2009年10月26日月曜日

「トリスタン」 - 和音

エレイソン・コメンツ 第120回 (2009年10月24日)

音楽の客観的な構造は人間の魂の客観的な構造に相応しています. 双方とも人々の不調和な選択によって調和を乱されますが, 主観的な自由意思は, これらの構造もその相応関係も変えることができません. 女性たちの購買意欲をそそるためにスーパーマーケットの店内で柔らかい音楽が流されるのと同じように, 軍隊行進で兵士を鼓舞するような活発な音楽が演奏されるときにも, そこには同様な相応関係があるというのが常識的ではないでしょうか?マーケティングと戦闘は, 自由主義のさまざまな夢想がそこに介入するにはあまりにも現実的すぎる活動です.

とはいっても, 自由主義者は夢想するものです. それで, 先週の「エレイソン・コメンツ」で説明したとおり, 現在コベント・ガーデンで上演中の「トリスタンとイゾルデ」の演出も疑いなくワーグナーの名作を「脱構築(解体構築)」しようと奮闘しているという訳です. だが, 「トリスタンとイゾルデ」の演出についてプログラムに書かれた2ページの記事は, さまざまな音楽とさまざまな人間の反応との間で生ずる客観的な相応関係を鮮やかに説明しています. できれば記事を全文引用したいのですが, 読者の皆さん, そこで触れられている技術的な詳細については恐れないでください. 私が述べたいポイントを正確に表していますので.

その記事は, 存命中のドイツ人指揮者インゴ・メッツマッハー (Ingo Metzmacher) の書いた「開幕!」 (“Vorhang Auf!”-ドイツ語) という本から抜粋されたもので, 前奏曲の第三小節目に現れる有名な「トリスタン和音」が主題です. この和音は三全音(トライトーン) “tritone” (または増四度 “augmented 4th” という)(訳注・いずれも同じ和音. きれいに響く和音ではなくかつて「音楽の悪魔」とも称された. ), ヘ音ならびに中央ハ音より低いロ音, およびその上の四度, 嬰ニ音ならびに中央ハ音より高い嬰ト音から成り立っています. 著者によれば, この和音は安定した協和音への解決(訳注・「解決」とは不安定な音(不協和音)からより安定した音(協和音)に移ることをいう. )に到達しようとして懸命にもがく激しい内的な葛藤を現わしているのですが, 前奏曲の初めの十四小節の中で4回現れるその和音のどれも属七の和音 “dominant 7th” へと解決するだけで, 和音それ自体は解決しないままに協和音を呼び求めているのです. そして遂に十八小節において安定した長ヘ和音に到達するや否や, 1小節半遅れで即座に半音上昇調の低音によって不安定化されるといった感じで続きます.

ワーグナーが「トリスタン」で, ロマンティックな愛の果てしない思慕を描くため創り出した新和声体系の鍵を握るのは, 実は半音にあるのだとメッツマッハーは言います. その半音は「ウィルスのような役割をし, どの音もその影響から免れることはできず, どの音符も音程(音名)の上下動の対象となりうる」と, 彼は言っています. ワーグナーの和音は, かくして絶え間なく破壊され, 修復されては即座にまた破壊され, そうして解決されない葛藤状態を容赦なく連続して創り出します. この状態が音楽では, 「決して満たされることがないゆえに計り知れぬほど増大してゆく」恋人たちの互いの慕情に完全に符合する, というのです.

しかし、メッツマッハーはその払うべき代償について指摘しています. さまざまな調の体系に基づく音楽, すなわち全音と半音からなる混合構成は「ある特定の調で私たちに安堵感を与えてくれますが, それが, その音楽の活力となります. 」ところが, トリスタンの体系では, 「安心感は実はごまかしではないかと不安になるのです. 」かくして, トリスタン和音は「音楽だけでなく全人類の歴史上の分岐点をなすものです」と, メッツマッハーは言っています. 彼は「音楽の旋法が変わると街中の壁が揺れる」という中国の古い諺をよく理解しているのではないでしょうか.

もしかしたら「トリスタン」が調性音楽(訳注・いわゆるきれいな和音から成る古典的な音楽のこと. 対概念は現代に登場した無調音楽. )を覆したように, このコベント・ガーデンでの演出家も「トリスタン」を覆そうとしたのかもしれません. それでは, 生命と音楽の脱構築はどこで止まるのでしょうか?それは真のミサ聖祭の執行においてです!

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

2009年10月20日火曜日

「トリスタン」 - 演出

エレイソン・コメンツ 第119回 (2009年10月17日)

ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスへ行かなくなってからもう40年以上になりますが, 先週, 嬉しいことに友人たちがワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」のチケットを提供してくれました. おかげでその晩は素晴らしいひと時を過ごすことができました. だが, おやまあ, なんとも当世風の演出でした!ひと昔前の古典と今日の舞台で上演される作品とではこうも違うものでしょうか!

1865年初演の「トリスタンとイゾルデ」のような古典は, あらゆる時代に当てはまるさまざまな人間関係の問題や解決法をうまく表現しているために古典となるのです. たとえば, 古典は男女愛の情熱を今日の歌劇「トリスタン」ほど巧みかつ力強く表現してはいません. しかし, ある古典戯曲が上演される場合, その都度, 上演される時代に合うように演出されることは明白です. 従って, 古典作品の内容自体は作者で決まりますが, その制作は演出家の考え方次第で, 演出家がその古典作品をどう理解するかによって決まります.

今ではワーグナーは特に, 絶え間なく変化する「トリスタン」の半音階的和声(トリスタン和声)がもたらした革命のために, 近代音楽の父と呼ぶことができます. ワーグナーが近代的でないとは誰もいえません. それなのに, 現在コベント・ガーデンで上演されている作品が示すのは, ワーグナーの時代と私たちの時代との間にさえ非常に大きな隔たりがあるということです. 多分二つの小さな例が示す通り, この演出家はワーグナーの原典について全く理解していないか, ほとんど重きを置いていないかのどちらかです. 第三幕の, クルヴェナルがイゾルデの乗った船が来る海の方を見ているはずの場面では, 彼はずっとトリスタンの方を見たままなのです. 逆に, 最後にイゾルテがトリスタンの死に際に駆けつけた時, ワーグナーの原作ではもちろん, 彼女はかすかでも生存の兆候を確かめようとトリスタンの全身をくまなく調べ回すのですが, この演出家は, トリスタンに背を向けて彼女を横たわらせているのです!この, 原典と良識に対するあからさまな違反は, その上演中終始繰り返されたのです.

その演出家は何をしているつもりだったのでしょうか?私はそれが知りたいです. 良識が欠けていたのか, あるいは良識は持った上で, 意図的にそれに逆らうことを試みたのでしょうか?さらに悪いことに, 恐らくロイヤル・オペラ・ハウスは今日の聴衆が反逆的な態度を好んで楽しむだろうと判断し, 演出家にそうするように頼んで最高水準の金額を支払ったのでしょう. かつてピカソが, 自分の絵がつまらないのは分かっているが, 人々がそれを求めていることも知っている, と話していたのを思い出す人もいるでしょう. 実際, 先週ロイヤル・オペラ・ハウスにいた聴衆はそのような馬鹿さ加減をやじり倒すべきでしたが, 舞台を大人しく見て温かい拍手を送っていました. 私が勘違いしていない限り, 今ドイツではどこへいっても, ワーグナーのオペラ作品が古典的に演出されることはめったにありません.

良識はどうなっているのかと尋ねざるを得ません. 今日の聴衆はどこへ向かっていくのでしょうか?たとえば, 恋人同士が互いに背中を向け合う姿を好むような人たちがどうやって長生きできるのでしょうか?反論:たかが演劇じゃないですか. 応え:劇は社会を映す鏡ですよ. 結論:今日の社会にはもはや良識はなくなっており, わずかでも残っているとすれば, それさえも踏みにじっています. 良識とは現実感覚のことですから, そのような社会は生き残れないでしょう.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教

2009年10月12日月曜日

神を畏れぬ欧州

エレイソン・コメンツ 第118回 (2009年10月10日)

哀れなアイルランド! 哀れな欧州!わずか16か月前, アイルランド国民は, アイルランドをより堅く欧州連合(EU)に結びつけるはずのリスボン条約(2007年)の承認を国民投票で否決しましたが, この国民総意的な「ノー」はアイルランドや欧州の政治家たちが望んだ決定ではありませんでした. そこで彼らはいくつかの譲歩を示した上で新たな国民投票をアイルランドに押し付け, 先週, 望み通りの票決を得ました. これで欧州連合は, ブリュッセルでの意思決定を効率化し, 欧州委員会の中央集権的統治権限を強化するための大幅な改革への道筋を整えたことになります. だが, これは各加盟国が欧州委員会の諸決定を拒否する機能を犠牲にすることになります.

アイルランド全有権者の3分の1以上が先週選択したと思われるものは, 1973年に欧州共同体に加盟する以前には同国で知られていなかった物質的繁盛と大量消費主義であることは確かです. 1932年から1968年までポルトガルの首相を務めた敬虔なカトリック教徒のサラザル博士と対比してみてください. 彼は, 生活, 政治, 経済とは単に黄金の砂浜に安く飛べるようにするだけが目的ではないと知り, 自国のために, とりわけ国際的銀行業者から「たとえ生活が貧しかろうと独立する」道を選んだのです. 堕落したマスメディアは即座に彼に「国粋主義の独裁者」という汚名を着せましたが, ポルトガル国民は喜んで彼に従ったのです. 何故なら, ファティマの奇跡(1017年)により彼らのカトリック信心が復興したことが, そもそもサラザルを首相の座につけることになったからです.

だが, 彼が亡くなってからわずか16年後にポルトガルは欧州共同体に加盟しました. 今日の世界における神の敵対者たちの前進は, まことに情け容赦もない冷酷無情そのものです. 反キリストに向かって進んでいく彼らの行く手に抵抗しようとするいかなる試みも, 寄せ波に抵抗している砂の城のように次第に切り崩されるばかりです. もし城がサラザルのポルトガルのようにしっかりと造られていれば, しばらくは持ちこたえるでしょうが, やがては洗い流そうとする波のなかに全部消えてしまうでしょう. かくして全欧州は自らを神のない新世界秩序の中に封じ込め, サッカーや海水浴に興じているというわけです!

哀れな欧州!もし, かつてなく強くなったブリュッセルの欧州政府の内部において, 「表向きの体裁や見かけ倒しの虚飾, そしていかに欧州連合が素晴らしくかつ必要欠くべからざる存在であるかを物語る出版物の雪崩の裏側で」本当は何が起きているのかを知りたかったら, info@stewardspress.co.uk で, 欧州議会議員(MEP)のマルタ・アンドレアセン夫人が簡潔にまとめた著書「暴かれたブリュッセル(原題“Brussels Laid Bare”by Marta Andreasen)」を注文して一読すべきです. 欧州連合に2002年1月から首席会計士として採用され, 連合全体の予算についての責任を一任された彼女は, すぐに同連合の財政体制全体に及ぶ大がかりな悪政ぶりにぶつかり, 職業上, 上手く波長を合わせて同調していくことなどとてもできなかったと言っています. 彼女は急速に孤立して信用を傷つけられ, それから5か月も経たないうちに職務を正しく遂行しようとしたために解雇されたのです.

彼女は, 自身の実体験をもとに, ブリュッセルは「無法状態で, 腐敗しており, 間違いだらけで,非民主的, 官僚的かつ過剰統制的で, 結局は運営不可能」な余計な政府だと書いています. こういうことは, 欧州連合に事実上何の説明責任もないことに起因していると彼女は指摘しています. 彼女は, 欧州連合が御しやすい腐敗した公務員を重用したがる使用者たちを隠蔽してしまったのではないかと感じたのではないでしょうか? 彼女の本には, そうした疑念を思わせる痕跡は何も見当たりません. 彼女は欧州議会議員として戦い続ける決心を公言しています. だが, 悲しいかな, 不誠実な欧州には彼女のような人物はもうこれ以上ふさわしくありません. しかし, もし彼女が戦い続けるなら, 何らかの形で, 必要とあれば子供の世代まで含めて押し潰される危険を冒すことになるでしょう.
キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教

2009年10月5日月曜日

ミサ聖祭の誤り

エレイソン・コメンツ 第117回 (2009年10月4日)

10日前に, カストリリョン・オヨス枢機卿が南ドイツの新聞とのインタビューの中で聖ピオ十世会に対する興味深い批判をしました. その大部分は事実に反していましたが, わずかに真実な部分もありました(インタビュー記事はインターネット上で閲覧可能). 同枢機卿によれば, 2000年に彼が会った聖ピオ十世会の指導者たちは, 新しい(典礼による)ミサ聖祭がまるで「世界のすべての悪の根源」であるかの如き考えで凝り固まっていたような印象を受けたとのことです.

勿論, 第二バチカン公会議(1962年-1965年)の後で行われたミサ聖祭の伝統ローマ式典礼(トリエント公会議式の典礼)の改革が必ずしも世界のすべての悪について責任があるというわけではありませんが, 現代世界における悪のかなりの部分について責任があります. 第一に, ローマ・カトリック教は, 唯一の真実の神が2000年前に一度, つまりただ一度だけ人の性質を身につけて, 神すなわち人であるイエズス・キリストとして(人類の罪の購いとして)この世に来られた時に, 当の神御自身によって始められた唯一の宗教です. 第二に, イエズス・キリストの流血を伴った十字架上の自己犠牲だけが唯一, 今日の世界的な人類の背信行為によって燃え上がった神の正義の怒りをなだめることができるのであり, かかる懐柔を維持していくことは, ミサ聖祭での真正な犠牲の奉献において, 前述のキリストの血まみれの犠牲を流血無しに更新することによってのみ可能であるということです. 第三に, かかるミサ聖祭の古来ローマ式典礼の本質的な部分は, カトリック教会の初期の時代に遡って以来存続してきたものですが, 教皇パウロ6世指揮下の第二バチカン公会議の後に当教皇自身が友人のジャン・ギトンに語ったように, (キリスト教)プロテスタント会派を満足させるために考案したやり方で大幅に変更されたのです.

しかし, プロテスタント会派はカトリシズムに対して抗議するところからその名称をとっています. 「第二バチカン公会議の精神の下で」改革されたミサ典礼が数々の本質的なカトリックの真理の表現をひどく弱めているのはこのためです. 即ち, 順に挙げれば, (1)パンと葡萄酒を聖変化させ, これが(2)ミサ聖祭の(十字架上のキリストと同じく, 人の罪を購うための)犠牲の捧げ物となり, ついで, 同様に(3)司祭職も聖変化して(犠牲のキリストと一体となって)犠牲の捧げ物となり, これらすべては(4)祝福された神の御母のとりなしによって執り行われる, というものです. 事実は, 完全な古来ローマ式典礼こそが完全なカトリック教理の表現なのです.

もし, 多くのカトリック教徒が本を読んだり講義に出席するのではなく, まずミサ聖祭に与ることによって数々のカトリック教理を吸収し, それを実生活で活かし, 誤りを正す世の光, 堕落を防ぐ世の塩(訳注・聖書の各聖福音書参照のこと. 聖マテオ5.13~, 聖マルコ9.49~, 聖ルカ14.34~)として振る舞うようになるのだとすれば, 世界が今日のような混乱と不道徳に陥っていることはさしたる不思議ではないということになります. 「ミサ聖祭を壊せばカトリック教会を壊すことになる」とルターは言いました. 「世界は太陽の光がなくてもやっていけるが, ミサ聖祭によるキリストの犠牲なしではやっていけないだろう」とピオ神父は言いました.

司祭の養成を目的に聖ピオ十世会を設立するに当たっての急務がミサ聖祭の古来ローマ式典礼の救済だったのは, まさしくこのためです. 神に感謝すべきことに, その典礼は, 徐々にではあっても確実に, 主流派教会に戻りつつあります(反キリスト者の下ではそうはならないでしょう). しかし, ルフェーブル大司教の聖ピオ十世会は, この伝統的典礼に基づくミサ聖祭の完全な教理上の土台を, いまだに頑としてローマに身を潜めている第二バチカン公会議の犠牲者たちおよび加担者たちから救わなければなりません. 私たちはローマと聖ピオ十世会の間で今月開かれる予定の「教理上の論議」のために懸命に祈らなければなりません.
キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて
リチャード・ウィリアムソン司教