2011年5月23日月曜日

ふたつの後悔

エレイソン・コメンツ 第201回 (2011年5月21日)

数か月前, 「エレイソン・コメンツ」 の一読者から私に神殿の権威者たちの足下に銀貨三十枚を投げ捨てたイスカリオトのユダの後悔 (マテオ27・3) と雄鶏(おんどり)の鳴き声を聞き号泣(ごうきゅう)したペトロの後悔 (マテオ26・75) との間にどのような違いがあるのかとの質問が寄せられました.彼の質問はマリア・ヴァルトルタ (1897-1961年) の作品 「人となられた神の詩(人-神の詩)」 (訳注・直訳.英原文 “The Poem of the Man-God by Maria Valtorta (1897-1961) ” )から数ページを引用する格好の口実となります.この作品の中で,私たちの主イエズス・キリストは (それが本当にキリストかどうかについては -  「不確かな事についての判断は,自由に」 = “In things uncertain, liberty” ということにします) 彼女に授けたユダ・イスカリオトの死に際の数時間のヴィジョン(幻影)ついて次のように話しておられます.詩はイタリア語で書かれており,原文を多少変えてあります:--
(訳注後記)

「確かに,その幻影はぞっとするほど恐ろしいものであるが,無益ではない.多くの人々はユダのしたことをそれほど深刻なこととは考えていない.ユダがいなければ贖罪(しょくざい)は成されなかったのだから彼の裏切り行為は称賛に値(あたい)するもので,彼は神の目から見れば正当化されると極言(きょくげん)する人さえいる.実際には私はあなたに,あらゆる苦痛の備(そな)わった地獄がまだその時存在していなかったとしたら,ユダのため死後の永遠の世界にもっと恐ろしい地獄が造り出されていただろうと告げよう.なぜなら,ユダは地獄に落とされ永遠にのろわれた罪人たちの中でも最ものろわれた者だからであり,彼に与えられた罰は永遠に軽減されることはないからである.

確かにユダは自分が裏切り行為をしたことについて自責の念を示した.そして,もし彼がその自責の念を後悔に変えていたなら彼は救われただろう.だが彼は悔い改めようとしなかった.彼が犯した裏切りという最初の罪だけなら,私は人の弱さを愛するがゆえ彼に憐(あわ)れみをかけただろう.だが彼は裏切りの罪に加えて,自分が最期(さいご)にエルサレム中を絶望的に駆(か)け回りながら,私の母とその優しいみ言葉に触れたことも含めて,それまで私と過ごしてきた日々の生活に残された私についての一つ一つの形跡や記憶が彼に(訳注・彼の心に)嘆願して訴えた恩寵へのどの衝動も,みなことごとく冒涜(ぼうとく)しはねのけ続けた.彼はあらゆるものに反抗した.彼は反抗することを望んだのだ.ちょうど彼が私を裏切ることを望んだように.また私を冒涜することを望んだように.そして自ら命を断つことを望んだように.人は自分の意思を固めた場合それに固執するものだ - 良きにつけ悪しきにつけである.

私は本意に反して堕落した人は赦す.ペトロの場合を見なさい.彼は私との関わりを否認した.なぜだろうか? 彼はなぜなのか自分でもわからなかった.彼は臆病だったのだろうか? そうではない.私のペトロは臆病ではなかった.彼はゲッセマニの園で神殿護衛団すべてを向こうに回し私を守るためにマルコス(訳注・大司祭の下男)の耳を切り落とした.そのことで自分が殺される危険があったにもかかわらずにである.彼はそのあとで逃亡した.そうする固い意志もなしにである.その後,彼は私との関わりを三度否認したのだが,その時も,固い意思のないままそうしたのである.彼は余生の間,血にまみれた十字架の道,すなわち私の道にとどまり続けることに成功し,自身十字架の上で死んだ.彼はそのひるむことのない断固とした信仰心のために殺されるまで私の証人として立つことに立派に成功した.私は私のペトロを擁護(ようご)する.彼が逃亡したこと,私との関わりを何度か否認したことは,彼の人間的な弱さの最後の瞬間に起きたことだった.彼のより高い気質に基づく固い意志はそうした行為の背後にはなかった.自身の人間的な弱さに負け高潔な気質は眠っていたのだ.それが眠りから覚めるやいなや,もはや罪にとどまり続けたいと望まず,完全になりたいと求めた.私はすぐさまペトロを赦した.ユダの意志は逆方向で固かったのだ…」

「人となられた神の詩(人-神の詩)」の終りの部分で,私たちの主イエズス・キリストは(もしそれが彼だとすれば - 私は彼だと信じています)彼の人生についてこれほど長期間にわたる数々のヴィジョン(幻影)を現代に伝えることをマリア・ヴァルトルタに許した七つの理由を告げています.第一番目の理由はモダニズム(現代主義)により荒廃し破壊されてしまったカトリック教会の基本的な教義を再び人々の心に現実のものとしてよみがえらせるためでした.これは妥当な理由だと思えないでしょうか? 七番目の理由は - 「ユダの謎(なぞ)」について明らかにするため,すなわち神からあれほど高い天分を授けられた霊魂がどうしてこのように堕落してしまうのかを教えるためでした.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第1パラグラフの訳注:

① “The Poem of the Man-God” について:

・原文・題 Original title: Il poema dell’Uomo-Dio (イタリア・1956-1992)

(邦題:「神と人なるキリストの詩(うた)」〈フェデリコ・バルバロ神父:訳〉)

・新原題:L’Evangelo come mi è stato rivelato (1993- )

(新邦題:「私に啓示された福音」〈吉向キエ:訳〉)

・ “the Man-God” は,この世で唯一人,神の御子であられると同時に人の子(聖母マリアの御子)でもあられる私たち人類の主イエズス・キリストを指す.

・キリストはマリア・ヴァルトルタにお現れになり,彼女にさまざまなヴィジョン(幻影)をお示しになり,それらのヴィジョンやそれについて彼女に語られたキリストの御ことばを彼女に記述するよう仰せになった.

・ウェブサイト 「エレイソン・コメンツ・アーカイブ」 に記載されている 「エレイソン・コメンツ 第108回 『プライドは命取り』 」でも,この作品について取り上げられている.

* * *

② 「不確かな事についての判断は,自由に」= “In things uncertain, liberty” について:

・ラテン語の句の一部から引用されている.

・句の全文は “In necessariis unitas, in dubiis libertas, in omnibus caritas” .

・英訳文 : “In things necessary, unity; in things uncertain, liberty; in all things, charity.”

* * *

③ ユダの後悔(マテオ聖福音・27章3節)と,ペトロの後悔(同・26章75節)について引用されている聖書の箇所:

新約聖書・引用個所は太字で表示.(第26章57節-27章10節を記載)

(〈注〉今回のこの箇所は,この少し前の部分(「エレイソン・コメンツ第196回」の第2パラグラフの訳注(聖書の引用箇所:①マテオ聖福音書第26章36-56節)から続く部分です.)

(衆議所に引かれる)(26・57-68)
*¹人々はイエズスを捕らえ,律法学士と長老たちの集まっている大司祭カヤファの家に引いて行った.遠く離れてその後をつけ大司祭の庭に来たペトロは,成り行きを見ようとして中に入り,下男たちとともに座っていた.
司祭長と全議員はイエズスを死刑にする偽りの証言を求めていた.多くの偽証人が来たけれども,これという証拠は上がらなかった.その後二人の男が来て,「彼は〈*²私は神殿を壊して三日で建て直せる〉と言いました」と言った.大司祭は立ち上って,「一言も答えないのか.この者たちが示している証拠はどうだ」と尋ねたが,イエズスは黙して語らなかった.
大司祭はまた,「私は生きる神によってあなたに命じる,答えよ,あなたは神の子キリストなのか」と聞いた.*³するとイエズスは「そのとおりである.私は言う,人の子(イエズスのこと)が全能なるものの右に座り,天の雲に乗り来るのをあなたたちは見るであろう」と言われた.
そのとき大司祭は自分の服を裂き,「この男は*⁴冒涜(ぼうとく)を吐いた.どうしてこれ以上証人がいろう.みなも今冒涜のことばを聞いた.どうだ」と言うと,彼らは「この男は死に値する」と答えた.そして彼らはイエズスの顔につばをかけ,こぶしで打ち,平手でたたき,「キリストよ,当ててみろ,おまえを打ったのはだれだ」と言った.

(ペトロが否む)(26・69-75)
さて,外の庭に座っていたペトロのもとに,下女が一人近寄ってきて,「あなたもあのガリラヤのイエズスと一緒にいた人ですね」と言った.ペトロはみなの前でそれを否(いな)み,「何のことを言っているのかわからぬ」と答えた.そして門を出て行くともう一人の下女が見とがめて,そこにいた人々に「この人も*⁵ナザレ人のイエズスとともにいた人ですよ」と言った.ペトロはふたたびそれを否み,「私はそんな人を知らぬ」と誓って答えた.しばらくしてそこにいた人々が近づき,「いや,あなたは確かに彼らの一人だ,*⁶方言でわかる」と言った.ペトロは「私はそんな人を知らぬ」とはっきり否み,のろい始めた.おりしも雄鶏が鳴いた.
ペトロは「雄鶏の鳴く前にあなたは三度私を否む」と言われたイエズスのことばを思い出し,戸外に出て激しく泣いた(26章75節).

(注釈)

(衆議所に引かれる)
*¹ルカとヨハネを見てわかるように,夜中にイエズスがアンナ(カヤファの義父)の前に引かれたことと,朝になって衆議所の集まりがあったこととは区別して考えてよい.マテオとマルコは,夜のその出来事を朝の尋問と一緒に記している.

*²イエズスのこのことばは三日後に死からよみがえるべき自分の体を指していた(ヨハネ聖福音2章19-22節).

*³イエズスの生涯において,もっとも悲劇的な時である.公生活中に言ったことを,いまユダヤの最高審判者の前で荘重(そうちょう)に宣言する,私は神の子でありと.旧約聖書・詩篇110篇1節,ダニエルの書7章13節を暗示する.

*⁴この冒涜(ぼうとく)とは,イエズスがメシアと名のったことではなく,みずから神と称したところにある.

(ペトロが否む)
*⁵あるギリシア写本とブルガタ訳とには「ナザレトの」とある.

*⁶ガリラヤ人は喉音を出すことができなかった.

・・(参考)・・
ルカによる聖福音書の「ペトロの否認」についての記述(ルカ・22章60節):

『ペトロは,「いえ,私にはあなたの言うことが分かりません」と答えた.そう言い終えぬうちにすぐ雄鶏が鳴いた.主はふり向いて*ペトロを見つめられた.そのときペトロは,主が「今日,雄鶏が鳴く前にあなたは三度私を否むだろう」と言われたことばを思い出し,外に出て激しく泣いた.』

(注釈)*深い悲しみに沈むイエズスの目が,慈悲をたたえて,自分を否んだペトロの方に向けられた.ペトロの改心を待つイエズスである.

(ピラトの前に)(27・1-14)
*¹夜明けになると,イエズスを殺そうと協議した司祭長と民の長老たちは,*²イエズスを縛って総督ピラトのもとに引き立てていった.そのころ裏切り者のユダはイエズスへの判決を聞いて後悔し,司祭長と長老たちにあの三十枚の銀貨を返し(27章3節),「私は罪なき者の血を売って罪を犯した」と言った.それがどうした,われわれにはかかわりがない,おまえ自身のことだ」と答えた.ユダはその銀貨を神殿に投げ捨てて去り,みずから首をくくって死んだ.
司祭長らはその銀貨を取り,「これは血の値だから神殿の倉には納められぬ」と言い,相談した後その金で陶器造りの畑を買い,旅人の墓地にあてた.その畑は今も*³血の畑と呼ばれている.ここにおいて預言者エレミアの預言は実現した,「*⁴彼らは,値をつけられたもの,つまりイスラエルの子らが値をつけた銀貨三十枚を取り,陶器造りの畑を買った,*⁵主が私に命じられたように」.

(注釈)

(ピラトの前に)
*¹律法では,夜中に裁判し,宣告することを禁じていた.律法の遵守(じゅんしゅ)を見せびらかすために,もう一度簡単に裁判し直すと同時に,ピラト総督への出方を相談した.

*²ヘブライ人には,死刑を宣告し,処刑する権限がなかった(ヨハネ聖福音18章31節).それで総督に自分らの宣告の是認と執行権を頼んだ.

*³アラマイ語で「ハケルダマ」(使徒行録1章19節).おそらく確実だろうと思われる古い伝承によると,ここはゲヘナの谷にあった.

*⁴(9-10節)このことばはエレミア(18章2,3節,32章6-15節)とザカリア(11章13節)を合わせたもののようである.

*⁵ヤベ(主なる神を指す)は,預言者ザカリアを通じて,ユダヤ人の資金が少ないと嘆いて言う.同じわずかな金でイエズスが裏切られたことに,マテオは預言の実現を見た.

***

(注)*³ の「ゲヘナ」について.

“Gehinnon(ヘブライ語), Gehenna(ギリシア語由来のラテン語)”.
ヘブライ語で「ベン・ヒンノム(息子)の谷」の意.ユダとベニヤミンの地の境界の一つで,エルサレムの南にある谷.王国時代に異教の神バールに子供たちを燔祭として捧げた場所(旧約聖書・列王の書下23章,エレミアの書7章).預言者エレミアは,この祭儀を繰返し非難し,この谷は虐殺の谷と呼ばれる日がくると預言した(エレミアの書・19章).比喩(ゆ)的に死後罪人が罰を受ける場所「地獄」(=「第二の死」)の名で呼ばれる.
(ブリタニカ国際大百科事典参照)

(新約聖書上の根拠)
参考までに地獄と天国について,新約聖書「ヨハネの黙示録」からの引用を後から追加します.

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2011年5月17日火曜日

林檎の腐敗

エレイソン・コメンツ 第200回 (2011年5月14日)

ひとつの腐った林檎 (りんご) がふたつの方法で今日の輝きを失ったカトリック教会の暗闇に小さな光を当てるかもしれません.まず第一に,私たちは林檎が隅々まで腐(くさ)るのを待ってから林檎すべてが腐ったと判断するわけではありません.林檎にはまだ腐っていない部分が残っています.だから林檎が腐っているかどうかという問いに答えるとき,私たちは二通りの区別をする必要があります: 全体として,然(しか)り; ある部分について,然り; ほかの部分については,否(いな),という風にです.そして第二に,林檎即(そく)腐敗,腐敗即林檎ではありませんが,腐敗とその元の林檎は切り離すことはできず,林檎なしに腐敗は存在できません.この常識の第一の部分を新しい典礼によるミサ聖祭 ( “the Novus Ordo Mass” ) と (それを考案した公会議に則した) 「公会議主義下の教会」 ( “Conciliar church” ) に,第二の部分を「公会議主義下の教会」とローマ教皇職 ( “the Papacy” ) に当てはめてみましょう.

新しいミサ聖祭について言えば,それは公会議の人間中心主義によるものですから全体として腐ったものです.だがそのある部分 (例えば奉献(文) “the Offertory, offertorium” ) は明らかにカトリック教とは異なるものである反面,ほかの部分 (例えば求憐誦 〈キリエ〉 “the Kyrie Eleison” ) はカトリック教に則ったものとなっています.新しいミサ聖祭は全体として腐っており徐々にカトリック教徒をプロテスタント教徒へ変えていくものですから,参席するに適したものではありません.だが,聖変化( “Consecration” )にあたる部分はカトリック教に則っており有効だと言えます.したがって新しいミサ聖祭について,有効だから参列できるとも,参列できないのだから無効だとも,いずれも言えないのです.実際には,新しいミサ聖祭の本質的な部分は有効かもしれませんが,それだけでは個人の信仰をこの新しいミサ聖祭全体に参列する危険に曝(さら)すに足る理由とはなりません.(訳注後記)

同じように,今日のカトリック教会は公会議主義がその至るところにまん延している限り全体として腐っているのですが,だからといってカトリック教会のあらゆる(一つ一つの)部分が公会議主義で腐っているわけではありません.したがって,全体が公会議主義だからといってカトリックのまま残っているいずれかの部分を非難するのは間違っていますし,同じようにカトリックのまま残っている部分が多少あるからといって公会議主義全体を許容するのも間違っています.自分の心を現実に合わせるためには,それぞれの異なる部分ごとの間での区別,および全体とそれぞれの異なる部分との間での区別の双方が必要です.

次に今日の教会に腐った林檎との比較の第二の部分を当てはめるなら,二つの教会すなわち「公会議主義下の教会」と「カトリック教会」について話すのが純粋な意味で有意義と言えるでしょう.なぜなら,この二つの教会のそれぞれが純粋な状態だと双方は林檎と腐敗のように互いを排除しますが,現実の世界では公会議主義がカトリック教会の中の至(いた)るところに見出されるからです.だが実生活では,双方は林檎と腐敗あるいは寄生生物と宿主と同じように切り離すことができません.現実の世界において存在する唯一の教会は,カトリック教会のみであり,今日その唯一の教会が公会議主義の腐敗により至るところで苦しめられているのです.

したがって公会議主義の教皇( “a Conciliar Pope” )について言えば,彼は二つの教会の長だとするのが純粋な意味で有意義な言い方でしょう.なぜなら時にはカトリック的な,時には公会議主義的な言動をとることによって彼は常にカトリック教会と公会議主義で腐敗したカトリック教会の両方の長としての立場に自身を置くからです.だからといって彼が現実には別々のものとなっている二つの教会の長だと言うことではありません.いまでは公会議主義の腐敗のため満身創痍(まんしんそうい)となっている唯一真実のカトリック教会の中で,彼がカトリック教義(カトリシズム)と公会議主義の双方の長( “head of both the Catholicism and the Conciliarism” )だということを言っているのです.

それにしても,私たちのカトリック教会指導者たちが神の名にかけて公会議主義の腐敗に夢中になっているのはなぜでしょうか? それは現代社会で人々が自由を渇望するためです ( “Because of the modern longing for liberty.” )(訳注後記).これは今回の話とは別のことです.だがこれとは別にして,私たちは教皇ベネディクト16世がもう一度林檎と腐敗の違いが分かるよう全力を尽くして教皇のために祈らなければなりません!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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第6パラグラフの訳注:

「自由」 “liberty” について:

ここでの「自由」とは,「権利人権)」や「(人が際限なく気まま勝手にしたい欲を縛りつけるような「神の法=自然法〔真理〕」による制約からの)解放」を意味している.

* * *

第2パラグラフの訳注:

〈伝統カトリック教義に則した典礼〉からの解説〉

① 「奉献」 “the Offertory, offertorium” について.

(典礼文)
Orémus. (司祭)
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OFFERTORIUM - 奉献文
Súscipe, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus, …
「聖なる父,全能永遠の神,…」

Lavabo inter inocéntes manus meas : …
「主よ,私は,罪なき者の一人となるために,私の手を洗い,
(そして主の祭壇のかたわらに立とう.)」

Súscipe, sancta Trínitas, …
「聖なる三位一体よ…」

Oráte, fratres : …
「祈れ,兄弟たちよ,…」

Secreta …
「密誦」

***

(解説)

・オッフェルトリウムOffertorium は,献物をさし出すことであるが,「奉献」ということに対する現代の信者の考えは,昔の信者の考えとは、大分相違がある.
昔の信者は,自分の献物(パン,ぶどう酒,くだもの,花など)を,自分の手で聖堂にもって行った.
これらの物は,自分自身の内的供物の象(かたど)りであった.奉献のときになると,助祭(あるいは司祭)は,その供物をうけるために,信者の方へ下りてきた.
この供物の中から,その日のミサと聖体拝領に必要な分だけをとり,残りの分は,司祭自身あるいは信者の貧しい人々のために用いることになっていた.
こういうことを行っている間に,その日の祝日あるいは奥義をあらわす奉献文の交誦と詩篇とをうたっていた.

・信者から献物をするこの習慣は,中世時代から次第に変化し,司祭のとなえる代願の祈りは,現在,はじめの「オレムス Oremus 」(われらは祈りましょう)だけが残っている.
・それから,司祭は,副助祭あるいは侍者が祭壇(さいだん)にもってくる献物を,神にささげる.カリスの準備は,祭壇上で行われる.水とぶどう酒とを祝福するに当っての祈りは,御降誕の祝日の昔からの祈りで,水とぶどう酒とを交ぜることの象徴を知らせるのである.
最後の晩さんのとき,主は,聖別したぶどう酒に,少しの水をまぜ給うた

奉献の祈りはすべて,まことに立派な祈りであって,キリスト教的いけにえなる聖変化へと漸次祈りは高潮してゆく.
もう世俗的な使用に供されないという意味をあらわすために,司祭は,献物のパンとぶどう酒とに撒香する.それから,司祭は,自分の手をきよめて,詩篇二十五からの祈りをとなえる.(Lavabo 洗いましょうの意)
・聖なる三位一体よ,うけ給え(suscipe, sancta Trinitas) という祈りは,いけにえであるこの献物を,キリストの奥義と聖人らの功徳とに結びつける.
・それから司祭は,参列者の祈りと一致するために,「兄弟たちよ,祈れ」(Orate, fratres)とすすめる.信者たちは,それに対して,神の栄光と公教会の善とのために,この献物を嘉(よみ)し給え,と答える.
・すると司祭は,献物に最後の祈り 密誦(Secreta)をとなえ,奉献の式を終る.
密誦を終るとき,司祭は,声を高めて序誦をうたう.
(この後「聖変化」の部の典礼へ続く)

* * *

② 「求憐誦 」〈キリエ〉 “the Kyrie Eleison, Kýrie, eléison” について.
入祭文を終って後,司祭は祭壇の中央に行き,侍者と交互に求憐誦を唱える.

(典礼文)
Kýrie, eléison. Kýrie, eléison. Kýrie, eléison.
「主,あわれみ給え」

Christe, eléison. Christe, eléison. Christe, eléison.
「キリスト,あわれみ給え」

Kýrie, eléison. Kýrie, eléison. Kýrie, eléison.
「主,あわれみ給え」

***

(解説)

・助祭が会衆とともに祈っていた昔の典礼の名残りとして残っている.助祭が会衆とともにとなえていた祈りは,主として聖歌であった.
・キリエ・エレイソンは,ギリシア語で,古代ローマにおける典礼がギリシア語で行われていたことを思い出させる.
・これらの祈願は,主なるキリストに向ってなされる.「キュリオス」( Kyrios )とは,われわれを救い給う光栄の「主」である.

* * *

③ 「聖変化」 “Consecration, Consecrátio” について.

パンとぶどう酒が神の羔(こひつじ,Agnus Dei)たる神の御子キリストのいけにえの御聖体( Corpus Christi )とキリストの流された〈人類の罪の赦しのための〉新しい契約の御血(Sanguis)に変わること)

…“Hæc commíxtio, et consecrátio Córporis et Sánguinis Dómini nostri Iesu Christi, fiat accipiéntibus nobis in vitam ætérnam.” ( Ordo missæ )
…「われらの拝領せんとするわれらの主イエズス・キリストの御体と御血とのこの混和と聖別とが,われらの永遠の生命の糧(かて)とならんことを.」(聖伝のミサ典礼文より)

***

(解説)

聖体の序誦

元来,序誦は,聖変化の部に属し,この二つは,聖体の荘厳な祈りであった.現在では,三聖頌(Sanctus)が,この二つの間に加わった.
しかし・現在(1955年),序誦が聖変化の部と分離したにしても,なお序誦は,聖変化という重大な行いの序曲である.

序誦(Præfatio)は,ギリシア語から出た言葉で,荘厳な祈りを意味する.
この祈りは,主への感謝であり,聖体の讃歌であって,これによって司祭は,神のこの大なる御業を讃美するのである.また,これは,その日の意義を思い出させる.
司祭は,われわれが深い敬虔をもって,天使とも一致し,聖体をささげうるようにととなえて,この祈りを終る.

聖なるいけにえ

低いこえで聖体への祈り(典文〈カノン,Canon 〉)をつづける司祭に,信者は一致する.司祭は救主の功徳によって,教皇と司教とをかしらとする全公教会と,すべて参列する者のためにささげるこのいけにえをよみし給えと,神に祈る

こうして,全団体を神の御手にゆだねてのち,地上の教会から天に集る教会へと心を移し,
諸聖人の通功をこい願い(Communicantes 凱旋の公教会の祈念),天の聖人たち,御母聖マリア,使徒,殉教者らの祈りに委託して,司祭は,(Infra actionem)いけにえを行いはじめる.

司祭の先ずすることは,献物の上に両手をひろげることである.これは,会衆を代表して,
えらばれたいけにえの上に掩(按)手する旧約の祭司たちの行いを思い出させる(Hanc igitur さて,これを).
それから司祭は,キリストの民のこのいけにえを嘉(よみ)し給い,全くうけ入れ給うようにと祈る(Quam oblationem この献物を).
それから,このいけにえが、主イエズスのいけにえと合わせられる価値あるものとなるように、神御自身はからい給えと祈る.

公教会は,キリストと同じように,子としての信頼をもっている.キリストと同じく公教会は,御父が常に自分の願いをきき入れ給うことを知っている.(ヨハネ聖福音,11章42節)
これがために,自然に,聖体制定の次第を語るに至る.いま,秘蹟的に話し,最後の晩餐の行いを新たにし給うのは,キリスト御自身である.キリストは,いけにえをくり返し給う

これは,不敗の勝利者のいけにえである.なぜなら,最後の晩饗のときより,この世の終りの日まで,秘蹟なるこのいけにえは,不滅なるもの(生命=キリスト)の死をくり返しつづけるからである
キリストの御死去によって,栄光はキリストに帰せられ,十字架によって,自分自身にすべての人間をひきつけるべき御者は,称揚される.これが,奉挙(Elevatio)の象(かたど)りである.
この奉挙の習慣は,大分時代を下ってからのことである.

祈念誦(Anamnesis),「さらば、思い起しつつ」(Unde et memores)という二つの祈りも,救主の偉大なる御業の追想である.そして,あがないの奥義,御受難だけではなく,御復活と御昇天の奥義をも,ここに追想する

われわれのいけにえは,キリストのいけにえと一つになる.いま,司祭は,アベル,アブラハム,メルキセデクなどのそなえものにはるかにまさる浄く汚れなく聖なる血を献げるのであるSupra quæ これらの献物の上に).
いけにえの天便が,われわれの献物を天の祭壇,神の尊前にもちゆく代りとして,救主なるキリストの御体と御血との宴に,われわれがあずかれるようにと,神にこい願う(Supplices われらひれ伏して).

われわれが,神の宴にあずかることをゆるされるこのいけにえの準備は,もはやととのった.この典礼的ないけにえの功徳は,先ず,つぐのいを果しつつある「苦悩の教会」の霊に応用される
そして,司祭と,参列の信者のためにも応用されるようにとこい願い,(Nobis quoque われわれにも),このいけにえにあずかり,天の聖人とともになることをも,神の御慈悲によってこい願う.

聖体の行い,すなわち,厳密な意味での典文(カノン)は,終りに近づいた.その終りは,まことに荘重である.
司祭は,オスティアとカリス(祭爵)とを,一緒にもち上げて,三位一体の神に光栄とほまれとをささげる.
そこで参列の信者は、「アメン」ととなえて,司祭の頌歌にこたえ,司祭の聖変化の行為を承諾するのである.この「アメン」は,聖変化の沈黙のはじまりの時から,結晶していた力のほとばしりである.

パンをさくこと

聖体制定のことを物語る福音書によると,主は,聖体のパンを弟子らに与えるに先だち,それを割(さ)いて分けたと記されている.

この行為は,昔から特に重視され,fractio panis(パンをさくこと)は,長らくの間,ミサ聖祭と同義語に用いられてきた.元来,「パンをさくこと」は,実際上の必要からで,信者の聖体拝領のために,大きなパンを分けていたのである.
今はもう実際上のそんな必要はなく,司祭の拝領するオスティアだけをさくことになっている.パンをさくことは,又,昔の習慣の名残りである.聖なるオスティアをさいてから,司祭はオスティアの小片を,カリスに入れる.これはなぜかというに,九世紀ごろまで,ミサののち,聖変化したパンの一片を保存する規則があり(これを Sancta 聖なるものといった),この一片を,次のミサのとき,御血にひたしたのである.それは,公教会のいけにえの,一致性と継続(けいぞく)性とを象(かたど)るならわしであった.

「われらひれ伏して」(Supplices)の祈りがおわれば,いけにえの宴(うたげ)は,もう準備が出来上っている.
典文(カノン)の最後のアメンが終ると,司祭は声をあげて,一同に代り,(Oremus 祈願)と主禱文をとなえる.この祈りは,聖体拝領の直前の準備の祈りとして,ずっと古くから用いられている.
それから司祭は,聖なるオスティアをさくが,これは主の御業のくり返しであり,皆のためにさくこの行いは,救主キリストのみがこの世に与える平安を象るのである
われわれは主の御死去によって,まことの平安を再び見出した.聖なるパンと聖なるぶどう酒とを混(まぜ)ることは,キリストの復活と不滅性とを意味するのである.「キリストは、もう死に給わない.」(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への手紙,6章9節)

神の羔(こひつじ)に対する神羔誦(しんこうしょう Agnus Dei)は,復活の羔,不滅の糧(かて)となり給うたキリストへの祈りである.

聖体は,本質的にキリスト教的一致,神秘体の生ける一致の秘蹟である.われわれがもし,公教会と一致していないならば,キリストの御体と御血とにもあずかることができない
また,聖体拝領を否むことは,神秘体から離(はな)れ去ることである.これがために司祭は,キリストにおいてすべてが一致するようにとこい願ってから,助祭を通して,参列の信者に,平安の接吻をおくるのである.現在はもう習慣として残っていないが,この平和の接吻は,その昔は,聖体拝領の唯一つの準備であった.現在は,その精神だけが残されているわけであるから,兄弟への憎(にく)みの念をすて,公教会と兄弟たちに一致する心がなければ,聖体に近づくことはできない

比較的時代を下ってから,こののち二つの祈りが加えられた.これは,聖体拝領とキリスト教的生活とのつながりを示す祈りである.
実に,キリストと一致することは,キリスト,特に十字架を負(お)い給うたキリストにならうことである.キリスト信者の幸福は,十字架と切り離(はな)せないものである
こういう神秘的な準備ののち,司祭は,パンとぶどう酒との二つの形色において聖体を拝領し,それから,侍者と一般信者が聖体を受ける
侍者と信者の聖体拝領は,パンの形色の下に行われる.もちろん,かれらも,古くは二つの形色のもとに聖体をうけていたし,現在でも,東方挙式法による公教会においては,二つの形色の聖体を信者にもさずけている。
しかし,一つの形色でも功徳と効果とは同じである.すべての信者に,聖体は永遠の結実を生むであろう.
昔は,聖体をさずける間に,聖体拝領誦の詩篇をうたう習慣であった.この習慣は,現在の交誦に名残りをとどめているだけで,これを聖体拝領誦(Communio)という.
一般に,聖体拝領誦は,その日の祝日,あるいは奥義に関連した祈りであり,われわれの感謝をあらわしている.
聖器具を始末してのち,司祭は,信者らに挨拶(あいさつ)し,皆に代って,聖体拝領後の祈(Postcommunio)をとなえる.

この祈りによって,聖なるいけにえの拝領は終った.この祈りは,秘蹟的に霊的に聖体を拝領したすべての人に,公教会が何を期待するかをあらわし,この聖なる奥義によってもたらされる至福をも語る.
だが公教会は,この秘蹟を,天の至福の予備としてだけではなく,いまうけた聖寵に対する忠実さによって,いつか決定的にうけるであろう至福の予言とも考えるのである.

***
「毎日のミサ典書」(序論(2)ミサ典書とローマ式ミサ)より引用

* * *

1962年ミサ聖祭通常文の表 
-〈注〉一部の典礼文は省略されています.Partly abbreviated. -


ORDO MISSÆ (1962) (Ordinarium Missæ)
ORDINAIRE DE LA SAINTE MESSE / ORDINARY OF THE MASS

〈灌水式:(洗礼のかたどりの一つ)
交誦(詩篇・第50篇9節) Antiphona … Aspérges me, (主よ,ヒソプもて)

*Aspérges me, Dómine, hyssópo, et mundábor : lavábis me, et super nivem dealbábor.
Ps. 50, 3. Miserére mei, Deus, secúndum magnam misericórdiam tuam.

V/. Glória Patri.

Et repetitur ant. *Aspérges me.

「*主よ,**ヒソプもて私にそそぎ給え,私は浄(きよ)められるであろう.私を洗い給え,私は雪よりも白くなるであろう.
(詩篇・50篇3節)神よ,御慈悲により,私をあわれみ給え.」

司祭/. 願わくは,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とに栄えあれ,
助祭(侍者・信者)/. はじめとおなじく,今もいつも,世々に,アメン.

「(*主よ,ヒソプもて…をくりかえす)」

(**ヒソプ…ハナハッカの小枝;清めの祭式に用いられた.ヘブライ語で「聖なる薬草」を意味する.)

(御受難の主日と枝の主日とには,栄誦をとなえない)
(復活節(御復活の祝日-聖霊降臨まで)は,次の通り)

*Vidi aquam egrediéntem de templo, a látere dextro, allelúia : et omnes ad quos pervénit aqua ista, salvi facti sunt, et dicent : allelúia, allelúia.
Ps. 117,1. Confitémini Dómino, quóniam bonus : quóniam in sǽculum misercórdia eius.

V/. Glória Patri.

Et repetitur ant. *Vidi aquam.

「私は,神殿の右側からわき出る水を見た,アレルヤ.この水にうるおった人々は,みな救われた.かれらは,アレルヤ,アレルヤとうたう.
(詩篇・117篇1節)主をほめたたえよ,主は善にて在(ましま)す,主の御あわれみは永遠である.」

司祭/. 願わくは,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とに栄えあれ,
助祭/. はじめとおなじく,今もいつも,世々に,アメン.

「(*私は,神殿の右側から…をくりかえす)」

…(中間略)

・祈願 Oratio … Exáudi nos (われらの祈りをききいれ給え)

Exáudi nos, Dómine sancte, Pater omnípotens, ætérne Deus : …
「聖なる主,全能の父,永遠の神よ,…われらの祈りをききいれ給え.」

***

Ⅰ.準備:
MISSA CATECHUMENORUM (Signum crucis – Credo)
MESSE DES CATECHUMENES / MASS OF THE CATECHUMENS
(洗礼志願者のミサ)

A. 準備の祈り(祭壇の足元で)

・十字架のしるし … Signum cruces

In nómine Patris, et Fílii, et Spíritus Sancti. Amen.

V/. Introíbo ad altáre Dei.
R/. Ad Deum, qui lætíficat iuventútem meam.

「聖父(ちち)と,聖子(こ)と,聖霊との御名によりて.アメン.」

司祭/「私は,神の祭壇に上ろう.」
助祭/「私の若さを喜びで満たし給う神の方へ.」


信仰,神への委託,信頼,謙遜 … Iúdica me, Deus, (神よ,私を弁護し給え)(詩篇42編)

痛悔と心の清さ … Confíteor (告白の祈り)

Confíteor Deo omnipoténti, beátæ Maríæ semper Vírgini, beáto Michaéli Archángelo, beáto Ioánni Baptístæ, sanctis Apóstolis Petro et Páulo, ómnibus Sanctis, et vobis, fratres : quia peccávi nimis cogitatióne, verbo, et ópere :
(Percutit sibi pectus ter, dicens :)
mea culpa, mea culpa, mea máxima culpa.
Ideo precor beátam Maríam semper Virginem, beátum Michaélem Archángelum, beátum Ioánnem Baptístam, sanctos Apóstolos Petrum et Páulum, omnes Sanctos, et vos, fratres, oráre pro me ad Dóminum Deum nostrum.

「全能の天主,終生童貞なる聖マリア,大天使聖ミカエル,洗者聖ヨハネ,使徒聖ペトロ・聖パウロ,諸聖人およびなんじら兄弟たちにむかいて,われは思いと言葉と行いとをもって多くの罪を犯せしことを告白したてまつる.
(三度胸を打ちながら言う.)
これわがあやまちなり,わがあやまちなり,わがいと大いなるあやまちなり.
これによりて終生童貞なる聖マリア,大天使聖ミカエル,洗者聖ヨハネ,使徒聖ペトロ・聖パウロ,諸聖人およびなんじら兄弟たちに,わがためにわれらの主なる天主に祈られんことを願いたてまつる.」

Misereátur tui omnípotens Deus, et dimissis peccátis tuis, perdúcat te ad vitam ætérnam.
助祭/.「願わくは,全能の神があなたを憐れみ,あなたの罪をゆるして,永遠の生命に導き給わんことを.」

Amen.
司祭/.「アメン.」

B. 入祭文から奉献まで

はじめの聖歌 … Introitus (入祭文)

(司式司祭はすぐ祭壇に上らず,祭壇の下で準備の祈りをとなえる.
聖歌隊が,入祭文を終るまでに,司祭は祭壇に上がり,祭壇に接吻し,撒香する.)

祭壇は特に聖別され,新約の祭壇,いけにえ・大司祭であるキリストを意味する
また密接にキリストとむすびつくために,祭壇には,聖なる殉教者の遺物の一部が納められている.)

(司祭が祭壇に接吻するのは,これから,奥義を新たにするに当って,キリストの御心と心を一つにすることを,あらわすためである.
祭壇への撒香は,礼拝と尊敬をあらわすためである.)(ローマ・ミサ典書・日本語版より)


Ⅱ.祈りと教え:

《祈り》

礼拝と祈願 … Kýrie (求憐誦)

V/. Kýrie eléison.
R/. Kýrie eléison.
V/. Kýrie eléison.

R/. Christe eléison.
V/. Christe eléison.
R/. Christe eléison.

V/. Kýrie eléison.
R/. Kýrie eléison.
V/. Kýrie eléison.

(司祭と助祭が交互に三度ずつとなえる)
「主,あわれみ給え.
キリスト,あわれみ給え.
主,あわれみ給え.」

三位一体の称讃 … Glória (栄光誦)

〔Glória in excélsis Deo et in terra pax homínibus bonæ voluntátis. …
「天においては天主に栄えあれ.地においては善意の人に平和あれ.…」〕

《教え(教理)》

団体の祈り … Collecta (集祷文)

第一の朗読 … Epistola (新約聖書の使徒の書簡)

中間の聖歌 … Graduale (昇階誦)

Alleluia(アレルヤ誦)あるいは Tractus (詠誦)

キリストの御言葉の朗読 … Evangelium(福音書)

キリストとその御言葉への承諾 … 〔Credo (信経)〕


Ⅲ.奉献の部:
MISSA FIDELIUM (Offertorio – Postcommunio)
MESSE DES FIDELES / MASS OF THE FAITHFUL
(信者のミサ)

A. 奉献から序誦まで (奉献)

奉献の準備 … Offertorium (奉献文)

御父なる神にパンの奉献 … Súscipe, (うけいれ給え)

Súscipe,sancte Pater, omnípotens ætérne Deus,
「聖なる父,全能永遠の神,…うけいれ給え.…」

カリスの準備 … Deus, qui (神よ)

カリスの奉献 … Offérimus tibi, Dómine, (主よ,われらはささげ奉る)

心の奉献 … In spíritu(心をもって)

In spíritu humilitátis et in ánimo contríto suscipiámur a te, Dómine :
「主よ,深くへりくだり,痛悔の心をもってささげ奉るわれらを受けいれ給え.…」

奉献するものの上に,聖霊を祈願する … Veni, Sanctificátor, (聖とならしめ給う御者,下り給え)

Veni, Sanctificátor, omnípotens ætérne Deus : …
「聖とならしめ給う全能の御者,永遠の神よ,下り給え.…」

手を浄める … Lavábo (洗い奉る)

Lavábo inter innocéntes manus meas : et circúmdabo altáre tuum, Dómine.
「主よ,私は罪なき者の一人となるために,私の手を洗い,そして,主の祭壇のかたわらに立とう.」

キリストと諸聖人との功徳にもとづく奉献 … Súscipe, sancta Trínitas, (聖なる三位一体よ,受け給え)

信者は,祈りによって,奉献に一致する … Oráte fratres, (兄弟たちよ,祈れ)Suscipiat (受け給わんことを)

Oráte fratres, ut meum ac vestrum sacrifícium acceptábile fiat apud Deum Patrem omnipoténtem.
「兄弟たちよ,祈れ,私と,あなたたちとのいけにえが,全能の父なる神のみもとによみせられるように.」

R/. Suscípiat Dóminus sacrifícium de mánibus tuis ad láudem et glóriam nóminis sui, ad utilitátem quoque nostram, totiúsque Ecclésiæ suæ sanctæ.
助祭/.「主が,御名のほまれと栄光のため,更に,われらの利益のため,御自分の聖なる全教会のために,あなたの手から,このいけにえを受け給わんことを.」

奉献するものの前で,祈る … Secreta (密誦)

B. 序誦から主禱文まで (聖変化の部)

Ⅳ.聖体の序誦:

荘厳な感謝の祈り … Praefatio (序誦)

讃美 … Sanctus (三聖頌)

ミサ聖祭典文( CANON MISSÆ )

Ⅴ.聖なるいけにえ: (聖変化)

奉献するものを考える … Te ígitur (さて,汝を…)

Te ígitur, clementíssime Pater, per Iesum Christum, Fílium tuum, Dóminum nostrum, súpplices te rogámus ac pétimus, uti accépta hábeas, et benedícas, hæc + dona, hæc + múnera, hæc + sacrifícia illibáta,…

「いと寛仁なる父よ,われらは深くへりくだって祈り奉る.願わくは御子イエズス・キリストによって,この+賜物,この+ささげ物,この+けがれなく聖なるいけにえを受入れ,祝し給わんことを.」

戦闘(せんとう)の公教会の祈念 … In primis (先ず,…)

…in primis, quæ tibi offérimus pro Ecclésia tua sancta cathólica :
quam pacificáre, custodíre, adunáre, et régere dignéris toto orbe terrárum :
una cum fámulo tuo Papa nostro Benedictus XVI., et Antístite nostro N.,
et ómnibus orthodóxis, atque cathólicæ, et apostólicæ fídei cultóribus.

(両手をひろげ,普遍教会のために祈る)
…先ず,われらは,主の聖なるカトリック教会〔公教会〕のために,これをささげ奉る.
願わくは,教会に平和を与え,それを保護し,一致を固めさせ,
主の下僕なる〔われらの〕教皇ベネディクト16世,われらの司教〔名〕,
および正統な教えと使徒伝承のカトリック信仰とを守る人々と共に,
全世界において,治め,導き給え.」

特定人の記憶
(生きる人々の記念 Commemoratio pro vivis)… Meménto, Dómine,(主よ,記憶し給え)

凱旋(がいせん)の公教会の祈念 … Communicántes (聖なる一致において…)

(注)「コムニカンテス」は,われわれが,ここに名の記されている聖人たちだけでなく,罪深い性質においてわれわれと似た人間であったその他の無数の聖人たちのとりなしによってもまた天に招かれていることを知る喜びを与えられる.
殉教者の元后・聖マリアの御名は御子キリストのいけにえ(犠牲)から切り離すことはできない.聖マリアは神の羔(こひつじ)とともにわれわれ自身を祭壇の足元でささげるようお教えになる.聖ヨゼフは普遍教会の保護者として祈願される.(英語のミサ典書の解説より)

Communicántes, et memóriam venerántes, in primis gloriósæ semper Vírginis Maríæ, Genitrícis Dei et Dómini nostri Iesu Christi :
Sed et beáti Ioseph, eiúsdem Vírginis Sponsi, et beatórum Apostolórum ac Mártyrum tuórum, …et ómnium Sanctórum tuórum ;
quorum méritis precibúsque concédas, ut in ómnibus protectiónis tuæ muniámur auxilio.
Per eúndem Christum Dóminum nostrum. Amen.

「聖なる一致において,われらは,先ず,わが神なる主,イエズス・キリストの御母,終生童貞なる光栄のマリアの記念を,つつしんで行い奉る.
また,その浄配聖ヨゼフ,主の聖なる使徒,殉教者,… およびすべて主の聖人らの記念を行い奉る.
願わくは彼らの功徳ととりなしとによって,われらに,御保護の助力を与え給わんことを.同じわれらの主,キリストによりて.アメン.」

献物を受入れ給えと祈る … Hanc ígitur (さて,これを…)

聖変化をこい願う祈り … Quam oblatiónem tu, Deus, (神よ,このささげものを)

Quam oblatiónem tu, Deus, in ómnibus, quǽsumus, bene+díctam, adscríp+tam, ra+tam, rationábilem, acceptabilémque fácere dignéris : ut nobis Cor+pus, et semel super calicem, et San+guis fiat dilectíssimi Fílii tui, Dómini nostri Iesu Christi.

「神よ,願わくは,このささげものを祝+し,嘉+納し,全く+認め,真の価値あるいけにえとなし給え.これが,われらのために,御身の最愛の御子,われらの主イエズス・キリストの御+体,御+血とならんことを.」

聖体制定の記念 … Qui prídie (御受難の前日…)

Qui prídie quam paterétur, accépit panem in sanctas ac venerábiles manus suas, et elevátis óculis in cælum ad te Deum Patrem suum omnipoténtem, tibi grátias agens, bene+díxit, fregit, dedítque discípulis suis, dicens : Accípite, et manducáte ex hoc omnes.

「主は,御受難の前日,その聖なる尊い御手にパンをとり,天に在(ましま)す全能の御父なる御身の方に目を上げ,御身に感謝し,それを祝+して,分け,弟子らに与えておおせられた.皆,これを受け,そして食べよ.」

パンの聖変化 … Hoc est enim corpus … (実にこれは,私の体である)

HOC EST ENIM CORPUS MEUM
「実にこれは,私の体である.」


聖体を奉挙する

聖体制定のつづき … Simili modo (同じく…)

Simili modo póstquam cenátum est, accípiens et hunc præclárum cálicem in sanctas ac venerábiles manus suas : tibi grátias agens, bene+díxit, dedítque discípulis suis, dicens : Accípite, et bíbite ex eo omnes.

「同じく晩餐が終ったとき,主は,その聖なる尊き御手に,この光栄あるカリス(聖杯)を取り,再び,御身に感謝し,これを祝+し,弟子たちに与えて,おおせられた..皆,これをとって飲め.

・ぶどう酒の聖変化 … Hic est enim calix … (実に,これは私の血のカリス(聖杯)で…)

HIC EST ENIM CALIX SÁNGUINIS MEI, NOVI ET ÆTÉRNI TESTAMÉNTI :
MYSTÉRIUM FIDEI :
QUI PRO VOBIS ET PRO MULTIS EFFUNDÉTUR IN REMISSIÓNEM PECCATÓRUM.

「実に,これは、新しく,そして永遠なる契約の,私の血のカリスである.
信仰の奥義,
それは,あなたたちと多くの人々の罪をゆるすために流されるのである.」


Hæc quotiescúmque fecéritis, in mei memóriam faciétis.
「あなたたちがこれを行うごとに,私のかたみとしてこれを行え.」

カリスを奉挙する

あがないの玄義を再び記念 … Unde et mémores, Dómine, (主よ,さらば記念して…ささげ奉る)

キリストのいけにえを受入れ給えと祈る … Supra quæ (この供物に…)

神なるいけにえとの一致を求める祈 … Supplices (うやうやしく)

死者の記念 
(死者の記念 Commemoratio pro defunctis)… Meménto étiam, Dómine,(主よ,記憶し給え)

天の教会との一致を求める祈 … Nobis quoque (われらは…)

被造物も称讃にあずかる … Per quem (かれによって)

Per quem hæc ómnia, Dómine, semper bona creas, sanctí+ficas, viví+ficas, bene+dícis et præstas nobis.
「主よ,御身は,かれによってこれらすべてをよきものとしてつくり,これを聖+とし,活+かし,祝+し,そしてわれらに与え給う.」

御子による聖父に対する称讃,聖霊との一致において. … Per Ipsum (かれによって,かれと共に,…)

Per ip+sum, et cum ip+so, et in ip+so,
est tibi Deo Patri + omnipoténti
in unitáte Spíritus + Sancti
omnis honor, et glória.
Per omnia sǽcula sæculórum.
R/. Amen.

「かれ+によって,かれ+と共に,かれ+において,
全能の+父なる神よ,
+聖霊との一致において,
御身はすべてのほまれと光栄とを受け給う.
世々に至るまで.」

信者の賛成と称讃 … Amen (アーメン)

ミサ聖祭典文の終わり

C. 主禱文から清めの式まで (聖体拝領)

Ⅵ.パンを割(さ)くこと

今日の糧(かて),聖体を求める祈り … Pater noster (主祷文)(われらの父よ)

Pater noster, qui es in cælis :
sanctificétur nomen tuum ; advéniat regnum tuum ; fiat volúntas tua, sicut in cælo, et in terra. Panem nostrum quotidianum da nobis hódie ; et dimítte nobis débita nostra, sicut et nos dimíttimus debitóribus nostris ; et ne nos indúcas in tentatiónem.
R/. Sed líbera nos a malo.
Amen.

「天にましますわれらの父よ,願わくは御名の尊まれんことを,御国の来らんことを,御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを.
われらの日用の糧を,今日(こんにち)われらに与え給え.われらが人にゆるすごとく,われらの罪を赦し給え.われらを試みに引き給わざれ.」
助祭/.「われらを悪より救い給え.」
司祭/.(小声で)「アメン.」

悪から浄化され,予防されることをこい願う … Líbera nos (われらを救い給え)

Líbera nos, quǽsumus Dómine, ab ómnibus malis, prætéritis, præséntibus et futúris :
et intercedénte beáta et gloriósa semper Vírgine Dei Genitríce María, cum beátis Apóstolis tuis Petro et Páulo, atque Andréa, et ómnibus Sanctis, da propítius pacem in diébus nostris :
ut, ope misericórdiæ tuæ adiúti, et a peccáto simus semper líberi et ab omni perturbatióne secúri.
Per eúndem Dóminum nostrum Iesum Christum, Fílium tuum.
Qui tecum vivit et regnat in unitáte Spíritus Sancti Deus.
Per omnia sǽcula sæculórum. R/. Amen.

「主よ,願わくは,過去,現在,未来のすべての悪からわれらを救い給え.
終生童貞なる永福の,聖母マリア,使徒聖ペトロ,パウロ,アンドレア,および諸聖人のとりつぎにより,御慈悲をもって日々われらに平安を与え,
御あわれみを下して,われらを罪よりすくい,われらをまどわすものより解き放ち給え.
その同じわれらの主,イエズス・キリスト,
神として,聖霊との一致において,御身と共に生きかつ治め給う御子によりて,
世々に至るまで.」助祭/.「アメン」

パンをさくことと,キリストの平和における一致 … Pax Domini (主の平安)

Pax + Dómini sit + semper vobís+cum.
R/. Et cum spiritu tuo.
「主の+平安,+いつも,あなたたち+とともにあれ.」
助祭/.「また,あなたの霊とともに.」

聖なるパンを聖なるぶどう酒に加える‐復活と一致との神秘 … Hæc commíxtio (この平和)

Hæc commíxtio et consecrátio Córporis et Sánguinis Dómini nostri Iesu Christi, fiat accipiéntibus nobis in vitam ætérnam. Amen.

(司祭は,御聖体の小片をカリスの中へ入れて小声でとなえる)
「われらの拝領せんとするわれらの主イエズス・キリストの御体と御血とのこの混和と聖別とが,われらの永遠の生命の糧(かて)とならんことを.アメン.」

神の羔(こひつじ)にこい願う (神羔誦〈しんこうしょう〉)… Agnus Dei
Agnus Dei, qui tollis peccáta mundi : miserére nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccáta mundi : miserére nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccáta mundi : dona nobis pacem.

「世の罪を除き給う天主の小羊,われらをあわれみ給え.
世の罪を除き給う天主の小羊,われらをあわれみ給え.
世の罪を除き給う天主の小羊,われらに平安を与え給え.」

平安の接吻 … Domine Iesu (主イエズス)

Domine Iesu Christe, qui dixísti Apóstolis tuis : Pacem relínquo vobis, pacem meam do vobis :
ne respícias peccáta mea, sed fidem Ecclésiæ tuæ ;
eámque secúndum voluntátem tuam pacificáre et coadunáre dignéris :
Qui vivis et regnas Deus per ómnia sǽcula sæculórum. Amen.

「あなたたちに私の平安をのこす,私の平安を与えると,使徒らにおおせられた主イエズス・キリストよ,
私の罪をかえりみず,主の教会の信仰をかえりみ給え.
そして教会に平安を下し,聖なる御旨の如く,一致させ給え.
世々に生きかつ治め給う神よ,アメン.」

聖体拝領の間近き準備 … Domine Iesu (主イエズス)Percéptio (拝領し奉る)

Domine Iesu Christe, Fili Dei vivi, …
「活ける神の御子イエズス・キリストよ…」

Percéptio Córporis tui, Dómine Iesu Christe, quod ego indígnus súmere præsúmo, …
「主イエズス・キリスト,不肖の私は,あえて御体を拝領し奉る.…」

司祭が,両形色のもとに,聖体を拝領する … Panem cæléstem(天のパンを)Corpus Dómini (主の御体)Quid retríbuam (何をもって主に報いてよかろうか)Sanguis Dómini (主の御血)

Panem cæléstem accípiam, et nomen Dómini invocábo.
「私は,天のパンを受け,主の御名をこい願う.」

Dómine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum : sed tantum dic verbo,
et sanábitur ánima mea.
(司祭は胸を打ちながら,献身的にまたけんそんな心で,小声でとなえる)
「主よ,私は,主をわが家にむかえ奉るにたらぬものである.ただ一言を語り給え.
そうすれば,私の霊魂はいやされるであろう.」(三度繰り返す)

Corpus Dómini nostri Iesu Christi custódiat ánimam meam in vitam ætérnam. Amen.
「われらの主,イエズス・キリストの御体が,私の霊魂を,永遠の生命のために守り給わんことを.アメン.」

Quid retríbuam Dómino pro ómnibus quæ retríbuit mihi ?
Cálicem salutáris accípiam, et nomen Dómini invocábo.
Láudans invocábo Dóminum, et ab inimícis meis salvus ero.
「私に与え給うたすべての善に,私は何をもって主に報いてよかろうか.
私は救いのカリスをとり,主の御名をこい願う.
主の讃美をうたいつつ,こい願おう.そうすれば,私は敵の手の中より救い出されるであろう.」

Sanguis Dómini nostri Iesu Christi custódiat ánimam meam in vitam ætérnam. Amen.
「願わくは,われらの主イエズス・キリストの御血が,私の霊魂を,永遠の生命に守り給わんことを.アメン.」

信者の聖体拝領

Ecce Agnus Dei, ecce qui tollit peccáta mundi.
「世の罪を除き給う神の小羊を見よ.」

Dómine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum : sed tantum dic verbo,
et sanábitur ánima mea.
(御聖体を受ける者は胸を打ちながら三度となえる.)
「主よ,私は,主をわが家にむかえ奉るにたらぬものである.ただ一言を語り給え.
そうすれば,私の霊魂はいやされるであろう.」

(各信者は,祭壇の前にひざまずく)

Corpus Dómini nostri Iesu Christi custódiat ánimam tuam in vitam ætérnam. Amen.
(司祭は各信者の前に御聖体を示し,御聖体で十字架のしるしをしながらとなえ,授ける.)
「われらの主,イエズス・キリストの御体が,あなたの霊魂を,永遠の生命のために守り給わんことを.アメン.」

D. 浄めの式から最後の聖福音まで (感謝の部)

聖器具の始末 … Quod ore súmpsimus, Dómine,(主よ,口で拝領し奉ったものに…)

司祭は指を洗う … Corpus tuum Dómine, (主よ,御体と)

聖体拝領の聖歌 … Communio (聖体拝領誦)

終りの祈り … Postcommunio (聖体拝領後の祈)


Ⅶ.退散と最後の祈:

ミサの終りを告げる(終祭誦)… Ite, missa est.

Ite, Missa est. または Benedicámus Dómino.
「行け,ミサは終った.」

信者は神に感謝する(主を讃美しよう) … Deo gratias (神に感謝し奉る)

いけにえの祭壇を去るに当り,司祭はけんそんに祈る … Pláceat (よみし給え)

Pláceat tibi, sancta Trinitas, obséquium servitútis meæ:
「聖なる三位一体よ,下僕なる私の聖役をよみし給え…」

最後の祝福 … Benedícat (祝福し給わんことを)

Benedícat vos omnípotens Deus, Pater, et Fílius, + et Spíritus Sanctus. R/. Amen.
「全能の神が,あなたたちを祝福し給わんことを,聖父と+(一同十字架のしるしをする)聖子と,聖霊とによりて.」助祭/「アメン.」

最後に福音書を読む … In principio (元始に)

V/. Dóminus vobíscum.
R/. Et cum spíritu tuo.

(Et signans signo crucis primum Altare vel librum, deinde se in fronte, ore et pectore, dicit :)
+ Inítium sancti Evangélii secúndum Ioánnem.
R/. Gloria tibi, Domine.

司祭/. 「主は,あなたたちとともに.」(会衆は起立する)
助祭/. 「また,あなたの霊とともに.」

(司祭は,額と口と胸に親指で小さな十字架のしるしをして言う)
+ヨハネによる聖福音の序.
助祭/. 「主に栄光あれ.」

Ioann. 1, 1-14

In princípio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum. Hoc erat in princípio apud Deum. Omnia per ipsum facta sunt : et sine ipso factum est nihil, quod factum est : in ipso vita erat, et vita erat lux hóminum : et lux in ténebris lucet, et ténebræ eam non comprehendérunt.

Fuit homo missus a Deo, cui nomen erat Ioánnes. Hic venit in testimónium, ut testimónium perhibéret de lúmine, ut omnes créderent per illum. Non erat ille lux, sed ut testimónium perhibéret de lúmine.

Erat lux vera, quæ illúminat omnem hóminem veniéntem in hunc mundum. In mundo erat, et mundus per ipsum factus est, et mundus eum non cognóvit. In propria venit, et sui eum non recepérunt. Quotquot autem recepérunt eum, dedit eis potestátem fílios Dei fíeri, his, qui crédunt in nómine eius : qui non ex sanguínibus, neque ex voluntáte carnis, neque ex voluntáte viri, sed ex Deo nati sunt. (Genuflectit dicens) : Et Verbum caro factum est, (Et surgens prosequitur) : et habitávit in nobis : et vídimus glóriam eius, glóriam quasi Unigéniti a Patre, plenum grátiæ et veritátis.


ヨハネによる聖福音・第1章1-14節

元始(はじめ)にみことば(御言葉)があった.御言葉は天主(神)とともにあった.みことばは天主であった.彼(かれ)は,元始に天主とともにあり,万物は彼によって造られた.造られた物の中(うち)に,一つとして彼によらずに造られたものはない.彼に生命があり,生命は人間の光であった.光は闇(やみ)に輝いたが,闇は彼を悟らなかった.

さて,天主から遣(つか)わされた人がいて,その名をヨハネといった.この人は,光を証明するために来た,またすべての人が彼によって信じるために,証人として来た.この人は,光ではなく,光を証明するために来た.

すべての人をてらす真(まこと)の光は,まさにこの世に来つつあった.みことばは世にあり,世はみことばによって造られたが,世は彼を知らなかった(みことばを認めなかった).みことばは,ご自分の家に来給うたが,その族(人々)はうけいれ(受け入れ)なかった.しかし,その方をうけいれた人々には,みな,天主の子となれる能力(権利)を授(さず)けた.そのみ名を信じるすべての人たち,それは,血統によらず,肉体の意志によらず,人の意志によらず,ただ天主によって生まれた人々である〈ここで片膝を付く〉.

みことばは肉体となって,〈立ち上がる〉われわれの中(うち)に宿り給うた(住まわれた),我々はその栄光を見た.それは,御独り子として御父から受けられた栄光であって,恩寵と真理とに満ちておられた.

R/. Deo grátias.
助祭/「神に感謝し奉る.」


* * *
(毎日のミサ典書(全ローマ・ミサ典書〈ラテン・仏・英(1962年)・日本(1955年)語訳〉を参照)
* * *

2011年5月11日水曜日

真の教皇か? - その2

エレイソン・コメンツ 第199回 (2011年5月7日)

公会議主義の教皇たちの側に主観的な誠意もしくは善意があれば,彼らが客観的に見てゾッとするような異端の言動をしても教皇の資格を失うことは免(まぬか)れるとした見解を一週間前にエレイソン・コメンツ第198回でご紹介しました (教皇ヨハネ・パウロ2世の世界救済についての教えについてはドルマン教授の “Prof. Doermann for John-Paul II’s teaching of Universal Salvation” ,教皇ベネディクト16世の十字架の空洞化についてはティシエ司教の “Bishop Tissier for Benedict XVI’s emptying out of the Cross” 言葉をそれぞれご参照ください). この見解については必ずしも全ての方が同意なさるわけではないでしょう.反対意見をお持ちの方は教皇たちの異端的言動を身の毛のよだつものと断じ, (#1) とうていキリストの真の代理者(教皇)によって発せられることなどあり得ない,また (#2) 主観的な良い信仰がどれほどあろうと客観的に見た毒性を中和できるものではない,あるいは (#3) 古い神学理論で訓練された公会議主義の教皇たちが主観的な良い信仰を持っているなどというのは論外だ,と反論するでしょう.その反論をひとつずつ冷静に受け止めてみましょう :--

まず第一に,主なる神がどの程度までその代理者たちによる(客観的な)裏切りをお許しになるでしょうか? それはただ神のみがご存知のことです.だが私たちは聖書の記述から (ルカ18,4) キリストが再臨されるとき地上にはもはやカトリック信仰 “the Faith” がほとんど残っていないだろうということを知っています.ただ,2011年の現時点でカトリック信仰はすでにそこまで落ち込んでしまっているでしょうか? そう思わない人もいるかもしれません.だとすれば,神は公会議主義の代理者 (教皇) たち “Conciliar Vicars” がさらにひどいことをしても,代理者の資格を停止することなしにお許しになるかもしれません.聖書はカヤファ “Caiphas” が神に対する罪の中の最たる罪,すなわちキリストに対する司法殺人を策謀していたその瞬間でさえも大司祭であったと断言していないでしょうか (ヨハネ11,55) (訳注後記)?

第二に,世界教会にとって善意の異端者による客観的な異端の方が彼らの主観的な善意よりはるかに重要であることは事実ですし,また多くの客観的な異端者が自分の潔白を主観的に確信していることも事実です.この二つの理由から,母教会が正常であるときには,カトリック教会はそうした実質的な異端者に対しその異端を諦(あきら)めるか本気で異端を続けるかのいずれかの選択を強要するメカニズムを持ちます.そのメカニズムとはカトリック教会の異端審問官 “her Inquisitors” です.彼らはカトリック教理の純正 "the purity of doctrine" を守るため異端を定義したり糾弾(きゅうだん)したりする権限を神から授けられています.だがもし客観的な異端を口にしているのがカトリック教会の最高権威だとするとどうなるでしょうか? 教皇より強い権威をもって教皇の過(あやま)ちを正す者が誰かいるでしょうか? 誰もいません! では神は御自身のカトリック教会をお見捨てになったのでしょうか? そうではありません.ただ神は,熱意に欠けるミサ聖祭で済ませている今日のカトリック信徒たちを当然の報いとして厳しい試練に会わせておられるのです - そして,悲しいかな,カトリック伝統派の信徒たちもこの中に入るのではないでしょうか?

第三に,前教皇ヨハネ・パウロ2世と現教皇ベネディクト16世がともに哲学と神学について公会議以前の訓練を受けたのは事実です.だが彼らが訓練を受けるまでに,すでに一世紀以上にわたりカント派哲学の主観主義とヘーゲル派哲学の進化論の虫が,不変の(=変更不可能な)カトリック教義 “unchangeable Catholic dogma” がよって立つ客観的かつ不変の(=常に変わらない)真理 “unchanging truth” の核心部分を蝕(むしば)んでしまっていたのです.二人の教皇のいずれにも - たとえば人気取りに走ったとか,知的プライドにこだわったとかで - 道義的な落ち度があり,そのために実質的な異端に陥(おちい)ったと論じ得るかもしれません.だが,道義的な落ち度があるということで,二人を実質的な異端者から公式の異端者へと変えるのを目的に権威ある正式の教理上の糾弾 “authoritative doctrinal condemnation” に結び付けることはできないでしょう.

したがって,公式の異端者のみがカトリック教会から排除されること,そして公式の異端者だと立証する唯一かつ確実な方法が二人の教皇の場合には見当たらない以上,公会議主義の教皇問題についての意見は一定の幅を持たせたままにしておくべきです.「教皇空位主義者」 “Sedevacantist” という言葉は「カトリック伝統派」が言うほどの禁句には当たりませんが,一方で教皇空位主義者たちの主張は彼らが願ったり見せかけたりしているほど結論がはっきり出ているわけではありません.結論としては,教皇空位主義者たちは依然としてカトリックでしょうし,カトリック信徒がすべて教皇空位主義者になるよう強制されているわけでもありません.少なくとも私個人としては,公会議主義の教皇はみな有効な教皇だと信じています.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


第2パラグラフの訳注:

①(新約聖書・ルカによる聖福音書:第18章4節)(太字部分)(18章1-8節を記載)

『またイエズスはうまずたゆまず祈れと教えて,たとえを話された,
「*¹ある町に神を恐れず人を人とも思わぬ裁判官があった.またその町に一人のやもめがいて,その裁判官に〈私の敵手(あいて)に対して正邪(せいじゃ)をつけてください〉と頼みに来た.
彼は久しい間その願いを聞き入れなかったが,とうとうこう考えた,〈私は神も恐れず人を人とも思わぬが,あのやもめはわずらわしいからさばいてやろう.そうすればもうわずらわしに来ることはあるまい〉」.
主は,「不正な裁判官の言ったことを聞いたか.*²神が夜昼ご自分に向かって叫ぶ選ばれた人々のために,正邪をさばかれぬことがあろうか,その日を遅れさすであろうか.私は言う.神はすみやかに正邪をさばかれる.
とはいえ,人の子の来る時(=キリストの再臨・再来の時),地上に信仰を見い出すだろうか…」と言われた.』

(注釈)

不正な裁判官 (18・1-8)
2-8節 このたとえは,特に世の終りの苦しみにあたって不断に祈れと教える

神は選ばれた人々を忘れておられるようにみえても,けっしてそうではない.ただ待たれる.彼らの正義はやがて証明されるだろう

* * *

①の続きの部分(ルカによる聖福音書・第18章9節-19章27節まで)

第18章9節から

ファリサイ人と税吏
*³自分を義人と信じ,他の人をさげすむ者については,こんなたとえを話された,
「二人の男が祈ろうと神殿に上った.一人はファリザイ人で一人は税吏(ぜいり)だった.
*⁴ファリザイ人のほうは立って心の中でこう祈った,〈神よ,私は他(た)の人のように,食欲な人,不正な人,姦通する者でなく,またこの税吏のような人間でもないことを,あなたに感謝いたします.私は*⁵週に二度断食し,全所得の十分の一をささげています〉と.
税吏は離れて立ち,目を天に向けることさえせず,胸を打ちながら,〈ああ,神よ,罪人の私をおあわれみください〉と祈った.
私は言う.この人は義とされて家に帰ったが,先の人はそうではなかった.高ぶる人は下げられ,へりくだる人は上げられる」.

子どもたち
また,イエズスに触れていただこうとして,人々が子どもを連れてきたので,それを見て弟子たちは彼らをとがめた.
だがイエズスは子どもたちを呼び寄せ,「子どもたちを私のところに来させよ.とめてはならぬ.神の国を受け入れるのはこのような者たちである.まことに私は言う.*⁶子どものように神の国を受け入れぬとそこには入れぬ」と言われた.

若い金持ち
ある重(おも)だった人が,「よい先生,永遠の生命を受けるために私はどうしたらよいのでしょうか?」と尋(たず)ねた.
イエズスは,「*⁷なぜ私を〈よい〉と言うのか?神御一人のほかよい者はない.あなたは,*⁸〈姦淫するな〉〈殺すな〉〈盗むな〉〈偽証するな〉〈父母を敬え〉という掟(おきて)を知っているだろう」と言われた.
その人が,「私は小さい時からそれをみな守ってきました」と言うと,イエズスは,「あなたに足りないのは一つのことだけだ.あなたは持ち物をみな売って、貧しい人に施(ほどこ)すがよい.そうすれば天に宝を積むだろう.それから私についてくるがよい」と言われた.彼はこれを聞いて悲しんだ.大金持ちだったからである.
それを見てイエズスは言われた,「金持ちが神の国に入るのはなんと難しいことだろう.*⁹金持ちが神の国に入るよりは,駱駝(らくだ)が針の穴を通るほうがやさしい」.
これを聞いた人々は,「すると救われるのはどんな人ですか?」と尋ねた.イエズスは,「人間にはできぬことも,神にはおできになる」と答えられた.

弟子の受ける報い
ペトロが,「ごらんのとおり,私たちはあなたに従うために,自分の持ち物を捨てました」と言った.
イエズスは答えられた,「まことに私は言う.神の国のために,家,妻,兄弟,両親,子どもたちを捨てながら,*¹⁰この世でもっと多くのものを受け,後の世で永遠の生命を受けぬ者はない」.

受難の預言
イエズスは十二人の弟子をそばに呼び,「*¹¹私たちはイエルザレムに上る.人の子(イエズス御自身〈キリスト〉)について預言者たちの書き残したことは,みな実現するだろう.人の子は異邦人にわたされ,あざけられ,侮辱され,つばをかけられるだろう.彼らは人の子をむち打ち,そして殺すだろう.それから三日目に彼はよみがえる」と言われたが,弟子たちにはそれが何一つとしてわからなかった.そのことばは彼らにとってわかりにくく,その意味も理解できなかった.

イエリコの盲人
イエズスがイエリコに近づかれると,道ばたに座って施しを乞う盲人がいた.群衆が通り過ぎるのを聞いた盲人は,何事ですかと尋ねた.「あのナザレ人のイエズスが通られるのだ」という返事があった.
すると,*¹²盲人は,「ダヴィドの子イエズス,私をおあわれみください」と叫び出した.先頭の人たちが叱(しか)って黙(だま)らせようとしたけれど,「ダヴィドの子,私をおあわれみください」とますます叫び立てた.
イエズスは足をと止め,その人を連れてくるように命じ,近づいたときに,「あなたは私に何をしてもらいたいのか」と尋ねられた.盲人は,「主よ,見えるようにしてください」と言った.
イエズスが,「見えよ.あなたの信仰があなたを救った」と言われると,盲人はたちまち見えるようになり,神をたたえながらイエズスについていった.これを見た人々はみな神に賛美をささげた.

(注釈)

ファリサイ人と税吏 (18・9-14)
祈りの第一条件は謙遜である

*⁴ ファリサイ人の倣慢(ごうまん)な態度が現れている.「他の人」といっているように,彼は自分だけが義人だと思っているのである.倣慢な人は,他人を軽蔑(けいべつ)するものである.

*⁵ 熱心なユダヤ人はこうしていた.

子どもたち (18・15-17)
*⁶ 小さな子どもは悪を知らず,富を望まず,傲慢も憎悪ももたず,言われることを正しいこととしてそのまま受け入れる.神のみことばに対して,人はこうあらねばならぬ

若い金持ち(18・18-27)
*⁷ イエズスは,ここでは自分の神性には触れない.青年はイエズスを先生の一人とみて,よい先生と言っている.しかしイエズスは,どんなに完全な人間でも神と比べればよいとは言えないと知らせる.

*⁸ 〈旧約〉脱出の書20・12-16参照.

*⁹ 誇張法の一つである.神の国よりも自分の富に執着する者は,永遠の生命を受けられない

弟子の受ける報い (18・28-30)
*¹⁰ 完徳に達するために,自己のすべてを神にささげる者は,この世においても,自分の犠牲の報いを受ける.

受難の預言 (18・31-34)
*¹¹ 31―33節 受難の四回めの預言である(9・22,44,17・25).しかし,前よりもはっきりと言われている.その時が次第に近づいているからである(イザヤ53章).

イエリコの盲人(18・35-43)
*¹² この盲人は,ナザレトのイエズスが多くの奇跡を行ったことを知っている.そしてそこから,イエズスこそ来るべきメシアだと悟り,「ダヴィドの子」と叫んだ.

* * *

第19章 

ザカイ
イエズスはイエリコに入り,その町を通られた.*¹そこに名をザケオという人がいた.彼は税吏のかしらで金持ちだった.彼はイエズスとはどんな人か見ようとしたが,背は低かったし,群衆の波で見ることができなかった.そこで前に走っていって,イエズスを見ようといちじく桑(ぐわ)の木によじ登った.そこを通られるはずだったからである.
イエズスはそこに来られると目をあげ,「*²ザケオ,早く下りよ.私は今日あなたの家に泊まる」と言われた.彼は喜んで飛び下り,イエズスを迎えた
これを見ていた人々はみな,「あの人は罪人の家の客になったのか」と非難したが,*³ザケオは毅然(きぜん)として,「主よ,私は財産の半分を貧しい人々に施します.また,私が他人に何かの損害を与えていたら四倍にして返します」と言った.
イエズスは,「今日この家に救いが来た.この人もアブラハムの子である.人の子(=神の御子イエズス)は見失ったものを尋ねて救うために来た」と言われた.

ムナのたとえ
人々がこの話をきいていると,イエズスはまた次のたとえを語られた.それは,*⁴イエズスがイエルザレムに近づいておられたので,人々は神の国がすぐ来るだろうと思っていたからである.
イエズスは言われた,「*⁵ある貴人が王位を受けるために,遠国に行くことになった.そのとき十人のしもべを呼び集め,*⁶十ムナを渡し,〈私が帰るまでこれをうまく使え〉と言った.その地方の人々はこの人を憎んでいたので,あとから使いを送り〈私たちは彼が王になるのを望まぬ〉と言わせた.
その貴人は王位を受けて帰ると,金を渡しておいたしもべたちがめいめい金をどう使ったかを知ろうとして呼んだ.はじめの人は進み出て,〈主よ,あなたの一ムナで十ムナをもうけました〉と言ったので,彼は,〈よろしい,よいしもべだ.あなたは小さな事に忠実だったから,十の町を支配せよ〉と答えた.次の人が来て,〈主よ,あなたの一ムナで五ムナをもうけました〉と言ったので,また彼は,〈あなたは五つの町のかしらになれ〉と答えた.
ほかの一人も来て,〈主よ,私はあなたの一ムナをふくさに包んでしまっておきました.これです.預けなかったものを取り,まかなかったものを刈り取る厳(きび)しいあなたを,私は恐れました〉と言ったので,彼は言った,〈悪いしもべだ.私はあなたのことばに基づいてさばこう.私が預けなかったものを取り,まかなかったものを刈り取る厳しい人間であることを,あなたは知っていた.それなら,なぜ私の金を貯金として預けなかったのか.そうすれば帰ってきたときに,その金と利子を引き出したであろう〉.
そして,そばにいた人々に,〈この者の一ムナを取り上げ,十ムナを持つ者に与えよ〉と言った.彼らが,〈主よ,あの人はもう十ムナ持っています〉と言ったが,主人は答えた,〈私は言う,持っている者には与えられ,持たぬ者からは持っているものさえ取り上げられる.私が王になるのを望まなかったあの敵どもをここに連れてきて,私の前で絞め殺せ〉」.

(注釈)

ザカイ(19・1-10)
*¹ ルカは普通は名を書かないが,ここでは名が記されている.ザケオはのちにイエズスの弟子となり,ルカはザケオを知っていたほかの信者からこの話を聞いたものらしい.

*² イエズスはザケオの名とその善良な心を早くも見抜いておられた.

ザケオは,恩寵に喜んで服従する改心者の模範である.ある伝説によると,ザケオはペトロの弟子どなり,カイザリアの司教になったと言う.

ムナのたとえ(19・11-27)
*⁴ 多くのユダヤ人は,イエズスの奇跡を見て,イエズスこそメシアであると考えたが,しかし彼らは,いつも,黙示録的な光栄のメシアの国が来ることを待ち望んでいた.過ぎ越しの祭りのために,イエズスはイエルザレムに上り,多くの人々を集めておられたので,今こそその国が始まるだろうと考えた.
これに対してイエズスは,キリストの国の到来までに,多くの試練と長い期間があることを教える

*⁵ 12-27節 王はイエズス,王権を受けに行く遠国は天,しもべらに預けたムナは神の恵み,君臨を望まない悪人どもはユダヤ人,王の帰りは審判を意味する
人間は与えられた恵みに応じて厳しくさばかれるであろう

*⁶ マテオ聖福音18・24の注参照.
→(マテオ18・24の注釈)
神殿ではユダヤの貨幣だけが用いられていたが,その他のときにはギリシアやローマの貨幣も用いられた.ユダが裏切りのときに受けた銀貨はシェケル(一シェケル=四ドラクマ)である.
ギリシアの貨幣は次のとおりである.オポロスドラクマの六分の一,ディドラクマはニドラクマである.スタテルは四ドラクマ(銀シェケルと同値)で,一般にもっとも広く用いられていた.ムナは一〇〇ドラクマ,タレントは六〇〇〇ドラクマである.タレントはまた目方でもあり,四十二・五三三キロに相当する.
ローマの貨幣は,デナリオがギリシアのドラクマにあたり,アサリオンはデナリオの十分の一,コドラントはアサリオンの四分の一,レプタまたはミヌトゥム(ブルガタ訳)はコドラントの四分の一である.

* * *

②(新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第11章55節→49-53節〈太字下線部分〉)(第11章全文を記載)

第11章 

ラザロがよみがえる(11・1-46)
さて,ここに一人の病人があった.*¹ベタニアの人ラザロといった.ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった.この*²マリアは主に香油を塗り,自分の髪の毛で御足をぬぐった女で,病人のラザロはその兄弟だった.姉妹はイエズスに人を送り,「主よ,あなたの愛しておられる人が病気です」と言わせた.
これを聞いてイエズスは,「それは死の病ではない.それは神の光栄のため,神の子がそれによって光栄を受けるためのものである」と言われた.イエズスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられたけれども,ラザロが病気だと聞いてからなお二日,*³元の所にとどまられた.
その後,弟子たちに「ユダヤに帰ろう」と言われたので,弟子たちは,「先生,ユダヤ人たちはこの前もあなたを石殺しにしようとしたのに,またあそこにお帰りになるのですか」と言った.イエズスは答えられた,「*⁴昼間は十二時間あるではないか.昼の間に歩く人は,この世の光を見るからつまずきはしない.夜歩けば,光がその人にないからつまずくのだ」.
またその後,「私たちの友人ラザロは眠っている.私は彼を起こしに行く」と言われた.弟子たちは,「主よ,眠っているのなら治るでしょう」と言った.イエズスは彼が死んだと言われたのだが,弟子たちは眠って休んでいることなのだと思った.そこでイエズスははっきりと,「ラザロは死んだ.私があそこにいなかったことを,私はあなたたちのために喜ぶ.*⁵あなたたちが信じるようになるために.では彼のところに行こう」と言われた.ディディモと呼ばれるトマは,「*⁶私たちも一緒に行こう,ともに死のう」と弟子たちに言った.
イエズスが行かれると,ラザロはもう四日前から墓に入っていた.ベタニアはイエルザレムに近く,ほぼ*⁷十五スタディオンばかりの距離にあった.大勢のユダヤ人が,その兄弟のことについて,マルタとマリアを慰めに来ていた.マリアは家に残って座っていたが,マルタはイエズスが着かれたと知って迎えに行き,「主よ,もしあなたがここにましましたら,私の兄弟は死ななかったでしょう.
*⁸けれども今でも私は,あなたが神にお願いになることは,なんでも神が与えてくださることを知っています」と言った


イエズスは,「あなたの兄弟はよみがえるだろう」と言われた.マルタは,「彼も終わりの日,復活の時によみがえることを知っています」と言った.

イエズスが,「私は復活であり命である.*⁹私を信じる者は死んでも生きる.*¹⁰生きて私を信じる者は永久に死なぬ.あなたはこのことを信じるか」と言われると,
彼女は,「*¹¹そうです,主よ,あなたがこの世に来るべきお方,神の子キリストであることを信じます」と言った


それから彼女はマリアを呼びに行き,「先生がおいでになって,あなたを呼んでいらっしゃる」と小声で言った.マリアはこれを聞くと,すぐ立ち上ってみもとに行った.イエズスはまだ村に入らず,マルタが出迎えた所におられた.マリアとともに家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは,マリアがすぐ立ち上って出たのを見て,墓に泣きに行くのだろうと思ってついて行った.
マリアはイエズスのところに着き,彼を見るやその足もとにひれ伏し,「主よ,もしあなたがここにおいでになったなら,私の兄弟は死ななかったでしょう」と言った.イエズスは,彼女がすすり泣き,ともに来たユダヤ人たちも泣いているのを見て感動し,心を騒がせられ,「彼をどこに納めたのか」と言われた.マリアは,「主よ,来てごらんください」と答えた.イエズスは涙を流された.ユダヤ人たちは,「ほんとに,どんなに彼を愛しておられたことだろう」と言った.その中のある人は,「あの盲人の目をあけた人でも,彼が死なぬようにはできなかったのだろうか」と言った.イエズスはまた感動された.
それから墓に行かれた.墓は洞穴で前に石が置いてあった.イエズスは,「石を取りのけなさい」と言われた.死人の姉妹マルタは「主よ,*¹²四日も経っていますから,臭(くさ)くなっています」と言ったが,イエズスは,「もしあなたが信じるなら,神の光栄を見るだろうと言ったではないか」と言われた.石は取りのけられた.
イエズスは目を上げて話された,「父よ,私の願いを聞き入れてくださったことを感謝いたします.私はあなたが常に私の願いを聞き入れてくださることをよく知っています.私がこう言いますのは,この回りにいる人々のためで,あなたが私を遣わされたことをこの人たちに信じさせるためであります」.
そう言ってのち,*¹³声高く「ラザロ外に出なさい」と呼ばれた.すると死者は,手と足を布でまかれ顔を汗拭(あせふ)きで包まれたまま出てきた.イエズスは人々に,「それを解いて,行かせよ」と言われた.

イエズスの死を謀る(11・47-57)
マリアのところに来ていて,イエズスのされたことを見た多くのユダヤ人は彼を信じた.しかし,その中のある人はファリザイ人のところに行き,イエズスのされたことを告げたので,司祭長たちとファリザイ人たちは,議会を開き,「どうしたらよかろう.彼は多くの奇跡を行っているから,もしこのまま捨てておいたら,人々はみな彼を信じるようになるだろう.そしてローマ人が来て,われわれの*¹⁴聖なる地と民を滅ぼすだろう」と言った.
その中の一人で,その年の大司祭だったカヤファは,「あなたたちは何一つわかっていない.一人の人が民のために死ぬことによって全国の民の滅びぬほうが,あなたたちにとってためになることだとは考えないのか」と言った.*¹⁵彼は自分からこう言ったのではない.この年の大司祭だった彼は,イエズスがこの民のために,また,ただこの民のためだけではなく,散っている神の子らを一つに集めるために死ぬはずだったことを預言したのであるイエズスを殺そうと決めたのはこの日からであった
そこでイエズスは,もう公にユダヤ人の中を巡らず,ここを去って荒れ野に近いエフライムという町に行き,弟子たちとともにそこにとまられた.
ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが近づき,多くの人々は清めをするために,過ぎ越しの祭りの前に,地方からイエルザレムに上ってきた.彼らはイエズスを捜し求め,神殿に立って,「どう思う.イエズスは祭りに来ないだろうか」と言い合った.司祭長たちとファリザイ人たちがイエズスを捕えようとして,彼の居所を知っている者は届け出よと命じていたからである.

(注釈)

ラザロがよみがえる(11・1-46)
*¹ オリーブ山の東側にあり,現在のエル・アザリエにあたる.

*² ルカ(7・38)に登場する罪の女はマリア(マグダラの)と同一人物であると考えてよい.

*³ ヨルダンのかなたのある場所.

*⁴ この世での期間を知っておられたイエズスは,昼歩く人がつまずかないと同様に,人のかけるわなを恐れなかった.

*⁵ ラザロの死は,人々の信仰を強める奇跡の機会となった.

*⁶ トマのことばは,先生と生死をともにしようとする忠実な弟子のことばである.イエズスにとってイエルザレムに行くことは,(ベタニアはイエルザレムに近かったから)非常に危険だと知っていたのである.しかし,行かねばならないなら,死地におもむく師の供をしようと言った
ディディモはヨハネだけの記しているトマのあだ名である.ディディモ(双生児)は,アラマイ語のトマのギリシア語である.

*⁷ 約2800メートル.

*⁸ マルタはイエズスを信じているが,しかし,死者をよみがえらすような大それた願いをしていいかどうかためらっている.

*⁹ 信仰している人は,すでに死に打ち勝った人である.ラザロのよみがえりはその証明である(3・11以下).

*¹⁰ イエズスの考えは,マルタが考えていたよりも,もっと深いものである.
今話していた復活のもとは,ほかならぬイエズス自身である.
イエズスは復活であるが,それはイエズスが命だからである.信仰によって人々に受けさせ,自然の死によっても滅ぼされない永遠の命は,イエズスである


*¹¹ マルタは,ラザロのことがどうなっても,イエズスが確かにメシアで,命の分配者で,神の子だと信じていた
彼女の信仰告白は,ナタナエル(1・48,イエズスの弟子の一人〈バルトロメオ〉のこと)よりも気高いもので,ペトロの信仰告白(6・69)に肩を並べうる

*¹² このとき,マルタはもう復活の可能性を考えなかった.ただ,腐りかけた死人を見なければならないと考えて恐れた.
しかし,イエズスは,先のマルタの信仰告白の報いを,ここで与えられた

*¹³ ヤイロの娘(マルコ5・41),ナイン(ナイム)の未亡人の息子(ルカ7・14)のよみがえりのときのように,声高く,威厳をこめて,イエズスは命令された.

イエズスの死を謀る(11・47-57)
*¹⁴ エルサレムか,ユダヤか,あるいは聖なる所,神殿をこう言ったのである.

*¹⁵ カヤファは,ユダヤが滅びるよりも,イエズス一人を犠牲にするほうが正しいと考えた.しかし,神のご計画として,イエズスは全人類の救いのために死ぬのである

* * *

2011年5月4日水曜日

真の教皇か? - その1

エレイソン・コメンツ 第198回 (2011年4月30日)

3週間前 (4月9日付エレイソン・コメンツ第195回) に私が前教皇ヨハネ・パウロ2世の 「列福」 “beatification” はただ単に前教皇を 「新しい教会」 “the Newchurch” の 「新しい福者」 “a Newblessed” にするにすぎないと述べたことから,私はいわゆる 「教皇空位主義者」 “a sedevacantist” なのではないかというもっともな質問を受けました.結局のところ,もし私が現教皇ベネディクト16世は 「新しい教皇」 “a Newpope” だと事実上宣言するとすれば,どうして私はそれでもなお現教皇が真の教皇 “a true Pope” であると信じることができましょうか? 実際のところは,私は現教皇が公会議主義下の教会の 「新しい教皇」 であると同時にカトリック教会の真の教皇でもあると信じています.なぜならこの二者のいずれも依然として相手を完全に排除していないからです.したがって私はいわゆる教皇空位主義者ではありません.その論拠の最初の部分を以下に述べます:--

一方で,私は現教皇ベネディクト16世を正当な教皇だと認めています.なぜなら現教皇は2005年に行われたコンクラーベ (訳注・ “conclave” = 教皇選挙 〔秘密〕 会議) で,ローマの教区司祭たち,すなわち枢機卿たちによりローマ司教として正当に選任されておられるからです.仮に多少の隠された不備があって選挙そのものが無効なものだったとしても,カトリック教会の教える通り,結果として全世界のカトリック教会により教皇と認められたことで現教皇の地位は追認されているのです.ということであれば,私は現教皇ベネディクト16世に対しキリストの代理者としてのあらゆる尊敬,崇敬,支持を表すつもりです.

他方で,ローマ教皇としての言動から彼が 「公会議主義を是(ぜ)とする」 教皇 ““Conciliar” Pope” であり,その公会議主義下の教会の長であることは明らかです.単にそれを示す最近の明白な証拠を挙げれば,ひとつは明日行われる第二バチカン公会議の偉大な推進者である前教皇ヨハネ・パウロ2世の「新しい列福」 “Newbeatification” であり,もうひとつは来る10月に予定されているヨハネ・パウロ2世提唱の1986年の惨憺(さんたん)たるアッシジ行事 “disastrous Assisi event of 1986” の記念式典です.これらはいずれも,人間の造り出した公会議主導のキリスト教統一運動 “man's Conciliar ecumenism” の名の下に神の十戒の第一戒律を破るものです.この第一戒律がすべての誤った諸宗教を排除するのに対し (第二法の書(申命)5章7-9節) (訳注後記),第二バチカン公会議は事実上それらすべてを受け入れています ( 「エキュメニズム (教会統一〈一致〉) に関する教令」 “Unitatis Redintegratio” , 「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」 “Nostra Aetate” ).したがって,現教皇ベネディクト16世はキリストの代理者として存在しながら,同時に同胞のカトリック信仰を強め固めるという自分自身の神聖な機能を裏切っているのだと私は考えます (ルカ聖福音22章32節) (訳注後記).ですから私は現教皇をペトロとして十分に尊敬しますが,現教皇がペトロのように振舞わない場合には現教皇に従ったり服従することはしないつもりです (使徒行録5章29節) (訳注後記).これはルフェーブル大司教 “Archbishop Lefebvre” がなされた区別です.

だが - 少なくとも客観的に見て - 現教皇ベネディクト16世は真の宗教を裏切っていながらも同時にそれに固執していることに注目して下さい! 例えば,第三回アッシジ諸宗教合同祈祷集会 (アッシジIII) が第一回アッシジ諸宗教合同祈祷集会 (アッシジI) のように諸宗教を一緒くたに混ぜ合わせていると非難されるのを防ぎたいがため,現教皇は諸宗教の代表者たちを集め彼らと合同で公開のアッシジへの巡礼を沈黙のうちに行うことを予定しています.言い換えれば,ベネディクト16世は誤りを推し進める間でさえ真理を見捨てるつもりはないのです! そして彼は常にこのやり方で,2+2は4にも5にもなり得ると主張する算術家に似た存在となっています! 教皇から発しているだけに,このやりかたはカトリック教会を上から下まで混乱させるレシピとなっています.というのも,教皇のこの4か5の「算術」に従う者は誰でも,頭の中で完全な矛盾と混乱に振り回されてしまうことになるからです!

だが算術家としての教皇ベネディクト16世は,自分は2+2=4だと信じていると断固主張されていることに注目して下さい.そして,現教皇のこの主張が誠実である限り,またそれは確かに誠実に見えますが - 神のみぞお知りになることです - ベネディクト16世はカトリック教の真理と定義されるあらゆる真理を故意に否認しておられるわけではないのです.むしろ教皇は,ティシエ司教 “Bishop Tissier” がお示しの通り,現代的思考法の助けを借りてその真理を「生まれ変わらせようとしている」と自ら確信しておられます! このことが公式な異端だとの非難を教皇にあてはめることを難しくしています.たとえ教皇が2+2=5を好みそれを推し進めていても,私自身がまだ教皇空位主義者になっていないのはそのためです.

神の御母よ,上智の座よ,私たちを混乱から守り給え!
(訳注後記)

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

第3パラグラフの訳注:

① (旧約聖書・第二法の書(申命):第5章7-9節) (5節後半-10節を記載)
(十戒)
『神はこう仰せられた,
〈*私はおまえたちの神なる主である.エジプトの地,奴隷の家からおまえたちを連れ出したのは私である.
私以外の神々を礼拝してはならぬ.
上は天にあるものから,下は地にあるもの,地の下の水の中にあるものまで,それらのものに似た形の像を刻むな.おまえたちはそれらの前にひれ伏すことも奉仕することもならぬ.
主なる私は,おまえの神だからである.私を憎む者には,父の罪を子に三代四代の世代までもずっと罰するねたみ深い神であるが,私を愛しておきてを守る者には,千代(ちよ)までも下って慈愛を示す.…』

(注釈)
*十戒は神との契約の土台である(旧約・脱出の書20・6-17).第二法では脱出の書以上に「神への義務と隣人への義務」を主張している.
預言者もイエズスもともに十戒を守ることが永遠の生命への道と教え(新約・マテオ聖福音19・16-19),神と隣人との道を分け得ざるものとして説いている(マテオ22・36-40,ルカ聖福音10・25-37).

* * *

② (新約聖書・ルカ聖福音書:第22章32節(太字下線部分) (第22章1-38節を記載)
(策略)
『さて,*過ぎ越しと言われている種なしパンの祭りの日は近づいた.司祭長と律法学士たちは,イエズスを亡き者にする方法を探していた.彼らは民衆を恐れていたからである.
ところが,十二人の一人だったイスカリオトと呼ばれるユダにサタン(悪魔)が入ったので,ユダは司祭長たちと番兵のかしらたちのところへ行って,イエズスを渡す方法について相談した.喜んだ彼らは,ユダに金をやろうと約束した.ユダは承知して,群衆が知らぬ間にイエズスを渡す好いおりをうかがっていた.

(注釈)
*ヘブライ人がエジプトを逃げたとき,パンをふくらす暇さえもなかったので,その記念として過ぎ越しの祭りの八日間,パン種のないパンを食べる習慣となった.

(最後の晩餐と聖体)
*¹過ぎ越しのいけにえを供える種なしパンの日が来た.イエズスはペトロとヨハネを遣わすにあたり,「私たちの食事のために過ぎ越しの準備をしに行け」と言われた.彼らが「どこに準備すればよろしいでしょうか」と聞いたので,イエズスは、「市中に入ると水瓶(がめ)を持っている人に出会うから,その人の入る家について行き,家の主人に,〈先生が"弟子たちとともに過ぎ越しの食事をする部屋はどこか"と申されていました〉と言え.すると,主人は席を整えた二階の大広間を見せてくれるから,そこに準備せよ」と言われた.
彼らが行ってみるとイエズスの言われたとおりだったので,過ぎ越しの準備をした.

時刻が来たので,イエズスは使徒たちとともに食卓につかれた.
そして,「私は苦しみの前に,あなたたちとともにこの過ぎ越しの食事をしたいと切に望んでいた.私は言う.神の国でそれが完成するまで,私はもう*²これを食べない」と言われた.
*³そして杯を取り,感謝して「これを取って互いに分けよ.私は言う.神の国が来るまで,これからのち,私はもうぶどうの実の汁を飲まぬ」と言われた.
またパンを取り,感謝して裂き,弟子たちに与え,「これはあなたたちのために与えられる私の体である.私の記念としてこれを行え」と言われた.
食事ののち,杯(さかずき)も同じようにし,「この杯は,あなたたちのために流される私の血による新しい契約である
.私を裏切る者は,私とともに手を食卓においている.人の子(イエズス)は,定められたとおりに去る.だがそれを裏切る者は災(わざわ)いである」と言われた
そんなことをするのは,われわれの中のだれだろうかと弟子たちは尋(たず)ね合っていた.

(注釈)
*¹種なしパンの第一日は,ニサン月の十五日で,その前夜,ユダヤ人は小羊をほふって食べた.しかし,種のあるパンは,十四日の昼までになくしてしまうはずなので,この日(十四日)を種なしパンの日と呼び慣れてきたのである.

*²イエズスはもうこの世で過ぎ越しの祭りを行うことはない.イエズスの過ぎ越しの祭りは,み国の霊的生活の中心である聖体において行われる.そして完成するのは天の国においてである

*³この聖体制定の記述はパウロ(新約・コリント人への手紙(第一)11・23-25)によく似ている.

(弟子たちへの戒め)
また,彼らの間で,だれがいちばん偉いのだろうかという争いが起こった.
イエズスはこう言われた,「異邦人の国では王がその民を支配し,またその国々で権力を振るう人々は*¹恩人と言われるが,あなたたちはそうであってはならぬ.
あなたたちの中でいちばん偉い者は年下のようになり,支配する者は給仕する者のようにならねばならぬ
.食卓につく者と給仕する者とどちらが上だろうか.食卓につく者ではないか.私はあなたたちの間で給仕する者のようである
私の試みの間あなたたちは絶えず私とともにいたのであるから,父が私のために王国を備えられたように,私もまたあなたたちのために王国を備えよう.あなたたちは私の王国の食卓で飲食し,また王座についてイスラエルの十二族をさばくであろう.

シモン(ペトロ),シモン,サタンはあなたたちを麦のようにふるいにかけることができたが,*²私はあなたのために信仰がなくならぬようにと(父なる神に)祈った.あなたは心を取りもどし,兄弟たちの心を固めよ」.

(注釈)
*¹エジプトのプトレマイオ家の王らは,家臣から「恩人」と呼ばれた.

(32節)カトリック神学は,ペトロの後継者の教導権と不可謬(ふかびゅう)性を証明するために,このところを挙げる

(ペトロの否みを預言された)
シモンは「主よ,私はあなたとともに牢獄にも死にも行く覚悟です」と言ったが,イエズスは,「ペトロよ,私はあなたに言う.今日雄鶏(おんどり)が鳴くまでに,あなたは私を知らぬと三度否むだろう」と言われた.

弟子たちには「財布も袋も履物(はきもの)も持たせずにあなたたちを遣わしたとき,不足のものがあったか」と言われた.かれらは「まったくありませんでした」と答えた.
そこでイエズスは,「*¹しかし今財布を持っている者はそれを持ち,袋を持っている者もそうせよ.また剣(つるぎ)を持たぬ者は,服を売って剣を買え.私は言う.*²〈彼は罪人の中に数えられた〉と記されていることは,私において成し遂げられる.私に関することはまさに実現しようとしている」と言われた.
弟子たちは,「主よ,ごらんください.ここに剣が二振り(ふたふ)りあります」と言ったが,主は,「*³もうよい」と答えられた.

(注釈)
*¹今まで彼らはイエズスの弟子としてもてなされたが,これから(聖週間・聖木曜日から)はちがう.そのイエズスの弟子であるために憎まれ,迫害されるであろう.彼らはすべての手段を尽くして,悪人の暴力を防がねばならない.しかしこのことばをそのままにとってはならない.イエズスは暴力に暴力を返せとは言わない.ただ近い迫害の苦しみをあらかじめ教えようとされた

*²〈旧約〉イザヤの書53・12参照.

*³イエズスは,弟子らが自分の話を理解できなかったのを見て,話を中止し,「もうよい」と言われた.まもなくゲッセマニにおいて,弟子らにもイエズスのことばがわかるであろう.

* * *

③ (使徒行録5章29節(太字部分)(12-42節を記載)

『使徒たちによって,多くの奇跡と不思議が人々の中で行われていた.信者たちはともにソロモンの廊下に集まっていた.*¹ほかの人々はだれ一人として彼らとあえて交わろうとしなかったが,人人は彼らを非常に賞賛していて,*²主を信ずる男女の群衆はますます増えつつあった.人々は病人たちを道に運び出すほどになり,寝台や担架に乗せ,ペトロが通るとき,せめてその影に覆われようとした.*³イェルザレム付近の町々からも群衆が集まり,病人と汚れた霊に悩まされる人々を連れてきた.彼らはみな治された.

すると,大司祭とその一味すなわちサドカイ派の人々は,ねたましさにかられて立ち上がり,使徒たちに手をかけて牢に投じた.
ところが,夜中に主の天使が牢の戸を開き,彼らを外に連れ出して,「行きなさい,神殿に立って*⁴命のことばをすべて人々に語りなさい」と言った.これを聞いた彼らは,夜明けに神殿に入って教え始めた.
さて大司祭とその一味は集まり,衆議員とイスラエルの子らの長老たちを呼び集め,使徒たちを連れてこいと牢に人を送った.番兵たちは行ったが,彼らが牢の中にいないのを知ったので,帰ってきて,「牢が固く閉ざされて,戸の前に番兵が立っているのを見ましたが,開きますと,中にはだれもいませんでした」と知らせた.*⁵これを聞いて神殿守衛長と司祭長たちは何のことだろうと当惑した.
そのときある人が来て,「あなたがたが牢に入れたあの人たちは神殿に立って人々に教えています」と告げた.早速,神殿守衛長は番兵を連れてそこへ行き,暴力を用いずに彼らを連れてきた.*⁶人々に石殺しにされるのを恐れたからである.

彼らを衆議所の中に立たせて,大司祭は尋(たず)ねた,「私たちは*⁷あの名で教えるなと正式に禁じておいた.それなのにあなたたちは,イェルザレム中を自分たちの教えで満たしたではないか.そうして私たちの上にあの人の血を負わせようとするのか」.
ペトロと使徒たちは答えた,「人間よりも神に従わねばなりません.私たちの先祖の神は,あなたたちが木につけて殺したイエズスをよみがえらせたまいました.*⁸神は,痛悔と罪のゆるしをイスラエルに与えるために,右の御手をもって,イエズスをかしらとし救世主として上げられました.私たちはこのことの証人です.そして神がご自分に従う者に与えたもう聖霊もまたその証人です」.彼らはこれを聞いて激しく怒り,殺そうとたくらんだ.

そのとき,一人の人が議場に立ち上がった.それはファリザイ人の律法学士*⁹ガマリエルといい,人々に大いに尊敬されている人であった.
彼は使徒たちをしばらく外に出すように命じ,議員たちに話し始めた,「イスラエルの人々よ,彼らに対してすることについてよく考えてください.前には,傑物と称して*¹⁰テウダスが起(た)ち,四百人くらいの人々を従えましたが,彼は殺され,つき従った人々は散らされて跡形もなくなりました.その後,人口調査のとき,ガリラヤ人のユダがたって人々を誘いましたが,彼も死に,従った人々もみな散らされました.
私は今あなたたちに言いたい.あの人々にかかわりなさるな.そして,するままにさせておきなさい.彼らの企(くわだ)てあるいは仕業が人間からのものなら,おのずから崩れるでしょうし,反対に神からのものなら,あなたたちはそれを崩すことができません.おそらく神に逆らう者になる危険があります」.
彼らはその意見に従い,使徒たちをふたたび呼び入れて鞭(むち)打ち,イエズスの名によって話すなと禁じて去らせた.

*¹¹使徒たちはみ名のために辱(はずかし)められるに足るものとされたことを喜びながら,衆議所を去った.*¹²そして毎日,神殿と家々で教えを説き,イエズスはキリストであるとのべ続けた.

(注釈)

使徒らの宣教の奇跡・12-16)
*¹「ほかの人々」とは高位の人々を指すようである.

*²「ますます多くの信者が主に加わった.男女の大群衆であった」という訳もある.

奇跡を行う力は,新しい教えが神からのものであることを示す

使徒らの二度めの逮捕・17-33)
*⁴ 恩寵の生命を生むイエズスの教えである.宣教の目的は,「救い」(4・12,11・14,15・11),「主のみ名をこいねがう人々」(2・40,47,7,4・12)に約束されている「命」(3・15,11・18,12・7-10,16・25-26)である

*⁵ 超自然的な事件だと知って当惑した.そのために使徒らの裁判をやり直す時には,どうして牢を出たかを尋ねようとしない.

*⁶ 民は彼らから恵みを受けて非常に尊敬していた.

*⁷ 大司祭は,「イエズス」という名を避けて言わない.

*⁸衆議所はイエズスを亡き者にしようとしたが,神は主とし救い主としてイエズスを立てた.ペトロは,みなを代表して,勇敢にイエズスがメシアであると宣言する

使徒らの釈放とガマリエル ・34-42)
*⁹ パウロ(22・3)の師で,有名なラビの一人であった.ある伝えによると,このラビは信者になったといわれる

*¹⁰ テウダスは,ガリラヤのユダと同様に,ユダヤ人の煽動者,熱狂的愛国者として歴史に名を残した.

*¹¹ 使徒たちは,み名のために苦しみ(21・31,ペトロの手紙(第一)4・14,ヨハネの手紙(第三)7節),み名を宣教する(4・12,17・18,5・28,40).そして,キリスト信者は,み名を希う(9・14,21,22・16).

*¹² メシアたるイエズスを全世界に伝えることは,彼らの生活の唯一の使命であった

* * *

最終パラグラフの訳注:

「上智の座」 “Seat of Wisdom” ( “Sedes sapiéntiæ” ) について:
カトリック祈祷文「聖マリアの連禱(れんとう)」 “Litaniæ Lauretanæ Beatæ Mariæ Virginis” の中で唱えられる聖マリアの称号の一つ.

・「上智」…〈ギリシア語 “Σοφία (sophiā)” 〉に由来する.真の知恵=神を恐(畏)れること.

・『知識と知恵のすべての宝はキリストに隠されている.』
(使徒パウロのコロサイ人への手紙・第2章3節)


(旧約聖書・格言の書より)

第1章 イスラエルの王,ダビドの子ソロモンの格言,
これは*¹知恵と教養を学ばせ,
深いことばを理解させ,
賢い教えを受けさせ,
正義と公平と方正と,
世慣れない人に世渡りと,
若い人たちに知識と分別を知らせ,
格言とむずかしい警句と,
知恵ある人の金言となぞを理解させる.
知恵ある人もそれを聞いて知識を深め,
賢い人も指導の道を知るだろう.
神を恐れることが知識のもとなのに,
愚か者は知恵と教養を軽んじる.
わが子よ,あなたは父のいいつけを聞き,
母の教えをあなどるな.
それはあなたの頭の愛らしい冠となり,
首の飾りとなろう.
わが子よ,悪人があなたを誘惑しても,
それに負けるな.
もし彼らが,
「われわれといっしょにくるがよい,
人の血を流すわなをかけ,
罪のない人に理由なく悪だくみをし,
*³黄泉(よみ)のように,彼らを生きたままのみこみ,
墓に下る人のように,丸のままのみ下そう,
われわれはいろいろ宝物を見つけるだろうから,
分捕ったもので家をいっぱいにしよう,
おまえもわれわれとともにくじ引きし,
みなで一つの財布を持とう」
といったとしても,
わが子よ,彼らといっしょに行かず,
その道から足を遠ざけよ,
*⁴(彼らの足は悪に走り,
血を流そうと急いでいるからだ.)
*⁵翼あるものの目の前で,
網を張ってもむだなことだ.
彼らは自分の命にわなをかけ,
自分がたくらみにひっかかる.
略奪で利をむさぼる人の末路は,みなこのように,
その持ち主を滅ぼしてしまう.
知恵は道で叫び,
広場で大声を上げ,
城壁の上から呼びかけ,
町の門の入口で話しかける.
「*⁶幼い者よ,いつまで幼いことを好むのか.
あざける者は,いつまであざけることを楽しみとし,
愚か者は,いつまで知識を憎むのか

私の叱責に耳をかすがよい.
私はあなたたちに心をうち明け,
私の考えを知らせたい.
私は呼んだが拒絶され,
腕をのばしたが,だれもそれに気をとめなかった.
あなたたちは私の勧めをあなどり,
叱責を受け入れなかった.
だからいま,私もあなたたちの滅びを見て喜び,
恐怖が襲いかかるとき笑おう.
嵐のように,あなたたちに恐怖が襲い,
つむじ風のように,滅びがくるとき,
*⁷(試練と悩みとがかぶさるとき),
そのとき,彼らは私を呼ぶが,私は答えず,
さがしても見つかるまい.
知識を憎み,
神への恐れを心にとめず,
私の勧めを受け入れず,
叱責をあなどった彼らは,
迷いの実を味わい,
自分の考えで腹を満たすだろう.
無分別な者の迷いは自分を殺し,
愚か者の冷淡は自分を滅ぼすが,
私のいうことを聞けば,平和に生き,
どんな不幸も恐れず,安らかだろう」.

(注釈)

この書の主題と目的・1-7)
*¹ 知恵とは徳をもとにして,生活を正しく送ることである.

神への信心と同じ意味である.これが正しい生活の基盤である.このことばはこの書の主題である

悪い仲間を避けること ・8-19)
*³ ヘブライ語のシェオル.死後の霊魂の住みか.

*⁴ この節は,アレクサンドリア写本以外のギリシア語にはない.イザヤ (59・7) による書き入れらしい.

*⁵ 人々の口に伝わっていた格言.鳥は狩人が網を置くのを見ると,それにかからないという意味である.若い人たちにも危険を知らせておけば,それを避けることができる.

知恵の呼びかけ ・20-33)
*⁶ 年齢が幼いことではない.教育と徳とのない幼稚(ようち)な人のこと

*⁷ のちの書き入れらしい.


第2章 わが子よ,私のことばを迎え入れ,
戒めを宝のように守り,
*¹知恵に耳を傾け,
真理に心を開き,
また分別を願い,
知識に声をかけ,
銀のようにさがし求め,
宝物のように掘り出せば,
あなたは神を恐れることを理解し,
主を知るようになるだろう.
実に,知恵を与えるのは主であり,
知識と分別は主の御口から出る.
神は正しい人に保護を下し,
誠実に歩む人の盾となられる.
神は正義の道を守り,忠実な人の道を保護される

そうすれば,あなたは正義と厚生と方正と,
つまり幸せに向かう道をすべて理解できるだろう.…

(注釈)

知恵のある人の幸せ・1-9)
*¹ 知恵,真理,分別,知識はそれぞれの見方での「徳」のことである.

*² 徳をもつ人だけに,宗教がわかる.悪は理性と心を汚すものである.


第3章 わが子よ,私の教えを忘れず,私の教訓を心にとめよ.
それはあなたの日を長くし,生命と安楽な年月をもたらす.
温良と誠実を失わず,
それを首にかけ,心の板に書き記せ.
そうすれば,あなたは神と人とに,
好意をもたれ,成功するに至る.
心をあげて神を信頼し,
自分の意見に頼るな.
足どりの一歩ごとに神を考えれば,
神はあなたの道をならしてくださる.
自分を知恵ある者だと思わず,
神を恐れ,悪を避けよ

それは,あなたの体を健康にし,
骨をさわやかにする.
自分の財産や
所得の初物をささげて神を尊べば,
あなたの倉には麦が満ち,
酒だるには新しいぶどう酒があふれる


*³わが子よ,神のこらしめをあなどらず,
神のこらしめを受けて,悪意を抱くな.
なぜなら,神は愛するものをこらしめ,
いちばん愛する子を苦しめたもうからである

知恵を見出した人は,
分別をもつ人は幸いである.
彼がそれを得たことは,
銀を手に入れるよりも値打があり,
その収入は純金よりも高価である.
知恵は真珠よりも尊く,
あなたの望む何ものもそれとは比べられぬ.
その右の手には長寿があり,
その左の手には富と名誉がある.
その道には歓喜があり,
その小道は平和である.
知恵は,そこによりかかる人にとっては生命の木であり,
それを握る人は幸せになれる.
*⁴神は知恵をもって大地を築き,
分別をもって天を固め,
その知識によってふちは掘られ,
雲から露がしたたる


わが子よ,それらのことを見失わず,
慎重と反省を保て.
それはあなたの魂に命を与え,
首の飾りとなる.
そうなれば,あなたは安心して道を歩み,
足はつまずかない.
あなたは休息をとるときに恐れず,
眠るとき,その眠りは安らかだろう.
突如としてくる恐怖を恐れず,
悪人の攻撃も恐れるな.
神があなたの支えとなり,
あなたの足をわなから守って下さるからだ


できることなら,あなたに物を頼む人の願いを,
拒んではならぬ.
できることがあるなら,*⁵隣人に,
「出直してくれ,明日あげよう」というな,
隣人が,あなたと安心してつきあっているとき,
その人に悪いたくらみをしてはならぬ.
あなたに何の悪事もしない人なら,
その人と理由なく争ってはならぬ.
*⁶暴虐な人をうらやまず,
そのやり方をまねるな.
悪人は神に憎まれ,
神は正しい人と親しくされる.
よこしまな人の家には神ののろいがかかり,
正しい人の住まいには神の祝福がある
あざける人は神からあざけられ,
へりくだる人は神の恵みを受ける.
知恵ある人は名誉を受け,
愚かな人は不興をかう.

(注釈)

正しい生活の結実・1-10)
神と人に対するやさしさ,善良さ.決心するとき,約束するときの誠実さ

*² 初物をささげることは,神への崇敬の表現である.もちろん,祈ることもすすめてある.

知恵の尊さ・11-20)
*³ 神は善人をこらしめるが,それは,欠点をなおすためである.苦しみこそは最良の教師である

*⁴ 知恵の路とは神である.宇宙の創造にも,秩序にも,神の知恵が現れている

徳のある人の幸せ・21-26)

隣人についての戒め・27-35)

*⁵ 元来は,友人,仲間,近所の人など親しいつきあいをしている人のことであるが,この書の中では,「他人」を隣人といっている (6,1,3,29,27・17,25・9).敵を愛するまでに至らねばならぬ愛の教えの第一歩である (マテオ聖福音5・44-48,ルカ聖福音10・25-37).

*⁶ 暴虐な人,よこしまな人,あざける人,愚かな人などはいずれも神の敵である.これらの人々の,表面的な立身出世をユダヤ人はいつもうらやんでいた(24・1,19,詩篇73,エレミア書12・1,ヨブ書21・7).


第4章 子どもたちよ,父の教えを聞き,
真理を知ろうと心がけよ.
私は健全な教訓を授ける.
私の教えをあなどるな.
私も,私の父にとっては子であり,
母の目にはやさしいいとし子であった.
父は私によくこう教えてくれた,
「私のことばを心におさめ,
戒めを守れ,そうすれば生命が得られよう.
知恵をもち,分別をもち,
それを忘れることなく,
私の口のことばを遠ざけるな.
知恵を捨てるな,それがあなたを守ってくれる.
知恵をいとおしめ,それがあなたを保護してくれる

知恵のもととして,知恵をもつようにせよ
持ち物をすべてかけても,分別をもつようにせよ.
それを高く評価すれば,それがあなたを高めてくれる.
あなたがそれを抱けば,それはあなたの誇りとなろう.
その知恵はあなたの頭に愛らしい宝冠をおき,
光栄の冠を授けるだろう」.

子よ,私のことばを聞けば,
あなたの生命は長くなる.
私は知恵の道を教え,
まっすぐな小道にあなたを導いた.
*²それを歩けば,足は妨げを受けず,
走ってもつまずかない.
教養をしっかりと身につけ,それを手から離さず,
守れ,それはあなたの生命なのだ

よこしまな人の道に踏みこまず,
悪人の道を歩まず,
その道を避けて,通らず,
その道を遠ざかり,通りすぎよ.
彼らは悪事をしないと寝つかず,他人を陥れないと安眠しない.
*⁴彼らは不正のパンを食べ,
暴力のぶどう酒を飲む.
正しい人の道はあけぼのの光のようであり,
ますます輝きを増して真昼になるが,
悪人の道はやみで,
何につまずくか分からぬ.

わが子よ,私のいうことをよく聞き,
私のことばに耳を傾けよ.
私のことばを見失わず,
心の中にそれを保て.
そのことばは,それを迎え入れる人の生命となり,
その人の体を健やかにする

*⁵何にもまして,あなたの心を警戒せよ.
その心から,生命の泉があふれ出ているからだ

偽りの口をもたず,
ごまかしのくちびるを遠ざけ,

目は正面を見つめ,
視線をまっすぐに向けよ.
*⁶どこに足をおくかを見定め,
一歩一歩正しく歩み,
右にも左にも道を迷わず
足を悪から遠ざけよ.

(注釈)

父の教え・1-9)
知恵の第一歩は知恵をもつことの必要を知り,それを得ようと決心することである

まっすぐな道・10-19)
*² 徳をもつ人は,生活の困難をやすやすと越すことができる.

教養とは,風紀のよいこと,自分に対して厳しい反省を要求する徳の実行のことである

*⁴この人たちはパンやぶどう酒を飲むのと同じように,不正で身を肥やしている.彼らが食べたり飲んだりするものは,不正と暴力によって得たものである.

人間の努力しなければならぬこと ・20-27)
*⁵ 人の心は倫理生活のもとであるから,それを清く保つように努力しなければならぬ (マテオ聖福音5・19).

*⁶ 徳を行うに当たっては,熱狂して右に走ることも,なまけて左に曲がることも許されない


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