2011年11月30日水曜日

227 金融問題の解決 (11/19)

エレイソン・コメンツ 第227回 (2011年11月19日)

現在,多数の評論家が世界の金融システムが崩壊の瀬戸際(せとぎわ)にあると書いたり述べたりしています.その時がいつ来るのか誰もはっきり分かっていないようですが,多くはそれがとてつもない崩壊(ほうかい)になるだろうと予測しています.だが,2008年に金融危機が起きる前は,その到来(とうらい)を予期していた人はごく少数でした.人々はしっかり根付いていて前進あるのみと思えていた自らの生活様式に満足していたからです.しかし,評論家の言うことが正しいとすれば,崩壊は間もなく起きることでしょう.

私たちは皆,一体なにが間違っていたのか,どうすればそれを正せるのかを改めて考えてみるべきです.以下にご紹介するのはバーニング・プラットフォーム “Burning Platform” というウェブサイトに最近掲載された記事から抜粋(ばっすい)した実務的な提案です.私は必ずしも皆さんが個々の提案に賛同し,私たちの壊(こわ)れてしまったシステムにとって代わるものが何かを考えるべきと言っているわけではありません.提案は政治にかかわるものと金融にかかわるものに分かれています.金融の方から始めます:--

*「破たんさせるには大きすぎ」 ( “Too Big to Fail” ),それゆえ国を盾にとり身代金(みのしろきん)を要求する “hold the State to ransom” ような銀行はすべて国営化すべきです.その結果生じる損失は責任者,当事者が払うべきで,納税者に負わせるべきではありません.
*(米国の)グラス・スティーガル法 “the Glass-Steagall Act” を復活させ,銀行が再び巨大化するのを防ぐべきです.
*営業・会計規則に望ましい基準を再設定し,銀行が自ら保有する資産価値が市場価値を上回るように見せかけることをやめさせるべきです.
*デリバティブ市場 “the derivatives market” を規制し,金融機関 “financial entity” が巨大化することでひとたびそれが破産するとシステム全体が崩壊するようになることを防ぐべきです(かつての米国で AIG の破たんで同じようなことが起きました).
*現在のわずらわしい所得税 “income tax” 制度を簡素化するか廃止し,消費税“consumer tax” に一本化すべきです.そして,法人税の節税措置 “corporate tax breaks” を廃止すべきです.

提案はいずれも直接的には金融にかかわるもの “…such proposals may be explicitly financial,” ですが,間接的には政治にかかわる “are implicitly political,” 点にご留意ください.というのは,提案の実現には国民全般,とりわけ指導者の政治的考え方が大きく変わることが必要だからです.( “…because to be put into practice they would need a significant change in the political way of thinking of the people and especially of the leaders”.)金融は政治いかんで決まります. ( “Finance depends on politics.” ) つぎに,明らかに政治にかかわる提案を見てみましょう.中には反論を呼ぶ提案もありますが、少なくとも正しい方向を示しています:--

*あまりにもうまくやっている政治家の腐敗(ふはい) “the corruption of too comfortable politicians” を食い止めるため,彼らの任期に厳しい制限をつけましょう.特殊な利益団体による選挙の腐敗 “the corruption of elections by special interests” を食い止めるため,陳情(ちんじょう)やロビイスト “lobbyists” を排除しましょう.
*中央銀行が持つ力 “the power of the central bank” を弱めるため,国の通貨供給 “the nation’s money supply” をコントロールする権限を取り上げましょう.
*米国の福祉給付金制度 “welfare benefits” を再編成すべきです.現在の制度は国の財政 “States’ finances” を急速に枯渇(こかつ)させており,このままでは将来だれの役にも立たなくなくなるでしょう.
*お金や物がなくとも楽しくやっていくよう,生活水準の低下 “a lower standard of living” も受け入れるよう国民を再指導しましょう.そうすれば社会を食い潰(くいつぶ)して無に陥(おとしい)れる “spending society into oblivion” かわりに貯蓄によって社会を立て直す “build it by saving” ことができるでしょう.
*郊外へのスプロール現象 “suburban sprawl” をより自給可能な居住区 “more self-sufficient communities” で代替させるべく実行可能なことから始めましょう.
*たとえば世界各地の軍事基地に駐屯する数万もの兵士を引き揚げることで “by bringing thousands of troops home from their bases all over the world”, 米国の巨額な軍事費 “the enormous military spending of the USA” を削減できるようにするため世界帝国の考え方を放棄(ほうき)“Renounce world empire” しましょう.

もう一度繰り返しますが,こうした提案が実現するには,人々,とりわけ指導者たちの考え方が大きく変わらなければなりません “…they require great changes in the people’s way of thinking, especially in that of the leaders.” . 政治家が何を決定するかはその国の国民がなにをもっとも価値あるものと考えるかによって決まります “Political decisions depend on what people value more, or most.” . 私たちが生きるのはなんのためでしょうか? “Why are we alive ?” この世で楽しむためでしょうか,それとも永遠に続く真の幸福のためでしょうか? “To enjoy on earth, or to be truly happy for eternity ?” この質問への答えは二者択一(にしゃたくいつ)でしょうか? “Is that an either-or question ?” 永遠とは存在するのでしょうか? “Is there an eternity ?” こう考えてくると,政治は宗教によるか,あるいは宗教の欠如(けつじょ)によるところ大です( “Thus politics depend on religion, or on the lack of it.” ). 今日起きる金融制度の崩壊がはたして人々の目を覚(さ)ますことになるでしょうか? (訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

最後のパラグラフの訳注:

原文・“Will today even a financial crash bring anyone to their senses ?”
「今日の金融制度の破綻(はたん)をきっかけに,人々が正気に返る(迷い〈迷夢〉から覚める)でしょうか?」

(解説)

◎「拝金主義」は競争と不安の種であって,最終的に誰をも幸福にしない.

◎ 人間の真の幸福は「平和な(安らかな)心や精神状態」のうちに存在するのであり,それは現世でも来世でも同じことである.

→ 新約聖書・マテオによる聖福音書:第6章19-34節参照.
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW, 6:19-34

天の宝(6・19-21)
『自分のためにこの世に宝を積むな.ここではしみと虫が食い,盗人が穴をあけて盗み出す.
むしろ自分のために天に宝を積め.そこではしみも虫もつかず,盗人が穴をあけて盗み出すこともない.
あなたの宝のあるところには,あなたの心もある.』

清い目と心(6・22-23)
『*¹体の明かりは目である.目がよければ全身が明るい.目が悪ければ全身が闇(やみ)の中にいる.あなたの内の光が闇ならその闇はどんなに暗かろう.』

二人の主人,思い煩い,摂理(6・24-34)
『*²人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ.一人を憎んでもう一人を愛するか,一人に従ってもう一人をうとんじるかである.
神とマンモンとにともに仕えることはできぬ

だから私は言う,命のために何を食べようか,何を飲もうか,また体のために何を着ようかなどと心配するな.命は食べ物にまさり,体は衣服にまさるものである.
空の鳥を見よ.播(ま)きも,刈(か)りも,倉に納(おさ)めもせぬに,天の父はそれを養なわれる.あなたたちは鳥よりもはるかに優れたものではないか.あなたたちがどんなに心配しても,*⁴寿命をただの一尺さえ長くはできぬ.

なぜ衣服のために心を煩(わずら)わすのか.
野のゆりがどうして育つかを見よ.苦労もせず紡(つむ)ぎもせぬ.私は言う,ソロモンの栄華のきわみにおいてさえ,このゆりの一つほどの装(よそお)いもなかった.
*⁵今日は野にあり明日はかまどに投げいれられる草をさえ,神はこのように装おわせられる.ましてあなたたちによくしてくださらぬわけがあろうか.

信仰うすい人々よ.何を食べ,何を飲み,何を着ようかと心配するな.それらはみな異邦人(=神を信じない人,神の摂理に信頼しない人)が切に望むことである.

天の父はあなたたちにそれらがみな必要なことを知っておられる.
だから,まず神の国とその正義を求めよ.そうすれば,それらのものも加えて与えられる

明日のために心配するな.明日は明日が自分で心配する.一日の苦労は一日で足りる.』

(注釈)

*¹ (22-23節) 明かりが全身を照らすのと同じく,内なる目は人間のすべての行為を照らす.内なる目が欲望にくらまされているならば,人間の道徳生活は闇(やみ)である.

*² 富を有して神に仕えることもできるが,富の奴隷になれば神に仕えない.

*³ マンモンとはカルダイ語で富のこと.

*⁴「身の丈(たけ)」という訳もある.

*⁵ (30-34節)イエズスは将来への予備と働きを禁ずるのではない.ただ摂理(せつり)への信頼を裏切らせるほどの思い煩いを禁ずる.

「摂理」について
・=神.天地の創造主たる神が,神の法(=神の十戒・自然法=慈愛・正義・生命の法.)において永遠の計画と配慮のもとに万物を支配し治めておられることを指す.
・「神意,神のみ旨(むね),神の御意志,神の御心」
・Providentia divina(ラテン語),Providence(英語)

◎ 限界のある人間の力だけで,あくせくかき集めようとしたり,欲を張ったりせずに,人間の創造主であられる無限(=永遠)の父なる神に信頼し,真面目に善良に,正しく慈悲深い行いを心がけて生活をするなら,必要なものは全て神から必ず備えられる.
なぜなら,神はすべての人間の天の御父であられ,どんな人間をも(善人をも悪人をも)愛しておられるからである.人間が地上に生きる限り,たとえどんな人であっても神は決してお見捨てになることはない.
神を愛しその御子キリストの名を信じる人は,永遠の生命をすでに現世で持っている(ヨハネ聖福音書:第1章12-13節,ヨハネの第一の手紙:第5章13節参照).
限りある現世で善良に生きた人には,限りのない来世で神がその霊魂を引き取られ,永遠の至福をお与えになる.

◎ したがって,人間の真の幸福追求の目当てとしては「拝金主義」(=「すべて金〈カネ〉次第」とか,「金を目安に決めること」)は見当違いな手段である.

* * *

→ 旧約聖書・詩篇:第127篇参照.
THE BOOK OF PSALMS, PSALM 126

摂理によりたのむ

『*¹上京の歌.ソロモンの作.
主が家を建てられないなら,
それを造る者の働きはむなしい.
主が町を守られないなら,
番人の警戒はむなしい.

早く起き,寝るのを遅らせ,
労苦のパンを食べることもむなしい.
主は愛する者に,それを与えられる,
彼らが寝ている間に


見よ,子らは主の贈り物,
胎の実は主の報いである.

若いときの子らは,
つわものの手にある矢のようだ.

幸せなのはその矢で,
矢筒を満たした者.
*²門で敵と争うとき,
彼らは恥を受けない.』

(注釈)

神の助けがなければ,人間の労苦といえど何一つ実をもたらさない

*² 町の門では裁判や話し合いが行われていた.

* * *

→ 旧約聖書・格言の書:第10章参照(抜粋).
THE BOOK OF PROVERBS,
THE PARABLES OF SOLOMON, CHAPTER 10

『不正な方法で得た宝は身のためにならぬが,
正義は人を死から救い上げる.』 (2節)

『神は正しい人の望みをかなえ,
悪人の欲望をとげさせない.』 (3節)

『怠け者の手は人を貧乏にし,
働き者の手は人を金持ちにする.

夏の間に集めるのは利功者であり,
収穫のときに寝ているのは恥知らずである.』 (4-5節)

『正しい人のもうけは生活に役立ち,
悪人のもうけは悪事を呼ぶ.』 (16節)

『教えを守る人は生命の道を行き,
戒めを軽んじる人は道を迷う.』 (17節)

『*¹正しい人のくちびるは多くの人を養い,
愚かな人は貧しい中で死ぬ.』 (21節)

神の祝福は人を富ませ,
その上に何の苦労も加えない
.』 (22節)

『愚かな人は悪事を行って楽しみ,
利功者は知恵をつちかって楽しむ.』 (23節)

『悪人の恐れていることはその身に起こり,
正しい人の望みはかなえられる.』 (24節)

『嵐が過ぎたとき,悪人はもういないが,
正しい人はいつも立っている.』 (25節)

神は正しい人の砦(とりで)であり,
悪人にとっては滅びである
.』 (29節)

『正しい人は決してゆらがないが,
悪人は地に住めない.』 (30節)

『正しい人のくちびるは慈愛をしたたらせ,
悪人の口は悪をまく.』 (32節)

(注釈)

徳の幸福(10・22-32)

*¹ 正しい人は,自分だけでなく他人のためにも役立つ人である.

* * *

2011年11月29日火曜日

226 トマトの支柱 -2- (11/12)

エレイソン・コメンツ 第226回 (2011年11月12日)

以前「エレイソン・コメンツ」(9月10日付,第217回)で女性と男性の関係をトマトの苗とその苗がよじ登りやがて実を結ぶための支柱になぞらえたロシアのことわざを引用しました.その例えを用いたのは女性の性質と役割を詳しく説明するためでした.その際ある女性読者がその例えが男性にどう当てはまるのか尋(たず)ねてきました.悲しいことに,私たちの住む狂った現代は人間性のあらゆる本質を一掃(いっそう)しようとしています.

神が設計された男性と女性は著(いちじる)しく異なっていながらも崇高(すうこう)なほど相互補完(そうごほかん)的であり,菜園から引き出した単なる例え話などよりはるかに多くを語ってしかるべきものです.いかなるカトリック教会の婚礼ミサ聖祭 “Catholic wedding Mass” でも,そこで読まれる使徒書簡(新約聖書) “the Epistle” は夫と妻の関係( “the relations between husband and wife” )をキリストと彼の(体〈からだ〉たる)教会(=カトリック教会. “ those between Christ and his Church” )の関係に例えています.その書簡の一句(エフェゾ人への手紙,5章22-23節)(訳注後記)で注目に値(あたい)するのは,聖パウロが婚姻(こんいん)の結果生じる夫の責務(せきむ)について長々と記述しているのに対し妻のそれについては手短にしか記していないということです.すでに私たちは,現代の男女関係が健全性を喪失(そうしつ)してしまったのは今日の男性に大きな責任があるのではないかと疑い得るのですが,この超自然的な神秘についての話は別の機会に残すとして菜園の話に戻りましょう.というのも,今日,神と人間にとっての諸々の敵たちが攻撃の対象としているのはまさしく人間性の本質だからです.

トマトの支柱がトマトの苗に役立つためには二つのことが必要です.支柱は高くなければならず “must stand tall”,しかもしっかりと立っていなければなりません “must stand firm”.もし支柱が高くなければ,苗は高くよじ登ることができません.しっかりと揺らがずに立っていなければ,苗はそれにしがみついたり巻きついたりできません.まさしく,男性の堅固(けんこ)さ “The firmness” は彼がどれほど仕事に没頭(ぼっとう)しているかによって決まる( “depends on a man’s wrapping himself around his work” )一方,その高さ “the tallness” は彼がどれほど神の域(いき)に達(たっ)しようとしているか( “depends upon his reaching for God” =より高い理想を見据(す)えているか、目指しているか)によって決まります.

堅固さについて言えば,いつの時代,どの場所にあっても人間性への認識が歪(ゆが)んでいない限り,男性の生活は彼の仕事を中心に展開するのに対し女性の生活は夫をはじめとする家族を中心に展開するものです.もし男性が自分の生活の中心に女性を置くなら,それはちょうど二本のトマトの苗がともにしがみつきあっているようなものです.もし女性が男性の役割を受け入れなければ,二人ともぬかるみにはまって行き詰(ゆきづ)まりに終わるでしょう.それは女性が決してしてはならないことですし,少なくともそうしたいと望むことでもありません.賢(かしこ)い女性は自分の夫が仕事を見つけそれを愛する男性であることを選びます.そうすることで,夫が仕事に没頭している間,妻は夫に巻きついていることができるのです.

高さについて言えば,トマトの支柱が真っ直ぐ(まっすぐ)空に向(むか)っていなければならないように,男性も真っ直ぐ天国を目指していなければなりません.指導者は霊感を与えて元気づけたり先頭に立って導(みちび)くためのビジョン(=先を見通す眼,先見,展望,構想)を持っている必要があります.ルフェーブル大司教は真のカトリック教会の復興というビジョンを持っておられました.同様にピィ枢機卿Cardinal Pie (1815-1880)(訳注・ “Cardinal Louis-Édouard Pie”.フランス・ポワティエの司教.19世紀における聖伝カトリック信仰の熱烈な擁護〈ようご〉者)は,自分を取り巻く19世紀の男性たちの柔弱(にゅうじゃく)さを見たとき,その柔弱さは彼らの信仰の欠如(けつじょ)に起因(きいん)すると考えました.信仰が存在しなければ信念は存在しない,と彼は言いました.信念なしには堅固な人格は存在しません.人格の堅固さなしには男性は男性たり得ません.聖パウロが「すべての男性の頭(かしら)はキリストであり,女性の頭は男性であり,キリストの頭は神である」(コリント人への第一の手紙・第11章3節)(訳注後記)と語ったとき,彼は同じ線に沿(そ)って考えていました.そういうわけですから,男性の男らしさを回復するには男性を神に向かわせ,神の下に従わせることです.そうすれば,妻が夫の下に従い,子供たちが両親の下に従うことがはるかに容易になるでしょう.

だが「下に」という言い方は夫の妻に対する,あるいは両親の子どもたちに対するいかなる種類の暴虐(ぼうぎゃく)とも解(かい)すべきではありません.支柱はトマトのためにこそ存在しているのです.男性がその子供たちのためにできる最良のことは彼らの母親を愛することだと言ったのはある賢明(けんめい)なイエズス会士でした.男性は女性のように愛に走ることはないので,女性がどれほど愛すること,愛されることを必要としているかを簡単に忘れがちです.小さじ一杯分の愛情があれば彼女はさらに百マイル持ちこたえます.聖霊はこのことをもっと優雅(ゆうが)に言い表わしています.「夫たちよ,妻を愛しなさい,妻を苦々しくあしらってはならない」(コロサイ人への手紙・3章19節)(訳注後記).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第2パラグラフの訳注:
新約聖書・使徒聖パウロによるエフェゾ人への手紙:第5章22-23節(太字下線部分)(21-33節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE EPHESIANS, 5:22-23 (21-33)

家族の愛(5・22-33)
『キリストを恐れて互いに従え.

妻よ,主に従うように自分の夫に従え.キリストがその*¹体であり,それを救われた教会のかしらであるように,夫は妻のかしらである.教会がキリストに従うように,妻はすべてにおいて夫に従え.

夫よ,キリストが教会を愛し,そのために命を与えられたように,あなたたちも妻を愛せよ.
キリストが命を捨てられたのは,水を注ぐことと,それに伴(ともな)う*²ことばによって教会を清め聖とするためであり,また汚点(しみ)もしわもすべてそのようなもののない,輝かしく清く汚れのない教会をご自分に差し出させるためであった.
*³(28節)「そのように夫も自分の体のように妻を愛さねばならない.妻を愛する人は自分を愛する人である.(29節)だれも自分の体を憎む者はなく,みなそれを養い育む.
キリストも教会のためにそうされる.(30節)私たちは*⁴キリストの体の肢体だからである.
「*⁵(31節)これがために男は父と母を離れ,妻と合って二人は一体となる」.
*⁶この奥義は偉大なものである.私がそう言うのは,キリストと教会についてである.

あなたたちはおのおの自分の妻を自分のように愛せよ.妻もまたその夫を敬え.』

(注釈)

この「体」は教会である

*² 洗礼文.

(28-31節)自然の愛だけではなく,信仰と愛に満ちたキリストの教える超自然の愛

*³ ブルガタ訳,「その肉と骨で成り立っている」.

*⁴〈旧約〉創世の書2・24参照.

→創世の書からの引用:

『…神はご自分にかたどって,人間をつくりだされた』(1章27節).

2章18節から
『…主なる神は仰せられた,「人間が一人きりでいるのはよくない.私は彼に似合った助け手を与えよう」.
主なる神は,地から野の獣と空の鳥とをつくり,人間のもとに連れてゆかれた.それは,人間がそのものを,どのように呼ぶかを見たいと思われたからだった.その生き物を人間がどう呼ぶか,その呼び方がそれらの名となるはずであった.

さて,人間はすべての家畜と,空の鳥と,野の獣とに名をつけたが,人間に似合った助け手はまだ見つからなかった.
そのとき,主なる神は人間を深い眠りに入らせた.人間は眠りに入った.
神は人間のあばら骨の一本を取りだし,肉をもとのように閉じた.

主なる神は人間から取りだしたあばら骨で女を作って,それを人間のもとに連れてゆかれた.そのとき,人間は言った,
「さて,これこそ,わが骨の骨,わが肉の肉.これを女(ヘブライ語でイシャ)と名づけよう.男(イシュ)から取りだされたものなのだから」.(2章18-23節)
だからこそ,人間は父母を離れて,女とともになり,二人は一体となる(2章24節).

*⁵ 婚姻が「偉大な奥義」なのは,それが教会とキリストの神秘的な関係をかたどるからである


* * *

第5パラグラフの訳注:
同・使徒聖パウロによるコリント人への第一の手紙:第11章3節(太字部分)(1-16節を掲載)
THE FIRST EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE CORINTHIANS. 11:3 (1-16)

『私がキリストに倣(なら)っているように,あなたたちは私に倣え.
あなたたちがすべてのことについて私を思い出し,私の伝えたとおり,*¹伝えを守っていることに喜びを言おう.私はあなたたちに次のことを知ってもらいたい.*²すべての男のかしらはキリストである.女のかしらは男である.キリストのかしらは神である

頭にかぶり物をして祈りや預言をする男はみな,その*³かしらを辱(はずかし)める.頭にかぶり物をしないで祈りや預言をする女もみなそのかしらを辱める.その女は剃髪(ていはつ)しているのと同じだからである.女がかぶり物をしないなら髪も切ればよい.神を切ったり剃(そ)ったりするのが女の恥であるなら,かぶり物をするがよい.

男は神のすがたであり光栄であるから,頭にかぶり物をしてはならぬ.女は男の光栄である.
男が女から出たのではなく,女が男から出たのであって,*⁴男が女のために造られたのではなく,女が男のために造られたからである.
そのため女は,*⁵天使たちのために,*⁶権威に服するしるしを頭にかぶらねばならぬ.
といっても*⁷主においては,男なしでは女もなく,女なしでは男もない.
女が男から出たように男は女から生まれ,そしてすべては神から出る.

あなたたちは自ら判断せよ.女がかぶり物なしで神に祈るのはよいことであろうか.
自然そのものも教えているではないか.男が長い髪をしているのは恥であって、女が長い髪をしていれば誇りであることを.女の神はかぶり物として与えられたからである.
だれかこれについて抗弁しようとするなら,私たちにはそういう習慣はなく,神の諸教会にも例がないと答えたい.』

(注釈)

*¹ 「伝え」とは初代教会の聖伝の教えのことである.

*² キリスト教的社会における階級.女性の服従の理由は,神の創造にある.しかし,その順序は,徳ではなく単に権威のことだけである.

*³ かしらの意味にも,頭の意味にもとれる.

*⁴ 〈旧約〉創世の書2・22-23参照.

*⁵ 創世の書6・2.ユダヤ系の偽典書に基づけば,昔のある学者は,この「天使」が天から落ちた天使のことだと言っていた.また,信者の集会のかしらの意味にとった人もあった.
しかしこの天使は,信者の集会のとき,祈りを神の座まで運ぶ(〈新約〉黙示録8・3,エフェゾ人への手紙3・10)よい天使のことと思われる.

*⁶ ここでは自分に対する他人の権利のこと.

*⁷男も女も不完全なもので,主のみ前にあっては平等である. 』


* * *

第6パラグラフの訳注:
同・使徒聖パウロによるコロサイ人への手紙:第3章19節(太字下線部分)(18-21節を掲載)
THE EPISTLE OF ST. PAUL THE APOSTLE TO THE COLOSSIANS, 3:19 (3:18-21)

『*¹妻たちよ,主にふさわしいように自分の夫に従え.
夫たちよ,妻を愛せよ,苦々しくあしらうな
子どもたちよ,すべて両親に従え.それは主に喜ばれることである.
父達よ、子どもを怒らせるな.彼らを落胆させないためである.』

(注釈)

家庭の人たちに(3・18-)
*¹ この節(18節)以下にキリストの愛という見地に立って生きる自然倫理が説かれる(エフェゾ5・22).

(→エフェゾ5章22節)
『妻よ,主に従うように自分の夫に従え.』


* * *

2011年11月7日月曜日

225 陰謀説 (11/5)

エレイソン・コメンツ 第225回 (2011回11月5日)

神殺し "deicide" について述べた最近の「エレイソン・コメンツ」(第222回)に続き,一部の読者は「エレイソン・コメンツ」が世界情勢でユダヤ人が果たす役割について頻繁(ひんぱん)に言及(げんきゅう)するのをお望みかもしれません.だが,その人たちは失望する恐れがあります.私がこれまでに取り上げてきた225件の諸問題の中で,ユダヤ人を名指(なざ)しで取り上げたのは6回を大幅に超えてはいないと思います.というのも,ユダヤ人にからむ問題の有無にかかわらず,彼らは決して主要な問題ではないからです.最大の問題は現代人が神を信じないことにあるのであり,私はそのことが「エレイソン・コメンツ」の主要な懸念(けねん)だということを大部分の読者の皆さんに理解していただければと望んでいます.

陰謀(いんぼう)説 “Conspiracy theories” ,すなわちユダヤ人が世界制覇を企(たくら)んでいる "conspiring to dominate the world" といった陰謀説は現在も存在していますが,そこにはふたつの誇張(こちょう)があり,その間の正しいバランスを保つことが賢明(けんめい)なのですが容易(ようい)にできることではありません.ほとんどの人々はあらゆる陰謀説はナンセンスで,それを信じる人々は「陰謀オタク」 “conspiracy nuts” だけだとするマスメディアの見方に従っています.他方で,少数派の人々は強い確信をもって,あらゆる世界の出来事は何らかの陰謀,とりわけユダヤ人の陰謀により説明されると考えています.1800年前の一人の著名なカトリック作家 “a famous Church writer” が本質的な真理をもっとも正しく語っています.

テルトゥリアヌス “Tertullian” (160-220年) はカトリック信仰とユダヤ人の権力は秤(はかり)のふたつの天秤皿(てんびんざら)に似ていると言いました.カトリック信仰が上がるにつれてユダヤ人権力が下がり,カトリック信仰が下がるとユダヤ人権力が上がるというわけです.だが,カトリック信仰は権力に勝(まさ)るものです.主要な問題がユダヤ人ではなく,人々の間のカトリック信仰の増減(ぞうげん)如何(いかん)にあるというのはそのためです.だからこそ諸々の陰謀が確かに存在するのであり,それは重要な役割を果たしており単に軽視して済ませるべきではありません.しかし,主要な問題は人々が唯一の真の教会(訳注・=カトリック教会)におられる真の神に背を向けていることにあるのです.手短に言えば - ここが重要なポイントです - ユダヤ人の権力が今日これほど強大であるとすれば,その責任はユダヤ人以外の人々(=非ユダヤ人) “the Gentiles” 自身にあるのです

したがって,とりわけディズレーリ “Disraeli” (英国首相)とウッドロー・ウィルソン“Woodrow Wilson” (米国大統領)が暗にほのめかしながらもほとんど公言できなかったこと,すなわち世界の出来事を差配(さはい)する様々な場面の背後では一つの闇の権力が働いているということを理解し始めた人は誰でも,照明派(光明会)(訳注・原語 “the Illuminati”. イルミナティ.秘密結社)(訳注後記),ユダヤ人,フリーメーソンなどをのろう際にバランス感覚を失わないよう気をつけ,教皇ピオ10世 “Pius X” が言われた「誰もが自分の義務を果たすようになれば,すべてが良い方向にいく」という言葉の持つ知恵を正しく理解するようにしましょう.なぜならモーゼの十戒の第一戒が示すように,私たちの第一の義務は神に対するものであり,もし私たちすべてが自分の義務を果たし神に立ち帰るなら,神にとってさまざまな敵たちが現在振るっている権力を阻(はば)もうと介入することなしに元に戻すことはいとも簡単なこととなるからです.そうした敵を彼らが最初にいた場所に留め置けるのは神だけです.

こういうわけで,1917年に聖母マリアがポルトガルのファティマ “Fatima” にご出現になる前には,反カトリック主義者たち “the anti-Catholics” がポルトガル政府を完全に支配下に置いていましたが,ポルトガル国民のほぼ全体が聖母マリアの望みどおり祈りと償(つぐな)いを捧げたとき、聖母は反カトリック主義者たちの権力を無血の革命のうちにたやすく解消させてしまわれました.世界各地で共産主義が勝利を収(おさ)め誰もが神を信じなくなっていた20世紀において,ポルトガルはカトリック国家の見本となったのです.

神ののなかで最も賢明なものは,自分たちが神に役立つのは神に不誠実な人々の背中に災難のもとを振りかけることだとよく知っています.もし神のが自分たちが敵から災難を負わされているのは全ての霊魂が神に目を向け天国に入れるようになるためだと理解しさえすれば,諸々の陰謀説はすべてそれが持つ実際の重要さより重すぎも軽すぎもしない場所に落ちることでしょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて,
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第4パラグラフの訳注:
照明派(光明会) “the Illuminati” 「イルミナティ」について.

1776年バイエルン(Bavaria)の大学教授だった元イエズス会士アダム・ワイズハウプトによって創設された秘密団体.クニッゲの協力のもとにキリスト教に代る啓蒙主義的自由思想ないし理性宗教を広めようとした.会員は「完全可能者」と呼ばれたが,盛時でも2000人をこえなかった.ゲーテ,ヘルダーらもその会員であったといわれている.85年無政府主義的傾向のためバイエルン政府の手で禁圧された.
(ブリタニカ国際大百科事典参照)

* * *

2011年11月5日土曜日

224 不良金融 -1- (10/29)

エレイソン・コメンツ 第224回 (2011回10月29日)

差し迫った世界金融の崩壊,もしくは,その崩壊が意図した世界政府設立に向けた世界金融の到来(原文 “…the advent of global finance on the way to global government which that collapse has been designed to bring on, …” )という局面を見て人々は「一体どうしてこんな混乱に陥ったのか,どうしたらそこから脱出できるのだろうか? 」と考えさせられることでしょう.もし全能の神がこのような深刻な危機に一役買っておられるのだとすれば,神は当然事態をあまり深刻には受け止められず,心地よい日曜日の気晴らし程度にお考えでしょう.だが反対に,中世の教会を建築した人たちが明らかに考えたように,神がこの危機に重要な役割を果たしておられるとすれば,神を無視することは今日のように金融が現実を打ち負かせていること(原文 “today’s triumph of finance over reality” )に大きな役割を果たしていることになるでしょう.

今日の災難がどこから始まったかを理解するには,どうしても中世時代に遡(さかのぼ)る必要があります.中世の絶頂期以降にカトリック教の信仰が低下し始めるとともに,人々は生活のもう一つの大きな動機付けである富( “Mammon”,かね)への関心を募(つの)らせるようになりました(マテオ聖福音書6・24)(訳注後記).かくして,財貨およびサービスの交換で召使("servant",使用人)の役をするはずのお金が,その本来の性質を離れ,世界経済の主("master",あるじ,主人)である近代金融へと姿を変えてしまいました.このプロセスの中で,あらゆる分野で山のように膨(ぼう)大な支払い不能な負債が発生したり,世界を目に見える銀行もしくはそれを陰で操(あやつ)る目に見えない管理者たちの奴隷にしていますが,ここでカギとなる役割を果たしているのは中世以降に広まった小額準備金銀行(原文: “fractional reserve banking” )制度です.

お金が経済に役立つとなると,賢明な国家は流通するお金の全体量を自国経済で交換される財貨の全体量に合わせて上下させ,お金の価値が安定するように努めます.財貨の供給が少ないのにお金が多すぎればインフレによってお金の価値は下がります.逆に,財貨供給が多いのにお金の流通量が少なすぎると,デフレでお金の価値が上昇します.どちらになっても,お金の価値が変動し財貨の交換を不安定なものにしてしまいます.さて,預金者がお金を預ける銀行はどう行動するでしょうか.現金( “real money” )のわずかな部分だけを準備金として残し,はるかに大量の流通紙幣( “paper money” )を支えればいいと考えます.そして,流通紙幣の量を増減させることによってお金の価値を操作し,安いお金を貸し出し高いお金の返済を求めて大金を儲けます.このようにして金融業は国家から支配権を奪うことが可能になります.

もっとひどいことに,小額準備銀行システムで銀行がお金を実社会から切り離し,それを意のままに変える( “fabricate”.=でっち上げる,ねつ造する)ことができ,さらに保有するおかしなお金( “funny money” )にわずかなりとも複利をかけることができるとすれば,経済からあらゆる実価値( “real value” )を吸い上げることが理論的に可能ですし,実際にそのように行動します.銀行は預金者を借り手に,大半の借り手を絶望的な借金奴隷,住宅ローン奴隷に陥(おとしい)れ,自らの利益のために金の卵を産むガチョウを完全に殺さない程度(ていど)に面倒を見るだけです.神の啓示を受けた律法(神授の法)授与者モーゼの知恵は,全ての貸し手の権限を抑(おさ)えるため負債はすべて7年ごとに棒引(ぼうび)きにする(第二法〈申命〉書 15・1-2参照),あらゆる資産は50年ごとに元の持ち主に戻す(レビ書15・10参照)こととする,と定めました! (訳注後記)

偉大な神の人であり神よりの深い霊性を湛(たた)えたモーゼが,このように物質的な諸問題にまで関心を寄せたのはなぜでしょうか? それは,荒廃した経済が人々を絶望に追いやり,神から引き離し地獄に向けさせるからです - 今日,それより明日がどうなるかあなたの周(まわ)りを見渡してください - 経済がうまくいけば,拝金主義( “worships Mammon” )などが幅をきかせない賢明な繁栄が可能になり,人々が神の善意を信じ神を崇拝し愛することがもっと容易になるでしょう.人はしょせん霊魂肉体から成るものなのです.(訳注後記)

モーゼならきっと小額準備銀行システムなど粉砕(ふんさい)したでしょう.ちょうど彼が金の子牛 “Golden Calf” をこなごなに砕(くだ)いたように.(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第2パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第6章24節

* * *

第4パラグラフの2つの訳注:

①旧約聖書・第二法の書:第15章1-2節
②同・レビの書:第15章10節

* * *

第5パラグラフ最後の訳注:
「人はしょせん霊魂肉体から成るものなのです.」について.

人間は霊魂だけでなく,身体も一緒にかかえて生きているので,生きていく為には実生活面(経済)のケアも必要なのだ,という意味合い.

→主祷文〈主の祈り〉から…
・「…我らの日用の糧を今日我らに与え給え.」…経済面のケア
・「我らが人に赦すごとく我らの罪を赦(ゆる)し給え.我らを試みに引き給わざれ.我らを悪より救い給え.」…霊魂のケア

→新約聖書・マテオ聖福音書:第6章24-33節参照.

(31節から〈33節…太字〉)
『…何を食べ,何を飲み,何を着ようかと心配するな.それらはみな異邦人(=不信心な人)が切に望むことである.天の父はあなたたちにそれらがみな必要なことを知っておられる.だから,まず神の国とその正義を求めよ.そうすれば,それらのものも加えて与えられる.明日のために心配するな.明日は明日が自分で心配する.一日の苦労は一日で足りる.』

* * *

第6パラグラフの訳注:
「金の子牛 “Golden Calf” 」について:

旧約聖書・脱出の書:第32章を参照.
(エジプトを脱出してきたイスラエルの民は,預言者モーゼの留守中に金の子牛をつくり祭壇を設けてその鋳物の子牛を民を導く神として拝んだ.)

* * *

引用されている聖書の箇所は後から追加いたします.

* * *

2011年11月1日火曜日

223 高潔な無神論者 (10/22)

エレイソン・コメンツ 第223回 (2011年10月22日)

ブラームス “Brahms” の音楽がいかに魂の偉大さを証明するものであるかに触れたエレイソン・コメンツ(第221回)を読んだ若いブラジル人読者が,自分の内にくすぶっている心のほうが不熱心なカトリック教徒 “a lukewarm Catholic” の内にくすぶっている心よりはまだましなのではないかと尋(たず)ねてきました(マテオ聖福音書・12章20節参照)(訳注後記).この対比は無神論者の徳 “the virtue of the pagan” を強調し「生ぬるい,怠惰な」カトリック教徒たちの徳 “the virtue of “warm, lazy” Catholics” に疑問を呈(てい)するのが目的です.もちろん無神論者の徳 “pagan virtue” は称賛に値するもので,カトリック教の中途半端さ “Catholic lukewarmness” は非難に値しますが,その背後にはもっと大きな疑問が横たわっています.信心深いカトリック信徒 “a believing Catholic” であることはどれほど大切なことでしょうか? 信仰の徳 “the virtue of faith” はどれほど重要でしょうか? 永遠が長く続くと同じように信仰の徳は重要であり続けなければならない,というのがその疑問への答えです.

信仰が最高に価値のある美徳であることは4つの福音書を読めば明らかです.私たちの主イエズス・キリストが,肉体的あるいは霊的な治癒(ちゆ,=癒(いや)し)の奇跡を施された後で,その対象となった人に対し,例えばマグダラのマリア “Mary Magdalene” の場合と同じように(ルカ聖福音7章50節)(訳注後記),癒された人たちに治癒の奇跡をもたらしたのはその人たちの持つ信仰なのだ,とどれほど繰り返し語っておられることでしょうか? しかも聖書はこのことと同じように,称賛に値する信仰は単なる宗教についての系統立った知識よりはるかに深い意味を持つものだということも明らかにしています.例えば,ローマの百夫長(百人隊長)たち “Roman centurions” は当時の真の宗教たる旧約聖書についての知識はほとんど何も持ち合わせていなかったと思われます.にもかかわらず私たちの主イエズス・キリストは,その中のひとりについて,イスラエル(人)の中に彼ほどの大きな信仰を持った人を見たことがない(マテオ聖福音8章10節)と仰せられました.また,もうひとりについては,宗教的な専門家たちが嘲笑(あざわら)った十字架上のイエズスを神の御子と認めたし(マテオ聖福音27章41節),さらに三人目のコルネリウス(訳注・ “Cornelius” .歩兵隊「イタリア」の百人隊長)は真のカトリック教会に入ることになるすべての異教徒のため先駆者として道を切り開きました(使徒行録10,11章)(訳注後記).こうした無神論者の百人隊長たちは,教会の司祭,書士たちや古代人が持たなかった,あるいはかつては持っていながらすでに失ってしまった何を持っていたのでしょうか?

この地上のあらゆる人にとって,人生の始めから終わりまで,無神論者であろうと非無神論者であろうと “pagans and non-pagans” みな一様に,究極的にはすべて神から来るさまざまな善い物事と人間の邪悪さから来るさまざまな悪い物事との相克(そうこく)に絶えず直面します.だが悪人 “wicked men” ははっきり目立つ一方で神御自身は目に見えません.だから善を信じないとか神の存在さえも信じないというのはよくあることです.だが善良な心の持ち主 “men of good heart” は人の善良さを信じる一方で,絶対的ではなくても相対的に悪を割り引いて考えます.それに対し,邪悪な心の持ち主 “men bad of heart” は自分の周りのあらゆる善を軽視します.ところで,どちらの人間も明確な宗教の知識を持ち合わせていないとしても,前述の百夫長のように,善良な心の持ち主は宗教に出会うや否やすぐにそれに気付き理解するのに反して,悪い心の持ち主は多かれ少なかれそれを軽蔑(けいべつ)するものです.かくして純真なアンドレアとヨハネは救世主をすぐに理解しましたが(ヨハネ聖福音1章37-40節),教養あるガマリエル(訳注・ “Gamaliel”.律法学士.)にはかなり多くの時間と説得力が必要でした(使徒行録5章34-39節)(訳注後記).ここで別の言い方をしましょう.明確で意図的な信仰の徳は人の善良性およびその背後に神が存在しておられるあらゆる(善良な)もの(訳注・善良性は神の性質そのものである.)に対する潜在的な信頼,すなわち誤った教理に出会えば崩れたり,例えば醜聞(スキャンダル)に直面すれば揺らいでしまうような信頼と裏腹(隣り合わせ)だということです.(原文 “…that at the heart of the explicit and knowing virtue of faith lies an implicit trust in the goodness of life and in whatever Being lies behind it, a trust that can be undermined by false doctrine or shaken for instance by scandal”. )

ブラームスの場合に戻ると疑問は次のようになります.彼は少なくとも人の善良さとその背後に存在しておられる神の善良性 “the goodness of life and of the Being behind it” に対してこの潜在的な信頼を持っていたのでしょうか? その答えは疑いなく否です.なぜなら彼は人生の後半すべてを当時の音楽の都,カトリック信仰の都ウィーン(訳注・原文 “…what was then the capital city of music, Catholic Vienna.”,オーストリアの首都.)で過ごしたからです.そこで彼の音楽の美しさに触れた数えきれないほど多くの友人や教会の司祭たちさえもが彼にその天職が生み出す美とウィーンの宗教の実践を明示的に達成するよう促(うなが)したはずですが,彼はそうした訴えをすべて拒(こば)んだに違いありません.したがってブラームスが自分の霊魂を救わなかった可能性が極めて高いと思われるのですが…それは神のみぞ知るです.

それでもなお,私たちは神がブラームスの音楽をお与えくださったことに感謝します.聖アウグスティヌス “St. Augustine” が見事に言い表わしたように,「あらゆる真実は私たちカトリック信徒に属する」のです.あらゆる美もまた然(しか)りです(原文 “ “All truth belongs to us Catholics.” Likewise all beauty,…” ),たとえ無神論者の手によって創作されたものであっても!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第1パラグラフの訳注:
新約聖書・マテオによる聖福音書:第12章20節(太字部分)(12章全部を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 12:20 (12:1-50)

麦の穂と安息日(12・1-8)
『そのころの安息日に,イエズスは麦畑を通られた.
弟子たちは空腹だったので,麦の穂をつんで食べ始めた.するとファリザイ人がこれを見て,「あなたの弟子は*¹安息日(あんそくじつ)にしてはならぬことをしています」と言ったので,イエズスは答えられた,「ダヴィドが空腹だったとき供の者と何をしたかあなたたちは読んだことがないのか.彼は神の家に入って,司祭以外の者は彼もまた供のものも食べてはならぬ*²供えのパンを食べた.
*³また,安息日に司祭たちが神殿で安息を破っても罪にはならぬと律法に記してあるのも読んだことはないのか.私はいう,神殿よりも偉大な者がここにいる.
〈*⁴私が望むのはあわれみであって,いけにえではない〉とはどういう意味かを知っていれば,罪のない人をとがめることはしなかったであろう.実に,人の子(=神の子イエズス)は安息日の主である」.』

(注釈)

*¹ ファリザイ人は,穂を摘むことさえ刈り入れと同じように考えていたので,律法で禁じられている仕事だと言った(〈旧約〉脱出の書34・21).

*²〈旧約〉レビ24・5-9,サムエル(上)21・5-6参照.

*³ 燔祭をささげるにあたり,司祭はいけにえの獣を殺し,あるいは火を燃やすなどの行いをするが,これは安息日を犯すことにはならぬ.

*⁴〈旧約〉ホゼア6・6参照.


手なえの人(12・9-13)
『イエズスがここを去って彼らの会堂に入られると,*¹片手のなえた人がいた.人々はイエズスを訴えようとして,「安息日に病気を治してもいいのですか」と尋(たず)ねた.*²イエズスは彼らに答えられた,「一頭の羊をもっている人がいるとする,その羊が安息日に穴に落ち引き上げないでいるだろうか.人間は羊よりもはるかに優れたものである.だから安息日に善を行うのはよいことだ」.
またその人に向かい,「手を伸ばせ」と言われた.その人が手を伸ばすともう一方の手と同じように治った.』

(注釈)

*¹ ヒエロニムスの伝えるところによると,この手なえの男は左官だった.

*² 安息日に善業をするなと言うのではない.一頭の獣の命を救うことがゆるされるなら,人の命を助けることは当然ゆるされているはずである.
こういう対人論証は,ユダヤの学者たちがよく使っていた方法である.


イエズスの柔和(12・14-21)
『ファリザイ人は出ていって,イエズスを亡き者にする手段について相談した.それを知ったイエズスはその地方を去っていかれた.
多くの人がイエズスについてきたので,イエズスはその人たちをみな治し,そして,このことを人に知らせるなと戒められた.
こうして,*¹預言者イザヤの預言は実現した,
「*²私(=神)の選んだしもべ(=イエズス),私の喜びとする愛する者,私は彼の上に霊をおこう.
彼は異邦人に*³まことの信仰を告げる.
彼は争いもせず叫びもせぬ.だれも大路でその声を聞かぬ.
彼は傷んだ葦(あし)も折らず,煙(けむ)る灯心も消さぬ,まことの信仰を勝利に導くまでは
異邦人も彼の名に希望をかける」.』

(注釈)

*¹ イザヤの預言した「ヤベのしもべ」の謙遜と慎みを,イエズスは示された.

*² 18-21節 〈旧約〉イザヤの書42・1-4参照.

「まことの信仰」とは,ヘブライ語の「正義」の現代語訳である
このことばは,神と人間の関係を指し示し神の権利を教える.
神の権利は,天の示しとまことの信仰によってあらわされる.


盲人で唖の悪魔つき(12・22-32)
『そのとき,盲人で唖の悪魔つきが連れ出されたので,イエズスはそれを治された.すると唖は話し目は見えるようになった.人々は驚いて,「この人は*¹ダヴィドの子ではなかろうか」と言い合った.
これをきいたファリザイ人は,「あの人が悪魔を追い払うのは,ただ悪魔のかしら*²ベルゼブルがついているからだ」と言った.
イエズスは彼らの考えを見抜きこう言われた,「分かれ争う国は滅び,分かれ争う町や家もながらえない.もしサタンがサタンを追い払うのなら,みずから分かれ争うことになる.それなら,どうしてその国がながらえよう.*³私がベルゼブルによって悪魔を追い出すなら,あなたたちの*⁴弟子は何によって追い出すのか.こうして彼らがあなたたちをさばく者となる.
ところで私が神の霊によって悪魔を追い出すなら,神の国は到来しているのである.
また強い人を先に縛っておかぬと,強い人の家に入ってその家財を奪えるものではない.縛っておけばその家のものを奪うことができる.
私の味方でない人は私に背き,私とともに集めぬ者は散らしてしまう.
私は言う,*⁵人間のどんな罪も冒瀆(ぼうとく)もゆるされるが,霊に対する冒瀆はゆるされぬ.ことばで人の子に逆らう者はゆるされるが,ことばで聖霊に逆らう者はこの世においても来世においてもゆるされることはない.』

(注釈)

*¹ マテオ9・27参照.メシア(救世主)を指すことば.

*² ブルガタ(ラテン語)訳,「ベルゼブブ」.

*³ ヘブライ人の中にも悪魔をはらう人がいた.それは〈新約〉使徒行録19・12以下にも書かれている.

*⁴「弟子たち」,「子たち」の訳もある.

*⁵ 31-32節 聖霊に反する罪とは,意識的に頑固に真理を拒むこと,イエズスの業を悪魔の業とすることである.こういう人の罪はゆるされない.


ファリザイ人の悪意(12・33-37)
『実がよければその木もよいとされ,実が悪ければその木も悪いとされる.木はその実でわかる.
まむし族の人間よ,悪者のあなたたちにどうしてよいことが言えよう.
口は心に満ちたものを語る.よい人はよいものをよい倉から出し,悪い人は悪いものを悪い倉から出す.
私は言う.人が話した*¹むだごとは,すべてさばきの日にさばかれるであろう.人は自分のことばによって義とされ,また自分のことばによって罪とされる」.』

(注釈)

*¹ 直訳は「根拠のない,客観性のない悪口」.単にむなしいむだごとだけではない.


ヨナのしるし(12・38-42)
『そのとき,ある律法学士とファリザイ人がイエズスに言った,「先生,私たちはあなたがなさる*¹しるしを見たいと思います」.
イエズスはこう答えられた,「この悪いよこしまな代はしるしを望むが,預言者ヨナのしるし以外のしるしは与えられぬ.すなわち*²ヨナは三日三晩海の怪物の腹の中にいたが,同様に人の子は三日三晩地の中にいる.
*³さばきの日,ニネヴェの人は今の代の人とともに立ち上がり,今の代を罪に定めるだろう.彼らはヨナのことばを聞いて悔い改めたからである.しかもヨナにまさる者がここにいる.
さばきの日,*⁴南の女王は今の代の人とともに立ち上がり,今の代を罪に定めるだろう.女王はソロモンの知恵を聞こうとして地の果てから来たからである.しかもソロモンにまさる者がここにいる.』

(注釈)

*¹ イエズスが主張する権利を証明する不思議な奇跡のこと.

*²〈旧約〉ヨナの書2・1参照.

*³ ニネヴェの人々葉、改心を説くヨナの説教を信じた.ユダヤ人たちは,これほどの奇跡を見てもイエズスのことばを信じようとしない.

*⁴南の女王とは,パレスチナの南にあるサバの国の女王である(〈旧約〉列王(上)10・1-10).


悪霊(12・43-45)
『*¹汚れた霊は人から出るとき,休みを求めて荒れ地をさまよっても休める所を見つけない.そこで,〈出てきた元の家に帰ろう〉と帰ってみると,その家は空いていて掃(は)き清められ,整えられているので,自分より悪い七つの霊を連れにいき,帰ってきてそこに住む.そうなるとその人の後の状態は前よりも悪くなる.悪いこの代もまたそれと同じことである」.』

(注釈)

*¹ 43-45節 ユダヤ人の将来を暗示する.彼らは洗者ヨハネとイエズスの宣教によっていくらか悔い改める様子を見せたが,のちに,不信仰のまま残り,悪魔の鎖にしめつけられた.


イエズスの家族(12・46-50)
『イエズスがなお群衆に話しておられると,彼の母と*¹兄弟たちが話しかけようとして外に来た.(*²ある人が「ほら,あなたの母と兄弟が話そうとして外に立っています」と言った.)
*³イエズスはその人に向かい,「私の母とはだれのことか,兄弟とはだれのことか」と仰せられ,弟子たちのほうを手で指し示して,「ごらん,これが私の母,私の兄弟である.天にまします父のみ旨を果たす人はすべて私の兄弟,私の姉妹,私の母である」と仰せられた.』

(注釈)

*¹ 中近東の用語では,従兄弟,近い親戚をも「兄弟」と言う.

*² 主な古写本,権威ある翻訳本にないこの節を,マルコとルカにまねた後世の書き入れと考える聖書学者が多い.

*³ イエズスの教えを受け入れる誠実さがないならば,肉親関係といえども神の国の前に無価値である.
イエズスの母としてマリアの権威は偉大であるが神のみことばを聞くにあたって,彼女の誠実さはそれよりも偉大である


* * *

第2パラグラフ4行目の訳注:
新約聖書・ルカによる聖福音書:第7章50節(太字部分)(36節から掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. LUKE – 7:50 (7:36-50)

罪の女(7・36-50)
『あるファリザイ人がともに食事をしてくれるようにイエズスを招いたので,イエズスはその家に行き,食卓につかれた.
*¹イエズスがファリザイ人の家で食卓につかれたのを知って,その町で罪女(ざいじょ)とうわさのある女が,香油をいれた壷(つぼ)を持って入ってきた.その女は泣きながら,*²イエズスのうしろ,その御足の近くに立ち,涙で御足をぬらし,自分の髪の毛でそれをぬぐい,御足にくちづけして香油をぬった.
これを見た招待主のファリザイ人は心の中で,「この人がもし預言者なら,自分に触れた女が何者で,どんな人間かを知っているはずだ.この女は罪人なのに」と考えた.
そのときイエズスは,「シモン,私はあなたに言いたいことがある」と言われた.彼が,「先生,何ですか」と言うと,「ある貸し主に二人の負債人がいて,一人は五百デナリオ,一人は五十デナリオの負債があった.返すあてがなかったので,貸し主は二人をゆるした.すると,この二人のうちどちらがより多くその人を愛するだろうか」と言われた.シモンは,「多くゆるしてもらったほうだろうと思います」と答えた.イエズスは「その判断はよろしい」と言われた.
それから女をふりかえり,シモンに向かい,
「この婦人をごらん.あなたは私が入ってきても,足に水をそそいでくれなかったのに,この人は私の足を涙でぬらし,自分の髪の毛でふいてくれた.あなたはくちづけしなかったけれど,この人は*³私が入ったときから,たえず私の足にくちづけした.あなたは私の頭に油をぬらなかったけれど,この人は足に香油をぬってくれた.
だから私は言う.*⁴この人の罪,その多くの罪はゆるされた.多く愛したのだから.少しゆるされる人は,またすこししか愛さない」と言われた.
それから女に向かい,「あなたの罪はゆるされた」と言われたので,列席の人は,「罪さえもゆるすこの人は何者か」と心の中で思った.
イエズスは女に向かい,「あなたの信仰があなたを救った.安心して行きなさい」と言われた.』

(注釈)

*¹ この話を,マテオ福音(26・6-13),マルコ福音(14・3-9),ヨハネ福音(12・1-8)の記すベタニアの出来事と混同してはならない.
ルカは慎みをもって,その女の名を記すことをさけているが昔の典礼ではあったように次のルカ福音(8・2)のマグダラのマリアのことであると考えても福音書にそむくとはいえない.
→ ルカ聖福音書8・1-3
「(…イエズスは,説教し,神の国の良い便りを告げながら,町々村々を巡られた.十二使徒も彼に同行していた.さらに,かつて悪霊や病気から解放された婦人たち,すなわち七つの悪魔が去った*¹マグダラと言われるマリア…その他にも多くの婦人たちが自分たちの財産で彼らを助けていた.」
(注釈・ *¹ 前章に記された罪の女とも考えられる.するとヨハネが記すマルタとラザロの妹マリアと同一人物となる.)

*² 中近東の人々は,腰掛けのようなものの上に座り,足を横に出して食べる.部屋に入る前には履物をとるので,素足である.主人は来客の頭に油をぬる習慣であった.

*³ ブルガタ(ラテン語)訳では「彼女が入ってきてから」となっているが,テキストの訂正でまちがいである.

*⁴ふつうは「彼女が多く愛したから,その多くの罪がゆるされた」と訳す.


* * *

第2パラグラフのあとの3つの訳注:
①新約聖書・マテオによる聖福音書:第8章10節(太字部分)(1-17節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 8:10 (8:1-17)

らい病人の治癒(8・1-4)
『*¹イエズスが山を下られると,多くの人々が後について来た.そのとき一人のらい病人がきてひれ伏し,「主よ,あなたがそうしようと望まれるなら,私を治してください」と言った.イエズスは手を伸ばして触れ,「私は望む.治れ」と言われた.するとすぐらい病は治った.
*²イエズスは,「だれにも言わぬように,口を慎め.ただ,司祭のところに行って自分を見せ,その回復の*³証拠としてモーゼが命じたささげ物をせよ」と言われた.』

(注釈)

*¹ 1-4節 白らいは,小アジアにおいてもっとも恐ろしい悲惨な皮膚病で,いまもまだパレスチナに相当ある.

*² モーゼのおきてでは(〈旧約〉レビ14・2),治ったら病人はまた社会に受け入れられる前に,司祭たちのわたす回復証明書を受けねばならなかった.

*³「証拠として」には,二つの解釈がある.その一つ,「エルサレムの司祭にとって,らい病人さえも治す人が現れたという証拠になる」.もう一つ,「この場合のささげ物は,らい病が治った証拠である」.


百夫長の下男(8・5-13)
『イエズスがカファルナウムに入られると,一人の百夫長が来て,「主よ,私の下男が家で寝ています.中風で大変苦しんでいます」と言った.イエズスは「私が行って治そう」と言われた.
百夫長は,「主よ,私はあなたを私の屋根の下に迎える値打のない人間です.あなたがただ一言おっしゃってくだされば,私の下男は治ります.私自身も権威の下についていますが,私の下にも兵卒がいます.そして,こちらの者に〈行け〉と言えば行き,あちらの者に〈来い〉と言えば来ます.また下男に〈これをしろ〉と言えばそうします」と答えた.
これを聞いて感心されたイエズスは,ついてきた人々に向かって,「まことに私は言う.イスラエルのだれにも,私はこれほどの信仰を見たことがない
*¹私は言う.多くの人が東西から来て,アブラハム,イザク,ヤコブとともに天の国の宴席に入るが,*²国の子らは外の闇(やみ)に投げ出され,そこで泣いて歯ぎしりするだろう」と言われ,百夫長に向かって,「行け.あなたが信じたとおりになるように」と言われた.下男はそのとき病気が治った.』

(注釈)

*¹ 永遠の生命は,よく宴会にたとえられる.

*²「国の子」とはユダヤ人である.彼らは天の国に対して,異邦人よりも権利をもっていた.しかしキリストを信じないから永遠の宴席から追い出され,百夫長のように信仰厚(あつ)い異邦人がそれに代わるであろう.


ペトロの義理の母(8・14-17)
イエズスがペトロの家に来られた.ペトロの義理の母が熱病で寝ていた.それを見て,ペトロの義理の母の手に触れられると,熱は去り,彼女は起き上がってイエズスをもてなした.夕暮れ時になると人々が悪魔つきを大ぜい連れてきたので,一言で悪霊を追い出し,病人を治された.
こうして,預言者イザヤのことばは実現した,
「*¹彼はわれわれのわずらいを取り去り,われわれの病気を背負った」.

(注釈)*¹ 預言者イザヤがメシア(ヤベのしもべ)について言っているとおり,イエズスは罪の償いをみずから背負ったけれども,同時に罪の結果である病気の上に権威を有する(〈旧約〉イザヤ53・4).

* * *

②同・マテオによる聖福音書:第27章41節(太字部分)(27-54節を掲載予定)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. MATTHEW – 27:41 (27:27-54)


* * *

③新約聖書・使徒行録:第10,11章
THE ACTS OF THE APOSTLES – CHAPTERS 10 & 11

* * *

第3パラグラフの訳注:
①ヨハネ聖福音1章37-40節(太字部分)(35-42節を掲載)
THE HOLY GOSPEL OF JESUS CHRIST, ACCORDING TO ST. JOHN - 1:37-40 (1:35-42)

最初の弟子(1・35-51)
『次の日,二人の弟子とともにそこに立っていたヨハネ(洗者)は,イエズスが通りかかられるのに目をとめ,「神の小羊を見よ」と言った.それを聞いた二人の弟子はイエズスについていった.
ふり向いて二人の弟子がついてくるのを見られたイエズスは,「何をしてほしいのか」と尋(たず)ねられた.二人は,「ラビ――これは〈先生〉の意味である――,あなたはどこに泊まっておられますか」と言った.イエズスは「見に来い」と言われた.二人はついていって,イエズスの泊まっておられる所を見,その日はそこに泊まった.時は午後四時ごろであった.
ヨハネのことばを聞いてイエズスについていった二人のうちの一人に,シモン・ペトロの兄弟アンドレアがいた
.夜明けごろ,兄弟シモンに出会ったアンドレアは,「メシア ――キリストの意味――に会った」と言って,シモンをイエズスのところに連れてきた.イエズスは彼を見つめて,「あなたはヨハネの子シモンだが,*¹ケファ――岩(ペトロ)の意味――と呼ばれるだろう」と言われた.…』

(注釈)*¹ 新しい名をつけたのは,神からの新しい使命を与えるというしるしである.イエズスがのちにペトロに与える使命は,教会の土台,すなわちかしらである.

* * *

②使徒行録5章34-39節(太字部分)(12-42節を掲載予定)
THE ACTS OF THE APOSTLES – 5:34-39 (5:12-42)


* * *

(注)訳注の未完成の部分は,後から補充・追加いたします.

* * *