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2014年7月19日土曜日

366 伝統の優先事項 7/19

エレイソン・コメンツ 第366回 (2014年7月19日) 

     "Magisterium" (「教導権〈きょうどうけん〉」)という言葉(ことば)はラテン語の(らてんごの) ( "master (magister) " )から派生(はせい)したもので,教会(きょうかい)では教会の権威ある教え(けんい ある おしえ),もしくは教会の権威ある教師(きょうし) ( "the Church's authoritative teaching or its authorised teachers" ) を意味(いみ)します( "The word "Magisterium", coming from the Latin for "master" ("magister"), means in the Church either the Church's authoritative teaching or its authorised teachers. " ).教師は教えを受ける者(うける もの)より優(すぐ)れているわけですから,教導権に基(もと)づく教えは教えを受けるカトリック教徒(=信徒)の人々(かとりっく きょうと〈=しんと〉の ひとびと)より優れています( "Now as teacher is superior to taught, so the Magisterium teaching is superior to the Catholic people being taught. " ).だが,カトリック教教師(かとりっくきょう きょうし)( "Catholic Masters" )は自由意志(じゆう いし)( "free-will" )を持っており,神(かみ)は彼らが間違いを犯す(かれらが まちがいを おかす)ように造(つく)られています( "But the Catholic Masters have free-will, and God leaves them free to err. " ).それでは,彼らがひどい間違いを犯したとき,人々は立ち上(たちあ)がって,たとえ丁重(ていちょう)にせよ,彼らに向(む)かって「あなた方(がた)は間違っておられます」と告(つ)げるでしょうか?( "Then if they err gravely, may the people stand up to them and tell them, however respectfully, that they are wrong ? " )問題解決が複雑(もんだい かいけつが ふくざつ)になりうるのは人々の多(おお)くが,今日(こんにち)のように,真実を見失って(しんじつを みうしなって)いるときだけです( "The question is answered by truth. If is only when most people have lost the truth, as today, that the question can become confused. " ).

     一方で(いっぽうで)私たちの主イエズス・キリスト(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)が自らの教会に対し(みずからの きょうかいに たいし),誤(あやま)りをしがちな私たち人類(じんるい)に天国(てんごく)へたどり着(つ)かせてくれる真実を教える権限を賦与(しんじつを おしえる けんげんを ふよ)されているのは確(たし)かなことです.主(しゅ)は「ペトロ(ぺとろ)よ,汝の同胞(なんじの どうほう)たちを堅振(=堅信)(けんしん)させよ(=同胞たちの信仰を堅めよ〈どうほうたちの しんこうを かためよ〉)」と指示(しじ)されています( "On the one hand it is certain that Our Lord endowed his Church with a teaching authority, to teach us fallible human beings that Truth which alone can get us to Heaven – “Peter, confirm they brethren”." )(訳注後記1)(訳注・「同胞たち」=ペトロと裏切り者ユダ以外〈うらぎりもの ゆだ いがい〉のキリストの残りの10弟子〈きりすとの のこりの じゅうでし〉のことを指〈さ〉している).だが他方(たほう)で,ペトロが同胞たちに堅振させようとするのは私たちの主イエズス・キリストが彼に教えた信仰(かれに おしえた しんこう)だけです.主は「私は汝の信仰が崩れないよう(なんじの しんこうが くずれないよう),汝が改心(なんじが かいしん)し,汝の同胞を堅振させるよう祈った(なんじの どうほうを けんしん させるよう いのった)」と述(の)べられています(新約聖書・ルカによる聖福音書:第22章32節)( "On the other hand Peter was only to confirm them in that faith which Our Lord had taught him – “I have prayed that thy faith fail not, and thou being converted, confirm thy brethren” (Lk. XXII, 32)." )(訳注後記2).言い換(いいか)えれば,ペトロに影響を与え(えいきょうを あたえ)るのは主が教示(しゅが きょうじ)された信仰であり,ペトロの役割(やくわり)はその信仰を守(まも)り,人々に教え説く(おしえ とく)ことだけです( "In other words that faith governs Peter which it is his function only to guard and expound faithfully, …" ).つまり,信仰はペトロに預(あず)けられたわけです( "… such as it was deposited with him, …" ).この信仰付託(しんこう ふたく)( "the Deposit of Faith" )が伝統( "Tradition" )として永遠に受け継がれるのです( "… the Deposit of Faith, to be handed down for ever as Tradition." )(訳注・「付託〈=附託〉」とは「預〈あず〉ける・委〈ゆだ〉ねる」こと).伝統(でんとう)がペトロを教え導き(おしえ みちびき),彼が人々を(かれが ひとびとを)教え導きます( "Tradition teaches Peter, who teaches the people." ).

     第一バチカン公会議(だいいち ばちかん こうかいぎ)(1870年)は同(おな)じことを次(つぎ)のように述(の)べています( "Vatican I (1870) says the same thing." ).カトリック信徒(しんと)は「神の御言葉に含まれ(かみの みことばに ふくまれ),伝統(でんとう)により受け継(うけつ)がれたあらゆる真実(しんじつ)」を信(しん)じなければならない( "Catholics must believe “all truths contained in the word of God or handed down by Tradition” " ).また教会(きょうかい)はその真実を神から啓示(かみから けいじ)されたものとして,自(みずか)らの特別もしくは通常教導権に基づき(とくべつ もしくは つうじょう きょうどうけんに もとづき)信徒に周知(しんとに しゅうち)させる( "… and which the Church puts forward as divinely revealed, by its Extraordinary or Ordinary Universal Magisterium …" )(最も広い意味での伝統〈もっとも ひろい いみでの でんとう〉がなかったら,この世〈よ〉に「神の御言葉」すなわち聖書〈せいしょ〉は存在〈そんざい〉しなかったことが想い起〈おもいお〉こされます)( "… (one recalls that without Tradition in its broadest sense, there would have been no “word of God”, or Bible)." ).第一バチカン公会議はさらに,この教導権には教会の無謬性(むびゅうせい)が賦与(ふよ)されているが,目新しい(ま あたらしい)ことを教え説く(おしえ とく)ならその無謬性は失われ(むびゅうせいは うしなわれ)ると述(の)べています( "Vatican I says moreover that this Magisterium is gifted with the Church's infallibility, but this infallibility excludes any novelty being taught." ).だとすれば,最も広い意味での伝統が影響を及ぼす(えいきょうを およぼす)ものは教導権が伝統(きょうどうけんが でんとう)だと言(い)いうる範囲内(はんいない)のものであり( "Then Tradition in its broadest sense governs what the Magisterium can say it is, …" ),教導権は伝統の範囲内(はんいない)のことを教える権限(けんげん)は持(も)っても( "… and while the Magisterium has authority to teach inside Tradition, …" ),伝統の範囲外(はんいがい)のことを人々に教え説く権限は持たない(ひとびとに おしえとく けんげんは もたない)ということです( "… it has no authority to teach the people anything outside of Tradition." ).

     だが,霊魂が必要(れいこんが ひつよう)とするものは,カトリック教の伝統の範囲内(かとりっく きょうの でんとうの はんい ない)で自分たちを救ってくれる真実(じぶんたちを すくってくれる しんじつ)を教え説く(おしえ とく)生きた教導権(いきた きょうどうけん)( "a living Magisterium" )です( "Yet souls do need a living Magisterium to teach them the truths of salvation inside Catholic Tradition." ).ここで言う諸真実(ここでいう しょ しんじつ)は神や神の教会と同じように不変(かみや かみの きょうかいと おなじ ように ふへん)のものです( "These truths do not change any more than God or his Church change, …" ).しかし,教会が運営を続け(うんえいを つづけ)なければならない世間の状況(せけんの じょうきょう)は時代と共に変わり(じだいと ともに かわり)ます( "… but the circumstances of the world in which the Church has to operate are changing all the time, …" ).そして,教会は変わりゆく状況(かわりゆく じょうきょう)により,不変の真実の説明(ふへんの しんじつの せつめい)をそれに合わせて変える(あわせて かえる)生きた教師(いきた きょうし)を必要(ひつよう)とします( "… and so according to the variety of these circumstances the Church needs living Masters to vary all the time the presentation and explanation of the unvarying truths." ).したがって,心あるカトリック信徒(こころある かとりっく しんと)なら,教会が生きた教師を必要(きょうかいが いきた きょうしを ひつよう)としていることに異論(いろん)をはさめないでしょう( "Therefore no Catholic in his right mind disputes the need for the Church's living Masters. " ).

     だが,その教師(きょうし)が伝統の範疇(でんとうの はんちゅう)に伝統でない何か他の(でんとうで ない なにか ほかの)ものがあると主張(しゅちょう)したらどうなるでしょうか?( "But what if these Masters claim that something is inside Tradition which is not there ? " ) 一方で,そのような教師は博学(はくがく)で,教会(きょうかい)から人々を教え導く権限(ひとびとを おしえ みちびく けんげん)を与(あた)えられおり,教えを受ける人々(おしえを うける ひとびと)は相対的に無知(そうたいてきに むち)です( "On the one hand they are learned men, authorised by the Church to teach the people, and the people are relatively ignorant." ).他方(たほう),人々がコンスタンチノープル(こんすたんちのーぷる) "Constantinople" で蜂起(ほうき)し神聖なる聖母マリア(しんせいなる せいぼ まりあ)を異端の総主教ネスター(いたんの そうしゅきょう ねすたー)( "the heretical Patriarch Nestor" )(訳注・=ラテン語で「ネストリウス〈ねすとりうす〉 "Nestorius" 」)から守(まも)ろうとしたエフェゾ公会議(えふぇぞ こうかいぎ)(428年)という有名な例(ゆうめいな れい)があります(訳注・「エフェゾ」〈 "Ephesus" 〉はローマ帝国〈ろーま ていこく〉のアジア州の首府〈あじあ しゅうの しゅふ〉)( "On the other hand there is the famous case of the Council of Ephesus (428), where the people rose up in Constantinople to defend the divine Motherhood of the Blessed Virgin Mary against the heretical Patriarch Nestor." ).

     答(こた)えは,客観的な真実(きゃっかん てきな しんじつ)は教師たちと人々を超えた存在(こえた そんざい)ですから( "The answer is that objective truth is above Masters and people alike, …" ),人々が真実を身につけている場合(ひとびとが しんじつを みにつけて いる ばあい),教師(きょうし)たちがそうでないと人々が彼ら(かれら)の教師たちより優(すぐ)れていることになります( "… so that if the people have the truth on their side, they are superior to their Masters if the Masters do not have the truth." ).他方,人々が真実を持たない(ひとびとが しんじつを もたない)なら教師に反対して立ち上がる権利(きょうしに たいして たちあがる けんり)はありません( "On the other hand if the people do not have the truth, thay have no right to rise up against the Masters." ).要(よう)するに,人々が正しい状態(ひとびとが ただしい じょうたい)であれば,彼ら(かれら)にはその権利(けんり)があります( "In brief, if they are right, they have the right." ).正(ただ)しくなければ権利(けんり)はありません( "If they are not right, they have no right." ).では,彼らが正しいかどうかを見分(みわ)けるのは何(なん)なのでしょうか?( "And what tells if they are right or not ? " ) それは(必ずしも〈かならずしも〉)教師(きょうし)でもなければ,(まして)人々(ひとびと)でもありません( "Neither Masters (necessarily), nor people (still less necessarily), …" ).現実(げんじつ)には,教師たちもしくは人々,あるいは両方が一緒(りょうほうが いっしょ)になって,真実を抑え込み(しんじつを おさえこみ)ます( "… but reality, even if Masters or people, or both, conspire to smother it." ).

     キリエ・エレイソン.

     カトリック教の聖職者たちがひどい過ちを犯せば,      
    私たちはそのことを彼らに告げます
      (かとりっくきょうの せいしょくしゃ たちが
    ひどい あやまちを おかせば,      
     わたくしたちは そのことを かれらに つげます)      
     ( "If Catholic churchmen gravely err, we may" )

     私たちが正しいとき,
    彼らはどこまで邪道を歩みづづけるのでしょうか?
     (わたくしたちが ただしいとき,      
     かれらは どこまで じゃどうを あゆみ つづける
    のでしょうか?)      
     ( "Declare, if we are right, how far they stray." )

     リチャード・ウィリアムソン司教



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第2パラグラフの訳注その1・その2 

「主は「ペトロよ,汝の同胞たちを堅振(=堅信)させよ(=同胞たちの信仰を堅めよ)」と指示されています」
"On the one hand it is certain that Our Lord endowed his Church with a teaching authority, to teach us fallible human beings that Truth which alone can get us to Heaven – “Peter, confirm they brethren”."
について…



新約聖書・ルカによる聖福音書:第22章31,32節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE XXII, 31, 32
LE SAINT ÉVANGILE DE JÉSUS-CHRIST SELON SAINT LUC XXII, 31, 32
O SANTO EVANGELHO DE JESU CHRISTO SEGUNDO S. LUCAS XII, 31, 32
EVANGELIUM SECUNDUM LUCAM XXII, 31, 32



31 『(イエズスは〈こう〉言われた,…)シモン(=ペトロの名),シモン,サタン(=悪魔)はあなたたちを麦のようにふるいにかけることができたが,…』

"AND THE LORD SAID: SIMON, SIMON, BEHOLD SATAN HATH DESIRED TO HAVE YOU, THAT HE MAY SIFT YOU AS WHEAT: …"

"LE SEIGNEUR DIT ENCORE: SIMON, SIMON, VOILÀ QUE SATAN VOUS A DEMANDÉS POUR VOUS CRIBLER, COMME LE FROMENT ; …"

"DISSE MAIS O SENHOR : SIMÃO, SIMÃO, EIS-AHI VOS PEDIO SATANÁS COM INSTANCIA, PARA VOS JOEIRAR COMO TRIGO:

"AIT AUTEM DOMINUS: SIMON, SIMON, ECCE SATANAS EXPETIVIT VOS UT CRIBRARET SICUT TRITICUM : …"



32 『*私はあなたのために信仰がなくならぬようにと祈った.あなたは心を取りもどし,兄弟の心を固めよ.』

"… BUT I HAVE PRAYED FOR THEE, THAT THY FAITH FAIL NOT: AND THOU, BEING ONCE CONVERTED, CONFIRM THY BRETHREN."

"MAIS J’AI PRIÉ POUR TOI, AFIN QUE TA FOI NE DÉFAILLE POINT ; ET TOI, QUAND TU SERAS CONVERTI, CONFIRME TES FRÈRES."

"MAS EU ROGUEI POR TI, PARA QUE A TUA FÉ NÃO FALTE : E TU EM FIM DEPOIS DE CONVERTIDO, CONFORTA A TEUS IRMÃOS.

"… EGO AUTEM ROGAVI PRO TE UT NON DEFICIAT FIDES TUA : ET TU ALIQUANDO CONVERSUS CONFIRMA FRATRES TUOS. "



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(注:本投稿記事〈第366回エレイソン・コメンツ〉は2014年8月29日22:35に公開されました.)

2014年5月29日木曜日

358 教会の無謬性 IV 5/24

エレイソン・コメンツ 第358回 (2014年5月24日) 

     1870年の教皇の無謬性に関する定義(せん はっぴゃく ななじゅう ねんの きょうこうの むびゅうせいに かんする ていぎ)について,ニューマン枢機卿(にゅうまん すうききょう)はいみじくも「これは教皇をありのまま認める(みとめる)ものである」と評(ひょう)しておられます( "To Cardinal Newman is attributed a wise comment on the 1870 definition of Papal infallibility: “It left him as it found him." ).まさしく,この定義は教皇の誤りなく教え導く権限(きょうこうの あやまりなく おしえ みちびく けんげん)になんら変更を加える(へんこうを くわえる)ものではありません( "Indeed that definition will have changed nothing in the Pope’s power to teach infallibly, …" ).なぜなら,教皇の教導権(きょうこうの きょうどうけん)は神の真の教会(かみの まことの きょうかい)がその最高教導権(さいこう きょうどうけん)を行使する限り(こうし する かぎり)過ち(あやまち)をしないよう神が守って(かみが まもって)くださるという教会の本質に根差す(きょうかいの ほんしつに ねざす)ものだからです( "… because it belongs to the nature of God’s true Church that God will protect it from error, at least when its supreme teaching authority is engaged." ).そうした教会のあらゆる教導権行使(きょうどうけん こうし)は今(いま)では,教会の「特別教導権(とくべつ きょうどうけん)」( “Extraordinary Magisterium” )と称(しょう)されていますが( "All such engagement is now called the Church’s “Extraordinary Magisterium”, …" ),1870年当時(せん はっぴゃく ななじゅう ねん とうじ),それは「通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)」( “Ordinary Universal Magisterium” )と同(おな)じように,新しい名称(あたらしい めいしょう)でした( "… but only the name can have been new in 1870, just like the name of the “Ordinary Universal Magisterium”." ).もし,第一バチカン公会議(だいいち ばちかん こうかいぎ)が通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)も無謬(むびゅう)であると宣言(せんげん)したとしたら( "If Vatican I declared the latter also to be infallible, …" ),それは教会が始まった(きょうかいが はじまった)ときからそうだったに違い(ちがい)ありません( "… it must also have been so from the beginning of the Church." ).特別教導権や通常普遍教導権の実態(じったい)がどういうものなのかを理解(りかい)するため,教会の始まりの時期(きょうかいの はじまりの じき)に立ち戻って考えて(たちもどって かんがえて)みましょう( "To discern the realities behind the names, let us go back to that beginning." ).

     私たちの主(イエズス・キリスト)(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)は天国に昇られる前(てんごくに のぼられる まえ)に,天与の無謬性をもって(てんよの むびゅうせいを もって),使徒たち(しと たち)に世の終わり(よの おわり)まで(新約聖書・マテオ聖福音書:第28章19-20を参照〈さんしょう〉)教会にそのまま遺される(きょうかいに そのまま のこされる)ことになる一連の教理(いちれんの きょうり)を委託(=委任・預託)されました(いたく〈=いにん・よたく〉されました)( "By the time Our Lord ascended to Heaven, he had with his divine infallibility entrusted to his Apostles a body of doctrine which they were to hand down intact to his Church to the end of the world (Mt. XXVIII, 19-20), …" )(訳注後記1・その1).その教理(きょうり)はあらゆる人々(ひとびと)が天罰により(地獄に)堕落する苦痛(てんばつ により じごくに だらくする くつう)(=真の神〈まことのかみ〉により地獄に落とされ霊魂を滅ぼされる〈じごくに おとされ れいこんを ほろぼされる〉)を恐れ信じる(おそれしんじる)というものでした(新約聖書・マルコ聖福音書:第16章15-16節を参照)( "… doctrine which all souls were to believe on pain of damnation (Mk. XVI, 15-16). " )(訳注後記1・その2).神は偽りを信じようとしない人間(いつわりを しんじようと しない にんげん)を永遠(えいえん)に地獄に落ちたまま(じごくに おちたまま)にできないので,この信仰の遺産(しんこうの いさん),すなわち公的啓示(こうてき けいじ)( “Deposit of the Faith, or public Revelation” )を善意の人々(ぜんいの ひとびと)にとって理解(りかい)でき,近(ちか)づきやすいものにしなければならなかったのです( "This Deposit of the Faith, or public Revelation, God was bound to make recognisable and accessible to souls of good will, because obviously the true God could never condemn eternally a soul for refusing to believe in an untruth. " ).この遺産(いさん)は主(イエズス・キリスト)の最後の使徒が亡くなる(しゅ いえずす・きりすとの さいごの しとが なくなる)まで無謬かつ完全無欠(むびゅう かつ かんぜんむけつ)でした( "By the death of the last Apostle this Deposit was not only infallible but also complete." ). では,使徒(しと)たちがいた頃(ころ)から今日(こんにち)まで,神はあらゆる聖職者(せいしょくしゃ)たちが間違った(まちがった)ことを教(おし)えないよう見守って(みまもって)きたのでしょうか?( "Then from the Apostles onwards would God protect all churchmen from ever teaching error ? " ) 決(けっ)してそうではありません( "By no means." ).主は私たちに「偽(にせ)預言者」(新約聖書・マテオ聖福音書:第7章15節を参照)に気をつけるよう警告(きをつける よう けいこく)されましたし( "Our Lord warned us to beware of “false prophets” (Mt. VII, 15), …" )(訳注後記1・その3),同(おな)じように聖パウロも「飢え狂う狼(うえ くるう おおかみ)」に注意するよう警告(ちゅうい するよう けいこく)されました(新約聖書・使徒行録:第20章29-30節を参照)( "… and St Paul likewise warned against “ravening wolves” (Acts, XX, 29-30)." )(訳注後記1・その4).だが,神は誤りを犯す牧者たち(あやまりを おかす ぼくしゃたち)が羊たち(ひつじたち)にもたらすそのような危険(きけん)をどうしてお認(みと)めになるのでしょうか?( "But how could God permit such a danger to his sheep from erring pastors ? " ) その理由(りゆう)は,神が天国に来てほしいと望む(かみが てんごくに きてほしいと のぞむ)のはロボット牧者たちやロボット羊たち(ろぼっと ぼくしゃ たちや ろぼっと ひつじたち)ではなく( "Because he wants for his Heaven neither robot pastors nor robot sheep, …" ),真実を教え,真実に従う(しんじつを おしえ,しんじつに したがう)ために神から授けられた心や自由意志(かみから さずけられた こころや じゆう いし)を行使する牧者や羊(こうしする ぼくしゃたち や ひつじたち)だからです( "… but pastors and sheep that will both have used the mind and free-will he gave them to teach or follow the Truth." ).もし多くの牧者(おおくの ぼくしゃ)たちが裏切る(うらぎる)なら( "And if a mass of pastors betray, …" ),神はいつでも,例(たと)えば,聖アタナシウス(せい あたなしうす)やルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)のような人物(じんぶつ)を起こし遣わし(おこし つかわし)( "… he can always raise a St Athanasius or an Archbishop Lefebvre, for instance, …" ),人々(ひとびと)がいつでも無謬の真実に近づけるよう(むびゅうの しんじつに ちかづける よう)になさいます( "… to ensure that his infallible Truth remains always accessible to souls." ).(訳注・「牧者(ぼくしゃ)たち "pastors" 」=歴代教皇(れきだい きょうこう)〈および世界各地の歴代司教〈せかいかくちの れきだい しきょう〉,「羊(ひつじ)たち」=世界の司祭〈せかいの しさい〉たち)(訳注後記1・引用聖書の掲載〈いんよう せいしょの けいさい〉)(訳注後記2・「真実(しんじつ)」について)

     それでも,主(イエズス・キリスト)が遺された信仰の遺産(しゅ いえずす・きりすと が のこされた しんこうの いさん)は絶え間(たえま)なく飢え狂う狼の危険(うえ くるう おおかみの きけん)に晒(さら)されており( "Nevertheless that Deposit will be unceasingly exposed to ravening wolves, …" ),それに間違いを付け加えられたり(まちがいを つけくわえられ たり),そこから真実を減らされたり(しんじつを へらされ たり)します( "… adding error to it or subtracting truth from it." ).では,神はどうやってそれを守り続けられるのでしょうか?( "So how will God still protect it ? " ) 教皇がその教導権に属するものと属しないもの(その きょうどうけんに ぞくするものと ぞくさないもの)を明確にする(めいかくに する)ため,教導権の定める4条件(きょうどうけんの さだめる よんじょうけん)すべてに従う(したがう)ことを保証する(ほしょうする)ことにより( "By guaranteeing that whenever a Pope engages all four conditions of his full teaching authority to define what does and does not belong to it, …" ),彼は間違いを犯さないよう神から守られ(かれは まちがいを おかさないよう かみ から まもられ)ます ―( "…he will be divinely protected from error – …" ).これは今日,特別教導権と称される(こんにち とくべつ きょうどうけんと しょうされる)ものです.(この特別教導権〈とくべつきょうどうけん〉は通常普遍教導権を前提〈つうじょう ふへん きょうどうけんを ぜんてい〉とするものであり,それ自体(じたい)が真実や無謬性を増大(しんじつや むびゅうせいを ぞうだい)することはなく,ただ私たち人類により大きな確実性をもたらすだけである点に注目してください.)( "… what we call today the “Extraordinary Magisterium”. (Note how this Extraordinary Magisterium presupposes the infallible Ordinary Magisterium, and can add to it no truth or infallibility, but only a greater certainty for us human beings.) " )しかし,教皇(きょうこう)が4条件(よん じょうけん)のいずれかに従わない(したがわない)としても( "But if the Pope engages any less than all four conditions, …" ),そのときには彼の教え(かれの おしえ)は主(しゅ)(イエズス・キリスト)の遺された遺産(のこされた いさん),すなわち今日(こんにち),通常普遍教導権(つうじょう ふつう きょうどうけん)と称(しょう)されるものに合致する限り無謬(がっち するかぎり むびゅう)でしょう( "… then his teaching will be infallible if it corresponds to the Deposit handed down from Our Lord – today called the “Universal Ordinary Magisterium”, …" ).だが,その教えが遺産(いさん)すなわち伝統の範囲内(でんとうの はんい ない)にない場合(ばあい),それは無謬(むびゅう)でなくなります( "but fallible if it is not within that Deposit handed down, or Tradition. " ).伝統から外れると(でんとうから はずれると),教皇の教え(きょうこうの おしえ)は真実(しんじつ)のときもあるでしょうし誤り(あやまり)のときもあるでしょう( "Outside of Tradition, his teaching may be true or false." ).

     したがって,私たちの主(イエズス・キリスト)(わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと)が伝統を権威づけ(でんとうを けんいづけ),その伝統が教導権を権威づける(でんとうが きょうどうけんを けんい づける)わけですから,悪循環(あくじゅんかん)などありません(先週(せんしゅう)のエレイソン・コメンツ〈エレイソン・コメンツ〉357号〈さんびゃく ごじゅう なな ごう〉をご覧〈ごらん〉ください)( "Thus there is no vicious circle (see EC 357 of last week) because Our Lord authorised Tradition and Tradition authorises the Magisterium." ).確か(たしか)に,なにが伝統に属するか(なにが でんとうに ぞくするか)を毅然と宣言(きぜんと せんげん)するのは教皇の職務(きょうこうの しょくむ)です( "Indeed it is the function of the Pope to declare with authority what belongs to Tradition, …" ).そして職務を果たすに当たり(しょくむを はたすに あたり),その権限に完全に従う場合(その けんげんに かんぜんに したがう ばあい),教皇は誤りを犯さない(きょうこうは あやまりを おかさない)よう神から見守(みまも)られます( "… and he will be divinely protected from error if he engages his full authority to do so, …" ).だが,教皇は伝統から外れた宣言(でんとうから はずれた せんげん)を出す(だす)ことができます( "… but he can make declarations outside of Tradition, …" ).ただし,その場合(ばあい),彼が神に見守られる(かれが かみに みまもられる)ことはありません( "in which case he will have no such protection." ).ところで,宗教の自由(しゅうきょうの じゆう)やエキュメニズム(えきゅめにずむ)といった第二バチカン公会議の目新しさ(だいに ばちかん こうかいぎの まあたらしさ)は教会伝統(きょうかい でんとう)から大きくかけ離れた(おおきく かけはなれた)ものです( "Now the novelties of Vatican II such as religious liberty and ecumenism are way outside of Church Tradition." ).したがって,それは教皇の通常教導権,特別教導権(きょうこうの つうじょう きょうどうけん,とくべつ きょうどうけん)のいずれにも入らない(はいらない)ものです( "So they come under neither the Pope’s Ordinary nor his Extraordinary Magisterium, …" ).そして公会議派教皇たち全員(こうかいぎは きょうこうたち ぜんいん)の言う(いう)ばかげたことのために,カトリック信徒の一人(かとりっく しんとの ひとり)たりともリベラル派や教皇空位論者(りべらるは や きょうこう くうい ろんじゃ)になる必要(ひつよう)などまったくありません(訳注・=公会議派歴代教皇の全員(こうかいぎは れきだい きょうこうの ぜんいん)が,どのカトリック教徒〈かとりっくきょうと〉に対してもリベラル派か教皇空位論者のいずれかになるよう義務付け得ない(ぎむづけえない)(=強制〈きょうせい〉する)ことはできない).なぜなら,神たる主イエズス・キリスト(かみ たる しゅ いえずす・きりすと)からの権威(けんい)によって立っていないから.)( "… all the nonsense of all the Conciliar Popes oblige no Catholic to be either a liberal or a sedevacantist." ).

     キリエ・エレイソン.

     伝統は教皇たちを推し量る尺度
     (でんとうは きょうこうたちを おしはかる しゃくど)
      ( "Tradition is of Popes the measuring-rod" )

     伝統こそが神のみから
     初めに授けられたものだから
      (でんとう こそが かみ のみ から
     はじめに さずけられた もの だから)
     ( "Because it came at first only from God." )


     リチャード・ウィリアムソン司教



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◇訳注1
聖書の引用箇所(いんよう かしょ)の掲載
(注・全訳注の最後に追加掲載いたします)

◇訳注2
「真実」について

I. 通常の人間社会(日本など自由主義国における場合)
"in human community, society":

・「真実(しんじつ)」=「真理(しんり)」→「真の理(まことの ことわり)」
→「事実"fact"」(人の目に見える事実によって判断する.)↓

・「真(まこと)」=
①うそやいつわりでないこと.
②いつわりのない心.人に対してよかれと思う心〈こころ〉.まごころ.
誠意.真情(a いつわりのない心.まごころ.b 真の状態〈じょうたい〉.
実情〈じつじょう〉).

・「理(ことわり)」=もっともな事,道理,条理.

→「もっともな」=道理(どうり)合(あ)っているさま.
当然(とうぜん)で」あるさま.

→「どうり(道理)」
="reason"
①物事(ものごと)がそうあるべきすじみち.ことわり.わけ.
②人の行うべき正しい道(ひとの おこなう べき ただしい みち).

→「じょうり(条理)」
="logic"
①社会における物事の筋道(しゃかいに おける ものごとの すじみち).
道理(どうり).
②《法》法の欠缺(ほうの けんけつ)を補う(おぎなう)解釈上および裁判上の基準(かいしゃく じょう および さいばん じょうの きじゅん).社会通念・公序良俗(しゃかい つうねん・こうじょ りょうぞく).→「情理(じょうり)」

→「じょうり(情理)」(=人間らしい感情と理屈・考え方(かんじょうと
りくつ・かんがえかた)
="emotion and reason, heart and mind"
①人情と道理(にんじょうと どうり).人間らしい感情(にんげん らしい
かんじょう)と,ものごとのあるべき筋道(すじみち).
②物事の筋道(ものごとの すじみち).道理.
〔同音語の「条理」は物事の筋道のことであるが,
それに対して「情理」は人情と道理のことをいう.〕

→「公序良俗」 =
"public order and morals"

→「公序(こうじょ)」=
"public order"
①人々が守るべき社会の秩序(ひとびとが まもるべき しゃかいの
ちつじょ).公の秩序(おおやけの ちつじょ).

→「良俗(りょうぞく)」=
"(public) morals"
よい風俗.よい慣習.(風俗=ならわし・しきたり・身なり・よそおい・
身のこなし)"

→「社会通念(しゃかい つうねん)」=
"social conventions, common sense"
社会一般(しゃかい いっぱん)に
行われている考え方(おこなわれているかんがえかた)"

(国語(日本語)辞典「大辞林」から引用)


II. 神の真理=「至福(しふく)」(=山上の説教・山上の垂訓)(マテオ聖福音書:第5章1-12節,13節-第7章28節)
"Christ's Sermon upon the Mount - The eight beatitudes."
- 神の掟(モーゼの十戒〈「律法〈りっぽう〉」から
救世主・神の御独り子イエズス・キリストによる神の真の掟〈かみの まことの おきて〉)の場合
"St. Matthew, V, 1-12, 13-VII, 28":

『たとえ騙されても,他人を騙さない(だまされても,ひとを だまさない)』
→「他人がどうであろうと,自分は善(ぜん)にとどまる(悪をもって悪に返さない)」
→「全能の創造主たる神は人の全ての業(ひとのすべてのわざ)をご覧(らん)になり
報(むく)いられる(神の摂理〈せつり〉・自然の摂理」
『真の信仰を持つ(まことの しんこうを もつ)ということは,
自分の真の誇り(じぶんの まことの ほこり)を
黙って神に委ねる(だまって かみに ゆだねる)こと.
神は真実である.神が必ず報復(かならず ほうふく)される.』
→時の経過にかかわらず,真実は必ず明らかになる.



『〈汝の隣人を愛し,汝の敵を憎め〉
といわれたのをあなたたちは聞いている.
しかし私(イエズス)はあなたたちに言う,

あなたたちの敵を愛し(てきを あいし),
あなたたちを迫害する者(はくがいする もの)
のために祈れ(いのれ),

それは,天(てん)にまします
あなたたちの父の子(ちちのこ) となるためである, 

天の父(てんの ちち)は,
悪人の上(あくにんの うえ)にも
善人の上(ぜんにんのうえ)にも
日を昇らせ(ひを のぼらせ),

義者にも不義者にも(ぎしゃ にも ふぎしゃ にも)
雨を降らせ給う(あめを ふらせ たまう). 

…天の父が完全にまします如く(ごとく)に,
あなたたちも完全であれ.』
〔新約聖書・マテオ聖福音書:第5章43-45,48〕


『…イエズスはこう話された,
「天地の主なる父よ,あなたに感謝いたします.
あなたはこれらのこと(=真理)を
知恵ある人(ちえ ある ひと),賢い人(かしこい ひと)に
隠し(かくし),
小さな人々に現(あらわ)されました.
父よ,そうです. あなたはそう望(のぞ)まれました.

すべてのものは, 父から私にまかされました.
子が何者かを知っているのは父のほかにはなく,
父が何者かを知っているのは,
子と子が示しを与えた人のほかにはありません.

労苦する人(ろうくするひと),
重荷を負う人(おもにを おうひと)は,
すべて私のもとに来るがよい.
私はあなたを休(やす)ませよう.
私は心の柔和(こころの にゅうわ)な
へりくだった者であるから,
くびきをとって私に習(なら)え.
そうすれば霊魂は休む(れいこんは やすむ).
私のくびきは快く(こころよく),
私の荷は軽い(には かるい)」.』

(注釈)

・「小さな人々(ちいさな ひとびと)」とは,神を見る(かみを みる)であろうと 約束(やくそく)された素直な清い心(すなおな きよい こころ)の人である.

・神を完全に知る(かみを かんぜんに しる)には,神と同じ(かみと おなじ) 「無限の知恵(むげんの ちえ)」がいる.
すなわち,イエズスは神の真(まこと)の子であると宣言したことになる.

〔マテオ聖福音書:第11章25-30節〕


* * *


訳注1
新約聖書の引用:

その1
マテオ聖福音書:第28章19-20節(28章全章を掲載)

『さて,安息日を終えて,週のはじめの日の夜明けごろ,マグダラのマリアと他のマリアは墓を訪(おとず)れた.
すると大地震(だいじしん)が起こり,主の天使が天から下(くだ)って石をわきに転(ころ)ばし,その上に座(すわ)った.その姿は稲妻(いなずま)のように輝(かがや)き,その服(ふく)は雪(ゆき)のように白(しろ)かった.番兵(ばんぺい)たちは恐(おそ)れおののいて死人(しにん)のようになった,
そのとき天使は婦人たちに向かって言われた,「恐(おそ)れるな.私はあなたたちが,十字架につけられたイエズスをさがしているのを知っている.だがもうここにはましまさぬ.おことばどおり復活された.イエズスが納(おさ)められたその場所を見に来るがよい.それからすぐ弟子たちに知らせに行き,〈イエズスは死者の中からよみがえられた.みなに先立ってガリラヤに行かれるからそこで会える〉と言え.これが私の告げることのすべてだ」.
婦人たちは恐れと同時に非常な喜びを感じ,すぐ墓を去って弟子たちに知らせに走った.
するとイエズスは彼女たちと出会い,「あなたたちにあいさつする」と言われた.女たちは進み出て,足を抱(いだ)いてひれ伏(ふ)した.
イエズスは言われた,「恐れることはない.兄弟たちにガリラヤに行けと知らせに行け.向こうで私に会えるだろう」.

婦人たちが去ると,数人の番兵が町に行って,起こったことをすべて司祭長たちに告げた.
司祭長たちは長老と集まって協議し,兵卒たちに多くの金を与えて言い含めた,「〈あの男の弟子たちが夜中に来て,われわれの眠っている間に屍(しかばね)を盗(ぬす)んでいった〉といえ.これがもし総督(そうとく)の耳(みみ)にはいっても,われわれがなだめておまえたちには迷惑をかけぬ」.
兵卒たちは金をもらって,言い含められたとおりにしたので,この話はユダヤ人の間に言い広められ今日に至っている.

ガリラヤに行った十一人の弟子は,イエズスが命令された山に登(のぼ)り,イエズスに会ってひれ伏した.けれども中には疑う者もあった.
イエズスは彼らに近づいて言われた,「私には天と地のいっさいの権威が与えられている.
行け,諸国の民に教え,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)の名によって洗礼を授(さず)け,(19節)
私が命じたことをすべて守(まも)るように教えよ.私は,世の終わりまで常(つね)におまえたちとともにいる(20節)」.』


* * *

続きを追加いたします.

訳注1
その2・マテオ聖福音書:第28章19-20
その3・マルコ聖福音書:第16章15-16節
その4・新約聖書・マテオ聖福音書:第7章15節
その5・新約聖書・使徒行録:第20章29-30節

* * *

2014年5月25日日曜日

357 教会の無謬性 III 5/17

エレイソン・コメンツ 第357回 (2014年5月17日)


     教皇フランシスコ(きょうこう ふらんしすこ)のばかげた言動(げんどう)がいま多く(おおく)のカトリック信者(かとりっくしんじゃ)を教皇空位論(きょうこう くういろん)へ向(む)かわせています.これは危険(きけん)なことです( "The crazy words and deeds of Pope Francis are presently driving many believing Catholics towards sedevacantism, which is dangerous." ).公会議派の歴代教皇(こうかいぎはの れきだい きょうこう)は過去も今も(かこもいまも)教皇でないという考え(きょうこう でないという かんがえ)は,初め(はじめ)は一つの意見に過ぎない(ひとつのいけんにすぎない)でしょうが( "The belief that the Conciliar Popes have not been and are not Popes may begin as an opinion, …" ),それは独断に変わり(どくだんに かわり),やがて精神的な確信(せいしんてきな かくしん)になってしまうことが多いようです( "… but all too often one observes that the opinion turns into a dogma and then into a mental steel trap. " ).教皇空位論者(ろんじゃ)たちの多くは心を閉ざして(こころを とざして)しまうように私には思え(わたしには おもえ)ます( "I think the minds of many sedevacantists shut down …" ).第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)が起こした(おこした)前代未聞の危機(ぜんだいみもんのきき)が彼らのカトリック精神と心(かとりっく せいしんと こころ)( "their Catholic minds and hearts" )に苦痛を与え(くつうをあたえ)( "… because the unprecedented crisis of Vatican II has caused their Catholic minds and hearts an agony …" ),彼らは教皇空位論がその苦痛から抜け出す(ぬけだす)ための単純な解決策(たんじゅんなかいけつさく)だと考え(かんがえ)( "… which found in sedevacantism a simple solution, …" ),それ以降(いこう)その苦痛や疑問(ぎもん)をもう一度(いちど)考え直そう(かんがえ なおそう)としなくなるからだと思い(おもい)ます( "… and they have no wish to re-open the agony by re-opening the question. " ).そのため,彼らはほかの信者(しんじゃ)たちがこの単純(たんじゅん)な解決策に賛同(さんどう)し自分たちに加わる(じぶんたちにくわわる)よう積極的に説得(せっきょくてきに せっとく)し( "So they positively crusade for others to join them in their simple solution, …" ),そうするうちに,彼らすべてではありませんがその多くが結果的(けっか てき)に傲慢さや敵意(ごうまんさ や てきい)を示すようになります( "… and in so doing many of them – not all -- end up displaying an arrogance and a bitterness …" ).傲慢,敵意は真のカトリック信徒(まことの かとりっく しんと)の看板(かんばん)でも産物(さんぶつ)( "signs or fruits" )でもありません( "… which are no signs or fruits of a true Catholic." ).

     私はこれまでの「エレイソン・コメンツ」(えれいそん・こめんつ)で,歴代の公会議派教皇が真の教皇(まことの きょうこう)であると確信(かくしん)をもって主張(しゅちょう)するのを差し控えて(さしひかえて)きました( "Now these “Comments” have abstained from proclaiming with certainty that the Conciliar Popes have been true Popes, …" ).だが,私は同時(どうじ)に通常(つうじょう)の教皇空位論者による議論(ぎろん)は彼らの一部(かれらの いちぶ)が私たちに信じ込ませ(しんじ こませ よう)ようとしているほど得心(とくしん)のゆくものでもなければカトリック信徒(しんと)に拘束力を持つ(こうそくりょくを もつ)ものでもないと論(ろん)じてきました( "… but at the same time they have argued that the usual sedevacantist arguments are neither conclusive nor binding upon Catholics, as some sedevacantists would have us believe." ).教皇空位論者たちが最も重視する論点(もっとも じゅうしする ろんてん)にもう一度戻って(もういちど もどって)みましょう.これは教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)から生じる論点(しょうじる ろんてん)です( "Let us return to one of their most important arguments, which is from Papal infallibility: …" ).要点(ようてん)は,教皇は無謬である( "… Popes are infallible." ),だがリベラル派(りべらる は)は無謬でない( "But liberals are fallible, …" ),公会議派の教皇はリベラルである( "… and Conciliar Popes are liberal." ),したがって彼らは教皇でない,というものです( "Therefore they are not Popes. " ).

     これに対し,教皇が無謬(きょうこうが むびゅう)なのは彼が教会の特別教導権(きょうかいの とくべつ きょうどうけん)の定める4条件(さだめる よん じょうけん)に従って(したがって)(1) 教皇として,(2) 信仰,道徳(しんこう,どうとく)について,(3) 決定的(けっていてき)に信頼(しんらい)がおけるよう,(4) カトリック信徒すべてをまとめる意向(いこう)をもって話す(はなす)ときだけである,と反論する人(はんろんする ひと)がいるでしょう( "To this one may object that a Pope is certainly infallible only when he engages the four conditions of the Church’s Extraordinary Magisterium by teaching 1 as Pope, 2 on Faith or morals, 3 definitively, 4 so as to bind all Catholics." ).この点(てん)について,教皇空位論者たちもリベラル派の人たちも直ち(ただち)に通常普遍教導権(つうじょう ふへん きょうどうけん)〈 "the Ordinary Universal Magisterium" 〉も無謬(むびゅう)だというのが教会の教え(きょうかいの おしえ)だから,教皇がたとえ特別教導権の枠外(とくべつ きょうどうけんの わくがい)で厳か(おごそか)に教えを説いた(おしえを といた)としても彼は常に無謬(つねに むびゅう)だと答え(こたえ)ます.すなわち ―― この論法(ろんぽう)の後半(こうはん)が彼らの弱点(かれらの じゃくてん)です―― 彼らのリベラルな公会議の教えは厳粛(げんしゅく)である( "Whereupon sedevacantists and liberals alike reply that it is Church teaching that the Ordinary Universal Magisterium is also infallible, so – and here is the weak point in their argument – whenever the Pope teaches solemnly even outside of his Extraordinary Magisterium, he must also be infallible. Now their liberal Conciliar teaching is solemn." ).だから誰(だれ)が同じ議論(おなじ ぎろん)を振り(ふり)かざすかにもよるが,私たちカトリック信徒はリベラル派か教皇空位論者か(りべらるは か きょうこう くうい ろんじゃ か)のどちらかにならなければならない,というのです( "Therefore we must become either liberals or sedevacantists, depending of course on who is wielding the same argument." ).

     だが,教会の通常普遍教導権(きょうかいの つうじょう ふつう きょうどうけん)に属する教え(ぞくする おしえ)の品質証明(ひんしつ しょうめい)となるのは教皇が特別教導権の枠外(とくべつ きょうどうけんの わくがい)で教(おし)えるときの厳粛さ(げんしゅくさ)ではなく( "But the hallmark of teaching which belongs to the Church’s Ordinary Universal Magisterium is not the solemnity with which the Pope teaches outside of the Extraordinary Magisterium, …" ),その教えの内容(おしえの ないよう)が私たちの主(しゅ)(イエズス・キリスト)(いえずす・きりすと),その弟子(でし)たち,そのすべての後継者(こうけい しゃ)たち,すなわち普遍教会(ふへん きょうかい)( “the Universal Chuarch” )の司祭たち(しさいたち)があらゆる時代(じだい),あらゆる場所(ばしょ)で教えて(おしえて)きたことと一致(いっち)するかどうかです( "… but whether what he is teaching corresponds, or not, to what Our Lord, his Apostles and virtually all their successors, the bishops of the Universal Church, have taught in all times and in all places, …" ).言い換えれば(いいかえ れば),その内容(ないよう)が伝統(でんとう)と合致(がっち)するかどうかです( "… in other words whether it corresponds to Tradition." ).だが,公会議派の教え(こうかいぎは の おしえ)(たとえば宗教の自由〈しゅうきょうの じゆう〉やエキュメニズム〈えきゅめにずむ〉)は伝統からかけ離れた(でんとう から かけ はなれた)ものです( "Now Conciliar teaching (e.g. religious liberty and ecumenism) is in rupture with Tradition." ).したがって,カトリック教徒はリベラル派や教皇空位論者になる義務(ぎむ)などありません( "Therefore Catholics today are not in fact bound to become liberals or sedevacantists." ).

     しかし,教皇空位論者たちやリベラル派の人たちは教皇の無謬性についての自分たちの勘違い(かんちがい)に固執(こしつ)します( "However, both liberals and sedevacantists cling to their misunderstanding of Papal infallibility …" ).そうする理由(りゆう)には興味(きょうみ)がないわけではありませんが,それはまた別の話(べつの はなし)です( "… for reasons that are not without interest, but that is another story. " ).いずれにせよ,彼らは簡単(かんたん)には引き下がろう(ひきさがろう)としません( "In any case they do not give up easily, …" ).彼らは別の反論(べつの はんろん)を持ち出し(もちだし)話を蒸し返し(はなしを むしかえし)ます( "… so they come back with another objection which deserves to be answered. " ).彼らが共通して言う(きょうつう して いう)のは,伝統が通常普遍教導権の品質証明だと論(ろん)じるのは悪循環(あくじゅんかん)をもたらすということです( "Both of them will say that to argue that Tradition is the hallmark of the Ordinary Magisterium is to set up a vicious circle." ).もし教会の教導権威(きょうかいの きょうどう けんい)( "the Church's teaching authority" ),すなわち教導権が現に行われ(げんに おこなわれ)ているように教会の教理を説く(きょうかいの きょうりを とく)ためにあるというのであれば( "For if the Church’s teaching authority, or Magisterium, exists to tell what is Church doctrine, as it does, …" ),どうして同時(どうじ)に伝統派教理(でんとうは きょうり)が教導権(きょうどうけん)とはなんなのかを説明(せつめい)できるのか?(というのです)( "… then how can the Traditional doctrine at the same time tell what is the Magisterium ? " ).教える者が教える内容を権威づける(おしえる ものが おしえる ないようを けんい づける)か,教える内容が教える者を権威づける(おしえる ないようが おしえる ものを けんい づけるか)かのどちらかであり( "Either the teacher authorises what is taught, or what is taught authorises the teacher, …" ),双方(そうほう)が同時(どうじ)に他方(たほう)を権威づけ(けんい づけ)あうなどできないというのです( "… but they cannot both at the same time authorise each other." ).したがって,教える内容である伝統(おしえる ないよう である でんとう)が教える側の通常普遍教導権(おしえるがわの つうじょう ふつう きょうどうけん)を権威(けんい)づけると論(ろん)ずるのは間違い(まちがい)で( "So to argue that Tradition which is taught authorises the Ordinary Magisterium which is teaching, is wrong, …" ),教皇の特別教導権による教えは無謬(きょうこうの とくべつ きょうどうけんに よる おしえは むびゅう)なのだから( "… and so the Pope is infallible not only in his Extraordinary teaching, …" ),カトリック教徒の私たち(かとりっく きょうとの わたしたち)はリベラル派か教皇空位論者(りべらるは か きょうこう くうい ろんじゃ)のどちらかにならなければならない,と彼らは結論(けつろん)づけます( "… and so we must become either liberals or sedevacantists, they conclude." ).

     来週のエレイソン・コメンツでは,そのような悪循環(あくじゅんかん)などないという点(てん)に触れる(ふれる)ことにします( "Why there is no vicious circle must wait until next week." ).リベラル派や教皇空位論者たちが無謬性(むびゅうせい)についてなぜ共通の誤りに陥る(きょうつうの あやまりに おちいる)のかと同(おな)じように興味深い(きょうみ ぶかい)ものとなるでしょう( "It is as interesting as why both sedevacantists and liberals fall into the same error on infallibility." ).

     キリエ・エレイソン.


     4条件がすべて満たされないなら,
    (よん じょうけんが すべて みたされないなら)
    ( "If four conditions are not all in play." )

     教皇たちは教えたり話したりするとき間違いを犯し得えます.
    (きょうこうたちは おしえたり はなしたり するとき まちがいを おか    し えます)
     ( "The Popes can err in what they teach or say." )


     リチャード・ウィリアムソン司教



* * *



2014年2月25日火曜日

345 致命的な人間化 2/22

エレイソン・コメンツ 第345回 (2014年2月22日)

     使徒聖座(=教皇職)(しと せいざ〈=きょうこう しょく〉)( "the Apostolic See" )が空位だと考える(くういだと かんがえる)一部のカトリック教徒(いちぶの かとりっく きょうと)たちは( "Some Catholics who hold that the Apostolic See is vacant …" ),リベラリズム(=自由主義)(りべらりずむ=じゆう しゅぎ)という遍在的(へんざい てき)な異端(いたん)と教皇空位論(きょうこう くうい ろん)の特定の見解(とくていの けんかい)を同列に置く(どうれつに おく)ように見(み)える最近(さいきん)のエレイソン・コメンツの内容(ないよう)に強く抗議(つよくこうぎ)しています( "… protest strongly against recent issues of these “Comments” which seem to put the universal heresy of liberalism on an equal footing with the particular opinion of sedevacantism." ).これまでの一連(いちれん)のコメンツで私(わたし)はリベラリズムの災い(わざわい)を一貫して非難(いっかん して ひなん)してきましたが( "But whereas these “Comments” constantly excoriate the plague of liberalism, …" ),最近の数回(さいきんのすうかい)では確(たし)かに誰(だれ)しもが教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)になる義務(ぎむ)はないとだけ論(ろん)じました( "… surely they have recently done no more than argue that nobody is obliged to be a sedevacantist, …" ).教皇空位論が時(とき)にはリベラリズムを抑(おさ)える除菌剤の役割(じょきんざいの やくわり)を果(は)たしていることを考(かんが)えると( "…which, considering what a sterilising trap sedevacantism proves in some cases to be, …" ),そうしたエレイソン・コメンツの立場(たちば)は確(たし)かに穏健(おんけん)すぎるように思(おも)えるでしょう( "… is surely a very moderate position to take." ).

     だが,「コメンツ」は教皇空位論(きょうこう くういろん)について,リベラリズムと戦う(たたかう)その努力(どりょく)は称賛に値する(しょうさんに あたい する)が,そのための手段(しゅだん)としては,贔屓目に見ても(ひいきめ に みても)物足りない(ものたりない)と見(み)ています( "However, the “Comments” do hold that sedevacantism, while admirable as an effort to combat liberalism, is at best an inadequate means of doing so, …" ).その理由(りゆう)は,教皇空位論が教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)を誇張(こちょう)するという根本的な間違い(こんぽん てきな まちがい)のひとつをリベラル派(りべらる は)と共有(きょうゆう)しているからです( "… because it shares with liberals one of their basic errors, namely the exaggeration of papal infallibility." ).この間違いを深く探る(ふかく さぐる)と,私たちは今日(こんにち)教会が直面する未曾有の危機(きょうかいが ちょくめんする みぞう の きき)の核心(かくしん)にたどり着きます.ひどく退屈(たいくつ)し気分を悪く(きぶんをわるく)された読者の皆さん(どくしゃの みなさん)にはお詫び(おわび)するしかありませんが,コメンツがこの問題(もんだい)に拘る(こだわ る)のはそのためです( "In its full depth this error takes us to the heart of today’s unprecedented crisis of the Church, which is why the “Comments” will insist on the question, while begging pardon of any readers unduly bored or offended." ).危機(きき)に瀕(ひん)しているのは教会全体(きょうかいぜんたい)であり,教会メンバー個々人(きょうかいめんばーここじん)の感情(かんじょう)ではないのです( "The whole Church is at stake, and not just the sensibilities of these or those of its members." ).

     間違いの核心(まちがいの かくしん)は,人類(じんるい)が過去700年間(かこ ななひゃく ねんかん)にわたり神,神の御独り子(かみの おんひとりご),そしてその教会に対し(きょうかいに たいし)ゆっくりながら着実(ちゃくじつ)に背(そむ)いてきたことです( "That full depth is mankind’s slow but steady turning away over the last 700 years from God, from his Son and from his Church." ).中世の絶頂期(ちゅうせいの ぜっちょうき)には,カトリック教徒(きょうと)たちは汚れのない(けがれの ない)強い信仰を持ち(つよい しんこうを もち),客観的な神(きゃっかんてきな かみ)とその矛盾のない真実(むじゅんのない しんじつ)(=真理〈しんり〉)が唯一無二(ゆいいつむに)であることを理解(りかい)していました( "At the height of the Middle Ages Catholics had a clear and strong faith, grasping the oneness and exclusivity of the objective God and his non-contradictory Truth." ).ダンテはその著書(ちょしょ) 「神曲(しんきょく)」の地獄編(じごくへん)  で教皇(きょうこう)たちに触(ふ)れることになんら問題(もんだい)を感(かん)じませんでした( "Dante had no problem putting Popes in his Inferno." ).たが.数世紀の時(すうせいきの とき)が経つ(たつ)につれ,人間(にんげん)は次第(しだい)に物事の中心(ものごとの ちゅうしん)に自(みずか)らを置(お)くようになり( "But as down the centuries man put himself more and more at the centre of things, …" ),神(かみ)はあらゆる生き物(いきもの)に対(たい)する絶対的な超越(ぜったいてきな ちょうえつ)を失(うしな)い( "… so God lost his absolute transcendence above all creatures, …" ),真実はますます神の権威(かみの けんい)でなく人間の権威(にんげんの けんい)との対比(たいひ)で理解(りかい)されるようになりました( "… and truth became more and more relative, no longer to God’s authority but instead to man’s. " ).

     教会内部(きょうかい ないぶ)について見(み)るなら,たとえばロヨラの聖イグナチオ(ろよらの せい いぐなちお)( "St Ignatius of Loyola" )の有名な著書(ゆうめいな ちょしょ) 「精神修養(せいしん しゅうよう)」  ( "the Spiritual Exercises " )(訳注・= 「霊操(れいそう)」 )の中(なか)にある17(じゅうなな,じゅうしち)の「教会と共に考えるための法則」(きょうかいと ともに かんがえる ための ほうそく)( "Rules for thinking with the Church" )の3番目の法則(さんばんめの ほうそく)をご覧ください( "Within the Church, take for example the 13th of the 17 “Rules for thinking with the Church” from St Ignatius of Loyola’s famous book of the Spiritual Exercises, …" ).これは著されて以来(あらわされて いらい)ずっと,数(かぞ)えきれないほどの歴代教皇(れきだい きょうこう)が称賛(しょうさん)し( "… praised by countless Popes ever since, …" ),しかも間違(まちが)いなく数百万人の霊魂(すうひゃくまんにん の れいこん)を救済(きゅうさい)するのに役立(やくだ)った法則(ほうそく)です( "… and no doubt responsible for helping to save millions of souls." ).イグナチオは 「すべてのことについて正(ただ)しくあるためには,私たちは 聖職階級制教会(せいしょく かいきゅうせい きょうかい)( "the Hierarchical Church" )がそう決(き)めたなら,自分(じぶん)に白(しろ)と見(み)えるものでも黒(くろ)であると常(つね)に考(かんが)えるべきです」 と書(か)いています( "Ignatius writes: “To be right in everything, we ought always to hold that the white which I see, is black, if the Hierarchical Church so decides it.” " ).このような立場(たちば)は短期的(たんき てき)には聖職者(せいしょくしゃ)たちの権威(けんい)を支(ささ)えたかもしれませんが( "Such a position might support the churchmen’s authority in the short run, …" ),長期的(ちょうき てき)にはその権威(けんい)を真実(しんじつ)から引き離す(ひきはなす)ひどいリスク(りすく)を犯(おか)すことにならなかったでしょうか?( "… but did it not run a serious risk of detaching it from truth in the long run ? " )

     事実(じじつ),19世紀末(じゅうきゅうせいき まつ)までにリベラリズムがあまりにも強(つよ)くなってしまったため,教会(きょうかい)は全力(ぜんりょく)で活動(かつどう)するためには1870年(せん はっぴゃく はちじゅう ねん)に教導権の定義(きょうどうけんの ていぎ)を出(だ)し,自らの権威(みずからの けんい)を支(ささ)えざるを得(え)なくなりました( "Indeed by the late 19th century liberalism had become so strong that the Church had to support its own authority by the Definition in 1870 of its Magisterium when operating at full power, …" ).これは,つまり,教会全体を結束させるため(きょうかい ぜんたいを けっそく させるため)教皇(きょうこう)が信仰もしくは倫理の要点(しんこう もしくは りんりの ようてん)を定める(さだめる)ということです( "… namely whenever 1) a Pope 2) defines 3) a point of Faith or morals 4) so as to bind the whole Church." ).(訳注後記) だが,それ以来(いらい)あまりにも人間中心(にんげん ちゅうしん)に考(かんが)えるようになってきたため,多く(おおく)のカトリック信徒(しんと)たちが( "But thinking too humanly since then, too many Catholics, …" )教皇の特別教導権(きょうこうの とくべつ きょうどうけん)を神にまた教会の通常教導権の変遷することのない真実(=真理)(かみ および きょうかいの つうじょう きょうどうけんのへんせんすることのないしんり〈=しんじつ〉)に関連付ける(かんれん づける)代(か)わりに( "… instead of relating this Extraordinary Magisterium to God and to the unchanging truth of the Church’s Ordinary Magisterium, …" ),神御一人から由来(かみ おひとり から ゆらい)し,神のみに属する(ぞくする)無謬性(むびゅうせい)を教皇の人間性(きょうこうの にんげんせい)に与(あた)えるようになりました( "… have tended to lend to the human person of the Pope an infallibility coming from, and belonging to, God alone." ).この人間化プロセス(にんげんか ぷろせす)( “humanising process” )が徐々(じょじょ)に(教皇の)無謬性(むびゅうせい)を生み出し(うみだし),それが「尊厳(そんげん)なる通常教導権(つうじょう きょうどうけん)」の名(な)のもとに教会の伝統(きょうかいの でんとう)を再生(さいせい)できるとする教皇パウロ6世(きょうこう ぱうろ ろくせい)の非常識な主張(ひじょうしきな しゅちょう)へと半ば必然的(なかば ひつぜんてき)につながりました( "This humanising process generated a creeping infallibility which almost inevitably resulted in the preposterous claim of Paul VI to be able to remould the Church’s Tradition in the name of a “Solemn Ordinary Magisterium”." ).カトリック信徒(しんと)たちの過半数(かはんすう)は教皇(きょうこう)がその報いを受ける(むくいを うける)ことなしに済ます(すます)のを認め(みとめ),今日に至る(こんにちに いたる)まで多くの信徒たち(おおくの しんと たち)は歴代公会議派教皇(れきだい こうかいぎは きょうこう)に従(したが)い日々(ひび)リベラル派(りべらる は)になってきています( "The great majority of Catholics allowed him to get away with it, and to this day a mass of them are becoming day by day liberals as they follow the Conciliar Popes, …" ).一方(いっぽう)で,少数派(しょうすう は)のカトリック信徒(しんと)たちは公会議(こうかいぎ)のばかげた言動(げんどう)( “the Conciliar nonsense” )に責任のある者(せきにんの あるもの)が教皇になるなどあり得ない(ありえない)と反発(はんぱつ)せざるをえない状況(じょうきょう)に置(お)かれています( "… while a small minority of Catholics are driven to denying that those responsible for the Conciliar nonsense can be Popes at all." ). (訳注・直訳〈意訳〉は →「(1)ローマ教皇が( "1) a Pope" )(2)定義〈ていぎ〉するところによる( "2) defines" )(3)信仰〈しんこう〉あるいは諸倫理〈しょ りんり〉の要点〈ようてん〉( "3) a point of Faith or morals" )(4)に従う〈したがう〉ことで教会全体が結束〈きょうかい ぜんたいが けっそく〉するようにする( " 4) so as to bind the whole Church.」 〈 "… namely whenever 1) a Pope 2) defines 3) a point of Faith or morals 4) so as to bind the whole Church." 〉)

     簡潔に言えば(かんけつに いえば)( "In brief, …" ),私(わたし)は個人的(こじんてき)に多くの教皇空位論者(おおくの きょうこう くうい ろんじゃ)に尊敬の念(そんけいの ねん)を抱いて(いだいて)います( "…I personally have respect for many sedevacantists, …" ).ただし,それは彼(かれ)らが教会を信じ(きょうかいを しんじ),教会が直面(ちょくめん)する非常に深刻な問題の解決(ひじょうに しんこくな もんだいの かいけつ)に懸命に取り組む(けんめいに とりくむ)という限(かぎ)りにおいてです( "… insofar as they believe in the Church and are desperate for a solution to an infinitely serious problem of the Church.," ).だが,私の考え(わたしの かんがえ)では,彼らはもっと高く深い(たかく ふかい)ところ ― すなわち神御自身(かみ ごじしん)の無限の高さ,深さ(むげんの たかさ,ふかさ)を見る必要(みる ひつよう)があります( "… but in my opinion they need to look higher and deeper – the infinite height and depth of God himself." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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