ラベル リベラル主義者 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル リベラル主義者 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年1月27日日曜日

289 リベラリズム - 神の冒涜(ぼうとく) 1/26

エレイソン・コメンツ 第289回 (2013年1月26日)

リベラリズム(自由主義)とは本当に見せかけほどひどいものなのでしょうか? 誰かが「リベラル」だと非難され,その人が自分に張られたレッテルを懸命(けんめい)にはがそうとしているとします.どちらが正しいのでしょうか? 非難する側でしょうか,それとも非難される側でしょうか ( "Is liberalism really as horrible as it is made out to be ? This or that person is accused of being a “liberal”, yet a number of those accused vigorously deny that the label attaches to them. Who is right? Accusers or accused ? " ) ? 「リベラリズム」は無数の魂を地獄の火炎(かえん)に放り込む現代の包括的な誤り( "the all-embracing error of modern times" )につけられた名称ですから,それが一体何なのか再考に値(あたい)するでしょう ( "Since “liberalism” is one name for the all-embracing error of modern times, responsible for throwing souls without number into the fires of Hell, it surely deserves one more approach. " ).

自由( "freedom" )とは,私がたとえば制約などに束縛(そくばく)されないことか,もしくはたとえばある目的を自由に求めることの,いずれかにかかわるものです ( "Now freedom relates either to what I am free from, i.e. some constraint or other, or it relates to what I am free for, i.e. some purpose or other." ). この二つの相対的(そうたいてき)自由のうち,束縛されないという消極的自由 ( "the negative freedom from constraint" ) は時間的には積極的な自由より先に来ますが,重要度では後回しになります ( "Of these two relatives of freedom, the negative freedom from constraint comes both before the positive purpose in time, but after it in importance." ). 時間的に先立(さきだ)つというのは,もし私がある目的を達成するのに束縛を受けていれば,目的達成など論外になるからです. 他方,重要度で後回しになるのは,束縛がない状態の価値は自由を使って達成する目的の価値次第で決まるからです ( "It comes before in time, because if I am constrained from achieving a purpose, my achieving that purpose is out of the question. On the other hand it comes after it in importance because the value of the non-constraint will depend on the value of the purpose for which it is used." ). ナイフを所持(しょじ)することは私を無防備状態から解放(自由に)( "frees" )してくれます ( "Thus holding a knife frees me from being unarmed, …" ). もし私がその自由を食べ物を切り分けるのに使えば,それは良い自由( "the freedom-from is good" )となりますが ( "… but if I use that freedom-from for cutting up food to eat, the freedom-from is good, …" ), もしナイフで私の祖母を切り刻んだとしたら,その自由は殺人的になります ( "the freedom-from is murderous" )( "… but if I use it for carving up my grandmother, the freedom-from becomes murderous. " ).

ところで,リベラリズムは何かをする自由( "the freedom-for" )とか,それを使って達成する目的の良し悪し(よしあし)とは無関係に,束縛されない自由,もしくはそこに内在する最高の価値を求めます ( "Now what liberalism does is to make the freedom-from a – or the – supreme value in itself, regardless of the freedom-for, or the good or bad purpose for which it will be used." ). したがって,自由( "liberty" )すなわち束縛されない自由( "freedom-from" )は目的の良し悪し,物事の善悪から離れたものになります ( "independent of a good or bad purpose, independent of right and wrong" )( "Thus liberty or freedom-from is made independent of a good or bad purpose, independent of right and wrong." ). だが,善悪の違いを決めるのは,エデンの園における禁断の果実いらい人間が天国と地獄のいずれの選択をするかができるよう神が創造された世界の本質的な部分で行われるべきことです ( "But the difference between right and wrong is an essential part of God’s creation, designed from the forbidden fruit in the Garden of Eden onwards for man to make his choice between Heaven and Hell." ). したがって,人間の束縛からの自由を神の法 ( "God’s law" ) より優先させるのは,人間を神の前に置くこと (=人間を神より重〈おも〉んじること) ( "to put man before God" ) になります ( "Therefore to put man’s lack of constraint in front of God’s law is to put man before God." ).

これは善悪 (ぜんあく) について神の道徳律 (どうとくりつ) ( "God's moral law" ) を否定することですから,リベラリズムは神に対し暗黙(あんもく)の戦いを挑(いど)み,(訳注・不完全かつ有限な)人間の人「権」 (=じんけん) ( "man's human “right” " ) を 神の神聖な支配権 (訳注・=人間を含む万物〈ばんぶつ〉に命じることができる,全知全能かつ永遠たる神のみが有する正義・権威)( "God's divine right to command" )に優先させることになります ( "Being then the implicit denial of God’s moral law, of right and wrong, liberalism implicitly makes war on God, putting man’s human “right” to choose in front of God’s divine right to command." ). ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )がよく言われたように,この世には36種類の自由主義者( "liberals" )がいます.もっとも,そのすべてが神に戦いを挑(いど)んでいるわけではありません ( "Now as Archbishop Lefebvre used to say, liberals come in 36 different varieties, by no means all of which mean to make war on God." ). だが,神に対する挑戦は自由を最高の価値と見る自由主義者たちの理論的結論です.だから,彼らの多くにとっては,何でもあり( "anything goes" )というわけです ( "But war on God remains the logical conclusion of liberals giving supreme value to liberty, and it is the reason why for many of them, anything goes." ). 神と神の法・法則(訳注・=万象〈ばんしょう〉の摂理〈せつり〉)を片方に押しやった後は,自由崇拝( "adoration of liberty" )が自由主義者たちにとっての代替(だいたい)宗教( "substitute religion" )となります. これは彼ら自身の意志だけがルールという宗教です( "a religion with no rules except their own will" )( "God and his rules having been pushed to one side, then the adoration of liberty becomes for liberals their substitute religion, a religion with no rules except their own will." ). それは代替宗教にとどまらず,その邪魔(じゃま)をする真の宗教を排除(はいじょ)しなければならないというものです.したがって,自由主義者たちは神の創造された国の隅々(すみずみ)にゆきわたる秩序(ちつじょ)「を壊(こわ)そうとする十字軍兵士となります. ( "Being moreover a substitute religion, it must get rid of the true religion which blocks its way, and so liberals naturally become crusaders against God’s order in all corners of his Creation: …" ) その結果生じるのは,性別に無関係の婚姻(こんいん),子供を持たない家庭,元首(げんしゅ)のいない国家,道徳のない生活,等々です ( "… marriages free of gender, families free of children, States free of a head, life free of morals, and so on, and so on. " ). 神の実存 (じつぞん) に対するそのような戦いはまさしく狂気(きょうき)の沙汰(さた)です ( "Such a war on God’s reality is completely insane, …" ). しかも,自由主義者たちは彼らが解放してあげる( "liberating" )同胞(どうほう)たちには一見優しく振る舞いますが ( "… yet liberals, apparently so sweet to their fellow-men whom they are “liberating”, …" ),自分たちの戦いを邪魔(じゃま)する者にはひどく残酷(ざんこく)になることができます  ( "… can in fact be utterly cruel to anybody who gets in the way of their crusade." ). 思いやりに値(あたい)しない反自由主義者たち( "anti-liberals, who deserve no compassion" )を踏みにじるためには,きちんとした礼儀など守る必要はない,というのが代替宗教の論理です ( "It is in the logic of their substitute religion that they need observe no normal decency in trampling upon anti-liberals, who deserve no compassion." ).

過去20世紀にわたりカトリック教会はそのような狂気( "insanity" )を咎(とが)めてきました( "For 20 centuries the Catholic Church condemned such insanity. " ). だが,第二バチカン公会議で公式教会( "the official Church" )は,たとえば,すべての国家は市民が真の宗教を実践(じっせん)する自由より自(みずか)ら選んだ宗教を実践する際の世俗(せぞく)の束縛( "civil constraint" )からの解放を擁護(ようご)すべきとする「人格の尊厳(そんげん)」 ( "Dignitatis Humanae" ) を宣言しました ( "Yet at Vatican II the official Church gave way to it, by for instance declaring (“Dignitatis Humanae”) that every State must protect rather its citizens’ freedom-from civil constraint in the practice of their religion than their freedom-for the practice of the true religion." ). そして,ある宗教協会の指導者たちは自分たちの団体を第二バチカン公会議派ローマ人たち(=ローマ教皇庁の聖職者たち)( "Vatican II Romans" )の権威のもとに置きたいと望んでいます ( "And now the leaders of a certain religious Society want to put it under the authority of the Vatican II Romans." ).  ルフェーブル大司教が言われたように,そのような行動は真の宗教にとって「自殺作戦」 ( "Operation Suicide" )となります. だが,リベラリズムとはもともと自殺行為的な( "suicidal" )ものなのです ( "For the true religion, such action is, as Archbishop Lefebvre called it, “Operation Suicide”. But then liberalism is intrinsically suicidal." ).

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


(訳注)

 "blasphemy" (英語) = 神を瀆(涜)す(けがす)こと (=神を冒涜〈ぼうとく〉すること).神の神聖をきずつける行為.

「神を冒涜する」ことの意味内容について,より詳しい説明を追記いたします.


* * *

2011年12月13日火曜日

228 国教たるべきか? (11/26)

エレイソン・コメンツ 第228回 (2011年11月26日)

カトリック教を擁護(ようご),促進(そくしん)するため国家はどのような役割を果たすべきでしょうか? カトリック教義( “Catholicism”,カトリシズム) が唯一の真の神の唯一の真の宗教だと信じるカトリック教徒なら誰しも,国家もまた(訳注・他のすべての被造物と同様)神が創造された被造物の一つなのだから,その神の唯一の真の宗教のために最善のことをすべきだと答えるでしょう.これに対して,宗教はいずれにせよ個々人の問題なのだから国家はどれを真の宗教とするか判断できないと信じるリベラル主義者は誰でも( “any liberal” =リベラリスト,自由主義者),国家がなすべきは国民が自分で選んだ宗教を実践するか無宗教のままでいるかの権利を擁護することだけだと答えるでしょう.この点についてのカトリック教の見地からの議論をいくつか見てみましょう.

人間は神から生まれたものです.人間の性質は神に根ざしています.人間は生まれつき社会的で,その社会的な性質(=社会性)も神から受けたものです.だが,人間は,その人格の一部だけでなく,人格の全部(訳注・=全人格)を挙(あ)げて(神の十戒の第一戒)(訳注後記),神を崇拝すべく(訳注・創造主たる神により)義務づけられています( “…owes worship to God”.) それゆえに人間の社会性は神を崇拝すべき義務を負うことになるのです.だが国家とは単に国民ひとりひとりの持つ社会性がひとつの政治的統一体に結集した一社会にすぎません.したがって国家は神を崇拝する義務を負うのです.現世には相互にどうしても矛盾する諸々の崇拝がありますが(そうでなければどれも相違なくみな同じということになります),必ず存在するただひとつの完全に真実たり得る崇拝を除いて,その他のすべての崇拝は程度の差こそあれまがい物(=偽物)ということになるでしょう.(訳注・原文= “…, maybe all are more or less false but certainly one alone can be fully true.” どれほど多くの崇拝が存在していようと,完全に真実たり得る崇拝はただひとつしか存在しないことは確かであり,そのほかはすべてほぼ偽物だということになるでしょう.)したがってもしそのような崇拝がひとつ存在し,それが完全に真実なものかつ真実だと認め得るものであれば,それがまさしくあらゆる国家が,国家として,神に対し果たすべき崇拝です.だがカトリック教義こそがその崇拝なのです.したがって,いかなる国家であれ,あらゆる国家が,国家として,神に対しカトリック教義に基づいた崇拝を捧げる義務を負うのであり,たとえそれが今日の英国であれイスラエルであれサウジアラビアですらそこに含まれるのです!

だが,崇拝の本質とは個々人が可能な奉仕 “service” を神に捧げるということです.国家ができる奉仕とはどのようなものでしょうか? それはとても大きなものです! 人間は生まれながらに社会性をそなえているため,人間が形成する社会はその構成員がなにを感じ,考え,信仰するかに大きな影響を持ちます.そして,国家の法律は,その国民の社会形成に決定的な影響を持ちます.例えば,堕胎やポルノが合法化されれば,国民の多くはそれについて,ほとんどもしくはまったく問題がないと考えるようになるでしょう.したがって,すべての国家は原則として法律によりカトリック信仰とその教え説く諸々の道徳を擁護し促進する義務があります.

この原則は明瞭なものです.だが,この原則は警察があらゆる非カトリック教徒を取り押さえ火あぶりの刑に処するべきだということまで意味するでしょうか? それはまったく違います.なぜなら神を崇拝し神に奉仕する目的は神に栄光を与え人々の霊魂を救うことだからです.国家の側による軽率な行動は逆効果を生むだけでしょう.つまり,カトリック教義の信用を落とし人々を遠ざけることになるでしょう.したがって,たとえカトリック国家であってもその国がある公共悪に対して然(しか)るべき措置を講じようと行動を起こす場合,その行動を起こすことが却(かえ)ってより大きな悪を引き起こす要因となったり,もしくはより大きな善を妨げることとなったりする恐れのある場合にはその行動をその公共悪に対して起こすことを実際的に慎(つつし)む権利を有するとカトリック教会は教えています.だが,あらゆる国家にカトリック信仰,道徳を擁護する原理的な義務があることに変わりはありません.

そのことは国民にカトリック信仰を強要することを意味するでしょうか? そのようなことはまったくありません.なぜならカトリック信仰は強要できるものではないからです - 「自らの意に反して信じる者など誰もいない」(聖アウグスティヌスの言葉).この言葉がまさに意味するのは,公共悪に対する行動が逆効果を生むとは限らない,もしくは生むべきではないようなカトリック国家においては,カトリック教以外のあらゆる宗教の公的実践を禁じてもよい,もしくは禁じるべきだということです.この理論的結論を否定したのが第二バチカン公会議です.なぜなら第二バチカン公会議はリベラルな路線を取ったからです.だが,この理論的結論は公会議以前には世界各地のカトリック国家で共通に実践され,それにより多くの人々の霊魂が救われる役に立っていたのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

* * *

第2パラグラフの訳注:
「神の十戒の第一戒」についての聖書からの引用.

新約聖書・マテオによる聖福音書:第22章34-40節
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW, 22:34-40

最大のおきて(22・34-40)
『*¹イエズスがサドカイ人の口を封じられたと聞いたファリザイ人は相集まった.そしてそのうちの一人(*²の律法学士)が,イエズスを試みようとして,「先生,律法のうちどの掟(おきて)がいちばん大切(たいせつ)ですか」と尋(たず)ねた.
イエズスは,「〈*³すべての心,すべての霊,すべての知恵をあげて,主なる神を愛せよ〉.これが第一の最大の掟である.第二のもこれと似ている,〈*⁴隣人を自分と同じように愛せよ〉.すべての律法と預言者はこの二つの掟による」と答えられた.』

(注釈)

*¹ 34-40節 ルカ聖福音書10・25-28にあるが,話の状態は異なっている.

*² このことばはルカ(10・25)による書き入れらしい.しかし大部分の写本にのっている.

*³ 〈旧約〉第二法の書6・5参照.
→
「(〈4節〉**¹イスラエルよ聞け,われらの神なる主こそ唯一の主である.)
〈5節〉**²心を尽くし,魂を尽くし,力を尽くして,神なる主を愛せよ.
(〈6節〉私が今日命じることばを心に刻(きざ)みつけよ.
〈7節〉そのことばをおまえの子らに教えよ,家にいても道を歩いていても,横になっていても起きていても,つねにそのことばを繰り返し教えよ.
〈8節〉**³それを自分の手にしるしとして結びつけ,目と目の間の下げ飾りとしておけ.
〈9節〉また,家の**⁴側柱(わきばしら)と扉とにそれを書き記せ.」

(注釈)
**¹ 4・35,〈旧約〉ザカリアの書14・9.唯神論の厳かな宣言であり,この章のはじめのことば「シェマ」(聞け)で話が始まる.バビロンに流されて後おそらくアシダイの人々が命じ,現在でもイスラエル人の信仰厚い人々が朝と夕べにとなえる有名な祈りをシェマという.この祈りは「イスラエルよ聞け」で始まり,6・4-9,11・13-21,〈旧約〉荒野の書15・38-41で成り立っている.

**² 神への愛は十戒(〈旧約〉脱出の書20・6)ですでに語られたけれども,第二法の書(10・12,11・1,13,22,13・4,19・9,30・6,16,20)は律法五書の中でも特に神への愛を人間の働きの土台として扱っている.
愛は神の恵みに対する人間の答えであり(12節,10・12以下),神への恐れと敬(うやま)いとおきての遵守(13節,10・12,11・13,11・1,22,19・3,30・16)をも含むものである.キリストは4節と5節とレビの書の19章18節を新約の律法の第一のおきてとした
(〈新約〉マルコ聖福音書12・18-31,〈新約〉ローマ人への手紙13・8以下).

**³ 8-9節 〈旧約〉脱出の書13・9,16.「しるし」と「下げ飾り」は元来比喩(ひゆ)としてとるべきだったのに後のユダイズムはそれを文字通りとって律法を手に結びつけ額に飾った(〈新約〉マテオ聖福音書23・5).

**⁴ 「側柱」はヘブライ語の「メズザ」で,入口の側にある柱.第二法の書の6・4-9,11・13-21を羊皮紙に書いて小箱に入れ,それを側柱につけていた.これをメズザという.現在でもユダヤ教の信者の中には,入口の右側柱の上にあるメズザに手を触れ,詩篇(121・8)をとなえる人がある.

*⁴ 〈旧約〉レビの書19・18参照.
→「…**¹あだの仕返しをしてはならぬ.民の子らに恨みを含まず,むしろ隣人を自分と同じように愛せよ.私は主である.」

(注釈)
**¹ 当時としては,深い配慮のあるおきてである.マテオ聖福音書(5・43以下),マルコ(12・31),ヨハネ(13・34)において,愛のおきてはまったく一新された.キリストのころ,ユダヤ人の他国人への憎悪はきわめて深かった.

* * *