エレイソン・コメンツ 第383回 (2014年11月15日)
フェレー司教がカトリック教伝統派と第二バチカン公会議派を和解させることで聖ピオ十世会( SSPX )と教会を共に救おうと周到に用意した計画が,同会の同僚の一人が「政治的に不適当な」見解を明らかにしたことが世界中に公表されたため,2009年1月に不発に終わってしまいました( "When Bishop Fellay's long-laid plans to save the Society of St Pius X and the Church by reconciling them through a blending of Tradition with the Council were blown out of the water in January of 2009 by the worldwide publicity given to the totally “politically incorrect” views of a colleague in the SSPX, …" )(ふぇれー しきょうが でんとうはと だいに ばちかん こうかいぎを わかい させる ことで せいぴお じゅっせい かいと きょうかいを ともに すくおうと しゅうとうに ようい した けいかくが,どうかいの どうりょうの ひとりが「せいじ てきに ふてきとうな」けんかいを あきらかに した ことが せかいじゅうに こうひょう された ため,にせん きゅうねん いちがつに ふはつに おわって しまいました).そうした和解が叶わない夢だった訳ではなかっただけに,その時周りの人々は同司教に同情したかもしれません( "… one might have sympathised with him, were such a blending not an impossible dream." )(そうした わかいが かなわない ゆめ だった わけでは なかった だけに,そのとき まわりの ひとびとは どうしきょうに どうじょう したかも しれません).だが,神御自身の教会と「人間の手作業の結実」である公会議派の模造教会とは,油に水,或いは真実に嘘(を混ぜるのも同然)で同じ様に交わる事はありません( "But God's own Catholic religion mixes with its Conciliar imitation, “fruit of the work of human hands”, like oil mixes with water, or truth with falsehood." )(だが,かみ ごじしんの きょうかいと「にんげんの てさぎょうの けつじつ」である こうかいぎはの もぞう きょうかい とは,あぶらに みず,あるいは しんじつに うそ〈をまぜるのとどうぜん〉で おなじように まじわる ことは ありません).1988年まで記憶を辿る事が出来るカトリック信徒たちは,ルフェーブル大司教が SSPX を救う為のそのような努力を「自殺作戦」,即ち SSPX だけでなく同会が普遍教会の為に出来るかも知れないあらゆる事を無にする自殺行為である,と評したのを思い出すでしょう( "Catholics with memories reaching back to 1988 could remember Archbishop Lefebvre branding any such effort for the SSPX as “Operation Suicide”, suicide firstly for the SSPX but also for anything the SSPX might have been able to do for the Universal Church." )(せん きゅうひゃく はちじゅう はちねん まで きおくを たどる ことが できる かとりっく しんと たちは,るふぇーぶる だいしきょう が せいぴお じゅっせい かいを すくう ための そのような どりょくを「じさつ さくせん」,すなわち せいぴお じゅっせい かい だけでなく どうかいが ふへん きょうかいの ために できる かもしれない あらゆる ことを むにする じさつこうい である,と ひょうした のを おもいだす でしょう).
従って,雑念を持たないカトリック信徒たちは,同じ月に神意が全世界にメディアを張り巡らせる教会の敵たちを使って,公会議派と伝統派を和解させようとした教皇ベネディクト16世とフェレー司教の共同作業を吹き飛ばした時,ほっと安堵の溜息を吐きました( "Therefore clear-minded Catholics breathed a great sigh of relief when in that month Providence used the Church's enemies with their wordwide media to torpedo the joint efforts of Benedict XVI and Bishop Fellay to blend Council and Tradition." )(したがって,ざつねんを もたない かとりっく しんと たちは,おなじ つきに しんいが ぜんせかいに めでぃあを はりめぐらせる きょうかいの てきたちを つかって,こうかいぎはと でんとうはを わかい させようと した きょうこう べねでぃくと じゅうろくせいと ふぇれー しきょうの きょうどう さぎょうを ふきとばした とき,ほっと あんどの ためいきを つきました).そして,そのような信徒たちは自分たちの考えが正しかった事を神意によってドラマチックながらも慎ましやかに確認してもらえたと感じたかも知れません( "And such Catholics may have had dramatic but discreet confirmation from Providence that they were thinking correctly." )(そして,そのような しんとたちは じぶんたちの かんがえが ただしかった ことを しんいに よって どらまちっく ながらも つつましやかに かくにんして もらえたと かんじた かも しれません).
ベネディクト16世は SSPX の4名の司教が1988年に聖別された直後にローマ教皇庁が公表した同4名の破門を解禁しました( "The “lifting” by Benedict XVI of the 1988 “excommunications” of the four SSPX bishops declared by Rome immediately upon their consecration, …" )(べねでぃくと じゅうろく せいは せいぴお じゅっせい かいの よんめいの しきょうが せんきゅうひゃく はちじゅう はちねんに せいべつ された ちょくごに ろーま きょうこう ちょうが こうひょう した どう よんめいの はもんを かいきん しました).そして,フェレー司教はこの決定をもたらした直接の要因は,私たちの聖母のご介入,即ち SSPX が2008年末に第2回ロザリオ聖戦を組織した事だと公然と述べました( "… was directly attributed by Bishop Fellay, in public, to the intervention of Our Lady, thanks to the second SSPX Rosary Crusade at the end of 2008. )(そして,ふぇれー しきょうは この けっていを もたらした ちょくせつの よういんは,わたくしたちの せいぼの ごかいにゅう,すなわち せいぴお じゅっせい かいが にせん はちねん すえに だいにかい ろざりお せいせんを そしきした ことだと こうぜんと のべました).だが,同じ年の早い時期に聖母は使者を通してフェレー司教に今回のロザリオ聖戦がロシア奉献( "the Consecration of Russia" )実現を目的としないなら,信徒の捧げたロザリオ祈祷を他の目的の為に使うと告げておられました( "Yet she had told him through her messenger early in the same year that if the Crusade was not this time dedicated to the Consecration of Russia, she would use the rosaries prayed for some other purpose." )(だが,おなじ としの はやい じきに せいぼは ししゃを とおして ふぇれー しきょうに こんかいの ろざりお せいせんが ろしあ ほうけん じつげんを もくてきと しないなら,しんとの ささげた ろざりお きとうを ほかの もくてきの ために つかうと つげて おられました).もし,このメッセージが本当なら,神は2008年10月に SSPX がルルド巡礼の際に執り行なった記念祭式典で聖母を教会政治の為に利用した事を快く受け止めなかった筈です( "If these messages are true, Heaven cannot have taken too kindly to her having been manipulated for Church politics at the SSPX Jubilee celebration in Lourdes of October, 2008." )(もし,この めっせーじが ほんとう なら,かみは にせん はちねん じゅうがつに せいぴお じゅっせいかいが るるど じゅんれいの さいに とりおこなった きねんさい しきてんで せいぼを きょうかい せいじの ために りよう したことを こころよく うけとめなかった はずです).
何れにせよ,破門「解禁」3週間後の2009年2月11日,スイス・エコンヌにある SSPX 本部の神学生たちが近くの山へ遠足に出掛けた際,その中の3名が雪崩に遭遇し山中の冷たい湖に落ちて溺死しました( "In any case, when on February 11, 2009, three weeks after the “lifting”, seminarians from the SSPX mother-house in Écône, Switzerland, were making a recreational excursion in the mountains nearby, three of them were caught in an avalanche, swept downhill and drowned in an icy mountain lake. " )(いずれに せよ,はもん「かいきん」さんしゅうかんご の にせん きゅうねん にがつ じゅういち にち,すいす・えこんぬに ある せいぴお じゅっせい かい ほんぶの しんがくせい たちが ちかくの やまへ えんそくに でかけた さい,そのなかの さんめいが なだれに そうぐうし さんちゅうの つめたい みずうみに おちて できし しました).2月11日とは何の日だったのでしょうか? 私たちのルルドの聖母の祝日です( "And what is February 11 ? The Feast-day of Our Lady of Lourdes. " )(にがつ じゅういち にち とは なんの ひ だった のでしょうか? わたくしたちの るるどの せいぼの しゅくじつ です).
これは偶然の一致だったのでしょうか?( "Mere coincidence ? " )(これはぐうぜんのいっちだったのでしょうか?)それとも,エレイソン・コメンツで取り上げている裏話と外で起きた2回のロザリオ聖戦との一致の様に,神が実際に起きた出来事を通して御話しになったという事でしょうか?( "Or Heaven speaking through events, by one more correspondence between the inside story of these messages and the outside story of the first two Rosary Crusades ? " )(それとも,えれいそん・こめんつで とりあげている うらばなしと ほかで おきた にかいの ろざりお せいせん との いっちの ように,かみが じっさいに おきた できごとを とおして おはなしに なった ということ でしょうか?) この点は読者ご自身で判断して下さい( "Readers will judge for themselves." )(このてんはどくしゃごじしんではんだんしてください).もし読者が新協会("Newsociety")が新教会("Newchurch")の公式承認を得ようとしているのは正しい道を辿っていると信じるのであれば( "If they are convinced that the Newsociety is on the right track when it seeks official approval from the Newchurch, …" )(もし どくしゃが しんきょうかい〈にゅー・そさいえてぃ〉が しんきょうかい〈にゅー・ちゃーち〉の こうしき しょうにんを えようと して いるのは ただしい みちを たどって いると しんじる のであれば)この一連の諸々のメッセージは真面目に取り上げるに値しない「私的暴露」のひとつに過ぎないと難なくはねつけることが出来るでしょう( "… they will have no difficulty in dismissing this series of messages supposedly from Heaven as one more “private revelation”, unworthy of serious consideration." )(この いちれんの もろもろの めっせーじは まじめに とりあげるに あたい しない「してき ばくろ」の ひとつに すぎないと なんなく はねつける ことが できるでしょう).だが反対に,読者が新協会も新教会も間違った道を辿っていると判断するなら( "On the other hand if in their judgment both Newsociety and Newchurch are on the wrong track, …" )(だが はんたいに,どくしゃが しんきょうかい〈にゅー・そさいえてぃ〉も しんきょうかい〈にゅー・ちゃーち〉も まちがった みちを たどって いると はんだん するなら),ロシアの奉献を無視した為世界が想像を絶する災難の淵に立っている中で,私たちの聖母が SSPX の組織した諸々のロザリオ祈祷を通してもう一度ロシアの奉献を実現しようとなさっておられると考えるのは理に適うでしょう( "… then it would make sense that, the world being on the brink of unimaginable disaster for having neglected the Consecration of Russia, Our Lady made one more attempt to obtain that Consecration through prayers launched by the SSPX." )(ろしあの ほうけんを むしした ため せかいが そうぞうを ぜっする さいなんの ふちに たっている なかで,わたくしたちの せいぼが せいぴお じゅっせい かいの そしき した もろもろの ろざりお きとうを とおして もういちど ろしあの ほうけんを じつげん しようと なさって おられると かんがえる のは りに かなう でしょう).
SSPX が教会を救う為何もしなかったと言っているのではありません( "Not that the SSPX was ever the salvation of the Church, …" )(せいぴお じゅっせい かいが きょうかいを すくう ため なにも しなかったと いっている のでは ありません).ただ,同会がロザリオ聖戦の祈祷を正しい目的の為に活用していたなら,私たちの聖母が使者にお伝えになったように( "… but that if its prayers had been rightly directed, then as Our Lady gave her messenger to understand, …" )(ただ どうかいが ろざりお せいせんの きとうを ただしい もくてき のために かつよう していた なら,わたくしたちの せいぼが ししゃに おつたえになった ように),聖母はご自分の御子(また同時に神の御独り子でもあられるイエズス・キリスト)を通じてロシアの奉献に必要な恩寵を(イエズス・キリストの御父なる)神より引き出すことがお出来になったであろうし( "… she could have obtained from her Son the graces necessary to obtain that Consecration, …" ),それによって SSPX ,教会,世界を救済しておられたかもしれません( "… and by it she could have saved both SSPX and Church and world." )(せいぼは ごじぶんの おんこ〈また どうじに かみの おんひとりご でも あられる いえずす・きりすと〉を つうじて ろしあの ほうけんに ひつような おんちょうを〈いえずす・きりすとの おんちち なる〉かみ より ひきだすことが おできに なったであろうし,それによって せいぴお じゅっせい かい,きょうかい,せかいを きゅうさい して おられたかも しれません).こぼしてしまったミルクを嘆いても何の役にも立ちません(済んだ事を嘆いても仕方がありません)( "It is of no use now to “cry over spilt milk”." )(こぼして しまった みるくを なげいても なんの やくにも たちません〈すんだことをなげいてもしかたがありません〉).それより,とりわけ私たちの聖母の為に,第1土曜日の祈り(”the devotion of the First Saturdays”)を実践するとよいでしょう( "It is of use to practise the devotion of the First Saturdays, for Our Lady's sake especially." )(それより,とりわけわたくしたちのせいぼのためにだいいちどようびのいのりをじっせんするとよいでしょう).聖母は私たちの救霊をお諦めにならないでしょう( "She will not cease trying to save us." )(せいぼは わたくしたちの きゅうれいを おあきらめに ならないでしょう).
キリエ・エレイソン.
3人の善良な男達が
氷の様に冷たい湖に
落ちて死にました.
( "Three good young men
were swept to icy death." )
(さんにんの
ぜんりょうな おとこたちが
こおりの ように つめたい
みずうみにおちて
しにました.)
私達は息を引き取る間際に,
私達の聖母の事を
心に留めましょう.
( "Let's heed Our Lady,
to our dying breath." )
(わたくしたちは
いきを ひきとる まぎわに,
わたくしたちの
せいぼの ことを
こころに とめましょう.)
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
* * *
(注:本投稿記事〈第383回エレイソン・コメンツ「裏話 V〈うらばなし その ご〉 "INSIDE STORY – V" 」〉は2015年1月15日23:56時に掲載されました.)
2014年11月15日土曜日
2014年11月8日土曜日
382 裏話 IV 11/8
エレイソン・コメンツ 第382回 (2014年11月8日)
6年前のロザリオ聖戦に纏わり聖ピオ十世会( "SSPX" )の表(おもて)で起きた出来事の裏話はここでクライマックスに差しかかります( "And so we come to the climax of the inside story of the outside events of the Rosary Crusades of the Society of St Pius X six years ago." )(ろくねん まえの ろざりお せいせんに まつわり せいぴお じゅっせい かいの おもてで おきた できごとの うらばなしは ここで くらいまっくすに さしかかり ます).フェレー司教は聖母がファティマでお約束になったロシア奉献を条件とする「平和の時期」を信じて,教会と世界の危機に対処する為天の解決策を選ぶでしょうか( "Would Bishop Fellay choose Heaven's solution to the crisis of Church and World, trusting in Our Lady's promise at Fatima of Russia's conversion and a 'period of peace' if only Russia is consecrated to Her Immaculate Heart, …" ),それとも「2+2=4」の伝統と「2+2=4ないし5」の公会議との合成を作り上げる為のローマとの話し合いという人間的解決策を選ぶでしょうか?( "… or would he choose the human solution of talks with Rome to fabricate a synthesis of Tradition (2+2=4) with the Council (2+2=4 or 5)? " ) (ふぇれー しきょうは せいぼが ふぁてぃまで おやくそくに なった ろしあ ほうけんを じょうけん とする「へいわのじき」を しんじて,きょうかいと せかいの ききに たいしょする ため てんの かいけつ さくを えらぶ でしょうか.それとも「2+2=4」の でんとうと「2+2=4ないし5」の こうかいぎとの ごうせいを つくりあげる ための ろーまとの はなしあい という にんげんてき かいけつさく を えらぶ でしょうか?)特にローマ教皇庁の人々が2008年6月に再び動き出した時,悪魔がこの様な選択肢をフェレー司教に提供した訳でないことは明確です( "We can be certain that this is not how the Devil presented the choice to the Bishop, especially when in June 2008 the Romans came back into play." )(とくに ろーま きょうこう ちょうの ひとびとが にせん はちねん ろくがつに ふたたび うごきだした とき,あくまが このような せんたくしを ふぇれー しきょうに ていきょう した わけ でない ことは めいかく です).
その月に,聖母が使者経由で(前教皇)ベネディクト16世に宛てられた書簡を通じ,バチカンはロシアの奉献実現の為のロザリオ聖戦が行われるかもしれないと知りました( "In that month the Vatican became aware of the possible Rosary Crusade for the Consecration of Russia through a letter which the same messenger of Our Lady had addressed to Pope Benedict XVI, …" )(その つきに,せいぼが ししゃ けいゆで 〈ぜん きょうこう〉べねでぃくと じゅうろく せいに あてられた しょかんを つうじ,ばちかんは ろしあの ほうけん じつげんの ための ろざりお せいせんが おこなわれる かも しれないと しりました).聖母はその試みに向けた教皇の祝福をお求めになりました( "… invoking his blessing upon such an endeavor." )(せいぼは その こころみに むけた きょうこうの しゅくふくを おもとめに なりました).バチカンはこの書簡を真剣に受け止めました( "The Vatican took the letter seriously." )(ばちかんは この しょかんを しんけんに うけとめ ました).ダリオ・カストリリョン・オヨス枢機卿( "Cardinal Darío Castrillón Hoyos" )は堅振(=堅信)の秘蹟授与の祭式を執り行う為( "to administer the sacrament of Confirmation" )ハワイ滞在中のフェレー司教に直ちにローマへ戻るよう命じました( "Cardinal Darío Castrillón Hoyos ordered Bishop Fellay to return directly to Rome from Hawaii where His Excellency had gone to administer the sacrament of Confirmation." )(だりお・かすとりりょん・およす すうききょうは けんしんの ひせき じゅよの さいしきを とりおこなう ため はわい たいざい ちゅうの ふぇれー しきょうに ただちに ろーまへ もどるよう めいじ ました).6月4日,枢機卿はローマの数名の高位聖職者(司教?)たちと共に( "On June 4, Cardinal Castrillón with a group of several Roman prelates, …" ),もしフェレー司教がロシア奉献実現の為のロザリオ聖戦を呼び掛けるなら,教皇庁は将来の如何なる話し合いのドアをも閉ざし,しばらくの間既に効力を失っていて休眠状態にあった SSPX 司教たちの破門を復活させる( "would revive the dormant “excommunications” which had for the time being been rendered inoperative" )と脅しをかけました( "… threatened Bishop Fellay that if he were to call for a Rosary Crusade for the Consecration of Russia, Rome would close the door to any future discussions, and Rome would revive the dormant “excommunications” which had for the time being been rendered inoperative." )(ろくがつ よっか,すうききょうは ろーまの すうめいの こうい せいしょくしゃ〈しきょう?〉 たちと ともに,もし ふぇれー しきょうが ろしあ ほうけん じつげんの ための ろざりお せいせんを よびかける なら,きょうこう ちょうは しょうらいの いかなる はなしあいの どあ をも とざし,しばらくの あいだ すでに こうりょくを うしなっていて きゅうみん じょうたいに あった せいぴお じゅっせい かい しきょう たちの はもんを ふっかつ させると おどしを かけました).この時,バチカンはフェレー司教に「バチカン最後通告」( "Vatican Ultimatum" ),即ち話し合いに必要な5条件を押しつけようとしました(〈5条件〉を課そうと試みた)( "That was also when the Vatican tried to impose on Bishop Fellay the "Vatican Ultimatum", or five conditions necessary for any discussions." )(このとき,ばちかんは ふぇれー しきょうに「ばちかん さいご つうこく」〈を かそうと こころみた〉,すなわち はなしあいに ひつような ごじょうけんを おしつけようと しました〈〈ごじょうけん〉を かそうと こころみた〉).
ローマから受けるこうした圧力の下で( "So under this Roman pressure, …" ),フェレー司教は2008年初秋になっても,聖母の度重なる督促にもかかわらず,ロザリオ聖戦を求められた通りに行うかどうか決め兼ねて決め兼ねていました( "… Bishop Fellay had still not decided in the early autumn of 2008 to do as Our Lady asked, despite her repeated requests, …" )(ろーまから うける こうした あつりょくの もとで,ふぇれー しきょうは にせん はちねん しょしゅうに なっても,せいぼの たびかさなる さいそくにも かかわらず,ろざりお せいせんを もとめられた とおりに おこなうか どうか きめかねて いました).そして,2008年10月5日,聖母直々の警告にも拘らず,司教は11月からクリスマスにかけて設定された第2回目のロザリオ聖戦を1988年の破門解禁の目的の為とする選択をしました( "…and in fact on October 5, 2008, despite her direct warnings, he chose to apply the Second Rosary Crusade, set to run from November 1 until Christmas, to the intention of the “excommunications” of 1988 being lifted." )(そして,にせん はちねん じゅうがつ いつか,せいぼ じきじきの けいこく にも かかわらず,しきょうは じゅういち がつ から くりすますに かけて せってい された だいに かいめの ろざりお せいせんを せんきゅうひゃく はちじゅうはち ねんの はもん かいじょの もくてきの ため とする せんたくを しました)).同じ日,私たちの主(イエズス・キリスト)は SSPX を潰す為御手を振り下ろす自らの幻影を通して御怒りを聖母の使者にお示しになりました( "On the same day Our Lord displayed His anger to the messenger of Our Lady by a vision of Him bringing down His hand to destroy the SSPX, …" )(おなじ ひ,わたくし たちの しゅ〈いえずす・きりすと〉は せいぴお じゅっせい かいを つぶす ため てを ふりおろす みずからの げんえいを とおして おん いかりを せいぼの ししゃに おしめしに なりました).そして,主は彼らを「ファリザイ人等,偽善者等」と呼び( "… while he referred to them as "Pharisees and hypocrites”, …" ),「私はもう彼らには我慢が出来ない」と言われました( "…and said, “I can no longer put up with them.” " )(そして,しゅは かれらを「ふぁりざいじんら,ぎぜんしゃら」とよび,「わたしは もう かれら には がまんが できない」と いわれ ました).だが,主の御手が振り下ろされる瞬間( "But in the very moment of Our Lord’s hand falling, …" ),使者は(主なる神の御祝福に与られる)童貞マリアさま( "the Blessed Virgin Mary" )が SSPX のためにご仲介に入り(=お執り成しになり)( "… the messenger saw the Blessed Virgin Mary interceding on the Society's behalf, …" ),主の御慈悲(=御憐れみ)をご懇願になりながら「諸々の人間たちの弱さを御思い起こしになって下さい.」と言っておられるのを目にしました( "… pleading for mercy and saying “Remember the weakness of men.” " )(だが,しゅの おんてが ふりおろされる しゅんかん,ししゃは〈しゅなる かみの おんしゅくふくに あずかられる〉どうてい まりあ さまが せいぴお じゅっせい かいの ために ごちゅうかい)に はいり〈=おとりなしに なり〉,しゅの ごじひ〈=おんあわれみ〉を ごこんがんに なりながら「もろもろの にんげん たちの よわさを おおもい おこしに なって ください.」と いって おられる のを めに しました)(訳注・3-1).使者は主の御怒りが忽ち御慈悲に道を譲るのを見ました( "The messenger then saw Our Lord's anger immediately give way to His mercy." )(ししゃは しゅの おん いかりが たちまち ごじひに みちを ゆずる のを みました).
しかし,フェレー司教の心は最早決まっていました( "But the Bishop's mind was now made up." )(しかし,ふぇれー しきょうの こころは もはや きまって いました).3週間後の10月26日,聖母のルルドご出現150周年を祝って SSPX のルルド巡礼のクライマックスとなる司教ミサ聖祭で( "Three weeks later on October 26, at the Pontifical Mass climaxing the Society's pilgrimage to Lourdes for the 150th Jubilee of Our Lady's apparitions at Lourdes, …" ),司教は前へ進み出て,第2回ロザリオ聖戦を1988年の破門解禁の為に奉献すると発表しました( "… he went ahead with announcing that the second Rosary Crusade would be dedicated to the lifting of the “excommunications” of 1988." )(さんしゅうかんごの じゅうがつ にじゅうろくにち,せいぼの るるど ごしゅつげん ひゃくごじゅっ しゅうねん を いわって せいぴお じゅっせい かいが るるどに おくった じゅんれいの くらいまっくす となる しきょう みさ せいさいで しきょうは まえへ すすみ でて,だい にかい ろざりお せいせんを せん きゅうひゃく はちじゅうはち ねんの はもん かいきんの ために ほうけん すると はっぴょう しました).12月15日,彼はベネディクト16世の要請に応じて,非公式書簡を送り,教皇に破門の解禁を願い出ました( "On December 16 he wrote in private to the Pope, as requested by Benedict XVI, the letter asking the Pope for the lifting of the excommunications of 1988." ).2009年1月24日,破門はローマによって一部解禁されました( "On January 24, 2009, these were partially lifted by Rome." )(じゅうにがつじゅうごにち,かれはべねでぃくとじゅうろくせいのようせいにおうじて,ひこうしきしょかんをおくり,きょうこうにはもんのかいきんをねがいでました.にせん くねん いちがつ にじゅう よっか,はもんは ろーまに よって いちぶ かいきん されました).フェレー司教はこれを(神の)祝福に与っておられる童貞マリアさまのご仲介(=お執り成し)のお蔭だとしました( "Bishop Fellay directly attributed this to the intervention of the Blessed Virgin Mary, …" ).彼は自分の粘り強い外交がもたらした見かけの勝利に酔いしれたに違いありません( "… and he must have exulted in this seeming triumph of his patient diplomacy." )(ふぇれー しきょうは これを〈かみの〉しゅくふくに あずかって おられる どうてい まりあさまの ごちゅうかい〈=おとりなし〉の おかげだと しました.かれは じぶんの ねばり づよい がいこうが もたらした みかけの しょうりに よいしれたに ちがいありません).
だが,悲しいかな,如何なる勝利も短命です( "Alas, any triumph was short-lived, …" )(だが,かなしいかな,いかなる しょうりも たんめい です).というのも,数日も経たないうちにカトリック伝統派の敵たちが全世界に張り巡らせたメディアを使ってカトリック教皇とカトリック伝統の再結合( "… reunion of the Catholic Pope with Catholic Tradition" )を吹き飛ばすための魚雷を発射したからです( "… because within days the enemies of Catholic Tradition fired off in their worldwide media a torpedo perfectly designed to blow our of the water the threatening reunion of the Catholic Pope with Catholic Tradition." )(というのも,すうじつも たたない うちに かとりっく でんとうはの てき たちが ぜんせかいに はりめぐらせた めでぃあを つかって かとりっく きょうこうと かとりっく でんとうの さいけつごうを ふきとばす ための ぎょらいを はっしゃ した から です).第二次世界大戦中の「ホロコースト」や「ガス室」に大きな疑問を投げかけた SSPX 一司教の11月1日の6分間の映像が公開されると( "When the six-minute flim clip from November 1 of an SSPX Bishop casting serious doubt on the 'holocaust' and 'gas chambers' of World War II was made public, …" ),ベネディクト16世は「反ユダヤ主義者たち」と付き合っているとの恐ろしい非難をかわすため逃げ回らなければなりませんでした( "… Benedict XVI had to run for cover from the deadly accusation of consorting with “anti-semites”." )(だいにじ せかい たいせん ちゅうの 「ほろこーすと」や「がす しつ」に おおきな ぎもんを なげかけた せいぴお じゅっせい かい いち しきょうの じゅういちがつ ついたちの ろっぷん かんの えいぞうが こうかい されると,べねでぃくと じゅうろく せいは「はん ゆだや しゅぎしゃ たち」と つきあっている との おそろしい ひなんを かわす ため にげ まわらな ければ なりません でした). SSPX とローマの合意は少なくとも数年の間阻まれました( "The SSPX-Rome agreement was blocked, for at least a few years. " )(せいぴお じゅっせい かいと ろーまの ごういは すくなくとも すうねんの あいだ はばまれ ました). (裏話終わり)(To be concluded.) (うらばなし おわり)
キリエ・エレイソン.
司教の諸々のローマ計画は
軌道に乗っていました.
( "The Bishop's Roman plans
were well on track" )
(しきょうの もろもろの ろーま けいかくは
きどうに のって いました.)
神意が介入し,それを押し止めるまでは.
( "Till Providence intervened and
held them back." )
(しんいが かいにゅうし,
それを おしとどめる までは.)
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
訳注 3-1
『…(聖母マリアが)主の御慈悲(=御憐れみ)をご懇願になりながら「諸々の人間たちの弱さを御思い起こしになって下さい.」と言っておられるのを目にしました.』
" “… pleading for mercy and saying “Remember the weakness of men.” "
について,簡単な説明を,追って掲載いたします.
(注:本投稿記事〈第382回エレイソン・コメンツ「裏話 III〈うらばなし さん〉」〉は2014年12月20日23:48時に掲載されました.)
6年前のロザリオ聖戦に纏わり聖ピオ十世会( "SSPX" )の表(おもて)で起きた出来事の裏話はここでクライマックスに差しかかります( "And so we come to the climax of the inside story of the outside events of the Rosary Crusades of the Society of St Pius X six years ago." )(ろくねん まえの ろざりお せいせんに まつわり せいぴお じゅっせい かいの おもてで おきた できごとの うらばなしは ここで くらいまっくすに さしかかり ます).フェレー司教は聖母がファティマでお約束になったロシア奉献を条件とする「平和の時期」を信じて,教会と世界の危機に対処する為天の解決策を選ぶでしょうか( "Would Bishop Fellay choose Heaven's solution to the crisis of Church and World, trusting in Our Lady's promise at Fatima of Russia's conversion and a 'period of peace' if only Russia is consecrated to Her Immaculate Heart, …" ),それとも「2+2=4」の伝統と「2+2=4ないし5」の公会議との合成を作り上げる為のローマとの話し合いという人間的解決策を選ぶでしょうか?( "… or would he choose the human solution of talks with Rome to fabricate a synthesis of Tradition (2+2=4) with the Council (2+2=4 or 5)? " ) (ふぇれー しきょうは せいぼが ふぁてぃまで おやくそくに なった ろしあ ほうけんを じょうけん とする「へいわのじき」を しんじて,きょうかいと せかいの ききに たいしょする ため てんの かいけつ さくを えらぶ でしょうか.それとも「2+2=4」の でんとうと「2+2=4ないし5」の こうかいぎとの ごうせいを つくりあげる ための ろーまとの はなしあい という にんげんてき かいけつさく を えらぶ でしょうか?)特にローマ教皇庁の人々が2008年6月に再び動き出した時,悪魔がこの様な選択肢をフェレー司教に提供した訳でないことは明確です( "We can be certain that this is not how the Devil presented the choice to the Bishop, especially when in June 2008 the Romans came back into play." )(とくに ろーま きょうこう ちょうの ひとびとが にせん はちねん ろくがつに ふたたび うごきだした とき,あくまが このような せんたくしを ふぇれー しきょうに ていきょう した わけ でない ことは めいかく です).
その月に,聖母が使者経由で(前教皇)ベネディクト16世に宛てられた書簡を通じ,バチカンはロシアの奉献実現の為のロザリオ聖戦が行われるかもしれないと知りました( "In that month the Vatican became aware of the possible Rosary Crusade for the Consecration of Russia through a letter which the same messenger of Our Lady had addressed to Pope Benedict XVI, …" )(その つきに,せいぼが ししゃ けいゆで 〈ぜん きょうこう〉べねでぃくと じゅうろく せいに あてられた しょかんを つうじ,ばちかんは ろしあの ほうけん じつげんの ための ろざりお せいせんが おこなわれる かも しれないと しりました).聖母はその試みに向けた教皇の祝福をお求めになりました( "… invoking his blessing upon such an endeavor." )(せいぼは その こころみに むけた きょうこうの しゅくふくを おもとめに なりました).バチカンはこの書簡を真剣に受け止めました( "The Vatican took the letter seriously." )(ばちかんは この しょかんを しんけんに うけとめ ました).ダリオ・カストリリョン・オヨス枢機卿( "Cardinal Darío Castrillón Hoyos" )は堅振(=堅信)の秘蹟授与の祭式を執り行う為( "to administer the sacrament of Confirmation" )ハワイ滞在中のフェレー司教に直ちにローマへ戻るよう命じました( "Cardinal Darío Castrillón Hoyos ordered Bishop Fellay to return directly to Rome from Hawaii where His Excellency had gone to administer the sacrament of Confirmation." )(だりお・かすとりりょん・およす すうききょうは けんしんの ひせき じゅよの さいしきを とりおこなう ため はわい たいざい ちゅうの ふぇれー しきょうに ただちに ろーまへ もどるよう めいじ ました).6月4日,枢機卿はローマの数名の高位聖職者(司教?)たちと共に( "On June 4, Cardinal Castrillón with a group of several Roman prelates, …" ),もしフェレー司教がロシア奉献実現の為のロザリオ聖戦を呼び掛けるなら,教皇庁は将来の如何なる話し合いのドアをも閉ざし,しばらくの間既に効力を失っていて休眠状態にあった SSPX 司教たちの破門を復活させる( "would revive the dormant “excommunications” which had for the time being been rendered inoperative" )と脅しをかけました( "… threatened Bishop Fellay that if he were to call for a Rosary Crusade for the Consecration of Russia, Rome would close the door to any future discussions, and Rome would revive the dormant “excommunications” which had for the time being been rendered inoperative." )(ろくがつ よっか,すうききょうは ろーまの すうめいの こうい せいしょくしゃ〈しきょう?〉 たちと ともに,もし ふぇれー しきょうが ろしあ ほうけん じつげんの ための ろざりお せいせんを よびかける なら,きょうこう ちょうは しょうらいの いかなる はなしあいの どあ をも とざし,しばらくの あいだ すでに こうりょくを うしなっていて きゅうみん じょうたいに あった せいぴお じゅっせい かい しきょう たちの はもんを ふっかつ させると おどしを かけました).この時,バチカンはフェレー司教に「バチカン最後通告」( "Vatican Ultimatum" ),即ち話し合いに必要な5条件を押しつけようとしました(〈5条件〉を課そうと試みた)( "That was also when the Vatican tried to impose on Bishop Fellay the "Vatican Ultimatum", or five conditions necessary for any discussions." )(このとき,ばちかんは ふぇれー しきょうに「ばちかん さいご つうこく」〈を かそうと こころみた〉,すなわち はなしあいに ひつような ごじょうけんを おしつけようと しました〈〈ごじょうけん〉を かそうと こころみた〉).
ローマから受けるこうした圧力の下で( "So under this Roman pressure, …" ),フェレー司教は2008年初秋になっても,聖母の度重なる督促にもかかわらず,ロザリオ聖戦を求められた通りに行うかどうか決め兼ねて決め兼ねていました( "… Bishop Fellay had still not decided in the early autumn of 2008 to do as Our Lady asked, despite her repeated requests, …" )(ろーまから うける こうした あつりょくの もとで,ふぇれー しきょうは にせん はちねん しょしゅうに なっても,せいぼの たびかさなる さいそくにも かかわらず,ろざりお せいせんを もとめられた とおりに おこなうか どうか きめかねて いました).そして,2008年10月5日,聖母直々の警告にも拘らず,司教は11月からクリスマスにかけて設定された第2回目のロザリオ聖戦を1988年の破門解禁の目的の為とする選択をしました( "…and in fact on October 5, 2008, despite her direct warnings, he chose to apply the Second Rosary Crusade, set to run from November 1 until Christmas, to the intention of the “excommunications” of 1988 being lifted." )(そして,にせん はちねん じゅうがつ いつか,せいぼ じきじきの けいこく にも かかわらず,しきょうは じゅういち がつ から くりすますに かけて せってい された だいに かいめの ろざりお せいせんを せんきゅうひゃく はちじゅうはち ねんの はもん かいじょの もくてきの ため とする せんたくを しました)).同じ日,私たちの主(イエズス・キリスト)は SSPX を潰す為御手を振り下ろす自らの幻影を通して御怒りを聖母の使者にお示しになりました( "On the same day Our Lord displayed His anger to the messenger of Our Lady by a vision of Him bringing down His hand to destroy the SSPX, …" )(おなじ ひ,わたくし たちの しゅ〈いえずす・きりすと〉は せいぴお じゅっせい かいを つぶす ため てを ふりおろす みずからの げんえいを とおして おん いかりを せいぼの ししゃに おしめしに なりました).そして,主は彼らを「ファリザイ人等,偽善者等」と呼び( "… while he referred to them as "Pharisees and hypocrites”, …" ),「私はもう彼らには我慢が出来ない」と言われました( "…and said, “I can no longer put up with them.” " )(そして,しゅは かれらを「ふぁりざいじんら,ぎぜんしゃら」とよび,「わたしは もう かれら には がまんが できない」と いわれ ました).だが,主の御手が振り下ろされる瞬間( "But in the very moment of Our Lord’s hand falling, …" ),使者は(主なる神の御祝福に与られる)童貞マリアさま( "the Blessed Virgin Mary" )が SSPX のためにご仲介に入り(=お執り成しになり)( "… the messenger saw the Blessed Virgin Mary interceding on the Society's behalf, …" ),主の御慈悲(=御憐れみ)をご懇願になりながら「諸々の人間たちの弱さを御思い起こしになって下さい.」と言っておられるのを目にしました( "… pleading for mercy and saying “Remember the weakness of men.” " )(だが,しゅの おんてが ふりおろされる しゅんかん,ししゃは〈しゅなる かみの おんしゅくふくに あずかられる〉どうてい まりあ さまが せいぴお じゅっせい かいの ために ごちゅうかい)に はいり〈=おとりなしに なり〉,しゅの ごじひ〈=おんあわれみ〉を ごこんがんに なりながら「もろもろの にんげん たちの よわさを おおもい おこしに なって ください.」と いって おられる のを めに しました)(訳注・3-1).使者は主の御怒りが忽ち御慈悲に道を譲るのを見ました( "The messenger then saw Our Lord's anger immediately give way to His mercy." )(ししゃは しゅの おん いかりが たちまち ごじひに みちを ゆずる のを みました).
しかし,フェレー司教の心は最早決まっていました( "But the Bishop's mind was now made up." )(しかし,ふぇれー しきょうの こころは もはや きまって いました).3週間後の10月26日,聖母のルルドご出現150周年を祝って SSPX のルルド巡礼のクライマックスとなる司教ミサ聖祭で( "Three weeks later on October 26, at the Pontifical Mass climaxing the Society's pilgrimage to Lourdes for the 150th Jubilee of Our Lady's apparitions at Lourdes, …" ),司教は前へ進み出て,第2回ロザリオ聖戦を1988年の破門解禁の為に奉献すると発表しました( "… he went ahead with announcing that the second Rosary Crusade would be dedicated to the lifting of the “excommunications” of 1988." )(さんしゅうかんごの じゅうがつ にじゅうろくにち,せいぼの るるど ごしゅつげん ひゃくごじゅっ しゅうねん を いわって せいぴお じゅっせい かいが るるどに おくった じゅんれいの くらいまっくす となる しきょう みさ せいさいで しきょうは まえへ すすみ でて,だい にかい ろざりお せいせんを せん きゅうひゃく はちじゅうはち ねんの はもん かいきんの ために ほうけん すると はっぴょう しました).12月15日,彼はベネディクト16世の要請に応じて,非公式書簡を送り,教皇に破門の解禁を願い出ました( "On December 16 he wrote in private to the Pope, as requested by Benedict XVI, the letter asking the Pope for the lifting of the excommunications of 1988." ).2009年1月24日,破門はローマによって一部解禁されました( "On January 24, 2009, these were partially lifted by Rome." )(じゅうにがつじゅうごにち,かれはべねでぃくとじゅうろくせいのようせいにおうじて,ひこうしきしょかんをおくり,きょうこうにはもんのかいきんをねがいでました.にせん くねん いちがつ にじゅう よっか,はもんは ろーまに よって いちぶ かいきん されました).フェレー司教はこれを(神の)祝福に与っておられる童貞マリアさまのご仲介(=お執り成し)のお蔭だとしました( "Bishop Fellay directly attributed this to the intervention of the Blessed Virgin Mary, …" ).彼は自分の粘り強い外交がもたらした見かけの勝利に酔いしれたに違いありません( "… and he must have exulted in this seeming triumph of his patient diplomacy." )(ふぇれー しきょうは これを〈かみの〉しゅくふくに あずかって おられる どうてい まりあさまの ごちゅうかい〈=おとりなし〉の おかげだと しました.かれは じぶんの ねばり づよい がいこうが もたらした みかけの しょうりに よいしれたに ちがいありません).
だが,悲しいかな,如何なる勝利も短命です( "Alas, any triumph was short-lived, …" )(だが,かなしいかな,いかなる しょうりも たんめい です).というのも,数日も経たないうちにカトリック伝統派の敵たちが全世界に張り巡らせたメディアを使ってカトリック教皇とカトリック伝統の再結合( "… reunion of the Catholic Pope with Catholic Tradition" )を吹き飛ばすための魚雷を発射したからです( "… because within days the enemies of Catholic Tradition fired off in their worldwide media a torpedo perfectly designed to blow our of the water the threatening reunion of the Catholic Pope with Catholic Tradition." )(というのも,すうじつも たたない うちに かとりっく でんとうはの てき たちが ぜんせかいに はりめぐらせた めでぃあを つかって かとりっく きょうこうと かとりっく でんとうの さいけつごうを ふきとばす ための ぎょらいを はっしゃ した から です).第二次世界大戦中の「ホロコースト」や「ガス室」に大きな疑問を投げかけた SSPX 一司教の11月1日の6分間の映像が公開されると( "When the six-minute flim clip from November 1 of an SSPX Bishop casting serious doubt on the 'holocaust' and 'gas chambers' of World War II was made public, …" ),ベネディクト16世は「反ユダヤ主義者たち」と付き合っているとの恐ろしい非難をかわすため逃げ回らなければなりませんでした( "… Benedict XVI had to run for cover from the deadly accusation of consorting with “anti-semites”." )(だいにじ せかい たいせん ちゅうの 「ほろこーすと」や「がす しつ」に おおきな ぎもんを なげかけた せいぴお じゅっせい かい いち しきょうの じゅういちがつ ついたちの ろっぷん かんの えいぞうが こうかい されると,べねでぃくと じゅうろく せいは「はん ゆだや しゅぎしゃ たち」と つきあっている との おそろしい ひなんを かわす ため にげ まわらな ければ なりません でした). SSPX とローマの合意は少なくとも数年の間阻まれました( "The SSPX-Rome agreement was blocked, for at least a few years. " )(せいぴお じゅっせい かいと ろーまの ごういは すくなくとも すうねんの あいだ はばまれ ました). (裏話終わり)(To be concluded.) (うらばなし おわり)
キリエ・エレイソン.
司教の諸々のローマ計画は
軌道に乗っていました.
( "The Bishop's Roman plans
were well on track" )
(しきょうの もろもろの ろーま けいかくは
きどうに のって いました.)
神意が介入し,それを押し止めるまでは.
( "Till Providence intervened and
held them back." )
(しんいが かいにゅうし,
それを おしとどめる までは.)
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
訳注 3-1
『…(聖母マリアが)主の御慈悲(=御憐れみ)をご懇願になりながら「諸々の人間たちの弱さを御思い起こしになって下さい.」と言っておられるのを目にしました.』
" “… pleading for mercy and saying “Remember the weakness of men.” "
について,簡単な説明を,追って掲載いたします.
(注:本投稿記事〈第382回エレイソン・コメンツ「裏話 III〈うらばなし さん〉」〉は2014年12月20日23:48時に掲載されました.)
2014年11月1日土曜日
381 裏話 III 11/1
エレイソン・コメンツ 第381回 (2014年11月1日)
私たちのファティマの聖母が6年前,聖ピオ10世会( SSPX )総長( "the Superior General of the Society of St Pius X (SSPX) " )に宛てられたメッセージの話を続けるには少し背景を説明しなければなりません( "To continue the story of Our Lady's messages to the Superior General of the Society of St Pius X (SSPX) six years ago, some background is needed." )(わたくしたちの ふぁてぃまの せいぼが ろくねん まえ,せい ぴお じゅっせい かい そうちょうに あてられた めっせーじの はなしを つづける には すこし はいけいを せつめい しなければ なりません).第二バチカン公会議(1962-1965年)はカトリック教会を無神論が憚る現代世界に折り合わせようと捻じ曲げてしまいました( "Vatican II (1962-1965) wrenched the Catholic Church off course to reconcile it with the godless modern world." )(だいに ばちかん こうかいぎ〈せん きゅうひゃく ろくじゅう に ねん から せん きゅうひゃく ろくじゅう ご ねん〉は かとりっく きょうかいを むしんろんが はばかる げんだい せかいに おりあわせようと ねじまげて しまい ました).そして,ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )(1905-1991年)が1970年,カトリック信徒たちを正しい道に留まらせる為 SSPX を設立しました( "Archbishop Lefebvre (1905-1991) founded the SSPX in 1970 to help Catholics to stay on course, …" ).大司教はその後21年間, SSPX に正しい道を辿らせました( "… and for 21 years he kept it on course. " )(そして,るふぇーぶる だいしきょう〈せん きゅうひゃく ご ねん から せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねん〉がせんきゅうひゃく ななじゅう ねん,かとりっく しんと たちを ただしい みちに とどまらせる ため せいぴお じゅっせい かい〈えすえすぴーえくす〉を せつりつ しました.だいしきょうは そのご にじゅういち ねんかん,せいぴお じゅっせい かいに ただしい みちを たどらせ ました).だが,彼の死後間もなく,若い後継者たちは彼が切り開いた道を辿っていると誤って思い込んだのか(それとも自分を欺いたのか,神のみぞ知る事ですが),公会議派ローマとの和解を夢見るようになりました( "But as soon as he died, mistakenly convinced (or self-deluded, God knows) that they were still following him, his younger successors in fact dreamt of a reconciliation with Conciliar Rome. " )(だが,かれの しご まもなく,わかい こうけいしゃ たちは かれが きりひらいた みちを たどって いると あやまって おもいこんだ のか〈それとも じぶんを あざむいた のか,かみ のみぞ しることですが〉,こうかいぎは ろーま との わかいを ゆめみる ように なりました).
2000年になると,公会議派指導者たちは SSPX(聖ピオ十世会)ローマの諸々のバシリカ(=大聖堂)(訳注・イタリア語=バジリカ)( "the Basilicas of Rome" )への聖年巡礼を成功させたことに強い関心を示し同会に目を向けました( "In 2000 the Conciliar leaders sat up and took notice of the SSPX when it made a highly successful Jubilee pilgrimage to the Basilicas of Rome." )(にせんねん になると,こうかいぎは しどうしゃ たちは せいぴおじゅっせい かい〈エスエスピーエクス〉が ローマの もろもろの ばしりか〈=だいせいどう〉への せいねん じゅんれいを せいこう させた ことに つよい かんしんを しめし どうかいに めを むけ ました). SSPX とローマとの接触が公然と (内密でなく) 再開され,ローマは SSPX を吐き出せないと知り,飲み込もうと本気で取り掛かり始めました( "Public (as opposed to private) contacts were re-opened between the SSPX and the Romans, who now set about swallowing that SSPX which they had proved unable to spit out." )(せいぴお じゅっせい かいと ろーま との せっしょくが こうぜんと 〈ないみつ でなく〉 さいかい され,ろーまは せいぴおじゅっせい かい を はきだせない としり,のみこもうと ほんきで とりかかり はじめました.).「話し合いましょう」とローマの指導者たちは SSPX に伝えました( " “Let us talk,” they said. " ). SSPX 指導部は「あなた方はトレント公会議様式によるミサ聖祭の執行を自由化し,1988年6月30日に聖別を受けた SSPX の司教たちに対する破門を解除して誠意を示さなければなりません」と,初め用心深いように見えました( "The SSPX leaders appeared to be wary: “You must prove your good will by liberating the Tridentine Mass and lifting the excommunications imposed on the SSPX bishops consecrated on June 30, 1988”." )(「はなし あい ましょう」と ろーまの しどうしゃ たちは せいぴお じゅっせい かいに つたえ ました.せいぴお じゅっせい かい しどうぶは「あなたがたは とれんと こうかいぎ ようしきに よる みさ せいさいの しっこうを じゆうか し,せん きゅうひゃく はちじゅうはち ねん ろくがつ さんじゅうにちに せいべつを うけた せいぴお じゅっせい かいの しきょう たちに たいする はもんを かいじょ して せいいを しめさなければ なりません」と,はじめ ようじん ぶかい ように みえました).その時,少なくとも表向きには何も起きませんでした.双方にとって和解という考えは機が熟すまで時間が必要だったからです( "Little then happened, at least in public, because on both sides the idea of reconciliation needed to mature, …" )(そのとき,すくなく とも おもてむき には なにも おきません でした.そうほうに とって わかい という かんがえは きが じゅくす まで じかんが ひつよう だった から です).だが,2006年に和解派の首謀者フェレー司教が総長に再選されました( "… but in 2006 Bishop Fellay, SSPX ringleader of the reconciliation, was re-elected Superior General." ).私たちが前回までのエレイソン・コメンツで見た通り,これはこの話の主題である聖母のメッセージによるご介入が始まった直後の事でした( "As we have seen, this was soon after Our Lady began to intervene with the messages of which we are telling the story." )(だが,にせん ろくねんに わかい は の しゅぼうしゃ ふぇれー しきょうが そうちょうに さいせん されました.わたくし たちが ぜんかい までの えれいそん・こめんつで みたとおり,これは この はなしの しゅだい である せいぼの めっせーじに よる ごかいにゅうが はじまった ちょくごの こと でした).
同じ2006年,フェレー司教は聖母からロシアの奉献実現の為のロザリオ聖戦を組織して欲しいとのご要請を受けました.だが,彼はそのお求めをローマとの話し合いの第1前提条件,即ちトレント・ミサ聖祭自由化の為に利用しようと方向転換しました( "In 2006 her desire for a Rosary Crusade for Russia's Consecration was adopted by Bishop Fellay, but re-directed by him towards the first pre-condition for talks with Rome, the liberation of the Mass." ).(おなじ にせん ろく ねん,ふぇれー しきょうは せいぼ から ロシアの ほうけん じつげんの ための ろざりお せいせんを そしき して ほしい との ごようせいを うけました.だが,かれは その おもとめを ろーま との はなしあいの だいいち ぜんてい じょうけん,すなわち とれんと・みさ せいさい じゆうかの ために りよう しようと ほうこう てんかん しました).翌2007年,教皇ベネディクト16世は教令 ( "Motu Proprio " )を出し,この条件の一部を満たしました( "In 2007 Benedict XVI partially satisfied the pre-conditon with his Motu Proprio." ).フェレー司教は条件が完全に満たされたと喜び,第2の前提条件である破門の解除に向けて動き続けました( "Rejoicing as though it were a complete satisfaction, Bishop Fellay moved on to the second pre-condition, the lifting of the excommunications, …" )(ふぇれー しきょうは じょうけんが かんぜんに みたされたと よろこび,だいにの ぜんてい じょうけん である はもんの かいじょに むけて うごき つづけ ました).ところが私たちの聖母は教皇教令 直後の2007年8月に一連のメッセージを送り始められ,第2回ロザリオ聖戦はロシアの奉献実現だけを目的とすべきだとしつこくお求めになりました( "… whereas Our Lady, immediately after the Motu Proprio, began a series of messages in August of 2007 insistently requesting that any second Rosary Crusade be dedicated to the Consecration of Russia." )(ところが わたくし たちの せいぼは きょうこう きょうれい ちょくごの にせん ななねん はちがつに いちれんの めっせーじを おくり はじめられ,だい にかい ろざりお せいせんは ろしあの ほうけん じつげん だけを もくてきと すべきだ と しつこく おもとめに なりました).しかし,フェレー司教はこれがローマ教皇庁の人々に受けない事を知っていた為,お求めに応じると確約しませんでした( "But Bishop Fellay would not commit himself because he knew that this Consecration did not appeal to the Romans." )(しかし,ふぇれー しきょうは これが ろーま きょうこうちょうの ひとびとに うけない ことを しっていた ため,おもとめに おうじると かくやく しません でした).ローマもフェレー司教も第二バチカン公会議とカトリック教の伝統という和解出来ないものを和解させる為,話し合いたいと望んでいました( "They wanted talks, and so did he, to reconcile the irreconcilable, Vatican II and Catholic Tradition." )(ろーまも ふぇれー しきょうも だいに ばちかん こうかいぎと かとりっくきょうの でんとうと いう わかい できない ものを わかい させる ため,はなし あいたいと のぞんで いました).さて,ここで裏話を続ける事が出来ます( "Now we can continue with the story." )(さて,ここでうらばなしをつづけることができます).
2008年初め,私たちの聖母はフェレー司教が相変わらず尻込みしているのをお知りになり,使者を通して「(第2回)ロザリオ聖戦を破門解除の為に利用しないように」とはっきり述べられ( "In early 2008 Our Lady, observing how the Bishop was still hesitating, told him quite firmly through the messenger that he was “not to use the (second) Crusade for the intention of lifting the excommunications”, …" ),もし司教がこれに反したら「結果は SSPX にとって致命的なものになるでしょう」とお伝えになりました( "… and that if he did, “it would be fatal for the Society of St Pius X.” " )(にせん はちねん はじめ,わたくし たちの せいぼは ふぇれー しきょうが あいかわらず しりごみ している のを おしりになり,ししゃを とおして「(だいにかい)ろざりお せいせんを はもん かいじょの ために りよう しない ように」とはっきり のべられ,もし しきょうが これに はんしたら「けっかは せいぴお じゅっせい かいに とって ちめいてきな ものに なる でしょう」と おつたえに なりました).聖母は自分はそのような努力の何れも祝福は致しませんが,忠実な信徒たちが(聖母に)捧げる無数のロザリオ祈願を通じ果たすロザリオ聖戦によって得られる果実(訳注・「果実」=「ロザリオ聖戦を通じ神が地上に御与え下さる特別の『恩寵』」.「ロシア奉献」は神の御心であるから,聖母が神よりのメッセージを人類にお伝えになっておられる.)をせめて破門解除以外の目的に活用するよう付け加えられました( "She added that she would not bless any such effort, but would instead use the rosaries prayed by the faithful for other purposes." )(せいぼは じぶんは そのような どりょくの いずれも しゅくふくは いたしませんが,ちゅうじつな しんと たちが 〈せいぼに〉 ささげる むすうの ろざりお きがんを つうじ はたされる ろざりお せいせん によって えられる かじつ〈やくちゅう・かじつ=「ろざりお せいせんを つうじ かみが ちじょうに おあたえ くださる とくべつの 『おんちょう』= 「ろしあ ほうけん」は かみの みこころで ある から,せいぼが かみ よりの めっせーじを じんるいに おつたえに なっておられる.〉を せめて はもん かいじょ いがいの もくてきに かつよう するよう つけくわえ られました).そして,聖土曜日の3月22日,聖母は「フェレー司教に対し,聖父さま〈=教皇.「きょうこうさま」〉 "Holy Father" )が如何に善意でおられようと,彼(フェレー司教)はこれ以上にローマに近づく事は出来ないと伝えるように」と,極めて具体的に述べられました( "And on March 22, Holy Saturday, she said most specifically, “Tell Bishop Fellay that he cannot move any closer to Rome than he already is, however well-intentioned the Holy Father may be.” " ).聖母は「覚えておきなさい,聖父さまが如何に善意でおられようともです」と繰り返されました( "And she repeated, “Remember, however well-intentioned the Holy Father may be.” " )(そして,せい どようびの さんがつ にじゅうに にち,せいぼは「ふぇれー しきょうに たいし,きょうこうさまが いかに ぜんいで おられようと,かれ〈ふぇれー しきょう〉は これ いじょうに ろーまに ちかづく ことは できないと つたえる ように」と,きわめて ぐたいてきに のべられ ました.せいぼは「おぼえて おきなさい,きょうこうさまが いかに ぜんいで おられよう とも です」と くりかえされ ました.).
このメッセージが信仰擁護の為如何に適切なものだったか,この裏話が表(おもて)で起きた事実と如何に完全に符号しているかを指摘する為,ここで再び話を中断します( "Let the story again be interrupted to point out how pertinent this message was for the defence of the Faith, and how perfectly this inside story corresponds to the outside facts." )(この めっせーじが しんこう ようごの ため いかに てきせつな もの だったか, この うらばなしが おもてで おきた じじつと いかに かんぜんに ふごう して いるか を してき する ため,ここで ふたたび はなしを ちゅうだん します).真の信仰の為の世界最後の砦の先頭に立ちながら,フェレー司教はそれを信仰の恐ろしい敵である公会議派ローマ人の下に戻したい気持ちになっています( "At the head of the last worldwide bastion of the true Faith, Bishop Fellay is being tempted to put it back under the Conciliar Romans, terrible enemies of that Faith." ).司教は現代世界を理解していない為,公会議派教会がカトリック教会だと信じ,その指導者たちの善意を信頼しています( "Because he does not understand the modern world, he believes that the Conciliar Church is the Catholic Church and he trusts in the good intentions of its authorities …" )(それとは反対に,ルフェーブル大司教はローマ当局者たちと何年も交渉した後で,彼らをひそかに「蛇」だと評しました)( "… (on the contrary Archbishop Lefebvre, after years of negotiations with the Roman authorities, described them – in private – as “a snake”)." )(まことの しんこうの ための せかい さいごの とりでの せんとうに たち ながら,ふぇれー しきょうは それを しんこうの おそろしい かたき〈=てき〉である こうかいぎは ろーま じんの もとに もどしたい きもちに なっています.しきょうは,げんだい せかいを りかい していない ため,こうかいぎは きょうかいが かとりっく きょうかいだと しんじ,そのしどうしゃ たちの ぜんいを しんらい しています.〈それとははんたいに,るふぇーぶる だいしきょうは ろーま とうきょくしゃ たちと なんねんも こうしょう した あとで かれらを ひそかに「へび」だと ひょうし ました〉.従って,もしこの裏話が本当で,フェレー司教が間違った決断を下すなら( "So if this inside story is true, and if Bishop Fellay makes the wrong decision, …" ), SSPX は万事終わりです( "… the SSPX is doomed." )(したがって,もし この うらばなしが ほんとうで,ふぇれー しきょうが まちがった けつだんを くだす なら,せいぴお じゅっせい かいは ばんじ おわり です).実際,なにが起きたでしょうか? (続く) ( "What happened ? (To be continued.) " )(じっさい,なにがおきたでしょうか? 〈つづく〉)
キリエ・エレイソン.
現代世界も 第二バチカン公会議も
間違っています.
(げんだい せかいも
だいに ばちかん こうかいぎも
まちがって います)
( "The modern world and Vatican II
are wrong. " )
F司教はどうでしょうか?
初めからずっと間違っています.
(えふ しきょうは どう でしょうか?
はじめから ずっと まちがって います)
( "And Bishop F. ? Mistaken all along. " )
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
聖母についての訳注を追って追加掲載いたします.
* * *
* * *
(注:本投稿記事〈第381回エレイソン・コメンツ「裏話 III〈うらばなし さん〉 」〉は2014年12月1日22:55時-12月2日に公開されました.)
私たちのファティマの聖母が6年前,聖ピオ10世会( SSPX )総長( "the Superior General of the Society of St Pius X (SSPX) " )に宛てられたメッセージの話を続けるには少し背景を説明しなければなりません( "To continue the story of Our Lady's messages to the Superior General of the Society of St Pius X (SSPX) six years ago, some background is needed." )(わたくしたちの ふぁてぃまの せいぼが ろくねん まえ,せい ぴお じゅっせい かい そうちょうに あてられた めっせーじの はなしを つづける には すこし はいけいを せつめい しなければ なりません).第二バチカン公会議(1962-1965年)はカトリック教会を無神論が憚る現代世界に折り合わせようと捻じ曲げてしまいました( "Vatican II (1962-1965) wrenched the Catholic Church off course to reconcile it with the godless modern world." )(だいに ばちかん こうかいぎ〈せん きゅうひゃく ろくじゅう に ねん から せん きゅうひゃく ろくじゅう ご ねん〉は かとりっく きょうかいを むしんろんが はばかる げんだい せかいに おりあわせようと ねじまげて しまい ました).そして,ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )(1905-1991年)が1970年,カトリック信徒たちを正しい道に留まらせる為 SSPX を設立しました( "Archbishop Lefebvre (1905-1991) founded the SSPX in 1970 to help Catholics to stay on course, …" ).大司教はその後21年間, SSPX に正しい道を辿らせました( "… and for 21 years he kept it on course. " )(そして,るふぇーぶる だいしきょう〈せん きゅうひゃく ご ねん から せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねん〉がせんきゅうひゃく ななじゅう ねん,かとりっく しんと たちを ただしい みちに とどまらせる ため せいぴお じゅっせい かい〈えすえすぴーえくす〉を せつりつ しました.だいしきょうは そのご にじゅういち ねんかん,せいぴお じゅっせい かいに ただしい みちを たどらせ ました).だが,彼の死後間もなく,若い後継者たちは彼が切り開いた道を辿っていると誤って思い込んだのか(それとも自分を欺いたのか,神のみぞ知る事ですが),公会議派ローマとの和解を夢見るようになりました( "But as soon as he died, mistakenly convinced (or self-deluded, God knows) that they were still following him, his younger successors in fact dreamt of a reconciliation with Conciliar Rome. " )(だが,かれの しご まもなく,わかい こうけいしゃ たちは かれが きりひらいた みちを たどって いると あやまって おもいこんだ のか〈それとも じぶんを あざむいた のか,かみ のみぞ しることですが〉,こうかいぎは ろーま との わかいを ゆめみる ように なりました).
2000年になると,公会議派指導者たちは SSPX(聖ピオ十世会)ローマの諸々のバシリカ(=大聖堂)(訳注・イタリア語=バジリカ)( "the Basilicas of Rome" )への聖年巡礼を成功させたことに強い関心を示し同会に目を向けました( "In 2000 the Conciliar leaders sat up and took notice of the SSPX when it made a highly successful Jubilee pilgrimage to the Basilicas of Rome." )(にせんねん になると,こうかいぎは しどうしゃ たちは せいぴおじゅっせい かい〈エスエスピーエクス〉が ローマの もろもろの ばしりか〈=だいせいどう〉への せいねん じゅんれいを せいこう させた ことに つよい かんしんを しめし どうかいに めを むけ ました). SSPX とローマとの接触が公然と (内密でなく) 再開され,ローマは SSPX を吐き出せないと知り,飲み込もうと本気で取り掛かり始めました( "Public (as opposed to private) contacts were re-opened between the SSPX and the Romans, who now set about swallowing that SSPX which they had proved unable to spit out." )(せいぴお じゅっせい かいと ろーま との せっしょくが こうぜんと 〈ないみつ でなく〉 さいかい され,ろーまは せいぴおじゅっせい かい を はきだせない としり,のみこもうと ほんきで とりかかり はじめました.).「話し合いましょう」とローマの指導者たちは SSPX に伝えました( " “Let us talk,” they said. " ). SSPX 指導部は「あなた方はトレント公会議様式によるミサ聖祭の執行を自由化し,1988年6月30日に聖別を受けた SSPX の司教たちに対する破門を解除して誠意を示さなければなりません」と,初め用心深いように見えました( "The SSPX leaders appeared to be wary: “You must prove your good will by liberating the Tridentine Mass and lifting the excommunications imposed on the SSPX bishops consecrated on June 30, 1988”." )(「はなし あい ましょう」と ろーまの しどうしゃ たちは せいぴお じゅっせい かいに つたえ ました.せいぴお じゅっせい かい しどうぶは「あなたがたは とれんと こうかいぎ ようしきに よる みさ せいさいの しっこうを じゆうか し,せん きゅうひゃく はちじゅうはち ねん ろくがつ さんじゅうにちに せいべつを うけた せいぴお じゅっせい かいの しきょう たちに たいする はもんを かいじょ して せいいを しめさなければ なりません」と,はじめ ようじん ぶかい ように みえました).その時,少なくとも表向きには何も起きませんでした.双方にとって和解という考えは機が熟すまで時間が必要だったからです( "Little then happened, at least in public, because on both sides the idea of reconciliation needed to mature, …" )(そのとき,すくなく とも おもてむき には なにも おきません でした.そうほうに とって わかい という かんがえは きが じゅくす まで じかんが ひつよう だった から です).だが,2006年に和解派の首謀者フェレー司教が総長に再選されました( "… but in 2006 Bishop Fellay, SSPX ringleader of the reconciliation, was re-elected Superior General." ).私たちが前回までのエレイソン・コメンツで見た通り,これはこの話の主題である聖母のメッセージによるご介入が始まった直後の事でした( "As we have seen, this was soon after Our Lady began to intervene with the messages of which we are telling the story." )(だが,にせん ろくねんに わかい は の しゅぼうしゃ ふぇれー しきょうが そうちょうに さいせん されました.わたくし たちが ぜんかい までの えれいそん・こめんつで みたとおり,これは この はなしの しゅだい である せいぼの めっせーじに よる ごかいにゅうが はじまった ちょくごの こと でした).
同じ2006年,フェレー司教は聖母からロシアの奉献実現の為のロザリオ聖戦を組織して欲しいとのご要請を受けました.だが,彼はそのお求めをローマとの話し合いの第1前提条件,即ちトレント・ミサ聖祭自由化の為に利用しようと方向転換しました( "In 2006 her desire for a Rosary Crusade for Russia's Consecration was adopted by Bishop Fellay, but re-directed by him towards the first pre-condition for talks with Rome, the liberation of the Mass." ).(おなじ にせん ろく ねん,ふぇれー しきょうは せいぼ から ロシアの ほうけん じつげんの ための ろざりお せいせんを そしき して ほしい との ごようせいを うけました.だが,かれは その おもとめを ろーま との はなしあいの だいいち ぜんてい じょうけん,すなわち とれんと・みさ せいさい じゆうかの ために りよう しようと ほうこう てんかん しました).翌2007年,教皇ベネディクト16世は教令 ( "Motu Proprio " )を出し,この条件の一部を満たしました( "In 2007 Benedict XVI partially satisfied the pre-conditon with his Motu Proprio." ).フェレー司教は条件が完全に満たされたと喜び,第2の前提条件である破門の解除に向けて動き続けました( "Rejoicing as though it were a complete satisfaction, Bishop Fellay moved on to the second pre-condition, the lifting of the excommunications, …" )(ふぇれー しきょうは じょうけんが かんぜんに みたされたと よろこび,だいにの ぜんてい じょうけん である はもんの かいじょに むけて うごき つづけ ました).ところが私たちの聖母は教皇教令 直後の2007年8月に一連のメッセージを送り始められ,第2回ロザリオ聖戦はロシアの奉献実現だけを目的とすべきだとしつこくお求めになりました( "… whereas Our Lady, immediately after the Motu Proprio, began a series of messages in August of 2007 insistently requesting that any second Rosary Crusade be dedicated to the Consecration of Russia." )(ところが わたくし たちの せいぼは きょうこう きょうれい ちょくごの にせん ななねん はちがつに いちれんの めっせーじを おくり はじめられ,だい にかい ろざりお せいせんは ろしあの ほうけん じつげん だけを もくてきと すべきだ と しつこく おもとめに なりました).しかし,フェレー司教はこれがローマ教皇庁の人々に受けない事を知っていた為,お求めに応じると確約しませんでした( "But Bishop Fellay would not commit himself because he knew that this Consecration did not appeal to the Romans." )(しかし,ふぇれー しきょうは これが ろーま きょうこうちょうの ひとびとに うけない ことを しっていた ため,おもとめに おうじると かくやく しません でした).ローマもフェレー司教も第二バチカン公会議とカトリック教の伝統という和解出来ないものを和解させる為,話し合いたいと望んでいました( "They wanted talks, and so did he, to reconcile the irreconcilable, Vatican II and Catholic Tradition." )(ろーまも ふぇれー しきょうも だいに ばちかん こうかいぎと かとりっくきょうの でんとうと いう わかい できない ものを わかい させる ため,はなし あいたいと のぞんで いました).さて,ここで裏話を続ける事が出来ます( "Now we can continue with the story." )(さて,ここでうらばなしをつづけることができます).
2008年初め,私たちの聖母はフェレー司教が相変わらず尻込みしているのをお知りになり,使者を通して「(第2回)ロザリオ聖戦を破門解除の為に利用しないように」とはっきり述べられ( "In early 2008 Our Lady, observing how the Bishop was still hesitating, told him quite firmly through the messenger that he was “not to use the (second) Crusade for the intention of lifting the excommunications”, …" ),もし司教がこれに反したら「結果は SSPX にとって致命的なものになるでしょう」とお伝えになりました( "… and that if he did, “it would be fatal for the Society of St Pius X.” " )(にせん はちねん はじめ,わたくし たちの せいぼは ふぇれー しきょうが あいかわらず しりごみ している のを おしりになり,ししゃを とおして「(だいにかい)ろざりお せいせんを はもん かいじょの ために りよう しない ように」とはっきり のべられ,もし しきょうが これに はんしたら「けっかは せいぴお じゅっせい かいに とって ちめいてきな ものに なる でしょう」と おつたえに なりました).聖母は自分はそのような努力の何れも祝福は致しませんが,忠実な信徒たちが(聖母に)捧げる無数のロザリオ祈願を通じ果たすロザリオ聖戦によって得られる果実(訳注・「果実」=「ロザリオ聖戦を通じ神が地上に御与え下さる特別の『恩寵』」.「ロシア奉献」は神の御心であるから,聖母が神よりのメッセージを人類にお伝えになっておられる.)をせめて破門解除以外の目的に活用するよう付け加えられました( "She added that she would not bless any such effort, but would instead use the rosaries prayed by the faithful for other purposes." )(せいぼは じぶんは そのような どりょくの いずれも しゅくふくは いたしませんが,ちゅうじつな しんと たちが 〈せいぼに〉 ささげる むすうの ろざりお きがんを つうじ はたされる ろざりお せいせん によって えられる かじつ〈やくちゅう・かじつ=「ろざりお せいせんを つうじ かみが ちじょうに おあたえ くださる とくべつの 『おんちょう』= 「ろしあ ほうけん」は かみの みこころで ある から,せいぼが かみ よりの めっせーじを じんるいに おつたえに なっておられる.〉を せめて はもん かいじょ いがいの もくてきに かつよう するよう つけくわえ られました).そして,聖土曜日の3月22日,聖母は「フェレー司教に対し,聖父さま〈=教皇.「きょうこうさま」〉 "Holy Father" )が如何に善意でおられようと,彼(フェレー司教)はこれ以上にローマに近づく事は出来ないと伝えるように」と,極めて具体的に述べられました( "And on March 22, Holy Saturday, she said most specifically, “Tell Bishop Fellay that he cannot move any closer to Rome than he already is, however well-intentioned the Holy Father may be.” " ).聖母は「覚えておきなさい,聖父さまが如何に善意でおられようともです」と繰り返されました( "And she repeated, “Remember, however well-intentioned the Holy Father may be.” " )(そして,せい どようびの さんがつ にじゅうに にち,せいぼは「ふぇれー しきょうに たいし,きょうこうさまが いかに ぜんいで おられようと,かれ〈ふぇれー しきょう〉は これ いじょうに ろーまに ちかづく ことは できないと つたえる ように」と,きわめて ぐたいてきに のべられ ました.せいぼは「おぼえて おきなさい,きょうこうさまが いかに ぜんいで おられよう とも です」と くりかえされ ました.).
このメッセージが信仰擁護の為如何に適切なものだったか,この裏話が表(おもて)で起きた事実と如何に完全に符号しているかを指摘する為,ここで再び話を中断します( "Let the story again be interrupted to point out how pertinent this message was for the defence of the Faith, and how perfectly this inside story corresponds to the outside facts." )(この めっせーじが しんこう ようごの ため いかに てきせつな もの だったか, この うらばなしが おもてで おきた じじつと いかに かんぜんに ふごう して いるか を してき する ため,ここで ふたたび はなしを ちゅうだん します).真の信仰の為の世界最後の砦の先頭に立ちながら,フェレー司教はそれを信仰の恐ろしい敵である公会議派ローマ人の下に戻したい気持ちになっています( "At the head of the last worldwide bastion of the true Faith, Bishop Fellay is being tempted to put it back under the Conciliar Romans, terrible enemies of that Faith." ).司教は現代世界を理解していない為,公会議派教会がカトリック教会だと信じ,その指導者たちの善意を信頼しています( "Because he does not understand the modern world, he believes that the Conciliar Church is the Catholic Church and he trusts in the good intentions of its authorities …" )(それとは反対に,ルフェーブル大司教はローマ当局者たちと何年も交渉した後で,彼らをひそかに「蛇」だと評しました)( "… (on the contrary Archbishop Lefebvre, after years of negotiations with the Roman authorities, described them – in private – as “a snake”)." )(まことの しんこうの ための せかい さいごの とりでの せんとうに たち ながら,ふぇれー しきょうは それを しんこうの おそろしい かたき〈=てき〉である こうかいぎは ろーま じんの もとに もどしたい きもちに なっています.しきょうは,げんだい せかいを りかい していない ため,こうかいぎは きょうかいが かとりっく きょうかいだと しんじ,そのしどうしゃ たちの ぜんいを しんらい しています.〈それとははんたいに,るふぇーぶる だいしきょうは ろーま とうきょくしゃ たちと なんねんも こうしょう した あとで かれらを ひそかに「へび」だと ひょうし ました〉.従って,もしこの裏話が本当で,フェレー司教が間違った決断を下すなら( "So if this inside story is true, and if Bishop Fellay makes the wrong decision, …" ), SSPX は万事終わりです( "… the SSPX is doomed." )(したがって,もし この うらばなしが ほんとうで,ふぇれー しきょうが まちがった けつだんを くだす なら,せいぴお じゅっせい かいは ばんじ おわり です).実際,なにが起きたでしょうか? (続く) ( "What happened ? (To be continued.) " )(じっさい,なにがおきたでしょうか? 〈つづく〉)
キリエ・エレイソン.
現代世界も 第二バチカン公会議も
間違っています.
(げんだい せかいも
だいに ばちかん こうかいぎも
まちがって います)
( "The modern world and Vatican II
are wrong. " )
F司教はどうでしょうか?
初めからずっと間違っています.
(えふ しきょうは どう でしょうか?
はじめから ずっと まちがって います)
( "And Bishop F. ? Mistaken all along. " )
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
聖母についての訳注を追って追加掲載いたします.
* * *
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(注:本投稿記事〈第381回エレイソン・コメンツ「裏話 III〈うらばなし さん〉 」〉は2014年12月1日22:55時-12月2日に公開されました.)
2014年10月25日土曜日
380 裏話 II 10/25
エレイソン・コメンツ 第380回 (2014年10月25日)
ロシアの奉献実現を目的とするロザリオ聖戦のアイディアが2006年6月に初めて聖ピオ十世会( SSPX )のフェレー司教に届いたとき,彼はそれが実際には私たちの聖母のご指示だとは知りませんでした――( "When the idea of a Rosary Crusade for the Consecration of Russia was first put to Bishop Fellay in June of 2006, he did not yet know that the idea was in fact a directive from Our Lady–" )(ろしあの ほうけん じつげんを もくてきと する ろざりお せいせんの あいでぃあが にせん ろくねん ろくがつに はじめて せいぴお じゅっせい かい〈えす えす ぴー えくす〉の ふぇれー しきょうに とどいた とき,かれは それが じっさい には わたくしたちの せいぼの ごしじ だとは しり ません でした) ―― 聖母の使者は気弱な女性だったため,司教に本当のことを話すのをためらったからです( "… the messenger had been too shy to tell him." )(せいぼの ししゃは きよわな じょせい だった ため,しきょうに ほんとうの ことを はなす のを ためらった からです).そこで,フェレー司教は使者に会った後スイスへ戻り,直ちにロザリオ聖戦の考えを取り上げる決断をしましたが,ロシア奉献は二の次にして,聖戦を主にトレント(公会議)様式によるミサ聖祭(以下,「トレント・ミサ聖祭」と記す.)自由化のために利用しようとしました.ただ,彼はそうすることで故意に天の意志に背くつもりはなかったのです( "So he did not knowingly go against Heaven's will when on returning to Switzerland after his meeting with the messenger, he decided to take up the idea of a Crusade, but to apply it primarily to the liberation of the Tridentine Mass, leaving Russia's Consecration among the secondary intentions." )(そこで,ふぇれー しきょうは ししゃに あった あと すいすへ もどり,ただちに ろざりお せいせんの かんがえを とりあげる けつだんを しましたが,ろしあ ほうけんは にの つぎに して,せいせんを おもに とれんと〈こうかいぎ〉ようしき による みさ せいさい〈いか,「とれんと・みさ せいさい」と しるす.〉)じゆうかの ために りよう しようと しました.ただ,かれは そうする ことで こいに てんの いしに そむく つもりは なかった のです).聖母は第1回目の聖戦が組織されるのはメッセージが自分から出たことを示すものだから祝福は致しますが,それは自分がミサ聖祭自由化を望んでいることを確認するものではないと,使者に告げました( "So, as Our Lady told her messenger, while she would bless the first Crusade as a sign that the messages were really from her, it would not be to confirm that the liberation of the Mass was what she really wanted." )(せいぼは だい いっかいめの せいせんが そしき される のは めっせーじが じぶんから でたことを しめす もの だから しゅくふくは いたし ますが,それは じぶんが みさ せいさい じゆうかを のぞんで いる ことを かくにん する もの では ないと,ししゃに つげました).フェレー司教にやがてはっきりと伝えられることになりますが,教会と世界の危機に対する真の答えはロシアの奉献だったのです( "The true answer to the crisis of Church and world lay in Russia's Consecration, as would soon be made very clear to the Bishop." )(ふぇれー しきょうに やがて はっきりと つたえられる ことに なりますが,きょうかいと せかいの ききに たいする まことの こたえは ろしあの ほうけん だった のです).
私たちの聖母のご支持があっただけに,第1回ロザリオ聖戦は二つの意味で予想外の成功でした( "So, given the backing of Our Lady, the first Crusade was an unexpected success, …" )(わたくしたちの せいぼの ごしじが あった だけに,だい いっかい ろざりお せいせんは ふたつの いみで よそう がいの せいこう でした).一つは,参加した人々の捧げた祈りの数が多かった事( "… both in the number of rosaries prayed by the people, …" )(ひとつは,さんか した ひとびとの ささげた いのりの かずが おおかった こと)もう一つは教皇ベネディクト16世が2007年7月に 教令 ( "Motu Proprio " )を出し,トレント・ミサ聖祭は決して廃止されたことはないと宣言してフェレー司教の長年の願いを叶えた事でした( "… and in Pope Benedict XVI's fulfilment of Bishop Fellay's long-standing wish by the declaration in his Motu Proprio of July 2007, that the Tridentine Mass had never been abrogated." )(もうひとつは きょうこう べねでぃくと じゅうろく せいが にせん しち〈なな〉ねん しちがつに きょうれいを だし,とれんと・みさ せいさいは けっして はいし された ことは ないと せんげん して ふぇれー しきょうの ながねんの ねがいを かなえた こと でした).
だが,それ以前の2006年8月に,聖母は使者にフェレー司教へ書簡を送るよう命じ,その中で彼は聖母の最初のご要請が天から出されたものである事を含め詳細を知らされていました( "However, already in August of 2006, Our Lady had directed her messenger to send to Bishop Fellay a letter in which he was this time fully informed of all the details of her original request, including that it came from Heaven." )(だが,それ いぜんの にせん ろくねん はちがつに,せいぼは ししゃに ふぇれーしきょうへ しょかんを おくるよう めいじ,そのなかで かれは せいぼの さいしょの ごようせいが てん から だされた もので ある ことを ふくめ しょうさいを しらされて いました).司教はこの書簡に前向きな返書を送り( "To this letter the Bishop had responded positively, …" ),第1回聖戦の勢いをもとに第2回聖戦を実施するつもりである事,自らがそれに対応するのが最善である事を伝えました( "… saying that he would use the boost from the first Crusade to launch the second, and that it would be best if he himself took the matter in hand." )(しきょうは この しょかんに まえむきな へんしょを おくり,だい いっかい せいせんの いきおいを もとに だいにかい せいせんを じっし する つもりで ある こと,みずから が それに たいおう するのが さいぜん である ことを つたえ ました).だが,一年後の 教皇教令 ( "Motu Proprio " )直後から2007年末迄の間に,聖母は第2回聖戦がきちんとロシア奉献の為に行われる事が自分の願いだと司教に念を押すため,使者に何度も書簡を送るよう命じられました( "But one year later, soon after the Motu Proprio until the end of 2007, Our Lady directed the messenger to write to him, again and again, to remind him of her wish for a second Crusade that would be properly dedicated to the Consecration of Russia." )(だが,いちねんごの きょうこう きょうれい ちょくご から にせん ななねん まつ までの あいだに,せいぼは だいにかい せいせんが きちんと ろしあ ほうけんの ために おこなわれる ことが じぶんの ねがいだと しきょうに ねんを おすため,ししゃに なんども しょかんを おくる よう めいじられ ました.).
フェレー司教はそれでもまだ自分の立場をはっきりさせるのを躊躇していました( "Still Bishop Fellay hesitated to commit himself, …" ).そこで,聖母は2008年初めに,司教に対し第2回聖戦をロシア奉献の為に捧げるようとの同じご要請をこれまで以上に強く伝えられました( "so in early 2008 Our Lady came back even more insistently with the same request for the Crusade to be dedicated to the Consecration." )(ふぇれー しきょうは それでも まだ じぶんの たちばを はっきり させるのを ちゅうちょ して いました.そこで,せいぼは にせん はちねん はじめに,しきょうに たいし だいにかい せいせんを ろしあ ほうけんの ために ささげるよう との おなじ ごようせいを これまで いじょうに つよく つたえられ ました.).問題は司教が SSPX とローマ(教皇庁)との間の和解によって教会の危機を解決するという独自の計画を長い間進めてきており( "The problem was that Bishop Fellay had long been working on his own plan to solve the Church crisis by a reconciliation between the Society of St Pius X and Rome, …" ),聖母の要請はこの計画に合わなかった事です( "… and Our Lady's request did not fit in with that plan." )(もんだいは しきょうが せいぴお じゅっせい かいと ろーま〈きょうこうちょう〉との あいだの わかいに よって きょうかいの ききを かいけつ する という どくじの けいかくを ながい あいだ すすめて きて おり,せいぼの ようせいは この けいかくに あわなかった こと です).それ故司教にはローマとの和解に向けた話し合いを(ローマ側の関係者たちと)進めれば進めるほど,聖母との約束を実行するのが難しくなると思えたのです( "Therefore the more progress he seemed to be making with the Romans towards reconciliation, the more difficult it was becoming for him to keep his promise of doing what she asked, …" ).何故なら,彼は聖母の要請がローマを困らせる事を知っていたからです( "… because he knew that what she asked would upset the Romans." )(それゆえ しきょうには ろーまとの わかいに むけた はなしあいを〈ろーまがわの かんけいしゃ たちと〉すすめれば すすめる ほど,せいぼ との やくそくを じっこう する のが むずかしく なると おもえた のです.なぜなら,かれは せいぼの ようせいが ろーまを こまらせる ことを しっていた から です.).事実…( "Indeed ..." )(じじつ…)
ちょうどこの頃の事です.フェレー司教が聖母のご要請をなかなか実行しようとしない理由を知らない使者が聖母に「司教さまはご要請が聖母さまから出たものだとはっきり理解していらっしゃらないからでしょうか」と尋ねました( "It was at about this time that the messenger, being unaware of why the Bishop was continuing to stall over Our Lady's request, asked her if the reason was that the Bishop was not sure that the request was indeed coming from Our Lady." )(ちょうど そのころの こと です.ふぇれー しきょうが せいぼの ごようせいを なかなか じっこう しようと しない りゆうを しらない ししゃが せいぼに「しきょうさまは ごようせいが せいぼさま から でたもの だと はっきり りかい していらっしゃらない から でしょうか」とたずね ました).聖母は頭を下に向けられ,そっと左右にお振りになりながら「いいえ,それが理由ではありません.」とだけお答えになりました( " “No,” came the simple answer, as Our Lady lowered her head and shook it gently from side to side, “that is not why.” " ).聖母は本当の理由にはお触れにならず,司教が聖母からの要請だと信じないからではないとだけ言われました( "Our Lady did not say what the real reason was, she only said that it was not because the Bishop did not believe that it was herself making the request." )(せいぼは あたまを したに むけられ,そっと さゆうに おふりに なり ながら「いいえ,それが りゆうでは ありません.」とだけ おこたえに なりました.せいぼは ほんとうの りゆうには おふれに ならず,しきょうが せいぼ からの ようせいだと しんじない からでは ない とだけ いわれました.).
私たちは,このドラマのクライマックスに近づいています( "We approach the climax of the drama." ).それは劇的〈な出来事〉でした( "Drama it was." ).(わたくし たちは,この どらまの くらいまっくすに ちかづいて います.それは げきてき〈な できごと〉 でした).2008年初めになると,ロシア奉献に関する聖母のメッセージが差し迫った問題になってきました( "In early 2008 the Blessed Virgin's message concerning the Consecration of Russia was becoming urgent, …" ).フェレー司教が第2回聖戦を自らの目的のために利用しようとしている事を聖母がお知りになったからです( "… as she knew that the Bishop was seriously thinking of making use of the second Crusade for his own purposes." )(にせんはちねん はじめに なると,ろしあ ほうけんに かんする せいぼの めっせーじが さしせまった もんだいに なって きました.ふぇれー しきょうが だいにかい せいせんを みずからの もくてきの ために りよう しようと している ことを せいぼが おしりに なった から です).この時,司教はローマとの話し合いを進めるための前提条件の第2の条件――すなわち1988年の SSPX の4名の司教に対するいわゆる破門取り消しのために聖戦を利用しようと望んでいたのです( "This time he wanted to use it to achieve the second of the pre-conditions for discussions with Rome– the lifting of the so-called excommunications of the four SSPX bishops in 1988." )(このとき,しきょうは ろーまとの はなしあいを すすめる ための ぜんてい じょうけんの だいにの じょうけん――すなわち せん きゅうひゃく はちじゅうはち ねんの せいぴお じゅっせい かいのよんめいの しきょうに たいする いわゆる はもん とりけしの ために せいせんを りよう しようと のぞんで いたのです).
キリエ・エレイソン.
「人間どもが練り上げた計画は
往々にして上手く(巧く)うまく運ばない
(gang aft agley)」* ――
(「にんげん どもが ねりあげた けいかくは
おうおうにして うまく はこばない」)
( " “The best-laid plans of men
gang aft agley”* – " )
天がお話になるとき,
私たち人間はそれに
従わなければなりません.
(てんが おはなしに なる とき,
わたくしたち にんげんは
それに したがわなければ なりません.)
( "When Heaven speaks,
we humans need to obey." )
*スコットランド人ロビー・バーンズ
(Robbie Burns =1759-1790年)
の詩の有名な一行です.
( " (*Famous line from a poem
by the Scot, Robbie Burns (1759-1796),
meaning “go often wrong”.) " )
(すこっとらんどじんろびー・ばーんず
〈せん ななひゃく ごじゅうく ねん
-せん ななひゃくきゅうじゅう ねん〉
の しの ゆうめいな いちぎょう です.)
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
* * *
(注:本投稿記事〈第380回エレイソン・コメンツ「裏話 II〈うらばなし に〉 」〉は2014年11月25日23:35時‐26日未明に公開されました.)
ロシアの奉献実現を目的とするロザリオ聖戦のアイディアが2006年6月に初めて聖ピオ十世会( SSPX )のフェレー司教に届いたとき,彼はそれが実際には私たちの聖母のご指示だとは知りませんでした――( "When the idea of a Rosary Crusade for the Consecration of Russia was first put to Bishop Fellay in June of 2006, he did not yet know that the idea was in fact a directive from Our Lady–" )(ろしあの ほうけん じつげんを もくてきと する ろざりお せいせんの あいでぃあが にせん ろくねん ろくがつに はじめて せいぴお じゅっせい かい〈えす えす ぴー えくす〉の ふぇれー しきょうに とどいた とき,かれは それが じっさい には わたくしたちの せいぼの ごしじ だとは しり ません でした) ―― 聖母の使者は気弱な女性だったため,司教に本当のことを話すのをためらったからです( "… the messenger had been too shy to tell him." )(せいぼの ししゃは きよわな じょせい だった ため,しきょうに ほんとうの ことを はなす のを ためらった からです).そこで,フェレー司教は使者に会った後スイスへ戻り,直ちにロザリオ聖戦の考えを取り上げる決断をしましたが,ロシア奉献は二の次にして,聖戦を主にトレント(公会議)様式によるミサ聖祭(以下,「トレント・ミサ聖祭」と記す.)自由化のために利用しようとしました.ただ,彼はそうすることで故意に天の意志に背くつもりはなかったのです( "So he did not knowingly go against Heaven's will when on returning to Switzerland after his meeting with the messenger, he decided to take up the idea of a Crusade, but to apply it primarily to the liberation of the Tridentine Mass, leaving Russia's Consecration among the secondary intentions." )(そこで,ふぇれー しきょうは ししゃに あった あと すいすへ もどり,ただちに ろざりお せいせんの かんがえを とりあげる けつだんを しましたが,ろしあ ほうけんは にの つぎに して,せいせんを おもに とれんと〈こうかいぎ〉ようしき による みさ せいさい〈いか,「とれんと・みさ せいさい」と しるす.〉)じゆうかの ために りよう しようと しました.ただ,かれは そうする ことで こいに てんの いしに そむく つもりは なかった のです).聖母は第1回目の聖戦が組織されるのはメッセージが自分から出たことを示すものだから祝福は致しますが,それは自分がミサ聖祭自由化を望んでいることを確認するものではないと,使者に告げました( "So, as Our Lady told her messenger, while she would bless the first Crusade as a sign that the messages were really from her, it would not be to confirm that the liberation of the Mass was what she really wanted." )(せいぼは だい いっかいめの せいせんが そしき される のは めっせーじが じぶんから でたことを しめす もの だから しゅくふくは いたし ますが,それは じぶんが みさ せいさい じゆうかを のぞんで いる ことを かくにん する もの では ないと,ししゃに つげました).フェレー司教にやがてはっきりと伝えられることになりますが,教会と世界の危機に対する真の答えはロシアの奉献だったのです( "The true answer to the crisis of Church and world lay in Russia's Consecration, as would soon be made very clear to the Bishop." )(ふぇれー しきょうに やがて はっきりと つたえられる ことに なりますが,きょうかいと せかいの ききに たいする まことの こたえは ろしあの ほうけん だった のです).
私たちの聖母のご支持があっただけに,第1回ロザリオ聖戦は二つの意味で予想外の成功でした( "So, given the backing of Our Lady, the first Crusade was an unexpected success, …" )(わたくしたちの せいぼの ごしじが あった だけに,だい いっかい ろざりお せいせんは ふたつの いみで よそう がいの せいこう でした).一つは,参加した人々の捧げた祈りの数が多かった事( "… both in the number of rosaries prayed by the people, …" )(ひとつは,さんか した ひとびとの ささげた いのりの かずが おおかった こと)もう一つは教皇ベネディクト16世が2007年7月に 教令 ( "Motu Proprio " )を出し,トレント・ミサ聖祭は決して廃止されたことはないと宣言してフェレー司教の長年の願いを叶えた事でした( "… and in Pope Benedict XVI's fulfilment of Bishop Fellay's long-standing wish by the declaration in his Motu Proprio of July 2007, that the Tridentine Mass had never been abrogated." )(もうひとつは きょうこう べねでぃくと じゅうろく せいが にせん しち〈なな〉ねん しちがつに きょうれいを だし,とれんと・みさ せいさいは けっして はいし された ことは ないと せんげん して ふぇれー しきょうの ながねんの ねがいを かなえた こと でした).
だが,それ以前の2006年8月に,聖母は使者にフェレー司教へ書簡を送るよう命じ,その中で彼は聖母の最初のご要請が天から出されたものである事を含め詳細を知らされていました( "However, already in August of 2006, Our Lady had directed her messenger to send to Bishop Fellay a letter in which he was this time fully informed of all the details of her original request, including that it came from Heaven." )(だが,それ いぜんの にせん ろくねん はちがつに,せいぼは ししゃに ふぇれーしきょうへ しょかんを おくるよう めいじ,そのなかで かれは せいぼの さいしょの ごようせいが てん から だされた もので ある ことを ふくめ しょうさいを しらされて いました).司教はこの書簡に前向きな返書を送り( "To this letter the Bishop had responded positively, …" ),第1回聖戦の勢いをもとに第2回聖戦を実施するつもりである事,自らがそれに対応するのが最善である事を伝えました( "… saying that he would use the boost from the first Crusade to launch the second, and that it would be best if he himself took the matter in hand." )(しきょうは この しょかんに まえむきな へんしょを おくり,だい いっかい せいせんの いきおいを もとに だいにかい せいせんを じっし する つもりで ある こと,みずから が それに たいおう するのが さいぜん である ことを つたえ ました).だが,一年後の 教皇教令 ( "Motu Proprio " )直後から2007年末迄の間に,聖母は第2回聖戦がきちんとロシア奉献の為に行われる事が自分の願いだと司教に念を押すため,使者に何度も書簡を送るよう命じられました( "But one year later, soon after the Motu Proprio until the end of 2007, Our Lady directed the messenger to write to him, again and again, to remind him of her wish for a second Crusade that would be properly dedicated to the Consecration of Russia." )(だが,いちねんごの きょうこう きょうれい ちょくご から にせん ななねん まつ までの あいだに,せいぼは だいにかい せいせんが きちんと ろしあ ほうけんの ために おこなわれる ことが じぶんの ねがいだと しきょうに ねんを おすため,ししゃに なんども しょかんを おくる よう めいじられ ました.).
フェレー司教はそれでもまだ自分の立場をはっきりさせるのを躊躇していました( "Still Bishop Fellay hesitated to commit himself, …" ).そこで,聖母は2008年初めに,司教に対し第2回聖戦をロシア奉献の為に捧げるようとの同じご要請をこれまで以上に強く伝えられました( "so in early 2008 Our Lady came back even more insistently with the same request for the Crusade to be dedicated to the Consecration." )(ふぇれー しきょうは それでも まだ じぶんの たちばを はっきり させるのを ちゅうちょ して いました.そこで,せいぼは にせん はちねん はじめに,しきょうに たいし だいにかい せいせんを ろしあ ほうけんの ために ささげるよう との おなじ ごようせいを これまで いじょうに つよく つたえられ ました.).問題は司教が SSPX とローマ(教皇庁)との間の和解によって教会の危機を解決するという独自の計画を長い間進めてきており( "The problem was that Bishop Fellay had long been working on his own plan to solve the Church crisis by a reconciliation between the Society of St Pius X and Rome, …" ),聖母の要請はこの計画に合わなかった事です( "… and Our Lady's request did not fit in with that plan." )(もんだいは しきょうが せいぴお じゅっせい かいと ろーま〈きょうこうちょう〉との あいだの わかいに よって きょうかいの ききを かいけつ する という どくじの けいかくを ながい あいだ すすめて きて おり,せいぼの ようせいは この けいかくに あわなかった こと です).それ故司教にはローマとの和解に向けた話し合いを(ローマ側の関係者たちと)進めれば進めるほど,聖母との約束を実行するのが難しくなると思えたのです( "Therefore the more progress he seemed to be making with the Romans towards reconciliation, the more difficult it was becoming for him to keep his promise of doing what she asked, …" ).何故なら,彼は聖母の要請がローマを困らせる事を知っていたからです( "… because he knew that what she asked would upset the Romans." )(それゆえ しきょうには ろーまとの わかいに むけた はなしあいを〈ろーまがわの かんけいしゃ たちと〉すすめれば すすめる ほど,せいぼ との やくそくを じっこう する のが むずかしく なると おもえた のです.なぜなら,かれは せいぼの ようせいが ろーまを こまらせる ことを しっていた から です.).事実…( "Indeed ..." )(じじつ…)
ちょうどこの頃の事です.フェレー司教が聖母のご要請をなかなか実行しようとしない理由を知らない使者が聖母に「司教さまはご要請が聖母さまから出たものだとはっきり理解していらっしゃらないからでしょうか」と尋ねました( "It was at about this time that the messenger, being unaware of why the Bishop was continuing to stall over Our Lady's request, asked her if the reason was that the Bishop was not sure that the request was indeed coming from Our Lady." )(ちょうど そのころの こと です.ふぇれー しきょうが せいぼの ごようせいを なかなか じっこう しようと しない りゆうを しらない ししゃが せいぼに「しきょうさまは ごようせいが せいぼさま から でたもの だと はっきり りかい していらっしゃらない から でしょうか」とたずね ました).聖母は頭を下に向けられ,そっと左右にお振りになりながら「いいえ,それが理由ではありません.」とだけお答えになりました( " “No,” came the simple answer, as Our Lady lowered her head and shook it gently from side to side, “that is not why.” " ).聖母は本当の理由にはお触れにならず,司教が聖母からの要請だと信じないからではないとだけ言われました( "Our Lady did not say what the real reason was, she only said that it was not because the Bishop did not believe that it was herself making the request." )(せいぼは あたまを したに むけられ,そっと さゆうに おふりに なり ながら「いいえ,それが りゆうでは ありません.」とだけ おこたえに なりました.せいぼは ほんとうの りゆうには おふれに ならず,しきょうが せいぼ からの ようせいだと しんじない からでは ない とだけ いわれました.).
私たちは,このドラマのクライマックスに近づいています( "We approach the climax of the drama." ).それは劇的〈な出来事〉でした( "Drama it was." ).(わたくし たちは,この どらまの くらいまっくすに ちかづいて います.それは げきてき〈な できごと〉 でした).2008年初めになると,ロシア奉献に関する聖母のメッセージが差し迫った問題になってきました( "In early 2008 the Blessed Virgin's message concerning the Consecration of Russia was becoming urgent, …" ).フェレー司教が第2回聖戦を自らの目的のために利用しようとしている事を聖母がお知りになったからです( "… as she knew that the Bishop was seriously thinking of making use of the second Crusade for his own purposes." )(にせんはちねん はじめに なると,ろしあ ほうけんに かんする せいぼの めっせーじが さしせまった もんだいに なって きました.ふぇれー しきょうが だいにかい せいせんを みずからの もくてきの ために りよう しようと している ことを せいぼが おしりに なった から です).この時,司教はローマとの話し合いを進めるための前提条件の第2の条件――すなわち1988年の SSPX の4名の司教に対するいわゆる破門取り消しのために聖戦を利用しようと望んでいたのです( "This time he wanted to use it to achieve the second of the pre-conditions for discussions with Rome– the lifting of the so-called excommunications of the four SSPX bishops in 1988." )(このとき,しきょうは ろーまとの はなしあいを すすめる ための ぜんてい じょうけんの だいにの じょうけん――すなわち せん きゅうひゃく はちじゅうはち ねんの せいぴお じゅっせい かいのよんめいの しきょうに たいする いわゆる はもん とりけしの ために せいせんを りよう しようと のぞんで いたのです).
キリエ・エレイソン.
「人間どもが練り上げた計画は
往々にして上手く(巧く)うまく運ばない
(gang aft agley)」* ――
(「にんげん どもが ねりあげた けいかくは
おうおうにして うまく はこばない」)
( " “The best-laid plans of men
gang aft agley”* – " )
天がお話になるとき,
私たち人間はそれに
従わなければなりません.
(てんが おはなしに なる とき,
わたくしたち にんげんは
それに したがわなければ なりません.)
( "When Heaven speaks,
we humans need to obey." )
*スコットランド人ロビー・バーンズ
(Robbie Burns =1759-1790年)
の詩の有名な一行です.
( " (*Famous line from a poem
by the Scot, Robbie Burns (1759-1796),
meaning “go often wrong”.) " )
(すこっとらんどじんろびー・ばーんず
〈せん ななひゃく ごじゅうく ねん
-せん ななひゃくきゅうじゅう ねん〉
の しの ゆうめいな いちぎょう です.)
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
* * *
(注:本投稿記事〈第380回エレイソン・コメンツ「裏話 II〈うらばなし に〉 」〉は2014年11月25日23:35時‐26日未明に公開されました.)
2014年10月18日土曜日
379 裏話 I 10/18
エレイソン・コメンツ 第379回 (2014年10月18日)
1917年,教会と世界の救済(「平和な時期の到来」)は二つの事が実現するかどうかにかかっていると,ファティマの聖母( "Our Lady of Fatima" )が世界に向けて明らかにされました:( "In 1917 it was made clear to the world by Our Lady of Fatima that the salvation of Church and world ( “a period of peace” )depended upon two things: …" )(せん きゅうひゃく じゅうしち〈なな〉ねん,きょうかいと せかいの きゅうさい〈「へいわな じきの とうらい」〉は ふたつの ことが じつげん するか どうかに かかっていると,ふぁてぃまの せいぼが せかいに むけて あきらかにされました.)(すなわち): 一つは,世界中の司教たちと一つになった(=一致した)(ローマ)教皇によってロシアが聖母に奉献されること,のみならず( "… not only upon the Consecration of Russia to her Immaculate Heart by the Pope with all the bishops of the world, …" )(ひとつは,せかいじゅうの しきょう たちと ひとつに なった〈=いっちした〉〈ろーま〉きょうこうに よって ろしあが せいぼに ほうけんされる こと,のみならず,),もう一つ,カトリック教徒たちが悔悛の秘跡( "Confession" )と聖体の秘跡( "Communion" )を受け,毎月第1土曜日毎に15分間黙想し( "meditating" )聖母マリアへロザリオの祈り( "a rosary" )を捧げることにより聖母に罪の償い( "reparation" )を果たすこと,という二つの事が実現するかどうかにかかっています( "… but also upon Catholics making reparation to her Heart by receiving Confession and Communion and by meditating for 15 minutes and praying a rosary on each first Saturday of the month." )(もうひとつ,かとりっくきょうと たちが かいしゅんの ひせきと せいたいの ひせきを うけ,まいつき だいいち どようび ごとに じゅうごふん かん もくそうし せいぼ まりあへ ろざりおの いのりを ささげる ことに より せいぼに つみの つぐのい〈つぐない〉を はたすこと,という ふたつの ことが じつげん するか どうかの ふたつの ことに かかって います.).従って,カトリック信徒は誰一人教会と世界を現在の恐ろしい危機状態から救い出す事など出来ないと考えないでください( "Therefore let no Catholic think that there is nothing they can do to help Church and world out of their present appalling crisis." )(したがって,かとりっくしんとは だれひとり きょうかいと せかいを げんじつの おそろしい きき じょうたい から すくいだす こと など できないと かんがえないで ください).カトリック信徒が一人でもファティマの聖母の第1の願いに応えるなら,教皇が第2の願いに応える一助になるでしょう( "Every single Catholic responding to her second request will help the Pope to respond to her first request." )(かとりっく しんとが ひとりでも ふぁてぃまの せいぼの だいいちの ねがいに こたえる なら,きょうこうが だいにの ねがいに こたえる いちじょと なるでしょう.).
だが,教皇による第2の願いへの対応はいまだに不十分です( "But this response has not yet been sufficient. For instance in the 1930's, …" ).たとえば,教皇ピオ11世は1930年代すでに聖母の第1の願いについて十分気づいていましたが( "… Pope Pius XI was well aware of Our Lady's first request, …" ),ロシアの奉献を実行しませんでした( "… but he never performed the Consecration of Russia." ).何故でしょうか?( "Why not ? " )(だが,きょうこうに よる だいにの ねがい への たいおうは いまだに ふじゅうぶん です.たとえば,きょうこう ぴお じゅういっせいは せん きゅうひゃく さんじゅう ねんだい すでに せいぼの だいいちの ねがいに ついて じゅうぶん きづいて いましたが,ろしあの ほうけんを じっこう しません でした.なぜ でしょうか?)聖トリニティーの兄弟(同胞・ブラザー)マイケル( Brother Michael of the Holy Trinity )の秀作「ファティマについての全真相」 "The whole Truth about Fatima" 全3巻の第2巻にある記述によれば( "According to Brother Michael of the Holy Trinity in the second of his excellent three volumes on The whole Truth about Fatima, …" ),教皇ピオ11世は当時モスクワのロシア権力者と外交的接触を図っており( "…it was because Pius XI was engaged at that time in diplomatic contacts with the Russian authorities in Moscow, …" ),共産主義者たちとやり取りするには自らの外交の方が聖母のいうロシアの奉献より良い方法だと考えていたからです( "…and he thought that his own diplomacy was a better way of dealing with Communists than Our Lady's Consecration." )(せい とりにてぃー の きょうだい〈どうほう・ぶらざー〉まいけるの しゅうさく「ふぁてぃまに ついての ぜん しんそう」ぜん さんかんの だい にかんに ある きじゅつに よれば,きょうこう ぴお じゅういっせいは とうじ もすくわの ろしあ けんりょくしゃと がいこうてき せっしょくを はかって おり,きょうさん しゅぎしゃと やりとりする には みずからの がいこうの ほうが せいぼ の いう ろしあの ほうけん より よい ほうほう だと かんがえて いたから です). 教皇はこの問題を天与の方法でなく人間的な方法で処理しようとしたわけですが( "He preferred the human to the divine way of dealing with the problem, …" ),無論この時は問題が未解決のまま残りました( "… and so of course the problem remained unsolved." ).世界は第二次世界大戦に突入し( "The world plunged into World War II, …" ),教会は第二バチカン公会議により内部崩壊しました( "… and the Church was broken from within by Vatican II. " ).(きょうこうは この もんだいを てんよの ほうほう でなく にんげん てきな ほうほうで しょり しようと した わけですが,むろん この ときは もんだいが みかいけつの まま のこりました.せかいは だい にじ せかい たいせんに とつにゅうし,きょうかいはだいに ばちかん こうかいぎ により ないぶ ほうかい しました.)
2010年代になると,ファティマの聖母が使者(女性)を通してロシアの奉献実現に向けて神の恩寵を祈願する為(聖母マリアへの)ロザリオ祈願(祈祷)によって組織された十字軍による聖戦(以下,「ロザリオ聖戦」と記す)( a Rosary Crusade )を組織してほしいと聖ピオ十世会( SSPX )のフェレー司教( "Bishop Fellay for the Society of St Pius X" )に要請するという同じ様な話が表面化します( "Now in the 2010's a parallel story has been coming to light of Our Lady appealing through a messenger to Bishop Fellay for the Society of St Pius X to organize a Rosary Crusade to pray for the Consecration of Russia to take place." )(にせん じゅうねん だいに なると,ふぁてぃまの せいぼが ししゃ〈じょせい〉を とおして ろしあの ほうけん じつげんに むけて かみの おんちょうを きがん する ため〈せいぼ まりあ への〉ろざりお きがん〈きとう〉に よってそしき された じゅうじぐん による せいせん〈いか,「ろざりおせいせん」と しるす〉を そしき してほしいと せい ぴお じゅっせい かいの ふぇれー しきょうに ようせい する という おなじような はなしが ひょうめんか します).もしこの話が本当なら(私は本当だと信じますし,他の数人の司祭たちもそう信じています),エレイソン・コメンツに何回かに分けてご紹介するに値するでしょう( "If this story is true (as I believe it is, and some other priests also believe), it is worth telling in a few issues of these “Comments”, …" ).私の意図はフェレー司教の信用を落とす事などでなく(彼が人間的な手段を選んだことはピオ11世の時と同じ様に理解できます――それでよかったかどうかは神が判断されることです)――ロシアの奉献,とりわけ百年経ったとはいえ,第1土曜日に5週連続で行う敬虔な祈りがいかに大事な事なのかを強調する為です( "… not to discredit Bishop Fellay (whose preference for human means is as understandable as that of Pius XI – God is their judge), but in order to emphasize how urgent the Consecration of Russia remains, and especially the devout practice of the five first Saturdays, even nigh on 100 years later." )(もし この はなしが ほんとう なら〈わたくしは ほんとうだと しんじます し,ほかの すうにんの しさいたちも そう しんじて います〉,えれいそん・こめんつに なんかいか に わけて ごしょうかい するに あたい する でしょう.わたくしの いとは ふぇれー しきょうの しんようを おとす こと などで なく〈かれが にんげん てきな しゅだんを えらんだ ことは ぴお じゅういっせい の ときと おなじ ように りかい できます――それで よかったか どうかは かみが はんだん される こと です〉――ろしあ の ほうけん,とりわけ ひゃくねん たった とはいえ,だいいち どようびに ごしゅう れんぞくで おこなう けいけんな いのりが いかに だいじな こと なのかを きょうちょう するため です).だが,そもそもこの話は本当なのでしょうか? とりわけ,ファティマの聖母の使者はどの程度信頼できるのでしょうか?( "But is the story true ? In particular, how reliable is the messenger ? " )(だが,そもそも この はなしは ほんとう なのでしょうか? とりわけ,ふぁてぃまの せいぼの ししゃは どのていど しんらい できる のでしょうか?)
私自身,この使者に何回か会ったことがありますが,彼女の話はどうみても本当の事だと信じます( "I myself have met with her several times, and I believe her story has every likelihood of being true, …" )(わたくし じしん,この ししゃに なんかいか あった ことが ありますが,かのじょの はなしは どうみても ほんとうの ことだと しんじます).第1の理由は彼女が如何にも真実を話すという印象を与える真面目な成人だということ( "… firstly because she is a serious adult person who gives every sign of telling the truth, …" ),それよりも彼女の話す事が多くの公になった事実や云わばいわば外面的に広く知られた出来事に一致するというのが主な理由です( "… but mainly because what she tells is an inside story that corresponds to, and explains, a large number of public facts and well-known events on the outside, so to speak." )(だいいちの りゆうは かのじょが いかにも しんじつを はなす という いんしょうを あたえる まじめな せいじんだ ということ,それよりも かのじょの はなす ことが おおくの おおやけに なった じじつや いわば がいめん てきに ひろく しられた できごとに いっち すると いうのが おもな りゆう です).この使者について読者の皆さんが私の個人的な判断を疑われるのはご自由です( "As to the messenger, readers are entitled to distrust my personal judgment, …" ).だが,裏話と外面的事実の一致については読者自身で判断できることです( "… but as to the perfect correspondence between inside story and outside facts, readers can judge for themselves." )(この ししゃに ついて どくしゃの みなさんが わたくしの こじん てきな はんだんを うたがわれる のは ごじゆう です.だが,うらばなしと がいめんてき じじつの いっちに ついては どくしゃ じしんで はんだん できる こと です).
この話は聖母マリアがその使者の前にお現れになり, SSPX のフェレー司教に伝えるメッセージを与えた2004年のよき牧者の主日(御復活後第二の主日) "Good Shepherd Sunday" (訳注後記 5-1 )に始まります( "The story begins on Good Shepherd Sunday of 2004, when the Blessed Virgin Mary appeared to the messenger and gave her a message to be passed on to the Bishop of the Society of St Pius X." )(この はなしは せいぼ まりあが その ししゃの まえに おあらわれに なり,せい ぴお じゅっせい かい〈えすえすぴーえくす〉の ふぇれー しきょうに つたえる めっせーじを あたえた にせんよねんの よき ぼくしゃの しゅじつ〈ごふっかつご だいにの しゅじつ〉にはじまります).メッセージの中で,聖母マリアは SSPX に対しロシアの奉献のためのロザリオ聖戦に加わる忠実な信者たちを導くようお頼みになりました( "In it she asked for the SSPX to lead the faithful in a Rosary Crusade for the Consecration of Russia to her Immaculate Heart, …" )(めっせーじの なかで,せいぼ まりあは せい ぴお じゅっせい かいに たいし ろしあの ほうけんの ための ろざりお せいせんに くわわる ちゅうじつな しんじゃたちを みちびくよう おたのみに なりました).これは天が1920年代から求めて来たものと同じ奉献です( "… that same Consecration that Heaven has been asking for since the 1920's." )(これは てんが せん きゅうひゃく にじゅう ねん だい から もとめて きた ものと おなじ ほうけん です).もしこれが聖母マリアの求められた通り実現すれば,ロザリオ聖戦は彼女を通してロシアの奉献をもたらす恩寵を遂に得るだろうというのが2000年代における理解です( "The understanding in the 2000's was that if this were done as she asked, it would at last obtain, through her, the graces to bring about the much needed Consecration." )(もし これが せいぼ まりあの もとめられた とおり じつげん すれば,ろざりお せいせんは かのじょを とおして ろしあの ほうけんを もたらす おんちょうを ついに える だろうと いうのが にせん ねん だいに おける りかい です).
2006年6月,使者は聖母のメッセージをフェレー司教に直に伝えました( "In June of 2006 the messenger gave the message in person to Bishop Fellay." )(にせん ろくねん ろくがつ,ししゃは せいぼの めっせーじを ふぇれー しきょうに じかに つたえました).司教は彼女とメッセージについて話し合いましたが,彼はこの時それが実際には神の御母( "the Mother of God" )(=聖母)からのご指示だとは知りませんでした( "He discussed it with her, but did not yet know that it was in fact a directive from the Mother of God." ).司教はスイスへ戻る途中で彼の最初の重要な決断を下しました( "And so on his way back to Switzerland he took a first important decision. " )(しきょうは かのじょと めっせーじに ついて はなしあい ましたが,かれは このとき それが じっさいには かみの おんはは〈せいぼ〉からの ごしじ だとは しりません でした.しきょうは すいすへ もどる とちゅうで かれの さいしょの じゅうような けつだんを くだし ました).アメリカ人が好んで言うように,これから先の話をお楽しみに!( "As Americans say, “Stay tuned” ! " )(あめりか じんが このんで いうように,これから さきの はなしを おたのしみに!)
キリエ・エレイソン.
もしマリアさまが
私たちに
教会をどう救うか
告げられるとすれば,
(もし マリア さまが
わたくし たちに
きょうかいを どう すくうか
つげられる とすれば,)
( "If Mary tells us
how to save the Church, …" )
私たちは
それ以外の
どの方法を選んでも
見捨てられることになるでしょう.
(わたくしたちは
それいがいの
どのほうほうをえらんでも
みすてられることになるでしょう.)
( "All other means
will leave us in the lurch." )
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
訳注 5-1
「よき牧者の主日」
"Good Shepherd Sunday"
・= 神の御独り子・救世主(キリスト/メシア)
主イエズスの
「御復活(=イースター)後の第二の主日
(=日曜日)」
・「本日は,『よき牧者の主日』といわれていた.
なぜなら,この日,教区会議が行われていたからである.
従って,本日は特に,長上に対する,あるいは目下に対する
義務のことが語られる.
そして,その最高の模範として,牧者なるキリストが示される.」
(ローマ・毎日のミサ典書〔1957年〕「御復活後第二の主日ミサ聖祭」解説より)
・この日の聖福音「聖ヨハネによる聖福音の続誦(第10章11-16節)」 が由来.
(「トレント公会議 "The Council of Trent (1545–63)" 式典礼
によるローマ・ミサ聖祭」
=「教皇ピオ5世 "Pope Pius V(英語)/Summi Pontifices Pius V(ラテン語) (1566-1572)" のミサ聖祭 (1570-1962)」
=「聖なる伝承(聖伝)の典礼( "Traditional liturgy" )によるミサ聖祭」)
・EC 379 で引用されている聖福音の掲載:
聖ヨハネによる聖福音の続誦(第10章11-16節)(1-21節を掲載予定)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO SAINT JOHN X, 11-16 (1-21)(英)
EVANGILE SELON SAINT JEAN X, 11-16 (1-21)(仏)
EVANGELIUM SECUNDUM IOANNEM X, 11-16 (1-21)(羅)
1節 (verse/verset)
『「まことにまことに私は言う.羊の柵(さく)の中に門からはいらず,ほかの所から乗り越えてくる者は,盗人(ぬすびと)であり,強盗(ごうとう)である.
"AMEN, amen I say to you: He that entereth not by the door into the sheepfold, but climbeth up another way, the same is a thief and a robber.
"En vérité, en vérité, je vous le dis, celui qui n'entre pas par la porte dans la bergerie, mais qui y monte par ailleurs, est un voleur et un brigand.
"Amen, amen dico vobis: qui non intrat per ostium in ovile ovium, sed ascendit aliunde: ille fur est, et latro.
2
門から入るのは羊の牧者である.
But he that entereth in by the door is the shepherd of the sheep.
Mais celui qui entre par la porte est le berger des brebis.
Qui autem intrat per ostium, pastor est ovium.
3
門番は彼のために門を開く.羊は彼の声を聞き,彼は自分の羊一頭ずつの名を呼んで外に引き出す.
To him the porter openeth; and the sheep hear his voice: and he calleth his own sheep by name, and leadeth them out.
Le portier lui ouvre, et les brebis entendent sa voix; il appelle par leur nom les brebis qui lui appartiennent, et il les conduit dehors.
Huic ostiarius aperit, et oves vocem eius audiunt, et proprias ovas vocat nominatim, et educit eas.
4
全部を引き出すと,彼は羊に先立ち,羊はそれについていく.羊は彼の声を知っているからである.
And when he hath let out his own sheep, he goeth before them: and the sheep follow him, because they know his voice.
Lorsqu'il a fait sortir toutes ses propres brebis, il marche devant elles; et les brebis le suivent, parce qu'elles connaissent sa voix.
Et cum proprias oves emiserit, ante eas vadit: et oves illum sequuntur, quia sciunt vocem eius.
5
*羊はほかの人にはついていかず,遠くへ逃げてしまう.ほかの人の声を知らないからである」.
But a stranger they follow not, but fly from him, because they know not the voice of strangers.
Elles ne suivront point un étranger; mais elles fuiront loin de lui, parce qu'elles ne connaissent pas la voix des étrangers.
Alienum autem non sequuntur, sed fugiunt ab eo: quia non noverunt vocem alienorum.
6
イエズスはこうたとえを話されたが,彼らはそれが何の話だかわからなかった.
This proverb Jesus spoke to them. But they understood not what he spoke to them.
Jésus leur dit cette parabole, mais ils ne comprirent pas de quoi il leur parlait.
Hoc proverbium dixit eis Iesus. Illi autem non cognoverunt quid loqueretur eis.
7
またイエズスは、言われた,「まことにまことに私は言う.私は羊の門である.
Jesus therefore said to them again: Amen, amen I say to you, I am the door of the sheep.
Jésus leur dit encore: En vérité, en vérité, je vous le dis, je suis la porte des brebis.
Dixit ergo eis iterum Iesus: Amen, amen dico vobis, quia ego sum ostium ovium.
8
*私より前に来た者はみな盗人で強盗である.羊は、彼らの言うことを聞かなかった.
All others, as many as have come, are thieves and robbers: and the sheep heard them not.
Tous ceux qui sont venus avant moi sont des voleurs et des brigands; mais les brebis ne les ont point écoutés.
Omnes quotquot venerunt, fures sunt, et latrones, et non audierunt eos oves.
9
私は門である.私を通って入る者は救われ,出入りして牧草を見つけるだろう.
I am the door. By me, if any man enter in, he shall be saved: and he shall go in, and go out, and shall find pastures.
Je suis la porte. Si quelqu'un entre par moi, il sera sauvé; il entrera et il sortira, et il trouvera des pâturages.
Ego sum ostium. Per me si quis introierit, salvabitur: et ingredietur, et egredietur, et pascua inveniet.
10
盗人は盗み,殺し,滅ぼすためにだけ来る.私は羊たちに*命を,豊かな命を与えるために来た.』
The thief cometh not, but for to steal, and to kill, and to destroy. I am come that they may have life, and may have it more abundantly."
Le voleur ne vient que pour dérober, égorger et détruire; moi, je suis venu afin que les brebis aient la vie, et qu'elles soient dans l'abondance. "
Fur non venit nisi ut furetur, et mactet, et perdat. Ego veni ut vitam habeant, et abundantius habeant."
11
『*私は良い牧者で,良い牧者は羊のために自分の命を捨てる.
"I am the good shepherd. The good shepherd giveth his life for his sheep.
"Je suis le bon berger. Le bon berger donne sa vie pour ses brebis.
"Ego sum pastor bonus. Bonus pastor animam suam dat pro ovibus suis.
12
牧者でもなく,自分の羊をもたぬ雇い人は,狼(おおかみ)が来るのを見ると,羊を捨てて逃げ,羊はおおかみに奪われ,散らされる.
But the hireling, and he that is not the shepherd, whose own the sheep are not, seeth the wolf coming, and leaveth the sheep, and flieth: and the wolf catcheth, and scattereth the sheep:
Mais le mercenaire, qui n'est pas le berger, et à qui n'appartiennent pas les brebis, voit venir le loup, abandonne les brebis, et prend la fuite; et le loup les ravit et les disperse.
Mercenarius autem, et qui non est pastor, cuius non sunt oves propriæ, videt lupum venientem, et dimittit oves, et fugit: et lupus rapit, et dispergit oves:
13
彼は雇い人で羊のことを心にかけぬ.
And the hireling flieth, because he is a hireling: and he hath no care for the sheep.
Le mercenaire s'enfuit, parce qu'il est mercenaire, et qu'il ne se met point en peine des brebis. Je suis le bon berger.
mercenarius autem fugit, quia mercenarius est, et non pertinet ad eum de ovibus.
14
私はよい牧者で,自分の羊を知り,私の羊もまた私を知っている.
I am the good shepherd; and I know mine, and mine know me.
Je connais mes brebis, et elles me connaissent,
Ego sum pastor bonus: et cognosco meas, et cognoscunt me meæ.
15
それは,父が私を知り,私が父を知っているのと同じである.こうして私は自分の羊のために命を捨てる.
As the Father knoweth me, and I know the Father: and I lay down my life for my sheep.
comme le Père me connaît et comme je connais le Père; et je donne ma vie pour mes brebis.
Sicut novit me Pater, et ego agnosco Patrem: et animam meam pono pro ovibus meis.
16
また私にはこの柵内(さくない)にいない*ほかの羊もある.私はそれらも連れていかねばならぬ.羊たちも私の声を聞き,一つの群れ,一人の牧者となるだろう.』
And other sheep I have, that are not of this fold: them also I must bring, and they shall hear my voice, and there shall be one fold and one shepherd."
J'ai encore d'autres brebis, qui ne sont pas de cette bergerie; celles-là, il faut que je les amène; elles entendront ma voix, et il y aura un seul troupeau, un seul berger."
Et alias oves habeo, quæ non sunt ex hoc ovili: et illas oportet me adducere, et vocem meam audient, et fiet unum ovile, et unus pastor."
17
父が私を愛されるのは,私が命をふたたび取りもどせるよう自分の命を与えるからである.
Therefore doth the Father love me: because I lay down my life, that I may take it again.
Le Père m'aime, parce que je donne ma vie, afin de la reprendre.
Propterea me diligit Pater: quia ego pono animam meam, ut iterum sumam eam.
18
その命は私から奪い取るものではなく,私がそれを与える.私にはそれを与える権威があり,また取りもどす権威もある.それは私が父から受けた命令である」.
No man taketh it away from me: but I lay it down of myself, and I have power to lay it down: and I have power to take it up again. This commandment have I received of my Father.
Personne ne me l'ôte, mais je la donne de moi-même; j'ai le pouvoir de la donner, et j'ai le pouvoir de la reprendre: tel est l'ordre que j'ai reçu de mon Père.
Nemo tollit eam a me: sed ego pono eam a meipso, et potestatem habeo ponendi eam: et potestatem habeo iterum sumendi eam: Hoc mandatum accepi a Patre meo.
19
またしてもこのことばのためにユダヤ人の間で意見が分かれ,
A dissension rose again among the Jews for these words.
Il y eut de nouveau, à cause de ces paroles, division parmi les Juifs.
Dissensio iterum facta est inter Iudæos propter sermones hos.
20
そのうちの多くは,「あの人は悪魔につかれて気が狂っている.なぜおまえたちはあんなことばを聞くのか」と言い,
And many of them said: He hath a devil, and is mad: why hear you him? Plusieurs d'entre eux disaient:
Il a un démon, il est fou; pourquoi l'écoutez-vous?
Dicebant autem multi ex ipsis: Dæmonium habet, et insanit: quid eum auditis?
21
中には,「あれは悪魔につかれた者のことばではない.悪魔に盲人の目があけられようか」と言う人もあった.
Others said: These are not the words of one that hath a devil: Can a devil open the eyes of the blind?
D'autres disaient: Ce ne sont pas les paroles d'un démoniaque; un démon peut-il ouvrir les yeux des aveugles?
Alii dicebant: Hæc verba non sunt dæmonium habentis: numquid dæmonium potest cæcorum oculos aperire?
(注釈)
*5 パレスチナには,公共の檻(おり)があって,夜になるとそこに畜獣を入れ,朝になるとおのおのの牧者が自分の羊を呼びに来る.羊たちは自分の主人の声を聞き分ける.
*8 ファリザイ人の律法学士を指す(マテオ聖福音書・第9章36節,第23章1-36節,マルコ聖福音書・第6章34節,ルカ聖福音書・第11章39-52節).
*10 永遠の命,これを豊かに与えるのはイエズスである(第3章16, 36節,5章40節,6章33, 35, 48, 51節,14章6節,20章31節,ヨハネ黙示録・第7章17節,マテオ聖福音書・第25章29節,ルカ聖福音書・第6章38節).
*11 自分の民の牧者である神は,メシアの時代に,選ばれた牧者を送られるはずであった.
「良い牧者」と名のるイエズスは,「メシア」だと宣言したのと同じである.
*16 「ほかの羊」は,将来教会に招かれるであろう異邦人を指す.
ユダヤ人の柵(さく)ではなく,永遠の命の柵に人々を入れるのは,イエズスの使命である.
* * *
(注:本投稿記事〈第379回エレイソン・コメンツ「裏話 I〈うらばなし いち〉 」〉は2014年11月13日‐14日に公開されました.)
1917年,教会と世界の救済(「平和な時期の到来」)は二つの事が実現するかどうかにかかっていると,ファティマの聖母( "Our Lady of Fatima" )が世界に向けて明らかにされました:( "In 1917 it was made clear to the world by Our Lady of Fatima that the salvation of Church and world ( “a period of peace” )depended upon two things: …" )(せん きゅうひゃく じゅうしち〈なな〉ねん,きょうかいと せかいの きゅうさい〈「へいわな じきの とうらい」〉は ふたつの ことが じつげん するか どうかに かかっていると,ふぁてぃまの せいぼが せかいに むけて あきらかにされました.)(すなわち): 一つは,世界中の司教たちと一つになった(=一致した)(ローマ)教皇によってロシアが聖母に奉献されること,のみならず( "… not only upon the Consecration of Russia to her Immaculate Heart by the Pope with all the bishops of the world, …" )(ひとつは,せかいじゅうの しきょう たちと ひとつに なった〈=いっちした〉〈ろーま〉きょうこうに よって ろしあが せいぼに ほうけんされる こと,のみならず,),もう一つ,カトリック教徒たちが悔悛の秘跡( "Confession" )と聖体の秘跡( "Communion" )を受け,毎月第1土曜日毎に15分間黙想し( "meditating" )聖母マリアへロザリオの祈り( "a rosary" )を捧げることにより聖母に罪の償い( "reparation" )を果たすこと,という二つの事が実現するかどうかにかかっています( "… but also upon Catholics making reparation to her Heart by receiving Confession and Communion and by meditating for 15 minutes and praying a rosary on each first Saturday of the month." )(もうひとつ,かとりっくきょうと たちが かいしゅんの ひせきと せいたいの ひせきを うけ,まいつき だいいち どようび ごとに じゅうごふん かん もくそうし せいぼ まりあへ ろざりおの いのりを ささげる ことに より せいぼに つみの つぐのい〈つぐない〉を はたすこと,という ふたつの ことが じつげん するか どうかの ふたつの ことに かかって います.).従って,カトリック信徒は誰一人教会と世界を現在の恐ろしい危機状態から救い出す事など出来ないと考えないでください( "Therefore let no Catholic think that there is nothing they can do to help Church and world out of their present appalling crisis." )(したがって,かとりっくしんとは だれひとり きょうかいと せかいを げんじつの おそろしい きき じょうたい から すくいだす こと など できないと かんがえないで ください).カトリック信徒が一人でもファティマの聖母の第1の願いに応えるなら,教皇が第2の願いに応える一助になるでしょう( "Every single Catholic responding to her second request will help the Pope to respond to her first request." )(かとりっく しんとが ひとりでも ふぁてぃまの せいぼの だいいちの ねがいに こたえる なら,きょうこうが だいにの ねがいに こたえる いちじょと なるでしょう.).
だが,教皇による第2の願いへの対応はいまだに不十分です( "But this response has not yet been sufficient. For instance in the 1930's, …" ).たとえば,教皇ピオ11世は1930年代すでに聖母の第1の願いについて十分気づいていましたが( "… Pope Pius XI was well aware of Our Lady's first request, …" ),ロシアの奉献を実行しませんでした( "… but he never performed the Consecration of Russia." ).何故でしょうか?( "Why not ? " )(だが,きょうこうに よる だいにの ねがい への たいおうは いまだに ふじゅうぶん です.たとえば,きょうこう ぴお じゅういっせいは せん きゅうひゃく さんじゅう ねんだい すでに せいぼの だいいちの ねがいに ついて じゅうぶん きづいて いましたが,ろしあの ほうけんを じっこう しません でした.なぜ でしょうか?)聖トリニティーの兄弟(同胞・ブラザー)マイケル( Brother Michael of the Holy Trinity )の秀作「ファティマについての全真相」 "The whole Truth about Fatima" 全3巻の第2巻にある記述によれば( "According to Brother Michael of the Holy Trinity in the second of his excellent three volumes on The whole Truth about Fatima, …" ),教皇ピオ11世は当時モスクワのロシア権力者と外交的接触を図っており( "…it was because Pius XI was engaged at that time in diplomatic contacts with the Russian authorities in Moscow, …" ),共産主義者たちとやり取りするには自らの外交の方が聖母のいうロシアの奉献より良い方法だと考えていたからです( "…and he thought that his own diplomacy was a better way of dealing with Communists than Our Lady's Consecration." )(せい とりにてぃー の きょうだい〈どうほう・ぶらざー〉まいけるの しゅうさく「ふぁてぃまに ついての ぜん しんそう」ぜん さんかんの だい にかんに ある きじゅつに よれば,きょうこう ぴお じゅういっせいは とうじ もすくわの ろしあ けんりょくしゃと がいこうてき せっしょくを はかって おり,きょうさん しゅぎしゃと やりとりする には みずからの がいこうの ほうが せいぼ の いう ろしあの ほうけん より よい ほうほう だと かんがえて いたから です). 教皇はこの問題を天与の方法でなく人間的な方法で処理しようとしたわけですが( "He preferred the human to the divine way of dealing with the problem, …" ),無論この時は問題が未解決のまま残りました( "… and so of course the problem remained unsolved." ).世界は第二次世界大戦に突入し( "The world plunged into World War II, …" ),教会は第二バチカン公会議により内部崩壊しました( "… and the Church was broken from within by Vatican II. " ).(きょうこうは この もんだいを てんよの ほうほう でなく にんげん てきな ほうほうで しょり しようと した わけですが,むろん この ときは もんだいが みかいけつの まま のこりました.せかいは だい にじ せかい たいせんに とつにゅうし,きょうかいはだいに ばちかん こうかいぎ により ないぶ ほうかい しました.)
2010年代になると,ファティマの聖母が使者(女性)を通してロシアの奉献実現に向けて神の恩寵を祈願する為(聖母マリアへの)ロザリオ祈願(祈祷)によって組織された十字軍による聖戦(以下,「ロザリオ聖戦」と記す)( a Rosary Crusade )を組織してほしいと聖ピオ十世会( SSPX )のフェレー司教( "Bishop Fellay for the Society of St Pius X" )に要請するという同じ様な話が表面化します( "Now in the 2010's a parallel story has been coming to light of Our Lady appealing through a messenger to Bishop Fellay for the Society of St Pius X to organize a Rosary Crusade to pray for the Consecration of Russia to take place." )(にせん じゅうねん だいに なると,ふぁてぃまの せいぼが ししゃ〈じょせい〉を とおして ろしあの ほうけん じつげんに むけて かみの おんちょうを きがん する ため〈せいぼ まりあ への〉ろざりお きがん〈きとう〉に よってそしき された じゅうじぐん による せいせん〈いか,「ろざりおせいせん」と しるす〉を そしき してほしいと せい ぴお じゅっせい かいの ふぇれー しきょうに ようせい する という おなじような はなしが ひょうめんか します).もしこの話が本当なら(私は本当だと信じますし,他の数人の司祭たちもそう信じています),エレイソン・コメンツに何回かに分けてご紹介するに値するでしょう( "If this story is true (as I believe it is, and some other priests also believe), it is worth telling in a few issues of these “Comments”, …" ).私の意図はフェレー司教の信用を落とす事などでなく(彼が人間的な手段を選んだことはピオ11世の時と同じ様に理解できます――それでよかったかどうかは神が判断されることです)――ロシアの奉献,とりわけ百年経ったとはいえ,第1土曜日に5週連続で行う敬虔な祈りがいかに大事な事なのかを強調する為です( "… not to discredit Bishop Fellay (whose preference for human means is as understandable as that of Pius XI – God is their judge), but in order to emphasize how urgent the Consecration of Russia remains, and especially the devout practice of the five first Saturdays, even nigh on 100 years later." )(もし この はなしが ほんとう なら〈わたくしは ほんとうだと しんじます し,ほかの すうにんの しさいたちも そう しんじて います〉,えれいそん・こめんつに なんかいか に わけて ごしょうかい するに あたい する でしょう.わたくしの いとは ふぇれー しきょうの しんようを おとす こと などで なく〈かれが にんげん てきな しゅだんを えらんだ ことは ぴお じゅういっせい の ときと おなじ ように りかい できます――それで よかったか どうかは かみが はんだん される こと です〉――ろしあ の ほうけん,とりわけ ひゃくねん たった とはいえ,だいいち どようびに ごしゅう れんぞくで おこなう けいけんな いのりが いかに だいじな こと なのかを きょうちょう するため です).だが,そもそもこの話は本当なのでしょうか? とりわけ,ファティマの聖母の使者はどの程度信頼できるのでしょうか?( "But is the story true ? In particular, how reliable is the messenger ? " )(だが,そもそも この はなしは ほんとう なのでしょうか? とりわけ,ふぁてぃまの せいぼの ししゃは どのていど しんらい できる のでしょうか?)
私自身,この使者に何回か会ったことがありますが,彼女の話はどうみても本当の事だと信じます( "I myself have met with her several times, and I believe her story has every likelihood of being true, …" )(わたくし じしん,この ししゃに なんかいか あった ことが ありますが,かのじょの はなしは どうみても ほんとうの ことだと しんじます).第1の理由は彼女が如何にも真実を話すという印象を与える真面目な成人だということ( "… firstly because she is a serious adult person who gives every sign of telling the truth, …" ),それよりも彼女の話す事が多くの公になった事実や云わばいわば外面的に広く知られた出来事に一致するというのが主な理由です( "… but mainly because what she tells is an inside story that corresponds to, and explains, a large number of public facts and well-known events on the outside, so to speak." )(だいいちの りゆうは かのじょが いかにも しんじつを はなす という いんしょうを あたえる まじめな せいじんだ ということ,それよりも かのじょの はなす ことが おおくの おおやけに なった じじつや いわば がいめん てきに ひろく しられた できごとに いっち すると いうのが おもな りゆう です).この使者について読者の皆さんが私の個人的な判断を疑われるのはご自由です( "As to the messenger, readers are entitled to distrust my personal judgment, …" ).だが,裏話と外面的事実の一致については読者自身で判断できることです( "… but as to the perfect correspondence between inside story and outside facts, readers can judge for themselves." )(この ししゃに ついて どくしゃの みなさんが わたくしの こじん てきな はんだんを うたがわれる のは ごじゆう です.だが,うらばなしと がいめんてき じじつの いっちに ついては どくしゃ じしんで はんだん できる こと です).
この話は聖母マリアがその使者の前にお現れになり, SSPX のフェレー司教に伝えるメッセージを与えた2004年のよき牧者の主日(御復活後第二の主日) "Good Shepherd Sunday" (訳注後記 5-1 )に始まります( "The story begins on Good Shepherd Sunday of 2004, when the Blessed Virgin Mary appeared to the messenger and gave her a message to be passed on to the Bishop of the Society of St Pius X." )(この はなしは せいぼ まりあが その ししゃの まえに おあらわれに なり,せい ぴお じゅっせい かい〈えすえすぴーえくす〉の ふぇれー しきょうに つたえる めっせーじを あたえた にせんよねんの よき ぼくしゃの しゅじつ〈ごふっかつご だいにの しゅじつ〉にはじまります).メッセージの中で,聖母マリアは SSPX に対しロシアの奉献のためのロザリオ聖戦に加わる忠実な信者たちを導くようお頼みになりました( "In it she asked for the SSPX to lead the faithful in a Rosary Crusade for the Consecration of Russia to her Immaculate Heart, …" )(めっせーじの なかで,せいぼ まりあは せい ぴお じゅっせい かいに たいし ろしあの ほうけんの ための ろざりお せいせんに くわわる ちゅうじつな しんじゃたちを みちびくよう おたのみに なりました).これは天が1920年代から求めて来たものと同じ奉献です( "… that same Consecration that Heaven has been asking for since the 1920's." )(これは てんが せん きゅうひゃく にじゅう ねん だい から もとめて きた ものと おなじ ほうけん です).もしこれが聖母マリアの求められた通り実現すれば,ロザリオ聖戦は彼女を通してロシアの奉献をもたらす恩寵を遂に得るだろうというのが2000年代における理解です( "The understanding in the 2000's was that if this were done as she asked, it would at last obtain, through her, the graces to bring about the much needed Consecration." )(もし これが せいぼ まりあの もとめられた とおり じつげん すれば,ろざりお せいせんは かのじょを とおして ろしあの ほうけんを もたらす おんちょうを ついに える だろうと いうのが にせん ねん だいに おける りかい です).
2006年6月,使者は聖母のメッセージをフェレー司教に直に伝えました( "In June of 2006 the messenger gave the message in person to Bishop Fellay." )(にせん ろくねん ろくがつ,ししゃは せいぼの めっせーじを ふぇれー しきょうに じかに つたえました).司教は彼女とメッセージについて話し合いましたが,彼はこの時それが実際には神の御母( "the Mother of God" )(=聖母)からのご指示だとは知りませんでした( "He discussed it with her, but did not yet know that it was in fact a directive from the Mother of God." ).司教はスイスへ戻る途中で彼の最初の重要な決断を下しました( "And so on his way back to Switzerland he took a first important decision. " )(しきょうは かのじょと めっせーじに ついて はなしあい ましたが,かれは このとき それが じっさいには かみの おんはは〈せいぼ〉からの ごしじ だとは しりません でした.しきょうは すいすへ もどる とちゅうで かれの さいしょの じゅうような けつだんを くだし ました).アメリカ人が好んで言うように,これから先の話をお楽しみに!( "As Americans say, “Stay tuned” ! " )(あめりか じんが このんで いうように,これから さきの はなしを おたのしみに!)
キリエ・エレイソン.
もしマリアさまが
私たちに
教会をどう救うか
告げられるとすれば,
(もし マリア さまが
わたくし たちに
きょうかいを どう すくうか
つげられる とすれば,)
( "If Mary tells us
how to save the Church, …" )
私たちは
それ以外の
どの方法を選んでも
見捨てられることになるでしょう.
(わたくしたちは
それいがいの
どのほうほうをえらんでも
みすてられることになるでしょう.)
( "All other means
will leave us in the lurch." )
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
訳注 5-1
「よき牧者の主日」
"Good Shepherd Sunday"
・= 神の御独り子・救世主(キリスト/メシア)
主イエズスの
「御復活(=イースター)後の第二の主日
(=日曜日)」
・「本日は,『よき牧者の主日』といわれていた.
なぜなら,この日,教区会議が行われていたからである.
従って,本日は特に,長上に対する,あるいは目下に対する
義務のことが語られる.
そして,その最高の模範として,牧者なるキリストが示される.」
(ローマ・毎日のミサ典書〔1957年〕「御復活後第二の主日ミサ聖祭」解説より)
・この日の聖福音「聖ヨハネによる聖福音の続誦(第10章11-16節)」 が由来.
(「トレント公会議 "The Council of Trent (1545–63)" 式典礼
によるローマ・ミサ聖祭」
=「教皇ピオ5世 "Pope Pius V(英語)/Summi Pontifices Pius V(ラテン語) (1566-1572)" のミサ聖祭 (1570-1962)」
=「聖なる伝承(聖伝)の典礼( "Traditional liturgy" )によるミサ聖祭」)
・EC 379 で引用されている聖福音の掲載:
聖ヨハネによる聖福音の続誦(第10章11-16節)(1-21節を掲載予定)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO SAINT JOHN X, 11-16 (1-21)(英)
EVANGILE SELON SAINT JEAN X, 11-16 (1-21)(仏)
EVANGELIUM SECUNDUM IOANNEM X, 11-16 (1-21)(羅)
1節 (verse/verset)
『「まことにまことに私は言う.羊の柵(さく)の中に門からはいらず,ほかの所から乗り越えてくる者は,盗人(ぬすびと)であり,強盗(ごうとう)である.
"AMEN, amen I say to you: He that entereth not by the door into the sheepfold, but climbeth up another way, the same is a thief and a robber.
"En vérité, en vérité, je vous le dis, celui qui n'entre pas par la porte dans la bergerie, mais qui y monte par ailleurs, est un voleur et un brigand.
"Amen, amen dico vobis: qui non intrat per ostium in ovile ovium, sed ascendit aliunde: ille fur est, et latro.
2
門から入るのは羊の牧者である.
But he that entereth in by the door is the shepherd of the sheep.
Mais celui qui entre par la porte est le berger des brebis.
Qui autem intrat per ostium, pastor est ovium.
3
門番は彼のために門を開く.羊は彼の声を聞き,彼は自分の羊一頭ずつの名を呼んで外に引き出す.
To him the porter openeth; and the sheep hear his voice: and he calleth his own sheep by name, and leadeth them out.
Le portier lui ouvre, et les brebis entendent sa voix; il appelle par leur nom les brebis qui lui appartiennent, et il les conduit dehors.
Huic ostiarius aperit, et oves vocem eius audiunt, et proprias ovas vocat nominatim, et educit eas.
4
全部を引き出すと,彼は羊に先立ち,羊はそれについていく.羊は彼の声を知っているからである.
And when he hath let out his own sheep, he goeth before them: and the sheep follow him, because they know his voice.
Lorsqu'il a fait sortir toutes ses propres brebis, il marche devant elles; et les brebis le suivent, parce qu'elles connaissent sa voix.
Et cum proprias oves emiserit, ante eas vadit: et oves illum sequuntur, quia sciunt vocem eius.
5
*羊はほかの人にはついていかず,遠くへ逃げてしまう.ほかの人の声を知らないからである」.
But a stranger they follow not, but fly from him, because they know not the voice of strangers.
Elles ne suivront point un étranger; mais elles fuiront loin de lui, parce qu'elles ne connaissent pas la voix des étrangers.
Alienum autem non sequuntur, sed fugiunt ab eo: quia non noverunt vocem alienorum.
6
イエズスはこうたとえを話されたが,彼らはそれが何の話だかわからなかった.
This proverb Jesus spoke to them. But they understood not what he spoke to them.
Jésus leur dit cette parabole, mais ils ne comprirent pas de quoi il leur parlait.
Hoc proverbium dixit eis Iesus. Illi autem non cognoverunt quid loqueretur eis.
7
またイエズスは、言われた,「まことにまことに私は言う.私は羊の門である.
Jesus therefore said to them again: Amen, amen I say to you, I am the door of the sheep.
Jésus leur dit encore: En vérité, en vérité, je vous le dis, je suis la porte des brebis.
Dixit ergo eis iterum Iesus: Amen, amen dico vobis, quia ego sum ostium ovium.
8
*私より前に来た者はみな盗人で強盗である.羊は、彼らの言うことを聞かなかった.
All others, as many as have come, are thieves and robbers: and the sheep heard them not.
Tous ceux qui sont venus avant moi sont des voleurs et des brigands; mais les brebis ne les ont point écoutés.
Omnes quotquot venerunt, fures sunt, et latrones, et non audierunt eos oves.
9
私は門である.私を通って入る者は救われ,出入りして牧草を見つけるだろう.
I am the door. By me, if any man enter in, he shall be saved: and he shall go in, and go out, and shall find pastures.
Je suis la porte. Si quelqu'un entre par moi, il sera sauvé; il entrera et il sortira, et il trouvera des pâturages.
Ego sum ostium. Per me si quis introierit, salvabitur: et ingredietur, et egredietur, et pascua inveniet.
10
盗人は盗み,殺し,滅ぼすためにだけ来る.私は羊たちに*命を,豊かな命を与えるために来た.』
The thief cometh not, but for to steal, and to kill, and to destroy. I am come that they may have life, and may have it more abundantly."
Le voleur ne vient que pour dérober, égorger et détruire; moi, je suis venu afin que les brebis aient la vie, et qu'elles soient dans l'abondance. "
Fur non venit nisi ut furetur, et mactet, et perdat. Ego veni ut vitam habeant, et abundantius habeant."
11
『*私は良い牧者で,良い牧者は羊のために自分の命を捨てる.
"I am the good shepherd. The good shepherd giveth his life for his sheep.
"Je suis le bon berger. Le bon berger donne sa vie pour ses brebis.
"Ego sum pastor bonus. Bonus pastor animam suam dat pro ovibus suis.
12
牧者でもなく,自分の羊をもたぬ雇い人は,狼(おおかみ)が来るのを見ると,羊を捨てて逃げ,羊はおおかみに奪われ,散らされる.
But the hireling, and he that is not the shepherd, whose own the sheep are not, seeth the wolf coming, and leaveth the sheep, and flieth: and the wolf catcheth, and scattereth the sheep:
Mais le mercenaire, qui n'est pas le berger, et à qui n'appartiennent pas les brebis, voit venir le loup, abandonne les brebis, et prend la fuite; et le loup les ravit et les disperse.
Mercenarius autem, et qui non est pastor, cuius non sunt oves propriæ, videt lupum venientem, et dimittit oves, et fugit: et lupus rapit, et dispergit oves:
13
彼は雇い人で羊のことを心にかけぬ.
And the hireling flieth, because he is a hireling: and he hath no care for the sheep.
Le mercenaire s'enfuit, parce qu'il est mercenaire, et qu'il ne se met point en peine des brebis. Je suis le bon berger.
mercenarius autem fugit, quia mercenarius est, et non pertinet ad eum de ovibus.
14
私はよい牧者で,自分の羊を知り,私の羊もまた私を知っている.
I am the good shepherd; and I know mine, and mine know me.
Je connais mes brebis, et elles me connaissent,
Ego sum pastor bonus: et cognosco meas, et cognoscunt me meæ.
15
それは,父が私を知り,私が父を知っているのと同じである.こうして私は自分の羊のために命を捨てる.
As the Father knoweth me, and I know the Father: and I lay down my life for my sheep.
comme le Père me connaît et comme je connais le Père; et je donne ma vie pour mes brebis.
Sicut novit me Pater, et ego agnosco Patrem: et animam meam pono pro ovibus meis.
16
また私にはこの柵内(さくない)にいない*ほかの羊もある.私はそれらも連れていかねばならぬ.羊たちも私の声を聞き,一つの群れ,一人の牧者となるだろう.』
And other sheep I have, that are not of this fold: them also I must bring, and they shall hear my voice, and there shall be one fold and one shepherd."
J'ai encore d'autres brebis, qui ne sont pas de cette bergerie; celles-là, il faut que je les amène; elles entendront ma voix, et il y aura un seul troupeau, un seul berger."
Et alias oves habeo, quæ non sunt ex hoc ovili: et illas oportet me adducere, et vocem meam audient, et fiet unum ovile, et unus pastor."
17
父が私を愛されるのは,私が命をふたたび取りもどせるよう自分の命を与えるからである.
Therefore doth the Father love me: because I lay down my life, that I may take it again.
Le Père m'aime, parce que je donne ma vie, afin de la reprendre.
Propterea me diligit Pater: quia ego pono animam meam, ut iterum sumam eam.
18
その命は私から奪い取るものではなく,私がそれを与える.私にはそれを与える権威があり,また取りもどす権威もある.それは私が父から受けた命令である」.
No man taketh it away from me: but I lay it down of myself, and I have power to lay it down: and I have power to take it up again. This commandment have I received of my Father.
Personne ne me l'ôte, mais je la donne de moi-même; j'ai le pouvoir de la donner, et j'ai le pouvoir de la reprendre: tel est l'ordre que j'ai reçu de mon Père.
Nemo tollit eam a me: sed ego pono eam a meipso, et potestatem habeo ponendi eam: et potestatem habeo iterum sumendi eam: Hoc mandatum accepi a Patre meo.
19
またしてもこのことばのためにユダヤ人の間で意見が分かれ,
A dissension rose again among the Jews for these words.
Il y eut de nouveau, à cause de ces paroles, division parmi les Juifs.
Dissensio iterum facta est inter Iudæos propter sermones hos.
20
そのうちの多くは,「あの人は悪魔につかれて気が狂っている.なぜおまえたちはあんなことばを聞くのか」と言い,
And many of them said: He hath a devil, and is mad: why hear you him? Plusieurs d'entre eux disaient:
Il a un démon, il est fou; pourquoi l'écoutez-vous?
Dicebant autem multi ex ipsis: Dæmonium habet, et insanit: quid eum auditis?
21
中には,「あれは悪魔につかれた者のことばではない.悪魔に盲人の目があけられようか」と言う人もあった.
Others said: These are not the words of one that hath a devil: Can a devil open the eyes of the blind?
D'autres disaient: Ce ne sont pas les paroles d'un démoniaque; un démon peut-il ouvrir les yeux des aveugles?
Alii dicebant: Hæc verba non sunt dæmonium habentis: numquid dæmonium potest cæcorum oculos aperire?
(注釈)
*5 パレスチナには,公共の檻(おり)があって,夜になるとそこに畜獣を入れ,朝になるとおのおのの牧者が自分の羊を呼びに来る.羊たちは自分の主人の声を聞き分ける.
*8 ファリザイ人の律法学士を指す(マテオ聖福音書・第9章36節,第23章1-36節,マルコ聖福音書・第6章34節,ルカ聖福音書・第11章39-52節).
*10 永遠の命,これを豊かに与えるのはイエズスである(第3章16, 36節,5章40節,6章33, 35, 48, 51節,14章6節,20章31節,ヨハネ黙示録・第7章17節,マテオ聖福音書・第25章29節,ルカ聖福音書・第6章38節).
*11 自分の民の牧者である神は,メシアの時代に,選ばれた牧者を送られるはずであった.
「良い牧者」と名のるイエズスは,「メシア」だと宣言したのと同じである.
*16 「ほかの羊」は,将来教会に招かれるであろう異邦人を指す.
ユダヤ人の柵(さく)ではなく,永遠の命の柵に人々を入れるのは,イエズスの使命である.
* * *
(注:本投稿記事〈第379回エレイソン・コメンツ「裏話 I〈うらばなし いち〉 」〉は2014年11月13日‐14日に公開されました.)
2013年11月12日火曜日
330 ファティマ異論 11/9
エレイソン・コメンツ 第330回 (2013年11月9日)
20世紀初(はじ)めに,神は確(たし)かに二つの大きな光明(こうみょう)を現代世界(げんだい せかい)に与(あた)えられました:( "At the outset of the 20th century surely God gave to the modern world two great lights: " ) すなわち,ひとつは,理論(りろん)に関(かん)するもので,1907年に教皇ピオ10世を通(とお)して主観主義(しゅかん しゅぎ)の主要(しゅよう)な誤(あやま)りを咎(とが)めるために出された Encyclical Pascendi (回勅〈かいちょく〉パッシェンディ)です(訳注・フルタイトル: Pascendi Dominici Gregis 「主の群れを牧(ぼく)せよ」)( "for theory, through Pius X, the Encyclical Pascendi in 1907, to denounce the key error of subjectivism; …" ) (訳注後記1). もうひとつは,実践(じっせん)に関するもので,1917年に神の御母(かみの おんはは)(=聖母マリア)を通(とお)して共産主義(きょうさん しゅぎ)という恐(おそ)ろしい災難(さいなん)に対する治療薬(ちりょうやく)として出された(訳注・聖母マリアの)ファティマ御出現(ごしゅつげん)です ( "… for practice, through his Mother, the apparitions of Fatima in 1917, to provide a remedy for the monstrous plague of Communism." )(訳注後記2). だが,悪魔(あくま)は Pascendi から人々の注意(ちゅうい)を逸(そ)らし,ファティマの信憑性(しんぴょうせい)を貶(おとし)めようと,あれこれ異論(いろん)を持ち出(もちだ)します( "But the Devil deflects attention from Pascendi, and raises a series of objections to discredit Fatima." ).主な異論の中から以下に何点か示します:-- ( "Here are a few of the main objections:-- " )
* 聖母マリアが20世紀後半に第三次世界大戦が始まると言われたとするファティマ秘密の3番目 (訳注・=「第3の秘密」) についてのオッタビアーニ枢機卿(すうききょう)の解釈(かいしゃく)を私たちはどうして真剣(しんけん)に受け取れるだろうか? 2000年はすでに来て過ぎ去(すぎさ)ってしまったが,第三次世界大戦など起(お)きなかった. ( * How can we take seriously Cardinal Ottaviani’s version of the third part of the Fatima Secret when supposedly Our Lady says there that a third World war will start in the latter part of the 20th century ? The year 2000 has come and gone, and there has been no third World War.) ファティマ秘密の第2と第3には興味深(きょうみ ぶか)い類似点(るいじてん)があります ( "There is an interesting parallel here between the second and third parts of the Secret of Fatima." ). 第2の部分で聖母マリアは次期(じき)教皇(きょうこう)の時代(じだい)に第一次世界大戦よりひどい戦争(せんそう)が始まると言われました.当時の次期教皇とはピオ11世のことです ( "In the second part Our Lady said that a worse war than WW I would start under the reign of the next Pope, which was Pius XI." ). だが,ピオ11世は1939年春に亡くなられ,第二次世界大戦が布告(ふこく)されたのは同年秋(あき)で,その時点ではピオ12世が教皇でした( "Yet Pius XI died in the spring of 1939 and WW II was only declared in the autumn when Pius XII was Pope. " ). 聖母マリアが暦(こよみ)を間違(まちが)われたのでしょうか? そうではありません.聖母マリアは外見(がいけん)でなく現実(げんじつ)を基準(きじゅん)に話(はな)されただけです ( "Did Our Lady get her calendar wrong ? No, she was simply going by the reality instead of by the appearances." ). 現実に第二次世界大戦が始まったのは1938年です.この年,スターリンはヒトラーとの間(あいだ)に条約(じょうやく)を結(むす)ぶ決定(けってい)をしようとしていました.彼はヒトラーが西部戦線(せいぶ せんせん)で開戦(かいせん)するよう仕向(しむ)けるのが目的(もくてき)でした ( "In reality WW II started in 1938 when Stalin was deciding to make a pact with Hitler so as to liberate Hitler to make war on his western front." ). 2000年5月の神学校長(しんがっこうちょう)の書簡(しょかん)(eleisonkommentar.blogspot,comに掲載〈けいさい〉)に,この第二次世界大戦の本当の始まり(ほんとうの はじまり)についての興味(きょうみ)をそそる話がありますのでお読みください ( "See in the May, 2000, Rector’s Letter (on eleisonkommentar.blogspot,com) the whole fascinating story of this real start to WW II." )(訳注後記3). ところで,オッタビアーニ枢機卿(すうききょう)(訳注後記4) による「第3の秘密」の解釈の真偽(しんぎ)がどうあれ,第三次世界大戦は1991年の最初のイラク侵攻(しんこう)により2000年以前に始まったというのが実態(じったい)ではないでしょうか? ( "Now whether or not the Ottaviani version is or is not the true “Third Secret”, may the reality not be that WW III began in the Middle East before the year 2000, for instance with the first invasion of Iraq in 1991 ? " ) 物事(ものごと)はすべて外見通(がいけんどお)りとは限(かぎ)りません( "Things are not always how they appear." ).
*第二次世界大戦ではドレスデン,東京,長崎に対しぞっとするような空襲が行われた.ここで新しいこととは何か? ( * In WW II we saw horrific bombings of Dresden, Tokyo, Nagasaki. What will be new here ? ) 第二次世界大戦中の死者数合計(ししゃすう ごうけい)は数億(すうおく)という中(なか)から,普通は約6,600万人と見なされています( "Total WW II deaths are reckoned usually at some 66 million, in the tens of millions." ).聖母マリアが,ファティマだけでなく,ほかでも発せられた諸々(もろもろ)の警告(けいこく)を正(ただ)しく読(よ)めば( "If one reads rightly several warnings of Our Lady, and not only in Fatima, …" ),第二次世界大戦と(訳注・人類による「神と神の掟(おきて)に対する反逆(はんぎゃく)」という重い罪〈おもい つみ〉に対する)神の懲罰(ちょうばつ)による犠牲者数(ぎせいしゃ すう)は数千億(すうせんおく)とみられ,百倍(ひゃくばい)を超(こ)えます( "… casualties from WW III and the Chastisement will be reckoned in the thousands of millions. Of the order of 100 times worse." ).
*だが,私たちの時代に見られる精神的懲罰(せいしんてきちょうばつ)よりひどい物質的懲罰(ぶっしつてきちょうばつ)などあるだろうか? ( * But what material Chastisement could be worse than the spiritual chastisement of our own days? ) まさしく,アダムとイブの原罪(げんざい)以降(いこう)では,第二バチカン公会議が人類史上(じんるい しじょう)で最悪(さいあく)の災難(さいなん)です( "True, next after the Fall of Adam and Eve, Vatican II was the worst disaster in all the history of mankind." ).ただし,多数(たすう)の人々(ひとびと)はそれを大いなる解放(おおいなる かいほう)と見ています ( "Yet the mass of men see it as a great liberation." ). 棒(ぼう)や石(いし)で打(う)たれれば骨が折(ほねがお)れてしまうが,言葉(ことば)が私を傷(きず)つけることはない」というのは古(ふる)くからある諺(ことわざ)です ( " “Sticks and stones will break my bones, but words will never hurt me,” is the old saying." ). 精神的懲罰(せいしんてき ちょうばつ)そのものは,より大きな意味(いみ)をもつでしょうが,われわれ人間を分(わ)からせるのは物質的(ぶっしつてき)なものです (マテオ聖福音書9章6節,およびヨハネ聖福音書20償27節を参照)( "Spiritual punishments are in themselves much greater, but it takes material things for us men to understand (cf. Mt. IX, 6, and Jn. XX, 27)." )(訳注後記5).
*ファティマの聖母はもし教皇が何らかの奉献を執り行えば平和の時期が来ると約束された.歴代の教皇たちはそうした奉献を何度か執り行ったが,私たちに平和をもたらしていない. ( *Our Lady of Fatima promised a period of peace if the Pope performed a certain consecration. Popes since then have performed several such consecrations, but we have had no peace. ) たしかに,聖母マリアのお告げに従った奉献(ほうけん)( "consecration" )が何度か行(おこな)われてきましたが,彼女が求(もと)めた通(とお)りの奉献はまだ実現(じつげん)していません: ( "True, there have been several consecrations inspired no doubt by Our Lady of Fatima, but never yet exactly as she required: … " ) 聖母マリアがお求めになったのは,教皇(ご自身の手)により,ロシアを,彼女(=聖母マリア)の汚れなき御心(けがれなき みこころ)( "Immaculate Heart" )に,全世界の司教たちが一体(いったい)となって(=ローマ司教たる教皇を含〈ふく〉む)世界中のカトリック司教たちが一致団結〈いっちだんけつ〉して)奉献(ほうけん)することです( "… by the Pope, of Russia, to her Immaculate Heart, in union with all the bishops of the world." ).これまでは,常(つね)にこの4条件(じょうけん)のどれかが欠(か)けていました( "One or other of these four conditions has always been lacking." ).
*ファティマの聖母は「諸国(しょこく)が滅(ほろ)ぼされる」,「平和の時期(へいわの じき)が来る(くる)」と私たちに告(つ)げられた.私たちは第二次世界大戦で諸国が滅びて,平和の時期が1950年代に訪(おとず)れたのを目撃(もくげき)した.聖母の預言(せいぼの よげん)は実際(じっさい)に起(お)きた. ( *Our Lady of Fatima told us of “nations being annihilated” and of “a period of peace”. We saw nations annihilated in WW II, and a period of peace in the 1950’s. Her prophecies have happened. ) 第二次世界大戦以降,どの国々が滅びたままになっているでしょうか?( "What nations have remained annihilated since WW II, …" ) そして,1950年代の冷戦期間中(れいせん きかん ちゅう)に世界がどれほど平和だったというのでしょうか?( "… and just how much peace was there in the Cold War of the 1950’s ? " ) ファティマの聖母はすでに起(お)きたことよりもっと大きな出来事(できごと)について話(はな)されたのです( "Our Lady of Fatima spoke of far greater events than have yet happened." ).
イエズスの聖心(みこころ)よ,私たちに御慈悲(ごじひ)をお与(あた)えください(=われらを憐れみ給え〈われらを あわれみたまえ〉)( "Sacred Heart of Jesus, have mercy upon us." ). (聖母)マリアの汚れなき御心(けがれなき みこころ)よ,どうぞ私たちのために神に取り成して(とりなして)ください.( "Immaculate Heart of Mary, intercede for us." = マリアの汚れなき御心よ,われらのために祈り給え.) (訳注後記6)
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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訳注を追補いたします.
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20世紀初(はじ)めに,神は確(たし)かに二つの大きな光明(こうみょう)を現代世界(げんだい せかい)に与(あた)えられました:( "At the outset of the 20th century surely God gave to the modern world two great lights: " ) すなわち,ひとつは,理論(りろん)に関(かん)するもので,1907年に教皇ピオ10世を通(とお)して主観主義(しゅかん しゅぎ)の主要(しゅよう)な誤(あやま)りを咎(とが)めるために出された Encyclical Pascendi (回勅〈かいちょく〉パッシェンディ)です(訳注・フルタイトル: Pascendi Dominici Gregis 「主の群れを牧(ぼく)せよ」)( "for theory, through Pius X, the Encyclical Pascendi in 1907, to denounce the key error of subjectivism; …" ) (訳注後記1). もうひとつは,実践(じっせん)に関するもので,1917年に神の御母(かみの おんはは)(=聖母マリア)を通(とお)して共産主義(きょうさん しゅぎ)という恐(おそ)ろしい災難(さいなん)に対する治療薬(ちりょうやく)として出された(訳注・聖母マリアの)ファティマ御出現(ごしゅつげん)です ( "… for practice, through his Mother, the apparitions of Fatima in 1917, to provide a remedy for the monstrous plague of Communism." )(訳注後記2). だが,悪魔(あくま)は Pascendi から人々の注意(ちゅうい)を逸(そ)らし,ファティマの信憑性(しんぴょうせい)を貶(おとし)めようと,あれこれ異論(いろん)を持ち出(もちだ)します( "But the Devil deflects attention from Pascendi, and raises a series of objections to discredit Fatima." ).主な異論の中から以下に何点か示します:-- ( "Here are a few of the main objections:-- " )
* 聖母マリアが20世紀後半に第三次世界大戦が始まると言われたとするファティマ秘密の3番目 (訳注・=「第3の秘密」) についてのオッタビアーニ枢機卿(すうききょう)の解釈(かいしゃく)を私たちはどうして真剣(しんけん)に受け取れるだろうか? 2000年はすでに来て過ぎ去(すぎさ)ってしまったが,第三次世界大戦など起(お)きなかった. ( * How can we take seriously Cardinal Ottaviani’s version of the third part of the Fatima Secret when supposedly Our Lady says there that a third World war will start in the latter part of the 20th century ? The year 2000 has come and gone, and there has been no third World War.) ファティマ秘密の第2と第3には興味深(きょうみ ぶか)い類似点(るいじてん)があります ( "There is an interesting parallel here between the second and third parts of the Secret of Fatima." ). 第2の部分で聖母マリアは次期(じき)教皇(きょうこう)の時代(じだい)に第一次世界大戦よりひどい戦争(せんそう)が始まると言われました.当時の次期教皇とはピオ11世のことです ( "In the second part Our Lady said that a worse war than WW I would start under the reign of the next Pope, which was Pius XI." ). だが,ピオ11世は1939年春に亡くなられ,第二次世界大戦が布告(ふこく)されたのは同年秋(あき)で,その時点ではピオ12世が教皇でした( "Yet Pius XI died in the spring of 1939 and WW II was only declared in the autumn when Pius XII was Pope. " ). 聖母マリアが暦(こよみ)を間違(まちが)われたのでしょうか? そうではありません.聖母マリアは外見(がいけん)でなく現実(げんじつ)を基準(きじゅん)に話(はな)されただけです ( "Did Our Lady get her calendar wrong ? No, she was simply going by the reality instead of by the appearances." ). 現実に第二次世界大戦が始まったのは1938年です.この年,スターリンはヒトラーとの間(あいだ)に条約(じょうやく)を結(むす)ぶ決定(けってい)をしようとしていました.彼はヒトラーが西部戦線(せいぶ せんせん)で開戦(かいせん)するよう仕向(しむ)けるのが目的(もくてき)でした ( "In reality WW II started in 1938 when Stalin was deciding to make a pact with Hitler so as to liberate Hitler to make war on his western front." ). 2000年5月の神学校長(しんがっこうちょう)の書簡(しょかん)(eleisonkommentar.blogspot,comに掲載〈けいさい〉)に,この第二次世界大戦の本当の始まり(ほんとうの はじまり)についての興味(きょうみ)をそそる話がありますのでお読みください ( "See in the May, 2000, Rector’s Letter (on eleisonkommentar.blogspot,com) the whole fascinating story of this real start to WW II." )(訳注後記3). ところで,オッタビアーニ枢機卿(すうききょう)(訳注後記4) による「第3の秘密」の解釈の真偽(しんぎ)がどうあれ,第三次世界大戦は1991年の最初のイラク侵攻(しんこう)により2000年以前に始まったというのが実態(じったい)ではないでしょうか? ( "Now whether or not the Ottaviani version is or is not the true “Third Secret”, may the reality not be that WW III began in the Middle East before the year 2000, for instance with the first invasion of Iraq in 1991 ? " ) 物事(ものごと)はすべて外見通(がいけんどお)りとは限(かぎ)りません( "Things are not always how they appear." ).
*第二次世界大戦ではドレスデン,東京,長崎に対しぞっとするような空襲が行われた.ここで新しいこととは何か? ( * In WW II we saw horrific bombings of Dresden, Tokyo, Nagasaki. What will be new here ? ) 第二次世界大戦中の死者数合計(ししゃすう ごうけい)は数億(すうおく)という中(なか)から,普通は約6,600万人と見なされています( "Total WW II deaths are reckoned usually at some 66 million, in the tens of millions." ).聖母マリアが,ファティマだけでなく,ほかでも発せられた諸々(もろもろ)の警告(けいこく)を正(ただ)しく読(よ)めば( "If one reads rightly several warnings of Our Lady, and not only in Fatima, …" ),第二次世界大戦と(訳注・人類による「神と神の掟(おきて)に対する反逆(はんぎゃく)」という重い罪〈おもい つみ〉に対する)神の懲罰(ちょうばつ)による犠牲者数(ぎせいしゃ すう)は数千億(すうせんおく)とみられ,百倍(ひゃくばい)を超(こ)えます( "… casualties from WW III and the Chastisement will be reckoned in the thousands of millions. Of the order of 100 times worse." ).
*だが,私たちの時代に見られる精神的懲罰(せいしんてきちょうばつ)よりひどい物質的懲罰(ぶっしつてきちょうばつ)などあるだろうか? ( * But what material Chastisement could be worse than the spiritual chastisement of our own days? ) まさしく,アダムとイブの原罪(げんざい)以降(いこう)では,第二バチカン公会議が人類史上(じんるい しじょう)で最悪(さいあく)の災難(さいなん)です( "True, next after the Fall of Adam and Eve, Vatican II was the worst disaster in all the history of mankind." ).ただし,多数(たすう)の人々(ひとびと)はそれを大いなる解放(おおいなる かいほう)と見ています ( "Yet the mass of men see it as a great liberation." ). 棒(ぼう)や石(いし)で打(う)たれれば骨が折(ほねがお)れてしまうが,言葉(ことば)が私を傷(きず)つけることはない」というのは古(ふる)くからある諺(ことわざ)です ( " “Sticks and stones will break my bones, but words will never hurt me,” is the old saying." ). 精神的懲罰(せいしんてき ちょうばつ)そのものは,より大きな意味(いみ)をもつでしょうが,われわれ人間を分(わ)からせるのは物質的(ぶっしつてき)なものです (マテオ聖福音書9章6節,およびヨハネ聖福音書20償27節を参照)( "Spiritual punishments are in themselves much greater, but it takes material things for us men to understand (cf. Mt. IX, 6, and Jn. XX, 27)." )(訳注後記5).
*ファティマの聖母はもし教皇が何らかの奉献を執り行えば平和の時期が来ると約束された.歴代の教皇たちはそうした奉献を何度か執り行ったが,私たちに平和をもたらしていない. ( *Our Lady of Fatima promised a period of peace if the Pope performed a certain consecration. Popes since then have performed several such consecrations, but we have had no peace. ) たしかに,聖母マリアのお告げに従った奉献(ほうけん)( "consecration" )が何度か行(おこな)われてきましたが,彼女が求(もと)めた通(とお)りの奉献はまだ実現(じつげん)していません: ( "True, there have been several consecrations inspired no doubt by Our Lady of Fatima, but never yet exactly as she required: … " ) 聖母マリアがお求めになったのは,教皇(ご自身の手)により,ロシアを,彼女(=聖母マリア)の汚れなき御心(けがれなき みこころ)( "Immaculate Heart" )に,全世界の司教たちが一体(いったい)となって(=ローマ司教たる教皇を含〈ふく〉む)世界中のカトリック司教たちが一致団結〈いっちだんけつ〉して)奉献(ほうけん)することです( "… by the Pope, of Russia, to her Immaculate Heart, in union with all the bishops of the world." ).これまでは,常(つね)にこの4条件(じょうけん)のどれかが欠(か)けていました( "One or other of these four conditions has always been lacking." ).
*ファティマの聖母は「諸国(しょこく)が滅(ほろ)ぼされる」,「平和の時期(へいわの じき)が来る(くる)」と私たちに告(つ)げられた.私たちは第二次世界大戦で諸国が滅びて,平和の時期が1950年代に訪(おとず)れたのを目撃(もくげき)した.聖母の預言(せいぼの よげん)は実際(じっさい)に起(お)きた. ( *Our Lady of Fatima told us of “nations being annihilated” and of “a period of peace”. We saw nations annihilated in WW II, and a period of peace in the 1950’s. Her prophecies have happened. ) 第二次世界大戦以降,どの国々が滅びたままになっているでしょうか?( "What nations have remained annihilated since WW II, …" ) そして,1950年代の冷戦期間中(れいせん きかん ちゅう)に世界がどれほど平和だったというのでしょうか?( "… and just how much peace was there in the Cold War of the 1950’s ? " ) ファティマの聖母はすでに起(お)きたことよりもっと大きな出来事(できごと)について話(はな)されたのです( "Our Lady of Fatima spoke of far greater events than have yet happened." ).
イエズスの聖心(みこころ)よ,私たちに御慈悲(ごじひ)をお与(あた)えください(=われらを憐れみ給え〈われらを あわれみたまえ〉)( "Sacred Heart of Jesus, have mercy upon us." ). (聖母)マリアの汚れなき御心(けがれなき みこころ)よ,どうぞ私たちのために神に取り成して(とりなして)ください.( "Immaculate Heart of Mary, intercede for us." = マリアの汚れなき御心よ,われらのために祈り給え.) (訳注後記6)
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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訳注を追補いたします.
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ラベル:
オッタビアーニ枢機卿,
ピオ11世,
ピオ12世,
ファティマの聖母,
神学校長の書簡,
第3の秘密,
第三次世界大戦,
第二バチカン公会議,
第二次世界大戦
2013年9月28日土曜日
324 ファティマの秘密 9/28
エレイソン・コメンツ 第324回 (2013年9月28日)
1917年7月,神の御母( "the Mother of God",=聖母マリア)が修道女ルシアに啓示(けいじ)されたファティマ第3の秘密(ひみつ)の新しい復元(ふくげん)がこのほど公表(こうひょう)されました( "Yet another reconstruction has come to light of the third part of the Secret of Fatima, revealed by the Mother of God to Sister Lucy in July, 1917." ).神に祝福された聖母はそれを遅(おそ)くとも1960年までに公表するようお望みでした( "The Blessed Virgin wished it to be made public in 1960 at the latest, …" ).だが,ローマ教皇庁を支配する不誠実(ふせいじつ)な聖職者たちは,聖母は1960年以降(いこう)の公表をお認めになられたにすぎないと偽(いつわ)り( "… but the perfidious churchmen controlling Rome pretended that she had merely allowed it to be published from 1960 onwards, …" ),いらい今日(こんにち)までしまい込んだまま放置(ほうち)し続(つづ)けています( "…and it has been locked away ever since." ).復元の試(こころ)みは,秘密を実際(じっさい)に読(よ)むことができた数少(かずすく)ない聖職者たちによって明(あ)かされたその内容のいくつかの手がかり( "hints" )をもとにこれまで何度かなされてきました( "From hints of its contents revealed by the few churchmen that have been able to read it, several attempts have been made to reconstruct it." ).今回の復元の試みはかなり有力(ゆうりょく)です.以下にそのお話をします( "This latest attempt has much in its favour. Here is its story." ).
オッタビアーニ(=オッタヴィアーニ)枢機卿(すうききょう)( "Cardinal Ottaviani" )(1890-1979年)は,諸教皇ピオ(=ピウス)12世,ヨハネ23世および1959年から1968年までカトリック信仰の主(しゅ)たる擁護者(ようごしゃ)だったパウロ6世の下(もと)で仕(つか)えた位(くらい)の高い聖職者(せいしょくしゃ)でした( "Cardinal Ottaviani (1890-1979) was a high churchman under Popes Pius XII, John XXIII and Paul VI, main protector of the Faith from 1959 to 1968." ).彼はこの秘密を読んだ後,その機密性(きみつせい)に縛(しば)られ( "Given to read the Secret, but bound by secrecy, …" ),その内容を明(あ)かさず明かす方法を見つけ出しました( "… he found a way to reveal it without revealing it." ).彼は資料(しりょう)を加(くわ)えて原文(げんぶん)を実物(じつぶつ)の2-3倍の長さに膨(ふく)らませ,それを "Neues Europa" (訳注:「新ヨーロッパ」というドイツの雑誌」)に公表することを認(みと)めました( "Adding material to make the original Secret two to three times as long, he allowed the elongated version to be published, notably in a German magazine called Neues Europa." ).だが,バチカン当局はそれが偽物(にせもの)だと簡単(かんたん)にはねつけることができました.いまでも,それは偽物だとみなされています.なぜなら,本物の秘密はわずか25行の手書き文(てがきぶん)であるということが知られていたからです( "But the Vatican authorities could easily dismiss it as a fake, as it is now regarded, because the original Secret was known to be only 25 hand-written lines. " ).
しかし,オッタビアーニ枢機卿にはドン・ルイジ・ヴィッラ( "Don Luigi Villa" )(1918-2012年)という勇気(ゆうき)ある司祭(しさい)で,真の教会の擁護者(ようごしゃ)の友人(ゆうじん)がいました( "However, the Cardinal had a friend, Don Luigi Villa (1918-2012), a valiant priest and defender of the true Church, …" ).この人はとりわけフリーメースン組織( "Freemasonry" )に対する反対者(はんたいしゃ)でした( "… especially against Freemasonry." ).あるとき,同枢機卿はヴィッラ神父( "Fr. Villa" )に長くした文章(ぶんしょう)のどの部分(ぶぶん)が本物(ほんもの)の秘密かを打ち明(うちあ)けました( "At some point the Cardinal revealed to Fr. Villa exactly which parts of the longer version came from the original Secret, …" ).ついで,ヴィッラ神父(=ドン・ヴィッラ,"Don Villa" )は忠実(ちゅうじつ)な一般信徒の協力者であるフランコ・アデッサ博士( "Dr. Franco Adessa" )に同じ内容(ないよう)を伝えました( "… and Don Villa in turn told the same to his faithful lay collaborator, Dr. Franco Adessa, …" ).同博士は自(みずか)ら得(え)た同じ情報(じょうほう)を最近フランス語で発行(はっこう)された小冊子(しょうさっし)にまとめました( "… who has just put the same information into a booklet recently published in French." ).これによると,実物(じつぶつ)とおもわれる「第3の秘密」は次のようなものです:-- ( "Here then would be the original “Third Secret”:-- " ).
「全人類(ぜんじんるい)に対する重大(じゅうだい)な咎(とが)め(=懲罰)(訳注後記1)は今日でも明日でもなく,20世紀後半に下(くだ)されるだろう( " “A great chastisement will come down on the whole of mankind neither today, nor tomorrow, but in the second half of the 20th century." ).秩序(ちつじょ)は世界のどこにもなく,悪魔(あくま,"Satan" )が最高位(さいこうい)に立って物事の成り行き(なりゆき)を取り決(とりき)めている( "Nowhere in the world is there order, and Satan rules in the highest places, determining the course of events." ).悪魔はやがて教会の最高位にさえ昇(のぼ)りつめるだろう( "He will even manage to work his way up to the top of the Church." ).教会にとっても最大の試練(しれん)の時(とき)が訪(おとず)れるだろう( "For the Church too will come the time of its greatest trials." ).枢機卿(すうききょう)たちや司教(しきょう)たちは互(たが)いに反目(はんもく)するようになるだろう( "Cardinals will oppose cardinals, bishops will oppose bishops." ).悪魔は彼らの間(あいだ)をぬって進(すす)み,ローマには諸々(もろもろ)の変化(へんか)が起(お)きるだろう( "Satan will march in their midst, and in Rome there will be changes." ).腐敗(ふはい)したものは失墜(しっつい)し,失墜したものが再(ふたた)び立ち上(たちあ)がることはないだろう( "What is rotten will fall, what falls will not get up again." ).教会は暗黒化(あんこくか)し,世界は恐怖に打(う)ちのめされるだろう( "The Church will be darkened and the world overwhelmed in terror." ).大戦(たいせん)が20世紀後半に始(はじ)まるだろう( "A great war will be let loose in the second half of the 20th century." ).火(ひ)と煙(けむり)が天国から落ち( "Fire and smoke will fall from Heaven, …" ),七洋(しちよう,=七つの海,世界中の海・海洋〈かいよう〉)の水(みず)は蒸気(じょうき)となり( "… the oceans’ waters will be turned into steam, …" ),海原(うなばら,うなはら)の泡沫(ほうまつ,=泡〈あわ〉)は隆起(りゅうき)し(訳注・=高く盛〈も〉り上〈あ〉がり)( "… the foam of the sea will rise up, …" ),あらゆるものを圧倒(あっとう)し水浸(みずびた)しにするだろう( "… overwhelming and flooding everything." ).何百万(なんびゃくまん)もの人々が時間ごとに死に( "Millions and millions of men will die from one hour to the next, …" ),傍(かたわ)らで生き延(いきの)びた人々は死者(ししゃ)を羨(うらや)ましくおもうだろう( "… while those who survive will envy the dead." ).悪魔に従(したが)う狂人(きょうじん)や取り巻(とりま)きたちが犯(おか)した過(あやま)ちのため,死がいたるとことに溢(あふ)れるだろう( "Death will be everywhere because of the errors committed by the madmen and henchmen of Satan, …" ).そうなってはじめて悪魔が世界に君臨(くんりん)するだろう( "… who then and only then will reign over the world." ).最終的(さいしゅうてき)に,こうした出来事(できごと)を生き延(いきの)びた者は( "Finally while those who survive these events are still alive, …" )再(ふたた)び神(かみ)と神の栄光(かみのえいこう)を讃(たた)え( "… they will proclaim once more God and the glory of God, …" ),世界がこれほど邪悪(じゃあく)になる前に人々がしたと同じように神に仕(つか)えるようになるだろう( "… and they will serve him as men used to do when the world had not yet become so perverse.” " ).
ファティマに関する専門家ニコラス・グルナー神父( "Fr Nicholas Gruner" )は,(ファティマの第3の)秘密に関(かん)する上述(じょうじゅつ)のバージョン(=説明)が(訳注・新約聖書の「ヨハネの黙示録〈もくしろく〉」に記〈しる〉されている)世界の終末(せかいのしゅうまつ)(訳注後記2)や(訳注・それに際して)取るべき行動(とるべきこうどう)についてなんら言及(げんきゅう)していないため( "lacking mention of the Apocalypse and of recommended action" ) 不完全(ふかんぜん)なものではないかと考えています( "Fr Nicholas Gruner, an expert on Fatima, thinks that this version of the Secret may be incomplete, lacking mention of the Apocalypse and of recommended action." ).世界大戦(せかいたいせん)が起(お)きないまま20世紀後半が過ぎ去(すぎさ)ったことで,このバージョンに異論(いろん)をはさむ人もいるかもしれません( "One may also object that the second half of the 20th century has come and gone with no World War." ).だが,狂人(きょうじん)たちが2000年よりかなり前から今日(こんにち)にいたるまで絶え間(たえま)なく中東(ちゅうとう)で戦争(せんそう)を引き起(ひきお)こしているではありませんか?( "But have not madmen been stirring up war in the Middle East, continuously, from well before 2000 down to today ? " ) それに,(ファティマの第3の秘密に関する)このフランス語小冊子に載(の)ったバージョン(説明)のすべての文言(もんごん)が "Neues Europa" に載ったバージョン(インターネット上でアクセス可能)にも出てくる点は注目(ちゅうもく)に値(あたい)します( "And it is worthy of note that every phrase in this version of the Secret does occur in the Neues Europa version (accessible on the Internet), …" ).いずれも,他の宗教的ソースから引き出したり模倣(もほう)したりした資料を取り入れたものです( "… amidst material drawn or imitated from other pious sources." ).
いずれにしても,神が私たちすべてに真の御慈悲(おじひ,ごじひ)を賜(たまわ)らんことを( "In any case, may God truly have mercy upon us all, …" ).そして,私たちは絶(た)えず(=中止〈ちゅうし〉することなく)ロザリオを祈り続(いのりつづ)けましょう( "… and let us pray the Rosary without ceasing." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第4パラグラフの訳注1
"a great chastisement" について.
=神の大〈おお〉いなる怒〈いか〉りの懲罰〈ちょうばつ〉.
人間の罪に対する慈悲深く忍耐強い神の激(はげ)しい怒りの懲罰.
・無限・全能の神に対し,人間が限界のある無力な自分の身分を忘れて,傲慢(ごうまん)に我欲(がよく)を追求(ついきゅう)し,その欲深(よくふか)さが極(きわ)まって,
・他人の心身(たにん の しんしん)や大自然(だいしぜん)(大宇宙・空・海・陸・動植物・あらゆる鉱物)に対して悪事(傷つけたり,殺したりすること)を行うことにより,
・万物の創造主,善と正義の真の神に対して犯す罪が,
・慈悲深い神の忍耐を超えるほどに増大した時,
・悪人に対する神の怒りは,あらゆる天災→悪人の俗悪化(生存競争・我欲の追求)→悪人の霊魂の堕落(だらく)へと続く.罪深い悪人は,身体が死ぬと地獄に堕ちる.
・善人は,たとえ身体が死んでも,その霊魂は天の神のみもとに上げられる.
・人間にとって,「天国」と「地獄」(てんごく と じごく)は,まだこの地上に生きている時からすでに始まっている.
・この地上では,悪事を成すことによって「他人を負かした」と思った途端に,もしその悪事を悔悛(かいしゅん)しないなら,その悪人の霊魂はその場で地獄に堕(お)ちる.
・あらゆる「加害者」に対してあらゆる「被害者」は,もし仕返しをせずに全能者(=神)の裁定(さいてい)に委(ゆだ)ねるなら,その場で天の神の御許(みもと)に迎(むか)えられる.
・神の正義は被害者を慰(なぐさ)め,その人の正義・苦しみは神がすべて引き継(ひきつ)がれる.
・神の正義(かみのせいぎ)は完全・永遠(かんぜん・えいえん)で,人間の目には分かりにくくても,神は必(かなら)ず一寸(いっすん)の狂(くる)いもなく完全に悪人に報復(ほうふく)される.
・神は「あらゆる善良なもの,正義,憐(あわ)れみ深さ」の姿を取って存在しておられる.
* * *
第5パラグラフの訳注2
"the Apocalypse" について.
新約聖書「使徒聖ヨハネによる黙示録」
主イエズス・キリストが使徒聖ヨハネに啓示された,世界の終末と,王たるキリストによる最後の審判.
* * *
1917年7月,神の御母( "the Mother of God",=聖母マリア)が修道女ルシアに啓示(けいじ)されたファティマ第3の秘密(ひみつ)の新しい復元(ふくげん)がこのほど公表(こうひょう)されました( "Yet another reconstruction has come to light of the third part of the Secret of Fatima, revealed by the Mother of God to Sister Lucy in July, 1917." ).神に祝福された聖母はそれを遅(おそ)くとも1960年までに公表するようお望みでした( "The Blessed Virgin wished it to be made public in 1960 at the latest, …" ).だが,ローマ教皇庁を支配する不誠実(ふせいじつ)な聖職者たちは,聖母は1960年以降(いこう)の公表をお認めになられたにすぎないと偽(いつわ)り( "… but the perfidious churchmen controlling Rome pretended that she had merely allowed it to be published from 1960 onwards, …" ),いらい今日(こんにち)までしまい込んだまま放置(ほうち)し続(つづ)けています( "…and it has been locked away ever since." ).復元の試(こころ)みは,秘密を実際(じっさい)に読(よ)むことができた数少(かずすく)ない聖職者たちによって明(あ)かされたその内容のいくつかの手がかり( "hints" )をもとにこれまで何度かなされてきました( "From hints of its contents revealed by the few churchmen that have been able to read it, several attempts have been made to reconstruct it." ).今回の復元の試みはかなり有力(ゆうりょく)です.以下にそのお話をします( "This latest attempt has much in its favour. Here is its story." ).
オッタビアーニ(=オッタヴィアーニ)枢機卿(すうききょう)( "Cardinal Ottaviani" )(1890-1979年)は,諸教皇ピオ(=ピウス)12世,ヨハネ23世および1959年から1968年までカトリック信仰の主(しゅ)たる擁護者(ようごしゃ)だったパウロ6世の下(もと)で仕(つか)えた位(くらい)の高い聖職者(せいしょくしゃ)でした( "Cardinal Ottaviani (1890-1979) was a high churchman under Popes Pius XII, John XXIII and Paul VI, main protector of the Faith from 1959 to 1968." ).彼はこの秘密を読んだ後,その機密性(きみつせい)に縛(しば)られ( "Given to read the Secret, but bound by secrecy, …" ),その内容を明(あ)かさず明かす方法を見つけ出しました( "… he found a way to reveal it without revealing it." ).彼は資料(しりょう)を加(くわ)えて原文(げんぶん)を実物(じつぶつ)の2-3倍の長さに膨(ふく)らませ,それを "Neues Europa" (訳注:「新ヨーロッパ」というドイツの雑誌」)に公表することを認(みと)めました( "Adding material to make the original Secret two to three times as long, he allowed the elongated version to be published, notably in a German magazine called Neues Europa." ).だが,バチカン当局はそれが偽物(にせもの)だと簡単(かんたん)にはねつけることができました.いまでも,それは偽物だとみなされています.なぜなら,本物の秘密はわずか25行の手書き文(てがきぶん)であるということが知られていたからです( "But the Vatican authorities could easily dismiss it as a fake, as it is now regarded, because the original Secret was known to be only 25 hand-written lines. " ).
しかし,オッタビアーニ枢機卿にはドン・ルイジ・ヴィッラ( "Don Luigi Villa" )(1918-2012年)という勇気(ゆうき)ある司祭(しさい)で,真の教会の擁護者(ようごしゃ)の友人(ゆうじん)がいました( "However, the Cardinal had a friend, Don Luigi Villa (1918-2012), a valiant priest and defender of the true Church, …" ).この人はとりわけフリーメースン組織( "Freemasonry" )に対する反対者(はんたいしゃ)でした( "… especially against Freemasonry." ).あるとき,同枢機卿はヴィッラ神父( "Fr. Villa" )に長くした文章(ぶんしょう)のどの部分(ぶぶん)が本物(ほんもの)の秘密かを打ち明(うちあ)けました( "At some point the Cardinal revealed to Fr. Villa exactly which parts of the longer version came from the original Secret, …" ).ついで,ヴィッラ神父(=ドン・ヴィッラ,"Don Villa" )は忠実(ちゅうじつ)な一般信徒の協力者であるフランコ・アデッサ博士( "Dr. Franco Adessa" )に同じ内容(ないよう)を伝えました( "… and Don Villa in turn told the same to his faithful lay collaborator, Dr. Franco Adessa, …" ).同博士は自(みずか)ら得(え)た同じ情報(じょうほう)を最近フランス語で発行(はっこう)された小冊子(しょうさっし)にまとめました( "… who has just put the same information into a booklet recently published in French." ).これによると,実物(じつぶつ)とおもわれる「第3の秘密」は次のようなものです:-- ( "Here then would be the original “Third Secret”:-- " ).
「全人類(ぜんじんるい)に対する重大(じゅうだい)な咎(とが)め(=懲罰)(訳注後記1)は今日でも明日でもなく,20世紀後半に下(くだ)されるだろう( " “A great chastisement will come down on the whole of mankind neither today, nor tomorrow, but in the second half of the 20th century." ).秩序(ちつじょ)は世界のどこにもなく,悪魔(あくま,"Satan" )が最高位(さいこうい)に立って物事の成り行き(なりゆき)を取り決(とりき)めている( "Nowhere in the world is there order, and Satan rules in the highest places, determining the course of events." ).悪魔はやがて教会の最高位にさえ昇(のぼ)りつめるだろう( "He will even manage to work his way up to the top of the Church." ).教会にとっても最大の試練(しれん)の時(とき)が訪(おとず)れるだろう( "For the Church too will come the time of its greatest trials." ).枢機卿(すうききょう)たちや司教(しきょう)たちは互(たが)いに反目(はんもく)するようになるだろう( "Cardinals will oppose cardinals, bishops will oppose bishops." ).悪魔は彼らの間(あいだ)をぬって進(すす)み,ローマには諸々(もろもろ)の変化(へんか)が起(お)きるだろう( "Satan will march in their midst, and in Rome there will be changes." ).腐敗(ふはい)したものは失墜(しっつい)し,失墜したものが再(ふたた)び立ち上(たちあ)がることはないだろう( "What is rotten will fall, what falls will not get up again." ).教会は暗黒化(あんこくか)し,世界は恐怖に打(う)ちのめされるだろう( "The Church will be darkened and the world overwhelmed in terror." ).大戦(たいせん)が20世紀後半に始(はじ)まるだろう( "A great war will be let loose in the second half of the 20th century." ).火(ひ)と煙(けむり)が天国から落ち( "Fire and smoke will fall from Heaven, …" ),七洋(しちよう,=七つの海,世界中の海・海洋〈かいよう〉)の水(みず)は蒸気(じょうき)となり( "… the oceans’ waters will be turned into steam, …" ),海原(うなばら,うなはら)の泡沫(ほうまつ,=泡〈あわ〉)は隆起(りゅうき)し(訳注・=高く盛〈も〉り上〈あ〉がり)( "… the foam of the sea will rise up, …" ),あらゆるものを圧倒(あっとう)し水浸(みずびた)しにするだろう( "… overwhelming and flooding everything." ).何百万(なんびゃくまん)もの人々が時間ごとに死に( "Millions and millions of men will die from one hour to the next, …" ),傍(かたわ)らで生き延(いきの)びた人々は死者(ししゃ)を羨(うらや)ましくおもうだろう( "… while those who survive will envy the dead." ).悪魔に従(したが)う狂人(きょうじん)や取り巻(とりま)きたちが犯(おか)した過(あやま)ちのため,死がいたるとことに溢(あふ)れるだろう( "Death will be everywhere because of the errors committed by the madmen and henchmen of Satan, …" ).そうなってはじめて悪魔が世界に君臨(くんりん)するだろう( "… who then and only then will reign over the world." ).最終的(さいしゅうてき)に,こうした出来事(できごと)を生き延(いきの)びた者は( "Finally while those who survive these events are still alive, …" )再(ふたた)び神(かみ)と神の栄光(かみのえいこう)を讃(たた)え( "… they will proclaim once more God and the glory of God, …" ),世界がこれほど邪悪(じゃあく)になる前に人々がしたと同じように神に仕(つか)えるようになるだろう( "… and they will serve him as men used to do when the world had not yet become so perverse.” " ).
ファティマに関する専門家ニコラス・グルナー神父( "Fr Nicholas Gruner" )は,(ファティマの第3の)秘密に関(かん)する上述(じょうじゅつ)のバージョン(=説明)が(訳注・新約聖書の「ヨハネの黙示録〈もくしろく〉」に記〈しる〉されている)世界の終末(せかいのしゅうまつ)(訳注後記2)や(訳注・それに際して)取るべき行動(とるべきこうどう)についてなんら言及(げんきゅう)していないため( "lacking mention of the Apocalypse and of recommended action" ) 不完全(ふかんぜん)なものではないかと考えています( "Fr Nicholas Gruner, an expert on Fatima, thinks that this version of the Secret may be incomplete, lacking mention of the Apocalypse and of recommended action." ).世界大戦(せかいたいせん)が起(お)きないまま20世紀後半が過ぎ去(すぎさ)ったことで,このバージョンに異論(いろん)をはさむ人もいるかもしれません( "One may also object that the second half of the 20th century has come and gone with no World War." ).だが,狂人(きょうじん)たちが2000年よりかなり前から今日(こんにち)にいたるまで絶え間(たえま)なく中東(ちゅうとう)で戦争(せんそう)を引き起(ひきお)こしているではありませんか?( "But have not madmen been stirring up war in the Middle East, continuously, from well before 2000 down to today ? " ) それに,(ファティマの第3の秘密に関する)このフランス語小冊子に載(の)ったバージョン(説明)のすべての文言(もんごん)が "Neues Europa" に載ったバージョン(インターネット上でアクセス可能)にも出てくる点は注目(ちゅうもく)に値(あたい)します( "And it is worthy of note that every phrase in this version of the Secret does occur in the Neues Europa version (accessible on the Internet), …" ).いずれも,他の宗教的ソースから引き出したり模倣(もほう)したりした資料を取り入れたものです( "… amidst material drawn or imitated from other pious sources." ).
いずれにしても,神が私たちすべてに真の御慈悲(おじひ,ごじひ)を賜(たまわ)らんことを( "In any case, may God truly have mercy upon us all, …" ).そして,私たちは絶(た)えず(=中止〈ちゅうし〉することなく)ロザリオを祈り続(いのりつづ)けましょう( "… and let us pray the Rosary without ceasing." ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
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第4パラグラフの訳注1
"a great chastisement" について.
=神の大〈おお〉いなる怒〈いか〉りの懲罰〈ちょうばつ〉.
人間の罪に対する慈悲深く忍耐強い神の激(はげ)しい怒りの懲罰.
・無限・全能の神に対し,人間が限界のある無力な自分の身分を忘れて,傲慢(ごうまん)に我欲(がよく)を追求(ついきゅう)し,その欲深(よくふか)さが極(きわ)まって,
・他人の心身(たにん の しんしん)や大自然(だいしぜん)(大宇宙・空・海・陸・動植物・あらゆる鉱物)に対して悪事(傷つけたり,殺したりすること)を行うことにより,
・万物の創造主,善と正義の真の神に対して犯す罪が,
・慈悲深い神の忍耐を超えるほどに増大した時,
・悪人に対する神の怒りは,あらゆる天災→悪人の俗悪化(生存競争・我欲の追求)→悪人の霊魂の堕落(だらく)へと続く.罪深い悪人は,身体が死ぬと地獄に堕ちる.
・善人は,たとえ身体が死んでも,その霊魂は天の神のみもとに上げられる.
・人間にとって,「天国」と「地獄」(てんごく と じごく)は,まだこの地上に生きている時からすでに始まっている.
・この地上では,悪事を成すことによって「他人を負かした」と思った途端に,もしその悪事を悔悛(かいしゅん)しないなら,その悪人の霊魂はその場で地獄に堕(お)ちる.
・あらゆる「加害者」に対してあらゆる「被害者」は,もし仕返しをせずに全能者(=神)の裁定(さいてい)に委(ゆだ)ねるなら,その場で天の神の御許(みもと)に迎(むか)えられる.
・神の正義は被害者を慰(なぐさ)め,その人の正義・苦しみは神がすべて引き継(ひきつ)がれる.
・神の正義(かみのせいぎ)は完全・永遠(かんぜん・えいえん)で,人間の目には分かりにくくても,神は必(かなら)ず一寸(いっすん)の狂(くる)いもなく完全に悪人に報復(ほうふく)される.
・神は「あらゆる善良なもの,正義,憐(あわ)れみ深さ」の姿を取って存在しておられる.
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第5パラグラフの訳注2
"the Apocalypse" について.
新約聖書「使徒聖ヨハネによる黙示録」
主イエズス・キリストが使徒聖ヨハネに啓示された,世界の終末と,王たるキリストによる最後の審判.
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2012年8月26日日曜日
267 感染?- するのは誰? 8/25
エレイソン・コメンツ 第267回 (2012年8月25日)
私の好きな諺に 「賢者(けんじゃ)はわが身を責め,愚者(ぐしゃ)は他人を責める」 という中国の諺(ことわざ)があります ( "A favourite proverb of mine comes from China: “The wise man blames himself, the fool blames others.” ).他人にけっして非(ひ)がないという意味でないことは明白です( "Not that others are never to blame, obviously, … " ).だが,私には他人の素行(そこう)を変えさせるなどほとんどというかまったくできませんが,少なくとも理屈(りくつ)の上では自分自身をコントロールできます( "… but that I can usually do little or nothing to change their behaviour, whereas I am at least in theory in command of my own. " ).「キリストにならう」( "Imitation of Christ" ) に書かれているように,私たちは自(みずか)ら犯した罪を考えて得(とく)することはあっても,他人の罪を考えて得することなどまずありません( "As the Imitation of Christ has it, we rarely think with profit on the sins of others, always with profit on our own. " ).(訳注後記)
私がこの古い中国の金言(きんげん)を思いついたのは,「エレイソン・コメンツ」 (第263回) の一読者からいただいた手紙がきっかけです( "This age-old wisdom is called to mind by the letter of a reader of “Eleison Comments” (# 263) …" ).この女性読者は手紙の中で,聖ピオ十世会の司祭たちが一般平(ひら)信徒たちの参列を受けてアメリカ国内各地で執り行い得るトレント(公会議)式ミサ聖祭のやり方がいかに「(第二バチカン)公会議感染症」( "Conciliar infection" )に侵(おか)されているかを指摘し,苦言を呈(てい)しています( "…in which she complains of the “Conciliar infection” that she observes in the way in which Society of St Pius X Tridentine Masses in the USA can be celebrated by the priests and attended by the laity. " ).彼女の悲観的な観察を以下に要約しますが,それは司祭たちや信徒たちをその悲観で困らせるのが目的でなく,私たち一人ひとりがいかに自らの行い(=振る舞い方)を反省すべきかを示唆(しさ)するためです( "If her dark observations are summarized below, it is not in order to overwhelm priests or laity with the darkness, but to suggest how each of us can examine his own behaviour." ).
彼女は手紙全体を通して,「公会議感染症」がここしばらくの間に各地の聖ピオ十世会の教会(=礼拝堂〈聖堂〉,"chapels" )にひそかに忍び込んできたと言っています( "In general she says that the “Conciliar infection” has been creeping into the SSPX chapels for some time." ).状況は悪化の一途(いっと)をたどりもはや絶望的で,すでにその弊害(へいがい)が起きているとさえ極論(きょくろん)しています( "She goes so far as to say that the situation is deteriorating and desperate, and the damage is already done." ).彼女によれば,まるでラテン語が信仰の代わりに最高位を占めるようになっており,ただラテン語でトレント式ミサ聖祭が行われさえすれば,あとはすべてよしといった具合だそうです( "It is as though Latin has taken pride of place over the Faith, as though anything goes if only it is a Tridentine Mass said in Latin." ).一般平信徒は本来のミサ聖祭がどういうものか理解できずに ――ましてそれを心に留(とど)める(=覚え記憶する)こともなく―― ただミサ聖祭に参列するだけで,それが正常だと考えている,と彼女は書いています( "Not having understood – or retained – what the Mass really is, she says, the laity find it normal merely to attend." ).多くの平信徒たちは白昼夢(はくちゅうむ)を見るようにミサに参席し,その後ひどく無礼なやり方( "a very disrespectful way" )で聖体拝領を受けるそうで,それではまるで新教会( "Newchurch" )と同じだというのです( "Many attend Mass daydreaming, and then they receive Holy Communion in a very disrespectful way, just like in the Newchurch. " ).
彼女はカトリック信仰やミサ聖祭についての説明が不十分だと司祭たちを責めています( "She blames the priests for not having sufficiently explained the Faith or the Mass." ).彼らの説教については,自分の話していることを本当に理解しているのか疑わしくなったこともあり,またある司祭の場合には個人的な考えと説教の文脈(ぶんみゃく)が公会議からの受け売りではないかと感じたこともあるそうです( "As for their sermons, she wonders at times whether they understand what they are proclaiming and at times she finds that the personal ideas of the priest and the context of the sermon as a whole come over as Conciliar." ).典礼ルール( "liturgical rules" )は守られず,典礼規定も一貫しておらず,ただミサ典文( "the Canon of the Mass" )だけはてっとり早く読まれる( "Liturgical rules are not respected, rubrics are not consistent, the Canon of the Mass is hurried through." ).手短(てみじか)にいうと彼女は多くの聖ピオ十世会の司祭たちや平(ひら)信徒たち( "layfolk" )が新教会に入るつもりか,あるいはそれどころかむしろ,すでに入ってしまっているとしても驚きではないと言っています( "In brief she is not surprised if a number of SSPX priests and layfolk are ready to join the Newchurch, nay, may even already belong to it." ).
さて,平常心の状態にある者なら,彼女の悲観的な観察が聖ピオ十世会のすべてのミサ聖祭に当てはまるとは言い張らないでしょう.だが,私たちの時代の堕落(だらく)はあまりにもひどいため,彼女が見た事態の劣悪(れつあく)化がごく当たり前に思えるほどです( "Now nobody in his right mind would claim that her dark description fits all SSPX Masses, but such is the corruption of our age that a deterioration of the kind she observes is all too normal." ).堕落は司祭たちや信徒たちに一様(いちよう)に押し寄せています.このことは,同じ堕落が私たちすべてに入り込んでいるのではないかと用心深く観察する必要があることを意味します( "The corruption presses upon priests and laity alike, and it means that all of us need to observe closely how it may be creeping up on ourselves." ).ファティマ(ポルトガル)の修道女,シスター・ルシア(訳注・ "Sister Lucy of Fatima".〈ポルトガル語で "Irmã Lúcia de Fátima"〉 )が1950年代に述べているように,一般信徒は天国へたどり着くのになすべきことすべてを聖職者たち( "the clergy" )に委(ゆだ)ねるなどもはやできなくなっています( "As Sister Lucy of Fatima once said in the 1950’s, the laity can no longer rely on the clergy to do all the work for them of getting them to Heaven." ).実際のところ聖職者たちがそれに応(こた)えられたことはありませんでした( "In fact they never could do so,…" ).だが,怠(なま)けて「従(したが)うこと」( "lazy “obedience” " )は,今日でもいまだにだれもが掻(か)き立てられる共通の衝動(しょうどう)です( "…but a lazy “obedience” is still today a common temptation." ).もし,一般信徒(=平〈ひら〉信徒)の皆さんが自分たちを導(みちび)いてくれる善良な司祭たちを望み,聖ピオ十世会が公会議に走らないよう願うなら,自分たちの家庭がきちんとなるよう ――たとえば,自分自身と自分の家族がどのようなミサ聖祭に参列したらよいかなどについて―― よく観察して決めるようにしてみたらよいのではないでしょうか ( "If layfolk want good priests to lead them, and if they do not want the SSPX to go Conciliar, then let them observe their own household to put it in order – for instance, how do I myself and my family attend Mass ? " )?
私たち司祭について言えば,預言者エゼキエル( "the prohet Ezechiel" )が牧者たち(訳注・"pastors".=(各教会の)主任司祭たち〈=信者たちを司牧する〉.牧者=羊飼い=主任司祭.羊たち=信徒の群れ)に与えた次のような恐ろしい警告(旧約聖書・エゼキエルの書:第3章17-21節)を忘れさせないことです( "As for us priests, let us not forget the dire warning of the prophet Ezechiel (III, 17-21) to pastors: " ).すなわち,牧者たちが人々にいかに彼らが罪を犯しているかを告げても彼らが罪を犯しつづけるなら,主なる神は人々を罰(ばっ)し,牧者たちに責任を負わせないだろう( "…if the pastors tell the people how they are sinning, and the people go on sinning, the Lord God will punish the people but he will not hold the pastors responsible." ).反対に,もし人々が罪を犯しているのに,牧者たちがそれを彼らに告げなければ,主たる神は人々が犯した罪を牧者たちの責任とみるだろう( "Contrariwise, if the people sin and the pastors do not tell them how they are sinning, then the Lord God will hold the pastors guilty for the people’s sins." ).「審判は神の家で始まるべき」(ペトロの第一の手紙:第4章17節)( " “Judgment should begin at the house of God” (I Pet. IV, 17)." ).(訳注後記)
というわけで,聖ピオ十世会が「公会議感染症」にかかるのを防(ふせ)ぐには私たちすべてが力(ちから)の及ぶ限りなにをどうするかにかかっています( "Therefore it depends on all of us to do what is in our power to prevent the SSPX from catching the “Conciliar infection”." ).今日の状況では,これは口で言うほど易(やさ)しいことではありません.だが,聖パウロが説いているように(コリント人への第一の手紙:第4章3-5節),私たち一人ひとりが自らの罪に目を向けることです.審判を下すのは神です( "That is today more easily said than done, but as St Paul says (I Cor. IV, 3-5), let each of us look to his own sins. It is God who judges. " ).(訳注後記)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン
* * *
① 第1パラグラフの訳注:
「キリストにならう」 "Imitation of Christ" について.
『キリストにならう』
"DE IMITATIONE CHRISTI" (LATINE, ラテン語)
バルバロ神父 訳 (ドンボスコ社)
からの引用(最終章):
***
第四巻 聖体拝領への信心の勧めはここにはじまる
第十八章
人間はこの秘跡をみだりに詮索してはならない.むしろ謙遜にイエズスに従い,自分の理性を聖なる信仰に服従させなければならない
1 主
《もしあなたが疑いの淵(ふち)に陥ることを避けたいのなら,この深い神秘をみだりに探ることをやめなければならない.神の威光を探る者は,その光栄に眩惑(げんわく)される.
神は,人間の理解を超えることをおこなわれる.聖なる教えに服従し,教父たちの健全な教義に従って歩もうとする敬虔(けいけん),かつ謙遜な真理探究だけがゆるされる.
2 信仰の素朴さと確かさ
理論のけわしい道を捨て,神の掟の平坦で安全な道をたどろうとする単純な心の者は幸せである.あまりにも高遠なことを探ろうとして,敬虔の念を失った人は多い.あなたに必要なのは,知恵の聡(さと)さでも,神の玄義の会得でもなく,信仰と善意の生活である.あなたは自分が住んでいるこの世のことさえ理解できないのに,あなたを超越することをどうして悟れよう.神に服従しなさい,理性を信仰の次に置きなさい.そうすれば,あなたに有益かつ必要なだけ,知識の光が与えられるであろう.
3 誘惑の役割
ある人は,信仰と秘跡について重大ないざないを受ける.しかしそれは,彼らの責任ではなく,悪魔の仕業である.そうしたいざないに気をとめてはならない.
自分の思いと議論してはならない.また悪魔がそそぎこむ疑問に答えてはならない.むしろ,神のみことばを信じ,聖人たちと預言者たちを信じなさい.そうすれば,悪霊はあなたから逃げ去るであろう.しばしばそうしたことを耐え忍ぶのは,神のしもべにとってためになることである.悪魔は,自分が完全に征服している不信仰者や罪人を誘惑せず,かえって信仰ある人を悩ませ,わずらわせるものである.
4 神はあざむかない!
単純な,堅い信仰をもって進み,謙遜と尊敬とをもって,この秘跡に近づきなさい.そうしてあなたの理解できないことを,安らかに全能の神にゆだねなさい.
神はあざむくことはない.むしろ理性を過信する者が自分をあざむいてしまう.
神は,単純な人々と共に歩み,謙虚な人々にご自分を示してくださる.「小さな人たちに知らせ」(詩編119・130),清い心を照らし,好奇心の強い者と高慢な者に,恵みを隠される.人間の理性は弱く,誤りやすいが,まことの信仰は,あざむかれることも誤ることもない.
5 愛の神秘
人間の思想や探求は,信仰から先走ったり反したりすることなく,信仰に従うべきものである.信仰と愛とは,このもっとも尊い,すべてにまさる秘跡において特にあらわれ,ひそかに行動する.永遠,偏在,全能の神は,天においても地においても,「偉大なことをおこない,その不思議なみ業は人知ではかり得ない」(ヨブ5・9).神のみ業が,人知で容易に悟り得るものなら,不思議とも言語に絶するとも言えないのである.アーメン.》
+
聖体拝領への信心の勧めはここに終わる
* * *
"DE IMITATIONE CHRISTI"
『キリストにならう』
序論
「第二の福音書」,「中世の最高の信心書」と称される “De Imitatione Christi” (『キリストにならう』)は,神秘学派の生んだ美しい花であり,キリスト教的修徳書の逸巻であり,聖書に次いで世界中の人が親しみ読んだ本である.
『キリストにならう』,簡潔で飾り気のない正確な文体が特に賞せられ,中世特有の美しいラテン語で書かれ,神への烈々たるしかも慎み深い愛と敬虔が紙面ににじみ出ている.完徳の道に至るための教訓から書き出したこの本は,人間の究極目的である神に我々を導き,神の恵みに希望を置かせ,欠点の矯正と修徳とを勧め,神の光明のうちに生活を営ませ,観想と神秘の奥地である神との一致に招くのである.
霊魂のこのひそやかな旅は,その内部的変遷に従って全四巻に記されている.そして,完徳への歩みには,浄化の道,照明の道,一致の道,の三段階がある.
『キリストにならう』を深く研究するならば,これが,聖ベネディクトの精神と戒律とに,著しく似通っていることに気づくであろう.中世の神秘書の最高峰であるこの二つの本は,互いに補い合い,ベネディクトの戒律が霊魂を完徳に導けば,『キリストにならう』は,霊的な道の頂(いただき)を指し示すのである.
『キリストにならう』は,元来修道者のために修道者が書いたものであるが,しかし一般の修徳書でもある.この本の作者の深い洞察力と学識は,いかなる人間にも,いかなる身分の者にも応用しうるのである.
教義としてのいささかの不純分子も持たないこの作者は,その当時のさまざまな教えを知っていても,実証神学やスコラ神学の学説に傾かず,あらゆる学派を超えた立場で,常に実際的な教えを述べようとする.作者は観想の高さも神秘的歓喜も知り,それに先立つ苦しい試練も経ているが,それも主として実際的な見地に立って記している.
* * *
『キリストにならう』の作者については,この本が生まれた環境について三世紀位前から盛んに学者たちが議論している.とにかくこの本が作者不詳として出版されたことは確実のようである.その後,色々な作者の名が憶測されたが、(F・M・ブレムによると,挙げられた作者の名前は二百以上もあるという),その内でもパリのゼルソン,オランダ人のトマス・ア・ケンピス,ヴェルチェッリ市のヨハンネス・ジェルセニウスなどが特に多くの支持者を持っている.
これについて論戦は十七世紀にとりわけ盛んになって,その当時,ジェルセニウス党とケンピス党が生まれ,ローマの聖省とフランス議会までが引きこまれたほどであった.
フランスでは学界を代表する人々(デュ・カンズ,レノド,マビヨンなど)の会議が開かれて,ジェルセニウスのほうをとることになり,アルネンシス,ボビエンシス,パルメンシスなどの写本が,ケンピス以前のものであると断定された.同じくド・グレゴリも,一八三〇年にデ・アドゥボカティスという写本を発見して,先と同じく断定した.しかし,ロット・デニフレ,ヘイなどは,ケンピス以前のドイツ人の一人が作者であると言った.前世紀の半ばにフランスでは,この本に計画的な構想がなくて内容も正確な論理的な筋道がなく,くり返しが多く,霊的生活への勧告に緊密性がないという理由を挙げて,この本の作者は一人ではなく,フランドルの神秘学派訓戒集(ラピアリウム)であると唱えて,相当な支持を得た.
ところが,「西暦一四四一年,ズウォッレ付近の聖女アニエスの山にて,トマス・ア・ケンピス修士によって完成す」と最後に記してある写本が,ブリュッセルの王室図書館のケンペジアヌス写本と言われて存在する.また,『キリストにならう』の三百四十九の写本を,科学的に研究したポールの説は,ケンピスのほうに大いに傾いているので,ここから,ケンピスが作者だと断定する者も多い.
しかし,論戦は依然として続いており,先の写本の署名は,トマス・ア・ケンピスが書き写した時の署名であるにすぎないという人もいる.なおまた,その写本は,取り消した個所や,不確実な個所,間違いが多いので,デニフレは,「トマス・ア・ケンピスが作者でないとする証拠は,丁度その署名にある」とさえ言っている.ヴァン・ギンネケンは,トマス・ア・ケンピスの作と言われるものは,『キリストにならう』をはじめその他の小冊もすべて否定し,これらは,ゲルハルト・グローテ(アムステルダム,一四九二年)の作であると言い,I・ユビもその説を支持している.
これを見て,現在も,この論戦に確実な結論は生まれないであろうという学者が相当多い.ところが,ジェルセニウス党に言わせれば,自分たちの説こそ,いつか確定的な勝利を得るであろうと主張してゆずらない.以上挙げた古い写本とヴェルチェッレンシス,ヴィチェンティヌス,パタヴィヌスなどの写本,そして昔の翻訳書については,『キリストにならう』がイタリアで,ジェルセニウスの手によって生まれたもので,またその内容も,ケンピス党には不利であると批判されている.一二二〇年から一二四〇年までの間,ヴェルチェッリ市の聖ステファノ修道院長であったヨハネス・ジェルセニウス作だとする支持者が挙げる根拠は,この本の作者をトマス・ア・ケンピスに断定するために少なからぬ妨げとなるのである.
トマス・ア・ケンピスを作者とする人々は,彼の他の小冊と『キリストにならう』との間に文体上の類似が著しいと言っているが,それも反対者によって,「むしろ対立の方が著しく,両者は両立せず,背反する」と否定されている.
ジェルセニウスをとる人々は以下のように言っている,「ラテン系の神秘神学は,ヨーロッパ北部の神秘学と相当異なる.アシジの聖フランシスコ,聖ボナヴェントゥーラ,シエナの聖女カタリナなどには,北部の神秘家の著書にあまり見うけられない情熱的な愛と礼拝と熱心,脱魂などがある.北部の神秘家には,時として神学的により深遠であるにしても,文体があいまいで,思想が紆余曲折(うよきょくせつ)しており,落ち着いた平静な,しかし抽象的な表現が多い」.これがためにジェルセニウスをとる人々は,素朴な,明確な『キリストにならう』は北部の産ではないと言うのである.
確かにトマス・ア・ケンピスの他の著者は,立派ではあるが,『キリストにならう』に比べれば,不自然で作為的なところがある.『キリストにならう』の用語は,いかにも自然で,単純で,すぐ心に入りこむが,ケンピスの著作には,しばしば修辞的な,演説的な用語がある.『キリストにならう』の作者のほうには,決して講壇のジェスチュアがなく,ただ真理の力をもって人の心をひく,えもいわれぬ謙遜な言葉が,担々と語られている.
当時は,わけても神秘文学の分野において,修道者たちの文体は一般に似通っていた.従って,文体からだけ見た内的批判だけでもって,決定的な結論を出すわけにはいかないのである.しかし,『キリストにならう』の単純素朴な文章は、一種の神感を受けたもののようであり,もっぱら修辞を避けて,ごく自然な調子であり,さながら作者の前でその話を聞いている感がする.この作者は,長い修道生活から教えられたにしても,無限の生命の河から水を汲むべく,主の御心の上に休んだ聖ヨハネのように,神の霊に導かれていたのであろう.
『キリストにならう』は,ミシェレによると,「完全な円熟の境地から生まれたもの」のようであるが,この著作のできたのが西暦一四一五年から一四二七年までの間のことであるから,ケンピス(一三七九 - 一四七一年)はまだ比較的若く,彼の他の小冊のほうが,その円熟時代の作になる.他の小冊が『キリストにならう』と比較されるとき,はるかに劣るものであることは明白であるから,(ケンピスを作者だとすれば)円熟時代の修徳的体験が若年の著作よりも劣るというのは,不審なことだと言わざるを得ない.
『キリストにならう』に,独特のドイツ語的表現があると称する学者もいるが,これに対してジェルセニウス党の人々は,イタリア語独特のいい回しが,それ以上にあると反駁(はんばく)している.
要するに,依然として,いずれかを断定し得ない状態にある.その断定は専門の学者に任せることにするが,この問題は作者の問題から国と国との複雑な問題に移行したのであって,個人の好悪や主観的な要素が非常に深く入りこんできた感がする.
研究と論戦との三世紀も,『キリストにならう』をとりかこむ霧をすっかり散らしていないという悲しむべき結論に至るのであるが,しかしデ・サシは,「神がこの本の作者の名を覆って謙遜を喜び給うた」と語り,ヴォルテールは,《世界に役立つこういう著作を「だれそれのもの」として名指す必要がどこにあろう》と言った.
これほど崇高な本が,一人の名に限られることなく,長きにわたる時代の敬虔の象徴として,人類の観想と修徳の花として,自由に,無名のまま輝きわたっていることについては,きっと何かの理由があることであろう.この本が,一つの国,一つの民に束縛されていないということにも,何かの深い意義があるであろう.
この本こそは,キリストの旗をかかげるすべての国とすべての民の霊的な糧(かて)である.神の父性を礼拝し,観想を重んじた霊魂から生まれたがために,作者は不詳であり,すべての信徒を天へ導く目的であるがために,地上の国をもっていない本だと言うにつきるのである.
この邦訳はおおむね,ポールがブリュッセルの王室の図書館写本にもとついて出版した,批判テキスト(フライブルク,一九四〇年)によった.
一九五三年四月十五日 フェデリコ・バルバロ 神父
* * *
② 第5パラグラフの訳注:
「シスター・ルシア」 "Sister Lucy of Fatima" について.
"Irmã Lúcia de Fátima" (ポルトガル語)
ファティマ(ポルトガル)の修道女.
ファティマはポルトガルの聖地で,中部サンタレン県北西部レイリアの南東約20kmにある村.
1917年5月13日に聖母マリア "Nossa Senhora do Rosário de Fátima" が地元の3人の牧童に出現された.
3人の名前はそれぞれ,ルシア・ドス・サントス (当時,10才)と,その従兄妹(いとこ)フランシスコ・マルト(同,9才)およびジャシンタ・マルト(同,7才)の兄妹("Lúcia de Jesus dos Santos, Francisco Marto e Jacinta Marto).
うちルシアは修道女となり97才まで生きたが(1907年3月22日-2005年2月13日),あとの2人は聖母ご出現から2,3年後に,聖母の預言どおり相次いで病死した.
ファティマはそれから有名になり,1928年に建築が開始された壮麗なバジリカ(大聖堂)と,その側に建てられた複数の黙想のための家や病院に,毎年多数の巡礼者が訪れる.大聖堂の正面には広場があり,これまでに多くの奇跡的な病気の治癒が報告されている.
* * *
③ 第6パラグラフの先の訳注:
旧約聖書・エゼキエルの書:第3章17-21節について
A/ 旧約聖書:預言者エゼキエルの書:第3章17-21節(太字)(第3章全章を掲載)
B/ PROPHETIA EZECHIELIS III, 17-21 (16-21)
C/ THE PROPHECY OF EZECHIEL III, 17-21 (16-21)
EZECHIEL, whose name signifies the STRENGTH OF GOD; was of the priestly race; and of the number of the captives that were carried away to Babylon with king JOACHIN. He was contemporary with JEREMIAS, and prophesied to the same effect in Babylon, as JEREMIAS did in Jerusalem; and is said to have ended his days in like manner, by martyrdom.
D/ 「エゼキエルの書解説」(用語集に掲載)
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A/ 日本語
エゼキエルの書・第3章1-27節
巻物の幻(2章1節から)
1 主は私に仰せられた,「人の子よ,与えられるものを食べよ,この巻物を食べ,イスラエル人に話しに行け」と.
2 私が口を開くと,巻物を食べさせ,
3 *そして仰せられた,「人の子よ,私の与えるこの巻物で腹を養い,はらわたを満たせ」.私はそれを食べた.口の中は蜜のように甘くなった.
4 それから,私に仰せられた,「人の子よ,イスラエル人のもとに行き,私のことばで彼らに語れ,
5 *おまえは不明なことばと難解な話をする民におくられるのではなく,イスラエルの民に向けられる.
6 意味のわからぬ不明なことば,難解な話をする異国の民におくられるのではない.もしそういう民におくったら,彼らはおまえの言うことを聞くだろう.
7 だが,イスラエルは耳をかさない.彼らは私の言うことを聞くのを好まない.イスラエルの家はみな,*恥知らずで心の固いものである.
8 だが私は,おまえの顔を彼らの顔のように固くし,その額を彼らのように固くする.
9 私はその額をダイヤモンドのように,岩よりも固くした.彼らを恐れることはなく,がっかりすることはない.彼らは反逆の民なのだ」.
10 また,私に仰せられた,「人の子よ,私の言うすべてのことばを注意をこめて聞き,心に納めよ.
11 そして,*おまえの民の流され人のところに行って話せ.彼らに向かって,彼らが聞く聞かぬにかかわらず,主はこう仰せられると語れ」.
12 それから,霊が私をそこから持ちあげた.私はうしろで大きなとどろきを聞いた.そのとき,主の栄光はそこから立ちのぼった.
13 大きなとどろきは,互いにすれ合う生き物たちの,翼の音と輪の音が重なったものだった.
14 *霊はそこから私を持ちあげ,運び去った.私の心は激しく興奮していた.私は悲しく立ち去ったが,そのとき主の御手は,私の上に強くおかれていた.
15こうして,彼らの住んでいるところ,ケバル川に沿う流され人のところ,*テル・アビブに行って,七日間呆然(ぼうぜん)としてとどまった.
イスラエルを守るもの
16 七日過ぎて,主のみことばは私に下った,
17「*人の子よ,私はおまえをイスラエルの家の*見張り人にした.私の口のことばを聞くとき,私の名で彼らを戒めるためである.
18 私が悪人に,〈おまえはきっと死ぬ〉というとき,おまえが,彼が生き長らえるように戒めず,その悪い道を離れさすように話さなかったら,彼はその罪のために死ぬが、私は彼の血の責任をおまえに負わせる.
19 だが悪人を戒めても,彼がその悪と不正な道を改めないなら,彼はその罪のために死んでも,おまえは自分を救うことになる.
20 正しい人が不正を行おうとして正しい道をそれるなら,私は*さまざまな妨げをおき,そして彼は死ぬ.おまえがもし,彼を戒めなかったら,その罪のために死んだ彼の行った正しい行為は忘れられ,その血の責任はおまえに要求される.
21 だが,もし正しい人が罪を犯さぬように戒めたために罪を犯さないなら,彼は戒めを聞いて生き長らえ,おまえは自分の命を救ったことになる」.
エゼキエルは唖(おし)になる
22 ここでまた,主の御手は私の上に下った,「立って平原に行き,そこで語ろう」.
23 私は立って平原にいった.するとケバル川のほとりで見たように主の栄光が現れ,私は地にひれ伏した。
24 だが、霊が私に入って立ちあがらせた.そのとき主は,私に話しかけられた,「いって,自分の家に閉じこもれ.
25 人の子よ,見よ,おまえに*なわがかかり,縛(しば)られるから,彼らのところには行けない.
26 また,おまえの舌が上あごにつくようにしよう.そうすれば*唖(おし)になり,彼らを戒めることもできない.彼らは反逆の民なのだ.
27 だが,私が話すとき,おまえは口を開けて言え,〈主は仰せられる,望む者は聞き,望まぬ者は聞くな.実に,彼らは反逆の民である〉」.
(注釈)
巻物の幻(2・1-3・15)
3 巻物は,神のみことばのかたどりである.預言者はみことばを心に刻(きざ)み,燃える火のような心で人にも伝えねばならない.セラフィム〈熾(し=燃える)天使〉は,イザヤの口に触れ(〈旧約〉イザヤの書6・5-7),主ご自身は,エレミアの口に触れられ,そこにみことばをおかれた(エレミアの書1・9).エゼキエルは,その考え方をいっそう現実的な表現で書き記している.
5 まことの神の示しをうけたイスラエル人は,神のみことばを聞くについて,もっともよい状態をもっているはずだった.しかし彼らは聞こうとしない.
7 原文は「額の固いもの」.
11 神は,ユダヤ人の不正を思い,「ご自分の民」とは呼ばれない.
14 ハバクク(ダニエルの書14章)の場合のように,奇跡的に運び去られたと考える必要はない.
15「テル・アビブ」は「麦の穂の丘」という意味で,ここはエゼキエルの活躍の中心地となった.
イスラエルを守るもの(3・16-21)
17-21節 33章1-9節で,これと同じテーマがもっとくわしく扱われている.
*イザヤの書52・8,56・10,エレミアの書6・17,エゼキエルの書33・2,6・7参照.
20 災いや病気などを指しているらしい.
エゼキエルは唖(おし)になる(3・22-27)
25 象徴的ななわのことらしく,「人の中に出るな」と預言者に命じられる主の御意志を表している.
26 ある時まで人々に話すなという主の命令である.しかしこれについてほかの解釈がある.
* * *
B/ LATINE
EZECHIEL III, 16-21
16 Cum autem pertransissent septem dies, factum est verbum Domini ad me, dicens:
17 Fili hominis speculatorem dedi te domui Israel: et audies de ore meo verbum, et annunciabis eis ex me.
18 Si dicente me ad impium: Morte morieris: non annunciaveris ei, neque locutus fueris ut avertatur a via sua impia, et vivat: ipse impius in iniquitate sua morietur, sanguinem autem eius de manu tua requiram.
19 Si autem tu annunciaveris impio, et ille non fuerit conversus ab impietate sua, et a via sua impia: ipse quidem in iniquitate sua morietur, tu autem animam tuam liberasti.
20 Sed et si conversus iustus a iustitia sua fuerit, et fecerit iniquitatem: ponam offendiculum coram eo, ipse morietur, quia non annunciasti ei: in peccato suo morietur, et non erunt in memoria iustitiæ eius, quas fecit: sanguinem vero eius de manu tua requiram.
21 Si autem tu annunciaveris iusto ut non peccet iustus, et ille non peccaverit: vivens vivet, quia annunciasti ei, et tu animam tuam liberasti.
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C/ ENGLISH
EZECHIEL, 3:16-21
The prophet eats the book, and receives further instructions: the office of a watchman.
16 And at the end of seven days the word of the Lord came to me, saying:
17 Son of man, I have made thee a watchman to the house of Israel: and thou shalt hear the word out of my mouth, and shalt tell it them from me.
18 If, when I say to the wicked, Thou shalt surely die: thou declare it not to him, nor speak to him, that he may be converted from his wicked way, and live: the same wicked man shall die in his iniquity, but I will require his blood at thy hand.
19 But if thou give warning to the wicked, and he be not converted from his wickedness, and from his evil way: he indeed shall die in his iniquity, but thou hast delivered thy soul.
20 Moreover if the just man shall turn away from his justice, and shall commit iniquity: I will lay a stumblingblock before him, he shall die, because thou hast not given him warning: he shall die in his sin, and his justices which he hath done, shall not be remembered: but I will require his blood at thy hand.
21 But if thou warn the just man, that the just may not sin, and he doth not sin: living he shall live, because thou hast warned him, and thou hast delivered thy soul.
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訳注をさらに追加いたします.
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私の好きな諺に 「賢者(けんじゃ)はわが身を責め,愚者(ぐしゃ)は他人を責める」 という中国の諺(ことわざ)があります ( "A favourite proverb of mine comes from China: “The wise man blames himself, the fool blames others.” ).他人にけっして非(ひ)がないという意味でないことは明白です( "Not that others are never to blame, obviously, … " ).だが,私には他人の素行(そこう)を変えさせるなどほとんどというかまったくできませんが,少なくとも理屈(りくつ)の上では自分自身をコントロールできます( "… but that I can usually do little or nothing to change their behaviour, whereas I am at least in theory in command of my own. " ).「キリストにならう」( "Imitation of Christ" ) に書かれているように,私たちは自(みずか)ら犯した罪を考えて得(とく)することはあっても,他人の罪を考えて得することなどまずありません( "As the Imitation of Christ has it, we rarely think with profit on the sins of others, always with profit on our own. " ).(訳注後記)
私がこの古い中国の金言(きんげん)を思いついたのは,「エレイソン・コメンツ」 (第263回) の一読者からいただいた手紙がきっかけです( "This age-old wisdom is called to mind by the letter of a reader of “Eleison Comments” (# 263) …" ).この女性読者は手紙の中で,聖ピオ十世会の司祭たちが一般平(ひら)信徒たちの参列を受けてアメリカ国内各地で執り行い得るトレント(公会議)式ミサ聖祭のやり方がいかに「(第二バチカン)公会議感染症」( "Conciliar infection" )に侵(おか)されているかを指摘し,苦言を呈(てい)しています( "…in which she complains of the “Conciliar infection” that she observes in the way in which Society of St Pius X Tridentine Masses in the USA can be celebrated by the priests and attended by the laity. " ).彼女の悲観的な観察を以下に要約しますが,それは司祭たちや信徒たちをその悲観で困らせるのが目的でなく,私たち一人ひとりがいかに自らの行い(=振る舞い方)を反省すべきかを示唆(しさ)するためです( "If her dark observations are summarized below, it is not in order to overwhelm priests or laity with the darkness, but to suggest how each of us can examine his own behaviour." ).
彼女は手紙全体を通して,「公会議感染症」がここしばらくの間に各地の聖ピオ十世会の教会(=礼拝堂〈聖堂〉,"chapels" )にひそかに忍び込んできたと言っています( "In general she says that the “Conciliar infection” has been creeping into the SSPX chapels for some time." ).状況は悪化の一途(いっと)をたどりもはや絶望的で,すでにその弊害(へいがい)が起きているとさえ極論(きょくろん)しています( "She goes so far as to say that the situation is deteriorating and desperate, and the damage is already done." ).彼女によれば,まるでラテン語が信仰の代わりに最高位を占めるようになっており,ただラテン語でトレント式ミサ聖祭が行われさえすれば,あとはすべてよしといった具合だそうです( "It is as though Latin has taken pride of place over the Faith, as though anything goes if only it is a Tridentine Mass said in Latin." ).一般平信徒は本来のミサ聖祭がどういうものか理解できずに ――ましてそれを心に留(とど)める(=覚え記憶する)こともなく―― ただミサ聖祭に参列するだけで,それが正常だと考えている,と彼女は書いています( "Not having understood – or retained – what the Mass really is, she says, the laity find it normal merely to attend." ).多くの平信徒たちは白昼夢(はくちゅうむ)を見るようにミサに参席し,その後ひどく無礼なやり方( "a very disrespectful way" )で聖体拝領を受けるそうで,それではまるで新教会( "Newchurch" )と同じだというのです( "Many attend Mass daydreaming, and then they receive Holy Communion in a very disrespectful way, just like in the Newchurch. " ).
彼女はカトリック信仰やミサ聖祭についての説明が不十分だと司祭たちを責めています( "She blames the priests for not having sufficiently explained the Faith or the Mass." ).彼らの説教については,自分の話していることを本当に理解しているのか疑わしくなったこともあり,またある司祭の場合には個人的な考えと説教の文脈(ぶんみゃく)が公会議からの受け売りではないかと感じたこともあるそうです( "As for their sermons, she wonders at times whether they understand what they are proclaiming and at times she finds that the personal ideas of the priest and the context of the sermon as a whole come over as Conciliar." ).典礼ルール( "liturgical rules" )は守られず,典礼規定も一貫しておらず,ただミサ典文( "the Canon of the Mass" )だけはてっとり早く読まれる( "Liturgical rules are not respected, rubrics are not consistent, the Canon of the Mass is hurried through." ).手短(てみじか)にいうと彼女は多くの聖ピオ十世会の司祭たちや平(ひら)信徒たち( "layfolk" )が新教会に入るつもりか,あるいはそれどころかむしろ,すでに入ってしまっているとしても驚きではないと言っています( "In brief she is not surprised if a number of SSPX priests and layfolk are ready to join the Newchurch, nay, may even already belong to it." ).
さて,平常心の状態にある者なら,彼女の悲観的な観察が聖ピオ十世会のすべてのミサ聖祭に当てはまるとは言い張らないでしょう.だが,私たちの時代の堕落(だらく)はあまりにもひどいため,彼女が見た事態の劣悪(れつあく)化がごく当たり前に思えるほどです( "Now nobody in his right mind would claim that her dark description fits all SSPX Masses, but such is the corruption of our age that a deterioration of the kind she observes is all too normal." ).堕落は司祭たちや信徒たちに一様(いちよう)に押し寄せています.このことは,同じ堕落が私たちすべてに入り込んでいるのではないかと用心深く観察する必要があることを意味します( "The corruption presses upon priests and laity alike, and it means that all of us need to observe closely how it may be creeping up on ourselves." ).ファティマ(ポルトガル)の修道女,シスター・ルシア(訳注・ "Sister Lucy of Fatima".〈ポルトガル語で "Irmã Lúcia de Fátima"〉 )が1950年代に述べているように,一般信徒は天国へたどり着くのになすべきことすべてを聖職者たち( "the clergy" )に委(ゆだ)ねるなどもはやできなくなっています( "As Sister Lucy of Fatima once said in the 1950’s, the laity can no longer rely on the clergy to do all the work for them of getting them to Heaven." ).実際のところ聖職者たちがそれに応(こた)えられたことはありませんでした( "In fact they never could do so,…" ).だが,怠(なま)けて「従(したが)うこと」( "lazy “obedience” " )は,今日でもいまだにだれもが掻(か)き立てられる共通の衝動(しょうどう)です( "…but a lazy “obedience” is still today a common temptation." ).もし,一般信徒(=平〈ひら〉信徒)の皆さんが自分たちを導(みちび)いてくれる善良な司祭たちを望み,聖ピオ十世会が公会議に走らないよう願うなら,自分たちの家庭がきちんとなるよう ――たとえば,自分自身と自分の家族がどのようなミサ聖祭に参列したらよいかなどについて―― よく観察して決めるようにしてみたらよいのではないでしょうか ( "If layfolk want good priests to lead them, and if they do not want the SSPX to go Conciliar, then let them observe their own household to put it in order – for instance, how do I myself and my family attend Mass ? " )?
私たち司祭について言えば,預言者エゼキエル( "the prohet Ezechiel" )が牧者たち(訳注・"pastors".=(各教会の)主任司祭たち〈=信者たちを司牧する〉.牧者=羊飼い=主任司祭.羊たち=信徒の群れ)に与えた次のような恐ろしい警告(旧約聖書・エゼキエルの書:第3章17-21節)を忘れさせないことです( "As for us priests, let us not forget the dire warning of the prophet Ezechiel (III, 17-21) to pastors: " ).すなわち,牧者たちが人々にいかに彼らが罪を犯しているかを告げても彼らが罪を犯しつづけるなら,主なる神は人々を罰(ばっ)し,牧者たちに責任を負わせないだろう( "…if the pastors tell the people how they are sinning, and the people go on sinning, the Lord God will punish the people but he will not hold the pastors responsible." ).反対に,もし人々が罪を犯しているのに,牧者たちがそれを彼らに告げなければ,主たる神は人々が犯した罪を牧者たちの責任とみるだろう( "Contrariwise, if the people sin and the pastors do not tell them how they are sinning, then the Lord God will hold the pastors guilty for the people’s sins." ).「審判は神の家で始まるべき」(ペトロの第一の手紙:第4章17節)( " “Judgment should begin at the house of God” (I Pet. IV, 17)." ).(訳注後記)
というわけで,聖ピオ十世会が「公会議感染症」にかかるのを防(ふせ)ぐには私たちすべてが力(ちから)の及ぶ限りなにをどうするかにかかっています( "Therefore it depends on all of us to do what is in our power to prevent the SSPX from catching the “Conciliar infection”." ).今日の状況では,これは口で言うほど易(やさ)しいことではありません.だが,聖パウロが説いているように(コリント人への第一の手紙:第4章3-5節),私たち一人ひとりが自らの罪に目を向けることです.審判を下すのは神です( "That is today more easily said than done, but as St Paul says (I Cor. IV, 3-5), let each of us look to his own sins. It is God who judges. " ).(訳注後記)
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン
* * *
① 第1パラグラフの訳注:
「キリストにならう」 "Imitation of Christ" について.
『キリストにならう』
"DE IMITATIONE CHRISTI" (LATINE, ラテン語)
バルバロ神父 訳 (ドンボスコ社)
からの引用(最終章):
***
第四巻 聖体拝領への信心の勧めはここにはじまる
第十八章
人間はこの秘跡をみだりに詮索してはならない.むしろ謙遜にイエズスに従い,自分の理性を聖なる信仰に服従させなければならない
1 主
《もしあなたが疑いの淵(ふち)に陥ることを避けたいのなら,この深い神秘をみだりに探ることをやめなければならない.神の威光を探る者は,その光栄に眩惑(げんわく)される.
神は,人間の理解を超えることをおこなわれる.聖なる教えに服従し,教父たちの健全な教義に従って歩もうとする敬虔(けいけん),かつ謙遜な真理探究だけがゆるされる.
2 信仰の素朴さと確かさ
理論のけわしい道を捨て,神の掟の平坦で安全な道をたどろうとする単純な心の者は幸せである.あまりにも高遠なことを探ろうとして,敬虔の念を失った人は多い.あなたに必要なのは,知恵の聡(さと)さでも,神の玄義の会得でもなく,信仰と善意の生活である.あなたは自分が住んでいるこの世のことさえ理解できないのに,あなたを超越することをどうして悟れよう.神に服従しなさい,理性を信仰の次に置きなさい.そうすれば,あなたに有益かつ必要なだけ,知識の光が与えられるであろう.
3 誘惑の役割
ある人は,信仰と秘跡について重大ないざないを受ける.しかしそれは,彼らの責任ではなく,悪魔の仕業である.そうしたいざないに気をとめてはならない.
自分の思いと議論してはならない.また悪魔がそそぎこむ疑問に答えてはならない.むしろ,神のみことばを信じ,聖人たちと預言者たちを信じなさい.そうすれば,悪霊はあなたから逃げ去るであろう.しばしばそうしたことを耐え忍ぶのは,神のしもべにとってためになることである.悪魔は,自分が完全に征服している不信仰者や罪人を誘惑せず,かえって信仰ある人を悩ませ,わずらわせるものである.
4 神はあざむかない!
単純な,堅い信仰をもって進み,謙遜と尊敬とをもって,この秘跡に近づきなさい.そうしてあなたの理解できないことを,安らかに全能の神にゆだねなさい.
神はあざむくことはない.むしろ理性を過信する者が自分をあざむいてしまう.
神は,単純な人々と共に歩み,謙虚な人々にご自分を示してくださる.「小さな人たちに知らせ」(詩編119・130),清い心を照らし,好奇心の強い者と高慢な者に,恵みを隠される.人間の理性は弱く,誤りやすいが,まことの信仰は,あざむかれることも誤ることもない.
5 愛の神秘
人間の思想や探求は,信仰から先走ったり反したりすることなく,信仰に従うべきものである.信仰と愛とは,このもっとも尊い,すべてにまさる秘跡において特にあらわれ,ひそかに行動する.永遠,偏在,全能の神は,天においても地においても,「偉大なことをおこない,その不思議なみ業は人知ではかり得ない」(ヨブ5・9).神のみ業が,人知で容易に悟り得るものなら,不思議とも言語に絶するとも言えないのである.アーメン.》
+
聖体拝領への信心の勧めはここに終わる
* * *
"DE IMITATIONE CHRISTI"
『キリストにならう』
序論
「第二の福音書」,「中世の最高の信心書」と称される “De Imitatione Christi” (『キリストにならう』)は,神秘学派の生んだ美しい花であり,キリスト教的修徳書の逸巻であり,聖書に次いで世界中の人が親しみ読んだ本である.
『キリストにならう』,簡潔で飾り気のない正確な文体が特に賞せられ,中世特有の美しいラテン語で書かれ,神への烈々たるしかも慎み深い愛と敬虔が紙面ににじみ出ている.完徳の道に至るための教訓から書き出したこの本は,人間の究極目的である神に我々を導き,神の恵みに希望を置かせ,欠点の矯正と修徳とを勧め,神の光明のうちに生活を営ませ,観想と神秘の奥地である神との一致に招くのである.
霊魂のこのひそやかな旅は,その内部的変遷に従って全四巻に記されている.そして,完徳への歩みには,浄化の道,照明の道,一致の道,の三段階がある.
『キリストにならう』を深く研究するならば,これが,聖ベネディクトの精神と戒律とに,著しく似通っていることに気づくであろう.中世の神秘書の最高峰であるこの二つの本は,互いに補い合い,ベネディクトの戒律が霊魂を完徳に導けば,『キリストにならう』は,霊的な道の頂(いただき)を指し示すのである.
『キリストにならう』は,元来修道者のために修道者が書いたものであるが,しかし一般の修徳書でもある.この本の作者の深い洞察力と学識は,いかなる人間にも,いかなる身分の者にも応用しうるのである.
教義としてのいささかの不純分子も持たないこの作者は,その当時のさまざまな教えを知っていても,実証神学やスコラ神学の学説に傾かず,あらゆる学派を超えた立場で,常に実際的な教えを述べようとする.作者は観想の高さも神秘的歓喜も知り,それに先立つ苦しい試練も経ているが,それも主として実際的な見地に立って記している.
* * *
『キリストにならう』の作者については,この本が生まれた環境について三世紀位前から盛んに学者たちが議論している.とにかくこの本が作者不詳として出版されたことは確実のようである.その後,色々な作者の名が憶測されたが、(F・M・ブレムによると,挙げられた作者の名前は二百以上もあるという),その内でもパリのゼルソン,オランダ人のトマス・ア・ケンピス,ヴェルチェッリ市のヨハンネス・ジェルセニウスなどが特に多くの支持者を持っている.
これについて論戦は十七世紀にとりわけ盛んになって,その当時,ジェルセニウス党とケンピス党が生まれ,ローマの聖省とフランス議会までが引きこまれたほどであった.
フランスでは学界を代表する人々(デュ・カンズ,レノド,マビヨンなど)の会議が開かれて,ジェルセニウスのほうをとることになり,アルネンシス,ボビエンシス,パルメンシスなどの写本が,ケンピス以前のものであると断定された.同じくド・グレゴリも,一八三〇年にデ・アドゥボカティスという写本を発見して,先と同じく断定した.しかし,ロット・デニフレ,ヘイなどは,ケンピス以前のドイツ人の一人が作者であると言った.前世紀の半ばにフランスでは,この本に計画的な構想がなくて内容も正確な論理的な筋道がなく,くり返しが多く,霊的生活への勧告に緊密性がないという理由を挙げて,この本の作者は一人ではなく,フランドルの神秘学派訓戒集(ラピアリウム)であると唱えて,相当な支持を得た.
ところが,「西暦一四四一年,ズウォッレ付近の聖女アニエスの山にて,トマス・ア・ケンピス修士によって完成す」と最後に記してある写本が,ブリュッセルの王室図書館のケンペジアヌス写本と言われて存在する.また,『キリストにならう』の三百四十九の写本を,科学的に研究したポールの説は,ケンピスのほうに大いに傾いているので,ここから,ケンピスが作者だと断定する者も多い.
しかし,論戦は依然として続いており,先の写本の署名は,トマス・ア・ケンピスが書き写した時の署名であるにすぎないという人もいる.なおまた,その写本は,取り消した個所や,不確実な個所,間違いが多いので,デニフレは,「トマス・ア・ケンピスが作者でないとする証拠は,丁度その署名にある」とさえ言っている.ヴァン・ギンネケンは,トマス・ア・ケンピスの作と言われるものは,『キリストにならう』をはじめその他の小冊もすべて否定し,これらは,ゲルハルト・グローテ(アムステルダム,一四九二年)の作であると言い,I・ユビもその説を支持している.
これを見て,現在も,この論戦に確実な結論は生まれないであろうという学者が相当多い.ところが,ジェルセニウス党に言わせれば,自分たちの説こそ,いつか確定的な勝利を得るであろうと主張してゆずらない.以上挙げた古い写本とヴェルチェッレンシス,ヴィチェンティヌス,パタヴィヌスなどの写本,そして昔の翻訳書については,『キリストにならう』がイタリアで,ジェルセニウスの手によって生まれたもので,またその内容も,ケンピス党には不利であると批判されている.一二二〇年から一二四〇年までの間,ヴェルチェッリ市の聖ステファノ修道院長であったヨハネス・ジェルセニウス作だとする支持者が挙げる根拠は,この本の作者をトマス・ア・ケンピスに断定するために少なからぬ妨げとなるのである.
トマス・ア・ケンピスを作者とする人々は,彼の他の小冊と『キリストにならう』との間に文体上の類似が著しいと言っているが,それも反対者によって,「むしろ対立の方が著しく,両者は両立せず,背反する」と否定されている.
ジェルセニウスをとる人々は以下のように言っている,「ラテン系の神秘神学は,ヨーロッパ北部の神秘学と相当異なる.アシジの聖フランシスコ,聖ボナヴェントゥーラ,シエナの聖女カタリナなどには,北部の神秘家の著書にあまり見うけられない情熱的な愛と礼拝と熱心,脱魂などがある.北部の神秘家には,時として神学的により深遠であるにしても,文体があいまいで,思想が紆余曲折(うよきょくせつ)しており,落ち着いた平静な,しかし抽象的な表現が多い」.これがためにジェルセニウスをとる人々は,素朴な,明確な『キリストにならう』は北部の産ではないと言うのである.
確かにトマス・ア・ケンピスの他の著者は,立派ではあるが,『キリストにならう』に比べれば,不自然で作為的なところがある.『キリストにならう』の用語は,いかにも自然で,単純で,すぐ心に入りこむが,ケンピスの著作には,しばしば修辞的な,演説的な用語がある.『キリストにならう』の作者のほうには,決して講壇のジェスチュアがなく,ただ真理の力をもって人の心をひく,えもいわれぬ謙遜な言葉が,担々と語られている.
当時は,わけても神秘文学の分野において,修道者たちの文体は一般に似通っていた.従って,文体からだけ見た内的批判だけでもって,決定的な結論を出すわけにはいかないのである.しかし,『キリストにならう』の単純素朴な文章は、一種の神感を受けたもののようであり,もっぱら修辞を避けて,ごく自然な調子であり,さながら作者の前でその話を聞いている感がする.この作者は,長い修道生活から教えられたにしても,無限の生命の河から水を汲むべく,主の御心の上に休んだ聖ヨハネのように,神の霊に導かれていたのであろう.
『キリストにならう』は,ミシェレによると,「完全な円熟の境地から生まれたもの」のようであるが,この著作のできたのが西暦一四一五年から一四二七年までの間のことであるから,ケンピス(一三七九 - 一四七一年)はまだ比較的若く,彼の他の小冊のほうが,その円熟時代の作になる.他の小冊が『キリストにならう』と比較されるとき,はるかに劣るものであることは明白であるから,(ケンピスを作者だとすれば)円熟時代の修徳的体験が若年の著作よりも劣るというのは,不審なことだと言わざるを得ない.
『キリストにならう』に,独特のドイツ語的表現があると称する学者もいるが,これに対してジェルセニウス党の人々は,イタリア語独特のいい回しが,それ以上にあると反駁(はんばく)している.
要するに,依然として,いずれかを断定し得ない状態にある.その断定は専門の学者に任せることにするが,この問題は作者の問題から国と国との複雑な問題に移行したのであって,個人の好悪や主観的な要素が非常に深く入りこんできた感がする.
研究と論戦との三世紀も,『キリストにならう』をとりかこむ霧をすっかり散らしていないという悲しむべき結論に至るのであるが,しかしデ・サシは,「神がこの本の作者の名を覆って謙遜を喜び給うた」と語り,ヴォルテールは,《世界に役立つこういう著作を「だれそれのもの」として名指す必要がどこにあろう》と言った.
これほど崇高な本が,一人の名に限られることなく,長きにわたる時代の敬虔の象徴として,人類の観想と修徳の花として,自由に,無名のまま輝きわたっていることについては,きっと何かの理由があることであろう.この本が,一つの国,一つの民に束縛されていないということにも,何かの深い意義があるであろう.
この本こそは,キリストの旗をかかげるすべての国とすべての民の霊的な糧(かて)である.神の父性を礼拝し,観想を重んじた霊魂から生まれたがために,作者は不詳であり,すべての信徒を天へ導く目的であるがために,地上の国をもっていない本だと言うにつきるのである.
この邦訳はおおむね,ポールがブリュッセルの王室の図書館写本にもとついて出版した,批判テキスト(フライブルク,一九四〇年)によった.
一九五三年四月十五日 フェデリコ・バルバロ 神父
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② 第5パラグラフの訳注:
「シスター・ルシア」 "Sister Lucy of Fatima" について.
"Irmã Lúcia de Fátima" (ポルトガル語)
ファティマ(ポルトガル)の修道女.
ファティマはポルトガルの聖地で,中部サンタレン県北西部レイリアの南東約20kmにある村.
1917年5月13日に聖母マリア "Nossa Senhora do Rosário de Fátima" が地元の3人の牧童に出現された.
3人の名前はそれぞれ,ルシア・ドス・サントス (当時,10才)と,その従兄妹(いとこ)フランシスコ・マルト(同,9才)およびジャシンタ・マルト(同,7才)の兄妹("Lúcia de Jesus dos Santos, Francisco Marto e Jacinta Marto).
うちルシアは修道女となり97才まで生きたが(1907年3月22日-2005年2月13日),あとの2人は聖母ご出現から2,3年後に,聖母の預言どおり相次いで病死した.
ファティマはそれから有名になり,1928年に建築が開始された壮麗なバジリカ(大聖堂)と,その側に建てられた複数の黙想のための家や病院に,毎年多数の巡礼者が訪れる.大聖堂の正面には広場があり,これまでに多くの奇跡的な病気の治癒が報告されている.
* * *
③ 第6パラグラフの先の訳注:
旧約聖書・エゼキエルの書:第3章17-21節について
A/ 旧約聖書:預言者エゼキエルの書:第3章17-21節(太字)(第3章全章を掲載)
B/ PROPHETIA EZECHIELIS III, 17-21 (16-21)
C/ THE PROPHECY OF EZECHIEL III, 17-21 (16-21)
EZECHIEL, whose name signifies the STRENGTH OF GOD; was of the priestly race; and of the number of the captives that were carried away to Babylon with king JOACHIN. He was contemporary with JEREMIAS, and prophesied to the same effect in Babylon, as JEREMIAS did in Jerusalem; and is said to have ended his days in like manner, by martyrdom.
D/ 「エゼキエルの書解説」(用語集に掲載)
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A/ 日本語
エゼキエルの書・第3章1-27節
巻物の幻(2章1節から)
1 主は私に仰せられた,「人の子よ,与えられるものを食べよ,この巻物を食べ,イスラエル人に話しに行け」と.
2 私が口を開くと,巻物を食べさせ,
3 *そして仰せられた,「人の子よ,私の与えるこの巻物で腹を養い,はらわたを満たせ」.私はそれを食べた.口の中は蜜のように甘くなった.
4 それから,私に仰せられた,「人の子よ,イスラエル人のもとに行き,私のことばで彼らに語れ,
5 *おまえは不明なことばと難解な話をする民におくられるのではなく,イスラエルの民に向けられる.
6 意味のわからぬ不明なことば,難解な話をする異国の民におくられるのではない.もしそういう民におくったら,彼らはおまえの言うことを聞くだろう.
7 だが,イスラエルは耳をかさない.彼らは私の言うことを聞くのを好まない.イスラエルの家はみな,*恥知らずで心の固いものである.
8 だが私は,おまえの顔を彼らの顔のように固くし,その額を彼らのように固くする.
9 私はその額をダイヤモンドのように,岩よりも固くした.彼らを恐れることはなく,がっかりすることはない.彼らは反逆の民なのだ」.
10 また,私に仰せられた,「人の子よ,私の言うすべてのことばを注意をこめて聞き,心に納めよ.
11 そして,*おまえの民の流され人のところに行って話せ.彼らに向かって,彼らが聞く聞かぬにかかわらず,主はこう仰せられると語れ」.
12 それから,霊が私をそこから持ちあげた.私はうしろで大きなとどろきを聞いた.そのとき,主の栄光はそこから立ちのぼった.
13 大きなとどろきは,互いにすれ合う生き物たちの,翼の音と輪の音が重なったものだった.
14 *霊はそこから私を持ちあげ,運び去った.私の心は激しく興奮していた.私は悲しく立ち去ったが,そのとき主の御手は,私の上に強くおかれていた.
15こうして,彼らの住んでいるところ,ケバル川に沿う流され人のところ,*テル・アビブに行って,七日間呆然(ぼうぜん)としてとどまった.
イスラエルを守るもの
16 七日過ぎて,主のみことばは私に下った,
17「*人の子よ,私はおまえをイスラエルの家の*見張り人にした.私の口のことばを聞くとき,私の名で彼らを戒めるためである.
18 私が悪人に,〈おまえはきっと死ぬ〉というとき,おまえが,彼が生き長らえるように戒めず,その悪い道を離れさすように話さなかったら,彼はその罪のために死ぬが、私は彼の血の責任をおまえに負わせる.
19 だが悪人を戒めても,彼がその悪と不正な道を改めないなら,彼はその罪のために死んでも,おまえは自分を救うことになる.
20 正しい人が不正を行おうとして正しい道をそれるなら,私は*さまざまな妨げをおき,そして彼は死ぬ.おまえがもし,彼を戒めなかったら,その罪のために死んだ彼の行った正しい行為は忘れられ,その血の責任はおまえに要求される.
21 だが,もし正しい人が罪を犯さぬように戒めたために罪を犯さないなら,彼は戒めを聞いて生き長らえ,おまえは自分の命を救ったことになる」.
エゼキエルは唖(おし)になる
22 ここでまた,主の御手は私の上に下った,「立って平原に行き,そこで語ろう」.
23 私は立って平原にいった.するとケバル川のほとりで見たように主の栄光が現れ,私は地にひれ伏した。
24 だが、霊が私に入って立ちあがらせた.そのとき主は,私に話しかけられた,「いって,自分の家に閉じこもれ.
25 人の子よ,見よ,おまえに*なわがかかり,縛(しば)られるから,彼らのところには行けない.
26 また,おまえの舌が上あごにつくようにしよう.そうすれば*唖(おし)になり,彼らを戒めることもできない.彼らは反逆の民なのだ.
27 だが,私が話すとき,おまえは口を開けて言え,〈主は仰せられる,望む者は聞き,望まぬ者は聞くな.実に,彼らは反逆の民である〉」.
(注釈)
巻物の幻(2・1-3・15)
3 巻物は,神のみことばのかたどりである.預言者はみことばを心に刻(きざ)み,燃える火のような心で人にも伝えねばならない.セラフィム〈熾(し=燃える)天使〉は,イザヤの口に触れ(〈旧約〉イザヤの書6・5-7),主ご自身は,エレミアの口に触れられ,そこにみことばをおかれた(エレミアの書1・9).エゼキエルは,その考え方をいっそう現実的な表現で書き記している.
5 まことの神の示しをうけたイスラエル人は,神のみことばを聞くについて,もっともよい状態をもっているはずだった.しかし彼らは聞こうとしない.
7 原文は「額の固いもの」.
11 神は,ユダヤ人の不正を思い,「ご自分の民」とは呼ばれない.
14 ハバクク(ダニエルの書14章)の場合のように,奇跡的に運び去られたと考える必要はない.
15「テル・アビブ」は「麦の穂の丘」という意味で,ここはエゼキエルの活躍の中心地となった.
イスラエルを守るもの(3・16-21)
17-21節 33章1-9節で,これと同じテーマがもっとくわしく扱われている.
*イザヤの書52・8,56・10,エレミアの書6・17,エゼキエルの書33・2,6・7参照.
20 災いや病気などを指しているらしい.
エゼキエルは唖(おし)になる(3・22-27)
25 象徴的ななわのことらしく,「人の中に出るな」と預言者に命じられる主の御意志を表している.
26 ある時まで人々に話すなという主の命令である.しかしこれについてほかの解釈がある.
* * *
B/ LATINE
EZECHIEL III, 16-21
16 Cum autem pertransissent septem dies, factum est verbum Domini ad me, dicens:
17 Fili hominis speculatorem dedi te domui Israel: et audies de ore meo verbum, et annunciabis eis ex me.
18 Si dicente me ad impium: Morte morieris: non annunciaveris ei, neque locutus fueris ut avertatur a via sua impia, et vivat: ipse impius in iniquitate sua morietur, sanguinem autem eius de manu tua requiram.
19 Si autem tu annunciaveris impio, et ille non fuerit conversus ab impietate sua, et a via sua impia: ipse quidem in iniquitate sua morietur, tu autem animam tuam liberasti.
20 Sed et si conversus iustus a iustitia sua fuerit, et fecerit iniquitatem: ponam offendiculum coram eo, ipse morietur, quia non annunciasti ei: in peccato suo morietur, et non erunt in memoria iustitiæ eius, quas fecit: sanguinem vero eius de manu tua requiram.
21 Si autem tu annunciaveris iusto ut non peccet iustus, et ille non peccaverit: vivens vivet, quia annunciasti ei, et tu animam tuam liberasti.
* * *
C/ ENGLISH
EZECHIEL, 3:16-21
The prophet eats the book, and receives further instructions: the office of a watchman.
16 And at the end of seven days the word of the Lord came to me, saying:
17 Son of man, I have made thee a watchman to the house of Israel: and thou shalt hear the word out of my mouth, and shalt tell it them from me.
18 If, when I say to the wicked, Thou shalt surely die: thou declare it not to him, nor speak to him, that he may be converted from his wicked way, and live: the same wicked man shall die in his iniquity, but I will require his blood at thy hand.
19 But if thou give warning to the wicked, and he be not converted from his wickedness, and from his evil way: he indeed shall die in his iniquity, but thou hast delivered thy soul.
20 Moreover if the just man shall turn away from his justice, and shall commit iniquity: I will lay a stumblingblock before him, he shall die, because thou hast not given him warning: he shall die in his sin, and his justices which he hath done, shall not be remembered: but I will require his blood at thy hand.
21 But if thou warn the just man, that the just may not sin, and he doth not sin: living he shall live, because thou hast warned him, and thou hast delivered thy soul.
* * *
訳注をさらに追加いたします.
* * *
2012年2月3日金曜日
237 元気がでる話 (1/28)
エレイソン・コメンツ 第237回 (2012年1月28日)
司教閣下,なにかもっと元気の出るようなお話をお聞かせください!
神は存在します.神は全知,全能であり,つねに正しくその慈悲(じひ)は無限です( “God exists. He is all-powerful, all-knowing, all-just, but his mercy is also boundless.” ).神は世界で起きていること全てを完全に掌握(しょうあく)されています( “He is in perfect control of all that is happening in the world.” ).悪魔や世界を動かしている犯罪者を含む悪魔に仕える人間どもは神のお許し( “his permission” )がなければ何一つできません.神は彼らの邪(よこしま)な企(たくら)みについてなにからなにまでご存知で,そのひとつひとつを使って神業(かみわざ)を成し遂げられます( “He knows every detail of their diabolical plans and is using every single one of them to fulfil his own Providential design.” ).
そうだとすれば,神はどうして私たちの世界にこれほど多く悪がはびこるのをお許しになられるのでしょうか?
それは,神が決して悪そのものをお望みになることはなくても,悪を許そう(訳注・=悪の所為(しょい)をそのままさせておこう)と望まれるからです.神は悪の中からより大きな善を導(みちび)き出そうとされます “…while he never wants evil, he wants to allow it, so as to bring out of it a greater good.” (訳注後記).(訳注・神からの預言者たちによって告げられた)多くの預言が今日の世界的な堕落(だらく)のなかから明日はカトリック教会の大勝利が訪(おとず)れると示唆(しさ)しています.たとえばファティマの聖母(マリア) “Our Lady of Fatima” が言われた「最後は私の汚(けが)れなき心が勝つでしょう」とのおことばに示されているようにです.ちょうどいま世の中で起きていることは,私たちの主(訳注・=神またはイエズス・キリスト)が敵を用いて御自分の教会( “his Church” =カトリック教会.以下同じ.)を浄化しようとしているのです.(訳注後記)
私たちは今日,信じられないほどの堕落を目にしているわけですが,神は御自分の教会を浄化するのにこれほど不快でない方法を選べないのでしょうか?
その選択を神だけに委(ゆだ)ねうるとすれば,神は御自分の教会を浄化するため間違いなく別の方法を選ばれるでしょう.だが,もしあなたや私が神のお知りになっていることを全て知っているとしたら —これは愚(おろ)かな考えですが!— そしてとりわけあなたや私が,神がお望みのように,神があらゆる人間に与えた自由意思 “free-will” を尊重しようと望むとすれば,神がお選びになっている方法があらゆる事を為(な)すにあたり最良の方法だと分かるのではないかと思います.
そのことに人間の自由意思はどうかかわってくるのでしょうか?
神はロボットや道理の分からない動物と自らの至福(しふく=天上の〈無上の〉喜び)を分かち合おうとお望みではありません.そうである以上はたとえ神と言えどもそれ相応(そうおう)のことを何もしない諸被造物(訳注・ “his creatures” =神が創造された万物.特に神の似姿に創造された人間をここでは指す)に幸福を与えることはできないのです.なぜなら,そうすることは矛盾(むじゅん)するからで,神の御力(みちから)が及ぶのは存在するものだけに対してであり,矛盾のように非存在なものに対してではないからです.だが,少しでも神の至福を受けるに値(あたい)する人間に対しては神は自由意思をお与えになるに違いありません.そして,それが本当に自由意思なら,神がお望みのことと正反対のことを選ぶことがあるに違いありません.そしてもしその自由意思が実際に悪を選び得るなら,その時には悪が起きるでしょう.しばしばあることです.
しかし,司教閣下は,真の教会(訳注・ “true Church” =カトリック教会〈公教会〉を指す)は私たちの主の教えに従って,天国への道は狭(せま)く,それを見出すものはごくわずかである(マテオ聖福音書・第7章14節)と教えると,おっしゃいます.神は少数しか天国へたどり着けないのに,たとえば今日のように,多数の人間をお造りなる価値をお認めになっているのでしょうか? 多数が地獄の恐怖に落ち込むのは少数が天国へたどり着くための代償としてはあまりにも高すぎるということにならないのはどうしてなのでしょうか?
なぜなら神の御業(みわざ)は数の多さではなく質の良し悪(あ)しだからです(訳注・神は数量ではなく質において働(はたら)かれる.原文= “Because God works in quality, not in quantity.” ).わずか10人の人々が神のお怒りからソドマ( “Sodom” )の街全体を救い得たという事実は(創世の書・第18章32節),神の愛に応(こた)えるただ一人の人間の霊魂が,自らの自由選択で( “by their own free choice“ )神の愛を望まない多数の人間よりも,神にとってはどれほど貴重なものかを示す証(あかし)です(訳注・補足説明:神を愛するただ一人の霊魂は,神が滅ぼそうとする大多数の悪人たちに対する神の怒りの懲罰感情をはるかに超えて,神にとって尊〈とうと〉く貴重な存在である.そのただ一人の善良な霊魂ゆえに,神はその一人以外の悪全体を滅ぼし尽すことを思いとどまられる.)(訳注後記).私たちの主イエズス・キリストはかつて「あなた一人だけのためにも私は受難の犠牲全体をいとわずに最後まで欠けるところなく完全に果たしたでしょう( “I would have gone through the whole Passion just for you,” )」と一人の霊魂に告げました.主は同じことをどの人間の霊魂に対しても言われるでしょう.
司教閣下は,世界が私に不安と苦しみをもたらすときでも,もし私がただ神から離れることなくますます神にピッタリと(=密接に)寄り添うならば,私と私の周(まわ)りの人々のために,神はそのことをすべてご覧になり分かってくださる(=配慮してくださる)とおっしゃるのでしょうか? 世界がもっと悪くなるよう願いたい気持ちです!
そうです.私の考えが分かってきたようですね!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの最初の訳注:
旧約聖書・格言の書:第16章1-9節 .4節参照(太字部分).
THE BOOK OF PROVERBS XVI, 1-9, for reference.
『心ではかるのは人間で,
決定するのは神である.
It is the part of man to prepare the soul:
and of the Lord to govern the tongue.
人の目には,自分の道がみな清く見えるが,
心の値打(ねうち)をはかるのは神である.
All the ways of a man are open to his eyes:
the Lord is the weigher of spirits.
自分の仕事を神にゆだねれば,
あなたの計画は成功するだろう.
Lay open thy works to the Lord:
and thy thoughts shall be directed.
*¹神はあらゆるものに目的をもたせる,
悪人さえも,災(わざわ)いの日のためにつくられた.
The Lord hath made all things for himself:
the wicked also for the evil day.
神はおごる心を憎み,
いずれ,罰を下されるだろう.
Every proud man is an abomination to the Lord:
though hand should be joined to hand, he is not innocent.
The beginning of a good way is to do justice;
and this is more acceptable with God, than to offer sacrifices.
慈悲(じひ)と善意によって罪を償(つぐな)い,
神を恐れることによって悪を避ける.
By mercy and truth iniquity is redeemed:
and by the fear of the Lord men depart from evil.
神がある人の行いを喜ばれるとき,
その人の敵とも和解させられる.
When the ways of man shall please the Lord,
he will convert even his enemies to peace.
正しい方法で得たわずかなものは,
不正な方法で得た多くのものにまさる.
Better is a little with justice,
than great revenues with iniquity.
自分の道を選ぶのは人の心で,
その足を指導するのは神である.
The heart of man disposeth his way:
but the Lord must direct his steps. 』
(注釈)
神のはからい(16・1-9)
*¹ 悪人も,いつか神のはからいを表すことだろう.「災いの日」とは,悪人が罰を受ける日.
* * *
第2パラグラフの2つ目の訳注:
「神の教会」・「真の教会」・ “the true Church” とは:
・「カトリック教会〈公教会〉」 “the Catholic Church” を指す.
・→ “The Four Marks of the Church” … one, holy, catholic and apostolic
(唯一の,聖なる,普遍(公)の,使徒継承の)
* * *
第5パラグラフの訳注:
旧約聖書・創世の書・第18章32節(太字部分)(18章を掲載)
THE BOOK OF GENESIS XVIII, 32. (CHAPTER 18)
創世の書・第18章は後から追加いたします.
* * *
司教閣下,なにかもっと元気の出るようなお話をお聞かせください!
神は存在します.神は全知,全能であり,つねに正しくその慈悲(じひ)は無限です( “God exists. He is all-powerful, all-knowing, all-just, but his mercy is also boundless.” ).神は世界で起きていること全てを完全に掌握(しょうあく)されています( “He is in perfect control of all that is happening in the world.” ).悪魔や世界を動かしている犯罪者を含む悪魔に仕える人間どもは神のお許し( “his permission” )がなければ何一つできません.神は彼らの邪(よこしま)な企(たくら)みについてなにからなにまでご存知で,そのひとつひとつを使って神業(かみわざ)を成し遂げられます( “He knows every detail of their diabolical plans and is using every single one of them to fulfil his own Providential design.” ).
そうだとすれば,神はどうして私たちの世界にこれほど多く悪がはびこるのをお許しになられるのでしょうか?
それは,神が決して悪そのものをお望みになることはなくても,悪を許そう(訳注・=悪の所為(しょい)をそのままさせておこう)と望まれるからです.神は悪の中からより大きな善を導(みちび)き出そうとされます “…while he never wants evil, he wants to allow it, so as to bring out of it a greater good.” (訳注後記).(訳注・神からの預言者たちによって告げられた)多くの預言が今日の世界的な堕落(だらく)のなかから明日はカトリック教会の大勝利が訪(おとず)れると示唆(しさ)しています.たとえばファティマの聖母(マリア) “Our Lady of Fatima” が言われた「最後は私の汚(けが)れなき心が勝つでしょう」とのおことばに示されているようにです.ちょうどいま世の中で起きていることは,私たちの主(訳注・=神またはイエズス・キリスト)が敵を用いて御自分の教会( “his Church” =カトリック教会.以下同じ.)を浄化しようとしているのです.(訳注後記)
私たちは今日,信じられないほどの堕落を目にしているわけですが,神は御自分の教会を浄化するのにこれほど不快でない方法を選べないのでしょうか?
その選択を神だけに委(ゆだ)ねうるとすれば,神は御自分の教会を浄化するため間違いなく別の方法を選ばれるでしょう.だが,もしあなたや私が神のお知りになっていることを全て知っているとしたら —これは愚(おろ)かな考えですが!— そしてとりわけあなたや私が,神がお望みのように,神があらゆる人間に与えた自由意思 “free-will” を尊重しようと望むとすれば,神がお選びになっている方法があらゆる事を為(な)すにあたり最良の方法だと分かるのではないかと思います.
そのことに人間の自由意思はどうかかわってくるのでしょうか?
神はロボットや道理の分からない動物と自らの至福(しふく=天上の〈無上の〉喜び)を分かち合おうとお望みではありません.そうである以上はたとえ神と言えどもそれ相応(そうおう)のことを何もしない諸被造物(訳注・ “his creatures” =神が創造された万物.特に神の似姿に創造された人間をここでは指す)に幸福を与えることはできないのです.なぜなら,そうすることは矛盾(むじゅん)するからで,神の御力(みちから)が及ぶのは存在するものだけに対してであり,矛盾のように非存在なものに対してではないからです.だが,少しでも神の至福を受けるに値(あたい)する人間に対しては神は自由意思をお与えになるに違いありません.そして,それが本当に自由意思なら,神がお望みのことと正反対のことを選ぶことがあるに違いありません.そしてもしその自由意思が実際に悪を選び得るなら,その時には悪が起きるでしょう.しばしばあることです.
しかし,司教閣下は,真の教会(訳注・ “true Church” =カトリック教会〈公教会〉を指す)は私たちの主の教えに従って,天国への道は狭(せま)く,それを見出すものはごくわずかである(マテオ聖福音書・第7章14節)と教えると,おっしゃいます.神は少数しか天国へたどり着けないのに,たとえば今日のように,多数の人間をお造りなる価値をお認めになっているのでしょうか? 多数が地獄の恐怖に落ち込むのは少数が天国へたどり着くための代償としてはあまりにも高すぎるということにならないのはどうしてなのでしょうか?
なぜなら神の御業(みわざ)は数の多さではなく質の良し悪(あ)しだからです(訳注・神は数量ではなく質において働(はたら)かれる.原文= “Because God works in quality, not in quantity.” ).わずか10人の人々が神のお怒りからソドマ( “Sodom” )の街全体を救い得たという事実は(創世の書・第18章32節),神の愛に応(こた)えるただ一人の人間の霊魂が,自らの自由選択で( “by their own free choice“ )神の愛を望まない多数の人間よりも,神にとってはどれほど貴重なものかを示す証(あかし)です(訳注・補足説明:神を愛するただ一人の霊魂は,神が滅ぼそうとする大多数の悪人たちに対する神の怒りの懲罰感情をはるかに超えて,神にとって尊〈とうと〉く貴重な存在である.そのただ一人の善良な霊魂ゆえに,神はその一人以外の悪全体を滅ぼし尽すことを思いとどまられる.)(訳注後記).私たちの主イエズス・キリストはかつて「あなた一人だけのためにも私は受難の犠牲全体をいとわずに最後まで欠けるところなく完全に果たしたでしょう( “I would have gone through the whole Passion just for you,” )」と一人の霊魂に告げました.主は同じことをどの人間の霊魂に対しても言われるでしょう.
司教閣下は,世界が私に不安と苦しみをもたらすときでも,もし私がただ神から離れることなくますます神にピッタリと(=密接に)寄り添うならば,私と私の周(まわ)りの人々のために,神はそのことをすべてご覧になり分かってくださる(=配慮してくださる)とおっしゃるのでしょうか? 世界がもっと悪くなるよう願いたい気持ちです!
そうです.私の考えが分かってきたようですね!
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
* * *
第2パラグラフの最初の訳注:
旧約聖書・格言の書:第16章1-9節 .4節参照(太字部分).
THE BOOK OF PROVERBS XVI, 1-9, for reference.
『心ではかるのは人間で,
決定するのは神である.
It is the part of man to prepare the soul:
and of the Lord to govern the tongue.
人の目には,自分の道がみな清く見えるが,
心の値打(ねうち)をはかるのは神である.
All the ways of a man are open to his eyes:
the Lord is the weigher of spirits.
自分の仕事を神にゆだねれば,
あなたの計画は成功するだろう.
Lay open thy works to the Lord:
and thy thoughts shall be directed.
*¹神はあらゆるものに目的をもたせる,
悪人さえも,災(わざわ)いの日のためにつくられた.
The Lord hath made all things for himself:
the wicked also for the evil day.
神はおごる心を憎み,
いずれ,罰を下されるだろう.
Every proud man is an abomination to the Lord:
though hand should be joined to hand, he is not innocent.
The beginning of a good way is to do justice;
and this is more acceptable with God, than to offer sacrifices.
慈悲(じひ)と善意によって罪を償(つぐな)い,
神を恐れることによって悪を避ける.
By mercy and truth iniquity is redeemed:
and by the fear of the Lord men depart from evil.
神がある人の行いを喜ばれるとき,
その人の敵とも和解させられる.
When the ways of man shall please the Lord,
he will convert even his enemies to peace.
正しい方法で得たわずかなものは,
不正な方法で得た多くのものにまさる.
Better is a little with justice,
than great revenues with iniquity.
自分の道を選ぶのは人の心で,
その足を指導するのは神である.
The heart of man disposeth his way:
but the Lord must direct his steps. 』
(注釈)
神のはからい(16・1-9)
*¹ 悪人も,いつか神のはからいを表すことだろう.「災いの日」とは,悪人が罰を受ける日.
* * *
第2パラグラフの2つ目の訳注:
「神の教会」・「真の教会」・ “the true Church” とは:
・「カトリック教会〈公教会〉」 “the Catholic Church” を指す.
・→ “The Four Marks of the Church” … one, holy, catholic and apostolic
(唯一の,聖なる,普遍(公)の,使徒継承の)
* * *
第5パラグラフの訳注:
旧約聖書・創世の書・第18章32節(太字部分)(18章を掲載)
THE BOOK OF GENESIS XVIII, 32. (CHAPTER 18)
創世の書・第18章は後から追加いたします.
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