2011年6月29日水曜日

弁護士の選任

エレイソン・コメンツ 第206回 (2011年6月25日)

「エレイソン・コメンツ」ではふつう個人的な問題には触れないことにしています.だが,筆者のドイツでの控訴審(7月4日)を前にある誤った事実が流布(るふ)していることが分かり,不要な心配を取り除くため実情を明確にする必要が生じました.その誤った事実とは,ドイツ国の私に対する「人種的扇動(せんどう)」の告発で,私が近年のドイツ史上最も論議を呼ぶ出来事について実際に起きた事実,誤った事実に基づいて抗弁(こうべん)したいと願っている,というものです.

実のところ,私が2008年11月,スウェーデン人ジャーナリストたちを前に「人種的扇動」について行った発言によりドイツで告発されるかもしれないと知った瞬間から,私はもしドイツの法廷で同じ発言を繰り返せば直ちに刑務所行きになる危険を冒すことになると知っていました.それがドイツの法律,法廷の現状です.だが,私はできることなら刑務所行きは免(まぬか)れたいと願っています.

そのため,私は当初から私の発言がドイツの視聴者向けになされたものでないことは明白であり,従ってドイツの法律は私の場合に適用されないという論拠に基づいて抗弁するようとの忠告に留意してきました.この点まではユーチューブに出て有名になったビデオクリップ(録画ビデオの一部)の終了直前の映像を見れば明らかです.映像は私のスウェーデンでのインタビューの最後の数分間を再現したものです.その上,私は発言の直後に,カメラなしでしたが,私を取材したスウェーデン人記者の所に行きインタビューの最後の部分を使用する際には「個別に」扱うよう強く求めました.この点は,もし彼らスウェーデン人記者たちが法廷で証言することになれば認めざるを得ないことなのですが,ドイツまで出向くよう強制できないため,彼らは証言することを拒んでいます.

私が弁護士を4度変えたことについては,聖ピオ十世会総長は初め,同会の弁護士であるマキシミリアン・クラー氏( Maximilian Krah )に弁護を依頼したのですが,同氏は個人的理由で反カトリック政党「緑の党」の党員であるマティアス・ロスマン氏を本件に携(たずさ)わるよう選任しました.彼はこつこつと努める良心的な人でしたが,この件にあまり乗り気ではありませんでした.私は友人たちを通じ,この種のデリケート(=微妙)な案件の扱いに熱心で高い実績のある弁護士ヴォルフラム・ナーラト氏(ウォルフラム・ナーラス(英語))を見つけましたが,ロスマン氏は彼と一緒に弁護を引き受けるのを嫌いました.私はロスマン氏の駆け引きの手法についてナーラト氏の政治的見解についてほどよく知りませんでしたし,苦境に置かれた自分にとって最良の弁護士が望ましいと考え,ロスマン氏からナーラト氏に替えました.

しかし,聖ピオ十世会総長が部下からナーラト氏の「弱点」を聞かされ,私に再度ほかの弁護士を探すよう命じました.総長にしてみれば,聖ピオ十世会と「極右派人物」の関係が公(おおやけ)になるのは同会にとって不利益になりかねないとの善意からの配慮でした.総長は新しいミサ典礼様式によるカトリック教(訳注・原文 “Novus Ordo Catholic”.第二バチカン公会議に則った典礼様式. )の保守派の長老ノルベルト・ヴィンゲルテル博士(ノーバート・ウィンガーター(英語))なら良いだろうと認めました.だが,現在流布している誤った事実はヴィンゲルテル博士から出てきた可能性があるようです.私にはどうしてそうなったのか分かりませんが,ヴィンゲルテル博士は私が法廷に出廷しドイツ史の中の例の出来事について真実,誤りを明らかにしたいと望んでいるとの誤った印象を持ったようです.幸い聖ピオ十世会総長はさらに別の弁護士の選任を認めてくれました.この弁護士は私が望む弁護のやり方について誤解していません.

親愛なる読者のみなさん,もしあなた方が(この裁判で)神の利益が危機に瀕(ひん)しているとお考えになるなら(誰しもがそう思うわけではないでしょうが),今から7月4日までのあいだどうか私の最新の弁護士のために神にお祈りください.彼は本件の解決に向けて懸命に取り組んでいますが,諸々のすさまじい反カトリック利権とその強力な奉仕者(=味方)たち,とりわけマスコミからの猛烈な重圧にさらされるかもしれません.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


神の御意思(お許し)のもと試練の最中(さなか)に置かれている
ウィリアムソン司教さまの心の平和を願い,
また,この度の裁判で司教さまの弁護を引き受けて下さった方の上に
神の御加護を願って,
「聖母マリアへのロザリオ・9日間〈ノベナ〉の祈り」とその意向(聖書の個所)を
追記します.

祈りの内容

・ロザリオの元后(聖母マリア)への54日間のロザリオ・ノベナの祈り
The Holy Rosary Novena Prayer to Our Lady
(Miraculous 54 days Holy Rosary Novena Prayer to the Queen of the Holy Rosary)

構成

①「願い」をこめて,ノベナ〈9日間の祈り〉を3回くりかえして(計27日間)祈る.

②その後「感謝」をこめて,再びノベナを3回くりかえして(計27日間)祈る.

両方合わせて54日間,ロザリオ15連(3玄義〈喜び・苦しみ・栄え〉各5連)を毎日一連ずつ祈る.)

* この祈りについての詳しい解説も付けて記載します.

参照文献

「聖母マリアへのロザリオ9日間の祈り」
チャールズ・V・ラッキー(著)/ 聖母の騎士社(発行)

* * *

祈りの意向:

 新約聖書・マテオによる聖福音書:第8章13節
The Gospel according to Saint Matthew 8, 13.
And Jesus said to the centurion:
Go, and as thou hast believed, so be it done to thee”.

 同・ヨハネによる聖福音書:第14章27節
The Gospel according to Saint John 14, 27.
Peace I leave with you, my peace I give unto you:
not as the world giveth, do I give unto you.
Let not your heart be troubled, nor let it be afraid”.
(By Jesus Christ)

 同・聖パウロによるコロサイ人への手紙:第2章1-10節
The Epistle of Saint Paul to the Colossians 2, 1-10.
As therefore you have received Jesus Christ the Lord, walk ye in him;
Rooted and built up in him, and confirmed in the faith, as also you have learned, abounding in him in thanksgiving.“

 同:第3章12-17節
ibid., 3, 12-17.
“Put ye on therefore, as the elect of God, holy, and beloved,
the bowels of mercy, benignity, humility, modesty, patience:
Bearing with one another, and forgiving one another, if any have a complaint against another:
even as the Lord hath forgiven you, so do you also.
But above all these things have charity, which is the bond of perfection:
And let the peace of Christ rejoice in your hearts, wherein also you are called in one body:
and be ye thankful.
Let the word of Christ dwell in you abundantly, in all wisdom
:
teaching and admonishing one another in psalms, hymns, and spiritual canticles,
singing in grace in your hearts to God.
All whatsoever you do in word or in work, do all in the name of the Lord Jesus Christ,
giving thanks to God and the Father by him”.

* * *

✾ 神に向かう真剣な祈りは奇跡を生みだします.✾

あなたたちの中に苦しんでいる人がいるなら,その人は祈れ
喜んでいる人がいるなら,その人は賛美を歌え.
病気の人がいるなら,その人は教会の長老たちを呼べ.
*¹彼らは主のみ名によって*²油をぬってから祈りをとなえる.
*³そして信仰による祈りは病気の人を救う.
主は彼を立たせ,もし罪を犯しているなら,それをゆるされるであろう.

互いに罪を告白し,治されるために互いに祈れ.
*⁴義人の熱心な祈りがあれば効果がある
*⁵エリア(旧約の大預言者)は私たちと同じ人間であったが,雨が降らないように祈ったので,三年六か月の間地上に雨が降らなかった.そしてまた祈ったので,天は雨を与え地にはその実がみのった.

兄弟たちよ,あなたたちの中に真理から迷った者がいて,ある人がそれを連れもどしたとしよう.
一人の人を迷いの道から連れもどす人は,自分の霊魂を死から救い,多くの罪を消すことを知れ
.』

(新約聖書・ヤコボの手紙:第5章13-20節)

(注釈)

油をぬること(5・13-20)
*¹ キリストの命令と権威によって.

*² 終油の秘跡(マルコ聖福音6・13).

ヤコボはイエズスがどんなに病人をいたわられたかを知っている(マテオ聖福音8・5-13,ルカ聖福音7・1-10,ヨハネ聖福音4・43-54).

*⁴ 〈旧約〉創世の書22・23,詩篇144・18-19,格言の書15・29.ブルガタ(ラテン語)では「絶えざる祈り」.

*⁵ 〈旧約〉サムエル(上)17-18章,シラ48・1-3参照.


* * *

祈りの意向(聖書からの引用箇所)

①新約聖書・マテオによる聖福音書:第8章13節(太字下線部分)
The Gospel according to Saint Matthew 8, 13.

『イエズスがカファルナウムに入られると,一人の百夫長が来て,「主よ,私の下男が家で寝ています.中風でたいへん苦しんでいます」と言った.イエズスは「私が行って治そう」と言われた.
百夫長は,「主よ,私はあなたを私の屋根の下に迎える値打のない人間です.あなたがただ一言おっしゃってくだされば私の下男は治ります
私自身も権威の下についていますが,私の下にも兵卒がいます.そして,こちらの者に〈行け〉と言えば行き,あちらの者に〈来い〉と言えば来ます.また下男に〈これをしろ〉と言えばそうします」と答えた.
これを聞いて感心されたイエズスは,ついてきた人々に向かって,
「まことに私は言う.イスラエルのだれにも,私はこれほどの信仰を見たことがない
私は言う.多くの人が東西から来て,アブラハム,イサク,ヤコブとともに天の国の宴席に入るが,国の子らは外のやみに投げ出され,そこで泣いて歯ぎしりするだろう」と言われ,百夫長に向かって,「行け.あなたが信じたとおりになるように」と言われた.下男はそのとき病気が治った.』

(注釈)

百夫長の下男(8・5-13)
*¹ 永遠の生命は,よく宴会(えんかい)にたとえられる.

*² 「国の子」とはユダヤ人である.彼らは天の国に対して,異邦人よりも権利をもっていた.しかしキリストを信じないから永遠の宴席から追い出され,百夫長のように信仰あつい異邦人がそれに代わるであろう.

* * *

②新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第14章27節(太字下線部分)
The Gospel according to Saint John 14, 27.

(十字架につけられる前日,最後の晩餐(ばんさん)・洗足(弟子たちの足を洗う)・ユダの裏切り・ペトロの否みの預言の後で,イエズスが弟子たちに話された
みことばの初めの部分)

第14章・全章(1-31節)

弟子らを慰める
『心を騒がせることはない.神を信じそして私(イエズス)をも信じよ.*¹ 私の父の家には住みかが多い,もしそうでなければあなたたちに知らせていただろう.私はあなたたちのために場所を準備しに行く.そして,行って場所を準備したら,あなたたちをともに連れていくために帰ってくる.私のいる所にあなたたちも来させたいからである
私がどこに行くかは,あなたたちがその道を知っている」と言われると,トマが,「主よ,私たちはあなたがどこに行かれるかを知りません.どうしてその道がわかりましょう」と言った.

するとイエズスは言われた,
「*³ 私は道であり,真理であり,命である.私によらずにはだれ一人父のみもとには行けない.私を知れば私の父も知るだろう
だがあなたたちは父を知っている,すでに父を見たのだ」.フィリッポは,「主よ,私たちに父をお見せください.それだけで十分です」と言った.

イエズスは言われた,
「フィリッポ,私はこんなに長くあなたたちとともにいたのに,まだ私を知らないのか.私を見た人は父を見た.それなのに,どうして〈父をお見せください〉と言うのか.*⁴私が父におり,父が私にましますことをあなたは信じないのか.

私が話していることばは,自分で話しているのではなく,私にまします父がそのみ業を行っておられる.
私を信じよ,私は父におり,父は私にまします.せめてそれを私の業によって信じよ
.』

聖霊の約束
『まことにまことに私は言う.
*⁵私を信じる者は,私のするようなことを行うであろう.そればかりか,もっと偉大なことを行うだろう,私は父のもとに行くからである.

あなたたちが私の名によって願い求めることはすべてかなえられ,父が子において光栄を受けたもうように私が計らう.あなたたちが私の名によって何かを願い求めるなら,私が計らおう.

あなたたちは *⁶私を愛するなら私のおきてを守るだろう.そして私は父に願おう.そうすれば,父はほかの弁護者をあなたたちに与え,永遠にともにいさせてくださる.それは真理の霊である

世はそれを見もせず知りもしないので,それを受け入れない.
しかしあなたたちは霊を知っている.霊はあなたたちとともに住んで,あなたたちの中にいますからである.
私はあなたたちを孤児にしてはおかない,ふたたび帰ってくる.
*⁷もう少しすれば,世は私を見なくなる.しかしあなたたちは私を見るだろう.それは私が生き,あなたたちも生きるからである.
*⁸その日には,私が父におり,あなたたちが私におり,私があなたたちにいることを知るだろう.
私のおきてを保ちそれを守る者こそ私を愛する者である.私を愛する者は父にも愛され,私もその人を愛して自分を現す
」.

*⁹イスカリオトでないユダが,「主よ,この世にではなくて私たちに,あなたがご自分を現されるのはなぜでしょうか」と聞くと,イエズスは言われた,
私を愛する者は私のことばを守る.また父もその者を愛される.
そして私たちはその人のところに行ってそこに住む.私を愛さない人は私のことばを守らぬ.
あなたたちが聞いているのは私のことばではなく,私を遣わされた父のみことばである

私はあなたたちとともにいる間にそのことを話した.
だが,弁護者すなわち父が私の名によって送りたもう聖霊は,すべてを教え,あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう.』

弟子たちに平和を残す
私はあなたたちに平和を残し,私の平和を与える.私はこの世が与えるようにしてそれを与えるのではない.心配することはない,恐れることはない
〈私は去ってまた帰ってくる〉と私が言ったのをあなたたちは聞いた.もし私を愛しているなら,私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずである.*¹⁰父は私よりも偉大なお方だからである.私はことが起こるとき信じるようにと,ことが起こる前にこうあなたたちに話しておいた.

*¹¹この世のかしらが来るから,私はもう長くあなたたちと話し合わぬ.
彼は私に対して何もできぬが,私が父を愛しており,父の命令のままに行っていることを,この世は知らねばならぬ.立て,ここを出よう」.』

(第14章の注釈)

弟子らを慰める(14・1-11)
イエズスはその死をもって天の門を開きに行かれる.その後帰って弟子らを天国に導かれるであろう

教会の希望は,このキリストの約束の上に立っている(〈新約〉ティモテオ手紙(第一)4・16以下,コリント手紙(第一)4・5,11・26,16・22,黙示22・17,20,ヨハネ聖福音12・28).

イエズスは,
御父のことを啓示する「道」
であり(11・18,12・45,14・9),
御父が喜ばれる霊の宗教を教える「真理」であり(4・23以下),また,
永遠の命が,み子に宿る御父のことを知るところにあるという意味で,「命」である(17・3).

*⁴イエズスは父との同等を宣言された.み子は御父におられ,御父はみ子においでになることを知るのは信仰である

聖霊の約束(14・12-26)
*⁵ 奇跡をしるしとする救いの使命は,弟子たちに受け継がれる.弟子たちは,キリストが送る聖霊によって特能を受ける(7・39,16・7).

*⁶ イエズスは,神と同様に愛され服従されるお方である.その権威を示された

*⁷ 世間は,一度亡くなられたイエズスを忘れ去ってしまうだろうが,しかし弟子たちは,復活したキリストを霊的に見て,信仰によってそれを見続ける(20・29).

*⁸「その日」はイエズスの復活に続く日々のことをいう.

*⁹ ヤコボの兄弟のユダ(ルカ聖福音6・16,使徒1・13),タダイ(マテオ聖福音10・3,マルコ聖福音3・18)と同じ人.

弟子たちに平和を残す(14・27-31)
*¹⁰ 神として父と平等であるが,人間としてイエズスは父の下にある.

*¹¹ この世のかしらは悪魔である.悪魔はけっしてイエズスの命に手をかけることができない,もしイエズスが自ら死を迎えなかったならば.

* * *

③新約聖書・聖パウロによるコロサイ人への手紙:第2章1-10節(6-7節に太字下線)
The Epistle of Saint Paul to the Colossians 2, 1-10.

④同:第3章12-17節(太字下線部分)
ibid., 3, 12-17.

(2章はじめから最後(4章終わり)まで記載)


第2章

パウロの使命
あなたたちと,ラオディキアにいる人々と,*¹直接私を見たことのない他の人々にも,私がどれほどの戦いをしているかを知ってもらいたい.それは彼らの心が慰められ,愛において結ばれ,完全な知識のすべての富に満たされるためであり,*²神の奥義であるキリストを深く知るためである.知恵と知識のすべての宝はキリストに隠されている

偽の教え
*³私がこう言うのは,うまい話であなたたちをだます者がだれもいないようにするためである.私は体ではあなたたちと離れているが,霊においてともにいて,*⁴あなたたちの秩序あることと,キリストへの信仰の強さを喜んで見ている.
あなたたちは自分が受けたとおりのキリスト,主イエズスにおいて歩まねばならない
主に根ざし,主の上に建ち,また,自分に教えられたとおりの信仰を固め,あふれるばかりに感謝せよ

キリストの救い
キリストの上に基づかず,人の言い伝えと*⁵世の要素に基づく*⁵むなしい惑わしにすぎない哲学によって,あなたたちを餌食にしようとする人々を警戒せよ.
キリストにおいては,神性の満ち満ちたものがすべて体の形をとって宿っている
あなたたちは*⁶権勢と能力のかしらであるキリストにおいて満たされた
また,あなたたちは肉の体を脱することによって,キリストにおいて,人の手によらぬ割礼を受けた.それは*⁷キリストの割礼である.
あなたたちは,*⁸洗礼の時キリストとともに葬られ,洗礼の時キリストを死者の中からよみがえらせた神の力への信仰によってまたキリストとともによみがえった
罪のために,また肉の割礼がないために死んでいたのに,神はあなたたちのすべての罪をゆるし,キリスとともに生かされた.
私たちを責め,私たちに反していた*⁹戒めの書を神は消し,それを取り去って十字架につけ,*¹⁰権勢と能力をはいで公にさらしものにし,キリストの勝利の捕虜として引き連れられた.

偽りの神秘主義
だから,*¹¹飲み物,食べ物,祝い,初日,安息日について,だれからも非難されるな.これらはいつか来るはずのものの影にすぎず,その本体はキリストである.謙遜を装い,*¹²天使たちを崇拝する者に自分の報いを奪われるな.彼らは自分たちの見る幻に迷い,肉の考えに従ってむなしくおごる.*¹³体全体は神における成長を実現するために,かしらから節々と筋を通じて,栄養と統一を受けるのであるが,彼らはそのかしらについていない.
あなたたちがキリストとともに*¹⁴世の要素に死んだのなら,なぜまだ世にいるかのように*¹⁴戒めに身をゆだねるのか.「食べるな,味わうな,触れるな」.それらのことはみな,使うに従ってなくなるものであって,人間の教え命じる事柄である.それらは自発的な崇敬と謙遜と体に対する厳しさを表す知恵あるもののように見えるが,実は肉の欲に対しては何の役にも立たない.

(第2章の注釈)

パウロの使命(1・24-2・3)
*¹ パウロはラオディキアとコロサイにまだ行かなかった.

*² 「キリストにおいて神の」「キリストの父なる神の」「父なる神およびキリストの」とある古写本もある.

偽の教え(2・4-7)
*³ 8節以下に話す事柄をここで準備する.

*⁴ 聞く人を喜ばせることば.後で苦言を呈さねばならないので.

キリストの救い(2・8-15)
*⁵ ガラツィア4・8,5・1参照.

*⁵ ユダヤ人の偽教師のギリシア哲学を借りた教え.

*⁶ 権天使,能天使.

*⁷ 洗礼のこと.

*⁸ 洗礼の時に水に浸すのは,罪に死ぬことのかたどりである.

*⁹ 神は人間への死の判決をみ子(キリスト)によって取り消された.

*¹⁰ 悪霊のこと(〈新約〉エフェゾ手紙6・12).

偽りの神秘主義(2・16-23)
*¹¹ ユダヤ教からのキリスト信者が問題にしていたモーゼの規定のこと.これはキリストによって廃せられた.

*¹² ユダヤの偽教師の教えを暗示する.

*¹³ 神秘体のかしらキリストのこと.

*¹⁴ 宗教的な教えの初歩であるモーゼの律法のこと.

*¹⁴ 律法の戒め.

* * *

第3章

あなたたちがキリストとともによみがえったのなら,上のことを求めよ.キリストはそこで,神の右に座したもう.
地上のことではなく上のことを慕え.あなたたちは死んだ者であって,その命はキリストとともに神の中に隠されているからである.私たちの命であるキリストが現れる時,あなたたちも光栄のうちにキリストとともに現れるであろう.

肉の肢体を抑えよ.淫行,汚れ,情欲,邪欲,偶像崇拝である肉欲,これらが神の怒りを呼ぶ.その中に暮らしていたときには,あなたたちもそのように行っていた.
しかし今はすべてこれらのこと,怒り,憤り,悪意,そしり,みだらな話を口から捨てよ.互いにうそを言うな.
あなたたちは古い人間とその行いを脱ぎ,新しい人間をまとった.
この新しい人間は,自分を造ったお方の姿に従い,ますます新しくなって深い知識に進む.
そこにはギリシア人とユダヤ人,割礼と無割礼,蛮人とシツィア人,奴隷と自由民の区別はもうなく,キリストがすべてであり,すべてのうちにまします

ゆえに神に選ばれた者であるあなたたちは,聖なる者,愛される者として,深い慈悲,情け,謙遜,柔和,寛容をまとえ.互いに忍び,他人に不平があってもゆるし合え.主がゆるされたように,あなたたちもそうせよ

だが何よりもまず愛をまとえ.愛は完徳のかなめである
心をキリストの平和につかさどらせよ.あなたたちを一つの体に集めたお召しの声がそれである.そして感謝をもて

キリストのみことばをあなたたちの中に豊かに住まわせ,すべての知恵によって教え合い,戒め合い,心の底から,恩寵によって詩の歌と賛美の歌と霊の歌をもって神を寿(ことほ)げ.
あなたたちがことばと行いをもってすることはすべて,キリストによって,父なる神に感謝しつつ,主イエズスのみ名によって行え

妻たちよ,主にふさわしいように自分の夫に従え.夫たちよ,妻を愛せよ,苦々しくあしらうな.
子どもたちよ,すべて両親に従え.それは主に喜ばれることである.
父たちよ,子どもを怒らせるな.彼らを落胆させないためである.

奴隷たちよ,すべてにおいてこの世の主人に服従せよ.
人の気に入ろうとして目の前だけで仕えず,主を恐れる純朴な心をもって仕えよ
ことをするときいつも,人のためではなく,主のためにするように真心から行え
あなたたちは報いとして主から遺産を受けることを知っている.
実にあなたたちは主キリストの奴隷である.
不正を行う者は,その不正の報いを受けるであろう.(神は)人を区別されることがない.

(第3章の注釈)

キリストによる新生活(3・1-17)
*¹ 洗礼によってキリストとともに死んだ.

*² 「あなたたちの命…」とある古写本もある.

*³ 「貧欲」と訳すのもある.

*⁴ 9-10節 ローマ6・6,エフェゾ4・22,24参照.

*⁴ 神にかたどって創られた人間(〈旧約〉創世の書1・26以下)は,神のみ旨以外のところに善悪を求めて滅びに至った
彼らは罪の奴隷となり,死ぬべき「古い人」となった.
「新しい人」,神の姿であるキリストによって,つくり直される.
こうして新しい人は,本来の正しい人間にもどり,真の倫理的認識をもつことができる


*⁵ シツィア人は当時もっとも未開の人であった.

*⁶ キリストの教会では,民族,宗教,文化,社会階級の差が廃される.キリストにおいて全人類の一致が実現する(ガラツィア3・27-28).

*⁷ すべての徳は愛に根ざす

*⁸ キリストの体またはキリストの神秘体

家庭の人たちに(3・18-4・1)
*⁹ この節以下にキリストの愛という見地に立って生きる自然倫理が説かれる(エフェゾ5・22).
*¹⁰ 奴隷について(コリント手紙(第一)7・20-24,エフェゾ手紙5・6以下,ティモテオ手紙(第一)6・1-2,フィレモン手紙).

*¹¹ 労働の超自然的意向.

*¹² 翻訳写本にだけあることば.

* * *

第4章

家庭の人たちに
*¹主人たちよ,あなたたちも天に一人の主があることを知って,正義と公平をもって奴隷たちを扱え.

使徒のために祈る
警戒し,感謝しながら絶えず祈れ.特に私たちのためにも祈れ.
神がキリストの奥義を告げるために,私たちに宣教の門を開かれるように.私はそのために鎖につながれている.
私が話さねばならぬことばでキリストを宣言できるように祈れ

今の時をよく利用し,*²外の人に対して賢明にふるまえ.ことばはいつも愛想よく,*³塩で味つけられているようにせよ.そうすればあなたたちには,一人一人にどう答えねばならぬかが分かるだろう.

ティキコを遣わす
主において愛する兄弟であり,忠実な奉仕者であり,私とともに奴隷である*⁴ティキコが,私のことをすべてあなたたちに知らせるであろう.私がこの人をあなたたちの下に送るのは,私たちのことを知らせ,またあなたたちの心を慰めるためである.あなたたちの同郷人である忠実な愛する兄弟*⁵オネジモも彼とともに送る.二人はこちらのことをつぶさに知らせるであろう.

あいさつ
捕らわれの私の仲間である*⁶アリスタルコと,バルナバの従兄弟(いとこ)の*⁷マルコが,あなたたちにあいさつを送る.
このマルコについてあなたたちはすでに指図を受けているのであるから,彼があなたたちの所に来るときには喜び迎えよ.
*⁸ユストといわれるイエズスからもよろしく.彼らは割礼者であるが,私とともに神の国のために働いた.
私の慰めとなっているのはこの三人だけである

あなたたちの同郷人で,キリスト・イエズスの奴隷である*⁹エパフラからもよろしく.
彼は祈りのうちに絶えずあなたたちのために戦い,あなたたちが完全になって,神のすべてのみ旨を果たすことを願っている.
彼があなたたちと*¹⁰ラオディキアと*¹⁰ヒエラポリスにいる人々とのためにひどく苦労していることを,私は保証する.

愛する医者の*¹¹ルカからよろしく.また*¹²デマからも.
ラオディキアの兄弟たちと*¹³ニンファとその家にある教会によろしく伝えよ.

この手紙をあなたたちの間で読んだなら,ラオディキアの教会にも読ませよ.あなたたちはまた*¹⁴ラオディキアに送った手紙を読め.また,*¹⁵アルキポに「主から受けた奉仕の役をよく果たすように注意せよ」と言え.

私パウロが自筆であいさつを送る.私の鎖(くさり)を思い出せ
恩寵があなたたちとともにあるように.

(第4章の注釈)

家庭の人たちに(3・18-4・1)
社会道徳の超自然的原理.これがなければ社会の正義はない

使徒のために祈る(4・2-6)
*² キリスト信者でない人々(〈新約〉テサロニケ手紙(第一)4・12).

*³ 聖書では超自然を味わわせる知恵のことを塩という.

ティキコを遣わす(4・7-9)
*⁴ 〈新約〉使徒行録20・4,エフェゾ手紙6・21参照.

*⁵ フィレモンの手紙に出る奴隷のオネジモ.

あいさつ(4・10-18)
*⁶ アリスタルコはテサロニケのマケドニア人(使徒19・29,27・2,フィレモン手紙24節).
捕らわれているパウロを助けていた人.

*⁷ 使徒15・37,39. 第二福音史家マルコ(=聖マルコによる聖福音書の著者).

*⁸ 詳しくはわからないが,ギリシア・ローマ時代にユダヤ人の間によくあったあだ名(使徒1・23,18・7).

*⁹ 1・7参照.

*¹⁰ 二つともコロサイに近い町.

*¹¹ 福音史家のルカ(聖ルカによる聖福音書の著者).

*¹² フィレモン24節,ティモテオ手紙(第二)4・10参照.

*¹³ ニンフォドロの略称,男性の名.

*¹⁴ 今はこの手紙はない.ある聖書学者はエフェゾ人への手紙のことだという.

*¹⁵ フィレモン手紙2節参照.

* * *

2011年6月27日月曜日

論議の余波

エレイソン・コメンツ 第205回 (2011年6月18日)

2009年秋から今春までローマ教皇庁と聖ピオ十世会との間で数回にわたり行われた教理上の論議( “the doctrinal Discussions” )が振り出しに戻ったいま,当然のことながら両者の関係が今後どうなるだろうかという疑問が生じます.いずれの側のカトリック信徒も両者のあいだの接触が今後とも続くよう願っています.だが,両者が一致(結束)してほしいという敬虔(けいけん)な願いは往々にして思い違いにつながりかねません.したがって,現代社会全体の神に抗(あらが)って行動するという幻想に引きずり込まれないためには現実を正しく認識し続ける必要があります.

そもそも,論議を望んだのはローマ教皇庁であって聖ピオ十世会ではありませんでした.ローマ教皇庁としては,第ニバチカン公会議の新モダニズム(=現代主義)に対する聖ピオ十世会のひと筋縄ではいかない反対を消し去りたかったわけです.両者間で大きな障害となっていたのはカトリックの教理でした.というのも,聖ピオ十世会は教会の長い年月を経た不可変の教理という要塞に固く守られているからです.ローマ教皇庁は聖ピオ十世会をこの要塞から引き出さなければならないと考えたのです.新モダニズム派にとっては,ちょうど共産主義者と同じで,堅実な立場にある敵対者との接触,対話を進めるのは何もしないよりましなことでしたし,いまでもそう考えています.なぜなら,敵対者は対話をすると損をするだけで,新モダニズム派は得をするだけだからです.ローマ教皇庁が論議の議題に教理まで加えることに同意したのはこのためでした.

ローマ教皇庁にとって気の毒なことに,聖ピオ十世会代表4人の教理への信念は明確かつ確固たるものでした.ローマ教皇庁代表が論議の後で「私たちには彼ら(聖ピオ十世会の代表)が理解できないし,彼らは私たちを理解できない」と,漏(も)らしていたそうです.当然のことでしょう.ローマ教皇庁側がその信奉(しんぽう)する新モダニズムを捨て去るか,聖ピオ十世会側が真実を裏切らない限り,両者の対話はあまり成果のないまま終わらざるをえなかったのです.だが,ローマ教皇庁は自ら真実を裏切っていることを取るに足らない存在の聖ピオ十世会によって暴(あば)かれるのは耐えられないでしょうから,対話をあきらめることはないでしょう.だからこそ,私たちがすでに聞いている通り,エックレジア・デイ( Ecclesia Dei )のスポークスマンがローマ教皇庁は近く聖ピオ十世会に “Apostolic Ordinariat” (アポストリック・オルディナリアート)(以下 “Apostolic Ordinariat” 「使徒座司教区」(仮訳)と記す.)(訳注後記)を付与すると明らかにしたわけです。むろん,これは聖ピオ十世会側の反応を見るための観測球にすぎないかもしれませんが,魅力的なアイデアです.「使徒座司教区」は「属人区」( Personal Prelature )と異なり,地方の司教から独立した存在ですし,ブラジルのカンポス( “Campos in Brazil”. ブラジル・カンポス教区 )のような「使徒座管理区」( Apostolic Administration )とも異なり,その管轄は一司教管区(司教区)に限定されるものではありません。聖ピオ十世会にとってこれ以上なにが望めるでしょうか?

聖ピオ十世会はローマ教皇庁が真実に立ち帰るよう望みます.なぜなら,共産主義者や新モダニズム派と同じように聖ピオ十世会は,教理上の不一致をそのままにした実務的協力関係を進めても,あらゆる人間的な理由から,結局は信仰の敵が持つ誤った教理を吸収するか,別な言い方をすれば,真実を裏切ることになるだけだと知っているからです.聖ピオ十世会の総長( Superior General )がローマ教皇庁との間で教理上の合意なしに教会法上の合意に至ることを公の場で繰り返し拒んできた理由はここにあります.ただし,論議は少なくとも新モダニズム信奉者のローマ教皇庁と聖ピオ十世会の間に存在する教理上の不一致がいかに深いかを示すのに役立ちました.したがって,カトリック信徒の皆さんは,ローマ教皇庁当局者の意図がたとえ善意に基づくものだとしても,聖ピオ十世会が “Apostolic Ordinariat” 「使徒座司教区」の提供さえ断るかもしれないと覚悟していてください.

それにしても,教理がこれほど大切なのはなぜでしょうか? それは,カトリック信仰がひとつの教理だからです.では,カトリック信仰がそれほど大切なのはなぜでしょうか? それなしに私たちは神を喜ばせることができないからです(ヘブライ人への手紙・第11章6節)(訳注後記).では、なぜカトリック教に則(のっと)った信仰でなければならないのでしょうか? 他の神を信じるのでは(=他の信仰(の仕方)を通じて神を信じるのでは)いけないのでしょうか? 答えはノー,(カトリック信仰以外のいかなる信仰もいけません.) なぜなら,神ご自身が(キリストの御姿で)十字架刑の恐怖をその身に受けられ,それにより(訳注・かつてこの地上で実際に起こったその事実を通じ)私たちに唯一の真の信仰(のあり方)を明らかにお示しになられたからです.ほかの諸々の「信仰」はことごとく,程度の違いはあっても,この真の信仰とは相反するものです.

「エレイソン・コメンツ」ではこれから4回にわたり,恐れながら,現教皇が善意の方だとしてもいかに方向感覚を失っておられるかを示していきたいと思います.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第3パラグラフの訳注:

・“Apostolic Ordinariat” 「使徒座司教区」(仮訳)について.
ローマ教皇聖座=教皇庁直轄の特別の司教管区,ローマ教皇(庁)が直轄する特別な行政管理区分〈特区〉の下に置かれる教会教区(司教区))というような意味合い.

・"Apostolic" 「使徒座」 について.
「使徒ペトロの後継者の座(See)」と「ローマ司教の座」の二つの意味を含む.
(ローマ教皇はまたローマの司教でもあるが,それは初代教皇たる使徒ペトロがローマの司教であったため).
すべての司教座 "Episcopal see" は "Apostolic see" とも呼ばれる.
ここでは,ローマ教皇の聖座(教皇庁)を指す( "See of St. Peter", "Holy See","Apostolic See" などは同義語.see = seat. ).

・「属人区」( Personal Prelature ).
地域ごとの区分によらず,一人の特定の司教(属人区長)が全区域の会員を管轄する.
現在ある属人区は「オプス・デイ(Opus Dei)」のみ.
第二バチカン公会議以後1982年に前教皇ヨハネ・パウロ2世によって認可された.

・「使徒座管理区」( Apostolic Administration ).
(例)ブラジルのカンポス( “Campos in Brazil”. ブラジル・カンポス教区 ).

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第5パラグラフの訳注:

新約聖書・ヘブライ人への手紙:第11章6節(太字下線部分)(1節から19節まで記載します)

信仰は*¹希望するものの保証であり,見えないものの証拠である
信仰をもっていたから昔の人は賞賛を受けた.
信仰によって私たちは,万物が神のみことばによって創(つく)られ,見えるものには見えない原因があることを理解する

*⁴信仰によってアベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ,それによって義人と証明された.神が彼のささげ物を証明されたからである.そして信仰によって彼は死んでも今なお語っている.

*⁵信仰によってヘノクは死を見ないように移された.「神が彼を移されたので,彼はみつからなかった」.移される前に,彼は神に嘉(よみ)されていると証明された.

*⁶信仰がなければ神に嘉(よみ)されることはできない.神に近づく者は,神が存在されること,神を求める者に報いを賜(たま)うことを信じねばならぬからである

*⁷信仰によってノアは,まだ見えぬことについてお告げを受け,家族を救うために謹(つつし)んで箱舟を作り,信仰によって*⁷世の罪を定め,信仰による正義の世継ぎとなった.

*⁸信仰によってアブラハムは,召された時,遺産として受けるであろう地に行けという(神の)命令に従い,その行く方角も知らずに出かけた
*⁹信仰によって彼は,他国にいるかのように約束の地に住まい,同じ約束を継ぐイサクとヤコブとともに幕屋に住んだ.彼は,神が設計し建造される確かな基礎をもっていたからである

*¹¹信仰によってサラも,年をとっていたにもかかわらず子を宿す力を受けた.約束されたお方が真実だと信じたからである.*¹²それによって,すでに死んでいるような一人の人から,海辺の数え切れぬ砂,空の星ほどのおびただしい子孫が生まれた.

それらの人々はみな信仰を保って死んだ.約束のものを彼らは受けなかったが,はるかにそれを見てあいさつし,この世では他国人であり旅人にすぎぬことを認めた
そういった人々は自分たちが一つの故国(天の神の御国)を求めていることを表していた
それがもし*¹⁵彼らが出てきた国のことであったのなら,いつでもそこに帰れたはずである.
事実彼らは,天にあるさらにすぐれた故国を慕(した)った.そのために神は彼らの神と呼ばれるのを恥(はじ)とされなかった.彼らのために一つの町を備えられたからである

*¹⁷信仰によってアブラハムは,試されたときにイサクをささげた.彼は約束を受け,その独り子で,「*¹⁸イサクの名においておまえに子孫が起こされる」と言われたその子をささげた.
アブラハムがそうしたのは,神には死者もよみがえらせることができると考えたからである
そのために彼は子を取りもどした.これは*¹⁹前触れにもなる.』

(注釈)

旧約の英雄たちの信仰(11・1-40)
信仰は天の国と来世の存在とを証明する(〈新約〉コリント人手紙(第二)1・22,5・5,エフェゾ人への手紙1・14).他の訳「希望の的となる事柄」.

*³ 創世1章.「見えるものは,現れているものから取り出されたものではない」という訳もある.

*⁴ 創世4・4-10参照.アベルはカインの弟.カインはアベルを憎んで殺した.人類最初の殺人の罪.

*⁵ 創世5・24参照.

*⁶ 知恵13・1.救いのためには神の存在と,報いを下す御者を信じなければならない

*⁷ 創世6・8-22参照.

*⁷ 義人は不義者にとって,寛容な人はけちな人にとってとがめであるが,信仰者ノアは,そのころの不信仰者へのとがめであった.

*⁸ 創世12・1-3参照.

*⁹ 9-10節 創世23・4,26・3参照.

*¹¹ 創世17・19,21・2参照.サラはアブラハムの妻.

*¹² 創世15・5,32・13参照.

*¹⁵ カルデアのウル,アブラハムの出生地(創世11・31).生国を思い出して,そこに帰ろうとするのではない.

*¹⁷ 創世22・1-14参照.

*¹⁸ 創世21・12参照.

*¹⁹ 死からよみがえるキリストの前兆.ギリシア語の「前兆」は「危険にさらす」の意味もあるので,「わが子を死にさらしたにしても」という意味にもとれる

この後の部分(11章20節以下)を後から追加します.

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2011年6月20日月曜日

人間の限界

エレイソン・コメンツ 第204回 (2011年6月11日)

ことしの4月上旬,2年間にも及んだ捜索(そうさく)の末,2009年6月1日大西洋の真っただ中に墜落したエールフランス・エアバス社旅客機( Air France Airbus )の残骸(ざんがい)が発見され,「ブラック・ボックス」として知られるフライト・レコーダーが数個回収された結果,いまだ謎(なぞ)の多いこの大惨事に不気味な光が当てられました.なんたる悲劇でしょうか!エアバスA330-200型機は高度3万8千(38000)フィート(約1万2千(12000)メートル)で失速後3分半のあいだ真っ直ぐに落下し大西洋に墜落,搭乗(とうじょう)していた全員,すなわち228人の霊魂を神の審判の座の御前に瞬時に登場させたのです.

AF447便にとっての問題のはじまりは,フランス・パリに向けブラジルのリオ・デ・ジャネイロを出発してから2時間後,大西洋上で遭遇(そうぐう)した夜間の悪天候だったようです.複数のブラック・ボックスから得た証拠に基づく結論はまだ最終的なものではありませんが,悪天候に次いで起きた問題は,航空機のピトー管から情報を引き出す飛行速度計が誤った測定値(そくていち)をパイロットたち(訳注・操縦士3人)に伝えたということかもしれません(訳注・=速度計の誤表示).航空機が失速し始めた時,パイロットたちは飛行継続に必要な加速のため機首(きしゅ)を下げる( “putting the nose down” )代わりに,失速状態に対応する別の手段を選びエンジンを上向きにしたようです.その際彼らは同時に機首を引き上げた( “pulled the nose up” )ようです.同機が決定的に失速する前に自動失速警告が何度か表示されたはずですが,いったん機体が落下し始めたときにはもはやパイロットたちはみな墜落を回避する術がなくお手上げの状態だったようです.

パイロットたちは機体を荒天の下へ向けるにかわりに上へ向けようとしたのでしょうか? 彼らは操縦室でますます支配的になってきていると思える電子機器装置に頼り過ぎたのでしょうか? 慌ててパニックに陥(おちい)ったでしょうか? (そうだとしても無理からぬことです! ) エール・フランス航空社の墜落事故原因(の解明)に関する最終調査結果が待たれますが,それに関連していくつかの点が明らかになっています.

私たちの誰しもが,さまざまな原因によりいつ死ぬかわかりません.突然訪れるそのような死の瞬間に,私たちは自らの霊魂を救う(訳注・=救霊)ために痛悔の祈り(訳注・神の赦しを請うため自分の犯した罪を悔む)を捧げるに足る時間,品位,心の平静を持ち備えていられるでしょうか? 差し迫る死の恐怖は生き残ろうとする本能以外のすべてのものを心から拭い去り(ぬぐいさり)得ます.現在では毎年何百万人もの乗客が素晴らしい飛行機で無事に大海を越えて移動していますが,その飛行機も大自然の諸々の力に比べれば全く取るに足らないほど小さくか弱いものにすぎません.「よしなさい,あなた達は自分が思っているほど万能の覇者ではありません.」と嵐が告げたその時,フライト中の乗客,乗務員は機内映画や機内食から手荒く現実世界に引き戻され,自然の重力の法則が飛行という人間の発明品に取って代わったとたんに,全員が墜落死するまでの210秒間のほとんどあるいは全部のあいだ恐怖のパニックに襲われたに違いありません.

672日間海底に沈んでいた後でもなお,回収された複数のブラック・ボックスは完全に機能していました.そして今そこに記録されたAF447便の最後の数分間の秘密を明らかにしつつあります.(飛行機とは)なんと優れたアイデア! なんと優れたデザインでしょう! だがその素晴らしく優秀な飛行機に搭乗していた乗客乗員の何人が永遠の世界に入る心の準備ができていたでしょうか? そして,もし人間が物質的な機械を作るために費やす知力と努力のわずか一部でも自分たちの霊魂の救いのために割(さ)きさえすれば,あとどれだけ多くの人々が死に直面しての心構えができていたかもしれなかったことでしょうか? 神の御母(聖マリア),私たちが放心や恐怖のパニックによって自分の霊魂を整え秩序を保つのを妨げられないよう,「今も臨終の時も」罪人なる私たちのために祈りたまえ.(訳注・部分的にカトリック教会の天使祝詞( Ave, Maria )祈祷文の後半部分が引用されている.)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

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事故発生当時発表されたエレイソン・コメンツ 第101回 (アーカイブ,2009年6月13日付.)の和訳文を後から追加いたします.

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2011年6月13日月曜日

多神教文学を読む

エレイソン・コメンツ 第203回 (2011年6月4日)

少し前に「エレイソン・コメンツ」(第188回)は宇宙の道徳の枠組みを理解するため多神教のギリシア人が書いたものを読むよう勧めました.これに驚(おどろ)いて眉(まゆ)をつり上げたカトリック信徒がいたかもしれません.なぜカトリック教作家の作品ではいけないのですか? と.だが,ギリシアの悲劇作家たちもカトリック教の博士たちと同じように人生,苦難,死という偉大な現実に直面し自問(じもん)したのです:-- なぜ私たちはこの地球上に生まれ,ただ苦しみ死んでいくのか,なぜ死によって愛する(ことを学んだ)すべてのものから切り離されてしまうのかと.この疑問は根本的で,苦悩に満ちたものとなり得ます.

これに対するカトリック教の答えは明快で完全です.すなわち,限りなく善良な神がおられ,その摂理( “Providence” )(マテオ10・29-31)(訳注後記)が与える苦難を私たちが正しく用いるなら,神は私たち一人ひとりに永遠の行く末を神のない地獄でなく神と共に天国で過ごす選択をするのに十分な生命,自由意志,時間を与えて下さるということです.古代ギリシア人の答えは不完全ですが,的外れなものではありません.彼らは御父なる神( “God the Father” )の代わりにゼウスという主神( “Father-God, Zeus” )を,神の摂理の代わりに運命の女神( “Fate” )(モイラ)を信じます.

さて,カトリック教徒にとって神と神の摂理は不可分であるのに対し,古代ギリシア人はゼウスを運命の女神と切り離すため,時には両者が相いれないことがあります.これはギリシア人が自分たちの神々についてあまりにも人間的な観念を抱くことから生じます.にもかかわらず,彼らは主神ゼウスが多かれ少なかれ宇宙を慈悲深く導くものであり,運命の女神は不可変のものであると考えます.これは真の神の内なる摂理(“Providence within the true God)(神学大全〈スンマ・テオロジエ・Summa Theologiae 〉第1部,第23問題・第8項;第116問題・第3項)(訳注後記)と同じ考え方であり,彼らの考え方は必ずしも間違っていません.むしろ,いかなる神への畏敬の念も全く持たず,風紀のかけらさえも否定しようとする多くの現代作家たちに比べれば,ギリシア人たちの方がはるかに自分たちの神々とそれらに守られた風紀を重んじています.

だが古代ギリシア人作家たちはカトリック教作家たちさえしのぐ強みをひとつ持っています.彼らは諸々の偉大なる真理を述べるとき,それを - あえて言うならいわゆる - カテキズム(問答体の書物)からでなく,赤裸々な人生から引き出します.同じことは,教会が教える諸々の真理について非カトリック教が与えるいかなる証言にも当てはまります.今日のタルムード(訳注後記)を信じるユダヤ人が,まさにイエズス・キリストを受け入れないが故に,初めから終わりまで私たちの主(イエズス・キリスト)について語る旧約聖書のヘブライ語版を礼拝堂で用心深く守ることでキリストに特別の証言を与えるように,古代ギリシア人は世界の道徳的秩序を行動で示すに当たって,カテキズムに頼らず,神とその摂理に特別の証言を与えます.この方法で,ギリシア人は大自然の真理がそれを信じる者にとって身近なものになるだけでなく,正しく理解さえすれば,それが万人の生活構造の中に根付くものであることを立証しています.

もうひとつ古代ギリシア人の持つ強みは,彼らがキリスト以前に生まれているだけに,中世以降のキリスト教世界に出現した敬虔な作家たちさえも多かれ少なかれ傷つける背教のかけらさえ持ち合わせていないということです.彼ら古代人たちは,今では取り戻しようのない純真さと新鮮さをもって大自然の真理を語っています.現代では水があまりにも濁りきっています.

実を言えば,古代ギリシア作家たちが書いた原稿の存続を確かなものにしたのは中世カトリック教会のいくつかの男子修道院でした.現代では,それらをリベラル(自由主義者)と称する新野蛮人たち( “the new barbarians” )から救うため真のカトリック教会に期待をかけましょう! 今日,リベラル派のいう「学問」がはびこるところではどこでも,古代ギリシア人たちの残した古典はすべてゴミ屑(くず)にされてしまいます.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第2パラグラフの訳注:

新約聖書・マテオによる聖福音書:第10章29-31節

『二羽のすずめは一*アサリオンで売っているではないか.しかもその一羽さえ,天の父のゆるしがなければ地に落ちぬ.あなたたちは頭の髪の毛までもすべて数えられている.恐れることはない.あなたたちは多くのすずめよりも値打がある.』
(キリストのみことば)

(注釈)

*ローマの最低貨幣の一つ.

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第3パラグラフの訳注:

原文 “(Summa Ia, 23, 8; 116,3)”

神学大全」 “Summa Theologiae” について.
(著者…聖トマス・アクィナス〈アクィノ(南イタリア)の聖トマス〉( Sanctus Thomas Aquinas 〈ラ〉, San Tommaso d'Aquino 〈伊〉).カトリック教会・ドミニコ修道会会員,教会博士.)

第1部

・第23問題…「予定」について “De prædestinatione” (英語 “Predestination” )
第8項…「予定」(神の摂理による)とそれに対する聖徒たちの祈りによる助力の効果についての問答.

・第116問題…「運命(宿命)」について “De fato” (英語 “Fate” )
第3項…「運命(宿命)は変えられないものか」についての問答.

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第4パラグラフの訳注:

「タルムード」について

・ヘブライ語で教訓,教義の意.前2世紀から5世紀までのユダヤ教ラビたちがおもにモーセの律法を中心に行なった口伝,解説を集成したもので,ユダヤ教においては旧約聖書に続く聖典とされる.
・多くの編集が行なわれたが,現在では4世紀末の『パレスチナ・タルムード』と5世紀末の『バビロニア・タルムード』が残っている.
・ラビの口伝を収録する「ミシュナ」(反復(はんぷく)の意)およびそれへの注解,解説を集めた「ゲマラ」(「補遺(ほい)」の意)の2部より構成され,前者はヘブライ語,後者は当時の口語であるアラム語で書かれている.「ミシュナ」の部分は両タルムードとも同一で,「ゲマラ」の部分だけ異なっている.
・ユダヤ教における法律,社会的慣習,医学,天文学から詩,説話にいたるまで社会百般に及ぶ口伝,解説を収め,歴史的にもユダヤ精神,ユダヤ文化の精華(せいか)であり,その生活の規範となり創造力の根源となっている.
(ブリタニカ国際大百科事典より)

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2011年6月2日木曜日

男性の権威

エレイソン・コメンツ 第202回 (2011年5月28日)

結婚するかどうか確信が持てないある二人の男性が,先日どうしたら男性が男性たり得るかについてのマニュアルを書いてほしいと私に懇願(こんがん)してきました.それは二人の切実な苦悩の叫びでした:「いつ女性たちに優しくすべきで,いつ断固たる態度をとるべきなのか? どうにもわからないんです! 」 かつては,多くの男性たちにとってその疑問に対する答えは常識でした.だが,今日では権威が自由主義を煽(あお)る宣伝戦略によりひどく弱められてしまっているため,結婚生活で権威を行使することについての問題が,結婚より単なる同棲(どうせい)を選ぶ若者たちが多いことの一つの理由となっているのかもしれません.以下に述べることはマニュアルではありませんが,少なくとも二人のマスケット銃兵を正しい方向へ導くのに役立つかもしれません.

聖パウロは「さて私は(主イエズス・キリストの)父のみ前にひざまずこう ―― 父から天と地のすべての家族が起こったからである ――.」(エフェゾ3・14,15)と述べています(訳注後記).言い換えれば,神の創造物のあらゆる父権もしくは権威は神御自身の父権と権威を手本としておりそこから派生しています.ドストエフスキーは作品中の登場人物の一人に「もし神が存在しないとすれば,私に陸軍将校たるべき権利はない」と言わせています.したがって,もし人間が今日の世界全体で起きているように,神を自分たちの社会から追い出すなら,あらゆる権威が徹底的に弱体化されるというのは当然なことでしょう.個人においては,理性が感情を支配できないでしょうし,家庭では父親は家族を管理できず,国家においては民主主義が唯一の正当な政治形態に思えるようになるでしょう.

現在,家庭内部で日常生活を観察していて,男性は理性の行使において女性よりも優(まさ)り,女性は直観や感情において男性より優ることを否定できる者がはたしているでしょうか? これを疑うなら連続ホーム・コメディー番組(訳注後記)をどれでもいいから観(み)てみて下さい.現在は感情が生活の中で正当な位置を占めており,まるで奥さんのように,反撃されるのを覚悟の上で私たちはそれを蔑視(べっし)しています.だが,感情は行ったり来たりするもので不安定であり,行動の指針になりますが,あまり頼りにはなりません.これに対し,理性は何が客観的に真実で公正か(=正義に適(かな)うか)を見分けるなら,その客観的な真実や公正がどんな個人や個人の抱く諸々の感情をもすべて超越(ちょうえつ)するものだという事実により安定したものとなります.したがって,理性は感情に耳を傾けても構(かま)いませんが,それを支配しなくてはなりません.そういうわけで男性は,他の様々な資質を持つ女性がごく例外的にしか持ち合わせない男性としての自然な(=生来の)権威を持っているのです.男性が生来家族や家庭の長であり,女性が生まれながらに家族や家庭の心であるのはこのためです.

だが現代世界を支配するリベラリズム(自由主義)は客観的真実や公正・正義についての感覚をことごとく消滅させてしまいます.それにより,リベラリズムは理性からその対象を断ち切り,推論(すいろん)の対象を超えた独自の現実においてはその客観的な支えを奪(うば)ってしまいます.理性は男性の特権として存在しているので,リベラリズムは理性に左右されない本能( “feminine instincts” = 女性特有の本能 )を持つ女性に打撃を与える前に(理性を持つ)男性に打撃を与えます.同じように,リベラリズムは男性が自分より上位の存在,すなわち究極的には神聖な神の真理と神の正義 “divine Truth and Justice” に従うことで得る権威を低下させ,権威のあらゆる行使を恣意(しい)的なものにしてしまうのです.

そういうわけですから,若い男性諸君は,男女を問わず誰と交際するに当たっても,常に自ら真実で公正な人間たることを追求し常にそうあろうと心がけ,いま私たちの周りで公然とまかり通っている不誠実,不正義,また権威の恣意的な乱用の横行する今日の世の中で,いったい何が真実であり正義に適うことなのかを見分けるのに必要な助けを神に向かって願い求めることです.そうして自分の見極(みきわ)めたところに従って行動することです.そうすれば,あなたは権威を下から低下させるこの世の中で,上(天)からの男らしい権威を建て直すようになるでしょう.手短に言えば,「まず神の国と神の正義を求めよ.そうすれば,それらのもの(訳注・生活に必要なもの)も加えて与えられる.」(マテオ6・33)のです.(原文〈新約聖書・英語〉: “Seek ye first the kingdom of God, and His justice, and all these things shall be added unto you” (Mt. VI, 33).(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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(訳注)

① 第2パラグラフはじめの聖書の引用箇所について:

新約聖書・使徒聖パウロのエフェゾ人への手紙:第3章14,15節

・原文(英語) “St. Paul says : “I bow my knees to the Father of our Lord Jesus Christ of whom all paternity in heaven and earth is named” (Eph. III, 14,15) ”

・『さて私は(主イエズス・キリストの)父のみ前にひざまずこう ―― 父から天と地のすべての*¹家族が起こったからである ――.』

(注釈)
*¹ギリシア語の「パトリア」は,父性のことであるが,ここでは,父の権威下にある家族のことである.地上の人間の家族は,天の天使たちの階級に相対する.これらはみな神の子らである.
(「パトリア」 “πατριά (patria)” )

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② 第3パラグラフの「連続ホーム・コメディー番組」について:

原語 “sitcom” = “situation comedy” 「シットコム」

・ラジオやテレビでおよそ30分間程度放送される連続(シリーズもの)コメディ番組(コメディ・シリーズ)のこと.スタジオに集めた観衆の前で(実際の観衆の笑い声などの反応が入る),またはあらかじめ準備された拍手喝采などの録音を使用して,上演・録音(録画)され放送される.登場人物同士の口論や,もめ事がすぐに決着して収まるのが特徴(Britannica Concise Encyclopedia 参照).

・登場人物と場面設定とのからみのおもしろさで笑わせる(リーダーズ英和辞典より).
・同じ登場人物で毎回違った場面やエピソードを扱う(ジーニアス英和大辞典より).

* * *

③ 第5パラグラフ最後の聖書の引用箇所について:

マテオによる聖福音書:第6章33節

・原文(英語): “Seek ye first the kingdom of God, and His justice, and all these things shall be added unto you” (Mt. VI, 33).

・新約聖書・マテオによる聖福音書:第6章19-34節を記載(該当箇所-太字部分).

『自分のためにこの世に宝を積むな.ここではしみと*¹虫が食い,盗人が穴をあけて盗み出す.
むしろ自分のために天に宝を積め.そこではしみも虫もつかず,盗人が穴をあけて盗み出すこともない.
あなたの宝のあるところには,あなたの心もある.

*²体の明かりは目である.目がよければ全身が明るい.目が悪ければ全身がやみの中にいる.
あなたの内の光がやみ(闇)ならそのやみはどんなに暗かろう.

*³人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ.一人を憎んでもう一人を愛するか,一人に従ってもう一人をうとんずるかである.神と*⁴マンモンとにともに仕えることはできぬ.

だから私は言う,命のために何を食べようか,*⁵何を飲もうか,また体のために何を着ようかなどと心配するな.命は食べ物にまさり,体は衣服にまさるものである.

空の鳥を見よ.まきも,刈りも,倉に納めもせぬに,天の父はそれを養われる.あなたたちは鳥よりもはるかに優れたものではないか.
あなたたちがどんなに心配しても,*⁶寿命をただの一尺さえ長くはできぬ.
なぜ衣服のために心を煩わすのか.野のゆりがどうして育つかを見よ.苦労もせず紡(つむ)ぎもせぬ.
私は言う,ソロモンの栄華の極(きわ)みにおいてさえ,このゆりの一つほどの装(よそお)いもなかった.
*⁷今日は野にあり明日はかまどに投げ入れられる草をさえ,神はこのように装わせられる.ましてあなたたちによくしてくださらぬわけがあろうか.

信仰うすい人々よ.何を食べ,何を飲み,何を着ようかと心配するな.
それらはみな異邦人が切に望むことである.
天の父はあなたたちにそれらがみな必要なことを知っておられる.
だから,まず神の国とその正義を求めよ.そうすれば,それらのものも加えて与えられる
明日のために心配するな.明日は明日が自分で心配する.一日の苦労は一日で足りる.』

(注釈)

天の宝(6・19-21)
*¹ 〈虫〉はどんな虫か不明であるが,確かに「虫」であって,普通に訳される,「さび」ではない.

清い目と心(6・22-23)
*² 22-23節 明かりが全身を照らすのと同じく,内なる目は人間のすべての行為を照らす.内なる目が欲望に暗(くら)まされているならば,人間の道徳生活は闇(やみ)である.

二人の主人,思い煩い,摂理(せつり)(6・24-34)
*³ 富を有して神に仕えることもできるが,富の奴隷になれば神に仕ええない.

*⁴ マンモンとはカルダイ語で富のこと.

*⁵ このことばは権威ある写本の中でものっているのもいないのもある.

*⁶ 「身のたけ」という訳もある.

*⁷ 30-34節 イエズスは将来への予備と働きを禁ずるのではない.ただ摂理への信頼を裏切らせるほどの思い煩いを禁ずる

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