2010年7月25日日曜日

「大学」の荒廃

エレイソン・コメンツ 第158回 (2010年7月24日)

数年前に私が,女の子は大学に行くべきではないと書いたところ,多くの読者がショックを受けました.だが,ある英国の『大学』(真の意味での大学とは全く同じではありません!)で最近6年間にわたり英文学を教えていた若い教授の話を聴いてみると,私は男の子も大学に行ってはならないと付け加えなければならないようです.彼らは大学に行くかどうか決める前に少なくともよくよく考えるべきです.また彼らの両親も高額な学費を支払う前に熟考を重ねるべきです.教授がどのような問題を観察し,何をその原因と見なし,どのような救済策を考えているかを,順を追ってご紹介したいと思います.

その教授が教えていた『大学』では,彼は真理の追求についても真理を追究するための教育についても観察することがなかったそうです.「言語は現実と無関係なゲームであり,独自の人工物を生み出している」と,教授は言っています.学生はあらゆるものが相対的だと感じるように仕向けられています.そこには一定の基準や価値観は一切なく,道徳的枠組みも道徳に関する言及も一切ありません.理科系の学問は,宗教に通じる『科学』に反対する進化論によって汚染されています.『文科系』は,あらゆるものの中心に性( “s-x” )というものをおいて解釈するフロイト(訳注・「ジーグムント・フロイト」“Sigmund Freud (1856-1939) ” 精神分析学者.オーストリア出身のユダヤ教徒.)理論によって堕落しています.大学教授たちは学生らに対し「彼らのためになる」から s-x life を持つよう話します.こういった『諸大学』では,自分たちの night life (夜の快楽的生活)につき,学生たちに対して同様の過ごし方をするよう公然と宣伝し,自然に逆らう罪を犯すことを大いに賞賛しています.彼らは完全にs-x の虜(とりこ)となっています.( “s-x” …訳注後記.)

教授は続けて言います.「教授陣について言えば,多くが根深い問題の存在を認めていますが,そのままゲームを続けているのです.彼らはマルクス主義者でないにしても,みなマルクス主義化しています.彼らはあたかもあらゆる権威が息苦しいものであって,すべての伝統が抑圧的であるかのように学生たちを指導します.すなわち進化論が全てを支配しているのです.学生たちについて言えば,何かを切望したいと考えている者は一人以上いますが,彼らは真理を見出すのにもはや『大学』を当てにはしていません.もし彼らが『学位』が欲しいとすれば,それは職を得るだけのためであり,もし彼らが優れた『学位』が欲しいとすれば,それはもっと給料の高い職に就くためなのです.彼らはいろいろな考えを話し合うことはめったにありません.」

それでは,大学が現代の確立されたシステムに仕えるだけの単なる功利主義的情報処理機関に変貌(へんぼう)してしまった原因は何なのでしょうか? 教授は次のように述べています.「基本的な原因は神の喪失にあります.これは御言葉の御托身(訳注後記)をめぐっての幾世紀にも及ぶ戦いの結果としてもたらされたものです.この結果,教育はもはや人が生きてゆくのに必要な真実や道徳を与えることを意味するものではなくなり,むしろ自分が他人とは異なり,より優れていると感じるよう個々人の潜在的可能性を発展させることを意味するものとなったのです.真理の追放によって生じた真空状態の中に入ってくるのは,全ての権威からの解放を引き連れたポップカルチャー(=大衆文化)とフランクフルト・スクール(=学派)です.神を追放した後に残された真空状態の中に入ってくるのは,『諸大学』をテクノクラートや技術者の供給源と考える国家です.絶対的なものに対する関心は一切失われています.唯一つ例外がありますが,それは絶対的な無神論です.」

この状態の救済策として,教授は次のように語っています.「現代の『諸大学』が陥ってしまった落とし穴から抜け出ることはほとんど不可能でしょう.男の子が本当に役立つことを学ぶには,家で休んだり(訳注・これはすなわち不品行〔不信心〕な者たちの悪行に巻き込まれるのを避けるため〔休日や休暇を家で過ごせるよう〕家〔下宿ではなく親の家〕から通える大学に入学する=寄宿舎〔学生寮〕に入らない,という意味合いを含んでいる.),教会の司祭たちと話したり,カトリックの黙想会(=静修会)に参加したりする方がよりよいでしょう.信心深いカトリック信徒たちは自分たちのために様々な事柄に着手し,団結して自らの施設を再建すべきです.たとえばサマースクール(夏期学校)から始めるのもよいでしょう.人文科学は健全な状態に回復されなければなりません.なぜなら,それは人間の存在の基礎,すなわち何が正しく善良で真実であるかを扱う学科だからです.自然科学は,特定の科目についてもそこから派生する科目についても,二次的なものにとどまるべきです.自然科学を人文科学に優先させることはできません.両親が男の子をこれらの『諸大学』に送る場合は,彼らが職を得るためで,人生に本当に役立つ事柄を学ぶためではないことを承知してかかるべきです.

「神の喪失」 - 結局はそれがすべての原因なのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教



* * *


〔第2パラグラフの( “s-x” )の訳注〕
新約聖書・(使徒聖パウロによる)ローマ人への手紙:第1章26-27節に「恥ずべき欲」とある,いわゆる「自然に逆らう罪」“the sin against nature” に当てはまる類(たぐい)の行為のことを指すと思われる.
参照として,ローマ人への手紙:第1章16節-第2章16節を以下に引用.

ローマ人への手紙:第1章16-32節
使徒として召され,天主(=神)の福音のために選び分けられた,イエズス・キリストの奴隷パウロ,・・・福音は天主があらかじめ聖書の中でその預言者たちによって約束されたものであって,そのみ子に関するものである.み子は,肉としては(=人間として)ダヴィドの子孫から生まれ,聖い霊としては,死者からの*¹復活によって,力強く,天主のみ子とさだめられたもの,すなわち,私たちの主イエズス・キリストである.私たちは,かれによって,そのみ名の光栄のために,すべての異邦人に信仰への従順をつげるために,恩寵と使徒職(=使徒としての使命)とを受けた.その中にイエズス・キリストに召されたあなたたちもいる・・・天主に愛され,聖徳に召された(=召し出しとして聖なるもの),ローマにいるすべての人に手紙をおくる.私たちの父なる天主と主イエズス・キリストからの恩寵と平安が、あなたたちの上にあるように.

・・・私は,福音を恥としない.福音は,すべての信仰者,まずユダヤ人,そしてギリシア人を救う天主の力だからである.天主の正義は,福音のうちにあらわされ,信仰から信仰へとすすむ.「義人は信仰によって生きる」と書きしるされているとおりである.

実に天主の怒りは,不正によって真理をさまたげる人々のすべての不敬と不正にたいして,天からあらわされる.天主について知りうることは,かれらにとっても明白だからである,天主がそれをかれらにあらわされたからである
天主の不可見性,すなわちその永遠の力と天主性とは,世の創造のとき以来,そのみわざについて考える人にとって,見えるものだからである.したがってかれらは言い逃れができない.かれらは天主を知りながらこれを天主として崇めず,感謝しなかったからである.かれらは愚かな思いにふけり,その無知の心はくらんだ.かれらは,みずから知者と称えておろかな者となり,不朽の天主の光栄を,朽ちる人間,鳥,獣,はうものに似た形にかえた.

そこで天主は,かれらの心の欲にまかせ,たがいにその身をはずかしめる淫乱にわたされた.かれらは,天主の真理を偽りに変え,創造主の代りに被造物を拝み,それを尊んだ.天主は世々に賛美されますように.アメン.
ここにおいて天主は,かれらを恥ずべき欲に打ちまかせられた,すなわち,女は自然の関係を,自然にもとった関係に変え,男もまた,女との自然の関係をすてて,たがいに情欲をもやし,男は男とけがらわしいことをおこなって,その迷いに値する報いを身に受けた.
またかれらは,深く天主を知ろうとしなかったので,天主は,かれらのよこしまな心のままに,不当なことをおこなうにまかせられた.かれらは,すべての不正,罪悪,私通,むさぼり,悪意にみちるもの,憎み,殺害,あらそい,狡猾(こうかつ),悪念にみちるもの,そしる者,悪口する者,天主に憎まれる者,暴力をもちいる者,高ぶる者,自慢する者,悪事に巧みな者,親にさからう者,愚かな者,不誠実な者,情のないもの,あわれみのないものである.これらをおこなう者は死に当るという天主の定めを知りながら,かれらはそれをおこなうばかりでなく,それをおこなう人々に賛成するのである

(注釈)
*¹復活はキリストが神であることの証明である.

*²異邦人はユダヤ人の受けた天の示しを受けなくても,天主の真理を教えられたが,それを実行しようとしなかったから,天主の怒りを買った.

第2章1-16節
*³したがって,他人を是非する者よ,何ものであるにせよ,あなたには弁解する余地がない.他人を是非することによって,あなたは自分をさばいている.他人をさばくあなた自身が,同じことをおこなっているからである.こういうことをおこなう人に対する天主の裁きが,真理にあうものであることを,私たちは知っている.それをおこなう人をさばいて,自分も同じことをおこなっている者よ,あなたは天主の裁きをのがれられると思うのか.あるいは,天主の仁慈があなたをくいあらために導くことを知らないで,その仁慈と忍耐と寛容との富を無視するのか.こうすれば,あなたはかたくなさとくいあらためない心とによって,天主の正しい裁きがあらわれる怒りの日に,自分のために怒りを積み重ねるであろう.天主はおのおのの業にしたがって報い,根気よく善業をおこなって,光栄と名誉と不滅とを求める人々には,永遠の生命をお報いになる.真理にしたがわず不義にしたがう反逆者のためには,怒りといきどおりとを返される.悪をおこなって生きる者にはすべて,まずユダヤ人に,そしてギリシア人にも,患難と苦悶があり,善をおこなう者にはすべて,まずユダヤ人に,そしてギリシア人にも,光栄と名誉と平和とがある.天主は人を区別されないからである.
*⁴律法なしに罪を犯した者は,律法なしに亡(ほろ)び,律法の下に罪を犯した者は,律法によって裁かれる.天主のみまえに義とされるのは,律法を聞く人ではなく,律法をまもった人が義とされる.*⁵律法のない異邦人が,自然に律法の掟を実行するなら,律法がなくても自分自身に律法となる.かれら自身,自分の心にきざまれているこの*⁶法の存在を示している.それを証明するのは,かれらの良心である.またかれら同士が相手に対してもつ非難や賞賛の内部的な判断もそれを証明する.*⁷私が福音にいうように,天主がイエズス・キリストによって人間の秘事を裁かれるとき,それがあらわれるであろう.

(注釈)
*³以下は,直接ユダヤ人に向けることば.ユダヤ人は特権があっても,異邦人をさばく権利がない.律法が禁ずる行いをユダヤ人自身が行っているからである.

*⁴律法と自然法に反するユダヤ人と異邦人は,それぞれのおきてによってさばかれる.

*⁵天主は彼らの心に自然法をきざんだからである.

*⁶「法」とは自然法のこと.

*⁷使徒パウロが異邦人に伝える福音.


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(第4パラグラフの「御言葉の御托身」“Incarnation” の訳注)

「御言葉」=イエズス・キリストを指す.「御托身」=「受肉」ともいう.
「托身」(たくしん)“Incarnation”…三位一体の神の第二の位格たるロゴス(=言葉)が人間の肉体をまとわれた,すなわち,キリストにおいて神が顕現されたということを意味する.

→「御言葉は肉体となって,私たち(=人間)のうちに住まわれた」…新約聖書・ヨハネ福音:第1章14節.
〈注釈〉…人に対する神の「無限の愛の奥義」である.御言葉は神性を保ちながら,人性をとられた.)

「ロゴス」の意味:=ここでは「(神の)御言葉」.神の御子キリストを指す.〈「御言葉は神であった.」…新約聖書・ヨハネ福音:第1章1節.〉)

2010年7月23日金曜日

近代芸術その2

エレイソン・コメンツ 第157回 (2010年7月17日)

近代芸術は,その非常な醜(みにく)さゆえに神の存在と高潔さを示してくれます.エレイソン・コメンツ第144回いらい3か月経ちますが,もう一度この逆説に戻ってみましょう.芸術における美しさと醜さの常識的違いを認識する人は,さらに進んで神の存在なしには美と醜さの違いも存在しないことを理解することになるのではないかと期待するからです.

「芸術」という言葉は技能,もしくは人間の技能による産物を意味します.それは絵画,描画,彫刻,衣服のファッション,音楽,建築,その他いろいろあります.「近代芸術」という表現は通常,特に絵画や彫刻について触れるときに使われるもので,1900年代初期以降に,20世紀以前に理解されていた美に対するあらゆる基準,尺度を故意に拒んだ,また現在も拒み続けている,芸術家たちの運動から生まれました.近代以前の芸術と近代芸術との相違は,ここロンドンのミルバンクにある古典的なテイト美術館と,10年前にテムズ川の対岸にあるその生みの親から少しボートで下流に下ったところに開設された新しい美術館であるテイト近代美術館(「テイト・モダン」“Tate Modern” )との相違と同じくらい現実的かつ明快なものです.それはあたかも近代芸術が近代以前の芸術と同じ屋根の下で静かに座っていることができないかのようです.両者は,ちょうど古い教会建築と新典礼がそうであるように,互いに競い合っています.

この意味での近代芸術とは,その醜さで特徴づけられています.この点では,常識は(旧ソ連の)共産主義指導者フルシチョフ(“Kruschev, Nikita Sergeevich”(1894-1971))と一致します.彼はロシアでの近代芸術展について,「ロバが尻尾で描いた方がずっとましなものができるだろう」と酷評したと伝えられています.ところで,醜さとは何でしょうか?それは不調和のことです.アリアンナ・ハフィングトン (“Arianna Huffington”) は,その賞賛に値する著書「創作者かつ破壊者たるピカソ」(“Picasso, Creator and Destroyer”)の中で,ピカソが6人の(主な)女性たちと恋に落ちる度に描いた絵画のどれもが穏やかで,彼女たちの自然な美しさを反映したものであったが,再び失恋するや否やたちまち彼の激怒がその絵画の美しさを粉々に引き裂いてしまい,その時の作品が近代芸術の「最高傑作」と化した,ということを実証しています.そのパターンはピカソの中で,まるで時計仕掛けのように規則正しく繰り返されているというわけです!

このように,芸術における美は単にこの世の調和であっても,霊魂における調和から生まれます.これに対し,醜さは,憎しみと同じように霊魂における不調和から発生するのです.だが調和は,それが存在するための相手として不調和を必要としません.これに反して,不調和は,その言葉が示唆するように,本質的に競い合う相手たる調和を前提として必要とします.ですから,調和は不調和に先立つものです.そして,あらゆる不調和はなんらかの意味で調和を立証するものとして存在するのです.だが,愛らしい女性たちを描いたどんな絵画にも増して美しく深い調和に満ちあふれているのは聖母を描いた絵画でしょう.なぜなら,神の御母(訳注・神の御母=聖母すなわち神であるイエズス・キリストの御母.)を描いている画家の霊魂における調和は,いかに美しく愛らしかろうと単なる人間の女性モデルを描くときに生じる霊感(ひらめき)をはるかに超える高貴かつ深遠な極みにまで到達することができるからです.なぜそうなるのでしょうか?それは,聖母の美しさが彼女の神との近しい親密さに由来するものだからです.神の調和は - 神聖であり,全く飾り気がなく,完全な純真さと無邪気さ,また統一性に満ちており - 単なる被造物のなかで最も美しいというだけに過ぎない人間的な調和を無限に凌(しの)ぐものです.(訳注後記)

したがって,お粗末な近代芸術はそれ自体が欠いている調和を指し示すものであり,あらゆる調和は神を指し示すものです.そうであるならば,トリエント公会議式ミサ典礼(訳注後記)を格納するのに近代建築の醜さを用いることをするような人が誰も出ないようにしましょう.もしそのような醜さを欲する人があれば,その人は新しい典礼(訳注・“Novus Ordo Mass”.第二バチカン公会議で定められた新典礼のこと.)の不調和を欲しているかそれに仕えていると推測されることになるでしょう!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教



* * *


(下から2つ目のパラグラフ最後の訳注)

被造物=地上の全ての生き物.地上の生物はすべて神の創造により存在する.
「単なる被造物」 (“mere creatures” ) という言い方には「いつかは腐敗して滅びる儚(はかな)い存在(人間と自然界・動植物)」という意味合いが含まれている.神は永遠(無限)であり,被造物は有限である.
原罪の下にある被造物の世界(地上)で人間が決める「美」には(「罪の支払う報酬は死である」との聖書の言葉通り)さまざまな意味で限界があり,人間が傍(はた)から見てどんなに美しいと評価する存在であっても,神との間に調和的な関係にないものの霊魂は,罪に汚れて醜いまま残り,いつかは罪ゆえに地上での姿は腐敗し廃(すた)れて滅びる運命にある.
しかし,神から美しいと評価されるような神の美(=神の調和)をその霊魂の内側に宿(やど)し備えているものは,聖母のように神により原罪を免れ,霊魂の神聖さを保ち永遠に神の国に生き続けることができる.

「神の調和」を示す例として,
新約聖書・(使徒聖パウロによる)ガラツィア人への手紙:第5章13-26節(特に16-23または24節)参照.(以下に引用)

…兄弟たちよ,あなたたちは自由のために召された.ただその自由を肉への刺激として用いてはならない.むしろ愛によって互いに奴隷となれ.全律法は「自分と同じように隣人を愛せよ」という一言に含まれているからである.互いにかみ合い食い合って,ともに食い尽くされぬように注意せよ.
私は言う.霊によって歩め.そうすれば肉の欲を遂げさせることはない.*¹実に肉の望むことは霊に反し,霊の望むことは肉に反する.あなたたちが望みのままに行わぬように,それらは相反している.もしあなたたちが霊に導かれているのなら,律法の下(もと)にはいない.
*²〈肉の行いは明白である.すなわち,淫行(いんこう),不潔,猥褻(わいせつ),偶像崇拝,魔術,憎悪,紛争,嫉妬,憤怒(ふんぬ),徒党(ととう),分離,異端(いたん),羨望(せんぼう),泥酔(でいすい),遊蕩(ゆうとう),そしてそれらに似たことなどである.
私は前にも言ったように,またあらかじめ注意する.上のようなことを行う者は神の国を継がない.〉
それに反して,霊の実は,愛,喜び,平和,寛容(かんよう),仁慈(じんじ),善良,誠実,柔和(にゅうわ),節制(せっせい)であって,*³これらのことに反対する律法はない
*⁴キリスト・イエズスにある者は,肉をその欲と望みとともに十字架につけた.
私たちが霊によって生きているのなら,また霊によって歩もう.いどみ合い,ねたみ合って,虚栄(きょえい)を求めることのないようにしよう.


(注釈)

「律法」=神が人間を死の滅びから救うために預言者モーゼを通して人間にお与えになった掟(おきて)のこと.神の十戒.しかし,「律法」はかえって人間を罪に定める根拠となり,罪の罰である「死」に定める原罪から人間を解放することができなかった.人間は,「律法(を行うこと)による義」によってではなく,人間の罪の贖(あがな)いとしての十字架上の死から復活された罪のない神の御独り子イエズス・キリストに対する「信仰による義(キリストを通じて注がれる神の恵み)」によって原罪から解放され,神からの聖寵を回復することにより死から救われる.
(ヨハネによる福音書・第1章1-18節参照)

*¹肉が選ぶと霊はそれに反対する.霊が選ぶと肉がそれに反対する.すなわち,コリント人への第一の手紙・第2章14節,ローマ人への手紙・第8章1節以下にあるように,自然の人間と恩寵(おんちょう=神の恵み)に生きる人間との対立が述べられている.

(新約聖書・コリント人への第一の手紙:第2章14節)…*動物的な人間は神の霊のことを受け入れぬ.その人にとっては愚かなことに思えるので理解することができぬ.なぜなら霊のことは霊によって判断すべきものだからである.〈注釈:*「動物的な人間」=原文は「プシケ」の人とある.これは「プネウマ」(の人と対立するもので,自然の能力に従って生きる人のことである.〉

(新約聖書・ローマ人への手紙:第8章1節以下と,下記の注釈の中で引用されている聖書の箇所については,後で追加するか用語集の方に記載します.)

*²〈 〉内…ローマ人への手紙・第1章19-31節,コリント人への第一の手紙・第6章9-10節参照.

*³「こういう生活の人に対して」という訳もある.これらのことを行う人は律法の罰を受けない

*⁴ローマ人への手紙・第6章2-6節,第8章13節参照.



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(最後のパラグラフの訳注)

トリエント公会議式ミサ典礼
英語で“Tridentine Mass”.北イタリアの都市トレント(“Trento”=トリエント(ドイツ語))で開催された公会議(1545-63)で定められた形式のミサ典礼.伝統(聖伝)のミサ典礼とも呼ばれる.トレント公会議では,当時の宗教改革の危機を克服するためカトリックの正統教義を確認するとともにその教義の強化とそれに則った教会の改革がなされた.

2010年7月17日土曜日

協議の有益性

エレイソン・コメンツ 第156回 (2010年7月10日) 

カトリック信徒の多くは現在行われているローマ教皇庁(訳注・日本社会一般には「ローマ法王庁」.)と聖ピオ十世会(略称 “SSPX” )の協議(訳注・「教理上の論議」のことを指す.)について不安をお持ちのようですが,次の話をお聞きになればいくらか気持ちが落ち着くのではないでしょうか.私が2か月前に聞いたことですが,デ・ガラレタ司教(訳注・“Bishop Alfonso de Galarreta”. 聖ピオ十世会の4人の司教のうちの一人.「教理上の論議」に関わる聖ピオ十世会側の代表団の一人.)は,いくつかの理由を挙げてこの両者間の協議を所期の目的(それ以上先は別)に達するまで継続すべきだと説明したそうです.その中で,司教は協議継続は若干の危険を伴うが,いくつかの利点もあると述べています.

両者の間では昨年10月の予備的会合の後,今年になって1月,3月,5月に正式な協議が行われました.協議は毎回,事前準備,討論(討議),事後処理の3つで構成されます.事前準備では,聖ピオ十世会の代表4名が当該問題にかかわるカトリック教義の宣言文をまとめ,第二バチカン公会議提唱の反対教義がもたらす諸問題と合わせて,ローマ教皇庁を代表する4名の神学者に提出します.討議では,ローマ教皇庁代表がこれに答え,その後に続く口頭(口述)による言葉のやり取りが記録されます.事後処理としては,記録された討議内容の要旨を聖ピオ十世会側が文書にします.これまで話し合われた問題は典礼と信教の自由に関することだけです.ただし,デ・ガラレタ司教は,さらに必要な話し合いを続け,来年2011年の春までに協議を終えたい意向のようです.

司教はこれらの協議を,協議開催としての単なる事実とその内容とに分けて評価しています.内容について司教は,聖ピオ十世会代表団が協議席上での口頭でのやり取りに失望していると述べています.この点について,代表団の一人は私に次のように語ってくれました.「口頭でのやり取りでは理論的正確さが欠けています.交わることのない二つの異なる考え方から生まれるのは,対話というよりむしろ独白です.ただし,ローマ教皇庁代表は私たちにとてもよくしてくれます.だから,会合は酢を飲まされるようなものではなく,まるでマヨネーズをご馳走されているようなものです.私たちは自分たちの考えをそのとおりに口頭で述べます.私たちはまさしく明鏡止水(めいきょうしすい)の心境です.」 だが,デ・ガラレタ司教は実に,会合の前後に出される協議に関する文書が,カトリック真理と第二バチカン公会議の誤りとの間に一線を画(かく)し,その誤りがこれまでどのように変わってきたかを,当初から最近の誤りに至るまで追跡するのに役立つ貴重な記録になるとし,「教皇ヨハネ・パウロ2世いらい,その差はより微妙なものになってきている」と,述べています.

協議が行われていることの単なる事実については,司教はいくつかの利点を挙げています.第一に,ローマ教皇庁の人たちが聖ピオ十世会の代表団と知り合いになることは良いことだし,その逆もまた然りであるということ - すなわち,そのような接触が悪魔の好む煙幕,鏡を取り除くのに役立つという点です.司教はそうした接触が大きな危険をもたらすとは考えていません.というのも,ローマ教皇庁の代表者はひねくれ者ではありませんし,自分たちがどこから来てどこへ行きたいと願っているかを明らかにわきまえていると見ているからです.第二の利点は,ローマ教皇庁が最高レベルで真剣に聖ピオ十世会の示す教義教理を検討するということの単なる事実だけで,善意を持ちながらも,かかる事実無しにはカトリック伝統に近づけないでいる多くの主流派司祭たちの間に,聖ピオ十世会への信頼感を与えることになる点です.そして第三点目は,ローマ教皇庁の最高幹部たちの中に,古い議論から時折解放され,聖ピオ十世会によって新たに前向きな姿勢に変わる人たちが現れるという点です.言いかえれば,カトリック真理がもう一度根を下ろし始めたということではないでしょうか.

親愛なる読者の皆様,私たちは辛抱し,忍耐強く神の摂理(=神の御心・御意思)に限りなく信頼しましょう - 結局のところ,神の摂理とは神がお創りになられた神御自身の教会のことなのです!私たち一人ひとりのうちにカトリック真理への愛がとどまり続けるよう神の御母(=聖母)に祈りましょう.私たちの霊魂を救い,カトリックの権威を回復できるのはまさにただカトリック真理だけなのですから.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年7月5日月曜日

人間的には,終焉した.

エレイソン・コメンツ 第155回 (2010年7月3日)

「司教閣下,私には理解できません! 最初に(エレイソン・コメンツ 第153回(以下,「EC153」),あなたは「教皇空位主義者」を非常によく見せて,聖ピオ十世会がすべて誤っているかのように仕向けました.その後,あなたは聖ピオ十世会のもう一人の反対者であるカスパー枢機卿を,さもバラの香りでもするかのように仕立て上げました.そのうえで,あなたは続けて,同枢機卿が教会の終焉(しゅうえん)を示す証しだと示唆(しさ)されたのです! 締(し)めくくりとして(EC154),あなたは結局のところ聖ピオ十世会が全く正しいと言われるのです! 私の頭は振り回されて混乱しています!」

「分かりました,まあ落ち着いてください! その答えの簡単な部分から始めて,だんだんと興味深い部分に移っていくことにしましょう.先週(EC154)私が述べたのは次のとおりです.すなわち,第二バチカン公会議がカトリック教の真理とカトリック教の権威を分離してしまったということ,そして,「教皇空位主義者」のように行き過ぎた「カトリック真理派」と、カスパー枢機卿のように行き過ぎた「教会権威主義者」の間にあって,聖ピオ十世会はカトリック真理の完全さとその真理と両立する範囲内の教会権威を共に擁護(ようご)する正しい解決策をとっているということです.当然ながら,この聖ピオ十世会のとる中庸(ちゅうよう)の立場は,「真理派」と「権威派」の双方から攻撃されます.だが,相容(あいい)れないそれら二つの誤りのいずれにも耳を傾けることは,両者の間の真の解決策が何なのかを理解する手助けになるでしょうし,またそうあるべきでしょう.」

「分かりました,閣下.でもどうしてあなたは,カスパー枢機卿が微笑んだだけで,カトリック教会は人間的には終焉したと,仰った(おっしゃった)のですか?」

「それは,カトリック教会に自(おの)ずから備わっているカトリックの真理を棄(す)てることは,教会の権威を棄てることよりもはるかに重大で深刻なことだからです.なぜなら,権威は真理に仕えるために存在するに過ぎず,したがって,カトリック真理こそが主たる存在で権威はそこから派生するだけにすぎないのです.「教皇空位主義者」はカトリック信仰を持っており(誤り導かれたキリストの代理者(=歴代教皇)が彼らのことを気にする理由がこれ以外にあるでしょうか?),彼らの良心は今なお正しいままにとどまっています(彼らの議論は非常に論理的で道理にかなっているように思えます).ところがそれに反し,カトリック信者が権威を理由に第二バチカン公会議とそれが提唱する人間の宗教を受け入れれば,その瞬間から彼は唯一の真の神の宗教であるカトリック信仰を失い始めることになり,自分の心にその矛盾を受け入れるよう強要することにより,心そのものを破壊し始めます.なせなら,これら二つの宗教,すなわち神の宗教と人間の宗教とは,その原理においても実践においても,まったく相矛盾するものだからです.あなたの周りを見てごらんなさい!

カスパー枢機卿の微笑はまさしく,最高位の聖職者たちがどれほどカトリック信仰を失ってしまったか(少なくとも人間の前に),そして第二バチカン公会議による「エキュメニカルな(=教会一致運動の)対話」の追求によって彼らの心がいかに破壊されてしまったかを示しました.神の完全性とは唯一の教会であるカトリック教会を創立されたイエズス・キリストのうちにあり,この点については必然的に,他のどの「教会」(訳注・英原語…小文字で始まる “church” - カトリック教会以外の「教会」を指す.カトリック教会は大文字で始まる “Church” で表示される.),宗教,非宗教も多かれ少なかれ異を唱えます.そうであるなら,どうしてカトリック教会の聖職者たちが,非カトリック教徒たちをカトリック信徒へと改宗させるという主目的以外のことで,彼らと話をすることができるのでしょうか? カトリック教に改宗させる以外の目的で「対話」することは,暗にイエズス・キリストが神であることを否定することになるのです.カスパー枢機卿が,聖ピオ十世会は自分のことを異端者と見なしていると考えても不思議ではありません.そこで彼はただ微笑むだけなのです.

というのも,同枢機卿は,カトリック教会の権威のために,一カトリック信徒が信じるすべてのことを自分も信じていると,依然として考えているからです.これは,同枢機卿が矛盾についてのあらゆる概念(がいねん)を失っていること,彼のカトリック信仰および心がなくなっていることを意味するのです.人の最高の能力がなくなってしまったとき,その人を救うものが心をおいて他にあるでしょうか? ただ奇跡が起こるのを待つほかありません.カスパー枢機卿は今日の聖職者たちの典型です.神からの奇跡が起こらない限り,今日の公的なカトリック教会は終焉しているのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教