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2014年3月29日土曜日

350 代替宗教 3/29

エレイソン・コメンツ 第350回 (2014年3月29日)

     2か月前,自らを無神論者と公言する人物(みずからを むしんろんじゃと こうげんする じんぶつ)がフランス(ふらんす)で85歳の誕生日(はちじゅうごさいの たんじょうび)を迎(むか)えました( "Two months ago a self-declared atheist celebrated in France his 85th birthday, …" ).真の宗教の信者(まことの しゅうきょうの しんじゃ)はすべて,この人物(じんぶつ)に深く感謝(ふかく かんしゃ)しなければなりません( "… to whom all theists of the true religion owe a serious debt of thanks, …" ).なぜなら,嘘(うそ)のあふれる今日の世界(こんにちの せかい)にあって,この人物ロベール・フォーリッソン教授(ろべーる・ふぉーりっそん きょうじゅ)( "Professor Robert Faurisson" )は真実の強力な擁護者(しんじつの きょうりょくな ようごしゃ)であり続(つづ)けているからです( "… because in today’s world of lies Professor Robert Faurisson has been a powerful defender of truth." ).私個人(わたくし こじん)としては,真の神を信じる(まことの かみを しんじる)もっと多くの人々(おおくの ひとびと)が彼(かれ)のように真実を見抜く(しんじつを みぬく)知性(ちせい),正直(しょうじき),そしてその真実を語る勇気(しんじつを かたる ゆうき)を持(も)つよう望(のぞ)みます( "I for one might wish that many more believers in the true God would have his intelligence and honesty in discerning the truth, and his courage to tell it." ).

     たとえば,第3帝国(だいさん ていこく)のガス室(がす しつ)で600万人(ろっぴゃく まんにん)が犠牲者(ぎせいしゃ)となったのが歴史的事実(れきしてき じじつ)だったかどうかについて( "For instance, whether or not it is a historical fact that there were six million victims of gassing in gas chambers of the Third Reich, …" ),フォーリッソン教授は,それは感情や立法(かんじょうや りっぽう)でなく,事実と科学的証拠(じじつと かがくてき こんきょ)によって解決すべき歴史問題(かいけつ すべき れきし もんだい)として扱(あつか)うべきだと主張(しゅちょう)しています( "… Prof. Faurisson insists on treating it as a historical question to be settled by the facts and scientific evidence, and not by emotion and legislation …" )――これ以上(いじょう)理に適った見方(りに かなった みかた)があるでしょうか?( "… – what could be more reasonable ? " ) だが,この問題(もんだい)について現代人の多く(げんだいじんの おおく)は理性に耳を貸そう(りせいに みみを かそう)としません( "And yet on this particular question a mass of our contemporaries will not listen to reason." ).彼らの心(かれらの こころ)はまだ機能(きのう)しているのでしょうか?( "Are their minds still functioning ? " ) 教授(きょうじゅ)が優れた(すぐれた)学者らしい心(がくしゃらしい こころ)をもって歴史問題(れきし もんだい)はそれ以外(いがい)でなく歴史の問題(れきしの もんだい)として扱(あつか)うべきだと方向を示して(ほうこうを しめして)いることに心から感謝(こころから かんしゃ)します( "Our warm gratitude goes to the Professor for bringing an excellent and scholarly mind to bear on a historical question as a question of history and not of something else." ).

     読者の皆さん(どくしゃの みなさん)は,ほかになにか例(れい)があるかと疑問を感じ(ぎもんを かんじ)ているでしょうか?( "Something else ? " ) 再(ふたた)び,その600万人が歴史的現実(れきしてき げんじつ)であるかどうかについて,同教授(どう きょうじゅ)は彼ら(かれ ら)はいずれにせよ世俗宗教の立場(せぞく しゅうきょうの たちば)を獲得(かくとく)したと述(の)べています( "Again, whether or not the Six Million are a historical reality, it is the Professor who states that they have in any case acquired the status of a secular religion. " ).私たちの時代(わたしたちの じだい)に何(なに)が主たる宗教(しゅたる しゅうきょう)として役立つか(やくだつか)を見極める(み きわめる)のに神を信じない(かみを しんじない)とおもえる人物(じんぶつ)を必要(ひつよう)とするのでしょうか?( "Does it take a supposedly irreligious man to discern what serves as the main religion of our times ? " ) 私は諸カトリック信徒(しょ かとりっく しんと)の中(なか)に自分たちの真の宗教(じぶんたちの まことの しゅうきょう)にとって今日(こんにち)なにが主だったライバル(おも だった らいばる)なのかを見(み)て,口(くち)にする積極性を持つもの(せっきょくせいを もつ もの)が2-3人(に さん にん)でもいたらいいのにとおもいます( "I might wish a few more Catholics would have the gumption to see and say what is today’s main rival to their true religion. " ).フォーリッソン教授(ふぉーりっそん きょうじゅ)が2008年(にせん はちねん)にこの問題(もんだい)について書(か)いた記事の要約(きじの ようやく)を以下(いか)にご紹介(しょうかい)します:-- ( "Here is a very brief overview of an article written on the subject in 2008 by Professor Faurisson:-- " )

     (以下記事の要約)
     (いか きじの ようやく)

     600万人(ろっぴゃく まんにん)は独自(どくじ)の教義(きょうぎ),諸々の戒律(もろもろの かいりつ),布告(ふこく),預言者(よげんしゃ),高僧(こうそう),また聖者(せいじゃ)たちすなわち:… ( "The Six Million constitute a lay religion with its own dogma, commandments, decrees, prophets, high priests and Saints: …" ) …聖アンネ(フランク)( "… St Anne (Frank) " ), 聖サイモン(ビィーゼンタール)( "St Simon (Wiesenthal) " ), 聖エリー(ビーゼル)( "St Elie (Wiesel) " ) を備(そな)えた俗人宗教(ぞくじんしゅうきょう)を構成(こうせい)しています ( "… St Anne (Frank), St Simon (Wiesenthal), St Elie (Wiesel)." ). それは独自(どくじ)の諸聖地(しょ せいち),独自の諸儀式(しょ ぎしき),独自の諸巡礼(しょ じゅんれい)を持(も)っています( "It has its holy places, its rituals and its pilgrimages." ).そして独自の諸神殿(しょ しんでん),独自の諸遺跡(しょ いせき)(積み重ねた石鹸,靴など)(つみかさねた せっけん,くつ など),独自の諸々の殉教者(しょ じゅんきょう しゃ),英雄(えいゆう),奇跡(きせき),および奇跡的生存者(数百万人)(きせきてき せいぞんしゃ)〈すうひゃくまんにん〉,金色の伝説(きんいろの でんせつ),道理(どうり)をわきまえた人々(ひとびと)を持(も)っています( "It has its temples and its relics (bars of soap, piles of shoes, etc.), its martyrs, heroes, miracles and miraculous survivors (millions of them), its golden legend and its righteous people." ).アウシュビッツ(あうしゅびっつ)はその宗教(しゅうきょう)にとってのゴルゴタ(ごるごた)です( "Auschwitz is its Golgotha,…" ).ヒトラー(ひとらー)はその宗教の悪魔(しゅうきょうの あくま)です( "… Hitler is its Satan." ).その宗教はその法(ほう)を諸国(しょこく)に押し付け(おしつけ)ます( "It dictates its law to the nations." ).その宗教心(しゅうきょうしん)はエルサレム(えるされむ)のヤド・ベシェム(やど・べしぇむ)記念館 (きねんかん)(訳注・ホロコーストの犠牲者達〈ぎせいしゃたち〉を追悼〈ついとう〉するためのイスラエルの国立記念館(いすらえるの こくりつ きねんかん)で脈打ち(みゃく うち)ます( "Its heart beats in Jerusalem, at the Yad Veshem monument." ).

     それは第二次世界大戦(だいにじ せかい たいせん)いらい華々(はなばな)しい成長(せいちょう)を享受(きょうじゅ)してきた新宗教(しん しゅうきょう)です( "It is a new religion that has enjoyed a meteoric growth since World War II." ).それは西側諸国(にしがわ しょこく)を征服(せいふく)し,いまや世界(せかい)を征服しようとしています( "It has conquered the West and is setting out to conquer the world." ).私たちの消費者社会(しょうひしゃ しゃかい)で科学的な考え方(かがくてきな かんがえ かた)が進(すす)んだため( "Whereas the progress of scientific thinking in our consumer society, …" )人々が宗教の物語の真実(しゅうきょうの ものがたりの しんじつ)や宗教が提供する約束(しゅうきょうが ていきょうする やくそく)をますます疑(うたが)うようになり,あらゆる古典的な宗教(こてんてきな しゅうきょう)の支配力(しはいりょく)が弱(よわ)まってきています( "… has weakened the grip of all the classic religions by making people more and more sceptical as to the truth of religion’s stories and the promises religion holds out,… " ).これと対照的(たいしょう てき)に,この新宗教(しん しゅうきょう)はますます栄(さか)え( "the new religion prospers …" )その基本教義(きほん きょうぎ)を否定する者(ひてい するもの)は「修正主義者(しゅうせい しゅぎしゃ)( "Revisionist" )」の烙印(らくいん)を押(お)され( "… to the point that anybody caught denying its basic dogma is branded as a “Revisionist”,…" ),地域(ちいき)からのけ者(のけもの)にされ( "… is cast out of the community,…" ),かつての異端者(いたんしゃ)と同(おな)じように扱(あつか)われるようになっています( "… and is treated like only heretics used to be treated." ).それは事実上の宗教(じじつじょうの しゅうきょう)であり( "It is in effect a religion,…" ),今日では主要な手段(こんにちでは しゅような しゅだん)( "a major instrument" )となっており( "… and it is today a major instrument,…" ),言(い)ってみれば( "… and, one might say,…" ),神を信(かみをしん)じない新世界秩序(しんせかい ちつじょ)( " the godless New World Order" )の人気宗教です( "… the popular religion of the godless New World Order." ).

     (要約終わり)
     (ようやく おわり)

     フォーリッソン教授は新宗教の成功(しんしゅうきょうの せいこう)は,消費者社会の持つ(しょうひしゃ しゃかいの もつ)宣伝・販売技術(せんでん・はんばい ぎじゅつ)をうまく活用(かつよう)したからだと論(ろん)じています( "The Professor argues that this success can be attributed to its resorting to the consumer society’s own techniques of advertising and selling." ).私はこの点(てん)で,教授(きょうじゅ)が宗教的大局観(しゅうきょうてき たいきょくかん)を欠(か)いているように思(おも)います( "Here I think he does lack the religious perspective." ).成功に対する主な説明(せいこうに たいする おもな せつめい)はなんといってもかつてキリスト教だった諸国(きりすときょう だった しょこく)の背教(はいきょう)でしょう( "Surely the apostasy of the once Christian nations is the main explanation." ).キリストは神(きりすとは かみ)です( "Christ is God." ).神(かみ)が排除(はいじょ)されれば( "When God is pushed out, …" ),神はその背後(はいご)になにかで満(み)たされなければならない大(おお)きな空虚感(くうきょかん)を残(のこ)します( "… he leaves behind him a huge void which must be filled by something." ).新宗教の後援者(しんしゅうきょうの こうえんしゃ)たちは歴史的(れきしてき)に代替宗教を作り出す(だいたいしゅうきょうを つくりだす)という類(たぐい)まれな本能(ほんのう)を持(も)っています( "The promoters of the new religion have by their history a matchless instinct for the fabrication of substitute religions." ).それはさておき( "But be that as it may, …" ),私は疑い深い(うたがい ぶかい)教授(きょうじゅ)が真実(しんじつ)のためにした英雄的行為(えいゆうてき こうい)に,人間的に見れば(にんげんてきに みれば),受けて当然(うけて とうぜん)の神からのご褒美(かみからの ごほうび)がいただけるよう信者(しんじゃ)たちが彼のために祈るよう(かれの ために いのるよう)勧め(すすめ)ます( "… I would invite believers to pray for the unbelieving Professor so that he may collect the divine reward which, humanly seen, he deserves for the heroic services which he has rendered to the truth." ).

     キリエ・エレイソン.

     要約:( "Summary: …" ) 第二次世界大戦(だいにじ せかい たいせん)で有名(ゆうめい)になった600万人(ろっぴゃく まんにん)は正真正銘の宗教(しょうしん しょうめい の しゅうきょう)に姿(すがた)を変え(かえ)られました( "The famous Six Million of World War II have been turned into a veritable religion …" ). 彼ら(かれら)はそのことを無神論者(むしんろん じゃ)にまで認め(みとめ)させるのでしょうか?( "… – does it take an atheist to recognize that ? " )


     リチャード・ウィリアムソン司教



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(訳注)

「代替宗教」(だいたい しゅうきょう)
=ある宗教に代わる別の宗教(ある しゅうきょうに かわる べつの しゅうきょう)のこと.

2013年3月9日土曜日

293 自由主義者に罪はないか? 2/23

エレイソン・コメンツ 第293回 (2013年2月23日)

4週間前,私はエレイソン・コメンツで自由主義(リベラリズム)( "liberalism" )は想像どおり恐ろしいものかどうかという疑問に肯定的に答えました.つまり,自由主義は暗黙のうちに神に戦いを挑(いど)む,というのが私の答えでした( "Four weeks ago “Eleison Comments” answered the question whether liberalism is as horrible as it is supposed to be in the affirmative: implicitly, liberalism is war on God." ).ただ,自由主義者の多くが自分は自由主義者でないと否定するのは果たして正しいかどうかという疑問には答えませんでした.私たちの多くはあまりにも深く自由主義に浸(ひた)っているため,自分たちがいかにリベラル(=自由主義〈者〉的)かを実感している者は少ない,というのがまさしくそれに対する答えです.( "There remained the question whether the many liberals who deny they are liberals are right to deny it. The answer is surely that all of us today are so soaked in liberalism that few of us realize how liberal we are. " )

最(もっと)も広い意味(=広義,一般的な意味)での自由主義は人間が神の法から自(みずか))らを解放する(自由にする)ことです( "Liberalism in its broadest sense is man’s liberating himself from the law of God, which a man does with every sin that he commits. " ).人間はそうするとき,あらゆる罪の意識を持ちます.したがって,広い意味で言えば,罪を犯すあらゆる者は自由主義者です.罪びとであることを自認する者は同じく広い意味で自分が自由主義者であることを認めなければなりません( "Therefore in its broadest sense every sinner is a liberal, and so whoever admits he is a sinner must admit he is a liberal in this broad sense. " ).しかし,神の法を破りながらも,神は神であり神の法は神の法である,と認めることと,神は神であり,神の法は神の法であることを否定して神の法を犯すのとでは全く話は違います.前者の罪びとは単なる実際的な( "practical" )自由主義者です.これに対し,後者の自由主義者は原理的な( "in principle" )現代の自由主義者です( "However, it is one thing to break God’s law while still admitting that God is God and his law is his law. Such a sinner is merely a practical liberal. It is quite another to break God’s law while denying that God is God or that his law is his law. Such a liberal in principle is the liberalism of modern times." ).

自由主義は1789年のフランス革命とともに突如(とつじょ)として登場しました( "It burst upon the scene with the French Revolution of 1789." ).このときの革命憲章である人権宣言( "the Declaration of Human Rights" )は事実上,神からの人間の独立を宣言したものでした( "The charter of that Revolution, the Declaration of Human Rights, was in effect a declaration of man’s independence from God." ).これ以降,神の法を守る者は誰でも純粋に自らの意思に基づきそうするのであって,いかなる神の命令や戒律(かいりつ)に従ってそうするのではない,ということになりました( "From now on, if any man obeyed God’s law, he was doing so purely by his own choice, and not as under any command or commandment of God." ).この上辺(うわべ)だけの神への従順によれば,人は実際面で自由主義者として振る舞うことはないでしょう.だが,心の底では,何をするにしても,その人は原理的な自由主義者ということになるでしょう( "In that apparent obedience he would not be behaving like a liberal in practice, but underneath, in everything he did, he would be a liberal in principle." ).これが近代自由主義であり,これに基づいて今日のカトリック教徒たちは自分たちにとっての敵対者たちを非難します( "This is the modern liberalism of which Catholics today often accuse their adversaries. " ).これら敵対者たちは往々(おうおう)にして自(みずか)らが自由主義者であることを否定しますが,これは正しいことでしょうか? 主観的には正しいが客観的には正しくない,というのが私の答えです( "Are these adversaries right, almost as often to deny it ? Subjectively, yes. Objectively, no. " ).

主観的に正しいというのは,1789年いらい人々は革命の見せかけの原則をあまりにも多く飲み込んでしまったため( "Subjectively, yes, because ever since 1789 men have drunk more and more deeply of the false principles of the Revolution, …" ),神の法から自らを解放したと非難されると,心底から( "sincerely" )「どの法のこと?」,「どの神のこと?」,「いったい何のことを言っているの?」などと言って応じるでしょう( " …so that if they are accused of liberating themselves from the law of God, they can sincerely reply, “What law ? What God ? What are you talking about ?” " ).それくらい,神と神の法は彼らの実生活から消し去られてしまっているのです( "To such an extent have God and his law been apparently wiped out." ).だが,客観的には彼らは正しくありません.なぜなら,神も神の法も存在しなくなっているわけでないことは確かですし,現代人といえども心の奥底ではそのことを知っているからです( "But objectively, no, because God and his law have most certainly not ceased to exist, and deep down inside themselves even modern men know it." ).神は存在しないなどと言うことは「許されない」( "inexcusable" )こと(Rom. I, 20)であり( "It is “inexcusable” to say that he does not exist (Rom. I, 20), …" ),口先でなんと言おうが,神の法はあらゆる人々の心に刻まれています(Rom. II, 15) ( "… and his law is written on all men’s hearts (Rom. II, 15), whatever they may say with their mouths." ).上に述べた 「心底から」( “sincerely” ) という言葉はカッコでくくる必要があります( "needs inverted commas" ) ―― それがどの程度の「心底から」のものかは神の審判が下る席に座ったときにはっきりするでしょう( "it is worth only what it is worth before God's judgment seat" )( "The “sincerely” just mentioned needs inverted commas – it is worth only what it is worth before God’s judgment seat." ).

それでは,いま聖ピオ十世会( "the Society of St. Pius X" )(以下, "SSPX" )を公会議主義派教会( "the Consiliar Church" )と一体化させようとしている同会当事者たちは自らが自由主義者であることを否定するでしょうか ( "Then may those authorities of the Society of St Pius X presently seeking to blend the Society into the Conciliar Church deny that they are liberals ? " )? 主観的に言えば,彼らは教会のために最善を尽くしていると自ら納得しているに違いありません ( "Subjectively they are no doubt persuaded that they are doing their best for the Church, …" ).だが客観的には,彼らは悔い改めることもなく,ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )の反革命運動( "anti-Revolutionary work" )を自由革命の勝利を不動のものにしようと意図する教会当事者たちの支配下に組み入れようとしているのです ( "… but objectively they are unrepentedly seeking to put Archbishop Lefebvre’s anti-Revolutionary work under the control of Church officials intent upon making the liberal Revolution triumph once and for all." ). 彼らは私たちは目に見える教会( "the visible Church" )に再合流しなければならないと言い,その理由としてそれがカトリック教会なのだからと説きます( "They say we must rejoin the visible Church because that is the Catholic Church." ).だが,英国国教会( "the Anglican “church” " )は英国全土に依然として見える状態にありますが,だからといって,それがカトリック教会ということになるのでしょうか( "But the Anglican “church” is still visible, all over England. Does that make it Catholic ? " )? 現在の SSPX 指導者たちが自分たちがどれほどルフェーブル大司教の言葉を捻(ね)じ曲げ押しつぶして,自分たちの教会のビジョンに合うようにしようとしているか気づいていないはずはありません( "And the present SSPX leaders cannot be unaware of how they distort and suppress words of the Archbishop to make him fit their vision of the Church." ).

悲しい現実ですが,こうした自由主義者たちはルフェーブル大司教のすべてを決して正しく理解していません( "The sad truth is that these liberals never really understood what the Archbishop was all about." ). 彼らは私たちの多くと同じように大司教のご存命中は彼の持つカトリック教のカリスマ性に魅せられた状態でした( "While he was alive they were spellbound, like so many of us, by his Catholic charisma, …" ). だが,彼らは決して大司教の信仰を理解していませんでした( "… but they never grasped that faith, …" ). 大司教の信仰とカリスマ性は例えれば果実(かじつ)にとっての根のようなものでした( "…which was to his charisma as root is to fruit." ).自由主義者たちは果実を愛しました ―― そのことは称賛(しょうさん)に値(あたい)します ―― だが,大司教の死後間もなく,根を失った果実はしおれ出し,死んでしまいました( "They loved the fruit – all credit to them for that – but not long after he was gone, the fruit without the root began to wilt and die." ). ルフェーブル大司教の信仰を理解しない彼らが,彼の創設した SSPX を自分たちに合うように変えようとするのは避けがたいことでした( "It was inevitable that unless they understood his faith, they would change his Society into their own. " ). これが私たちがこれまでに見てきたことですし,現在も見ていることです( "That is what we have seen and are seeing." ). 天よ,私たちをお助けください!( "Heaven help us ! " )

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教

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2010年10月12日火曜日

教理は不可欠

エレイソン・コメンツ 第169回 (2010年10月9日)

1986年イタリアのアッシジで開催された諸宗教同士のうわべだけの和合(訳注・原英文 “the all-religion love-fest at Assisi”.1986年に前教皇ヨハネ・パウロ二世が,世界の諸宗教の指導者たちを呼び集めて開催した世界平和を祈る合同祈祷集会のこと)が測り知れないほどの悪影響を及ぼしたことを認識しているカトリック伝統派の信徒たちがいかに少ないかについてルフェーブル大司教が驚いていたのを私は覚えています.だが,これが私たちの生きている現代社会の堕落の度合いを示すものです.今日,思想や真実はどうでもよいことになっています.なぜなら,「愛こそがすべて」(訳注・原英文 “All you need is love”.英ロックバンド The Beatles の歌のタイトル) だからです.だが実際には,私たちはみな教理と愛の双方を絶対的に必要としているのです.

教理とは単なる常套句(じょうとうく)の羅列ではありません.私たちのような計り知れないほど貴重な価値のあるカトリックの信仰の賜物を神から与えられたカトリック信者たちは,現世の短い人生の後に来世での想像を絶するような永遠の至福か恐怖が待ち受けていることを知っています.そして,私たちカトリック信者はカトリック信仰の有無にかかわらず,それがあらゆる人間の宿命であることを知っています.洗礼を受けていない罪のない者の霊魂が古聖所(原英語 “Limbo”.キリストの死によるあがないの前に死んだ義人の霊魂がとどまっていたところ)に入るのが唯一の例外です.だとすれば、神が無慈悲でない限り ― 多くの哀れな霊魂が神に対する自らの反抗を正当化しようとするのは理にかなっています! ― (現世での死後に)天国を勝ち取り地獄に墜ちるのを何としても避けたいと願うすべての人々に対し,神はいつでも,そのために(彼らの霊魂にとって)必要な光と力とを与えて下さるのです.だが,カトリック信仰をもたない人の場合,その光や力はどのような形を取りうるでしょうか?

その答えを二人の非カトリック教徒に求めてみましょう.18世紀の英国の良識を代表する偉人サミュエル・ジョンソン博士は「ロンドンが嫌いな者は人生が嫌いなのだ」と言いました.これは言い換えれば,日常生活の細々(こまごま)した日課に埋もれ慌ただしく過ごしながら,人は日々人生に対する一般的な態度を構築していると言うことです.またレオ・トルストイ伯爵は大作「戦争と平和」の中で,ある登場人物に「人生を愛する者は神を愛す」と言わせています.言い換えれば,人間の人生に対する一般的態度は実際にはその人の神に対する態度を示すものだということです.もちろん,現代人の多くは,自分の人生に対する姿勢が「存在もしない」神と関係があることなど強く否定するでしょう.にもかかわらず,神はそういう人を,彼個人のみならず日常的に彼を取り巻くその他の彼の周囲の人たちまでも一緒に含めて,その双方の存在をともに支えておられる方なのです.そしてなおかつ,神は常に彼個人に対して,こうした彼の全人生に内在されかつ彼の全人生において万事を背後から支えておられる神御自身を(個人的に)愛するか嫌うかを彼自ら決める自由意思( “the free-will” )を,お与えになっておられるのです.かくして,共産主義者は無神論者になる宿命にあり,しかもレーニンはかつて「神はわが敵なり」と言っています.(訳注・原英文は “God is my personal enemy”.つまり,レーニンは〈神との一対一の個人的な関係において,自らの生命の源であるはずの〉神御自身を自ら憎み拒否したということになる.) そうした共産主義者たちは人生も神も愛しません.

では,人生や神に対する正しい態度とはどういうものでしょうか?モーゼの十戒の第一戒で神は,あらゆる知性,精神(感情),魂を尽くして神を愛せよ,と命じておられます.(訳注後記・1).だが,まだあまりよく知らない人をどうして愛することができるでしょうか?人生と神に対する正しい態度は,人生と神,あるいはそのいずれかがもつ善良さに多少なりとも信仰もしくは信頼を置けなければ生まれません.そういうわけで,四つの聖福音書において,無学な人々が奇蹟を願って私たちの主イエズス・キリストの下に来ると,主は奇跡をお許しになる際にしばしば彼らの心に「信仰」があるかどうかをお試しになったり,あるいは彼らが持つ信仰をお褒(ほ)めになり,その信仰に対して報いられます.ここでいう信仰とは何に対する信仰でしょうか?それは神への信仰です.だが神とはいったい誰なのでしょうか?

それは学識ある人々が教理の中で明確に説明すべき事柄です.この神の教理は時代の流れとともに洗練されるかもしれませんが,神を変えることができないのと同様,決して変えることのできないものです.その教理は私たちが,永遠に想像を絶するほどに幸福になりたいとか不幸になりたくないと願う限り,私たちの生命・人生に対する姿勢また神への姿勢を継続的に矯正してくれるものです.カトリック教理は真理です.神は(そのカトリック教理が示す)真理です.真理は不可欠なものなのです.(訳注後記・2).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

(第4パラグラフの訳注・1)

モーゼの十戒の第一戒について
(バルバロ神父訳聖書から引用)

旧約聖書・第二法の書:第6章4-5節

「イスラエルよ聞け,われらの神なる主こそ唯一の主である.心を尽くし,魂を尽くし,力を尽くして,神なる主を愛せよ.」

(注記・キリストの御復活以降の新約の時代においては,聖書における「イスラエル」という言葉は,ユダヤ民族に限らず,「キリストによって唯一の真の神を信じる世界のすべての人に対してあてはめられる.)

(注釈)

神への愛は(モーゼの)十戒(脱出の書・第20章6節)ですでに語られたけれども,第二法の書は律法五書の中でも特に神への愛を人間の働きの土台として扱っている.愛は神の恵みに対する人間の答えであり,神への畏れ(=恐れ)と敬いとおきての遵守をも含むものである.キリストは4節と5節(上に引用した部分)とレビの書の19章18節を新約の律法の第一のおきてとした.(①新約聖書・マルコ聖福音:第12章28-34節と②聖パウロによるローマ人への手紙:第13章8-10節を以下に引用).

(マルコ聖福音12,28-34)

『…イエズスのみごとな答えを聞いた一人の律法学士はそばに来て,「すべてのおきての中でどれが第一のものですか」とイエズスに尋(たず)ねた.イエズスは答えられた,「*¹第一のおきてはこれである,〈イスラエルよ聞け.われわれの主なる神は唯一の主である.すべての心,すべての霊,すべての知恵,すべての力をあげて,主なる神を愛せよ〉.また第二は,これである,*²〈隣人を自分と同じように愛せよ〉.これより重大なおきてはない」.すると律法学士は,「先生,〈神は唯一のもので他に神はない〉とは実に仰せのとおりです.〈すべての心,すべての知恵,すべての力をあげて神を愛し,また自分と同じように隣人を愛すること〉これはどんな燔祭(はんさい)にも,いけにえにもまさるものです」と言った.その答えを聞かれたイエズスは,「あなたは神の国から遠くない人だ」と言われた.』

(脚注)

*¹ 旧約聖書・第二法の書6:4-5.
*² 旧約聖書・レビの書19:18.


(ローマ人への手紙13,8-14)

『互いに,*¹愛を負う以外にはだれにも負い目をもつな.人を愛する者は律法を果すからである.「*²姦通するな,殺すな,盗むな,偽証(ぎしょう)するな,貪(むさぼ)るな」,その他のすべてのおきては,「隣人を自分と同じように愛せよ」ということばに要約される.愛は隣人を損なわぬ.したがって,愛は律法の完成である.
時を知っているあなたたちは,ますますそうせねばならぬ.今は眠りから目覚める時である.いま私たちの救いは,私たちが信じはじめた時よりも近い.*³夜はふけて日が近づいた.だからやみに行われる業を捨てて,光のよろいをつけよう.昼のように慎んで行動しよう.酒盛り,酔い,淫乱,好色,争い,ねたみを行わず,主イエズス・キリストを着よ.よこしまな肉の欲を満たすために心を傾けることはするな.』

(注釈)

*¹ 隣人への愛の負債は,十分に支払きれない.

*² 旧約聖書・レビの書:19章18節参照.

*³ 「夜」は罪と死の支配下にある世をさす(新約聖書・コリント人への第一の手紙:7章26,29-31節).

*「日」はキリストの来臨のこと(新約聖書・聖パウロのコリント人への第一の手紙:7章29節,聖パウロのテサロニケ人への第一の手紙:4章15節).(注記:キリストはこの世の終わりの際に再びこの世(地上)に来臨される)

* * *

(第5パラグラフ最後の訳注・2)

① 詳解すると,「神とは真理」であり,その「真理」はカトリック教理〈=公教要理〉によって明確に説明される.この「真理」を抜きにして,「神への信仰」を持ち得ることはあり得ない.

② 真に神を信仰するためには,「愛こそがすべて」にいう「愛」のみでは足りない.「愛」が「真の愛(=神の愛)」たりうる所以・根拠としての「真理」を知り,かつその真理を自分の心に受け入れていることもまた前提条件として必要不可欠である.なぜなら,「神は愛」であると同時に「神は真理」だからである.

③したがって,かかる「真理」について説明する「神の(=カトリック)教理」は,人の霊魂が唯一の真の神への信仰により救われて永遠の天国に至るためには絶対になくてはならないものである.

④ 故に「教理は不可欠」であるとの結論に至ると思われる.原英文では “Catholic doctrine is truth. God is Truth. Truth is indispensable”.とある.)