2011年9月22日木曜日

トマトの支柱

エレイソン・コメンツ 第217回 (2011年9月10日)

しばらく前のことですが,ある家庭の妻で母親の女性から夫との意思疎通(そつう)が上手く図れず困っていると打ち明けられました.二人はどこが間違っているのか話し合うのですが,いつもきまってお互いに腹を立て結局は決裂して終わってきたというのです.事の是非はさておき,私は彼女の問題が神の定めた結婚生活における男女の見事なまでに素晴らしい相互補完的な役割を,あちこちの家庭であるように,意図的にひどく否定してしまっていることにその根があると感じました.そこで彼女宛てに私が書き送った手紙の内容を以下にご紹介します.彼女は私の手紙が役立ったと言いました.ほかの方たちにもお役に立てばと思います.ところで,女性の皆さま,私はかならずしも問題がすべて貴方たちにあるとは考えていません

あなたの結婚生活のご苦労にご同情申し上げます. ルールの第: 子供たちの前や子供たちに聞こえる所で決してご主人と口論してはいけません.何よりまず子供たちに配慮しなければなりません.あなたが子供たちの前でご主人の足を引っぱったり言い争ったりしても,家族のために何の助けにもなりません.逆に有害です.

ルールの第: あなたのご主人に敬意を表しなさい.たとえご主人が常にそれに値するわけでなくてもです.女性は愛で動き,男性はエゴ(訳注・=自我・うぬぼれ・自尊心)で動きます.この違いは大きなものです.だからこそ聖パウロ - すなわち神のみことば - は「夫に従い “obey” なさい.夫たちよ,妻を大事に “cherish” しなさい.」と言っています.大きな違いです! (訳注後記) いかなる結婚生活においても,夫が妻に愛情を示し妻が夫を敬うかぎり,普通は満ち足りた結婚の本質がそこにあるのです.そして,もしご主人があなたに愛情を示さないなら,少なくとも愛らしい憎めない妻として振る舞いなさい.ご主人とけんかするとき,あなたがそのように見えることは決してないでしょう.

ご主人を敬うためなら,どんな事や物でも犠牲にしなさい.ご主人はあなたの愛情以上に尊敬を必要とします.あなたはご主人の尊敬以上に愛情を必要とします.ご主人に従いなさい.あなたがご主人に指図していることを決して見せてはいけません.あなたがご主人にしてほしいと望むことをご主人が自分で決心してするようにしなさい.また妻が家庭の外へ働きに出ることは良いことではありません.とくに妻の収入が夫よりも多い場合はなおさらです.もしあなたが稼(かせ)がなければならず,しかもご主人より多く稼いでいる場合は,決してそれを見せてはなりません.その事実を隠(かく)しなさい.男性は,一家の長として,自分が大黒柱なのだと認識している必要があるのです.あなたは一家の心であり,それはちょうど一家の長が欠くことのできない存在であるのと同じくらい,あるいはそれ以上に必要な存在ですが,あなたは一家の長ではないのです.また,もしあなたが一家の長として振る舞わざるを得ないことがあっても,それを面(おもて)に出さず,とにかくその事実を隠しなさい

もし,これであなたの結婚生活が上手く機能しないとしたら驚きです.結婚生活が上手くいくかどうかは通常,女性がいかに男性に順応するかにかかっているのであり,その逆でありません.ロシアに「トマトの苗が支柱(苗がその回りをよじ昇る)に頼(たよ)るように,女性は男性に頼るものだ」ということわざがあります.もし彼が支柱でないなら,彼を支柱にするためにあなたができるすべてのことをしなさい.そして,もしあなたにそれができないなら,その時はもう一度その現実を隠しなさい.神は女性が連れ合う男性に順応するよう,男性より女性を順応性のある性質に造られています.

あなたは以前子供たちの教育のためにご家庭でお金が必要だと話されました.あなたの娘さんたちにとって最良かつ最も重要な教育は母親の台所でできることに気づかれたことがありますか? 母親が家庭にいると仮定した場合の話です.家庭外のどんな学校で受ける教育よりもずっと多くのことをあなたは自分を手本として示すことで娘たちを教育することができるのです.またあらゆることにかかわらず夫に従い夫を敬う妻として母としての貴重な模範を娘さんたちに示してあげなさい.子供たちは非常によく観察するものです.あなたの示す模範は子供たちが将来結婚して家庭を持ったときに幸福になるために非常に重要なのです.

ご主人との喧嘩(けんか)もいいでしょう.ただし静かに,敬意をもって,子供たちから離れてしてください.そして「私だって一日中外で働いてきたのよ,私だって家庭での思いやりが必要だわ」などと言ってはなりません.なぜなら,母親が外で働くのは正常ではないからで,男性たちはそれが自分の不甲斐無さ(ふがいなさ)のためだとしても,そのことを感じているからです.男性は変えようがありません.この人があなたの結婚相手として神が選ばれた男性なのです.あなたの子供たちにご主人を敬う手本を見せなさい.それが,とりわけあなたの娘さんたちに対する貴重な贈物です.

現代はどこの家庭でも多くの祈りを必要としています.神の御母(聖母マリア)よ,お助けください!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第3パラグラフの訳注:
聖パウロのこのことばに該当する聖書からの引用箇所.

①新約聖書・使徒パウロのエフェゾ人への手紙:第5章22-33節(背景を知るため前後の部分も記載します)

②同・コリント人への第一の手紙:第11章1-16節

③以降…(「父なる神と神のみ子キリスト」・「キリストと教会」・「神・キリストと夫」・「夫と妻」の関係について理解を助ける聖書からの引用を追加します)

* * *

①エフェゾ人への手紙

第4章
教会の一致(4・1-6)
『さて,主の囚人となった私(使徒パウロ)はあなたたちに勧める.

あなたたちは召されたお召しにかなうように生き,すべての謙遜と柔和と寛容をもって愛によって忍び合い,平和の結びによって*¹霊の一致を守るように努めよ.

*²体は一つ,霊は一つである,あなたたちが召し出しによって一つの希望に召されたのと同様に.

*³主は一つ,信仰は一つ,洗礼は一つ,神は一つで,すべてのものの父であり,すべてのものの上にあり,すべてのものの上に働き,すべてのものの内にいます.』

(注釈)

*¹ 信者間の心の一致.

*² 「体」は教会.

*³キリスト(〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉8・5-6).

それぞれの役目(4・7-24)
『私たちはキリストの賜の秤(はかり)に従って*¹おのおの恩寵を受けた.だから,「*²高く上って多くの奴隷を引き連れ,人々に贈物をした」と書き記されている.しかし*³上ったと言えば,地の低い所にも下ったわけではないか.下った者はすべてのものを満たすために,天のいと高き所に上ったそのお方である.

ある人を使徒とし,ある人を預言者とし,ある人を*⁴福音者,ある人を牧者と教師とされるのもそのお方である.
それは聖徒たちを,*⁵聖職の働きのためキリストの体を建てるために整え,ついに信仰の一致と神のみ子の深い知識に達し,*⁶満ち満ちるキリストの背丈にまで至る完全な人間をつくるためである.

こうして私たちは子どもではなくなり,人を偽善と誤謬(ごびゅう)に迷いこませるたくらみのままに,いろいろな教えの風に吹きまわされ翻弄(ほんろう)されないようになる.
*⁷むしろ真理を宣言し,*⁸かしらであるキリストによって,すべて愛において成長するだろう.

キリストによって,*⁹それぞれの肢体の働きに従い,身体全体は自分を養い生かすすべての*¹⁰節々を通じて調和と統一を受け,こうして成長をとげ,愛によって自分をつくり上げる


私は主においてあなたたちに切に望んで言う.
心のむなしさに従う異邦人のように生活するな.彼らは知恵がくらみ,その中の無知と心のかたくなさによって神の命を離れた者となった.*¹¹彼らの道徳観はうすれ,すべての情欲と汚れを行い,淫乱の生活にふけった

しかしあなたたちは,キリストからそんなことを習ったのではない.
あなたたちが*¹²イエズスにある真理に従って,イエズスにおいて教えられ,それを聞くなら,*¹³人を欺(あざむ)く欲に腐(くさ)った前の生活の古い人を脱ぎ捨て,霊的な思いによって自分を新たにし,正義と真実の聖徳において,神にかたどってつくられた新しい人を着なければならない.』

徳の実行(4・25-32)
『だから,偽善を捨てて,おのおの隣人に真実を語れ.*¹⁴あなたたちは互いに肢体だからである.*¹⁵怒っても罪を犯すな.日が傾くまで怒りを保つな.*¹⁶悪魔に足がかりを与えるな.盗人はもう盗むな.
むしろ,貧しい人々に施すために,自分の手で何かよい仕事をして働け.悪いことばを決して口から出すな.ただ必要な場合,徳に役だち聞く人に恩寵を与えるよいことばだけを言え.

あなたたちがあがないの日のためにしるしを受けたその神の聖霊を悲しませるな.すべての苦さ,憤(いきどお)り,怒り,叫び,ののしり,つまり悪をすべて捨てよ.
互いに情けとあわれみをもち,キリストにおいて神があなたたちをゆるされたように,互いにゆるし合え.』

(注釈)

*¹ 教会の奉仕を目的とする特別な恩寵のこと.特能ともいう.

*² 〈旧約〉詩篇68・19の引用であるが,原文テキストの忠実な引用ではない.

*³ 託身があったから,昇天もなければならなかった.

*⁴ 四人の福音史家のことではなく,福音を伝える人々,伝道者,福音師のこと.

*⁵ 信者は聖徳に近寄れば近寄るほど,聖職の働きにふさわしい者となる.

*⁶ このキリストは完全な背丈(せたけ)のある人間として考えられている.キリストの神秘体,教会の会員である信者はみな,自分に定められている高さにまで伸びなければならない.それは,よく成長したすべての肢体が集まることによって満ち満ちたキリストを実現するためである

*⁷ 1・22,5・23,コロサイ人への手紙1・18,2・19参照.

*⁸ 信じるだけでは足りない.キリスト信者は信仰を喜び,信仰を生かさねばならない

*⁹ 教会内の信者おのおのの活躍と使命.

*¹⁰ 教会に属する者の相互の奉仕.

*¹¹ 〈新約〉ローマ人への手紙1・18以下参照.

*¹² コロサイ人への手紙2・6参照.

*¹³ コロサイ人への手紙3・9,ローマ人への手紙6・6参照.

*¹⁴ コリント人への手紙〈第一〉6・15,ローマ人への手紙12・5参照.

*¹⁵ 〈詩篇〉4・5.心中に怒りが起こっても,それを行いに出して罪を犯すまでになるな.

*¹⁶ 悪魔に誘惑の機会を与えてはならない.


第5章
キリストの模範(5・1-2)
『実に愛される子らとして,神に倣(なら)う者であれ.私たちを愛し,私たちのために芳(かんば)しい香りのいけにえとして神にご自分をわたされたキリストの模範に従って,愛のうちに歩め.』

汚れを棄てよ(5・3-7)
『聖徒にふさわしいように,あなたたちの中では,*¹淫行,いろいろな汚れ,情欲は口にさえもするな.また,汚行(おこう),愚かな話,下品な冗談も言うな.それはよからぬことである.

ただ神に感謝せよ.

淫行の者,好色な者,情欲の者はみな―――これは偶像礼拝者と同じである―――,キリストと神の国を継げない
人のむなしいことばにだまされるな.*³不従順な者の上に神の怒りを呼ぶのはそれらの事柄である.だから彼らと交わるな.』

神の子らの生活(5・8-14)
『元あなたたちはやみであったが,今は主において光である.したがって*⁴光の子として歩め.光の実はすべての善と正しさと真実にある.主に喜ばれることをわきまえ知れ.

*⁵実を結ばぬ闇(やみ)の行いに加わらず,かえってそれを責めよ.彼らがひそかに行っているのは,*⁶口にするのも恥ずかしいことである.

*⁷公に責められることはすべて完全な光の中に現れ,現されたものはみな光である.
これがために,「*⁸眠る者よ,起きよ,死者の中から立ち上がれ.キリストはあなたを照らすだろう」と言われている.』

賢明と節制(5・15-20)
『であるから,愚かな者ではなく,知恵ある者のように慎(つつし)んで歩んでいるかどうかを調べよ.今の時をよく利用せよ,時代は悪いからである.

あなたたちは思慮のない者とならず,主のみ旨を理解せよ.ぶどう酒に酔うな.それは淫乱のもとである.

むしろ霊に満たされよ.ともに詩の歌と賛美の歌と霊の歌をとなえ,心を挙げて主に向かって歌い,そして賛美せよ.主イエズス・キリストのみ名によって,すべてのことについて,絶えず父なる神に感謝せよ.』

家族の愛(5・22-33)
『キリストを恐れて互いに従え.

妻よ,主に従うように自分の夫に従え

キリストがその*⁹体であり,それを救われた教会のかしらであるように,夫は妻のかしらである.教会がキリストに従うように,妻はすべてにおいて夫に従え

夫よ,キリストが教会を愛し,そのために命を与えられたように,あなたたちも妻を愛せよ

キリストが命を捨てられたのは,水を注ぐことと,それに伴(ともな)う*¹⁰ことばによって教会を清め聖とするためであり,また汚点(しみ)もしわもすべてそのようなもののない,輝かしく清く汚れのない教会をご自分に差し出させるためであった.

(28節)「そのように夫も自分の体のように妻を愛さねばならない.妻を愛する人は自分を愛する人である.(29節)だれも自分の体を憎む者はなく,みなそれを養い育む.

キリストも教会のためにそうされる.(30節)*¹¹私たちはキリストの体の肢体だからである
(31節)「*¹²これがために男は父と母を離れ,妻と合って二人は一体となる」.

*¹³この奥義は偉大なものである.
私がそう言うのは,キリストと教会についてである


あなたたちはおのおの自分の妻を自分のように愛せよ.妻もまたその夫を敬え.』

(注釈)

*¹ エフェゾは有名な堕落の町であった.

*² エフェゾのアルテミス女神に属する淫乱の行為を暗示しているようである.

不道徳は神の罰を呼び下す

*⁴ 〈新約〉コロサイ人への手紙1・12,コリント人への手紙〈第二〉4・6参照.

*⁵ 淫祀(いんし),邪教のようなものが行われていて,それを光の教会と対照させている.

*⁶ 偶像の秘教の堕落を暗示する.

*⁷ 異教徒が淫行に属することを公に話すのは,もちろんよいことではない.しかし,悪行を正すために,公に責めることはなされてもよい.そうすれば,光はやみを吹きはらうであろう.それはキリストの光である.

*⁸ 初代教会の典礼の賛美歌の一句らしい.

*⁹ この「体」は教会である.

*¹⁰ 洗礼文.

(28-31節)自然の愛だけではなく,信仰と愛に満ちたキリストの教える超自然の愛

*¹¹ ブルガタ訳,「その肉と骨で成り立っている」.

*¹² 〈旧約〉創世の書2・24参照.
→『…神はご自分にかたどって,人間をつくりだされた(1章27節).

…主なる神は仰せられた,「人間が一人きりでいるのはよくない.私は彼に似合った助け手を与えよう」.
主なる神は,地から野の獣と空の鳥とをつくり,人間のもとに連れてゆかれた.それは,人間がそのものを,どのように呼ぶかを見たいと思われたからだった.その生き物を人間がどう呼ぶか,その呼び方がそれらの名となるはずであった.

さて,人間はすべての家畜と,空の鳥と,野の獣とに名をつけたが,人間に似合った助け手はまだ見つからなかった.
そのとき,主なる神は人間を深い眠りに入らせた.人間は眠りに入った.神は人間のあばら骨の一本を取りだし,肉をもとのように閉じた.

主なる神は人間から取りだしたあばら骨で女を作って,それを人間のもとに連れてゆかれた.そのとき,人間は言った,
さて,これこそ,わが骨の骨,わが肉の肉.これを女(ヘブライ語でイシャ)と名づけよう.男(イシュ)から取りだされたものなのだから」.(2章18-23節)
だからこそ,人間は父母を離れて,女とともになり,二人は一体となる(2章24節).

*¹³ 婚姻が「偉大な奥義」なのは,それが教会とキリストの神秘的な関係をかたどるからである.』


第6章
親と子の義務(6・1-4)
『子どもたちよ,主において両親に従え.それは正しいことである.(父母を敬え)―――これは*¹約束のついている第一のおきてである―――.そうすれば*²あなたの上によいことがあり,地上において長寿を得ることができる.
両親よ,あなたたちの子どもを怒らせることなく、主に従って規律をもって育て戒めよ.』

主人と奴隷の義務(6・5-9)
『*³奴隷よ,キリストに従うように恐れと尊敬と真心をもってこの世の主人に従え.*⁴目の前だけで仕えるのではなく,人の気に入るためでもなく,心から神のみ旨を果たすキリストの奴隷として働け.人ではなく主に仕えるように快く仕えよ.あなたたちの知るとおり,奴隷も自由民もおのおの主から善業の報いを受ける.
主人よ,*⁵あなたたちもしもべに対して同じようにせよ.脅迫をするな.彼らとあなたたちの主は天に在(あ)って,人を区別されない方であることをあなたたちは知っている.』

キリスト信者の武具(6・10-20)
『兄弟たちよ,主において力を受け,その力によって自分を強めよ.悪魔の企(くわだ)てに刃向かうために,神の武具をすべてつけよ

私たちが戦うのは*⁶血肉ではなく,*⁷権勢と能力,この世の闇(やみ)の支配者,天界の悪霊だからである

*⁸神の武具をすべてつけよ.悪の日に抵抗し,すべてを果たしたのちなお立つためである.

では真理を帯にし,正義を胸当てにして立て.平和の福音への熱を足にはき,信仰の盾を取れ.それによって悪者の火矢をすべて消すことができるであろう.さらに,*⁹救いのかぶとと,神のみことばである聖霊の剣をも取れ

*¹⁰すべての祈りと願いをもって心のうちでいつも祈れ.絶えず目を覚まして,忍耐強くすべての聖徒のために祈れ

*¹¹また私のためにも祈れ,福音の奥義を恐れなく告げようとして話すとき,適当なことばが下されますように.私は福音の使者として鎖につながれている.私が語らねばならぬことを恐れなく語れるように祈れ.』

ティキコの派遣(6・21-22)
『あなたたちにも,私の様子と私のしていることを知らせたい.愛する兄弟であり,主において忠実なしもべティキコがそのすべてを伝えるだろう.私はそのために彼をあなたたちのもとに送った.彼が私たちのことを知らせ,あなたたちの心を慰(なぐさ)めるだろう.』

あいさつ(6・23-24)
『父なる神と主イエズス・キリストから,兄弟たちに平和と信仰とともに愛が与えられるように.
*¹²朽ちることなき愛をもって,主イエズス・キリストを愛するすべての人に恩寵があるように.』

(注釈)

*¹ 十戒のうち,報いの約束のついている最初のおきて.

*² 〈旧約〉第二法の書5・16参照.

*³ 〈新約〉コロサイ人への手紙3・22-25,ペトロの手紙〈第一〉3・18,ティトへの手紙2・9-10参照.

*⁴ 労働を聖化すること.

*⁵ パウロは社会革命を勧めるのではない.主人が信仰と愛に基づいてことを行えば,社会の正義は自然に行える.

*⁶ 「血肉は人間の力のこと

*⁷ 「権勢と能力は悪霊のこと

*⁸ 〈旧約〉イザヤの書11・5,52・7,知恵の書5・18参照.

*⁹ イザヤ59・17参照.

*¹⁰ 〈新約〉コロサイ人への手紙4・2-4参照.

*¹¹ パウロは釈放されることを望まない.キリストのために鎖(くさり)につけられることは光栄である.ただ使徒としての使命を果たす力をこい求める.

*¹² パウロの手によるあいさつらしい.

* * *

②コリント人への第一の手紙:第11章1-16節

『私がキリストに倣(なら)っているように,あなたたちは私に倣え.
あなたたちがすべてのことについて私を思い出し,私の伝えたとおり*¹伝えを守っていることに喜びを言おう.私はあなたたちに次のことを知ってもらいたい.

すべての男のかしらはキリストである.女のかしらは男である.キリストのかしらは神である
頭にかぶり物をして祈りや預言をする男はみな,その*³かしらを辱(はずかし)める.頭にかぶり物をしないで祈りや預言をする女もみなそのかしらを辱める.その女は剃髪(ていはつ)しているのと同じだからである.女がかぶり物をしないなら髪も切ればよい.神を切ったり剃(そ)ったりするのが女の恥であるなら,かぶり物をするがよい.

男は神のすがたであり光栄であるから,頭にかぶり物をしてはならぬ.女は男の光栄である.
男が女から出たのではなく,女が男から出たのであって,*⁴男が女のために造られたのではなく,女が男のために造られたからである.
そのため女は,*⁵天使たちのために,*⁶権威に服するしるしを頭にかぶらねばならぬ.
といっても*⁷主においては,男なしでは女もなく,女なしでは男もない.
女が男から出たように男は女から生まれ,そしてすべては神から出る

あなたたちは自ら判断せよ.女がかぶり物なしで神に祈るのはよいことであろうか.
自然そのものも教えているではないか.男が長い髪をしているのは恥であって、女が長い髪をしていれば誇りであることを.女の神はかぶり物として与えられたからである.
だれかこれについて抗弁しようとするなら,私たちにはそういう習慣はなく,神の諸教会にも例がないと答えたい.』

(注釈)

*¹ 「伝え」とは初代教会の聖伝の教えのことである.

*² キリスト教的社会における階級.女性の服従の理由は,神の創造にある.しかし,その順序は,徳ではなく単に権威のことだけである.

*³ かしらの意味にも,頭の意味にもとれる.

*⁴ 〈旧約〉創世の書2・22-23参照.

*⁵ 創世の書6・2.ユダヤ系の偽典書に基づけば,昔のある学者は,この「天使」が天から落ちた天使のことだと言っていた.また,信者の集会のかしらの意味にとった人もあった.
しかしこの天使は,信者の集会のとき,祈りを神の座まで運ぶ(〈新約〉黙示録8・3,エフェゾ人への手紙3・10)よい天使のことと思われる

*⁶ ここでは自分に対する他人の権利のこと.

*⁷男も女も不完全なもので,主のみ前にあっては平等である.

* * *

2011年9月14日水曜日

「ギリシアの贈物」 -3-

エレイソン・コメンツ 第216回 (2011年9月3日)

憶測はただの憶測に過ぎません.ジャーナリストもただジャーナリストというだけです.だが先月あるイタリア人ジャーナリストが自分は「バチカンのインサイダー(内部情報通・情報提供者)」( “a “Vatican insider” ” )から,9月14日に予定されるローマ教皇庁代表者と聖ピオ十世会総長およびその補佐役2人との間での会合で聖ピオ十世会について教会法上の正則化の可能性が論議されるかもしれないと書く権限を得たと述べました.そのジャーナリスト,アンドレア・トルニエッリ氏の指摘する主要点の要約を以下にご紹介します( インターネット上 http://vaticaninsider.lastampa.it/en/homepage/inquiries-and-interviews/detail/articolo/lefebvriani-vaticano-tradizione-fellay-7423/
をご参照ください):--

バチカン代表者は聖ピオ十世会に対し以下の点を提示するだろう.すなわち(1)教皇ベネディクト16世の「継続性の解釈学」 “hermeneutic of continuity” を明確化し,それがいかに第二バチカン公会議の諸文書のより真正な解釈であるかを示すだろう.トルニエッリ氏によると,これにより教理上の難題が解決される「場合に限り」(2)聖ピオ十世会所属の諸司教と司祭たちの現在の身分の教会法上の不規則性を解消する解決策が示されるだろう.その解決策とは,この5月に英国国教徒たち “the Anglicans” に与えられたような「(訳注・特別な)司教区」 “an Ordinariat” という地位であり,これにより聖ピオ十世会はエックレジア・デイ委員会 “the Ecclesia Dei Commission” を通じて直接ローマ教皇座に依拠することになる.この手筈(てはず)により聖ピオ十世会は教区司教たちに直接に対応することなしに独自の特性を保持することが可能になる.ただし(3)こうした取り決めがまとまるかどうかは確実ではない.なぜなら「聖ピオ十世会内部に異なるさまざまな感性が共存している」からである.

バチカンと聖ピオ十世会の関係について私たちが公の場で知るあらゆる事柄から判断して,9月14日の会合に関するトルニエッリ氏の予測は蓋然(がいぜん)性の高いものと思われます.だが彼の提示した3つの主要点はそれぞれ以下のコメントを差し挟(はさ)むに値するものです:--

まず第一に,現今のバチカンとルフェーブル大司教の聖ピオ十世会 “Archbishop Lefebvre's SSPX” の間に存在する教理上の大きな隔(へだ)たりについて言えば,教皇ベネディクト16世の「継続性の解釈学」がその解決策になり得るとは言えません(「エレイソン・コメンツ」第208-211回をご参照ください).もしトルニエッリ氏が正しいとすれば,ローマ教皇庁が再度2+2が4または5,あるいは5または4になり得ることをいかにして証明するのか興味ある(啓発的ではありません)ことです.カトリック教理は,私たち人間にとり必ずしも常にそれほど明らかには見えないとしても,2+2=4のように確固たるものです.

第二に,トルニエッリ氏の想起する教会法上の取り決めに関しては,もし - 想像もつかないことですが - 聖ピオ十世会がいかなる類(たぐい)のものであろうと教理上の妥協案を受け入れるとすれば,聖ピオ十世会は現在のローマ教皇座(2+2=4または5)の支配下に入り,なおかつ「聖ピオ十世会独自の特性を保持する」(2+2=もっぱら4のみ)という相反する二つのことを同時に行うことになり,これは決してあり得ないことです.そのような実務協定は,カトリック教理をもはや一切の誤りを締め出す存在ではなく誤りを含む存在とすべく絶え間なくかつ最終的に抵抗し難い圧力を行使するものとなるでしょう.このことは取りも直さずフリーメーソンのイデオロギー “the Freemasons' ideology” を取り入れ,ルフェーブル大司教の聖ピオ十世会の存在理由そのものを放棄するということでしょう.

そして第三に,協定の成否が確実なものではないという点はトルニエッリ氏の指摘通りかもしれません.だが氏と氏の「バチカン内部情報提供者」のいずれかがこの問題を「異なる感性」の問題だと考えているなら完全に間違っています.感性というものは主観的な存在です.バチカンとルフェーブル大司教の聖ピオ十世会の間に置かれている中心課題は2+2=4の命題と同じくらいに客観的な存在です.今に至るまでいつの世においても,すでに創造されたものこれから創造されるものを問わずいかなる惑星や星にあっても,不変の真理に向けどれほど過去に遡(さかのぼ)ろうと未来に前進しようとも,2+2の答えは絶対に,4,以外にはあり得ないのです.(原文: “At no point in time, reaching backwards or forwards into eternity, on no planet or star created or creatable, can 2+2 ever be anything other than, exclusively, four.” )(訳注後記)

ルフェーブル大司教が当時のラッツィンガー枢機卿から主流派教会内でカトリック信仰にとっての安全な場所を得るために取ったあらゆる取り組みが1988年5月の交渉の決裂によってすべて失敗に終わったとき,彼は次の有名な言葉を発しました:「猊下(げいか),たとえあなたが私たちの望むすべてのものをくださるとしても,私たちはなおもそれを拒否しなければならないでしょう.なぜなら,あなたたちが社会を非キリスト教化しようと働いているのに反して,私たちは社会をキリスト教化しようと働いているからです(原文: “ … because we are working to christianise society, whereas you are working to de-christianise it.” ).私たちの間に協調関係は全くあり得ないことです.」

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第6パラグラフの訳注:
神の真理の永遠性」について参考となる聖書からの引用箇所.

新約聖書・聖パウロによるローマ人への手紙:第8章28-39節

救いの予定(8・28-30)
『神を愛する人々,すなわちみ旨によって召し出された人々のためには,神がすべてをその善に役立たせたもうことを私たちは知っている.

*¹神はあらかじめ知っている人々を*²み子の姿にかたどらせようと予定された.それはみ子を多くの兄弟の長子とするためである.
また予定された人々を召し出し,召し出した人々を義とし,義とした人々に*³光栄を与えられた.』

救いの確実さ(8・31-39)
『このことについて何と言おう.神がもし私たちの味方ならだれが私たちに反対できよう.
*⁴ご自分のみ子を惜しまずに私たち全てのためにわたされたお方が,み子とともに他のすべてを下さらないはずがあろうか.

だれが神の選ばれた者を訴えられよう. 義とするのは神である.
だれが彼らを罪と定められよう.死んで,いや,むしろよみがえって神の右に座し,私たちのためにとりなしたもうイエズス・キリストか.

だれが*⁵キリストの愛から私たちを離れさせえよう. 患難か,苦悩か,迫害か,飢えか,裸か,危険か,剣か.すなわち,「*⁶あなたのために私たちは一日じゅう死にわたされ,ほふられる羊のようなものになった」と書き記されているとおりである.
だがすべてこれらのことに会っても,私たちを愛されたお方によって,私たちは勝ってなお余りがある.

死も,命も,天使も,*⁷権勢も,現在も,未来も,*⁷能力も,高いものも深いものも,そのほかのどんな被造物も,主イエズス・キリストにある神の愛から私たちを離せないのだと,私は確信する.』

(注釈)

*¹ 〈新約〉コリント人への手紙〈第一〉8・3,13・12.神の愛の結果である.

*² コリント人への手紙〈第二〉3・18参照.

*³ 光栄を得るのは(キリストの)来臨の時であるが,パウロは神の永遠の計画をすでに実現れたものとして見ている.

*⁴ 救いの予定は神の無限の愛に基づき,人間への神の賜(たまもの)はその愛を表す

*⁵ 私たちに対するキリストの愛(8・37).

*⁶ 〈旧約〉詩篇44・23.キリストは,自分のために苦しむ人々を見捨てない(コリント〈第二〉4・11).

*⁷ 「権勢」と「能力」はキリストに反する悪霊のこと(コリント〈第一〉5・24).


(説明)
・「フリーメーソン」や「現代文明」は,その権勢がどれほど強力で無敵に見えようとも,時の流れとともに変遷し,いずれは途絶える.
・しかし,「神の真理」「神の愛」は永遠に不変である.
・人間の霊魂は「永遠の真理」(=救世主キリストの御父なる神)の存在を信じる信仰により,神の永遠の命にあずかることができる.
・移り変わるものによってではなく,永遠に確固たる存在(神の不変の真理)によって,はかない人生ではあっても真の心の平和のうちに地上での人生を全うしたいものであり,その地上における灯台たるカトリック教会が確固たるゆるぎない土台(神の真理)の上に変遷することなく立ち続けることは,人類の救済にとって絶対に必要である.
・「神の真理」はこの絶対に必要な真の教会を立たせる.なぜなら,「神の永遠不変の真理」によらないどんな地上の存在にも限界があり,そのような「偽物」は,いつの時代にも,時の経過とともに滅び去り消滅してゆくからである.

* * *

2011年9月1日木曜日

「ギリシアの贈り物」 -2-

エレイソン・コメンツ 第215回 (2011年8月27日)

「お言葉を返すようですが,司教閣下 “your Excellency” ,先週のエレイソン・コメンツ(第214回)でなされたように,聖ピオ十世会がカトリック教会主流派から締め出されている状態に終止符を打とうとだけ求めているローマ教皇庁代表の誠意,善意をあなたが問題視されるのはなぜなのでしょうか? あなたは彼らをトロイの木馬を使って意図的にトロイ人を欺(あざむ)いたギリシア人たちに比べられました.しかしローマ教皇庁の代表者たちが望んでいるのはただ長年にわたるカトリック教会内の伝統派と教会権威派の痛ましい分裂状態を打開・克服したい “to overcome the long and hurtful division between Catholics of Tradition and Church Authority” ということだけなのです!」

お答えしましょう.ローマ教皇庁の人たちの誠意,善意を疑う必要などまったくありません.事実は彼らに問題があるだけなのです! プロテスタント主義 “Protestantism” やリベラリズム(自由主義) “liberalism” が興(おこ)ってほぼ500年,私たちの時代はまったく混乱し道理が通らなくなってしまったため,今では(訳注・単に悪人の蔓延〈まんえん〉にとどまらず)正しいことをしていると確信しながら悪事をはたらいている人間までもが世界中に満ちあふれています.こういう人たちは自分が正しいことをしていると確信すればするほど,その及ぼす危険度が強まる可能性があります.なぜなら,彼らは主観的な誠意,善意の力で客観的な悪事に突き進み,他の人たちを道連れにするからです.ローマ教皇庁の人たちが自分たちの「新しい教会」 “Newchurch” の正当性を確信すればするほど,彼らは真のカトリック教会をより効果的に破壊することになるでしょう.

「ですが,司教閣下,彼らの真意を判断されるのは神のみです!」

信仰を守る点については,主観的な意図は相対的にみてさほど重要なことではありません.仮に,ローマ教皇庁の人たちが聖ピオ十世会をカトリック教会主流派に引っ張りこもうと善意で行動するのなら,私は個人的に彼らに好意を持つでしょうが,彼らが犯す間違い(=過〈あやま〉ち)は憎み(=嫌悪し)ます.彼らが真の信仰を壊そうと自ら知りつつ悪意で行動するなら,私は彼らが好きになれませんし,同時に彼らの犯す間違いをことごとく憎みます.彼らの感じが良いかどうか,私が彼らを好きになれるかどうかは,彼らが客観的に教会を破壊する間違いに比べればたいした問題ではありません.

好感のもてる人たちが恐ろしく間違ったことを説く場合,容易に言えることは二つあります.ひとつは,その間違いはそれを説く人みたいに好感が持てると感じることです.その場合,彼らは私たちの心をリベラリズムへ向けさせるでしょう.もうひとつは,彼らは自らが説く間違い同様に恐ろしい連中だと感じることです.この場合,第二バチカン公会議後の教皇たちは私たちを教皇空位主義 “sedevacantism” へと向かわせるでしょう.だが,人類の歴史を通じて,好感のもてる人たちが同時に恐ろしい間違いをするということが今(訳注・私たちが見ている現実) “the reality today” ほど容易に起きたことは過去にありませんでした.それが私たちの時代の実態です.この事態は「反キリスト者」 “the Antichrist” (訳注後記)の下でのみ一段と悪化する可能性がありますが,その先人たちがすでに世界を破滅に推し進めています.

ところで,9月14日に聖ピオ十世会代表団と会う予定のローマ教皇庁代表団は第二バチカン公会議が作り直した「新しい教会」の正当性を確信しているに違いありません.その場合,彼らは大きく間違っています “they are in grave error” .だが,ローマ教皇庁は代表団の編成にあたり,聖ピオ十世会をローマ教皇庁へ引き寄せるのに役立てようと個性的に魅力のある人たちを選ぶかもしれません.そこで親愛なる読者の皆さん,会談で聖ピオ十世会がローマの寛大かつ善意ある申し出をきっぱりと拒絶したように見える結果になったとしても驚かないでください.実態はそういうことではないでしょう.聖ピオ十世会が冷たくはねのけて拒むのはすべての恐ろしい間違いだけです.真のローマ教皇庁万歳!( “Long live true Rome ! ” )最愛なるローマ教皇庁の人々万歳!( “Long live sweet Romans ! ” )だが,彼らの間違いがなくならんことを!( “But perish their errors ! ” )

「司教閣下,彼らの本質的な間違いとは何でしょうか?」

人間を神の場に置いていることです.( “Putting man in the place of God.” )彼らは背教行為に落ち込み “sliding into apostasy” ,無数の人々の霊魂を道連れにしようとしています.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第5パラグラフの最後の文章の訳注:
「反キリスト者」 “the Antichrist” の意味について.

単に「“キリスト”に敵対する」という意味だけでなく,「真理」,「真の正義」,「自然法」,「道徳」などの源である「真の神」に敵対する者という意味を含む.

「反キリスト者の行動」… 実生活上の具体例を挙げれば,
・「善人をその善業ゆえにねたみ,憎み,迫害し,排斥し,孤立させるために権力を振るう」こと.
・「弱者を嘲(あざけ)り,その心を傷つけ,生活の場から抹殺しようとし,また抹殺する」こと.
・「自分の利得」のために,公共の善(=神の所有物)を公然と踏みつけにすること.(例えば,社会的弱者への配慮を踏みにじる〈障碍(がい)者や病者のため携帯電話等の電源を切るよう配慮すべき場所で公然と電子通信機器を使用する等〉弱者無視の行為.)

このような利己的な行為を続ければ,それをする者自身の霊魂に自ら深い傷をつけ,心身の健康は悪業により徐々に蝕(むしば)まれ,最終的には自分の内外のあらゆる平和を失い,人生の破滅にまで至ることになる.
命と愛そのものであられるキリストを持たなければ,人は心安らかに,優しい気持ちで生きることはできない.
→『私(キリスト)は道であり,真理であり,命である.私によらずにはだれ一人父(神)のみもとには行けない.私を知れば私の父も知るだろう.…』(ヨハネ聖福音書14章6-7節)

「(社会的)弱者」は「神の光」を人に知らせるために存在している(神の光・命・愛の宣教者である).
すなわち神が弱者をそこに置いており,人々に互いに愛し合うことを学ぶ機会を与えておられるのである.
弱者の中に灯(とも)る光は神の命である.
人間は自分が助けた弱者から感謝を受けようと期待するどころではなく,むしろ共に「重荷・犠牲・苦難・悲哀」を担い合うことを通じて「慈悲・喜び・慰め・平和など」を分かち合える愛徳の機会を与えられたことについて神に感謝をささげるべきである.この「慈愛」がなければ,人間の霊魂は滅びるからである.
弱者に与えた損害を償わなかったり,弱者から搾取(さくしゅ)することは悪魔の仕業に等しい.
神はそれを見逃されず,必ず弱者を助けられ,悪人の悪業を決してお忘れにならず,必ず報復される.

反キリスト者が憎み,敵対しているのは,紛れもなく「天の御父なる神御自身の命」である.なぜなら「永遠の命たる神は御子キリストにより,肉体をとって(人の子として)この世に生まれて来られ,この世で一度死に渡されてもその御体は復活し,今もなお永遠に生きておられる」からである.
反キリスト者は,はかない人間に過ぎない自分だけを崇(あが)め,人間の天の御父であられる永遠の命たる真の神を憎み,そのみ子をも否定し,神から生まれたすべての命をも憎む.
反キリスト者が人間同士で連(つる)むのは,自分の利得のためだけである.

* * *

聖書からの引用:
新約聖書・ヨハネの第一の手紙:第2章15節から

第2章(15節-)

世の危険(2・12-17)
『…世と世にあるものを愛するな.世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない.世にあるもの,すなわち肉の欲,目の欲,生活のおごりなどはすべて御父から出るのではなく世から出る.世と世の欲は過ぎ去るが,神のみ旨を行う者は永遠にとどまる.

反キリスト(2・18-29)
小さな子らよ,*¹最後の時である.あなたたちは反キリストが来ると聞いていたが,今や多くの反キリストが現れたこれによって私たちは最後の時が来たことを知る
彼らは私たちの間から出たけれども,*³私たちに属する者ではなかった.私たちに属する者であったなら私たちとともに残ったであろう.しかし,彼らが出ていったのは,みな私たちに属していない人々であることを示すためであった.

あなたたちは*⁴聖なるお方の注油を受けて,みな知識をもっている.
私があなたたちに書き送ったのは,あなたたちが真理を知らないからではなく,真理を知り,真理からはどんな偽りも出ないことを知っているからである.

*⁵偽り者は誰か.イエズスがキリストであることを否定する者ではないか.御父とみ子を否む者,それこそ反キリストである.*⁶み子を否む者は御父をもたず,み子を宣言する者は父をももっている

あなたたちは,初めから聞いたことにとどまれ.初めから聞いたことにとどまるなら,あなたたちは御父とみ子の中にとどまる.*⁷そして主自身が私たちに約束されたことは,すなわち永遠の命である

私はあなたたちを惑わす人々についてこう書いた.*⁸あなたたちには主から受けた注油が残るのであるから,だれにも教えを受ける必要がない。その注油はあなたたちにすべてを教えるもので,偽りのない真実のものである.それが教えるとおりあなたたちは主にとどまれ.
*⁹だから小さな子らよ,主にとどまれ.そうすれば,み子の現れの時,信頼を失わず,その来臨の時,主から離れる恥を味わわないであろう.主が正しいと知っているなら,正義を行う者はみな主から生まれるのだと知るであろう.

(注釈)

*¹ イエズスの誕生から審判までの期間(〈新約〉ガラツィア4・4,エフェゾ1・10,〈旧約〉ミカヤ4・1)

異端者と棄教者

公に教会を離れる前に,異端者は信仰と恩寵の上でもはや教会に属していない者である

*⁴洗礼または堅振(信)の秘跡の暗示がある

*⁵イエズスが神の子であり,救世主であることは,キリスト教の基礎的な信仰告白であって,これを否定するのは御父を否定するのと同じである

*⁶ ヨハネ聖福音書1・18,5・23,10・30参照.

*⁷ ヨハネ聖福音書5・24,6・40,17・2参照.

*⁸ 信仰の教えを受けたからには,異端の教えに従うなと注意する

*⁹ テサロニケ人への手紙(第二)1・9,マテオ聖福音書24・3,コリント人への手紙(第一)15・23参照.

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第3章

神の子ら(3・1-24)
考えよ,神の子と称されるほど,御父から計りがたい愛を受けたことを.*¹私たちは神の子である

この世があなたたちを認めないのは御父を認めないからである.
愛する者たちよ,*²私たちはいま神の子である.後にどうなるかはまだ示されていないが,*³それが示されるとき,私たちは神に似た者になることを知っている.私たちは,*⁴神をそのまま見るであろうから.
主が清いお方であるように,主に対するこの希望をもつ者は清くなる
罪を犯す者はそれによって法に背く.罪は*⁵法に背くことである.
あなたたちの知っているとおり,イエズスが現れたのは*⁶罪を除くためであり,イエズス自身には罪はない.*⁷主にとどまる者は罪を犯さない
罪を犯す者はまだ主を見ず主を知らないのである.

小さな子らよ,人に惑わされるな.主が正義のお方であるように,正義を行う者は義人である.罪を犯す者は悪魔に属する.悪魔は初めから罪を犯しているからである.
神の子が現れたのは悪魔の業を破るためである.神から生まれた者は罪を犯さない.*⁸神の種がその人のうちにとどまり,その人は神から生まれた者であるから罪を犯すことができないのである.
これによって,神の子と悪魔の子を区別することが出来る.正義を行わぬ人は,兄弟を愛さぬ人と同様に神からの者ではない.

あなたたちが初めから聞いた便りは愛し合うことである.悪魔に属していたから自分の兄弟を殺したカインには倣(なら)うな.*⁹なぜ殺したかと言うと,自分の行いが悪くて兄弟の行いが正しかったからである
*¹⁰兄弟たちよ,世があなたたちを憎んでも驚くな.*¹¹私たちが死から命に移ったのは,兄弟を愛するからであって,愛さない人は死の中にとどまっていることを私たちは知っている.
*¹²兄弟を憎む者は人殺しであって,人殺しはその中に永遠の命をとどめていないことをあなたたちは知っている.

主が私たちのために命をささげられたことによって,私たちは愛を知った.私たちもまた,兄弟のために命をささげねばならぬ.*¹³世の宝を持ちながら兄弟の乏しさをみてあわれみの心を閉じる人の中に,どうして神の愛が住もうか.
子らよ,ことばと口先だけではなく,行いと真実をもって愛そう.それによって私たちは,自分が真理についていることを知り,神のみ前に安んじられる.自分の心にとがめを感じるにしても,神は私たちの*¹⁴心よりも大きく,すべてのことを知りたもう
愛する者よ,もし心にとがめるところがなければ,私たちは神に信頼をもつことができる.また神のおきてを守って,神に嘉(よみ)されることを行っているからこそ,私たちは求めることをすべて*¹⁵神から受ける.そのおきてとは,神の子イエズス・キリストの*¹⁶み名を信じ,神がおきてを定められたように互いに愛すること,これである
そのおきてを守る人は神にとどまり,神も彼にとどまられる.私たちは神が中にとどまりたもうことを,与えられた霊によって知る

(注釈)

*¹ ヨハネ聖福音書1・12,17・22参照.

*² ヨハネ聖福音書3・26参照.

*³ 「彼が現れる時」という訳もある.彼とはキリストのこと.

*⁴ 自然にはありえない神の直観(4・12,ヨハネ聖福音書1・18).

*⁵ 神への敵対行為をいう

*⁶ ヨハネ聖福音書1・29参照.

*⁷ キリスト信者は絶対に罪を犯さないのではない(1・8-10,2・10).しかし「神にあればあるほど,罪はなくなる」(アウグスティヌス).
*⁸ 成聖の恩寵(ヨハネ聖福音書4・14).

*⁹ アベル(カインの弟)は義人のかたどりである(マテオ聖福音書23・35,ヘブライ人への手紙11・4).
すでにそのころから,悪人は善人の徳によってとがめられることを忍ばず,ねたみのために善人の迫害者となった(〈旧約〉創世の書4・5).

*¹⁰ ヨハネ15・18-21,マテオ聖福音書24・9参照.

*¹¹ ヨハネ聖福音書5・24参照.

*¹² ヘブライ人への手紙6・1参照.

*¹³ ヤコボの手紙2・16,〈旧約〉第二法の書15・7,〈新約〉ルカ聖福音書10・30-37)参照.

*¹⁴ 良心(ヨハネ聖福音書21・5,17).
ヨハネはここに,いま信仰生活をよく営んでいるが,過去の罪に心がとがめられている信者について語っている

*¹⁵ ヨハネ聖福音書15・7-16参照.

*¹⁶ み名の威光.

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第4章

偽預言者(4・1-6)
『愛する者よ,無差別に*¹霊を信じるな.霊が神から出ているかどうかを試せ.多くの偽預言者が世に出たからである.
*²次のことによって神の霊を認めよ.すなわち,イエズスが肉体をとって下られたキリストであることを宣言する霊はみな神からである.またこのイエズスを宣言しない霊はみな神から出たものではなく,来るだろうと聞いている反キリストの霊である.それはもう世に来ている

小さな子らよ,あなたたちは神から出た者であって,もはや彼らに打ち勝った.あなたたちに*³ましますのは,この世にいる者より偉大なお方である
*⁴彼らは世の者であるから世について語り,世は彼らの言うことを聞く.
しかし私たちは神からの者である.神を知る者は私たちのことばを聞き,神からでない者は聞かない.これによって真理の霊と誤謬(ごびゅう)の霊が区別される

(4.7-21)
愛する者よ,互いに愛せよ.愛は神よりのものである.愛する者は神から生まれ,神を知るが,愛のない者は神を知らない.神は愛だからである.
*⁵私たちに対する神の愛はここに現れた.すなわち,神はその御独り子を世に遣わされた.それは私たちをみ子によって生かすためである.私たちが神を愛したのではなく,神が(*⁶先に)私たちを愛し,み子を私たちの罪のあがないのために遣わされたこと,ここに愛がある.
*⁷愛する者よ,神がこれほどに愛されたのなら,私たちもまた互いに愛さねばならない.*⁸だれも神を見た者はいないが,私たちが互いに愛するなら,神は私たちの中に住まわれ,その愛も私たちの中に完成される.私たちが神にとどまり神が私たちにとどまられることは,神がご自分の霊に私たちをあずからせたもうたことによって分かる

*⁹私たちは御父がみ子を救世主として送られたことを見て,これを証明する.イエズスが神のみ子であると宣言する者には,神がその中にとどまられ,彼は神にとどまる.私たちは神の愛を知り,それを信じた.神は愛である.*¹⁰愛をもつ者は神にとどまり,神は彼にとどまられる

愛が私たちの内に完成されるのは,審判の日に私たちに信頼をもたせるためである.私たちは地上において,*¹¹主と同じ者だからである.
愛には恐れがない.*¹²完全な愛は恐れを取り除く.恐れは罰を予想するからである.恐れる者は完全な愛をもつ者ではない.
私たちが愛するのは,神が先に私たちを愛したもうたからである.「私は神を愛する」と言いながら兄弟を憎む者は偽り者である.目で見ている兄弟を愛さない者には,見えない神を愛することができない.神を愛する者は自分の兄弟も愛せよ.これは私たちが神から受けたおきてである

(注釈)

*¹ 教えの超自然的霊感をいう(コリント人への手紙〈第一〉12・1以下).

*² 2―3節 キリストの神性あるいは人性を否定する異端説がもう出ていた.

*³ ヨハネ聖福音書16・33.時にはそう見えないにしても,キリストはサタン(悪魔)に勝(まさ)る.そのためにいつもキリストの超自然的な力に信頼を置かねばならない

*⁴ヨハネ聖福音書15・19参照.

*⁵ 福音は神の愛の啓示である.「託身,救い,恩寵の奥義」は,人間への神の愛の奥義である

*⁶ 後の書き入れらしい.しかしヨハネの思想をよく表している(19節参照→「私たちが愛するのは,神が先に私たちを愛したもうたからである.」).

*⁷ 神の愛される者に対しては神の愛にならって行わねばならぬ

*⁸ 1・3,ヨハネ聖福音書1・18,6・46,〈旧約〉脱出の書33・20参照.

*⁹ 使徒らのこと(ヨハネ聖福音書1・14).

*¹⁰ 恩寵にとどまることは,愛という基礎的なおきてをどのように実行するかにある

*¹¹ 人間は神の養子とされれば,御父とみ子の愛を受け,それをこの世に現すことができる

*¹² ペトロの手紙〈第一〉1・17,テサロニケ人への手紙〈第二〉3・7,ローマ人への手紙8・15,ティモテオへの手紙〈第二〉1・7,ヤコボの手紙2・13参照.

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第5章

イエズス・キリストへの信仰(5・1-15)
イエズスがキリストであることを信じる者は,神から生まれた者である.生んだお方を愛する人々は,また神から生まれた者をも愛する
*²神を愛してそのおきてを行えば,それによって私たちが神の子らを愛していることがわかる.神への愛は*³そのおきてを守ることにあるが,そのおきてはむずかしいものではない.神から生まれた者は世に勝つ。世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である.イエズスが神の子であると信じる者のほかにだれが世に勝てるであろうか.

*⁴水と血によって来られたのはイエズス・キリストである。ただ水だけではなく,水と血によってである.それを証明するのは霊である.霊は真理だからである.実に証明するものは三つある.(*⁵天においては御父とみことばと聖霊であり,この三つは一致する.地において証明するのは三つ),霊と水と血である.この三つは*⁶一致する

私たちが人間の証明を受け入れるなら,神の証明はそれにまさっている.
神の証明とはそのみ子についてのことである
.「(10節)神の子を信じる者は,自分の内に神の証明をもち,神を信じない者は神を偽り者とする.神がそのみ子についてされた証明を信じないからである.」

その証明とは神が私たちに永遠の命を与えられたこと,その命がみ子にあることである.み子をもつ者は命を有し,み子をもたぬ者は命をもたぬ

*⁷私が以上のことを神の子の名を信じるあなたたちに書いたのは,あなたたちに永遠の命があることを知らせるためであった
*⁸私たちはみ旨に従って願うことを神が必ず聞き入れたもうと確信している.そして,神がすべての願いを聞き入れたもうことを知るなら,また願ったことが受け入れられることもわかる

罪の種類(5・16-17)
自分の兄弟が死に至らぬ罪を犯しているのを見たなら,彼のために祈れ.そうすれば命が帰るだろう.これは死に至らぬ罪を犯す人々のために言ったことである.*⁹死に至る罪がある.私はこれについて祈れとは言わぬ.すべての不義は罪である.しかし死に至らぬ罪がある.

悪魔に対して(5・18-21)
神から生まれた人はすべて罪を犯さないと私たちは知っている.*¹⁰神から生まれたお方がその人を守られるから,*¹¹悪者はその人に触れることができない.
私たちが神から出た者であり,*¹²世がすべて悪者の配下にあることも私たちは知っている.*¹³また神のみ子がすでに来られ,真実のお方を知るための知恵を私たちに授けられたことも知っている.私たちはそのみ子イエズス・キリストによって真実のお方のうちにいる.それは真実の神であって,永遠の命である.小さな子らよ,*¹⁴偶像を警戒せよ.

(注釈)

*¹ 神の子ら.

神への愛は,隣人愛を伴うはずである

キリスト教徒の試金石は,おきてへの忠実である.(ヨハネ聖福音書14・15,15・10).

*⁴ 洗礼と十字架上の死去

*⁵ このことばは後世の写本にだけある.

*⁶ 「一致する」とは,水と血と霊の三つが証明において一致するという意味である.神秘家であり神学者であるヨハネの思想である.
ヨハネはカルワリオ山でキリストの脇腹から水と血が流れ出るのを見た.そして水と血には,聖霊に導かれる教会において,洗礼の水と聖体の血が行うであろう清めのかたどりがある

(他の解釈として)聖霊,イエズスの洗礼と死は,イエズスがまことの人間であったことを証明する.また,そのとき神が現されたしるし(10節)は,イエズスがまことの神であることを証明する

*⁷ ヨハネ聖福音書1・12,20・31参照.

*⁸ 3・22,マテオ聖福音書7・7,ヨハネ聖福音書3・22,14・13以下参照.

*⁹ イエズスへの信仰を捨てる罪(ヨハネ聖福音書15・6).この罪は神のゆるしを妨げるものであるから,ゆるしがたい

*¹⁰ イエズス・キリスト.

*¹¹ 悪魔のこと.

*¹² ルカ聖福音書4・6参照.

*¹³ 〈旧約〉エレミア24・7,ヨハネ1・2-3,17-3参照.

*¹⁴ 人を「まことの信仰と神への愛」から遠ざけるすべてのものを,偶像と言っているらしい

* * *