2014年11月29日土曜日

385 現職教皇 11/29

エレイソン・コメンツ 第385回 (2014年11月29日)

    1949年1月29日,教皇ピオ12世は教皇の重要性について次の様に述べました:(せんきゅうひゃく よんじゅうく ねん いちがつ にじゅうく にち,きょうこう ぴお じゅうにせいは きょうこうの じゅうようせい について つぎの ように のべました:)( "On January 29, 1949, Pope Pius XII made the following remarks about the importance of the Pope: …" )全くの仮説ですが,もし何時の日かローマ(教皇庁)が物理的に崩壊し,勝者カトリック教会の唯一の象徴であるバチカン・バシリカ(バジリカ〈英語読み〉)(聖堂)がその歴史的な宝物や聖なる墓石を廃墟の下に埋めてしまう事になったとしても,教会が解体・分断される事は決してないでしょう(まったくの かせつ ですが,もし いつのひか ろーま〈きょうこう ちょう〉が ぶつりてきに ほうかいし,しょうしゃ かとりっく きょうかいの ゆいいつの しょうちょう である ばちかん・ばしりか(せいどう)が その れきしてきな ほうもつや せいなる ぼせきを はいきょの したに うめて しまう ことに なった としても,きょうかいが かいたい・ぶんだん される ことは けっして ないでしょう)( "If ever one day – speaking purely hypothetically – material Rome were to collapse; if ever this Vatican basilica, symbol of the one and only victorious Catholic Church, were to bury beneath its ruins the historic treasures and sacred tombs which it encloses, even then the Church would be in no way demolished or split. " )キリストがペトロに与えた約束は真実のまま残り,教皇職は教会と同じ様に,その時生存する(現職の)教皇の上に築かれた,唯一つの壊される事のないものとして,永遠に存続するでしょう.(きりすとが ぺとろに あたえた やくそくは しんじつの まま のこり,きょうこう しょくは きょうかいと おなじ ように,そのとき せいぞん する(げんしょくの)きょうこうの うえに きずかれた,ただひとつの こわされる ことの ないもの として,えいえんに そんぞく するでしょう.)( "Christ's promise to Peter would still hold true, the Papacy would last for ever, like the Church, one and indestructible, being founded on the Pope then living.” " )

    この言葉は古くからの教会教理(原文に加えたのは下線「その時生存する(現職の」だけ)であり,現存の通り,確かに私たちの主イエズス・キリスト御自身の御言葉に基づくもの(マテオ聖福音書:第16章16-18節)ですから(この ことばは ふるく からの きょうかい きょうり〈げんぶんに くわえた のは かせん「そのとき せいぞん する〈げんしょくの〉」だけ〉であり,げんぞんの とおり,たしかに わたくしたちの しゅ いえずす・きりすと ごじしんの みことばに もとづく もの〈まてお せい ふくいんしょ:だい じゅうろく しょう じゅうろく-じゅうはち せつ〉ですから)( "Since these words are classic Church doctrine (only the underlining has been added), resting as they do on Our Lord's own words (Mt. XVI, 16-18), …" ),現職の歴代教皇が公会議派になってしまった1962年以来,数億人のカトリック信徒が同じ様に公会議派,リベラル派になってきたのはさほど驚く事もないでしょう(げんしょくの れきだい きょうこうが こうかいぎはに なって しまった せん きゅうひゃく ろくじゅうに ねん いらい,すうおくにんの かとりっく しんとが おなじように こうかいぎは,りべらるはに なってきたのは さほど おどろく ことも ないでしょう)( "… then it is small wonder if, ever since 1962 when the living Popes became Conciliar, millions upon millions of Catholics have been driven to becoming likewise Conciliar and liberal." ).教皇空位論者が見る唯一つの問題解決は歴代の公会議派教皇が教皇だった事を否定することでしょう.これは常識に思えるかも知れませんが(きょうこう くうい ろんじゃが みる ただ ひとつの もんだい かいけつは れきだいの こうかいぎは きょうこうが きょうこう だった ことを ひてい する ことでしょう.これは じょうしきに おもえる かも しれませんが)( "The only way out of the problem that sedevacantists can see is to deny that the Conciliar Popes have been Popes at all, which can seem to be common sense, …" ),多くのカトリック信徒にとっては,神により現職の教皇の上に築かれるよう意図された教会は教皇が一人もいなかったら過去半世紀(1962-2014年)の間存在出来なかったはずだと考える方が,より常識的だと言えるでしょう(おおくの かとりっく しんとに とっては,かみにより げんしょくの きょうこうの うえに きずかれる よう いと された きょうかいは きょうこうが ひとりも いなかったら かこ はんせいき〈せん きゅうひゃく ろくじゅう に - にせん じゅうよねん〉の あいだ そんぞく できなかった はずだ と かんがえる ほうが,より じょうしき てき だと いえる でしょう)( "… but to most Catholics it seems even more to be common sense that the Church designed by God to rest upon the living Pope cannot have existed for the last half century (1962-2014) without one." ).

    中世時代に絶頂を極めたキリスト文明の退潮が歴代の現職教皇たちによってどのようにして現在の堕落へ導かれたかを振り返るのは簡単です(ちゅうせい じだいに ぜっちょうを きわめた きりすと ぶんめいの たいちょうが れきだいの げんしょく きょうこう たちに よって どのように して げんだいの だらくへ みちびかれたかを ふりかえるのは かんたん です)( "It is easy to see how the decline of Christian civilisation since the height of the Middle Ages has led to the present corruption of the living Popes. " ).神がその退潮を罰する為,その驚くべき堕落をお許しになったのであろうと見るのも容易な事です(かみが そのたいちょうを ばっするため,その おどろくべき だらくを おゆるしに なった ので あろうと みる のも よういな こと です)( "It is easy to see how God can have permitted this appalling corruption to punish that appalling decline. " ).だが,容易に理解できないのは,教会の礎である歴代教皇が神への挑戦であるリベラリズム(自由主義)こそがカトリック的だと信じているのに教会が如何に存続できるのか,という点でしょう(だが,よういに りかい できない のは,きょうかいの いしずえ である れきだい きょうこうが かみ への ちょうせん である りべらりずむ こそが かとりっく てき だと しんじて いる のに きょうかいが いかに そんぞく できるのか,という てん でしょう)( "What is less easy to see is how the Church can still live when the living Popes on whom it is founded are convinced that liberalism, war on God, is Catholic. " ).私たちの主の御言葉には 良い木は悪い実を結ばないし悪い木は良い実を結ばない (新約聖書・マテオ聖福音書:第7章18節)とあります(わたくし たちの しゅ いえずす・きりすとの みことば には よい き は わるい み を むすばない し わるい き は よい み を むすばない 〈しんやく せいしょ・まてお せい ふくいん しょ:だい ななしょう じゅうはっせつ〉とあります)( "In Our Lord's own words, A good tree cannot bring forth evil fruit and an evil tree cannot bring forth good fruit (Mt. VII, 18). " ).

    だが,半分良い木,半分悪い木はそれぞれ半分良い実,半分悪い実を結びます(だが,はんぶん よい き,はんぶん わるい き は それぞれ はんぶん よい み,はんぶん わるい み を むすびます)( "But a tree half good, half bad, can produce fruits half good, half bad. " ).全体として見れば,善と悪の混合体は悪ですがぜんたい として みれば,ぜん と あく の こんごう たい は あく ですが)( "Now taken as a whole, a mixture of good and bad is bad, " ),個々に見れば,その混合体の良い部分が悪い分と同じように悪いということではありませんここに みれば,その こんごう たいの よい ぶぶんが わるい ぶぶんと おなじように わるい という ことでは ありません)( "but that does not mean that taken part by part, the mixture's good parts are as bad as its bad parts. " ).肝臓癌は私を殺すでしょうが,それは私が両肺に癌を持っている事を意味しません(かんぞう がん は わたくしを ころす でしょうが,それは わたくしが りょうはいに がんを もっている ことを いみ しません)( "Cancer in the liver will kill me, but that does not mean that I have cancer in the lungs. " ).現職の聖職者たちは,生身の人々と同じ様に,全てが善人あるいは悪人という訳ではありません(げんしょくの せいしょくしゃ たちは,なまみの ひとびとと おなじ ように,すべてが ぜんにん あるいは あくにん という わけ では ありません)( "Now no living churchman, any more than any man alive, is entirely good or entirely bad. " ).私たちは全て死を迎えるまで変わり続ける混合体です(わたくし たちは すべて しを むかえる まで かわり つづける こんごうたい です)( "We are all a fluctuating mixture until the day we die. " ).従って,歴代の教皇の中で,在位期間中に産み出した果実が全く悪だったという教皇が果たしていたでしょうか?(したがって,れきだい きょうこうの なかで,ざいい きかん ちゅうに うみだした かじつが まったく あく だった という きょうこうが はたして いた でしょうか?)( "So can there ever have been a living Pope whose fruits were entirely evil ? " )答えは「ノー」以外 ありません(こたえは「のー」いがいありません).( "The answer can only be, no. " ).その場合,カトリック教会は過去50年の間,公会議派教皇たちが作り出した半分良い果実によって半分だけ存続し(その ばあい,かとりっく きょうかいは かこ ごじゅうねんの あいだ,こうかいぎは きょうこう たちが つくりだした はんぶん よい かじつに よって はんぶん だけ そんぞくし)( "In which case the Catholic Church can have half-lived for the last 50 years on the half-good fruits of the Conciliar Popes, " ),残り半分は教会を浄化すべく神から許されて存続してきた訳です(のこり はんぶんは きょうかいを じょうか すべく かみ から ゆるされて そんぞく してきた わけです)( "with a half-life permitted by God to purify his Church, " ).神は残り半分が教会を潰すことはお許しにならないでしょう(かみは のこり はんぶんが きょうかいを つぶす ことは おゆるしに ならない でしょう)( "but which he would never permit to go so far as to kill his Church. " ).

    これまで,例えば,パウロ6世は聖職者の欠乏( "the lack of vocations" )(訳注5・1 )を嘆きました(これまで,たとえば,ぱうろ ろくせいは せいしょくしゃの けつぼう〈やくちゅう5・1〉を なげき ました)( "Thus for example Paul VI wept for the lack of vocations." ).ベネディクト16世は伝統を切望しました(べねでぃくと じゅうろくせいは でんとうを せつぼう しました)( "Benedict XVI hankered after Tradition." ).教皇フランシスコでさえ神を人間に引き寄せようとしながらも本気で人間を神に導こうとしています(きょうこう ふらんしすこ でさえ かみを にんげんに ひきよせようと しながらも ほんきで にんげんを かみに みちびこうと しています)( "Even Pope Francis surely means to bring men to God when he drags God down to men." ).歴代公会議派教皇たちの考えは酷く間違っています(れきだいこうかいぎは きょうこう たちの かんがえは ひどく まちがって います)( "So, Conciliar Popes are dreadfully mistaken in their ideas, …" ).彼らは決して曖昧であってはならない信仰について致命的に曖昧です(かれらは けっして あいまいで あっては ならない しんこうに ついて ちめいてきに あいまいです)( "… fatally ambiguous in the Faith where they need to be absolutely unambiguous." ).教会は彼らの下で過去も現在も死にかかっています(きょうかいは かれらの もとで〈したで〉かこも げんざいも しにかかって います)( "The Church has been and is dying beneath them, …" ).だが,彼らの中に依然として残っている良い部分が教会を存続させてきました(だが,かれらの なかに いぜんとして のこっている よい ぶぶんが きょうかいを そんぞく させて きました)( "… but whatever parts in them have still been good have enabled the Church to continue, …" ).ピオ12世が述べたように,彼らは現職の長として現存する教会の本体を存続させる為必要とされてきています(ぴお じゅうにせいが のべたように,かれらは げんしょくの おさとして〈=ちょうとして〉げんぞん する きょうかいの ほんたいを そんぞく させる ため ひつようと されて きています)( "… and they have been needed as living heads to continue the body of the living Church, as Pius XII said." ).そうだとすれば,私たちは彼らが教会を全滅させてしまう等と心配せずに(そうだとすれば,わたくしたちは かれらが きょうかいを ぜんめつ させて しまう などと しんぱい せずに)( "Then let us not fear that they will be allowed to kill off the Church, …" ),彼らのリベラリズムと徹底的に戦い,彼らがカトリックの正道に立ち戻るよう祈願しましょう(かれらの りべらりずむと てってい てきに たたかい,かれらが かとりっくの せいどうに たちもどる よう きがん しましょう)( "… but let us for our part fight their liberalism tooth and nail and pray for their return to Catholic sanity, …" ).何故なら,私たちは教会の命を保つ為彼らを必要としているからです(なぜなら,わたくしたちは きょうかいの いのちを たもつ ため かれらを ひつようと している から です),( "… because we do need them for the life of our Church." ).

    キリエ・エレイソン.


    教会は,如何に悪くても
    現職の教皇たちが必要です.
    (きょうかいは,
    いかに わるく ても
    げんしょくの きょうこうたちが
    ひつよう です.)

    ( "The Church needs living Popes,
     however bad." )


    彼らは,如何に気が狂っても
    教会を全滅させる事は
    ないでしょう.
    (かれらは,
    いかに きが くるっても
    きょうかいを
    ぜんめつ させる
    ことは ないでしょう.)

    ( "Kill off the Church they won't,
     however mad." )


    リチャード・ウィリアムソン司教




* * *



第5パラグラフの訳注5・1
聖職者の欠乏( "the lack of vocations" )について:

・vocations
=(教会においては,聖職を)天職(=「職業」・「自分の生涯の使命」)に選ぶことを指す.
「神〈キリスト〉に呼ばれる・召し出される」,「召命を受ける」,等と表現する.

マテオ聖福音書:第4章18-22節(聖福音の御言葉を追って掲載)

(イエズスは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたガリラヤ北部,異邦人の多いヨルダンのかなたペレアのガリラヤ湖畔で,弟子として漁師ペトロ・アンドレア・ヤコブ・ヨハネを呼ばれた.彼らはすぐ父・舟・網をおいてイエズスに従った.)

・この由来で,公教会では一般にいずれの「職業」" vocations" も「神に呼ばれて従事する天職」を意味し,それぞれの職業に特定の保護の聖人(守護聖人)が置かれている.

・霊魂を持たない動物と異なり,霊魂を持つ人間には,地上に生まれ出でて「単に生計を営み,そして死去する」以上の意義が,人生に課せられている.

・人間は本来,自分がこの世に生まれて来た真の意義・目的を正しく認識し確信して生きるべく,真の創造主・真の神に創造されて存在している.

・あらゆる人間は,真の神の普遍の慈愛・正義・憐み・赦し・信仰・希望に立ち,
この世で自分の存在の真の意義についての正しい確信を保ち,
真の神の御心に適った真実の職業に邁進して生涯を生きて終わることが,
真の幸福の秘訣である.

公教会の主祷文・天使祝詞・栄唱は,真の神の御独り子がお教えになった人間の真の幸福を約束する祈りである.(祈祷文を追記いたします)


・公教要理(カトリック要理)
1.人は何のために,この世に生れて来ましたか.
人がこの世に生れて来たのは,天主(=神)を知り,天主を愛し,天主に仕えて,遂に天国の幸福を得るためであります.」

・人間となり,人間を救うために(天より)下られた真の神の御独り子(=唯一の救世主=キリスト)イエズスの聖福音の御言葉:

新約聖書・マテオ聖福音書:第4章4節,第二法の書:第8章3節
人はパンだけで生きるのではない. 神の口から出るすべてのことばによって生きる.』

・「地上のあらゆる生き物の中で人間のみが霊魂を持つ」
=「神の似姿に創造された地上で唯一の生き物」
→人間は,肉体の他に,霊である神に似せて「霊魂をも併(あわ)せ持った唯一の生き物」として,全能の真の神により地上に創造された.

・霊と真理は世に普遍的な存在である.人種や身分・宗教等の別によらない.

→ヨハネ聖福音書:第4章24節(第1-5章…).

『…イエズスは,「婦人(サマリア人のある女)よ,私の言うことを信じなさい.
*この山でもなくエルサレムでもなく,あなたたちが御父を礼拝する時が来る.
あなたたちは知らないものを拝み,私たちは知っているものを拝んでいる.
救いはユダヤ人から来る.
まことの礼拝者が霊と真理をもって御父を拝む時が来る,いやもう来ている.
御父はそういう礼拝者を望まれる.
神は霊であるから,礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ」と言われた.…』
*シケムに近いガリジムの山

・人間の生命の起源たる神は,人生の真の意味そのものである.

・「神」とは,「大宇宙・自然の摂理」と同意義である.世のあらゆる存在は神のお許しのもとに存在している.

・神はあらゆる事を「慈愛・正義・善」の故に行われるのであり,限界ある人間には,全能の神の存在に対する信仰(見ずして信じる事〈=つまり見えなくても神は唯一の全能者・真実

・善良・正義・慈愛・慈悲・謙遜を愛し,悪を憎まれる方であると信じる事〉)なくして神の御意志(=真理)を理解する事は決して出来ない.


* * *

キリストの代理者たる教皇の天職の意義は永遠に変わらない.

→キリストの御言葉:マテオ聖福音書:第24章35節

天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ.』









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(注:本投稿記事〈第385回エレイソン・コメンツ「現職教皇」 "LIVING POPES" 〉は2015年2月9日22:50時に掲載されました.)

2014年11月22日土曜日

384 40周年 11/22

エレイソン・コメンツ 第384回 (2014年11月22日) 

    1974年11月21日,ルフェーブル大司教は自分と自分に従う司祭や一般信徒たちが第二バチカン公会議のもたらしたカトリック教会および宗教の変更に反対の立場を取る理由を示す歴史的な宣言を出しました.昨日(11月21日)はその40周年記念日でした (せん きゅうひゃく ななじゅう よねん じゅういち がつ にじゅういち にち,るふぇーぶる だいしきょうは じぶんと じぶんに したがう しさいや いっぱん しんと たちが だいに ばちかん こうかいぎの もたらした かとりっく きょうかい および しゅうきょうの へんこうに はんたいの たちばを とる りゆうを しめす れきしてきな せんげんを だしました.さくじつは その よんじゅっしゅうねん きねんび でした)( "Yesterday was the 40th anniversary of Archbishop Lefebvre’s historic Declaration on November 21, 1974, of the reasons for which he and the priests and laity following him were taking their stand against the total change of the Catholic Church and religion being wrought in the wake of the Second Vatican Council." ).宣言はそれが記された日と同じ様に今日でも新鮮なままです(せんげんは それが しるされた ひと おなじように こんにち でも しんせんな まま です.)( "The Declaration is a fresh today as it was on the day when it was written, …" ).その理由は神の真のカトリック教が不変の真実であるのに対し( "… because the true Catholic religion of God is unchangingly true, …" ),公会議派の人間の宗教はどう見ても間違っており,しかもそれが今日までローマ(教皇庁)を占拠し続けているからです(その りゆうは かみの まことの かとりっく きょうが ふへんの しんじつで あるのに たいし,こうかいぎはの にんげんの しゅうきょうは どうみても まちがって おり,しかも それが こんにち まで ろーま〈きょうこう ちょう〉を せんきょ しつづけて いるから です)( "… while the Conciliar religion of man is resolutely false and it is occupying Rome more than ever." ).

    ルフェーブル大司教の宣言は簡潔な10節で構成されており,以下に示す通り,全体で50行余りです.即ち,: (るふぇーぶる だいしきょうの せんげんは かんけつな じゅっせつで こうせい されて おり,いかに しめす とおり,ぜんたいで ごじゅう ぎょう あまり です.すなわち,:)( "The Declaration consists of ten brief paragraphs, little more than 50 lines in all: " )
1.私たちはカトリック・ローマ,永遠のローマに忠実に固執します(わたくしたちは かとりっくの ろーま,えいえんの ろーまに ちゅうじつに こしつ します)(訳注2-1).( "1/ We cleave to Catholic Rome, eternal Rome." ).
2.私たちは公会議派ローマ,ネオ・プロテスタント(新プロテスタント主義),ネオ・モダニスト(新現代主義)を拒否します(わたくし たちは,こうかいぎは ろーま,ねお・ぷろてすたんと〈しん ぷろてすたんと しゅぎ〉,ねお・もだにすと〈しん げんだい しゅぎ〉を きょひ します.)( "2/ We refuse Conciliar Rome, neo-Protestant and neo-modernist." ).
3.公会議派の改革はカトリック教会を破壊し,私たちのカトリック信仰を衰退させます(こうかいぎはの かいかくは かとりっく きょうかいを はかいし,わたくしたちの しんこうを すいたい させます.)( "3/ The Conciliar reform is destroying the Catholic Church and diminishing our Catholic Faith, …" ),
4.天から遣わされた御使い(=天使)と同じ様に,(てん から つかわされた みつかい〈=てんし〉と おなじように,)( "4/ … as not even an angel from Heaven has the right to do (Galatians I, 8). " )
5.私たちは伝統を選び,諸々の革新を拒みます(わたくしたちは でんとうを えらび,もろもろの かくしんを こばみます)( "5/ We choose Tradition, we refuse innovations." ).
6.教会内の全てが,長い年月を経たカトリック教の教理に反するやり方で新しく書き換えられようとしています (きょうかい ないの すべてが,ながい ねんげつを へた かとりっく きょうの きょうりに はんする やりかたで あたらしく かきかえられようと しています)( "6/ Everything in the Church is being renewed in a way opposite to age-old Catholic doctrine." ).
7.公会議派の改革は異端に始まり異端に終わるものですから,カトリック教徒たちには受け入れ難いものです(こうかいぎはの かいかくは いたんに はじまり いたんに おわる もの ですから,かとりっく きょうと たちには うけいれがたい もの です)( "7/ The Conciliar reform, coming from heresy and resulting in heresy, is unacceptable to Catholics, …" ).
8.従って,私たちは伝統派の司祭たちを育み続けます(したがって,わたくしたちは でんとうはの しさいたちを はぐくみ つづけ ます)( "8/ … so we shall continue to form Traditional priests." ).
9.そして,私たちは何時の世も変わらないカトリックの教えと実践を守ります(そして,わたくしたちは いつのよも かわらない かとりっくの おしえと じっせんを まもります)( "9/ And we shall cleave to the Catholic teaching and practice of all time, …" ).
10.私たちは,そうする事で真の忠実なカトリック教徒のままで居られると固く信じるからです(わたくしたちは,そうする ことで まことの ちゅうじつな かとりっく きょうとの ままで いられると かたく しんじる からです)( "10/ … being convinced that by so doing we will remain truly faithful Catholics." ).

    先ず初めに,宣言がカトリックのローマと公会議派のローマ(1と2)を明確かつ鋭く区別している点に注目して下さい(まず はじめに,せんげんが かとりっくの ろーまと こうかいぎはの ろーま〈1と2〉を めいかく かつ するどく くべつ している てんに ちゅうもく して ください)( "Notice firstly the clear and sharp distinction (1 and 2) between Catholic Rome and Conciliar Rome." ).公会議派ローマがカトリック・ローマの諸機構を占拠していると述べるのは真実ですが(こうかいぎは ろーまが かとりっく・ろーまの しょ きこうを せんきょ していると のべるのは しんじつ ですが),( "Now it is true to say that Conciliar Rome is occupying the structures of Catholic Rome, …" ),だから公会議派教会はカトリック教会に外ならないと述べるのは,ナイチンゲールの巣を占拠するカッコウをナイチンゲールと呼ぶくらい馬鹿げた事です(だから こうかいぎは きょうかいは かとりっく きょうかいに ほかならないと のべるのは,ないちんげーるの すを せんきょ する かっこうを ないちんげーると よぶ くらい ばかげた こと です)( "… but to say that the Conciliar Church is therefore none other than the Catholic Church is as foolish as to say that a cuckoo is a nightingale because it occupies a nightingale’s nest." ).(また大司教は公会議派ローマ,カトリック・ローマについて書いただけで,公会議派教会やカトリック教会について書いたのではない,と述べるのは言葉を弄ぶようなものです.)(〈また だいしきょうは こうかいぎは ろーま,かとりっく・ろーまに ついて かいただけで,こうかいぎは きょうかいや かとりっく きょうかいに ついて かいたのでは ない,とのべるのは ことばを もてあそぶ ような もの です〉)( "… (And to say that the Archbishop wrote of Conciliar and Catholic “Rome” and not of the Conciliar and Catholic “Church” is to quibble with words.) " )

    だがルフェーブル大司教は公会議派のカッコウとカトリックのナイチンゲールを何によって区別しているのでしょうか?(だが るふぇーぶる だいしきょうは こうかいぎは の かっこうと かとりっくの ないちんげーるを なにに よって くべつ している のでしょうか?)( "But how does the Archbishop distinguish between Conciliar cuckoo and Catholic nightingale ? " )それは教理によってです!(それは きょうりに よって です!)( "By doctrine ! " )
公会議派の論理(=公会議主義 "Conciliarism" )はネオ・プロテスタント,ネオ・モダニスト(=新プロテスタント主義,新現代主義)です(2)(こうかいぎはの ろんり〈こうかいぎ しゅぎ〉は ねお・ぷろてすたんと,ねお・もだにすと〈=しん ぷろてすたんと しゅぎ,しん げんだい しゅぎ〉です〈2〉)( "Conciliarism is neo-Protestant and neo-modernist (2)." ).
カトリック教理に反するやりかたで(6),私たちの信仰は衰退させられています(3)(かとりっく きょうりに はんする やりかたで〈6〉,わたくしたちの しんこうは すいたい させられて います〈3〉)( "Our faith is being diminished (3), in opposition to Catholic doctrine (6)." ).
公会議派の論理は異端です(7)(こうかいぎはの ろんりは いたんです〈7〉)( "Conciliarism is heresy (7)." ).
私たちはカトリックの教えを忠実に守ります(9)(わたくしたちは かとりっくの おしえを ちゅうじつに まもります〈9〉)( "We cleave to Catholic teaching (9)." ).
上記の宣言要約は大司教が教理について述べられた事全てを言い表している訳ではありません(じょうきの せんげん ようやくは だいしきょうが きょうりに ついて のべられたこと すべてを いいあらわして いる わけ では ありません.)( "And the brief summary above does not give all of the Archbishop’s references to doctrine." ).
カトリック教理は大司教の心と行動を導いた北極星でした(かとりっく きょうりは だいしきょうの こころと こうどうを みちびいた ほっきょくせい でした)( "Catholic doctrine was the Northern star of his mind and action." ).
現代人は心と行動の自由を望み,それが実質的には心を駄目にしてしまいます(げんだいじんは こころと こうどうの じゆうを のぞみ,それが じっしつてき には こころを だめに して しまいます)( "It is because modern man wants freedom for his mind and action that he in effect wants his mind to be reduced to mush, …" ).
そうなると,教理は単に儀礼的な機能しか持たなくなります(そうなると,きょうりは たんに ぎれい てきな きのう しか もたなく なります)( "… whereupon doctrine has no more than a merely decorous function." ).
もはや,それは人間の行動を律する事はなくなります(もはや,それは にんげんの こうどうを りっする ことは なくなります)( "It has no more bite upon man’s action,…" ).
教理など重要でないとする破滅的な教理は話の外です(きょうり など じゅうよう でない とする はめつてきな きょうりは はなしの ほか です.( "… except the one disastrous doctrine that doctrine is unimportant." ).
だが,この破滅的な教理は人間に全面的な影響力を持ち得ます(だが,この はめつ てきな きょうりは にんげんに ぜんめんてきな えいきょうりょくを もちえます)( "And that disastrous doctrine has a total bite. " ).
だからこそ,ルフェーブル大司教が自ら創設した聖ピオ十世会( SSPX )内部で儀礼的なマスコット程度の存在にしか見られなくなっている訳です(だからこそ,るふぇーぶる だいしきょうが みずから そうせつ した せいぴお じゅっせい かい ないぶで ぎれい てきな ますこっと ていどの そんざいに しか みられなく なっている わけです)( "Here is why the Archbishop is being reduced within the Society of St Pius X, which he founded, to little more than a decorous mascot." ).

    SSPX ,教会そして世界の中に教理の影響力,現実感,真実を愛する心を取り戻すには何が必要なのか問わざるをえません(せいぴお じゅっせい かい,きょうかい,そして せかいの なかに きょうりの えいきょう りょく,げんじつ かん,しんじつを あいする こころを とりもどす には なにが ひつよう なのか とわざるを えません)( "One is impelled to ask, what is it going to take to restore the bite of doctrine, the sense of reality and the love of truth in Society, Church and world ? " ).それは間違いなく悩み,苦しみ(=苦難・苦悩・患難)でしょう(それは まちがいなく なやみ,くるしみ〈=くなん・くのう・かんなん〉でしょう)( "Surely suffering, no less." ).(ロシアの作家)ソルジェニーツィンは現代人が自分の罪深い生き方で作り上げたコンクリートの箱をこじ開けるには鉄格子のような出来事が起きなければならないという趣旨の言葉を残しています(〈ろしあのさっか〉そるじぇにーつぃんは げんだいじんが じぶんの つみぶかい いきかたで つくりあげた こんくりーとの はこを こじあける には てつごうしの ような できごとが おきなければ ならない という しゅしの ことばを のこして います)( "Solzhenitsyn made a remark to the effect that it will take the iron bar of events to smash open the concrete casing which modern man has built around his sinful way of life." ).真に,主よ憐れみ給え(まことに,しゅよ あわれみ たまえ)( "Truly, Lord have mercy." ).

    キリエ・エレイソン.

    40年前,偉大な大司教は,
    (よんじゅうねん まえ,
    いだいな だいしきょうは,)

     ( "A great Archbishop, forty years ago," )

    公会議派の教理を推し量り,
    “No” と拒否されました.
    (こうかいぎはの きょうりを おしはかり,
     「のー」と きょひ されました.)

    ( "Measured the Council’s doctrine,
     and said “No”. " )

    リチャード・ウィリアムソン司教




* * *



第2パラグラフの訳注2-1

「私たちはカトリック・ローマ,永遠のローマに忠実に固執します」
"1/ We cleave to Catholic Rome, eternal Rome."
の意義について

・真の神の御独り子・救世主(=メシア,キリスト)イエズスの後継者である,初代ローマ司教=聖ペトロの座が置かれるローマ・バチカンは,
来るべき永遠の都,天のエルザレム(=イェルザレム Ierusalem, Jerusalem)の,地上に於ける象(かたど)りである.

・天のエルザレムは,救世主を信じる全ての者の霊魂の故郷(ふるさと)である.

→新約聖書・使徒聖パウロのヘブライ人への書簡:第13章14節
"Non enim habemus hic manentem civitatem, sed futuram inquirimus."(羅)
"Car nous n'avons point ici de cité permanente, mais nous cherchons la cité future."〈仏〉
"For we have not here a lasting city, but we seek one that is to come."(英)
「私たちはここに不変の都をもたず,*未来の都を探している.」
* 未来の都=天のエルザレム

・「永遠のローマ」=「永遠の都」=「天のエルザレム」
(「地上のエルザレム」ではない.)

・救世の御業を成し遂げられた神の御独り子イエズス・キリストを信じ,より良い命(=永遠の命)に召される為に現在を忍耐強く善良に生きようとする人だけが入ることを許される).

・永遠のローマは,天地の王イエズス・キリストの王国.

・救世主(真の神の御独り子,われらの主イエズス・キリスト)を信じるという事は,
キリストのお受けになった受難・(十字架上の)死・復活を,自らの人生に重ね合わせ,
キリストの全生涯に起こった出来事は,人間の目では見ることが出来ない真実の神の御前に,
人間が心の中で持てる唯一の真の神への信徳・望徳・愛徳により,
目前の人生を最期まで生き抜く全ての人にとって,普遍的な真理であるという事を信じること.

・私たち人類の真の命は,地上の肉体にではなく霊魂に在る.肉体は地上における仮の住まい,地上は霊魂の仮の住まいである.霊魂の本当の住まいは,天にある.

・真の人間は霊に於いて生きる.
霊魂は不滅であり,救世主イエズス・キリストは今も生きておられ天地を支配される.
また,キリストを信じる者の霊魂は,今すでに永遠の生命に生きている.

→新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第6章19-21節
主イエズス・キリストのみことば…
"Nolite thesaurizare vobis thesauros in terra: ubi ærugo, et tinea demolitur: et ubi fures effodiunt, et furantur.
Thesaurizate autem vobis thesauros in cælo: ubi neque ærugo, neque tinea demolitur, et ubi fures non effodiunt, nec furantur.
Ubi enim est thesaurus tuus, ibi est et cor tuum."
"Ne vous amassez point des trésors sur la terre, où la rouille et les vers rongent, et où les voleurs fouillent et dérobent.
Mais amassez-vous des trésors dans le ciel, où ni la rouille ni les vers ne rongent, et où les voleurs ne fouillent ni ne dérobent.
Où en effet est ton trésor,  là est aussi ton coeur."
"Lay not up to yourselves treasures on earth: where the rust, and moth consume, and where thieves break through and steal.
But lay up to yourselves treasures in heaven: where neither the rust nor moth doth consume, and where thieves do not break through, nor steal.
For where thy treasure is, there is thy heart also."
「自分のためにこの世に宝を積むな.ここではしみと虫が食い,盗人が穴をあけて盗み出す. 
むしろ自分のために天に宝を積め.そこではしみも虫もつかず,盗人が穴をあけて盗み出すこともない.
あなたの宝のあるところには,あなたの心もある.」
 
・この世(大宇宙・地上)は過ぎ去る(滅びる)が,神の御言葉は滅びない.

→新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第24章35節
主イエズス・キリストのみことば…
"Cælum, et terra transibunt, verba autem mea non præteribunt."
"Le ciel et la terre passeront, mais mes paroles ne passeront point."
"Heaven and earth shall pass, but my words shall not pass."
「天地は過ぎ去る,だが私のことばは過ぎ去らぬ」 

***

聖福音書

1. 目撃者が伝えた出来事
ルカによる聖福音書・第1章1-4節

 私たちの間に起きた出来事の, 最初からの目撃者で, みことばの奉仕者となった人々が,私たちに伝えてくれたままに書き残そうとして,多くの人が手をつけたので,尊いテオフィロ,私も,すべてのことをはじめから詳しく調べ,順序よく書いてあなたに送るのがよいと思った.それは,あなたの聞いた教えの確実さを知らせるためである.

 2. 神のみ言葉――イエズスはおん父を啓示する――
ヨハネによる聖福音書・第1章1-18節

*はじめにみことばがあった.みことばは神とともにあった.みことばは神であった.みことばははじめに神とともにあり,*万物はみことばによって創られた.創られた物のうちに,一つとしてみことばによらず創られたものはない. みことばに生命があり,生命は人の光であった.*光はやみ(闇)に輝いたがやみはそれを悟らなかった.

さて,神から遣わされた人がいて,その名をヨハネと言った.この人は,光を証明するために,またすべての人が彼によって信じるために,証人として来た.この人は光ではなく,光を証明するために来た.

*すべての人を照らすまことの光は,まさにこの世に来るところであった. みことばは世にあり,世はみことばによって創られたが,世はそれを認めなかった.*みことばはご自分の家に来られたが,その人々は受け入れなかった. しかし,その方を受け入れた人々にはみな神の子となれる力を授けた.そのみ名を信じるすべての人たち,*彼らは血統(ちすじ)ではなく,肉体の意志ではなく,人の意志ではなく,ただ神によって生まれた人々である.

*みことばは肉体となって,われわれの中で*住まわれた.われわれはその栄光を見た,それは,御独り子として御父から受けた栄光であり,彼は恩寵と真理に満ちておられた.ヨハネは彼を証明し,「『私のあとで来るお方は,私よりすぐれた方で,私より前に存在しておられた』と言ったのはこの方のことだ」と宣言した.*そうだ,われわれはその満ちあふれるところから恩寵に次ぐ恩寵を受けたのである.なぜなら,律法はモイゼを通じて与えられたが,恩寵と真理とはイエズス・キリストによってわれわれの上に来たのである.神を見奉った人は一人もいない.御父のふところにおいでになる御独り子の神がこれをお示しになった.

引用文献:合併版聖福音書/聖書 フェデリコ・バルバロ神父 編

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(注:本投稿記事〈第384回エレイソン・コメンツ「40周年」"FORTIETH ANNIVERSARY"〉は2015年1月22日22:50時に掲載されました.)

2014年11月15日土曜日

383 裏話 V 11/15

エレイソン・コメンツ 第383回 (2014年11月15日)

    フェレー司教がカトリック教伝統派と第二バチカン公会議派を和解させることで聖ピオ十世会( SSPX )と教会を共に救おうと周到に用意した計画が,同会の同僚の一人が「政治的に不適当な」見解を明らかにしたことが世界中に公表されたため,2009年1月に不発に終わってしまいました( "When Bishop Fellay's long-laid plans to save the Society of St Pius X and the Church by reconciling them through a blending of Tradition with the Council were blown out of the water in January of 2009 by the worldwide publicity given to the totally “politically incorrect” views of a colleague in the SSPX, …" )(ふぇれー しきょうが でんとうはと だいに ばちかん こうかいぎを わかい させる ことで せいぴお じゅっせい かいと きょうかいを ともに すくおうと しゅうとうに ようい した けいかくが,どうかいの どうりょうの ひとりが「せいじ てきに ふてきとうな」けんかいを あきらかに した ことが せかいじゅうに こうひょう された ため,にせん きゅうねん いちがつに ふはつに おわって しまいました).そうした和解が叶わない夢だった訳ではなかっただけに,その時周りの人々は同司教に同情したかもしれません( "… one might have sympathised with him, were such a blending not an impossible dream." )(そうした わかいが かなわない ゆめ だった わけでは なかった だけに,そのとき まわりの ひとびとは どうしきょうに どうじょう したかも しれません).だが,神御自身の教会と「人間の手作業の結実」である公会議派の模造教会とは,油に水,或いは真実に嘘(を混ぜるのも同然)で同じ様に交わる事はありません( "But God's own Catholic religion mixes with its Conciliar imitation, “fruit of the work of human hands”, like oil mixes with water, or truth with falsehood." )(だが,かみ ごじしんの きょうかいと「にんげんの てさぎょうの けつじつ」である こうかいぎはの もぞう きょうかい とは,あぶらに みず,あるいは しんじつに うそ〈をまぜるのとどうぜん〉で おなじように まじわる ことは ありません).1988年まで記憶を辿る事が出来るカトリック信徒たちは,ルフェーブル大司教が SSPX を救う為のそのような努力を「自殺作戦」,即ち SSPX だけでなく同会が普遍教会の為に出来るかも知れないあらゆる事を無にする自殺行為である,と評したのを思い出すでしょう( "Catholics with memories reaching back to 1988 could remember Archbishop Lefebvre branding any such effort for the SSPX as “Operation Suicide”, suicide firstly for the SSPX but also for anything the SSPX might have been able to do for the Universal Church." )(せん きゅうひゃく はちじゅう はちねん まで きおくを たどる ことが できる かとりっく しんと たちは,るふぇーぶる だいしきょう が せいぴお じゅっせい かいを すくう ための そのような どりょくを「じさつ さくせん」,すなわち せいぴお じゅっせい かい だけでなく どうかいが ふへん きょうかいの ために できる かもしれない あらゆる ことを むにする じさつこうい である,と ひょうした のを おもいだす でしょう)

    従って,雑念を持たないカトリック信徒たちは,同じ月に神意が全世界にメディアを張り巡らせる教会の敵たちを使って,公会議派と伝統派を和解させようとした教皇ベネディクト16世とフェレー司教の共同作業を吹き飛ばした時,ほっと安堵の溜息を吐きました( "Therefore clear-minded Catholics breathed a great sigh of relief when in that month Providence used the Church's enemies with their wordwide media to torpedo the joint efforts of Benedict XVI and Bishop Fellay to blend Council and Tradition." )(したがって,ざつねんを もたない かとりっく しんと たちは,おなじ つきに しんいが ぜんせかいに めでぃあを はりめぐらせる きょうかいの てきたちを つかって,こうかいぎはと でんとうはを わかい させようと した きょうこう べねでぃくと じゅうろくせいと ふぇれー しきょうの きょうどう さぎょうを ふきとばした とき,ほっと あんどの ためいきを つきました).そして,そのような信徒たちは自分たちの考えが正しかった事を神意によってドラマチックながらも慎ましやかに確認してもらえたと感じたかも知れません( "And such Catholics may have had dramatic but discreet confirmation from Providence that they were thinking correctly." )(そして,そのような しんとたちは じぶんたちの かんがえが ただしかった ことを しんいに よって どらまちっく ながらも つつましやかに かくにんして もらえたと かんじた かも しれません)

    ベネディクト16世は SSPX の4名の司教が1988年に聖別された直後にローマ教皇庁が公表した同4名の破門を解禁しました( "The “lifting” by Benedict XVI of the 1988 “excommunications” of the four SSPX bishops declared by Rome immediately upon their consecration, …" )(べねでぃくと じゅうろく せいは せいぴお じゅっせい かいの よんめいの しきょうが せんきゅうひゃく はちじゅう はちねんに せいべつ された ちょくごに ろーま きょうこう ちょうが こうひょう した どう よんめいの はもんを かいきん しました).そして,フェレー司教はこの決定をもたらした直接の要因は,私たちの聖母のご介入,即ち SSPX が2008年末に第2回ロザリオ聖戦を組織した事だと公然と述べました( "… was directly attributed by Bishop Fellay, in public, to the intervention of Our Lady, thanks to the second SSPX Rosary Crusade at the end of 2008. )(そして,ふぇれー しきょうは この けっていを もたらした ちょくせつの よういんは,わたくしたちの せいぼの ごかいにゅう,すなわち せいぴお じゅっせい かいが にせん はちねん すえに だいにかい ろざりお せいせんを そしきした ことだと こうぜんと のべました).だが,同じ年の早い時期に聖母は使者を通してフェレー司教に今回のロザリオ聖戦がロシア奉献( "the Consecration of Russia" )実現を目的としないなら,信徒の捧げたロザリオ祈祷を他の目的の為に使うと告げておられました( "Yet she had told him through her messenger early in the same year that if the Crusade was not this time dedicated to the Consecration of Russia, she would use the rosaries prayed for some other purpose." )(だが,おなじ としの はやい じきに せいぼは ししゃを とおして ふぇれー しきょうに こんかいの ろざりお せいせんが ろしあ ほうけん じつげんを もくてきと しないなら,しんとの ささげた ろざりお きとうを ほかの もくてきの ために つかうと つげて おられました).もし,このメッセージが本当なら,神は2008年10月に SSPX がルルド巡礼の際に執り行なった記念祭式典で聖母を教会政治の為に利用した事を快く受け止めなかった筈です( "If these messages are true, Heaven cannot have taken too kindly to her having been manipulated for Church politics at the SSPX Jubilee celebration in Lourdes of October, 2008." )(もし,この めっせーじが ほんとう なら,かみは にせん はちねん じゅうがつに せいぴお じゅっせいかいが るるど じゅんれいの さいに とりおこなった きねんさい しきてんで せいぼを きょうかい せいじの ために りよう したことを こころよく うけとめなかった はずです)

    何れにせよ,破門「解禁」3週間後の2009年2月11日,スイス・エコンヌにある SSPX 本部の神学生たちが近くの山へ遠足に出掛けた際,その中の3名が雪崩に遭遇し山中の冷たい湖に落ちて溺死しました( "In any case, when on February 11, 2009, three weeks after the “lifting”, seminarians from the SSPX mother-house in Écône, Switzerland, were making a recreational excursion in the mountains nearby, three of them were caught in an avalanche, swept downhill and drowned in an icy mountain lake. " )(いずれに せよ,はもん「かいきん」さんしゅうかんご の にせん きゅうねん にがつ じゅういち にち,すいす・えこんぬに ある せいぴお じゅっせい かい ほんぶの しんがくせい たちが ちかくの やまへ えんそくに でかけた さい,そのなかの さんめいが なだれに そうぐうし さんちゅうの つめたい みずうみに おちて できし しました).2月11日とは何の日だったのでしょうか? 私たちのルルドの聖母の祝日です( "And what is February 11 ? The Feast-day of Our Lady of Lourdes. " )(にがつ じゅういち にち とは なんの ひ だった のでしょうか? わたくしたちの るるどの せいぼの しゅくじつ です)

    これは偶然の一致だったのでしょうか?( "Mere coincidence ? " )(これはぐうぜんのいっちだったのでしょうか?)それとも,エレイソン・コメンツで取り上げている裏話と外で起きた2回のロザリオ聖戦との一致の様に,神が実際に起きた出来事を通して御話しになったという事でしょうか?( "Or Heaven speaking through events, by one more correspondence between the inside story of these messages and the outside story of the first two Rosary Crusades ? " )(それとも,えれいそん・こめんつで とりあげている うらばなしと ほかで おきた にかいの ろざりお せいせん との いっちの ように,かみが じっさいに おきた できごとを とおして おはなしに なった ということ でしょうか?) この点は読者ご自身で判断して下さい( "Readers will judge for themselves." )(このてんはどくしゃごじしんではんだんしてください).もし読者が新協会("Newsociety")が新教会("Newchurch")の公式承認を得ようとしているのは正しい道を辿っていると信じるのであれば( "If they are convinced that the Newsociety is on the right track when it seeks official approval from the Newchurch, …" )(もし どくしゃが しんきょうかい〈にゅー・そさいえてぃ〉が しんきょうかい〈にゅー・ちゃーち〉の こうしき しょうにんを えようと して いるのは ただしい みちを たどって いると しんじる のであれば)この一連の諸々のメッセージは真面目に取り上げるに値しない「私的暴露」のひとつに過ぎないと難なくはねつけることが出来るでしょう( "… they will have no difficulty in dismissing this series of messages supposedly from Heaven as one more “private revelation”, unworthy of serious consideration." )(この いちれんの もろもろの めっせーじは まじめに とりあげるに あたい しない「してき ばくろ」の ひとつに すぎないと なんなく はねつける ことが できるでしょう).だが反対に,読者が新協会も新教会も間違った道を辿っていると判断するなら( "On the other hand if in their judgment both Newsociety and Newchurch are on the wrong track, …" )(だが はんたいに,どくしゃが しんきょうかい〈にゅー・そさいえてぃ〉も しんきょうかい〈にゅー・ちゃーち〉も まちがった みちを たどって いると はんだん するなら),ロシアの奉献を無視した為世界が想像を絶する災難の淵に立っている中で,私たちの聖母が SSPX の組織した諸々のロザリオ祈祷を通してもう一度ロシアの奉献を実現しようとなさっておられると考えるのは理に適うでしょう( "… then it would make sense that, the world being on the brink of unimaginable disaster for having neglected the Consecration of Russia, Our Lady made one more attempt to obtain that Consecration through prayers launched by the SSPX." )(ろしあの ほうけんを むしした ため せかいが そうぞうを ぜっする さいなんの ふちに たっている なかで,わたくしたちの せいぼが せいぴお じゅっせい かいの そしき した もろもろの ろざりお きとうを とおして もういちど ろしあの ほうけんを じつげん しようと なさって おられると かんがえる のは りに かなう でしょう)

    SSPX が教会を救う為何もしなかったと言っているのではありません( "Not that the SSPX was ever the salvation of the Church, …" )(せいぴお じゅっせい かいが きょうかいを すくう ため なにも しなかったと いっている のでは ありません).ただ,同会がロザリオ聖戦の祈祷を正しい目的の為に活用していたなら,私たちの聖母が使者にお伝えになったように( "… but that if its prayers had been rightly directed, then as Our Lady gave her messenger to understand, …" )(ただ どうかいが ろざりお せいせんの きとうを ただしい もくてき のために かつよう していた なら,わたくしたちの せいぼが ししゃに おつたえになった ように),聖母はご自分の御子(また同時に神の御独り子でもあられるイエズス・キリスト)を通じてロシアの奉献に必要な恩寵を(イエズス・キリストの御父なる)神より引き出すことがお出来になったであろうし( "… she could have obtained from her Son the graces necessary to obtain that Consecration, …" ),それによって SSPX ,教会,世界を救済しておられたかもしれません( "… and by it she could have saved both SSPX and Church and world." )(せいぼは ごじぶんの おんこ〈また どうじに かみの おんひとりご でも あられる いえずす・きりすと〉を つうじて ろしあの ほうけんに ひつような おんちょうを〈いえずす・きりすとの おんちち なる〉かみ より ひきだすことが おできに なったであろうし,それによって せいぴお じゅっせい かい,きょうかい,せかいを きゅうさい して おられたかも しれません).こぼしてしまったミルクを嘆いても何の役にも立ちません(済んだ事を嘆いても仕方がありません)( "It is of no use now to “cry over spilt milk”." )(こぼして しまった みるくを なげいても なんの やくにも たちません〈すんだことをなげいてもしかたがありません〉).それより,とりわけ私たちの聖母の為に,第1土曜日の祈り(”the devotion of the First Saturdays”)を実践するとよいでしょう( "It is of use to practise the devotion of the First Saturdays, for Our Lady's sake especially." )(それより,とりわけわたくしたちのせいぼのためにだいいちどようびのいのりをじっせんするとよいでしょう).聖母は私たちの救霊をお諦めにならないでしょう( "She will not cease trying to save us." )(せいぼは わたくしたちの きゅうれいを おあきらめに ならないでしょう)

    キリエ・エレイソン.

    3人の善良な男達が
    氷の様に冷たい湖に
    落ちて死にました.
    ( "Three good young men
     were swept to icy death." )     
    (さんにんの
    ぜんりょうな おとこたちが
    こおりの ように つめたい

    みずうみにおちて
    しにました.)

    私達は息を引き取る間際に,
    私達の聖母の事を
    心に留めましょう.
    ( "Let's heed Our Lady,
     to our dying breath." )
    (わたくしたちは
    いきを ひきとる まぎわに,
    わたくしたちの

    せいぼの ことを
    こころに とめましょう.)

    リチャード・ウィリアムソン司教



* * *







* * *
(注:本投稿記事〈第383回エレイソン・コメンツ「裏話 V〈うらばなし その ご〉 "INSIDE STORY – V" 」〉は2015年1月15日23:56時に掲載されました.)

2014年11月8日土曜日

382 裏話 IV 11/8

エレイソン・コメンツ 第382回 (2014年11月8日)

    6年前のロザリオ聖戦に纏わり聖ピオ十世会( "SSPX" )の表(おもて)で起きた出来事の裏話はここでクライマックスに差しかかります( "And so we come to the climax of the inside story of the outside events of the Rosary Crusades of the Society of St Pius X six years ago." )(ろくねん まえの ろざりお せいせんに まつわり せいぴお じゅっせい かいの おもてで おきた できごとの うらばなしは ここで くらいまっくすに さしかかり ます).フェレー司教は聖母がファティマでお約束になったロシア奉献を条件とする「平和の時期」を信じて,教会と世界の危機に対処する為天の解決策を選ぶでしょうか( "Would Bishop Fellay choose Heaven's solution to the crisis of Church and World, trusting in Our Lady's promise at Fatima of Russia's conversion and a 'period of peace' if only Russia is consecrated to Her Immaculate Heart, …" ),それとも「2+2=4」の伝統と「2+2=4ないし5」の公会議との合成を作り上げる為のローマとの話し合いという人間的解決策を選ぶでしょうか?( "… or would he choose the human solution of talks with Rome to fabricate a synthesis of Tradition (2+2=4) with the Council (2+2=4 or 5)? " ) (ふぇれー しきょうは せいぼが ふぁてぃまで おやくそくに なった ろしあ ほうけんを じょうけん とする「へいわのじき」を しんじて,きょうかいと せかいの ききに たいしょする ため てんの かいけつ さくを えらぶ でしょうか.それとも「2+2=4」の でんとうと「2+2=4ないし5」の こうかいぎとの ごうせいを つくりあげる ための ろーまとの はなしあい という にんげんてき かいけつさく を えらぶ でしょうか?)特にローマ教皇庁の人々が2008年6月に再び動き出した時,悪魔がこの様な選択肢をフェレー司教に提供した訳でないことは明確です( "We can be certain that this is not how the Devil presented the choice to the Bishop, especially when in June 2008 the Romans came back into play." )(とくに ろーま きょうこう ちょうの ひとびとが にせん はちねん ろくがつに ふたたび うごきだした とき,あくまが このような せんたくしを ふぇれー しきょうに ていきょう した わけ でない ことは めいかく です)

    その月に,聖母が使者経由で(前教皇)ベネディクト16世に宛てられた書簡を通じ,バチカンはロシアの奉献実現の為のロザリオ聖戦が行われるかもしれないと知りました( "In that month the Vatican became aware of the possible Rosary Crusade for the Consecration of Russia through a letter which the same messenger of Our Lady had addressed to Pope Benedict XVI, …" )(その つきに,せいぼが ししゃ けいゆで 〈ぜん きょうこう〉べねでぃくと じゅうろく せいに あてられた しょかんを つうじ,ばちかんは ろしあの ほうけん じつげんの ための ろざりお せいせんが おこなわれる かも しれないと しりました).聖母はその試みに向けた教皇の祝福をお求めになりました( "… invoking his blessing upon such an endeavor." )(せいぼは その こころみに むけた きょうこうの しゅくふくを おもとめに なりました).バチカンはこの書簡を真剣に受け止めました( "The Vatican took the letter seriously." )(ばちかんは この しょかんを しんけんに うけとめ ました).ダリオ・カストリリョン・オヨス枢機卿( "Cardinal Darío Castrillón Hoyos" )は堅振(=堅信)の秘蹟授与の祭式を執り行う為( "to administer the sacrament of Confirmation" )ハワイ滞在中のフェレー司教に直ちにローマへ戻るよう命じました( "Cardinal Darío Castrillón Hoyos ordered Bishop Fellay to return directly to Rome from Hawaii where His Excellency had gone to administer the sacrament of Confirmation." )(だりお・かすとりりょん・およす すうききょうは けんしんの ひせき じゅよの さいしきを とりおこなう ため はわい たいざい ちゅうの ふぇれー しきょうに ただちに ろーまへ もどるよう めいじ ました).6月4日,枢機卿はローマの数名の高位聖職者(司教?)たちと共に( "On June 4, Cardinal Castrillón with a group of several Roman prelates, …" ),もしフェレー司教がロシア奉献実現の為のロザリオ聖戦を呼び掛けるなら,教皇庁は将来の如何なる話し合いのドアをも閉ざし,しばらくの間既に効力を失っていて休眠状態にあった SSPX 司教たちの破門を復活させる( "would revive the dormant “excommunications” which had for the time being been rendered inoperative" )と脅しをかけました( "… threatened Bishop Fellay that if he were to call for a Rosary Crusade for the Consecration of Russia, Rome would close the door to any future discussions, and Rome would revive the dormant “excommunications” which had for the time being been rendered inoperative." )(ろくがつ よっか,すうききょうは ろーまの すうめいの こうい せいしょくしゃ〈しきょう?〉 たちと ともに,もし ふぇれー しきょうが ろしあ ほうけん じつげんの ための ろざりお せいせんを よびかける なら,きょうこう ちょうは しょうらいの いかなる はなしあいの どあ をも とざし,しばらくの あいだ すでに こうりょくを うしなっていて きゅうみん じょうたいに あった せいぴお じゅっせい かい しきょう たちの はもんを ふっかつ させると おどしを かけました).この時,バチカンはフェレー司教に「バチカン最後通告」( "Vatican Ultimatum" ),即ち話し合いに必要な5条件を押しつけようとしました(〈5条件〉を課そうと試みた)( "That was also when the Vatican tried to impose on Bishop Fellay the "Vatican Ultimatum", or five conditions necessary for any discussions." )(このとき,ばちかんは ふぇれー しきょうに「ばちかん さいご つうこく」〈を かそうと こころみた〉,すなわち はなしあいに ひつような ごじょうけんを おしつけようと しました〈〈ごじょうけん〉を かそうと こころみた〉)

    ローマから受けるこうした圧力の下で( "So under this Roman pressure, …" ),フェレー司教は2008年初秋になっても,聖母の度重なる督促にもかかわらず,ロザリオ聖戦を求められた通りに行うかどうか決め兼ねて決め兼ねていました( "… Bishop Fellay had still not decided in the early autumn of 2008 to do as Our Lady asked, despite her repeated requests, …" )(ろーまから うける こうした あつりょくの もとで,ふぇれー しきょうは にせん はちねん しょしゅうに なっても,せいぼの たびかさなる さいそくにも かかわらず,ろざりお せいせんを もとめられた とおりに おこなうか どうか きめかねて いました).そして,2008年10月5日,聖母直々の警告にも拘らず,司教は11月からクリスマスにかけて設定された第2回目のロザリオ聖戦を1988年の破門解禁の目的の為とする選択をしました( "…and in fact on October 5, 2008, despite her direct warnings, he chose to apply the Second Rosary Crusade, set to run from November 1 until Christmas, to the intention of the “excommunications” of 1988 being lifted." )(そして,にせん はちねん じゅうがつ いつか,せいぼ じきじきの けいこく にも かかわらず,しきょうは じゅういち がつ から くりすますに かけて せってい された だいに かいめの ろざりお せいせんを せんきゅうひゃく はちじゅうはち ねんの はもん かいじょの もくてきの ため とする せんたくを しました)).同じ日,私たちの主(イエズス・キリスト)は SSPX を潰す為御手を振り下ろす自らの幻影を通して御怒りを聖母の使者にお示しになりました( "On the same day Our Lord displayed His anger to the messenger of Our Lady by a vision of Him bringing down His hand to destroy the SSPX, …" )(おなじ ひ,わたくし たちの しゅ〈いえずす・きりすと〉は せいぴお じゅっせい かいを つぶす ため てを ふりおろす みずからの げんえいを とおして おん いかりを せいぼの ししゃに おしめしに なりました).そして,主は彼らを「ファリザイ人等,偽善者等」と呼び( "… while he referred to them as "Pharisees and hypocrites”, …" ),「私はもう彼らには我慢が出来ない」と言われました( "…and said, “I can no longer put up with them.” " )(そして,しゅは かれらを「ふぁりざいじんら,ぎぜんしゃら」とよび,「わたしは もう かれら には がまんが できない」と いわれ ました).だが,主の御手が振り下ろされる瞬間( "But in the very moment of Our Lord’s hand falling, …" ),使者は(主なる神の御祝福に与られる)童貞マリアさま( "the Blessed Virgin Mary" )が SSPX のためにご仲介に入り(=お執り成しになり)( "… the messenger saw the Blessed Virgin Mary interceding on the Society's behalf, …" ),主の御慈悲(=御憐れみ)をご懇願になりながら「諸々の人間たちの弱さを御思い起こしになって下さい.」と言っておられるのを目にしました( "… pleading for mercy and saying “Remember the weakness of men.” " )(だが,しゅの おんてが ふりおろされる しゅんかん,ししゃは〈しゅなる かみの おんしゅくふくに あずかられる〉どうてい まりあ さまが せいぴお じゅっせい かいの ために ごちゅうかい)に はいり〈=おとりなしに なり〉,しゅの ごじひ〈=おんあわれみ〉を ごこんがんに なりながら「もろもろの にんげん たちの よわさを おおもい おこしに なって ください.」と いって おられる のを めに しました)(訳注・3-1).使者は主の御怒りが忽ち御慈悲に道を譲るのを見ました( "The messenger then saw Our Lord's anger immediately give way to His mercy." )(ししゃは しゅの おん いかりが たちまち ごじひに みちを ゆずる のを みました).

    しかし,フェレー司教の心は最早決まっていました( "But the Bishop's mind was now made up." )(しかし,ふぇれー しきょうの こころは もはや きまって いました).3週間後の10月26日,聖母のルルドご出現150周年を祝って SSPX のルルド巡礼のクライマックスとなる司教ミサ聖祭で( "Three weeks later on October 26, at the Pontifical Mass climaxing the Society's pilgrimage to Lourdes for the 150th Jubilee of Our Lady's apparitions at Lourdes, …" ),司教は前へ進み出て,第2回ロザリオ聖戦を1988年の破門解禁の為に奉献すると発表しました( "… he went ahead with announcing that the second Rosary Crusade would be dedicated to the lifting of the “excommunications” of 1988." )(さんしゅうかんごの じゅうがつ にじゅうろくにち,せいぼの るるど ごしゅつげん ひゃくごじゅっ しゅうねん を いわって せいぴお じゅっせい かいが るるどに おくった じゅんれいの くらいまっくす となる しきょう みさ せいさいで しきょうは まえへ すすみ でて,だい にかい ろざりお せいせんを せん きゅうひゃく はちじゅうはち ねんの はもん かいきんの ために ほうけん すると はっぴょう しました).12月15日,彼はベネディクト16世の要請に応じて,非公式書簡を送り,教皇に破門の解禁を願い出ました( "On December 16 he wrote in private to the Pope, as requested by Benedict XVI, the letter asking the Pope for the lifting of the excommunications of 1988." ).2009年1月24日,破門はローマによって一部解禁されました( "On January 24, 2009, these were partially lifted by Rome." )(じゅうにがつじゅうごにち,かれはべねでぃくとじゅうろくせいのようせいにおうじて,ひこうしきしょかんをおくり,きょうこうにはもんのかいきんをねがいでました.にせん くねん いちがつ にじゅう よっか,はもんは ろーまに よって いちぶ かいきん されました).フェレー司教はこれを(神の)祝福に与っておられる童貞マリアさまのご仲介(=お執り成し)のお蔭だとしました( "Bishop Fellay directly attributed this to the intervention of the Blessed Virgin Mary, …" ).彼は自分の粘り強い外交がもたらした見かけの勝利に酔いしれたに違いありません( "… and he must have exulted in this seeming triumph of his patient diplomacy." )(ふぇれー しきょうは これを〈かみの〉しゅくふくに あずかって おられる どうてい まりあさまの ごちゅうかい〈=おとりなし〉の おかげだと しました.かれは じぶんの ねばり づよい がいこうが もたらした みかけの しょうりに よいしれたに ちがいありません)

    だが,悲しいかな,如何なる勝利も短命です( "Alas, any triumph was short-lived, …" )(だが,かなしいかな,いかなる しょうりも たんめい です).というのも,数日も経たないうちにカトリック伝統派の敵たちが全世界に張り巡らせたメディアを使ってカトリック教皇とカトリック伝統の再結合( "… reunion of the Catholic Pope with Catholic Tradition" )を吹き飛ばすための魚雷を発射したからです( "… because within days the enemies of Catholic Tradition fired off in their worldwide media a torpedo perfectly designed to blow our of the water the threatening reunion of the Catholic Pope with Catholic Tradition." )(というのも,すうじつも たたない うちに かとりっく でんとうはの てき たちが ぜんせかいに はりめぐらせた めでぃあを つかって かとりっく きょうこうと かとりっく でんとうの さいけつごうを ふきとばす ための ぎょらいを はっしゃ した から です).第二次世界大戦中の「ホロコースト」や「ガス室」に大きな疑問を投げかけた SSPX 一司教の11月1日の6分間の映像が公開されると( "When the six-minute flim clip from November 1 of an SSPX Bishop casting serious doubt on the 'holocaust' and 'gas chambers' of World War II was made public, …" ),ベネディクト16世は「反ユダヤ主義者たち」と付き合っているとの恐ろしい非難をかわすため逃げ回らなければなりませんでした( "… Benedict XVI had to run for cover from the deadly accusation of consorting with “anti-semites”." )(だいにじ せかい たいせん ちゅうの 「ほろこーすと」や「がす しつ」に おおきな ぎもんを なげかけた せいぴお じゅっせい かい いち しきょうの じゅういちがつ ついたちの ろっぷん かんの えいぞうが こうかい されると,べねでぃくと じゅうろく せいは「はん ゆだや しゅぎしゃ たち」と つきあっている との おそろしい ひなんを かわす ため にげ まわらな ければ なりません でした). SSPX とローマの合意は少なくとも数年の間阻まれました( "The SSPX-Rome agreement was blocked, for at least a few years. " )(せいぴお じゅっせい かいと ろーまの ごういは すくなくとも すうねんの あいだ はばまれ ました). (裏話終わり)(To be concluded.) (うらばなし おわり)

    キリエ・エレイソン.

    司教の諸々のローマ計画は
    軌道に乗っていました.
    ( "The Bishop's Roman plans
    were well on track" )
    (しきょうの もろもろの ろーま けいかくは
    きどうに のって いました.)


    神意が介入し,それを押し止めるまでは.
     ( "Till Providence intervened and
    held them back." )
    (しんいが かいにゅうし,
    それを おしとどめる までは.)


    リチャード・ウィリアムソン司教



* * *



訳注 3-1 

『…(聖母マリアが)主の御慈悲(=御憐れみ)をご懇願になりながら「諸々の人間たちの弱さを御思い起こしになって下さい.」と言っておられるのを目にしました.』
" “… pleading for mercy and saying “Remember the weakness of men.” "

について,簡単な説明を,追って掲載いたします.






(注:本投稿記事〈第382回エレイソン・コメンツ「裏話 III〈うらばなし さん〉」〉は2014年12月20日23:48時に掲載されました.)

2014年11月1日土曜日

381 裏話 III 11/1

エレイソン・コメンツ 第381回 (2014年11月1日)

    私たちのファティマの聖母が6年前,聖ピオ10世会( SSPX )総長( "the Superior General of the Society of St Pius X (SSPX) " )に宛てられたメッセージの話を続けるには少し背景を説明しなければなりません( "To continue the story of Our Lady's messages to the Superior General of the Society of St Pius X (SSPX) six years ago, some background is needed." )(わたくしたちの ふぁてぃまの せいぼが ろくねん まえ,せい ぴお じゅっせい かい そうちょうに あてられた めっせーじの はなしを つづける には すこし はいけいを せつめい しなければ なりません).第二バチカン公会議(1962-1965年)はカトリック教会を無神論が憚る現代世界に折り合わせようと捻じ曲げてしまいました( "Vatican II (1962-1965) wrenched the Catholic Church off course to reconcile it with the godless modern world." )(だいに ばちかん こうかいぎ〈せん きゅうひゃく ろくじゅう に ねん から せん きゅうひゃく ろくじゅう ご ねん〉は かとりっく きょうかいを むしんろんが はばかる げんだい せかいに おりあわせようと ねじまげて しまい ました).そして,ルフェーブル大司教( "Archbishop Lefebvre" )(1905-1991年)が1970年,カトリック信徒たちを正しい道に留まらせる為 SSPX を設立しました( "Archbishop Lefebvre (1905-1991) founded the SSPX in 1970 to help Catholics to stay on course, …" ).大司教はその後21年間, SSPX に正しい道を辿らせました( "… and for 21 years he kept it on course. " )(そして,るふぇーぶる だいしきょう〈せん きゅうひゃく ご ねん から せん きゅうひゃく きゅうじゅう いち ねん〉がせんきゅうひゃく ななじゅう ねん,かとりっく しんと たちを ただしい みちに とどまらせる ため せいぴお じゅっせい かい〈えすえすぴーえくす〉を せつりつ しました.だいしきょうは そのご にじゅういち ねんかん,せいぴお じゅっせい かいに ただしい みちを たどらせ ました).だが,彼の死後間もなく,若い後継者たちは彼が切り開いた道を辿っていると誤って思い込んだのか(それとも自分を欺いたのか,神のみぞ知る事ですが),公会議派ローマとの和解を夢見るようになりました( "But as soon as he died, mistakenly convinced (or self-deluded, God knows) that they were still following him, his younger successors in fact dreamt of a reconciliation with Conciliar Rome. " )(だが,かれの しご まもなく,わかい こうけいしゃ たちは かれが きりひらいた みちを たどって いると あやまって おもいこんだ のか〈それとも じぶんを あざむいた のか,かみ のみぞ しることですが〉,こうかいぎは ろーま との わかいを ゆめみる ように なりました)

    2000年になると,公会議派指導者たちは SSPX(聖ピオ十世会)ローマの諸々のバシリカ(=大聖堂)(訳注・イタリア語=バジリカ)( "the Basilicas of Rome" )への聖年巡礼を成功させたことに強い関心を示し同会に目を向けました( "In 2000 the Conciliar leaders sat up and took notice of the SSPX when it made a highly successful Jubilee pilgrimage to the Basilicas of Rome." )(にせんねん になると,こうかいぎは しどうしゃ たちは せいぴおじゅっせい かい〈エスエスピーエクス〉が ローマの もろもろの ばしりか〈=だいせいどう〉への せいねん じゅんれいを せいこう させた ことに つよい かんしんを しめし どうかいに めを むけ ました). SSPX とローマとの接触が公然と (内密でなく) 再開され,ローマは SSPX を吐き出せないと知り,飲み込もうと本気で取り掛かり始めました( "Public (as opposed to private) contacts were re-opened between the SSPX and the Romans, who now set about swallowing that SSPX which they had proved unable to spit out." )(せいぴお じゅっせい かいと ろーま との せっしょくが こうぜんと 〈ないみつ でなく〉 さいかい され,ろーまは せいぴおじゅっせい かい を はきだせない としり,のみこもうと ほんきで とりかかり はじめました.).「話し合いましょう」とローマの指導者たちは SSPX に伝えました( " “Let us talk,” they said. " ). SSPX 指導部は「あなた方はトレント公会議様式によるミサ聖祭の執行を自由化し,1988年6月30日に聖別を受けた SSPX の司教たちに対する破門を解除して誠意を示さなければなりません」と,初め用心深いように見えました( "The SSPX leaders appeared to be wary: “You must prove your good will by liberating the Tridentine Mass and lifting the excommunications imposed on the SSPX bishops consecrated on June 30, 1988”." )(「はなし あい ましょう」と ろーまの しどうしゃ たちは せいぴお じゅっせい かいに つたえ ました.せいぴお じゅっせい かい しどうぶは「あなたがたは とれんと こうかいぎ ようしきに よる みさ せいさいの しっこうを じゆうか し,せん きゅうひゃく はちじゅうはち ねん ろくがつ さんじゅうにちに せいべつを うけた せいぴお じゅっせい かいの しきょう たちに たいする はもんを かいじょ して せいいを しめさなければ なりません」と,はじめ ようじん ぶかい ように みえました).その時,少なくとも表向きには何も起きませんでした.双方にとって和解という考えは機が熟すまで時間が必要だったからです( "Little then happened, at least in public, because on both sides the idea of reconciliation needed to mature, …" )(そのとき,すくなく とも おもてむき には なにも おきません でした.そうほうに  とって わかい という かんがえは きが じゅくす まで じかんが ひつよう だった から です).だが,2006年に和解派の首謀者フェレー司教が総長に再選されました( "… but in 2006 Bishop Fellay, SSPX ringleader of the reconciliation, was re-elected Superior General." ).私たちが前回までのエレイソン・コメンツで見た通り,これはこの話の主題である聖母のメッセージによるご介入が始まった直後の事でした( "As we have seen, this was soon after Our Lady began to intervene with the messages of which we are telling the story." )(だが,にせん ろくねんに わかい は の しゅぼうしゃ ふぇれー しきょうが そうちょうに さいせん されました.わたくし たちが ぜんかい までの えれいそん・こめんつで みたとおり,これは この はなしの しゅだい である せいぼの めっせーじに よる ごかいにゅうが はじまった ちょくごの こと でした)

    同じ2006年,フェレー司教は聖母からロシアの奉献実現の為のロザリオ聖戦を組織して欲しいとのご要請を受けました.だが,彼はそのお求めをローマとの話し合いの第1前提条件,即ちトレント・ミサ聖祭自由化の為に利用しようと方向転換しました( "In 2006 her desire for a Rosary Crusade for Russia's Consecration was adopted by Bishop Fellay, but re-directed by him towards the first pre-condition for talks with Rome, the liberation of the Mass." ).(おなじ にせん ろく ねん,ふぇれー しきょうは せいぼ から ロシアの ほうけん じつげんの ための ろざりお せいせんを そしき して ほしい との ごようせいを うけました.だが,かれは その おもとめを ろーま との はなしあいの だいいち ぜんてい じょうけん,すなわち とれんと・みさ せいさい じゆうかの ために りよう しようと ほうこう てんかん しました).翌2007年,教皇ベネディクト16世は教令 ( "Motu Proprio " )を出し,この条件の一部を満たしました( "In 2007 Benedict XVI partially satisfied the pre-conditon with his Motu Proprio." ).フェレー司教は条件が完全に満たされたと喜び,第2の前提条件である破門の解除に向けて動き続けました( "Rejoicing as though it were a complete satisfaction, Bishop Fellay moved on to the second pre-condition, the lifting of the excommunications, …" )(ふぇれー しきょうは じょうけんが かんぜんに みたされたと よろこび,だいにの ぜんてい じょうけん である はもんの かいじょに むけて うごき つづけ ました).ところが私たちの聖母は教皇教令 直後の2007年8月に一連のメッセージを送り始められ,第2回ロザリオ聖戦はロシアの奉献実現だけを目的とすべきだとしつこくお求めになりました( "… whereas Our Lady, immediately after the Motu Proprio, began a series of messages in August of 2007 insistently requesting that any second Rosary Crusade be dedicated to the Consecration of Russia." )(ところが わたくし たちの せいぼは きょうこう きょうれい ちょくごの にせん ななねん はちがつに いちれんの めっせーじを おくり はじめられ,だい にかい ろざりお せいせんは ろしあの ほうけん じつげん だけを もくてきと すべきだ と しつこく おもとめに なりました).しかし,フェレー司教はこれがローマ教皇庁の人々に受けない事を知っていた為,お求めに応じると確約しませんでした( "But Bishop Fellay would not commit himself because he knew that this Consecration did not appeal to the Romans." )(しかし,ふぇれー しきょうは これが ろーま きょうこうちょうの ひとびとに うけない ことを しっていた ため,おもとめに おうじると かくやく しません でした).ローマもフェレー司教も第二バチカン公会議とカトリック教の伝統という和解出来ないものを和解させる為,話し合いたいと望んでいました( "They wanted talks, and so did he, to reconcile the irreconcilable, Vatican II and Catholic Tradition." )(ろーまも ふぇれー しきょうも だいに ばちかん こうかいぎと かとりっくきょうの でんとうと いう わかい できない ものを わかい させる ため,はなし あいたいと のぞんで いました).さて,ここで裏話を続ける事が出来ます( "Now we can continue with the story." )(さて,ここでうらばなしをつづけることができます)

    2008年初め,私たちの聖母はフェレー司教が相変わらず尻込みしているのをお知りになり,使者を通して「(第2回)ロザリオ聖戦を破門解除の為に利用しないように」とはっきり述べられ( "In early 2008 Our Lady, observing how the Bishop was still hesitating, told him quite firmly through the messenger that he was “not to use the (second) Crusade for the intention of lifting the excommunications”, …" ),もし司教がこれに反したら「結果は SSPX にとって致命的なものになるでしょう」とお伝えになりました( "… and that if he did, “it would be fatal for the Society of St Pius X.” " )(にせん はちねん はじめ,わたくし たちの せいぼは ふぇれー しきょうが あいかわらず しりごみ している のを おしりになり,ししゃを とおして「(だいにかい)ろざりお せいせんを はもん かいじょの ために りよう しない ように」とはっきり のべられ,もし しきょうが これに はんしたら「けっかは せいぴお じゅっせい かいに とって ちめいてきな ものに なる でしょう」と おつたえに なりました).聖母は自分はそのような努力の何れも祝福は致しませんが,忠実な信徒たちが(聖母に)捧げる無数のロザリオ祈願を通じ果たすロザリオ聖戦によって得られる果実(訳注・「果実」=「ロザリオ聖戦を通じ神が地上に御与え下さる特別の『恩寵』」.「ロシア奉献」は神の御心であるから,聖母が神よりのメッセージを人類にお伝えになっておられる.)をせめて破門解除以外の目的に活用するよう付け加えられました( "She added that she would not bless any such effort, but would instead use the rosaries prayed by the faithful for other purposes." )(せいぼは じぶんは そのような どりょくの いずれも しゅくふくは いたしませんが,ちゅうじつな しんと たちが 〈せいぼに〉 ささげる むすうの ろざりお きがんを つうじ はたされる ろざりお せいせん によって えられる かじつ〈やくちゅう・かじつ=「ろざりお せいせんを つうじ かみが ちじょうに おあたえ くださる とくべつの 『おんちょう』= 「ろしあ ほうけん」は かみの みこころで ある から,せいぼが かみ よりの めっせーじを じんるいに おつたえに なっておられる.〉を せめて はもん かいじょ いがいの もくてきに かつよう するよう つけくわえ られました).そして,聖土曜日の3月22日,聖母は「フェレー司教に対し,聖父さま〈=教皇.「きょうこうさま」〉 "Holy Father" )が如何に善意でおられようと,彼(フェレー司教)はこれ以上にローマに近づく事は出来ないと伝えるように」と,極めて具体的に述べられました( "And on March 22, Holy Saturday, she said most specifically, “Tell Bishop Fellay that he cannot move any closer to Rome than he already is, however well-intentioned the Holy Father may be.” " ).聖母は「覚えておきなさい,聖父さまが如何に善意でおられようともです」と繰り返されました( "And she repeated, “Remember, however well-intentioned the Holy Father may be.” " )(そして,せい どようびの さんがつ にじゅうに にち,せいぼは「ふぇれー しきょうに たいし,きょうこうさまが いかに ぜんいで おられようと,かれ〈ふぇれー しきょう〉は これ いじょうに ろーまに ちかづく ことは できないと つたえる ように」と,きわめて ぐたいてきに のべられ ました.せいぼは「おぼえて おきなさい,きょうこうさまが いかに ぜんいで おられよう とも です」と くりかえされ ました.)

    このメッセージが信仰擁護の為如何に適切なものだったか,この裏話が表(おもて)で起きた事実と如何に完全に符号しているかを指摘する為,ここで再び話を中断します( "Let the story again be interrupted to point out how pertinent this message was for the defence of the Faith, and how perfectly this inside story corresponds to the outside facts." )(この めっせーじが しんこう ようごの ため いかに てきせつな もの だったか, この うらばなしが おもてで おきた じじつと いかに かんぜんに ふごう して いるか を してき する ため,ここで ふたたび はなしを ちゅうだん します).真の信仰の為の世界最後の砦の先頭に立ちながら,フェレー司教はそれを信仰の恐ろしい敵である公会議派ローマ人の下に戻したい気持ちになっています( "At the head of the last worldwide bastion of the true Faith, Bishop Fellay is being tempted to put it back under the Conciliar Romans, terrible enemies of that Faith." ).司教は現代世界を理解していない為,公会議派教会がカトリック教会だと信じ,その指導者たちの善意を信頼しています( "Because he does not understand the modern world, he believes that the Conciliar Church is the Catholic Church and he trusts in the good intentions of its authorities …" )(それとは反対に,ルフェーブル大司教はローマ当局者たちと何年も交渉した後で,彼らをひそかに「蛇」だと評しました)( "… (on the contrary Archbishop Lefebvre, after years of negotiations with the Roman authorities, described them – in private – as “a snake”)." )(まことの しんこうの ための せかい さいごの とりでの せんとうに たち ながら,ふぇれー しきょうは それを しんこうの おそろしい かたき〈=てき〉である こうかいぎは ろーま じんの もとに もどしたい きもちに なっています.しきょうは,げんだい せかいを りかい していない ため,こうかいぎは きょうかいが かとりっく きょうかいだと しんじ,そのしどうしゃ たちの ぜんいを しんらい しています.〈それとははんたいに,るふぇーぶる だいしきょうは ろーま とうきょくしゃ たちと なんねんも こうしょう した あとで かれらを ひそかに「へび」だと ひょうし ました〉.従って,もしこの裏話が本当で,フェレー司教が間違った決断を下すなら( "So if this inside story is true, and if Bishop Fellay makes the wrong decision, …" ), SSPX は万事終わりです( "… the SSPX is doomed." )(したがって,もし この うらばなしが ほんとうで,ふぇれー しきょうが まちがった けつだんを くだす なら,せいぴお じゅっせい かいは ばんじ おわり です).実際,なにが起きたでしょうか? (続く) ( "What happened ? (To be continued.) " )(じっさい,なにがおきたでしょうか? 〈つづく〉)

    キリエ・エレイソン.

    現代世界も 第二バチカン公会議も
    間違っています.
    (げんだい せかいも
    だいに ばちかん こうかいぎも
    まちがって います)

      ( "The modern world and Vatican II
            are wrong. " )

    F司教はどうでしょうか?
    初めからずっと間違っています.
    (えふ しきょうは どう でしょうか?
    はじめから ずっと まちがって います)

        ( "And Bishop F. ? Mistaken all along. " )

    リチャード・ウィリアムソン司教




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聖母についての訳注を追って追加掲載いたします.

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(注:本投稿記事〈第381回エレイソン・コメンツ「裏話 III〈うらばなし さん〉 」〉は2014年12月1日22:55時-12月2日に公開されました.)