ラベル カトリック司教 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル カトリック司教 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年3月11日土曜日

504 4人目の司教 3/11

エレイソン・コメンツ 第504回 (2017年3月11日) 

信徒たちが天国へたどり着こうと頑張るところに
  司教が居なければなりません. 
5月11日,アメリカ・バージニア州ビエナに
  目を向けてみてください!(訳注後記 1)
Bishops there must be, where souls strive for Heaven. 
Try Vienna in Virginia, May eleven ! 

聖ピオ十世会( "SSPX" )が正式に方向を変えて,40年前にルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )が打ち出した教理第一の立場を捨て去ってしまった2012年夏以来,神意が教会擁護のためどう動かれるかが興味の的でした.人々は神の真実を守るため幅広い反乱が起きるだろうと期待したのではないでしょうか? SSPX 内部から抵抗が生まれるのではないかと….確かに抵抗が起きました.だが,少なくともいままでのところ,その抵抗はほとんど沈黙したままです. SSPX 外部で抵抗が起きるだろうとの期待もあったでしょう.確かに起きました.だが,ほんの少数の平信徒や神父たちが現れただけです.彼らは認められた権威がない中で,ばらばらに分裂したままです.カトリック信徒たちには権威が必要です.そして,その必要性は極めて強いため,信徒たちは依然として権威に固執します.それは.たとえ人間中心の新教会( "the man-centered Newchurch" )やローマ中心の新協会( "the Rome-centered Newsociety" = 訳注:SSPX )から真実が漏れ出るとはいっても,信徒たちは前者に教皇の権威の名残(なごり)を,後者にはルフェーブル大司教が与えられたカトリック教の権威の名残を求めるからです.
Ever since the summer of 2012 when the Society of St Pius X decided officially to change course and abandon the doctrine-first stand taken 40 years previously by Archbishop Lefebvre, it has been interesting to watch Providence in action to ensure the Church's defence. One might have expected a widespread uprising in defence of God's Truth. Resistance from inside the Society ? Existent, but at least up till now, largely silent. And from outside ? Existent, but only a scattering of layfolk and a handful of priests, riven by divisions for lack of a recognised authority. Catholics need authority. And that need is so great that even while Truth is draining out of the man-centred Newchurch and the Rome-centred Newsociety, still souls cling to each because of the remains of Papal authority in the former, and of Catholic authority bequeathed to the latter by the Archbishop. 

だが,真実は権威が目指すものであることに変わりはなく,権威が真実のためにあるわけではありません,哀れな人間の性(さが)を考えれば,権威は真実を守り,保証するため欠かせないものです.だが,権威は真実の後にくるものであり,先に来るものではありません.私たちの主がペトロに教会の統治を任せる前に与えた最後の教えのひとつを例として考えてみてください.「シモン(=ペトロ)よシモンよ,悪魔が汝ら(の霊魂/心)(複数)を落としたいと望んだことに注意しなさい.悪魔は汝らを小麦のように篩(ふるい)にかけるかもしれない.だが,私は汝(単数)が汝の信仰(真実)を捨て去らないよう祈っている.そして,汝は,ひとたび(真実に)改心させられたなら,汝の同胞たちを授堅しなさい(権威)(新約聖書・聖ルカ聖福音書:第22章31-32節 "Lk.XXII, 31-32" )(訳注後記 2 ).そして,枝の主日( "Palm Sunday" )の数日前,弟子たちが喜びの声をあげて騒ぎ立てていると,パリサイ派の者たちが私たちの主を叱責しようとしました.だが,神の真実への敬慕(=熱愛・崇拝・崇敬)がとても必要だったので,私たちの主はお答えになりました(聖ルカ聖福音書:第19章40節 "Lk. XIX, 40" ).『「あなたたちに告げる.もし弟子たちの安らぎが押さえつけられるなら,石たちが叫ぶだろう」と.』(訳注後記 3 ) 
But Truth remains the purpose of Authority and Authority is not the purpose of Truth. Given poor old human nature, Authority is the indispensable defender and guarantee of Truth, but it comes after Truth and not before. Take for example one of Our Lord's last instructions to Peter before He will leave Peter behind to govern the Church (Lk.XXII, 31-32) : “Simon, Simon, behold Satan hath desired to have you (plural), that he may sift you as wheat. But I have prayed for thee (singular) that thy faith fail not (Truth); and thou, being once converted (Truth), confirm thy brethren (Authority).” And when on Palm Sunday a few days beforehand the Pharisees had attempted to rebuke Our Lord for the joyful noise being made by His disciples, so necessary is the adoration of God in Truth that Our Lord replied (Lk.XIX, 40) : “I say to you that if these shall hold their peace, the stones will cry out.”

今日の新教会では,権威は教会のエンジンの中に公会議派の誤りとカトリック教の真実を混ぜ合わせています.これは自動車のエンジン内部でガソリンと水を混ぜ合せるようなものです.自動車も教会も機能不能に陥ります.ルフェーブル大司教はこうした機能不全の一部でなくすべてを防ぐため,神の真実を擁護するカトリック教の権威を保つ目的で四名の司教を任命しました.ところが,かつては大司教が率いた SSPX のトップに立つ彼の後継者たちは全力を挙げて,彼が目指した真実の擁護を機能不全状態のローマ教皇庁の手に委ねようとしています!もし,彼ら後継者たちが,かつては「公式教会の内部に」に身を置いていたのだから,ネオモダニストたちを改心させる立場にいるのだと真剣に考えるなら,その考えは甘すぎます.彼らはすでに第二バチカン公会議に対する攻撃を抑えています.彼らはいつ攻撃を再開しようと考えているのでしょうか?
 In today's Newchurch, Authority is mixing Conciliar error with Catholic Truth in the engine of the Church, which is like mixing water with gasoline (petrol) in the engine of a motor car – the car is crippled, the Church is crippled. And whereas Archbishop Lefebvre defied that crippling, not least of all but rather above all, by his consecrating of four bishops to maintain a Catholic authority that would protect God's Truth, his successors at the head of what was once his Society are doing their utmost to submit his protection of Truth to the crippled and crippling Authority of Rome ! If these successors seriously think that once they are “inside the official Church” they will be in a position to convert the neo-modernists, they are excessively naive. Already they are holding their fire on Vatican II. Just when do they imagine they will be able to open fire again ? 

このような極めて例外的な状況下では,真実を語る私たちの主の弟子たちがそこに共に居らなければ――石たちの努力を救うために!( "In these quite exceptional circumstances, there must be disciples of Our Lord who tell the Truth – so as to spare the stones the effort ! " )弟子たちは真実の権威のもとに置かれているときのようにまとまって動かないかもしれません(つねに人間の弱さに甘えてしまうでしょう).彼らは「困窮させられ,降格させられ」,「苦難と迫害」に晒(さら)されるかもしれません(使徒聖パウロのコリントの信徒への第二の書簡〈=後書〉:第4章8-9節 "II Cor. IV, 8-9" を参照)(訳注後記 4 ).だが,真実が囚われの身でいる限り,彼らは持ちこたえて,そこに留(止)(とど)まらなければなりません.その時間は長く続くでしょうか?それは神のみがご存知です.私たちの多くは神がもっと早く介入してくださると期待していました.だが,神がお持ちの導火線はとても長いのです.それでも,神は救われるべきものある限り,間違いなく介入されるでしょう.じっと忍耐することです.
In these quite exceptional circumstances, there must be disciples of Our Lord who tell the Truth – so as to spare the stones the effort ! These disciples may not be united as they would be beneath true Authority (always allowing for human weakness). They may be “straitened and cast down”, they may suffer “tribulation and persecution” (cf. II Cor. IV, 8-9), but they must be there for as long as Truth is held in captivity. Will that be a long time ? God knows. Many of us expected Him to intervene long ago, but God has a very long fuse. However, intervene He will, if anything at all is still to be saved. Patience. 

一方で,私たちの主の弟子たちは司教の教え(=教義)と堅振(=堅信)の秘蹟と聖職者の位階に秘められた真実が最小限続くようにするため,一握りの司教たちの手助けを必要とします.同じ理由でルフェーブル大司教は1988年に四名の司教を任命されました.ヨーロッパ担当の二名,北米,南米担当の各一名です.現在,「抵抗派」にはヨーロッパ担当の二名と南米担当の一名の司教がいますが,北米担当の一名は欠員のままです.神の思召し(おぼしめし)があれば,今年5月11日に合衆国バージニア州ビエナ "Vienna" (訳注後記 1)にあるロナルド・リングローズ神父( "Fr Ronald Ringrose" )の伝統派教区でヘラルド・センデハス神父( "Fr. Gerardo Zendejas" )が司教に任命されるでしょう.全能の神がこの儀式と当日の好天に祝福を与えてくださるようお祈りしてください!
Meanwhile these disciples need a handful of bishops to ensure a minimal continuation in Truth of episcopal teaching and of the sacraments of Confirmation and Holy Orders. In 1988 the Archbishop consecrated four of them for the same reason, two for Europe, and one each for North and South America. As of now the “Resistance” has two in Europe and one in South America. There remains a gap in North America. God willing, this coming May 11 Fr. Gerardo Zendejas will be consecrated bishop in the Traditional parish of Fr Ronald Ringrose in Vienna, Virginia, USA. Please pray for the blessing of Almighty God upon the ceremony – and for good weather !

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



* * *

訳注 1
アメリカ・バージニア州ビエナについて:

・「ビエナ」は英語の Vienna (「ヴィエナ」または「ヴィーナ」とも読む)の日本語表記.
・欧州オーストリア(墺太利)国の首都 Wien(ドイツ〈独逸〉語)由来の都市名.
・ドイツ語読みで「ヴィーン」と呼称.
・標準日本語では,表記・呼称とも「ウィーン」となる.

訳注 2 
新約聖書・聖ルカ聖福音書:第22章31-32節 "Lk.XXII, 31-32" (下線部分.第22章1節から掲載)

『1 さて,*過ぎ越しと言われている種なしパンの祭りの日は近づいた. 
2 司祭長と律法学士たちは,イエズスを亡き者にする方法を探していた.彼らは民衆を恐れていたからである. 
3 ところが,十二人の一人だったイスカリオトと呼ばれるユダにサタンが入ったので, 
4 ユダは司祭長たちと*番兵のかしらたちのところへ行って,イエズスを渡す方法について相談した. 
5 喜んだ彼らはユダに金をやろうと約束した. 
6 ユダは承知して,群衆が知らぬ間にイエズスを渡す好いおりをうかがっていた.  
7 *過ぎ越しのいけにえを供える種なしパンの日が来た. 
8 イエズスはペトロとヨハネを遣わすにあたり,「私たちの食事のために過ぎ越しの準備をしに行け」と言われた. 
9 彼らが,「どこに準備すればよろしいでしょうか」と聞いたので, 
10 イエズスは,「市中に入ると水がめを持っている人に出会うから,その人の入る家について行き, 
11 家の主人に,〈先生が,“弟子たちとともに過ぎ越しの食事をする部屋はどこか”と申されていました〉と言え. 
12 すると,主人は席を整えた二階の大広間を見せてくれるから,そこに準備せよ」と言われた. 
13 彼らが行ってみるとイエズスの言われたとおりだったので,過ぎ越しの準備をした.
14 時刻が来たので,イエズスは使徒たちとともに食卓に」つかれた. 
15 そして,「私は苦しみの前に,あなたたちとともにこの過ぎ越しの食事をしたいと切に望んでいた. 
16 私は言う.神の国でそれが完成するまで,私はもう*これを食べない」と言われた. 
17 *そして杯(さかずき)を取り,感謝して「これを取って互いに分けよ. 
18 私は言う.神の国が来るまで,これからのち,私はもうぶどうの実の汁を飲まぬ」と言われた. 
19 またパンを取り,感謝して裂き,弟子たちに与え,「これはあなたたちのために与えられる私の体である.私の記念としてこれを行え.」と言われた. 
20 食事ののち,杯も同じようにし,「この杯は,あなたたちのために流される私の血による新しい契約訳注「=新約」)である. 
21 私を裏切る者は,私とともに手を食卓においている. 
22 人の子は定められたとおりに去る.だがそれを裏切る者は災(わざわ)いである」と言われた. 
23 そんなことをするのは,われわれの中のだれだろうかと弟子たちは尋ね合っていた.
24 また,彼らの間で,だれがいちばん偉(えら)いのだろうかという*争いが起こった.
25 イエズスはこう言われた,「異邦人の国では王がその民を支配し,またその国々で権力を振るう人々は*恩人と言われるが, 
26 あなたたちはそうであってはならぬ.あなたたちの中でいちばん偉い者は年下のようになり,支配する者は給仕する者のようにならねばならぬ. 
27 食卓につく者と給仕する者とどちらが上だろうか.食卓につく者ではないか.私はあなたたちの間で給仕する者のようである. 
28 私の試みの間あなたたちは絶えず私とともにいたのであるから, 
29 父が私のために王国を備えられたように,私もまたあなたたちのために王国を備えよう. 
30 あなたたちは私の王国の食卓で飲食し,また王座についてイスラエルの十二族をさばくであろう. 
31 …シモン(=ペトロ),シモン,サタンはあなたたちを麦のようにふるいにかけることができたが, 
32 *私はあなたのために信仰がなくならぬようにと祈った.あなたは心を取りもどし,兄弟たちの心を固めよ」. 
33 シモンは,「主よ,私はあなたとともに牢獄(ろうごく)にも死にも行く覚悟です」と言ったが, 
34 イエズスは,「ペトロよ,私はあなたに言う.今日雄鶏(おんどり)が鳴くまでに,あなたは私を知らぬと三度否む(いなむ)だろう」と言われた.』…つづく) 

(注釈)

策略(さくりゃく)22・1-6 ) 
1 ヘブライ人がエジプトを逃げたとき,パンをふくらす暇さえもなかったので,その記念として過ぎ越しの祭りの八日間,パン種のないパンを食べる習慣となった. 
4 神殿を守る士官のこと.ユダヤ人でほとんどはレビ人だった. 

最後の晩餐(さいごのばんさん)と聖体(せいたい)22・7-23 ) 
7 種なしパンの第一日は,ニサン月の十五日で,その前夜,ユダヤ人は小羊をほふって食べた.しかし,種のあるパンは,十四日の昼までになくしてしまうはずなので,この日(十四日)を種なしパンの日と呼び慣れてきたのである. 
16 イエズスはもうこの世で過ぎ越しの祭りを行うことはない.イエズスの過ぎ越しの祭りは,み国の霊的生活の中心である聖体において行われる.そして完成するのは天の国においてである. 
17 この聖体制定の記述はパウロ(コリント人への第一の書簡〈=前書〉第11章 23-25 節)によく似ている. 

弟子たちへの戒め(いましめ)22 ・24-32 ) 
24 この争いは食卓につく前のことであるが,ルカはここで時間のことを問題にしていない. 
25 エジプトのプトレマイオ家の王らは,家臣から「恩人」と呼ばれた. 
32 カトリック神学は,ペトロの後継者(=ローマ教皇)の教導権(きょうどう けん)と不可謬性(ふかびゅう せい)を証明するために,このところも挙げる. 


* * *

訳注 3 
新約聖書・聖ルカ聖福音書:第19章40節 "Lk. XIX, 40" .
『「あなたたちに告げる.もし弟子たちの安らぎが押さえつけられるなら,石たちが叫ぶだろう」と.』について:

↓フェデリコ・バルバロ神父訳「聖ルカ聖福音書」より抜粋(40節は下線部分.第22章28-48節〈最後の節〉掲載)

『28 …こう言ってから,イエズスは先頭に立ってエルサレムに上り,
29 オリーブ山と呼ばれる山の方から*ベトファゲとベタニアに近づいたとき,*二人の弟子を遣わし,
30 「向こうの村に行け.そこに入ると,一度も人の乗ったことのないろばの子がつながれているのを見るだろう.それを解いて引いてきなさい.
31 だれかが〈なぜ解くのか〉と聞いたら,〈*主に入り用だ〉と答えよ」と言われた.
32 使者たちが行ってみると言われたとおりであった.
33 彼らがろばの子を解こうとすると,その持ち主が「なぜろばの子を解くのか」と聞いたので,
34 彼らは「主に入り用だ」と答え, 
35 それを連れてきて,その上に自分たちの服をかけイエズスを乗せた.

36 彼らが通っていくと,人々は道の上に自分たちの服を敷いた.
37 オリーブ山の下り道に近づくと,喜び勇んだ多くの弟子たちは,その見たすべての奇跡について声高く神を賛美しながら言いはじめた,

38 「*賛美されよ,主のみ名によって来られる御者,主よ.
天には平和,いと高き所に栄光」.

39 群集の中のあるファリサイ人は,「先生,弟子たちを叱ってください」と言ったが,
40 イエズスは,「私は言う.彼らが黙ったとしても石が叫ぶだろう」と答えられた

41 町に近づくと,それをながめて泣かれたイエズスは,
42「ああ,エルサレム,もしこの日に平和をもたらすはずのものを,*おまえが知っていたら…….だが,不幸にも,それはおまえの目に隠されている.
43 敵がまわりに塁を築き,取り囲み,四方から迫り,
44 *おまえとその内に住む人々を地に倒し,石の上に一つの石さえ残さぬ日が来る.それは,おまえが*訪れの時を知らなかったからである」と言われた.

45 それから,神殿に入られたイエズスは,商人をそこから追い出し,
46 「〈*私の家は祈りの家である〉と書かれているのに,おまえたちはそれを盗人(ぬすびと)の巣にした」と言われた.

47 こうしてイエズスは毎日神殿で教えられた.司祭長,律法学士,民衆のかしらたちは,イエズスを殺そうとねらっていたけれども,
48 人々がみなイエズスのことばに聞き入っていたので,どうしたらよかろうかと迷っていた.』

(注釈) 

第4部 イエズスの受難と死去19・28 -23・48 ) 
エルサレムに入る19・28-48 ) 
29 ベトファゲはオリーブ山の東麗,ベタニアの隣で,エルサレムから半時間ばかりの距離にある小村である. 
* 「二人の弟子」とはペトロとヨハネらしい( 22・8 ).過ぎ越しの準備のためにもこの二人は同様な使命を受ける. 
31 イエズスは自ら「主」と言われる.まもなく,イスラエルの王,主として,人々から迎えられるであろう. 
38 詩篇118・26 .異邦人のために福音を書いたルカは「ホサンナ」のことばを省いた.弟子たちは,イエズスがエルサレムに来るのを天において平和が定められた証拠としてとり,天に栄光と歌う. 
42 「弟子たちは同様に」という意味が含まれている. 
44 はたしてエルサレムはローマ軍に包囲され,破壊されるだろう. 
* 神の恵みを受けたことを「訪れ」と言う. 
46 旧約聖書・イザヤの書: 56・7 ,エレミアの書:7・11 参照.


*   *   *
訳注の追補を続けます.

*   *   *







* * *
本投稿記事・第504回エレイソン・コメンツ「4人目の司教」(2017年3月11日付)/ELEISON COMMENTS DIV (March 11, 2017) : "FOURTH BISHOP" は2017年4月8日22時35分に掲載されました.
* * *

2014年3月25日火曜日

348 抵抗方針 I 3/15

エレイソン・コメンツ 第348回 (2014年3月15日)

     今日,教会と世界(きょうかいと せかい)が破滅状態(はめつ じょうたい)にある中(なか)で,ほかの何(なに)にもまして,二つの主要な原則(ふたつの しゅような げんそく)が働(はたら)いています( "In today’s disastrous state of Church and world there are, amongst others, two central principles in play, …" ).ひとつは恒久的,根本的(こうきゅうてき・こんぽんてき)な原則であり,もうひとつは暫定的,副次的(ざんていてき・ふくじてき)な原則です( "… the one permanent and primary, the other temporary and secondary, …" ).だが,二つはともに中心的な働き(ちゅうしんてき な はたらき)をしています( "… but both are central." ).この二つの原則の相互作用(そうごさよう)が私たちの行動を導く(こうどうを みちびく)のに決定的(けっていてき)な働きをするはずです( "Their interplay should be decisive to guide our actions." ).

     恒久的な原則(こうきゅうてきな げんそく)とは「信仰(しんこう)がなければ神を喜ばす(かみを よろこばす)ことはできない」(新約聖書・使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第11章6節."Heb. XI, 6" )というものです( "The permanent principle is that “Without faith it is impossible to please God” (Heb. XI, 6)." ).なぜなら,人はすべて神から生(う)まれたのであり,死(し)にあたって神のもとへ行き,神の至福の姿(しふくの すがた)に接(せっ)することができるように使(つか)える自由意志(じゆう いし)を与(あた)えられているからです( "This is because all men come from God endowed with a free-will which they are meant so to use as to be able to go to God when they die, and enjoy the beatific vision of God for eternity." ).私たちが現世(げんせ)に存在(そんざい)するためにつけられたこの必須条件(ひっす じょうけん)は神がくださったきわめて寛容な提案(かんような ていあん)であり,私たちから見返り(みかえり)に求(もと)められるものがたとえ相対的(そうたい てき)に少(すく)なくても与えられるものです( "旧約聖書・イザイアの書:第64章4節."Is. LXIV, 4" )( "These obligatory terms of our earthly existence constitute an extremely generous offer on God’s part, given how relatively little is required on our part (Is. LXIV, 4), …" ).だが,私たちが先ず(まず)できることは神の存在を認める(かみの そんざいを みとめる)ことです( "… but the very least that we can do, a bare beginning, is to recognize his existence." ).私たちの身の回り(みの まわり)にあふれる神の創造物(=被造物)(そうぞうぶつ=ひぞうぶつ)( "his Creation" )の素晴(すば)らしさを考えれば,神の存在を認めないのは「許(ゆる)されない」ことであり( "新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第1章20節."Rom. I, 20" )( "Given the goodness of his Creation all around us, it is “inexcusable” not to recognize it (Rom. I, 20), …" ),したがって,私たちは神への初歩的(しょほてき)な信仰さえも持(も)たないようでは神を喜ばすことなどできません( "… and therefore without the most elementary faith in him it is impossible to please him. " ).

     暫定的な原則(ざんていてきな げんそく)とは,牧者が倒れ(ぼくしゃが たおれ),羊が散り散りに(ひつじが ちりぢりに)なったとき働く原則です(旧約聖書・ザカリアの預言書:第13章7節."Zach. XIII, 7" )( "The temporary principle is that the Shepherd is struck and the sheep are scattered (Zach.XIII, 7), …" ).これは私たちの主イエズス・キリストがゲッセマネの園(その)で引用された一文(いんよう された いちぶん)です(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第26章31節."Mt. XXVI, 31" )( "… text quoted by Our Lord in the Garden of Gethsemane (Mt. XXVI, 31)." )(訳注後記1).人類(じんるい)が4千年(よん せん ねん)にわたって繰り返し(くりかえし)堕落し続けた後(だらく しつづけた あと)( "After 4,000 years of man’s repeated decadence, …" ),神は人間的な姿(にんげんてきな すがた)をおびて(この世に降りて来られて〈おりてこられて〉)(訳注後記2)教会を創設(きょうかいを そうせつ)され( "… God took a human nature to found a Church …" ),その後(ご)2千年(に せん ねん)にわたり諸々の人間(もろもろの にんげん)が自(みずか)らの霊魂(れいこん)を救(すく)えるようにしてくださいました( "… to enable men to save their souls for the last 2,000 years of men’s existence on this earth." ).初めの千年(はじめの せんねん)は堕落(だらく)が著(いちじる)しく食い止め(くい とめ)られました( "For the first thousand of those years the decadence was seriously interrupted, …" ).だが,数世紀(すう せいき)もすると堕落が再び始まり(ふたたび はじまり)( "… but after a few more centuries it picked up again …" ),第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)とともに神の教会の指導者たち本人(かみの きょうかい しどうしゃたち ほんにん),すなわち教会の命運(きょうかいの めいうん)を託(たく)された教皇たち(きょうこう たち)までが( "… to the point that with Vatican II the very leaders of God’s own Church, the Popes on whom it was designed to depend, …" )著しく堕落(いちじるしく だらく)してしまいました( "… became seriously infected by the decadence." ).その結果(けっか),霊魂(れいこん)をどう救(すく)うかについて神が示(しめ)された方法(ほうほう)を人々が理解(ひとびとが りかい)するのがますます難(むずか)しくなってしまいました( "Thereupon it became much more difficult for men to see how God meant them to save their souls." ).

     それ故(ゆえ),一方(いっぽう)では,客観的に言えば(きゃっかんてきに いえば)( "Therefore on the one hand, objectively speaking, …" ),霊魂救済(れいこん きゅうさい)についての恒久的諸真理(こうじょうてき しょ しんり)( "the permanent truths of salvation" )は公会議派教皇(こうかいぎは きょうこう)たちの堕落(だらく)にかかわらず少(すこ)しも変(か)わっておらず( "… the permanent truths of salvation have not been changed one little bit by the fall of the Conciliar Popes, …" ),救われるべき霊魂が一人(ひとり)でも依然(いぜん)として世に残っているなら(よに のこっているなら)(訳注・=最後の一人の霊魂の救済に至るまで),それら諸真理(しょ しんり)を守り続け(まもり つづけ)なければなりません( "… and these truths must be maintained if any souls at all are still to be saved." ).ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( "Archbishop Lefebvre" )の誇り(ほこり)は,堕落した聖職者(だらくした せいしょくしゃ)たちに対抗(たいこう)してこれらの諸真理(しんり)を守(まも)ることでしたが( "It was Archbishop Lefebvre’s glory to uphold those truths against the fallen churchmen and world, …" ),彼の後継者(かれの こうけいしゃ)たちは,そのような聖職者たちとその世界(せかい)に加(くわ)わるため,これら諸真理を傷(きず)つけ大司教の顔に泥を塗りました(かおに どろを ぬりました)(訳注・「…顔に泥を塗る」 "disgrace" =恥をかかせる〈はじを かかせる〉・面目を失わせた〈めんぼくを うしなわせる〉・名誉を傷つける〈めいよを きずつける〉)( "… while it is his successors’ disgrace to be compromising them for the sake of rejoining those churchmen and their world." ).

     他方(たほう),主観的に言えば(しゅかんてきに いえば),後継者(こうけいしゃ)たちがおこなった不名誉(ふ めいよ)は教皇たちの堕落によって,その偉大な真理(いだいな しんり)が一時的(いちじ てき)に輝きを失った(かがやきを うしなった)ため幾分(いくぶん)弱(よわ)められています( "On the other hand, subjectively speaking, that disgrace is mitigated by the temporary eclipse of those great truths, due to the fall of the Popes." ).司教(しきょう)たちでさえローマの司教(=教皇,"the Bishop of Rome" )が間違って見えても(まちがってみえても),それを見抜く(みぬく)のは容易(ようい)ではありません( "It is not easy even for bishops to see straight when the Bishop of Rome is seeing crooked." ).したがって,神の恩寵(かみの おんちょう) ― それ以外(いがい)のものではありません ― によって見抜く力(みぬく ちから)を得(え)ている人たちは( "It follows that those who by the grace of God – and by nothing else – see straight, …" ),必(かなら)ずしも自分の誤り(じぶんの ほこり)のためでなく混乱に陥った魂(こんらんに おちいった たましい)のために360度の思(おも)いやり( "a 360-degree compassion" )を持(も)たねばならないということになります( "… must have a 360-degree compassion for souls caught in a confusion not entirely their own fault." ).だから,もしジェームスが自分の霊魂を救う(じぶんの れいこんを すくう)ためには新教会(しん きょうかい)( "the Newchurch" )にとどまらねばならないと信(しん)じているなら,私には彼をそこからむりやり引っ張り出す必要(ひっぱりだす ひつよう)はないだろうと思えます( "Therefore, it seems to me, if James is convinced that to save his soul he must stay in the Newchurch, I need not hammer him to get out of it." ).もしクレアが聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" )内(ない)に深刻な問題(しんこくな もんだい)などなにもないと思(おも)いこまされているなら,私がそのようなことはないだろうと無理(むり)やり彼女を説得(かのじょを せっとく)する必要はないでしょう( "If Clare is persuaded that there is no grave problem within the Society of St Pius X, I need not ram down her throat why there is." ).そして,もしジョンが教皇の座(ざ)が空位(くうい)だと信(しん)じなければ自分の信仰(じぶんの しんこう)を保(たも)てないと考えるなら,私ができることはせいぜい,その考え方(かんがえ かた)は義務(ぎむ)ではないと彼に伝える(かれに つたえる)ことぐらいでしょう( "And if John can see no way to keep the Faith without believing that the See of Rome is vacant, I need urge upon him no more than that that belief is not obligatory." ).

     だが,羊(ひつじ)たちが散り散り(ちりぢり)になっている現代の状況下(げんだいの じょうきょう か)では( "Yet in all this scattering of the sheep, …" ),誰(だれ)かがお粗末な人(おそまつな ひと)たちに代(か)わって,客観的な真理(きゃっかんてきな しんり)を守り抜き(まもり ぬき),それを羊たちに提供(ていきょう)しなければなりません(新約聖書・聖ルカによる聖福音書:第19章40節."Lk. XIX, 40" )( "… somebody must maintain and make available to them the objective Truth if the poor stones are not to have to do it (Lk. XIX, 40), …" ).なぜなら,私たちの霊魂(れいこん)を救(すく)えるかどうかは,最低限(さいてい げん)でもその真理を求(もと)めるかどうかにかかっているからです( "… because upon at least the seeking of that Truth depends the saving of our souls." ).だが,私たちカトリック教徒(きょうと)は,真理を求める(しんりを もとめる)仲間の羊(なかまの ひつじ)たちが盲目(もうもく)であることに十分気を配る(じゅうぶん きを くばる)ようにしましょう( "However, let Catholics seek it with all due regard for the blindness of their fellow-sheep, …" ).少(すく)なくとも牧者(ぼくしゃ)が倒(たお)れているあいだは( "… for at least as long as the Shepherd remains struck." ).

     キリエ・エレイソン.

     要約:牧者が倒れて(ぼくしゃが たおれて)いるときは,救済の真理(きゅうさいの しんり)が破(やぶ)られないよう守(まも)らなければなりません( "Summary -- When the Shepherd is struck, the truths of salvation must be upheld inviolate, …" ). だが,「毛(け)を刈り取られた(かり とられた)羊(ひつじ)たちには風を和らげて(かぜを やわらげて)あげなければなりません.」( "… but "The wind must be tempered to the shorn lambs". Summary -- When the Shepherd is struck, the truths of salvation must be upheld inviolate, but "The wind must be tempered to the shorn lambs". " )


     リチャード・ウィリアムソン司教



* * *


第3パラグラフの訳注1
「私たちの主イエズス・キリストがゲッセマネの園で引用された一文」
(新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第26章31節."Mt. XXVI, 31" )
について

マテオ第26章31節
EVANGELIUM SECUNDUM MATTÆUM XXVI, 31
LE SAINT ÉVANGILE DE JÉSUS-CHRIST
SELON SAINT MATTHIEU XXVI, 31
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST,
ACCORDING TO ST. MATTHEW XXVI, 31

『そのときイエズスは弟子たちに言われた,
「今夜,あなたたちはみな私についてつまずくだろう.
〈*私は牧者を打ち,そして羊の群れは散る〉と書かれているからだ.」』

"Tunc dicit illis Iesus:
Omnes vos scandalum patiemini in me, in ista nocte.
Scriptum est enim: Percutiam pastorem, et dispergentur
oves gregis."

"Alors Jésus leur dit:
Vous tout vous prendrez du scandale à mon sujet pendant cette nuit ;
car il est écrit : Je frapperai le pasteur, et les brebis
du troupeau seront dispersées."

"Then Jesus said to them:
All you shall be scandalized in me this night.
For it is written:
I will strike the shepherd, and the sheep
of the flock shall be dispersed."


この後,
30-35節「ペトロのつまずきの預言」
→36-46節「ゲッセマニにて」
→47-56節「イエズスの捕らわれ」へと続く.

(注釈)
*31節 旧約聖書・ザカリアの書13章7節.
弟子たちはイエズスをメシア(救世主)と信じて勝利の日を待っていた.
そのイエズスが何の抵抗もせず死んで行くことを見ての宗教的つまずき.


牧者〈ぼくしゃ〉
=救世主(メシア)・神の御独子イエズス・キリスト,
また,その代理者たるローマ教皇・諸々の司教.

羊〈ひつじ〉=諸々の司祭.


* * *

第3パラグラフの訳注2

・「全能・唯一(ぜんのう・ゆいいつ)の
*三位一体(聖父+聖子+聖霊)の神」は
また「みことば(御言葉)」と呼ばれる.

・「みことば」は聖霊によって童貞聖マリアの御胎内に宿られ,
人間と同じ肉体を取ってお生まれになった.
(「みことばは人となられた」…新約聖書・ヨハネ聖福音書)

・人「聖マリア」の子となられた「みことば」たる
神の御子イエズス・キリストは,
人間と同じ様に苦難に満ちた人生を生き,
この世の悪〈闇〉の権力に迫害され,「十字架上の死に至るまで」,
神御自身の性質である「無限の愛と真理」に忠実に従った.

*「三位一体の神」=「聖父+聖子+聖霊(ちちと こと せいれい) の神」

・聖マリアは「神の御母」と呼ばれる.

・聖ヨハネ聖福音書,
「使徒信経」("CREDO"),
「御告げの祈り」("ÁNGELUS DÓMINI")
を参照.



* * *
訳注の続きを追補いたします.

* * *