2012年2月26日日曜日

241 教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義) -1- (2/25)

エレイソン・コメンツ 第241回 (2012年2月25日)

バチカン公会議のエキュメニズム “conciliar ecumenism” (訳注・=世界教会主義,世界統一主義)に関する貴重な研究論文がヴォルフガング・シューラー博士 “Dr. Wolfgang Schüler” という人物によって書かれ数年前にドイツで刊行されました.その著書 “Benedict XVI and How the Church Views Itself” (訳注・直訳「ベネディクト16世と(カトリック)教会の自己認識」の中で,シューラ―博士は第二バチカン公会議によって解放されたエキュメニズムがカトリック教会の自己理解を変質させたと論じ,一連の引用を用いてジョセフ•ラッツィンガー “Joseph Ratzinger” (訳注・教皇ベネディクト16世の本名) が司祭,枢機卿さらに教皇として,第二バチカン公会議の時から今日に至るまで一貫してこの変質を推進してきたことを証明しています.博士によると,同教皇は自ら行ってきたことを恥じる可能性もなさそうです.

論理的な順序にしたがって - これには「エレイソン・コメンツ」一回分以上の分量を要します - まず真のカトリック教会の自己認識について目を向けてみましょう.そしてシューラ―博士の助けを借りて,この真の教会の持つべき本来の正当な自己認識が第二バチカン公会議によりどのように変えられたか,教皇ベネディクト16世がいかに一貫してこの変質を推進してきたかを見ることにしましょう.最後に,真のカトリック信仰を維持したいと願っているカトリック信徒たちのために出てくる諸々の結論を引き出してみることにしましょう.

真のカトリック教会は常にひとつの有機的統一体,すなわち,カトリック信仰,諸秘蹟そしてローマの階層(階級)制度により結ばれる人たちで構成される唯一にして神聖かつ普遍的な使徒継承たる一社会と自認してきました.( “The true Catholic Church has always seen itself as an organic whole, a society one, holy, catholic and apostolic, consisting of human beings united by the Faith, the sacraments and the Roman hierarchy.” )この教会は限りなく唯一の存在であって,教会がカトリック(普遍・公〈おおやけ〉・万人〈ばんにん〉の)たることを止めない限りその破片のひとつたりともそこから断ち切ったり取り除いたりは決してできません(ヨハネ聖福音書:第15章4-6節を参照してください)( “This Church is so much one, that no piece can be broken off or taken away without its ceasing to be Catholic (cf. Jn. XV, 4-6).” )(訳注後記).たとえば,カトリック信者の主要構成要素たるカトリック信仰は断片的に少しずつ持つということはできず,そのすべてを(少なくとも暗黙のうちに)持つか,さもなければ全く持たないかのいずれかです.( “For instance, that Faith which is the prime constituent of the Catholic believer cannot be held piecemeal, but must be held either altogether (at least implicitly) or not at all.” )これは何故かと言えば,私が信じるカトリック信仰の諸条項は神の権威の上に基づき明らかにされるものですから,もし私が諸条項のただ一つでも信じないとすれば,他のすべての条項の背後にある神の権威を拒否したということになり,その場合たとえ他の条項をすべて信じるとしても,私の信仰はもはや神の権威の上にではなく,ただ私自身の選択の上に基づいているだけということになるからです.

事実,「異教徒」 “heretic” という言葉はギリシア語の「選択する」 “to choose” ( hairein )から来ています.したがって,異教徒の信仰は自らの選択にすぎず,それで信仰の超自然的な徳( “the supernatural virtue of faith” )を失っているわけですから,たとえ信仰個条の一条項だけを拒否しているにすぎなくても,彼はもはやカトリック教徒ではないのです.アウグスティヌス “Augustine” のある有名な言葉に次のようなものがあります.「あなたはほとんど私と共にあり,私と共にないことはわずかしかない.だがその私と共にないわずかのために,ほとんど私と共にあることがあなたにとってなんの役にも立たなくなる.」( “In much you are with me, in little you are not with me, but because of that little in which you are not with me, the much in which you are with me is of no use to you.” )

たとえば,プロテスタント信者は神を信じ,ナザレトの人間イエズスの神性 “the divinity of the man Jesus of Nazareth” まで信じているかもしれません.だが,もしミサ聖祭で聖別された後のパンとぶどう酒の外観の下(もと)で,神の実在,すなわち(神たるキリストの)御聖体,御聖血,御霊魂そして神性がそこに現実に存在しておられること( “…the Real Presence of God, body, blood, soul and divinity, beneath the appearances of bread and wine after their consecration at Mass,…” )を信じなければ,彼はイエズス・キリストおよび彼の信じる神の愛についてまったく異なる不完全な概念を持っているということになります.では真のプロテスタント教と真のカトリック教は同じ神を信仰していると言えるでしょうか? 第二バチカン公会議はそう言えるとしており,カトリック教徒とあらゆる非カトリック教徒が多かれ少なかれ共有していると想像される信念を土台に(訳注・同公会議流の)世界主義 “its ecumenism” を構築しています.これとは逆に,シューラー博士は一連の比較を用いて,同じ信念のように見えるようでも,それが二つの異なる信条の一部を形成する場合は,実際には全く同じでないことを例証しています.ひとつ実例を挙(あ)げましょう.酸素(さんそ)分子は窒素(しっそ)と混合しても水素(すいそ)と混合しても同一分子ですが,私たちが飲む水( H20 )と呼吸する空気( O+4N )という2例においては相異なるものです! 引き続き次回をお楽しみに.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


第3パラグラフの訳注:
新約聖書・ ヨハネによる聖福音書:第15章4-6節 (太字部分)(15章全章を掲載いたします).
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN XV, 4-5 (XV, 1-27)

ぶどうの木と枝
『「私はほんとうのぶどうの木で,私の父は栽培する者である.*¹父は私にあって実を結ばぬ枝をすべて切り取り,実を結ぶ枝をすべて,もっと豊かに結ばせるために刈り込まれる.あなたたちは,私の語ったことばを聞いたことによってすでに刈り込まれた者である.

私にとどまれ,私があなたたちにとどまっているように.木にとどまらぬ枝は自分で実を結べぬが,あなたたちも私にとどまらぬならそれと同じである.
私はぶどうの木で,あなたたちは枝である.私がその人の内にいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ.私がいないとあなたたちには何一つできぬからである.
私にとどまらぬ者は枝のように外に投げ捨てられ、枯れ果ててしまい,人々に拾い集められ,火に投げ入れられ,焼かれてしまう
.(4-6節)

あなたたちが私にとどまり,私のことばがあなたたちにとどまっているなら,あなたたちは望みのままにすべてを願え.そうすればかなえられるだろう.*³あなたたちが多くの実をつけることは,私の父の光栄であり,そして,あなたたちは私の弟子になる.
父が私を愛されるように私はあなたたちを愛した.私の愛にとどまれ.私が父のおきてを守り,その愛にとどまったように,私のおきてを守るなら,あなたたちは私の愛にとどまるだろう.
私がこう話したのは,*⁴私の喜びがあなたたちにあり,あなたたちに完全な喜びを受けさせるためである.』

まことの愛
『私が愛したようにあなたたちが互いに愛し合うこと,これが私のおきてである.
友人のために命を与える以上の大きな愛はない.
私の命じることを守れば私の友人である.これからもう私はあなたたちをしもべとは言わない.しもべは主人のしていることを知らぬものである.私は父から聞いたことをみな知らせたから,あなたたちを友人と呼ぶ.
あなたたちが私を選んだのではなく,私があなたたちを選んだ.私があなたたちを立てたのは,あなたたちが行って実を結び,その実を残すためである.私の名によってあなたたちが父に求めるものをすべて父は与えられる.
私があなたたちに命じるのは互いに愛し合うことである.』

世の憎しみ
『*⁵この世があなたたちを憎むとしても,あなたたちより先に私を憎んだことを忘れてはならぬ.
あなたたちがこの世のものなら,この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう.しかしあなたたちはこの世のものではない.私があなたたちを選んでこの世から取り去った.だからこの世はあなたたちを憎む.
〈*⁶奴隷は主人より偉大ではない〉と先に私が言ったことを思い出せ.彼らが私を迫害したなら,あなたたちにも迫害を加えるだろう.彼らが私のことばを守ったなら,あなたたちのことばも守るだろう.しかし彼らは,私を遣わされたお方を知らぬから,私の名のために,あなたたちにそうするだろう.
もし私が来なかったなら,また語らなかったなら,彼らには罪はなかった.しかし今彼らは自分たちの罪の言い逃れができぬ.私を憎む者は私の父をも憎む.
今までだれ一人したことのない業を私が彼らの間で行わなかったなら,彼らには罪がなかった.しかし今彼らは,それを見ながら私たちを,私と私の父を憎んだ.それは〈*⁷彼らは理由なく私を憎んだ〉という律法のことばを実現するためだった.
私が父からあなたたちに送る弁護者,父から出る真理の霊が来るとき,それが私について証明されるであろう.あなたたちも私を証明するだろう.あなたたちは初めから私とともにいたからである」.』

(注釈)

ぶどうの木と枝(15・1-11)
*¹ 弟子は恩寵によって,イエズス自身の生命に生きる.
神は善業を行わぬ者を捨て,真実に神を愛するものに苦しみと迫害を送ってその愛を清められる
おきてに忠実な実,聖徳の実のことをいう(15・12-17,〈旧約〉イザヤの書5・7,エレミアの書2・21).

霊的な命の泉はイエズスである
信仰と愛をもってイエズスに一致しない人に救いはない.聖霊がなければ,人は永遠の救いを得るに足ることを何もなしえない.

*³ 御父は「み子」によって光栄を受けられる(14・13,21・19).

*⁴ 神のみ子,メシアとしての喜び.

まことの愛(15・12-17)

世の憎しみ(15・18-27)
*⁵ 弟子たちの愛に対立するものは,世の憎しみである.弟子たちの生活は,先生と同じ道をたどるであろう.
弟子たちを迫害することによって,世が迫害するのは,イエズス自身である(〈新約〉使徒行録9・5,コロサイ人への手紙1・24).

*⁶ 13・16,マテオ10・24参照.

*⁷ 詩篇25・19参照.

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キリストの「エルサレム入城」から「弟子ユダによる裏切り」の直前の場面まで(ヨハネによる聖福音書:第12章から17章まで)を後から追加掲載いたします.


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2012年2月18日土曜日

240 混沌と向き合う (2/18)

エレイソン・コメンツ 第240回 (2012年2月18日)

注意(用心)深い読者の皆さんは,このところの「エレイソン・コメンツ( EC )」の内容が明らかに矛盾(むじゅん)してきているようだとお気づきかもしれません.「エレイソン・コメンツ」は一方であらゆる現代芸術作品を繰り返し非難しながら(たとえばEC114, 120, 144, 157など),他方で先週は英国系アメリカ人の詩人T. S. エリオット “Anglo-American poet T. S. Eliot” を第1級の現代主義者 “arch-modernist” と呼び,確実に混沌(こんとん)とした現代 “…modern times, certainly chaotic.” を忠実に反映する新しい詩のスタイルを確立した人物だと称賛しました.

これまでの「コメンツ」でしばしば指摘したように,現代芸術は無秩序,醜(みにく)さ “disharmony and ugliness” が特徴です.それは,現代人が,万物の創造期間中に秩序と美 “order and beauty” を植えつけられた神をますます軽視するか無視するような行動を選ぶようになっているからです.今日,この美や秩序は神を信じない人々の勢いの陰に深く埋(う)もれてしまっているため,芸術家は自分たちもその中の一人だと感じにくくなっているほどです.もし彼らの芸術が身の回りのことや社会を見た通りに描写しているのだとすれば,唯一例外的な現代芸術家のみが現代生活の壊(こわ)れた表面下に横たわるなんらかの神聖な秩序 “the divine order” を伝えようとするでしょう.だが,ほとんどの現代芸術家たちは秩序など見捨ててしまっており,その作品の鑑賞客たちと同じように,無秩序に浸(ひた)りきっています.

だが,エリオットは社会がまだ比較的秩序立っていた19世紀に生まれ育ちました.そして彼は米国で良質の古典的な教育を受けました.当時の米国は少数の隠(かく)れた悪党どもが非人道的な物事についての訓練をもって教育に代えようと夢見ていた時代でした.したがって,エリオットは若いころに真の宗教に近づくことはほとんどなかったか,あるいはまったくなかったかもしれません.だが,彼は中世以降の宗教の副産物,すなわち西洋音楽,文学の古典作品には十分接したようです.彼は身の回りになくなっている秩序が古典の中にあることに気づきそれを追い求めました.その結果,彼は新たに始まった20世紀に深く根ざした無秩序,すなわち第一次世界大戦(1914-1918)から生じた無秩序の実態を理解したのです.そこで彼は1922年に「荒野 “Waste Land” 」を著(あらわ)しました.

だが,彼はこの詩の中で決して無秩序に浸ることはしませんでした.それどころか,彼は無秩序を嫌い,それがいかに人間の温(あたた)か味,価値に欠けるものであるかを示しました.「荒野」は西洋的宗教の痕跡(こんせき)をほとんど持たず,むしろ東洋的宗教の片鱗(へんりん)を留(とど)めています.現代の英国人作家ロジャー・スクルートン “Roger Scruton” が述べているように、エリオットは間違いなく無秩序という問題の宗教的な深さを追求したのです.事実,彼は数年後にカトリック信者になろうとしましたが,ローマ教皇ピオ11世 “Pius XI” が1926年に「アクション・フランセーズ」 “action française” (訳注・直訳「フランス主義運動」.フランス極右派 / 国粋主義 / フランス民族主義(=右翼)政治団体名.王政復古派,カトリック国教主義.) を糾弾(きゅうだん)したことに嫌気がさして信者になるのを思いとどまりました.ピオ11世は問題の存在を認めながらも解決策は示しませんでした.そこで,エリオットは英国が彼に伝統的な秩序を与えてくれたことに感謝し,不完全ながらも( “…a solution less than complete” )自分なりの解決にたどり着きました.それは英国国教会主義と高度文化の結びつけ “Anglicanism with high culture”,それにロザリオ “a Rosary” を一ついつもポケットに入れて持ち運ぶという解決法でした.神はどんな歪(ゆが)んだ線をも真っ直ぐに正してくださいます.秩序を求める人たちの多くは,シェークスピア,エリオットのいずれもが真のカトリック教徒になったとしたら,実生活に忠実でない出来合いの答えを見出したのではないかと考え彼らから遠ざかったのではないでしょうか.

それは悲しいことですが,事実はそうでしょう.人間は実生活に忠実でないとの理由でカトリック教の作家や芸術家を敬遠する場合,なんらかの方法で自分を欺(あざむ)いているのではないでしょうか.だが,そのような口実(こうじつ)を与えないのはカトリック信者のつとめです.私たちカトリック信徒は,現代社会の問題の根深さから離れた人為的な解決を得て心穏やかにしているのではないことを,身をもって示しましょう.私たちはみな天使ではなく,現代の十字架を手に取り私たちの主イエズス・キリストに従うことで天国へ招かれる現世の被造物( “earthy creatures” =神に創造された地上の生き物)です.そのような信奉者(しんぽうしゃ)だけが(カトリック)教会( “the Church” =真の神の教会),そして世界を再興できるのです!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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2012年2月14日火曜日

239 命取りの天使主義 (Angelism) (2/11)

エレイソン・コメンツ 第239回 (2012年2月11日)

T. S. エリオット “T. S. Eliot” (1888-1965)を「疑う余地のない20世紀最大の英文学詩人 “indisputably the greatest poet writing in English in the 20th century” 」と評した現代の保守派の英国人作家ロジャー・スクルートン “Roger Scruton” は,21世紀初頭の今日かろうじて指先一本で自(みずか)らのカトリック信仰にしがみついているカトリック教徒たちについて興味深いことを述べています.彼は簡潔(かんけつ)に,苦しみの中に解決がある! “ …in the pain is the solution ! ” と言い,もし私たちカトリック信徒が身の回りの世俗界から苦しめられ迫害されているとすれば,それは私たちの背負っている十字架だと,彼は断じています.

エリオットは詩の世界では第一級の現代主義者(モダニスト) “Arch-modernist” でした.スクルートンが言うように「彼(エリオット)は19世紀の文学をひっくり返し,自由詩 “free verse”,(伝統からの)疎遠 “alienation”,新手法 “experiment” の時代を立ち上げました.」 エリオットが試みた高度の文化と英国国教会の教義 “Anglicanism” との究極的な結び付けは果たして彼の取り組んだ諸々の問題に満足な答えを出したのだろうかと疑問に思う方もいるでしょう.だが,彼が1922年に著(あらわ)した有名な詩作「荒地」 “the Waste Land” で現代英文詩 “contemporary English poetry” に新境地を切り拓(ひら)いたことを疑うものはいないでしょう.彼の数々の詩作がもたらした大きな影響力は少なくとも彼が時代の鼓動(こどう)に目を向けそれを正確に把握(はあく)していたことを明示しています.エリオットは現代人であり,現代の問題に真っ向(こう)から取り組みました.スクルートンは,エリオットが直面した問題を「分裂 “fragmentation”,異端 “heresy”,不信心 “unbelief” 」と要約しています.

だが,「荒地」が混沌(こんとん)の中からなにか意味あるものを見出さなかったら傑作(けっさく)とは評されなかったでしょう.この作品は第一次世界大戦 (1914-1918) の荒廃(こうはい)の中から現れたヨーロッパの疲れ切った「文明 “civilisation” 」をわずか434行で生き生きと描いています.エリオットはそれをどうやってなし得たのでしょうか? その理由は,スクルートンが言っているように,第一級の現代主義者だったエリオットが同時にまた第一級の保守主義者だったからです.彼は過去の偉大な詩人,とりわけダンテ “Dante”,シェークスピア “Shakespeare” に心酔(しんすい)するかたわらボードレール “Baudelaire”,ワグナー “Wagner” といったより現代の大家たちにも没頭(ぼっとう)しました.エリオットが過去の秩序を理解していたからこそ現代の無秩序を扱い得たことは「荒地」を読めば明白です.

スクルートンは,もしエリオットが19世紀の英詩の持つ偉大なロマン主義(=ロマン派)の伝統 “…the great romantic tradition of 19th century English poetry, ” の吹き飛ばしたとすれば,そのロマン主義 “Romanticism” が彼の時代の現実にもはや合わなくなってしまっていたからだろうと論評し,次のように述べています.「彼(エリオット)は自分と同年代の文学者たちが陳腐(ちんぷ)な詩作の語法やリズムを使う “…his contemporaries’ use of worn-out poetic diction and lilting rhythms” のは道徳的な弱さからくるのであり,生活をありのまま見ず自らの経験することに感ずべきことを感じないからだと考えました.そして,エリオットはその傾向は文学に限ったことではなく,現代生活のあらゆる面にみられると感じていました.」 したがって,エリオットの作品が新しい文学的作風を求めたとすれば,その対象はもっと大きなもの,すなわち「現代の経験の実感」 “for the reality of modern experience.” だったのです.

ところで,私たちは同じような道徳的弱さをカトリック教会内部にも見てきたし,現在も見ているのではないでしょうか? 1950年代の教会の弱さを「50年代主義」  “Fiftiesism” とみなし,これが1960年代の第ニバチカン公会議に直接つながったと言えるでしょう.それは,まさしく近代社会をありのまま直視することを拒(こば)んだことにほかなりません.さもなければそれは何だったのでしょうか? 物事はすべて素晴らしく,人は皆(みな)素晴らしいものと装(よそお)っていたことでしょうか? 自分が天使のような心構(こころがま)えに身を包んでいれば革命的な世界に置かれた教会の諸問題はすべて流れていってしまうものと装っていたことでしょうか? そして今現在,教皇庁が本当はカトリック教の伝統を望んでいるのだと装うとすれば,それは現代社会の実態直視を本質的に拒むのとどれほど違うというのでしょうか? エリオットが感傷主義は本当の詩を殺してしまう “…sentimentality is the death of true poetry” と私たちに教えてくれたように,ルフェーブル大司教はそれが真のカトリック教を死に追いやることだ “…it is the death of true Catholicism.” と私たちに示してくださいました.有数の保守主義者だった同大司教は本当の意味での近代主義的カトリック教徒でした “The arch-conservative Archbishop was the truest of modern Catholics.”.

カトリック信徒の皆さん,今日の現実社会はあらゆる種類の腐敗(ふはい)にあふれ,そのいずれかの手段で私たちを苦しめて( “crucifying” )いることでしょう.だが,喜びなさい,繰り返し,聖パウロは言います,喜びなさい,なぜなら,現代私たちにふりかかっている十字架を私たちが自(みずか)ら引き受けることが私たちにとっての唯一の救いであり,カトリック教義(信仰)の唯一の将来につながるからです “…rejoice, again, says St Paul, rejoice, because in our own acceptance of our modern Cross today is our only salvation, and the only future for Catholicism.” .(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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最後のパラグラフの訳注:
「喜びなさい…」について,新約聖書からの引用:

使徒聖パウロによるフィリッピ人への手紙・第4章4-5節(太字下線部分)(第3章-第4章〈最後まで〉)
THE EPISTLE OF ST. PAUL TO THE PHILIPPIANS, IV, 4-5 (CHAPTERS III and IV.)

The Philippians were the first among the Macedonians converted to the faith.
They had a great veneration for ST. PAUL, and supplied his wants when he was a prisoner in Rome, sending to him by Epaphroditus, by whom he sent this Epistle; in which he recommends charity, unity, and humility, and warns them against false teachers, whom he calls dogs, and enemies of the cross of Christ.
He also returns thanks for their benefactions. It was written about twenty-nine years after our Lord’s Ascension
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第3章 

偽教師
『…なおまた,兄弟たちよ,主において喜べ.あなたたちに同じことを書くのは,私にとってわずらわしいことではない.また,あなたたちにはこれが拠り所になる.
*¹犬を警戒せよ.*²悪い働き人を警戒せよ.*³切り傷を警戒せよ.神の霊によって崇敬を行い,*⁴肉に信頼するな.キリスト・イエズスを誇る私たちこそ,まことの割礼者である.』

キリストのためにパウロは何をしたか
『しかし私は,*⁵肉にも信頼をかけることができる.他のだれかが肉に信頼できるなら私はなおさらそうである.私は八日目に割礼を受けたイスラエルの民族であり,ベンヤミン族,ヘブライ人から出たヘブライ人,律法についてはファリザイ人,熱心については教会の迫害者,律法の正義については咎(とが)なき者である.

しかし,かつて私にとって益のあったそのことは,キリストのために損だと考えるようになった.
実に,主イエズス・キリストを知るという優れたことに比べれば,その他のことは何でも丸損だと思う.私はキリストのためにすべてを失う.だがキリストを得るためにはそのすべてを芥(あくた)だと思っている.

*⁶律法から出る私の正義ではなく,キリストへの信仰による正義,神から出るところの信仰に基つく正義をもって,キリストに在ることを認められ,キリストとその復活の力を知り,その苦しみにあずかり,*⁷その死をまねることによって死者からの復活に達しようと望む.

私は決勝点に達したとも,あるいはもう完成したとも言ってはいない.ただ,私はキリスト・イエズスに*⁸捕らえられた者なので,キリストを捕らえようとして*⁹走り続けている.

いやいや兄弟たちよ,私はすでに捕らえたとは思っていない.私が念じているのは一つだけである.うしろにあることを何も見ずに前に向かって驀進(ばくしん)し,まっすぐ目標をめざし,神がキリスト・イエズスによって上から私を呼ぶお召しの栄冠に向かって走る.

だから*¹⁰完成した私たちは,みなこう考えねばならない.もしある点について異なる考えがあれば,神がそれを示されるであろう.今のところ私たちの達したその点から,いつも同じ歩調で歩み続けねばならない.』

パウロの模範
『兄弟たちよ,*¹¹私にならえ.あなたたちの模範である私たちに従って生活している人々を見よ.

私がしばしば話し,今また涙とともに訴えることであるが,多くの人はキリストの十字架の*¹²敵として生活している.彼らの行く先は滅びである.彼らの神は自分の腹であり,自分の恥に誇りをおいている.彼らはこの世のことだけにしか興味をもたない.

しかし,私たちの国籍は天にあり,そこから来られる救世主イエズス・キリストを待っている.キリストは万物を支配下に置く力によって,私たちの卑(いや)しい体を*¹³光栄の体のかたどりに変えられるであろう.』

(注釈)

偽教師(3・1-3)
*¹ ユダヤ人は異邦人を犬といった.パウロはここでユダヤ教からの改宗者の中の偽教師を犬と呼ぶ.

*² 割礼と律法を強いようとする偽教師への警戒.

*³ ある異教が行っていた「切り傷」(身体の一部を傷つける行事).本来は割礼のことであるが,それを皮肉って切り傷という.「カタトメ」ということばは律法の禁じる傷であった(〈旧約〉レビ21・5,列王〈上〉18・28).

*⁴ 旧律法の制度を指す.

キリストのためにパウロは何をしたか(3・4-16)
*⁵ パウロはイスラエル人,熱心なファリサイ人として誇れるが,しかしそれは今の彼にとって無に等しい(8節,コリント人への手紙〈第二〉11・22).

*⁶ 〈新約〉ローマ人への手紙1・17,3・21,9・30,ガラツィア人への手紙2・16参照.

*⁷ 〈新約〉コロサイ人への手紙2・12,3・1参照.

*⁸ ダマスコへの途上で.

*⁹ パウロは使徒,信徒たる活躍を,競技場の競走にたとえる(コリント人への手紙〈第一〉9・26,ガラツィア人への手紙2・2,ティモテオへの手紙〈第二〉4・7).

*¹⁰ 信仰の熟した人々(コリント人への手紙〈第一〉2・6,ヘブライ人への手紙2・10).

パウロの模範(3・17-4・1)
*¹¹ キリストをまねる人としてパウロは,自分をあえて人々の模範とする(テサロニケ人への手紙〈第一〉1・6,コリント人への手紙〈第一〉4・1).

*¹² 悪い信者を暗示する.

*¹³ 復活によって(コリント人への手紙〈第ニ〉3・18).


***

第4章

パウロの模範
『私の慕い愛する兄弟たちよ,私の喜びと栄冠なる者よ,愛する者よ,主において固く立て.』

さまざまの勧め
『私は*¹エウオディアに勧め,シンティケに勧める,主において仲よくせよ.私の*²まことの仲間シジゴに頼む,彼女たちを助けよ.
命の書に名を記されている*³クレメンテ,その他の協力者と同様に、彼女たちも福音のために私とともに戦った人々だからである.

主において常に喜べ.繰り返し言う,喜べ.すべての人に柔和を示せ.*⁴主は近い(4-5節).

何事も心配するな.すべてにおいて祈り,願い,感謝し,求めることを神に言え.
あらゆる人知を超える神の平和は,あなたたちの心と思いをキリスト・イエズスにおいて見守りたもうであろう.

*⁵なおまた,兄弟たちよ,すべての真(まこと),すべての気高いこと,すべての正しいこと,すべての聖なること,すべての愛すべきこと,すべての誉(ほま)れあること,すべての徳,すべての賞賛に値すること,これらのことを念頭に置け.
あなたたちは,私から習ったこと,受けたこと,聞いたこと,見たことを行え.
そうすれば平和の神はあなたたちとともにいますであろう.』

援助に感謝する
『*⁶あなたたちの私への関心が今またきざしたのを見て,主における私の喜びは深い.あなたたちはいつもそう思っていたのであろうが,よいおりがなかったのである.

乏しいからこう言うのではない.どんな場合にも私は足ることを学んできた.
私は*⁷窮乏(きゅうぼう)も富も知っている.飽くことにも,飢えることにも,富にも,貧しさにも慣れている.
私を強めたもうお方において私にはすべてができる.
ともあれ,あなたたちが私の苦難にあずかったのはよいことである.

フィリッピ人よ,福音をのべ始めるにあたり,私がマケドニアから出発したときには,どんな教会とも*⁸やりとりをせず,援助を受けたことがなかった.あなたたちだけが例外だった.
あなたたちは,私がテサロニケにいた時,一度ならず二度まで私の乏しさを助けるために,物を贈ってくれた.
私はあなたたちの贈り物を欲しがるのではない.私が望むのは,*⁹あなたたちのために利子が増えることである.私は必要な物をみな余るほど持っている.
エパフロディトからあなたたちの*¹⁰贈り物を受けたのでそれで足りる.それは神が喜んで受けて嘉(よみ)される芳(かんば)しい香りの供え物である.

私の神は,ただ神のみにできる豊かさで,キリスト・イエズスにおいてあなたたちの乏(とぼ)しさを豊富に満たしてくださるであろう.
父なる神に代々に光栄があるように.アメン.』

あいさつ
『キリスト・イエズスにおいてすべての聖徒によろしく.私とともにいる兄弟たちがあいさつを送る.すべての聖徒,とくに*¹¹チェザルの家の人々があいさつを送る.
主イエズス・キリストの恩寵があなたたちの霊とともにあるように.(*¹²アメン).』

(注釈)

パウロの模範(3・17-4・1)

さまざまの勧め(4・2-9)
*¹ 仲が悪かった婦人たち.

*²「くびきをともにする」,「忠実な友」という訳もある.シジゴという名はその意味である.
「まことの」シジゴと原文にある.「まことの」が男性形容詞なので,シジゴは男性である.

*³ クレメンテはローマの第三代教皇クレメンテだという伝説があるが,証拠はない.

*⁴ パウロは来臨が近いと言うのではない(〈新約〉テサロニケ人への手紙〈第一〉(4・15,同〈第二〉2・2).
しかし,すべての人が審判者キリストの前に出る日はいつも近い.

*⁵ この節はパウロの倫理上の訓戒を大略してある.

援助に感謝する(4・10-20)
*⁶ フィリッピからエパフロディトがもって来た援助の品々に対する感謝.

*⁷「私はすべての秘教に通じ……」という訳もある.
いくぶんユーモアをもって,キリスト教の奉仕者が味わわねばならぬ貧しさと苦しみを語る.

*⁸ パウロはフィリッピ人だけから物質的援助を受けた.
他の教会からは,物質的援助をいっさい受けずにみことばをのべた(テサロニケ人への手紙〈第一〉2・9,コリント人への手紙〈第二〉11・8-12).

*⁹ パウロに与えた寄付は,霊的利益となってもどってくる.

*¹⁰ 物質的なものを期待してはいないが,贈り物には心から感謝するパウロの温情である.

あいさつ(4・21-23)
*¹¹ 皇帝に仕える人々(奴隷も含めて).

*¹² 典礼による後の書き入れ.



* * *

2012年2月9日木曜日

238 不良金融 -2- (2/4)

エレイソン・コメンツ 第238回 (2012年2月4日)

今日,不良金融は宗教的な意味合いをおびています.なぜなら,それは各自が自覚しているかどうかは別にして神の敵たちが全世界を隷属化(れいぞくか)させる上で重要な役割を果たしており,その中の最もずる賢いものたちは自分たちの究極の目的が(金欲のとりことされた)すべての霊魂を地獄に落とすことであることを十分承知しているに違いないからです.だが,彼らの金融機構(きんゆうきこう, “financial machinery” )の個々の機能に触れる前に,昨年10月29日付の「エレイソン・コメンツ」(訳注・第224回)で初めてご紹介した小額準備銀行の債務不履行性の全貌(ぜんぼう)( “the full delinquency of fractional reserve banking” )を理解する必要があります.

小額準備銀行とは,銀行が流通(りゅうつう)させている金(かね)のごく一部だけを準備金として保有し,顧客への預金払い戻しに備えていればいいことを意味します.この制度は中世後期に欧州で始まりました.銀行業者たちが預金として例えば金(きん)100オンスを預かり,所有者に同量の金の払い戻しが請求できるとことを証明する紙片(しへん)100枚を出しても,その後,例えば10人以上の顧客が一度に証書を持参して金の払い戻しを請求することはほとんどないと気づいたのがきっかけでした.そして,銀行が証書と引き換えにいつでも金を払い戻すと人々が信用する限り,その紙片はめでたく金銭としての役割を果たしうるようになり,人々の間で紙幣(しへい)として流通することになるわけです.

ところが,銀行家たちはやがて通常の営業では証書100通に備えるには金を10オンスだけ保有すれば十分,あるいは,100オンスの金を保有するなら証書を1,000通発行できると気づきました.この1,000通のうち900通は何の裏付けもないものです.それは銀行が何の裏付けもなしに造り出した「おかしなお金 “funny money” 」なのですが,10人の顧客のうちの一人以上が証書を現金化しようと望まない限り問題にならないと思われていたのです.

もし10人に一人以上が現金化しようとすれば,銀行はすべての証書と引き換えに払い戻す金がないわけです.そうなると銀行は払い戻しのため急きょどこかで金を借りてくるか,預金者はひどい信用詐欺(しんようさぎ, “a confidence trick” )に引っ掛かってしまったと思い知るかのいずれかでしょう.銀行に対する信用がひとたび消えてしまえば,誰もが自分のお金を即刻(そっこく)取り戻したいと望むでしょう ―銀行は少額準備金制度だけにより運営可能なのです― そして多数の顧客は無価値と化した紙切れを手にしたまま取り残されることになるでしょう.その銀行は当然倒産し,そんなものは完全に姿を消してもらいたいと誰もが望むことでしょう.

このように,少額準備金制度のあるところではどこでも銀行は本質的に脆弱(ぜいじゃく)であり,究極的には顧客に対して信用詐欺を働いているのです.外的には,銀行は多くの場合,必要な時に備えて中央銀行 “a central bank” から支援保証 “a guarantee of support” を取り付け自身を保護しているでしょう.その保証は保証人 “the guarantor” (中央銀行)の信用度分だけしか確実ではないわけですが,保証を与えている間すべての中央銀行に危険な権限 “a dangerous power” を与えます.これは不良金融のもう一つの側面ですが,これより複利システムの方 “that of compound interest” を優先して考えなければなりません.

金融制度では権力がかかっており,究極的にはすべての人間の霊魂の行方(ゆくえ)がかかっているのです( “Power is at stake, and ultimately souls”. ).こうした問題が宗教とは何の関係もないと,誰にも言えません.あの金の子牛 “the Golden Calf” のことを考えてみてください.(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第6パラグラフの訳注:
「金の子牛」について

旧約聖書・脱出の書の参照:(後から掲載いたします)
Scriptural reference:
THE BOOK OF EXODUS of THE OLD TESTAMENT (THE HOLY BIBLE, DOUAY-RHEIMS VERSION).

第31章12節 ー 35章29節
XXXI (31) , 12 - XXXV (35) , 29.

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2012年2月3日金曜日

237 元気がでる話 (1/28)

エレイソン・コメンツ 第237回 (2012年1月28日)

司教閣下,なにかもっと元気の出るようなお話をお聞かせください!

神は存在します.神は全知,全能であり,つねに正しくその慈悲(じひ)は無限です( “God exists. He is all-powerful, all-knowing, all-just, but his mercy is also boundless.” ).神は世界で起きていること全てを完全に掌握(しょうあく)されています( “He is in perfect control of all that is happening in the world.” ).悪魔や世界を動かしている犯罪者を含む悪魔に仕える人間どもは神のお許し( “his permission” )がなければ何一つできません.神は彼らの邪(よこしま)な企(たくら)みについてなにからなにまでご存知で,そのひとつひとつを使って神業(かみわざ)を成し遂げられます( “He knows every detail of their diabolical plans and is using every single one of them to fulfil his own Providential design.” ).

そうだとすれば,神はどうして私たちの世界にこれほど多く悪がはびこるのをお許しになられるのでしょうか?

それは,神が決して悪そのものをお望みになることはなくても,悪を許そう(訳注・=悪の所為(しょい)をそのままさせておこう)と望まれるからです.神は悪の中からより大きな善を導(みちび)き出そうとされます “…while he never wants evil, he wants to allow it, so as to bring out of it a greater good.” (訳注後記).(訳注・神からの預言者たちによって告げられた)多くの預言が今日の世界的な堕落(だらく)のなかから明日はカトリック教会の大勝利が訪(おとず)れると示唆(しさ)しています.たとえばファティマの聖母(マリア) “Our Lady of Fatima” が言われた「最後は私の汚(けが)れなき心が勝つでしょう」とのおことばに示されているようにです.ちょうどいま世の中で起きていることは,私たちの主(訳注・=神またはイエズス・キリスト)が敵を用いて御自分の教会( “his Church” =カトリック教会.以下同じ.)を浄化しようとしているのです.(訳注後記)

私たちは今日,信じられないほどの堕落を目にしているわけですが,神は御自分の教会を浄化するのにこれほど不快でない方法を選べないのでしょうか?

その選択を神だけに委(ゆだ)ねうるとすれば,神は御自分の教会を浄化するため間違いなく別の方法を選ばれるでしょう.だが,もしあなたや私が神のお知りになっていることを全て知っているとしたら —これは愚(おろ)かな考えですが!— そしてとりわけあなたや私が,神がお望みのように,神があらゆる人間に与えた自由意思 “free-will” を尊重しようと望むとすれば,神がお選びになっている方法があらゆる事を為(な)すにあたり最良の方法だと分かるのではないかと思います.

そのことに人間の自由意思はどうかかわってくるのでしょうか?

神はロボットや道理の分からない動物と自らの至福(しふく=天上の〈無上の〉喜び)を分かち合おうとお望みではありません.そうである以上はたとえ神と言えどもそれ相応(そうおう)のことを何もしない諸被造物(訳注・ “his creatures” =神が創造された万物.特に神の似姿に創造された人間をここでは指す)に幸福を与えることはできないのです.なぜなら,そうすることは矛盾(むじゅん)するからで,神の御力(みちから)が及ぶのは存在するものだけに対してであり,矛盾のように非存在なものに対してではないからです.だが,少しでも神の至福を受けるに値(あたい)する人間に対しては神は自由意思をお与えになるに違いありません.そして,それが本当に自由意思なら,神がお望みのことと正反対のことを選ぶことがあるに違いありません.そしてもしその自由意思が実際に悪を選び得るなら,その時には悪が起きるでしょう.しばしばあることです.

しかし,司教閣下は,真の教会(訳注・ “true Church” =カトリック教会〈公教会〉を指す)は私たちの主の教えに従って,天国への道は狭(せま)く,それを見出すものはごくわずかである(マテオ聖福音書・第7章14節)と教えると,おっしゃいます.神は少数しか天国へたどり着けないのに,たとえば今日のように,多数の人間をお造りなる価値をお認めになっているのでしょうか? 多数が地獄の恐怖に落ち込むのは少数が天国へたどり着くための代償としてはあまりにも高すぎるということにならないのはどうしてなのでしょうか?

なぜなら神の御業(みわざ)は数の多さではなく質の良し悪(あ)しだからです(訳注・神は数量ではなく質において働(はたら)かれる.原文= “Because God works in quality, not in quantity.” ).わずか10人の人々が神のお怒りからソドマ( “Sodom” )の街全体を救い得たという事実は(創世の書・第18章32節),神の愛に応(こた)えるただ一人の人間の霊魂が,自らの自由選択で( “by their own free choice“ )神の愛を望まない多数の人間よりも,神にとってはどれほど貴重なものかを示す証(あかし)です(訳注・補足説明:神を愛するただ一人の霊魂は,神が滅ぼそうとする大多数の悪人たちに対する神の怒りの懲罰感情をはるかに超えて,神にとって尊〈とうと〉く貴重な存在である.そのただ一人の善良な霊魂ゆえに,神はその一人以外の悪全体を滅ぼし尽すことを思いとどまられる.)(訳注後記).私たちの主イエズス・キリストはかつて「あなた一人だけのためにも私は受難の犠牲全体をいとわずに最後まで欠けるところなく完全に果たしたでしょう( “I would have gone through the whole Passion just for you,” )」と一人の霊魂に告げました.主は同じことをどの人間の霊魂に対しても言われるでしょう.

司教閣下は,世界が私に不安と苦しみをもたらすときでも,もし私がただ神から離れることなくますます神にピッタリと(=密接に)寄り添うならば,私と私の周(まわ)りの人々のために,神はそのことをすべてご覧になり分かってくださる(=配慮してくださる)とおっしゃるのでしょうか? 世界がもっと悪くなるよう願いたい気持ちです!

そうです.私の考えが分かってきたようですね!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第2パラグラフの最初の訳注:
旧約聖書・格言の書:第16章1-9節 .4節参照(太字部分).
THE BOOK OF PROVERBS XVI, 1-9, for reference.

『心ではかるのは人間で,
決定するのは神である.
It is the part of man to prepare the soul:
and of the Lord to govern the tongue.

人の目には,自分の道がみな清く見えるが,
心の値打(ねうち)をはかるのは神である.
All the ways of a man are open to his eyes:
the Lord is the weigher of spirits.

自分の仕事を神にゆだねれば,
あなたの計画は成功するだろう.
Lay open thy works to the Lord:
and thy thoughts shall be directed.

神はあらゆるものに目的をもたせる,
悪人さえも,災(わざわ)いの日のためにつくられた.
The Lord hath made all things for himself:
the wicked also for the evil day
.

神はおごる心を憎み,
いずれ,罰を下されるだろう.
Every proud man is an abomination to the Lord:
though hand should be joined to hand, he is not innocent.

The beginning of a good way is to do justice;
and this is more acceptable with God, than to offer sacrifices.

慈悲(じひ)と善意によって罪を償(つぐな)い,
神を恐れることによって悪を避ける.
By mercy and truth iniquity is redeemed:
and by the fear of the Lord men depart from evil.

神がある人の行いを喜ばれるとき,
その人の敵とも和解させられる.
When the ways of man shall please the Lord,
he will convert even his enemies to peace.

正しい方法で得たわずかなものは,
不正な方法で得た多くのものにまさる.
Better is a little with justice,
than great revenues with iniquity.

自分の道を選ぶのは人の心で,
その足を指導するのは神である.
The heart of man disposeth his way:
but the Lord must direct his steps. 』

(注釈)

神のはからい(16・1-9)
*¹ 悪人も,いつか神のはからいを表すことだろう.「災いの日」とは,悪人が罰を受ける日.

* * *
第2パラグラフの2つ目の訳注:
「神の教会」・「真の教会」・ “the true Church” とは:

・「カトリック教会〈公教会〉」 “the Catholic Church” を指す.
・→ “The Four Marks of the Church” … one, holy, catholic and apostolic
(唯一の,聖なる,普遍(公)の,使徒継承の)

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第5パラグラフの訳注:
旧約聖書・創世の書・第18章32節(太字部分)(18章を掲載)
THE BOOK OF GENESIS XVIII, 32. (CHAPTER 18)

創世の書・第18章は後から追加いたします.

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