも)教皇でないという考え(きょうこう でないという かんがえ)は,初め(はじめ)は一つの意見に過ぎない(ひとつのいけんにすぎない)でしょうが( "The belief that the Conciliar Popes have not been and are not Popes may begin as an opinion, …" ),それは独断に変わり(どくだんに かわり),やがて精神的な確信(せいしんてきな かくしん)になってしまうことが多いようです( "… but all too often one observes that the opinion turns into a dogma and then into a mental steel trap. " ).教皇空位論者(ろんじゃ)たちの多くは心を閉ざして(こころを とざして)しまうように私には思え(わたしには おもえ)ます( "I think the minds of many sedevacantists shut down …" ).第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)が起こした(おこした)前代未聞の危機(ぜんだいみもんのきき)が彼らのカトリック精神と心(かとりっく せいしんと こころ)( "their Catholic minds and hearts" )に苦痛を与え(くつうをあたえ)( "… because the unprecedented crisis of Vatican II has caused their Catholic minds and hearts an agony …" ),彼らは教皇空位論がその苦痛から抜け出す(ぬけだす)ための単純な解決策(たんじゅんなかいけつさく)だと考え(かんがえ)( "… which found in sedevacantism a simple solution, …" ),それ以降(いこう)その苦痛や疑問(ぎもん)をもう一度(いちど)考え直そう(かんがえ なおそう)としなくなるからだと思い(おもい)ます( "… and they have no wish to re-open the agony by re-opening the question. " ).そのため,彼らはほかの信者(しんじゃ)たちがこの単純(たんじゅん)な解決策に賛同(さんどう)し自分たちに加わる(じぶんたちにくわわる)よう積極的に説得(せっきょくてきに せっとく)し( "So they positively crusade for others to join them in their simple solution, …" ),そうするうちに,彼らすべてではありませんがその多くが結果的(けっか てき)に傲慢さや敵意(ごうまんさ や てきい)を示すようになります( "… and in so doing many of them – not all -- end up displaying an arrogance and a bitterness …" ).傲慢,敵意は真のカトリック信徒(まことの かとりっく しんと)の看板(かんばん)でも産物(さんぶつ)( "signs or fruits" )でもありません( "… which are no signs or fruits of a true Catholic." ).

     私はこれまでの「エレイソン・コメンツ」(えれいそん・こめんつ)で,歴代の公会議派教皇が真の教皇(まことの きょうこう)であると確信(かくしん)をもって主張(しゅちょう)するのを差し控えて(さしひかえて)きました( "Now these “Comments” have abstained from proclaiming with certainty that the Conciliar Popes have been true Popes, …" ).だが,私は同時(どうじ)に通常(つうじょう)の教皇空位論者による議論(ぎろん)は彼らの一部(かれらの いちぶ)が私たちに信じ込ませ(しんじ こませ よう)ようとしているほど得心(とくしん)のゆくものでもなければカトリック信徒(しんと)に拘束力を持つ(こうそくりょくを もつ)ものでもないと論(ろん)じてきました( "… but at the same time they have argued that the usual sedevacantist arguments are neither conclusive nor binding upon Catholics, as some sedevacantists would have us believe." ).教皇空位論者たちが最も重視する論点(もっとも じゅうしする ろんてん)にもう一度戻って(もういちど もどって)みましょう.これは教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)から生じる論点(しょうじる ろんてん)です( "Let us return to one of their most important arguments, which is from Papal infallibility: …" ).要点(ようてん)は,教皇は無謬である( "… Popes are infallible." ),だがリベラル派(りべらる は)は無謬でない( "But liberals are fallible, …" ),公会議派の教皇はリベラルである( "… and Conciliar Popes are liberal." ),したがって彼らは教皇でない,というものです( "Therefore they are not Popes. " ).

     これに対し,教皇が無謬(きょうこうが むびゅう)なのは彼が教会の特別教導権(きょうかいの とくべつ きょうどうけん)の定める4条件(さだめる よん じょうけん)に従って(したがって)(1) 教皇として,(2) 信仰,道徳(しんこう,どうとく)について,(3) 決定的(けっていてき)に信頼(しんらい)がおけるよう,(4) カトリック信徒すべてをまとめる意向(いこう)をもって話す(はなす)ときだけである,と反論する人(はんろんする ひと)がいるでしょう( "To this one may object that a Pope is certainly infallible only when he engages the four conditions of the Church’s Extraordinary Magisterium by teaching 1 as Pope, 2 on Faith or morals, 3 definitively, 4 so as to bind all Catholics." ).この点(てん)について,教皇空位論者たちもリベラル派の人たちも直ち(ただち)に通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)〈 "the Ordinary Universal Magisterium" 〉も無謬(むびゅう)だというのが教会の教え(きょうかいの おしえ)だから,教皇がたとえ特別教導権の枠外(とくべつ きょうどうけんの わくがい)で厳か(おごそか)に教えを説いた(おしえを といた)としても彼は常に無謬(つねに むびゅう)だと答え(こたえ)ます.すなわち ―― この論法(ろんぽう)の後半(こうはん)が彼らの弱点(かれらの じゃくてん)です―― 彼らのリベラルな公会議の教えは厳粛(げんしゅく)である( "Whereupon sedevacantists and liberals alike reply that it is Church teaching that the Ordinary Universal Magisterium is also infallible, so – and here is the weak point in their argument – whenever the Pope teaches solemnly even outside of his Extraordinary Magisterium, he must also be infallible. Now their liberal Conciliar teaching is solemn." ).だから誰(だれ)が同じ議論(おなじ ぎろん)を振り(ふり)かざすかにもよるが,私たちカトリック信徒はリベラル派か教皇空位論者か(りべらるは か きょうこう くうい ろんじゃ か)のどちらかにならなければならない,というのです( "Therefore we must become either liberals or sedevacantists, depending of course on who is wielding the same argument." ).

     だが,教会の通常普遍教導権(きょうかいの つうじょう ふつう きょうどうけん)に属する教え(ぞくする おしえ)の品質証明(ひんしつ しょうめい)となるのは教皇が特別教導権の枠外(とくべつ きょうどうけんの わくがい)で教(おし)えるときの厳粛さ(げんしゅくさ)ではなく( "But the hallmark of teaching which belongs to the Church’s Ordinary Universal Magisterium is not the solemnity with which the Pope teaches outside of the Extraordinary Magisterium, …" ),その教えの内容(おしえの ないよう)が私たちの主(しゅ)(イエズス・キリスト)(いえずす・きりすと),その弟子(でし)たち,そのすべての後継者(こうけい しゃ)たち,すなわち普遍教会(ふへん きょうかい)( “the Universal Chuarch” )の司祭たち(しさいたち)があらゆる時代(じだい),あらゆる場所(ばしょ)で教えて(おしえて)きたことと一致(いっち)するかどうかです( "… but whether what he is teaching corresponds, or not, to what Our Lord, his Apostles and virtually all their successors, the bishops of the Universal Church, have taught in all times and in all places, …" ).言い換えれば(いいかえ れば),その内容(ないよう)が伝統(でんとう)と合致(がっち)するかどうかです( "… in other words whether it corresponds to Tradition." ).だが,公会議派の教え(こうかいぎは の おしえ)(たとえば宗教の自由〈しゅうきょうの じゆう〉やエキュメニズム〈えきゅめにずむ〉)は伝統からかけ離れた(でんとう から かけ はなれた)ものです( "Now Conciliar teaching (e.g. religious liberty and ecumenism) is in rupture with Tradition." ).したがって,カトリック教徒はリベラル派や教皇空位論者になる義務(ぎむ)などありません( "Therefore Catholics today are not in fact bound to become liberals or sedevacantists." ).

     しかし,教皇空位論者たちやリベラル派の人たちは教皇の無謬性についての自分たちの勘違い(かんちがい)に固執(こしつ)します( "However, both liberals and sedevacantists cling to their misunderstanding of Papal infallibility …" ).そうする理由(りゆう)には興味(きょうみ)がないわけではありませんが,それはまた別の話(べつの はなし)です( "… for reasons that are not without interest, but that is another story. " ).いずれにせよ,彼らは簡単(かんたん)には引き下がろう(ひきさがろう)としません( "In any case they do not give up easily, …" ).彼らは別の反論(べつの はんろん)を持ち出し(もちだし)話を蒸し返し(はなしを むしかえし)ます( "… so they come back with another objection which deserves to be answered. " ).彼らが共通して言う(きょうつう して いう)のは,伝統が通常普遍教導権の品質証明だと論(ろん)じるのは悪循環(あくじゅんかん)をもたらすということです( "Both of them will say that to argue that Tradition is the hallmark of the Ordinary Magisterium is to set up a vicious circle." ).もし教会の教導権威(きょうかいの きょうどう けんい)( "the Church's teaching authority" ),すなわち教導権が現に行われ(げんに おこなわれ)ているように教会の教理を説く(きょうかいの きょうりを とく)ためにあるというのであれば( "For if the Church’s teaching authority, or Magisterium, exists to tell what is Church doctrine, as it does, …" ),どうして同時(どうじ)に伝統派教理(でんとうは きょうり)が教導権(きょうどうけん)とはなんなのかを説明(せつめい)できるのか?(というのです)( "… then how can the Traditional doctrine at the same time tell what is the Magisterium ? " ).教える者が教える内容を権威づける(おしえる ものが おしえる ないようを けんい づける)か,教える内容が教える者を権威づける(おしえる ないようが おしえる ものを けんい づけるか)かのどちらかであり( "Either the teacher authorises what is taught, or what is taught authorises the teacher, …" ),双方(そうほう)が同時(どうじ)に他方(たほう)を権威づけ(けんい づけ)あうなどできないというのです( "… but they cannot both at the same time authorise each other." ).したがって,教える内容である伝統(おしえる ないよう である でんとう)が教える側の通常普遍教導権(おしえるがわの つうじょう ふつう きょうどうけん)を権威(けんい)づけると論(ろん)ずるのは間違い(まちがい)で( "So to argue that Tradition which is taught authorises the Ordinary Magisterium which is teaching, is wrong, …" ),教皇の特別教導権による教えは無謬(きょうこうの とくべつ きょうどうけんに よる おしえは むびゅう)なのだから( "… and so the Pope is infallible not only in his Extraordinary teaching, …" ),カトリック教徒の私たち(かとりっく きょうとの わたしたち)はリベラル派か教皇空位論者(りべらるは か きょうこう くうい ろんじゃ)のどちらかにならなければならない,と彼らは結論(けつろん)づけます( "… and so we must become either liberals or sedevacantists, they conclude." ).

     来週のエレイソン・コメンツでは,そのような悪循環(あくじゅんかん)などないという点(てん)に触れる(ふれる)ことにします( "Why there is no vicious circle must wait until next week." ).リベラル派や教皇空位論者たちが無謬性(むびゅうせい)についてなぜ共通の誤りに陥る(きょうつうの あやまりに おちいる)のかと同(おな)じように興味深い(きょうみ ぶかい)ものとなるでしょう( "It is as interesting as why both sedevacantists and liberals fall into the same error on infallibility." ).

     キリエ・エレイソン.


     4条件がすべて満たされないなら,
    (よん じょうけんが すべて みたされないなら)
    ( "If four conditions are not all in play." )

     教皇たちは教えたり話したりするとき間違いを犯し得えます.
    (きょうこうたちは おしえたり はなしたり するとき まちがいを おか    し えます)
     ( "The Popes can err in what they teach or say." )


     リチャード・ウィリアムソン司教



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2014年4月12日土曜日

352 フランス旅行 4/12

エレイソン・コメンツ 第352回 (2014年4月12日)

     再び朗報(ふたたび ろうほう)をお届(とど)けします( "Good news again, …" ).今回(こんかい)はフランスからです( "… this time from France, …" ).今度(こんど)も分量(ぶんりょう)こそ少(すく)ないながら質の高い朗報(しつの たかい ろうほう)です( "… once more small in quantity but high in quality. " ).少数の(=一握りの〈ひとにぎりの〉,わずかの)善良な司祭(しょうすうの ぜんりょうな しさい)たちが共に集い(ともに つどい)( "A handful of good priests are gathering together…" ),信仰(しんこう)がルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)の示された方針に沿って守られる(しめされた ほうしんに そって まもられる)よう行動を起こして(こうどうを おこして)います( "… and taking action to make sure that the Faith will continue to be defended along the lines laid down by Archbishop Lefebvre, …" ).つまり,極右からの教皇空位論(きょくう からの きょうこう くういろん)と上からの公会議主義(うえからの こうかいぎ しゅぎ)との(=意訳・教皇空位主義の攻撃を右側から公会議主義の攻撃を ―― 〈左側ではなく〉上側から迎〈むか〉えその)隙間を縫って進む(すきまを ぬって すすむ)ということです( "… steering between sedevacantism on the right and conciliarism -- from above." ).会員を置き去り(かいいんを おきざり)にする聖ピオ十世会(せい ぴお じゅっせい かい)( SSPX )本部(ほんぶ)は好(す)きなようにさせておき( "SSPX HQ will be left to bury its followers, …" ),残(のこ)りの幸運な司祭(こううんな しさい)たちは迫害の迫撃を受ける(はくがいの はくげきを うける)次の段階に備えて(つぎの だんかいに そなえて)真の宗教(まことの しゅうきょう)で自らの立場(みずからの たちば)を強くする努力(つよくする どりょく)を続(つづ)けています( "… while a remainder of happy priests will continue to fortify themselves with the true religion for the next stage in their persecution." ).

     これは私(わたくし)が昨年秋(さくねん あき)から4回(よんかい)にわたり説教(せっきょう)のために訪(おとず)れたフランス国内各地(ふらんす こくない かくち)の施設(しせつ)で観察した状況(かんさつした じょうきょう)です( "This is what I observed on a fourth lecture tour since last autumn of centres in France …" ).どの施設(しせつ)でも,一般信徒(いっぱん しんと)たちはピオ6世(1717-1799年)からピオ12世(1876-1958年)までの間(あいだ)の歴代(れきだい)カトリック教教皇(かとりっく きょう きょうこう)が説(と)いた反自由主義教理(はん じゆうしゅぎ きょうり)に関心を示して(かんしんを しめして)います( "… where the laity are interested in the anti-liberal doctrine of the Catholic Popes between Pius VI (1717-1799) and Pius XII (1876-1958)." ).この教理はとくに新(あたら)しいものではなく,この1世紀半の期間(いっせいきはんの きかん)の初めの頃(はじめの ころ)でさえ詳しく説かれて(くわしく とかれて)いたものでした( "That doctrine was not new, even at the beginning of the century and a half over which it was elaborated." ).教会が絶えず教えて(きょうかいが たえず おしえて)きたことの中で,特定の部分(とくていの ぶぶん)に注目を新たに(ちゅうもくを あらたに)する必要が生じた(ひつようが しょうじた)のは( "It was merely that particular part of the Church's timeless teaching which needed to be refreshed from the moment …" ),15世紀に及ぶ(じゅうごせいきに およぶ)キリスト教の社会秩序(きりすと きょうの しゃかい ちつじょ)が1789年のフランス革命(ふらんす かくめい)により破壊(はかい)され奪い去られた瞬間(うばい さられた しゅんかん)からでした( "… when the Christian social order of 15 centuries was undermined and supplanted by the French Revolution of 1789. " ).

     フランス革命はフリーメーソン的自由主義(ふりーめーそんてき じゆうしゅぎ)が教会の玉座(きょうかいの ぎょくざ)(訳注1)と祭壇(きょうかいの ぎょくざと さいだん)をその地位から引きずりおろし転覆させようと狙って神に戦いを挑んだ(ちい から ひきずりおろし てんぷく させようと ねらって かみに たたかいを いどんだ)ものでした( "That Revolution was Freemasonic liberalism making war on God by seeking to overthrow throne and altar." ).

     それ以来(いらい),神の公教(=カトリック教)の諸々の玉座(かとりっく きょうの もろもろの ぎょくざ)は「民主主義( "democracy" )」(みんしゅ しゅぎ)により事実上覆(じじつじょう くつがえ)され( "Since then the Catholic thrones have been virtually overthrown by "democracy", …" ),諸カトリック教会の諸々の祭壇(しょ かとりっく きょうかいの もろもろの さいだん)は第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)( "Vatican II" )で公会議が人間の宗教(にんげんの しゅうきょう)に転向(てんこう)したことにより事実上壊された(じじつじょう こわされた)ままになってきました( "… while the Catholic altars were virtually overthrown at Vatican II by that Council's conversion to the religion of man. " ).だが,神の宗教に忠実な(かみの しゅうきょうに ちゅうじつな)ルフェーブル大司教は( "Archbishop Lefebvre however, cleaving to the religion of God, …" ),自分(じぶん)の弟子(でし)たちが自由主義世界の中(じゆうしゅぎ せかいの なか)でカトリック教の立場(たちば)をどう守(まも)るかを知(し)るため教会の反革命的教理(きょうかいの はんかくめいてき きょうり)を完全に理解(かんぜんに りかい)するよう望(のぞ)まれました( "… wished that his seminarians would be thoroughly familiar with the Church's anti-Revolutionary doctrine in order to know how to take their Catholic stand in the midst of a liberal world. " ).大司教の設立(せつりつ)した SSPX が巧(たく)みに新社会(しん しゃかい)( "the Newsociety" )に変えられる様子(かえられる ようす)を理解(りかい)する一般信徒(いっぱん しんと)たちが( "It follows that Catholic lay-folk who can see how the Archbishop's Society of St Pius X is being cunningly transformed into the Newsociety, …" ),第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)の150年前(ひゃくごじゅう ねん まえ)に出(だ)された歴代教皇の回勅(れきだい きょうこうの かいちょく)に関心を示す(かんしんを しめす)のはこのためです( "… are interested in the Popes' Encyclical Letters of those 150 years before Vatican II." ).私は4回のフランス旅行の最初の旅行期間中(さいしょの りょこう きかん ちゅう)に5か所を訪れ(ごかしょを おとずれ)ました( "On the first of my four lecture tours there were five stops." ).直近の,3月末から4月初め(ちょっきんの,さんがつ すえ から しがつ はじめ)にかけての今回の旅行(こんかいの りょこう)では9か所を訪れ(きゅうかしょを おとずれ)ました( "On the latest, between end March and early April, there were nine, …" ).これからさらにお呼(よ)びがかかりそうです( "… and there risk being more invitations." ).訪れた先々(おとずれた さきざき)で,SSPX が誤った方向(あやまった ほうこう)へ導(みちび)かれていることに目を覚ま(めを さま)されているフランスの一般信徒たちが増(ふ)えているのを知(し)りました( "There are, all the time, more French lay-folk waking up to how the Society is being misled." ) .

     悲(かな)しいかな,あまりにも多くの聖ピオ十世会の司祭はまだ誘惑の達人の魔法(ゆうわくの たつじんの まほう)にかかったまま,俗世界の夢に魅せられて我を見失っている状態(ぞく せかいの ゆめに みせられて われを みうしなっている じょうたい)です( "Alas, all too many SSPX priests are still spellbound by a master of seduction, lost in his worldly dream." ).私は今回の旅行(こんかいの りょこう)で,そのうちの何人(なんにん)かにお会(あ)いしました( "I met a few of them on this latest tour." ).彼(かれ)らは間違(まちが)いなく善良(ぜんりょう)で,司祭として立派(りっぱ)にふるまってきた人たちです( "They are no doubt good men, they have been good priests, …" ).彼らは目を開き(めを ひらき)多(おお)くのことを見(み)ます( "… they have their eyes open and see many things, …" ).だが,一度(ひとたび)その誘惑者に触れる(ゆうわくしゃに ふれる)と,その視覚が曇り(しかくが くもり),気持ち惑わされて(きもち まどわされて)しまうのです( "… but when they are exposed once more to that seducer, their vision clouds over and their will is puzzled." ).ギリシア語の動詞(ぎりしあごの どうし)「 diaballein 」は英語(えいご)の「 diabolical(ひどい)」,「 devil(悪魔〈あくま〉)」の語源(ごげん)ですが( "The Greek verb "diaballein" from which come the English words "diabolical" and "devil", …" ),「ひっくり返(かえ)す」,「混乱に陥れる(こんらんに おとし いれる)」ことを意味(いみ)します( "… means to turn upside down, to throw into confusion." ).

     私が上に述べた(うえに のべた)6名の司祭(ろくめいの しさい)たちは,このように混乱させられた司祭(こんらん させられた しさい)たちとはまったく違(ちが)います( "These confused priests contrast with the half dozen mentioned above who have seen clear and are taking action on what they see." ).彼らは長(なが)いあいだ自分(じぶん)たちのひどい指導者(しどうしゃ)たちに忠実(ちゅうじつ)であろうと努(つと)める緊張感を味わって(きんちょうかんを あじわって)きましたが,これはいまや過去(かこ)のことになっています( "The tension by which they were tortured for as long as they tried to remain loyal to diabolical leaders is a thing of the past." ).彼らは心穏やか(こころ おだやか)で,嬉々(きき)としてルフェーブル大司教の作業を続ける(さぎょうを つづける)ための計画作り(けいかく づくり)に携(たずさ)わっています( "They are serene, and happily making plans for the continuation of the Archbishop's work." ).その中(なか)の一人(ひとり)ドゥムロード神父( "Fr. de Merode" )は何年も前(なんねんも まえ)に叙階(じょかい)叙任?を受けた方ですが,自分の意志(じぶんの いし)で SSPX を離(はな)れ,すでにルルド(るるど)( "Lourdes" )に家を一軒購入(いえを いっけん こうにゅう)し,フランス南西部(なん せいぶ)にもう一軒購入(いっけん こうにゅう)しようとしています( "Fr. de Mérode, ordained many years ago, has left the SSPX of his own accord, has bought one house in Lourdes and is buying another in the Southwest of France." ).彼が購入した家(いえ)は,関心を持つ地元の人々(かんしんを もつ じもとの ひとびと)のための使徒会(しとかい)の場(ば)として,また立ち直り(たち なおり)たい場所(ばしょ)を必要(ひつよう)としている司祭たちの避難所(しさいたちの ひなんばしょ)として役立つ(やくだつ)ことでしょう( "These will act both as bases for an apostolate to many interested souls in the region, and as refuges for priests needing somewhere to recover." ).付け加える(つけくわえる)なら,私はリヨン(りよん)( "Lyon" )で自分が市内に持つスタジオ(じぶんが しないに もつ すたじお)を同(おな)じように避難場所(ひなん ばしょ)を求(もと)める司祭たちのために提供(ていきょう)している尊敬すべき女性(そんけい すべき じょせい)にお会(あ)いしました( "I can add that I met a venerable soul in Lyon who is offering a studio of hers in that city to any priest similarly looking for a roof." ).また,イングランド(いんぐらんど)のブロードステアズ(ケント州)(ぶろーどすてあず〈けんとしゅう〉)( "Broadstairs, England" )にある「抵抗( "Resistance" )」の家(「ていこう」の いえ)はすでに開設(かいせつ)され,聖職に携わる訪問者の受け入れ(せいしょくに たずさわる ほうもんしゃの うけいれ)が可能な状態(かのうな じょうたい)です( "Also the "Resistance" House in Broadstairs, England, is now open and can receive priestly visitors. " ).すでに一人(ひとり)がここに入(はい)りましたOne has already come by." ).この家(いえ)では行動の自由が保証(こうどうの じゆうが ほしょう)されています( "Discretion guaranteed. " ).

     大司教(だいしきょう)さま,捻じ曲げられた組織(ねじまげられた そしき)( SSPX )の外(そと)では
( "Outside, Archbishop, of its structure bent …" )

     あなたが意図(いと)されたように,あなたの壮大な作業(そうだいな さぎょう)が続(つづ)いています
( "… Your noble work continues, as you meant." ).


     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教




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第3パラグラフの訳注1

「"throne and altar"」 「教会の玉座と祭壇」

「フランス革命は …… 教会の王座と祭壇の転覆を狙って神に戦いを挑んだもの……」の

"throne and altar" 「教会の玉座と祭壇」の「教会の玉座」"throne" について:

→ "throne" ="Sancta Sedes 〈ラテン語〉/ Holy See 〈英語〉"

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=イエズス・キリスト(=天地の王君・牧者たる神の御独り子の教会)の王座.

=ローマ教皇(=王君であり牧者である神の御独り子キリストの代理者)の聖座.
(おうくん・ぼくしゃ たる きりすとの だいりしゃ たる ろーま きょうこう の せいざ)

= Sancta Sedes / Holy See

=ローマ司教座( Episcopalis Sedes = Episcopal See of the Bishop of Rome = Holy See )
(ろーま しきょうざ)

= Cathedra (ラテン語)/ καρέκλα (ギリシア語)

***

・一般に,「大聖堂=カテドラル」とは,

=司教( επίσκοπος 〈ギリシア〉/ episcopus〈ラテン〉/ évêque 〈仏〉/ bishop〈英〉)が

①司教区に所属する信徒に対し教導権を行使し,また,

②種々の真の神の公教(カトリック教)の秘跡を授けるミサ聖祭を

司式する際に

着任する座(=席)のある聖堂のこと.

=使徒座= Apostolic See

司教座( cathedra )が置かれている聖堂を,「司教座聖堂」「大聖堂」「バジリカ」と呼ぶ.

=司教座聖堂 / 大聖堂
〈Ecclesia cathedralis〈ラテン〉 / καθεδρικό ναό〈ギリシャ〉 / Cathedral〈英〉

***

・ローマ司教(=ローマ教皇)の司教座聖堂:

→ローマ・バチカンにある.

ローマ司教(ローマ教皇)の司教座( cathedra )はラテラノ大聖堂に置かれている.

→『至聖なる救世主の大聖堂』

=『ラテラノ大聖堂』

=『〈ラテラノの洗者〉聖ヨハネの大聖堂)』 (日本語)

=Archibasilica Sanctissimi Salvatoris et Sanctorum Ioannis Baptistae et Ioannis Evangelistae in Laterano (ラテン語・正式名称)

Papale di San Giovanni in Laterano〈伊〉

 La Basilique Saint-Jean-de-Latran 〈仏〉

Papal Archbasilica of St. John Lateran〈英〉



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2014年2月25日火曜日

345 致命的な人間化 2/22

エレイソン・コメンツ 第345回 (2014年2月22日)

     使徒聖座(=教皇職)(しと せいざ〈=きょうこう しょく〉)( "the Apostolic See" )が空位だと考える(くういだと かんがえる)一部のカトリック教徒(いちぶの かとりっく きょうと)たちは( "Some Catholics who hold that the Apostolic See is vacant …" ),リベラリズム(=自由主義)(りべらりずむ=じゆう しゅぎ)という遍在的(へんざい てき)な異端(いたん)と教皇空位論(きょうこう くうい ろん)の特定の見解(とくていの けんかい)を同列に置く(どうれつに おく)ように見(み)える最近(さいきん)のエレイソン・コメンツの内容(ないよう)に強く抗議(つよくこうぎ)しています( "… protest strongly against recent issues of these “Comments” which seem to put the universal heresy of liberalism on an equal footing with the particular opinion of sedevacantism." ).これまでの一連(いちれん)のコメンツで私(わたし)はリベラリズムの災い(わざわい)を一貫して非難(いっかん して ひなん)してきましたが( "But whereas these “Comments” constantly excoriate the plague of liberalism, …" ),最近の数回(さいきんのすうかい)では確(たし)かに誰(だれ)しもが教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)になる義務(ぎむ)はないとだけ論(ろん)じました( "… surely they have recently done no more than argue that nobody is obliged to be a sedevacantist, …" ).教皇空位論が時(とき)にはリベラリズムを抑(おさ)える除菌剤の役割(じょきんざいの やくわり)を果(は)たしていることを考(かんが)えると( "…which, considering what a sterilising trap sedevacantism proves in some cases to be, …" ),そうしたエレイソン・コメンツの立場(たちば)は確(たし)かに穏健(おんけん)すぎるように思(おも)えるでしょう( "… is surely a very moderate position to take." ).

     だが,「コメンツ」は教皇空位論(きょうこう くういろん)について,リベラリズムと戦う(たたかう)その努力(どりょく)は称賛に値する(しょうさんに あたい する)が,そのための手段(しゅだん)としては,贔屓目に見ても(ひいきめ に みても)物足りない(ものたりない)と見(み)ています( "However, the “Comments” do hold that sedevacantism, while admirable as an effort to combat liberalism, is at best an inadequate means of doing so, …" ).その理由(りゆう)は,教皇空位論が教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)を誇張(こちょう)するという根本的な間違い(こんぽん てきな まちがい)のひとつをリベラル派(りべらる は)と共有(きょうゆう)しているからです( "… because it shares with liberals one of their basic errors, namely the exaggeration of papal infallibility." ).この間違いを深く探る(ふかく さぐる)と,私たちは今日(こんにち)教会が直面する未曾有の危機(きょうかいが ちょくめんする みぞう の きき)の核心(かくしん)にたどり着きます.ひどく退屈(たいくつ)し気分を悪く(きぶんをわるく)された読者の皆さん(どくしゃの みなさん)にはお詫び(おわび)するしかありませんが,コメンツがこの問題(もんだい)に拘る(こだわ る)のはそのためです( "In its full depth this error takes us to the heart of today’s unprecedented crisis of the Church, which is why the “Comments” will insist on the question, while begging pardon of any readers unduly bored or offended." ).危機(きき)に瀕(ひん)しているのは教会全体(きょうかいぜんたい)であり,教会メンバー個々人(きょうかいめんばーここじん)の感情(かんじょう)ではないのです( "The whole Church is at stake, and not just the sensibilities of these or those of its members." ).

     間違いの核心(まちがいの かくしん)は,人類(じんるい)が過去700年間(かこ ななひゃく ねんかん)にわたり神,神の御独り子(かみの おんひとりご),そしてその教会に対し(きょうかいに たいし)ゆっくりながら着実(ちゃくじつ)に背(そむ)いてきたことです( "That full depth is mankind’s slow but steady turning away over the last 700 years from God, from his Son and from his Church." ).中世の絶頂期(ちゅうせいの ぜっちょうき)には,カトリック教徒(きょうと)たちは汚れのない(けがれの ない)強い信仰を持ち(つよい しんこうを もち),客観的な神(きゃっかんてきな かみ)とその矛盾のない真実(むじゅんのない しんじつ)(=真理〈しんり〉)が唯一無二(ゆいいつむに)であることを理解(りかい)していました( "At the height of the Middle Ages Catholics had a clear and strong faith, grasping the oneness and exclusivity of the objective God and his non-contradictory Truth." ).ダンテはその著書(ちょしょ) 「神曲(しんきょく)」の地獄編(じごくへん)  で教皇(きょうこう)たちに触(ふ)れることになんら問題(もんだい)を感(かん)じませんでした( "Dante had no problem putting Popes in his Inferno." ).たが.数世紀の時(すうせいきの とき)が経つ(たつ)につれ,人間(にんげん)は次第(しだい)に物事の中心(ものごとの ちゅうしん)に自(みずか)らを置(お)くようになり( "But as down the centuries man put himself more and more at the centre of things, …" ),神(かみ)はあらゆる生き物(いきもの)に対(たい)する絶対的な超越(ぜったいてきな ちょうえつ)を失(うしな)い( "… so God lost his absolute transcendence above all creatures, …" ),真実はますます神の権威(かみの けんい)でなく人間の権威(にんげんの けんい)との対比(たいひ)で理解(りかい)されるようになりました( "… and truth became more and more relative, no longer to God’s authority but instead to man’s. " ).

     教会内部(きょうかい ないぶ)について見(み)るなら,たとえばロヨラの聖イグナチオ(ろよらの せい いぐなちお)( "St Ignatius of Loyola" )の有名な著書(ゆうめいな ちょしょ) 「精神修養(せいしん しゅうよう)」  ( "the Spiritual Exercises " )(訳注・= 「霊操(れいそう)」 )の中(なか)にある17(じゅうなな,じゅうしち)の「教会と共に考えるための法則」(きょうかいと ともに かんがえる ための ほうそく)( "Rules for thinking with the Church" )の3番目の法則(さんばんめの ほうそく)をご覧ください( "Within the Church, take for example the 13th of the 17 “Rules for thinking with the Church” from St Ignatius of Loyola’s famous book of the Spiritual Exercises, …" ).これは著されて以来(あらわされて いらい)ずっと,数(かぞ)えきれないほどの歴代教皇(れきだい きょうこう)が称賛(しょうさん)し( "… praised by countless Popes ever since, …" ),しかも間違(まちが)いなく数百万人の霊魂(すうひゃくまんにん の れいこん)を救済(きゅうさい)するのに役立(やくだ)った法則(ほうそく)です( "… and no doubt responsible for helping to save millions of souls." ).イグナチオは 「すべてのことについて正(ただ)しくあるためには,私たちは 聖職階級制教会(せいしょく かいきゅうせい きょうかい)( "the Hierarchical Church" )がそう決(き)めたなら,自分(じぶん)に白(しろ)と見(み)えるものでも黒(くろ)であると常(つね)に考(かんが)えるべきです」 と書(か)いています( "Ignatius writes: “To be right in everything, we ought always to hold that the white which I see, is black, if the Hierarchical Church so decides it.” " ).このような立場(たちば)は短期的(たんき てき)には聖職者(せいしょくしゃ)たちの権威(けんい)を支(ささ)えたかもしれませんが( "Such a position might support the churchmen’s authority in the short run, …" ),長期的(ちょうき てき)にはその権威(けんい)を真実(しんじつ)から引き離す(ひきはなす)ひどいリスク(りすく)を犯(おか)すことにならなかったでしょうか?( "… but did it not run a serious risk of detaching it from truth in the long run ? " )

     事実(じじつ),19世紀末(じゅうきゅうせいき まつ)までにリベラリズムがあまりにも強(つよ)くなってしまったため,教会(きょうかい)は全力(ぜんりょく)で活動(かつどう)するためには1870年(せん はっぴゃく はちじゅう ねん)に教導権の定義(きょうどうけんの ていぎ)を出(だ)し,自らの権威(みずからの けんい)を支(ささ)えざるを得(え)なくなりました( "Indeed by the late 19th century liberalism had become so strong that the Church had to support its own authority by the Definition in 1870 of its Magisterium when operating at full power, …" ).これは,つまり,教会全体を結束させるため(きょうかい ぜんたいを けっそく させるため)教皇(きょうこう)が信仰もしくは倫理の要点(しんこう もしくは りんりの ようてん)を定める(さだめる)ということです( "… namely whenever 1) a Pope 2) defines 3) a point of Faith or morals 4) so as to bind the whole Church." ).(訳注後記) だが,それ以来(いらい)あまりにも人間中心(にんげん ちゅうしん)に考(かんが)えるようになってきたため,多く(おおく)のカトリック信徒(しんと)たちが( "But thinking too humanly since then, too many Catholics, …" )教皇の特別教導権(きょうこうの とくべつ きょうどうけん)を神にまた教会の通常教導権の変遷することのない真実(=真理)(かみ および きょうかいの つうじょう きょうどうけんのへんせんすることのないしんり〈=しんじつ〉)に関連付ける(かんれん づける)代(か)わりに( "… instead of relating this Extraordinary Magisterium to God and to the unchanging truth of the Church’s Ordinary Magisterium, …" ),神御一人から由来(かみ おひとり から ゆらい)し,神のみに属する(ぞくする)無謬性(むびゅうせい)を教皇の人間性(きょうこうの にんげんせい)に与(あた)えるようになりました( "… have tended to lend to the human person of the Pope an infallibility coming from, and belonging to, God alone." ).この人間化プロセス(にんげんか ぷろせす)( “humanising process” )が徐々(じょじょ)に(教皇の)無謬性(むびゅうせい)を生み出し(うみだし),それが「尊厳(そんげん)なる通常教導権(つうじょう きょうどうけん)」の名(な)のもとに教会の伝統(きょうかいの でんとう)を再生(さいせい)できるとする教皇パウロ6世(きょうこう ぱうろ ろくせい)の非常識な主張(ひじょうしきな しゅちょう)へと半ば必然的(なかば ひつぜんてき)につながりました( "This humanising process generated a creeping infallibility which almost inevitably resulted in the preposterous claim of Paul VI to be able to remould the Church’s Tradition in the name of a “Solemn Ordinary Magisterium”." ).カトリック信徒(しんと)たちの過半数(かはんすう)は教皇(きょうこう)がその報いを受ける(むくいを うける)ことなしに済ます(すます)のを認め(みとめ),今日に至る(こんにちに いたる)まで多くの信徒たち(おおくの しんと たち)は歴代公会議派教皇(れきだい こうかいぎは きょうこう)に従(したが)い日々(ひび)リベラル派(りべらる は)になってきています( "The great majority of Catholics allowed him to get away with it, and to this day a mass of them are becoming day by day liberals as they follow the Conciliar Popes, …" ).一方(いっぽう)で,少数派(しょうすう は)のカトリック信徒(しんと)たちは公会議(こうかいぎ)のばかげた言動(げんどう)( “the Conciliar nonsense” )に責任のある者(せきにんの あるもの)が教皇になるなどあり得ない(ありえない)と反発(はんぱつ)せざるをえない状況(じょうきょう)に置(お)かれています( "… while a small minority of Catholics are driven to denying that those responsible for the Conciliar nonsense can be Popes at all." ). (訳注・直訳〈意訳〉は →「(1)ローマ教皇が( "1) a Pope" )(2)定義〈ていぎ〉するところによる( "2) defines" )(3)信仰〈しんこう〉あるいは諸倫理〈しょ りんり〉の要点〈ようてん〉( "3) a point of Faith or morals" )(4)に従う〈したがう〉ことで教会全体が結束〈きょうかい ぜんたいが けっそく〉するようにする( " 4) so as to bind the whole Church.」 〈 "… namely whenever 1) a Pope 2) defines 3) a point of Faith or morals 4) so as to bind the whole Church." 〉)

     簡潔に言えば(かんけつに いえば)( "In brief, …" ),私(わたし)は個人的(こじんてき)に多くの教皇空位論者(おおくの きょうこう くうい ろんじゃ)に尊敬の念(そんけいの ねん)を抱いて(いだいて)います( "…I personally have respect for many sedevacantists, …" ).ただし,それは彼(かれ)らが教会を信じ(きょうかいを しんじ),教会が直面(ちょくめん)する非常に深刻な問題の解決(ひじょうに しんこくな もんだいの かいけつ)に懸命に取り組む(けんめいに とりくむ)という限(かぎ)りにおいてです( "… insofar as they believe in the Church and are desperate for a solution to an infinitely serious problem of the Church.," ).だが,私の考え(わたしの かんがえ)では,彼らはもっと高く深い(たかく ふかい)ところ ― すなわち神御自身(かみ ごじしん)の無限の高さ,深さ(むげんの たかさ,ふかさ)を見る必要(みる ひつよう)があります( "… but in my opinion they need to look higher and deeper – the infinite height and depth of God himself." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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2014年2月16日日曜日

344 教会の無謬性 II 2/15

エレイソン・コメンツ 第344回 (2014年2月15日)

     教会の無謬性(きょうかいの むびゅうせい)については,とくに1870年に出された教皇無謬性(きょうこう むびゅうせい)の定義(ていぎ)から(誤って)生じる錯覚を正す(〈あやまって〉しょうじる さっかくを ただす)ため,もっと多くのことを語る必要(おおおくのことを かたる ひつよう)があります( "Much needs to be said about the Church’s infallibility, especially to correct illusions arising (by mistake) from the Definition of Papal infallibility in 1870." ).たとえば,今日,教皇不在論者(きょうこう ふざい ろんじゃ)たち(=教皇空位論者たち)とリベラル派(=自由主義派)の人たち( "sedevacantists and liberals" )はそれぞれの立場が正反対(たちばが せいはんたい)だと考えて(かんがえて)いますが( "Today for instance sedevacantists and liberals think that their positions are wholly opposed, …" ),しばし立ち止(たちど)まって,実は両者が同じ(じつは りょうしゃが おなじ)ように考えていることに気(き)づくことはないでのしょうか?( "… but do they stop for a moment to see how similarly they think ? " )――多数派の立場(たすうはの たちば):教皇は無謬である( "…Major: Popes are infallible. …" ).少数派の立場(しょうすうはの たちば):公会議派の歴代教皇(こうかいぎはの れきだい きょうこう)はリベラルである( "…Minor: Conciliar Popes are liberal. …" ).リベラル派の結論(けつろん):私たちはリベラルにならなければならない( "…Liberal Conclusion: we must become liberal. …" ).教皇不在論者の結論:歴代公会議派教皇たちは教皇たりえない( "…Sedevacantist Conclusion: they cannot be Popes." ).ここでの誤(あやま)りは論法(ろんぽう)にあるのでもなければ,少数派意見(しょうすう いけん)にあるのでもありません( "The error is neither in the logic, nor in the Minor." ).誤りは多数意見(たすう いけん)の無謬性(むびゅう せい)に関(かん)する両者の誤解(りょうしゃの ごかい)にあるのです( "It can only be in a misunderstanding on both their parts of infallibility in the Major." ).繰り返(くりかえ)して言いますが,現代人(げんだいじん)は真実より権威を優先(しんじつより けんいを ゆうせん)しています( "Once again, modern men put authority above truth." ).(訳注後記1)

     永遠の神(えいえんの かみ)は真理(しんり)(=真実〈しんじつ〉)そのものであり絶対的に無謬(ぜったいてきに むびゅう)です( "Eternal God is Truth itself, absolutely infallible." ).神は創造期(そうぞう き)に,人の姿(=肉体)をとられた自(みずか)らの御独子(おん ひとりご)( "his Incarnate Son" )(=神の御子イエズス・キリスト)を通(とお)して( "In created time, through his Incarnate Son, …" ),人々の霊魂を救う(ひとびとの れいこんを すくう)ための一つの教理(きょうり)とともに御自身の教会(ごじしんの きょうかい)を創設(そうせつ)されました( "… he instituted his Church with a doctrine for the salvation of human souls." )(訳注後記2).この教理(きょうり)は神が与えた(かみが あたえた)ものですから誤(あやま)りなどあり得(え)ないものです( "Coming from him that doctrine could only be inerrant, …" ).だが,神が教理を託(たく)した聖職者(せいしょく しゃ)たちがそれについて誤りを犯さない(あやまりを おかさない)ようにするため( "… but to keep it free from the errors of the human churchmen to whom he would entrust it, …" ),神の御子は聖職者たちに「真理の霊」(しんりの れい)(=真実の霊〈しんじつ〉のれい)( "spirit of truth" )が彼らを「とこしえに」( "for ever" )導(みちび)くと約束(やくそく)しました(新約聖書・聖ヨハネによる聖福音書:第14章16節)( "… his Son promised them the “spirit of truth” to guide them “for ever” (Jn. XIV, 16)." )(訳注・とこしえ=永遠〈えいえん〉).そのような保証(ほしょう)がなかったとすれば( "For indeed without some such guarantee, …" ),神はどうして人間に対し,地獄に陥れる条件(じごくに おとしいれる じょうけん)を示(しめ)して( "… how could God require of men, on pain of eternal damnation, …" ),(それを避〈さ〉けるためには)神の御子,神の教理また神の教会(かみの おんこ,かみの きょうり また かみの きょうかい)を信じるよう求める(しんじるよう もとめる)ことができたでしょうか(新約聖書・聖マルコによる聖福音書:第16章6節)?( "… to believe in his Son, in his doctrine and in his Church (Mk.XVI, 16) ? " )

     しかも,神は聖職者たちに与えた過ちを犯す自由意思(あやまちを おかす じゆういし)を彼らから取り上(とりあ)げていません( "Yet even from churchmen God will not take away that free-will to err which he gave them." ).そして,神は聖職者たちに対して自ら説く(みずから とく)真理(しんり)が人々(ひとびと)に届(とど)かないようにしない限(かぎ)り,その自由を好きなだけ広げる(じゆうを すきなだけ ひろげる)ことを許(ゆる)しています( "And he will allow that freedom to go as far as they wish, short of their making his Truth inaccessible to men." ).その許容範囲(きょよう はんい)はかなり広(ひろ)く( "That reaches far, …" ),そこには大いに欠陥のある(おおいに けっかんの ある)多数の教皇(たすうの きょうこう)たちも入(はい)ります( "… and it includes a number of highly defective Popes, …" ).だが,人間の邪悪さ(にんげんの じゃあくさ)にもかかわらず,神がお許しになる範囲はさらに広いものです(旧約聖書・預言者イザヤの預言書:第59章1,2節)( "… but God’s reach is still farther, despite the wickedness of men (Isaiah LIX, 1,2)." ).第二バチカン公会議を例(れい)にとるなら( "At Vatican II for instance, …" ),教会が犯した誤り(きょうかいが おかした あやまり)はひどいものでしたが( "… Church error went a long way, …" ),それでも神は自らの無謬(みずからの むびゅう)に基(もと)づく誤りなき真理(あやまりなき しんり)を人々に示す教会の機能(きょうかいの きのう)を完全に(かんぜんに)だめなものにはしませんでした( "… without however God’s allowing his Church to be wholly defectible in its presentation to men of the inerrant Truth coming from his own infallibility." ).公会議派教皇たちでさえ公会議の諸々の誤りとともに多くのカトリック教の真実を説いてきています( "Even the Conciliar Popes have told many Catholic truths alongside their Conciliar errors." ).

     だが,ありふれた人間である私がどうすれば公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちの説く真理(しんり)と誤り(あやまり)を見分(みわ)けられるでしょうか?( "But how then can I, a simple soul, tell the difference between their truths and their errors ? " )まず第一(だいいち)に,私(わたくし)が正しい心(ただしい こころ)をもって本当(ほんとう)に神を求めれば(かみを もとめれば)( "Firstly, if I am truly looking for God with an upright heart, …" ),聖書(せいしょ)が多くの箇所(おおくの かしょ)で述(の)べているように,神は私を神の御元に導いてくださる(かみは わたくしを かみの みもとに みちびいてくださる)でしょう( "… he will guide me to him, as the Bible says in many places." ).次(つぎ)に,神の教理(かみの きょうり)は神と同じように不変(かみと おなじように ふへん)ですから( "unchangeable as God" ) ( "And secondly, God’s doctrine being as unchangeable as God, …" ),それは(ほぼ)すべての聖職者(せいしょくしゃ)たちが,(ほぼ)すべての場所(ばしょ)で,(ほぼ)すべての時代(じだい)に説(と)き,伝(つた)えてきた教理(きょうり)であるに違(ちが)いありません( "it must be the doctrine that I find (nearly) all his churchmen to have taught and handed down in (nearly) all places and at (nearly) all times, …" ).それは(真の神から授かった)カトリックの(訳注・=宇宙〈うちゅう〉・地上〈ちじょう〉の万物の存在〈ばんぶつの そんざい〉に普遍〈ふへん〉の)教え(おしえ)の伝統(でんとう)( "Tradition" )として最も広く知られている(もっとも ひろく しられている)ものです( "… best known as Tradition." ).教会の開設(きょうかいの かいせつ)以来(いらい),その教理(きょうり)の宣教の継承(せんきょうの けいしょう)( "… that handing down" )は私たちの主(イエズス・キリスト)自らの教え(みずからの おしえ)の最も確かな試金石(もっとも たしかな しきんせき)でした( "… that handing down has been the surest test of what Our Lord himself taught." ).古来(こらい),誤りのない伝統(あやまりの ない でんとう)は数百万人(すうひゃくまん にん)の聖職者たちが築(きず)いてきたものです( "Down the ages inerrant Tradition has been the work of millions of churchmen." ).それは,無謬の聖霊( "the infallible Holy Ghost" )の導き(むびゅうの せいれいの みちびき)とともに神が,教皇たちだけでなく,教会全体(きょうかい ぜんたい)( "his Church as a whole" )に授(さず)けられたものです( "It has been that for which God endowed his Church as a whole, and not just the Popes, with the guidance of the infallible Holy Ghost." ).

     教会の無謬(きょうかいの むびゅう)をいわばケーキにたとえるなら,諸教皇の無謬性の厳かな諸定義(しょきょうこうの むびゅうせいの おごそかな しょていぎ)は,教会の無謬性の頂(きょうかいの むびゅうせいの いただき)に載(の)っている単なる砂糖衣(たんなる さとうい)( "the icing" )にすぎません( "Here is, so to speak, the cake of Church infallibility upon which the Popes’ solemn Definitions are merely the icing, …" ).それは貴重(きちょう)で必要(ひつよう)なものですが( "… precious and necessary, the peak of the Church’s infallibility, …" ),決してケーキの山の本体(けーきの やまの ほんたい)ではありません( "… but not its mountain bulk." ).まずはじめに,教皇の特別教導権による諸定義(きょうこうの とくべつきょうどうけん による しょていぎ)( "definitions by the Popes' Extraordinary Magisterium" )は1870年からだけでなく教会開設(きょうかい かいせつ)いらい存在(そんざい)してきたこと,それはカトリック教の伝統(でんとう)(以下,「伝統」と記す〈しるす〉)を真実なもの( "true" )にするためでなく,単(たん)に伝統に属することと属しないこと(でんとうに ぞくすること と ぞくしないこと)を間違いをする人々(まちがいをする ひとびと)があやふやにするたびに確かなもの( "certain" )にするために存在してきた(たしかなもの にするために そんざいしてきた)ことに注目(ちゅうもく)してください( "Notice firstly that Definitions by the Popes’ Extraordinary Magisterium existed not only from 1870 but from the beginning of the Church, and they existed not to make Tradition true but merely to make certain what belonged to Tradition and what did not, whenever the erring of men had made that uncertain." ).ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )は真実を感じ取り(しんじつを かんじとり),ひどい誤りを犯す教皇(あやまりを おかす きょうこう)たちでなく誤りのない伝統に従う(あやまりの ない でんとうに したがう)という正しい選択(ただしい せんたく)をしました( "Sensing truth, Archbishop Lefebvre rightly preferred inerrant Tradition to gravely erring Popes." ).彼の後継者(こうけいしゃ)たちは,真実に気づかない(しんじつに きづかない)すべての現代(げんだい)リベラル派(りべらるは)の人々と同じようにルフェーブル大司教を決(けっ)して理解(りかい)しようとせず,誤りのない伝統(あやまりのない でんとう)でなく誤りを犯す教皇(あやまりを おかす きょうこう)たちを選ぶ道(えらぶ みち)をたどろうとしています( "Never having understood him, like all modern liberals not sensing truth, his successors are in the process of preferring erring Popes to inerrant Tradition." ).教皇不在論者たちは真実を過少評価し(しんじつを かしょう ひょうか し)教皇たちを過大評価(きょうこうたちを かだい ひょうか)して,誤りを犯す教皇(あやまりを おかす きょうこう)たちを全面的に否定(ぜんめんてきに ひてい)しています.彼らは教会から完全に離れる(きょうかいから かんぜんに はなれる)気持ち(きもち)になるかもしれません( "Underestimating truth and overestimating the Popes, sedevacantists wholly repudiate the erring Popes and can be tempted to quit the Church altogether. " ).主よ,憐れみたまえ!(しゅよ,あわれみたまえ)( "Lord, have mercy ! " )

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注と引用された聖書の箇所を追補いたします.

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2014年2月12日水曜日

343 教会の無謬性 - I 2/8

エレイソン・コメンツ 第343回 (2014年2月8日)

     おそらく教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)たちにとっての主要問題(しゅよう もんだい)は教会の無謬性(きょうかい の むびゅう せい)でしょう(公会議派の教皇(きょうこう)たちはひどく誤(あやま)っているのに,どうして彼らが教皇たりうるのだろうか?〈と,疑(うたが)いたくなるでしょう?〉)( "Probably sedevacantists’ main problem is the Church’s infallibility (Conciliar Popes are horribly fallible, so how can they be Popes ?)." ).しかしながら,無謬性は単(たん)に教皇空位論(きょうこう くうい ろん)をどうしたら弱(よわ)めうるかというだけの視点(してん)から見る必要(みる ひつよう)はありません( "However, infallibility needs to be looked at for more than just to alleviate sedevacantism." ).真実(しんり)より権威(けんい)を重視(じゅうし)する現代(げんだい)の問題(もんだい)のほうが大問題(だい もんだい)です( "The modern problem of preferring authority to truth is vast." ). (訳注・「教皇空位」の意味…ローマ教皇の地位(ちい)は存在(そんざい)するが,空席(くうせき)である(= "vacant" ),ということ.)

     「無謬性(むびゅう せい)」とは誤り(あやまり)を犯(おか)さない,誤りに陥(おちい)らないという意味(いみ)です( " “Infallibility” means inability to err, or to fall into error. " ).第一バチカン公会議は1870年,教皇は4つの条件(よっつの じょうけん)を満(み)たす場合,過ちを犯しえないと定義(ていぎ)づけしました: ( "The First Vatican Council defined in 1870 that the pope cannot err when four conditions are present: …" )その条件によれば教皇は以下の通りにすべきです( "… he must …" ).すなわち,(1) 教皇(きょうこう)として,(2) 信仰,道徳(しんこう,どうとく)について,(3) 決定的(けっていてき)に信頼(しんらい)がおけるよう,また(4) 教会全体(きょうかい ぜんたい)をまとめる明確な意図(めいかくな いと)をもって話(はな)さなければならない,の4点です( "… (1) be speaking as Pope, (2) on a question of Faith or morals, (3) in a definitive fashion, and (4) with the clear intention of binding the whole Church." ).そうした教皇の教えはいずれも彼の持つ「特別( "Extraordinary" )教導権と称(しょう)するものに所属(しょぞく)するものです( "Any such teaching belongs to what is called his “Extraordinary” Magisterium, …" ).なぜなら,教皇は一方(いっぽう)で自(みずか)ら4条件に従事(じゅうじ)することはめったにありませんし( "…because on the one hand Popes rarely engage all four conditions, …" ),他方(たほう)で彼は誤りえない,間違(まちが)いたりえない多くの真実(おおくの しんじつ)を教(おし)えるからです( "…and on the other hand he teaches many other truths which cannot err or be wrong …" ).間違いたりえないというのは,彼が教(おし)える多くの真実とは常(つね)に教会(きょうかい)によって教えられてきたことであり( "… because they have always been taught by the Church, …" ),したがって,それは第一バチカン公会議がいう教会の「通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)( "Ordinary Universal Magisterius" )に属(ぞく)するもので( "… and therefore they belong to what Vatican I called the Church’s “Ordinary Universal Magisterium”, …" ),無謬(むびゅう)のものだからです( "…also infallible." ).ここで問題(もんだい)となるのは、教皇の特別教導権(とくべつ きょうどうけん)が教会の通常教導権(つうじょう きょうどうけん)とどう関連(かんれん)するか? です( "The question is, how does the Pope’s Extraordinary Magisterium relate to the Church’s Ordinary Magisterium ? " ).

     母なる教会(ははなる きょうかい)( "Mother Church" )は,最後の使徒(さいごの しと)の死去当時(さいごの しとのしきょ とうじ),つまり紀元(きげん)105年には,信仰預託(しんこう よたく)すなわち公式黙示(こうしき もくし)("the Deposit of Faith, or public Revelation")は完全無欠(かんぜん むけつ)だったと教えています( "Mother Church teaches that the Deposit of Faith, or public Revelation, was complete at the death of the last Apostle alive, say, around 105 AD." ).それ以来(いらい),その預託(よたく)すなわち啓示された諸々の真実の集合体(けいじ された もろもろの しんじつ の しゅうごうたい)( "body of revealed truths" )にさらなる真実(しんじつ)は加(くわ)えられてきませんでした.言い換(いいか)えれば,真実の追加(しんじつ の ついか)など不可能(ふかのう)なことでした( "Since then no further truth has been added, or could be added, to that Deposit, or body of revealed truths." ).そうであるなら,「特別(とくべつ)」定義(ていぎ)が預託に加えうる真実(よたく に くわえうる しんじつ)などひとかけらもありません( "Then no “extraordinary” definition can add one iota of truth to that Deposit, …" ).加(くわ)えるものがあるとすれば,預託(よたく)にすでに含(ふく)まれている真実(しんじつ)の一部(いちぶ)に,信徒(しんと)のために,確実性(かくじつ せい)( "certainty" )を与(あた)えることくらいでしょう( "… it only adds, for the sake of believers, certainty to some truth already belonging to the Deposit, …" ).だが,預託に含まれる真実の中身(よたくに ふくまれる しんじつ の なかみ)は前(まえ)もって十分(じゅうぶん)に明確(めいかく)にされていません( "… but whose belonging had not been clear enough beforehand." ).4つの序列(じょれつ)のうち,最初(さいしょ)にくるのは,人心(じんしん)に頼(たよ)らない,客観的事実(=現実)(きゃっかんてき じじつ 〈=げんじつ〉)( "objective REALTY" )です( "In a fourfold order comes firstly, an objective REALITY, independent of any human mind, …" ).たとえば,聖母(せいぼ)は原罪(げんざい)なくして懐胎(かいたい)された( "having been conceived without original sin" )というような歴史的事実(=現実)(れきしてき じじつ〈=げんじつ〉)です( "…such as the historical fact of the Mother of God’s having been conceived without original sin." ).次に来る(つぎに くる)のは,その事実(=現実)に従う(その じじつ〈=げんじつ〉に したがう)心の中の(こころの なかの)真実(しんじつ)( "TRUTH" )です( "Secondly comes TRUTH in any mind conforming itself to that reality." ).ようやく3番目に来るのが,その真実(しんじつ)を定(さだ)めるために教皇が4条件を満たした時(みたした とき)の無謬(むびゅう)の定義づけ(ていぎ づけ)( "infallible DEFINITION" )です( "Only thirdly comes an infallible DEFINITION when a Pope engages all four conditions to define that truth." ).そして,4番目がその真実について信徒(しんと)のために与(あた)えられる確実性(かくじつ せい)( "CERTAINTY" )です( "And fourthly arises from that definition CERTAINTY for believers as to that truth." ).このように,事実(=現実)が真実を生み出す(じじつ〈=げんじつ〉が しんじつを うみだす)のに対(たい)し( "Thus whereas reality generates the truth, …" ),ある特定の一定義づけ(あるとくていの いち ていぎづけ)は単(たん)にその真実(しんじつ)に確実性(かくじつ せい)を与(あた)えるだけにすぎません( "… a Definition merely creates certainty as to that truth." ).

     しかし,事実(=現実)とそこから生まれる真実(じじつ〈=げんじつ〉と そこから うまれる しんじつ)は通常教導権に所属(つうじょうきょうどうけん に  しょぞく)するものです.( "But the reality and its truth already belonged to the Ordinary Magisterium, …" )なぜなら,教皇(きょうこう)が信仰の預託(しんこう の よたく)の枠外(わくがい)にある真実(しんじつ)を誤(あやま)りないと定義(ていぎ)するなど問題(もんだい)にならないからです( "… because there is no question of any Pope defining infallibly a truth outside of the Deposit of Faith." ).したがって,尻尾は犬に(しっぽは いぬに)ついているのであって,犬が尻尾に(いぬが しっぽに)ついているのではないと同(おな)じように特別教導権は通常教導権に対し従(とくべつきょうどうけんは つうじょうきょうどうけんに たいし じゅう)なのです!( "Therefore the Ordinary Magisterium is to the Extraordinary Magisterium as dog is to tail, and not as tail to dog ! " ) 問題は1870年の定義づけ(ていぎづけ)が特別(とくべつ)教導権に権威を持たせた(けんいを もたせた)ため( "The problem is that the Definitiom of 1870 gave such prestige to the Extraordinary Magisterium that the Ordinary Magisterium began to pale in comparison, …" ),結果(けっか)として,通常(つうじょう)教導権の重要性(じゅうようせい)が下がって(さがって)しまい,カトリック信徒たちが神学者(しんがく しゃ)たちも含(ふく)めて,通常教導権の無謬性(つうじょうきょうどうけん の むびゅうせい)は特別教導権の無謬性(とくべつきょうどうけん の むびゅうせい) と同等だと躍起となってでっち上げた(と どうとうだ と やっきとなって でっちあげた)のです( "… even theologians, scratch around to fabricate for it an infallibility like that of the Extraordinary Magisterium." ).だが,これは愚行(ぐこう)です( "But that is foolishness." ).特別教導権(とくべつ きょうどうけん)は通常教導権を前提(ぜんてい)としたものであり( "The Extraordinary presupposes the Ordinary Magisterium, …" ),(2)の通常教導権によってすでに教えられている真実(おしえられている しんじつ)に(4)の確実性を与える(かくじつせいを あたえる)だけのために存在(そんざい)しているにすぎません( "… existing only to give certainty (4) to a truth (2) already taught by the Ordinary Magisterium." ).

     この点(てん)を雪に覆われた山(ゆきに おおわれた やま)を例(れい)にして説明(せつめい)しましょう( "Let the point be illustrated from a snow-capped mountain." ).山は雪がなくても山(やまは ゆきがなくても やま)であり,せいぜい雪があればない時(とき)より目立(めだ)つといった程度(ていど)です( "The mountain in no way depends on the snow, except for it to be made even more visible than it already is." ).これに対(たい)し,雪(ゆき)は山の上(やまの うえ)にとどまるには山に全面的に依存(ぜんめんてきに いぞん)しなければなりません( "On the contrary the snow depends completely on the mountain to be where it, the snow, is." ).これと同じように,特別教導権(とくべつ きょうどうけん)は通常教導権(つうじょう きょうどうけん)をよりはっきりさせ,確実に見える(かくじつに みえる)ようにすること以上(いじょう)のことをしません( "Similarly the Extraordinary Magisterium does no more for the Ordinary Magisterium than to make it more clearly or certainly visible." ).冬が近(ふゆが ちか)づくにつれ山の雪線(やまの せっせん)は下へ降りて(したへ おりて)きます( "As winter closes in, so the snowline descends." ).現代(げんだい)のように愛( "charity" )が冷める(あいが さめる)につれ( "As charity grows cold in modern times, …" ),特別教導権の定義(とくべつきょうどうけん の ていぎ)を膨(ふく)らませることが必要(ひつよう)になるかもしれません( "… so more definitions of the Extraordinary Magisterium may become necessary, …" ).だが,そのようなことをしても,教会の教導権(きょうかいの きょうどうけん)を完全(かんぜん)なものにすることにはならないでしょう( "… but that does not make them the perfection of the Church’s Magisterium." ).むしろ逆に,定義を増やす(ていぎを ふやす)ことは信徒(しんと)の信仰についての諸々の真実(しんこうに ついての もろもろの しんじつ)に対(たい)する理解の弱さ(りかいの よわさ)を示(しめ)すだけでしょう( "On the contrary, they signal a weakness of believers’ grasp of the truths of their Faith." ).人は健康(けんこう)なほど必要(ひつよう)とする薬(くすり)は少(すく)なくて済(す)みます( "The healthier a man is, the fewer pills he needs." ).来週(らいしゅう)のエレイソン・コメンツでは,今週(こんしゅう)述(の)べたことが教皇空位論(きょうこう くうい ろん)と聖ピオ十世会( "SSPX" )の現在の危機(げんざいの きき)にどう当(あ)てはまるかを考(かんが)えてみます( "Next week, the application both to sedevacantism and to the present crisis of the SSPX." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教


     要約 ―

     教会の無謬(むびゅう)な通常教導権(つうじょう きょうどうけん)は,尻尾は犬に(しっぽは いぬに)ついているのであり,犬が尻尾に(いぬが しっぽに)ついているのではないように,教皇の特別教導権(とくべつ きょうどうけん)に先立(さきだ)つものである.

     ( "Summary –

     The Church’s infallible Ordinary Magisterium is to the Pope’s infallible Extraordinary Magisterium as dog is to tail, and not as tail is to dog." )





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