2014年10月25日土曜日

380 裏話 II 10/25

エレイソン・コメンツ 第380回 (2014年10月25日)

    ロシアの奉献実現を目的とするロザリオ聖戦のアイディアが2006年6月に初めて聖ピオ十世会( SSPX )のフェレー司教に届いたとき,彼はそれが実際には私たちの聖母のご指示だとは知りませんでした――( "When the idea of a Rosary Crusade for the Consecration of Russia was first put to Bishop Fellay in June of 2006, he did not yet know that the idea was in fact a directive from Our Lady–" )(ろしあの ほうけん じつげんを もくてきと する ろざりお せいせんの あいでぃあが にせん ろくねん ろくがつに はじめて せいぴお じゅっせい かい〈えす えす ぴー えくす〉の ふぇれー しきょうに とどいた とき,かれは それが じっさい には わたくしたちの せいぼの ごしじ だとは しり ません でした) ―― 聖母の使者は気弱な女性だったため,司教に本当のことを話すのをためらったからです( "… the messenger had been too shy to tell him." )(せいぼの ししゃは きよわな じょせい だった ため,しきょうに ほんとうの ことを はなす のを ためらった からです).そこで,フェレー司教は使者に会った後スイスへ戻り,直ちにロザリオ聖戦の考えを取り上げる決断をしましたが,ロシア奉献は二の次にして,聖戦を主にトレント(公会議)様式によるミサ聖祭(以下,「トレント・ミサ聖祭」と記す.)自由化のために利用しようとしました.ただ,彼はそうすることで故意に天の意志に背くつもりはなかったのです( "So he did not knowingly go against Heaven's will when on returning to Switzerland after his meeting with the messenger, he decided to take up the idea of a Crusade, but to apply it primarily to the liberation of the Tridentine Mass, leaving Russia's Consecration among the secondary intentions." )(そこで,ふぇれー しきょうは ししゃに あった あと すいすへ もどり,ただちに ろざりお せいせんの かんがえを とりあげる けつだんを しましたが,ろしあ ほうけんは にの つぎに して,せいせんを おもに とれんと〈こうかいぎ〉ようしき による みさ せいさい〈いか,「とれんと・みさ せいさい」と しるす.〉)じゆうかの ために りよう しようと しました.ただ,かれは そうする ことで こいに てんの いしに そむく つもりは なかった のです).聖母は第1回目の聖戦が組織されるのはメッセージが自分から出たことを示すものだから祝福は致しますが,それは自分がミサ聖祭自由化を望んでいることを確認するものではないと,使者に告げました( "So, as Our Lady told her messenger, while she would bless the first Crusade as a sign that the messages were really from her, it would not be to confirm that the liberation of the Mass was what she really wanted." )(せいぼは だい いっかいめの せいせんが そしき される のは めっせーじが じぶんから でたことを しめす もの だから しゅくふくは いたし ますが,それは じぶんが みさ せいさい じゆうかを のぞんで いる ことを かくにん する もの では ないと,ししゃに つげました).フェレー司教にやがてはっきりと伝えられることになりますが,教会と世界の危機に対する真の答えはロシアの奉献だったのです( "The true answer to the crisis of Church and world lay in Russia's Consecration, as would soon be made very clear to the Bishop." )(ふぇれー しきょうに やがて はっきりと つたえられる ことに なりますが,きょうかいと せかいの ききに たいする まことの こたえは ろしあの ほうけん だった のです)

    私たちの聖母のご支持があっただけに,第1回ロザリオ聖戦は二つの意味で予想外の成功でした( "So, given the backing of Our Lady, the first Crusade was an unexpected success, …" )(わたくしたちの せいぼの ごしじが あった だけに,だい いっかい ろざりお せいせんは ふたつの いみで よそう がいの せいこう でした).一つは,参加した人々の捧げた祈りの数が多かった事( "… both in the number of rosaries prayed by the people, …" )(ひとつは,さんか した ひとびとの ささげた いのりの かずが おおかった こと)もう一つは教皇ベネディクト16世が2007年7月に 教令 ( "Motu Proprio " )を出し,トレント・ミサ聖祭は決して廃止されたことはないと宣言してフェレー司教の長年の願いを叶えた事でした( "… and in Pope Benedict XVI's fulfilment of Bishop Fellay's long-standing wish by the declaration in his Motu Proprio of July 2007, that the Tridentine Mass had never been abrogated." )(もうひとつは きょうこう べねでぃくと じゅうろく せいが にせん しち〈なな〉ねん しちがつに きょうれいを だし,とれんと・みさ せいさいは けっして はいし された ことは ないと せんげん して ふぇれー しきょうの ながねんの ねがいを かなえた こと でした)

    だが,それ以前の2006年8月に,聖母は使者にフェレー司教へ書簡を送るよう命じ,その中で彼は聖母の最初のご要請が天から出されたものである事を含め詳細を知らされていました( "However, already in August of 2006, Our Lady had directed her messenger to send to Bishop Fellay a letter in which he was this time fully informed of all the details of her original request, including that it came from Heaven." )(だが,それ いぜんの にせん ろくねん はちがつに,せいぼは ししゃに ふぇれーしきょうへ しょかんを おくるよう めいじ,そのなかで かれは せいぼの さいしょの ごようせいが てん から だされた もので ある ことを ふくめ しょうさいを しらされて いました).司教はこの書簡に前向きな返書を送り( "To this letter the Bishop had responded positively, …" ),第1回聖戦の勢いをもとに第2回聖戦を実施するつもりである事,自らがそれに対応するのが最善である事を伝えました( "… saying that he would use the boost from the first Crusade to launch the second, and that it would be best if he himself took the matter in hand." )(しきょうは この しょかんに まえむきな へんしょを おくり,だい いっかい せいせんの いきおいを もとに だいにかい せいせんを じっし する つもりで ある こと,みずから が それに たいおう するのが さいぜん である ことを つたえ ました).だが,一年後の 教皇教令 ( "Motu Proprio " )直後から2007年末迄の間に,聖母は第2回聖戦がきちんとロシア奉献の為に行われる事が自分の願いだと司教に念を押すため,使者に何度も書簡を送るよう命じられました( "But one year later, soon after the Motu Proprio until the end of 2007, Our Lady directed the messenger to write to him, again and again, to remind him of her wish for a second Crusade that would be properly dedicated to the Consecration of Russia." )(だが,いちねんごの きょうこう きょうれい ちょくご から にせん ななねん まつ までの あいだに,せいぼは だいにかい せいせんが きちんと ろしあ ほうけんの ために おこなわれる ことが じぶんの ねがいだと しきょうに ねんを おすため,ししゃに なんども しょかんを おくる よう めいじられ ました.)

    フェレー司教はそれでもまだ自分の立場をはっきりさせるのを躊躇していました( "Still Bishop Fellay hesitated to commit himself, …" ).そこで,聖母は2008年初めに,司教に対し第2回聖戦をロシア奉献の為に捧げるようとの同じご要請をこれまで以上に強く伝えられました( "so in early 2008 Our Lady came back even more insistently with the same request for the Crusade to be dedicated to the Consecration." )(ふぇれー しきょうは それでも まだ じぶんの たちばを はっきり させるのを ちゅうちょ して いました.そこで,せいぼは にせん はちねん はじめに,しきょうに たいし だいにかい せいせんを ろしあ ほうけんの ために ささげるよう との おなじ ごようせいを これまで いじょうに つよく つたえられ ました.).問題は司教が SSPX とローマ(教皇庁)との間の和解によって教会の危機を解決するという独自の計画を長い間進めてきており( "The problem was that Bishop Fellay had long been working on his own plan to solve the Church crisis by a reconciliation between the Society of St Pius X and Rome, …" ),聖母の要請はこの計画に合わなかった事です( "… and Our Lady's request did not fit in with that plan." )(もんだいは しきょうが せいぴお じゅっせい かいと ろーま〈きょうこうちょう〉との あいだの わかいに よって きょうかいの ききを かいけつ する という どくじの けいかくを ながい あいだ すすめて きて おり,せいぼの ようせいは この けいかくに あわなかった こと です).それ故司教にはローマとの和解に向けた話し合いを(ローマ側の関係者たちと)進めれば進めるほど,聖母との約束を実行するのが難しくなると思えたのです( "Therefore the more progress he seemed to be making with the Romans towards reconciliation, the more difficult it was becoming for him to keep his promise of doing what she asked, …" ).何故なら,彼は聖母の要請がローマを困らせる事を知っていたからです( "… because he knew that what she asked would upset the Romans." )(それゆえ しきょうには ろーまとの わかいに むけた はなしあいを〈ろーまがわの かんけいしゃ たちと〉すすめれば すすめる ほど,せいぼ との やくそくを じっこう する のが むずかしく なると おもえた のです.なぜなら,かれは せいぼの ようせいが ろーまを こまらせる ことを しっていた から です.).事実…( "Indeed ..." )(じじつ…)

    ちょうどこの頃の事です.フェレー司教が聖母のご要請をなかなか実行しようとしない理由を知らない使者が聖母に「司教さまはご要請が聖母さまから出たものだとはっきり理解していらっしゃらないからでしょうか」と尋ねました( "It was at about this time that the messenger, being unaware of why the Bishop was continuing to stall over Our Lady's request, asked her if the reason was that the Bishop was not sure that the request was indeed coming from Our Lady." )(ちょうど そのころの こと です.ふぇれー しきょうが せいぼの ごようせいを なかなか じっこう しようと しない りゆうを しらない ししゃが せいぼに「しきょうさまは ごようせいが せいぼさま から でたもの だと はっきり りかい していらっしゃらない から でしょうか」とたずね ました).聖母は頭を下に向けられ,そっと左右にお振りになりながら「いいえ,それが理由ではありません.」とだけお答えになりました( " “No,” came the simple answer, as Our Lady lowered her head and shook it gently from side to side, “that is not why.” " ).聖母は本当の理由にはお触れにならず,司教が聖母からの要請だと信じないからではないとだけ言われました( "Our Lady did not say what the real reason was, she only said that it was not because the Bishop did not believe that it was herself making the request." )(せいぼは あたまを したに むけられ,そっと さゆうに おふりに なり ながら「いいえ,それが りゆうでは ありません.」とだけ おこたえに なりました.せいぼは ほんとうの りゆうには おふれに ならず,しきょうが せいぼ からの ようせいだと しんじない からでは ない とだけ いわれました.)

    私たちは,このドラマのクライマックスに近づいています( "We approach the climax of the drama." ).それは劇的〈な出来事〉でした( "Drama it was." ).(わたくし たちは,この どらまの くらいまっくすに ちかづいて います.それは げきてき〈な できごと〉 でした).2008年初めになると,ロシア奉献に関する聖母のメッセージが差し迫った問題になってきました( "In early 2008 the Blessed Virgin's message concerning the Consecration of Russia was becoming urgent, …" ).フェレー司教が第2回聖戦を自らの目的のために利用しようとしている事を聖母がお知りになったからです( "… as she knew that the Bishop was seriously thinking of making use of the second Crusade for his own purposes." )(にせんはちねん はじめに なると,ろしあ ほうけんに かんする せいぼの めっせーじが さしせまった もんだいに なって きました.ふぇれー しきょうが だいにかい せいせんを みずからの もくてきの ために りよう しようと している ことを せいぼが おしりに なった から です).この時,司教はローマとの話し合いを進めるための前提条件の第2の条件――すなわち1988年の SSPX の4名の司教に対するいわゆる破門取り消しのために聖戦を利用しようと望んでいたのです( "This time he wanted to use it to achieve the second of the pre-conditions for discussions with Rome– the lifting of the so-called excommunications of the four SSPX bishops in 1988." )(このとき,しきょうは ろーまとの はなしあいを すすめる ための ぜんてい じょうけんの だいにの じょうけん――すなわち せん きゅうひゃく はちじゅうはち ねんの せいぴお じゅっせい かいのよんめいの しきょうに たいする いわゆる はもん とりけしの ために せいせんを りよう しようと のぞんで いたのです)

    キリエ・エレイソン.

    「人間どもが練り上げた計画は
    往々にして上手く(巧く)うまく運ばない
    (gang aft agley)」* ――
    (「にんげん どもが ねりあげた けいかくは
    おうおうにして うまく はこばない」)

    ( " “The best-laid plans of men
    gang aft agley”* – " )

    天がお話になるとき,
    私たち人間はそれに
    従わなければなりません.
    (てんが おはなしに なる とき,
    わたくしたち にんげんは
    それに したがわなければ なりません.)

    ( "When Heaven speaks,
    we humans need to obey." )

    *スコットランド人ロビー・バーンズ
    (Robbie Burns =1759-1790年)
    の詩の有名な一行です.
    ( " (*Famous line from a poem
    by the Scot, Robbie Burns (1759-1796),
    meaning “go often wrong”.) " )
    (すこっとらんどじんろびー・ばーんず
    〈せん ななひゃく ごじゅうく ねん
    -せん ななひゃくきゅうじゅう ねん〉
    の しの ゆうめいな いちぎょう です.)


    リチャード・ウィリアムソン司教




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(注:本投稿記事〈第380回エレイソン・コメンツ「裏話 II〈うらばなし に〉 」〉は2014年11月25日23:35時‐26日未明に公開されました.)

2014年10月18日土曜日

379 裏話 I 10/18

エレイソン・コメンツ 第379回 (2014年10月18日)

    1917年,教会と世界の救済(「平和な時期の到来」)は二つの事が実現するかどうかにかかっていると,ファティマの聖母( "Our Lady of Fatima" )が世界に向けて明らかにされました:( "In 1917 it was made clear to the world by Our Lady of Fatima that the salvation of Church and world ( “a period of peace” )depended upon two things: …" )(せん きゅうひゃく じゅうしち〈なな〉ねん,きょうかいと せかいの きゅうさい〈「へいわな じきの とうらい」〉は ふたつの ことが じつげん するか どうかに かかっていると,ふぁてぃまの せいぼが せかいに むけて あきらかにされました.)(すなわち): 一つは,世界中の司教たちと一つになった(=一致した)(ローマ)教皇によってロシアが聖母に奉献されること,のみならず( "… not only upon the Consecration of Russia to her Immaculate Heart by the Pope with all the bishops of the world, …" )(ひとつは,せかいじゅうの しきょう たちと ひとつに なった〈=いっちした〉〈ろーま〉きょうこうに よって ろしあが せいぼに ほうけんされる こと,のみならず,),もう一つ,カトリック教徒たちが悔悛の秘跡( "Confession" )と聖体の秘跡( "Communion" )を受け,毎月第1土曜日毎に15分間黙想し( "meditating" )聖母マリアへロザリオの祈り( "a rosary" )を捧げることにより聖母に罪の償い( "reparation" )を果たすこと,という二つの事が実現するかどうかにかかっています( "… but also upon Catholics making reparation to her Heart by receiving Confession and Communion and by meditating for 15 minutes and praying a rosary on each first Saturday of the month." )(もうひとつ,かとりっくきょうと たちが かいしゅんの ひせきと せいたいの ひせきを うけ,まいつき だいいち どようび ごとに じゅうごふん かん もくそうし せいぼ まりあへ ろざりおの いのりを ささげる ことに より せいぼに つみの つぐのい〈つぐない〉を はたすこと,という ふたつの ことが じつげん するか どうかの ふたつの ことに かかって います.).従って,カトリック信徒は誰一人教会と世界を現在の恐ろしい危機状態から救い出す事など出来ないと考えないでください( "Therefore let no Catholic think that there is nothing they can do to help Church and world out of their present appalling crisis." )(したがって,かとりっくしんとは だれひとり きょうかいと せかいを げんじつの おそろしい きき じょうたい から すくいだす こと など できないと かんがえないで ください).カトリック信徒が一人でもファティマの聖母の第1の願いに応えるなら,教皇が第2の願いに応える一助になるでしょう( "Every single Catholic responding to her second request will help the Pope to respond to her first request." )(かとりっく しんとが ひとりでも ふぁてぃまの せいぼの だいいちの ねがいに こたえる なら,きょうこうが だいにの ねがいに こたえる いちじょと なるでしょう.)

    だが,教皇による第2の願いへの対応はいまだに不十分です( "But this response has not yet been sufficient. For instance in the 1930's, …" ).たとえば,教皇ピオ11世は1930年代すでに聖母の第1の願いについて十分気づいていましたが( "… Pope Pius XI was well aware of Our Lady's first request, …" ),ロシアの奉献を実行しませんでした( "… but he never performed the Consecration of Russia." ).何故でしょうか?( "Why not ? " )(だが,きょうこうに よる だいにの ねがい への たいおうは いまだに ふじゅうぶん です.たとえば,きょうこう ぴお じゅういっせいは せん きゅうひゃく さんじゅう ねんだい すでに せいぼの だいいちの ねがいに ついて じゅうぶん きづいて いましたが,ろしあの ほうけんを じっこう しません でした.なぜ でしょうか?)聖トリニティーの兄弟(同胞・ブラザー)マイケル( Brother Michael of the Holy Trinity )の秀作「ファティマについての全真相」 "The whole Truth about Fatima" 全3巻の第2巻にある記述によれば( "According to Brother Michael of the Holy Trinity in the second of his excellent three volumes on The whole Truth about Fatima, …" ),教皇ピオ11世は当時モスクワのロシア権力者と外交的接触を図っており( "…it was because Pius XI was engaged at that time in diplomatic contacts with the Russian authorities in Moscow, …" ),共産主義者たちとやり取りするには自らの外交の方が聖母のいうロシアの奉献より良い方法だと考えていたからです( "…and he thought that his own diplomacy was a better way of dealing with Communists than Our Lady's Consecration." )(せい とりにてぃー の きょうだい〈どうほう・ぶらざー〉まいけるの しゅうさく「ふぁてぃまに ついての ぜん しんそう」ぜん さんかんの だい にかんに ある きじゅつに よれば,きょうこう ぴお じゅういっせいは とうじ もすくわの ろしあ けんりょくしゃと がいこうてき せっしょくを はかって おり,きょうさん しゅぎしゃと やりとりする には みずからの がいこうの ほうが せいぼ の いう ろしあの ほうけん より よい ほうほう だと かんがえて いたから です). 教皇はこの問題を天与の方法でなく人間的な方法で処理しようとしたわけですが( "He preferred the human to the divine way of dealing with the problem, …" ),無論この時は問題が未解決のまま残りました( "… and so of course the problem remained unsolved." ).世界は第二次世界大戦に突入し( "The world plunged into World War II, …" ),教会は第二バチカン公会議により内部崩壊しました( "… and the Church was broken from within by Vatican II. " ).(きょうこうは この もんだいを てんよの ほうほう でなく にんげん てきな ほうほうで しょり しようと した わけですが,むろん この ときは もんだいが みかいけつの まま のこりました.せかいは だい にじ せかい たいせんに とつにゅうし,きょうかいはだいに ばちかん こうかいぎ により ないぶ ほうかい しました.)

    2010年代になると,ファティマの聖母が使者(女性)を通してロシアの奉献実現に向けて神の恩寵を祈願する為(聖母マリアへの)ロザリオ祈願(祈祷)によって組織された十字軍による聖戦(以下,「ロザリオ聖戦」と記す)( a Rosary Crusade )を組織してほしいと聖ピオ十世会( SSPX )のフェレー司教( "Bishop Fellay for the Society of St Pius X" )に要請するという同じ様な話が表面化します( "Now in the 2010's a parallel story has been coming to light of Our Lady appealing through a messenger to Bishop Fellay for the Society of St Pius X to organize a Rosary Crusade to pray for the Consecration of Russia to take place." )(にせん じゅうねん だいに なると,ふぁてぃまの せいぼが ししゃ〈じょせい〉を とおして ろしあの ほうけん じつげんに むけて かみの おんちょうを きがん する ため〈せいぼ まりあ への〉ろざりお きがん〈きとう〉に よってそしき された じゅうじぐん による せいせん〈いか,「ろざりおせいせん」と しるす〉を そしき してほしいと せい ぴお じゅっせい かいの ふぇれー しきょうに ようせい する という おなじような はなしが ひょうめんか します).もしこの話が本当なら(私は本当だと信じますし,他の数人の司祭たちもそう信じています),エレイソン・コメンツに何回かに分けてご紹介するに値するでしょう( "If this story is true (as I believe it is, and some other priests also believe), it is worth telling in a few issues of these “Comments”, …" ).私の意図はフェレー司教の信用を落とす事などでなく(彼が人間的な手段を選んだことはピオ11世の時と同じ様に理解できます――それでよかったかどうかは神が判断されることです)――ロシアの奉献,とりわけ百年経ったとはいえ,第1土曜日に5週連続で行う敬虔な祈りがいかに大事な事なのかを強調する為です( "… not to discredit Bishop Fellay (whose preference for human means is as understandable as that of Pius XI – God is their judge), but in order to emphasize how urgent the Consecration of Russia remains, and especially the devout practice of the five first Saturdays, even nigh on 100 years later." )(もし この はなしが ほんとう なら〈わたくしは ほんとうだと しんじます し,ほかの すうにんの しさいたちも そう しんじて います〉,えれいそん・こめんつに なんかいか に わけて ごしょうかい するに あたい する でしょう.わたくしの いとは ふぇれー しきょうの しんようを おとす こと などで なく〈かれが にんげん てきな しゅだんを えらんだ ことは ぴお じゅういっせい の ときと おなじ ように りかい できます――それで よかったか どうかは かみが はんだん される こと です〉――ろしあ の ほうけん,とりわけ ひゃくねん たった とはいえ,だいいち どようびに ごしゅう れんぞくで おこなう けいけんな いのりが いかに だいじな こと なのかを きょうちょう するため です).だが,そもそもこの話は本当なのでしょうか? とりわけ,ファティマの聖母の使者はどの程度信頼できるのでしょうか?( "But is the story true ? In particular, how reliable is the messenger ? " )(だが,そもそも この はなしは ほんとう なのでしょうか? とりわけ,ふぁてぃまの せいぼの ししゃは どのていど しんらい できる のでしょうか?)

    私自身,この使者に何回か会ったことがありますが,彼女の話はどうみても本当の事だと信じます( "I myself have met with her several times, and I believe her story has every likelihood of being true, …" )(わたくし じしん,この ししゃに なんかいか あった ことが ありますが,かのじょの はなしは どうみても ほんとうの ことだと しんじます).第1の理由は彼女が如何にも真実を話すという印象を与える真面目な成人だということ( "… firstly because she is a serious adult person who gives every sign of telling the truth, …" ),それよりも彼女の話す事が多くの公になった事実や云わばいわば外面的に広く知られた出来事に一致するというのが主な理由です( "… but mainly because what she tells is an inside story that corresponds to, and explains, a large number of public facts and well-known events on the outside, so to speak." )(だいいちの りゆうは かのじょが いかにも しんじつを はなす という いんしょうを あたえる まじめな せいじんだ ということ,それよりも かのじょの はなす ことが おおくの おおやけに なった じじつや いわば がいめん てきに ひろく しられた できごとに いっち すると いうのが おもな りゆう です).この使者について読者の皆さんが私の個人的な判断を疑われるのはご自由です( "As to the messenger, readers are entitled to distrust my personal judgment, …" ).だが,裏話と外面的事実の一致については読者自身で判断できることです( "… but as to the perfect correspondence between inside story and outside facts, readers can judge for themselves." )(この ししゃに ついて どくしゃの みなさんが わたくしの こじん てきな はんだんを うたがわれる のは ごじゆう です.だが,うらばなしと がいめんてき じじつの いっちに ついては どくしゃ じしんで はんだん できる こと です)

    この話は聖母マリアがその使者の前にお現れになり, SSPX のフェレー司教に伝えるメッセージを与えた2004年のよき牧者の主日(御復活後第二の主日) "Good Shepherd Sunday" (訳注後記 5-1 )に始まります( "The story begins on Good Shepherd Sunday of 2004, when the Blessed Virgin Mary appeared to the messenger and gave her a message to be passed on to the Bishop of the Society of St Pius X." )(この はなしは せいぼ まりあが その ししゃの まえに おあらわれに なり,せい ぴお じゅっせい かい〈えすえすぴーえくす〉の ふぇれー しきょうに つたえる めっせーじを あたえた にせんよねんの よき ぼくしゃの しゅじつ〈ごふっかつご だいにの しゅじつ〉にはじまります).メッセージの中で,聖母マリアは SSPX に対しロシアの奉献のためのロザリオ聖戦に加わる忠実な信者たちを導くようお頼みになりました( "In it she asked for the SSPX to lead the faithful in a Rosary Crusade for the Consecration of Russia to her Immaculate Heart, …" )(めっせーじの なかで,せいぼ まりあは せい ぴお じゅっせい かいに たいし ろしあの ほうけんの ための ろざりお せいせんに くわわる ちゅうじつな しんじゃたちを みちびくよう おたのみに なりました).これは天が1920年代から求めて来たものと同じ奉献です( "… that same Consecration that Heaven has been asking for since the 1920's." )(これは てんが せん きゅうひゃく にじゅう ねん だい から もとめて きた ものと おなじ ほうけん です).もしこれが聖母マリアの求められた通り実現すれば,ロザリオ聖戦は彼女を通してロシアの奉献をもたらす恩寵を遂に得るだろうというのが2000年代における理解です( "The understanding in the 2000's was that if this were done as she asked, it would at last obtain, through her, the graces to bring about the much needed Consecration." )(もし これが せいぼ まりあの もとめられた とおり じつげん すれば,ろざりお せいせんは かのじょを とおして ろしあの ほうけんを もたらす おんちょうを ついに える だろうと いうのが にせん ねん だいに おける りかい です)

    2006年6月,使者は聖母のメッセージをフェレー司教に直に伝えました( "In June of 2006 the messenger gave the message in person to Bishop Fellay." )(にせん ろくねん ろくがつ,ししゃは せいぼの めっせーじを ふぇれー しきょうに じかに つたえました).司教は彼女とメッセージについて話し合いましたが,彼はこの時それが実際には神の御母( "the Mother of God" )(=聖母)からのご指示だとは知りませんでした( "He discussed it with her, but did not yet know that it was in fact a directive from the Mother of God." ).司教はスイスへ戻る途中で彼の最初の重要な決断を下しました( "And so on his way back to Switzerland he took a first important decision. " )(しきょうは かのじょと めっせーじに ついて はなしあい ましたが,かれは このとき それが じっさいには かみの おんはは〈せいぼ〉からの ごしじ だとは しりません でした.しきょうは すいすへ もどる とちゅうで かれの さいしょの じゅうような けつだんを くだし ました).アメリカ人が好んで言うように,これから先の話をお楽しみに!( "As Americans say, “Stay tuned” ! " )(あめりか じんが このんで いうように,これから さきの はなしを おたのしみに!)

    キリエ・エレイソン.

    もしマリアさまが
    私たちに
    教会をどう救うか
    告げられるとすれば,
    (もし マリア さまが
    わたくし たちに
     きょうかいを どう すくうか
    つげられる とすれば,)

    ( "If Mary tells us
     how to save the Church, …" )

    私たちは
    それ以外の
    どの方法を選んでも
    見捨てられることになるでしょう.
    (わたくしたちは
    それいがいの
    どのほうほうをえらんでも
    みすてられることになるでしょう.)

    ( "All other means
     will leave us in the lurch." )

    リチャード・ウィリアムソン司教




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訳注 5-1
「よき牧者の主日」
"Good Shepherd Sunday"

・= 神の御独り子・救世主(キリスト/メシア)
主イエズスの
御復活(=イースター)後の第二の主日
(=日曜日)」

・「本日は,『よき牧者の主日』といわれていた.
なぜなら,この日,教区会議が行われていたからである.
従って,本日は特に,長上に対する,あるいは目下に対する
義務のことが語られる.
そして,その最高の模範として,牧者なるキリストが示される.」
(ローマ・毎日のミサ典書〔1957年〕「御復活後第二の主日ミサ聖祭」解説より)

・この日の聖福音「聖ヨハネによる聖福音の続誦(第10章11-16節)」 が由来.

(「トレント公会議 "The Council of Trent (1545–63)" 式典礼
によるローマ・ミサ聖祭」

=「教皇ピオ5世 "Pope Pius V(英語)/Summi Pontifices Pius V(ラテン語) (1566-1572)" のミサ聖祭 (1570-1962)」

=「聖なる伝承(聖伝)の典礼( "Traditional liturgy" )によるミサ聖祭」)

・EC 379 で引用されている聖福音の掲載:

聖ヨハネによる聖福音の続誦(第10章11-16節)(1-21節を掲載予定)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO SAINT JOHN X, 11-16 (1-21)(英)
EVANGILE SELON SAINT JEAN X, 11-16 (1-21)(仏)
EVANGELIUM SECUNDUM IOANNEM X, 11-16 (1-21)(羅)

1節 (verse/verset)
『「まことにまことに私は言う.羊の柵(さく)の中に門からはいらず,ほかの所から乗り越えてくる者は,盗人(ぬすびと)であり,強盗(ごうとう)である.
"AMEN, amen I say to you: He that entereth not by the door into the sheepfold, but climbeth up another way, the same is a thief and a robber.
"En vérité, en vérité, je vous le dis, celui qui n'entre pas par la porte dans la bergerie, mais qui y monte par ailleurs, est un voleur et un brigand.
"Amen, amen dico vobis: qui non intrat per ostium in ovile ovium, sed ascendit aliunde: ille fur est, et latro.

2
門から入るのは羊の牧者である.
But he that entereth in by the door is the shepherd of the sheep.
Mais celui qui entre par la porte est le berger des brebis.
Qui autem intrat per ostium, pastor est ovium.

3
門番は彼のために門を開く.羊は彼の声を聞き,彼は自分の羊一頭ずつの名を呼んで外に引き出す. 
To him the porter openeth; and the sheep hear his voice: and he calleth his own sheep by name, and leadeth them out.
Le portier lui ouvre, et les brebis entendent sa voix; il appelle par leur nom les brebis qui lui appartiennent, et il les conduit dehors.
Huic ostiarius aperit, et oves vocem eius audiunt, et proprias ovas vocat nominatim, et educit eas.

4
全部を引き出すと,彼は羊に先立ち,羊はそれについていく.羊は彼の声を知っているからである.
And when he hath let out his own sheep, he goeth before them: and the sheep follow him, because they know his voice.
Lorsqu'il a fait sortir toutes ses propres brebis, il marche devant elles; et les brebis le suivent, parce qu'elles connaissent sa voix.
Et cum proprias oves emiserit, ante eas vadit: et oves illum sequuntur, quia sciunt vocem eius.

5
*羊はほかの人にはついていかず,遠くへ逃げてしまう.ほかの人の声を知らないからである」.
But a stranger they follow not, but fly from him, because they know not the voice of strangers.
Elles ne suivront point un étranger; mais elles fuiront loin de lui, parce qu'elles ne connaissent pas la voix des étrangers.
Alienum autem non sequuntur, sed fugiunt ab eo: quia non noverunt vocem alienorum.

6
イエズスはこうたとえを話されたが,彼らはそれが何の話だかわからなかった.
This proverb Jesus spoke to them. But they understood not what he spoke to them.
Jésus leur dit cette parabole, mais ils ne comprirent pas de quoi il leur parlait.
Hoc proverbium dixit eis Iesus. Illi autem non cognoverunt quid loqueretur eis.

7
またイエズスは、言われた,「まことにまことに私は言う.私は羊の門である.
Jesus therefore said to them again: Amen, amen I say to you, I am the door of the sheep.
Jésus leur dit encore: En vérité, en vérité, je vous le dis, je suis la porte des brebis.
Dixit ergo eis iterum Iesus: Amen, amen dico vobis, quia ego sum ostium ovium.

8
*私より前に来た者はみな盗人で強盗である.羊は、彼らの言うことを聞かなかった.
All others, as many as have come, are thieves and robbers: and the sheep heard them not.
Tous ceux qui sont venus avant moi sont des voleurs et des brigands; mais les brebis ne les ont point écoutés.
Omnes quotquot venerunt, fures sunt, et latrones, et non audierunt eos oves.

9
私は門である.私を通って入る者は救われ,出入りして牧草を見つけるだろう.
I am the door. By me, if any man enter in, he shall be saved: and he shall go in, and go out, and shall find pastures.
Je suis la porte. Si quelqu'un entre par moi, il sera sauvé; il entrera et il sortira, et il trouvera des pâturages.
Ego sum ostium. Per me si quis introierit, salvabitur: et ingredietur, et egredietur, et pascua inveniet.

10
盗人は盗み,殺し,滅ぼすためにだけ来る.私は羊たちに*命を,豊かな命を与えるために来た.』
The thief cometh not, but for to steal, and to kill, and to destroy. I am come that they may have life, and may have it more abundantly."
Le voleur ne vient que pour dérober, égorger et détruire; moi, je suis venu afin que les brebis aient la vie, et qu'elles soient dans l'abondance. "
Fur non venit nisi ut furetur, et mactet, et perdat. Ego veni ut vitam habeant, et abundantius habeant."

11
*私は良い牧者で,良い牧者は羊のために自分の命を捨てる.
"I am the good shepherd. The good shepherd giveth his life for his sheep.
"Je suis le bon berger. Le bon berger donne sa vie pour ses brebis.
"Ego sum pastor bonus. Bonus pastor animam suam dat pro ovibus suis.

12
牧者でもなく,自分の羊をもたぬ雇い人は,狼(おおかみ)が来るのを見ると,羊を捨てて逃げ,羊はおおかみに奪われ,散らされる
But the hireling, and he that is not the shepherd, whose own the sheep are not, seeth the wolf coming, and leaveth the sheep, and flieth: and the wolf catcheth, and scattereth the sheep:
Mais le mercenaire, qui n'est pas le berger, et à qui n'appartiennent pas les brebis, voit venir le loup, abandonne les brebis, et prend la fuite; et le loup les ravit et les disperse.
Mercenarius autem, et qui non est pastor, cuius non sunt oves propriæ, videt lupum venientem, et dimittit oves, et fugit: et lupus rapit, et dispergit oves:

13
彼は雇い人で羊のことを心にかけぬ.
And the hireling flieth, because he is a hireling: and he hath no care for the sheep.
Le mercenaire s'enfuit, parce qu'il est mercenaire, et qu'il ne se met point en peine des brebis. Je suis le bon berger.
mercenarius autem fugit, quia mercenarius est, et non pertinet ad eum de ovibus.

14
私はよい牧者で,自分の羊を知り,私の羊もまた私を知っている.
I am the good shepherd; and I know mine, and mine know me.
Je connais mes brebis, et elles me connaissent,
Ego sum pastor bonus: et cognosco meas, et cognoscunt me meæ.

15
それは,父が私を知り,私が父を知っているのと同じである.こうして私は自分の羊のために命を捨てる.
As the Father knoweth me, and I know the Father: and I lay down my life for my sheep.
comme le Père me connaît et comme je connais le Père; et je donne ma vie pour mes brebis.
Sicut novit me Pater, et ego agnosco Patrem: et animam meam pono pro ovibus meis.

16
また私にはこの柵内(さくない)にいない*ほかの羊もある.私はそれらも連れていかねばならぬ.羊たちも私の声を聞き,一つの群れ,一人の牧者となるだろう.』
And other sheep I have, that are not of this fold: them also I must bring, and they shall hear my voice, and there shall be one fold and one shepherd."
J'ai encore d'autres brebis, qui ne sont pas de cette bergerie; celles-là, il faut que je les amène; elles entendront ma voix, et il y aura un seul troupeau, un seul berger."
Et alias oves habeo, quæ non sunt ex hoc ovili: et illas oportet me adducere, et vocem meam audient, et fiet unum ovile, et unus pastor."

17
父が私を愛されるのは,私が命をふたたび取りもどせるよう自分の命を与えるからである.
Therefore doth the Father love me: because I lay down my life, that I may take it again.
Le Père m'aime, parce que je donne ma vie, afin de la reprendre.
Propterea me diligit Pater: quia ego pono animam meam, ut iterum sumam eam.

18
その命は私から奪い取るものではなく,私がそれを与える.私にはそれを与える権威があり,また取りもどす権威もある.それは私が父から受けた命令である」.
No man taketh it away from me: but I lay it down of myself, and I have power to lay it down: and I have power to take it up again. This commandment have I received of my Father.
Personne ne me l'ôte, mais je la donne de moi-même; j'ai le pouvoir de la donner, et j'ai le pouvoir de la reprendre: tel est l'ordre que j'ai reçu de mon Père.
Nemo tollit eam a me: sed ego pono eam a meipso, et potestatem habeo ponendi eam: et potestatem habeo iterum sumendi eam: Hoc mandatum accepi a Patre meo.

19
またしてもこのことばのためにユダヤ人の間で意見が分かれ,
A dissension rose again among the Jews for these words.
Il y eut de nouveau, à cause de ces paroles, division parmi les Juifs.
Dissensio iterum facta est inter Iudæos propter sermones hos.

20
そのうちの多くは,「あの人は悪魔につかれて気が狂っている.なぜおまえたちはあんなことばを聞くのか」と言い,
And many of them said: He hath a devil, and is mad: why hear you him? Plusieurs d'entre eux disaient:
Il a un démon, il est fou; pourquoi l'écoutez-vous?
Dicebant autem multi ex ipsis: Dæmonium habet, et insanit: quid eum auditis?

21
中には,「あれは悪魔につかれた者のことばではない.悪魔に盲人の目があけられようか」と言う人もあった.
Others said: These are not the words of one that hath a devil: Can a devil open the eyes of the blind?
D'autres disaient: Ce ne sont pas les paroles d'un démoniaque; un démon peut-il ouvrir les yeux des aveugles?
Alii dicebant: Hæc verba non sunt dæmonium habentis: numquid dæmonium potest cæcorum oculos aperire?


(注釈)

*5 パレスチナには,公共の檻(おり)があって,夜になるとそこに畜獣を入れ,朝になるとおのおのの牧者が自分の羊を呼びに来る.羊たちは自分の主人の声を聞き分ける.

*8 ファリザイ人の律法学士を指す(マテオ聖福音書・第9章36節,第23章1-36節,マルコ聖福音書・第6章34節,ルカ聖福音書・第11章39-52節).

*10 永遠の命,これを豊かに与えるのはイエズスである(第3章16, 36節,5章40節,6章33, 35, 48, 51節,14章6節,20章31節,ヨハネ黙示録・第7章17節,マテオ聖福音書・第25章29節,ルカ聖福音書・第6章38節).

*11 自分の民の牧者である神は,メシアの時代に,選ばれた牧者を送られるはずであった.
「良い牧者」と名のるイエズスは,「メシア」だと宣言したのと同じである.

*16 「ほかの羊」は,将来教会に招かれるであろう異邦人を指す.
ユダヤ人の柵(さく)ではなく,永遠の命の柵に人々を入れるのは,イエズスの使命である.








* * *
(注:本投稿記事〈第379回エレイソン・コメンツ「裏話 I〈うらばなし いち〉 」〉は2014年11月13日‐14日に公開されました.)

2014年10月11日土曜日

378 ウェブサイト立ち上げ 10/11

エレイソン・コメンツ 第378回 (2014年10月11日)

    ロザリオの聖母の祝日(10月7日)(ろざりおの せいぼの しゅくじつ)〈じゅうがつ なのか〉( "the Feast of Our Lady of the Rosary" )にインターネット上(いんたーねっと じょう)で新しいウェブサイト(あたらしい うぇぶさいと)が次の通り(つぎの とおり)立ち上げ(たちあげ)られました: www.stmarcelinitiative.com  このサイトはエレイソン・コメンツ(えれいそん・こめんつ)の通常の読者諸氏(つうじょうの どくしゃ しょし)にとってとても興味(きょうみ)あるものでしょう( "On the Feast of Our Lady of the Rosary a website has just been launched on the Internet which could be of serious interest to regular readers of these “Eleison Comments”: www.stmarcelinitiative.com " ).サイトにアクセス(あくせす)すればコメンツの最新号(さいしん ごう)から2007年版(にせん ななねん ばん)までを英語(えいご),イタリア語(いたりあ ご)で( "It will present the latest issue and all back-issues of the “Comments” in English and Italian back to 2007, …" ),また最新号から過去5年分(かこ ごねん ぶん)をフランス語(ふらんす ご),ドイツ語(どいつ ご),スペイン語(すぺいん ご)で読(よ)めます( "… and the latest issue and back-issues for the last five years or so in French, German and Spanish." ).電子スクリーン(でんし すくりーん)より紙(かみ)で読みたい読者(よみたい どくしゃ)にはバックナンバー(ばっく なんばー)を選(えら)んで,まとめてプリント(印刷)(ぷりんと〈いんさつ〉)できるいろいろな方法を提供(ほうほうを ていきょう)しています( "And for readers who prefer reading on paper to reading on an electronic screen, the website will offer various means of choosing back-issues and printing them together." ).

    このサイトの第2部「本と対話 (Books and Talks)」(だいに ぶ「ほんと たいわ」では録音(ろくおん)された過去の諸々の会議(かこの もろもろの かいぎ)やウィリアムソン司教の諸々の説教(うぃりあむそん しきょうの もろもろの せっきょう),彼(かれ)が1983年(せん きゅうひゃく はちじゅう さんねん)から2003年(にせん さんねん)までの間(あいだ)に米国で書いた(べいこくで かいた)「神学校長の書簡集」(しんがっこうちょうの しょかんしゅう)“Rector’s Letters” 4巻(よんかん)の最初の2巻(さいしょの にかん)に収(おさ)められた文書のコピー(ぶんしょの こぴー),それにホワイト博士(ほわいと はかせ)の現存(げんぞん)するすべての文学セミナー(ぶんがく せみなー)の記録が読めます( "A second section of the website, “Books and Talks” will make available recorded conferences and sermons of Bishop Williamson, copies on paper of the first two of the four volumes of his “Rector’s Letters” written in the USA between 1983 and 2003, and all extant literature seminars of Dr White." ).現代のエレクトロニックスはこうした諸記録を読んだりダウンロードしたりできるさまざまな方法を提供してくれます( "Again, modern electronics will provide a variety of ways of reaching and downloading these recordings, …" ).だが,ヴィデオ版やオーディオ版はさほど多くありません( "… but only a few are on video as well as on audio." ).希望する読者の皆さんは+1 844 SMI SHOP, すなわち 1(844)764-7467 番 にダイヤルすれば購入注文ができます( "Orders to purchase can also be made by telephone by dialling +1 844 SMI SHOP, i.e. 1 (844) 764-7467." ).

    ホワイト博士の文学講演(ほわいと はかせ〈はくし〉の ぶんがく こうえん)についてまだご存(ぞん)じないカトリック信徒の皆さん(かとりっく しんとの みなさん)――また非(ひ)カトリック信徒の皆さん!――博士が世界の古典文学を用いて(せかいの こてん ぶんがくを もちいて)信仰と私たちの周りの世界(しんこうと わたくしたちの まわりの せかい)をどのように橋渡し(はし わたし)しているかを知る(しる)ため是非ともこの機会を捉えて(ぜひとも この きかいを とらえて)サイトにアクセス(さいとに あくせす)してみてください( "Catholics — and non-Catholics! — not yet familiar with the literature recordings of Dr White should seize this opportunity to see how he uses the classics of world literature as a bridge to connect the Faith to the world around us." ).信仰と世界(しんこうと せかい)のあいだのギャップ(gap=〈考え方・意見〈かんがえかた・いけん〉などの〉隔たり・食い違い,すき間〈ま〉・間隙〈かんげき〉)は日増しに広がって(ひましに ひろがって)います( "The gap between these two grows greater every day." ).公会議派カトリック信徒(こうかいぎは かとりっく しんと)たちは昨日の信仰を今日の世界(さくじつの しんこうをこんにちの せかい)に適応(てきおう)させようと試(こころ)みました.そして,その過程(かてい)で多くの信徒(おおくの しんと)たちは信仰を失って(しんこうを うしなって)しまいました( "Conciliar Catholics have tried to adapt yesterday’s Faith to today’s world and many have lost their Faith in the process." ).伝統派カトリック信徒(でんとうは かとりっくしんと)たちは今日の世界が救(すく)いがたいほど失われた状態(うしなわれた じょうたい)( "irredeemably lost" )で,世界文学(せかい ぶんがく)も救いがたいほど世俗的(せぞくてき)( "irredeemably “unspiritual”" )なものになってしまったと軽蔑(けいべつ)しがちです.そして彼らの多くの信仰(かれらの おおくの しんこう)はその過程の中(かていの なか)でまったく現実離れ(げんじつ ばなれ)( "detached from reality" )しています( "Traditional Catholics are liable to scorn both today’s world as irredeemably lost, and world literature as irredeemably “unspiritual”, and the Faith of many of them has become quite detached from reality in the process." ).ホワイト博士は強い信仰を持ち(つよい しんこうを もち),今日(こんにち)の私たちの周りの世界の実情(わたくしたちの まわりの せかいの じつじょう)についてしっかりと理解(りかい)しています( "Dr White has both a strong faith and a firm grip on the real world around us today, …" ).彼は世界文学に精通(せかいぶんがくに せいつう)しており,それにより老若を問わず(ろうじゃくを とわず)無数の人々(むすうの ひとびと)のために,信仰と世界の実情(しんこうと せかいの じつじょう)について解明(かいめい)してくれています( "… and his mastery of world literature has enabled him to make sense of both for countless souls, old and young, …" ).こうした人(ひと)たちは,それを知(し)らなければ希望を失って(きぼうを うしなって)統合失調症(とうごう しっちょう しょう)になってしまうでしょう.博士の文学講演をお読み(およみ)になるよう強く勧め(つよく すすめ)ます( "… -+who felt otherwise hopelessly schizophrenic. Strongly recommended." ).

    サイトの第3部は(さいとの だいさんぶ は)「寄付(Donations)」(「きふ」)についてです( "A third section of the website concerns “Donations”." ).今日のナンセンスに満ちた荒地(こんにちの なんせんすに みちた あれち)のなかに良識のオアシスを維持し続ける(りょうしきの おあしすを いじ しつづける)ために寄付(きふ)してくださる人(ひと)たちが使える(つかえる)電子的方法が載って(でんしてき ほうほうが のって)います( "It will present a similar variety of electronic means of donating to help maintain an oasis of, one hopes, good sense amidst today’s wasteland of nonsense." ).寄付をされる方々(きふを される かたがた)が出来る範囲(できる はんい)でいつでも各自の希望するスケジュール(かくじの きぼうする すけじゅーる)で簡単に寄付(かんたんに きふ)できるようになっています( "It should allow benefactors to donate what they want, when they want, on the schedule they want, and with ease." ).実際(じっさい)のところサイト立ち上げ(さいと たちあげ)にはかなりの費用(ひよう)がかかりました( "To set up the website has actually been quite an expense on its own." ).私たち(わたくしたち)は費用を費やし(ひようを ついやし)ただけの価値が生まれ(かちが うまれ)ると考(かんが)えていますが( "We think it should prove well worth while, …" ),それが皆さんへ寄付をお願い(みなさんへ きふを おねがい)するもう一つの理由(もう ひとつの りゆう)です.ご寄付下さる方(ごきふ くださる かた)に予め(あらかじめ)お礼申し上げます(おれい もうし あげます).( "… but it has been one more reason for us to appeal to your generosity. We thank you in advance." ).

    サイトの第4部(さいとの だいよんぶ)には「情報(Information)」のタイトル(じょうほうの たいとる)がついています( "A fourth section is entitled “Information”." ).ここでは,聖マルセル運動(せい まるせる うんどう)(St Marcel Initiative),サイトがどのように運営(うんえい)されているか,ウィリアムソン司教(うぃりあむそん しきょう)がこれまでなにをしてきて今後(こんご)なにをしようと望んで(のぞんで)いるかについて触れ(ふれ)ています( "It will tell a little about the St Marcel Initiative, about how the website operates, and about what Bishop Williamson has been doing and hopes to do." ).だが,司教の今後の行動予定(こんごの こうどう よてい)についてのニュース(にゅーす)は慎重に扱わねば(しんちょうに あつかわねば)なりません( "However, news of his future engagements must be released with a measure of caution, …" ).というのは,彼が世界中(せかいじゅう)に友人だけを持って(ゆうじん だけを もって)いるとは限らない(かぎらない)からです( "… because he does not only have friends around the world." ).

    インターネット(いんたーねっと)には重大な欠点と危険(じゅうだいな けってんと きけん)がつきものです( "The Internet has serious drawbacks and dangers, …" ).だが,そこでは驚くほど多様な手段(おどろく ほど たような しゅだん)により他では得られない真実が見つかる(ほかでは えられない しんじつが みつかる)ことに疑問の余地(ぎもんの よち)がありません( "… but there is no question that, by an astonishing variety of electronic means truths can be found on it that can be found nowhere else." ).私たちは今回紹介(こんかい しょうかい)した新しいサイト(あたらしい さいと)が真実の宝庫(しんじつの ほうこ)を探り当てる(さぐり あてる)のに役立つよう密かに望んで(やくだつよう ひそかに のぞんで)います( "We gently hope that this new website will contribute to that fund of truth." ).このサイト立ち上げ(さいと たちあげ)に多くの労力が費やされ(おおくの ろうりょくが ついやされ)ました( "A lot of work has gone into putting it together, …" ).多くの人々(おおくの ひとびと)が提供(ていきょう)してくれた労力のほか( "… and besides the contribution of the many workers, …" ),多くの篤志家(とくしか)から寄せられた援助(よせられた えんじょ)なしには実現(じつげん)できませんでした( "… that of many benefactors has also been indispensable." ).私たちはすべての関係者(かんけいしゃ)に心からお礼を申し上げます(こころから おれいを もうしあげます)( "We sincerely thank all concerned." ).神が彼らの一人ひとり(かみが かれらの ひとり ひとり),あなたたちの一人ひとりにお報(むく)いくださいますように( "We sincerely thank all concerned. May God repay each of them, each of yourselves.").

    キリエ・エレイソン.

    新しいウェブサイトで,
    カトリック信徒と健全な人たちの
    双方にとっての
    思考の糧が見つかりますように.
    (あたらしい うぇぶさいとで
      かとりっくしんとと
       けんぜんなひとたちの
     そうほうにとっての
     しこうの かてが
      みつかりますように.)
    ( "On a new website
       will, we hope, be found
      Some food for thought
       both Catholic and sound." )


    リチャード・ウィリアムソン司教




* * *






* * *
(注:本投稿記事〈第378回エレイソン・コメンツ〉は2014年11月2日23:46時に公開されました.)

2014年10月4日土曜日

377 大司教の感覚 I 10/4

エレイソン・コメンツ 第377回 (2014年10月4日)

The Recusant (反抗者〈はんこうしゃ〉)(www.The Recusant.com) (訳注・=英国〈えいこく〉のカトリック教〈かとりっく きょう〉月刊誌名〈げっかんし めい〉)の先月(9月)号(せんげつ〈くがつ〉ごう)にルフェーブル大司教の最後のインタビューの英語翻訳(るふぇーぶる だいしきょうの さいごの いんたびゅーの えいご ほんやく)が掲載(けいさい)されています.このインタビューは大司教が1991年3月(せん きゅうひゃく きゅうじゅう いちねん さんがつ)に亡くなる直前(なくなる ちょくぜん),フランス語で出版(ふらんすごで しゅっぱん)されたものです(Fideliter #79)(機関誌フィデリテ 〈きかんし ふぃでりて〉第79号〈だい ななじゅうきゅう ごう〉)(訳注・ "Fideliter" =「真の信仰に忠実に留まる(まことの しんこうに ちゅうじつに とどまる)」「誠実である(せいじつで ある)」という意味合い〈いみあい〉)( "In last month's issue of The Recusant (www.The Recusant.com) is a translation into English of Archbishop Lefebvre's last interview, published in French (Fideliter #79) shortly before his death in March of 1991." ).ルフェーブル大司教について書かれたものは読む度に気持ちをすっきりさせてくれます(るふぇーぶる だいしきょうに ついて かかれたものは よむたびに きもちを すっきり させて くれます)( "He is always refreshing to read." ).彼は明快(かれは めいかい)です.それは彼がカトリックの基本的原則に基づいて考える(かとりっくの きほん げんそくに もとづいて かんがえる)からです( "He is clear, because he thinks from basic Catholic principles." ).彼は透明(かれは とうめい)です.それは彼に隠すものが何もない(かくす ものが なにも ない)からです( "He is transparent, because he has nothing to hide." ).彼は曖昧(あいまい)ではありません.なぜなら,彼には私たちの主イエズス・キリストの教会(わたくしたちの しゅいえずす・きりすとの きょうかい)を悪魔の第二バチカン公会議に妥協(あくまの だいに ばちかん こうかいぎに だきょう)させるつもりがないからです( "He is unambiguous, because he is not trying to compromise Our Lord's Church with Satan's Vatican II." ).聖ピオ十世会(せい ぴお じゅっせい かい)(SSPX)はルフェーブル大司教の死後(しご),数年経つ(すうねん たつ)と彼が示した方向と違う方向へ進む(かれが しめした ほうこうと ちがう ほうこうへ すすむ)ことになります.だが,大司教をインタビューした担当者の質問事項を読む(たんとうしゃの しつもんじこうを よむ)と, Fideliter の読者層(どくしゃそう)がこの時(とき)すでに SSPX がたどることになる方向を選(えら)ぼうとしているのが分(わ)かります( "But notice how the interviewer's questions indicate that the readership of Fideliter was naturally inclining to take the direction which the Society of St Pius X would begin to take a few years after the Archbishop's death." ).以下(いか)にインタビューでの質疑応答の抜粋(しつぎ おうとうの ばっすい)を要約して紹介(ようやく して しょうかい)します:-- ( "Here is a selection of the questions and answers, somewhat abbreviated:-- " )

問: あなたがローマ(=ローマ教皇庁)(ろーま きょうこう ちょう)にあと一歩(いっぽ),歩み寄り(あゆみより)ができないのはなぜですか? 私(わたくし)たちは教皇(=ローマ教皇)が「あなたをいつでも受け入れる用意(うけいれるようい)がある」と聞(き)いています. ( "Q: Why can you not make one last approach to Rome ? We hear the Pope is “ready to receive you”. " )
答: それは絶対に不可能(ぜったいに ふかのう)です.その理由(りゆう)は,公会議派の教会(こうかいぎはの きょうかい)を導く諸原則(みちびく しょげんそく)がカトリック教の教理(かとりっくきょうの きょうり)に益々公然と反して(ますます こうぜんと はんして)きているからです( "A: That is absolutely impossible, because the principles which now guide the Conciliar church are more and more openly contrary to Catholic doctrine." ).例(たと)えば,ラッツィンガー枢機卿(らっつぃんがー すうききょう)( "Cardinal Ratzinger" )は最近(さいきん)になって,歴代教皇(れきだい きょうこう)たちが19-20世紀(じゅうきゅう から にじゅっ せいき)に記(しる)した偉大(いだい)な反モダニスト(反近現代主義)文書(はん もだにすと〈はんきんげんだいしゅぎ〉ぶんしょ)( "anti-modernist documents" )は当時(とうじ)大いに役立った(おおいに やくだった)が,今日(こんにち)では時代遅れ(じだい おくれ)になっていると述(の)べました( "For instance Cardinal Ratzinger recently said that the Popes' great anti-modernist documents of the 19th and 20th centuries rendered a great service in their day, but are now outdated." ).そして,ヨハネ・パウロ2世(よはね・ぱうろ にせい)は かつてないほどエキュメニカル(えきゅめにかる)です(1990年時点〈せん きゅうひゃく きゅうじゅうねん じてん〉)( "And John-Paul II is more ecumenical than ever (1990). " ).「そのような指導層(しどうそう)とともに働く合意(はたらくごうい)をするなどまったく想像(そうぞう)もできません.」( " “It is absolutely inconceivable that we can agree to work with such a hierarchy.”" )

問: ローマの状況(じょうきょう)は1988年(せん きゅうひゃく はちじゅうはち ねん)の交渉の時に比べ(こうしょうの ときに くらべ)一段と悪化(いちだんと あっか)したのでしょうか?( "Q; Has the situation in Rome deteriorated even since the negotiations of 1988 ? " )
答: その通(とお)りです!「私たちは何(なん)らかの合意(ごうい)をする可能性(かのうせい)について考(かんが)えるまでしばらく様子(ようす)を見(み)なければならないでしょう.( "A: Oh yes ! “We will have to wait some time before considering the prospect of making an agreement. …" )ローマがこの事態を打開する可能性(じたいを だかいする かのうせい)はないようですから,私はこの状況を救いうるのは神のみ(じょうきょうを すくいうる のは かみ のみ)だと信じています.」( "… For my part I believe that God alone can save the situation, as humanly we see no possibility of Rome straightening things out.” " )

問: だが,何も譲歩(じょうほ)しないでローマと合意(ごうい)した伝統派の人(でんとうはの ひと)たちがいます.( "Q: But there are Traditionalists who have made an agreement with Rome while conceding nothing. " )
答: それは間違った見方(まちがった みかた)です.彼らはローマに反対(はんたい)する自らの能力(みずからの のうりょく)を捨て去って(すて さって)しまったのです( "A: That is false. They have given up their ability to oppose Rome." ).彼らは恩恵を与え(おんけいを あたえ)られたので黙(だま)っていなければならないのです( "They must remain silent, given the favours they have been granted." ).彼らは徐々に堕落し続け(じょじょに だらくしつづけ),やがて第二バチカン公会議の間違いを容認(だいに ばちかん こうかいぎの まちがいを ようにん)することになるでしょう( "Then they begin to slide ever so slowly, until they end up admitting the errors of Vatican II." ).「これはとても危険な状況(きけんな じょうきょう)です.」ローマが譲歩(じょうほ)するのは,伝統派の人々(でんとうはの ひとびと)が SSPX から離れ(せいぴおじゅっせいかい から はなれ)ローマに従う(ろーまに したがう)ようにさせるためです.( " “It's a very dangerous situation.” Such concessions by Rome are meant only to get Traditionalists to break with the SSPX and submit to Rome." )

 問: あなたはそのような伝統派の人(でんとうはの ひと)たちは「裏切った(うらぎった)」のだと言(い)われますが,少し厳しすぎる(すこし きびし すぎる)のではないでしょうか? ( "Q: You say that such Traditionalists have “betrayed”. Isn't that a bit harsh ? " )
答: そんなことはありません! たとえば,ジェラール師(じぇらーる し)(ドン・ジェラール〈どん・じぇらーる〉)( “Dom Gérard” )は私(わたくし)や, SSPX とその各支部(かく しぶ),それに後援者(こうえんしゃ)たちを利用(りよう)しました( "A: Not at all ! For instance Dom Gérard made use of me, of the SSPX and its chapels and benefactors, …" ).そしていまや突然(とつぜん)私たちを見捨て(わたくしたちを みすて)て信仰の破壊者(しんこうの はかいしゃ)たちに加(くわ)わりました( "… and now they suddenly abandon us and join with the destroyers of the Faith." ).彼らは信仰のための闘いを諦めた(かれらは しんこうの ための たたかいを あきらめた)のです( "They have abandoned the fight for the Faith.." )..彼らはもはやローマを非難(ろーまを ひなん)することなどできません( "They can no longer attack Rome." ).彼らは教理の問題(きょうりの もんだい)などなにも理解(りかい)していません( "They have understood nothing of the doctrinal question." ).伝統(でんとう)のためと信(しん)じて彼らに加(くわ)わり,公会議派ローマ(こうかいぎは ろーま)までついて行(い)った若者(わかもの)たちのことを考(かんが)えると不愉快(ふゆかい)です( "It is awful to think of the youngsters who joined them for the sake of Tradition and are now following them to Conciliar Rome." ).

問: ローマ側(ろーま がわ)についた伝統派の人々と仲良く(なかよく)し,彼らのミサ聖祭(みさせいさい)に加(くわ)わるのは危険(きけん)でしょうか? ( "Q: Is there a danger in remaining friends with Traditionalists who have gone over to Rome, and in attending their Masses ? " )
答: はい,それは危険です.なぜなら,ミサ聖祭ではミサ聖祭が行(おこな)われるだけではありません.説教(せっきょう)もあります ( "A: Yes, because at Mass there is not only the Mass but there is also the sermon, …" ).ミサ聖祭が始まる前後(はじまる ぜんご)の雰囲気,環境,会話(ふんいき,かんきょう,かいわ)など諸々の要素(もろもろの ようそ)があります( "… the atmosphere, the surroundings, the conversations before and after Mass, and so on. " ).そのひとつひとつが少(すこ)しずつあなたの考え方を変える(かんがえかたを かえる)のです( "All of these things make you little by little change your ideas." ).彼らの行うミサ聖祭(かれらの おこなう みさ せいさい)には曖昧な風潮(あいまいな ふうちょう)が見(み)られます( "There is a climate of ambiguity." ).バチカンに従い(ばちかんに したがい),最終的(さいしゅう てき)には公会議に従属(こうかいぎに じゅうぞく)するといった雰囲気(ふんいき)があり( "One is in an atmosphere submissive to the Vatican, subject ultimately to the Council, …" ),結局(けっきょく)はエキュメニカル(えきゅめにかる)になってしまいます( "… so one ends up by becoming ecumenical." ).

問: ヨハネ・パウロ2世(よはね・ぱうろ にせい)はとても人気(にんき)があります.彼はあらゆるキリスト教徒(きりすと きょうと)を団結(だんけつ)させたいと望(のぞ)んでいます.( "Q; John-Paul II is very popular. He wants to unite all Christians." )
答: だが,それはどのような団結(だんけつ)なのでしょうか? 霊魂(れいこん)が受け入れ(うけいれ)なければならない信仰(しんこう),改宗が求められる信仰(かいしゅうが もとめられる しんこう)の下(もと)での団結ではありません( "A: But in what unity ? No longer in the Faith which a soul must accept, and which calls for conversion." ).教会(きょうかい)は階層的社会(かいそうてき しゃかい)( “a hierarchical society” )から「交流団体」(「こうりゅうだんたい」)( “communion” )に変形(へんけい)してしまいました( "The Church has been distorted, from being a hierarchical society into being a “communion”." ).何を目的(なにを もくてき)に交流(こうりゅう)するのでしょう? 信仰でないのは確(たし)かです( "Communion in what ? Not in the Faith." ).カトリック信徒が群れ(むれ)をなして信仰を離れ(しんこうを はなれ)ていると聞(き)きますが,なんら不思議(ふしぎ)なことではありません.         (次週へ続く〈じしゅうへ つづく〉)( "No wonder one hears that Catholics are leaving the Faith in droves.         (to be continued) " )

キリエ・エレイソン.

ルフェーブル大司教は
(るふぇーぶる だいしきょうは)
決して妥協(けっして だきょう)
しませんでした.
( "Archbishop Lefebvre
would never compromise. " )

彼を賢明(かれをけんめい)にしたのは
カトリック教教理への忠誠
(かとりっくきょう きょうりへの
ちゅうせい)でした.
( "Cleaving to Catholic doctrine
made him wise. " )

リチャード・ウィリアムソン司教




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(注:本投稿記事〈第377回エレイソン・コメンツ〉は2014年10月26日23:16時に公開されました.)