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2016年7月16日土曜日

470 英国離脱 - SSPX 離脱? BREXIT - SPEXIT ? 7/16

エレイソン・コメンツ 第470回 (2016年7月16日)

(解説無し)

メンツィンゲン(SSPX本部)が
  ローマのサイレンに魅せられているあいだは,
信仰を守るため,
  用心して,備えを怠りなくしましょう.(訳注後記・1・1).
While Menzingen is by Rome's sirens charmed,
To keep the Faith, let forewarned be forearmed.

世間には "Zeitgeist" すなわち「時代の潮流」というものがあります.それを示す類似を求め得るとすれば,ひとつは6月23日の英国の国民投票が欧州連合の共産主義的抱え込みから脱することを決めたこと,もうひとつは聖ピオ十世会 SSPX が6月25-28日に幹部会を開き,翌29日にフェレー司教がコミュニケを出して同会がネオモダニストのローマ教皇庁による抱え込みを拒むと宣言したことです.ここでは,後者を St-Pius-Exit: Spexit と略称します.先週のエレイソン・コメンツで,私は Brexit は賞賛に値するが,果たして効果があるかどうか疑わしいと示唆しました.これと同じように,6月29日の Spexit が善良なカトリック教徒たちに SSPX が再び正しい軌道に戻ったと再認識させることになるかどうか疑わしいものです.現に,6月29日から数日も経たないうちに,ローマ教皇庁は( SSPX との)交渉が継続していると言っています…
There is such a thing as the “Zeitgeist”, or spirit of the age. A proof might be the parallel that can be drawn between Britain's June 23 vote to renounce the communistic embrace of the European Union, and the SSPX Superiors' meeting from June 25 to 28, with Bishop Fellay's Communiqué of June 29 declaring that the Society was now renouncing the embrace of neo-modernist Rome – “Spexit”, for short. For just as last week's “Comments” suggested that Brexit was admirable but doubtfully efficacious, so one may fear that the June 29 St-Pius-Exit may have reassured many good Catholics that the Society is back on track, whereas within days official Rome was saying that negotiations continue...

この類似点の根底にあるのは,カトリック教会の第5時代 "Fifth Age" を特徴づける背教です.この時代は1517年から2017年(もしくはその後)まで続く500年で,その間に世界中の人々はゆっくりながら着実に神に背を向け,神の代わりに人間を中心に据えようとしてきました.だが,この過程において人々の良心は安らぎを得ていません.したがって,彼らは外向きでは古き良き秩序に敬意を払いながらも,内面では神からの解放と新世界秩序の物質的な諸利益を追い求めています.かくして,英国人は古き良き時代から持ち続けてきた本能に従って共産主義からの独立を求める投票をしました.だが,彼らのほとんどすべては神を信じない物質主義者であるため,実際にそう呼ばれなくても共産主義者であり,そのため,Brexit を決めたものの,実際はどうしたらいいのかはっきり分かっていません.同じように,"Spexit" には目に映る以上の何かが含まれているのではないかと疑いたくなります.
The basis of the parallel is the apostasy characterising the Church's Fifth Age, from 1517 to 2017 (or beyond), by which the peoples of the world have slowly but steadily turned their backs on God to replace him with Man. But their conscience is not at ease in the process. Therefore outwardly they pay homage to the good old order, but inwardly they pine for the freedom from God and for the materialistic benefits of the New World Order. Thus a good old instinct drove the British to vote for independence from Communism, but being nearly all atheistic materialists they are Communists without the name, and so hardly now know what to do with their Brexit. Similarly one may fear that there is more to “Spexit” than meets the eye. 

例えば,優れたスペイン語のウェブサイトである "Non Possumus" は,6月29日のコミュニケは「神聖なカトリック教会の真の伝統への復帰に具体的に賛同する」(2+2=4もしくは5)教皇の到来を待ち望んでいるとしながらも,それが「伝統に復帰した」(2+2=4,すなわち4以外でない)教皇そのものを意味しているわけではない,と指摘しています.また,フェレー司教が7月2日に提唱した第5次ロザリオ十字軍 "a fifth Rosary Crusade" 派遣(これは西カナダのジルワール神父 "Fr Girouard" が6月24日に可能性として予測したもの)は私たちを勇気づけるものとはいえません.ジルワール神父は過去にフェレー司教が2007年の Summorum Pontificum (訳注後記・4・1 )(=「自発教令」)に基づくミサ聖祭の真の典礼の疑わしい自由化と2009年の存在もしない「破門」の「撤回」を神の御母(=聖母マリア)からの二つの贈り物だと提示したことを振り返り,同司教は同じように,(将来あり得る)ローマ教皇庁による SSPX の一方的容認を新たなロザリオ十字軍派遣に報いられる神の御母の贈り物だと言い出すのではないかといぶかっています.ジルワール神父はフェレー司教がローマ教皇庁による承認を以下のように提示するだろうと想像しています.
For instance, the excellent Hispanic website “Non Possumus” pointed out that when the Communiqué of June 29 looks forward to a Pope “who favours concretely the return to Holy Tradition” (2+2=4 or 5), that is not the same thing as a Pope “who has returned to Tradition” (2+2=4, and exclusively 4). Nor is it reassuring that on July 2 Bishop Fellay called for a fifth Rosary Crusade, foreseen on June 24 as a possibility by Fr Girouard in Western Canada. Recalling how Bishop Fellay presented as two gifts of the Mother of God both in 2007 the dubious liberation of the true rite of Mass by Summorum Pontificum and in 2009 the “lifting” of the non-existent “excommunications”, Fr Girouard fears that a unilateral recognition of the Society by official Rome could likewise be presented as a response of hers to this new Rosary Crusade. Here is how Fr Girouard imagines the recognition being presented by Bishop Fellay:–

「ロザリオ十字軍派遣にあたり,私たちは SSPX へのご加護をお願いしました.1千2百万回のロザリオ祈願のおかげで,(神より)祝福されている童貞女(おとめ)マリア(BVM=Blessed Virgin Mary〈英語〉, Bienheureuse Vierge Marie〈仏語〉)は私たちのために,この特別のご加護をマリアの御子イエズス・キリストの聖心(みこころ)から取りつけてくださいました!そうです,聖父(=ローマ教皇) "the Holy Father" はこの書面に署名され,私たちを認め,私たちに彼の個人的加護を与えると約束してくださいました.したがって,私たちは『これまで通り』のまま存続できます.神と(神に)祝福された童貞女マリアから与えられたこの新しい贈り物は,(地上〈=世界〉に存在するあらゆる)社会における神なる救世主(=キリスト)の(諸王の)王としての君臨 "the Social Kingdom of Christ" の拡大のための私たちの作業をよりよく継続できるようにするため神意 ( "Divine Providence" )により私たちに与えられた新しい手段なのです!それはまた,これまでのひどい不公平な扱いに対する償いです!これは,まさしくローマ教皇庁が良い方向へ変わったことを示すものです!私たちの尊敬すべき創設者ルフェーブル大司教はこの神意による贈り物を受け入れられたことでしょう.私たちは大司教が自らの諸々の祈願を,この贈り物を私たちの主(=救世主〈キリスト〉)から獲得するため祝福された童貞女(おとめ)マリアが私たちの主にご奉献になる諸々の祈願に結びつけて一致させることにより,その贈り物を私たちの主から獲得することがお出来になったこと,そして大司教は彼女とともに天の御国で喜んでおられることを確信できます!神意によるこの素晴らしい贈り物に感謝しつつ,私たちは SSPX の(キリスト)イエズスの聖心と(その御母)マリアの御心への奉献 "the consecration of the Society to the Hearts of Jesus and Mary" を公式に更新して,私たちのすべての聖堂でテ・デウム( "Te Deum", =神を讃美する聖歌)を歌いましょう!」 (訳注後記・5・1 )
"In the Crusade, we have asked for the protection of the Society. Thanks to the 12 million Rosaries, the BVM has obtained for us, from the Heart of Her Son, this special protection! Yes the Holy Father has signed this document where he recognizes us and promises to give us his personal protection, so that we will be able to continue "as we are". This new gift from God and the BVM is truly a new means given us by Divine Providence to better continue our work for the extension of the Social Kingdom of Christ! It is also the reparation of a grave injustice! This is truly a sign that Rome has changed for the better! Our venerable founder, Archbishop Lefebvre, would have accepted this providential gift. Indeed, we can be sure that he has united his prayers to those of the BVM to obtain it from Our Lord, and that he is now rejoicing with her in Heaven! In thanksgiving for this wonderful gift of Providence, let us renew officially the consecration of the Society to the Hearts of Jesus and Mary, and let us have a Te Deum sung in all our chapels!"

ジルワール神父は,このような状況下で SSPX とローマ教皇庁の再結合に異を唱える者は神に抗(あらが)い,神の御母聖マリアをさげすんでいると見られるようになるだろう,と付け加えています.
In such a vision, adds Fr Girouard, anyone refusing the reunion of the Society with Rome will be made to seem to be resisting God and to be scorning his Mother.

そうした恐れはいまのところ単なる想像でしかありません.ひとつ確かなことは,6月25-28日の "Spexit" 決定にもかかわらず、ルフェーブル大司教の SSPX をネオモダニストのローマ教皇庁の腕の中へ導こうとするフェレー司教の決意は少しも変わっていないということです.同司教にとっては,善良なローマ人たちを軽蔑したり,時代遅れで,現在進行中の状況とはもはや無縁の抵抗運動にとどまり続けることではなく,SSPX を教皇庁へ導くことだけが唯一の前進なのです.
Such fears are for the moment only imaginary. What is certain is that the “Spexit” of June 25 to 28 will in no way have shaken Bishop Fellay's resolve to steer the Archbishop's society into the arms of neo-modernist Rome. For him, that is the only way forward, as opposed to insulting good Romans and stagnating in a resistance that is out of date and no longer relevant to the evolving situation.
Kyrie eleison.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教





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訳注・1・1
"forewarned is forearmed" について:
=「備えあれば患いなし(そなえあれば うれいなし)」
平生(へいぜい)から準備ができていれば,万一の事が起こっても心配することはない. (「大辞林」より引用)

訳注・4・1 "Summorum Pontificum" について:
・邦訳=(ローマ教皇〈=ローマ法王〉による)「自発教令」

訳注・5・1 "Te Deum"「我神を讃め(われ かみを ほめ)」について: 
・真の神の御稜威(みいつ)(御威光〈ごいこう〉)を称える聖歌

① 歌詞 (ラテン語歌詞)
下記のリンクをクリックしてご参照下さい.
→ラテン語歌詞

② (邦語歌詞)↓
「公教聖歌集」より抜粋(下記)
一 我神を讃め 主とぞ称えます  
   (われ かみを ほめ しゅ とぞ たたえます)  
永遠の御父を 天地と共に  
(とわの みちちを あめつち とともに)  
御使い歌う(詠) ケルビムの歌(詩)  
(みつかい うとう けるびむの うた)
セラフィムの歌 間なく隙無し 
(せらふぃむのうた まなくひまなし)

二 「聖なる聖なる 聖なる御神よ  
  (「せいなる せいなる せいなる みかみよ)  
萬の軍勢 率い給う我が主
(よろずの いくさ ひきい たもう わが しゅ)  
天地に満つ 永遠の栄え」と  
(あめつちにみつ とわのさかえ」と)  
叫ぶその声 御空にと詠む(誦)  
(さけぶそのこえ みそらにとよむ)

三 尊き御弟子ら 誉れの聖者ら  
  (とうとき みでしら ほまれの ひじりら)  
命捧げし 証人挙り  
(いのち ささげし あかしびと こぞり)  
君に附く者 競い歌えば  
(きみに つくもの きそい うたえば)  
計りも有らぬ 御稜威輝く  
(はかりも あらぬ みいつ かがやく)

四 聖父 聖子 聖霊 三つに座ませど  
   (ちち こ みたま みつに ましませど)  
一人の神よ 世を救わん為  
(ひとりの かみよ よを すくわんため)  
童貞女に宿り 苦しみ忍び  
(おとめに やどり くるしみ しのび)  
死と陰府に勝ち 天に行き給う  
(しと よみに かち あめに ゆきたもう)







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本投稿記事・第470回エレイソン・コメンツ「英国離脱 - SSPX 離脱?」(2016年7月16日付)/ELEISON COMMENTS CDLXX(July. 16, 2016) : "BREXIT - SPEXIT ?" (解説無し)は2016年8月26日午後23時47分に掲載されました.
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2016年6月11日土曜日

465 大司教の真意 6/11

エレイソン・コメンツ 第465回 (2016年6月11日)

 (解説無し) 

ルフェーブル大司教の業績をローマ教皇庁の下に置く者は, 
真の信仰と大司教御自身,そして諸諸のカトリック教徒たちの家
(=ふるさと〈故郷〉)を裏切ることになります. 
Who puts the Archbishop's work under this Rome 
Betrays him and the Faith, and Catholics' home.  

2016年6月は聖ピオ十世会 "SSPX" の命運を左右する月になるでしょう.同会の40名の指導的司祭たちがローマ教皇庁による同会の公認に関する最終提案を受け入れるかどうかを決めるため会合を開く予定だからです.会の創設者ルフェーブル大司教(1905-1991年)の真意についてのさまざまな誤解を解く絶好の機会でしょう.ある人々は大司教の路線は不安定で,彼は右と左の間をジグザグに進んだと主張します.別の人々は大司教がなにより望んだことはローマによる同会の承認だったと推測します.ルフェーブル大司教は決して誤りをおかすことのない人物だったなどと主張するつもりはありませんが,忘れっぽい SSPX には大司教がどのような人物だったかを思い起こしてもらう必要があります.上に述べた二つの間違った見方は,共通する観点から正すことができます.すなわち,彼の基本的な動機は神をあがめ(賛美し),その信仰を守り,神の唯一の真の教会に仕えることで人々の霊魂を救い, SSPX を創設することで真の信仰を擁護し(守り),それによりカトリック教伝統(=聖伝〈聖なる伝承〉)の教理,諸秘跡,カトリック教聖伝の真のミサ聖祭を保持する司祭たちを育てることでした.
In this fateful month for the Society of St Pius X, June 2016, when we hear that its 40 leading priests will meet in order to decide whether to accept Rome's latest offer of official recognition, it is surely a good moment to correct misunderstandings as to the intentions of its Founder, Archbishop Lefebvre (1905-1991). Some claim that his course was unsteady, that he “zig-zagged”, veering from side to side. Others pretend that above all he sought Rome's recognition for his Society. Without having to claim that he was infallible one needs to remind the forgetful Society of what he was all about: both errors are corrected by the same observation, namely that his basic motivation was to glorify God and to save souls by serving God's one true Church by defending the Faith, and to defend the Faith by founding the Society of St Pius X to form priests who would preserve the doctrine, sacraments and Mass of Catholic Tradition.

大司教の進む道を阻んだ最大の障害物は第二バチカン公会議の聖職者たちでした.公会議の主要優先事項は神ではなく,神から遠く離れてしまった人間を喜ばせることでした(それは現在でも変わっていません).したがって,当時も今も,彼らは神から目を背け(少なくとも客観的に.主観的には神のみぞ知るです),神の(真の)教会とその(真の)信仰(信条),教理(教義),諸諸の秘跡と(真の)ミサ聖祭を人間中心主義に基づく「再生= "renewal" 」によって変えようとしました.
Now the great obstacle in the Archbishop's way was the churchmen of Vatican II whose main priority was (and remains) to please not God but modern man, who has moved far away from God. So, now as then, they turned away from God (at least objectively, subjectively God knows), and sought to change God's Church and her Faith, doctrine, sacraments and Mass by a humanistic “renewal”.

あきれ果てたか,あるいは落胆してか,大司教は身を引き,自身の SSPX 内で窮地に立たされ,そうした聖職者たちが公会議革命と共に堕落するのを放任しました.だが,初めのうち,すなわち1974年のローマ代表によるエコンヌ(訳注:Écône, SSPX本部)公式訪問からしばらくの間,聖職者たちは大司教の活動に従っていました.なぜなら,彼らは大司教の活動によって自分たちの強情さ( "perversity" )が露呈するのを恐れたからでした.彼らは大司教を自由放任にする余裕などなかったのです.そして次に,彼らは,もし大司教がローマ人たちを伝統に引き戻すべくなんらかの手を打ち,ローマ人たちが実際に伝統へ戻るなら,それは単に SSPX だけでなく,全世界の教会を利することになるだろうと考えました.聖職者たちは,たとえ見当違いをしていたとしても,依然として「モーゼの座」=( "the seat of Moses" )(聖マテオ聖福音書:第23章2節( "Mt. XXIII, 2" )を参照)を占めていたからです.そのため,大司教は1975年以降,エコンヌとローマの間を行き来しました.その往来は,ローマ人たちが SSPX に追加の司教を認めるかどうかをめぐり態度を曖昧にし続けたため,1988年になって,もはや彼らに話をしても無駄で,行動を取るしかないことが決定的になるまで続きました.
In disgust or despair the Archbishop might have taken himself off into a corner with his Society, and left these churchmen to perish with their Conciliar Revolution. But firstly, from the 1974 Roman visitation of Écône onwards, they came after him with his work because they could not let it demonstrate their perversity. They could not afford to leave him alone. And secondly, if he could do anything to bring Tradition to the Romans and the Romans back to Tradition, it would benefit through them the worldwide Church and not just his little Society. For indeed, however misguided they were, they still occupied “the seat of Moses” (cf. Mt XXIII, 2), and so from 1975 onwards the Archbishop went to and fro to Rome, until their prevarication in 1988 over granting another bishop to the Society proved once and for all that they could no longer be spoken to with words but only with actions.

だが,( "Stat Crux dum Volvitur Orbis" )という言葉があります.これは,全世界が革命の最中にあっても,真の十字架( "the Cross" )は静止したままである,という意味です.ルフェーブル大司教は真の伝統に錨を降ろし,基本的には静止したままでした.しかし,彼は揺れ動く聖職者たちと,錨から離れて漂流する真の教会の状況に対処しなければなりませんでした.そのため,彼は聖職者たちが左に漂えば右へ舵を切り,彼らが再び右へ寄りすぎるように見えれば(1987年末と1988年初めのときのように)左へ舵を切りました(例えば,1988年5月5日に出された指令書).大司教が「ジグザグ進行」を決めたとすれば,それはいつも聖職者たちが左右に揺れたからであり,その時々の状況の進展(例えば,悪化し続ける新式ミサ)に対応する必要があったからです.決して,その逆ではありませんでした.大司教の真意は確固としたもの,すなわち真の信仰の擁護でした.
But “Stat Crux dum Volvitur Orbis”, meaning that the Cross stands still while the whole world is in revolution. Anchored in Tradition, the Archbishop was basically standing still, but he was dealing with churchmen and a situation of the Church which had slipped that anchor and was henceforth adrift. So as they drifted left, so he needed to steer right, whereas if they seemed to veer right again (as in late 1987 and early 1988) so he veered left (e.g. in the Protocol of May 5, 1988), but it was always their veering or the evolving situation (e.g. the deteriorating Novus Ordo Mass) that determined his “zig-zagging”, and not the other way round. His own aim was steady – the defence of the Faith.

ローマの聖職者たちの曖昧さが1988年5月5日に疑いの余地がないほど明確になったあと,大司教が一晩熟考した末に5月6日,ローマによる SSPX 承認を得ることができたかもしれない指令書を撤回し,ローマとの外交的関係をすべて断ち切ったのも上に述べたのと同じ理由によるものでした.大司教の決断は SSPX を救うというよりは,全教会のためにカトリック教の伝統を擁護することが主目的でした.外交より教条を優先する必要があったのです.そして,その時から2年半後の死去にいたるまで,大司教は自ら「キリストの敵」と酷評した聖職者たちに対し敬意をもって接しながらも,公会議以前の歴代教皇たちが発した反リベラル,反モダニスト的信条回勅に従って信仰を最優先させなければならないと主張し続けました.彼は教会への忠誠により,当時の状況を制御していましたし,そのことローマ人たちも承知していました. SSPX 指導部に座る彼の後継者たちが,教会の信条や伝統の裏切り者にこびへつらいながらも,結局彼らから恥をかかされているのに比べれば,なんたる違いでしょうか!これら後継者たちには,ルフェーブル大司教が1990年9月6日,彼らに残した惜別の辞がどのような内容だったか,もう一度読み直してもらいたいものです.
It was for this same reason that, once the churchmen's prevarication on that same 5th of May in 1988 was clear beyond any reasonable doubt, then after a night's reflection he renounced on May 6th that Protocol which could have obtained Rome's official recognition for the Society, and he cut off all merely diplomatic relations with Rome, not primarily to save his Society but to protect Catholic Tradition for the entire Church. Doctrine had to take over from diplomacy, and from then on until his death two and a half years later, even while behaving with respect towards the Church officials whom he had castigated as “antichrists”, he declared that the Faith had to come first in the form of the pre-Conciliar Popes' anti-liberal and anti-modern doctrinal Encyclicals. By his fidelity to Church doctrine he was in the driving-seat, and the Romans knew it. What a contrast with his successors at the head of the Society, fawning on the betrayers of Church doctrine and Tradition, and humiliated by them ! Let these successors of the Archbishop just read again what was like his farewell address to them of September 6, 1990. 

キリエ・エレイソン.
Kyrie eleison.

リチャード・ウィリアムソン司教



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(解説付き)版を追補いたします。





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本投稿記事・第465回エレイソン・コメンツ「大司教の真意」(2016年6月11日付)/ELEISON COMMENTS CDLXV (June. 11, 2016) : "ARCHBISHOP'S AIM" (解説無し)は2016年6月20日午前08時54分に掲載されました.
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2015年8月29日土曜日

424 執拗なローマ人たち 8/29

解説付

エレイソン・コメンツ 第424回 (2015年8月29日) 

読者の皆さん,予告ヒントを読み取り,
其の時が来る迄お待ち下さい ―
(どくしゃの みなさん,よこく ひんと を よみ とり,
そのときが くるまで おまち ください ―)

( "Readers, wait for it, take an advance hint – " )

合意が出て来たら,其の細部をお読み下さい!
(ごういが でて きたら,その さいぶを およみ ください!)
( "When the agreement comes, read the fine print ! " )

聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" 以下,"SSPX" と記す)から出て来た噂から判断すると(せいぴお じゅっせい かい から でて きた うわさ から はんだん すると),ローマ(羅馬)教皇庁が同会と一定の合意に達するのを望んで居るのでは無いか(ろーま きょうこう ちょうが どうかいと いっていの ごういに たっする のを のぞんでいる のでは ないか)という(言う・云う・謂う)エレイソン・コメンツの憶測(8月22日付 EC 第423回参照)は如何やら当たっていた様です(と いう えれいそん・こめんつの おくそく〈はちがつ にじゅうに にち づけ えれいそん・こめんつ だい よんひゃく にじゅうさん かい さんしょう〉はどうやらあたっていたようです)( "Rumours coming from the Society of St Pius X seem to confirm the speculation of these “Comments” last week (see EC 423 of Aug. 22) that Rome wants an agreement with the SSPX." ).此の噂に依る(依拠)と,8月初めに秘密の会合が開かれ(このうわさによると,はちがつはじめにひみつのかいごうがひらかれ),其処(其所)で SSPX 指導者達が財政問題と「教理に関する前文」を話し合ったというのです(そこで せいぴお じゅっせい かい しどうしゃ たちが ざいせい もんだいと「きょうりに かんする ぜんぶん」を はなしあった という のです)( "The rumours tell of a secret meeting held at the beginning of this month where SSPX leaders discussed finances and a “doctrinal preamble”." ).其の前文はミュラー枢機卿が8月3日に述べた物と同じ内容だったのでしょうか?(その ぜんぶんは みゅらー すうき きょうが はちがつ みっかに のべた ものと おなじ ないよう だった のでしょう か?)( "Was it the same preamble mentioned by Cardinal Müller on August 3 ? " )ローマ教皇庁が SSPX 署名用に草案を書いたのでしょうか?(ろーま きょうこう ちょうが せいぴお じゅっせい かい しょめい ように そうあんを かいた ので しょうか?)( "Drawn up by Rome for the SSPX to sign ? " )ミュラー枢機卿は此の前文が両者間の如何なる合意に取って必要な物となる(成る)だろうと述べました(みゅらー すうききょうは この ぜんぶんが りょうしゃ かんの いかなる ごういに とっても ひつような ものと なる だろうと のべ ました)( "The Cardinal said that that would be necessary for any agreement, …" ).一方で,シュナイダー司教は此の点につ(就)いて,第二バチカン公会議は最早単なる「牧歌的な物( pastoral )」とな(成・為)っているので,教理上の問題は起きないとの見方でした(いっぽうで,しゅないだー しきょうは この てんに ついて,だいに ばちかん こうかいぎは もはや たんなる「ぼっかてきなもの」と なって いる ので,きょうり じょうの もんだいは おきない との みかた でした)( "while Bishop Schneider saw no doctrinal problem because Vatican II was merely “pastoral”. " ).噂の当否は別に為て,変わる事の無い基本に就いて振り返って考えて見ましょう(うわさの とうひは べつに して,かわる ことの ない きほんに ついて ふりかえって みましょう)( "But let us recall why the Cardinal was the more realistic of the two." ).

第二バチカン公会議が出した16の公式文書は神,生命及び人間に就いての新しいビジョンと人間中心の現代社会に同調する新しい宗教像を提示しています(だいに ばちかん こうかいぎが だした じゅうろくの こうしき ぶんしょは かみ,せいめい,および にんげん についての あたらしい びじょんと にんげん ちゅうしんの げんだい しゃかいに どうちょう する あたらしい しゅうきょう ぞうを ていじ して います)( "The 16 official documents of the Second Vatican Council present together a new vision of God, life and man, a new religion in tune with the man-centred modern world, …" ).此の新宗教は1900年以上もの間本質的に変わって居ない神中心の公教(=カトリック教)と真正面から対立する(為る)物です(この しん しゅうきょうは せん きゅうひゃく ねん いじょう もの あいだ ほんしつ てきに かわって いない かみ ちゅうしんの こう きょう〈=かとりっく きょう〉 とまっしょうめん から たいりつ する もの です)( "… but clashing with the God-centred Catholic religion that had not changed essentially for over 1900 years." ).二つの宗教はともに神,生命,人間に就いて其々(其其)のビジョンを説いて居ます(ふたつの しゅうきょうは ともに かみ,せいめい,にんげん について それぞれの びじょんを といて います)( "Both religions teach their vision of God, life and man, …" ).双方とも教理ですが,二つの教理は対立為る物です(そうほう とも きょうり ですが,ふたつの きょうりは たいりつ するもの です)( "… both are doctrinal, but the two doctrines clash." ).然し,巧妙な曖昧さに依(拠・因)り - 曖昧さは16文書の特徴です - 公会議派の司祭達は両者間に何等対立点は無いと説得されて来ました(しかし,こうみょうな あいまいさ により - あいまいさ は じゅうろく ぶんしょの とくちょう です - こうかいぎは の しさい たちは りょうしゃ かんに なんら たいりつ てんは ないと せっとく されて きました)( "However, by skilful ambiguities – ambiguity is the hallmark of the 16 documents – the Council Fathers were persuaded that there was no clash, …" ).従って,司祭達が16文書に賛成票を投じた時,世界中の公教徒(=カトリック教徒)は三つの理由から新宗教に従いました(したがって,しさい たちが じゅうろく ぶんしょに さんせい ひょうを とうじた とき,せかい じゅうの こうきょうと〈かとりっく きょうと〉は みっつの りゆうから しん しゅうきょうに したがい ました)( "… and so when they voted in favour of the documents, there were three reasons why Catholics worldwide went along with the new religion: …" ).一つは新宗教と真の信仰との対立が巧妙に偽装された事(ひとつは しん しゅうきょうと まことの しんこう との たいりつが こうみょうに ぎそう された こと)( "… its clash with the true Faith was skilfully disguised, …" ),二つ目は教皇以下殆んど(殆ど)あらゆる教会当局者達が新宗教を公教徒(=カトリック教徒)に押し付けた事(ふたつめは きょうこう いか ほとんど あらゆる きょうかい とうきょく たち が しん しゅうきょうを こう きょう と〈かとりっく きょうと〉に おしつけた こと)( "… it was imposed on Catholics by almost all Church authorities from the Popes downwards, …" ),三つ目は新宗教が公会議以前の宗教より実践し易かった事です(みっつめは しん しゅうきょうが こうかいぎ いぜんの しゅうきょう より じっせん しやすかった こと です)( "… and it was rather easier to practise than the pre-Conciliar religion." ).

然し,神は一人の本物の牧者,ルフェーブル大司教を遣わされました(しかし,かみは ひとりの ほんものの ぼくしゃ,るふぇーぶる だいしきょうを つかわされ ました)( "But God raised one true shepherd, Archbishop Lefebvre, …" ).彼は二つの宗教の間に教理上の対立が有ると主張し(かれは ふたつの しゅうきょうの あいだに きょうり じょうの たいりつが あると しゅちょうし)( "… to insist on the doctrinal clash, " ),不誠実な教会当局者達( "the unfaithful Church authorities" )に立ち向かい(ふせいじつな きょうかい とうきょく しゃ たち に たちむかい)( "… to stand up to the unfaithful Church authorities, …" ),敢えて(敢て)望む信徒達の為に公会議以前の宗教を実践し続けました(あえて のぞむ しんと たちの ために こうかいぎ いぜんの しゅうきょうを じっせん しつづけ ました)( "… and to continue the practice of the pre-Conciliar religion for any souls wishing to take the trouble." ).此の様な信徒の数は大司教が1991年に亡くなるまで増え続け,彼が率いた SSPX は全世界に広まりました(このような しんとの かずは だいしきょうが せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねんに なくなる まで ふえ つづけ,かれが ひきいた せいぴお じゅっせい かいは ぜんせかいに ひろまり ました)( "And these were enough in number for the Archbishop's Society to have spread all over the world by the time he died in 1991." ).だが,大司教の後継者として SSPX 指導者に為った人達は(だが,だいしきょうの こうけいしゃ として せいぴお じゅっせい かい しどうしゃと なった ひと たちは)( "But his successors at the head of his Society …" )第二次世界大戦後に生まれ,第一次世界大戦前に生まれた大司教とは全く違う世界で育ちました(だいにじ せかい たいせん ご に うまれ,だいいちじ せかい たいせん まえ に うまれた だいしきょう とは まったく ちがう せかいで そだち ました)( "… were born after World War II into a very different world from that of the Archbishop, born before World War I." ).彼等は世界や教理に就いて大司教とは異なった見方をしました(かれらは せかいや きょうりに ついて だいしきょう とは ことなった みかたを しました)( "They did not see the world or doctrine as he saw them, …" ).従って,彼等は当時未だ公会議派が教会規律を緩める事等(抔)望んで居ませんでしたが(したがって,かれらは とうじ まだ こうかいぎは が きょうかい きりつを ゆるめる こと など のぞんで いません でしたが)( "… even if they were not yet themselves wanting the Conciliar relaxation of Church discipline" )(今では,益々〈益益〉多くの伝統派の人達が其れを望む様に為って居ます)(〈いまでは,ますます おおくの でんとうは の ひと たちが それを のぞむ ように なって います〉)( "… (wanted now by more and more Traditionalists) ." ),ルフェーブル大司教が教会当局者達に立ち向わざるを得ないと感じた様な動機は持って居ませんでした(るふぇーぶるだいしきょうが きょうかい とうきょくしゃ たち に たち むかわ ざるを えないと かんじた ような どうきは もって いません でした)( "… so they had not the same motivation as he had to go on standing up to the Church authorities, …" ).ローマ教皇庁の磁石が其の吸引力を発揮し始めるのは時間の問題でした(ろーま きょうこう ちょうの じしゃくが その きゅういん りょくを はっき しはじめる のは じかんの もんだい でした)( "It was simply a matter of time before the magnetism of Rome would exert its pull." ).

ローマ教皇庁の人達は如何かと言えば(ろーま きょうこう ちょうの ひと たちは どうか と いえば),彼等は公会議後の新宗教に固執しました(かれらは こうかいぎ ご の しん しゅうきょうに こしつ しました)( "As for the Romans, they were obdurate in their new Conciliar religion, …" ).従って,彼等は2000年以降,SSPXに拠る(依る)あらゆるアプローチを公然と歓迎しました(したがって,かれらは にせんねん いこう,せいぴお じゅっせい かいに よる あらゆる あぷろーちを こうぜんと かんげい しました)( "… and so from 2000 onwards they openly welcomed all approaches being made by the SSPX, …" ) .何故なら, SSPX の教理 "doctrine" と不変の公教(=カトリック教)実践は(なぜなら,せいぴお じゅっせい かいの きょうりと ふへんの こうきょう〈=かとりっくきょう〉じっせんは)( "… because its doctrine and practice of unchanged Catholicism …" )彼等のフリーメーソン的新機軸に取って障害で有り脅威だったからです(かれらの ふりーめーそん てき しんきじくに とって しょうがい であり きょうい だった から です)( "…were a standing rebuke to their Freemasonic novelties, and a constant threat to them, …" ).其れは,上手く運んだ侵攻作戦の背後に残って戦い続ける孤立した敵兵の様な物でした(それは,うまく はこんだ しんこう さくせんの はいごに のこって たたかい つづける こりつ した てきへいの ような もの でした)( "… like an unconquered pocket of the enemy in the rear of an otherwise all-successful invasion." ).今,ローマ(羅馬)人達は SSPX を新教会に吸収したいと望んで居ますし(いま,ろーま じん たちは せいぴお じゅっせい かいを しん きょうかいに きゅうしゅう したいと のぞんで いますし)( "Therefore as the Romans want to absorb the SSPX into their Newchurch, …" ), SSPX の現指導者達はローマ正式教会の支配下に戻りたいと願って居ます(せいぴお じゅっせい かいの しどうしゃ たちは ろーま せいしき きょうかいの しはいかに もどりたいと ねがって います)( "… so the SSPX's present leaders want to put themselves back under Rome's official Church authority." ).其れは地獄での結婚の様な物です(それは じごく での けっこん の ような もの です)( "It is a marriage made in Hell, …" ).シュナイダー司教の様な心優しい新教会人達は,此れに何の問題も無いと考えて居ます(しゅないだー しきょうの ような こころ やさしい しん きょうかい じん たちは,これに なんの もんだいも ないと かんがえて います)( "… and sweet Newchurchmen like Bishop Schneider can see no problem, …" ).何故なら,彼等は両者間に根本的な教理上の対立等(抔)無い,或いは,有るとしても見たく無いと思って居るからです(なぜなら,かれらは りょうしゃ かんに こんぽん てきな きょうり じょうの たいりつ など ない,あるいは,あると しても みたくないと おもって いる から です)( "… because they have not seen, or have not wanted to see, the underlying clash of basic doctrine." ).

そう言う(謂う・云う)訳で,此の問題に就いてはミュラー枢機卿の方が正しい訳です(そういう わけで,この もんだいに ついては みゅらー すうききょうの ほうが ただしい わけ です)( "So Cardinal Müller is right in this respect. " ).若し,ミュラー枢機卿とシュナイダー司教が神,生命,人間について異なるビジョンを持って居ると為れば(もし,みゅらー すうききょうと しゅないだー しきょうが かみ,せいめい,にんげんに ついて ことなる びじょんを もっていると すれば),二人の間の意見一致は単なる見かけだけの物でしょう(ふたりの あいだの いけん いっちは たんなる みかけ だけの もの でしょう)( "If two men have different visions of God, life and man, any agreement between them can only be relatively superficial." ).従って, SSPX が教義 "dogma" を放棄するか(せいぴお じゅっせい かいが きょうぎを ほうき するか),或いは,あらゆる教義はドロドロのお粥 "mush" の様な物だと為るメーソン式超教義( "super-dogma" )を受け入れ公教(=カトリック教)の全ての教義( "all Catholic dogma" )を台無しに為る様仕向けられ無くても(あるいは,あらゆる きょうぎは どろどろの おかゆの ような ものだ とする めーそん しき ちょう きょうぎを うけいれ こうきょう〈かとりっく きょう〉の すべての きょうぎを だいなしに する よう しむけられ なくても), SSPX はローマ教皇庁の壁の中でトロイの馬の様に振る舞う事に為るでしょう(せいぴお じゅっせい かいは ろーま きょうこう ちょうの かべの なかで とろいの うまの ように ふるまう ことに なる でしょう)( "So if the SSPX cannot be brought to abandon dogma, or rather to undermine all Catholic dogma with the Masonic super-dogma that all dogma is mush, then the SSPX is bound to act within the walls of Rome like a Trojan horse." ).ミュラー枢機卿が前文が必要だと主張為るのは此の為です(みゅらー すうききょうが ぜんぶんが ひつよう だと しゅちょう する のは このため です)( "That is why the Cardinal will insist on a preamble, …" ).其の前文をローマが書いたのか SSPX が書いたのかは然して重要な事では有りません(その ぜんぶんを ろーまが かいた のか せいぴお じゅっせい かいが かいた のかは さして じゅうような こと では ありません)( "… whether written by Rome or by the SSPX is of no importance, …" ).伝統派の多くが,第二バチカン公会議後の公教徒(=カトリック教徒)の多くと同じ様に(でんとうは の おおくが,だいに ばちかん こうかいぎ ご の かとりっく きょうとの おおくと おなじ ように)( "… so long as the mass of Traditionalists, just like the mass of Catholics after Vatican II, …" ),教理の曖昧さに騙される様に為りさえ〈語源は「添え」〉為ればいい(好い・良い・善い)訳です(きょうりの あいまいさに だまされる ように なり さえ すれば いい わけです)( "… will let themselves be deceived by the doctrinal ambiguities." ).其の曖昧さは見事な物と為るでしょう(その あいまいさ は みごとな ものと なる でしょう)( "Brilliant these will be." ).

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教




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本投稿記事・第424回エレイソン・コメンツ「執拗なローマ人たち」 "RELENTLESS ROMANS"( 2015年8月29日付)の解説付邦訳文は2015年9月11日23時50分に掲載されました.
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解説無し


エレイソン・コメンツ 第424回 (2015年8月29日)

読者の皆さん,予告ヒントを読み取り,
その時が来るまでお待ちください ―
合意が出てきたら,
その細部をお読みください!
Readers, wait for it, take an advance hint –
When the agreement comes, read the fine print !

聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" 以下,"SSPX" と記す)から出てきた噂から判断すると,ローマ教皇庁が同会と一定の合意に達するのを望んでいるのではないかというエレイソン・コメンツの憶測(8月22日付 EC 第423回参照)はどうやら当たっていたようです.この噂によると,8月初めに秘密の会合が開かれ,そこで SSPX 指導者たちが財政問題と「教理に関する前文 “doctrinal preamble” 」を話し合ったというのです.その前文はミュラー枢機卿が8月3日に述べたものと同じ内容だったのでしょうか? ローマ教皇庁が SSPX 署名用に草案を書いたのでしょうか? ミュラー枢機卿はこの前文が両者間のいかなる合意にとっても必要なものとなるだろうと述べました.一方で,シュナイダー司教はこの点について,第二バチカン公会議はもはや単なる「牧歌的なもの( "pastoral" )」となっているので,教理の問題は起きないとの見方でした.噂の当否は別にして,変わることのない基本について振り返って考えてみましょう.
Rumours coming from the Society of St Pius X seem to confirm the speculation of these “Comments” last week (see EC 423 of Aug. 22) that Rome wants an agreement with the SSPX. The rumours tell of a secret meeting held at the beginning of this month where SSPX leaders discussed finances and a “doctrinal preamble”. Was it the same preamble mentioned by Cardinal Müller on August 3 ? Drawn up by Rome for the SSPX to sign ? The Cardinal said that that would be necessary for any agreement, while Bishop Schneider saw no doctrinal problem because Vatican II was merely “pastoral”. But let us recall why the Cardinal was the more realistic of the two.

第二バチカン公会議が出した16の公式文書は神,生命および人間についての新しいビジョンと人間中心の現代社会( "the man-centred modern world" )に同調する新しい宗教像を提示しています.この新宗教は1900年以上ものあいだ本質的に変わっていない神中心のカトリック教(=公教)( "the God-centred Catholic religion" )と真正面から対立するもの( "clashing" )です.二つの宗教はともに神,生命,人間についてそれぞれのビジョンを説いています.双方とも教理ですが,二つの教理は対立するものです.しかし,巧妙な曖昧さにより - 曖昧さは16文書の特徴です - 公会議派の司祭たちは両者間になんら対立点はないと説得されてきました.したがって,司祭たちが16文書に賛成票を投じたとき,世界中のカトリック教徒は三つの理由から新宗教に従いました.ひとつは新宗教と真の信仰との対立が巧妙に偽装されたこと,二つ目は教皇以下ほとんどあらゆる教会権力者たちが新宗教をカトリック教徒に押しつけたこと,三つ目は新宗教が公会議以前の宗教より実践しやすかったことです.
The 16 official documents of the Second Vatican Council present together a new vision of God, life and man, a new religion in tune with the man-centred modern world, but clashing with the God-centred Catholic religion that had not changed essentially for over 1900 years. Both religions teach their vision of God, life and man, both are doctrinal, but the two doctrines clash. However, by skilful ambiguities – ambiguity is the hallmark of the 16 documents – the Council Fathers were persuaded that there was no clash, and so when they voted in favour of the documents, there were three reasons why Catholics worldwide went along with the new religion: its clash with the true Faith was skilfully disguised, it was imposed on Catholics by almost all Church authorities from the Popes downwards, and it was rather easier to practise than the pre-Conciliar religion.

しかし,神はひとりの本物の牧者,ルフェーブル大司教を遣わされました.彼は二つの宗教の間に教理上の対立( "the doctrinal clash" )があると主張し,不誠実な教会当局者( "the unfaithful Church authorities" )たちに立ち向かい,あえて望む信徒たちのために公会議以前の宗教を実践し続けました.このような信徒の数は大司教が1991年に亡くなるまで増え続け,彼が率いた SSPX は全世界に広まりました.だが,大司教の後継者として SSPX 指導者になった人たちは第二次世界大戦後に生まれ,第一次世界大戦前に生まれた大司教とはまったく違う世界で育ちました.彼らは世界や教理について大司教とは異なった見方をしました.したがって,彼らは当時まだ公会議派が教会規律を緩めることなど望んでいませんでしたが(いまでは,ますます多くの伝統派の人たちがそれを望むようになっています),ルフェーブル大司教が教会当局者たちに立ち向わざるを得ないと感じたような動機は持っていませんでした.ローマ教皇庁の磁石がその吸引力を発揮し始めるのは時間の問題でした.
But God raised one true shepherd, Archbishop Lefebvre, to insist on the doctrinal clash, to stand up to the unfaithful Church authorities, and to continue the practice of the pre-Conciliar religion for any souls wishing to take the trouble. And these were enough in number for the Archbishop's Society to have spread all over the world by the time he died in 1991. But his successors at the head of his Society were born after World War II into a very different world from that of the Archbishop, born before World War I. They did not see the world or doctrine as he saw them, so they had not the same motivation as he had to go on standing up to the Church authorities, even if they were not yet themselves wanting the Conciliar relaxation of Church discipline (wanted now by more and more Traditionalists). It was simply a matter of time before the magnetism of Rome would exert its pull.

ローマ教皇庁の人たちはどうかと言えば,彼らは公会議後の新宗教に固執しました.したがって,彼らは2000年以降, SSPX によるあらゆるアプローチを公然と歓迎しました.なぜなら, SSPX の教理と不変のカトリック教実践は彼らのフリーメーソン的新機軸にとって障害であり脅威だったからです.それは,うまく運んだ侵攻作戦の背後に残って戦い続ける孤立した敵兵のようなものでした.いま,ローマ人たちは SSPX を新教会に吸収したいと望んでいますし, SSPX の現指導者たちはローマ正式教会の支配下に戻りたいと願っています.それは地獄での結婚のようなものです.シュナイダー司教のような心優しい新教会人たちは,これに何の問題もないと考えています.なぜなら,彼らは両者間に根本的な教理上の対立などない,あるいは,あるとしても見たくないとおもっているからです.
As for the Romans, they were obdurate in their new Conciliar religion, and so from 2000 onwards they openly welcomed all approaches being made by the SSPX, because its doctrine and practice of unchanged Catholicism were a standing rebuke to their Freemasonic novelties, and a constant threat to them, like an unconquered pocket of the enemy in the rear of an otherwise all-successful invasion. Therefore as the Romans want to absorb the SSPX into their Newchurch, so the SSPX's present leaders want to put themselves back under Rome's official Church authority. It is a marriage made in Hell, and sweet Newchurchmen like Bishop Schneider can see no problem, because they have not seen, or have not wanted to see, the underlying clash of basic doctrine.

そういうわけで,この問題についてはミュラー枢機卿の方が正しいわけです.もし,ミュラー枢機卿とシュナイダー司教が神,生命,人間について異なるビジョンを持っているとすれば,二人の間の意見一致は単なる見かけだけのものでしょう.したがって, SSPX が教義を放棄するか,あるいは,あらゆるカトリック教義( "all Catholic dogma" )はドロドロのお粥( "mush" )のようなものだとするメーソン式超教義( "the Masonic super-dogma" )を受け入れカトリック(公)教のすべての教義( "all Catholic dogma" )を台無しにするよう仕向けられなくても, SSPX はローマ教皇庁の壁の中でトロイの馬のように振る舞うことになるでしょう.ミュラー枢機卿が前文が必要だと主張するのはこのためです.その前文をローマが書いたのか SSPX が書いたのかはさして重要なことではありません.伝統派の多くが,第二バチカン公会議後のカトリック教徒の多くと同じように,教理の曖昧さに騙されるようになりさえすればいいわけです.その曖昧さは見事なものとなるでしょう.
So Cardinal Müller is right in this respect. If two men have different visions of God, life and man, any agreement between them can only be relatively superficial. So if the SSPX cannot be brought to abandon dogma, or rather to undermine all Catholic dogma with the Masonic super-dogma that all dogma is mush, then the SSPX is bound to act within the walls of Rome like a Trojan horse. That is why the Cardinal will insist on a preamble, whether written by Rome or by the SSPX is of no importance, so long as the mass of Traditionalists, just like the mass of Catholics after Vatican II, will let themselves be deceived by the doctrinal ambiguities. Brilliant these will be.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教


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本投稿記事・第424回エレイソン・コメンツ「執拗なローマ人たち」 "RELENTLESS ROMANS"( 2015年8月29日付)は2015年9月07日23時50分に掲載されました.
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2015年8月22日土曜日

423 矛盾するローマ人たち? 8/22

解説付

 エレイソン・コメンツ 第423回 (2015年8月22日) 

教理無しですか? それでは,背教が勝つでしょう.
(きょうり なし ですか?それ では,はいきょうが かつ でしょう.)
( "No doctrine ? Then apostasy will win." )

教理は,厚くても薄くても,保持されなければなりません.
(きょうりは,あつくても うすくても,ほじ されなければ なりません.)
( "Doctrine must be maintained, through thick or thin. " ) 

ローマ教皇庁の二人の聖職者が最近(ろーま きょうこう ちょうの ふたりの せいしょくしゃが さいきん),教皇庁と聖ピオ十世会( 以下,SSPX (The Society of Saint Piux X) と記す.)との関係につ(就)いて発言しましたが(きょうこう ちょうと せい ぴお じゅっせい かい〈いか,えす えす ぴー えくす と しるす.〉との かんけい について はつげん しました が),両者は互いに矛盾している様に見えます(りょうしゃは たがいに むじゅん している ように みえます)( "Two Roman churchmen have seemed to contradict one another in remarks made recently about relations between Rome and the Society of St Pius X, …" ).これについて説明するなら,教皇庁が SSPX に対し,老婆の様な古い警察のトリックを仕掛けているという事でしょう(これに ついて せつめい する なら,きょうこうちょうが えす えす ぴー えくす に たいし,ろうばの ような ふるい けいさつの とりっくを しかけて いると いうこと でしょう)( "… but one explanation of the contradiction may be that Rome is playing on the Society a police trick as old as the hills." ).「善玉警官と悪玉警官」というお定まりの手口だと(「ぜんだま けいかんと あくだま けいかん」という おさだまりの てぐち だと)( "By the “good cop, bad cop” routine, …" ),警察は犯人から自供を引き出すとき(時)(けいさつは はんにん から じきょうを ひきだす とき)( "… when the police want to get a confession out of a criminal, …" ),初めに手荒な警官を送り込み,犯人が惨めな状態になって,お情けを願い出る様になる(成る・為る)まで(迄)痛め付けます(はじめに てあらな けいかんを おくり こみ,はんにんが みじめな じょうたいに なって,おなさけを ねがいでる ように なる まで いため つけ ます)( "… firstly a brutal policeman is sent in to beat up the criminal until he is in a very sorry condition, requiring all kinds of sympathy." ).そこで,優しい警官が現れ,同情を降り注ぎ,犯人が口を割って自白する様仕向けます(そこで,やさしい けいかんが あらわれ,どうじょうを ふりそそぎ,はんにんが くちを わって じはく する よう しむけ ます)( "Then a really nice policeman is sent in, oozing with a sympathy which often makes the criminal open up and confess his crime." ).

今回の場合,「悪玉警官」は他ならぬ教皇庁教理省長官のミュラー枢機卿でしょう(こんかいの ばあい,「あくだま けいかん」は ほか ならぬ きょうこう ちょう きょうり しょう ちょうかんの みゅらー すうききょう でしょう)( "The “bad cop” in this case would be no less than the Prefect for the Congregation of the Doctrine of the Faith, Cardinal Müller, …" ).彼は8月初め,ドイツ司教会の公式ウェブサイト katholisch.de とのインタビューに応じ(かれは はちがつ はじめ,どいつ しきょう かいの こうしき うぇぶさいと katholisch.deとの いんたびゅーに おうじ)( "… who early this month in an interview with katholisch.de, official website of the German Bishops' Conference, …" ),教皇庁とSSPXとの 合意につ(就)いて(次の様に)述べています.(即ち,)「実質的な 新発展は 何も 有りません.教皇は 私達が『執拗 かつ(且つ)根気強く』話し合いを 続ける事を お望み です.全面的な 和解の 前提条件は 信仰の 本質的 問題に ついての 完全な 合意に 向けた 前文の 調印です.過去 数か月の 間,相互信頼を 強める 目的で 異なる 路線の 摺合せが 行われました」 と(きょうこう ちょうと せい ぴお じゅっせい かい との ごういに ついて〈つぎのように〉のべて います.〈すなわち,〉「じっしつ てきな しん はってんは なにも ありません.きょうこうは わたくし たちが『しつよう かつ こんき づよく』はなしあいを つづける ことを おのぞみ です.ぜんめん てきな わかいの ぜんてい じょうけんは しんこうの ほんしつ てき もんだいに ついての かんぜんな ごういに むけた ぜんぶんの ちょういん です.かこ すうかげつの あいだ,そうご しんらいを つよめる もくてきで ことなる ろせんの すりあわせが おこなわれ ました」 と)( "… said about a Rome-SSPX agreement that “There is no substantial new development. The Holy Father wishes that we keep trying: “con tenacia e pazienza” – “with tenacity and patience.” The precondition for a full reconciliation is the signing of a doctrinal preamble in order to guarantee a full agreement in the essential questions of the Faith. In the past months, there were encounters of different ways which are meant to strengthen the mutual trust.” " ).

ここでは, SSPX が教皇庁 との 合意を 望む なら,ネオ・モダニスト〈=新現代主義者〉の 教皇庁が 同意 出来る 教理的 文書に 調印 しなければ ならない だろうと 明示されて います(ここ では,せい ぴお じゅっせい かいが きょうこう ちょう との ごういを のぞむ なら,ねお・もだにすと〈=しん げんだい しゅぎ しゃ〉の きょうこう ちょうが どうい できる きょうり てき ぶんしょ に ちょういん しなければ ならない だろうと めいじ されて います)( "Here it is clearly stated that the SSPX will have to sign a doctrinal text agreeable to neo-modernist Rome if it wishes for an agreement with Rome." ).ミュラー枢機卿は「相互信頼を 強める 目的で」 ローマ教皇庁の人たちと SSPX との間で「異なる 路線の 摺合せが 行われた」 事を 明かす 事で「悪玉警官」の 役を 演じて います(みゅらー すうききょう は「そうご しんらいを つよめる もくてきで 」 ローマ教皇庁の人たちとSSPXとの間で「ことなる ろせんの すりあわせが おこなわれた」 ことを あかす ことで「あくだま けいかん」の やくを えんじて います)( "The Cardinal is also being a “bad cop” when he reveals that there were “encounters of different ways” between Romans and the SSPX “to strengthen mutual trust”." ). SSPX は 枢機卿の 発言が 無かったら 表面化 しなかったと 思われる 両者間の 接触に 教皇庁が 光を 当てた 事に 満足 している でしょうか?(せい ぴお じゅっせい かいは すうききょうの はつげんが なかったら ひょうめん か しなかったと おもわれる りょうしゃ かんの せっしょくに きょうこう ちょうが ひかりを あてた ことに まんぞく している でしょうか?)( "Or is the SSPX happy that Rome is shedding the light of day upon contacts otherwise unknown ? " ) だが,カトリック信仰を 持ち続ける 人々の 中で,一体 誰が ネオ・モダニスト(=新現代主義者)達 との 相互 信頼が 築かれる 事で 安心 する でしょうか?(だが,かとりっく しんこうを もち つづける ひとびとの なかで,いったい だれが ねお もだにすと たち との そうご しんらいが きずかれる ことで あんしん する でしょうか?)( "Yet who that has the Catholic faith is re-assured by mutual trust being established with neo-modernists ? " )それは さておき,次は「善玉警官」に つ(就)いて です(それは さておき,つぎは「ぜんだま けいかん」に ついて です)( "But now comes the “good cop”." ).

今年に なって から,アタナシウス・シュナイダー司教が「 SSPX の 神学者 グループ および フェレー司教 閣下と 特定の 神学的 議題に ついて 討議する 目的で」 SSPX 主催の 二つの 神学校を 訪れ ました(ことしに なって から,あたなしうす・しゅないだー しきょうが「せい ぴお じゅっせい かいの しんがくしゃ ぐるーぷ および ふぇれー しきょう かっかと とくていの しんがく てき ぎだいに ついて とうぎ する もくてきで」 せい ぴお じゅせい かい しゅさいの ふたつの しんがっこうを おとずれ ました)( "Earlier this year Bishop Athanasius Schneider visited two seminaries of the SSPX “in order to conduct a discussion on a specific theological topic with a group of theologians of the SSPX and with His Excellency Bishop Fellay”." ).つい 最近,彼は スペイン語の ウェブサイト "Rorate Caeli"(訳注・5・1)との インタビューに 応じて います.この中で,彼は 多くの 事を 述べて いますが,特に SSPX 訪問に つ(就)いて 前向きな コメントを して います(つい さいきん,かれは すぺいんご の うぇぶ さいと「ろらーて・かえり」〈やくちゅう・ご てん いち〉との いんたびゅーに おうじて います.この なかで,かれは おおくの ことを のべて いますが,とくに せい ぴお じゅっせい かい ほうもんに ついて まえむきな こめんとを して います)( "Just recently he conducted an interview with a Hispanic website, Rorate Caeli en español, in which among other things he commented favourably on these visits." ).彼は SSPX から 厚遇 された 事に 触れ,インタビューの いたる ところ(至る所)で 現職 教皇 フランシスコ への 敬意を 表明 して います(かれは せい ぴお じゅっせい かい から こうぐう された ことに ふれ,いんたびゅーの いたる ところで げんしょく きょうこう ふらんしすこ への けいいを ひょうめい して います)( "He himself was treated with cordial respect, and he observed a respect all around for the reigning Pontiff, Pope Francis." ).彼は 二度の 訪問を 終えた 後「 SSPX の 聖職者や 信徒達 に対し 教皇庁の 正式な 承認を 与える 事を 拒む 大きな 理由は 見当たらない.公式 承認が 出る まで(迄),彼等を 現状 通りの まま 受け入れる べきだ」 と,述べて います(かれは にどの ほうもんを おえたあと〈のち〉「せい ぴお じゅっせい かいの せいしょくしゃや しんとたちに たいし きょうこうちょうの せいしきな しょうにんを あたえる ことを こばむ おおきな りゆうは みあたらない.こうしき しょうにんが でる まで,かれらを げんじょう どおりの まま うけいれる べきだ」 と,のべて います)( "After his visits he could see “no weighty reasons to deny the clergy and faithful of the SSPX the official canonical recognition, and meanwhile they should be accepted as they are.” " ).シュナイダー司教は第二バチカン公会議の重要性を軽視し,合意を妨げる教理上の問題は見当たらない事を確認しました(しゅないだー しきょうは だいに ばちかん こうかいぎの じゅうようせいを けいし し,ごういを さまたげる きょうりじょうの もんだいは みあたらない ことを かくにん しました)( "Bishop Schneider confirmed that he saw no doctrinal problem in the way of an agreement by downplaying the importance of Vatican II: …" ).彼は公会議は主に牧歌的で,過去の出来事だと述べました(かれは こうかいぎは おもに ぼっか てき で,かこの できごと だと のべました)( "… the Council was primarily pastoral, and of its time, he said." ).

では,誰がローマの本当の代表者なのでしょうか?(では,だれが ろーまの ほんとうの だいひょうしゃ なのでしょうか?)( "So who represents the real Rome ? " )ミュラー枢機卿でしょうか,それともシュナイダー司教でしょうか?(みゅらー すうききょう でしょうか,それとも しゅないだー しきょう でしょうか?)( "Cardinal Müller or Bishop Schneider ? " ) 二人とも代表者なのは明白です(ふたり とも だいひょうしゃ なのは めいはく です)( "Certainly both." ).「善玉警官,悪玉警官」の手口が意図されたもの(物)でないなら,明らかに直感的なもの(物)でしょう(「ぜんだま けいかん,あくだま けいかん」の てぐちが いと された もの でない なら,あきらかに ちょっかん てきな もの でしょう)( "If the “good cop, bad cop” routine is not conscious, it is certainly instinctive." ).教皇庁は選択肢をオープンにして置く事で, SSPX を魚の様に扱い続ける事が出来ます(きょうこうちょうは せんたくしを おーぷんに しておく ことで,せいぴお じゅっせい かいを さかな〈うお〉の ように あつかい つづける ことが できます)( "Rome, by keeping its options open, can continue to play the SSPX like a fish, " ).リールを巻き寄せたり緩めたり,希望を持たせたり挫いたり,やがて(軈て)糸が切れるまで(迄)何度もから(絡)めたり伸ばしたり出来ます(りーるを まきよせたり ゆるめたり,きぼうを もたせたり くじいたり,やがて いとが きれる まで なんども からめたり のばしたり できます)( "… reeling it in, letting it out, raising hopes and then dashing them, bending the wire and straightening it again, and again, until finally it snaps." ).悲しいかな(哉),「摺合せ」 とい(言・謂・云)っても, SSPX 指導者達はローマ演出のゲームにおける共謀者なのです(かなしい かな,「すりあわせ」 といっても,せいぴお じゅっせい かい しどうしゃ たちは ろーま えんしゅつの げーむ における きょうぼう しゃ なのです)( "Alas, one may suspect that by “encounters” the leaders of the SSPX are complicit in this game of Rome." ).

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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教理無しですか?それでは,背教が勝つでしょう.
教理は厚くても薄くても保持されなければなりません.
No doctrine ? Then apostasy will win.
Doctrine must be maintained, through thick or thin.

ローマ教皇庁の二人の聖職者が最近,教皇庁と聖ピオ十世会("the Society of St Pius X",以下,「SSPX」と記す) との関係について発言しましたが,両者は互いに矛盾しているように見えます.これについて説明するなら,教皇庁が SSPX に対し,老婆のような古い警察のトリックを仕掛けているということでしょう.「善玉警官と悪玉警官」というお定まりの手口だと,警察は犯人から自供を引き出すとき,初めに手荒な警官を送り込み,犯人がみじめな状態になって,お情けを願いでるようになるまで痛めつけます.そこで,優しい警官が現れ,同情を降り注ぎ,犯人が口を割って自白するよう仕向けます.
Two Roman churchmen have seemed to contradict one another in remarks made recently about relations between Rome and the Society of St Pius X, but one explanation of the contradiction may be that Rome is playing on the Society a police trick as old as the hills. By the “good cop, bad cop” routine, when the police want to get a confession out of a criminal, firstly a brutal policeman is sent in to beat up the criminal until he is in a very sorry condition , requiring all kinds of sympathy. Then a really nice policeman is sent in, oozing with a sympathy which often makes the criminal open up and confess his crime.

今回の場合,「悪玉警官」はほかならぬ教皇庁教理省長官のミュラー枢機卿でしょう.彼は8月初め,ドイツ司教会の公式ウェブサイト katholisch.de とのインタビューに応じ,教皇庁と SSPX との合意について「実質的な新発展はなにもありません.教皇は私たちが『執拗かつ根気強く』話し合いを続けることをお望みです.全面的な和解の前提条件は信仰の本質的問題についての完全な合意に向けた前文の調印です.過去数か月のあいだ,相互信頼を強める目的で異なる路線の摺合せが行われました」 と述べています.
The “bad cop” in this case would be no less than the Prefect for the Congregation of the Doctrine of the Faith, Cardinal Müller, who early this month in an interview with katholisch.de, official website of the German Bishops' Conference, said about a Rome-SSPX agreement that “There is no substantial new development. The Holy Father wishes that we keep trying: “con tenacia e pazienza” – “with tenacity and patience.” The precondition for a full reconciliation is the signing of a doctrinal preamble in order to guarantee a full agreement in the essential questions of the Faith. In the past months, there were encounters of different ways which are meant to strengthen the mutual trust.”

ここでは,SSPX が教皇庁との合意を望むなら,ネオ・モダニスト(新現代主義者)の教皇庁が同意できる教理的文書に調印しなければならないだろうと明示されています.ミュラー枢機卿は「相互信頼を強める目的で」 ローマ教皇庁の人たちと SSPX との間で「異なる路線の摺合せが行われた」 ことを明かすことで「悪玉警官」の役を演じています.SSPX は枢機卿の発言がなかったら表面化しなかったとおもわれる両者間の接触に教皇庁が光を当てたことに満足しているでしょうか?だが,カトリック信仰を持ち続ける人々の中で,一体だれがネオ・モダニストたちとの相互信頼が築かれることで安心するでしょうか?それはさておき,次は「善玉警官」についてです.
Here it is clearly stated that the SSPX will have to sign a doctrinal text agreeable to neo-modernist Rome if it wishes for an agreement with Rome. The Cardinal is also being a “bad cop” when he reveals that there were “encounters of different ways” between Romans and the SSPX “to strengthen mutual trust”. Or is the SSPX happy that Rome is shedding the light of day upon contacts otherwise unknown ? Yet who that has the Catholic faith is re-assured by mutual trust being established with neo-modernists ? But now comes the “good cop”.

今年になってから,アタナシウス・シュナイダー司教が「 SSPX の神学者グループおよびフェレー司教閣下と特定の神学的議題について討議する目的で」 SSPX 主催の二つのセミナーを訪れました.つい最近,彼はスペイン語のウェブサイト Rorate Caeli とのインタビューに応じています.この中で,彼は多くの事を述べていますが,特に SSPX 訪問について前向きなコメントをしています.彼は SSPX から厚遇されたことに触れ,インタビューのいたるところで現職フランシスコ教皇への敬意を表明しています.彼は二度の訪問を終えた後「 SSPX の聖職者や信徒たちに対し教皇庁の正式な承認を与えることを拒む大きな理由は見当たらない.公式承認が出るまで,彼らを現状通りのまま受け入れるべきだ」 と,述べています.シュナイダー司教は第二バチカン公会議の重要性を軽視し,合意を妨げる教理上の問題は見当たらないことを確認しました.彼は公会議は牧歌的で,過去の出来事だと述べました.
Earlier this year Bishop Athanasius Schneider visited two seminaries of the SSPX “in order to conduct a discussion on a specific theological topic with a group of theologians of the SSPX and with His Excellency Bishop Fellay”. Just recently he conducted an interview with a Hispanic website, Rorate Caeli en español, in which among other things he commented favourably on these visits. He himself was treated with cordial respect, and he observed a respect all around for the reigning Pontiff, Pope Francis. After his visits he could see “no weighty reasons to deny the clergy and faithful of the SSPX the official canonical recognition, and meanwhile they should be accepted as they are.” Bishop Schneider confirmed that he saw no doctrinal problem in the way of an agreement by downplaying the importance of Vatican II: the Council was primarily pastoral, and of its time, he said.

では,誰がローマの本当の代表者なのでしょうか?ミュラー枢機卿でしょうか,それともシュナイダー司教でしょうか?二人とも代表者なのは明白です.「善玉警官,悪玉警官」の手口が意図されたものでないなら,明らかに直感的なものでしょう.教皇庁は選択肢をオープンにしておくことで,SSPX を魚のように扱い続けることができます.リールを巻き寄せたり緩めたり,希望を持たせたりくじいたり,やがて糸が切れるまで何度もからめたり伸ばしたりできます.悲しいかな,「摺合せ」 といっても,SSPX 指導者たちはローマ演出のゲームにおける共謀者なのです.
So who represents the real Rome ? Cardinal Müller or Bishop Schneider ? Certainly both. If the “good cop, bad cop” routine is not conscious, it is certainly instinctive. Rome, by keeping its options open, can continue to play the SSPX like a fish, reeling it in, letting it out, raising hopes and then dashing them, bending the wire and straightening it again, and again, until finally it snaps. Alas, one may suspect that by “encounters” the leaders of the SSPX are complicit in this game of Rome.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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(訳注・5・1 )"Rorate Caeli" について.

・スペイン語のウェブサイト "Rorate Caeli" =ウェブサイト "Rorate Cæli" のスペイン語版.

・"Rorate Cæli" 読み「ロラーテ・カエリ」.

・"Rorate Cæli" はラテン語〈ウルガタ訳〉の「旧約聖書・イザヤ預言書:第45章8節」からの引用で,邦訳聖書(バルバロ神父訳版)では 『天よ,高くから水をしたたらせ,… 』となっており,続いて 『… 雲は,公正を降らせよ.地が開かれて,救いが生え,正義も芽生えよ.主なる私(=神御自身)がそれをつくった.…』となっている.

・「イザヤ預言書:第45章8節」は,クリスマス時節,「降誕節」に入る直前の「待降節」第3週目の「四季の水曜日(断食の曜日)」のミサ聖祭に於ける「入祭文」で誦(よ)まれる.

・「待降節の四季の水曜日のミサ聖祭」は,待降節中でも特に特色がある.〈聖福音〉は,聖母お告げの場面であり,書簡の代わりに,イザイアの予言を語る.それで,この日は,聖母マリアの祝いともいいうるほどである.

・→「待降節第4主日」について.昔は,この日のミサ聖祭は行わなかった.なぜなら,(待降節の)四季の土曜日の典礼と叙品式(現「叙階式」)とが,土曜日の夜から日曜日にかけて行われたからである.それで,この日のミサ典礼のほとんどは,他のミサ聖祭からとったものである(1955年ローマ・ミサ典書).

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BIBLIA SACRA: PROPHETIA ISAIÆ XLV(45), 8 (latine)

LA SAINTE BIBLE SELON LA VULGATE LATINE : ISAÏE (en hébreu, Yescha ’yahu (Jéhova sauve)) XLV, 8 (français)

THE HOLY BIBLE, DOUAY-RHEIMS VERSION TRANSLATED FROM THE LATIN VULGATE : THE PROPHECY OF ISAIAS XLV, 8 (English)

聖書 旧約/新約 Auctor: Federico Barbaro, s. d. b. / NIHIL OBSTAT Dominicus Kaneko s.d.b. Censor Delegatus Die 24 decembris, 1973 / IMPRIMATUR Petrus S. Shirayanagi Archiepiscopus Tokiensis Die 29 decembris 1973(1980年 カトリックサレジオ修道会)(東京司教認可)(「講談社」発行) … 旧約聖書  第45章8節(日本語)


"Rorate cæli desuper, et nubes pluant iustum: aperiatur terra, et germinet salvatorem: et iustitia oriatur simul: ego Dominus creavi eum."

"Cieux, versez votre rosée d’en haut, et les nuées pleuvent un juste ; que la terre s’ouvre, que la justice naisse en même temps ; moi, le Seigneur, je l’ai créé."

"Drop down dew, ye heavens, from above, and let the clouds rain the just: let the earth be opened, and bud forth a saviour: and let justice spring up together: I the Lord have created him."

『天よ,高くから水をしたたらせ,雲は,*公正を降らせよ.地が開かれて,救いが生え,正義も*芽生えよ.主なる私がそれをつくった.』

(注釈)

救い(45・7-8 )
* 8-1 ヘブライ語の「セデク」は,一般に「正義」と訳されている.「勝利」よりもこのほうが近いと思われる.

* 8-2 イザヤは,メシア(=救世主)的な王をダビドから出る新しい「芽生え」にたとえた(6・13,11・1).エレミアの書(23・5,33・15)と,ザカリアの書(3・8,6・12)にもある「芽生え」はメシアを指す.

(解説:1955年ローマ・ミサ典書より抜粋)
・「四季の断食」は,ローマの教会において,使徒の頃から伝わった風習らしい.

・初代教会では元々毎週水・金・土曜に断食を行う風習があった.四世紀にこの風習がなくなり,四季だけにこの断食の風習が残った.

・現在の「四季の日」は教皇聖グレゴリオ七世(1073‐1085)により定められ(四旬節第一週,聖霊降臨の週間,九月の第三週,待降節第三週),季節を主にささげて,各季節の恵みをこい求めること以外に,神から聖なる司祭をこい求めるために断食と祈りをした.

・昔の習慣によると,十二月の四季に,司祭と助祭の叙任式を行っていたので,教皇ジェラジオ一世(492‐496)のころから,四旬節・聖霊降臨・九月の四季にも行われるようになった.

・ローマの公教会が,この日の指定巡礼聖堂を聖マリア大聖堂としたのは,司祭を神の御母の保護の下に置こうとしたからである.

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本投稿記事・第423回エレイソン・コメンツ「矛盾するローマ人たち?」 "CONTRADICTORY ROMANS ? "( 2015年8月22日付)は2015年9月03日05時35分に掲載されました.
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2014年2月25日火曜日

345 致命的な人間化 2/22

エレイソン・コメンツ 第345回 (2014年2月22日)

     使徒聖座(=教皇職)(しと せいざ〈=きょうこう しょく〉)( "the Apostolic See" )が空位だと考える(くういだと かんがえる)一部のカトリック教徒(いちぶの かとりっく きょうと)たちは( "Some Catholics who hold that the Apostolic See is vacant …" ),リベラリズム(=自由主義)(りべらりずむ=じゆう しゅぎ)という遍在的(へんざい てき)な異端(いたん)と教皇空位論(きょうこう くうい ろん)の特定の見解(とくていの けんかい)を同列に置く(どうれつに おく)ように見(み)える最近(さいきん)のエレイソン・コメンツの内容(ないよう)に強く抗議(つよくこうぎ)しています( "… protest strongly against recent issues of these “Comments” which seem to put the universal heresy of liberalism on an equal footing with the particular opinion of sedevacantism." ).これまでの一連(いちれん)のコメンツで私(わたし)はリベラリズムの災い(わざわい)を一貫して非難(いっかん して ひなん)してきましたが( "But whereas these “Comments” constantly excoriate the plague of liberalism, …" ),最近の数回(さいきんのすうかい)では確(たし)かに誰(だれ)しもが教皇空位論者(きょうこう くうい ろんじゃ)になる義務(ぎむ)はないとだけ論(ろん)じました( "… surely they have recently done no more than argue that nobody is obliged to be a sedevacantist, …" ).教皇空位論が時(とき)にはリベラリズムを抑(おさ)える除菌剤の役割(じょきんざいの やくわり)を果(は)たしていることを考(かんが)えると( "…which, considering what a sterilising trap sedevacantism proves in some cases to be, …" ),そうしたエレイソン・コメンツの立場(たちば)は確(たし)かに穏健(おんけん)すぎるように思(おも)えるでしょう( "… is surely a very moderate position to take." ).

     だが,「コメンツ」は教皇空位論(きょうこう くういろん)について,リベラリズムと戦う(たたかう)その努力(どりょく)は称賛に値する(しょうさんに あたい する)が,そのための手段(しゅだん)としては,贔屓目に見ても(ひいきめ に みても)物足りない(ものたりない)と見(み)ています( "However, the “Comments” do hold that sedevacantism, while admirable as an effort to combat liberalism, is at best an inadequate means of doing so, …" ).その理由(りゆう)は,教皇空位論が教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)を誇張(こちょう)するという根本的な間違い(こんぽん てきな まちがい)のひとつをリベラル派(りべらる は)と共有(きょうゆう)しているからです( "… because it shares with liberals one of their basic errors, namely the exaggeration of papal infallibility." ).この間違いを深く探る(ふかく さぐる)と,私たちは今日(こんにち)教会が直面する未曾有の危機(きょうかいが ちょくめんする みぞう の きき)の核心(かくしん)にたどり着きます.ひどく退屈(たいくつ)し気分を悪く(きぶんをわるく)された読者の皆さん(どくしゃの みなさん)にはお詫び(おわび)するしかありませんが,コメンツがこの問題(もんだい)に拘る(こだわ る)のはそのためです( "In its full depth this error takes us to the heart of today’s unprecedented crisis of the Church, which is why the “Comments” will insist on the question, while begging pardon of any readers unduly bored or offended." ).危機(きき)に瀕(ひん)しているのは教会全体(きょうかいぜんたい)であり,教会メンバー個々人(きょうかいめんばーここじん)の感情(かんじょう)ではないのです( "The whole Church is at stake, and not just the sensibilities of these or those of its members." ).

     間違いの核心(まちがいの かくしん)は,人類(じんるい)が過去700年間(かこ ななひゃく ねんかん)にわたり神,神の御独り子(かみの おんひとりご),そしてその教会に対し(きょうかいに たいし)ゆっくりながら着実(ちゃくじつ)に背(そむ)いてきたことです( "That full depth is mankind’s slow but steady turning away over the last 700 years from God, from his Son and from his Church." ).中世の絶頂期(ちゅうせいの ぜっちょうき)には,カトリック教徒(きょうと)たちは汚れのない(けがれの ない)強い信仰を持ち(つよい しんこうを もち),客観的な神(きゃっかんてきな かみ)とその矛盾のない真実(むじゅんのない しんじつ)(=真理〈しんり〉)が唯一無二(ゆいいつむに)であることを理解(りかい)していました( "At the height of the Middle Ages Catholics had a clear and strong faith, grasping the oneness and exclusivity of the objective God and his non-contradictory Truth." ).ダンテはその著書(ちょしょ) 「神曲(しんきょく)」の地獄編(じごくへん)  で教皇(きょうこう)たちに触(ふ)れることになんら問題(もんだい)を感(かん)じませんでした( "Dante had no problem putting Popes in his Inferno." ).たが.数世紀の時(すうせいきの とき)が経つ(たつ)につれ,人間(にんげん)は次第(しだい)に物事の中心(ものごとの ちゅうしん)に自(みずか)らを置(お)くようになり( "But as down the centuries man put himself more and more at the centre of things, …" ),神(かみ)はあらゆる生き物(いきもの)に対(たい)する絶対的な超越(ぜったいてきな ちょうえつ)を失(うしな)い( "… so God lost his absolute transcendence above all creatures, …" ),真実はますます神の権威(かみの けんい)でなく人間の権威(にんげんの けんい)との対比(たいひ)で理解(りかい)されるようになりました( "… and truth became more and more relative, no longer to God’s authority but instead to man’s. " ).

     教会内部(きょうかい ないぶ)について見(み)るなら,たとえばロヨラの聖イグナチオ(ろよらの せい いぐなちお)( "St Ignatius of Loyola" )の有名な著書(ゆうめいな ちょしょ) 「精神修養(せいしん しゅうよう)」  ( "the Spiritual Exercises " )(訳注・= 「霊操(れいそう)」 )の中(なか)にある17(じゅうなな,じゅうしち)の「教会と共に考えるための法則」(きょうかいと ともに かんがえる ための ほうそく)( "Rules for thinking with the Church" )の3番目の法則(さんばんめの ほうそく)をご覧ください( "Within the Church, take for example the 13th of the 17 “Rules for thinking with the Church” from St Ignatius of Loyola’s famous book of the Spiritual Exercises, …" ).これは著されて以来(あらわされて いらい)ずっと,数(かぞ)えきれないほどの歴代教皇(れきだい きょうこう)が称賛(しょうさん)し( "… praised by countless Popes ever since, …" ),しかも間違(まちが)いなく数百万人の霊魂(すうひゃくまんにん の れいこん)を救済(きゅうさい)するのに役立(やくだ)った法則(ほうそく)です( "… and no doubt responsible for helping to save millions of souls." ).イグナチオは 「すべてのことについて正(ただ)しくあるためには,私たちは 聖職階級制教会(せいしょく かいきゅうせい きょうかい)( "the Hierarchical Church" )がそう決(き)めたなら,自分(じぶん)に白(しろ)と見(み)えるものでも黒(くろ)であると常(つね)に考(かんが)えるべきです」 と書(か)いています( "Ignatius writes: “To be right in everything, we ought always to hold that the white which I see, is black, if the Hierarchical Church so decides it.” " ).このような立場(たちば)は短期的(たんき てき)には聖職者(せいしょくしゃ)たちの権威(けんい)を支(ささ)えたかもしれませんが( "Such a position might support the churchmen’s authority in the short run, …" ),長期的(ちょうき てき)にはその権威(けんい)を真実(しんじつ)から引き離す(ひきはなす)ひどいリスク(りすく)を犯(おか)すことにならなかったでしょうか?( "… but did it not run a serious risk of detaching it from truth in the long run ? " )

     事実(じじつ),19世紀末(じゅうきゅうせいき まつ)までにリベラリズムがあまりにも強(つよ)くなってしまったため,教会(きょうかい)は全力(ぜんりょく)で活動(かつどう)するためには1870年(せん はっぴゃく はちじゅう ねん)に教導権の定義(きょうどうけんの ていぎ)を出(だ)し,自らの権威(みずからの けんい)を支(ささ)えざるを得(え)なくなりました( "Indeed by the late 19th century liberalism had become so strong that the Church had to support its own authority by the Definition in 1870 of its Magisterium when operating at full power, …" ).これは,つまり,教会全体を結束させるため(きょうかい ぜんたいを けっそく させるため)教皇(きょうこう)が信仰もしくは倫理の要点(しんこう もしくは りんりの ようてん)を定める(さだめる)ということです( "… namely whenever 1) a Pope 2) defines 3) a point of Faith or morals 4) so as to bind the whole Church." ).(訳注後記) だが,それ以来(いらい)あまりにも人間中心(にんげん ちゅうしん)に考(かんが)えるようになってきたため,多く(おおく)のカトリック信徒(しんと)たちが( "But thinking too humanly since then, too many Catholics, …" )教皇の特別教導権(きょうこうの とくべつ きょうどうけん)を神にまた教会の通常教導権の変遷することのない真実(=真理)(かみ および きょうかいの つうじょう きょうどうけんのへんせんすることのないしんり〈=しんじつ〉)に関連付ける(かんれん づける)代(か)わりに( "… instead of relating this Extraordinary Magisterium to God and to the unchanging truth of the Church’s Ordinary Magisterium, …" ),神御一人から由来(かみ おひとり から ゆらい)し,神のみに属する(ぞくする)無謬性(むびゅうせい)を教皇の人間性(きょうこうの にんげんせい)に与(あた)えるようになりました( "… have tended to lend to the human person of the Pope an infallibility coming from, and belonging to, God alone." ).この人間化プロセス(にんげんか ぷろせす)( “humanising process” )が徐々(じょじょ)に(教皇の)無謬性(むびゅうせい)を生み出し(うみだし),それが「尊厳(そんげん)なる通常教導権(つうじょう きょうどうけん)」の名(な)のもとに教会の伝統(きょうかいの でんとう)を再生(さいせい)できるとする教皇パウロ6世(きょうこう ぱうろ ろくせい)の非常識な主張(ひじょうしきな しゅちょう)へと半ば必然的(なかば ひつぜんてき)につながりました( "This humanising process generated a creeping infallibility which almost inevitably resulted in the preposterous claim of Paul VI to be able to remould the Church’s Tradition in the name of a “Solemn Ordinary Magisterium”." ).カトリック信徒(しんと)たちの過半数(かはんすう)は教皇(きょうこう)がその報いを受ける(むくいを うける)ことなしに済ます(すます)のを認め(みとめ),今日に至る(こんにちに いたる)まで多くの信徒たち(おおくの しんと たち)は歴代公会議派教皇(れきだい こうかいぎは きょうこう)に従(したが)い日々(ひび)リベラル派(りべらる は)になってきています( "The great majority of Catholics allowed him to get away with it, and to this day a mass of them are becoming day by day liberals as they follow the Conciliar Popes, …" ).一方(いっぽう)で,少数派(しょうすう は)のカトリック信徒(しんと)たちは公会議(こうかいぎ)のばかげた言動(げんどう)( “the Conciliar nonsense” )に責任のある者(せきにんの あるもの)が教皇になるなどあり得ない(ありえない)と反発(はんぱつ)せざるをえない状況(じょうきょう)に置(お)かれています( "… while a small minority of Catholics are driven to denying that those responsible for the Conciliar nonsense can be Popes at all." ). (訳注・直訳〈意訳〉は →「(1)ローマ教皇が( "1) a Pope" )(2)定義〈ていぎ〉するところによる( "2) defines" )(3)信仰〈しんこう〉あるいは諸倫理〈しょ りんり〉の要点〈ようてん〉( "3) a point of Faith or morals" )(4)に従う〈したがう〉ことで教会全体が結束〈きょうかい ぜんたいが けっそく〉するようにする( " 4) so as to bind the whole Church.」 〈 "… namely whenever 1) a Pope 2) defines 3) a point of Faith or morals 4) so as to bind the whole Church." 〉)

     簡潔に言えば(かんけつに いえば)( "In brief, …" ),私(わたし)は個人的(こじんてき)に多くの教皇空位論者(おおくの きょうこう くうい ろんじゃ)に尊敬の念(そんけいの ねん)を抱いて(いだいて)います( "…I personally have respect for many sedevacantists, …" ).ただし,それは彼(かれ)らが教会を信じ(きょうかいを しんじ),教会が直面(ちょくめん)する非常に深刻な問題の解決(ひじょうに しんこくな もんだいの かいけつ)に懸命に取り組む(けんめいに とりくむ)という限(かぎ)りにおいてです( "… insofar as they believe in the Church and are desperate for a solution to an infinitely serious problem of the Church.," ).だが,私の考え(わたしの かんがえ)では,彼らはもっと高く深い(たかく ふかい)ところ ― すなわち神御自身(かみ ごじしん)の無限の高さ,深さ(むげんの たかさ,ふかさ)を見る必要(みる ひつよう)があります( "… but in my opinion they need to look higher and deeper – the infinite height and depth of God himself." ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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2014年2月16日日曜日

344 教会の無謬性 II 2/15

エレイソン・コメンツ 第344回 (2014年2月15日)

     教会の無謬性(きょうかいの むびゅうせい)については,とくに1870年に出された教皇無謬性(きょうこう むびゅうせい)の定義(ていぎ)から(誤って)生じる錯覚を正す(〈あやまって〉しょうじる さっかくを ただす)ため,もっと多くのことを語る必要(おおおくのことを かたる ひつよう)があります( "Much needs to be said about the Church’s infallibility, especially to correct illusions arising (by mistake) from the Definition of Papal infallibility in 1870." ).たとえば,今日,教皇不在論者(きょうこう ふざい ろんじゃ)たち(=教皇空位論者たち)とリベラル派(=自由主義派)の人たち( "sedevacantists and liberals" )はそれぞれの立場が正反対(たちばが せいはんたい)だと考えて(かんがえて)いますが( "Today for instance sedevacantists and liberals think that their positions are wholly opposed, …" ),しばし立ち止(たちど)まって,実は両者が同じ(じつは りょうしゃが おなじ)ように考えていることに気(き)づくことはないでのしょうか?( "… but do they stop for a moment to see how similarly they think ? " )――多数派の立場(たすうはの たちば):教皇は無謬である( "…Major: Popes are infallible. …" ).少数派の立場(しょうすうはの たちば):公会議派の歴代教皇(こうかいぎはの れきだい きょうこう)はリベラルである( "…Minor: Conciliar Popes are liberal. …" ).リベラル派の結論(けつろん):私たちはリベラルにならなければならない( "…Liberal Conclusion: we must become liberal. …" ).教皇不在論者の結論:歴代公会議派教皇たちは教皇たりえない( "…Sedevacantist Conclusion: they cannot be Popes." ).ここでの誤(あやま)りは論法(ろんぽう)にあるのでもなければ,少数派意見(しょうすう いけん)にあるのでもありません( "The error is neither in the logic, nor in the Minor." ).誤りは多数意見(たすう いけん)の無謬性(むびゅう せい)に関(かん)する両者の誤解(りょうしゃの ごかい)にあるのです( "It can only be in a misunderstanding on both their parts of infallibility in the Major." ).繰り返(くりかえ)して言いますが,現代人(げんだいじん)は真実より権威を優先(しんじつより けんいを ゆうせん)しています( "Once again, modern men put authority above truth." ).(訳注後記1)

     永遠の神(えいえんの かみ)は真理(しんり)(=真実〈しんじつ〉)そのものであり絶対的に無謬(ぜったいてきに むびゅう)です( "Eternal God is Truth itself, absolutely infallible." ).神は創造期(そうぞう き)に,人の姿(=肉体)をとられた自(みずか)らの御独子(おん ひとりご)( "his Incarnate Son" )(=神の御子イエズス・キリスト)を通(とお)して( "In created time, through his Incarnate Son, …" ),人々の霊魂を救う(ひとびとの れいこんを すくう)ための一つの教理(きょうり)とともに御自身の教会(ごじしんの きょうかい)を創設(そうせつ)されました( "… he instituted his Church with a doctrine for the salvation of human souls." )(訳注後記2).この教理(きょうり)は神が与えた(かみが あたえた)ものですから誤(あやま)りなどあり得(え)ないものです( "Coming from him that doctrine could only be inerrant, …" ).だが,神が教理を託(たく)した聖職者(せいしょく しゃ)たちがそれについて誤りを犯さない(あやまりを おかさない)ようにするため( "… but to keep it free from the errors of the human churchmen to whom he would entrust it, …" ),神の御子は聖職者たちに「真理の霊」(しんりの れい)(=真実の霊〈しんじつ〉のれい)( "spirit of truth" )が彼らを「とこしえに」( "for ever" )導(みちび)くと約束(やくそく)しました(新約聖書・聖ヨハネによる聖福音書:第14章16節)( "… his Son promised them the “spirit of truth” to guide them “for ever” (Jn. XIV, 16)." )(訳注・とこしえ=永遠〈えいえん〉).そのような保証(ほしょう)がなかったとすれば( "For indeed without some such guarantee, …" ),神はどうして人間に対し,地獄に陥れる条件(じごくに おとしいれる じょうけん)を示(しめ)して( "… how could God require of men, on pain of eternal damnation, …" ),(それを避〈さ〉けるためには)神の御子,神の教理また神の教会(かみの おんこ,かみの きょうり また かみの きょうかい)を信じるよう求める(しんじるよう もとめる)ことができたでしょうか(新約聖書・聖マルコによる聖福音書:第16章6節)?( "… to believe in his Son, in his doctrine and in his Church (Mk.XVI, 16) ? " )

     しかも,神は聖職者たちに与えた過ちを犯す自由意思(あやまちを おかす じゆういし)を彼らから取り上(とりあ)げていません( "Yet even from churchmen God will not take away that free-will to err which he gave them." ).そして,神は聖職者たちに対して自ら説く(みずから とく)真理(しんり)が人々(ひとびと)に届(とど)かないようにしない限(かぎ)り,その自由を好きなだけ広げる(じゆうを すきなだけ ひろげる)ことを許(ゆる)しています( "And he will allow that freedom to go as far as they wish, short of their making his Truth inaccessible to men." ).その許容範囲(きょよう はんい)はかなり広(ひろ)く( "That reaches far, …" ),そこには大いに欠陥のある(おおいに けっかんの ある)多数の教皇(たすうの きょうこう)たちも入(はい)ります( "… and it includes a number of highly defective Popes, …" ).だが,人間の邪悪さ(にんげんの じゃあくさ)にもかかわらず,神がお許しになる範囲はさらに広いものです(旧約聖書・預言者イザヤの預言書:第59章1,2節)( "… but God’s reach is still farther, despite the wickedness of men (Isaiah LIX, 1,2)." ).第二バチカン公会議を例(れい)にとるなら( "At Vatican II for instance, …" ),教会が犯した誤り(きょうかいが おかした あやまり)はひどいものでしたが( "… Church error went a long way, …" ),それでも神は自らの無謬(みずからの むびゅう)に基(もと)づく誤りなき真理(あやまりなき しんり)を人々に示す教会の機能(きょうかいの きのう)を完全に(かんぜんに)だめなものにはしませんでした( "… without however God’s allowing his Church to be wholly defectible in its presentation to men of the inerrant Truth coming from his own infallibility." ).公会議派教皇たちでさえ公会議の諸々の誤りとともに多くのカトリック教の真実を説いてきています( "Even the Conciliar Popes have told many Catholic truths alongside their Conciliar errors." ).

     だが,ありふれた人間である私がどうすれば公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちの説く真理(しんり)と誤り(あやまり)を見分(みわ)けられるでしょうか?( "But how then can I, a simple soul, tell the difference between their truths and their errors ? " )まず第一(だいいち)に,私(わたくし)が正しい心(ただしい こころ)をもって本当(ほんとう)に神を求めれば(かみを もとめれば)( "Firstly, if I am truly looking for God with an upright heart, …" ),聖書(せいしょ)が多くの箇所(おおくの かしょ)で述(の)べているように,神は私を神の御元に導いてくださる(かみは わたくしを かみの みもとに みちびいてくださる)でしょう( "… he will guide me to him, as the Bible says in many places." ).次(つぎ)に,神の教理(かみの きょうり)は神と同じように不変(かみと おなじように ふへん)ですから( "unchangeable as God" ) ( "And secondly, God’s doctrine being as unchangeable as God, …" ),それは(ほぼ)すべての聖職者(せいしょくしゃ)たちが,(ほぼ)すべての場所(ばしょ)で,(ほぼ)すべての時代(じだい)に説(と)き,伝(つた)えてきた教理(きょうり)であるに違(ちが)いありません( "it must be the doctrine that I find (nearly) all his churchmen to have taught and handed down in (nearly) all places and at (nearly) all times, …" ).それは(真の神から授かった)カトリックの(訳注・=宇宙〈うちゅう〉・地上〈ちじょう〉の万物の存在〈ばんぶつの そんざい〉に普遍〈ふへん〉の)教え(おしえ)の伝統(でんとう)( "Tradition" )として最も広く知られている(もっとも ひろく しられている)ものです( "… best known as Tradition." ).教会の開設(きょうかいの かいせつ)以来(いらい),その教理(きょうり)の宣教の継承(せんきょうの けいしょう)( "… that handing down" )は私たちの主(イエズス・キリスト)自らの教え(みずからの おしえ)の最も確かな試金石(もっとも たしかな しきんせき)でした( "… that handing down has been the surest test of what Our Lord himself taught." ).古来(こらい),誤りのない伝統(あやまりの ない でんとう)は数百万人(すうひゃくまん にん)の聖職者たちが築(きず)いてきたものです( "Down the ages inerrant Tradition has been the work of millions of churchmen." ).それは,無謬の聖霊( "the infallible Holy Ghost" )の導き(むびゅうの せいれいの みちびき)とともに神が,教皇たちだけでなく,教会全体(きょうかい ぜんたい)( "his Church as a whole" )に授(さず)けられたものです( "It has been that for which God endowed his Church as a whole, and not just the Popes, with the guidance of the infallible Holy Ghost." ).

     教会の無謬(きょうかいの むびゅう)をいわばケーキにたとえるなら,諸教皇の無謬性の厳かな諸定義(しょきょうこうの むびゅうせいの おごそかな しょていぎ)は,教会の無謬性の頂(きょうかいの むびゅうせいの いただき)に載(の)っている単なる砂糖衣(たんなる さとうい)( "the icing" )にすぎません( "Here is, so to speak, the cake of Church infallibility upon which the Popes’ solemn Definitions are merely the icing, …" ).それは貴重(きちょう)で必要(ひつよう)なものですが( "… precious and necessary, the peak of the Church’s infallibility, …" ),決してケーキの山の本体(けーきの やまの ほんたい)ではありません( "… but not its mountain bulk." ).まずはじめに,教皇の特別教導権による諸定義(きょうこうの とくべつきょうどうけん による しょていぎ)( "definitions by the Popes' Extraordinary Magisterium" )は1870年からだけでなく教会開設(きょうかい かいせつ)いらい存在(そんざい)してきたこと,それはカトリック教の伝統(でんとう)(以下,「伝統」と記す〈しるす〉)を真実なもの( "true" )にするためでなく,単(たん)に伝統に属することと属しないこと(でんとうに ぞくすること と ぞくしないこと)を間違いをする人々(まちがいをする ひとびと)があやふやにするたびに確かなもの( "certain" )にするために存在してきた(たしかなもの にするために そんざいしてきた)ことに注目(ちゅうもく)してください( "Notice firstly that Definitions by the Popes’ Extraordinary Magisterium existed not only from 1870 but from the beginning of the Church, and they existed not to make Tradition true but merely to make certain what belonged to Tradition and what did not, whenever the erring of men had made that uncertain." ).ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )は真実を感じ取り(しんじつを かんじとり),ひどい誤りを犯す教皇(あやまりを おかす きょうこう)たちでなく誤りのない伝統に従う(あやまりの ない でんとうに したがう)という正しい選択(ただしい せんたく)をしました( "Sensing truth, Archbishop Lefebvre rightly preferred inerrant Tradition to gravely erring Popes." ).彼の後継者(こうけいしゃ)たちは,真実に気づかない(しんじつに きづかない)すべての現代(げんだい)リベラル派(りべらるは)の人々と同じようにルフェーブル大司教を決(けっ)して理解(りかい)しようとせず,誤りのない伝統(あやまりのない でんとう)でなく誤りを犯す教皇(あやまりを おかす きょうこう)たちを選ぶ道(えらぶ みち)をたどろうとしています( "Never having understood him, like all modern liberals not sensing truth, his successors are in the process of preferring erring Popes to inerrant Tradition." ).教皇不在論者たちは真実を過少評価し(しんじつを かしょう ひょうか し)教皇たちを過大評価(きょうこうたちを かだい ひょうか)して,誤りを犯す教皇(あやまりを おかす きょうこう)たちを全面的に否定(ぜんめんてきに ひてい)しています.彼らは教会から完全に離れる(きょうかいから かんぜんに はなれる)気持ち(きもち)になるかもしれません( "Underestimating truth and overestimating the Popes, sedevacantists wholly repudiate the erring Popes and can be tempted to quit the Church altogether. " ).主よ,憐れみたまえ!(しゅよ,あわれみたまえ)( "Lord, have mercy ! " )

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注と引用された聖書の箇所を追補いたします.

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2014年1月20日月曜日

340 朗報 1/18

エレイソン・コメンツ 第340回 (2014年1月18日)

     先ず初めの朗報(まず はじめの ろうほう)はイングランド南東部にある Queen of Martyrs house の購入(こうにゅう)がまもなく実現(じつげん)することです( "The first piece of good news is that Queen of Martyrs house in south-east England is being bought these very days." ).当初,購入価格(かかく)はとても手が届(とど)きそうにありませんでしたが,フランス人とアメリカ人篤志家(とくしか)への2通の電話で,それぞれ必要額の5分の2と4分の1にあたる額(がく)がたちどころに集(あつ)まりました.これで急(きゅう)にその家屋(かおく)を購入できるメドが立ちました( "At first the purchase price seemed out of reach, but two telephone calls to a French and an American benefactor promptly raised about two fifths and another quarter respectively of the sum needed, and suddenly the purchase came within range." ).さらに7分の1にあたる額が聖マルセル構想(こうそう)(=計画)( "the St Marcel Initiative" )への多数の後援者(こうえんしゃ)から寄(よ)せられました( "About another seventh part came from the many benefactors of the St Marcel Initiative, …" ).私が自分の貯金箱(ちょきんばこ)をいくつか空(から)にし( "… I emptied out several piggy-banks of my own, …" ),あるアジア人の篤志家が最後に寄付(きふ)を申し出(もうしで)てくださった結果(けっか),私たちは目標額(もくひょうがく)を超(こ)えることができました( "… and finally an Asian benefactor put us over the top." ).

     寄付をお寄(よ)せくださった方々すべてに声を大(こえを だい)にして感謝します( "Resounding thanks to every one of you that contributed, " ).すべての方々にというのは,少額(しょうがく)の寄付金を軽視(けいし)することなど決してできないからです( "because the smaller donations are not to be scorned." ).神は寄付金の額だけを見ることはありません( "God does not look only on the amount." ).神はおそらく少額ながらも精いっぱいの寄付をする寡婦(かふ)たちを見るとき(聖ルカ聖福音書:第21章1-4節)( "Maybe only when he sees enough widows caring enough to pay in their widows’ mites (Lk.XXI, 1-4), " ),多額(たがく)の寄付ができる篤志家たちに霊感(れいかん)をお与(あた)えになるのでしょう( "does he inspire the benefactors capable of the larger donations." ).神にあっては,精神が物質を超える(せいしんが ぶっしつを こえる)ものであって,その逆(ぎゃく)ということはけっしてありません( "With God, spirit leads matter, and not the other way round. " ).だが,読者の皆さん,私たちすべてが恩義(おんぎ)を受けた上記3人(じょうき さんにん)の篤志家たちのためにどうぞ祈りをささげてください( "But do please pray for the three benefactors mentioned above, to whom we are all indebted." ).私は購入する家屋がとくに司祭たちの避難場所(ひなん ばしょ),正気の島(しょうきの しま)( "an island of sanity" )として役立(やくだ)てば良いと考えています( "Especially I think of the house being able to serve as a refuge for priests to visit, as an island of sanity." ).

     というのも,このことは第2の朗報とかかわりがあるからです( "For indeed the second piece of good news …" ).その朗報とは,聖ピオ十世新協会(しんきょうかい)( "the Newsociety of St Pius X" )の指導者たち(しどうしゃ たち)による信仰の裏切り(しんこうの うらぎり)が SSPX の司祭たちに少しずつはっきりし始めてきているということです( "… is that the betrayal of the Faith by the leaders of the Newsociety of St Pius X is becoming clearer, little by little, to SSPX priests." ).最も優れた(もっとも すぐれた)同会司祭たちの一部(いちぶ)が新協会によってひとりまたひとりと仲間外れ(なかま はずれ)にされ除名(じょめい)されています( "One by one, some of the best of them are being alienated and then excluded by the Newsociety." ).新協会は司祭たちが自(みずか)らの自由意志(じゆういし)で,あるいはまったく個人的な理由(こじんてきな りゆう)で,あるいは不服従(ふ ふくじゅう)が理由で会を離(はな)れているのだとつくろっています( "It pretends that they are leaving of their own free will, or for purely personal reasons, or that they are being excluded for their disobedience. " ).むろん, SSPX 本部の裏切り者(うらぎりもの)たちは司祭たちを追い出す(おいだす)結果(けっか)になっているのが自分たちの背信行為(はいしん こうい)だとけっして認(みと)めようとしません( "Never of course will these traitors in SSPX headquarters admit that it is their own treachery which is driving these priests out." ).だが,司祭たちは次々(つぎつぎ)に新協会の問題は教理の問題(きょうりの もんだい)だと公言(こうげん)しています( "Yet one after another they are declaring that their problem with the Newsociety is one of doctrine: …" ).すなわち SSPX が2012年4月15日,7月14日,2013年6月27日に発表(はっぴょう)した公式文書(こうしき ぶんしょ)は,新協会指導部が第二公会議派の唱(とな)える無価値(むかち)なものの代わりに信仰を守り抜こう(まもりぬこう)とするルフェーブル大司教の輝かしい闘い(かがやかしい たたかい)を見捨てている(みすてている)ことを明示(めいじ)しています( "… the official SSPX documents of April 15 and July 14, 2012, and June 27, 2013, demonstrate that the Newsociety leaders are abandoning Archbishop Lefebvre’s glorious fight for the Faith in exchange for a mess of Conciliar pottage. " ).

     かくして,南米(なんべい)では有能かつ献身的(ゆうのう かつ けんしんてき)な SSPX の副修道院長(ふく しゅうどういん ちょう)が明(あき)らかに本部の裏切り行為(ほんぶの うらぎり こうい)に対する自らの異議(いぎ)を黙(だま)らせようと意図(いと)された人事異動の受諾(じんじいどうの じゅだく)を拒(こば)んでいます( "Thus in South America a capable and devoted SSPX Prior is refusing a change of post obviously designed to control and silence his opposition to the sell-out by Headquarters, …" ).彼は修道院長(しゅうどういん ちょう)に書簡(しょかん)を送り,自分の拒否(きょひ)は純粋(じゅんすい)に教理上の理由(きょうりじょうの りゆう)によるものだと述(の)べています( "… and he writes to his District Superior that his refusal is for purely doctrinal reasons." ).オーストリアでは長い間悶々(もんもん)としてきた忠実(ちゅうじつ)な元副修道院長(もと ふくしゅうどういん ちょう)が5つの理由を挙(あ)げて SSPX 離脱(りだつ)を明(あき)らかにしました( "In Austria a long-suffering and faithful former Prior gives five serious reasons for his departure from the SSPX, …" ).これに対する SSPX の反応(はんのう)といえば,第1副本部長(だいいち ふく ほんぶちょう)( "the First Assistant" )が副修道院長の挙げた理由(あげた りゆう)は「目下検討中」(もっか けんとう ちゅう)と述べただけです( "… and all that the First Assistant finds to reply is that his reasons are “beneath consideration”. " ).とりわけフランスでは,12名の司祭グループが会合を開き(かいごうを ひらき),ルフェーブル大司教の教理に関する姿勢への忠誠(しせいへの ちゅうせい)を公式に宣言(こうしきに せんげん)しました( "In France above all, a group of 12 priests have met together and issued a public declaration of allegiance to the doctrinal stand of Archbishop Lefebvre, …" ).彼らは自らの聖職地位(せいしょく ちい)を子供向け教育(こどもむけ きょういく)が必要な両親(ひつような りょうしん),司祭職形成(しさいしょく けいせい)が必要な若者(ひつような わかもの),秘跡(ひせき)が必要な霊魂(ひつような れいこん)の意(い)のままにゆだねています( "… and they have placed their priesthoods at the disposal of parents needing education for their children, of young men needing formation for the priesthood and of souls needing the sacraments." ).フランスの司祭たちが反意を示す(はんいを しめす)までに時間(じかん)がかかりましたが,行動が遅れた分(こうどうが おくれた ぶん)かえってその反抗心は強い(はんこうしんは つよい)はずです( "It has taken time for the priests in France to begin to react, but the reaction should be all the stronger for the delay." ).ルフェーブル大司教は「時は時間をかけずに達成されたものに敬意を払わない」(ときは じかんを かけずに たっせいされたものに けいいを はらわない)というフランスの諺(ことわざ)を好んで引用(このんで いんよう)されました( "Archbishop Lefebvre was fond of quoting the French proverb which says that time does not respect anything done without it." ).

     親愛なる読者の皆さん(しんあいなる どくしゃの みなさん),辛抱(しんぼう)してください( "Have patience, dear readers." ).神(かみ)はお急(いそ)ぎになりませんし,苛立(いらだ)たれることもありません(新約聖書・使徒聖パウロのガラテア人への手紙:第6章7節)( "God is not in a hurry, nor is he mocked (Gal.VI, 7). " ).もし, SSPX を誤り導く(あやまり みちびく)指導者たちが同会を離(はな)れたり除名(じょめい)されたりする司祭は総数(そうすう)およそ500名の同会所属司祭(しょぞく しさい)たちのほんの一握り(ひとにぎり)にすぎないと言って自(みずか)らを慰(なぐさ)めるとすれば( "If the SSPX misleaders try to console themselves that the priests departing or excluded represent only a small minority of the total of some 500 SSPX priests, …" ),彼らは真実の力(しんじつの ちから)( "the power of truth" )をほとんど理解(りかい)していません.あれほどまでに真実の力が理解できないとは! ( "…how little they understand the power of truth ! " ).彼らは真実を捨て去った(しんじつを すてさった)のであり,それゆえ真実は彼らを見捨(みす)てようとしています - 否応(いやおう)なしに(防〈ふせ〉ぎようもなく).( "They have abandoned it, and it is abandoning them – inexorably." ).神よ,私たちすべてにお慈悲(じひ)をお与えください( "God have mercy on us all. " ).

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教




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2013年11月26日火曜日

332 信仰が第一 11/23

エイソン・コメンツ 第332回 (2013年11月23日)

     ルフェーブル大司教(だいしきょう)(1905-1991年)が聴く耳(きく みみ)を持(も)つカトリック教徒に教(おし)えた最大の教訓(さいだいの きょうくん)は,信仰(しんこう)は従順(じゅうじゅん)より高位(こうい)だということです( "The great lesson taught by Archbishop Lefebvre (1905-1991) to Catholics who had ears to hear was that the Faith is higher than obedience." ).その後,私たちが学(まな)んだ悲しい教訓(かなしい きょうくん)は従順が信仰より高位だと評価(ひょうか)され続(つづ)けていることです( "The sad lesson we have learned since is that obedience keeps on being rated higher than the Faith." ). (私は)これまで今日(こんにち)の教会,世界,聖ピオ十世会( "the Soceity of St Pius X" = SSPX )に見られる混乱状況(こんらん じょうきょう)が基本(きほん)に立ち戻(たちもど)って欲(ほ)しいとの願(ねが)いに駆(か)られて,このエレイソン・コメンツを書いてきましたが( "These “Comments”, driven continually by today’s confusion in Church, world and Society of St Pius X to get back to basics, …" ),その中(なか)で,信仰が第一(しんこうが だいいち)である理由(りゆう)を説明(せつめい)しようと何度(なんど)も試(こころ)みてきました( "… have often attempted to explain why the Faith must come first." ).

     ここでは,ある高名(こうめい)な SSPX の司祭が最近私宛(あ)てに送ってくださったEメールを例(れい)として取り上(とりあ)げます( "Take for instance the arguments of an honourable SSPX priest who recently sent me an e-mail, …" ).彼は私が SSPX の現状(げんじょう)を間違(まちが)って評価(ひょうか)していると非難(ひなん)しています( "… accusing me of wrongly assessing the present state of the SSPX. " ).彼によると,私が新協会(しんきょうかい)( "the Newsociety" )と呼(よ)ぶものに対して抵抗(ていこう)しているのは( "My resistance to the – as I call it – Newsociety is, he says, …" )(1)あまりにも個人的(こじんてき)な動機(どうき)に根差(ねざ)している( " 1) too personally motivated, …" ),(2)教会の利益優先(りえき ゆうせん)を忘(わす)れている( " 2) forgetting the good of the Church, …" ),(3)私が以前(いぜん)に取(と)っていた立場(たちば)と矛盾(むじゅん)している( " 3) inconsistent with positions I have taken before, …" ),(4)カトリック教の現実味(げんじつみ)を欠(か)いている( " 4) lacking Catholic realism, …,(5)教会の無謬性(むびゅうせい)に反(はん)している( " 5) against Church indefectibility, …" )(訳注後記1),(6)人(ひと)それぞれが教皇のあるべき姿(すがた)を抱(いだ)くよう勧(すす)めている( " 6) for each man being his own Pope, …" ),(7)教会の現代主義的(げんだいしゅぎてき)ビジョンを擁護(ようご)している( " 7) for a modernist vision of the Church, …" )(訳注後記2),(8)プロテスタント的である( " 8) Protestant, …" ),(9)ローマ教皇庁との結束(けっそく)に反対(はんたい)している,そして最後(さいご)に( " 9) against union with Rome, and finally …" )(10)人々の霊魂(れいこん)を教会から引き離(ひきはな)している,というのです( " 10) pushing souls away from the Church. " ).

     さて,私はルフェーブル大司教ではありませんし,大司教のふりをするつもりもありません( "Now, I am no Archbishop Lefebvre, and I do not pretend to be, …" ).だが,私の( SSPX の)同僚(どうりょう)は,この批判(ひはん)すべて(3番目を除〈のぞ〉き)を30年前ローマの公式教会当局者に抵抗したルフェーブル大司教に対して向けていることになるのをお気づきなのでしょうか?( "… but does my colleague realize that all of these arguments (except the third) he could have applied thirty years ago to the Archbishop’s resistance to the official Church authorities in Rome ? " ) 当時ルフェーブル大司教が抵抗したのは( "Yet the Archbishop’s resistance was …" )(1)信仰を擁護(ようご)する緊急(きんきゅう)の必要性(ひつようせい)に駆(か)られたため( "1) motivated only by the urgent need to defend the Faith, …" ),(2)普遍的教会(ふへんてき きょうかい)( "the Universal Church" )のために行(おこな)った( " 2) for the good of the Universal Church, …" ),(4)完全に現実的(かんぜんに げんじつてき)な方法(ほうほう)だった(大司教が設立した SSPX でのカトリック教の成果(せいか)がそれを実証〈じっしょう〉している)( "4) in a completely realistic way (as the Catholic fruits of his Society proved), …" ),(5)大司教の抵抗こそが,教会の無謬性〈むびゅうせい〉に対し,その反証(はんしょう)ではなく,それを立証(りっしょう)するものとなっている,( "… 5) not disproving but proving, by his very resistance, the Church’s indefectibility, …" )(訳注後記3) (6)あらゆる時代(じだい)の教会(きょうかい)( "the Church of all time" )( "6) for the Church of all time being the measure of the Popes, …" )が歴代教皇(れきだい きょうこう)のあるべき姿(すがた)の基準(きじゅん)である(訳注後記4),(7)新近代主義(しん きんだいしゅぎ)のあらゆる狂気(きょうき)に反対している( "7) against all craziness of neo-modernism, …" ),(8)近代主義(きんだい しゅぎ)によるプロテスタント主義(しゅぎ)の再生(さいせい)に反対している( "8) against modernism’s renewal of Protestantism, …" ),(9)ローマ教皇庁との結束(けっそく)につねに賛成してきた,そして最後に( "9) for union with the Catholic Rome of all time, and finally …" )(10)多くの真(まこと・しん)のカトリック教徒の霊魂(れいこん)が信仰を失(うしな)わず守り続(まもりつづ)けるよう手助(てだす)けしてきた - というのが事実(じじつ)です( "10) helping many truly Catholic souls to keep the Faith instead of losing it." ).

     当時(とうじ),なにがルフェーブル大司教の抵抗(ていこう)を正当化(せいとうか)したのでしょうか?( "And what justified the Archbishop’s resistance back then ? " ) 当時,大司教が外見ではそう見えたかもしれないルーター "Luther" のような反逆者(はんぎゃくしゃ)ではなく,真のカトリック教徒,教会の偉大(いだい)な僕(しもべ)だったことを証明したのは何だったのでしょうか?( "What proved then that he was not, despite the appearances, a rebel like Luther, but truly Catholic, and a great servant of the Church? " )それは,彼の教理(きょうり),教理,教理です!( "His doctrine, his doctrine, his doctrine ! " ) ルーターはカトリック教の多くの教えを否定(ひてい)しましたが,ルフェーブル大司教はそのすべてを肯定(こうてい)しました( "Whereas Luther denied a mass of Catholic teachings, the Archbishop affirmed every one of them." ).大司教が,恐(おそ)るべき近代主義(きんだいしゅぎ)の諸々(もろもろ)の誤(あやま)りを繰り返し(くりかえし)取り入れることで教理を徹底的(てっていてき)に台無し(だいなし)にした歴代(れきだい)の公会議派教皇や教会当局者たちに反対し抵抗の姿勢(しせい)を取ったのは(カトリック)信仰の教理(しんこう の きょうり)の名の下(な の もと)に行(おこな)ったことです( "It was in the name of the doctrine of the Faith that the Archbishop took his stand against the Conciliar Popes and Church authorities who were radically undermining that doctrine by renewing and adopting the dreadful errors of modernism." ) .

     では現在(げんざい),なにが SSPX 指導部に対する抵抗を正当化しているのでしょうか?( "So what justifies now a certain resistance to the leadership of the SSPX ? " )抵抗者たちこそが SSPX の忠実な僕(ちゅうじつな しもべ)だと言えるのはどうしてでしょうか?( "How can those who resist claim to be the truest servants of the SSPX ? " ) それは,教理(きょうり),教理,教理です!( "Doctrine, doctrine, doctrine ! " ) 2012年4月中旬に SSPX が発表した宣言(せんげん)は,同会の上層部(じょうそうぶ)が持つ恐(おそ)るべき教理上の欠陥(きょうりじょうの けっかん)を証明(しょうめい)しています( "The mid-April Declaration of 2012 was proof of an appalling doctrinal deficiency at the top of the SSPX, …" ).宣言自体(じたい)は撤回(てっかい)されましたが( "… and while the Declaration was withdrawn, …" ),その中身は例(たと)えば「きわめて微妙(びみょう)」との理由(りゆう)で撤回されるどころか,むしろ擁護(ようご)さえされています!( "… its contents have not been retracted but even defended, as being for instance “too subtle” ! " ) それに,2012年7月14日,2013年6月27日に発表された SSPX の公式文書(こうしき ぶんしょ)は,同宣言がもたらした損害(そんがい)をきちんと清算(せいさん)していません( "Nor have the official SSPX documents of July 14, 2012 or June 27, 2013 properly undone the damage. " ).このことは, SSPX 本部の運営方針(うんえい ほうしん)がなにも変(か)わっていないことを証明しています( "The proof is that the governing policy of SSPX HQ has not changed. " ).親愛なる同僚(しんあいなる どうりょう)にお伝(つた)えします( "Dear colleague" ).あなたの SSPX は見かけの従順(じゅうじゅん)より信仰を大事にする考えに基(もと)づいて設立されました( "Dear colleague, your own Society was founded on putting Faith before apparent obedience, …" ).それなのに今,あなたは信仰より見かけの従順を大事にすることで SSPX を擁護しようとお望みなのでしょうか?( "… and now you want to defend that Society by putting apparent obedience to the Society before the Faith ? " ) SSPXの諸文書を検討(けんとう)し,その行動(こうどう)を観察(かんさつ)してください!( "Study the documents, and watch the actions ! " )

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教

     追記:エレイソン・コメンツ( EC )第100回直後からだったとおもいますが,どなたか EC のスペイン語,フランス語訳全編(ぜんぺん)をお持ちの方がいらっしゃるでしょうか? もしおられたらご連絡(れんらく)ください. ( "P.S. Meanwhile does anybody have a complete set of Spanish or French translations of this “Commentary” from when they began to appear, in the early EC 100’s ? Please let us know." )



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第2パラグラフの訳注1

・「無謬性(むびゅうせい)」=あやまり〈=謬り=誤り〉のないこと.
・「謬り〈=誤り〉」の意味は,「正〈ただ〉しくないこと」・「失敗〈しっぱい〉・「正しくない行為〈こうい〉」


第2パラグラフの訳注2

・「擁護(ようご)」=危害〈きがい〉・破壊〈はかい〉を加えようとするものから,かばいまもる〈庇い護る〉こと.


第3パラグラフの訳注3

「教会の無謬性(きょうかいのむびゅうせい)」につき,証拠しょうこ)を挙(あ)げてそれを否定〈ひてい〉した〈=反証〈はんしょう〉〉のではなくて,〈「教会の無謬性」〈すなわち,「教会に誤(あやま)りがないこと」につき〉,証拠〈しょうこ〉を挙〈あ〉げてその正〈ただ〉しさを明〈あき〉らかにした〈=立証〈りっしょう〉〉.


第3パラグラフの訳注4

神がそうであられるように,永遠に変わることのない真実(しんじつ)・唯一(ゆいいつ)・永遠不変(えいえん)の教会が,歴代教皇のあるべき姿の基準(きじゅん)である, 「わたしは道であり,真理であり,命である.わたしによらなければ誰も父のみもとに行くことはできない.」

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(説明)

・良心は個人的に問われるもの.「良心の声に従わなかった」ことを他人のせいにはできない.神の裁(さば)きの時には,人間は誰でも,自分一人で責任を取らされることになる.たとえ真の神を心で信仰していないとしても,不正義を行った人は,正しくお裁きになる神から罰を被(こうむ)ることになる.

・人間は肉体と霊魂を有するが,同じく肉体をとられ地上で人間としての生涯(しょうがい)を過ごされた霊たる神(=三位一体〈さんみいったい〉の神の第二の位格〈ペルソナ Persona 〉=イエズス・キリスト)を通(つう)じなければ,霊であられる永遠の神(私たちの天の御父)の御国に入(はい)ることはできない.

・人間は,地上では肉体上の事しかわからないが,この地上に生きている間に,「人間は,目に見えない正しい神の霊から創造され,この世に生まれてきた」ということを知って,それを信じなければならない.

・もしそれを信じることができなければ,その人の霊魂は,創造主たる神の正義も愛も命も信じられない,ということになり,地上で肉体が死ねば,その霊魂は天の御父たる永遠の神の御国に入る祝福を得ることができない.万物の創造主たる神の正義(せいぎ)に従(したが)うことを拒否(きょひ)したのだから当然の成り行き(とうぜんのなりゆき)である.

・不完全で無知(ふかんぜんで むち)な人間の限界(げんかい)ある価値観(かちかん)で,「なにも知らなくても,なにもわからなくても,なるようになる」と簡単(かんたん)に思って済(す)ませるのは間違(まちが)いで, ①「神の正義(かみの せいぎ)」と「人間の正義(にんげんの せいぎ)」とでは全(まった)く異(こと)なるということを,人生(じんせい)の様々(さまざま)な出来事(できごと)・体験(たいけん)を通(つう)じて知り,学ぶ(しり・まなぶ)必要(ひつよう)がある.

②そのために,霊魂は肉体をとって生まれ,不完全(ふかんぜん)で不足(ふそく)だらけのこの地上で,喜び・悲しみ(よろこび・かなしみ)・希望・失望(きぼう・しつぼう)を体験し,そうして神の正義・慈愛(かみの せいぎ・じあい)を実感(じっかん)する.

③人間以外の神の被造物(=神に創造された大宇宙・自然界の諸存在〈鉱物・動植物〉)は,全て神の摂理(かみの せつり)のもと,神の御心のままに存在している.
・人間だけが神に与えられた自由意志によって,その自由意志を神の御心に沿(そ)って使用せずに,神に逆(さか)らい自(みずか)らの我欲(がよく)を満(み)たすために暴走(ぼうそう)している.

・神の摂理(=真理・正義)に従った宇宙・自然界の法則が乱(みだ)されれば,その反作用(はんさよう)(=反発)を招(まね)いて,宇宙・自然界で大災害(だいさいがい)が起こるのは自明の理(じめいの り)である.

・人間の生命(にんげんの せいめい)は神が完全に管理(かんり)しておられ,人間がそれを支配(しはい)したり管理することはできない.人間が人間の生命を支配し管理すれば,必ず自(みずか)らの身に全能者たる神の呪(のろ)いを招(まね)く. ・真の神に逆(さか)らってこの世を支配しようとする者は,神の摂理に逆らうことで必然的に自(みずか)らの心身に神の呪(のろ)いと災(わざわ)いを招(まね)くことになる.

・神が人間を罰(ばっ)するというより,人間の罪深い行い(つみふかい おこない)が神のお定(さだ)めになった宇宙や自然界の摂理の法則に反するので,わが身に跳ね返(はねかえ)って自分を害(がい)する結果(けっか)に終(お)わる.

・そして,癒(いや)されることのない罪の意識(つみの いしき)が烙印(らくいん)のように押(お)され,身も心も,真の幸福(まことの こうふく)とは永遠に無縁(えいえんに むえん)となる.

④「神の正義」は「神の慈愛(じあい)」と一体(いったい)であり,弱者(じゃくしゃ)に対する慈悲の心(じひの こころ)よりも我欲(がよく)を優先(ゆうせん)する人は,この地上を去ってから天の慈悲深い(じひ ふかい)神の御国には決して入れない.

⑤この世で,自分に不都合(ふつごう)な人間を殺しても,神には絶対に勝てない.この世は「霊魂の試験場」であり,この世で他者を負かして我欲を果たす者は,弱者を庇(かば)われる憐れみ深い神の怒りを買い,必ず神から報復(復讐)(ほうふく・ふくしゅう)されることになる.

・復讐は,人間がするものではなく,神が完全に正しく一寸の手抜かり(いっすんの てぬかり)もなく果(は)たされる.

・真の神の遣(つか)いと預言(神の御子イエズス・キリスト・教会の聖なる伝承〈聖伝〉・聖書)を通じて神の報復(かみの ほうふく)の完全さ,その恐ろしさを知るので,カトリック教会では「罪びとの悔悛(かいしゅん)のため神の憐(あわ)れみを請(こ)う」.

・人間の中で見栄(みば)えの良い人が天国に入るのではない

(ヨハネ聖福音書:第1章を参照)

第1章12節

『みことば(=神の御子イエズス・キリスト)は世にあり,世はみことばによって創(つく)られたが,世はそれを認めなかった.

みことばはご自分の家(ごじぶんの いえ)に来(こ)られたが,その人々は受け入れなかった.

しかし,その方を受け入れた人々にはみな神の子となれる力(ちから)を授(さず)けた.

そのみ名を信じるすべての人たち,彼らは,血統(ちすじ)ではなく,肉体の意志(いし)ではなく,人の意志ではなく,ただ神によって生まれた人々である.』


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2013年8月20日火曜日

318 病理的状態 8/17

エレイソン・コメンツ 第318回 (2013年8月17日)

     カトリック君主として知られるスペインのイサベラ女王がかつて祭壇(さいだん)に立つ司祭,子供を産む女性,絞首刑(こうしゅけい)に処(しょ)される罪人(ざいにん)の絵を画家に注文されたと伝えられます( "The great Queen of Spain, Isabella the Catholic, is reported once to have commissioned a painting that would show a priest at the altar, a woman giving birth and a criminal being hanged." ).このことを言い換(いいか)えれば,人は皆それぞれがなすべきことをなし,それ以外のことをすべきでないということです( "In other words, let everyone do what they are meant to do, and not something else." ).しかし,私は先週のエレイソン・コメンツで現代人はあるべき姿からほど遠いと示唆(しさ)しました.すなわち,教師は教えず,医者は往々(おうおう)にして病人を治(なお)さず,警官は人々を守っていないと書きました( "But these “Comments” suggested last week that today people are not being what they are: teachers often no longer teach, doctors often no longer heal, policemen often no longer protect, …" ).私はついでに,もっとひどいことに諸々の司祭たちは往々にして神の従者(じゅうしゃ)でなくなっていると付け加えるべきでした( "… and -- worst of all, I could have added -- priests are often no longer men of God." ).私のイタリア人の友人は,今日蔓延(まんえん)しているこうした現実への不適応(ふてきおう)を「病理的」(びょうりてき)( “pathological” )という言葉で言い表しています.

     この「病理的」という言葉は,「心理療法用語( “psychobabble” )」という言葉で巧(たく)みに命名(めいめい)されている精神科医の専門用語の一種です( "Now “pathological” is a word belonging to that jargon of psychiatrists which is well named as “psychobabble”, …" ).古くから存在する落ち込んだ人間性の単なる苦痛を多数の音節(おんせつ)から成る新語を使って粉飾(ふんしょく)しているにすぎません( "… because it dresses up in brand-new words, each of many syllables, what are merely good old miseries of fallen human nature. " ).精神科医たちは神を信じているわけではないので不信心(訳注・godlessness,共産主義などのように神を否定する思想)から生(しょう)じる諸々の問題を解決できませんが,いうなれば少なくともそれを解決しようと努(つと)めています( "Now psychiatrists, themselves godless, cannot solve problems of godlessness, but at least they are trying, so to speak." ).したがって目新(めあたら)しい心理療法用語は,過去数世紀の背教(はいきょう)行為(こうい)によって現代人の心に鬱積(うっせき)した苦痛(くつう)には,かつてなかった新しい側面(そくめん)があることを示すのに多少(たしょう)は役立つでしょう.私の友人は次のように書いています:-- ( "So the novelty of psychobabble serves at least to suggest that the miseries being piled up in human beings today by the past centuries piling up the apostasy, do have something unprecedented about them. My friend writes:-- " )

      「ここで言う病理とは突発的(とっぱつてき)もしくは先天的(せんてんてき)病気(びょうき)を意味し,解釈(かいしゃく)を広げれば,それは人間の異常(いじょう)もしくは歪(ゆが)んだ状態が先天性(せんてんせい)にせよ後天性(こうてんせい)にせよ個々人の体質の一部になっているということでしょう( " “Pathology may mean an occasional or congenital ailment, by extension an abnormal or distorted way of being, which, whether innate or acquired, has become part of an individual’s constitution." ).同じ考え方は拡大解釈すれば個々人のグループや社会にもあてはめられます( "The same concept can be applied by extension to a group of individuals or a society." ).このような方法で病理,すなわち,現代世界の不健康で異常な状態を語ることができるでしょう( "In this way one may speak of the pathological, i.e. sick, abnormal, condition of the modern world." ).そう考えるなら,病理状態は後天性であれ先天性であれ,その状態にある当事者たちはそれをありのまま受け入れなくなるでしょう.いやむしろ,彼らはそれを正常と考えるため,それを盾(たて)として使い,それを誇(ほこ)りにさえするでしょう( "As such, whether the condition is acquired or in-born, it is not seen for what it is by the person or persons concerned, nay, since they see it as normal they use it as a shield, and even boast about it." ).異常が正常になること,あるいはその逆(ぎゃく)の現象は現代世界,現代人のドラマそのものです.」( "Abnormality becoming normal, and vice versa, is the drama of the modern world and modern man.” " )

     かくして,私たちは祭壇(さいだん)を無視する司祭,出産しない女性,処刑されない罪人を目にすることになります.だが,これがまさしく私たちを取り巻く世界です ―― 心理療法用語がぴったり当てはまるというわけです! ( "Then we should find the priest neglecting the altar, women not giving birth and criminals not being hanged. But that is exactly the world around us -- the psychobabble fits ! " ) そこで,同じ友人はカトリック教徒が現代世界のこの病理的状態にどう対処すべきかについて次のように述べています: ( "So here is what the same friend has to say about how Catholics must react to this pathological condition of the modern world: " )

     「カトリック教徒は,私たちがかつて経験したことのないような状況に生きており,そこでは客観的現実に対する感覚がすべて着実(ちゃくじつ)に失(うしな)われつつあることを理解しなければなりません( " “Catholics must understand that we are living in an unprecedented situation in which all sense of objective reality is steadily being lost." ).これは教会にとって,50年前に有効だった評価基準(ひょうかきじゅん)がもう通用(つうよう)しなくなっていることを意味(いみ)します( "This means for the Church that points of reference still valid 50 years ago no longer apply." ).教会にはこれまでと違う解決策が求められています.その解決策とは,無秩序(むちつじょ)(訳注・=病理,すなわち,現代世界の不健康で異常な状態=心理療法用語=精神病)が益々(ますます)増え続けることを考慮(こうりょ)に入れたものであるだけでなく,悪化し続ける状況(じょうきょう)に十分適応(てきおう)できるよう融通性(ゆうづうせい)をもったものです( "Different solutions are called for which not only take into account the possibility of ever increasing disorder, but also remain elastic enough to adapt to a continually worsening situation." ).もし教理が第一義的で決定的( "primary and decisive" )なものだとすれば,カトリック教徒や将来司祭になる者たちには終末(しゅうまつ)がいかにユニークなものかを教理的に教えなければなりません( "If then doctrine is primary and decisive, Catholics and future priests must be taught doctrinally how unique these end-times are." ).福音書は私たちに終末が将来訪れると説いていますが,終末はすでに来ており,現状は神がもうたくさんだと言われるまで悪化の一途(いっと)をたどりかねません.」( "The Gospels tell us of their coming in the future, but they are with us here now, and they are liable to get only worse, until such time as God says enough is enough.” " )

     要するに,数世紀にわたる(訳注・カトリック教の)背教(はいきょう)が人類の中に「病理」と称する現実の受け入れ拒否(きょひ)を積み上(つみあ)げてきたのです( "In brief, centuries of increasing apostasy have piled up in the human race a refusal of reality which can be called “pathological”, …" ).そして,それが前代未聞(ぜんだいみもん)の人間の苦悩(くのう),すなわち,かつてなかったほどの物質的繁栄(ぶっしつてき はんえい)によっても癒(いや)されない苦悩を引き起こしています( "… and which is causing unheard of levels of distress in people, distress unalleviated by an equally unprecedented level of material prosperity." ).カトリック教会は背教と闘(たたか)ってきましたが,第二バチカン公会議がその戦いを投げ出したとき,病理的幻想(げんそう)が世界を占領(せんりょう)し,それを反キリスト( "the Antihrist" )へと向かわせました( "The Catholic Church fought this apostasy, but when at Vatican II it gave up the fight, the pathological fantasy took over the world, and it lurched towards the Antichrist." ).ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )は崩(くず)れかかった教会内に正気(しょうき)の砦(とりで)( "a fortress of sanity" )を築(きず)かれましたが,同じような病理が彼の聖ピオ十世会( "the Society of St. Pius X" = SSPX )を乗っ取ろうとしています( "Archbishop Lefebvre created a fortress of sanity inside the crumbling Church, but now the same pathology is well on its way to taking over his Society." ).

     教師たちよ,教えなさい! 医師たちよ,癒(いや)しなさい! 女性たちよ,子供を産みなさい! 司祭たちよ,ルフェーブル大司教が語(かた)り,実践(じっせん)したことをすべて学びなさい.そして,イサベラ女王,どうぞ私たちのためにお祈りください.( "Teachers, teach ! Doctors, heal ! Women, give birth ! Priests, study everything that Archbishop Lefebvre said and did. And Queen Isabella, please pray for us." )

     キリエ・エレイソン.

     リチャード・ウィリアムソン司教



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2013年7月7日日曜日

312 活発な論議 7/6

エレイソン・コメンツ 第312回 (2013年7月6日)

    権限不能(けんげんふのう)の問題(6月1日,7月29日付けエレイソン・コメンツ参照)を取(と)り上(あ)げたところ,読者(どくしゃ)の間(あいだ)で活発(かっぱつ)な反応(はんのう)が起きています( "The problem of crippled authority (see these “Comments” of June 1 and 29) is rousing some lively reactions amongst readers." ).一方(いっぽう)では勇気(ゆうき)あるカトリック信徒たちから私が一司教である以上( "that I AM a bishop" ),司教として「抵抗運動」(ていこう-うんどう)を指揮(しき)する行動(こうどう)を起(お)こすべきだ( "I must ACT" )と言われています( "On the one hand valiant Catholics tell me that I AM a bishop, therefore I must ACT as a bishop by taking command of the “Resistance” movement." ).他方(たほう),長年(ながねん)にわたり「教皇座空位論」( "sedevacantism" )の立場を経験してきた勇気ある司祭のひとりは,世界大戦(せかいたいせん),肉体的迫害(にくたいてきはくがい),老齢(ろうれい)による麻痺(まひ)でも起きない限り,私がこれ以上司教を聖別することで同じような立場の諸教会を混乱させるべきでないと忠告(ちゅうこく)してくださいます.(もっとも,私には最後のこと=老齢による麻痺=がすでに始まっていると言う人もいますが…)( "On the other hand a valiant priest with long experience of “sedevacantism” warns me not to let loose parallel churches by consecrating any more bishops, except in the case of World War, physical persecution or paralytic old age (well, there are those who would claim that the last has already set in…).

    むろん,問題のすべては第二バチカン公会議にさかのぼります( "Of course the problem goes back to Vatican II, … " ).700年間の堕落(だらく)の果てに,公会議派の聖職者たちは(カトリック)教会の教理(きょうり)( "Church doctrine" )を捨(す)て去(さ)ることによりカトリック教の真理(しんり)(訳注・=真の神の真理)をカトリック教の権威(けんい)(訳注・=地上における真の神の唯一の権威)から切り離(きりはな)し( "… when at the bottom end of a 700-year slide the Conciliar churchmen by abandoning Church doctrine split Catholic Truth from Catholic Authority, …" ),それによって教会の公的権威を著(いちじる)しく失墜(しっつい)させたため,上に述(の)べた人たちのような方々(かたがた)が権威などもはや不要(ふよう)と考えるようにしてしまいました( "… and by so doing so discredited official Church authority that souls like those mentioned above no longer see the need for it." ).だが,教会中央(きょうかいちゅうおう)の権限は,自然(しぜん)に起こる(宗教の)多様性や人類(じんるい)の原罪(げんざい)を考えた場合,教会の真理のみならず秘跡(ひせき)や教会の統治(とうち〈=とうじ〉)の点で教会の結束(けっそく)(そしてそれに基づく存続〈そんぞく〉)を確かなものにするためには必要不可欠(ひつようふかけつ)なものです( "But central Church authority, given the natural diversity and original sin of all mankind, is absolutely necessary to ensure Church unity (and therewith survival) not only in the Truth but also in the sacraments and in Church government." ).

    このため,司教や司祭にとっては自身(じしん)の階位(かいい,=聖別/叙品)に基(もと)づく( "… of his Orders" )権限(けんげん)(訳注・ = "the sacramental power of his Orders" ,=「聖別/叙品〈旧和訳〉/叙階〈新和訳〉〈せいべつ/じょひん/じょかい〉),すなわち永遠にわたって決して失(うしな)うことのない,聖別/叙品の秘跡を授(さず)ける権限(訳注・=つまり,司教・司祭として有効なカトリック秘跡を授けることのできる権限."the sacramental power" )だけでなく,何を行(おこな)ってよいか,何が正(ただ)しいか( "ius, iuris" )について発言する( "dictio" )権限である管轄権(かんかつけん)( "the power of jurisdiction" )が必要です( "That is why a bishop or priest needs not only the sacramental power of his Orders, power he can never lose for all eternity, but also the power of jurisdiction, which is the power of saying (dictio) what goes, or what is right (ius, iuris)." ).この2番目の権限(訳注・つまり「管轄権 "the power of jurisdiction"」のこと)は聖別・叙品(の階位)に付随(ふずい)するものではなく,自(みずか)らに付与(ふよ)できるものではありません( "he cannot give it to himself" ).司教や司祭がその権限を付与されるのはカトリック教会においてより上位(=上級)の役職(やくしょく)に就(つ)いている聖職者( "a Church Superior" )からであり,究極的(きゅうきょくてき)には教皇からだけです.そして教皇は神によりその権限を付与されます( "This second power does not go with his Orders, and he cannot give it to himself, he can only receive it from on high, from a Church Superior, ultimately from the Pope, and the Pope from God." ).したがって,勇気(ゆうき)ある信徒たちが私に対し(私の階位〈聖別〉により "by my Orders" )私が一司教である以上( "I AM a bishop (by my Orders) " ),もし「抵抗運動」に対して何をなすべきか( "ius" )発言する( "dictio" )などの行動を私が起こさないなら( "if I do not ACT" )私は職務怠慢(しょくむたいまん)であると指摘(してき)するときには,彼ら(その信徒の人たち)は司教が持つ二つの異(こと)なる権限を混同(こんどう)していることが多いのです( "Hence when valiant souls tell me that I AM a bishop (by my Orders) so that I am delinquent if I do not ACT as such by telling (dictio) the “Resistance” what to do (ius), most likely they are confusing the two distinct powers of the bishop." ).

    そうはいっても,この人たちは本能的(ほんのうてき)に教会のもう一つの教理もしくは常識(じょうしき)に基づく教理,すなわち提供(ていきょう)された管轄(かんかつ)( "supplied jurisdiction" )のことを念頭(ねんとう)に思い浮(う)かべるかもしれません( "However, they may be instinctively hitting upon another doctrine of the Church and of common sense, namely that of supplied jurisdiction: …" ) .つまりなんらかの理由でより上位の役職にある聖職者(=司祭・司教)たちが諸霊魂の救済に必要な管轄を提供できないような非常事態(ひじょうじたい)では,(カトリック)教会がそれを提供します ( "… in an emergency where for whatever reason the Superiors are not providing the jurisdiction needed for the salvation of souls, the Church supplies it. " ).例(たと)えば,ある司祭は罪の告白(つみのこくはく)( "Confessions" )を聴(き)くのに通常ならば必要とされる管轄を持たないかもしれませんが,罪を痛悔(つうかい)(=後悔・悔悟〈かいご〉・悔悛〈かいしゅん〉)している信者が自分の告白を聴(き)いて欲(ほ)しいとその司祭に願(ねが)い出た場合,彼は必要に応(おう)じてその告白を聴くことがあるでしょうし,その際(さい)に彼が執(と)りおこなうことになる秘跡(ひせき)((訳注後記1)の授与(じゅよ)は有効(ゆうこう)となりうるでしょう( "For instance, a priest may have no jurisdiction as is normally needed to hear Confessions, but if a penitent asks him to hear his Confession, then in case of need the priest may hear it and the sacrament will be valid." ).今となっては第二バチカン公会議が教会にもたらした膨大(ぼうだい)な非常事態が4月中旬に聖ピオ十世会( "the Society of St. Pius X" = SSPX )本部( "HQ" )から発表された周知(しゅうち)の教理宣言(きょうりせんげん)により一層(いっそう)悪化(あっか)してしまったことは明明白白(めいめいはくはく)です( "Now for sure and certain the vast emergency created in the Church by Vatican II has even been aggravated by the notorious mid-April Doctrinal Declaration from SSPX HQ, …" ).同宣言は真のカトリック信仰( "the true Faith" )の最後の砦(とりで)が陥落(かんらく)したことを示す文書的(ぶんしょてき)証拠(しょうこ)( "documentary proof" )です( "… which is documentary proof of the crumbling of the last standing fortress of the true Faith." ).

    だが,提供された管轄には一つの弱点(じゃくてん)があります( "But supplied jurisdiction has a weakness, …" ),公式のものでないだけに,えてして争点(そうてん)の対象(たいしょう)になりがちです( "… because not being official, it is much more open to dispute." ).例えば,公会議派ローマ(教皇庁)は第二バチカン公会議がもたらした教会の非常事態などといったものは存在しないと言い張り(いいはり)( "For instance, Conciliar Rome denies that there is any such thing as a Church emergency created by Vatican II, …" ),その立場から SSPX に対し公会議の権限に屈服(くっぷく)するよう圧力(あつりょく)をかけ,これまでのところ全面的(ぜんめんてき)に成功しています( "and they put corresponding pressure, all too successful, on the Society of St Pius X to submit itself to Conciliar authority." ).これがまさしく権限は公式でなければならないということの証(あか)しです( "Such is the need for authority to be official." ).ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )でさえ,自ら叙品(じょひん)(訳注・=叙階〈じょかい〉)した司祭たちのおそらく4分の1を失ってしまいました( "Even Archbishop Lefebvre lost maybe a quarter of the priests that he ordained, …" ).彼に去って行く司祭たちを止める権限がなかったからです( "… because he had no power to stop them from simply walking away." ).これが教会の直面(ちょくめん)する信じがたい危機(きき)の実情(じつじょう)です( "Such is this unbelievable crisis of the Church." ).したがって,仮(かり)に一司祭もしくは一信徒が私に命令(めいれい)を下(くだ)すよう求(もと)めたとしても( "So if a priest or layman asks me to give him commands, …" ),彼は数か月(すうかげつ)後(ご)に異議(いぎ)を唱(とな)えるかもしれませんし( "… he may himself dispute it a few months later, …" ),命令と思えるものを受けた途端(とたん)にそれに従(したが)う必要がないと判断(はんだん)するかもしれません( "… or as soon as he receives what he considers to be a command he need not obey. " ).

    だが,危機が事実(じじつ)であることに変わりはありません( "But the crisis remains real, …" ).そして,危機は神が教皇を正気(しょうき)に戻(もど)すため介入(かいにゅう)するまで悪化(あっか)の一途(いっと)をたどるだけでしょう( "… and it is only going to get worse until God intervenes to bring the Pope to his Catholic senses, …" ).神が介入するのは十分な数のカトリック信徒が教皇の目を開(あ)けさせて欲(ほ)しいと願うときでしょう( "… which God will do when enough Catholics are begging him to open the Pope’s eyes." ).今からその時まで,悪化する危機は非公式(ひこうしき)な権限を益々(ますます)強めることになるでしょう( "Between now and then the sharpening emergency is set fair more and more to fortify unofficial authority, …" ).私たちが不要(ふよう)な混乱(こんらん)を避(さ)けるため全能(ぜんのう)の神がお助け(たす)くださいますように( "… but may Almighty God help us to avoid unnecessary anarchy." ).

    キリエ・エレイソン.

    リチャード・ウィリアムソン司教



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第4パラグラフの訳注1
「罪の告白」"Confession" についての補足説明.

主なる神の代理者(=司祭)を通(つう)じて,犯した罪(つみ)の赦(ゆる)しを受ける秘跡(ひせき)"sacrament".
「悔悛(かいしゅん)の秘跡」(=「赦しの秘跡」)という.

ミサ聖祭典礼・「告白の祈り」から抜粋(ばっすい)(日本語訳)…
祭主司祭と助祭又は侍者が交互(こうご)にラテン語で誦(とな)える.

『全能の天主,終生童貞なる聖マリア,大天使聖ミカエル,洗者聖ヨハネ,使徒聖ペトロ,聖パウロ,諸聖人及び汝(なんじ)ら兄弟たちに向かいて告白し奉る.

我は思いと言葉と行いとをもって多くの罪を犯(おか)せり.…
(3度胸を打ちながら) これ我が過(あやま)ちなり,我が過ちなり,我がいと大いなる過ちなり.

これによりて終生童貞なる聖マリア,大天使聖ミカエル,洗者聖ヨハネ,使徒聖ペトロ,聖パウロ,諸聖人及び汝ら兄弟たちに,我の為,主なる我らの天主に祈られんことを願い奉る』

* * *

①神に罪を痛悔する恵み ・罪を赦される恵み ・犯した罪の償〈つぐな〉いを果〈は〉たす恵みを願う
②「悔悛の秘跡」(=(罪の)「赦〈ゆる〉しの秘跡)」を受ける.

主として,①と②を,司祭を通じて神から受け,神に罪を赦され,神との交(まじ)わりを断(た)つ罪から解放され,再(ふたた)び神との交わりのうちに入(はい)る秘跡.

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・カトリック教会の洗礼を受けた信者のみが,「悔悛の秘跡」を受けることができる.

・犯した罪の「償い」の内容(ないよう)は,告白を聴いた司祭から命じられる.

具体的には例えば,
・自分の犯した犯罪の被害者に謝罪するとか,
・傷害を負わせた場合に治療費を弁償するとか,
・警察に自首するとか,
・刑に服する(=服役)など,
大袈裟(おおげさ)な罪(=主に大罪(だいざい)に当たる)にまつわるものから,
・盗んだ商品や他人の持ち物を返すとか,
・店主や持ち主に謝(あやま)る,喧嘩(けんか)を止めるなど
些細(ささい)な比較的軽い罪に関するものまである.

・司祭の命じた償いは速(すみ)やかに果たす.

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告白の順序

1.告白場(こくはくじょう)で,司祭に,この前いつ告白したか,罪を赦(ゆる)され償(つぐな)いを果(は)たしたかをいい表わし,その後犯した罪を告白する.

2.「痛悔の祈(いのり)」を誦(とな)える.

3.告白後の祈り
①(神への)信仰と信頼心を起こさん.
②主に感謝せん.
③罪を避(さ)くる決心を為(な)さん.
主なる神に①から③を祈る御恵みを願う.

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告白前の祈り

・告白に先立(さきだ)って聖霊の御助けを願い,「罪の究明(つみのきゅうめい)」を以下の①から③までの究明箇条にしたがって行う.
①神の十戒に背(そむ)く罪(第一戒の部から第十戒の部まで)
②公教会(カトリック教会)の六つのおきてに背く罪(第一のおきての部から第六のおきての部まで)
③罪源(ざいげん)の部(1高慢,2貪欲(どんよく),3嫉妬(しっと),4邪淫(じゃいん),5貪食(どんしょく),6憤怒(ふんど),7怠惰(たいだ))
*4邪淫とは,貞潔(ていけつ)を損(そこ)なうこと,男女関係が人の道にはずれ道徳に反すること(不倫な関係).

・上述の究明箇条の他,各自の本分(ほんぶん)を全(まっと)うしたか否(いな)かを特に究明する必要がある(たとえば,職業上の義務〈ぎむ〉,夫婦〈ふうふ〉相互〈そうご〉の務〈つと〉めなど).

* * *

・大罪ほど,すぐに,できるだけ細かく司祭にいい表わして罪の赦し(「悔悛の秘跡」)を受けるのが,不安な時代に心身共に健康を保つ良い方法である.

・大罪以外の罪の赦しは,ミサ聖祭の典礼「告白の祈り」・「痛悔の祈り」のところで受けられるが,告白場で司祭に罪の告白を果たすのが望ましい.

・心の平和・安定を維持(いじ)する良い方法は,重大な罪ほどすぐ司祭に告白して悔悛の秘跡を受けることである.
司祭に会えない場合は,主イエズス・キリストの御名によって神に直接祈り,犯した罪を神に告白し,神の赦しを祈願する.

・聖母マリアと守護の天使の神へのとりなしを願う.

・こうして,心身ともに自分の罪を洗い清め,一切(いっさい)の罪悪感(ざいあくかん),自責(じせき)の念(ねん)などから解放され,心身症に陥(おちい)ったり,他人に八(や)つ当(あ)たりして害を与えたりなど,副次的(ふくじてき)な弊害(へいがい)を生む種(たね)を,自分の心に残さずに済む.

・現代では,そういった「心の平和」を喪失(そうしつ)した人による犯罪が益々(ますます)増えている(自他共に死に追いやっている).

*   *   *

(注記)
・カトリックの司祭は,厳しい守備義務を課されているので,たとえば罪の告白者が現在逃亡中の凶悪犯罪の犯人であるような場合,その人に「罪の償(つぐな)いとして警察に自首することなどを命じる」ことはあっても,その告白を聴いた司祭が警察(公安当局)に訴え出る(密告も含む)ことは禁じられている.

・カトリック司祭は神の代理者なので,神が禁じておられることはできない.神は当の罪人が自(みずか)ら犯(おか)した罪を神に告白することを望まれる(それにより罪人の霊魂は救われるので)からである.

・司祭が神から授けられた秘跡を執り行う権限に伴(ともな)って神に付されたこの守備義務に逆らった場合,神からその権限を剥奪(はくだつ)され,最悪の場合,神から永遠に霊魂の生命を取られるほどの厳格な天罰が下(くだ)る.

・このような伝統的なカトリック教本来の教理の真実やその善良性も,第二バチカン公会議の近代主義(モダニズム)による弊害を多大に受けている.
・多くのカトリック信者たちが生きるため本来必要不可欠な「心身の生命の倫理・道 徳」の正しい基準を,カトリック司祭から正確に教わることが困難になった.
・カトリック信者であっても,多くが精神不安定・精神異常・心身症など,心の病(やまい)を患(わずら)い,自他(じた)共に傷つけ合いながら,不穏な社会生活を送るはめになってしまった.

・カトリック聖職者の信仰もモダニズムにより弊害を受けている.モダニズムは多くのカトリック聖職者のカトリック教理に対する正しい常識を狂(くる)わせ,信徒を正しい方向に指導することができなくしてしまう.

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神の御心は,人を裁(さば)いて罰(ばっ)することではなく,人がその犯した罪を悔い改めることによって(悔悛),死罪に値(あたい)すべき罪の罰から免(まぬが)れ,その霊魂が永遠の生命を受け,永遠に生きることである.


新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第3章13-21節

『(主イエズス・キリストのみ言葉の続き)
「…天から下った人のほか,天に昇った者はない,それは人の子である.
モーゼが荒野でへびを上げたように,人の子も上げられなければならぬ.
それは,信じるすべての人が,彼によって永遠の命を得(う)るためである」.

神は御独り子を与えたもうほどこの世を愛された.それは,彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである.
神がみ子を世に送られたのは,世をさばうためではなく世を救うためである.
み子を信じる人はさばかれぬが,信じぬ者は,神の御独り子の名を信じなかったために,すでにさばかれている.

審判というのは次のようなことである.光は世に来たが,人々はその悪い行いのために,光よりも闇(やみ)を好(この)んだ.
悪を行う人は光を憎(にく)み,その行いが現(あらわ)れることを恐(おそ)れて光のほうに来ないが,
真理を行う人は,神によってそのことの行われていることを現すために光のほうに来る.』


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