2010年3月31日水曜日

エレミアの政治

エレイソン・コメンツ 第141回 (2010年3月26日)

エレミアは聖週間の旧約聖書の預言者ですが,現代の預言者でもあります.彼が聖週間の預言者であることは,聖週間の典礼から見ても明白で,それは,母なる教会が私たちの主の受難と死に対する深い悲嘆を言い表すのに,紀元前588年のエルサレム滅亡についてのエレミアの「哀歌」を強くに引き合いに出しているからです.エレミアが私たちの時代の預言者だというのはミンゼンティ枢機卿の見方です.枢機卿は疑いなく自身の世界の罪がユダ(王国)以上にエレミアの糾弾を求めており,それが現在の私たちの罪深い生き方の破滅へと確実につながっていると見ているからです.

今日,政治・経済の領域では,多くの評論家たちは(インターネットでアクセス可能)明らかにその破滅が訪れつつあると見ていますが,それを宗教と関連づけて考えていません.なぜなら,彼ら評論家にしても大半の読者にしても,まず下方から始め,上方へ考えを高めていかないからです.エレミアは逆に彼に対する神からの劇的な呼びかけにより上方から始め(第1章),万軍の主なる神から発する光に照らして,政治・経済やほかのすべての事象を見ました.そうしてユダのぞっとするほど恐ろしい背信行為と神に対する数々の罪を延々と糾弾し,ユダに対する罰全般を宣告した後(第2章-19章),エレミアはとりわけ政治的な預言を告げました.それは,ユダの国民はバビロンに捕囚として捕らわれ(第20章),彼らの王であるセデキア(第21章)および歴代の王ヨヤハツ( “Joachaz” ),ヨヤキム( “Joakim” ),ヨヤキン( “Joachin” )は罰を受けるだろうという預言です(第22章).

この預言はエレミアの評判を良くしませんでした.エルサレムの祭司たちは彼を捕え(第26章),偽の預言者が彼に逆らい,ヨヤキム王自身が彼の預言が書かれた書物を破壊しようとし,とうとうユダの王子たちは彼を死なせるため泥の井戸に投げ込んでしまいました.彼を助け出したのは(セデキア王の奴隷となった高貴な身分の)エチオピア人の男(王家の宦官)だけでした(第38章).エレミアは命の危険を承知の上で即座に政治に戻り,セデキア王にバビロニアに降伏するよう促しましたが徒労におわりました.セデキア王が降伏すれば,自分は大きな苦難を被らずに済むと考えたのです.

退廃的なエルサレムの民と宗教当局は,神の人が彼らに告げていることを明らかに快く思っていなかったのですが,少なくとも彼の言うことを深刻に受け取るくらいの宗教感覚は持ち合わせていました.今日では教会も国家も彼を「宗教気違い」扱いし「政治にかかわるな」と退けているのではないでしょうか?今日,教会も国家もともに政治を宗教からまったく切り離しています.そのため,神への信仰を欠いた政治が自らの不信心によって深く汚名を着せられている実態が見えなくなっているのではないでしょうか?言い換えれば,人間の神との関係は人間のなすすべてのことに浸透し,支配し決定的な影響力を与えるのです.このことは,たとえ人間の側では神に全く無関心という場合でも当てはまります.

したがって,わたしたちのうち誰でも今年「テネブレ」(注釈後記)の聖務日課の務めを行う人は,エルサレムの被害に対するエレミアの深い悲嘆がわたしたちの心に,私たちの神なる主の受難と死に対する母なる教会の悲しみだけではなく,私たちが「テネブレ」の「エルサレム,エルサレム,おまえの神である主に立ち返れ」という物悲しげな叫びを心に留めないかぎり,徹底的な破滅をもたらすことになるような深い罪に染み込んだ全世界に対する主の聖心(みこころ)御自身の測りしれない悲しみと苦悩もまた呼び覚ましてくれるように祈りましょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *

「テネブレ」についての註釈

・ラテン語で “Tenebrae”.英語で “darkness”.「闇(やみ)」の意.
・「暗闇の朝課」( “Matins”(英), “Matutinum”(羅) )のこと.
・聖週間最後の三日間(聖木曜日(主の晩餐,洗足式)・聖金曜日(主の受難)・聖土曜日(復活の聖なる徹夜祭)の夜半(午前0時)頃からフルコースで数時間かけて夜明けまで唱えられる朝課と讃課 “Lauds”, “Laudes” )
・朝課の最初の夜課( 第一夜課.“The First Nocturn” )で「エレミアの哀歌」“Lamentations ofJeremiah” が朗読される(またはグレゴリオ聖歌で歌われる).
・一コース唱えるごとにろうそくの火が一本ずつ消される.最後のろうそくが消されると真っ暗闇となる.
・聖土曜日の復活の聖なる徹夜祭ミサの時間に入ると,「光の祭儀」(「光(火)の祝福」「光の行列」)で次々にろうそくに火が灯される.

2010年3月25日木曜日

男性の苦悩

エレイソン・コメンツ 第140回 (2010年3月20日)

私たちは今,深刻な無秩序状態に陥ってしまったため悲惨な時代を生きています.この無秩序について重ねて警鐘を打ち鳴らすため私が再登場することを弁解するつもりはありません.深刻な無秩序というのは,公の場で女性が男性を支配すること(あるいはそうなってきたこと)です.つまり女性 - 母たるもの - は家庭で家事を扱う女王たるべきで,それが何にもまして正常です.しかし,いったん女性が公の場で女王として振舞いだすと,男性連中の人生に深刻な支障が生じてしまいます.つまり,男性は女性をリードしたり神の方向に導いたりしなくなり,その結果,女性は生来の気質から本能的に男性に反発するようになります.

この問題を私に思い起こさせたのは,遠方の国に住む一人の賢明な若い男性です.ある日彼は,自分の周りでは,男性より女性向けの出版物が多いこと,大学に至るまでのあらゆる男女共学の学校で,素直で勤勉な女生徒の方が概して乱雑で集中力に欠ける男子生徒より成績が良いことに気づいたそうです.この若き友人は,男女共学とは果たして良策なのだろうか?と疑問を呈しています.

彼の観察だと,男女共学の結果,学校ではよりよい成績を収める女生徒が新たな「より強い性」として頂点に立ち,今や美貌の虜となって「より弱い性」に転じた男子を意のままに操っているというのです.新興の「女性文明」のあらゆる分野で,女性は男性に取って代わり主導者の地位を占めるようになっています.子どもを持つことでさえ,いまや女性は実験室で男性なしにそれが可能です.もはや男性は何の意味もない存在です.男性は落伍者なのです.我が若き友人は悩み苦しんだ挙げ句,次のような疑問で私への話を締めくくっています.真の男性になるための法則とは何なのだろうか?男らしさの意味は何なのか?男性の力強さと女性の力強さはどう異なるべきなのか?真の「強い女性」とは何か?また「強い男性」とは?

私の親愛なる若き友人よ,君が産まれてきたのは神の教えに背(そむ)こうとしている革命的な世の中であり,神が創造された自然や自然の秩序を転覆しようとしているところなのです.神の基本的な御計画は次に述べる通りです.すなわち,神は男性と女性を天国に住まわせるため,両性に極めて相互補完的な本性を与えて互いに結婚させ,そうして地上に住まい子孫を増やして繁栄していくように人類を創造されたのです.(詳しい解説・後記…1.) 神は女性に対し,子どもを産み育てることで(注釈・たとえ子を産まなくても女性はみな天賦の母性を持つ点で男性にない性質を有する.)家庭の心臓( “heart” )となるための秀でた感情をお与えになりました.男性に対しては,家庭の長(頭(かしら))( “head” )となり家族一家全員を天国に導いて行けるよう,そのための優れた理性をお与えになったのです.女性は家族の中で家庭生活を送るように,男性は社会の中で公的生活を送るようにとの神の御計画のもとに両性は設計されているのです.

したがって,女性,母親はできる限り家族の話に耳を傾け家庭のことによく注意を払うべきで,それはそうするための天賦の才を女性,母親が持つからです(旧約聖書・格言の書:第31章に記される,神の御言葉自らが描写した真に「強い女性」をご覧ください)(注釈・後記…2.).それに対し,女性,母親が元来向いていない(家庭の外での)公共の事柄に携わったり口をはさむのは通常はなるべく控えるべきです.女性,母親は生来そうあるべく神に創造されていないからです.今日の問題は,神を信じないために意気地無しとなった男性が指導力の空白を放置し,女性がそこへ入りこまなければならないということです.しかも,善良な女性は不本意ながらそうしているのです.私の親愛なる若き友人よ,真の男性をお作りになる神の御母の聖なるロザリオの祈りを毎日15連(喜び,悲しみ,栄光の各神秘をそれぞれ5連ずつ)祈りなさい.(注釈・後記…3.)あなた自身を神で,神で,神で,一杯に満たしなさい.そうすれば,あなたは女性が絶対に必要とする三つの l ( “the three l’s” (アルファベットの “ l (エル) ” ))を彼女たちに与えることができるでしょう.それは,耳を傾けること( “to be listened to” ),愛されること( “to be loved” ),リードされること( “to be led” )です.神(への信頼)なしでは,あなたは女性からいいようにあしらわれることになるでしょう.

私は真剣に毎日ロザリオ15連を祈るよう勧めます.それ以下ではだめです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


* * *


1.(神の基本的な御計画についての詳しい解説)

神は,最終(究極)的に全人類を天国に住まわせるため,
(1)人を初めから男性と女性とに創造され,その際,両性に極めて相互補完的な性質を生来的にお与えになり,
(2)かかる男女が結婚するようにし,そうして一組の男女が一緒になったときに,男女で異なるそれぞれの特有の性質(男性性と女性性)で互いの弱点を補い合い,相互に助け合うことで完全な存在となるようにし(男性と男性,女性と女性同士でではない),
(3)その関係を通じて子どもを産み育て,もって子孫を増やし(繁殖し)地上に人口を形成するように創造された.
旧約聖書・創世の書:第1~5章,特に第1章26節~31節,第2章18節~24節を参照.(用語集に記載を予定)

(注釈)
神の御計画は,人が唯一の真の神と神が遣わされた神の御子キリストを知ることにより永遠の命を得ること(聖ヨハネ福音17章).
キリストが建てられたカトリック教会において,結婚(婚姻)は秘跡(超自然的な神の恩恵の印)の一つである.カトリック教会では以下の通り教える.
結婚の目的は,(1)子どもを産み育て,(2)男女の夫婦が互いに助け合い完成し合う(互いに愛,堅忍,犠牲を捧げる)ことを通して家庭生活を神に奉献し,家族みなが霊魂の救いに至ること.
独身者は,霊魂の救い(永遠の命)を得るため,同じ奉献生活を個人で神に捧げること.
天国ではみな天使のようになるので,めとったり嫁いだりすることはなくなる.結婚は身体のある地上生活(現世)だけでのことである.
(具体的な「奉献生活」については後日,用語集に記載を予定.)


2.(旧約聖書・格言の書:第31章…用語集に記載.)


3.(「ロザリオの祈り」について)

「ロザリオの祈り」
神の御母(聖母)の御生涯と共に御子キリストの御生涯を辿(たど)る祈り.
救世主たる神の御子キリスト(=人となられた「神の御言葉」=三位一体であられる唯一の神の第二の位格)により唯一の神が顕現されたが,そのキリストの御生涯(生誕の喜び・受難の苦しみ・復活の栄光)の神秘を通じて顕(あら)われた神の救世の御計画(=人の霊魂に永遠の命をお与えになること)を思い起こし,信仰・希望・愛・神への委託・堅忍などの恵みを,聖母の御取り次ぎを通して神に願う祈り.
この祈りは個人で捧げられるほか,教会,修道会等の共同体,家族で共同で(一緒に)唱えて捧げられる.
自分のためのみならず他者のためにも永福と神の御加護を願うために捧げられる.
(1)世の罪の贖いのため,キリストに倣って神に「償いと犠牲」を捧げるために祈る.
(2)罪人の回心のため,改心の恵みを神に願う(罪人のための執り成しの祈り).

(ロザリオの祈りの詳しい構成については,用語集に記載予定.)

(注釈)

人の命は現世で終わって消滅するのではなく,死後に身体(肉体)が腐敗し滅びてもその霊魂は不滅である.しかし,原罪を持つためどの霊魂も神から永遠の命を与えられなければ来世で天国に住まうことはできない.
短く儚(はかな)い現世における真の幸福は,労苦を避け欲を満たし楽を求めて過ごすことではなく,人生の長短に係わらず,神の掟に従って真面目に生活し,来世において神から祝福され永遠の命の報いを受けることにつながる生き方にある.
従って,現世において男女のどちらにとっても真に幸福な人生とは,神が創造された自然の摂理に従い神に祝福されて生活することのうちにある.すなわち,創造主である神を堅く信じ神に深く信頼して生きることが,真の強い男らしさ・真の強い女性らしさを作る.

2010年3月15日月曜日

70年

エレイソン・コメンツ 第139回 (2010年3月13日)

まず第一に,今週初め人生70年を完了した私に多くの皆さまからさまざまな形でお祝いをいただきましたことに心から感謝いたします.正直に申し上げれば,私は1976年にルフェーブル大司教より司祭に叙階されていらい今日までとても幸せに生きてきました.そして,そのすべては神のおかげです.まず神に感謝を捧げたいと思います.

私の人生の前半は不幸だったかといえば,実はそうではなかったのです.今になって分かることですが,神はいつも私を司祭職へと導かれたのです.強いて言うなら,神の御意思が何であり人生の歩みをどう進めてゆくのか私には皆目(かいもく)見当もついていなかったにもかかわらず,神御自身が私を導いて下さったのです!神は限りなく善いお方,私たちが想像し得るよりはるかに善いお方であられます.「主(神)の慈しみ(あわれみ)は永遠に続く」 “His mercy endureth for ever.”(訳注:英カトリック聖書・詩篇第106編1節 … “Give glory to the Lord, for he is good: for his mercy endureth for ever.” より引用.バルバロ神父訳日本語聖書では,第107篇1節 …「主をたたえよ,主は慈しみ,その愛は永遠である.」(注釈・摂理の恵みをうたう歌))と書かれているとおりです.青年たちよ,フランスの格言を思い起こしなさい.「もしあなたが3時間いい気分になりたかったら,酔っぱらえばよい.3カ月間(3週間という人もいます)幸福を味わいたければ,結婚しなさい.一生涯を幸せに過ごしたいなら,司祭になりなさい.」司祭の生涯は退屈なものかもしれませんが,「人となられた神の詩」(訳注・「エレイソン・コメンツ」第108回(アーカイブ)参照)に書かれているとおり,それは生涯を通して神の光に照らされる幸せに満ちたものです.

「新世界秩序」の基本的な独断について公に疑問を投げ掛けたことがきっかけで,この1年間続いて「国内追放」の重い十字架を背負ってきた私に,多くの方々が励ましと慰めの言葉をかけて下さいました.心配いりません!まず第一に,「新秩序」が支配しているところならどこでも(今やほとんどの場所がその支配下です)その反対者に残された作戦の余地は限りなく少ないことを思い起こすべきです.そして,もし私たちがその状況を苦痛だと思うなら,それは私たちが神を私たちと同程度にしか自由にしていないことに対して神の御手から私たちに下された正当な罰なのだということを認識しなければなりません.神の友が持つ作戦の余地は著しく限られたものなのです.

そして第二に,私にとって今年は,皆さまの一部の方々が想像されるほど苦痛とはなっていないのでどうぞご安心ください.ここウィンブルドンにある聖ピオ十世会の英国本部では,この1年間十分過ぎるほど気配りしていただき,会の仲間たちから大いに甘やかされてきました.神学校の教授,校長としての32年間に及ぶ苦行生活の後で今,一切の職務や最低限の使徒職から解放され,こうして過ごすことができるのは私にとって大きな休息です.さらに,高齢者帰郷制度の利点のひとつとして,私にはロンドンの公共交通機関を無料で利用して旅行する権利が与えられています.私はこれを利用して生まれ故郷まで行ってきました.これは私が「青二才だった頃」には決して味わうことのできなかったことでした.要するに,これまでのところ私の「追放」はフランス人の言う「心地良い暴力」,つまり楽しい苦痛のようなものです.

いずれにせよ,「追放」は神が望まれる間続くでしょう.北半球には春が訪れつつあります.私の窓の外ではもうすでに数種類の鳥がペアで飛び交っているのが見えます.第三次世界大戦が起こる時期は(神の敵ではなく)神のお定めに任せることにしましょう.ハムレットは福音(訳注後記)を正しく言いかえています.「一羽の雀(すずめ)が地に落ちるのも神の摂理・・・準備がすべて」.この文脈では,これは死への準備ということです.お祝いの言葉を送って下さった皆さま、そのお気持ちを持って下さった皆さまの一人ひとりに神の祝福がありますように.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教


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(福音「一羽の雀が…」の訳注)

(聖書・聖マテオ福音書10章29節)
“Are not two sparrows sold for a farthing?
and not one of them shall fall on the ground without your Father.”
「二羽のすずめは一アサリオン(ローマの最低貨幣の一つ)で売っているではないか.しかもその一羽さえ,天の父のゆるしがなければ地に落ちぬ.」(イエズス・キリストの御言葉)

(司教(使徒)の心構え)
 …司教が引用したこの聖マテオ福音書10章全体を用語集に掲載予定.

2010年3月8日月曜日

編集付記

親愛なる読者,友人の皆様

先週回の「エレイソン・コメンツ(以下「EC」)」より二重の混乱が生じましたのでお知らせいたします.一つは重要度の低い問題で,ナンバリングについてです.先週回「EC 第137回」のいずれかの言語版で136回となっていましたら137回の間違いです.先々週に公開予定であった「EC 第136回」は公開時点で満足のいく内容でなかったため公開を見合わせることにしました.今週回の「EC」は第138回となり,以降に続きます.

もう一つの方が重要で,「EC 第137回」における教義についての記述に誤りが含まれていたことです.キリスト単性論者の異説は,神にはただ一つの位格しかないとするのではなく,イエズス・キリストには唯一つの性質しかないとします.言い方を換えれば,キリストには人間性はなく,したがって彼は真の人間ではなかった,とします.イスラム教の誤りは実際にはネストリウス派の異説(訳注・「ネストリウス派」…古代キリスト教の教派の一つ.431年にエフェソス公会議において異端と断罪され排斥された.)に基づいて起こったもので,これによるとキリストは神性と人性の二つの性質を持ち,言い換えれば人性の部分たるイエズスは神ではなかった.とするものです.同様に,イスラム教ではイエズスは偉大な預言者ではあったが,神ではない,とする教義をその信条としています.

この誤りはフランス語,ドイツ語,イタリア語版では修正されてありましたが,英語,スペイン語版ではコンピューターの操作ミスで未修正のまま公表されてしまいました.(キリスト単性論者の)「単性」 “Monophysite” というのはもちろん,ギリシャ語の「単」 “mono-” すなわち “single” と,「性」 “-physis” すなわち “nature” から来た用語です.私がこんな誤りをおかしたのは前の晩にグリーン・チーズを食べ過ぎたせいに違いありません.(訳注・“green cheese” … 生チーズ,熟成行程前の若いチーズのこと.表面に凹凸があり丸く固められたものが多い.似ても似つかないものの比較として月とグリーン・チーズが取り上げられるようになったことに由来して使われる言い方.「愚かな人は月をグリーン・チーズと言われるとそうだと思い込む」)

皆様に神の祝福がありますように,

リチャード・ウィリアムソン


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(石畳の追記)

この編集付記に従って「EC 第137回」を修正いたしました.

パーキンソン病

エレイソン・コメンツ 第138回 (2010年3月6日)

その類いの事を選んで観察する人たちがある日ウィリアムソン司教の片手が震えるのに気づきました.いらい数年間,司教はパーキンソン病に罹(かか)ったのではないかという噂が流れてきました.最近その噂が以前にも増して強まっていました.検査を受けさせた方がよいということになり,二週間前,司教はロンドンの神経科医の診察を正式に受けました.医師の診断結果は,いくつかの症候があるが,とりわけ両腕の筋肉を比べると左右でほとんど差が見られないこと,腕を動かすと震えが起こるが,パーキンソン病と違い腕を静止した状態では震えが起きないというものでした.神経科医はパーキンソン病の可能性はないとした上で,この症候はむしろ良性の本態性振戦によるものであるとの診断を下しました.(言い換えれば,片手が震えるのは司教が「震え病」持ちであることを示すというわけです.医師の診断とはなんと人の心を安心させてくれるものなのでしょうか!)

しかし,誰もこのニュースに失望してはなりません.司教の言うことを本気に受け取らなくても済む数多くの方法から好きなものを選べばいいでしょう.そのいくつかは実際に司教の敵から出てきたものです!--

彼はバラ十字会員( “Rosicrucian” )である(邪悪な秘密結社の会員であるということは,十字架の上に英国のバラを表示している司教武具によって証明されている).(訳注・「司教武具」…司教の紋章.英語で“episcopal arms”.それぞれの司教ごとに特定の意味の印や絵柄を施した帽子・盾・剣が表示される.ウィリアムソン司教の紋章には盾の一部に,白十字の上に赤いバラが重ねられた絵柄( “Rose of England on a Cross” )が表示されている.)

彼は常に一風変わった見解を持ってきた(例えば,9・11事件=米同時多発テロ=は「内部犯行」だったという見解).

彼はウランのような人物だ.個人の所有物にし難いが,かといって路傍にも捨てがたい(最後の一言はいいね!).

彼はいろんな考えを頭に入れると,それに取りつかれたようになり,大げさに誇張する(例えば,彼は自分の言うことを信じ込んでいる).

彼はフェビアン社会主義者である(英国のたちの悪いイデオロギー的左翼人のこと).

彼は芸術家であって学者ではない(そうですねえ,まあ少なくとも「学者ではない」という部分はあたっているでしょう).

彼は虚実にかかわる深刻な問題について公に発言する,「ナンセンス」.

彼の発言が少ないほど聖ピオ十世会はうまくいく(なんてことを( “oh dear” ),発言するのが彼の商売ですよ!).

彼は理想家だ(イマヌエル・カントの信奉者だ -- これは驚いた!).

彼は年を取ってきて,もうすぐ70歳になる(これは本当です!-- 正確には2日後=3月8日=にです).

彼は英国国教会からの不出来な改宗者である(これも本当です -- 彼は大いに改宗する必要があります).

彼は生きた手榴弾で,爆発する時を待っているのだが,いつ投げるかが難しい(おやまあ,投げてみたらどうでしょう!( “oh, come now!” ) -- ちょっと頑張ればできるんじゃないでしょうか?).

これらすべての発言を聞くと,私は18世紀のプロイセン王国フリードリヒ大王の人生におけるあるエピソードを思い出します.ある日,大王が王国内のある町を訪れたとき風刺的に描写された自分の肖像画が高い木にかけられていました.大王がそれに気づいたとき,同行していた廷臣たちは大王がどんな反応を示すかと恐怖に恐れおののきました.ところが,王は「皆の者がよく見えるようあの絵をもっと低い位置まで下げよ」と命じたのです.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2010年3月2日火曜日

イスラム教徒の苦悩

エレイソン・コメンツ 第137回 (2010年2月27日)

先月のある日,ロンドンで散歩中に大問題の小さな一例と思われる人に偶然出会いました.彼はフランスで生まれ現在もそこに住むイスラム教徒で,イスラム教の先祖と自分が育った欧州の環境との板挟みに苦しんでいました.先祖のルーツへの忠誠心と出生地への忠誠心とが彼の中でぶつかり合い,彼は明らかに見てとれるほど苦悶していました.フランスの価値観を完全に受け入れるイスラム教徒も少数はいるかもしれませんが,大半はそうするのを完全に拒むでしょう.だが,この若者はそのどちらもできずにいました.

彼の問題はもちろん,単なる文化,政治,あるいは歴史さえもはるかに超えたものです.それは宗教上の問題だからです.イスラム教は約1400年前に中東におけるカトリック下のキリスト教世界から分離する形で始まりました.キリストは神性と人性の二つの性質を持つ,言い換えれば人性の部分たるイエズスは神ではなかった,とするネストリウス派(訳注・「ネストリウス派」…古代キリスト教の教派の一つ.431年にエフェソス公会議において異端と断罪され排斥された.)の異説が,乾ききった中東,北アフリカのキリスト教世界に遼原の炎のように広がり,何世紀にもわたりスペインを占拠し,しばらくの間フランスにまで勢力をのばしたのです.質素で暴力的なこの宗教は武力による全世界制覇を求めます.それは天罰で,キリスト教世界は一千年もの間,武力によってかろうじてそれを食い止めてきました.

しかし,現在では欧州のキリスト教徒自身がキリストやキリスト教世界への信仰心をほぼ完全に失いつつあります.欧州のキリスト教徒はイスラム教徒が,武力ではなく移民によって欧州に戻ってくることを許していますし,欧州各国の反キリスト教的政府はそれを積極的に奨励しています.このイスラム教の若者の家族がニ代,三代にわたりフランスに住んでいるのもこのためです.この移民の裏には何が隠れているのでしょうか?世界主義者は移民がかつての輝かしい欧州のキリスト教諸国を解体し,新世界秩序の中に融合する一助になるよう望んでいます.リベラル派は人間の人種,宗教による違いなど取るに足らないとする彼らの愚行が移民によって明白になればよいと望んでいます.イスラム教徒は移民によって自分たちが欧州を占拠できればと目論んでいます.

欧州が日毎に腐敗していくばかりであるにもかかわらず,そこには依然として古代からの栄光,すなわちカトリック教会から受けた栄光の足跡がいくつも残っています.この足跡こそが,一方でこのイスラム教の若者のように,人の心に自分の祖先の血統への忠誠心に匹敵するほど強い出生国への愛国心を呼び覚まさせ,他方で多くの欧州人の心に依然として自分たちの生き方への愛着心を掻きたて,外部から脅威を受けると思われるかあるいは実際に受けた時には,大量殺戮をもってそれを守り抜こうとさせるのです.悪魔は疑いもなくそのような大量殺戮を計画しているのです.神は罰としてそれをお許しになるでしょう.それはますます起こりそうに見えます.

ところで,このイスラム教の若者はなにをすべきなのでしょうか?理想的には,自身の問題の根源を見つめて,イエズス・キリストが三位一体の神の第ニの位格(訳注・神の御子すなわち人間の肉体を身にまとわれ,人となられた神イエズス・キリストを指す.)であるのか,あるいはいかに崇高であってもただの一預言者にすぎないのかを自問すべきでしょう.その上で,もし彼が賢明であれば,彼が心から敬服しているフランスからの贈り物を,その与え主,すなわち同じ人となられた神(訳注・つまりイエズス・キリストのこと.)と結び付けるでしょう.そして結果としてもし彼が真のカトリック教徒となったら,自分のルーツが持つ真に良いものすべてと自分の出生国(フランス)の持つ真に良いものすべてとをどのように結合させるかを自分自身のために見つけ出すでしょうし,他人のためには,たとえ限られた方法であろうと,迫り来る大量殺戮を避けるために何らかの貢献ができるでしょう.

先祖代々からの欧州人はそれ(大量殺戮)を避けるためにどうすべきでしょうか?先祖伝来のカトリック信仰とその実践に立ち返ることです.それだけが,すべての国民,民族を真理,正義,平和のもとに一つに結びつける力だからです.これは彼ら欧州人が古くから受け継いできた神から託された責任と使命であり,彼らは全世界の人々を私たちの主イエズス・キリストに引き寄せるよう模範を示さなければなりません.もし欧州人が相変わらず不信仰であり続けるなら大量殺戮による流血は必ず起こるでしょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教