2010年11月1日月曜日

糾弾を先延ばしにすべきか?

エレイソン・コメンツ 第172回 (2010年10月30日)

教義の重要性を強調したここ数回分の「エレイソン・コメンツ」(EC 162, 165-167, 169)を受け,ある読者が,教義の重要性は分かるが,第二バチカン公会議を糾弾(きゅうだん)するのは先延ばしにする方が賢明ではないだろうか,と聞いてきました.この読者の根拠は,ローマ(教皇庁)のカトリック教会当局者たち,一般のカトリック信者たちのいずれもが,公会議のことを教理上ルフェーブル大司教に従う聖ピオ十世会が言うほど悪いと受けとめる心構えが出来ていないからというものです.だが現実には,同公会議ははるかに悪いのです.

第二バチカン公会議の諸々の公文書(訳注・原語 “the documents of Vatican II”.以下,「諸文書」)に関する教理上の問題は,主として,それが公然かつ疑いもないほど明瞭に異端的であるという点にあるのではありません.事実,それらの文書で使われている「文言」は,その「精神」とは逆に,一見してカトリック教に則しているように見えます.同公会議の四回の会合すべてに直接参加したルフェーブル大司教が,諸文書のうち最悪だった最後の2点「 現代世界憲章」“Gaudium et Spes” と「信教の自由に関する宣言」“Dignitatis Humanae” を除く全ての文書に署名し承諾してしまったほどです.だが,その「文言」は,公会議主義の神父たちが傾倒していた新しい人間中心の宗教の「精神」によって微妙に汚染されており,それによって当時から今日に至るまでカトリック教会を堕落させ続けているのです.もし,ルフェーブル大司教がこれら当時の16点の文書について今日再び投票をすることができたら,今となっては後の祭りですが,そのうちの1点の文書にさえ賛成票を投じたかどうか疑いたくなるほどです.

第二バチカン公会議の諸文書は曖昧(あいまい)で,外見上,大部分はカトリック教的と解釈できますが,中身は近代主義 “modernism” の毒で汚染されており,カトリック教会内のあらゆる異端の中でも最も致命的な悪影響を及ぼすものであると,教皇聖ピオ十世が回勅「パッシェンディ」 “Pascendi” の中で指摘しています.例えば「保守的な」カトリック信者たちが,カトリック教会への忠実心から同公会議の諸文書を擁護(ようご)しようとするとき,彼らはいったい何を保守しようとしているのでしょうか?それら諸文書が持つ毒,そして何百万人にも及ぶ無数の人々の霊魂のカトリック信仰を堕落させ永遠の地獄へ至る破滅の道に導き続けるその毒が持つ力を保守しようというのでしょうか.このことはまさしく,私に第二次世界大戦中の連合諸国に必需品を届けるため大西洋を横断した連合船団を思い起こさせます.ドイツ軍の潜水艦が一隻(いっせき),船団の防御水域の真っただ中に浮上することに成功し,船を手当たり次第に魚雷で撃沈したのです.船団の護衛にあたった連合軍の駆逐艦(くちくかん)は防御水域の外側で潜水艦を追尾していて,よもや潜水艦が自分たちのど真ん中にいるとは想像もしなかったからです!悪魔は第二バチカン公会議の諸文書の真ん中にいて,何百万もの人々の霊魂の永遠の救いを魚雷攻撃しています.なぜなら悪魔はそれら諸文書の中で実に巧みに変装しているからです.

さて,その船団の中の商船の一隻に目敏(めざと)い水夫が一人乗っていて,潜水艦の吸排気装置(シュノーケル)が残すかすかな航跡に気づいたと想像してください.彼は「潜水艦が内側にいるぞ!」と叫びますが,誰一人本気にしません.その水夫はそのまま待機して黙っているでしょうか?それとも「やられるぞ!」と声を張り上げ,船長が致命的な危機を認めるまで叫び続けるでしょうか?

聖ピオ十世会は第二バチカン公会議について警告の叫びを止むことなく上げ続けねばなりません.なぜなら,何百万もの人々の霊魂が致命的かつ絶え間のない危機にさらされているからです.その危機がいかに重大かを認識するには,理論的には難解だと認めざるを得ませんが,アルバロ・カルデロン神父 “Fr. Alvaro Calderon” の第二バチカン公会議の諸文書についての深遠な著書 “Prometeo: la Religion del Hombre” (訳注・「プロメテウス:人間の宗教」の意)を原著か自国語の翻訳でぜひ読んでみてください.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教