エレイソン・コメンツ 第443回 (2016年1月9日)
(解説付き)
今日,人々は職場で独り苦しんで居るのでしょうか?
(こんにち,ひとびと は しょくば で
ひとり くるしんで いる ので しょうか?)
Today's work-places crucify a man ?
何処でも出来る処で
a finger-rosary(仮訳:ロザリオ数珠)で
(神の御母〈聖母〉マリアへの)
ロザリオ祈祷を捧げなさい.(訳注1・1)
(どこ でも できる ところ で
a finger-rosary(ふぃんがー・ろざりー)〈かりやく:ろざりお じゅず〉で
〈かみ の おん はは《せいぼ》まりあ への〉
ろざりお きとう を ささげ なさい.)
(訳注1・2 )
With a finger-rosary pray wherever you can.
先週に続き,エレイソン・コメンツの読者から寄せられた素晴らしい手紙をご紹介します(せんしゅう に つづき,えれいそん・こめんつ の いち どくしゃ から よせられた すばらしい てがみ を ご しょうかい します).彼(読者)は正気とは思えない状況に就いて良識有る見方を為て居ます(かれ〈どくしゃ〉は しょうき とは おもえない じょうきょう に ついて りょうしき ある みかた を して います).読者の皆さんは彼の言う事にがっかり為るか,其れとも励まされるかも知れません(どくしゃ の みなさん は かれ の いうこと に がっかり する か,それとも はげまされる かも しれません).多くの読者は自分達が職場で日々直面して居る事を認識為べきです(おおく の どくしゃ は じぶん たち が しょくば で ひび ちょくめん して いる こと を にんしき すべき です).そうすれば,職場でカトリック教の信仰が何故,何の様に蝕まれて居るかが,もっとはっきり分かるかも知れません(そうすれば,しょくば で かとりっく きょう の しんこう が なぜ,どのように むしばまれて いるか が,もっと はっきり わかる かも しれません).以下は彼の手紙の内容です(いか は かれ の てがみ の ないよう です):-
Here is another good letter from a reader of these “Comments”. He takes a sane view of an insane scene. Readers may be discouraged by what he describes, or they may be encouraged by how he describes it. A number of readers must recognize what they are up against every day when they go to work, and they may see better here than they yet see why and how their place of work is eroding their Catholic faith. He writes: –
私は自動車製造工場で此れ迄二年余り働いてき来ました(わたくし は じどうしゃ せいぞう こうじょう で これまで にねん あまり はたらいて きました).給料は十分ですが,私の職場環境は世界全体の一種の縮図の様な物です(きゅうりょう は じゅうぶん ですが,わたくし の しょくば かんきょう は せかい ぜんたい の いっしゅ の しゅくず の ような もの です).其れが何の様な物か以下に説明します…(それ が どの よう な ものか いか に せつめい します…).
I have worked in a factory building cars for over two years now and while it does pay well the environment is a sort of microcosm of the world at large. Let me explain...
1)両性の混同(りょうせい の こんどう) - 男性と女性は互いに身近な状態で共同作業をします(だんせい と じょせい は たがい に みぢか な じょうたい で きょうどう さぎょう を します).此の様な仕事環境は女性の女性らしさを完全に壊して終います(このような しごと かんきょう は じょせい の じょせい らしさ を かんぜん に こわして しまいます).勿論,女性の出来ない仕事も有りますが(もちろん,じょせい の できない しごと も ありますが),両性の平等と言う間違った考え方の為に(りょうせい の びょうどう と いう まちがった かんがえ かた の ため に),会社は女性が其処で働く事を認める必要が有ります(かいしゃ は じょせい が そこ で はたらく こと を みとめる ひつよう が あります).だが,十戒第六戒,第九戒(訳注4・1 )(訳注4・2)の違反に就いて私が聞いた話は実に憂慮す(為)べき(冪)物です(だが,じっかい〈じゅっかい〉だい ろっかい,だい きゅうかい の いはん に ついて わたくし が きいた はなし は じつに ゆうりょ すべき もの です).詳しく述べる必要も無いでしょう.実際に起きて居る事は誰もが予測した事です(くわしく のべる ひつよう も ない でしょう.じっさい に おきて いる こと は だれ も が よそく した こと です).女性は何故其の様な所(処)で働く事を望むのでしょうか?(じょせい は なぜ そのような ところ で はたらく こと を のぞむ ので しょうか?)
1) Mixing up of the sexes - men and women work together in close proximity. Such work completely destroys a woman's femininity. Of course, there are certain jobs which women cannot do, but because of this false sense of equality, the company needs to allow women to work there. The stories that I have heard about the transgressions against the 6th and 9th commandments are truly disturbing. I need not elaborate. But what else did anybody expect ? Why would a woman even want to work in such a place?
2)男性の心は道徳的判断ができなくなっている(だんせい の こころ は どうとく てきはんだん が できなく なって いる) - 勿論,私は一般論と為て話して居ます(もちろん,わたくし は いっぱん ろん として はなして います).だが,私が話した殆(ん)どの男性は倫理観(即ち善と悪)では無く(だが,わたくし が はなした ほとんど の だんせいは りんり かん〈すなわち ぜん と あく〉ではなく),如何為たら楽しく過ごせるかを基準に考えて居ます(どうしたら たのしく すごせるか を きじゅん に かんがえて います).私は何人かの同僚と話し(わたくし は なんにん か の どうりょう と はなし),彼等が分かる様な方法で道徳の問題を提起為ようと為ましたが(かれら が わかる よう な ほうほう で どうとく の もんだい を ていき しよう と しました が),彼等に取って,其れは右の耳柄左の耳へ抜けて終った様です(かれら に とって,それ は みぎ の みみ から ひだり の みみ へ ぬけて しまった ようです).男性は肉欲に関(わ)る事に没頭為ると,心に就いて考える事が出来なく為ります(だんせいは にくよく に かかわる こと に ぼっとう すると,こころ に ついて かんがえる ことができなくなります).もっと悪い事に,同僚達は自ら犯した罪を自慢する事を全く恥と考えて居ないのです(もっと わるい こと に,どうりょう たち は みずから おかした つみ を じまん する こと を まったく はじ と かんがえて いない のです).昔は男性達は恥の意識を持って居ました.今や,そんな物は無い様です(むかし は だんせい たち は はじ の いしき を もって いました.いまや,そんな もの は ない よう です).
2) Men's minds are incapable of making moral judgments - I generalize of course, but most of the men I have talked to do not think in terms of morality (i.e. good and evil) but in terms of what pleasures can keep them entertained. I have talked to several co-workers and have tried to bring up questions of morality in a way that they might understand, but it seems to go over their heads. When a man has steeped himself in the things of the flesh, he is incapable of thinking of the soul. Worse, some of these co-workers have absolutely no shame in boasting of their sins. Once upon a time men had shame. No longer, it would seem.
3)私は私自身の神である(わたくし は わたくし じしん の かみ で ある) - 誤った自由が男性の生活指針として称えられています(あやまった じゆう が だんせい の せいかつ ししん と して たたえ られて います).私は同僚の何人かと議論を為ましたが,私が其の都度知らされたのは,真理や倫理は純粋に主観的な事だと言う事です(わたくし は どうりょう の なんにん か と ぎろん を しました が,わたくし が その つど しらされた のは,しんり や りんり は じゅんすい に しゅかん てきな こと だ と いう こと です).自分が真実だと信じる事が素晴らしいので有り,自分の考え方を他人に押し付ける事等出来ないと言うのです(じぶん が しんじつ だ と しんじる こと が すばらしい ので あり,じぶん の かんがえ かた を たにん に おしつける こと など できない というのです).私は上司に,其の様な考え方は馬鹿げて居ると話しました(わたくし は じょうし に,その ような かんがえ かた は ばかげて いる と はなしました).一人以上の妻を持つのは結構な事だと言う者が居たら如何でしょうかと,彼に尋ねました(ひとり いじょう の つま を もつ のは けっこう な こと だ と いう もの が いたら どう でしょうか と,かれ に たずね ました).彼は考え方は人それぞれだと応えました(かれ はかんがえ かた は ひと それぞれ だ と こたえました).真理は主観的な物で無いと言う基本原則を否定する人が居るなら,其の人に話しても無駄でしょう(しんり は しゅかん てき な もの で ない と いう きほん げんそく を ひてい する ひと が いる なら,その ひと に はなしても むだ でしょう).突き詰めると,人はそれぞれ自分以外の何かに従う代わりに自分自身の現実を築きあげるのですから(つきつめる と,ひと は それぞれ じぶん いがい の なにか に したがう かわり に じぶん じしん の げんじつ を きずき あげる の です から),自分が自分自身の神になるということでしょう(じぶん が じぶん じしん の かみ に なる と いう こと で しょう).
3) I am my own god - False liberty is exalted as the guiding principle in men's lives. I have had a few discussions with some of my co-workers and what I get every single time is that truth and morality are purely a subjective affair. What you believe to be truth is fine for you, but you cannot impose your way of thinking on anyone else. I told a supervisor of mine that such thinking is nonsense. I said, what if someone thinks that having more than one wife is fine ? He said, belief is up to the individual. If a man denies such a basic principle as that truth is not subjective, then there is no point in talking to him. In essence, every individual becomes his own god because HE has constructed his own reality instead of submitting to something outside of him.
近代工場の環境は一種の無神状態を作り出します(きんだい こうじょう の かんきょう は いっしゅ の むしん じょうたい を つくり だし ます).私は工場労働者が輝かしい美徳の模範に為る事を期待為て居る訳では有りません(わたくし は こうじょう ろうどう しゃ が かがやかしい びとく の もはん に なる こと を きたい している わけ では ありません).だが,近代工場はチャールズ・ディケンズが彼の時代に就いて書いた事より益々悪く成って居ると言いたく為ります(だが,きんだい こうじょう は ちゃーるず・でぃけんず が かれ の じだい に ついて かいた こと より ますます わるく なって いる と いいたく なります).私の言いたい事は未だ沢山有ります(わたくし の いいたい こと は まだ たくさん あります).だが,要点は次の事です(だが,ようてん は つぎ のこと です).即ち,罪に因って壊われた生活や快楽を貪る生活で神の恩寵が如何働くでしょうか?(すなわち,つみ に よって こわれた せいかつ や かいらく を むさぼる せいかつ で かみ の おんちょう が どう はたらく で しょうか?)道徳の最も基本的な基準さえ分かろうと為ない者と如何心を通わせたら良いのでしょうか?(どうとく の もっとも きほん てき な きじゅん さえ わかろう と しない もの と どう こころ を かよわせ たら いい ので しょうか?) 控え目に言っても、此れは失望的な状況です(ひかえめ に いっても,これ は しつぼう てき な じょうきょう です).溝に嵌(ま)った(填〈ま〉った)私達の為に祈って下さい(みぞ に はまった わたくし たち の ため に いのって ください).
The environment of a modern factory breeds a sort of godlessness. I don't expect factory workers to be examples of stellar virtue but I would say that modern factories are exponentially worse than what Charles Dickens wrote about in his times. I can go on and on, but the point I am trying to make is this: how can grace operate in lives which are destroyed through sin and a life of seeking pleasure ? How does one reach out to men who cannot even grasp the most elementary norms of morality? It is frustrating to say the least. Please pray for us in the trenches.
(手紙の紹介終わり)(てがみ の しょうかい おわり)
女性は女性らしさと家庭から自らを解放する(じょせい は じょせい らしさ と かてい から みずから を かいほう する).男性は客観的な道徳と客観的な真理から自らを解放する(だんせい は きゃっかん てき な どうとく と きゃっかん てき な しんり から みずから を かいほう する).其の様な「信仰心の無い邪悪な世代」(新約聖書・使徒聖ルカによる聖福音書:第九章四十一節)(訳注7・1)に如何遣って手を差し伸べ,話し掛けたら良いのでしょうか?(そのような「しんこう しん の ないじゃあく な せだい」に どうやって て を さしのべ,はなし かけたら いい の で しょうか?)模範,愛徳,祈りに拠る(依る)しか方法は無いでしょう(もはん,あいとく,いのり に よる しか ほうほう は ない でしょう).私は手紙を下さった読者に,ロザリオ(数珠)を職場に持って行き(わたくし は てがみ を くださった どくしゃ に,ろざりお〈じゅず〉を しょくば に もって いき),目立たない様に仕事仲間の為に一連(=天使祝詞 "Ave, Maria" を十回)ずつ祈り(めだたない よう に しごと なかま の ため に いちれん〈=てんし しゅくし "あべまりあ" を じゅっかい〉ずつ いのり),自分の職場環境から自らを霊的(精神的)に守る為祈る様アドバイス為ました(じぶん の しょくば かんきょう から みずから を れいてき〈せいしんてき〉に まもる ため いのる よう あどばいす しました).但し,彼は此れを目立たない様に為る必要が有ります(ただし,かれ は これ を めだたないよう に する ひつよう が あります).
Woman freeing herself from femininity and family, man freeing himself from objective morality and objective truth – how indeed can one reach out to, or even talk with, such a “faithless and perverse generation” (Lk. IX, 41) ? By example, charity and prayer. I advised the writer to take a finger rosary to work to be able to pray discreetly decade after decade to pray for his fellow-workers and to protect himself spiritually from his work environment. But he will need to be discreet.
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
訳注1・1
『何処でも出来る処で a finger-rosary (仮訳:ロザリオ数珠)で
(神の御母〈聖母〉マリアへの)ロザリオ祈祷を捧げなさい.』
について:
・「a finger-rosary(仮訳:ロザリオ数珠)」(ふぃんがー・ろざりー)〈かりやく:ろざりお じゅず〉
に就いて:
→片手の指だけで数える事が出来る小さなロザリオ数珠のこと.
(かたて の ゆび だけ で かぞえる こと が できる ちいさな ろざりお じゅず の こと)
・実物の具体例:
① 周囲に一つの十字架印とロザリオ祈祷一連分を数える事が出来る十個の突起(珠十個分)が付いた指輪を使用して,一人で「ロザリオ祈祷の黙祷」を為る事が出来る
(しゅうい に ひとつ の じゅうじか じるし(いん)と ろざりお きとう いちれん ぶんを かぞえる こと が できる じゅっこ の とっき(たま じゅっこ ぶん)が ついた ゆびわ を しよう して,ひとりで「ろざりお きとう の もくそう」を する こと が できる).
② 一つの十字架と一連分の数珠(珠十個)だけが付いた小型(ミニサイズ)のロザリオ数珠もある(ひとつ の じゅうじか と いちれん ぶん の じゅず〈たま じゅっこ〉だけ がついた こがた〈みに さいず〉の ろざりお じゅず も ある).
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訳注1・2
「(神の御母〈聖母〉マリアへの)ロザリオ祈祷」に就いて:
(「(かみ の おん はは〈せいぼ〉まりあ の)ろざりお きとう」
について:)
・解説
「ロザリオ祈祷」の由来・方法についての解説:
(「ろざりお きとう」の ゆらい・ほうほう に ついて の せつめい:)
→参考文献:
(さんこうぶんけん:)
『聖母マリアへのロザリオ九日間の祈り』(ドン・ボスコ社)
(「せいぼ まりあ へ の ろざりお ここのか かん の いのり」〈どん・ぼすこ しゃ〉
*訳注の続き(訳注4・1)(訳注4・2)(訳注 7・1)を続けます.
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(解説無し)
今日,人々は職場で独り苦しんでいるのでしょうか?
どこでもできるところでa finger-rosary(ロザリオの祈り)を捧げなさい.
Today's work-places crucify a man ?
With a finger-rosary pray wherever you can.
先週に続き,エレイソン・コメンツの一読者から寄せられた素晴らしい手紙をご紹介します.彼(読者)は正気とは思えない状況について良識ある見方をしています.読者の皆さんは彼の言う事にがっかりするか,それとも励まされるかもしれません.多くの読者は自分たちが職場で日々直面していることを認識すべきです.そうすれば,職場でカトリック教の信仰がなぜ,どのようにむしばまれているかが,もっとはっきり分かるかもしれません.以下は彼の手紙の内容です:-
Here is another good letter from a reader of these “Comments”. He takes a sane view of an insane scene. Readers may be discouraged by what he describes, or they may be encouraged by how he describes it. A number of readers must recognize what they are up against every day when they go to work, and they may see better here than they yet see why and how their place of work is eroding their Catholic faith. He writes: –
私は自動車製造工場でこれまで二年あまり働いてきました.給料は十分ですが,私の職場環境は世界全体の一種の縮図のようなものです.それがどのようなものか以下に説明します….
I have worked in a factory building cars for over two years now and while it does pay well the environment is a sort of microcosm of the world at large. Let me explain...
1)両性の混同 - 男性と女性は互いに身近な状態で共同作業をします.このような仕事環境は女性の女性らしさを完全に壊してしまいます.もちろん,女性のできない仕事もありますが,両性の平等という間違った考え方のために,会社は女性がそこで働くことを認める必要があります.だが,十戒第6戒,第9戒(訳注:第6戒:姦淫してはならない,第9戒:隣人の妻を欲してはならない)の違反について私が聞いた話は実に憂慮すべきものです.詳しく述べる必要もないでしょう.実際に起きていることは誰もが予測したことです.女性はなぜそのようなところで働くことを望むのでしょうか?
1) Mixing up of the sexes - men and women work together in close proximity. Such work completely destroys a woman's femininity. Of course, there are certain jobs which women cannot do, but because of this false sense of equality, the company needs to allow women to work there. The stories that I have heard about the transgressions against the 6th and 9th commandments are truly disturbing. I need not elaborate. But what else did anybody expect ? Why would a woman even want to work in such a place?
2)男性の心は道徳的判断ができなくなっている - もちろん,私は一般論として話しています.だが,私が話したほとんどの男性は倫理観(すなわち善と悪)ではなく,どうしたら楽しく過ごせるかを基準に考えています.私は何人かの同僚と話し,彼らが分かるような方法で道徳の問題を提起しようとしましたが,彼らにとって,それは右の耳から左の耳へ抜けてしまったようです.男性は肉欲にかかわること没頭すると,心について考えることができなくなります.もっと悪いことに,同僚たちは自ら犯した罪を自慢することをまったく恥と考えていないのです.昔は男性たちは恥の意識を持っていました.いまや,そんなものはないようです.
2) Men's minds are incapable of making moral judgments - I generalize of course, but most of the men I have talked to do not think in terms of morality (i.e. good and evil) but in terms of what pleasures can keep them entertained. I have talked to several co-workers and have tried to bring up questions of morality in a way that they might understand, but it seems to go over their heads. When a man has steeped himself in the things of the flesh, he is incapable of thinking of the soul. Worse, some of these co-workers have absolutely no shame in boasting of their sins. Once upon a time men had shame. No longer, it would seem.
3)私は私自身の神である - 誤った自由が男性の生活指針として称えられています.私は同僚の何人かと議論をしましたが,私がその都度知らされたのは,真理や倫理は純粋に主観的なことだということです.自分が真実だと信じることが素晴らしいのであり,自分の考え方を他人に押し付けることなどできないというのです.私は上司に,そのような考え方はばかげていると話しました.一人以上の妻を持つのは結構なことだと言う者がいたらどうでしょうかと,彼に尋ねました.彼は考え方は人それぞれだと応えました.真理は主観的なものでないという基本原則を否定する人がいるなら,その人に話しても無駄でしょう.突き詰めると,人はそれぞれ自分以外の何かに従う代わりに自分自身の現実を築きあげるのですから,自分が自分自身の神になるということでしょう.
3) I am my own god - False liberty is exalted as the guiding principle in men's lives. I have had a few discussions with some of my co-workers and what I get every single time is that truth and morality are purely a subjective affair. What you believe to be truth is fine for you, but you cannot impose your way of thinking on anyone else. I told a supervisor of mine that such thinking is nonsense. I said, what if someone thinks that having more than one wife is fine ? He said, belief is up to the individual. If a man denies such a basic principle as that truth is not subjective, then there is no point in talking to him. In essence, every individual becomes his own god because HE has constructed his own reality instead of submitting to something outside of him.
近代工場の環境は一種の無神状態を作り出します.私は工場労働者が輝かしい美徳の模範になること期待しているわけではありません.だが,近代工場はチャールズ・ディケンズが彼の時代について書いたことより益々悪くなっていると言いたくなります.私の言いたいことはまだ沢山あります.だが,要点は次のことです.罪によって壊れた生活や快楽をむさぼる生活で神の恩寵がどう働くでしょうか? 道徳の最も基本的な基準さえ分かろうとしない者とどう心を通わせたらいいのでしょうか? 控えめに言っても,これは失望的な状況です.溝にはまった私たちのために祈ってください.
The environment of a modern factory breeds a sort of godlessness. I don't expect factory workers to be examples of stellar virtue but I would say that modern factories are exponentially worse than what Charles Dickens wrote about in his times. I can go on and on, but the point I am trying to make is this: how can grace operate in lives which are destroyed through sin and a life of seeking pleasure ? How does one reach out to men who cannot even grasp the most elementary norms of morality? It is frustrating to say the least. Please pray for us in the trenches.
(手紙の紹介終わり)
女性は女性らしさと家庭から自らを解放する.男性は客観的な道徳と客観的な真理から自らを解放する.そのような「信仰心のない邪悪な世代」(新約聖書・使徒聖ルカによる聖福音書:第9章41節)にどうやって手を差し伸べ,話しかけたらいいのでしょうか? 模範,愛,祈りによるしか方法はないでしょう.私は手紙をくださった読者に,ロザリオを職場に持って行き,目立たないように仕事仲間のために1連(=天使祝詞 "Ave, Maria" を10回)ずつ祈り,自分の職場環境から自らを精神的に守るため祈るようアドバイスしました.ただし,彼はこれを目立たないようにする必要があります.
Woman freeing herself from femininity and family, man freeing himself from objective morality and objective truth – how indeed can one reach out to, or even talk with, such a “faithless and perverse generation” (Lk. IX, 41) ? By example, charity and prayer. I advised the writer to take a finger rosary to work to be able to pray discreetly decade after decade to pray for his fellow-workers and to protect himself spiritually from his work environment. But he will need to be discreet.
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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本投稿記事・第443回エレイソン・コメンツ「工場生活」(2016年1月9日付)/ELEISON COMMENTS CDXLII (Jan. 9, 2016) : "FACTORY LIFE" は2016年1月20日05時00分に掲載されました.
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2016年1月9日土曜日
2013年11月30日土曜日
333 リユ神父 I 11/30
エレイソン・コメンツ 第333回 (2013年11月30日)
聖ピオ十世会( "the Soceity of St Pius X" = SSPX )の指導者たちがカトリック教理への理解(りかい)を失(うしな)い,その後(ご)ルフェーブル大司教 ( "Archbishop Lefebvre" )の労力(ろうりょく)を裏切(うらぎ)ったことが昨年3月以降(さくねん さんがつ いこう)はっきりしたというのに,同会の司祭たちの間(あいだ)で反乱(はんらん)が起(お)きなかったのはなぜでしょうか?( "Why was there not an uprising amongst priests of the Society of St Pius X when their leaders' loss of grip on Catholic doctrine and subsequent betrayal of Archbishop Lefebvre's work became absolutely clear from March of last year onwards ? " )フランスでの「抵抗運動(ていこう うんどう)」の先駆者であるオリビエ・リユ神父( "Fr. Olivier Rioult" )が先月(せんげつ)のインタビューで,この疑問(ぎもん)に対(たい)する適切(てきせつ)な答(こた)えをいくつか示(しめ)しました.このインタビューは pelagiusasturiensis.wordpress.com. からフランス語でアクセスできます.( "Fr. Olivier Rioult, trail-blazer of the "Resistance" in France, gave several good reasons last month in an interview accessible in French on pelagiusasturiensis.wordpress.com. " ).以下の要約(ようやく)は私がインタビュー原文から翻案(ほんあん)したものです:-- ( "The following summary is freely adapted from the original text:-- " )
(要約)
根本的(こんぽんてき)には原罪(げんざい)( "original sin" )です( "Basically, original sin: " ) : 1970年代,80年代の最初の伝統復帰運動(でんとう ふっき うんどう)が信仰(しんこう)の本質的要素(ほんしつてき ようそ)の存続(そんぞく)を保証(ほしょう)するのに成功(せいこう)したとたん( "Once the original fight for Tradition in the 1970's and '80's had succeeded in guaranteeing the survival of the essentials of the Faith, …" ),伝統主義者(でんとうしゅぎしゃ)たちは自分たちの果(は)たした栄光(えいこう)に胡坐(あぐら)をかき,居心地(いごこち)の良い居留地(きょりゅうち)( "enclaves" )での生活(せいかつ)を楽(たの)しむようになりました( "…Traditionalists sat back on their laurels to enjoy their cosy enclaves, …" ).そして彼らは快適(かいてき)な日常業務(にちじょう ぎょうむ)にすっかり定着(ていちゃく)してしまい( "…and they settled into a comfortable routine …" ),いまではそれを失(うしな)いたくないようです( "…which they are now reluctant to lose. " ).彼らは(カトリック)信仰 ( "the Faith" ) のために戦(たたか)う精神(せいしん)を失(うしな)っています( "They have lost the spirit of fighting for the Faith." ).
第2は,その原罪の典型的な姿(てんけいてきな すがた)といえる自由主義(じゆうしゅぎ)( "liberalism" )です( "Secondly, that particular form of original sin which is liberalism: " ) : 過去10年間, SSPX 指導者たちは自由主義,誤(あやま)り,うぬぼれに対する戦(たたか)いを弱(よわ)めようと率先(そっせん)してきました( "Over the last ten years Society leaders have given the lead in weakening the fight against liberalism, error and immodesty." ).だが,流(なが)れに逆(さか)らうのを止(や)めるのは下流(かりゅう)に流されるということです( "But to cease swimming against the current is to drift backwards, …" ).そして多数(たすう)の SSPX の司祭たちは - 決してすべてではありませんが - 自(みずか)らの信念(しんねん)や説教(せっきょう)する能力(のうりょく)を弱(よわ)めてしまいました( "… and a number of SSPX priests -- by no means all -- have grown weaker in their convictions and their preaching." ).
第3は行動主義( "activism" )です( "Thirdly, activism: " ): 一部の同僚(どうりょう)たちは司祭としての職務(しょくむ)に忙(いそが)しく駆(か)けずりまわるようになり( "some colleagues can also let themselves be run off their feet by their priestly tasks, …" ),本を読み勉強(ほんをよみ べんきょう)しようとする時間(じかん)も意欲(いよく)もなくしています( "…leaving themselves no time or inclination to read or study." ).彼らは単(たん)なる管理者(かんりしゃ)や伝達者(でんたつしゃ)になってしまい( "Turning into mere administrators and communicators, …" ),信念や説教の能力を低下させています( "…they weaken their convictions and preaching." ).
第4はフェレー司教の策略(さくりゃく)です( "Fourthly, Bishop Fellay's trickery: " ): これまで何年ものあいだ,彼の訳(わけ)のわからない言葉が,先見の明(せんけんのめい)があるのに自分の言うことを聞いてもらえない少数(しょうすう)の人たち以外(いがい)のすべての人々を欺(あざむ)いてきました( "for years his double-talk deceived everybody except a small minority of clear-sighted souls who could absolutely not get a hearing." ).あの3月の「 "Cor Unum" 」(訳注・ラテン語で「ひとつの心〈こころ〉」の意)( "the March "Cor Unum" " )と3人の司教たち(の質問状〈しつもんじょう〉)に対(たい)して彼が返(かえ)した4月14日付け返書(へんしょ)で彼の化けの皮(ばけのかわ)が剥(は)がれたばかりです( "Only last year did his mask come off with the March "Cor Unum" and with his reply of April 14 to the three bishops." ).それまで彼は(カトリック教)伝統主義者の大半(たいはん)を眠(ねむ)らせたままにしてきました(彼はいままた同じことをしようとしています)( "The great majority of Traditionalists he had put to sleep (as he is now doing again)." ).
第5は未知(みち)のものへの恐怖(きょうふ)です( "Fifthly, fear of the unknown: " ): あなたの周(まわ)りの世界全体(せかい ぜんたい)が気が狂(きがくる)ったように変(か)わる中で( "when the whole world around you is going mad, …" ),正気の居留地(しょうきの きょりゅうち)( "an enclave of sanity" )を見つけたとたん( "…and you find an enclave of sanity, …" ),その居留地(きょりゅうち)も同(おな)じように狂(くる)いだしたとしたら( "…and then that enclave also begins to go mad, …" ),現実(げんじつ)に直面(ちょくめん)し幻想(げんそう)に走(はし)らないためには並外(なみはず)れた強い性格(つよい せいかく)が求(もと)められます( "…it requires unusual strength of character to face up to the reality and not prefer some illusion or other, …" ).しかも,幻想はいたるところに溢(あふ)れています( "… and of illusions there are plenty ! " ) ! こうなると,多くの司祭たちは死ぬ思い(しぬ おもい)をするような決断(けつだん)( "crucifying decisions" )を求(もと)められるドラマを生き抜(いきぬ)いているのだと気づく(きづく)のですが( "Thus many priests realize that they are living through a drama calling for some crucifying decisions, …" ),彼らは未知(みち)のものに飛び込(とびこ)んで行(ゆ)く勇気(ゆうき)を欠(か)いています( "… but they lack the necessary fortitude to launch into the unknown." ).
そして,最後(さいご)だが軽視(けいし)できないことは,お粗末(おそまつ)な指導者( "bad leaders" )です( "And last but not least, bad leaders: " ): もちろん,教会主流派内部(きょうかい しゅりゅうは ないぶ)( "within the mainstream Church" )と同じように SSPX 内部にもリベラル派(は)は常(つね)に存在(そんざい)してきました( "… of course there have always been liberals within the SSPX as within the mainstream Church, …" ).指導者(しどうしゃ)たちがしっかりしてさえいれば( "… but for as long as the leaders hold firm, …" ),そういう連中(れんちゅう)を抑え込(おさえこ)むのは可能(かのう)です( "… these can be held in check." ).だが,教会主流派の中でも(教皇)ヨハネ23世( "John XXIII" )や(教皇)パウロ6世( "Paul VI" )がリベラリズム(=自由主義〈じゆうしゅぎ〉)を支持(しじ)したため( "However, when in the mainstream Church John XXIII and Paul VI favoured their liberalism, …" ),それによる結果(けっか)は津波(つなみ)のように広(ひろ)がりました( "… the result was a tidal wave, …" ).いまや, SSPX 指導者たちはリベラル派に転向(てんこう)しているわけですから( "… and now that SSPX leaders have turned liberal, …" ),同会内にはリベラリズムが急速(きゅうそく)に広(ひろ)がっています( "… liberalism is sweeping through the Society …" ).このようなことは賢明(けんめい)な指導者,真(まこと・しん)の指導者の下(もと)では決(けっ)して起きなかったでしょう( "… as it would never have done under good leaders, true leaders." ).
(要約終わり)
リユ神父が挙げた理由(あげた りゆう)はすべて当(あ)たっています( "These reasons given by Fr Rioult are all true, …" ).だが,そのいずれも「世界に対する(せかいに たいする)私たちの勝利(わたしたちの しょうり)」(〈新約聖書〉使徒聖ヨハネの第一の手紙5章4節〈 "I Jn. V, 4" 〉)(訳注後記1)という信仰以上に強い(しんこう いじょうに つよい)ものではありません( "… but none of them are stronger than that Faith which is "our victory over the world" (I Jn.V, 4). " ).まさに,理由のすべては司祭たち自身の強い信仰の欠如(けつじょ)に帰(き)すると言えるでしょう( "Indeed one might say that all the reasons come down to the lack of a strong enough Faith on the part of the priests, …" ).なぜなら,彼らは現世の人々(げんせの ひとびと)すべての真実(しんじつ)に対する掌握(どうあく)が緩(ゆる)んでしまった世界(せかい)に生(い)きているからです( "… because they are living in a world in which the grip on Truth of every soul alive has been loosened, …" ).真実(しんじつ)が真実でないとすれば,どうして信仰が真実のものになりうるでしょうか?( "… and if Truth is not true, how can Faith be true ? " )
では,今日(こんにち)の気違(きちが)いじみた状況下(じょうきょうか)で私たちは真実を理解する能力を高める(しんじつを りかいする のうりょくを たかめる)ことがどうしても必要(ひつよう)ですが,その最も簡単な方法(もっとも かんたんな ほうほう)は何(なん)でしょうか?( "Then what is the simplest way to strengthen one's grip on Truth, as we absolutely need to do in today’s crazy circumstances ? " ) 私の意見(わたしの いけん)では:-- ( "In my opinion:-- " )
「目を覚まして祈れ,目を覚まして祈れ,
ロザリオの15玄義を日々(ひび)」
( "Watch and pray, watch and pray,
Fiftheen Mysteries evey day" ) (訳注後記2)
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第8パラグラフの訳注1
「世界に対する私たちの勝利」について:
新約聖書・使徒聖ヨハネの第一の手紙:第5章4節
EPISTOLA BEATI IOANNIS APOSTOLI PRIMA V, 4
THE FIRST EPISTLE OF ST. JOHN THE APOSTLE V, 4
PREMIÈRE ÉPÎTRE DE SAINT JEAN V, 4 Foi victorieuse du monde.
『神から生まれた者は世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.』
"Quoniam omne quod natum est ex Deo, vincit mundum : et hæc est victoria, quæ vincit mundum, fides nostra."
"For whatsoever is born of God, overcometh the world: and this is the victory which overcometh the world, our faith."
"Parce que tous ceux qui sont nés de Dieu triomphent du monde ; et la victoire qui triomphe du monde, c’est notre foi."
* * *
第10パラグラフの訳注2
「目を覚まして祈れ」について:
(めを さまして いのれ)=警戒〈けいかい〉して祈れ
* * *
「ロザリオの15玄義」について:
「公教会祈祷文(こうきょうかい きとうぶん)」より抜粋(ばっすい).
「ロザリオの祈(いのり)」
ロザリオの祈りは救世主(きゅうせいしゅ)と聖マリアの主な喜(よろこ)び,苦(くる)しみ,栄(さか)えの玄義(げんぎ)を黙想(もくそう)しながら天使祝詞(てんししゅくし)百五十回を唱(とな)える祈りである.
天使祝詞十回が一連(いちれん)で,五連が一環(いっかん)となり三環で終(おわ)る.一連毎(ごと)に一玄義を黙想するからロザリオの十五玄義(じゅうご げんぎ)といわれる.
… 一般に各連(かくれん)の唱え方は黙想する玄義を始(はじ)めに唱え,大珠(だいじゅ)では主祷文(しゅとうぶん),小珠(しょうしゅ)では天使祝詞各一回宛(かく いっかい ずつ)を唱え,終りに栄唱(えいしょう)を唱える.
* * *
聖ピオ十世会( "the Soceity of St Pius X" = SSPX )の指導者たちがカトリック教理への理解(りかい)を失(うしな)い,その後(ご)ルフェーブル大司教 ( "Archbishop Lefebvre" )の労力(ろうりょく)を裏切(うらぎ)ったことが昨年3月以降(さくねん さんがつ いこう)はっきりしたというのに,同会の司祭たちの間(あいだ)で反乱(はんらん)が起(お)きなかったのはなぜでしょうか?( "Why was there not an uprising amongst priests of the Society of St Pius X when their leaders' loss of grip on Catholic doctrine and subsequent betrayal of Archbishop Lefebvre's work became absolutely clear from March of last year onwards ? " )フランスでの「抵抗運動(ていこう うんどう)」の先駆者であるオリビエ・リユ神父( "Fr. Olivier Rioult" )が先月(せんげつ)のインタビューで,この疑問(ぎもん)に対(たい)する適切(てきせつ)な答(こた)えをいくつか示(しめ)しました.このインタビューは pelagiusasturiensis.wordpress.com. からフランス語でアクセスできます.( "Fr. Olivier Rioult, trail-blazer of the "Resistance" in France, gave several good reasons last month in an interview accessible in French on pelagiusasturiensis.wordpress.com. " ).以下の要約(ようやく)は私がインタビュー原文から翻案(ほんあん)したものです:-- ( "The following summary is freely adapted from the original text:-- " )
(要約)
根本的(こんぽんてき)には原罪(げんざい)( "original sin" )です( "Basically, original sin: " ) : 1970年代,80年代の最初の伝統復帰運動(でんとう ふっき うんどう)が信仰(しんこう)の本質的要素(ほんしつてき ようそ)の存続(そんぞく)を保証(ほしょう)するのに成功(せいこう)したとたん( "Once the original fight for Tradition in the 1970's and '80's had succeeded in guaranteeing the survival of the essentials of the Faith, …" ),伝統主義者(でんとうしゅぎしゃ)たちは自分たちの果(は)たした栄光(えいこう)に胡坐(あぐら)をかき,居心地(いごこち)の良い居留地(きょりゅうち)( "enclaves" )での生活(せいかつ)を楽(たの)しむようになりました( "…Traditionalists sat back on their laurels to enjoy their cosy enclaves, …" ).そして彼らは快適(かいてき)な日常業務(にちじょう ぎょうむ)にすっかり定着(ていちゃく)してしまい( "…and they settled into a comfortable routine …" ),いまではそれを失(うしな)いたくないようです( "…which they are now reluctant to lose. " ).彼らは(カトリック)信仰 ( "the Faith" ) のために戦(たたか)う精神(せいしん)を失(うしな)っています( "They have lost the spirit of fighting for the Faith." ).
第2は,その原罪の典型的な姿(てんけいてきな すがた)といえる自由主義(じゆうしゅぎ)( "liberalism" )です( "Secondly, that particular form of original sin which is liberalism: " ) : 過去10年間, SSPX 指導者たちは自由主義,誤(あやま)り,うぬぼれに対する戦(たたか)いを弱(よわ)めようと率先(そっせん)してきました( "Over the last ten years Society leaders have given the lead in weakening the fight against liberalism, error and immodesty." ).だが,流(なが)れに逆(さか)らうのを止(や)めるのは下流(かりゅう)に流されるということです( "But to cease swimming against the current is to drift backwards, …" ).そして多数(たすう)の SSPX の司祭たちは - 決してすべてではありませんが - 自(みずか)らの信念(しんねん)や説教(せっきょう)する能力(のうりょく)を弱(よわ)めてしまいました( "… and a number of SSPX priests -- by no means all -- have grown weaker in their convictions and their preaching." ).
第3は行動主義( "activism" )です( "Thirdly, activism: " ): 一部の同僚(どうりょう)たちは司祭としての職務(しょくむ)に忙(いそが)しく駆(か)けずりまわるようになり( "some colleagues can also let themselves be run off their feet by their priestly tasks, …" ),本を読み勉強(ほんをよみ べんきょう)しようとする時間(じかん)も意欲(いよく)もなくしています( "…leaving themselves no time or inclination to read or study." ).彼らは単(たん)なる管理者(かんりしゃ)や伝達者(でんたつしゃ)になってしまい( "Turning into mere administrators and communicators, …" ),信念や説教の能力を低下させています( "…they weaken their convictions and preaching." ).
第4はフェレー司教の策略(さくりゃく)です( "Fourthly, Bishop Fellay's trickery: " ): これまで何年ものあいだ,彼の訳(わけ)のわからない言葉が,先見の明(せんけんのめい)があるのに自分の言うことを聞いてもらえない少数(しょうすう)の人たち以外(いがい)のすべての人々を欺(あざむ)いてきました( "for years his double-talk deceived everybody except a small minority of clear-sighted souls who could absolutely not get a hearing." ).あの3月の「 "Cor Unum" 」(訳注・ラテン語で「ひとつの心〈こころ〉」の意)( "the March "Cor Unum" " )と3人の司教たち(の質問状〈しつもんじょう〉)に対(たい)して彼が返(かえ)した4月14日付け返書(へんしょ)で彼の化けの皮(ばけのかわ)が剥(は)がれたばかりです( "Only last year did his mask come off with the March "Cor Unum" and with his reply of April 14 to the three bishops." ).それまで彼は(カトリック教)伝統主義者の大半(たいはん)を眠(ねむ)らせたままにしてきました(彼はいままた同じことをしようとしています)( "The great majority of Traditionalists he had put to sleep (as he is now doing again)." ).
第5は未知(みち)のものへの恐怖(きょうふ)です( "Fifthly, fear of the unknown: " ): あなたの周(まわ)りの世界全体(せかい ぜんたい)が気が狂(きがくる)ったように変(か)わる中で( "when the whole world around you is going mad, …" ),正気の居留地(しょうきの きょりゅうち)( "an enclave of sanity" )を見つけたとたん( "…and you find an enclave of sanity, …" ),その居留地(きょりゅうち)も同(おな)じように狂(くる)いだしたとしたら( "…and then that enclave also begins to go mad, …" ),現実(げんじつ)に直面(ちょくめん)し幻想(げんそう)に走(はし)らないためには並外(なみはず)れた強い性格(つよい せいかく)が求(もと)められます( "…it requires unusual strength of character to face up to the reality and not prefer some illusion or other, …" ).しかも,幻想はいたるところに溢(あふ)れています( "… and of illusions there are plenty ! " ) ! こうなると,多くの司祭たちは死ぬ思い(しぬ おもい)をするような決断(けつだん)( "crucifying decisions" )を求(もと)められるドラマを生き抜(いきぬ)いているのだと気づく(きづく)のですが( "Thus many priests realize that they are living through a drama calling for some crucifying decisions, …" ),彼らは未知(みち)のものに飛び込(とびこ)んで行(ゆ)く勇気(ゆうき)を欠(か)いています( "… but they lack the necessary fortitude to launch into the unknown." ).
そして,最後(さいご)だが軽視(けいし)できないことは,お粗末(おそまつ)な指導者( "bad leaders" )です( "And last but not least, bad leaders: " ): もちろん,教会主流派内部(きょうかい しゅりゅうは ないぶ)( "within the mainstream Church" )と同じように SSPX 内部にもリベラル派(は)は常(つね)に存在(そんざい)してきました( "… of course there have always been liberals within the SSPX as within the mainstream Church, …" ).指導者(しどうしゃ)たちがしっかりしてさえいれば( "… but for as long as the leaders hold firm, …" ),そういう連中(れんちゅう)を抑え込(おさえこ)むのは可能(かのう)です( "… these can be held in check." ).だが,教会主流派の中でも(教皇)ヨハネ23世( "John XXIII" )や(教皇)パウロ6世( "Paul VI" )がリベラリズム(=自由主義〈じゆうしゅぎ〉)を支持(しじ)したため( "However, when in the mainstream Church John XXIII and Paul VI favoured their liberalism, …" ),それによる結果(けっか)は津波(つなみ)のように広(ひろ)がりました( "… the result was a tidal wave, …" ).いまや, SSPX 指導者たちはリベラル派に転向(てんこう)しているわけですから( "… and now that SSPX leaders have turned liberal, …" ),同会内にはリベラリズムが急速(きゅうそく)に広(ひろ)がっています( "… liberalism is sweeping through the Society …" ).このようなことは賢明(けんめい)な指導者,真(まこと・しん)の指導者の下(もと)では決(けっ)して起きなかったでしょう( "… as it would never have done under good leaders, true leaders." ).
(要約終わり)
リユ神父が挙げた理由(あげた りゆう)はすべて当(あ)たっています( "These reasons given by Fr Rioult are all true, …" ).だが,そのいずれも「世界に対する(せかいに たいする)私たちの勝利(わたしたちの しょうり)」(〈新約聖書〉使徒聖ヨハネの第一の手紙5章4節〈 "I Jn. V, 4" 〉)(訳注後記1)という信仰以上に強い(しんこう いじょうに つよい)ものではありません( "… but none of them are stronger than that Faith which is "our victory over the world" (I Jn.V, 4). " ).まさに,理由のすべては司祭たち自身の強い信仰の欠如(けつじょ)に帰(き)すると言えるでしょう( "Indeed one might say that all the reasons come down to the lack of a strong enough Faith on the part of the priests, …" ).なぜなら,彼らは現世の人々(げんせの ひとびと)すべての真実(しんじつ)に対する掌握(どうあく)が緩(ゆる)んでしまった世界(せかい)に生(い)きているからです( "… because they are living in a world in which the grip on Truth of every soul alive has been loosened, …" ).真実(しんじつ)が真実でないとすれば,どうして信仰が真実のものになりうるでしょうか?( "… and if Truth is not true, how can Faith be true ? " )
では,今日(こんにち)の気違(きちが)いじみた状況下(じょうきょうか)で私たちは真実を理解する能力を高める(しんじつを りかいする のうりょくを たかめる)ことがどうしても必要(ひつよう)ですが,その最も簡単な方法(もっとも かんたんな ほうほう)は何(なん)でしょうか?( "Then what is the simplest way to strengthen one's grip on Truth, as we absolutely need to do in today’s crazy circumstances ? " ) 私の意見(わたしの いけん)では:-- ( "In my opinion:-- " )
「目を覚まして祈れ,目を覚まして祈れ,
ロザリオの15玄義を日々(ひび)」
( "Watch and pray, watch and pray,
Fiftheen Mysteries evey day" ) (訳注後記2)
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第8パラグラフの訳注1
「世界に対する私たちの勝利」について:
新約聖書・使徒聖ヨハネの第一の手紙:第5章4節
EPISTOLA BEATI IOANNIS APOSTOLI PRIMA V, 4
THE FIRST EPISTLE OF ST. JOHN THE APOSTLE V, 4
PREMIÈRE ÉPÎTRE DE SAINT JEAN V, 4 Foi victorieuse du monde.
『神から生まれた者は世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.』
"Quoniam omne quod natum est ex Deo, vincit mundum : et hæc est victoria, quæ vincit mundum, fides nostra."
"For whatsoever is born of God, overcometh the world: and this is the victory which overcometh the world, our faith."
"Parce que tous ceux qui sont nés de Dieu triomphent du monde ; et la victoire qui triomphe du monde, c’est notre foi."
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第10パラグラフの訳注2
「目を覚まして祈れ」について:
(めを さまして いのれ)=警戒〈けいかい〉して祈れ
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「ロザリオの15玄義」について:
「公教会祈祷文(こうきょうかい きとうぶん)」より抜粋(ばっすい).
「ロザリオの祈(いのり)」
ロザリオの祈りは救世主(きゅうせいしゅ)と聖マリアの主な喜(よろこ)び,苦(くる)しみ,栄(さか)えの玄義(げんぎ)を黙想(もくそう)しながら天使祝詞(てんししゅくし)百五十回を唱(とな)える祈りである.
天使祝詞十回が一連(いちれん)で,五連が一環(いっかん)となり三環で終(おわ)る.一連毎(ごと)に一玄義を黙想するからロザリオの十五玄義(じゅうご げんぎ)といわれる.
… 一般に各連(かくれん)の唱え方は黙想する玄義を始(はじ)めに唱え,大珠(だいじゅ)では主祷文(しゅとうぶん),小珠(しょうしゅ)では天使祝詞各一回宛(かく いっかい ずつ)を唱え,終りに栄唱(えいしょう)を唱える.
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2012年10月5日金曜日
272 サルト,それともシリ? 9/16
エレイソン・コメンツ 第272回 (2012年9月30日)
教皇聖ピオ10世祝日の説教をしているとき私は異説に近いこと( "almost a heresy" )を呟(つぶや)いている自分に気づきました.もしジュゼッペ・サルト( "Giuseppe Sarto" )が1914年に教皇ピオ10世として死を迎える代わりに,たとえば1974年に枢機卿(すうききょう)として生涯(しょうがい)を終えたとしたら,彼ははたして教皇パウロ6世の(訳注・カトリック)教会破壊(はかい)に異を唱えていただろうか,と声を強めて問いかけたのです( "In a sermon for the Feast of St Pius X I found myself uttering « almost a heresy »: I wondered aloud whether Giuseppe Sarto would have disobeyed Paul VI’s destruction of the Church, if, instead of dying as Pope Pius X in 1914, he had died as a Cardinal in, say, 1974." ).聖ピオ十世会( " the Society of St Pius X, SSPX" )内部でこのようなことを言えば異説と取られるに違いありません.なぜなら,どうして聖ピオ十世会が天から授かった守護聖人(訳注:「サルト」すなわち「教皇聖ピオ十世」を意味する)の良識が誤りを犯すことがあり得ましょうか?(そんなことはあり得ないはずだからです.)( "Within the Society of St Pius X that must sound like a heresy because how can the wisdom of the heavenly patron of the SSPX be in any way flawed ? " ).でも,これは無意味な疑問だとは思いません( "Yet the question is not idle." ).
1970年代にルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )はカトリック教会で最も優秀な枢機卿たち,司教たちを何人も個人的に訪(たず)ねて回りました.その中の一握(ひとにぎ)りの方たちでもいいから第二バチカン公会議の革命に対し公然と抵抗を示すよう説得できたらと期待したのです( "In the 1970’s Archbishop Lefebvre made personal visits to a number of the Church’s best cardinals and bishops in the hope of persuading a mere handful of them to offer public resistance to the Vatican II revolution." ).大司教は生前,わずか6名の司教でもまとまって行動すれば,公会議による教会破壊を大いに妨(さまた)げることができただろうと言っておられました( "He used to say that just half a dozen bishops resisting together could have seriously obstructed the Conciliar devastation of the Church." ).悲しいかな,教皇ピオ12世がジェノバのシリ枢機卿(Cardinal Siri of Genoa)を自(みずか)らの後継者に選んだにもかかわらず,教会権威者にたいする公式な反対の動きは起きませんでした( "Alas, not even Pius XII’s choice of successor, Cardinal Siri of Genoa, would make a public move against the Church Establishment." ).最終的には,ディ・カストロ・マイエル司教( "Bishop de Castro Mayer" )が進み出て異を唱えましたが,それはようやく1980年代になってからで,すでに公会議の革命は教会上層部に深く定着していました( "Finally Bishop de Castro Mayer stepped forward, but only in the 1980’s, by when the Conciliar Revolution was well ensconced at the top of the Church." ).
きちんと訓練されたはずの司教たちの最良の者たちの心さえ(訳注:神の知恵・知識・霊性等の放つ光に)暗くなってしまい動かなかったのはなぜでしょう( "So how could the best of well-trained minds have been so darkened ? " )? それら当時の最良の聖職者たちの中でも,ルフェーブル大司教に分かっていたこと,たとえば新しい典礼によるミサ聖祭 ( "the Novus Ordo Mass" )を確立した「法」( the "law" )は単に共通の利益のために出された布告( "an ordinance" )の性格を持つにすぎないので,法とはまったくかけ離れたものであることを理解した方々がほとんどいなかったのはなぜでしょう( "How could so few of the best churchmen at that time not have seen what the Archbishop was seeing, for instance that the “law” establishing the Novus Ordo Mass was no law at all, because it belongs to the very nature of law to be an ordinance of reason for the common good ? " ) ?カトリック教会の存続そのものが第二バチカン公会議と新しいミサ聖祭によって脅(おびや)かされていたときに,大司教はそのような常識の根本原則が権力重視のあまり窒息(ちっそく)させられてはならないと周知徹底しようとしましたが,彼がほとんど孤立無援だったのはなぜでしょう( "How could he have been so relatively alone in not letting such a basic principle of common sense be smothered by respect for authority, when the Church’s very survival was being placed in peril by Vatican II and the New Mass ? " )? 権力者が現実と真実をめぐる争いで圧倒的な優位に立ったのはどうしてでしょうか( "How can authority have so gained the upper hand on reality and truth ? " )?
この疑問に対する私の答えは,これまで7世紀にもおよぶ期間にキリスト教が背教(はいきょう)に落ち込んできたからだということです( "My own answer is that for seven centuries Christendom has been sliding into apostasy." ).反改革運動( "the Counter-Reformation" )のような尊(とうと)い中断期間を除けば,700年もの間,カトリック教の現実は自由主義( "liberalism" )という癌(ガン,=悪性腫瘍)のような空想によって徐々に蝕(むしば)まれてきました( "For 700 years, with noble interruptions like the Counter-Reformation, the reality of Catholicism has been slowly eaten away by the cancerous fantasy of liberalism,…" ).この自由主義とは自然の恩寵からの解放,知性の客観的真実からの解放,意思の客観的善悪からの解放を通した人間の神からの解放です( "…which is the freeing of man from God by the freeing of nature from grace, of mind from objective truth and of will from objective right and wrong." ).最も長く見て650年もの間,カトリック教聖職者たちは現実を固持し擁護(ようご)してきましたが,結局ついにあでやかな近代の面白おかしい空想が彼らの骨の中に入り込み,とうとう現実が彼らの知性,意思から離れていきました( "For the longest time, 650 years, the Catholic churchmen clung to and defended reality, but finally enough of the engrossing fantasy of glamorous modernity worked its way into their bones for reality to lose its grip on their minds and wills." ).聖トマス・モア( "St Thomas More" )が彼の時代にカトリック教会を裏切った英国の司教たちについて述べたように,恩寵を欠いた公会議派司教たちは人間の空想が神の現実( "the God's reality" )にとって代わり,権力が真実にとって代わるよう仕向けました( "Lacking grace, as St Thomas More said of the English bishops in his time betraying the Catholic Church, the Conciliar bishops let men’s fantasy take over from God’s reality, and authority take over from truth." ).聖職者,一般信徒がともに学ぶべき実用的な教訓が( "practical lessons" )がいくつもあります( "There are practical lessons for clergy and laity alike." ).
神に仕える聖ピオ十世会内部,外部の同僚の皆さん,ジュゼッペ・サルトのように行動する必要があるときにジュゼッペ・シリのように行動することに気をつけ,パッシェンディ( "Pascendi" ),ラメンタビリ( "Lamentabili" ),シヨンに関する書簡( "the Letter on the Sillon" )にある現代の誤(あやま)りをサルトがしたように強く糾弾(きゅうだん)しましょう( "Colleagues inside and outside the SSPX, to serve God, let us beware of reacting like Giuseppe Siri when we need to be reacting like Giuseppe Sarto, with his magnificent denunciations of the modern errors in Pascendi, Lamentabili and the Letter on the Sillon." ).教会の全歴史のなかでの最大の危機にあって私たちが必要とする恩寵を得るため私たちは大いに祈る必要があります( "And to obtain the grace we need in this most tremendous crisis of all Church history, we need tremendously to pray." ).
一般信者の皆さん,近代社会生活の恐怖を前に「正義への渇望(かつぼう)」( "hunger and thirst after justice" )をお感じになったら,恐怖があなたの現実感覚を保(たも)っている( "the horrors are keeping you real" )ことに喜びを感じてください( "Layfolk, if horrors of modern life make you “hunger and thirst after justice”, rejoice if you can that the horrors are keeping you real,…" ).そして,あなたが渇望し続けるかぎり,やがては満たされる( "have your fill" )ことを疑わないでください(新約聖書・マテオ聖福音書:第5章6節を参照)( "…and do not doubt that if you persevere in your hunger, you will “have your fill” (Mt.V, 6). " ).心貧しき者は幸いなり,と私たちの主イエズス・キリストは説かれています.同じところで,従順なる者,悲しむ者は(幸いなり)とも言われています( "Blessed are the poor in spirit, the meek, and they that mourn, says Our Lord, in the same place." ).あなたの知性(=知恵・精神)と感情(=心)を空想から守るもっとも確かな方法は聖母マリアのロザリオを一日5回祈ることです.15回ならなおさら良いでしょう( "As for the surest protection against your minds and hearts being taken over by the fantasy, pray five, better fifteen, Mysteries a day of Our Lady’s Holy Rosary." ).(訳注後記)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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訳注を追加掲載いたします.
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教皇聖ピオ10世祝日の説教をしているとき私は異説に近いこと( "almost a heresy" )を呟(つぶや)いている自分に気づきました.もしジュゼッペ・サルト( "Giuseppe Sarto" )が1914年に教皇ピオ10世として死を迎える代わりに,たとえば1974年に枢機卿(すうききょう)として生涯(しょうがい)を終えたとしたら,彼ははたして教皇パウロ6世の(訳注・カトリック)教会破壊(はかい)に異を唱えていただろうか,と声を強めて問いかけたのです( "In a sermon for the Feast of St Pius X I found myself uttering « almost a heresy »: I wondered aloud whether Giuseppe Sarto would have disobeyed Paul VI’s destruction of the Church, if, instead of dying as Pope Pius X in 1914, he had died as a Cardinal in, say, 1974." ).聖ピオ十世会( " the Society of St Pius X, SSPX" )内部でこのようなことを言えば異説と取られるに違いありません.なぜなら,どうして聖ピオ十世会が天から授かった守護聖人(訳注:「サルト」すなわち「教皇聖ピオ十世」を意味する)の良識が誤りを犯すことがあり得ましょうか?(そんなことはあり得ないはずだからです.)( "Within the Society of St Pius X that must sound like a heresy because how can the wisdom of the heavenly patron of the SSPX be in any way flawed ? " ).でも,これは無意味な疑問だとは思いません( "Yet the question is not idle." ).
1970年代にルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )はカトリック教会で最も優秀な枢機卿たち,司教たちを何人も個人的に訪(たず)ねて回りました.その中の一握(ひとにぎ)りの方たちでもいいから第二バチカン公会議の革命に対し公然と抵抗を示すよう説得できたらと期待したのです( "In the 1970’s Archbishop Lefebvre made personal visits to a number of the Church’s best cardinals and bishops in the hope of persuading a mere handful of them to offer public resistance to the Vatican II revolution." ).大司教は生前,わずか6名の司教でもまとまって行動すれば,公会議による教会破壊を大いに妨(さまた)げることができただろうと言っておられました( "He used to say that just half a dozen bishops resisting together could have seriously obstructed the Conciliar devastation of the Church." ).悲しいかな,教皇ピオ12世がジェノバのシリ枢機卿(Cardinal Siri of Genoa)を自(みずか)らの後継者に選んだにもかかわらず,教会権威者にたいする公式な反対の動きは起きませんでした( "Alas, not even Pius XII’s choice of successor, Cardinal Siri of Genoa, would make a public move against the Church Establishment." ).最終的には,ディ・カストロ・マイエル司教( "Bishop de Castro Mayer" )が進み出て異を唱えましたが,それはようやく1980年代になってからで,すでに公会議の革命は教会上層部に深く定着していました( "Finally Bishop de Castro Mayer stepped forward, but only in the 1980’s, by when the Conciliar Revolution was well ensconced at the top of the Church." ).
きちんと訓練されたはずの司教たちの最良の者たちの心さえ(訳注:神の知恵・知識・霊性等の放つ光に)暗くなってしまい動かなかったのはなぜでしょう( "So how could the best of well-trained minds have been so darkened ? " )? それら当時の最良の聖職者たちの中でも,ルフェーブル大司教に分かっていたこと,たとえば新しい典礼によるミサ聖祭 ( "the Novus Ordo Mass" )を確立した「法」( the "law" )は単に共通の利益のために出された布告( "an ordinance" )の性格を持つにすぎないので,法とはまったくかけ離れたものであることを理解した方々がほとんどいなかったのはなぜでしょう( "How could so few of the best churchmen at that time not have seen what the Archbishop was seeing, for instance that the “law” establishing the Novus Ordo Mass was no law at all, because it belongs to the very nature of law to be an ordinance of reason for the common good ? " ) ?カトリック教会の存続そのものが第二バチカン公会議と新しいミサ聖祭によって脅(おびや)かされていたときに,大司教はそのような常識の根本原則が権力重視のあまり窒息(ちっそく)させられてはならないと周知徹底しようとしましたが,彼がほとんど孤立無援だったのはなぜでしょう( "How could he have been so relatively alone in not letting such a basic principle of common sense be smothered by respect for authority, when the Church’s very survival was being placed in peril by Vatican II and the New Mass ? " )? 権力者が現実と真実をめぐる争いで圧倒的な優位に立ったのはどうしてでしょうか( "How can authority have so gained the upper hand on reality and truth ? " )?
この疑問に対する私の答えは,これまで7世紀にもおよぶ期間にキリスト教が背教(はいきょう)に落ち込んできたからだということです( "My own answer is that for seven centuries Christendom has been sliding into apostasy." ).反改革運動( "the Counter-Reformation" )のような尊(とうと)い中断期間を除けば,700年もの間,カトリック教の現実は自由主義( "liberalism" )という癌(ガン,=悪性腫瘍)のような空想によって徐々に蝕(むしば)まれてきました( "For 700 years, with noble interruptions like the Counter-Reformation, the reality of Catholicism has been slowly eaten away by the cancerous fantasy of liberalism,…" ).この自由主義とは自然の恩寵からの解放,知性の客観的真実からの解放,意思の客観的善悪からの解放を通した人間の神からの解放です( "…which is the freeing of man from God by the freeing of nature from grace, of mind from objective truth and of will from objective right and wrong." ).最も長く見て650年もの間,カトリック教聖職者たちは現実を固持し擁護(ようご)してきましたが,結局ついにあでやかな近代の面白おかしい空想が彼らの骨の中に入り込み,とうとう現実が彼らの知性,意思から離れていきました( "For the longest time, 650 years, the Catholic churchmen clung to and defended reality, but finally enough of the engrossing fantasy of glamorous modernity worked its way into their bones for reality to lose its grip on their minds and wills." ).聖トマス・モア( "St Thomas More" )が彼の時代にカトリック教会を裏切った英国の司教たちについて述べたように,恩寵を欠いた公会議派司教たちは人間の空想が神の現実( "the God's reality" )にとって代わり,権力が真実にとって代わるよう仕向けました( "Lacking grace, as St Thomas More said of the English bishops in his time betraying the Catholic Church, the Conciliar bishops let men’s fantasy take over from God’s reality, and authority take over from truth." ).聖職者,一般信徒がともに学ぶべき実用的な教訓が( "practical lessons" )がいくつもあります( "There are practical lessons for clergy and laity alike." ).
神に仕える聖ピオ十世会内部,外部の同僚の皆さん,ジュゼッペ・サルトのように行動する必要があるときにジュゼッペ・シリのように行動することに気をつけ,パッシェンディ( "Pascendi" ),ラメンタビリ( "Lamentabili" ),シヨンに関する書簡( "the Letter on the Sillon" )にある現代の誤(あやま)りをサルトがしたように強く糾弾(きゅうだん)しましょう( "Colleagues inside and outside the SSPX, to serve God, let us beware of reacting like Giuseppe Siri when we need to be reacting like Giuseppe Sarto, with his magnificent denunciations of the modern errors in Pascendi, Lamentabili and the Letter on the Sillon." ).教会の全歴史のなかでの最大の危機にあって私たちが必要とする恩寵を得るため私たちは大いに祈る必要があります( "And to obtain the grace we need in this most tremendous crisis of all Church history, we need tremendously to pray." ).
一般信者の皆さん,近代社会生活の恐怖を前に「正義への渇望(かつぼう)」( "hunger and thirst after justice" )をお感じになったら,恐怖があなたの現実感覚を保(たも)っている( "the horrors are keeping you real" )ことに喜びを感じてください( "Layfolk, if horrors of modern life make you “hunger and thirst after justice”, rejoice if you can that the horrors are keeping you real,…" ).そして,あなたが渇望し続けるかぎり,やがては満たされる( "have your fill" )ことを疑わないでください(新約聖書・マテオ聖福音書:第5章6節を参照)( "…and do not doubt that if you persevere in your hunger, you will “have your fill” (Mt.V, 6). " ).心貧しき者は幸いなり,と私たちの主イエズス・キリストは説かれています.同じところで,従順なる者,悲しむ者は(幸いなり)とも言われています( "Blessed are the poor in spirit, the meek, and they that mourn, says Our Lord, in the same place." ).あなたの知性(=知恵・精神)と感情(=心)を空想から守るもっとも確かな方法は聖母マリアのロザリオを一日5回祈ることです.15回ならなおさら良いでしょう( "As for the surest protection against your minds and hearts being taken over by the fantasy, pray five, better fifteen, Mysteries a day of Our Lady’s Holy Rosary." ).(訳注後記)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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訳注を追加掲載いたします.
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2011年4月4日月曜日
なぜ苦難があるのか?
エレイソン・コメンツ 第192回 (2011年3月19日)
最近,日本の東海岸沖合でプレート移動による激しい地殻変動が,内陸部で観測史上最大の地震を,沿岸部で壊滅的な津波を引き起こしました.この天災は多くの人の心に古くからある疑問を投げかけたに違いありません.もし神が存在し,その神が全能かつ限りなき善意の持ち主であるなら,人間がこれほどの大きな苦難を被(こうむ)ることをどうしてお許しになるのだろうか? 人々が自ら苦難に直面していない平時なら,この疑問に対し昔からある答えを理解するのは理屈の上ではそう難しいことではありません!--
まず第一に,苦難は往々にして罪に対する罰です.神は確かに存在し,罪は神の怒りを招きます.罪が霊魂を地獄に落とすものである一方で神は霊魂を天国に向けるよう創造されました.もし地上での苦難が罪にブレーキをかけ霊魂が天国を選ぶ助けになるなら,そのために必要とあらば地殻変動プレートを支配される神は不本意ながらもそれを用いて罪を罰することがおできになるのです.では日本の人々が他国の人々に比べ殊(こと)のほか罪深かったのでしょうか? 私たちの主イエズス・キリスト御自身は私たちに対してこう言われます.すなわち,そのような問いかけをするのではなく,むしろ私たちが自らを振り返って犯した数々の罪のことを思い巡(めぐ)らし,その償いを果しなさい,さもなければ「あなたたちもみな同様に滅びるだろう」(ルカ13章4節)と.西洋式(欧米流)物質主義とそれがもたらす快適さが本当の人生といえるかどうか疑問に思っている日本人が現在誰一人いないとしてもさほど驚くことではないのではないでしょうか?(訳注後記)
第二に,人間の苦難は警告(けいこく)となり得るのであり,人々に悪から目を背け自惚(うぬぼ)れを避けるよう仕向けます.たった今,神の存在を認めない罪深き西洋諸国全体が自身の物質主義と繁栄に疑問を投げかけるべきです(訳注後記).過去数年間にわたり世界各地で着実に高まりつつある地震その他の自然災害の発生率により,主なる神は確かに私たち人間すべての注意を喚起(かんき)しておられるのです.おそらく神が,1973年に日本の秋田で神の御母を通し警告されたように世界中で私たち人間に「火の雨」を降らせるという罰を下さずに済むようにと望まれているからです(訳注後記).だが,たった今現実に苦難を受けている日本の人々の方が,遠く隔(へだ)たった西洋諸国の人々に比べ被った災害からより多くの利益を得ている公算が大きい(可能性が高い)と言えるのではないでしょうか? これら諸国のいずれの国にとっても実のところ,差し迫った神の懲罰の前触(まえぶ)れ(予兆)を予(あらかじ)め味わっているというだけで運がいいということなのかもしれません.
第三に,神は人間の苦難を用いて神の僕たちの善徳を浮き彫り(うきぼり)にされるのかもしれません.ちょうどヨブ(訳注・旧約聖書に登場する善人の名)やキリスト教の昔からのあらゆる殉教者たちの場合がその例にあたります.今日の日本において超自然的な神への信仰( “supernatural faith” )を持つ人は少ないかもしれませんが,今回の事態においてもし日本の人々が漠然(ばくぜん)とでも強力な神の御手(の業(わざ),力)を感じさせる何らかの偉大な存在の下に自らを低くし慎(つつし)むなら,(神の支配される)自然の賜物に与(あずか)るようになり,少なくとも自然レベルで自らの身をもって神に栄光をもたらすことになるでしょう(訳注後記).
最後に,旧約聖書のヨブの書第36章に記されてあるとおり,ヨブがなぜ苦難に襲われたかについてヨブ自身や彼の家族や友人たちが思いついた説明にどうしても満足しないヨブに対して,ついに神御自身が答えられます.神の御言葉を分かりやすいように言い換えてみます:「ヨブよ,私(神)が地に基(もとい)をおいた時,あなたはどこにいたのか? あなたが地殻変動プレートを造ったのか? あなたは誰が平時には海の水をその境界内に留(とど)め,乾いた土地に押し寄せぬようにしていると思っているのか? この度,海水が日本の東北地方沿岸に打ち寄せるままにした私自身に然(しか)るべき理由がなかったと,あなたには本気で思えるのか?」ヨブの書の第38章と39章を読んでみて下さい.ヨブはようやく屈服し神に服従したのです.ヨブは神の答えに満足し,神の上智(知恵・叡智)と善意に疑問を差し挟(はさ)んだ自らの過(あやま)ちを認めました(ヨブ42,1-7)(訳注後記).
世界中の私たち一人ひとりが神に対しこれまでに犯した自らの罪の償いをしましょう.一人ひとりが日本で起きたこの大震災を自らへの警告と受け止め自分自身を戒(いまし)めましょう.やがて私たち自身にふりかかる様々な試練のなかで,(神の御前に正しく慎ましく生活することにより)神に栄光をもたらすことができるよう望みをかけましょう.そして,とりわけ,神のみが唯一の神(永遠の全知全能の存在なる方)であることを認めましょう!(訳注後記)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
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(訳注)のリスト:
(1)第2パラグラフの訳注:新約聖書・ルカ聖福音書:第13章4節
(2)第3パラグラフの2番目の訳注:「秋田の聖母」について.
(3)第5パラグラフの2番目の訳注:旧約聖書・ヨブの書:第42章1-7節
(4)第5パラグラフの初めの訳注:旧約聖書・ヨブの書:第38,39章→38章-40章を部分的に抜粋して記載します(後から全部を別の場所に記載します).
(5)第2,第3,第4パラグラフについての訳注:聖書の引用
・「西洋式物質主義の快適さが本当の人生と言えるか?」について.
・「罪深き西洋諸国全体の物質主義と繁栄に疑問を投げかけるべき」について.
・「超自然的な神への信仰」( “supernatural faith” )について.
(6)第4,6パラグラフについての訳注:
・「神に栄光をもたらす」…原文 “give Him glory”, “to give glory to God.” の意味について.
(注・引用した聖書の(注釈)の一部については後から追加します)
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(1)第2パラグラフの訳注:
新約聖書・ルカ聖福音書:第13章4節(太字部分)(1-5節を記載)
『そのとき,ピラトがあるガリラヤ人たちの血を彼らのいけにえに混ぜたという知らせを告げに来た人々があった.
イエズスは答えられた,「ガリラヤ人がそんな目に会ったからといって,彼らが他のガリラヤ人以上に大きな罪人だったと思うか.私は言う.そうではない.あなたたちも悔い改めないなら,みな同じように滅びるだろう.
また,*¹シロアムの塔が倒れて押しつぶされた十八人が,エルサレムのほかの人々よりも大きな負い目をもっていたと思うか.私は言う.そうではない.*²悔い改めないなら,あなたたちもみな同じように滅びる」.』
(注釈)
(悔い改め)
*¹ユダヤ人は,災(わざわ)いは罪の罰であると考えていた.しかしそうではない.義人(正しい人)も災いにあうことがある.
²このことばはエルサレム滅亡のとき実現した.
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(2)第3パラグラフの訳注:
「秋田の聖母」 “Our Lady of Akita” について.
日本よりも海外でよく知られており,「日本の聖母マリア」として大変有名である.巡礼者も毎年世界各地から多くの人が訪れている.
(出来事の簡単な説明)
日本の秋田県で1973年から1982年まで続いた聖母マリア御出現の奇跡.
・1973年夏,秋田県秋田市にあるカトリックの女子在俗修道会「聖体奉仕会」所属の修道女シスター・アグネス笹川の左掌に十字架の形の傷が現れ激しく痛み出血した(「聖痕」と呼ばれる奇跡的な現象).
・また修道院の聖堂の木彫りの聖母像の目から涙が流れ出,その右掌からも血が流れた.
・そして聖母御出現当時,神の御旨により全く耳が聞えなくされていたシスターの耳に聖母の非常に美しいみ声が聞えた.
・聖母は3回シスターに出現され,世界人類の罪に対する神の悲しみと怒り,来たるべき神の人類への重い罰,悪魔の誘惑によるカトリック教会の堕落,多くの失われる霊魂に対する聖母の悲しみなどについて警告された.
・また世界を破滅から救うことが出来るのはキリストの残された印(御聖体)と聖母のロザリオの祈りのみであることを訴えられ,人々の改心のため,またカトリック教会の聖職者(司教・司祭)たちのために償いと犠牲の業とロザリオの祈りを熱心にすることの必要性を告げられた.
・他に,香しい芳香が感じられるなどの奇跡も数回起きている.
・シスター笹川の耳は聖母の出現から数年後(1982年)神の奇跡により癒(いや)され完全に聞えるようになった.
・聖母像の目から涙が流れ出た回数は数年間に101回に及び,この間に延べ約500人の人が訪れその涙を目撃している.
・秋田に訪れて聖母に祈りを捧げた多くの人が聖母の取り次ぎにより病気の治癒や改心に導かれるなどの人生の奇跡的な転換を体験している.
(参考文献)
・「秋田の聖母マリア」安田貞治神父・著 聖体奉仕会・発行(1987年)
・「日本の奇跡『 聖母マリア像の涙』- 秋田のメッセージ」安田貞治神父・著 エンデルレ書店・発行(2001年)
・ロザリオの祈りはダイノスコプス・エレイソン・コメンツ用語集に記載されています.
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(3)第5パラグラフの訳注:
旧約聖書・ヨブの書:第42章1-7節
『そのときヨブは主(神)に答えて言った,
「あなたにはすべてができると,私は知っています.あなたは企(くわだ)てたことを実行されます.
思慮のない言葉で,あなたの企てをかき乱したのは私です.
私は自分で分からぬこと,自分の知らぬ不思議について,向こうみずにも語りました.
(聞きたまえ,私に言わせたまえ.私は尋(たず)ねます.教えたまえ).
*私は耳で聞いてあなたを知っていました.だが今,私はこの目であなたを見ました.
そのために私は自分の愚かさにあきれ,ちりと灰の上で悔やみます.」 』
(注釈)
*神の出現のことをいっているのではない.ただ,神の実在について新しい知識を受けた.ヨブは神の神秘を知りその全能を礼拝する.正義についてヨブがした質問に神からの返事はなかった.しかし,神がなさったことを人間に神自身が説明する義務のないこと,神の知恵は苦しみと死という事実にも,人間の考え及ばぬ意味を持たせうることをヨブは悟った.
(注記)
エレイソン・コメンツ第180回の「第2パラグラフの訳注」と「『正しい人の苦しみ』について」をご参照ください.
* * *
(4)第5パラグラフの初めの訳注:
旧約聖書・ヨブの書:第38,39章
→38章-40章を部分的に抜粋して記載します(後から全部を別の場所に記載します).
『そのとき,主は,嵐の中からヨブに話しかけられた,
「思慮のないことばで,私のはかりごとをかきまぜるのはだれか.
おまえは勇士のように腰に帯せよ,私が尋(たず)ねるから教えてくれ.
私が地に基(もとい)をおいたとき,おまえはどこにいたのか.
知っているなら言え.
だれがその尺度を決めたか知っているのか.だれがそこに綱を引いたのか.
その土台は何の上に立ち,だれが隅石をおいたのか.
朝の星がともに歌い,神の子らが喜びおどっていたそのとき.
だれが海に戸を閉ざしたのか.
それが胎からあふれ出たときのことだ.
私がその上に雲をまとわせ,黒雲を産衣(うぶぎ)としたときのことだ.
私はそれに境を定め,扉とかんぬきをおいて,
〈これを越えてはならぬ〉と言った.
〈ここでおまえの波の高ぶりはとどまる〉と.・・・
おまえは海の源にいき,淵の底をまわったことがあるのか.
死の門を示し,影(黄泉)の国の門を見たことがあるのか.
また,地の広さを幾分でも知っているのか.
言え,知っているのなら.
光はどちらの方に住み,やみのところはどこにあるのか.
おまえはそれらを迎えにいき,おのおのの家に連れもどせるのか.・・・
おまえは雪の倉にも入り,
雹(ひょう)の蓄(たくわ)えどころを見たことがあるのか.
それは苦悩のときのために,戦いといくさの日のために蓄えてある.
稲妻はどの方角にひらめき,地に火花を散らすのか.
にわか雨に堀を開き,雷鳴に道を明けるのはだれか.
無人の地にも,人住まぬ荒野にも雨を降らし,
すたれた寂しいところに水を与え,荒れ地に草を生えさせる.・・・
おまえにスバルの鎖が結べるのか.あるいはオリオンの綱が解けるのか.・・・
天の法則を知り,地へのその影響を定めるのはおまえか.
声を雲にあげ,水の集まりを従えることができるのか.
稲妻が〈はい,ここにいます〉とやってきて出かけるのは,
おまえが命令を下すからなのか.・・・
雌じしのためにえさを狩り,子じしの飢えを満たすのはおまえか.
かれらが穴にうずくまり,茂みに待ち伏せしているときに,
からすの子が神に向って鳴き,えさもなくさまようとき,
からすに食べ物を与えるのはだれか.・・・
・・・そのとき,ヨブは主に答えて言った,
「私は軽率なことを申しました.あなたに何の口答えができましょう.
私は口に手をあてます.一度話しましたが,もうくり返しません.
二度話しましたが,もう続けられません」.
だが主は,ヨブに言われた,
「勇士のように腰に帯をせよ,私が問えばおまえが教えよ.
おまえは本当に私の権利を踏みにじりたいのか.
自分を正しいとしたいがために私を非とするのか.
おまえは神のような腕を持ち,神のような声でとどろきわたれるのか.
では,威厳と偉大さをもってみずから語り,華麗と光栄を身につけよ.
怒りといきどおりを吐き出し,
おまえの見る高慢な者どもを卑しめ,高慢な者どもをかがませ,
悪人をそのところで踏みつぶし,
彼らをともに土の中にうずめ,その隠れ家に顔を閉じこめよ.
そうすれば私もおまえをほめよう.その右の手は勝利を得たのだから.・・・ 』
* * *
(5)第2,3,4パラグラフについての訳注:
・「西洋式物質主義の快適さが本当の人生と言えるか?」について.
・「罪深き西洋諸国全体の物質主義と繁栄に疑問を投げかけるべき」について.
・「超自然的な神への信仰」( “supernatural faith” )について.
(理解の手助けのための聖書の引用)
① 旧約聖書・脱出の書:第20章3-6節
(神の十戒)
『*¹私(真の神)以外のどんなものも,神とするな. *²刻んだ像をつくってはならぬ,高く天にあるもの,低く地にあるもの,*³地の下にあるもの,水の中にあるもの,どんな像をもつくってはならぬ.*⁴その像の前にひれ伏してはならぬ.それを礼拝してはならぬ.
おまえの神なる主,私は,私を憎む者に対しては,父の罪を三代,四代の子にまでおよぼして罰する,*⁵ねたみ深い神である.しかし,私を愛して,おきてを守る者には,千代までも,慈しみを示す神である.』
(注釈)
*¹イスラエル(=真の神を信仰する者)の唯神論が,強く主張される.
神と人間との間に,仲介のような神々は存在しない.
*²まことの神の像をつくることも禁止する.
*³ヘブライ人の宇宙論によれば,地は,大洋の上に浮かんでいるように考えていた.
*⁴偶像崇拝の禁じられる理由である.中近東諸国の昔の儀式の本を見ると,神の像を神自身と考え,崇敬の対象としていた(バビロン,アッシリア,ヒッタイトの文明ではそうであった.エジプトもそうである.)
*⁵真理そのものである神は,いつわりのものを耐え忍ぶことができない.
「父の罪を三代,四代の子にまでおよぼして」人間を,個人としてより,家族あるいは民族の一員として考える中近東の国々の考え方による.
(解説)
・人間の内心の正しい良心よりも外見の美や強さを優先して称賛したり(目の欲),持ち物の多少や衣食住の贅沢さで人間の価値を量(はか)ろうとすること(肉の欲,生活の奢(おご)り,富の誇り,過度の身なりの洒落,物質欲,美食など)は,神が禁じる「偶像(アイドル)崇拝」と同意義のものである.人を「まことの信仰」と「神への愛」から遠ざけるすべてのものが「偶像崇拝」に当たる.
・節度が必要なのは,欲を追求し過ぎて慢心すると正しい良心を喪失し,そこからあらゆる人間の不幸が始まるからである.
・悪魔は人間の五感に訴えるあらゆる美しさや強さ(権力)を悪用して人間を誘惑するのであり,真の神への信仰を持たない人間は,たやすくそのような神の宿らない虚しい力(しばしば悪徳を宿していることが多い)を称賛するのであって,人間はそれにかまけて「神(正義と愛)への信仰に立つこと」や「正しい良心の声に従うべきこと」を忘れてしまいがちである.欲を張り過ぎる人間は,気づかぬうちに自分で自分の身を滅ぼし永遠の破滅へと追いやることになり,気づいた時には後の祭りとなってしまう.
* * *
② 新約聖書・(使徒)ヨハネの第一の手紙
第1章
『*¹初めからあったこと,私たちの聞いたこと,目で見たこと,ながめて手で触れたこと,すなわち命のみことば(=キリスト)について - そうだ,*²この命は現れた,私たちはそれを見て証明する.御父のみもとにあって今私たちに現われた永遠の命(=キリスト)をあなたたちに告げる - ,あなたたちを私たちに一致させるために,私たちは見たこと聞いたことを告げる.私たちのこの一致は,御父とみ子イエズス・キリストのものである.*³私たちの喜びを全うするために私はこれらのことを書き送る.』
(注釈)
*¹みことばすなわちキリスト(ヨハネ聖福音書1・14以下,15・27,ヨハネ(第一手紙)5・20).
*²十二使徒の証明の対象は,福音書に書かれている歴史上のキリストである.
*³「あなたたち」と書く写本もある.
(神は光である)
『私たちがキリストから聞いてあなたたちに告げる便りはこうである.
*¹神は光であって,少しの闇(やみ)もない.
*²私たちが闇の中を歩いているのにキリストと一致していると言うなら,それは偽(いつわ)りで,真理を行っていない.
*³主が光のうちにましますように,私たちも光のうちを歩んでいるなら,私たちは互いに一致し,み子イエズスの血は私たちの罪をすべて清める.』
(注釈)
*¹無限の真と善と美と聖を光という.闇(やみ)は無知と罪.
*²ヨハネ聖福音書3・20参照
*³原文は「彼」で神のこと.
(罪を避けよ)
『*¹罪がないというなら,それは自分を偽っているのであって,真理は私たちの中にはない.自分の罪を告白するなら,真実な正しい神は,私たちの罪をゆるし,すべての不義を清めてくださる. *²罪を犯さなかったと言うなら,それは神を偽り者とするのであって,みことば(=命)は私たちの中にはない.』
(注釈)
*¹自分に罪がないと考えるのは,真理に導かれていない証拠である.
*²神は聖書を通じて,人間はすべて悪人だと言われた.
* * *
第2章
(罪を避けよ)
『小さな子らよ,私がこれらのことを書くのは,あなたたちに罪を犯させないためである.だが罪を犯す人があるなら,私たちは*¹御父のみ前に一人の弁護者をもっている.それは義人のイエズス・キリストである.
*²キリストは私たちの罪のためのとりなしをされるいけにえである.いや,ただ私たちの罪のためではなく,全世界の罪のためである.』
(注釈)
*¹ローマ8・34,ヘブライ7・25,ヨハネ14・16,使徒3・14参照. *²使徒4・10,ローマ3・25参照.
(おきてへの忠実)
『私たちが掟(おきて)を守るなら,それによってキリストを知っていることがわかる.
「*¹私は主を知っている」といいながら掟を守らぬ人は偽(いつわ)り者であって,真理は彼の中にはない.みことばを守る者はその人のうちに神の愛が全(まっと)うされ,それによって私たちは主の中にいることがわかる。 *²また主の中にいると言う者は,自分も主が歩まれたように歩まねばならぬ.
愛する者よ,私があなたたちに書くのは*³新しい掟ではなく,あなたたちが初めから受けていた古い掟であって,その古い掟はあなたたちが聞いたみことばである.しかし私が書き送るのは*⁴新しい掟である.それは,キリストにとっても,またあなたたちにとってもそうである.闇(やみ)は過ぎ去り,まことの光がすでに輝いているからである.
「私は光にいる」と言いながら,兄弟を憎む者はまだ闇の中にいる. *⁵兄弟を愛する人は光にとどまる者であって,彼はつまずく恐れがない.兄弟を憎む人は闇の中にいて闇を歩み,闇に目を暗(くら)まされて自分がどこに行くかも知らない.』
(注釈)
*¹善業を伴わない信仰は,救霊に役立たない(ティト1・16,コリント(第一)8・1-3,ティモテオ(第二)3・5).
*²ローマ6・11,13-14,ペトロ(第一)2・21参照.
*³イエズスは隣人愛を「新しいおきて」といった(ヨハネ13・34).
*⁴しかし利己的な人間の中にあって,キリスト教の愛のおきては常に新しくふさわしいものである.
*⁵隣人愛の実行は,恩寵の光に生き自分の宗教をよく理解する人々のしるしである.
(世の危険)
(「世」とは「地上」すなわち神の正義や善を見下す罪深い人たちの社会を指す)
『小さな子らよ,私があなたたちに書き送るのは,主のみ名によってあなたたちが罪をゆるされたからである.父たちよ,私があなたたちに書き送るのは,あなたたちが初めからましますお方を知ったからである.若者よ,私があなたたちに書き送るのは,あなたたちが悪者に勝ったからである.子らよ,私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが御父を知ったからである.(父たちよ,私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが初めからましますお方を知ったからである.)若者よ,私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが強い者であり,(神の)みことばをその中に保ち,そして悪者(悪魔)に勝ったからである.
世と世にあるものを愛するな.
世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない.
世にあるもの,すなわち肉の欲,目の欲,生活のおごり(富の誇り)などはすべて御父(真の神)から出るのではなく世から出る.
世と世の欲は過ぎ去るが,神のみ旨を行う者は永遠にとどまる.』
(反キリスト)
『小さな子らよ,*¹最後の時である.あなたたちは反キリストが来ると聞いていたが,今や多くの*²反キリストが現れた.これによって私たちは最後の時が来たことを知る.彼らは私たちの間から出たけれども,*³私たちに属する者ではなかった.私たちに属する者であったなら私たちとともに残ったであろう.しかし彼らが出ていったのは,みな私たちに属していない人々であることを示すためであった.
あなたたちは,*⁴聖なるお方の注油を受けて,みな知識をもっている.私(使徒ヨハネ)があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが真理を知らないからではなく,真理を知り,真理からはどんな偽りも出ないことを知っているからである.
*⁵偽り者はだれか.イエズスがキリスト(救世主たる神の子)であることを否定する者ではないか.御父(真の神)とみ子(=主キリスト)を否(いな)む者,それこそ反キリストである.み子を否む者は御父をもたず,*⁶み子を宣言する者は父を持っている.あなたたちは,初めから聞いたことにとどまれ.初めから聞いたことにとどまるなら,あなたたちは御父とみ子の中にとどまる. *⁷そして主(=神のみ子キリスト)自身が私たちに約束されたことは,すなわち永遠の命である.
私はあなたたちを惑わす人々についてこう書いた. *⁸あなたたちには主から受けた注油が残るのであるから,だれにも教えを受ける必要がない.その注油はあなたたちにすべてを教えるもので,偽りのない真実のものである.それが教えるとおりあなたたちは主にとどまれ. *⁹だから小さな子らよ,主にとどまれ.そうすれば,み子の現れの時,信頼を失わず,その来臨の時,主から離れる恥を味わわないであろう.主が正しいと知っているなら,正義を行う者はみな主から生まれるのだと知るであろう.』
(注釈)
*¹イエズスの誕生から審判までの期間(ガラツィア4・4,エフェゾ1・10,ミカヤ(旧約)4・1).
*²異端者と棄教者.
*³公に教会を離れる前に,異端者は信仰と恩寵の上でもはや教会に属していない者である. *⁴洗礼または堅振(信)の秘跡の暗示がある.
*⁵イエズスが神の子であり,救世主であることは,キリスト教の基礎的な信仰告白であって,これを否定するのは御父を否定するのと同じである.
*⁶ヨハネ聖福音書1・18,5・23,10・30参照.
*⁷ヨハネ聖福音書5・24,6・40,17・2参照.
*⁸信仰の教えを受けたからには,異端の教えに従うなと注意する.
*⁹テサロニケ(第二)1・9,マテオ聖福音書24・3,コリント(第一)15・23参照.
* * *
第3章
(神の子ら)
『考えよ,神の子と称されるほど,御父から,計りがたい愛を受けたことを.私たちは神の子である.
この世が私たちを認めないのは,御父を認めないからである.愛する者たちよ,私たちはいま神の子である.後にどうなるかはまだ示されていないが,それが示されるとき(キリストが現れる時),私たちは神に似た者になることを知っている.私たちは,神をそのまま見るであろうから. 主が清いお方であるように、主にたいするこの希望をもつ者は清くなる.罪を犯す者はそれによって法に背(そむ)く.罪は法に背くこと(神への敵対行為)である.あなたたちの知っているとおり,イエズスが現れたのは,罪を除くためであり,イエズス自身には罪はない.主(=神イエズス)にとどまるものは罪を犯さない.罪を犯す者はまだ主を見ず,主を知らないのである.
小さな子らよ,人に惑(まど)わされるな.主が正義のお方であるように,正義を行う者は,義人である.
罪を犯す者は悪魔に属する.悪魔は初めから罪を犯しているからである.
神の子が現れたのは,悪魔の業を破るためである.神から生まれた者は罪を犯さない.神の種(成聖の恩寵)がその人のうちにとどまり,その人は神から生まれた者であるから罪を犯すことができないのである. これによって,神の子と悪魔の子を区別することができる. 正義を行わぬ人は,兄弟を愛さぬ人と同様に神からの者ではない.あなたたちが初めから聞いた便りは,愛し合うことである.
悪魔に属していたから自分の兄弟を殺したカインには倣(なら)うな.なぜ殺したかと言うと,自分の行いが悪くて,兄弟の行いが正しかったからである.
兄弟たちよ,世があなたたちを憎んでも驚くな. 私たちが死から命に移ったのは,兄弟を愛するからであって,愛さない人は死の中にとどまっていることを私たちは知っている.
兄弟を憎む者は人殺しであって,人殺しはその中に永遠の命をとどめていないことをあなたたちは知っている.
主が私たちのために命をささげられたことによって,私たちは愛を知った.私たちもまた,兄弟のために命をささげねばならぬ.
世の宝を持ちながら兄弟の乏(とぼ)しさを見てあわれみの心を閉じる人の中に,どうして神の愛が住もうか?
子らよ,ことばと口先だけではなく,行いと真実をもって愛そう.それによって私たちは,自分が真理についていることを知り,神のみ前に安んじられる.
自分の心にとがめを感じるにしても,神は私たちの心よりも大きく,すべてのことを知りたもう.愛する者よ,もし心にとがめるところがなければ,私たちは神に信頼をもつことができる.また神の掟を守って,神に嘉(よみ)されることを行っているからこそ,私たちは求めることをすべて神から受ける.
その掟とは,神の子イエズス・キリストのみ名を信じ,神が掟を定められたように互いに愛すること,これである.その掟を守る人は神にとどまり,神も彼にとどまられる.私たちは神主が中にとどまりたもうことを,与えられた霊によって知る.』
第4章
(偽預言者)
『愛する者よ,無差別に霊を信じるな.霊が神から出ているかどうかを試せ.多くの偽預言者が世に出たからである.次のことによって神の霊を認めよ.すなわち,イエズスが肉体をとって下られたキリストであることを宣言する霊はみな神からである.またこのイエズスを宣言しない霊はみな神から出たものではなく,来るだろうと聞いている反キリストの霊である.それはもう世に来ている.
小さな子らよ,あなたたちは神から出たものであって,もはや彼らに打ち勝った.あなたたちにましますのは,この世にいる者より偉大なお方である.
彼らは世の者であるから世について語り,世は彼らの言うことを聞く.
しかし私たちは神からの者である.神を知る者は私たちのことばを聞き,神からでない者は聞かない.これによって真理の霊と誤謬(ごびゅう)の霊とが区別される.
愛する者よ,互いに愛せよ.愛は神よりのものである.愛する者は神から生まれ,神を知るが,愛のない者は神を知らない.神は愛だからである.
私たちに対する神の愛はここに現れた.すなわち,神はその御独り子を世に遣(つか)わされた.それは私たちをみ子によって生かすためである.
私たちが神を愛したのではなく,神が(先に)私たちを愛し,み子を私たちの罪のあがないのために遣わされた,ここに愛がある.
愛する者よ,神がこれほどに愛されたのなら,私たちもまた互いに愛さねばならない.だれも神を見た者はいないが,私たちが互いに愛するなら,神は私たちの中に住まわれ,その愛も私たちの中に完成される.
私たちが神にとどまり神が私たちにとどまられることは,神がご自分の霊に私たちをあずからせたもうたことによって分かる.私たちは御父がみ子を救世主として送られたことを見て,これを証明する.
イエズスが神のみ子であると宣言する者には,神がその中にとどまられ,彼は神にとどまる.
私たちは神の愛を知り,それを信じた.神は愛である.
愛をもつ者は神にとどまり,神は彼にとどまられる.愛が私たちの内に完成されるのは,審判の日に私たちに信頼をもたせるためである.私たちは地上において,主と同じものだからである.
愛には恐れがない.完全な愛は恐れを取り除く.恐れは罰を予想する(恐れには罰が含まれている)からである.恐れる者は完全な愛をもつ者ではない.
私たちが愛するのは,神が先に私たちを愛したもうたからである.
「私は神を愛する」と言いながら兄弟を憎む者は,偽り者である.目で見ている兄弟を愛さない者には,見えない神を愛することができない.
神を愛する者は自分の兄弟も愛せよ.これは私たちが神から受けた掟である.』
第5章
(イエズス・キリストへの信仰)
『イエズスがキリストであることを信じる者は,神から生まれた者である.生んだお方(神)を愛する人々は,また神から生まれた者(神の子ら)をも愛する.神を愛してその掟を行なえば,それによって私たちが神の子らを愛していることがわかる.
神への愛はその掟を守ることにあるが,その掟はむずかしいものではない.
神から生まれた者は,世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.イエズスが神の子であると信じる者のほかにだれが世に勝てるであろうか.
水と血によって来られたのはイエズス・キリストである.ただ水だけではなく,水と血によってである.それを証明するのは霊である.霊は真理だからである.実に証明するものは三つある.(天においては御父とみことばと聖霊であり,この三つは一致する.地において証明するのは三つ),霊と水と血である.この三つは一致する.
私たちが人間の証明を受け入れるなら,神の証明はそれにまさっている.神の証明とはそのみ子についてのことである.神の子を信じる者は,自分の内に神の証明をもち,神を信じない者は神を偽り者とする.神がそのみ子についてされた証明を信じないからである.その証明とは神が私たちに永遠の命を与えられたこと,その命がみ子にあることである.み子をもつ者は命を有し,み子をもたぬ者は命をもたぬ.
私が以上のことを神の子の名を信じるあなたたちに書いたのは,あなたたちに永遠の命があることを知らせるためであった.
私たちは(神の)み旨に従って願うことを神が必ず聞き入れたもうと確信している.そして,神がすべての願いを聞き入れたもうことを知るなら,また願ったことが受け入れられることもわかる.』
(罪の種類)
『自分の兄弟が死に至らぬ罪を犯しているのを見たなら,彼のために祈れ.そうすれば命が帰るだろう.
これは死に至らぬ罪を犯す人々のために言ったことである.死に至る罪がある.私はこれについて祈れとは言わぬ.すべての不義は罪である.しかし死に至らぬ罪がある.』
(悪魔に対して)
『神から生まれた人はすべて罪を犯さないと私たちは知っている.神から生まれたお方(キリスト)がその人を守られるから,悪者はその人に触れることができない.私たちが神から出た者であり,世がすべて悪者の配下にあることも私たちは知っている.また神のみ子がすでに来られ,真実のお方(神)を知るための知恵を私たちに授けられたことも知っている.
私たちはそのみ子イエズス・キリストによって真実のお方のうちにいる.それは真実の神であって,永遠の命である.小さな子らよ,偶像を警戒せよ.』
* * *
(6)第4,6パラグラフについての訳注:
・「神に栄光をもたらす」…原文 “give Him glory”, “to give glory to God.” の意味について.
「神に栄光を帰す」とも言われる.
〈神は万物の創造主であり,人間はその被造物である.〉
人間が神に服従し,神の正義と愛徳に適(かな)う生活をすることによって,天上の神の栄光を地上で示すことになるという意味.
① 神を愛し,
(天地の創造主,全能の父なる神に服従すること)
② 隣人を自分と同じように愛する
(隣人愛の実践)
最近,日本の東海岸沖合でプレート移動による激しい地殻変動が,内陸部で観測史上最大の地震を,沿岸部で壊滅的な津波を引き起こしました.この天災は多くの人の心に古くからある疑問を投げかけたに違いありません.もし神が存在し,その神が全能かつ限りなき善意の持ち主であるなら,人間がこれほどの大きな苦難を被(こうむ)ることをどうしてお許しになるのだろうか? 人々が自ら苦難に直面していない平時なら,この疑問に対し昔からある答えを理解するのは理屈の上ではそう難しいことではありません!--
まず第一に,苦難は往々にして罪に対する罰です.神は確かに存在し,罪は神の怒りを招きます.罪が霊魂を地獄に落とすものである一方で神は霊魂を天国に向けるよう創造されました.もし地上での苦難が罪にブレーキをかけ霊魂が天国を選ぶ助けになるなら,そのために必要とあらば地殻変動プレートを支配される神は不本意ながらもそれを用いて罪を罰することがおできになるのです.では日本の人々が他国の人々に比べ殊(こと)のほか罪深かったのでしょうか? 私たちの主イエズス・キリスト御自身は私たちに対してこう言われます.すなわち,そのような問いかけをするのではなく,むしろ私たちが自らを振り返って犯した数々の罪のことを思い巡(めぐ)らし,その償いを果しなさい,さもなければ「あなたたちもみな同様に滅びるだろう」(ルカ13章4節)と.西洋式(欧米流)物質主義とそれがもたらす快適さが本当の人生といえるかどうか疑問に思っている日本人が現在誰一人いないとしてもさほど驚くことではないのではないでしょうか?(訳注後記)
第二に,人間の苦難は警告(けいこく)となり得るのであり,人々に悪から目を背け自惚(うぬぼ)れを避けるよう仕向けます.たった今,神の存在を認めない罪深き西洋諸国全体が自身の物質主義と繁栄に疑問を投げかけるべきです(訳注後記).過去数年間にわたり世界各地で着実に高まりつつある地震その他の自然災害の発生率により,主なる神は確かに私たち人間すべての注意を喚起(かんき)しておられるのです.おそらく神が,1973年に日本の秋田で神の御母を通し警告されたように世界中で私たち人間に「火の雨」を降らせるという罰を下さずに済むようにと望まれているからです(訳注後記).だが,たった今現実に苦難を受けている日本の人々の方が,遠く隔(へだ)たった西洋諸国の人々に比べ被った災害からより多くの利益を得ている公算が大きい(可能性が高い)と言えるのではないでしょうか? これら諸国のいずれの国にとっても実のところ,差し迫った神の懲罰の前触(まえぶ)れ(予兆)を予(あらかじ)め味わっているというだけで運がいいということなのかもしれません.
第三に,神は人間の苦難を用いて神の僕たちの善徳を浮き彫り(うきぼり)にされるのかもしれません.ちょうどヨブ(訳注・旧約聖書に登場する善人の名)やキリスト教の昔からのあらゆる殉教者たちの場合がその例にあたります.今日の日本において超自然的な神への信仰( “supernatural faith” )を持つ人は少ないかもしれませんが,今回の事態においてもし日本の人々が漠然(ばくぜん)とでも強力な神の御手(の業(わざ),力)を感じさせる何らかの偉大な存在の下に自らを低くし慎(つつし)むなら,(神の支配される)自然の賜物に与(あずか)るようになり,少なくとも自然レベルで自らの身をもって神に栄光をもたらすことになるでしょう(訳注後記).
最後に,旧約聖書のヨブの書第36章に記されてあるとおり,ヨブがなぜ苦難に襲われたかについてヨブ自身や彼の家族や友人たちが思いついた説明にどうしても満足しないヨブに対して,ついに神御自身が答えられます.神の御言葉を分かりやすいように言い換えてみます:「ヨブよ,私(神)が地に基(もとい)をおいた時,あなたはどこにいたのか? あなたが地殻変動プレートを造ったのか? あなたは誰が平時には海の水をその境界内に留(とど)め,乾いた土地に押し寄せぬようにしていると思っているのか? この度,海水が日本の東北地方沿岸に打ち寄せるままにした私自身に然(しか)るべき理由がなかったと,あなたには本気で思えるのか?」ヨブの書の第38章と39章を読んでみて下さい.ヨブはようやく屈服し神に服従したのです.ヨブは神の答えに満足し,神の上智(知恵・叡智)と善意に疑問を差し挟(はさ)んだ自らの過(あやま)ちを認めました(ヨブ42,1-7)(訳注後記).
世界中の私たち一人ひとりが神に対しこれまでに犯した自らの罪の償いをしましょう.一人ひとりが日本で起きたこの大震災を自らへの警告と受け止め自分自身を戒(いまし)めましょう.やがて私たち自身にふりかかる様々な試練のなかで,(神の御前に正しく慎ましく生活することにより)神に栄光をもたらすことができるよう望みをかけましょう.そして,とりわけ,神のみが唯一の神(永遠の全知全能の存在なる方)であることを認めましょう!(訳注後記)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(訳注)のリスト:
(1)第2パラグラフの訳注:新約聖書・ルカ聖福音書:第13章4節
(2)第3パラグラフの2番目の訳注:「秋田の聖母」について.
(3)第5パラグラフの2番目の訳注:旧約聖書・ヨブの書:第42章1-7節
(4)第5パラグラフの初めの訳注:旧約聖書・ヨブの書:第38,39章→38章-40章を部分的に抜粋して記載します(後から全部を別の場所に記載します).
(5)第2,第3,第4パラグラフについての訳注:聖書の引用
・「西洋式物質主義の快適さが本当の人生と言えるか?」について.
・「罪深き西洋諸国全体の物質主義と繁栄に疑問を投げかけるべき」について.
・「超自然的な神への信仰」( “supernatural faith” )について.
(6)第4,6パラグラフについての訳注:
・「神に栄光をもたらす」…原文 “give Him glory”, “to give glory to God.” の意味について.
(注・引用した聖書の(注釈)の一部については後から追加します)
* * *
(1)第2パラグラフの訳注:
新約聖書・ルカ聖福音書:第13章4節(太字部分)(1-5節を記載)
『そのとき,ピラトがあるガリラヤ人たちの血を彼らのいけにえに混ぜたという知らせを告げに来た人々があった.
イエズスは答えられた,「ガリラヤ人がそんな目に会ったからといって,彼らが他のガリラヤ人以上に大きな罪人だったと思うか.私は言う.そうではない.あなたたちも悔い改めないなら,みな同じように滅びるだろう.
また,*¹シロアムの塔が倒れて押しつぶされた十八人が,エルサレムのほかの人々よりも大きな負い目をもっていたと思うか.私は言う.そうではない.*²悔い改めないなら,あなたたちもみな同じように滅びる」.』
(注釈)
(悔い改め)
*¹ユダヤ人は,災(わざわ)いは罪の罰であると考えていた.しかしそうではない.義人(正しい人)も災いにあうことがある.
²このことばはエルサレム滅亡のとき実現した.
* * *
(2)第3パラグラフの訳注:
「秋田の聖母」 “Our Lady of Akita” について.
日本よりも海外でよく知られており,「日本の聖母マリア」として大変有名である.巡礼者も毎年世界各地から多くの人が訪れている.
(出来事の簡単な説明)
日本の秋田県で1973年から1982年まで続いた聖母マリア御出現の奇跡.
・1973年夏,秋田県秋田市にあるカトリックの女子在俗修道会「聖体奉仕会」所属の修道女シスター・アグネス笹川の左掌に十字架の形の傷が現れ激しく痛み出血した(「聖痕」と呼ばれる奇跡的な現象).
・また修道院の聖堂の木彫りの聖母像の目から涙が流れ出,その右掌からも血が流れた.
・そして聖母御出現当時,神の御旨により全く耳が聞えなくされていたシスターの耳に聖母の非常に美しいみ声が聞えた.
・聖母は3回シスターに出現され,世界人類の罪に対する神の悲しみと怒り,来たるべき神の人類への重い罰,悪魔の誘惑によるカトリック教会の堕落,多くの失われる霊魂に対する聖母の悲しみなどについて警告された.
・また世界を破滅から救うことが出来るのはキリストの残された印(御聖体)と聖母のロザリオの祈りのみであることを訴えられ,人々の改心のため,またカトリック教会の聖職者(司教・司祭)たちのために償いと犠牲の業とロザリオの祈りを熱心にすることの必要性を告げられた.
・他に,香しい芳香が感じられるなどの奇跡も数回起きている.
・シスター笹川の耳は聖母の出現から数年後(1982年)神の奇跡により癒(いや)され完全に聞えるようになった.
・聖母像の目から涙が流れ出た回数は数年間に101回に及び,この間に延べ約500人の人が訪れその涙を目撃している.
・秋田に訪れて聖母に祈りを捧げた多くの人が聖母の取り次ぎにより病気の治癒や改心に導かれるなどの人生の奇跡的な転換を体験している.
(参考文献)
・「秋田の聖母マリア」安田貞治神父・著 聖体奉仕会・発行(1987年)
・「日本の奇跡『 聖母マリア像の涙』- 秋田のメッセージ」安田貞治神父・著 エンデルレ書店・発行(2001年)
・ロザリオの祈りはダイノスコプス・エレイソン・コメンツ用語集に記載されています.
* * *
(3)第5パラグラフの訳注:
旧約聖書・ヨブの書:第42章1-7節
『そのときヨブは主(神)に答えて言った,
「あなたにはすべてができると,私は知っています.あなたは企(くわだ)てたことを実行されます.
思慮のない言葉で,あなたの企てをかき乱したのは私です.
私は自分で分からぬこと,自分の知らぬ不思議について,向こうみずにも語りました.
(聞きたまえ,私に言わせたまえ.私は尋(たず)ねます.教えたまえ).
*私は耳で聞いてあなたを知っていました.だが今,私はこの目であなたを見ました.
そのために私は自分の愚かさにあきれ,ちりと灰の上で悔やみます.」 』
(注釈)
*神の出現のことをいっているのではない.ただ,神の実在について新しい知識を受けた.ヨブは神の神秘を知りその全能を礼拝する.正義についてヨブがした質問に神からの返事はなかった.しかし,神がなさったことを人間に神自身が説明する義務のないこと,神の知恵は苦しみと死という事実にも,人間の考え及ばぬ意味を持たせうることをヨブは悟った.
(注記)
エレイソン・コメンツ第180回の「第2パラグラフの訳注」と「『正しい人の苦しみ』について」をご参照ください.
* * *
(4)第5パラグラフの初めの訳注:
旧約聖書・ヨブの書:第38,39章
→38章-40章を部分的に抜粋して記載します(後から全部を別の場所に記載します).
『そのとき,主は,嵐の中からヨブに話しかけられた,
「思慮のないことばで,私のはかりごとをかきまぜるのはだれか.
おまえは勇士のように腰に帯せよ,私が尋(たず)ねるから教えてくれ.
私が地に基(もとい)をおいたとき,おまえはどこにいたのか.
知っているなら言え.
だれがその尺度を決めたか知っているのか.だれがそこに綱を引いたのか.
その土台は何の上に立ち,だれが隅石をおいたのか.
朝の星がともに歌い,神の子らが喜びおどっていたそのとき.
だれが海に戸を閉ざしたのか.
それが胎からあふれ出たときのことだ.
私がその上に雲をまとわせ,黒雲を産衣(うぶぎ)としたときのことだ.
私はそれに境を定め,扉とかんぬきをおいて,
〈これを越えてはならぬ〉と言った.
〈ここでおまえの波の高ぶりはとどまる〉と.・・・
おまえは海の源にいき,淵の底をまわったことがあるのか.
死の門を示し,影(黄泉)の国の門を見たことがあるのか.
また,地の広さを幾分でも知っているのか.
言え,知っているのなら.
光はどちらの方に住み,やみのところはどこにあるのか.
おまえはそれらを迎えにいき,おのおのの家に連れもどせるのか.・・・
おまえは雪の倉にも入り,
雹(ひょう)の蓄(たくわ)えどころを見たことがあるのか.
それは苦悩のときのために,戦いといくさの日のために蓄えてある.
稲妻はどの方角にひらめき,地に火花を散らすのか.
にわか雨に堀を開き,雷鳴に道を明けるのはだれか.
無人の地にも,人住まぬ荒野にも雨を降らし,
すたれた寂しいところに水を与え,荒れ地に草を生えさせる.・・・
おまえにスバルの鎖が結べるのか.あるいはオリオンの綱が解けるのか.・・・
天の法則を知り,地へのその影響を定めるのはおまえか.
声を雲にあげ,水の集まりを従えることができるのか.
稲妻が〈はい,ここにいます〉とやってきて出かけるのは,
おまえが命令を下すからなのか.・・・
雌じしのためにえさを狩り,子じしの飢えを満たすのはおまえか.
かれらが穴にうずくまり,茂みに待ち伏せしているときに,
からすの子が神に向って鳴き,えさもなくさまようとき,
からすに食べ物を与えるのはだれか.・・・
・・・そのとき,ヨブは主に答えて言った,
「私は軽率なことを申しました.あなたに何の口答えができましょう.
私は口に手をあてます.一度話しましたが,もうくり返しません.
二度話しましたが,もう続けられません」.
だが主は,ヨブに言われた,
「勇士のように腰に帯をせよ,私が問えばおまえが教えよ.
おまえは本当に私の権利を踏みにじりたいのか.
自分を正しいとしたいがために私を非とするのか.
おまえは神のような腕を持ち,神のような声でとどろきわたれるのか.
では,威厳と偉大さをもってみずから語り,華麗と光栄を身につけよ.
怒りといきどおりを吐き出し,
おまえの見る高慢な者どもを卑しめ,高慢な者どもをかがませ,
悪人をそのところで踏みつぶし,
彼らをともに土の中にうずめ,その隠れ家に顔を閉じこめよ.
そうすれば私もおまえをほめよう.その右の手は勝利を得たのだから.・・・ 』
* * *
(5)第2,3,4パラグラフについての訳注:
・「西洋式物質主義の快適さが本当の人生と言えるか?」について.
・「罪深き西洋諸国全体の物質主義と繁栄に疑問を投げかけるべき」について.
・「超自然的な神への信仰」( “supernatural faith” )について.
(理解の手助けのための聖書の引用)
① 旧約聖書・脱出の書:第20章3-6節
(神の十戒)
『*¹私(真の神)以外のどんなものも,神とするな. *²刻んだ像をつくってはならぬ,高く天にあるもの,低く地にあるもの,*³地の下にあるもの,水の中にあるもの,どんな像をもつくってはならぬ.*⁴その像の前にひれ伏してはならぬ.それを礼拝してはならぬ.
おまえの神なる主,私は,私を憎む者に対しては,父の罪を三代,四代の子にまでおよぼして罰する,*⁵ねたみ深い神である.しかし,私を愛して,おきてを守る者には,千代までも,慈しみを示す神である.』
(注釈)
*¹イスラエル(=真の神を信仰する者)の唯神論が,強く主張される.
神と人間との間に,仲介のような神々は存在しない.
*²まことの神の像をつくることも禁止する.
*³ヘブライ人の宇宙論によれば,地は,大洋の上に浮かんでいるように考えていた.
*⁴偶像崇拝の禁じられる理由である.中近東諸国の昔の儀式の本を見ると,神の像を神自身と考え,崇敬の対象としていた(バビロン,アッシリア,ヒッタイトの文明ではそうであった.エジプトもそうである.)
*⁵真理そのものである神は,いつわりのものを耐え忍ぶことができない.
「父の罪を三代,四代の子にまでおよぼして」人間を,個人としてより,家族あるいは民族の一員として考える中近東の国々の考え方による.
(解説)
・人間の内心の正しい良心よりも外見の美や強さを優先して称賛したり(目の欲),持ち物の多少や衣食住の贅沢さで人間の価値を量(はか)ろうとすること(肉の欲,生活の奢(おご)り,富の誇り,過度の身なりの洒落,物質欲,美食など)は,神が禁じる「偶像(アイドル)崇拝」と同意義のものである.人を「まことの信仰」と「神への愛」から遠ざけるすべてのものが「偶像崇拝」に当たる.
・節度が必要なのは,欲を追求し過ぎて慢心すると正しい良心を喪失し,そこからあらゆる人間の不幸が始まるからである.
・悪魔は人間の五感に訴えるあらゆる美しさや強さ(権力)を悪用して人間を誘惑するのであり,真の神への信仰を持たない人間は,たやすくそのような神の宿らない虚しい力(しばしば悪徳を宿していることが多い)を称賛するのであって,人間はそれにかまけて「神(正義と愛)への信仰に立つこと」や「正しい良心の声に従うべきこと」を忘れてしまいがちである.欲を張り過ぎる人間は,気づかぬうちに自分で自分の身を滅ぼし永遠の破滅へと追いやることになり,気づいた時には後の祭りとなってしまう.
* * *
② 新約聖書・(使徒)ヨハネの第一の手紙
第1章
『*¹初めからあったこと,私たちの聞いたこと,目で見たこと,ながめて手で触れたこと,すなわち命のみことば(=キリスト)について - そうだ,*²この命は現れた,私たちはそれを見て証明する.御父のみもとにあって今私たちに現われた永遠の命(=キリスト)をあなたたちに告げる - ,あなたたちを私たちに一致させるために,私たちは見たこと聞いたことを告げる.私たちのこの一致は,御父とみ子イエズス・キリストのものである.*³私たちの喜びを全うするために私はこれらのことを書き送る.』
(注釈)
*¹みことばすなわちキリスト(ヨハネ聖福音書1・14以下,15・27,ヨハネ(第一手紙)5・20).
*²十二使徒の証明の対象は,福音書に書かれている歴史上のキリストである.
*³「あなたたち」と書く写本もある.
(神は光である)
『私たちがキリストから聞いてあなたたちに告げる便りはこうである.
*¹神は光であって,少しの闇(やみ)もない.
*²私たちが闇の中を歩いているのにキリストと一致していると言うなら,それは偽(いつわ)りで,真理を行っていない.
*³主が光のうちにましますように,私たちも光のうちを歩んでいるなら,私たちは互いに一致し,み子イエズスの血は私たちの罪をすべて清める.』
(注釈)
*¹無限の真と善と美と聖を光という.闇(やみ)は無知と罪.
*²ヨハネ聖福音書3・20参照
*³原文は「彼」で神のこと.
(罪を避けよ)
『*¹罪がないというなら,それは自分を偽っているのであって,真理は私たちの中にはない.自分の罪を告白するなら,真実な正しい神は,私たちの罪をゆるし,すべての不義を清めてくださる. *²罪を犯さなかったと言うなら,それは神を偽り者とするのであって,みことば(=命)は私たちの中にはない.』
(注釈)
*¹自分に罪がないと考えるのは,真理に導かれていない証拠である.
*²神は聖書を通じて,人間はすべて悪人だと言われた.
* * *
第2章
(罪を避けよ)
『小さな子らよ,私がこれらのことを書くのは,あなたたちに罪を犯させないためである.だが罪を犯す人があるなら,私たちは*¹御父のみ前に一人の弁護者をもっている.それは義人のイエズス・キリストである.
*²キリストは私たちの罪のためのとりなしをされるいけにえである.いや,ただ私たちの罪のためではなく,全世界の罪のためである.』
(注釈)
*¹ローマ8・34,ヘブライ7・25,ヨハネ14・16,使徒3・14参照. *²使徒4・10,ローマ3・25参照.
(おきてへの忠実)
『私たちが掟(おきて)を守るなら,それによってキリストを知っていることがわかる.
「*¹私は主を知っている」といいながら掟を守らぬ人は偽(いつわ)り者であって,真理は彼の中にはない.みことばを守る者はその人のうちに神の愛が全(まっと)うされ,それによって私たちは主の中にいることがわかる。 *²また主の中にいると言う者は,自分も主が歩まれたように歩まねばならぬ.
愛する者よ,私があなたたちに書くのは*³新しい掟ではなく,あなたたちが初めから受けていた古い掟であって,その古い掟はあなたたちが聞いたみことばである.しかし私が書き送るのは*⁴新しい掟である.それは,キリストにとっても,またあなたたちにとってもそうである.闇(やみ)は過ぎ去り,まことの光がすでに輝いているからである.
「私は光にいる」と言いながら,兄弟を憎む者はまだ闇の中にいる. *⁵兄弟を愛する人は光にとどまる者であって,彼はつまずく恐れがない.兄弟を憎む人は闇の中にいて闇を歩み,闇に目を暗(くら)まされて自分がどこに行くかも知らない.』
(注釈)
*¹善業を伴わない信仰は,救霊に役立たない(ティト1・16,コリント(第一)8・1-3,ティモテオ(第二)3・5).
*²ローマ6・11,13-14,ペトロ(第一)2・21参照.
*³イエズスは隣人愛を「新しいおきて」といった(ヨハネ13・34).
*⁴しかし利己的な人間の中にあって,キリスト教の愛のおきては常に新しくふさわしいものである.
*⁵隣人愛の実行は,恩寵の光に生き自分の宗教をよく理解する人々のしるしである.
(世の危険)
(「世」とは「地上」すなわち神の正義や善を見下す罪深い人たちの社会を指す)
『小さな子らよ,私があなたたちに書き送るのは,主のみ名によってあなたたちが罪をゆるされたからである.父たちよ,私があなたたちに書き送るのは,あなたたちが初めからましますお方を知ったからである.若者よ,私があなたたちに書き送るのは,あなたたちが悪者に勝ったからである.子らよ,私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが御父を知ったからである.(父たちよ,私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが初めからましますお方を知ったからである.)若者よ,私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが強い者であり,(神の)みことばをその中に保ち,そして悪者(悪魔)に勝ったからである.
世と世にあるものを愛するな.
世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない.
世にあるもの,すなわち肉の欲,目の欲,生活のおごり(富の誇り)などはすべて御父(真の神)から出るのではなく世から出る.
世と世の欲は過ぎ去るが,神のみ旨を行う者は永遠にとどまる.』
(反キリスト)
『小さな子らよ,*¹最後の時である.あなたたちは反キリストが来ると聞いていたが,今や多くの*²反キリストが現れた.これによって私たちは最後の時が来たことを知る.彼らは私たちの間から出たけれども,*³私たちに属する者ではなかった.私たちに属する者であったなら私たちとともに残ったであろう.しかし彼らが出ていったのは,みな私たちに属していない人々であることを示すためであった.
あなたたちは,*⁴聖なるお方の注油を受けて,みな知識をもっている.私(使徒ヨハネ)があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが真理を知らないからではなく,真理を知り,真理からはどんな偽りも出ないことを知っているからである.
*⁵偽り者はだれか.イエズスがキリスト(救世主たる神の子)であることを否定する者ではないか.御父(真の神)とみ子(=主キリスト)を否(いな)む者,それこそ反キリストである.み子を否む者は御父をもたず,*⁶み子を宣言する者は父を持っている.あなたたちは,初めから聞いたことにとどまれ.初めから聞いたことにとどまるなら,あなたたちは御父とみ子の中にとどまる. *⁷そして主(=神のみ子キリスト)自身が私たちに約束されたことは,すなわち永遠の命である.
私はあなたたちを惑わす人々についてこう書いた. *⁸あなたたちには主から受けた注油が残るのであるから,だれにも教えを受ける必要がない.その注油はあなたたちにすべてを教えるもので,偽りのない真実のものである.それが教えるとおりあなたたちは主にとどまれ. *⁹だから小さな子らよ,主にとどまれ.そうすれば,み子の現れの時,信頼を失わず,その来臨の時,主から離れる恥を味わわないであろう.主が正しいと知っているなら,正義を行う者はみな主から生まれるのだと知るであろう.』
(注釈)
*¹イエズスの誕生から審判までの期間(ガラツィア4・4,エフェゾ1・10,ミカヤ(旧約)4・1).
*²異端者と棄教者.
*³公に教会を離れる前に,異端者は信仰と恩寵の上でもはや教会に属していない者である. *⁴洗礼または堅振(信)の秘跡の暗示がある.
*⁵イエズスが神の子であり,救世主であることは,キリスト教の基礎的な信仰告白であって,これを否定するのは御父を否定するのと同じである.
*⁶ヨハネ聖福音書1・18,5・23,10・30参照.
*⁷ヨハネ聖福音書5・24,6・40,17・2参照.
*⁸信仰の教えを受けたからには,異端の教えに従うなと注意する.
*⁹テサロニケ(第二)1・9,マテオ聖福音書24・3,コリント(第一)15・23参照.
* * *
第3章
(神の子ら)
『考えよ,神の子と称されるほど,御父から,計りがたい愛を受けたことを.私たちは神の子である.
この世が私たちを認めないのは,御父を認めないからである.愛する者たちよ,私たちはいま神の子である.後にどうなるかはまだ示されていないが,それが示されるとき(キリストが現れる時),私たちは神に似た者になることを知っている.私たちは,神をそのまま見るであろうから. 主が清いお方であるように、主にたいするこの希望をもつ者は清くなる.罪を犯す者はそれによって法に背(そむ)く.罪は法に背くこと(神への敵対行為)である.あなたたちの知っているとおり,イエズスが現れたのは,罪を除くためであり,イエズス自身には罪はない.主(=神イエズス)にとどまるものは罪を犯さない.罪を犯す者はまだ主を見ず,主を知らないのである.
小さな子らよ,人に惑(まど)わされるな.主が正義のお方であるように,正義を行う者は,義人である.
罪を犯す者は悪魔に属する.悪魔は初めから罪を犯しているからである.
神の子が現れたのは,悪魔の業を破るためである.神から生まれた者は罪を犯さない.神の種(成聖の恩寵)がその人のうちにとどまり,その人は神から生まれた者であるから罪を犯すことができないのである. これによって,神の子と悪魔の子を区別することができる. 正義を行わぬ人は,兄弟を愛さぬ人と同様に神からの者ではない.あなたたちが初めから聞いた便りは,愛し合うことである.
悪魔に属していたから自分の兄弟を殺したカインには倣(なら)うな.なぜ殺したかと言うと,自分の行いが悪くて,兄弟の行いが正しかったからである.
兄弟たちよ,世があなたたちを憎んでも驚くな. 私たちが死から命に移ったのは,兄弟を愛するからであって,愛さない人は死の中にとどまっていることを私たちは知っている.
兄弟を憎む者は人殺しであって,人殺しはその中に永遠の命をとどめていないことをあなたたちは知っている.
主が私たちのために命をささげられたことによって,私たちは愛を知った.私たちもまた,兄弟のために命をささげねばならぬ.
世の宝を持ちながら兄弟の乏(とぼ)しさを見てあわれみの心を閉じる人の中に,どうして神の愛が住もうか?
子らよ,ことばと口先だけではなく,行いと真実をもって愛そう.それによって私たちは,自分が真理についていることを知り,神のみ前に安んじられる.
自分の心にとがめを感じるにしても,神は私たちの心よりも大きく,すべてのことを知りたもう.愛する者よ,もし心にとがめるところがなければ,私たちは神に信頼をもつことができる.また神の掟を守って,神に嘉(よみ)されることを行っているからこそ,私たちは求めることをすべて神から受ける.
その掟とは,神の子イエズス・キリストのみ名を信じ,神が掟を定められたように互いに愛すること,これである.その掟を守る人は神にとどまり,神も彼にとどまられる.私たちは神主が中にとどまりたもうことを,与えられた霊によって知る.』
第4章
(偽預言者)
『愛する者よ,無差別に霊を信じるな.霊が神から出ているかどうかを試せ.多くの偽預言者が世に出たからである.次のことによって神の霊を認めよ.すなわち,イエズスが肉体をとって下られたキリストであることを宣言する霊はみな神からである.またこのイエズスを宣言しない霊はみな神から出たものではなく,来るだろうと聞いている反キリストの霊である.それはもう世に来ている.
小さな子らよ,あなたたちは神から出たものであって,もはや彼らに打ち勝った.あなたたちにましますのは,この世にいる者より偉大なお方である.
彼らは世の者であるから世について語り,世は彼らの言うことを聞く.
しかし私たちは神からの者である.神を知る者は私たちのことばを聞き,神からでない者は聞かない.これによって真理の霊と誤謬(ごびゅう)の霊とが区別される.
愛する者よ,互いに愛せよ.愛は神よりのものである.愛する者は神から生まれ,神を知るが,愛のない者は神を知らない.神は愛だからである.
私たちに対する神の愛はここに現れた.すなわち,神はその御独り子を世に遣(つか)わされた.それは私たちをみ子によって生かすためである.
私たちが神を愛したのではなく,神が(先に)私たちを愛し,み子を私たちの罪のあがないのために遣わされた,ここに愛がある.
愛する者よ,神がこれほどに愛されたのなら,私たちもまた互いに愛さねばならない.だれも神を見た者はいないが,私たちが互いに愛するなら,神は私たちの中に住まわれ,その愛も私たちの中に完成される.
私たちが神にとどまり神が私たちにとどまられることは,神がご自分の霊に私たちをあずからせたもうたことによって分かる.私たちは御父がみ子を救世主として送られたことを見て,これを証明する.
イエズスが神のみ子であると宣言する者には,神がその中にとどまられ,彼は神にとどまる.
私たちは神の愛を知り,それを信じた.神は愛である.
愛をもつ者は神にとどまり,神は彼にとどまられる.愛が私たちの内に完成されるのは,審判の日に私たちに信頼をもたせるためである.私たちは地上において,主と同じものだからである.
愛には恐れがない.完全な愛は恐れを取り除く.恐れは罰を予想する(恐れには罰が含まれている)からである.恐れる者は完全な愛をもつ者ではない.
私たちが愛するのは,神が先に私たちを愛したもうたからである.
「私は神を愛する」と言いながら兄弟を憎む者は,偽り者である.目で見ている兄弟を愛さない者には,見えない神を愛することができない.
神を愛する者は自分の兄弟も愛せよ.これは私たちが神から受けた掟である.』
第5章
(イエズス・キリストへの信仰)
『イエズスがキリストであることを信じる者は,神から生まれた者である.生んだお方(神)を愛する人々は,また神から生まれた者(神の子ら)をも愛する.神を愛してその掟を行なえば,それによって私たちが神の子らを愛していることがわかる.
神への愛はその掟を守ることにあるが,その掟はむずかしいものではない.
神から生まれた者は,世に勝つ.世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.イエズスが神の子であると信じる者のほかにだれが世に勝てるであろうか.
水と血によって来られたのはイエズス・キリストである.ただ水だけではなく,水と血によってである.それを証明するのは霊である.霊は真理だからである.実に証明するものは三つある.(天においては御父とみことばと聖霊であり,この三つは一致する.地において証明するのは三つ),霊と水と血である.この三つは一致する.
私たちが人間の証明を受け入れるなら,神の証明はそれにまさっている.神の証明とはそのみ子についてのことである.神の子を信じる者は,自分の内に神の証明をもち,神を信じない者は神を偽り者とする.神がそのみ子についてされた証明を信じないからである.その証明とは神が私たちに永遠の命を与えられたこと,その命がみ子にあることである.み子をもつ者は命を有し,み子をもたぬ者は命をもたぬ.
私が以上のことを神の子の名を信じるあなたたちに書いたのは,あなたたちに永遠の命があることを知らせるためであった.
私たちは(神の)み旨に従って願うことを神が必ず聞き入れたもうと確信している.そして,神がすべての願いを聞き入れたもうことを知るなら,また願ったことが受け入れられることもわかる.』
(罪の種類)
『自分の兄弟が死に至らぬ罪を犯しているのを見たなら,彼のために祈れ.そうすれば命が帰るだろう.
これは死に至らぬ罪を犯す人々のために言ったことである.死に至る罪がある.私はこれについて祈れとは言わぬ.すべての不義は罪である.しかし死に至らぬ罪がある.』
(悪魔に対して)
『神から生まれた人はすべて罪を犯さないと私たちは知っている.神から生まれたお方(キリスト)がその人を守られるから,悪者はその人に触れることができない.私たちが神から出た者であり,世がすべて悪者の配下にあることも私たちは知っている.また神のみ子がすでに来られ,真実のお方(神)を知るための知恵を私たちに授けられたことも知っている.
私たちはそのみ子イエズス・キリストによって真実のお方のうちにいる.それは真実の神であって,永遠の命である.小さな子らよ,偶像を警戒せよ.』
* * *
(6)第4,6パラグラフについての訳注:
・「神に栄光をもたらす」…原文 “give Him glory”, “to give glory to God.” の意味について.
「神に栄光を帰す」とも言われる.
〈神は万物の創造主であり,人間はその被造物である.〉
人間が神に服従し,神の正義と愛徳に適(かな)う生活をすることによって,天上の神の栄光を地上で示すことになるという意味.
① 神を愛し,
(天地の創造主,全能の父なる神に服従すること)
② 隣人を自分と同じように愛する
(隣人愛の実践)
2011年1月30日日曜日
伝統派の感染
エレイソン・コメンツ 第185回 (2011年1月29日)
リベラリズム( “liberalism” 自由主義)は信じ難い病気です.それは最良の心と精神をぼろぼろに腐らせて駄目にします.もしリベラリズムを最も簡潔に,人を神から解放することだと定義するなら,それは山と同じくらい古いからあることです.(訳注・「山」の原語 “hills.” イングランド地方の山は低く,たいてい “hills”(丘・丘陵)と呼ばれる.)だが,そのことが今日ほど深くさらに広くまん延し,一見正常であるように思われたことはかつてありませんでした.現在では信教の自由がリベラリズムの核心です - もし私が神から自由でなければ,たとえその他のすべての事や人から自由であったとしても何の役に立つでしょうか?だから,教皇ベネディクト16世が三週間前「信教の自由が世界中で脅(おびや)かされている」と嘆いたとすれば,教皇は確かにリベラリズムという病に感染しています.それどころか,伝統的なカトリック教を信奉する信徒たちでも,自分はこの病気に対して免疫があるなどと自信を持たないでほしいと思います.ここにご紹介するのは,欧州大陸のある平信徒から数日前に私が受け取った電子メールです:--
「ずいぶん長い間,およそ20年ほど,私はリベラリズムの型にはめられていました.私が聖ピオ十世会へと転籍したのは神の恩寵によるものです.私は,カトリック伝統派の中にさえリベラルな振る舞いをする人がいるのを見てショックを受けました.人々は相変わらず,世の中の情勢がひどいことをあまり誇張すべきではないと言い合っています.フリーメーソンの組織がカトリック教会の敵であると人が話すことはほとんどありません.なぜならそれをすれば個人的利益を損なう恐れがあるので,人々はあたかも全体的に見れば世の中はうまくいっているかのように対処し続けています.
伝統派カトリック教徒たちの中には伝統派カトリックであることから来るストレスに対処するため向精神薬の服用を勧める者たちもいます.そして彼らは,幸福を求めるあなたに,医者へ行ってもう少し気楽な生き方をすべきだ,と言います.
このような振る舞いがたどり着くところは,リベラリズムの温床である宗教無差別主義(訳注・原語 “an indifferentism.” =宗教的無関心主義.宗教間の教義などの違いはとるに足らないことだという考え.)です.そうなると,ある日突然なんの前触れもなしに,ノブス・オルド・ミサ(訳注・ “the Novus Ordo Mass” =新しい典礼によるミサ聖祭)に参列する(与る)こと,モダニスト( “modernists” =近現代主義者)たちと共通の理念を持つこと,自分の信念を日毎(ひごと)に変えること,国立大学で学ぶこと,国を当てにすること,そして人は誰でもみな結局のところ善意の持ち主だとの前提で行動することは、どれも大して悪い事ではないことになります。
私たちの主イエズス・キリストは,この種の宗教無差別主義を手厳しい言葉で叱責されます.生ぬるさについては「彼の口から吐き出し始める」(黙示録:第3章16節)でしょう(訳注後記).逆説的に聞えるかもしれませんが,カトリック教会の最たる敵たちはリベラルなカトリック教徒たちなのです.なんとリベラル伝統主義なるものさえあるほどです!!!」(この信徒からの引用の終り)
では私たちの一人ひとりを脅かすこの毒に効く解毒剤とは何でしょうか?それは疑いなく神の恩寵です(ローマ・第7章25節)(訳注後記).それは精神の混乱を晴らし,精神が正しいと考えることを為そうとする意思を強固なものとすることができるのです.では私は神の恩寵を受けることをどうやって確かなものにするのでしょうか?それは,どうやって最後まで堅忍することを私が保証できますか?と問うのにいくぶん似ています.カトリック教会の教えによれば,人には神の恩寵を保証することなどできません.なぜなら,それは神からの贈り物 - すなわち最高に素晴らしい神の賜(たまもの) - だからです.だが私に常にできることは聖なるロザリオの祈りを捧げること,すなわち毎日平均して五つの玄義 - 無理をせずにできるなら十五すべての玄義 - を唱えることです.ロザリオの祈りを毎日唱える人は誰でも,神の御母(聖母)が私たちすべてに果たすようお求めになっていることを果たしていることになります.そして聖母は私たちの主また神であられる御子イエズス・キリストに事実上無限の力を持っておられるのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
- 第5パラグラフの引用聖書の訳注:
新約聖書・ヨハネの黙示録:第3章16節(太字の部分)
『*¹ラオディキアの*教会の天使に書け,〈*²アメンである者,忠実な真実な証人、天主(=神)の創造の本源であるお方(=キリスト)は,こういわれる.私はあなたの行いを知っている.
あなたは冷たくもなく,熱くもないが,私はむしろあなたが冷たいかそれとも熱くあることを望む.
だがあなたは熱くもなく冷たくもなく,なまぬるいから,私はあなたを口から吐き出す.
自分は金持だ,豊かになった,足りないものがないとあなたは言って,*³自分が不幸な者,哀れな者,貧しい者,盲人,裸の者であることを知らぬ.
私はあなたに,精練された金を私から買って富め,白い服を買ってまとい裸の恥を見せるな,目に*⁴目薬をぬって見えるようになれと勧める.
私は,*⁵愛するすべての者を責めて罰するから,あなたも熱心に悔い改めよ.
私は門の外に立ってたたいている.私の声を聞いて戸を開くなら,*⁶私はその人のところに入って彼とともに食事し,彼も私とともに食事するであろう.
勝つ者は私とともに王座に座らせよう.私が勝って父とともにその王座に座ったのと同様に.
耳ある者は霊が諸教会にいわれることを開け〉』
(バルバロ神父による注釈)
*¹フィラデルフィアの南東65キロにある.
*²「キリストは真理である」の意味.→〈旧約〉イザヤ65・16,格言の書8.22,知恵の書9・1,〈新約〉ヨハネ福音1・3,コロサイ書簡1・16.
*³商都として栄えていたラオディキアは,精神的に貧しいものである.
*⁴ラオディキアの目薬は有名だった.
*⁵〈旧約〉格言3・12参照 →「(わが子よ,神のこらしめをあなどらず,神のこらしめを受けて,悪意を抱くな.)なぜなら,神は愛するものをこらしめ,いちばん愛する子を苦しめたもうからである.(バルバロ神父による注釈:神は善人をこらしめるが,それは,欠点をなおすためである.苦しみこそは最良の教師である.)
*⁶(後で追加します)
***
- 第6(最後の)パラグラフはじめの引用聖書の訳注:
新約聖書・聖パウロによるローマ人への手紙・第7章25節(太字の部分)
『私たちは律法が霊的なものであることを知っている.
しかし私は肉体の人であって罪の下に売られたものである.*¹私は自分のしていることが分からない.私は自分の望むことをせず,むしろ自分の憎むことをするからである.私が自分の望まぬことをするとすれば,律法に同意して,律法が善いものであることを認めることになる.それなら,*²こうするのは私ではなく私の内に住む罪である.
また,*³私の肉に,善が住んでいないことも知っている.善を望むことは私の内にあるが,それを行うことは私の内にないからである.私は自分の望む善をせず,むしろ望まぬ悪をしているのだから.もし望まぬことをするなら,それをするのは私ではなく,私の内に住む罪である.
そこで,善をしたいとき悪が私のそばにいるという,*⁴法則を私は見つけた.*⁵内の人に従えば私は天主の法を喜ぶが,私の肢体に他の法則があってそれが理性の法則に対して戦い,肢体にある罪の法の下に私を縛りつける.
私はなんと不幸な人間であろう.この死の体から私を解き放つのはだれだろう.
主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ.
こうして私は理性によって天主の法に仕え,肉によって罪の法に仕える.』
(→English version: “…Unhappy man that I am, who shall deliver me from the body of this death? The grace of God, by Jesus Christ our Lord. Therefore, I myself, with the mind serve the law of God: but with the flesh, the law of sin.)
(バルバロ神父による注釈)
罪に対して律法は無力である.
*¹キリスト教前の哲学者がすでに言っているとおり,判断と行為,論理と実際との間の矛盾.
*²悪に対する人間の責任を否定するわけではなく,欲望の強さを認める.
*³「私」とは新約の下にはなく,モーゼの律法の下にある人間.
*⁴法律あるいはモーゼの律法などの意味ではなく,一つの状態である.これは後節に出てくる「罪の法」のこと.
*⁵「内の人」は人間の理性的な高尚なものを指す.外の人(新約聖書・コリント人への第二の手紙:4・16)に相対する. → 『したがって,私たちは落胆しない.私たちの外の人は衰えても,内の人は日々に新たになっている.』
(「外の人」とは,はかない体のこと〈バルバロ神父による注釈〉).
***
- 第6パラグラフの「神の恩寵」についての訳注:
原語 “Sanctifying grace.”
上述の「ローマ人への手紙・第7章25節」主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ.The grace of God, by Jesus Christ our Lord. による意味. → 人間を罪の汚れ=死の体=から清め聖別し,霊的な永遠の生命に生かすことができる「神の恩寵」という意味.
リベラリズム( “liberalism” 自由主義)は信じ難い病気です.それは最良の心と精神をぼろぼろに腐らせて駄目にします.もしリベラリズムを最も簡潔に,人を神から解放することだと定義するなら,それは山と同じくらい古いからあることです.(訳注・「山」の原語 “hills.” イングランド地方の山は低く,たいてい “hills”(丘・丘陵)と呼ばれる.)だが,そのことが今日ほど深くさらに広くまん延し,一見正常であるように思われたことはかつてありませんでした.現在では信教の自由がリベラリズムの核心です - もし私が神から自由でなければ,たとえその他のすべての事や人から自由であったとしても何の役に立つでしょうか?だから,教皇ベネディクト16世が三週間前「信教の自由が世界中で脅(おびや)かされている」と嘆いたとすれば,教皇は確かにリベラリズムという病に感染しています.それどころか,伝統的なカトリック教を信奉する信徒たちでも,自分はこの病気に対して免疫があるなどと自信を持たないでほしいと思います.ここにご紹介するのは,欧州大陸のある平信徒から数日前に私が受け取った電子メールです:--
「ずいぶん長い間,およそ20年ほど,私はリベラリズムの型にはめられていました.私が聖ピオ十世会へと転籍したのは神の恩寵によるものです.私は,カトリック伝統派の中にさえリベラルな振る舞いをする人がいるのを見てショックを受けました.人々は相変わらず,世の中の情勢がひどいことをあまり誇張すべきではないと言い合っています.フリーメーソンの組織がカトリック教会の敵であると人が話すことはほとんどありません.なぜならそれをすれば個人的利益を損なう恐れがあるので,人々はあたかも全体的に見れば世の中はうまくいっているかのように対処し続けています.
伝統派カトリック教徒たちの中には伝統派カトリックであることから来るストレスに対処するため向精神薬の服用を勧める者たちもいます.そして彼らは,幸福を求めるあなたに,医者へ行ってもう少し気楽な生き方をすべきだ,と言います.
このような振る舞いがたどり着くところは,リベラリズムの温床である宗教無差別主義(訳注・原語 “an indifferentism.” =宗教的無関心主義.宗教間の教義などの違いはとるに足らないことだという考え.)です.そうなると,ある日突然なんの前触れもなしに,ノブス・オルド・ミサ(訳注・ “the Novus Ordo Mass” =新しい典礼によるミサ聖祭)に参列する(与る)こと,モダニスト( “modernists” =近現代主義者)たちと共通の理念を持つこと,自分の信念を日毎(ひごと)に変えること,国立大学で学ぶこと,国を当てにすること,そして人は誰でもみな結局のところ善意の持ち主だとの前提で行動することは、どれも大して悪い事ではないことになります。
私たちの主イエズス・キリストは,この種の宗教無差別主義を手厳しい言葉で叱責されます.生ぬるさについては「彼の口から吐き出し始める」(黙示録:第3章16節)でしょう(訳注後記).逆説的に聞えるかもしれませんが,カトリック教会の最たる敵たちはリベラルなカトリック教徒たちなのです.なんとリベラル伝統主義なるものさえあるほどです!!!」(この信徒からの引用の終り)
では私たちの一人ひとりを脅かすこの毒に効く解毒剤とは何でしょうか?それは疑いなく神の恩寵です(ローマ・第7章25節)(訳注後記).それは精神の混乱を晴らし,精神が正しいと考えることを為そうとする意思を強固なものとすることができるのです.では私は神の恩寵を受けることをどうやって確かなものにするのでしょうか?それは,どうやって最後まで堅忍することを私が保証できますか?と問うのにいくぶん似ています.カトリック教会の教えによれば,人には神の恩寵を保証することなどできません.なぜなら,それは神からの贈り物 - すなわち最高に素晴らしい神の賜(たまもの) - だからです.だが私に常にできることは聖なるロザリオの祈りを捧げること,すなわち毎日平均して五つの玄義 - 無理をせずにできるなら十五すべての玄義 - を唱えることです.ロザリオの祈りを毎日唱える人は誰でも,神の御母(聖母)が私たちすべてに果たすようお求めになっていることを果たしていることになります.そして聖母は私たちの主また神であられる御子イエズス・キリストに事実上無限の力を持っておられるのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
- 第5パラグラフの引用聖書の訳注:
新約聖書・ヨハネの黙示録:第3章16節(太字の部分)
『*¹ラオディキアの*教会の天使に書け,〈*²アメンである者,忠実な真実な証人、天主(=神)の創造の本源であるお方(=キリスト)は,こういわれる.私はあなたの行いを知っている.
あなたは冷たくもなく,熱くもないが,私はむしろあなたが冷たいかそれとも熱くあることを望む.
だがあなたは熱くもなく冷たくもなく,なまぬるいから,私はあなたを口から吐き出す.
自分は金持だ,豊かになった,足りないものがないとあなたは言って,*³自分が不幸な者,哀れな者,貧しい者,盲人,裸の者であることを知らぬ.
私はあなたに,精練された金を私から買って富め,白い服を買ってまとい裸の恥を見せるな,目に*⁴目薬をぬって見えるようになれと勧める.
私は,*⁵愛するすべての者を責めて罰するから,あなたも熱心に悔い改めよ.
私は門の外に立ってたたいている.私の声を聞いて戸を開くなら,*⁶私はその人のところに入って彼とともに食事し,彼も私とともに食事するであろう.
勝つ者は私とともに王座に座らせよう.私が勝って父とともにその王座に座ったのと同様に.
耳ある者は霊が諸教会にいわれることを開け〉』
(バルバロ神父による注釈)
*¹フィラデルフィアの南東65キロにある.
*²「キリストは真理である」の意味.→〈旧約〉イザヤ65・16,格言の書8.22,知恵の書9・1,〈新約〉ヨハネ福音1・3,コロサイ書簡1・16.
*³商都として栄えていたラオディキアは,精神的に貧しいものである.
*⁴ラオディキアの目薬は有名だった.
*⁵〈旧約〉格言3・12参照 →「(わが子よ,神のこらしめをあなどらず,神のこらしめを受けて,悪意を抱くな.)なぜなら,神は愛するものをこらしめ,いちばん愛する子を苦しめたもうからである.(バルバロ神父による注釈:神は善人をこらしめるが,それは,欠点をなおすためである.苦しみこそは最良の教師である.)
*⁶(後で追加します)
***
- 第6(最後の)パラグラフはじめの引用聖書の訳注:
新約聖書・聖パウロによるローマ人への手紙・第7章25節(太字の部分)
『私たちは律法が霊的なものであることを知っている.
しかし私は肉体の人であって罪の下に売られたものである.*¹私は自分のしていることが分からない.私は自分の望むことをせず,むしろ自分の憎むことをするからである.私が自分の望まぬことをするとすれば,律法に同意して,律法が善いものであることを認めることになる.それなら,*²こうするのは私ではなく私の内に住む罪である.
また,*³私の肉に,善が住んでいないことも知っている.善を望むことは私の内にあるが,それを行うことは私の内にないからである.私は自分の望む善をせず,むしろ望まぬ悪をしているのだから.もし望まぬことをするなら,それをするのは私ではなく,私の内に住む罪である.
そこで,善をしたいとき悪が私のそばにいるという,*⁴法則を私は見つけた.*⁵内の人に従えば私は天主の法を喜ぶが,私の肢体に他の法則があってそれが理性の法則に対して戦い,肢体にある罪の法の下に私を縛りつける.
私はなんと不幸な人間であろう.この死の体から私を解き放つのはだれだろう.
主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ.
こうして私は理性によって天主の法に仕え,肉によって罪の法に仕える.』
(→English version: “…Unhappy man that I am, who shall deliver me from the body of this death? The grace of God, by Jesus Christ our Lord. Therefore, I myself, with the mind serve the law of God: but with the flesh, the law of sin.)
(バルバロ神父による注釈)
罪に対して律法は無力である.
*¹キリスト教前の哲学者がすでに言っているとおり,判断と行為,論理と実際との間の矛盾.
*²悪に対する人間の責任を否定するわけではなく,欲望の強さを認める.
*³「私」とは新約の下にはなく,モーゼの律法の下にある人間.
*⁴法律あるいはモーゼの律法などの意味ではなく,一つの状態である.これは後節に出てくる「罪の法」のこと.
*⁵「内の人」は人間の理性的な高尚なものを指す.外の人(新約聖書・コリント人への第二の手紙:4・16)に相対する. → 『したがって,私たちは落胆しない.私たちの外の人は衰えても,内の人は日々に新たになっている.』
(「外の人」とは,はかない体のこと〈バルバロ神父による注釈〉).
***
- 第6パラグラフの「神の恩寵」についての訳注:
原語 “Sanctifying grace.”
上述の「ローマ人への手紙・第7章25節」主イエズス・キリストによって天主に感謝せよ.The grace of God, by Jesus Christ our Lord. による意味. → 人間を罪の汚れ=死の体=から清め聖別し,霊的な永遠の生命に生かすことができる「神の恩寵」という意味.
2010年8月10日火曜日
荒地の救済方法 その1
エレイソン・コメンツ 第160回 (2010年8月7日)
「わかりました,司教閣下」親たちが言っているのが私に聞こえます.「要するに『大学』はみな荒廃しているわけですね.でも司教閣下がそうおっしゃるなら,そこら中の学校はみな荒廃しているとお認めにならなければなりません.それでは私たちは子供たちをどうすればよいのでしょうか? 神の法(掟)はそれに背く避妊方法を禁じています.それで子供たちは生まれてくるわけです.ではどうすればよいのでしょうか? 」
かつてないほどに悪くなっている世の中では,天国に入りたいと望む霊魂は,これまでにないほどに勇敢にならなければならないでしょうが,与えられる報いはその努力に応じて,かつてないほどに大きなものになる,というのが私の即答です.
教皇ピオ十二世は在位当時の世界がソドマとゴモラ(訳注後記その1)の時代よりも悪い状態だったと仰せられましたが,その彼は1958年に亡くなられています! 教皇が生きておられたら,今日の世界のことを何と仰る(おっしゃる)でしょうか? 同じ問題に直面して,彼の後を継いだ歴代の教皇たちは,第二バチカン公会議で「(カトリック教会が目指すべき)ゴールポストの位置を変えてしまった」のです.そうすることで,悪くなった世の中を糾弾(きゅうだん)し続ける,糾弾し続ける,糾弾し続けることなしに済ませるためです.だが、それは安易な抜け道を通ってお茶を濁(にご)したに過ぎなかったのです.非常ベルを止めるのは,火を消し止めるのと同じではありません.カトリック教会と世界は陽気に燃え盛っています.このようなとき,両親がまず第一にしなければならないことは問題に向き合うことです.その問題とは,子供たちの霊魂の永遠の救済を脅(おびや)かす過度の危険が迫(せま)っているという現実です.
ひとたびその危険が何なのか把握(はあく)してしまえば,親たちは,公会議主義体制の陰険なやり方やその種の他のいかなるやり方も採(と)ってはいけないこと,ただ勇敢で英雄的な王道のみを採るべきことを,自身のカトリック信仰によって教えられるでしょう.「私たちは羽毛ベッドに横たわって天国に入ることはできません」と聖トマス・モアは言いました.私たちの主は,「誰でも私の弟子となろうと思う者は、進んで自分の十字架を負い,その上で私に従いなさい」(新約聖書・マテオによる福音書:第16章24節より)と,また「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マテオ聖福音:第24章13節)と仰せられました.親たちは,子供たちの霊魂を救うためには自らが英雄になる必要があると決意しなければなりせん.そうすれば,その決意通りに英雄となれるでしょう.この点について,「志(こころざし)あるところに道あり(精神一到何事かならざらん)」のことわざ通り,ひとたび親の愛情が志を持ちさえすれば,家庭の内外いずれにおいても,自(おの)ずから最良の道を見出(みいだ)せるでしょう.
家庭外でのことについては,来週の「エレイソン・コメンツ」で『大学』進学の以外の選択肢について述べるつもりです.家庭内のことについては,まともなカトリック司祭なら誰でも次のように指導するでしょう.すなわち,まず家庭で家族全員が揃(そろ)ってロザリオの祈りを唱える習慣を堅実に確立することから始めること,また悪魔と世俗の快楽の世界の神殿であるテレビを家庭から追放したうえで,さらにロザリオの祈りを家族で唱え続けることです.小さいうちから子供たちの心と精神とを,家庭の中での生きた交流とあらゆる物事についての陽の下での生き生きとした会話で満たすべきです.なぜなら,子供たちが『大学』に行く年頃になるまでには,ふつうは善かれ悪しかれ,賽(さい→「さいころ」のこと)は投げられてしまっているからです.もしある男の子が,真に生き生きした家庭で,祈りによって心が天国に向かうように育てられていれば,最悪の『大学』へ進学しても,あまり害を受けることはないでしょう.これに反して,もし彼がテレビばかり見てばかな若者に育ち上がってしまった場合は,最良の大学へ通わせても天国に向わせるにはあまり役立たないでしょう.
EC158(エレイソン・コメンツ第158回)で私は,両親は男の子を大学へ進学させる費用を決して出してはならないとは述べていない点にご留意下さい.学費を支払う前に熟考するように,と述べたのです.両親が自分たちの男の子がまだ小さいうちによく考えておけば,あまりにも手遅れにならないうちに,自らの信仰によって家庭内での生活をいかに変えるべきかを学ぶに違いありません.聖パウロがイザヤの書(第64章4節)(訳注・バルバロ神父訳(日本語)の聖書では第64章3節)を引用して述べているように(コリント人への第一の手紙・第2章9節)(訳注後記その2),天国はあらゆる努力を払ってでも入る価値が無限にあり,人間のいかなる想像をもはるかに凌駕(りょうが)するものなのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(第3パラグラフの訳注その1)
ソドマとゴモラ
ソドマとゴモラは悪行を極めた罪深い町々の名.人々の重い罪は神の怒りを買い,これらの町は天からの硫黄と火の雨で焼き滅ぼし尽された.
「創世の書」(旧約聖書)の第18章-19章29節を参照.
以下は,聖書の引用箇所からの簡単なあらすじと注釈(バルバロ神父訳聖書より).
ソドマは,アブラハムの甥ロトとその家族がその近くに幕屋を張って住みついた町である.
①『…現に,私(神)が彼(アブラハム)を選んだのは,主が約束されたことを,アブラハムを通じて実現するためであり,また彼が自分の子らとその家族に主の道を行わせ,正義と法を守らせるためである.』(旧約聖書・創世の書:第18章19節)
(18章17-19節の注釈)
神がアブラハムに,ソドマの全滅を前もって知らせるその理由である.アブラハムは子孫に,「主の道を守る」ことを教え,子孫は「堕落した町の全滅」を永久の教訓としてとらなければならない.神は天使の姿をとっていて,その話し方も人間の話し方である.
②ある日,神の天使がアブラハムのもとに遣わされた.
『…主は仰せられた,〈ソドマとゴモラに対する叫びはあまりにはげしく,その罪はあまりに重い.私にまでとどいた叫びの,そういう悪をみな,ほんとうに彼らがやったかどうか,私は見たいから,下ってみよう.…〉』(18章20節)
(18章20節の注釈)
ソドマとゴモラの罪は,自然にもとる罪で,神の罰を呼んだ.自然の法則によって表現される神のおきてにそむくことは,人間自身の損害としてはね返ってくる.
③(19章1-29節の「ソドマの滅び」の注釈)
前章で準備された神の計画がここで満たされた.この話の倫理的なねらいは,西洋で「ソドミア」といわれる男色(男性間の同性愛)を打つところにある.のちにヘブライ人の法律(レビの書)では男色者を死刑にすることとなったが,このころ近東では男色の罪が広まっていた.ハムラビ法典では,男色の罪を大してとがめていないどころか,氏子の男色を認めてさえいた.イスラエルでも,こういう悪はかなり広まっていた.
④『…二人(天使)がまだ床につかぬうちに,町の人々つまりソドマの人たちは,若い者も,年寄りも,一人残らずその家にむらがり,ロトを呼び出してわめいた,「今夜,おまえの家に入ったあの男たちはどこにいるのか.あいつらを出せ.あいつらを,おれたちにまかせろ」.』
『…「そこをどけ.こいつは他国人のくせに,裁判官のまねをしている.おまえは,あの男らよりも,もっとひどい目にあうぞ」とどなって,ロトにはげしく襲いかかり,扉を打ち破って入ろうとした.』(19章4-5,9節)
(19章4-9節の注釈)
19章4-5節は集合男色の著しい例であり,9節のソドマ人のロト(アブラハムの甥)への返事は,彼らの男色への好みがどれほどであったかをよく証明している.
⑤『われわれ(神の天使)は,この町(ソドマ)を滅ぼそうとして来たのだ.この町の人々に対する叫びの声が,主のみ前にあまりに大きくなったので,主はこの町を滅ぼすために,われわれをおつかわしになったのだ.』(19章13節)
(2人の男の姿をとった神の天使はこのように言い,光を投げてソドマの住人の目をくらまし,正しく生きていたロトとその家族を離れた町へ逃した.その後で,神はソドマとゴモラの町に天から硫黄と火の雨を降らせて滅ぼし尽くした.)
(19章23-25節の注釈)
天からの火と硫黄とは,大地震のことだと思ってよい.神は罪深い町を滅ぼすために,地震という方法を用いた.大地は震え,アスファルトは燃えだし,あふれて雨のように降り,谷間は地の底となった.地質学的に見ても,死海の南の地帯は時代として若く,現代もなお不安定である.
* * *
(最後のパラグラフの訳注その2)
新約聖書・(聖パウロによる)コリント人への第一の手紙:第2章9節
「書き記されているとおり,「目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮かばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである.…」
旧約聖書・イザヤの書:第64章3節(1-2節から4節まで記載)
「(水が,火でつきはてるように,火は敵を滅ぼし尽くすがよい.そして,敵の間にみ名は知られ,もろもろの民はみ前でおののくのだ.私たちの思いもよらぬ恐ろしいことを主は果たされた.)そのことについては,昔から話を聞いたこともない.あなた以外の神が,自分によりたのむ者のために,これほどのことをされたと,耳に聞いたこともなく,目で見たこともない.(主は正義を行い,道を思い出す人々を迎えられる.)」
「わかりました,司教閣下」親たちが言っているのが私に聞こえます.「要するに『大学』はみな荒廃しているわけですね.でも司教閣下がそうおっしゃるなら,そこら中の学校はみな荒廃しているとお認めにならなければなりません.それでは私たちは子供たちをどうすればよいのでしょうか? 神の法(掟)はそれに背く避妊方法を禁じています.それで子供たちは生まれてくるわけです.ではどうすればよいのでしょうか? 」
かつてないほどに悪くなっている世の中では,天国に入りたいと望む霊魂は,これまでにないほどに勇敢にならなければならないでしょうが,与えられる報いはその努力に応じて,かつてないほどに大きなものになる,というのが私の即答です.
教皇ピオ十二世は在位当時の世界がソドマとゴモラ(訳注後記その1)の時代よりも悪い状態だったと仰せられましたが,その彼は1958年に亡くなられています! 教皇が生きておられたら,今日の世界のことを何と仰る(おっしゃる)でしょうか? 同じ問題に直面して,彼の後を継いだ歴代の教皇たちは,第二バチカン公会議で「(カトリック教会が目指すべき)ゴールポストの位置を変えてしまった」のです.そうすることで,悪くなった世の中を糾弾(きゅうだん)し続ける,糾弾し続ける,糾弾し続けることなしに済ませるためです.だが、それは安易な抜け道を通ってお茶を濁(にご)したに過ぎなかったのです.非常ベルを止めるのは,火を消し止めるのと同じではありません.カトリック教会と世界は陽気に燃え盛っています.このようなとき,両親がまず第一にしなければならないことは問題に向き合うことです.その問題とは,子供たちの霊魂の永遠の救済を脅(おびや)かす過度の危険が迫(せま)っているという現実です.
ひとたびその危険が何なのか把握(はあく)してしまえば,親たちは,公会議主義体制の陰険なやり方やその種の他のいかなるやり方も採(と)ってはいけないこと,ただ勇敢で英雄的な王道のみを採るべきことを,自身のカトリック信仰によって教えられるでしょう.「私たちは羽毛ベッドに横たわって天国に入ることはできません」と聖トマス・モアは言いました.私たちの主は,「誰でも私の弟子となろうと思う者は、進んで自分の十字架を負い,その上で私に従いなさい」(新約聖書・マテオによる福音書:第16章24節より)と,また「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マテオ聖福音:第24章13節)と仰せられました.親たちは,子供たちの霊魂を救うためには自らが英雄になる必要があると決意しなければなりせん.そうすれば,その決意通りに英雄となれるでしょう.この点について,「志(こころざし)あるところに道あり(精神一到何事かならざらん)」のことわざ通り,ひとたび親の愛情が志を持ちさえすれば,家庭の内外いずれにおいても,自(おの)ずから最良の道を見出(みいだ)せるでしょう.
家庭外でのことについては,来週の「エレイソン・コメンツ」で『大学』進学の以外の選択肢について述べるつもりです.家庭内のことについては,まともなカトリック司祭なら誰でも次のように指導するでしょう.すなわち,まず家庭で家族全員が揃(そろ)ってロザリオの祈りを唱える習慣を堅実に確立することから始めること,また悪魔と世俗の快楽の世界の神殿であるテレビを家庭から追放したうえで,さらにロザリオの祈りを家族で唱え続けることです.小さいうちから子供たちの心と精神とを,家庭の中での生きた交流とあらゆる物事についての陽の下での生き生きとした会話で満たすべきです.なぜなら,子供たちが『大学』に行く年頃になるまでには,ふつうは善かれ悪しかれ,賽(さい→「さいころ」のこと)は投げられてしまっているからです.もしある男の子が,真に生き生きした家庭で,祈りによって心が天国に向かうように育てられていれば,最悪の『大学』へ進学しても,あまり害を受けることはないでしょう.これに反して,もし彼がテレビばかり見てばかな若者に育ち上がってしまった場合は,最良の大学へ通わせても天国に向わせるにはあまり役立たないでしょう.
EC158(エレイソン・コメンツ第158回)で私は,両親は男の子を大学へ進学させる費用を決して出してはならないとは述べていない点にご留意下さい.学費を支払う前に熟考するように,と述べたのです.両親が自分たちの男の子がまだ小さいうちによく考えておけば,あまりにも手遅れにならないうちに,自らの信仰によって家庭内での生活をいかに変えるべきかを学ぶに違いありません.聖パウロがイザヤの書(第64章4節)(訳注・バルバロ神父訳(日本語)の聖書では第64章3節)を引用して述べているように(コリント人への第一の手紙・第2章9節)(訳注後記その2),天国はあらゆる努力を払ってでも入る価値が無限にあり,人間のいかなる想像をもはるかに凌駕(りょうが)するものなのです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
(第3パラグラフの訳注その1)
ソドマとゴモラ
ソドマとゴモラは悪行を極めた罪深い町々の名.人々の重い罪は神の怒りを買い,これらの町は天からの硫黄と火の雨で焼き滅ぼし尽された.
「創世の書」(旧約聖書)の第18章-19章29節を参照.
以下は,聖書の引用箇所からの簡単なあらすじと注釈(バルバロ神父訳聖書より).
ソドマは,アブラハムの甥ロトとその家族がその近くに幕屋を張って住みついた町である.
①『…現に,私(神)が彼(アブラハム)を選んだのは,主が約束されたことを,アブラハムを通じて実現するためであり,また彼が自分の子らとその家族に主の道を行わせ,正義と法を守らせるためである.』(旧約聖書・創世の書:第18章19節)
(18章17-19節の注釈)
神がアブラハムに,ソドマの全滅を前もって知らせるその理由である.アブラハムは子孫に,「主の道を守る」ことを教え,子孫は「堕落した町の全滅」を永久の教訓としてとらなければならない.神は天使の姿をとっていて,その話し方も人間の話し方である.
②ある日,神の天使がアブラハムのもとに遣わされた.
『…主は仰せられた,〈ソドマとゴモラに対する叫びはあまりにはげしく,その罪はあまりに重い.私にまでとどいた叫びの,そういう悪をみな,ほんとうに彼らがやったかどうか,私は見たいから,下ってみよう.…〉』(18章20節)
(18章20節の注釈)
ソドマとゴモラの罪は,自然にもとる罪で,神の罰を呼んだ.自然の法則によって表現される神のおきてにそむくことは,人間自身の損害としてはね返ってくる.
③(19章1-29節の「ソドマの滅び」の注釈)
前章で準備された神の計画がここで満たされた.この話の倫理的なねらいは,西洋で「ソドミア」といわれる男色(男性間の同性愛)を打つところにある.のちにヘブライ人の法律(レビの書)では男色者を死刑にすることとなったが,このころ近東では男色の罪が広まっていた.ハムラビ法典では,男色の罪を大してとがめていないどころか,氏子の男色を認めてさえいた.イスラエルでも,こういう悪はかなり広まっていた.
④『…二人(天使)がまだ床につかぬうちに,町の人々つまりソドマの人たちは,若い者も,年寄りも,一人残らずその家にむらがり,ロトを呼び出してわめいた,「今夜,おまえの家に入ったあの男たちはどこにいるのか.あいつらを出せ.あいつらを,おれたちにまかせろ」.』
『…「そこをどけ.こいつは他国人のくせに,裁判官のまねをしている.おまえは,あの男らよりも,もっとひどい目にあうぞ」とどなって,ロトにはげしく襲いかかり,扉を打ち破って入ろうとした.』(19章4-5,9節)
(19章4-9節の注釈)
19章4-5節は集合男色の著しい例であり,9節のソドマ人のロト(アブラハムの甥)への返事は,彼らの男色への好みがどれほどであったかをよく証明している.
⑤『われわれ(神の天使)は,この町(ソドマ)を滅ぼそうとして来たのだ.この町の人々に対する叫びの声が,主のみ前にあまりに大きくなったので,主はこの町を滅ぼすために,われわれをおつかわしになったのだ.』(19章13節)
(2人の男の姿をとった神の天使はこのように言い,光を投げてソドマの住人の目をくらまし,正しく生きていたロトとその家族を離れた町へ逃した.その後で,神はソドマとゴモラの町に天から硫黄と火の雨を降らせて滅ぼし尽くした.)
(19章23-25節の注釈)
天からの火と硫黄とは,大地震のことだと思ってよい.神は罪深い町を滅ぼすために,地震という方法を用いた.大地は震え,アスファルトは燃えだし,あふれて雨のように降り,谷間は地の底となった.地質学的に見ても,死海の南の地帯は時代として若く,現代もなお不安定である.
* * *
(最後のパラグラフの訳注その2)
新約聖書・(聖パウロによる)コリント人への第一の手紙:第2章9節
「書き記されているとおり,「目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮かばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである.…」
旧約聖書・イザヤの書:第64章3節(1-2節から4節まで記載)
「(水が,火でつきはてるように,火は敵を滅ぼし尽くすがよい.そして,敵の間にみ名は知られ,もろもろの民はみ前でおののくのだ.私たちの思いもよらぬ恐ろしいことを主は果たされた.)そのことについては,昔から話を聞いたこともない.あなた以外の神が,自分によりたのむ者のために,これほどのことをされたと,耳に聞いたこともなく,目で見たこともない.(主は正義を行い,道を思い出す人々を迎えられる.)」
2010年6月14日月曜日
公会議主義の「神学者」その2
エレイソン・コメンツ 第152回 (2010年6月12日)
先週の「エレイソン・コメンツ」で第二バチカン公会議の草分け的な神学者であるマリー=ドミニク・シュニュ神父のおかした6つの誤りを示した際,私は Si Si No No が挙げた6つの誤りの順番を変え,それに関連したお話を改めて別の「エレイソン・コメンツ」でしたいと示唆しました.そのお話とは,現代が人間の心を悲惨なまでに失墜させたことについてのものです.
Si Si No No は,6つの誤りのうち感傷主義を1位に挙げています.そのあとに主観主義,歴史的相対主義(=歴史主義),人間の方を向き人間に頼ること(訳注・=人間に救いを求める,人間を当てにする.)(人間中心主義),進化論そして背徳主義が続きます.感傷主義から始めるということは,今日わたしたちが見かける人間,言い換えれば,人間が様々な感情にどっぷり漬かって溺れている状態から始めるということです.その例は数百,数千ありますが,ここでは2つだけ挙げます:まず宗教について「神はきわめて寛容なので一人の人間の霊魂も地獄に送ることはない」という考え方です.また;政治では「誰が背後で9・11事件を仕組んだかを問うのは愛国的でない」という考えです.
「エレイソン・コメンツ」では,6つの誤りをそれぞれの即時性よりむしろ深さの順に並べる選択をしました.その結果,神に背を向けるという意味で人間中心主義を1番目に置きました.なぜなら,神を拒むことがあらゆる罪と過ちの根源だからです.次に来るのは人の心を襲う3つの誤り,すなわち主観主義,歴史的相対主義,そしてその帰結である進化論です.これら4つの誤りはいずれも感傷主義より前に来ます.なぜなら - ここが興味深い点ですが - 正当な王を失脚させ退位させないかぎり強奪者は王位を奪えないからです.同じように,心が無能力にされない限り感情が心に取って代わることはあり得ません.いずれの順位表でも最後に来るのは背徳主義すなわち善悪の否定です.なぜなら,霊魂と心のあらゆる無秩序が最終的には行動の無秩序に行き着くからです.
感情に対する心の自然な優位性 - この優位性は多くの現代人には顕著でありませんが - を理解するため,私たちは航海中の船と比較してみましょう.もし船長が故意に舵(かじ)から手を放し,船が風と波に流され難破するまで操縦を止めてしまったとしても,再び舵を取ることを選択すれば,彼に船の操縦を可能にし,風と波を上手(うま)く活用しながら港にたどり着かせるのは,舵の特質がなせることなのです.同様に,人間が故意に理性を捨て,心を感情や熱情にゆだね,永遠の地獄に向って漂流し続けることになったとしても,再び心を蘇らせる選択をすれば,初めのうちは熱情や感情を抑える理性が心許(こころもと)ないにしても,やがて天国に導かれるようになるのは心の特質によるものなのです.
では,人はどうやって自分の心を取り戻し,それを再び玉座に座らせることができるでしょうか?それは,神に立ち戻る(=神に立ち帰る)ことです.なぜなら,人が心を玉座から退位させてしまったのは,先ず(まず)はじめに神を拒(こば)んだからであり,いったん神を拒むと直(ただ)ちに理性を取り壊し始めなければならなくなったからです.それでは,人が最も容易に神に立ち戻る方法は何でしょうか?まず「アヴェマリア(めでたし,マリア)」(訳注・“Ave, Maria” 祈祷文「天使祝詞」の冒頭のところ)を1度だけ唱えることから始めてみましょう.少し進んで,その言葉をあと数回繰り返して唱えてみましょう.それからさらに進んでロザリオの祈りを1連(アヴェマリアを10回),最終的には毎日5連唱えてみましょう.こうすれば人は誰でも再び思考し始めるでしょう.
神の御母よ,私たちの心をお救いください.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
先週の「エレイソン・コメンツ」で第二バチカン公会議の草分け的な神学者であるマリー=ドミニク・シュニュ神父のおかした6つの誤りを示した際,私は Si Si No No が挙げた6つの誤りの順番を変え,それに関連したお話を改めて別の「エレイソン・コメンツ」でしたいと示唆しました.そのお話とは,現代が人間の心を悲惨なまでに失墜させたことについてのものです.
Si Si No No は,6つの誤りのうち感傷主義を1位に挙げています.そのあとに主観主義,歴史的相対主義(=歴史主義),人間の方を向き人間に頼ること(訳注・=人間に救いを求める,人間を当てにする.)(人間中心主義),進化論そして背徳主義が続きます.感傷主義から始めるということは,今日わたしたちが見かける人間,言い換えれば,人間が様々な感情にどっぷり漬かって溺れている状態から始めるということです.その例は数百,数千ありますが,ここでは2つだけ挙げます:まず宗教について「神はきわめて寛容なので一人の人間の霊魂も地獄に送ることはない」という考え方です.また;政治では「誰が背後で9・11事件を仕組んだかを問うのは愛国的でない」という考えです.
「エレイソン・コメンツ」では,6つの誤りをそれぞれの即時性よりむしろ深さの順に並べる選択をしました.その結果,神に背を向けるという意味で人間中心主義を1番目に置きました.なぜなら,神を拒むことがあらゆる罪と過ちの根源だからです.次に来るのは人の心を襲う3つの誤り,すなわち主観主義,歴史的相対主義,そしてその帰結である進化論です.これら4つの誤りはいずれも感傷主義より前に来ます.なぜなら - ここが興味深い点ですが - 正当な王を失脚させ退位させないかぎり強奪者は王位を奪えないからです.同じように,心が無能力にされない限り感情が心に取って代わることはあり得ません.いずれの順位表でも最後に来るのは背徳主義すなわち善悪の否定です.なぜなら,霊魂と心のあらゆる無秩序が最終的には行動の無秩序に行き着くからです.
感情に対する心の自然な優位性 - この優位性は多くの現代人には顕著でありませんが - を理解するため,私たちは航海中の船と比較してみましょう.もし船長が故意に舵(かじ)から手を放し,船が風と波に流され難破するまで操縦を止めてしまったとしても,再び舵を取ることを選択すれば,彼に船の操縦を可能にし,風と波を上手(うま)く活用しながら港にたどり着かせるのは,舵の特質がなせることなのです.同様に,人間が故意に理性を捨て,心を感情や熱情にゆだね,永遠の地獄に向って漂流し続けることになったとしても,再び心を蘇らせる選択をすれば,初めのうちは熱情や感情を抑える理性が心許(こころもと)ないにしても,やがて天国に導かれるようになるのは心の特質によるものなのです.
では,人はどうやって自分の心を取り戻し,それを再び玉座に座らせることができるでしょうか?それは,神に立ち戻る(=神に立ち帰る)ことです.なぜなら,人が心を玉座から退位させてしまったのは,先ず(まず)はじめに神を拒(こば)んだからであり,いったん神を拒むと直(ただ)ちに理性を取り壊し始めなければならなくなったからです.それでは,人が最も容易に神に立ち戻る方法は何でしょうか?まず「アヴェマリア(めでたし,マリア)」(訳注・“Ave, Maria” 祈祷文「天使祝詞」の冒頭のところ)を1度だけ唱えることから始めてみましょう.少し進んで,その言葉をあと数回繰り返して唱えてみましょう.それからさらに進んでロザリオの祈りを1連(アヴェマリアを10回),最終的には毎日5連唱えてみましょう.こうすれば人は誰でも再び思考し始めるでしょう.
神の御母よ,私たちの心をお救いください.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
2010年3月25日木曜日
男性の苦悩
エレイソン・コメンツ 第140回 (2010年3月20日)
私たちは今,深刻な無秩序状態に陥ってしまったため悲惨な時代を生きています.この無秩序について重ねて警鐘を打ち鳴らすため私が再登場することを弁解するつもりはありません.深刻な無秩序というのは,公の場で女性が男性を支配すること(あるいはそうなってきたこと)です.つまり女性 - 母たるもの - は家庭で家事を扱う女王たるべきで,それが何にもまして正常です.しかし,いったん女性が公の場で女王として振舞いだすと,男性連中の人生に深刻な支障が生じてしまいます.つまり,男性は女性をリードしたり神の方向に導いたりしなくなり,その結果,女性は生来の気質から本能的に男性に反発するようになります.
この問題を私に思い起こさせたのは,遠方の国に住む一人の賢明な若い男性です.ある日彼は,自分の周りでは,男性より女性向けの出版物が多いこと,大学に至るまでのあらゆる男女共学の学校で,素直で勤勉な女生徒の方が概して乱雑で集中力に欠ける男子生徒より成績が良いことに気づいたそうです.この若き友人は,男女共学とは果たして良策なのだろうか?と疑問を呈しています.
彼の観察だと,男女共学の結果,学校ではよりよい成績を収める女生徒が新たな「より強い性」として頂点に立ち,今や美貌の虜となって「より弱い性」に転じた男子を意のままに操っているというのです.新興の「女性文明」のあらゆる分野で,女性は男性に取って代わり主導者の地位を占めるようになっています.子どもを持つことでさえ,いまや女性は実験室で男性なしにそれが可能です.もはや男性は何の意味もない存在です.男性は落伍者なのです.我が若き友人は悩み苦しんだ挙げ句,次のような疑問で私への話を締めくくっています.真の男性になるための法則とは何なのだろうか?男らしさの意味は何なのか?男性の力強さと女性の力強さはどう異なるべきなのか?真の「強い女性」とは何か?また「強い男性」とは?
私の親愛なる若き友人よ,君が産まれてきたのは神の教えに背(そむ)こうとしている革命的な世の中であり,神が創造された自然や自然の秩序を転覆しようとしているところなのです.神の基本的な御計画は次に述べる通りです.すなわち,神は男性と女性を天国に住まわせるため,両性に極めて相互補完的な本性を与えて互いに結婚させ,そうして地上に住まい子孫を増やして繁栄していくように人類を創造されたのです.(詳しい解説・後記…1.) 神は女性に対し,子どもを産み育てることで(注釈・たとえ子を産まなくても女性はみな天賦の母性を持つ点で男性にない性質を有する.)家庭の心臓( “heart” )となるための秀でた感情をお与えになりました.男性に対しては,家庭の長(頭(かしら))( “head” )となり家族一家全員を天国に導いて行けるよう,そのための優れた理性をお与えになったのです.女性は家族の中で家庭生活を送るように,男性は社会の中で公的生活を送るようにとの神の御計画のもとに両性は設計されているのです.
したがって,女性,母親はできる限り家族の話に耳を傾け家庭のことによく注意を払うべきで,それはそうするための天賦の才を女性,母親が持つからです(旧約聖書・格言の書:第31章に記される,神の御言葉自らが描写した真に「強い女性」をご覧ください)(注釈・後記…2.).それに対し,女性,母親が元来向いていない(家庭の外での)公共の事柄に携わったり口をはさむのは通常はなるべく控えるべきです.女性,母親は生来そうあるべく神に創造されていないからです.今日の問題は,神を信じないために意気地無しとなった男性が指導力の空白を放置し,女性がそこへ入りこまなければならないということです.しかも,善良な女性は不本意ながらそうしているのです.私の親愛なる若き友人よ,真の男性をお作りになる神の御母の聖なるロザリオの祈りを毎日15連(喜び,悲しみ,栄光の各神秘をそれぞれ5連ずつ)祈りなさい.(注釈・後記…3.)あなた自身を神で,神で,神で,一杯に満たしなさい.そうすれば,あなたは女性が絶対に必要とする三つの l ( “the three l’s” (アルファベットの “ l (エル) ” ))を彼女たちに与えることができるでしょう.それは,耳を傾けること( “to be listened to” ),愛されること( “to be loved” ),リードされること( “to be led” )です.神(への信頼)なしでは,あなたは女性からいいようにあしらわれることになるでしょう.
私は真剣に毎日ロザリオ15連を祈るよう勧めます.それ以下ではだめです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
1.(神の基本的な御計画についての詳しい解説)
・神は,最終(究極)的に全人類を天国に住まわせるため,
(1)人を初めから男性と女性とに創造され,その際,両性に極めて相互補完的な性質を生来的にお与えになり,
(2)かかる男女が結婚するようにし,そうして一組の男女が一緒になったときに,男女で異なるそれぞれの特有の性質(男性性と女性性)で互いの弱点を補い合い,相互に助け合うことで完全な存在となるようにし(男性と男性,女性と女性同士でではない),
(3)その関係を通じて子どもを産み育て,もって子孫を増やし(繁殖し)地上に人口を形成するように創造された.
・旧約聖書・創世の書:第1~5章,特に第1章26節~31節,第2章18節~24節を参照.(用語集に記載を予定)
(注釈)
・神の御計画は,人が唯一の真の神と神が遣わされた神の御子キリストを知ることにより永遠の命を得ること(聖ヨハネ福音17章).
・キリストが建てられたカトリック教会において,結婚(婚姻)は秘跡(超自然的な神の恩恵の印)の一つである.カトリック教会では以下の通り教える.
・結婚の目的は,(1)子どもを産み育て,(2)男女の夫婦が互いに助け合い完成し合う(互いに愛,堅忍,犠牲を捧げる)ことを通して家庭生活を神に奉献し,家族みなが霊魂の救いに至ること.
・独身者は,霊魂の救い(永遠の命)を得るため,同じ奉献生活を個人で神に捧げること.
・天国ではみな天使のようになるので,めとったり嫁いだりすることはなくなる.結婚は身体のある地上生活(現世)だけでのことである.
(具体的な「奉献生活」については後日,用語集に記載を予定.)
2.(旧約聖書・格言の書:第31章…用語集に記載.)
3.(「ロザリオの祈り」について)
「ロザリオの祈り」
・神の御母(聖母)の御生涯と共に御子キリストの御生涯を辿(たど)る祈り.
・救世主たる神の御子キリスト(=人となられた「神の御言葉」=三位一体であられる唯一の神の第二の位格)により唯一の神が顕現されたが,そのキリストの御生涯(生誕の喜び・受難の苦しみ・復活の栄光)の神秘を通じて顕(あら)われた神の救世の御計画(=人の霊魂に永遠の命をお与えになること)を思い起こし,信仰・希望・愛・神への委託・堅忍などの恵みを,聖母の御取り次ぎを通して神に願う祈り.
・この祈りは個人で捧げられるほか,教会,修道会等の共同体,家族で共同で(一緒に)唱えて捧げられる.
・自分のためのみならず他者のためにも永福と神の御加護を願うために捧げられる.
(1)世の罪の贖いのため,キリストに倣って神に「償いと犠牲」を捧げるために祈る.
(2)罪人の回心のため,改心の恵みを神に願う(罪人のための執り成しの祈り).
(ロザリオの祈りの詳しい構成については,用語集に記載予定.)
(注釈)
・人の命は現世で終わって消滅するのではなく,死後に身体(肉体)が腐敗し滅びてもその霊魂は不滅である.しかし,原罪を持つためどの霊魂も神から永遠の命を与えられなければ来世で天国に住まうことはできない.
・短く儚(はかな)い現世における真の幸福は,労苦を避け欲を満たし楽を求めて過ごすことではなく,人生の長短に係わらず,神の掟に従って真面目に生活し,来世において神から祝福され永遠の命の報いを受けることにつながる生き方にある.
・従って,現世において男女のどちらにとっても真に幸福な人生とは,神が創造された自然の摂理に従い神に祝福されて生活することのうちにある.すなわち,創造主である神を堅く信じ神に深く信頼して生きることが,真の強い男らしさ・真の強い女性らしさを作る.
私たちは今,深刻な無秩序状態に陥ってしまったため悲惨な時代を生きています.この無秩序について重ねて警鐘を打ち鳴らすため私が再登場することを弁解するつもりはありません.深刻な無秩序というのは,公の場で女性が男性を支配すること(あるいはそうなってきたこと)です.つまり女性 - 母たるもの - は家庭で家事を扱う女王たるべきで,それが何にもまして正常です.しかし,いったん女性が公の場で女王として振舞いだすと,男性連中の人生に深刻な支障が生じてしまいます.つまり,男性は女性をリードしたり神の方向に導いたりしなくなり,その結果,女性は生来の気質から本能的に男性に反発するようになります.
この問題を私に思い起こさせたのは,遠方の国に住む一人の賢明な若い男性です.ある日彼は,自分の周りでは,男性より女性向けの出版物が多いこと,大学に至るまでのあらゆる男女共学の学校で,素直で勤勉な女生徒の方が概して乱雑で集中力に欠ける男子生徒より成績が良いことに気づいたそうです.この若き友人は,男女共学とは果たして良策なのだろうか?と疑問を呈しています.
彼の観察だと,男女共学の結果,学校ではよりよい成績を収める女生徒が新たな「より強い性」として頂点に立ち,今や美貌の虜となって「より弱い性」に転じた男子を意のままに操っているというのです.新興の「女性文明」のあらゆる分野で,女性は男性に取って代わり主導者の地位を占めるようになっています.子どもを持つことでさえ,いまや女性は実験室で男性なしにそれが可能です.もはや男性は何の意味もない存在です.男性は落伍者なのです.我が若き友人は悩み苦しんだ挙げ句,次のような疑問で私への話を締めくくっています.真の男性になるための法則とは何なのだろうか?男らしさの意味は何なのか?男性の力強さと女性の力強さはどう異なるべきなのか?真の「強い女性」とは何か?また「強い男性」とは?
私の親愛なる若き友人よ,君が産まれてきたのは神の教えに背(そむ)こうとしている革命的な世の中であり,神が創造された自然や自然の秩序を転覆しようとしているところなのです.神の基本的な御計画は次に述べる通りです.すなわち,神は男性と女性を天国に住まわせるため,両性に極めて相互補完的な本性を与えて互いに結婚させ,そうして地上に住まい子孫を増やして繁栄していくように人類を創造されたのです.(詳しい解説・後記…1.) 神は女性に対し,子どもを産み育てることで(注釈・たとえ子を産まなくても女性はみな天賦の母性を持つ点で男性にない性質を有する.)家庭の心臓( “heart” )となるための秀でた感情をお与えになりました.男性に対しては,家庭の長(頭(かしら))( “head” )となり家族一家全員を天国に導いて行けるよう,そのための優れた理性をお与えになったのです.女性は家族の中で家庭生活を送るように,男性は社会の中で公的生活を送るようにとの神の御計画のもとに両性は設計されているのです.
したがって,女性,母親はできる限り家族の話に耳を傾け家庭のことによく注意を払うべきで,それはそうするための天賦の才を女性,母親が持つからです(旧約聖書・格言の書:第31章に記される,神の御言葉自らが描写した真に「強い女性」をご覧ください)(注釈・後記…2.).それに対し,女性,母親が元来向いていない(家庭の外での)公共の事柄に携わったり口をはさむのは通常はなるべく控えるべきです.女性,母親は生来そうあるべく神に創造されていないからです.今日の問題は,神を信じないために意気地無しとなった男性が指導力の空白を放置し,女性がそこへ入りこまなければならないということです.しかも,善良な女性は不本意ながらそうしているのです.私の親愛なる若き友人よ,真の男性をお作りになる神の御母の聖なるロザリオの祈りを毎日15連(喜び,悲しみ,栄光の各神秘をそれぞれ5連ずつ)祈りなさい.(注釈・後記…3.)あなた自身を神で,神で,神で,一杯に満たしなさい.そうすれば,あなたは女性が絶対に必要とする三つの l ( “the three l’s” (アルファベットの “ l (エル) ” ))を彼女たちに与えることができるでしょう.それは,耳を傾けること( “to be listened to” ),愛されること( “to be loved” ),リードされること( “to be led” )です.神(への信頼)なしでは,あなたは女性からいいようにあしらわれることになるでしょう.
私は真剣に毎日ロザリオ15連を祈るよう勧めます.それ以下ではだめです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
1.(神の基本的な御計画についての詳しい解説)
・神は,最終(究極)的に全人類を天国に住まわせるため,
(1)人を初めから男性と女性とに創造され,その際,両性に極めて相互補完的な性質を生来的にお与えになり,
(2)かかる男女が結婚するようにし,そうして一組の男女が一緒になったときに,男女で異なるそれぞれの特有の性質(男性性と女性性)で互いの弱点を補い合い,相互に助け合うことで完全な存在となるようにし(男性と男性,女性と女性同士でではない),
(3)その関係を通じて子どもを産み育て,もって子孫を増やし(繁殖し)地上に人口を形成するように創造された.
・旧約聖書・創世の書:第1~5章,特に第1章26節~31節,第2章18節~24節を参照.(用語集に記載を予定)
(注釈)
・神の御計画は,人が唯一の真の神と神が遣わされた神の御子キリストを知ることにより永遠の命を得ること(聖ヨハネ福音17章).
・キリストが建てられたカトリック教会において,結婚(婚姻)は秘跡(超自然的な神の恩恵の印)の一つである.カトリック教会では以下の通り教える.
・結婚の目的は,(1)子どもを産み育て,(2)男女の夫婦が互いに助け合い完成し合う(互いに愛,堅忍,犠牲を捧げる)ことを通して家庭生活を神に奉献し,家族みなが霊魂の救いに至ること.
・独身者は,霊魂の救い(永遠の命)を得るため,同じ奉献生活を個人で神に捧げること.
・天国ではみな天使のようになるので,めとったり嫁いだりすることはなくなる.結婚は身体のある地上生活(現世)だけでのことである.
(具体的な「奉献生活」については後日,用語集に記載を予定.)
2.(旧約聖書・格言の書:第31章…用語集に記載.)
3.(「ロザリオの祈り」について)
「ロザリオの祈り」
・神の御母(聖母)の御生涯と共に御子キリストの御生涯を辿(たど)る祈り.
・救世主たる神の御子キリスト(=人となられた「神の御言葉」=三位一体であられる唯一の神の第二の位格)により唯一の神が顕現されたが,そのキリストの御生涯(生誕の喜び・受難の苦しみ・復活の栄光)の神秘を通じて顕(あら)われた神の救世の御計画(=人の霊魂に永遠の命をお与えになること)を思い起こし,信仰・希望・愛・神への委託・堅忍などの恵みを,聖母の御取り次ぎを通して神に願う祈り.
・この祈りは個人で捧げられるほか,教会,修道会等の共同体,家族で共同で(一緒に)唱えて捧げられる.
・自分のためのみならず他者のためにも永福と神の御加護を願うために捧げられる.
(1)世の罪の贖いのため,キリストに倣って神に「償いと犠牲」を捧げるために祈る.
(2)罪人の回心のため,改心の恵みを神に願う(罪人のための執り成しの祈り).
(ロザリオの祈りの詳しい構成については,用語集に記載予定.)
(注釈)
・人の命は現世で終わって消滅するのではなく,死後に身体(肉体)が腐敗し滅びてもその霊魂は不滅である.しかし,原罪を持つためどの霊魂も神から永遠の命を与えられなければ来世で天国に住まうことはできない.
・短く儚(はかな)い現世における真の幸福は,労苦を避け欲を満たし楽を求めて過ごすことではなく,人生の長短に係わらず,神の掟に従って真面目に生活し,来世において神から祝福され永遠の命の報いを受けることにつながる生き方にある.
・従って,現世において男女のどちらにとっても真に幸福な人生とは,神が創造された自然の摂理に従い神に祝福されて生活することのうちにある.すなわち,創造主である神を堅く信じ神に深く信頼して生きることが,真の強い男らしさ・真の強い女性らしさを作る.
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