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2014年11月22日土曜日

384 40周年 11/22

エレイソン・コメンツ 第384回 (2014年11月22日) 

    1974年11月21日,ルフェーブル大司教は自分と自分に従う司祭や一般信徒たちが第二バチカン公会議のもたらしたカトリック教会および宗教の変更に反対の立場を取る理由を示す歴史的な宣言を出しました.昨日(11月21日)はその40周年記念日でした (せん きゅうひゃく ななじゅう よねん じゅういち がつ にじゅういち にち,るふぇーぶる だいしきょうは じぶんと じぶんに したがう しさいや いっぱん しんと たちが だいに ばちかん こうかいぎの もたらした かとりっく きょうかい および しゅうきょうの へんこうに はんたいの たちばを とる りゆうを しめす れきしてきな せんげんを だしました.さくじつは その よんじゅっしゅうねん きねんび でした)( "Yesterday was the 40th anniversary of Archbishop Lefebvre’s historic Declaration on November 21, 1974, of the reasons for which he and the priests and laity following him were taking their stand against the total change of the Catholic Church and religion being wrought in the wake of the Second Vatican Council." ).宣言はそれが記された日と同じ様に今日でも新鮮なままです(せんげんは それが しるされた ひと おなじように こんにち でも しんせんな まま です.)( "The Declaration is a fresh today as it was on the day when it was written, …" ).その理由は神の真のカトリック教が不変の真実であるのに対し( "… because the true Catholic religion of God is unchangingly true, …" ),公会議派の人間の宗教はどう見ても間違っており,しかもそれが今日までローマ(教皇庁)を占拠し続けているからです(その りゆうは かみの まことの かとりっく きょうが ふへんの しんじつで あるのに たいし,こうかいぎはの にんげんの しゅうきょうは どうみても まちがって おり,しかも それが こんにち まで ろーま〈きょうこう ちょう〉を せんきょ しつづけて いるから です)( "… while the Conciliar religion of man is resolutely false and it is occupying Rome more than ever." ).

    ルフェーブル大司教の宣言は簡潔な10節で構成されており,以下に示す通り,全体で50行余りです.即ち,: (るふぇーぶる だいしきょうの せんげんは かんけつな じゅっせつで こうせい されて おり,いかに しめす とおり,ぜんたいで ごじゅう ぎょう あまり です.すなわち,:)( "The Declaration consists of ten brief paragraphs, little more than 50 lines in all: " )
1.私たちはカトリック・ローマ,永遠のローマに忠実に固執します(わたくしたちは かとりっくの ろーま,えいえんの ろーまに ちゅうじつに こしつ します)(訳注2-1).( "1/ We cleave to Catholic Rome, eternal Rome." ).
2.私たちは公会議派ローマ,ネオ・プロテスタント(新プロテスタント主義),ネオ・モダニスト(新現代主義)を拒否します(わたくし たちは,こうかいぎは ろーま,ねお・ぷろてすたんと〈しん ぷろてすたんと しゅぎ〉,ねお・もだにすと〈しん げんだい しゅぎ〉を きょひ します.)( "2/ We refuse Conciliar Rome, neo-Protestant and neo-modernist." ).
3.公会議派の改革はカトリック教会を破壊し,私たちのカトリック信仰を衰退させます(こうかいぎはの かいかくは かとりっく きょうかいを はかいし,わたくしたちの しんこうを すいたい させます.)( "3/ The Conciliar reform is destroying the Catholic Church and diminishing our Catholic Faith, …" ),
4.天から遣わされた御使い(=天使)と同じ様に,(てん から つかわされた みつかい〈=てんし〉と おなじように,)( "4/ … as not even an angel from Heaven has the right to do (Galatians I, 8). " )
5.私たちは伝統を選び,諸々の革新を拒みます(わたくしたちは でんとうを えらび,もろもろの かくしんを こばみます)( "5/ We choose Tradition, we refuse innovations." ).
6.教会内の全てが,長い年月を経たカトリック教の教理に反するやり方で新しく書き換えられようとしています (きょうかい ないの すべてが,ながい ねんげつを へた かとりっく きょうの きょうりに はんする やりかたで あたらしく かきかえられようと しています)( "6/ Everything in the Church is being renewed in a way opposite to age-old Catholic doctrine." ).
7.公会議派の改革は異端に始まり異端に終わるものですから,カトリック教徒たちには受け入れ難いものです(こうかいぎはの かいかくは いたんに はじまり いたんに おわる もの ですから,かとりっく きょうと たちには うけいれがたい もの です)( "7/ The Conciliar reform, coming from heresy and resulting in heresy, is unacceptable to Catholics, …" ).
8.従って,私たちは伝統派の司祭たちを育み続けます(したがって,わたくしたちは でんとうはの しさいたちを はぐくみ つづけ ます)( "8/ … so we shall continue to form Traditional priests." ).
9.そして,私たちは何時の世も変わらないカトリックの教えと実践を守ります(そして,わたくしたちは いつのよも かわらない かとりっくの おしえと じっせんを まもります)( "9/ And we shall cleave to the Catholic teaching and practice of all time, …" ).
10.私たちは,そうする事で真の忠実なカトリック教徒のままで居られると固く信じるからです(わたくしたちは,そうする ことで まことの ちゅうじつな かとりっく きょうとの ままで いられると かたく しんじる からです)( "10/ … being convinced that by so doing we will remain truly faithful Catholics." ).

    先ず初めに,宣言がカトリックのローマと公会議派のローマ(1と2)を明確かつ鋭く区別している点に注目して下さい(まず はじめに,せんげんが かとりっくの ろーまと こうかいぎはの ろーま〈1と2〉を めいかく かつ するどく くべつ している てんに ちゅうもく して ください)( "Notice firstly the clear and sharp distinction (1 and 2) between Catholic Rome and Conciliar Rome." ).公会議派ローマがカトリック・ローマの諸機構を占拠していると述べるのは真実ですが(こうかいぎは ろーまが かとりっく・ろーまの しょ きこうを せんきょ していると のべるのは しんじつ ですが),( "Now it is true to say that Conciliar Rome is occupying the structures of Catholic Rome, …" ),だから公会議派教会はカトリック教会に外ならないと述べるのは,ナイチンゲールの巣を占拠するカッコウをナイチンゲールと呼ぶくらい馬鹿げた事です(だから こうかいぎは きょうかいは かとりっく きょうかいに ほかならないと のべるのは,ないちんげーるの すを せんきょ する かっこうを ないちんげーると よぶ くらい ばかげた こと です)( "… but to say that the Conciliar Church is therefore none other than the Catholic Church is as foolish as to say that a cuckoo is a nightingale because it occupies a nightingale’s nest." ).(また大司教は公会議派ローマ,カトリック・ローマについて書いただけで,公会議派教会やカトリック教会について書いたのではない,と述べるのは言葉を弄ぶようなものです.)(〈また だいしきょうは こうかいぎは ろーま,かとりっく・ろーまに ついて かいただけで,こうかいぎは きょうかいや かとりっく きょうかいに ついて かいたのでは ない,とのべるのは ことばを もてあそぶ ような もの です〉)( "… (And to say that the Archbishop wrote of Conciliar and Catholic “Rome” and not of the Conciliar and Catholic “Church” is to quibble with words.) " )

    だがルフェーブル大司教は公会議派のカッコウとカトリックのナイチンゲールを何によって区別しているのでしょうか?(だが るふぇーぶる だいしきょうは こうかいぎは の かっこうと かとりっくの ないちんげーるを なにに よって くべつ している のでしょうか?)( "But how does the Archbishop distinguish between Conciliar cuckoo and Catholic nightingale ? " )それは教理によってです!(それは きょうりに よって です!)( "By doctrine ! " )
公会議派の論理(=公会議主義 "Conciliarism" )はネオ・プロテスタント,ネオ・モダニスト(=新プロテスタント主義,新現代主義)です(2)(こうかいぎはの ろんり〈こうかいぎ しゅぎ〉は ねお・ぷろてすたんと,ねお・もだにすと〈=しん ぷろてすたんと しゅぎ,しん げんだい しゅぎ〉です〈2〉)( "Conciliarism is neo-Protestant and neo-modernist (2)." ).
カトリック教理に反するやりかたで(6),私たちの信仰は衰退させられています(3)(かとりっく きょうりに はんする やりかたで〈6〉,わたくしたちの しんこうは すいたい させられて います〈3〉)( "Our faith is being diminished (3), in opposition to Catholic doctrine (6)." ).
公会議派の論理は異端です(7)(こうかいぎはの ろんりは いたんです〈7〉)( "Conciliarism is heresy (7)." ).
私たちはカトリックの教えを忠実に守ります(9)(わたくしたちは かとりっくの おしえを ちゅうじつに まもります〈9〉)( "We cleave to Catholic teaching (9)." ).
上記の宣言要約は大司教が教理について述べられた事全てを言い表している訳ではありません(じょうきの せんげん ようやくは だいしきょうが きょうりに ついて のべられたこと すべてを いいあらわして いる わけ では ありません.)( "And the brief summary above does not give all of the Archbishop’s references to doctrine." ).
カトリック教理は大司教の心と行動を導いた北極星でした(かとりっく きょうりは だいしきょうの こころと こうどうを みちびいた ほっきょくせい でした)( "Catholic doctrine was the Northern star of his mind and action." ).
現代人は心と行動の自由を望み,それが実質的には心を駄目にしてしまいます(げんだいじんは こころと こうどうの じゆうを のぞみ,それが じっしつてき には こころを だめに して しまいます)( "It is because modern man wants freedom for his mind and action that he in effect wants his mind to be reduced to mush, …" ).
そうなると,教理は単に儀礼的な機能しか持たなくなります(そうなると,きょうりは たんに ぎれい てきな きのう しか もたなく なります)( "… whereupon doctrine has no more than a merely decorous function." ).
もはや,それは人間の行動を律する事はなくなります(もはや,それは にんげんの こうどうを りっする ことは なくなります)( "It has no more bite upon man’s action,…" ).
教理など重要でないとする破滅的な教理は話の外です(きょうり など じゅうよう でない とする はめつてきな きょうりは はなしの ほか です.( "… except the one disastrous doctrine that doctrine is unimportant." ).
だが,この破滅的な教理は人間に全面的な影響力を持ち得ます(だが,この はめつ てきな きょうりは にんげんに ぜんめんてきな えいきょうりょくを もちえます)( "And that disastrous doctrine has a total bite. " ).
だからこそ,ルフェーブル大司教が自ら創設した聖ピオ十世会( SSPX )内部で儀礼的なマスコット程度の存在にしか見られなくなっている訳です(だからこそ,るふぇーぶる だいしきょうが みずから そうせつ した せいぴお じゅっせい かい ないぶで ぎれい てきな ますこっと ていどの そんざいに しか みられなく なっている わけです)( "Here is why the Archbishop is being reduced within the Society of St Pius X, which he founded, to little more than a decorous mascot." ).

    SSPX ,教会そして世界の中に教理の影響力,現実感,真実を愛する心を取り戻すには何が必要なのか問わざるをえません(せいぴお じゅっせい かい,きょうかい,そして せかいの なかに きょうりの えいきょう りょく,げんじつ かん,しんじつを あいする こころを とりもどす には なにが ひつよう なのか とわざるを えません)( "One is impelled to ask, what is it going to take to restore the bite of doctrine, the sense of reality and the love of truth in Society, Church and world ? " ).それは間違いなく悩み,苦しみ(=苦難・苦悩・患難)でしょう(それは まちがいなく なやみ,くるしみ〈=くなん・くのう・かんなん〉でしょう)( "Surely suffering, no less." ).(ロシアの作家)ソルジェニーツィンは現代人が自分の罪深い生き方で作り上げたコンクリートの箱をこじ開けるには鉄格子のような出来事が起きなければならないという趣旨の言葉を残しています(〈ろしあのさっか〉そるじぇにーつぃんは げんだいじんが じぶんの つみぶかい いきかたで つくりあげた こんくりーとの はこを こじあける には てつごうしの ような できごとが おきなければ ならない という しゅしの ことばを のこして います)( "Solzhenitsyn made a remark to the effect that it will take the iron bar of events to smash open the concrete casing which modern man has built around his sinful way of life." ).真に,主よ憐れみ給え(まことに,しゅよ あわれみ たまえ)( "Truly, Lord have mercy." ).

    キリエ・エレイソン.

    40年前,偉大な大司教は,
    (よんじゅうねん まえ,
    いだいな だいしきょうは,)

     ( "A great Archbishop, forty years ago," )

    公会議派の教理を推し量り,
    “No” と拒否されました.
    (こうかいぎはの きょうりを おしはかり,
     「のー」と きょひ されました.)

    ( "Measured the Council’s doctrine,
     and said “No”. " )

    リチャード・ウィリアムソン司教




* * *



第2パラグラフの訳注2-1

「私たちはカトリック・ローマ,永遠のローマに忠実に固執します」
"1/ We cleave to Catholic Rome, eternal Rome."
の意義について

・真の神の御独り子・救世主(=メシア,キリスト)イエズスの後継者である,初代ローマ司教=聖ペトロの座が置かれるローマ・バチカンは,
来るべき永遠の都,天のエルザレム(=イェルザレム Ierusalem, Jerusalem)の,地上に於ける象(かたど)りである.

・天のエルザレムは,救世主を信じる全ての者の霊魂の故郷(ふるさと)である.

→新約聖書・使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第13章14節
"Non enim habemus hic manentem civitatem, sed futuram inquirimus."(羅)
"Car nous n'avons point ici de cité permanente, mais nous cherchons la cité future."〈仏〉
"For we have not here a lasting city, but we seek one that is to come."(英)
「私たちはここに不変の都をもたず,*未来の都を探している.」
* 未来の都=天のエルザレム

・「永遠のローマ」=「永遠の都」=「天のエルザレム」
(「地上のエルザレム」ではない.)

・救世の御業を成し遂げられた神の御独り子イエズス・キリストを信じ,より良い命(=永遠の命)に召される為に現在を忍耐強く善良に生きようとする人だけが入ることを許される).

・永遠のローマは,天地の王イエズス・キリストの王国.

・救世主(真の神の御独り子,われらの主イエズス・キリスト)を信じるという事は,
キリストのお受けになった受難・(十字架上の)死・復活を,自らの人生に重ね合わせ,
キリストの全生涯に起こった出来事は,人間の目では見ることが出来ない真実の神の御前に,
人間が心の中で持てる唯一の真の神への信徳・望徳・愛徳により,
目前の人生を最期まで生き抜く全ての人にとって,普遍的な真理であるという事を信じること.

・私たち人類の真の命は,地上の肉体にではなく霊魂に在る.肉体は地上における仮の住まい,地上は霊魂の仮の住まいである.霊魂の本当の住まいは,天にある.

・真の人間は霊に於いて生きる.
霊魂は不滅であり,救世主イエズス・キリストは今も生きておられ天地を支配される.
また,キリストを信じる者の霊魂は,今すでに永遠の生命に生きている.

→新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第6章19-21節
主イエズス・キリストのみことば…
"Nolite thesaurizare vobis thesauros in terra: ubi ærugo, et tinea demolitur: et ubi fures effodiunt, et furantur.
Thesaurizate autem vobis thesauros in cælo: ubi neque ærugo, neque tinea demolitur, et ubi fures non effodiunt, nec furantur.
Ubi enim est thesaurus tuus, ibi est et cor tuum."
"Ne vous amassez point des trésors sur la terre, où la rouille et les vers rongent, et où les voleurs fouillent et dérobent.
Mais amassez-vous des trésors dans le ciel, où ni la rouille ni les vers ne rongent, et où les voleurs ne fouillent ni ne dérobent.
Où en effet est ton trésor,  là est aussi ton coeur."
"Lay not up to yourselves treasures on earth: where the rust, and moth consume, and where thieves break through and steal.
But lay up to yourselves treasures in heaven: where neither the rust nor moth doth consume, and where thieves do not break through, nor steal.
For where thy treasure is, there is thy heart also."
「自分のためにこの世に宝を積むな.ここではしみと虫が食い,盗人が穴をあけて盗み出す. 
むしろ自分のために天に宝を積め.そこではしみも虫もつかず,盗人が穴をあけて盗み出すこともない.
あなたの宝のあるところには,あなたの心もある.」
 
・この世(大宇宙・地上)は過ぎ去る(滅びる)が,神の御言葉は滅びない.

→新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第24章35節
主イエズス・キリストのみことば…
"Cælum, et terra transibunt, verba autem mea non præteribunt."
"Le ciel et la terre passeront, mais mes paroles ne passeront point."
"Heaven and earth shall pass, but my words shall not pass."
「天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ」 

***

聖福音書

1. 目撃者が伝えた出来事
ルカによる聖福音書・第1章1-4節

 私たちの間に起きた出来事の, 最初からの目撃者で, みことばの奉仕者となった人々が,私たちに伝えてくれたままに書き残そうとして,多くの人が手をつけたので,尊いテオフィロ,私も,すべてのことをはじめから詳しく調べ,順序よく書いてあなたに送るのがよいと思った.それは,あなたの聞いた教えの確実さを知らせるためである.

 2. 神のみ言葉――イエズスはおん父を啓示する――
ヨハネによる聖福音書・第1章1-18節

*はじめにみことばがあった.みことばは神とともにあった.みことばは神であった.みことばははじめに神とともにあり,*万物はみことばによって創られた.創られた物のうちに,一つとしてみことばによらず創られたものはない. みことばに生命があり,生命は人の光であった.*光はやみ(闇)に輝いたがやみはそれを悟らなかった.

さて,神から遣わされた人がいて,その名をヨハネと言った.この人は,光を証明するために,またすべての人が彼によって信じるために,証人として来た.この人は光ではなく,光を証明するために来た.

*すべての人を照らすまことの光は,まさにこの世に来るところであった. みことばは世にあり,世はみことばによって創られたが,世はそれを認めなかった.*みことばはご自分の家に来られたが,その人々は受け入れなかった. しかし,その方を受け入れた人々にはみな神の子となれる力を授けた.そのみ名を信じるすべての人たち,*彼らは血統(ちすじ)ではなく,肉体の意志ではなく,人の意志ではなく,ただ神によって生まれた人々である.

*みことばは肉体となって,われわれの中で*住まわれた.われわれはその栄光を見た,それは,御独り子として御父から受けた栄光であり,彼は恩寵と真理に満ちておられた.ヨハネは彼を証明し,「『私のあとで来るお方は,私よりすぐれた方で,私より前に存在しておられた』と言ったのはこの方のことだ」と宣言した.*そうだ,われわれはその満ちあふれるところから恩寵に次ぐ恩寵を受けたのである.なぜなら,律法はモイゼを通じて与えられたが,恩寵と真理とはイエズス・キリストによってわれわれの上に来たのである.神を見奉った人は一人もいない.御父のふところにおいでになる御独り子の神がこれをお示しになった.

引用文献:合併版聖福音書/聖書 フェデリコ・バルバロ神父 編

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(注:本投稿記事〈第384回エレイソン・コメンツ「40周年」"FORTIETH ANNIVERSARY"〉は2015年1月22日22:50時に掲載されました.)

2014年6月15日日曜日

360 公会議派教会とは? 6/7

エレイソン・コメンツ 第360回 (2014年6月7日)

     「公会議派教会」( "Conciliar church" )という表現(こうかいぎ きょうかい という ひょうげん)は,一つの現実(ひとつの げんじつ),実在(じつざい)するもの,つまり自身(じしん)をカトリック教徒だと公言(かとりっく きょうと だと こうげん)しながらも実際には第二バチカン公会議(じっさいには だいに ばちかん こうかいぎ)の新しい人間中心主義的な宗教の実践(あたらしい にんげん ちゅうしん しゅぎ てきな しゅうきょう の じっせん)に滑り落ちている人々や団体の総体を表す表現(すべり おちている ひとびとやだんたいの そうたいを あらわす ひょうげん)であるのは明白(めいはく)です( "The expression “Conciliar church” obviously expresses a reality, something real, namely the mass of people and institutions professing themselves to be Catholic but in fact sliding into the practice of the new humanist religion of the Second Vatican Council." ).なぜ「滑り落ちる」( "sliding" )などという言葉を使う(ことばを つかう)かといえば,公会議主義,すなわち新モダニズム(しん もだにずむ)(=新近現代主義〈しん きんげんだい しゅぎ〉)( "neo-modernism" )はまさしく,カトリック教徒たちが見かけだけは信仰を保ち(しんこうを たもち)ながら,その内容を空に(ないようを からに)してしまうことができるように作(つく)られているからです( " “Sliding”, because Conciliarism, or neo-modernism, is precisely designed to enable Catholics to maintain the appearances of the Faith while they empty out the substance." ).カトリック教徒たちは具体的(ぐたい てき)に,このプロセス(ぷろせす)を早(はや)めるか遅(おく)らせるか意(い)のままにできますが,わざわざ結論(けつろん)までたどりつく必要(ひつよう)などありません( "Catholics in the concrete can make this process as fast or as slow as they wish, they need not even take it all the way to its conclusion, …" ).だが,公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)( "Conciliarism" )は理論上(りろん じょう),カトリック教義(かとりっく きょうぎ)( "Catholicism" )に真っ向から反対(まっこうから はんたい)するものであり(=全〈まった〉く反対する),そのプロセスの結論(ぷろせすの けつろん)にたどりついて,初めから意図(はじめから いと)していたように信仰と教会を壊して(しんこうと きょうかいを こわして)しまいます( "… but Conciliarism in the abstract is utterly opposed to Catholicism and, taken to its conclusion, it destroys both Faith and Church, as it was meant to do." ).

     このプロセスを観察(かんさつ)し理解(りかい)するのは難(むずか)しいことではありません( "The process is not difficult to observe or to understand, …" ).だが,聖ピオ十世会(SSPX)(せいぴお じゅっせい かい)を率(ひき)いるリベラル派の人(りべらるはの ひとたち)たちはローマ(ろーま)の公会議派の人(ひと)たちとの和解を求める(わかいを もとめる)なかで( "… but liberals at the head of the Society of St Pius X, seeking reconciliation with the Conciliarists in Rome, …" ),公会議派教会(こうかいぎは きょうかい)とカトリック教会(かとりっく きょうかい)の問題を混同(もんだいを こんどう)させるべくベストを尽くし(べすとを つくして)てきました( "… have done their best to confuse the question of the Conciliar church and the Catholic Church." ).彼(かれ)らは,たとえば,カトリック教会は目に見える(めに みえる),公会議派教会も目に見える教会である,だから公会議派教会はカトリック教会であると言います( "For instance the Catholic Church is visible, they will say, and the Conciliar church is the visible church, so the Conciliar church is the Catholic Church, …" ).この論法(ろんぽう)はルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)によって何年も前(なんねんも まえ)に「子供(こども)じみている」( "childish" )と,はねつけられています(目に見える教会は多数〈たすう〉ありますが,それがすべてカトリック教会とは限〈かぎ〉りません)( "… an argument dismissed years ago by Archbishop Lefebvre as “childish” (many churches are visible that are not Catholic)." ).同(おな)じように子供じみた論法は,教会はただ一つ(ひとつ)である,だから公会議派教会とカトリック教会は一つで同じ(ひとつで おなじ)ものでなければならないというものです(偽〈にせ〉の教会は何千〈なんぜん〉もあります)( "Equally childish is the argument that there is only one Church, so the Conciliar church and the Catholic Church must be one and the same (there are thousands of false churches)." ).

     真実(しんじつ)とはさほど複雑難解(ふくざつ なんかい)なものではありません( "The truth is not too complicated." ).カトリック教会は生きた組織(いきた そしき)で( "The Catholic Church is a living organism, …" ),その創設者(そうせつ しゃ)イエズス・キリスト(いえずす・きりすと)のように,神聖な面と人間的な面(しんせいな めんと にんげん てきな めん)を兼ね備え(かね そなえ)ています( "… both divine and human, like its Founder, Jesus Christ." ).神聖な面としては,教会はキリストの汚れなき花嫁(けがれなき はなよめ)( “his Immaculate Bride” )ですから,堕落(だらく)したものではありませんし堕落することもありません( "As divine, as being his Immaculate Bride, it cannot be corrupt or corrupted, …" ).だが,教会は罪深い人間(つみぶかい にんげん)によって構成(こうせい)されているものですから( "… but as being made up of sinful human beings, …" ),ほかの生きた組織と同じ(いきた そしきと おなじ)ように部分的に腐敗(ぶぶん てきに ふはい)することがあります( "… it can partially rot just like any other living organism." ).したがって,公会議派教会とカトリック教会の関係(かんけい)を理解(りかい)するのに役立つ方法(やくだつ ほうほう)は腐った林檎(くさった りんご)を考(かんが)えてみることです( "So one useful way to understand how the Conciliar church relates to the Catholic Church is to think of a rotten apple." ).

     一方の見方(いっぽうの みかた)では,腐食(ふしょく)は林檎(りんご)に所属(しょぞく)します( "On the one hand the rot belongs to the apple." ).その腐った部分(くさった ぶぶん)は,すべて一度(いちど)は林檎でした( "All rot was once apple." ).腐食は林檎を腐敗(ふはい)させるもの,林檎の寄生物(きせいぶつ)で,林檎なしには生存(せいぞん)できず,腐った部分が落(お)ちるまで林檎に固(かた)くしがみついています( "The rot is a corruption of the apple, a parasite on the apple, it could not exist without the apple and it remains firmly attached to the apple unless and until the rotten part falls off. " ).同(おな)じように公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)はそのあらゆる部分(ぶぶん)が一度はカトリック(かとりっく)だったという限(かぎ)りにおいてカトリック教会に所属します( "Likewise Conciliarism belongs to the Catholic Church insofar as everything Conciliar was once Catholic, …" ).それはカトリック教会を腐敗させるもの,カトリック教会の寄生物で,カトリック教会なしには生存できず( "… it is a corruption of the Catholic Church, a parasite on the Catholic Church, it could not exist without the Catholic Church, …" ),カトリック教会のどこかの部分に,それを意図(いと)した通(とお)り壊(こわ)してしまわない限(かぎ)り,そこに固くしがみついています( "… and it remains firmly attached to some part of the Catholic Church unless and until it destroys that part, as it was designed to do." ).

     ほかの見方(みかた)では,腐食は林檎に所属(ふしょくは りんごに しょぞく)しません( "On the other hand the rot does not belong to the apple." ).初めから腐る(はじめから くさる)つもりの林檎などありません( "No apple was ever meant to go rotten." ).あらゆる腐食は林檎の一部分を変質(いちぶぶんを へんしつ)させるもの,林檎を腐敗(りんごを ふはい)させるもの,林檎の寄生物(りんごの きせいぶつ)であり,林檎を悪(わる)いものに変質(へんしつ)させ,結果的(けっかてき)に林檎とはまったく異質(いしつ)なものに変(か)えてしまうものです( "All rot is a transformation of some apple, a corruption and parasite of apple, transforming it for the worse, resulting in something quite different from apple, …" ).それは気の確かな者(きの たしかな もの)なら食(た)べたいとか,林檎と少しも変わらない(りんごと すこしも かわらない)じゃないかなどという思い(おもい)にならないものです( "… something which nobody in his right mind would dream of eating or of saying that it was no different from apple." ).同じ(おなじ)ように,公会議主義(こうかいぎ しゅぎ)はカトリック教会(かとりっく きょうかい)に所属(しょぞく)しません( "Likewise Conciliarism does not belong to the Catholic Church, …" ).それはカトリック的(てき)ななにかを腐敗(ふはい)させるもの,カトリック的なものによりかかる寄生物(きせいぶつ)です( "… it is a corruption of something Catholic and is a parasite on whatever is Catholic." ).それはカトリック教会(の人間的な部分〈にんげんてきな ぶぶん〉)を悪いものに変質(わるいものに へんしつ)させ( "It transforms (a human part of) the Catholic Church for the worse, …" ),結果(けっか)としてその部分(ぶぶん)を本質的(ほんしつてき)にカトリック的でない何か(かとりっく てき でない なにか)に変えて(かえて)しまいます( "… resulting in something essentially non-Catholic …" ).気の確かなカトリック信徒(きの たしかな かとりっく しんと)ならだれ一人(ひとり)として,それをカトリック的だと称(しょう)したり自らの信仰(みずからの しんこう)を犠牲(ぎせい)にして,それと付き合い(つきあい)たいなどという思(おも)いにならないものです( "… which no Catholic in his right mind would call Catholic or want to associate with, on pain of losing his faith." ).

     簡潔に言えば(かんけつに いえば)( "In brief, …" ),公会議主義は腐食(こうかいぎ しゅぎは ふしょく)で( "Conciliarism is rot, …" ),「公会議派教会(こうかいぎは きょうかい)」は一つの神聖的・人間的教会(ひとつの しんせいてき・にんげんてき きょうかい)( "the one divine-human Church" )であり,その人間的側面の一部(にんげんてき そくめんの いちぶ)が腐敗した状態(ふはいした じょうたい)にあるものです( "… and the “Conciliar church” is the one divine-human Church being rotted in one or other of its human aspects." ).もちろんカトリック教会(かとりっく きょうかい)は末世まで続く(まっせまで つづく)(訳注後記)でしょう(新約聖書・マテオ聖福音書:第28章20節)( "Of course the Catholic Church will last to the end of the world (Mt. XXVIII, 20), …" ).だが,「公会議派教会」は昔(むかし)からあった数多い寄生教会(かず おおい きせい きょうかい)( "parasite churches" )の一つ(ひとつ)にしかすぎません( "… while the “Conciliar church” is merely one in a long line of parasite churches down the ages, …" ).それは,自ら(みずから)が腐敗(ふかい)させるものによりかかって生き(いき),自らよりかかって生きているものを腐敗させます( "… living on what they rot and rotting what they live on. " ).あらゆるリベラル派の人々(りべらるはの ひとびと),自ら混乱し他人を混乱させる人々に天罰を!(みずから こんらん し たにんを こんらん させる ひとびとに てんばつを!)( "A plague on all liberals, confused and confusing ! " )

     キリエ・エレイソン.

     教会は神と人を分かち,かつ結びつける
     (きょうかいは かみと ひとを わかち,かつ むすび つける)
     ( "The Church does parts from God and man
      combine." )

     人は腐敗するが,神が腐敗することはない
     (ひとは ふはいする が,かみが ふはいする ことはない)
     ( "The human can be rotted, not the divine." )


     リチャード・ウィリアムソン司教



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第6パラグラフの訳注:
「…カトリック教会は末世まで続く…」の「末世(まっせ)」について

「末世(まっせ)」( "the end of the world" )の意味=
・道義が衰え乱れた世の中(どうぎが おとろえ みだれた よのなか).

「道義(どうぎ)」=
・人としてふみ行うべき道(ひと として ふみ おこなう べき みち).道徳(どうとく).

(国語〈日本語〉辞書「大辞林」より)


2014年2月25日火曜日

345 致命的な人間化 2/22

エレイソン・コメンツ 第345回 (2014年2月22日)

     使徒聖座(=教皇職)(しと せいざ〈=きょうこう しょく〉)( "the Apostolic See" )が空位だと考える(くういだと かんがえる)一部のカトリック教徒(いちぶの かとりっく きょうと)たちは( "Some Catholics who hold that the Apostolic See is vacant …" ),リベラリズム(=自由主義)(りべらりずむ=じゆう しゅぎ)という遍在的(へんざい てき)な異端(いたん)と教皇空位論(きょうこう くうい ろん)の特定の見解(とくていの けんかい)を同列に置く(どうれつに おく)ように見(み)える最近(さいきん)のエレイソン・コメンツの内容(ないよう)に強く抗議(つよくこうぎ)しています( "… protest strongly against recent issues of these “Comments” which seem to put the universal heresy of liberalism on an equal footing with the particular opinion of sedevacantism." ).これまでの一連(いちれん)のコメンツで私(わたし)はリベラリズムの災い(わざわい)を一貫して非難(いっかん して ひなん)してきましたが( "But whereas these “Comments” constantly excoriate the plague of liberalism, …" ),最近の数回(さいきんのすうかい)では確(たし)かに誰(だれ)しもが教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)になる義務(ぎむ)はないとだけ論(ろん)じました( "… surely they have recently done no more than argue that nobody is obliged to be a sedevacantist, …" ).教皇空位論が時(とき)にはリベラリズムを抑(おさ)える除菌剤の役割(じょきんざいの やくわり)を果(は)たしていることを考(かんが)えると( "…which, considering what a sterilising trap sedevacantism proves in some cases to be, …" ),そうしたエレイソン・コメンツの立場(たちば)は確(たし)かに穏健(おんけん)すぎるように思(おも)えるでしょう( "… is surely a very moderate position to take." ).

     だが,「コメンツ」は教皇空位論(きょうこう くういろん)について,リベラリズムと戦う(たたかう)その努力(どりょく)は称賛に値する(しょうさんに あたい する)が,そのための手段(しゅだん)としては,贔屓目に見ても(ひいきめ に みても)物足りない(ものたりない)と見(み)ています( "However, the “Comments” do hold that sedevacantism, while admirable as an effort to combat liberalism, is at best an inadequate means of doing so, …" ).その理由(りゆう)は,教皇空位論が教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)を誇張(こちょう)するという根本的な間違い(こんぽん てきな まちがい)のひとつをリベラル派(りべらる は)と共有(きょうゆう)しているからです( "… because it shares with liberals one of their basic errors, namely the exaggeration of papal infallibility." ).この間違いを深く探る(ふかく さぐる)と,私たちは今日(こんにち)教会が直面する未曾有の危機(きょうかいが ちょくめんする みぞう の きき)の核心(かくしん)にたどり着きます.ひどく退屈(たいくつ)し気分を悪く(きぶんをわるく)された読者の皆さん(どくしゃの みなさん)にはお詫び(おわび)するしかありませんが,コメンツがこの問題(もんだい)に拘る(こだわ る)のはそのためです( "In its full depth this error takes us to the heart of today’s unprecedented crisis of the Church, which is why the “Comments” will insist on the question, while begging pardon of any readers unduly bored or offended." ).危機(きき)に瀕(ひん)しているのは教会全体(きょうかいぜんたい)であり,教会メンバー個々人(きょうかいめんばーここじん)の感情(かんじょう)ではないのです( "The whole Church is at stake, and not just the sensibilities of these or those of its members." ).

     間違いの核心(まちがいの かくしん)は,人類(じんるい)が過去700年間(かこ ななひゃく ねんかん)にわたり神,神の御独り子(かみの おんひとりご),そしてその教会に対し(きょうかいに たいし)ゆっくりながら着実(ちゃくじつ)に背(そむ)いてきたことです( "That full depth is mankind’s slow but steady turning away over the last 700 years from God, from his Son and from his Church." ).中世の絶頂期(ちゅうせいの ぜっちょうき)には,カトリック教徒(きょうと)たちは汚れのない(けがれの ない)強い信仰を持ち(つよい しんこうを もち),客観的な神(きゃっかんてきな かみ)とその矛盾のない真実(むじゅんのない しんじつ)(=真理〈しんり〉)が唯一無二(ゆいいつむに)であることを理解(りかい)していました( "At the height of the Middle Ages Catholics had a clear and strong faith, grasping the oneness and exclusivity of the objective God and his non-contradictory Truth." ).ダンテはその著書(ちょしょ) 「神曲(しんきょく)」の地獄編(じごくへん)  で教皇(きょうこう)たちに触(ふ)れることになんら問題(もんだい)を感(かん)じませんでした( "Dante had no problem putting Popes in his Inferno." ).たが.数世紀の時(すうせいきの とき)が経つ(たつ)につれ,人間(にんげん)は次第(しだい)に物事の中心(ものごとの ちゅうしん)に自(みずか)らを置(お)くようになり( "But as down the centuries man put himself more and more at the centre of things, …" ),神(かみ)はあらゆる生き物(いきもの)に対(たい)する絶対的な超越(ぜったいてきな ちょうえつ)を失(うしな)い( "… so God lost his absolute transcendence above all creatures, …" ),真実はますます神の権威(かみの けんい)でなく人間の権威(にんげんの けんい)との対比(たいひ)で理解(りかい)されるようになりました( "… and truth became more and more relative, no longer to God’s authority but instead to man’s. " ).

     教会内部(きょうかい ないぶ)について見(み)るなら,たとえばロヨラの聖イグナチオ(ろよらの せい いぐなちお)( "St Ignatius of Loyola" )の有名な著書(ゆうめいな ちょしょ) 「精神修養(せいしん しゅうよう)」  ( "the Spiritual Exercises " )(訳注・= 「霊操(れいそう)」 )の中(なか)にある17(じゅうなな,じゅうしち)の「教会と共に考えるための法則」(きょうかいと ともに かんがえる ための ほうそく)( "Rules for thinking with the Church" )の3番目の法則(さんばんめの ほうそく)をご覧ください( "Within the Church, take for example the 13th of the 17 “Rules for thinking with the Church” from St Ignatius of Loyola’s famous book of the Spiritual Exercises, …" ).これは著されて以来(あらわされて いらい)ずっと,数(かぞ)えきれないほどの歴代教皇(れきだい きょうこう)が称賛(しょうさん)し( "… praised by countless Popes ever since, …" ),しかも間違(まちが)いなく数百万人の霊魂(すうひゃくまんにん の れいこん)を救済(きゅうさい)するのに役立(やくだ)った法則(ほうそく)です( "… and no doubt responsible for helping to save millions of souls." ).イグナチオは 「すべてのことについて正(ただ)しくあるためには,私たちは 聖職階級制教会(せいしょく かいきゅうせい きょうかい)( "the Hierarchical Church" )がそう決(き)めたなら,自分(じぶん)に白(しろ)と見(み)えるものでも黒(くろ)であると常(つね)に考(かんが)えるべきです」 と書(か)いています( "Ignatius writes: “To be right in everything, we ought always to hold that the white which I see, is black, if the Hierarchical Church so decides it.” " ).このような立場(たちば)は短期的(たんき てき)には聖職者(せいしょくしゃ)たちの権威(けんい)を支(ささ)えたかもしれませんが( "Such a position might support the churchmen’s authority in the short run, …" ),長期的(ちょうき てき)にはその権威(けんい)を真実(しんじつ)から引き離す(ひきはなす)ひどいリスク(りすく)を犯(おか)すことにならなかったでしょうか?( "… but did it not run a serious risk of detaching it from truth in the long run ? " )

     事実(じじつ),19世紀末(じゅうきゅうせいき まつ)までにリベラリズムがあまりにも強(つよ)くなってしまったため,教会(きょうかい)は全力(ぜんりょく)で活動(かつどう)するためには1870年(せん はっぴゃく はちじゅう ねん)に教導権の定義(きょうどうけんの ていぎ)を出(だ)し,自らの権威(みずからの けんい)を支(ささ)えざるを得(え)なくなりました( "Indeed by the late 19th century liberalism had become so strong that the Church had to support its own authority by the Definition in 1870 of its Magisterium when operating at full power, …" ).これは,つまり,教会全体を結束させるため(きょうかい ぜんたいを けっそく させるため)教皇(きょうこう)が信仰もしくは倫理の要点(しんこう もしくは りんりの ようてん)を定める(さだめる)ということです( "… namely whenever 1) a Pope 2) defines 3) a point of Faith or morals 4) so as to bind the whole Church." ).(訳注後記) だが,それ以来(いらい)あまりにも人間中心(にんげん ちゅうしん)に考(かんが)えるようになってきたため,多く(おおく)のカトリック信徒(しんと)たちが( "But thinking too humanly since then, too many Catholics, …" )教皇の特別教導権(きょうこうの とくべつ きょうどうけん)を神にまた教会の通常教導権の変遷することのない真実(=真理)(かみ および きょうかいの つうじょう きょうどうけんのへんせんすることのないしんり〈=しんじつ〉)に関連付ける(かんれん づける)代(か)わりに( "… instead of relating this Extraordinary Magisterium to God and to the unchanging truth of the Church’s Ordinary Magisterium, …" ),神御一人から由来(かみ おひとり から ゆらい)し,神のみに属する(ぞくする)無謬性(むびゅうせい)を教皇の人間性(きょうこうの にんげんせい)に与(あた)えるようになりました( "… have tended to lend to the human person of the Pope an infallibility coming from, and belonging to, God alone." ).この人間化プロセス(にんげんか ぷろせす)( “humanising process” )が徐々(じょじょ)に(教皇の)無謬性(むびゅうせい)を生み出し(うみだし),それが「尊厳(そんげん)なる通常教導権(つうじょう きょうどうけん)」の名(な)のもとに教会の伝統(きょうかいの でんとう)を再生(さいせい)できるとする教皇パウロ6世(きょうこう ぱうろ ろくせい)の非常識な主張(ひじょうしきな しゅちょう)へと半ば必然的(なかば ひつぜんてき)につながりました( "This humanising process generated a creeping infallibility which almost inevitably resulted in the preposterous claim of Paul VI to be able to remould the Church’s Tradition in the name of a “Solemn Ordinary Magisterium”." ).カトリック信徒(しんと)たちの過半数(かはんすう)は教皇(きょうこう)がその報いを受ける(むくいを うける)ことなしに済ます(すます)のを認め(みとめ),今日に至る(こんにちに いたる)まで多くの信徒たち(おおくの しんと たち)は歴代公会議派教皇(れきだい こうかいぎは きょうこう)に従(したが)い日々(ひび)リベラル派(りべらる は)になってきています( "The great majority of Catholics allowed him to get away with it, and to this day a mass of them are becoming day by day liberals as they follow the Conciliar Popes, …" ).一方(いっぽう)で,少数派(しょうすう は)のカトリック信徒(しんと)たちは公会議(こうかいぎ)のばかげた言動(げんどう)( “the Conciliar nonsense” )に責任のある者(せきにんの あるもの)が教皇になるなどあり得ない(ありえない)と反発(はんぱつ)せざるをえない状況(じょうきょう)に置(お)かれています( "… while a small minority of Catholics are driven to denying that those responsible for the Conciliar nonsense can be Popes at all." ). (訳注・直訳〈意訳〉は →「(1)ローマ教皇が( "1) a Pope" )(2)定義〈ていぎ〉するところによる( "2) defines" )(3)信仰〈しんこう〉あるいは諸倫理〈しょ りんり〉の要点〈ようてん〉( "3) a point of Faith or morals" )(4)に従う〈したがう〉ことで教会全体が結束〈きょうかい ぜんたいが けっそく〉するようにする( " 4) so as to bind the whole Church.」 〈 "… namely whenever 1) a Pope 2) defines 3) a point of Faith or morals 4) so as to bind the whole Church." 〉)

     簡潔に言えば(かんけつに いえば)( "In brief, …" ),私(わたし)は個人的(こじんてき)に多くの教皇空位論者(おおくの きょうこう くうい ろんじゃ)に尊敬の念(そんけいの ねん)を抱いて(いだいて)います( "…I personally have respect for many sedevacantists, …" ).ただし,それは彼(かれ)らが教会を信じ(きょうかいを しんじ),教会が直面(ちょくめん)する非常に深刻な問題の解決(ひじょうに しんこくな もんだいの かいけつ)に懸命に取り組む(けんめいに とりくむ)という限(かぎ)りにおいてです( "… insofar as they believe in the Church and are desperate for a solution to an infinitely serious problem of the Church.," ).だが,私の考え(わたしの かんがえ)では,彼らはもっと高く深い(たかく ふかい)ところ ― すなわち神御自身(かみ ごじしん)の無限の高さ,深さ(むげんの たかさ,ふかさ)を見る必要(みる ひつよう)があります( "… but in my opinion they need to look higher and deeper – the infinite height and depth of God himself." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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2011年12月15日木曜日

230 国教たるべきか?-2- (12/10)

エレイソン・コメンツ 第230回 (2011年12月10日)

リベラリズム “liberalism” (=自由主義)という宗教によれば - たまにリベラリズムが宗教を代替(だいたい)すると耳にします - 地上のあらゆる国家はカトリック教を支(ささ)えて擁護(ようご)すべきだと主張するのは全くの異端(いたん)だということになります.しかし,もし神が存在するならば,もしイエズス・キリストが神であるならば,もし,国家のように,人類が構成する自然社会が神の被造物 “a creature of God” であるならば,そしてもしイエズス・キリストがカトリック教会を人間を地獄の永遠の炎から救う唯一の手段として築(きず)かれたのだとすれば,国家は人類の敵になろうと望まない限りカトリック教会を擁護する義務を負っています.だが,この結論には複数の反対意見があります.最も共通する反対意見のうち三つを取り上げて見てみましょう.

第1の反対: 私たちの主イエズス・キリスト自らポンティオ・ピラト(ヨハネ聖福音書18章36節参照)(訳注後記)に対し自分の築いた王国はこの世のものではないと告げた.然るに国家はこの世のものである.したがって,国家は神の王国,その教会とは無関係であるべきだ.

解答: 私たちの主はピラトに彼の王国と国家は異なるものだと伝えられましたが,両者を別々(=別個のもの)にすべしとは言っておられません.人間の霊魂と肉体は異なりますが,両者を別々にすることはその人間の死を意味します.親と子供は異なりますが,(現代の児童保護機関がよくするように)両者を別々にすることは家庭の死を意味します.教会と国家が異なるのは現世の命と(来世の)永遠の命が異なるようなものですが,両者を分けるのは先のものと後のもの(訳注・=現世での命と来世での命)との間に溝を作るようなもので,地獄へ墜(お)ちる人の数を増やすことになるでしょう.

第2の反対: カトリック教は真実だが,真実は自ら道を切り開くに任せればいい.したがって,カトリック教は他の宗教の実践を公に抑えるといった教会の威圧(いあつ)的な力など必要としない.

解答: 本質的には(=それ自体では),ラテン人たちが言ったとおり,確かに「真実は力強いもので広く行きわたるもの」です.だが,私たち人間の間では原罪がある故,真実は容易に広まりません.もし,あらゆる人間(私たちの主イエズス・キリストとその聖母マリア “Our Lord and Our Lady” を除き)が無知,悪意,弱さ,不摂生(ふせっせい)の四つの傷で堕落(だらく)して以来(いらい)悩んでいないのであれば,真実がひとりでに行きわたるのを妨げるものは少ないでしょうし,トーマス・ジェファーソン “Thomas Jefferson” (米国第3代大統領)が「真実は市場で開示されるだけで広まる」と言ったのは正しかったかもしれません.だが,カトリック教徒は教会がなにを説いているか知っています.すなわち,人間は洗礼を受けた後でも原罪が下に引きずり降ろそうとする力に弱いので,それなしでは霊魂が救われない真実を探し出すには国家による穏当(おんとう)な助けが必要だということです.この穏当な助けには国家が誰でも手当たり次第カトリック教徒にしてしまうことは含まれません.だが,国家がジェファーソンの言う市場から危険な反真実 “anti-truths” を排除することは含みます.

第3の反対: 強い権力は大いに悪用されうる.今,教会と国家が結び付けば双方(そうほう)の立場を大いに強める.したがって,大きな害が生じうる - このことは,いかに公会議主義の教会と現世的な新世界秩序が互いに力を与えあっているかを見るだけではっきりする!

解答:ラテン人は「悪用は利用を止められない」と言いました.私たちの主イエズス・キリストは悪用されうることを理由に私たちに聖体 “Holy Eucharist” (訳注後記)を授けるのを思いとどまったでしょうか? 公会議主義の教会とリベラルな国家の再結合は教会と国家の結びつきの大いなる悪用です.だが,それが実証するのはリベラリズムの誤りであって,カトリック国家とカトリック教会の結びつきの誤りではありません.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

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第2パラグラフの訳注:
新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第18章36節(28-40節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN, 18:36 (18:28-40)

ピラトの前で(18・28-40)
『(御受難の日の朝)…人々はイエズスをカヤファのもとから総督官邸に引いていった.夜明けだった.ユダヤ人たちは,過ぎ越しの小羊を食べる際に汚れを受けないように,総督官邸に入らなかった.

ピラトが外にいる彼らの方に出て,「あなたたちはこの人について,何を訴えるのか」と言うと,「その人が悪者でなかったなら,あなたにわたさなかったでしょう」と彼らは答えた.ピラトが,「この人を引き取って,あなたたちの律法に従って裁(さば)け」と言うと,ユダヤ人たちは,「私たちには死刑を行う権限がありません」と言った.
それは,イエズスが自分はどんな死に方で死ぬかを示して言われたみことばを実現するためであった.

ピラトはまた官邸に入りイエズスを呼び出し,「あなたはユダヤ人の王か」と聞いた.
イエズスは,「あなたは自分でそう言うのか.あるいは,ほかの人が私のことをそう告げたのか」と言われた.
するとピラトは,「私をユダヤ人だと思うのか.あなたの国の人と司祭長たちがあなたを私にわたしたのだ.あなたは何をしたのか」と聞いた.

イエズスは答えられた,
「私の国はこの世のものではない.もし私の国がこの世のものなら,私の兵士たちはユダヤ人に私をわたすまいとして戦っただろう.だが,私の国はこの世からのものではない.」
ピラトが,「するとあなたは王か」と聞いたので,イエズスは,「あなたの言うとおり私は王である.私は真理を証明するために生まれ,そのためにこの世に来た.真理につく者は私の声を聞く」と答えられた.ピラトは「真理とは何か」と言った.

そう言ってふたたびユダヤ人の前に出て,「私はこの人にどんな罪も見いださない.
過ぎ越しの祭りのときにおまえたちに囚人を一人ゆるす慣例であるが,おまえたちはユダヤ人の王をゆるしてほしいと望むか」と言うと,彼らはまた「その人ではなく,バラバを」と叫んだ.バラバとは強盗であった.』

(注釈は後から追記します)

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最後のパラグラフ(第7)の訳注:
御聖体 “Holy Eucharist” について.

= “Corpus Christi” .
真の命,すなわち命そのものたる「キリストの御体」のこと.
=「命の糧〈パン〉」 “The bread of life”

参考となる新約聖書からの引用
ヨハネ聖福音書:第1章1-5節,第6章35節 / John 1:1-5, 6:35

(後から追加いたします)

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2011年5月17日火曜日

林檎の腐敗

エレイソン・コメンツ 第200回 (2011年5月14日)

ひとつの腐った林檎 (りんご) がふたつの方法で今日の輝きを失ったカトリック教会の暗闇に小さな光を当てるかもしれません.まず第一に,私たちは林檎が隅々まで腐(くさ)るのを待ってから林檎すべてが腐ったと判断するわけではありません.林檎にはまだ腐っていない部分が残っています.だから林檎が腐っているかどうかという問いに答えるとき,私たちは二通りの区別をする必要があります: 全体として,然(しか)り; ある部分について,然り; ほかの部分については,否(いな),という風にです.そして第二に,林檎即(そく)腐敗,腐敗即林檎ではありませんが,腐敗とその元の林檎は切り離すことはできず,林檎なしに腐敗は存在できません.この常識の第一の部分を新しい典礼によるミサ聖祭 ( “the Novus Ordo Mass” ) と (それを考案した公会議に則した) 「公会議主義下の教会」 ( “Conciliar church” ) に,第二の部分を「公会議主義下の教会」とローマ教皇職 ( “the Papacy” ) に当てはめてみましょう.

新しいミサ聖祭について言えば,それは公会議の人間中心主義によるものですから全体として腐ったものです.だがそのある部分 (例えば奉献(文) “the Offertory, offertorium” ) は明らかにカトリック教とは異なるものである反面,ほかの部分 (例えば求憐誦 〈キリエ〉 “the Kyrie Eleison” ) はカトリック教に則ったものとなっています.新しいミサ聖祭は全体として腐っており徐々にカトリック教徒をプロテスタント教徒へ変えていくものですから,参席するに適したものではありません.だが,聖変化( “Consecration” )にあたる部分はカトリック教に則っており有効だと言えます.したがって新しいミサ聖祭について,有効だから参列できるとも,参列できないのだから無効だとも,いずれも言えないのです.実際には,新しいミサ聖祭の本質的な部分は有効かもしれませんが,それだけでは個人の信仰をこの新しいミサ聖祭全体に参列する危険に曝(さら)すに足る理由とはなりません.(訳注後記)

同じように,今日のカトリック教会は公会議主義がその至るところにまん延している限り全体として腐っているのですが,だからといってカトリック教会のあらゆる(一つ一つの)部分が公会議主義で腐っているわけではありません.したがって,全体が公会議主義だからといってカトリックのまま残っているいずれかの部分を非難するのは間違っていますし,同じようにカトリックのまま残っている部分が多少あるからといって公会議主義全体を許容するのも間違っています.自分の心を現実に合わせるためには,それぞれの異なる部分ごとの間での区別,および全体とそれぞれの異なる部分との間での区別の双方が必要です.

次に今日の教会に腐った林檎との比較の第二の部分を当てはめるなら,二つの教会すなわち「公会議主義下の教会」と「カトリック教会」について話すのが純粋な意味で有意義と言えるでしょう.なぜなら,この二つの教会のそれぞれが純粋な状態だと双方は林檎と腐敗のように互いを排除しますが,現実の世界では公会議主義がカトリック教会の中の至(いた)るところに見出されるからです.だが実生活では,双方は林檎と腐敗あるいは寄生生物と宿主と同じように切り離すことができません.現実の世界において存在する唯一の教会は,カトリック教会のみであり,今日その唯一の教会が公会議主義の腐敗により至るところで苦しめられているのです.

したがって公会議主義の教皇( “a Conciliar Pope” )について言えば,彼は二つの教会の長だとするのが純粋な意味で有意義な言い方でしょう.なぜなら時にはカトリック的な,時には公会議主義的な言動をとることによって彼は常にカトリック教会と公会議主義で腐敗したカトリック教会の両方の長としての立場に自身を置くからです.だからといって彼が現実には別々のものとなっている二つの教会の長だと言うことではありません.いまでは公会議主義の腐敗のため満身創痍(まんしんそうい)となっている唯一真実のカトリック教会の中で,彼がカトリック教義(カトリシズム)と公会議主義の双方の長( “head of both the Catholicism and the Conciliarism” )だということを言っているのです.

それにしても,私たちのカトリック教会指導者たちが神の名にかけて公会議主義の腐敗に夢中になっているのはなぜでしょうか? それは現代社会で人々が自由を渇望するためです ( “Because of the modern longing for liberty.” )(訳注後記).これは今回の話とは別のことです.だがこれとは別にして,私たちは教皇ベネディクト16世がもう一度林檎と腐敗の違いが分かるよう全力を尽くして教皇のために祈らなければなりません!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第6パラグラフの訳注:

「自由」 “liberty” について:

ここでの「自由」とは,「権利(人権)」や「(人が際限なく気まま勝手にしたい欲を縛りつけるような「神の法=自然法〔真理〕」による制約からの)解放」を意味している.

* * *

第2パラグラフの訳注:

〈伝統カトリック教義に則した典礼〉からの解説〉

① 「奉献」 “the Offertory, offertorium” について.

(典礼文)
Orémus. (司祭)
|
OFFERTORIUM - 奉献文
Súscipe, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus, …
「聖なる父,全能永遠の神,…」
|
Lavabo inter inocéntes manus meas : …
「主よ,私は,罪なき者の一人となるために,私の手を洗い,
(そして主の祭壇のかたわらに立とう.)」
|
Súscipe, sancta Trínitas, …
「聖なる三位一体よ…」
|
Oráte, fratres : …
「祈れ,兄弟たちよ,…」
|
Secreta …
「密誦」

***

(解説)

・オッフェルトリウムOffertorium は,献物をさし出すことであるが,「奉献」ということに対する現代の信者の考えは,昔の信者の考えとは、大分相違がある.
昔の信者は,自分の献物(パン,ぶどう酒,くだもの,花など)を,自分の手で聖堂にもって行った.
これらの物は,自分自身の内的供物の象(かたど)りであった.奉献のときになると,助祭(あるいは司祭)は,その供物をうけるために,信者の方へ下りてきた.
この供物の中から,その日のミサと聖体拝領に必要な分だけをとり,残りの分は,司祭自身あるいは信者の貧しい人々のために用いることになっていた.
こういうことを行っている間に,その日の祝日あるいは奥義をあらわす奉献文の交誦と詩篇とをうたっていた.

・信者から献物をするこの習慣は,中世時代から次第に変化し,司祭のとなえる代願の祈りは,現在,はじめの「オレムス Oremus 」(われらは祈りましょう)だけが残っている.
・それから,司祭は,副助祭あるいは侍者が祭壇(さいだん)にもってくる献物を,神にささげる.カリスの準備は,祭壇上で行われる.水とぶどう酒とを祝福するに当っての祈りは,御降誕の祝日の昔からの祈りで,水とぶどう酒とを交ぜることの象徴を知らせるのである.
最後の晩さんのとき,主は,聖別したぶどう酒に,少しの水をまぜ給うた.

奉献の祈りはすべて,まことに立派な祈りであって,キリスト教的いけにえなる聖変化へと漸次祈りは高潮してゆく.
・もう世俗的な使用に供されないという意味をあらわすために,司祭は,献物のパンとぶどう酒とに撒香する.それから,司祭は,自分の手をきよめて,詩篇二十五からの祈りをとなえる.(Lavabo 洗いましょうの意)
・聖なる三位一体よ,うけ給え(suscipe, sancta Trinitas) という祈りは,いけにえであるこの献物を,キリストの奥義と聖人らの功徳とに結びつける.
・それから司祭は,参列者の祈りと一致するために,「兄弟たちよ,祈れ」(Orate, fratres)とすすめる.信者たちは,それに対して,神の栄光と公教会の善とのために,この献物を嘉(よみ)し給え,と答える.
・すると司祭は,献物に最後の祈り 密誦(Secreta)をとなえ,奉献の式を終る.
密誦を終るとき,司祭は,声を高めて序誦をうたう.
(この後「聖変化」の部の典礼へ続く)

* * *

② 「求憐誦 」〈キリエ〉 “the Kyrie Eleison, Kýrie, eléison” について.
入祭文を終って後,司祭は祭壇の中央に行き,侍者と交互に求憐誦を唱える.

(典礼文)
Kýrie, eléison. Kýrie, eléison. Kýrie, eléison.
「主,あわれみ給え」
|
Christe, eléison. Christe, eléison. Christe, eléison.
「キリスト,あわれみ給え」
|
Kýrie, eléison. Kýrie, eléison. Kýrie, eléison.
「主,あわれみ給え」

***

(解説)

・助祭が会衆とともに祈っていた昔の典礼の名残りとして残っている.助祭が会衆とともにとなえていた祈りは,主として聖歌であった.
・キリエ・エレイソンは,ギリシア語で,古代ローマにおける典礼がギリシア語で行われていたことを思い出させる.
・これらの祈願は,主なるキリストに向ってなされる.「キュリオス」( Kyrios )とは,われわれを救い給う光栄の「主」である.

* * *

③ 「聖変化」 “Consecration, Consecrátio” について.

パンとぶどう酒が神の羔(こひつじ,Agnus Dei)たる神の御子キリストのいけにえの御聖体( Corpus Christi )とキリストの流された〈人類の罪の赦しのための〉新しい契約の御血(Sanguis)に変わること)

…“Hæc commíxtio, et consecrátio Córporis et Sánguinis Dómini nostri Iesu Christi, fiat accipiéntibus nobis in vitam ætérnam.” ( Ordo missæ )
…「われらの拝領せんとするわれらの主イエズス・キリストの御体と御血とのこの混和と聖別とが,われらの永遠の生命の糧(かて)とならんことを.」(聖伝のミサ典礼文より)

***

(解説)

聖体の序誦

元来,序誦は,聖変化の部に属し,この二つは,聖体の荘厳な祈りであった.現在では,三聖頌(Sanctus)が,この二つの間に加わった.
しかし・現在(1955年),序誦が聖変化の部と分離したにしても,なお序誦は,聖変化という重大な行いの序曲である.

序誦(Præfatio)は,ギリシア語から出た言葉で,荘厳な祈りを意味する.
この祈りは,主への感謝であり,聖体の讃歌であって,これによって司祭は,神のこの大なる御業を讃美するのである.また,これは,その日の意義を思い出させる.
司祭は,われわれが深い敬虔をもって,天使とも一致し,聖体をささげうるようにととなえて,この祈りを終る.

聖なるいけにえ

低いこえで聖体への祈り(典文〈カノン,Canon 〉)をつづける司祭に,信者は一致する.司祭は救主の功徳によって,教皇と司教とをかしらとする全公教会と,すべて参列する者のためにささげるこのいけにえをよみし給えと,神に祈る.

こうして,全団体を神の御手にゆだねてのち,地上の教会から天に集る教会へと心を移し,
諸聖人の通功をこい願い(Communicantes 凱旋の公教会の祈念),天の聖人たち,御母聖マリア,使徒,殉教者らの祈りに委託して,司祭は,(Infra actionem)いけにえを行いはじめる.

司祭の先ずすることは,献物の上に両手をひろげることである.これは,会衆を代表して,
えらばれたいけにえの上に掩(按)手する旧約の祭司たちの行いを思い出させる(Hanc igitur さて,これを).
それから司祭は,キリストの民のこのいけにえを嘉(よみ)し給い,全くうけ入れ給うようにと祈る(Quam oblationem この献物を).
それから,このいけにえが、主イエズスのいけにえと合わせられる価値あるものとなるように、神御自身はからい給えと祈る.

公教会は,キリストと同じように,子としての信頼をもっている.キリストと同じく公教会は,御父が常に自分の願いをきき入れ給うことを知っている.(ヨハネ聖福音,11章42節)
これがために,自然に,聖体制定の次第を語るに至る.いま,秘蹟的に話し,最後の晩餐の行いを新たにし給うのは,キリスト御自身である.キリストは,いけにえをくり返し給う.

これは,不敗の勝利者のいけにえである.なぜなら,最後の晩饗のときより,この世の終りの日まで,秘蹟なるこのいけにえは,不滅なるもの(生命=キリスト)の死をくり返しつづけるからである.
キリストの御死去によって,栄光はキリストに帰せられ,十字架によって,自分自身にすべての人間をひきつけるべき御者は,称揚される.これが,奉挙(Elevatio)の象(かたど)りである.
この奉挙の習慣は,大分時代を下ってからのことである.

祈念誦(Anamnesis),「さらば、思い起しつつ」(Unde et memores)という二つの祈りも,救主の偉大なる御業の追想である.そして,あがないの奥義,御受難だけではなく,御復活と御昇天の奥義をも,ここに追想する.

われわれのいけにえは,キリストのいけにえと一つになる.いま,司祭は,アベル,アブラハム,メルキセデクなどのそなえものにはるかにまさる浄く汚れなく聖なる血を献げるのである(Supra quæ これらの献物の上に).
いけにえの天便が,われわれの献物を天の祭壇,神の尊前にもちゆく代りとして,救主なるキリストの御体と御血との宴に,われわれがあずかれるようにと,神にこい願う(Supplices われらひれ伏して).

われわれが,神の宴にあずかることをゆるされるこのいけにえの準備は,もはやととのった.この典礼的ないけにえの功徳は,先ず,つぐのいを果しつつある「苦悩の教会」の霊に応用される.
そして,司祭と,参列の信者のためにも応用されるようにとこい願い,(Nobis quoque われわれにも),このいけにえにあずかり,天の聖人とともになることをも,神の御慈悲によってこい願う.

聖体の行い,すなわち,厳密な意味での典文(カノン)は,終りに近づいた.その終りは,まことに荘重である.
司祭は,オスティアとカリス(祭爵)とを,一緒にもち上げて,三位一体の神に光栄とほまれとをささげる.
そこで参列の信者は、「アメン」ととなえて,司祭の頌歌にこたえ,司祭の聖変化の行為を承諾するのである.この「アメン」は,聖変化の沈黙のはじまりの時から,結晶していた力のほとばしりである.

パンをさくこと

聖体制定のことを物語る福音書によると,主は,聖体のパンを弟子らに与えるに先だち,それを割(さ)いて分けたと記されている.

この行為は,昔から特に重視され,fractio panis(パンをさくこと)は,長らくの間,ミサ聖祭と同義語に用いられてきた.元来,「パンをさくこと」は,実際上の必要からで,信者の聖体拝領のために,大きなパンを分けていたのである.
今はもう実際上のそんな必要はなく,司祭の拝領するオスティアだけをさくことになっている.パンをさくことは,又,昔の習慣の名残りである.聖なるオスティアをさいてから,司祭はオスティアの小片を,カリスに入れる.これはなぜかというに,九世紀ごろまで,ミサののち,聖変化したパンの一片を保存する規則があり(これを Sancta 聖なるものといった),この一片を,次のミサのとき,御血にひたしたのである.それは,公教会のいけにえの,一致性と継続(けいぞく)性とを象(かたど)るならわしであった.

「われらひれ伏して」(Supplices)の祈りがおわれば,いけにえの宴(うたげ)は,もう準備が出来上っている.
典文(カノン)の最後のアメンが終ると,司祭は声をあげて,一同に代り,(Oremus 祈願)と主禱文をとなえる.この祈りは,聖体拝領の直前の準備の祈りとして,ずっと古くから用いられている.
それから司祭は,聖なるオスティアをさくが,これは主の御業のくり返しであり,皆のためにさくこの行いは,救主キリストのみがこの世に与える平安を象るのである.
われわれは主の御死去によって,まことの平安を再び見出した.聖なるパンと聖なるぶどう酒とを混(まぜ)ることは,キリストの復活と不滅性とを意味するのである.「キリストは、もう死に給わない.」(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への手紙,6章9節)

神の羔(こひつじ)に対する神羔誦(しんこうしょう Agnus Dei)は,復活の羔,不滅の糧(かて)となり給うたキリストへの祈りである.

聖体は,本質的にキリスト教的一致,神秘体の生ける一致の秘蹟である.われわれがもし,公教会と一致していないならば,キリストの御体と御血とにもあずかることができない.
また,聖体拝領を否むことは,神秘体から離(はな)れ去ることである.これがために司祭は,キリストにおいてすべてが一致するようにとこい願ってから,助祭を通して,参列の信者に,平安の接吻をおくるのである.現在はもう習慣として残っていないが,この平和の接吻は,その昔は,聖体拝領の唯一つの準備であった.現在は,その精神だけが残されているわけであるから,兄弟への憎(にく)みの念をすて,公教会と兄弟たちに一致する心がなければ,聖体に近づくことはできない.

比較的時代を下ってから,こののち二つの祈りが加えられた.これは,聖体拝領とキリスト教的生活とのつながりを示す祈りである.
実に,キリストと一致することは,キリスト,特に十字架を負(お)い給うたキリストにならうことである.キリスト信者の幸福は,十字架と切り離(はな)せないものである.
こういう神秘的な準備ののち,司祭は,パンとぶどう酒との二つの形色において聖体を拝領し,それから,侍者と一般信者が聖体を受ける.
侍者と信者の聖体拝領は,パンの形色の下に行われる.もちろん,かれらも,古くは二つの形色のもとに聖体をうけていたし,現在でも,東方挙式法による公教会においては,二つの形色の聖体を信者にもさずけている。
しかし,一つの形色でも功徳と効果とは同じである.すべての信者に,聖体は永遠の結実を生むであろう.
昔は,聖体をさずける間に,聖体拝領誦の詩篇をうたう習慣であった.この習慣は,現在の交誦に名残りをとどめているだけで,これを聖体拝領誦(Communio)という.
一般に,聖体拝領誦は,その日の祝日,あるいは奥義に関連した祈りであり,われわれの感謝をあらわしている.
聖器具を始末してのち,司祭は,信者らに挨拶(あいさつ)し,皆に代って,聖体拝領後の祈(Postcommunio)をとなえる.

この祈りによって,聖なるいけにえの拝領は終った.この祈りは,秘蹟的に霊的に聖体を拝領したすべての人に,公教会が何を期待するかをあらわし,この聖なる奥義によってもたらされる至福をも語る.
だが公教会は,この秘蹟を,天の至福の予備としてだけではなく,いまうけた聖寵に対する忠実さによって,いつか決定的にうけるであろう至福の予言とも考えるのである.

***
「毎日のミサ典書」(序論(2)ミサ典書とローマ式ミサ)より引用

* * *

1962年ミサ聖祭通常文の表 
-〈注〉一部の典礼文は省略されています.Partly abbreviated. -


ORDO MISSÆ (1962) (Ordinarium Missæ)
ORDINAIRE DE LA SAINTE MESSE / ORDINARY OF THE MASS

〈灌水式:(洗礼のかたどりの一つ)〉
・交誦(詩篇・第50篇9節) Antiphona … Aspérges me, (主よ,ヒソプもて)

*Aspérges me, Dómine, hyssópo, et mundábor : lavábis me, et super nivem dealbábor.
Ps. 50, 3. Miserére mei, Deus, secúndum magnam misericórdiam tuam.

V/. Glória Patri.

Et repetitur ant. *Aspérges me.

「*主よ,**ヒソプもて私にそそぎ給え,私は浄(きよ)められるであろう.私を洗い給え,私は雪よりも白くなるであろう.
(詩篇・50篇3節)神よ,御慈悲により,私をあわれみ給え.」

司祭/. 願わくは,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とに栄えあれ,
助祭(侍者・信者)/. はじめとおなじく,今もいつも,世々に,アメン.

「(*主よ,ヒソプもて…をくりかえす)」

(**ヒソプ…ハナハッカの小枝;清めの祭式に用いられた.ヘブライ語で「聖なる薬草」を意味する.)

(御受難の主日と枝の主日とには,栄誦をとなえない)
(復活節(御復活の祝日-聖霊降臨まで)は,次の通り)

*Vidi aquam egrediéntem de templo, a látere dextro, allelúia : et omnes ad quos pervénit aqua ista, salvi facti sunt, et dicent : allelúia, allelúia.
Ps. 117,1. Confitémini Dómino, quóniam bonus : quóniam in sǽculum misercórdia eius.

V/. Glória Patri.

Et repetitur ant. *Vidi aquam.

「私は,神殿の右側からわき出る水を見た,アレルヤ.この水にうるおった人々は,みな救われた.かれらは,アレルヤ,アレルヤとうたう.
(詩篇・117篇1節)主をほめたたえよ,主は善にて在(ましま)す,主の御あわれみは永遠である.」

司祭/. 願わくは,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とに栄えあれ,
助祭/. はじめとおなじく,今もいつも,世々に,アメン.

「(*私は,神殿の右側から…をくりかえす)」

…(中間略)

・祈願 Oratio … Exáudi nos (われらの祈りをききいれ給え)

Exáudi nos, Dómine sancte, Pater omnípotens, ætérne Deus : …
「聖なる主,全能の父,永遠の神よ,…われらの祈りをききいれ給え.」

***

Ⅰ.準備:
MISSA CATECHUMENORUM (Signum crucis – Credo)
MESSE DES CATECHUMENES / MASS OF THE CATECHUMENS
(洗礼志願者のミサ)

A. 準備の祈り(祭壇の足元で)

・十字架のしるし … Signum cruces

In nómine Patris, et Fílii, et Spíritus Sancti. Amen.

V/. Introíbo ad altáre Dei.
R/. Ad Deum, qui lætíficat iuventútem meam.

「聖父(ちち)と,聖子(こ)と,聖霊との御名によりて.アメン.」

司祭/「私は,神の祭壇に上ろう.」
助祭/「私の若さを喜びで満たし給う神の方へ.」
…

・信仰,神への委託,信頼,謙遜 … Iúdica me, Deus, (神よ,私を弁護し給え)(詩篇42編)

・痛悔と心の清さ … Confíteor (告白の祈り)

Confíteor Deo omnipoténti, beátæ Maríæ semper Vírgini, beáto Michaéli Archángelo, beáto Ioánni Baptístæ, sanctis Apóstolis Petro et Páulo, ómnibus Sanctis, et vobis, fratres : quia peccávi nimis cogitatióne, verbo, et ópere :
(Percutit sibi pectus ter, dicens :)
mea culpa, mea culpa, mea máxima culpa.
Ideo precor beátam Maríam semper Virginem, beátum Michaélem Archángelum, beátum Ioánnem Baptístam, sanctos Apóstolos Petrum et Páulum, omnes Sanctos, et vos, fratres, oráre pro me ad Dóminum Deum nostrum.

「全能の天主,終生童貞なる聖マリア,大天使聖ミカエル,洗者聖ヨハネ,使徒聖ペトロ・聖パウロ,諸聖人およびなんじら兄弟たちにむかいて,われは思いと言葉と行いとをもって多くの罪を犯せしことを告白したてまつる.
(三度胸を打ちながら言う.)
これわがあやまちなり,わがあやまちなり,わがいと大いなるあやまちなり.
これによりて終生童貞なる聖マリア,大天使聖ミカエル,洗者聖ヨハネ,使徒聖ペトロ・聖パウロ,諸聖人およびなんじら兄弟たちに,わがためにわれらの主なる天主に祈られんことを願いたてまつる.」

Misereátur tui omnípotens Deus, et dimissis peccátis tuis, perdúcat te ad vitam ætérnam.
助祭/.「願わくは,全能の神があなたを憐れみ,あなたの罪をゆるして,永遠の生命に導き給わんことを.」

Amen.
司祭/.「アメン.」

B. 入祭文から奉献まで

・はじめの聖歌 … Introitus (入祭文)

(司式司祭はすぐ祭壇に上らず,祭壇の下で準備の祈りをとなえる.
聖歌隊が,入祭文を終るまでに,司祭は祭壇に上がり,祭壇に接吻し,撒香する.)

(祭壇は特に聖別され,新約の祭壇,いけにえ・大司祭であるキリストを意味する.
また密接にキリストとむすびつくために,祭壇には,聖なる殉教者の遺物の一部が納められている.)

(司祭が祭壇に接吻するのは,これから,奥義を新たにするに当って,キリストの御心と心を一つにすることを,あらわすためである.
祭壇への撒香は,礼拝と尊敬をあらわすためである.)(ローマ・ミサ典書・日本語版より)


Ⅱ.祈りと教え:

《祈り》

・礼拝と祈願 … Kýrie (求憐誦)

V/. Kýrie eléison.
R/. Kýrie eléison.
V/. Kýrie eléison.

R/. Christe eléison.
V/. Christe eléison.
R/. Christe eléison.

V/. Kýrie eléison.
R/. Kýrie eléison.
V/. Kýrie eléison.

(司祭と助祭が交互に三度ずつとなえる)
「主,あわれみ給え.
キリスト,あわれみ給え.
主,あわれみ給え.」

・三位一体の称讃 … Glória (栄光誦)

〔Glória in excélsis Deo et in terra pax homínibus bonæ voluntátis. …
「天においては天主に栄えあれ.地においては善意の人に平和あれ.…」〕

《教え(教理)》

・団体の祈り … Collecta (集祷文)

・第一の朗読 … Epistola (新約聖書の使徒の書簡)

・中間の聖歌 … Graduale (昇階誦)

・Alleluia(アレルヤ誦)あるいは Tractus (詠誦)

・キリストの御言葉の朗読 … Evangelium(福音書)

・キリストとその御言葉への承諾 … 〔Credo (信経)〕


Ⅲ.奉献の部:
MISSA FIDELIUM (Offertorio – Postcommunio)
MESSE DES FIDELES / MASS OF THE FAITHFUL
(信者のミサ)

A. 奉献から序誦まで (奉献)

・奉献の準備 … Offertorium (奉献文)

・御父なる神にパンの奉献 … Súscipe, (うけいれ給え)

Súscipe,sancte Pater, omnípotens ætérne Deus,
「聖なる父,全能永遠の神,…うけいれ給え.…」

・カリスの準備 … Deus, qui (神よ)

・カリスの奉献 … Offérimus tibi, Dómine, (主よ,われらはささげ奉る)

・心の奉献 … In spíritu(心をもって)

In spíritu humilitátis et in ánimo contríto suscipiámur a te, Dómine :
「主よ,深くへりくだり,痛悔の心をもってささげ奉るわれらを受けいれ給え.…」

・奉献するものの上に,聖霊を祈願する … Veni, Sanctificátor, (聖とならしめ給う御者,下り給え)

Veni, Sanctificátor, omnípotens ætérne Deus : …
「聖とならしめ給う全能の御者,永遠の神よ,下り給え.…」

・手を浄める … Lavábo (洗い奉る)

Lavábo inter innocéntes manus meas : et circúmdabo altáre tuum, Dómine.
「主よ,私は罪なき者の一人となるために,私の手を洗い,そして,主の祭壇のかたわらに立とう.」

・キリストと諸聖人との功徳にもとづく奉献 … Súscipe, sancta Trínitas, (聖なる三位一体よ,受け給え)

・信者は,祈りによって,奉献に一致する … Oráte fratres, (兄弟たちよ,祈れ)Suscipiat (受け給わんことを)

Oráte fratres, ut meum ac vestrum sacrifícium acceptábile fiat apud Deum Patrem omnipoténtem.
「兄弟たちよ,祈れ,私と,あなたたちとのいけにえが,全能の父なる神のみもとによみせられるように.」

R/. Suscípiat Dóminus sacrifícium de mánibus tuis ad láudem et glóriam nóminis sui, ad utilitátem quoque nostram, totiúsque Ecclésiæ suæ sanctæ.
助祭/.「主が,御名のほまれと栄光のため,更に,われらの利益のため,御自分の聖なる全教会のために,あなたの手から,このいけにえを受け給わんことを.」

・奉献するものの前で,祈る … Secreta (密誦)

B. 序誦から主禱文まで (聖変化の部)

Ⅳ.聖体の序誦:

・荘厳な感謝の祈り … Praefatio (序誦)

・讃美 … Sanctus (三聖頌)

ミサ聖祭典文( CANON MISSÆ )

Ⅴ.聖なるいけにえ: (聖変化)

・奉献するものを考える … Te ígitur (さて,汝を…)

Te ígitur, clementíssime Pater, per Iesum Christum, Fílium tuum, Dóminum nostrum, súpplices te rogámus ac pétimus, uti accépta hábeas, et benedícas, hæc + dona, hæc + múnera, hæc + sacrifícia illibáta,…

「いと寛仁なる父よ,われらは深くへりくだって祈り奉る.願わくは御子イエズス・キリストによって,この+賜物,この+ささげ物,この+けがれなく聖なるいけにえを受入れ,祝し給わんことを.」

・戦闘(せんとう)の公教会の祈念 … In primis (先ず,…)

…in primis, quæ tibi offérimus pro Ecclésia tua sancta cathólica :
quam pacificáre, custodíre, adunáre, et régere dignéris toto orbe terrárum :
una cum fámulo tuo Papa nostro Benedictus XVI., et Antístite nostro N.,
et ómnibus orthodóxis, atque cathólicæ, et apostólicæ fídei cultóribus.

(両手をひろげ,普遍教会のために祈る)
…先ず,われらは,主の聖なるカトリック教会〔公教会〕のために,これをささげ奉る.
願わくは,教会に平和を与え,それを保護し,一致を固めさせ,
主の下僕なる〔われらの〕教皇ベネディクト16世,われらの司教〔名〕,
および正統な教えと使徒伝承のカトリック信仰とを守る人々と共に,
全世界において,治め,導き給え.」

・特定人の記憶
(生きる人々の記念 Commemoratio pro vivis)… Meménto, Dómine,(主よ,記憶し給え)

・凱旋(がいせん)の公教会の祈念 … Communicántes (聖なる一致において…)

(注)「コムニカンテス」は,われわれが,ここに名の記されている聖人たちだけでなく,罪深い性質においてわれわれと似た人間であったその他の無数の聖人たちのとりなしによってもまた天に招かれていることを知る喜びを与えられる.
殉教者の元后・聖マリアの御名は御子キリストのいけにえ(犠牲)から切り離すことはできない.聖マリアは神の羔(こひつじ)とともにわれわれ自身を祭壇の足元でささげるようお教えになる.聖ヨゼフは普遍教会の保護者として祈願される.(英語のミサ典書の解説より)

Communicántes, et memóriam venerántes, in primis gloriósæ semper Vírginis Maríæ, Genitrícis Dei et Dómini nostri Iesu Christi :
Sed et beáti Ioseph, eiúsdem Vírginis Sponsi, et beatórum Apostolórum ac Mártyrum tuórum, …et ómnium Sanctórum tuórum ;
quorum méritis precibúsque concédas, ut in ómnibus protectiónis tuæ muniámur auxilio.
Per eúndem Christum Dóminum nostrum. Amen.

「聖なる一致において,われらは,先ず,わが神なる主,イエズス・キリストの御母,終生童貞なる光栄のマリアの記念を,つつしんで行い奉る.
また,その浄配聖ヨゼフ,主の聖なる使徒,殉教者,… およびすべて主の聖人らの記念を行い奉る.
願わくは彼らの功徳ととりなしとによって,われらに,御保護の助力を与え給わんことを.同じわれらの主,キリストによりて.アメン.」

・献物を受入れ給えと祈る … Hanc ígitur (さて,これを…)

・聖変化をこい願う祈り … Quam oblatiónem tu, Deus, (神よ,このささげものを)

Quam oblatiónem tu, Deus, in ómnibus, quǽsumus, bene+díctam, adscríp+tam, ra+tam, rationábilem, acceptabilémque fácere dignéris : ut nobis Cor+pus, et semel super calicem, et San+guis fiat dilectíssimi Fílii tui, Dómini nostri Iesu Christi.

「神よ,願わくは,このささげものを祝+し,嘉+納し,全く+認め,真の価値あるいけにえとなし給え.これが,われらのために,御身の最愛の御子,われらの主イエズス・キリストの御+体,御+血とならんことを.」

・聖体制定の記念 … Qui prídie (御受難の前日…)

Qui prídie quam paterétur, accépit panem in sanctas ac venerábiles manus suas, et elevátis óculis in cælum ad te Deum Patrem suum omnipoténtem, tibi grátias agens, bene+díxit, fregit, dedítque discípulis suis, dicens : Accípite, et manducáte ex hoc omnes.

「主は,御受難の前日,その聖なる尊い御手にパンをとり,天に在(ましま)す全能の御父なる御身の方に目を上げ,御身に感謝し,それを祝+して,分け,弟子らに与えておおせられた.皆,これを受け,そして食べよ.」

・パンの聖変化 … Hoc est enim corpus … (実にこれは,私の体である)

HOC EST ENIM CORPUS MEUM
「実にこれは,私の体である.」


・聖体を奉挙する

・聖体制定のつづき … Simili modo (同じく…)

Simili modo póstquam cenátum est, accípiens et hunc præclárum cálicem in sanctas ac venerábiles manus suas : tibi grátias agens, bene+díxit, dedítque discípulis suis, dicens : Accípite, et bíbite ex eo omnes.

「同じく晩餐が終ったとき,主は,その聖なる尊き御手に,この光栄あるカリス(聖杯)を取り,再び,御身に感謝し,これを祝+し,弟子たちに与えて,おおせられた..皆,これをとって飲め.

・ぶどう酒の聖変化 … Hic est enim calix … (実に,これは私の血のカリス(聖杯)で…)

HIC EST ENIM CALIX SÁNGUINIS MEI, NOVI ET ÆTÉRNI TESTAMÉNTI :
MYSTÉRIUM FIDEI :
QUI PRO VOBIS ET PRO MULTIS EFFUNDÉTUR IN REMISSIÓNEM PECCATÓRUM.

「実に,これは、新しく,そして永遠なる契約の,私の血のカリスである.
信仰の奥義,
それは,あなたたちと多くの人々の罪をゆるすために流されるのである.」


Hæc quotiescúmque fecéritis, in mei memóriam faciétis.
「あなたたちがこれを行うごとに,私のかたみとしてこれを行え.」

・カリスを奉挙する

・あがないの玄義を再び記念 … Unde et mémores, Dómine, (主よ,さらば記念して…ささげ奉る)

・キリストのいけにえを受入れ給えと祈る … Supra quæ (この供物に…)

・神なるいけにえとの一致を求める祈 … Supplices (うやうやしく)

・死者の記念 
(死者の記念 Commemoratio pro defunctis)… Meménto étiam, Dómine,(主よ,記憶し給え)

・天の教会との一致を求める祈 … Nobis quoque (われらは…)

・被造物も称讃にあずかる … Per quem (かれによって)

Per quem hæc ómnia, Dómine, semper bona creas, sanctí+ficas, viví+ficas, bene+dícis et præstas nobis.
「主よ,御身は,かれによってこれらすべてをよきものとしてつくり,これを聖+とし,活+かし,祝+し,そしてわれらに与え給う.」

・御子による聖父に対する称讃,聖霊との一致において. … Per Ipsum (かれによって,かれと共に,…)

Per ip+sum, et cum ip+so, et in ip+so,
est tibi Deo Patri + omnipoténti
in unitáte Spíritus + Sancti
omnis honor, et glória.
Per omnia sǽcula sæculórum.
R/. Amen.

「かれ+によって,かれ+と共に,かれ+において,
全能の+父なる神よ,
+聖霊との一致において,
御身はすべてのほまれと光栄とを受け給う.
世々に至るまで.」

・信者の賛成と称讃 … Amen (アーメン)

ミサ聖祭典文の終わり

C. 主禱文から清めの式まで (聖体拝領)

Ⅵ.パンを割(さ)くこと:

・今日の糧(かて),聖体を求める祈り … Pater noster (主祷文)(われらの父よ)

Pater noster, qui es in cælis :
sanctificétur nomen tuum ; advéniat regnum tuum ; fiat volúntas tua, sicut in cælo, et in terra. Panem nostrum quotidianum da nobis hódie ; et dimítte nobis débita nostra, sicut et nos dimíttimus debitóribus nostris ; et ne nos indúcas in tentatiónem.
R/. Sed líbera nos a malo.
Amen.

「天にましますわれらの父よ,願わくは御名の尊まれんことを,御国の来らんことを,御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを.
われらの日用の糧を,今日(こんにち)われらに与え給え.われらが人にゆるすごとく,われらの罪を赦し給え.われらを試みに引き給わざれ.」
助祭/.「われらを悪より救い給え.」
司祭/.(小声で)「アメン.」

・悪から浄化され,予防されることをこい願う … Líbera nos (われらを救い給え)

Líbera nos, quǽsumus Dómine, ab ómnibus malis, prætéritis, præséntibus et futúris :
et intercedénte beáta et gloriósa semper Vírgine Dei Genitríce María, cum beátis Apóstolis tuis Petro et Páulo, atque Andréa, et ómnibus Sanctis, da propítius pacem in diébus nostris :
ut, ope misericórdiæ tuæ adiúti, et a peccáto simus semper líberi et ab omni perturbatióne secúri.
Per eúndem Dóminum nostrum Iesum Christum, Fílium tuum.
Qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti Deus.
Per omnia sǽcula sæculórum. R/. Amen.

「主よ,願わくは,過去,現在,未来のすべての悪からわれらを救い給え.
終生童貞なる永福の,聖母マリア,使徒聖ペトロ,パウロ,アンドレア,および諸聖人のとりつぎにより,御慈悲をもって日々われらに平安を与え,
御あわれみを下して,われらを罪よりすくい,われらをまどわすものより解き放ち給え.
その同じわれらの主,イエズス・キリスト,
神として,聖霊との一致において,御身と共に生きかつ治め給う御子によりて,
世々に至るまで.」助祭/.「アメン」

・パンをさくことと,キリストの平和における一致 … Pax Domini (主の平安)

Pax + Dómini sit + semper vobís+cum.
R/. Et cum spiritu tuo.
「主の+平安,+いつも,あなたたち+とともにあれ.」
助祭/.「また,あなたの霊とともに.」

・聖なるパンを聖なるぶどう酒に加える‐復活と一致との神秘 … Hæc commíxtio (この平和)

Hæc commíxtio et consecrátio Córporis et Sánguinis Dómini nostri Iesu Christi, fiat accipiéntibus nobis in vitam ætérnam. Amen.

(司祭は,御聖体の小片をカリスの中へ入れて小声でとなえる)
「われらの拝領せんとするわれらの主イエズス・キリストの御体と御血とのこの混和と聖別とが,われらの永遠の生命の糧(かて)とならんことを.アメン.」

・神の羔(こひつじ)にこい願う (神羔誦〈しんこうしょう〉)… Agnus Dei
Agnus Dei, qui tollis peccáta mundi : miserére nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccáta mundi : miserére nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccáta mundi : dona nobis pacem.

「世の罪を除き給う天主の小羊,われらをあわれみ給え.
世の罪を除き給う天主の小羊,われらをあわれみ給え.
世の罪を除き給う天主の小羊,われらに平安を与え給え.」

・平安の接吻 … Domine Iesu (主イエズス)

Domine Iesu Christe, qui dixísti Apóstolis tuis : Pacem relínquo vobis, pacem meam do vobis :
ne respícias peccáta mea, sed fidem Ecclésiæ tuæ ;
eámque secúndum voluntátem tuam pacificáre et coadunáre dignéris :
Qui vivis et regnas Deus per ómnia sǽcula sæculórum. Amen.

「あなたたちに私の平安をのこす,私の平安を与えると,使徒らにおおせられた主イエズス・キリストよ,
私の罪をかえりみず,主の教会の信仰をかえりみ給え.
そして教会に平安を下し,聖なる御旨の如く,一致させ給え.
世々に生きかつ治め給う神よ,アメン.」

・聖体拝領の間近き準備 … Domine Iesu (主イエズス)Percéptio (拝領し奉る)

Domine Iesu Christe, Fili Dei vivi, …
「活ける神の御子イエズス・キリストよ…」

Percéptio Córporis tui, Dómine Iesu Christe, quod ego indígnus súmere præsúmo, …
「主イエズス・キリスト,不肖の私は,あえて御体を拝領し奉る.…」

・司祭が,両形色のもとに,聖体を拝領する … Panem cæléstem(天のパンを)Corpus Dómini (主の御体)Quid retríbuam (何をもって主に報いてよかろうか)Sanguis Dómini (主の御血)

Panem cæléstem accípiam, et nomen Dómini invocábo.
「私は,天のパンを受け,主の御名をこい願う.」

Dómine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum : sed tantum dic verbo,
et sanábitur ánima mea.
(司祭は胸を打ちながら,献身的にまたけんそんな心で,小声でとなえる)
「主よ,私は,主をわが家にむかえ奉るにたらぬものである.ただ一言を語り給え.
そうすれば,私の霊魂はいやされるであろう.」(三度繰り返す)

Corpus Dómini nostri Iesu Christi custódiat ánimam meam in vitam ætérnam. Amen.
「われらの主,イエズス・キリストの御体が,私の霊魂を,永遠の生命のために守り給わんことを.アメン.」

Quid retríbuam Dómino pro ómnibus quæ retríbuit mihi ?
Cálicem salutáris accípiam, et nomen Dómini invocábo.
Láudans invocábo Dóminum, et ab inimícis meis salvus ero.
「私に与え給うたすべての善に,私は何をもって主に報いてよかろうか.
私は救いのカリスをとり,主の御名をこい願う.
主の讃美をうたいつつ,こい願おう.そうすれば,私は敵の手の中より救い出されるであろう.」

Sanguis Dómini nostri Iesu Christi custódiat ánimam meam in vitam ætérnam. Amen.
「願わくは,われらの主イエズス・キリストの御血が,私の霊魂を,永遠の生命に守り給わんことを.アメン.」

・信者の聖体拝領

Ecce Agnus Dei, ecce qui tollit peccáta mundi.
「世の罪を除き給う神の小羊を見よ.」

Dómine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum : sed tantum dic verbo,
et sanábitur ánima mea.
(御聖体を受ける者は胸を打ちながら三度となえる.)
「主よ,私は,主をわが家にむかえ奉るにたらぬものである.ただ一言を語り給え.
そうすれば,私の霊魂はいやされるであろう.」

(各信者は,祭壇の前にひざまずく)

Corpus Dómini nostri Iesu Christi custódiat ánimam tuam in vitam ætérnam. Amen.
(司祭は各信者の前に御聖体を示し,御聖体で十字架のしるしをしながらとなえ,授ける.)
「われらの主,イエズス・キリストの御体が,あなたの霊魂を,永遠の生命のために守り給わんことを.アメン.」

D. 浄めの式から最後の聖福音まで (感謝の部)

・聖器具の始末 … Quod ore súmpsimus, Dómine,(主よ,口で拝領し奉ったものに…)

・司祭は指を洗う … Corpus tuum Dómine, (主よ,御体と)

・聖体拝領の聖歌 … Communio (聖体拝領誦)

・終りの祈り … Postcommunio (聖体拝領後の祈)


Ⅶ.退散と最後の祈:

・ミサの終りを告げる(終祭誦)… Ite, missa est.

Ite, Missa est. または Benedicámus Dómino.
「行け,ミサは終った.」

・信者は神に感謝する(主を讃美しよう) … Deo gratias (神に感謝し奉る)

・いけにえの祭壇を去るに当り,司祭はけんそんに祈る … Pláceat (よみし給え)

Pláceat tibi, sancta Trinitas, obséquium servitútis meæ:
「聖なる三位一体よ,下僕なる私の聖役をよみし給え…」

・最後の祝福 … Benedícat (祝福し給わんことを)

Benedícat vos omnípotens Deus, Pater, et Fílius, + et Spíritus Sanctus. R/. Amen.
「全能の神が,あなたたちを祝福し給わんことを,聖父と+(一同十字架のしるしをする)聖子と,聖霊とによりて.」助祭/「アメン.」

・最後に福音書を読む … In principio (元始に)

V/. Dóminus vobíscum.
R/. Et cum spíritu tuo.

(Et signans signo crucis primum Altare vel librum, deinde se in fronte, ore et pectore, dicit :)
+ Inítium sancti Evangélii secúndum Ioánnem.
R/. Gloria tibi, Domine.

司祭/. 「主は,あなたたちとともに.」(会衆は起立する)
助祭/. 「また,あなたの霊とともに.」

(司祭は,額と口と胸に親指で小さな十字架のしるしをして言う)
+ヨハネによる聖福音の序.
助祭/. 「主に栄光あれ.」

Ioann. 1, 1-14

In princípio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum. Hoc erat in princípio apud Deum. Omnia per ipsum facta sunt : et sine ipso factum est nihil, quod factum est : in ipso vita erat, et vita erat lux hóminum : et lux in ténebris lucet, et ténebræ eam non comprehendérunt.

Fuit homo missus a Deo, cui nomen erat Ioánnes. Hic venit in testimónium, ut testimónium perhibéret de lúmine, ut omnes créderent per illum. Non erat ille lux, sed ut testimónium perhibéret de lúmine.

Erat lux vera, quæ illúminat omnem hóminem veniéntem in hunc mundum. In mundo erat, et mundus per ipsum factus est, et mundus eum non cognóvit. In propria venit, et sui eum non recepérunt. Quotquot autem recepérunt eum, dedit eis potestátem fílios Dei fíeri, his, qui crédunt in nómine eius : qui non ex sanguínibus, neque ex voluntáte carnis, neque ex voluntáte viri, sed ex Deo nati sunt. (Genuflectit dicens) : Et Verbum caro factum est, (Et surgens prosequitur) : et habitávit in nobis : et vídimus glóriam eius, glóriam quasi Unigéniti a Patre, plenum grátiæ et veritátis.


ヨハネによる聖福音・第1章1-14節

元始(はじめ)にみことば(御言葉)があった.御言葉は天主(神)とともにあった.みことばは天主であった.彼(かれ)は,元始に天主とともにあり,万物は彼によって造られた.造られた物の中(うち)に,一つとして彼によらずに造られたものはない.彼に生命があり,生命は人間の光であった.光は闇(やみ)に輝いたが,闇は彼を悟らなかった.

さて,天主から遣(つか)わされた人がいて,その名をヨハネといった.この人は,光を証明するために来た,またすべての人が彼によって信じるために,証人として来た.この人は,光ではなく,光を証明するために来た.

すべての人をてらす真(まこと)の光は,まさにこの世に来つつあった.みことばは世にあり,世はみことばによって造られたが,世は彼を知らなかった(みことばを認めなかった).みことばは,ご自分の家に来給うたが,その族(人々)はうけいれ(受け入れ)なかった.しかし,その方をうけいれた人々には,みな,天主の子となれる能力(権利)を授(さず)けた.そのみ名を信じるすべての人たち,それは,血統によらず,肉体の意志によらず,人の意志によらず,ただ天主によって生まれた人々である〈ここで片膝を付く〉.

みことばは肉体となって,〈立ち上がる〉われわれの中(うち)に宿り給うた(住まわれた),我々はその栄光を見た.それは,御独り子として御父から受けられた栄光であって,恩寵と真理とに満ちておられた.

R/. Deo grátias.
助祭/「神に感謝し奉る.」


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(毎日のミサ典書(全ローマ・ミサ典書〈ラテン・仏・英(1962年)・日本(1955年)語訳〉を参照)
* * *

2011年4月21日木曜日

新しい教会,新しい福者

エレイソン・コメンツ 第195回 (2011年4月9日)

5月1日,あと2,3週間ほど(訳注・本コメンツ投稿日現在からは1週間ほど)経つと,ローマのサンピエトロ広場で行われる盛大な祝典の中で,前教皇ヨハネ・パウロ2世が現教皇ベネディクト16世により「福者」 “Blessed” と宣言される予定です.だがカトリックの伝統に固執するカトリック信徒たちはヨハネ・パウロ2世教皇が,公会議主義下の教会の偉大な推進者であった一方で,カトリック教会の事実上の破壊者であったことも知っています.カトリック教会の列聖( “Church canonizations” )が無謬(むびゅう) “infallible” であるならば,前教皇がどうして,聖人となる前の最終段階( “the last step before being canonized” )たる「福者」と呼ばれうるのでしょうか? この疑問に即答すれば,前教皇ヨハネ・パウロ2世はカトリック教会におけるカトリックの列福によりカトリックの福者として列福されるのではなく( “will not be beatified as a Catholic Blessed by a Catholic beatification in the Catholic Church” ),新しい教会における新しい列福による新しい福者として( “as a Newblessed by a Newbeatification in the Newchurch” )列福されることになるということです.そして新しい教会の聖職者たち “Newchurchmen” は,彼らのなすことにつきその目新しさ “novelty” を主張する最初の人たちで,その不謬性 “infallibility” を主張する最後の人たちです.(訳注後記)

ここで,この新しい教会の性格を現代生活から得た比較をもとに例証してみましょう.高純度のガソリンはガソリン特有の匂い,味,機能を持っています.それによって自動車は走ることができます.純粋な水は水特有の匂い,味を持ち,その働きをします.自動車は水では走れません.ごく微量の水を混ぜたガソリンは依然としてガソリンの匂いと味がしますが,ガソリンとしては働かず - それによって自動車は走れません.微量の水がガソリンの可燃性を奪い取ってしまったのです.

純度の高いガソリンは例えていえば純粋なカトリシズム “Catholicism” (=カトリック教義)のようなものです - 極めて燃えやすいのです! この例えでは,純粋な水は何らのカトリシズムの形跡もとどめない純粋な世俗的人本主義( “secular humanism” )あるいは世界主義の宗教( “the religion of globalism” )に似ています.カトリシズムと世俗的人本主義は第二バチカン公会議およびそこで出した16の公文書の中で一緒に混ぜ合わされました.そのため公会議主義すなわち新しいカトリック教義( “Conciliarism, or Newcatholicism” )は,「良いカトリック信徒たち」に公会議による列福はそれ以前のカトリック教会の列福と同様に不謬性へ向かって順調に進んでいるのだと期待させるに十分なカトリシズムの匂いや味を依然として残しているように思えるかもしれません.だが実際には,少量の世俗的人本主義という混ぜ物はカトリシズムの健全な機能を止めるのに十分なのです.ちょうどガソリンの燃焼を止めるのに大量の水が必要でないのと同じです.

そういうわけで,新しい列福 “Newbeatifications” (訳注・公会議主義下の新しい教会の様式〈規定〉に則(のっと)った列福という意味)は,不用心で軽率なカトリック信徒の鼻孔(びこう)にはカトリック教の列福と似た味や匂いがするかもしれません.だが,よく見れば新しい列福が現実のものとは全く同じでないことは明らかです.有名な例を挙げます: 以前ではカトリック教会がある人につき列福を認めるためにはその人に関わる二つの否定し難い奇跡が起きた事実が要求されてきましたが,新しい列福が要求するのはただ一つの奇跡だけです.また列福を認めるための諸規則は他の面でも著(いちじる)しく緩(ゆる)められています.従って,カトリック信徒は新しい列福から生まれるのは新しい福者 “Newblesseds” 以外の何者でもないと考えるべきです.前教皇ヨハネ・パウロ2世はまさしく公会議主義の認めた「福者」なのです.

カトリック信徒を惑(まど)わし欺(あざむ)くのは,公会議主義下の教会に依然としてカトリシズムの諸要素が残っているからです.だがちょうど第二バチカン公会議がカトリシズム(純粋なガソリン)を公会議主義(水の混じったガソリン)に置き換えるべく考案したように,公会議主義はさしずめ世界宗教( “the Global Religion” )(純粋な水)に道を譲(ゆず)るべく考案されたものです.そのたどる行程は「神」から「新しい神」さらに「非神」( “from God to Newgod to Nongod” )へと進みます.今のところ依然として「新しいローマ」 “Newrome” は第二バチカン公会議の「新しい神」とそれに見合う「新しい福者」を推し進めていますが,やがて正真正銘の犯罪者が「非神」の「福者」と認められることでしょう.

だが,真の神は欺かれまいとする羊(=信徒)が欺かれるのをお許しになりません.さらに誰であってもまず自ら神を見捨てない霊魂を決して神がお見捨てになることはない,と聖アウグスティヌスは言い残しています.なんと素晴らしい言葉でしょうか!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第1パラグラフ最後の訳注:
無謬(むびゅう) “infallible” ,不謬性(ふびゅうせい) “infallibility” について.

・「無謬」=理論や判断にまちがいがないこと.

・教皇不謬性 “(papal) infallibility”

教皇が全カトリック教会の最高統治権をもつ司教として,信仰および道徳について正式な決定を下す場合,神の特別な保護によって誤ることがありえないとするローマ・カトリック教会の信条.第一バチカン公会議で信徒の信ずべきこととして定められた.教皇無謬性,不可謬権ともいう.

(ブリタニカ国際大百科事典参照)

2011年2月14日月曜日

注目に値する映画

エレイソン・コメンツ 第187回 (2011年2月12日)

最近封切られたフランス映画「神々と人間」(訳注・公式邦題は「神々と男たち」.英題名 “Of Gods and Men” / 原題 “Des hommes et des dieux.” )は昨年,権威あるフランスのカンヌ国際映画祭で最高賞を獲得しました.この映画は1996年に実際に起きた事件を再現したもので,植民地から独立後のアルジェリアにあるシトー修道会修道院( “a Cistercian monastery” )における生活の最後の数か月間を描いたものです.最終的に8名の修道士たちが正体不明の暗殺者たちによりそこから拉致され殺されました(訳注後記).監督,俳優,カメラともこの映画を美しい作品に仕上げています.カトリック伝統に精通しているカトリック信徒たちにとり特に興味深いのはこの映画の宗教と - 宗教的な観点からの - 政治の取り上げ方でしょう.

この映画の描いているのが公会議派の宗教であることから考えると,おそらく最も注目に値するのはこの映画のもつ真の宗教感覚でしょう.教義的には,例えばコーランに対し必要以上の敬意を払うことを普遍的に重要視する( “ecumenical moments” )といった面があります.典礼の上からいえば,簡素かつ高潔な修道院の教会で詠唱される言葉や音楽はみな現代人が産み出したもので,主観的かつ感傷的なものです.それでも,修道士たちの祈る姿を規則通りに描写している場面のどれもがみな純粋で非常に宗教的であり,非宗教的な現代においては全く驚くばかりです.この映像を見て誰もが内心思うでしょう,これが修道院のあるべき姿なのだ,と!

どう言えばよいでしょうか?映画の監督と演技について言えば,ちょうど現代の英国人が大英帝国の歴史が依然として身近にあり自分たちの血の中に流れているため今でもビクトリア時代を納得のゆくように表現できるのと同じように,この映画のフランス人俳優たちは,カトリックの修道院生活が自分たちの遺産の中できわめて重要な部分を占めてきたため,素晴らしい修道士像をスクリーン上に描き得たにちがいありません.だがとりわけ,私たちの主イエズス・キリストが言われる通り(マテオ・15:18,19)(訳注後記),大切なことは,人が心の中で何を考えているかです.何より最良なのは心のこもったカトリック伝統ですが,この映画は,心ある公会議主義のほうが心を失ったカトリック伝統主義よりはるかに神を喜ばせるのではないかということを私たち伝統派のカトリック信徒たちに思い起こさせてくれます.

この映画で描かれている政治はアラブ諸国で現在起きているイスラム教徒蜂起の観点からとりわけ興味深いものです.映画の中の修道士たちは,確かに実生活で起きた通り,政治的に進退きわまった状況におかれます.一方で,彼らの非イスラム的生活は,イスラム教がアルジェリアを政治的に支配するのに邪魔となるものは誰であっても殺すというイスラム反乱軍によって明らかに脅威にさらされます.他方,独立後のアルジェリア政府は,修道士たちがイスラム反乱分子たちを援助したり,負傷者に対し例えばカトリック教会の精神に則った様々な慈悲の行為を施しているのではないかと強く疑い,修道士たちにアルジェリア国外へ立ち去るよう勧めます.今日でも,修道士たちはアルジェリア政府によって処刑されたと考える人たちがいます.真相は神のみぞ知るです.

どう言えばよいでしょうか? 確かに心あるカトリック教は,反キリスト教的であまりに単純かつ残忍な分派である心あるイスラム教よりはるかに優れています.だが,第二バチカン公会議がしたように,もしカトリシズムから心が失われてしまい,世界各地の実生活で,カトリックの修道士や聖職者たちが医療のみならず精神的な支援まで反カトリック革命主義者に対して与えることになったとします.その結果,正当な政府が公会議派の聖職者によって自国の法と秩序が損なわれたと異議を唱えたとしても驚くにあたるでしょうか?実のところ,ルフェーブル大司教がよく言われていた通り,カトリック聖職者たちが最も恐るべき革命主義者になるのです!イスラム教が台頭するのはひとえに真のカトリック教会が堕落し続けるからです.

カトリック伝統を固守している少数のカトリック信徒たちの信仰心にいかに多くがかかっていることでしょうか!

キリエ・エレイソン

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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(第1パラグラフの訳注)

・ “The Atlas Martyrs” (アトラスの殉教者)と呼ばれる.

・「厳律シトー修道会」 “O.C.S.O Order of Cistercians of the Strict Observance”

・「シトー修道会」 “Cîteaux”, “ordre cistercien” について:
11世紀聖ロベルトゥスによってフランスに創立された観想修道会.この会から聖ベルナルドゥスが出た.17世紀ド・ランセによる刷新に参加した諸修道院を「厳律シトー会(Ordre de Cîteaux)といい,参加しなかった諸修道院を「寛律シトー会」という.別名トラピスト修道会(Trappist).(現代キリスト教用語辞典〈大修館書店〉参照)

* * *

(第3パラグラフの訳注)

新約聖書・マテオ聖福音書:第15章18,19節

『だが口から出るものは,心から出たもので,これが人を汚す.つまり,悪意,殺人,姦淫,淫行,窃盗,偽証,讒言(ざんげん)などは心から出る.』