2015年8月29日土曜日

424 執拗なローマ人たち 8/29

解説付

エレイソン・コメンツ 第424回 (2015年8月29日) 

読者の皆さん,予告ヒントを読み取り,
其の時が来る迄お待ち下さい ―
(どくしゃの みなさん,よこく ひんと を よみ とり,
そのときが くるまで おまち ください ―)

( "Readers, wait for it, take an advance hint – " )

合意が出て来たら,其の細部をお読み下さい!
(ごういが でて きたら,その さいぶを およみ ください!)
( "When the agreement comes, read the fine print ! " )

聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" 以下,"SSPX" と記す)から出て来た噂から判断すると(せいぴお じゅっせい かい から でて きた うわさ から はんだん すると),ローマ(羅馬)教皇庁が同会と一定の合意に達するのを望んで居るのでは無いか(ろーま きょうこう ちょうが どうかいと いっていの ごういに たっする のを のぞんでいる のでは ないか)という(言う・云う・謂う)エレイソン・コメンツの憶測(8月22日付 EC 第423回参照)は如何やら当たっていた様です(と いう えれいそん・こめんつの おくそく〈はちがつ にじゅうに にち づけ えれいそん・こめんつ だい よんひゃく にじゅうさん かい さんしょう〉はどうやらあたっていたようです)( "Rumours coming from the Society of St Pius X seem to confirm the speculation of these “Comments” last week (see EC 423 of Aug. 22) that Rome wants an agreement with the SSPX." ).此の噂に依る(依拠)と,8月初めに秘密の会合が開かれ(このうわさによると,はちがつはじめにひみつのかいごうがひらかれ),其処(其所)で SSPX 指導者達が財政問題と「教理に関する前文」を話し合ったというのです(そこで せいぴお じゅっせい かい しどうしゃ たちが ざいせい もんだいと「きょうりに かんする ぜんぶん」を はなしあった という のです)( "The rumours tell of a secret meeting held at the beginning of this month where SSPX leaders discussed finances and a “doctrinal preamble”." ).其の前文はミュラー枢機卿が8月3日に述べた物と同じ内容だったのでしょうか?(その ぜんぶんは みゅらー すうき きょうが はちがつ みっかに のべた ものと おなじ ないよう だった のでしょう か?)( "Was it the same preamble mentioned by Cardinal Müller on August 3 ? " )ローマ教皇庁が SSPX 署名用に草案を書いたのでしょうか?(ろーま きょうこう ちょうが せいぴお じゅっせい かい しょめい ように そうあんを かいた ので しょうか?)( "Drawn up by Rome for the SSPX to sign ? " )ミュラー枢機卿は此の前文が両者間の如何なる合意に取って必要な物となる(成る)だろうと述べました(みゅらー すうききょうは この ぜんぶんが りょうしゃ かんの いかなる ごういに とっても ひつような ものと なる だろうと のべ ました)( "The Cardinal said that that would be necessary for any agreement, …" ).一方で,シュナイダー司教は此の点につ(就)いて,第二バチカン公会議は最早単なる「牧歌的な物( pastoral )」とな(成・為)っているので,教理上の問題は起きないとの見方でした(いっぽうで,しゅないだー しきょうは この てんに ついて,だいに ばちかん こうかいぎは もはや たんなる「ぼっかてきなもの」と なって いる ので,きょうり じょうの もんだいは おきない との みかた でした)( "while Bishop Schneider saw no doctrinal problem because Vatican II was merely “pastoral”. " ).噂の当否は別に為て,変わる事の無い基本に就いて振り返って考えて見ましょう(うわさの とうひは べつに して,かわる ことの ない きほんに ついて ふりかえって みましょう)( "But let us recall why the Cardinal was the more realistic of the two." ).

第二バチカン公会議が出した16の公式文書は神,生命及び人間に就いての新しいビジョンと人間中心の現代社会に同調する新しい宗教像を提示しています(だいに ばちかん こうかいぎが だした じゅうろくの こうしき ぶんしょは かみ,せいめい,および にんげん についての あたらしい びじょんと にんげん ちゅうしんの げんだい しゃかいに どうちょう する あたらしい しゅうきょう ぞうを ていじ して います)( "The 16 official documents of the Second Vatican Council present together a new vision of God, life and man, a new religion in tune with the man-centred modern world, …" ).此の新宗教は1900年以上もの間本質的に変わって居ない神中心の公教(=カトリック教)と真正面から対立する(為る)物です(この しん しゅうきょうは せん きゅうひゃく ねん いじょう もの あいだ ほんしつ てきに かわって いない かみ ちゅうしんの こう きょう〈=かとりっく きょう〉 とまっしょうめん から たいりつ する もの です)( "… but clashing with the God-centred Catholic religion that had not changed essentially for over 1900 years." ).二つの宗教はともに神,生命,人間に就いて其々(其其)のビジョンを説いて居ます(ふたつの しゅうきょうは ともに かみ,せいめい,にんげん について それぞれの びじょんを といて います)( "Both religions teach their vision of God, life and man, …" ).双方とも教理ですが,二つの教理は対立為る物です(そうほう とも きょうり ですが,ふたつの きょうりは たいりつ するもの です)( "… both are doctrinal, but the two doctrines clash." ).然し,巧妙な曖昧さに依(拠・因)り - 曖昧さは16文書の特徴です - 公会議派の司祭達は両者間に何等対立点は無いと説得されて来ました(しかし,こうみょうな あいまいさ により - あいまいさ は じゅうろく ぶんしょの とくちょう です - こうかいぎは の しさい たちは りょうしゃ かんに なんら たいりつ てんは ないと せっとく されて きました)( "However, by skilful ambiguities – ambiguity is the hallmark of the 16 documents – the Council Fathers were persuaded that there was no clash, …" ).従って,司祭達が16文書に賛成票を投じた時,世界中の公教徒(=カトリック教徒)は三つの理由から新宗教に従いました(したがって,しさい たちが じゅうろく ぶんしょに さんせい ひょうを とうじた とき,せかい じゅうの こうきょうと〈かとりっく きょうと〉は みっつの りゆうから しん しゅうきょうに したがい ました)( "… and so when they voted in favour of the documents, there were three reasons why Catholics worldwide went along with the new religion: …" ).一つは新宗教と真の信仰との対立が巧妙に偽装された事(ひとつは しん しゅうきょうと まことの しんこう との たいりつが こうみょうに ぎそう された こと)( "… its clash with the true Faith was skilfully disguised, …" ),二つ目は教皇以下殆んど(殆ど)あらゆる教会当局者達が新宗教を公教徒(=カトリック教徒)に押し付けた事(ふたつめは きょうこう いか ほとんど あらゆる きょうかい とうきょく たち が しん しゅうきょうを こう きょう と〈かとりっく きょうと〉に おしつけた こと)( "… it was imposed on Catholics by almost all Church authorities from the Popes downwards, …" ),三つ目は新宗教が公会議以前の宗教より実践し易かった事です(みっつめは しん しゅうきょうが こうかいぎ いぜんの しゅうきょう より じっせん しやすかった こと です)( "… and it was rather easier to practise than the pre-Conciliar religion." ).

然し,神は一人の本物の牧者,ルフェーブル大司教を遣わされました(しかし,かみは ひとりの ほんものの ぼくしゃ,るふぇーぶる だいしきょうを つかわされ ました)( "But God raised one true shepherd, Archbishop Lefebvre, …" ).彼は二つの宗教の間に教理上の対立が有ると主張し(かれは ふたつの しゅうきょうの あいだに きょうり じょうの たいりつが あると しゅちょうし)( "… to insist on the doctrinal clash, " ),不誠実な教会当局者達( "the unfaithful Church authorities" )に立ち向かい(ふせいじつな きょうかい とうきょく しゃ たち に たちむかい)( "… to stand up to the unfaithful Church authorities, …" ),敢えて(敢て)望む信徒達の為に公会議以前の宗教を実践し続けました(あえて のぞむ しんと たちの ために こうかいぎ いぜんの しゅうきょうを じっせん しつづけ ました)( "… and to continue the practice of the pre-Conciliar religion for any souls wishing to take the trouble." ).此の様な信徒の数は大司教が1991年に亡くなるまで増え続け,彼が率いた SSPX は全世界に広まりました(このような しんとの かずは だいしきょうが せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねんに なくなる まで ふえ つづけ,かれが ひきいた せいぴお じゅっせい かいは ぜんせかいに ひろまり ました)( "And these were enough in number for the Archbishop's Society to have spread all over the world by the time he died in 1991." ).だが,大司教の後継者として SSPX 指導者に為った人達は(だが,だいしきょうの こうけいしゃ として せいぴお じゅっせい かい しどうしゃと なった ひと たちは)( "But his successors at the head of his Society …" )第二次世界大戦後に生まれ,第一次世界大戦前に生まれた大司教とは全く違う世界で育ちました(だいにじ せかい たいせん ご に うまれ,だいいちじ せかい たいせん まえ に うまれた だいしきょう とは まったく ちがう せかいで そだち ました)( "… were born after World War II into a very different world from that of the Archbishop, born before World War I." ).彼等は世界や教理に就いて大司教とは異なった見方をしました(かれらは せかいや きょうりに ついて だいしきょう とは ことなった みかたを しました)( "They did not see the world or doctrine as he saw them, …" ).従って,彼等は当時未だ公会議派が教会規律を緩める事等(抔)望んで居ませんでしたが(したがって,かれらは とうじ まだ こうかいぎは が きょうかい きりつを ゆるめる こと など のぞんで いません でしたが)( "… even if they were not yet themselves wanting the Conciliar relaxation of Church discipline" )(今では,益々〈益益〉多くの伝統派の人達が其れを望む様に為って居ます)(〈いまでは,ますます おおくの でんとうは の ひと たちが それを のぞむ ように なって います〉)( "… (wanted now by more and more Traditionalists) ." ),ルフェーブル大司教が教会当局者達に立ち向わざるを得ないと感じた様な動機は持って居ませんでした(るふぇーぶるだいしきょうが きょうかい とうきょくしゃ たち に たち むかわ ざるを えないと かんじた ような どうきは もって いません でした)( "… so they had not the same motivation as he had to go on standing up to the Church authorities, …" ).ローマ教皇庁の磁石が其の吸引力を発揮し始めるのは時間の問題でした(ろーま きょうこう ちょうの じしゃくが その きゅういん りょくを はっき しはじめる のは じかんの もんだい でした)( "It was simply a matter of time before the magnetism of Rome would exert its pull." ).

ローマ教皇庁の人達は如何かと言えば(ろーま きょうこう ちょうの ひと たちは どうか と いえば),彼等は公会議後の新宗教に固執しました(かれらは こうかいぎ ご の しん しゅうきょうに こしつ しました)( "As for the Romans, they were obdurate in their new Conciliar religion, …" ).従って,彼等は2000年以降,SSPXに拠る(依る)あらゆるアプローチを公然と歓迎しました(したがって,かれらは にせんねん いこう,せいぴお じゅっせい かいに よる あらゆる あぷろーちを こうぜんと かんげい しました)( "… and so from 2000 onwards they openly welcomed all approaches being made by the SSPX, …" ) .何故なら, SSPX の教理 "doctrine" と不変の公教(=カトリック教)実践は(なぜなら,せいぴお じゅっせい かいの きょうりと ふへんの こうきょう〈=かとりっくきょう〉じっせんは)( "… because its doctrine and practice of unchanged Catholicism …" )彼等のフリーメーソン的新機軸に取って障害で有り脅威だったからです(かれらの ふりーめーそん てき しんきじくに とって しょうがい であり きょうい だった から です)( "…were a standing rebuke to their Freemasonic novelties, and a constant threat to them, …" ).其れは,上手く運んだ侵攻作戦の背後に残って戦い続ける孤立した敵兵の様な物でした(それは,うまく はこんだ しんこう さくせんの はいごに のこって たたかい つづける こりつ した てきへいの ような もの でした)( "… like an unconquered pocket of the enemy in the rear of an otherwise all-successful invasion." ).今,ローマ(羅馬)人達は SSPX を新教会に吸収したいと望んで居ますし(いま,ろーま じん たちは せいぴお じゅっせい かいを しん きょうかいに きゅうしゅう したいと のぞんで いますし)( "Therefore as the Romans want to absorb the SSPX into their Newchurch, …" ), SSPX の現指導者達はローマ正式教会の支配下に戻りたいと願って居ます(せいぴお じゅっせい かいの しどうしゃ たちは ろーま せいしき きょうかいの しはいかに もどりたいと ねがって います)( "… so the SSPX's present leaders want to put themselves back under Rome's official Church authority." ).其れは地獄での結婚の様な物です(それは じごく での けっこん の ような もの です)( "It is a marriage made in Hell, …" ).シュナイダー司教の様な心優しい新教会人達は,此れに何の問題も無いと考えて居ます(しゅないだー しきょうの ような こころ やさしい しん きょうかい じん たちは,これに なんの もんだいも ないと かんがえて います)( "… and sweet Newchurchmen like Bishop Schneider can see no problem, …" ).何故なら,彼等は両者間に根本的な教理上の対立等(抔)無い,或いは,有るとしても見たく無いと思って居るからです(なぜなら,かれらは りょうしゃ かんに こんぽん てきな きょうり じょうの たいりつ など ない,あるいは,あると しても みたくないと おもって いる から です)( "… because they have not seen, or have not wanted to see, the underlying clash of basic doctrine." ).

そう言う(謂う・云う)訳で,此の問題に就いてはミュラー枢機卿の方が正しい訳です(そういう わけで,この もんだいに ついては みゅらー すうききょうの ほうが ただしい わけ です)( "So Cardinal Müller is right in this respect. " ).若し,ミュラー枢機卿とシュナイダー司教が神,生命,人間について異なるビジョンを持って居ると為れば(もし,みゅらー すうききょうと しゅないだー しきょうが かみ,せいめい,にんげんに ついて ことなる びじょんを もっていると すれば),二人の間の意見一致は単なる見かけだけの物でしょう(ふたりの あいだの いけん いっちは たんなる みかけ だけの もの でしょう)( "If two men have different visions of God, life and man, any agreement between them can only be relatively superficial." ).従って, SSPX が教義 "dogma" を放棄するか(せいぴお じゅっせい かいが きょうぎを ほうき するか),或いは,あらゆる教義はドロドロのお粥 "mush" の様な物だと為るメーソン式超教義( "super-dogma" )を受け入れ公教(=カトリック教)の全ての教義( "all Catholic dogma" )を台無しに為る様仕向けられ無くても(あるいは,あらゆる きょうぎは どろどろの おかゆの ような ものだ とする めーそん しき ちょう きょうぎを うけいれ こうきょう〈かとりっく きょう〉の すべての きょうぎを だいなしに する よう しむけられ なくても), SSPX はローマ教皇庁の壁の中でトロイの馬の様に振る舞う事に為るでしょう(せいぴお じゅっせい かいは ろーま きょうこう ちょうの かべの なかで とろいの うまの ように ふるまう ことに なる でしょう)( "So if the SSPX cannot be brought to abandon dogma, or rather to undermine all Catholic dogma with the Masonic super-dogma that all dogma is mush, then the SSPX is bound to act within the walls of Rome like a Trojan horse." ).ミュラー枢機卿が前文が必要だと主張為るのは此の為です(みゅらー すうききょうが ぜんぶんが ひつよう だと しゅちょう する のは このため です)( "That is why the Cardinal will insist on a preamble, …" ).其の前文をローマが書いたのか SSPX が書いたのかは然して重要な事では有りません(その ぜんぶんを ろーまが かいた のか せいぴお じゅっせい かいが かいた のかは さして じゅうような こと では ありません)( "… whether written by Rome or by the SSPX is of no importance, …" ).伝統派の多くが,第二バチカン公会議後の公教徒(=カトリック教徒)の多くと同じ様に(でんとうは の おおくが,だいに ばちかん こうかいぎ ご の かとりっく きょうとの おおくと おなじ ように)( "… so long as the mass of Traditionalists, just like the mass of Catholics after Vatican II, …" ),教理の曖昧さに騙される様に為りさえ〈語源は「添え」〉為ればいい(好い・良い・善い)訳です(きょうりの あいまいさに だまされる ように なり さえ すれば いい わけです)( "… will let themselves be deceived by the doctrinal ambiguities." ).其の曖昧さは見事な物と為るでしょう(その あいまいさ は みごとな ものと なる でしょう)( "Brilliant these will be." ).

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教




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本投稿記事・第424回エレイソン・コメンツ「執拗なローマ人たち」 "RELENTLESS ROMANS"( 2015年8月29日付)の解説付邦訳文は2015年9月11日23時50分に掲載されました.
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解説無し


エレイソン・コメンツ 第424回 (2015年8月29日)

読者の皆さん,予告ヒントを読み取り,
その時が来るまでお待ちください ―
合意が出てきたら,
その細部をお読みください!
Readers, wait for it, take an advance hint –
When the agreement comes, read the fine print !

聖ピオ十世会( "the Society of St Pius X" 以下,"SSPX" と記す)から出てきた噂から判断すると,ローマ教皇庁が同会と一定の合意に達するのを望んでいるのではないかというエレイソン・コメンツの憶測(8月22日付 EC 第423回参照)はどうやら当たっていたようです.この噂によると,8月初めに秘密の会合が開かれ,そこで SSPX 指導者たちが財政問題と「教理に関する前文 “doctrinal preamble” 」を話し合ったというのです.その前文はミュラー枢機卿が8月3日に述べたものと同じ内容だったのでしょうか? ローマ教皇庁が SSPX 署名用に草案を書いたのでしょうか? ミュラー枢機卿はこの前文が両者間のいかなる合意にとっても必要なものとなるだろうと述べました.一方で,シュナイダー司教はこの点について,第二バチカン公会議はもはや単なる「牧歌的なもの( "pastoral" )」となっているので,教理の問題は起きないとの見方でした.噂の当否は別にして,変わることのない基本について振り返って考えてみましょう.
Rumours coming from the Society of St Pius X seem to confirm the speculation of these “Comments” last week (see EC 423 of Aug. 22) that Rome wants an agreement with the SSPX. The rumours tell of a secret meeting held at the beginning of this month where SSPX leaders discussed finances and a “doctrinal preamble”. Was it the same preamble mentioned by Cardinal Müller on August 3 ? Drawn up by Rome for the SSPX to sign ? The Cardinal said that that would be necessary for any agreement, while Bishop Schneider saw no doctrinal problem because Vatican II was merely “pastoral”. But let us recall why the Cardinal was the more realistic of the two.

第二バチカン公会議が出した16の公式文書は神,生命および人間についての新しいビジョンと人間中心の現代社会( "the man-centred modern world" )に同調する新しい宗教像を提示しています.この新宗教は1900年以上ものあいだ本質的に変わっていない神中心のカトリック教(=公教)( "the God-centred Catholic religion" )と真正面から対立するもの( "clashing" )です.二つの宗教はともに神,生命,人間についてそれぞれのビジョンを説いています.双方とも教理ですが,二つの教理は対立するものです.しかし,巧妙な曖昧さにより - 曖昧さは16文書の特徴です - 公会議派の司祭たちは両者間になんら対立点はないと説得されてきました.したがって,司祭たちが16文書に賛成票を投じたとき,世界中のカトリック教徒は三つの理由から新宗教に従いました.ひとつは新宗教と真の信仰との対立が巧妙に偽装されたこと,二つ目は教皇以下ほとんどあらゆる教会権力者たちが新宗教をカトリック教徒に押しつけたこと,三つ目は新宗教が公会議以前の宗教より実践しやすかったことです.
The 16 official documents of the Second Vatican Council present together a new vision of God, life and man, a new religion in tune with the man-centred modern world, but clashing with the God-centred Catholic religion that had not changed essentially for over 1900 years. Both religions teach their vision of God, life and man, both are doctrinal, but the two doctrines clash. However, by skilful ambiguities – ambiguity is the hallmark of the 16 documents – the Council Fathers were persuaded that there was no clash, and so when they voted in favour of the documents, there were three reasons why Catholics worldwide went along with the new religion: its clash with the true Faith was skilfully disguised, it was imposed on Catholics by almost all Church authorities from the Popes downwards, and it was rather easier to practise than the pre-Conciliar religion.

しかし,神はひとりの本物の牧者,ルフェーブル大司教を遣わされました.彼は二つの宗教の間に教理上の対立( "the doctrinal clash" )があると主張し,不誠実な教会当局者( "the unfaithful Church authorities" )たちに立ち向かい,あえて望む信徒たちのために公会議以前の宗教を実践し続けました.このような信徒の数は大司教が1991年に亡くなるまで増え続け,彼が率いた SSPX は全世界に広まりました.だが,大司教の後継者として SSPX 指導者になった人たちは第二次世界大戦後に生まれ,第一次世界大戦前に生まれた大司教とはまったく違う世界で育ちました.彼らは世界や教理について大司教とは異なった見方をしました.したがって,彼らは当時まだ公会議派が教会規律を緩めることなど望んでいませんでしたが(いまでは,ますます多くの伝統派の人たちがそれを望むようになっています),ルフェーブル大司教が教会当局者たちに立ち向わざるを得ないと感じたような動機は持っていませんでした.ローマ教皇庁の磁石がその吸引力を発揮し始めるのは時間の問題でした.
But God raised one true shepherd, Archbishop Lefebvre, to insist on the doctrinal clash, to stand up to the unfaithful Church authorities, and to continue the practice of the pre-Conciliar religion for any souls wishing to take the trouble. And these were enough in number for the Archbishop's Society to have spread all over the world by the time he died in 1991. But his successors at the head of his Society were born after World War II into a very different world from that of the Archbishop, born before World War I. They did not see the world or doctrine as he saw them, so they had not the same motivation as he had to go on standing up to the Church authorities, even if they were not yet themselves wanting the Conciliar relaxation of Church discipline (wanted now by more and more Traditionalists). It was simply a matter of time before the magnetism of Rome would exert its pull.

ローマ教皇庁の人たちはどうかと言えば,彼らは公会議後の新宗教に固執しました.したがって,彼らは2000年以降, SSPX によるあらゆるアプローチを公然と歓迎しました.なぜなら, SSPX の教理と不変のカトリック教実践は彼らのフリーメーソン的新機軸にとって障害であり脅威だったからです.それは,うまく運んだ侵攻作戦の背後に残って戦い続ける孤立した敵兵のようなものでした.いま,ローマ人たちは SSPX を新教会に吸収したいと望んでいますし, SSPX の現指導者たちはローマ正式教会の支配下に戻りたいと願っています.それは地獄での結婚のようなものです.シュナイダー司教のような心優しい新教会人たちは,これに何の問題もないと考えています.なぜなら,彼らは両者間に根本的な教理上の対立などない,あるいは,あるとしても見たくないとおもっているからです.
As for the Romans, they were obdurate in their new Conciliar religion, and so from 2000 onwards they openly welcomed all approaches being made by the SSPX, because its doctrine and practice of unchanged Catholicism were a standing rebuke to their Freemasonic novelties, and a constant threat to them, like an unconquered pocket of the enemy in the rear of an otherwise all-successful invasion. Therefore as the Romans want to absorb the SSPX into their Newchurch, so the SSPX's present leaders want to put themselves back under Rome's official Church authority. It is a marriage made in Hell, and sweet Newchurchmen like Bishop Schneider can see no problem, because they have not seen, or have not wanted to see, the underlying clash of basic doctrine.

そういうわけで,この問題についてはミュラー枢機卿の方が正しいわけです.もし,ミュラー枢機卿とシュナイダー司教が神,生命,人間について異なるビジョンを持っているとすれば,二人の間の意見一致は単なる見かけだけのものでしょう.したがって, SSPX が教義を放棄するか,あるいは,あらゆるカトリック教義( "all Catholic dogma" )はドロドロのお粥( "mush" )のようなものだとするメーソン式超教義( "the Masonic super-dogma" )を受け入れカトリック(公)教のすべての教義( "all Catholic dogma" )を台無しにするよう仕向けられなくても, SSPX はローマ教皇庁の壁の中でトロイの馬のように振る舞うことになるでしょう.ミュラー枢機卿が前文が必要だと主張するのはこのためです.その前文をローマが書いたのか SSPX が書いたのかはさして重要なことではありません.伝統派の多くが,第二バチカン公会議後のカトリック教徒の多くと同じように,教理の曖昧さに騙されるようになりさえすればいいわけです.その曖昧さは見事なものとなるでしょう.
So Cardinal Müller is right in this respect. If two men have different visions of God, life and man, any agreement between them can only be relatively superficial. So if the SSPX cannot be brought to abandon dogma, or rather to undermine all Catholic dogma with the Masonic super-dogma that all dogma is mush, then the SSPX is bound to act within the walls of Rome like a Trojan horse. That is why the Cardinal will insist on a preamble, whether written by Rome or by the SSPX is of no importance, so long as the mass of Traditionalists, just like the mass of Catholics after Vatican II, will let themselves be deceived by the doctrinal ambiguities. Brilliant these will be.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教


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本投稿記事・第424回エレイソン・コメンツ「執拗なローマ人たち」 "RELENTLESS ROMANS"( 2015年8月29日付)は2015年9月07日23時50分に掲載されました.
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2015年8月22日土曜日

423 矛盾するローマ人たち? 8/22

解説付

 エレイソン・コメンツ 第423回 (2015年8月22日) 

教理無しですか? それでは,背教が勝つでしょう.
(きょうり なし ですか?それ では,はいきょうが かつ でしょう.)
( "No doctrine ? Then apostasy will win." )

教理は,厚くても薄くても,保持されなければなりません.
(きょうりは,あつくても うすくても,ほじ されなければ なりません.)
( "Doctrine must be maintained, through thick or thin. " ) 

ローマ教皇庁の二人の聖職者が最近(ろーま きょうこう ちょうの ふたりの せいしょくしゃが さいきん),教皇庁と聖ピオ十世会( 以下,SSPX (The Society of Saint Piux X) と記す.)との関係につ(就)いて発言しましたが(きょうこう ちょうと せい ぴお じゅっせい かい〈いか,えす えす ぴー えくす と しるす.〉との かんけい について はつげん しました が),両者は互いに矛盾している様に見えます(りょうしゃは たがいに むじゅん している ように みえます)( "Two Roman churchmen have seemed to contradict one another in remarks made recently about relations between Rome and the Society of St Pius X, …" ).これについて説明するなら,教皇庁が SSPX に対し,老婆の様な古い警察のトリックを仕掛けているという事でしょう(これに ついて せつめい する なら,きょうこうちょうが えす えす ぴー えくす に たいし,ろうばの ような ふるい けいさつの とりっくを しかけて いると いうこと でしょう)( "… but one explanation of the contradiction may be that Rome is playing on the Society a police trick as old as the hills." ).「善玉警官と悪玉警官」というお定まりの手口だと(「ぜんだま けいかんと あくだま けいかん」という おさだまりの てぐち だと)( "By the “good cop, bad cop” routine, …" ),警察は犯人から自供を引き出すとき(時)(けいさつは はんにん から じきょうを ひきだす とき)( "… when the police want to get a confession out of a criminal, …" ),初めに手荒な警官を送り込み,犯人が惨めな状態になって,お情けを願い出る様になる(成る・為る)まで(迄)痛め付けます(はじめに てあらな けいかんを おくり こみ,はんにんが みじめな じょうたいに なって,おなさけを ねがいでる ように なる まで いため つけ ます)( "… firstly a brutal policeman is sent in to beat up the criminal until he is in a very sorry condition, requiring all kinds of sympathy." ).そこで,優しい警官が現れ,同情を降り注ぎ,犯人が口を割って自白する様仕向けます(そこで,やさしい けいかんが あらわれ,どうじょうを ふりそそぎ,はんにんが くちを わって じはく する よう しむけ ます)( "Then a really nice policeman is sent in, oozing with a sympathy which often makes the criminal open up and confess his crime." ).

今回の場合,「悪玉警官」は他ならぬ教皇庁教理省長官のミュラー枢機卿でしょう(こんかいの ばあい,「あくだま けいかん」は ほか ならぬ きょうこう ちょう きょうり しょう ちょうかんの みゅらー すうききょう でしょう)( "The “bad cop” in this case would be no less than the Prefect for the Congregation of the Doctrine of the Faith, Cardinal Müller, …" ).彼は8月初め,ドイツ司教会の公式ウェブサイト katholisch.de とのインタビューに応じ(かれは はちがつ はじめ,どいつ しきょう かいの こうしき うぇぶさいと katholisch.deとの いんたびゅーに おうじ)( "… who early this month in an interview with katholisch.de, official website of the German Bishops' Conference, …" ),教皇庁とSSPXとの 合意につ(就)いて(次の様に)述べています.(即ち,)「実質的な 新発展は 何も 有りません.教皇は 私達が『執拗 かつ(且つ)根気強く』話し合いを 続ける事を お望み です.全面的な 和解の 前提条件は 信仰の 本質的 問題に ついての 完全な 合意に 向けた 前文の 調印です.過去 数か月の 間,相互信頼を 強める 目的で 異なる 路線の 摺合せが 行われました」(きょうこう ちょうと せい ぴお じゅっせい かい との ごういに ついて〈つぎのように〉のべて います.〈すなわち,〉「じっしつ てきな しん はってんは なにも ありません.きょうこうは わたくし たちが『しつよう かつ こんき づよく』はなしあいを つづける ことを おのぞみ です.ぜんめん てきな わかいの ぜんてい じょうけんは しんこうの ほんしつ てき もんだいに ついての かんぜんな ごういに むけた ぜんぶんの ちょういん です.かこ すうかげつの あいだ,そうご しんらいを つよめる もくてきで ことなる ろせんの すりあわせが おこなわれ ました」 と)( "… said about a Rome-SSPX agreement that “There is no substantial new development. The Holy Father wishes that we keep trying: “con tenacia e pazienza” – “with tenacity and patience.” The precondition for a full reconciliation is the signing of a doctrinal preamble in order to guarantee a full agreement in the essential questions of the Faith. In the past months, there were encounters of different ways which are meant to strengthen the mutual trust.” " ).

ここでは, SSPX が教皇庁 との 合意を 望む なら,ネオ・モダニスト〈=新現代主義者〉の 教皇庁が 同意 出来る 教理的 文書に 調印 しなければ ならない だろうと 明示されて います(ここ では,せい ぴお じゅっせい かいが きょうこう ちょう との ごういを のぞむ なら,ねお・もだにすと〈=しん げんだい しゅぎ しゃ〉の きょうこう ちょうが どうい できる きょうり てき ぶんしょ に ちょういん しなければ ならない だろうと めいじ されて います)( "Here it is clearly stated that the SSPX will have to sign a doctrinal text agreeable to neo-modernist Rome if it wishes for an agreement with Rome." ).ミュラー枢機卿は「相互信頼を 強める 目的で」 ローマ教皇庁の人たちと SSPX との間で異なる 路線の 摺合せが 行われた」 事を 明かす 事で「悪玉警官」の 役を 演じて います(みゅらー すうききょう は「そうご しんらいを つよめる もくてきで 」 ローマ教皇庁の人たちとSSPXとの間で「ことなる ろせんの すりあわせが おこなわれた」 ことを あかす ことで「あくだま けいかん」の やくを えんじて います)( "The Cardinal is also being a “bad cop” when he reveals that there were “encounters of different ways” between Romans and the SSPX “to strengthen mutual trust”." ). SSPX は 枢機卿の 発言が 無かったら 表面化 しなかったと 思われる 両者間の 接触に 教皇庁が 光を 当てた 事に 満足 している でしょうか?(せい ぴお じゅっせい かいは すうききょうの はつげんが なかったら ひょうめん か しなかったと おもわれる りょうしゃ かんの せっしょくに きょうこう ちょうが ひかりを あてた ことに まんぞく している でしょうか?)( "Or is the SSPX happy that Rome is shedding the light of day upon contacts otherwise unknown ? " ) だが,カトリック信仰を 持ち続ける 人々の 中で,一体 誰が ネオ・モダニスト(=新現代主義者)達 との 相互 信頼が 築かれる 事で 安心 する でしょうか?(だが,かとりっく しんこうを もち つづける ひとびとの なかで,いったい だれが ねお もだにすと たち との そうご しんらいが きずかれる ことで あんしん する でしょうか?)( "Yet who that has the Catholic faith is re-assured by mutual trust being established with neo-modernists ? " )それは さておき,次は「善玉警官」に つ(就)いて です(それは さておき,つぎは「ぜんだま けいかん」に ついて です)( "But now comes the “good cop”." ).

今年に なって から,アタナシウス・シュナイダー司教が「 SSPX の 神学者 グループ および フェレー司教 閣下と 特定の 神学的 議題に ついて 討議する 目的で」 SSPX 主催の 二つの 神学校を 訪れ ました(ことしに なって から,あたなしうす・しゅないだー しきょうが「せい ぴお じゅっせい かいの しんがくしゃ ぐるーぷ および ふぇれー しきょう かっかと とくていの しんがく てき ぎだいに ついて とうぎ する もくてきで」 せい ぴお じゅせい かい しゅさいの ふたつの しんがっこうを おとずれ ました)( "Earlier this year Bishop Athanasius Schneider visited two seminaries of the SSPX “in order to conduct a discussion on a specific theological topic with a group of theologians of the SSPX and with His Excellency Bishop Fellay”." ).つい 最近,彼は スペイン語の ウェブサイト "Rorate Caeli"(訳注・5・1)との インタビューに 応じて います.この中で,彼は 多くの 事を 述べて いますが,特に SSPX 訪問に つ(就)いて 前向きな コメントを して います(つい さいきん,かれは すぺいんご の うぇぶ さいと「ろらーて・かえり」〈やくちゅう・ご てん いち〉との いんたびゅーに おうじて います.この なかで,かれは おおくの ことを のべて いますが,とくに せい ぴお じゅっせい かい ほうもんに ついて まえむきな こめんとを して います)( "Just recently he conducted an interview with a Hispanic website, Rorate Caeli en español, in which among other things he commented favourably on these visits." ).彼は SSPX から 厚遇 された 事に 触れ,インタビューの いたる ところ(至る所)で 現職 教皇 フランシスコ への 敬意を 表明 して います(かれは せい ぴお じゅっせい かい から こうぐう された ことに ふれ,いんたびゅーの いたる ところで げんしょく きょうこう ふらんしすこ への けいいを ひょうめい して います)( "He himself was treated with cordial respect, and he observed a respect all around for the reigning Pontiff, Pope Francis." ).彼は 二度の 訪問を 終えた 後「 SSPX の 聖職者や 信徒達 に対し 教皇庁の 正式な 承認を 与える 事を 拒む 大きな 理由は 見当たらない.公式 承認が 出る まで(迄),彼等を 現状 通りの まま 受け入れる べきだ」 と,述べて います(かれは にどの ほうもんを おえたあと〈のち〉「せい ぴお じゅっせい かいの せいしょくしゃや しんとたちに たいし きょうこうちょうの せいしきな しょうにんを あたえる ことを こばむ おおきな りゆうは みあたらない.こうしき しょうにんが でる まで,かれらを げんじょう どおりの まま うけいれる べきだ」 と,のべて います)( "After his visits he could see “no weighty reasons to deny the clergy and faithful of the SSPX the official canonical recognition, and meanwhile they should be accepted as they are.” " ).シュナイダー司教は第二バチカン公会議の重要性を軽視し,合意を妨げる教理上の問題は見当たらない事を確認しました(しゅないだー しきょうは だいに ばちかん こうかいぎの じゅうようせいを けいし し,ごういを さまたげる きょうりじょうの もんだいは みあたらない ことを かくにん しました)( "Bishop Schneider confirmed that he saw no doctrinal problem in the way of an agreement by downplaying the importance of Vatican II: …" ).彼は公会議は主に牧歌的で,過去の出来事だと述べました(かれは こうかいぎは おもに ぼっか てき で,かこの できごと だと のべました)( "… the Council was primarily pastoral, and of its time, he said." ).

では,誰がローマの本当の代表者なのでしょうか?(では,だれが ろーまの ほんとうの だいひょうしゃ なのでしょうか?)( "So who represents the real Rome ? " )ミュラー枢機卿でしょうか,それともシュナイダー司教でしょうか?(みゅらー すうききょう でしょうか,それとも しゅないだー しきょう でしょうか?)( "Cardinal Müller or Bishop Schneider ? " ) 二人とも代表者なのは明白です(ふたり とも だいひょうしゃ なのは めいはく です)( "Certainly both." ).「善玉警官,悪玉警官」の手口が意図されたもの(物)でないなら,明らかに直感的なもの(物)でしょう(「ぜんだま けいかん,あくだま けいかん」の てぐちが いと された もの でない なら,あきらかに ちょっかん てきな もの でしょう)( "If the “good cop, bad cop” routine is not conscious, it is certainly instinctive." ).教皇庁は選択肢をオープンにして置く事で, SSPX を魚の様に扱い続ける事が出来ます(きょうこうちょうは せんたくしを おーぷんに しておく ことで,せいぴお じゅっせい かいを さかな〈うお〉の ように あつかい つづける ことが できます)( "Rome, by keeping its options open, can continue to play the SSPX like a fish, " ).リールを巻き寄せたり緩めたり,希望を持たせたり挫いたり,やがて(軈て)糸が切れるまで(迄)何度もから(絡)めたり伸ばしたり出来ます(りーるを まきよせたり ゆるめたり,きぼうを もたせたり くじいたり,やがて いとが きれる まで なんども からめたり のばしたり できます)( "… reeling it in, letting it out, raising hopes and then dashing them, bending the wire and straightening it again, and again, until finally it snaps." ).悲しいかな(哉),「摺合せ」 とい(言・謂・云)っても, SSPX 指導者達はローマ演出のゲームにおける共謀者なのです(かなしい かな,「すりあわせ」 といっても,せいぴお じゅっせい かい しどうしゃ たちは ろーま えんしゅつの げーむ における きょうぼう しゃ なのです)( "Alas, one may suspect that by “encounters” the leaders of the SSPX are complicit in this game of Rome." ).

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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教理無しですか?それでは,背教が勝つでしょう.
教理は厚くても薄くても保持されなければなりません.
No doctrine ? Then apostasy will win.
Doctrine must be maintained, through thick or thin.

ローマ教皇庁の二人の聖職者が最近,教皇庁と聖ピオ十世会("the Society of St Pius X",以下,「SSPX」と記す) との関係について発言しましたが,両者は互いに矛盾しているように見えます.これについて説明するなら,教皇庁が SSPX に対し,老婆のような古い警察のトリックを仕掛けているということでしょう.「善玉警官と悪玉警官」というお定まりの手口だと,警察は犯人から自供を引き出すとき,初めに手荒な警官を送り込み,犯人がみじめな状態になって,お情けを願いでるようになるまで痛めつけます.そこで,優しい警官が現れ,同情を降り注ぎ,犯人が口を割って自白するよう仕向けます.
Two Roman churchmen have seemed to contradict one another in remarks made recently about relations between Rome and the Society of St Pius X, but one explanation of the contradiction may be that Rome is playing on the Society a police trick as old as the hills. By the “good cop, bad cop” routine, when the police want to get a confession out of a criminal, firstly a brutal policeman is sent in to beat up the criminal until he is in a very sorry condition , requiring all kinds of sympathy. Then a really nice policeman is sent in, oozing with a sympathy which often makes the criminal open up and confess his crime.

今回の場合,「悪玉警官」はほかならぬ教皇庁教理省長官のミュラー枢機卿でしょう.彼は8月初め,ドイツ司教会の公式ウェブサイト katholisch.de とのインタビューに応じ,教皇庁と SSPX との合意について「実質的な新発展はなにもありません.教皇は私たちが『執拗かつ根気強く』話し合いを続けることをお望みです.全面的な和解の前提条件は信仰の本質的問題についての完全な合意に向けた前文の調印です.過去数か月のあいだ,相互信頼を強める目的で異なる路線の摺合せが行われました」 と述べています.
The “bad cop” in this case would be no less than the Prefect for the Congregation of the Doctrine of the Faith, Cardinal Müller, who early this month in an interview with katholisch.de, official website of the German Bishops' Conference, said about a Rome-SSPX agreement that “There is no substantial new development. The Holy Father wishes that we keep trying: “con tenacia e pazienza” – “with tenacity and patience.” The precondition for a full reconciliation is the signing of a doctrinal preamble in order to guarantee a full agreement in the essential questions of the Faith. In the past months, there were encounters of different ways which are meant to strengthen the mutual trust.”

ここでは,SSPX が教皇庁との合意を望むなら,ネオ・モダニスト(新現代主義者)の教皇庁が同意できる教理的文書に調印しなければならないだろうと明示されています.ミュラー枢機卿は「相互信頼を強める目的で」 ローマ教皇庁の人たちと SSPX との間で「異なる路線の摺合せが行われた」 ことを明かすことで「悪玉警官」の役を演じています.SSPX は枢機卿の発言がなかったら表面化しなかったとおもわれる両者間の接触に教皇庁が光を当てたことに満足しているでしょうか?だが,カトリック信仰を持ち続ける人々の中で,一体だれがネオ・モダニストたちとの相互信頼が築かれることで安心するでしょうか?それはさておき,次は「善玉警官」についてです.
Here it is clearly stated that the SSPX will have to sign a doctrinal text agreeable to neo-modernist Rome if it wishes for an agreement with Rome. The Cardinal is also being a “bad cop” when he reveals that there were “encounters of different ways” between Romans and the SSPX “to strengthen mutual trust”. Or is the SSPX happy that Rome is shedding the light of day upon contacts otherwise unknown ? Yet who that has the Catholic faith is re-assured by mutual trust being established with neo-modernists ? But now comes the “good cop”.

今年になってから,アタナシウス・シュナイダー司教が「 SSPX の神学者グループおよびフェレー司教閣下と特定の神学的議題について討議する目的で」 SSPX 主催の二つのセミナーを訪れました.つい最近,彼はスペイン語のウェブサイト Rorate Caeli とのインタビューに応じています.この中で,彼は多くの事を述べていますが,特に SSPX 訪問について前向きなコメントをしています.彼は SSPX から厚遇されたことに触れ,インタビューのいたるところで現職フランシスコ教皇への敬意を表明しています.彼は二度の訪問を終えた後「 SSPX の聖職者や信徒たちに対し教皇庁の正式な承認を与えることを拒む大きな理由は見当たらない.公式承認が出るまで,彼らを現状通りのまま受け入れるべきだ」 と,述べています.シュナイダー司教は第二バチカン公会議の重要性を軽視し,合意を妨げる教理上の問題は見当たらないことを確認しました.彼は公会議は牧歌的で,過去の出来事だと述べました.
Earlier this year Bishop Athanasius Schneider visited two seminaries of the SSPX “in order to conduct a discussion on a specific theological topic with a group of theologians of the SSPX and with His Excellency Bishop Fellay”. Just recently he conducted an interview with a Hispanic website, Rorate Caeli en español, in which among other things he commented favourably on these visits. He himself was treated with cordial respect, and he observed a respect all around for the reigning Pontiff, Pope Francis. After his visits he could see “no weighty reasons to deny the clergy and faithful of the SSPX the official canonical recognition, and meanwhile they should be accepted as they are.” Bishop Schneider confirmed that he saw no doctrinal problem in the way of an agreement by downplaying the importance of Vatican II: the Council was primarily pastoral, and of its time, he said.

では,誰がローマの本当の代表者なのでしょうか?ミュラー枢機卿でしょうか,それともシュナイダー司教でしょうか?二人とも代表者なのは明白です.「善玉警官,悪玉警官」の手口が意図されたものでないなら,明らかに直感的なものでしょう.教皇庁は選択肢をオープンにしておくことで,SSPX を魚のように扱い続けることができます.リールを巻き寄せたり緩めたり,希望を持たせたりくじいたり,やがて糸が切れるまで何度もからめたり伸ばしたりできます.悲しいかな,「摺合せ」 といっても,SSPX 指導者たちはローマ演出のゲームにおける共謀者なのです.
So who represents the real Rome ? Cardinal Müller or Bishop Schneider ? Certainly both. If the “good cop, bad cop” routine is not conscious, it is certainly instinctive. Rome, by keeping its options open, can continue to play the SSPX like a fish, reeling it in, letting it out, raising hopes and then dashing them, bending the wire and straightening it again, and again, until finally it snaps. Alas, one may suspect that by “encounters” the leaders of the SSPX are complicit in this game of Rome.

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教



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訳注・5・1 )"Rorate Caeli" について.

・スペイン語のウェブサイト "Rorate Caeli" =ウェブサイト "Rorate Cæli" のスペイン語版.

・"Rorate Cæli" 読み「ロラーテ・カエリ」.

・"Rorate Cæli" はラテン語〈ウルガタ訳〉の「旧約聖書・イザヤ預言書:第45章8節」からの引用で,邦訳聖書(バルバロ神父訳版)では 『天よ,高くから水をしたたらせ,… 』となっており,続いて 『… 雲は,公正を降らせよ.地が開かれて,救いが生え,正義も芽生えよ.主なる私(=神御自身)がそれをつくった.…』となっている.

・「イザヤ預言書:第45章8節」は,クリスマス時節,「降誕節」に入る直前の「待降節」第3週目の「四季の水曜日(断食の曜日)」のミサ聖祭に於ける「入祭文」で誦(よ)まれる.

・「待降節の四季の水曜日のミサ聖祭」は,待降節中でも特に特色がある.〈聖福音〉は,聖母お告げの場面であり,書簡の代わりに,イザイアの予言を語る.それで,この日は,聖母マリアの祝いともいいうるほどである.

・→「待降節第4主日」について.昔は,この日のミサ聖祭は行わなかった.なぜなら,(待降節の)四季の土曜日の典礼と叙品式(現「叙階式」)とが,土曜日の夜から日曜日にかけて行われたからである.それで,この日のミサ典礼のほとんどは,他のミサ聖祭からとったものである(1955年ローマ・ミサ典書).

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BIBLIA SACRA: PROPHETIA ISAIÆ XLV(45), 8 (latine)

LA SAINTE BIBLE SELON LA VULGATE LATINE : ISAÏE (en hébreu, Yescha ’yahu (Jéhova sauve)) XLV, 8 (français)

THE HOLY BIBLE, DOUAY-RHEIMS VERSION TRANSLATED FROM THE LATIN VULGATE : THE PROPHECY OF ISAIAS XLV, 8 (English)

聖書 旧約/新約 Auctor: Federico Barbaro, s. d. b. / NIHIL OBSTAT Dominicus Kaneko s.d.b. Censor Delegatus Die 24 decembris, 1973 / IMPRIMATUR Petrus S. Shirayanagi Archiepiscopus Tokiensis Die 29 decembris 1973(1980年 カトリックサレジオ修道会)(東京司教認可)(「講談社」発行) … 旧約聖書  第45章8節(日本語)


"Rorate cæli desuper, et nubes pluant iustum: aperiatur terra, et germinet salvatorem: et iustitia oriatur simul: ego Dominus creavi eum."

"Cieux, versez votre rosée d’en haut, et les nuées pleuvent un juste ; que la terre s’ouvre, que la justice naisse en même temps ; moi, le Seigneur, je l’ai créé."

"Drop down dew, ye heavens, from above, and let the clouds rain the just: let the earth be opened, and bud forth a saviour: and let justice spring up together: I the Lord have created him."

天よ,高くから水をしたたらせ,雲は,*公正を降らせよ.地が開かれて,救いが生え,正義も*芽生えよ.主なる私がそれをつくった.

(注釈)

救い45・7-8 )
* 8-1 ヘブライ語の「セデク」は,一般に「正義」と訳されている.「勝利」よりもこのほうが近いと思われる.

* 8-2 イザヤは,メシア(=救世主)的な王をダビドから出る新しい「芽生え」にたとえた(6・13,11・1).エレミアの書(23・5,33・15)と,ザカリアの書(3・8,6・12)にもある「芽生え」はメシアを指す.

(解説:1955年ローマ・ミサ典書より抜粋)
・「四季の断食」は,ローマの教会において,使徒の頃から伝わった風習らしい.

・初代教会では元々毎週水・金・土曜に断食を行う風習があった.四世紀にこの風習がなくなり,四季だけにこの断食の風習が残った.

・現在の「四季の日」は教皇聖グレゴリオ七世(1073‐1085)により定められ(四旬節第一週,聖霊降臨の週間,九月の第三週,待降節第三週),季節を主にささげて,各季節の恵みをこい求めること以外に,神から聖なる司祭をこい求めるために断食と祈りをした.

・昔の習慣によると,十二月の四季に,司祭と助祭の叙任式を行っていたので,教皇ジェラジオ一世(492‐496)のころから,四旬節・聖霊降臨・九月の四季にも行われるようになった.

・ローマの公教会が,この日の指定巡礼聖堂を聖マリア大聖堂としたのは,司祭を神の御母の保護の下に置こうとしたからである.

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本投稿記事・第423回エレイソン・コメンツ「矛盾するローマ人たち?」 "CONTRADICTORY ROMANS ? "( 2015年8月22日付)は2015年9月03日05時35分に掲載されました.
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